觀有無門第七
有無を観ずる門 第七
有無是諸見之根、障道之本,故大小經論無不破之。但有無有二種:一通明有無、二別就四相論有無。通明有無者種種不同,若就因中有果無果論有無,第二門已破,今不論之。若就有見為有、空見為無,後觀性門中自破。若就有為無為明有無者,觀相門中已說。故並不就此三條明有無也。今但約四相論有無,以生住為有、異滅為無。二者三相論之,生住是有、滅相是無,今欲重破四相,故合四相為有無二義,開共、離二門責之,故云觀有無門。問:與《中論.破有無品》何異?答:《中論》就法體明有無,今門但就四相論有無。又《中論》通明有無,今別明有無。問:上三門已破相,與今何異?答:初門明大小二相不能相生,又破生相不能自生及能生他。第二門明法體有相無相不能相法。第三門直責能相所相一異無蹤。今此門就能相中開共離二門撿不可得,故與上為異。又初門破通相、次門破別相、第三門重破別相,今重破通相。以破通別相則一切相盡,取相心不生,入無相門。問:何故重破能相?答:今正欲明為無為一切法空,四相是有為之本,次重破之。又異法辨生障無生,偏重破。所以然者,即法辨生但須破法而相自無。異法辨生有二種障:一計別有生,故障於無生;二執別有法體,復障無生,故須重破也。問:何故但三門破法體而四門破相?答:取相是諸煩惱根,如《淨名》云「貪欲為身本,煩惱為貪本,虛妄分別為煩惱本。」是故難除,所以須四門廣破。又空病著空、不著於有,有病著有不空,而取相橫計萬法、竪著四句,故此病難除,所以四門廣破。又有此門來者,上三門破有相便言有無相者,無相復取無相相,是故今破此有,明本不有,今何時無?未曾有有相,豈有無相相耶?問:今乃破四相,云破此有無何耶?答:寄四相遍破一切有無也。問:四相是事,有無可相違。今有相為有、無相為無,是理有無,云何相違?答:誰論違不違?但今起有無見則須破之。又事有無即事違,理有無即理違理不違,理非有無。
有無門亦三:長行如前。如偈說者,引經偈。恐不信論主破,故引經也。
有無の門もまた三つあり:長行は前に同じ。偈に説くが如きは、経の偈を引く。論主の破を信ぜざるを恐るるが故に、経を引くなり。
偈為二:上半正破、下半釋破。正破為二:初一時破、二前後破。「有無」者,牒四相也。生住為有,異滅為無。然四相體皆是有,但生住能令法有、異滅能令法無,故有無耳。「有無一時無」者,有無一時,牒外義也。無者,論主破也。一時則相害,故皆無也。「離無有亦無」者,前後破也。離無有者,牒也。前有生住之有,未有異滅之無,是故離無有有也。亦無者,破也。既離異滅,即生住之有便不得起之,故生住之有亦無也。此二句得破一家義,初破體同時、次破用前後。亦得破二家義,初破毘曇四相一時、次破譬喻四相前後。以一切有無不出前後一時,破此二即破一切盡矣。下半偏釋初句一時義,又二:前句牒不相離、下句正破有。若不離於無無則常害有,故云有即常應無。汝乃言有不能自起、假無得起;我則見此無,翻害汝有令永不得起也。而言常者,彼明四相三世常俱。生住若在未來,異滅亦在未來;生住若來現在,異滅與之同來;過去亦爾。既三世常俱,即生住常為異滅所害,故生住常無。亦異滅常為生住所害,即異滅亦是常無。今略舉顯邊耳,帖文正爾。今次料簡彼義。彼義云:體同時、用前後。問:若生相時有滅體未有滅用者,亦應待用滅方有,何煩預有耶?答:彼云有為之法不起則已,起則俱起、滅則俱滅。若待用方有,則滅自起,不假生相。既不自起,起必假生,雖未有用,不得預有也。滅相用事生,用則廢,而體不謝,待滅方謝。用雖前後,生滅則俱。問:滅相用事生用則廢,廢此生用,用為自廢、滅相廢之耶?答:住用既興,得云住用廢生用也。問:生廢稱滅,滅由住相,應云住相是滅相耶?答:滅相正滅法體。今論廢者,通相滅耳,非滅相滅。此義自成難解。生用廢即無後生,云何言猶有生體至滅相起時方乃謝?若猶有生體,云何生用廢?如火有熱用,熱用若廢,火體則廢。若猶有火體,則猶有熱用。若無熱用猶有火體,《涅槃經》呵云「譬如愚人求無熱火」,至此已來遂義難之,於理足屈。又問:有為一剎那無前後,雖有四相同一剎那,剎那無前後,四相之用豈得前後?若用有前後,則成四剎那。彼答云:剎那乃一時,要從生至滿,滿時方歸滅。雖不逕時,不無滿未滿異,是故一剎那中有其四用。又問:念念代謝,若初未滿後方滿者,豈非延時長時耶?此終難解。又一剎那有四分,當有生用時,後三分未有;若其終時,前三分已謝。若爾者,則非一剎那時。剎那無四時,則無四用次第也。又依《百論》破之。若初分已有後三分,與初時共並,則不名初中後分;若初中後分不得同時,則一時中無有三分。故進退不可。又問:四相是共有因,相生四用不並,云何是共有因耶?答:用雖不並,相扶而有,豈非共有因耶?又問:為是滅用扶生、非滅用扶生?彼答云:生有生彼之用,滅有扶生之力。此力非是滅用之力,是扶生力耳。此亦難解。若滅體未有滅用,以何扶生力?若已有扶生力,則應已有滅力。若已有滅力,則害於生,不生得起。
偈頌の内容は二つに分けられます:前半が本論の破折、後半がその破折の解釈です。本論の破折はさらに二つ:初めに「一時」を破し、次に「前後」を破します。
「有無」とは、生・住・異・滅の四相を指します。生と住は「有」、異と滅は「無」です。ただし四相の本体はすべて「有」であり、ただ生と住は法を有たらしめ、異と滅は法を無たらしめる働きがあるため、便宜上「有無」と表現しているに過ぎません。
「有無一時無」とは、「有と無が同時に存在する」という外部の主張を引き合いに出し、「無」と論破するのです。同時であれば互いに害し合うため、どちらも成立しないからです。
「離無有亦無」とは、「前後」を破るものです。「無を離れた有」という主張を引き合いに出し、「亦無」と破ります。異滅という「無」を離れて、生住という「有」だけがあっても、それは起こり得ないからです。生住の有もまた無に帰するのです。
この二句で一つの学派の説を破っています。初句は「本体が同時」を破り、次句は「作用が前後」を破ります。また二つの学派の説も破ることになります。初句は毘曇学派の「四相一時」を破り、次句は譬喩師の「四相前後」を破るのです。一切の有無の説は「前後」と「一時」の二つに尽きますから、この二つを破れば一切を破ったことになります。
後半は特に初句の「一時」の意味を解釈しています。これも二つに分けられます:前句は「互いに離れない」ことを引き合いに出し、下句で「有」を正しく破ります。もし無から離れられないなら、無は常に有を害することになります。だから「有であれば常に無であるはず」と言うのです。あなた方は「有は自ら起こることはできず、無によって起こされる」と言いますが、私はこの無がかえってあなた方の有を害し、永遠に起こることを許さないと見るのです。
「常」と言うのは、彼らが四相が三世にわたって常に共存すると説くからです。生住が未来にあれば、異滅も未来にあり、生住が現在に来れば、異滅もそれと共に来る。過去も同様です。三世にわたって常に共存するなら、生住は常に異滅に害され、生住は常に無であることになります。同様に異滅も常に生住に害され、異滅も常に無です。ここではわかりやすい側面を挙げたに過ぎませんが、本文の趣旨は正にこの通りです。
さて次に、彼らの説を整理して検討しましょう。彼らの説では「本体は同時、作用は前後」とします。問い:もし生相の時に滅の本体はあっても滅の作用がまだないなら、作用を待って初めて滅があるはずです。なぜ前もって存在する必要があるのでしょうか。答え:彼らは「有為の法は起こらないならともかく、一旦起こればすべて同時に起こり、滅すればすべて同時に滅する」と言います。もし作用を待って初めて存在するなら、滅は自ら起こることになり、生相を借りる必要がありません。自ら起こらない以上、起こるには必ず生を借りなければならず、たとえまだ作用がなくても、前もって存在していなければならないのです。滅相が作用を開始すれば、生の作用は廃されますが、本体は消え去らず、滅を待って初めて消え去ります。作用は前後しても、生滅は同時なのです。
問い:滅相が作用を開始して生の作用が廃される時、その廃されるのは自ら廃されるのか、それとも滅相によって廃されるのか。答え:住の作用が既に起こっているなら、「住の作用が生の作用を廃する」と言えるでしょう。問い:生が廃されることを「滅」と呼ぶなら、滅は住相によるものだから、「住相が滅相である」と言うべきではないか。答え:滅相は正しく法の本体を滅します。ここで論じている「廃する」とは、一般的な滅の相を指し、滅相そのものによる滅を指すのではありません。この理屈はそもそも理解が難しいものです。生の作用が廃されれば、その後も生はありません。どうして「まだ生の本体があり、滅相が起こる時になって初めて消え去る」と言えるのでしょうか。もしまだ生の本体があるなら、どうして生の作用が廃されるのでしょうか。火に熱の作用があるように、熱の作用が廃されれば火の本体も廃されます。もしまだ火の本体があるなら、まだ熱の作用があるはずです。熱の作用がなくても火の本体があるというなら、『涅槃経』が「たとえば愚かな人が熱のない火を求めるようなもの」と批判している通りです。ここまでの論難で、理屈としては十分に屈服させたと言えます。
さらに問います:有為法の一刹那に前後はなく、四相が同一刹那にあっても、刹那に前後はありません。それなのに四相の作用に前後があってよいのでしょうか。もし作用に前後があれば、四刹那になってしまいます。彼らは答えます:刹那は一時的なものですが、生から満に至る過程があり、満ちて初めて滅に帰するのです。時間を経ないとしても、満ちているか満ちていないかの違いはあり、だから一刹那の中に四つの作用があるのです。また問います:念念に代謝するなら、初めは未満で後になって満ちるのであれば、時間を延ばして長い時間にならないでしょうか。これも結局理解しがたい点です。
また、一刹那に四分があるとすれば、生の作用がある時には後の三分はまだなく、終わりの時には前の三分は既に消え去っています。そうであれば、もはや一刹那の時ではありません。刹那に四つの時がなければ、四つの作用が次第に起こることもないのです。また『百論』に依って破ります。もし初分に既に後の三分があるなら、初めの時と並存することになり、初・中・後分とは呼べません。もし初・中・後分が同時でないなら、一時の中に三分は存在しません。だから進退窮まるのです。
また問います:四相は共有の因であるのに、四相の作用は並存しません。どうして共有の因と言えるのでしょうか。答え:作用は並存しなくても、互いに支え合って存在するなら、それこそ共有の因ではないでしょうか。さらに問います:滅の作用が生を支えるのか、滅の作用ではないものが生を支えるのか。彼らは答えます:生には生じさせる作用があり、滅には生を支える力があります。この力は滅の作用の力ではなく、生を支える力なのです。これも理解しがたい点です。もし滅の本体にまだ滅の作用がないなら、何をもって生を支える力があると言えるのでしょうか。もし既に生を支える力があるなら、既に滅の力があるはずです。もし既に滅の力があるなら、生を害して、生が起こることを許さないでしょう。
長行為四:一釋偈本,以合離破之;二救;三破救;四總結。釋偈上下半即二。釋上半復二:初釋偈第一句,正明有無不得一時。指《中論》說者,〈三相品〉、〈本際品〉、〈成壞品〉並破有無一時義。「若謂」下,釋第二句離無有亦無。又為四:初取外意。「是事不然」下,總非。「何以故」下,釋非。凡舉二事釋:一引前〈三相品〉明有法共生,不應相離。次引《阿毘曇》明四相共起,《婆沙》、《提度》並有此文,如相門說。「是故」下,第四句總結。前明一時則為大乘論破,故指《中論》;次明前後則違小乘宗,故引《毘曇》破。故前後一時,大小無取。又前引他破、次害自宗,自他無取。「若不離無常」下,釋下半。偈中但有不離,今長行欲對偈上半離不離故,今亦開離不離二關。初門就不離破,易見也。「若離無常」下,就相離破。有既離無,則異滅不扶生住,即生住不得生也。此亦進退二失:不離則有常無之過,相離則有不起之失。釋上半取二文、釋下半就兩義,文義無取亦得為四:初破一時、次破前後、三重破一時、四重破前後。
長い説明を四つの部分に分けます。第一に偈の本文を解釈し、合と離の二つの観点から破ります。第二に救済の方法を示します。第三にその救済を破ります。第四に全体をまとめます。
偈の上半分と下半分の解釈は二つに分かれます。上半分の解釈はさらに二つに分かれます。まず偈の第一句を解釈し、有と無が同時に存在し得ないことを明らかにします。『中論』を引用しているのは、〈三相品〉、〈本際品〉、〈成壞品〉のいずれも有と無が同時であるという考えを破っているからです。「若謂」以下は、第二句を解釈し、無を離れて有も存在しないことを示します。これも四つに分けられます。初めに外の考えを取り上げます。「是事不然」以下で、全体を否定します。「何以故」以下で、否定の理由を説明します。二つの事柄を挙げて解釈します。一つは前の〈三相品〉を引用し、有の法が共に生じるならば、互いに離れるべきではないと明らかにします。次に『阿毘曇』を引用し、四つの相が共に起こることを明らかにします。『婆沙』や『提度』にもこの文があり、相の門で説かれています。「是故」以下、第四句で全体をまとめます。前に同時であることを明らかにしたのは大乗論によって破られるため、『中論』を引用しました。次に前後であることを明らかにしたのは小乗の宗義に反するため、『毘曇』を引用して破りました。したがって、前後も同時も、大小いずれの教えにも採用されません。また、前に他を破り、次に自宗を害するため、自他いずれにも採用されません。
「若不離無常」以下は、偈の下半分を解釈します。偈の中にはただ「不離」だけがありますが、今の長い説明では偈の上半分の離と不離に対応させるため、離と不離の二つの観点を開いています。初めの門は不離について破り、理解しやすいです。「若離無常」以下は、相が離れていることについて破ります。有が無から離れているならば、異と滅は生と住を支えず、つまり生と住は生じることができません。これも進退二つの過失があります。不離ならば有が常に無であるという過失があり、相が離れているならば生じないという過失があります。
上半分の解釈では二つの文を採用し、下半分の解釈では二つの意味に基づいています。文も意味も採用されず、四つに分けることもできます。初めに一時を破り、次に前後を破り、三番目に一時を重ねて破り、四番目に前後を重ねて破ります。
「問曰」下,第二救。就立中為二:一立外宗、二通內難。立外宗為二:初總立、次別立。總立中「有生時乃已有無常」者,此立體同時也。「滅時乃發」,立用前後也。立此二義,通前上下半四難,以體同時,故無上半違宗之失,及無下半不起之過;以用前後,故無上半相違之過,又無下半常無之失也。如是生住滅老得別釋彼義也。正釋用前後得常令四事成就,得是繩繫此四相令不失。依毘曇舊義,四相是逐法成就,無別得繩。而今此文云有得者,可以二義通之:一者以得得法而四相順來,故云得四相耳。二者或可是別部義,今所未詳。「是故」下,第二結難遍答四關,而略非常無之難。「答曰」下,第三破救。凡三周破體同時、用前後:初將用同體,體同時、用亦同時;第二將體同用,用前後、體亦前後;三縱體用而不相因,即無相扶之力。初又二:第一四門別破、二總結破。四門破為三意:第一將生對滅有二破、第二以滅對住、第三以住對異。初門二破者,第一俱有破、第二俱無破。俱有破者,「汝說無常是滅相與有共生」,牒彼義也。此中以生相為有、滅相為無常也。「生時有應壞」下,論主破也。既生滅一時俱起,即生用時便使有滅用,滅用時即有生用,令其體俱用即俱也。令用同體,即是借用破體也。「復次」下,第二俱無破,明體用俱無。明當有生體時不應有滅體,滅體起時不應有生體。又次破其用俱,此是接前破。前明體俱用即俱,今明用若俱便相害,都無二相也。「復次」下,第二舉住對滅。亦應作俱有俱無二難,今略作俱無難。「老時無住」下,第三舉老對住。亦應作二難,今略明俱無。然《婆沙》有二種老法:一四相中老是異相、二有大期老法。《成論》破之云「既有二種老法,應有二生法,一四相中生、二大期生。」而彼無大期生,故此難不可答。「是故汝說」下,第二總結彼義,明有錯亂過。所言錯亂者,以生時即有滅、滅即有生,故名錯亂。「凡物生時無壞」者,此汎明天下道理如此也。若爾,則四相不俱也。又若避錯亂,言生時無壞、壞時無生,則墮四相不俱違宗之失。故云爾時非是無無常相耶。
「如能識故名識」下,第二周,破用若不同時,體亦不同時。所以有此破來者,外不受前錯亂破。若體用俱同時可得錯亂,今體同時、用不同時,故無錯亂。是故今次破之。又開二別:一舉事徵之。「如能識名識」者,以有識能故名為識,若無識能則不名識。若爾,當生起時既有滅體,應有滅能;若無滅能即不名滅也。前列三事,次舉四相合之。
「若生住時」下,第三周,破體同時、用前後也。若言當生用時未有滅用、後時方有用者,何須共生耶。此明生用時未有滅用,則滅無用,何能扶生?故不須共起。若已有扶生之用,即已生滅用之也。又至此進退破之。若有扶生之用,則滅有滅生之用,生不得起;若未有滅生之用,亦應未有扶生之用,則生亦不得起。又汝若能扶未能滅,亦應有能滅未能扶也。
「如是有無」,第四大段總結。「是故有無空」下,第三總結齊法。