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  1. 十二門論疏 (十二門論疏)
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十二門論疏 (十二門論疏)


觀性門第八

観性門第八

自上四門撿相無蹤,今此一品觀性非有。所以此門來,就外人意。上就相立相相皆不成,今舉性證相應當有相。既有為無為萬物之體,豈無相耶?是故今次破性,性無故相即無也。性相異者,《智度論》云「性為其內體,不改為性。相為其外事,表彰故名為相。」此二是萬物之總要,是故破之。二者復因中有果性,名之為性,此是別性之性。以性非是事故,所以稱別。三者執性,如執著一切法皆是實有,故名為性。問:此與初體性何異?答:執有體者,未必是性。如假有體家亦言體,而非是性。約彼所明,故體性義異。若執性之性,但詳諸法決定作有無解,故名為性。又執性之性其義則通。裁起有心言異無者,則是性有;裁起無心言異有者,即是性無。有無既爾,亦有亦無等例然。他云:外道毘曇可是性義,我習大乘非是性也。今問:若非性義,眾生心神不可朽滅、色法不可為心,真諦四絕不可為不絕、世諦三假不得四絕。豈非定性?地論人真中之真,古今常定不可為不真。豈非性耶?今破此性義,從所破立名,故以為門。二者從初品已來,法之與相大明無生。然法相微隱,非常情所悟,若不以近況遠,即幽旨難明,是故此品借現變動之相破其性執,令取悟為易,故有此門來也。三者自上已來破一切法有,今之一品雙破有無,則申明二諦辨論大宗,有此門來也。

前の四つの門では、相を探してもその姿は見えず、今この一品では、性を観ても存在しない。したがって、この門が設けられたのは、外部の者の考えに基づくものである。前に相に基づいて相を立てても、相はすべて成立せず、今性を挙げて相を証明しようとすれば、相があるはずである。有為と無為が万物の本体であるならば、どうして相がないと言えようか。だから今、性を破り、性がなければ相もまたないのである。性と相が異なるものとされるのは、『智度論』に「性はその内なる本体であり、変わらないことを性という。相はその外なる事象であり、形を表すので相という」とある。この二つは万物の総要であるから、これを破るのである。

第二に、因の中に果の性があることを性といい、これは別性の性である。性は事象ではないから、別と称されるのである。第三に、執性とは、一切の法がすべて実有であると執着することを性という。

問う:これと最初の体性とはどう違うのか。答える:体があると執着する者は、必ずしも性ではない。仮に体があるという家も体を言うが、性ではない。彼らが明らかにするところによれば、体と性の意味は異なる。もし執性の性について言えば、諸法を詳しく見て決定し、有無の解釈を立てることを性という。また、執性の性の意味は通じるものである。心を起こして有と言い、無と異なるとするならば、それは性有である。心を起こして無と言い、有と異なるとするならば、それは性無である。有無がこのようであるならば、亦有亦無なども同様である。

彼らは言う:外道や毘曇は性の意味であるが、我々が学ぶ大乗は性ではない。今問う:もし性の意味でないならば、衆生の心神は朽ち滅することができず、色法は心となることができず、真諦は四絶であり不絶となることができず、世諦の三仮は四絶となることができない。これらは定性ではないのか。地論の人が言う真中の真は、古今を通じて常に定まり、不真となることができない。これも性ではないのか。

今、この性の意味を破るのは、破る対象に基づいて名を立てるからであり、これが門となる所以である。第二に、初品以来、法と相は明らかに無生である。しかし法相は微細で隠れており、常の情では悟ることができない。もし近きをもって遠きを推し量らなければ、幽玄な主旨は明らかになり難い。だからこの一品では、現前の変動する相を借りてその性執を破り、悟りを得やすくするために、この門が設けられたのである。第三に、上以来、一切の法の有を破り、今この一品では有無を双破して、二諦を明らかにし、大乗の宗義を弁論するために、この門が設けられたのである。

此門亦三:前生起如文。

この門もまた三つに分かれる。まず、前生起は、経文の通りである。

如經者,引經證破,恐不信論主之言故也。

経文を引用するのは、経典を引いて論破するためであり、論主の言葉を信じない恐れがあるからです。

偈為三:上半破性、次破無性、三總結。此偈多含。一上半破外、次破內。顯道未曾內外,故以門通道也。如僧佉等計有內外總別法體即是性,但一異不同耳。亦計神體即是性,一異不同耳。二者前明性是毘曇,《毘曇》則萬法各有體故是性。無性是成實義,《成實》明五陰中不見眾生為空行,見陰亦空為無我行,故是無性。而不捨於無性,故為今論所破。又《成實》破故言性無性,不知一切法體性是空,亦為今論所破也。三者性是小乘人義,以小乘人既名有所得。如《涅槃》云「有所得者名為二乘」,故名為性。性即執著義,猶是有所得異名耳。又小乘人不得法無我,計有法體,體即是性。又小乘人有無我理,決定是無,亦名為性。故破性破小乘人也,破無性破大乘人。大乘人定作無性解,捨性而存無性,宜決破之。又不知即性是無性,言性無性二,亦次破之。又大對小故有大耳,既無小云何有大?欲顯正道未曾大小,令物悟入也。又破性,破攝論師三性;破無性,破其三無性理。明不曾有三性,何有三無性?故正道非三不三、非性不性。如是五句。問曰:無著菩薩依經立三無性,云何破耶?答:此是一往對性,故言無性耳。性既無,無性即無。講者不體論意,故宜破也。又論主明無性者,明無有性,非謂有無性。講人乃明無有性而有於無性,不識論意。問:《攝論》何處有此文?答:論有一句語「一切諸法以無所得為本」,可細尋之。又破性者,破理外有所得大小乘義;破無性者,亦除理內無所得義。道豈是得無得、內外耶?又上半據無常門破於性執,即是破於常義;下半破無常義,明在常既無,亦無無常。所以然者,夫聖人言無常者,明其無有常,非謂有無常。上半借無常除常、下半亦捨無常,故云一切法空。所以破常無常者,一切眾生未應實相,生心動念,不斷則常、斷則無常,是諸見根、障正觀本,是故此偈前窮其根則枝條自壞。又此偈即是除八倒義,上半借無常破常,除生死中常等四倒;下半明無常亦無,復除生死中無常等四。故知生死未曾常無常。如是五句,生死既未曾常無常,如是了悟是涅槃。涅槃豈是常無常耶?故生死及涅槃一切諸倒,畢竟寂滅。又此偈即釋《淨名經》「不生不滅是無常義」。迦旃延但領上半意,以見諸法變異,故知無常義;而遂言有無性之無常,故執著無常,失下半意。然上單捨本為成雙捨,既失雙捨之意,亦迷單捨之旨。是故今明借無常以破常,既捨於常亦不著無常,乃是諸佛菩薩說無常意,故云不生不滅是無常義。然性無性俱是病,而借無性破性;生死涅槃二俱是病,而借涅槃以破生死。真妄等萬義例之。問:變異云何無性?答:實有物體即常不可變異,變異即無物體也。

偈は三つの部分からなります:前半は「性」を破り、次に「無性」を破り、三番目に全体をまとめます。この偈には多くの意味が含まれています。

一、前半は外道を破り、次に内道を破ります。真実の道は本来、内も外もないことを示すため、門を通して道を表しているのです。例えばサーンキヤ学派などは、内外・総別の法体がそのまま「性」であると考え、ただ一異の違いがあるだけだと言います。また、神の本体がそのまま「性」であるとも考え、一異の違いがあるだけだと言います。

二、先に述べた「性」は『毘曇』の教えです。『毘曇』では、あらゆる法がそれぞれに本体を持つので「性」があるとします。「無性」は『成実論』の教えです。『成実論』では、五陰の中に衆生を見いだせないことを「空行」とし、陰そのものも空であると見ることを「無我行」と説くので、「無性」なのです。しかし、その「無性」に執着しないため、今の論で破られるのです。また、『成実論』は「性」を破って「無性」を説きますが、一切法の本体そのものが空であることを知らないため、これも今の論で破られるのです。

三、「性」は小乗の人の教えです。小乗の人はすでに「有所得」と呼ばれます。『涅槃経』に「有所得なる者を二乗と名づく」とあるように、「性」と呼ばれるのです。「性」とは執着の意味であり、これも「有所得」の別名にすぎません。また、小乗の人は法無我を得ず、法体があると計ります。その体が「性」なのです。さらに、小乗の人は無我の理を「決定して無である」と固定化し、これも「性」と呼ばれます。ですから、「性」を破ることは小乗の人を破ることになり、「無性」を破ることは大乗の人を破ることになります。大乗の人は必ず「無性」と解釈し、「性」を捨てて「無性」を保とうとするので、これを徹底的に破るべきです。また、「性」そのものが「無性」であることを知らず、「性」と「無性」を二つに分けて考えるので、次々に破られるのです。さらに、大は小に対して大なのであって、小がなければどうして大がありましょうか。真実の道は本来、大も小もないことを示し、人々を悟りに導くためです。

また、「性」を破ることは、摂論師の三性を破ることです。「無性」を破ることは、その三無性の理を破ることです。本来、三性などなかったことを明らかにし、どうして三無性がありましょうか。ですから、真実の道は三でもなく不三でもなく、性でもなく不性でもないのです。以上が五つの解釈です。

問:無著菩薩は経典に基づいて三無性を立てられましたが、なぜそれを破るのですか。 答:これは一応「性」に対抗して「無性」と言ったにすぎません。「性」がなければ、「無性」もないのです。講釈する人が論の意を理解しないので、破るべきなのです。また、論主が「無性」を説くのは、「性」がないことを明らかにするためであって、「無性」があると言っているのではありません。講釈する人は、「性」はないが「無性」はあると言い、論の意を理解していないのです。

問:『摂大乗論』のどこにそのような文がありますか。 答:論に「一切の諸法は無所得を本とす」という一句があります。よく探ってみてください。

また、「性」を破ることは、道理の外にある有所得の大乗・小乗の教えを破ることです。「無性」を破ることは、道理の内にある無所得の教えも除くことです。道は、得でも無得でも、内でも外でもないのです。

また、前半は無常の門に基づいて「性」の執着を破り、つまりは「常」の義を破ります。後半は「無常」の義を破り、常がなければ無常もないことを明らかにします。なぜなら、聖人が無常を説くのは、常がないことを明らかにするためであって、無常があると言っているのではありません。前半は無常を借りて常を除き、後半は無常も捨てるので、「一切法空」と言うのです。

常と無常を破る理由は、一切の衆生はまだ実相に応じず、心を動かし念を起こすと、不断ならば常、断ならば無常と考え、これが諸見の根であり、正観を妨げる根本だからです。ですから、この偈ではまずその根を究めれば、枝葉は自然に壊れるのです。

また、この偈は八倒を除く意味でもあります。前半は無常を借りて常を破り、生死の中にある常などの四倒を除きます。後半は無常もないことを明らかにし、さらに生死の中にある無常などの四倒を除きます。ですから、生死は本来、常でも無常でもないことがわかります。以上五つの解釈のように、生死が本来、常でも無常でもないと了悟することが、すなわち涅槃なのです。涅槃がどうして常や無常でありましょうか。ですから、生死および涅槃における一切の倒見は、畢竟寂滅なのです。

また、この偈は『維摩経』の「不生不滅はこれ無常の義なり」を解釈したものです。迦旃延は前半の意だけを理解し、諸法が変異するのを見て無常の義を知りましたが、そこで「無性の無常」があると言い、無常に執着したため、後半の意を失ったのです。しかし、上で単に捨てるのは、双捨を成すためです。双捨の意を失えば、単捨の旨も迷うことになります。ですから今、無常を借りて常を破り、常を捨てても無常に執着しないことが、諸仏菩薩が無常を説かれた真意なのです。だから「不生不滅はこれ無常の義なり」と言うのです。

しかし、「性」も「無性」もともに病であり、無性を借りて性を破ります。生死も涅槃もともに病であり、涅槃を借りて生死を破ります。真と妄など、あらゆる義も同様です。

問:変異はなぜ無性なのですか。 答:実体があるものは常であり、変異することはできません。変異するならば、実体がないのです。

長行為三:一釋偈本、二外過內、三內自免過結論旨歸。初又二:前借變異相以破於性,釋上半;「復次」下,釋眾緣以破於性,仍釋下半。
「問曰」等下,二外人過內。又開三別:一牒內義、二正生過、三總結非內。「若一切法空即無生無滅」,標內義。此文有近有遠。遠者從上七門生。上七門皆結云「一切法空」,故今牒之。近從此品生者,以此品內外數論大小三性三無性理,內外一切破洗無遺,故外人興此問也。「若無生滅則無苦諦」下,第二句為內生過。前過內明無四諦三寶,從亦無世間法,過內無世俗法,全同《中論.四諦品》。今言無生滅無苦諦者,此有通別二義。通義者,無生即無苦集,無滅即無滅道。二者小乘人以生滅無常名為苦諦,今既無生無滅便無苦諦。餘並易知。
「答曰」下,第三內自免過結論旨歸。又二:一者內自免過、二推過還外。內自免過明說空無失,推過還外明執有為失。凡有六句:一總標有二諦、二明二諦相資、三不知二諦失於三利、四辨知二諦得三利、五出不知之人、六明能知之人得。初言「有二諦」者,外人執定有,故以斷滅過於論主。是故今明有於二諦,豈是斷滅耶?明有二諦非但離斷滅,亦俱離斷常。雖空而有,故不隨斷;雖有而空,故不著常。立於二諦雙破斷常,即是中道。又我上來明無有者,無汝所見有,何時無因緣世俗假名有耶?汝聞我明無有,即無一切諸有,是故不識我意。又有二諦者,上來破外人性有無,明非有非無,故是中道。從中道始得立假名有無,故非有而有、非無而無,而有而無從中起假,故有二諦。又為外人聞一切空無復二諦,今對破無二之病,是故說二。然諸法未曾二與不二。如是五句。若遂守二諦作解者,便成二見也。又有二諦者,明佛經一切法空。我申佛明一切法空者,汝言明何義耶?佛法中有二諦,上明一切法空,此明第一義空、不明世諦義。汝不得其意,故橫生前難耳。又有時云破二諦明二諦。三世佛皆依二諦說法,此是因緣不有有、不無無。學佛教人遂作定性有無解,故今破此定性二諦,明一切法空。今方申佛因緣二諦。
「因世諦得說第一義諦」者,第二明二諦相資,為釋疑故來。既以空為第一義,第一義有二實:一是實相、二聖所行處,故立第一義。世諦無此二,何用說俗諦耶?是故今明因空有以悟於有空,故言因世諦悟第一義諦。如《中論》言無言明於二諦,以無言言為世諦、言無言為第一義諦。要因無言言以悟言無言,故云因世諦得說第一義。因第一義得涅槃者,第一義即是實相,見實相故斷諸煩惱,故得涅槃也。
「若人不知」下,第三明不知二諦故失三利。所以有此文來,為譏小乘人也。
「如是若知世諦」下,第四知二諦則得三利。讚大乘人也,亦令捨小學大也。悟世諦第一義諦生方便般若為自利,悟第一義世諦生般若方便為他利,具生二慧為共利。又自悟二諦生二慧為自利,依二諦為他說法令得二慧為他利,自他俱悟為共利。又依第一義生般若為自利,悟世諦生方便為他利。
「汝今聞世諦謂是第一義諦」者,第五明不知之人失。聖經明生滅無常,此是世諦。而旃延之流,聞經說此言,謂無常生滅是第一義諦。所以然者,彼以生滅無常為十六諦理,故第一義,見此理故,斷惑得道。大乘望之,猶是世諦。問:外人在何處聞耶?答:十二門師多云,聞論主說世諦謂是第一義,故假安我字。今明不然,文無我字。又論主何處說世諦彼謂是第一義耶?故謬釋文也。復有人言:外人聞說不生不滅等世諦謂是第一義諦,此轉謬也。外人何時執不生滅言是第一義?彼若執不生不滅是第一義,便謂生滅應是世諦。若爾,云何過論主說空無生無滅無三寶四諦耶?問:頗有此義以不?答:義乃有之,非今所用。言義有者,世諦破性說空,無性生滅故稱無生滅。此無生滅屬於世諦,而有所得人謂此為第一義,故云聞說世諦謂是第一義也。又三性三無性並是世諦,第一義非性無性。故前云無性法亦無,一切法空故。而有所得人執三無性是第一義,墮在失處。若作三重二諦明義者,若有若無皆世諦,非空非有方是第一義。汝聞說有是世諦空是第一義者,聞我說世諦,謂是第一義也。次云:空有為二,非空有不二。二不二皆是世諦,非二不二方是第一義。汝聞世諦謂是第一義。南方人聞初重世諦謂是第一義,北土人多聞後重世諦謂是第一義也。
「諸佛因緣法名甚深第一義」者,第六出能知之人,即論主也。故論主示其二諦之相有二句:初牒因緣法是第一義;「是因緣法無自性故」下,釋因緣是第一義,明因緣宛然即畢竟空名第一義。所以明因緣空為第一義,凡有三義:一者恐外人謂論主用斷滅空名第一義;二者謂論主空於性實名第一義,即簡假不空義,謂但空於性、不空於假名第一義;三者外人聞二諦便謂世諦實有三實第一義是空。則外人便得世諦義成。故今明我言世諦是因緣有,不如汝性有。汝非但不知第一義,亦不知世諦。又簡空假名義,言空於假方是第一義,是故今明假名因緣宛然而即畢竟空名第一義,故作此論。叡師採此品作論序云「正之以十二,便有無兼暢、事無不盡」,正是斯文。
「若諸法不從眾緣生」下,第二迴過還外人。就文為三:一者破外人自性、二破他性、三總結無自他等自性。就自性中又二:初牒彼性義;「五陰不生不滅」下,顯性為過。迴過還於外人,又開二別:前迴無四諦三寶過還於外人;「復次」下,第二迴無世間法過還於外人。此性過微細難識,若謂有一毫法體,此則不從緣生,便是自性,自性則破世出世一切法也。
「若謂諸法無自性」下,第二外破他性。初就相待門破;「又他性」下,就相即門破。破自性,破假有體家有假人假柱體;破他性,破用實為假體,如五蘊為人體、有四微為柱體。
「若自性不成」下,第三總結。又二:初別結四法、次總結四法。別結四法者,一結無自性、二結無他性、三結無有性、四結無無性。同《中論.破有無品》四偈。「是故」下,總結無有四性。「故一切空」,此品第三總結法空。

「もし自性が成り立たないならば」以下は、第三の総括である。さらに二つに分けられる。初めに四つの法を別々に結び、次に四つの法を総括して結ぶ。四つの法を別々に結ぶとは、第一に自性の無いことを結び、第二に他性の無いことを結び、第三に有るという性質の無いことを結び、第四に無いという性質の無いことを結ぶ。これは『中論・有無を破る品』の四つの偈と同じである。「それゆえに」以下は、四つの性質が無いことを総括して結ぶ。「ゆえに一切は空である」とは、この品の第三の総括として法の空を説くものである。

十二門論疏卷下之本
十二門論疏卷下之末

7 觀有無門(下本)
9 觀因果門(下末)

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