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title: "三國遺事 · 新羅始祖　赫居世王"
description: "三国遗事由高丽时代僧侣一然所撰，是朝鲜半岛重要佛教历史文献。该书成书于13世纪，在高丽王朝佛教兴盛的背景下，补充了三国史记未收录的古代新罗、高句丽、百济历史传说与佛教事迹。内容涵盖王系编年、佛教传播、高僧轶事及灵异故事，尤其记录了阿道、墨胡子等早期传法者的事迹与佛国寺创建等史实。作为朝鲜佛教史核心典籍，它融合历史与宗教叙事，对研究韩国古代文化、佛教发展及民间信仰具有不可替代的权威价值。"
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### 新羅始祖　　赫居世王

> 新羅の始祖　　赫居世王

辰韓之地。古有六村。一曰閼川楊山村。南今曇嚴寺。長曰謁平。初降于瓢嵓峯。是為及梁部李氏祖奴禮王九年置。名及梁部本朝太祖天福五年庚子。改名中興部。波替東山彼上東村屬焉。二曰突山高墟村。長曰蘇伐都利。初降于兄山。是為沙梁部梁讀云道。或作涿。亦音道鄭氏祖。今曰南山部。仇良伐麻等烏道北迴德等南村屬焉稱今曰者。大祖所置也。下例知。三曰茂山大樹村。長曰俱一作仇禮馬。初降于伊山一作皆比山是為漸梁一作涿部。又牟梁部孫氏之祖今云長福部。朴谷村等西村屬焉。四曰觜山珍支村一作賓之又賓子又氺之長曰智伯虎。初降于花山。是為本彼部崔氏祖。今曰通仙部。柴巴等東南村屬焉。致遠乃本彼部人也。今皇龍寺南味吞寺南有古墟。云是崔侯古宅也。殆明矣。五曰金山加利村今金剛山柏栗寺之北山也長曰祇沱一作只他初降于明活山。是為漢岐部。又作韓岐部斐氏祖。今云加德部。上下西知乃貌等東村屬焉。六曰明佸山高耶村。長曰虎珍。初降于金剛山。是為習比部薛氏祖。今臨川部。勿伊村仍仇㫆村闕谷一作葛谷等東北村屬焉。按上文此六部之祖。似皆從天而降。弩禮王九年始改六部名。又賜六姓。令俗中興部為母。長福部為父。臨川部為子。加德部為女。其實未詳。前漢地節元年壬子古本云建虎元年。又云建元三年等。皆誤三月朔。六部祖各率子弟。俱會於閼川岸上。議曰。我輩上無君主臨理蒸民。民皆放逸。自從所欲。蓋覓有德人。為之君主。立邦設都乎。於是乘高南望。楊山下蘿井傍。異氣如電光垂地。有一白馬跪拜之狀。尋撿之。有一紫卵一云青大卵馬見人長嘶上天。剖其卵得童男。形儀端美。驚異之。俗於東泉東泉寺在詞腦野北身生光彩。鳥獸率舞。天地振動。日月清明。因名赫居世王蓋鄉言也。或作弗矩內王言光明理世也。說者云。是西述聖母之所誕也。故中華人讚仚桃聖母。有娠賢肇邦之語是也。乃至雞龍現瑞產閼英。又焉知非西述聖母之所現耶位號曰居瑟邯或作居西干。初開□之時。自稱云。閼智居西干一起。因其言稱之。自後為王者之尊稱時人爭賀曰。今天子已降。宜覓有德女君配之。是日沙梁里閼英井一作娥利英井邊有雞龍現。而左脇誕生童女一云龍現死。而剖其腹得之姿容殊麗。然而唇似雞觜。將浴於月城北川。其觜撥落。因名其川曰撥川。營宮室於南山西麓今昌林寺奉養二聖兒。男以卵生卵如瓠。鄉人以瓠為朴。故因姓朴。女以所出井名。名之二聖。年至十三歲。以五鳳元年甲子。男立為王。仍以女為后。國號徐羅伐。又徐伐今俗訓京字云徐伐。以此故也或云斯羅。又斯盧。初王生於雞井。故或云雞林國。以其雞龍現瑞也。一說。脫解王時得金閼智。而雞鳴於林中。乃改國號為雞林。後世遂定新羅之號。理國六十一年。王升于天七日。後遺體散落于地。后亦云亡。國人欲合而葬之。有大蛇逐禁。各葬五體為五陵。亦名蛇陵。曇嚴寺北陵是也。太子南解王繼位。

> 辰韓の地には、昔六つの村があった。第一は閼川楊山村。南に現在の曇嚴寺がある。村長は謁平といい、初め瓢嵓峯に降り立った。これが及梁部、李氏の祖である。<note>奴禮王の九年に置かれ、及梁部と名付けられた。本朝太祖の天福五年庚子に、中興部と改名された。波替・東山の彼の上東村はこれに属する。</note>第二は突山高墟村。村長は蘇伐都利といい、初め兄山に降り立った。これが沙梁部<note>梁は道と読む。あるいは涿とも書く。また道と音をなす。</note>鄭氏の祖である。現在の南山部。仇良伐・麻等烏・道北・迴德などの南村はこれに属する。<note>「現在」というのは、太祖が置いたものを言う。以下の例もこれに倣う。</note>第三は茂山大樹村。村長は俱<note>一説に仇</note>禮馬といい、初め伊山<note>一説に皆比山</note>に降り立った。これが漸梁<note>一説に涿</note>部、また牟梁部ともいい、孫氏の祖である。現在の長福部。朴谷村などの西村はこれに属する。第四は觜山珍支村<note>一説に賓之、また賓子、また氺之とも書く</note>。村長は智伯虎といい、初め花山に降り立った。これが本彼部、崔氏の祖である。現在の通仙部。柴巴などの東南村はこれに属する。致遠はまさに本彼部の人である。今の皇龍寺の南、味吞寺の南に古い墟があり、崔侯の古宅であると言われている。ほぼ確かなことである。第五は金山加利村<note>今の金剛山白栗寺の北の山である。</note>。村長は祇沱<note>一説に只他</note>といい、初め明活山に降り立った。これが漢岐部、また韓岐部ともいい、斐氏の祖である。現在の加德部。上下西知・乃貌などの東村はこれに属する。第六は明佸山高耶村。村長は虎珍といい、初め金剛山に降り立った。これが習比部、薛氏の祖である。現在の臨川部。勿伊村・仍仇㫆村・闕谷<note>一説に葛谷</note>などの東北村はこれに属する。 以上の文によれば、この六部の祖は、皆天から降り立ったかのようである。弩禮王の九年に初めて六部の名を改め、また六つの姓を授けた。当時の俗に、中興部を母とし、長福部を父とし、臨川部を子とし、加德部を女とした。しかし、実際のところは詳らかではない。 前漢の地節元年壬子<note>古本には建虎元年とある。また建元三年などともあるが、すべて誤りである。</note>三月の朔日のこと、六部の祖がそれぞれ子弟を率いて、皆閼川の岸辺に集まった。そして議って言った。「我々には上に君主がおらず、民を治めていない。民は皆、思いのままに放逸に暮らしている。徳のある人を探し出して、君主とし、国を興し都を建てようではないか。」そこで高い所に登り南を望むと、楊山の麓、蘿井のほとりに、異様な気が電光のように地に垂れていた。一匹の白馬が跪いて拝むような様子をしていた。詳しく調べてみると、そこに一つの紫の卵<note>一説には青い大きな卵</note>があった。馬は人の姿を見ると、長く嘶いて天に昇っていった。その卵を割ると男の子が得られた。その姿かたちは端麗で美しかった。皆驚き怪しんだ。慣わしに従って東泉<note>東泉寺は詞腦野の北にある。</note>で沐浴させると、身に光が現れた。鳥や獣はこぞって舞い、天地は震え動き、日月は明らかに澄んだ。そこで赫居世王と名付けた。<note>これは郷里の言葉である。あるいは弗矩内王とも書き、「光明をもって世を治める」の意である。解説者は言う、これは西述聖母の誕ませし所である、と。ゆえに中華の人々は仚桃聖母を賛えて「賢きを孕みて邦を肇める」という言葉がある。さらに後には雞龍が瑞を現して閼英を産んだ。またどうして西述聖母の現じたものでないと知れようか。</note>位の称号を居瑟邯<note>あるいは居西干ともいう。初めて国を開く時、自称して「閼智居西干一」と言った。その言葉によって称したのである。それ以降、王者の尊称となった。</note>といった。時に人々は競って賀ぎ言った。「今や天子がお降りになった。どうか徳のある乙女を探し出して、后とされるがよい。」と。 この日、沙梁里の閼英井<note>一説に娥利英井</note>のほとりに、雞龍が現れて、左脇から女の子を産んだ。<note>一説には、龍が現れて死んだので、その腹を割いて得た。</note>姿かたちはこの上なく麗しかった。しかし唇だけが鶏のくちばしのようであった。月城の北の川で沐浴させようとしたところ、そのくちばしはぽろりと落ちた。そのため、その川を撥川と名付けた。宮室を南山の西の麓<note>今の昌林寺</note>に営み、二人の聖なる子を養った。男の子は卵から生まれたので、その卵は瓢のようであった。郷里の人々は瓢を朴と言うので、そのため朴という姓になった。女の子は生まれた井戸の名前にちなんで名付けられた。二人の聖子は、十三歳になった五鳳元年甲子の年、男の子が王として即位した。そして女の子を后とした。国号を徐羅伐、また徐伐<note>今、俗に京の字を訓んで徐伐というのは、この理由による。</note>と言い、あるいは斯羅、また斯盧とも言う。初めの王が雞井で生まれたので、あるいは雞林国とも言う。それは雞龍が瑞を現したからである。別の説によれば、脱解王の時に金閼智を得て、鶏が林の中で鳴いたので、国号を改めて雞林とした。後世に至ってついに新羅の号を定めたのである。 国を治めること六十一年、王は天に昇った。七日後、その遺体は散り散りになって地に落ちた。后もまた亡くなったと言う。国の人々は二人を合わせて葬ろうとしたが、大蛇が現れて追い払い禁じた。そこで五体をそれぞれに葬って五陵とした。また蛇陵とも言う。曇嚴寺の北の陵がそれである。太子の南解王が位を継いだ。