---
title: "三國遺事 · 第二南解王"
description: "三国遗事由高丽时代僧侣一然所撰，是朝鲜半岛重要佛教历史文献。该书成书于13世纪，在高丽王朝佛教兴盛的背景下，补充了三国史记未收录的古代新罗、高句丽、百济历史传说与佛教事迹。内容涵盖王系编年、佛教传播、高僧轶事及灵异故事，尤其记录了阿道、墨胡子等早期传法者的事迹与佛国寺创建等史实。作为朝鲜佛教史核心典籍，它融合历史与宗教叙事，对研究韩国古代文化、佛教发展及民间信仰具有不可替代的权威价值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcwe55xr0602jx04sbj2zkht"
---

### 第二南解王

> 第二南解王

南解居西干。亦云次次雄。是尊長之稱。唯此王稱之父赫居世。母閼英夫人。妃雲帝夫人一作雲梯。今迎日縣西有雲梯山聖母。祈旱有應前漢平帝元始四年甲子。即位。御理二十一年。以地皇四年甲申崩。此王乃三皇之弟。一云。按三國史云。新羅稱王曰居西干。辰言王也。或云。呼貴人之稱。或曰。次次雄。或作慈充　金大問云。次次雄方言謂巫也。世人以巫事鬼神尚祭祀。故畏敬之。遂稱尊長者為慈充。或云。尼師今。言謂齒理也。初南解王薨。子弩禮讓位於脫解。解云。吾聞聖智人多齒。乃試以餅噬之。古傳如此。或曰麻立干立一作袖金大問云。麻立者。方言謂橛也。橛標准位而置。則王橛為主。臣橛列於下。因以名之。史論曰。新羅稱居西干。次次雄者一。尼師今者十六。麻立干者。四羅末名儒崔致遠作帝王年代曆。皆稱某王。不言居西干等。豈以其言鄙野不足稱之也。今記新羅事。具存方言亦宜矣。羅人凡追封者稱葛文王。未詳。此王代樂浪國人來侵金城。不克而還。又天鳳五年戊寅。高麗之裨屬七國來投。

> 南解居西干は、また次次雄とも言う。これは尊い者や年長者を表す呼び名である。ただ、この王だけを指して、父は赫居世、母は閼英夫人、妃は雲帝夫人（一説には雲梯とも言う。現在の迎日県の西にある雲梯山の聖母は、雨乞いの際に祈ると応験があるとされる）という。前漢の平帝の元始四年、甲子の年に即位した。在位二十一年で、地皇四年、甲申の年に崩御された。この王は三皇の弟にあたる。一説には、三国史によると、新羅では王を居西干と呼んだ。これは辰人の言葉で王を意味する。あるいは、貴人を呼ぶ称であるとも言う。また次次雄とも言い、あるいは慈充とも書く。金大問は言う。「次次雄とは、方言で巫を意味する。世の人々は巫が鬼神に仕え祭祀を重んじるので、畏れ敬った。それで尊い者や年長者を慈充と呼ぶようになった」と。あるいは尼師今とも言う。これは言葉で歯の並びを意味する。昔、南解王が亡くなった時、息子の弩禮が脱解に位を譲ろうとした。脱解が言うには「私は聖人や智者は歯が多いと聞いている」と。そこで餅を噛んで歯の数を試したという。古い伝承ではこのように伝わっている。あるいは麻立干（立は一説に袖と書く）とも言う。金大問は言う。「麻立とは、方言で杭を意味する。杭を立てて位置の基準とする時、王の杭は主となり、臣下の杭はその下に並ぶ。それでこの名がついた」と。史論に言う。新羅では居西干と呼んだ者、次次雄と呼んだ者は一人、尼師今と呼んだ者は十六人、麻立干と呼んだ者は四人である。羅の末期の名儒である崔致遠が帝王年代暦を作った時は、皆「某王」と呼び、居西干などとは言わなかった。それはその言葉が鄙びていて、呼ぶに値しないと考えたからであろうか。今、新羅の事を記すにあたり、方言をそのまま残すのもまた適切であろう。羅の人々は、追封された者をすべて葛文王と呼んだ。詳しいことは分からない。この王の時代に、楽浪国の人が金城に侵攻してきたが、勝てずに退却した。また天鳳五年、戊寅の年に、高麗に従属していた七つの国が来て帰順した。