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title: "三國遺事 · 第四脫解王"
description: "三国遗事由高丽时代僧侣一然所撰，是朝鲜半岛重要佛教历史文献。该书成书于13世纪，在高丽王朝佛教兴盛的背景下，补充了三国史记未收录的古代新罗、高句丽、百济历史传说与佛教事迹。内容涵盖王系编年、佛教传播、高僧轶事及灵异故事，尤其记录了阿道、墨胡子等早期传法者的事迹与佛国寺创建等史实。作为朝鲜佛教史核心典籍，它融合历史与宗教叙事，对研究韩国古代文化、佛教发展及民间信仰具有不可替代的权威价值。"
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### 第四脫解王

> 第四解脱王

脫解齒叱今一作吐解尼師今南解王時古本云壬寅年至者謬矣近則後於弩禮即位之初。無爭讓之事。前則在於赫居之世。故知壬寅非也駕洛國海中有船來泊。其國首露王與臣民鼓譟而迎。將欲留之。而舡乃飛走。至於雞林東下西知村阿珍浦今有上西知下西知村名時浦邊有一嫗。名阿珍義先。乃赫居王之海尺之母。望之謂曰。此海中元無石嵓。何因鵲集而鳴。孥舡尋之。鵲集一舡上。舡中有一樻子。長二十尺。廣十三尺。曳其船置於一樹林下。而未知凶乎吉乎。向天而誓爾俄而乃開見。有端正男子并七寶奴婢滿載其中。供給七日廼言曰。我本龍城國人亦云正明國。或云琓夏國琓夏或作花廈國。龍城在倭東北一千里我國甞有二十八龍王從人胎而生。自五歲六歲繼登王位。教萬民修正性命。而有八品姓骨。然無棟擇。皆登大位。時我父王含達婆娉積女國王女為妃。久無子胤。禱祀求息。七年後產一大卵。於是大王會問群臣。人而生卵。古今未有。殆非吉祥。乃造樻置我。并七寶奴婢載於舡中。浮海而祝曰。任到有緣之地。立國成家。便有赤龍護舡而至此矣。言訖。其童子曳杖率二奴登吐含山上作石塚。留七日。望城中可居之地。見一峯如三日月。勢可久之地。乃下尋之。即瓠公宅也。乃設詭計。潛埋礪炭於其側。詰朝至門云。此是吾祖代家屋。瓠公云否。爭訟不決。乃告于官。官曰。以何驗是汝家。童曰。我本治匠乍出隣鄉。而人取居之。請堀地檢看。從之。果得礪炭。乃取而居為。時南解王知脫解是智人。以長公主妻之。是為阿尼夫人。一日吐解登東岳。迴程次令白衣索水飲之。白衣汲水。中路先甞而進。其角盃貼於口不解。因而嘖之。白衣誓曰。爾後若近遙不敢先甞。然後乃解。自此白衣讋服。不敢欺罔。今東岳中有一井。俗云遙乃井是也。及弩禮王崩。以光虎帝中元六年丁巳六月。乃登王位。以昔是吾家取他人家故。因姓昔氏。或云。因鵲開樻。故去鳥字姓昔氏。解樻脫卵而生。故因名脫解。在位二十三年。建初四年己卯崩葬疏川丘中。後有神詔。慎埋葬我骨。其髑髏周三尺二寸。身骨長九尺七寸。齒凝如一。骨節皆連瑣。所謂天下無敵力士之骨。碎為塑像。安闕內。神又報云。我骨置於東岳。故令安之一云崩後二十七世文虎王代。調露二年庚辰三月十五日辛酉。夜見夢於太宗。有老人貌甚威猛。曰我是脫解也。拔我骨於疏川丘。塑像安於工含山。王從其言。故至今國祀不絕。即東岳神也云。

> 脫解齒叱今（別名：吐解尼師今）。 南解王の時代、駕洛国の海に一隻の船が流れ着きました。その国の首露王は臣民と共に太鼓や叫び声で迎え、船を留めようとしました。しかし、船は飛ぶように去ってしまいました。 そして、その船は鶏林（金城）の東側、西知村の阿珍浦（現在も上西知・下西知という村名があります）に至りました。その時、浦のほとりに阿珍義先という老女がいました。彼女は赫居王の海辺で働く者の母でした。彼女はそれを見て言いました。 「この海にはもともと岩などないのに、どうして鵲が集まって鳴いているのだろうか。」 小舟を出して見に行くと、鵲が一隻の船の上に集まっていました。船の中には櫃（ひつ）があり、長さ二十尺、幅十三尺ありました。その船を引き上げて木の下に置き、吉か凶か分からないまま、天に向かって祈りました。しばらくして櫃を開けてみると、端正な男子が、七宝の奴婢と共に、その中に満ち溢れるように入っていました。 人々は七日間、彼に食事を捧げました。すると彼はこう語りました。 「私はもともと龍城国の者です（別名、正明国、または琓夏国とも言います。琓夏は花廈国とも書きます。龍城は倭の東北一千里のところにあります）。我が国では昔から二十八の龍王が人の胎内から生まれ、五、六歳で王位に就き、万民に命を正しく保つよう教えてきました。八品の姓骨という身分制度はありましたが、区別なく皆が王位に就きました。 その時、私の父王・含達婆は積女国の王女を妃としましたが、長い間、子がありませんでした。祈り祀ること七年、ようやく一つの大きな卵を産みました。そこで大王は群臣を集めて問いました。 『人が生んで卵が生まれるなど、古今未曾有のことだ。これはめでたいことではなかろう。』 そこで櫃を作り、私を入れ、七宝の奴婢と共に船に載せ、海に流して祈りました。『縁のある土地に着き、国を立て家を成せ。』 すると赤い龍が現れ、船を守って、ここまで運んできたのです。」 そう言い終えると、その童子は杖を引き、二人の奴婢を連れて吐含山に登り、石の塚を作りました。七日間そこに留まり、城中から住むにふさわしい場所を探しました。三日月のような峰、末永く住めそうな地勢の場所を見つけたので、降りて探してみると、そこは瓠公の家でした。 そこで彼は策を巡らせ、砥石（といし）と炭をその家の側にこっそりと埋めました。翌朝、門前に現れて言いました。 「ここは私の先祖代々の家屋だ。」 瓠公は「いや、違う」と言い、争いは決着しませんでした。そこで役所に訴え出ました。役人が言いました。 「何を証拠に、お前の家だと分かるのか。」 童子が言いました。「私はもともと鍛冶師で、隣郷に出かけていました。その間に人が来て住み着いたのです。地面を掘って確かめてください。」 言う通りに掘ってみると、確かに砥石と炭が出てきました。そこで童子がその家を取って住みました。 その頃、南解王は脱解が賢い人物だと知り、長公主（長女）を妻として与えました。彼女が阿尼夫人です。 ある日、脱解は東岳（東の山）に登りました。帰り道、従者に水を求めました。従者が水を汲んで来ましたが、途中で自分が先に飲んでから差し出しました。すると、杯が口に張り付いて離れません。脱解がしかると、従者は誓いました。 「今後は、近くであれ遠くであれ、決して先に味わうことはしません。」 そう言うと、杯はようやく離れました。この出来事以来、従者は恐れ従い、欺くことはできなくなりました。今も東岳の中には井戸があり、俗に「遠い井戸」と呼ばれています。 弩礼王が崩御すると、光虎帝中元六年丁巳の六月に、脱解は王位に就きました。「昔、私が元々いた家（瓠公）から、他人の家を取り上げた」という故事から、姓を昔氏としました。または、鵲が櫃を開いた故事から「鳥」の字を除いて「昔」の字を用いたとも言います。櫃を開き、卵から生まれたので「脱解」と名付けられたのです。 在位二十三年、建初四年己卯に崩御し、疏川の丘に葬られました。後に神のお告げがありました。 「安易に我が骨を葬るな。」 その頭蓋骨は周り三尺二寸、身の骨は長さ九尺七寸、歯は一つに固まり、骨節はすべて連なった鎖のようでした。いわゆる天下無敵の力士の骨です。これを砕いて塑像とし、宮殿の中に安置しました。神がまた告げました。 「我が骨を東岳に置け。」 そこでその通りに安置しました。 （別の伝承によると、崩御後、第二十七代の文虎王の代、調露二年庚辰三月十五日辛酉の夜、太宗の夢に一人の老人が現れました。姿は非常に威厳があり、こう言いました。「私は脱解である。疏川の丘から我が骨を掘り出し、塑像にして工含山に安置せよ。」王がその言葉に従ったため、今も国の祭祀が絶えることはありません。これが東岳の神であるということです。）