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title: "圓悟佛果禪師語錄 · 小參三"
description: "圓悟佛果禪師語錄由宋代僧人紹隆等人編撰，收錄了臨濟宗高僧圓悟克勤禪師的語錄、法語、書信及詩偈等。該書成書於南宋初期，系統闡釋了禪宗心性論、頓悟思想及修行方法，並包含其著名評唱作品碧巖錄的核心觀點。作為禪宗史上極具影響力的語錄集，它不僅是研究宋代臨濟宗思想的重要文獻，更是後世參禪者指導心性的權威典籍，對中日韓禪宗發展均有深遠影響。"
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## 圓悟佛果禪師語錄卷第十

> 圓悟佛果禅師語録 巻第十

宋平江府虎丘山門人紹隆等編

> 宋平江府虎丘山門人紹隆等編

### 小參三

> 小参三

蔣山寺小參。師云。相逢不拈出。舉意便知有。萬人眾前顯瞞頇。不是目前機。亦非目前事。三千里外納敗闕。直得盡乾坤大地。無絲毫法可當情。靜悄悄地絕誵訛。千聖不敢疑議。致之諸佛頂𩕳上。到這裏更說什麼行棒行喝論正論偏有語有默絕玄絕妙雙放雙收同死同生。向窠窟裏作活計。正當恁麼時。且作麼生參究。且作麼生捉摸。作麼生拈弄。作麼生證入。若有一絲頭伎倆去。便乃見神見鬼。更不作一絲頭伎倆。未免墮在無事界裏。箇事如壺公瓢中自有天地日月。所以雪峯和尚道。盡大地撮來。如粟米粒大。又道盡大地是沙門一隻眼。鹽官又道虛空為鼓須彌為槌。什麼人打得。南泉道。王老師不打這破鼓。法眼道王老師不打。玄沙道深山巖崖千年萬年無人到處。還有佛法也無。雲門大師道日裏來去日裏辨人。忽然教夜中取箇物。無日月燈不曾到處。作麼生取似此。若不通透。有纖毫隔礙。則如山如嶽。或若盡情透得。要行便行。更疑什麼。雖然如此。直須是真實到這箇田地始得。向萬丈懸崖處撒手。百尺竿頭進步且道此事畢竟如何委悉。撞著道伴交肩過。君向潚湘我向秦。下座。

> 蔣山寺での小参のこと。師は言われた。「人と会っても、ただちに〔悟りの〕ものを差し出すことはしない。しかし、心を起こせば、すぐにそれを知るのだ。万人の衆の前で大愚のように振る舞うのは、目の前の機根によるものではなく、また目の前の事柄によるのでもない。三千里の彼方で、敗北を露呈してしまう。〔真実の境地は〕尽虚空界、大地のすべてをもってしても、わずかな法も、これに当てはめることができない。静まり返って、いかなる誤解もない。千人の聖者も、あえて疑い論じることができない。これを諸仏の頂上の上に置くのだ。ここに至って、何を言おうか。棒を使い、喝を放ち、正を論じ、偏を論じ、語があり、黙があり、玄を絶し、妙を絶し、双放双収、同死同生、まさに巣窟のうちに生活を営むことを。まさにそのような時、いったいどうやって参究し、どうやって掴み取り、どうやって弄び、どうやって証入するのか。もし一筋の作為でもあれば、たちまち鬼神を見るようなものになる。しかし、一筋の作為もなければ、また「無事」という境地に堕ちてしまう。この事は、ちょうど壺公の瓢箪のようなもので、その中に自ずから天地日月がある。だから雪峰和尚は『尽大地を撮り集めて、粟粒の大きさのようだ』と言い、また『尽大地は沙門の一隻の眼である』と言った。塩官はまた『虚空を鼓とし、須弥山を槌として、誰がこれを打つことができようか』と言った。南泉は『王老師はこの破れ鼓を打たない』と言い、法眼は『王老師は打たない』と言い、玄沙は『深山の岩壁、千年万年、人の至らぬ所に、はたして仏法があるのかないのか』と言った。雲門大師は『昼の間に来たり去りする者は、昼の間に人を見分ける。もし突然、夜に物を取るように言われて、日月の光も灯りも至らぬ所で、どうやって取るのか』と言った。このようなことを、もし理解し通らなければ、わずかな隔たりがあれば、それは山や岳のように立ちはだかる。あるいは、思うままに通じ切ることができれば、行きたい時に行けばよい。何を疑うことがあろうか。たとえそうであっても、本当にこの境地に至って初めてよいのだ。万丈の崖の上で手を放し、百尺の竿の先から進む。さあ、この事は結局どうなのか、よくよく知るがよい。道伴にぶつかって、肩を交えて過ぎ行く。君は瀟湘へ行き、我は秦へ行く。」座を下りた。

師云。一舉便知落處。已是第八頭。未跨船舷三十棒。也是第九首。直饒空劫已前威音那畔。一時座斷。大似釘樁搖櫓膠柱調弦直饒顯目前機用目前事。一問一答一挨一拶一出一入。正如開眼尿床立地作夢若是明眼漢。須知不恁麼所以從上來事。只要箇奇特人直下承當得坐斷天下人舌頭。還有恁麼人麼。如無不免合水和泥。向荊棘林中出手去也。遂舉拂子云。還見麼。三世諸佛六代祖師天下老和尚。總在這裏。至於萬象森羅日月星辰四聖六凡盡無邊香水海醯雞蠛蠓一切含情。總在這裏。以至諸人於日用中亦在這裏。唯有山僧不在這裏。且道為什麼如此。同途不同轍。同死不同生。眾中忽若有箇漢。也不恁麼。許爾具一隻眼。正當恁麼時如何。定光金地遙招手。智者江陵喑點頭。下座。

> 師は言われた。「一度挙すれば直ちに落処を知る。すでに第八頭である。船の縁をまだ跨がぬうちの三十棒。これも第九首である。かりに空劫以前、威音王の那辺を、その場で断ち切ったとしても、まるで釘を杭に打ち、櫓を漕ぎ、膠で柱を固め、弦を調えるようなものである。かりに目前の機用、目前の事を顕し、一問一答、一挨一拶、一出入りするとも、ちょうど目を開いて寝小便をし、立ちながら夢を見るようなものだ。もし明眼の漢ならば、かくのごとくならざるを知るべし。ゆえに従上から伝わる事柄は、ただ奇特な一人を要するのみである。直下に承当し得て、天下人の舌頭を坐断せよ。はたしてかくのごとき人があるか。もしなければ、やむなく水と土を合わせ、荊棘の林の中で手を出すことにしよう。」とて、拂子を挙げて言われた。「いまだ見るか。三世諸仏、六代祖師、天下の老和尚、みなここにいる。万象森羅、日月星辰、四聖六凡、尽く無辺の香水海、醯鶏・蠛蠓、一切の含情、みなここにいる。さらに諸人が日用のうちにも、みなここにいる。ただ山僧のみ、ここにいない。かつて道う、なぜかくのごとくなるのかと。同じ道をゆけども同じ轍ならず、同じく死すとも同じく生ぜず。衆中に忽ちもし一つの漢ありて、かくのごとくならざるならば、汝に一隻の眼を具することを許さん。まさにかくのごとくの時、如何。定光は金地にて遥かに手を招き、智者は江陵にて喑に首を肯く。」とて、座を下りた。

師云。言中有響句裏呈機。告往知來拈頭會尾。須是恁麼人始解恁麼事。且如諸人。適來鍾未鳴鼓未響未到此間時。還有如許多事麼。還有一問一答道理麼。若是箇漢。未舉先知未言先透。及乎理隨事變事逐理圓。鍾已鳴鼓已響。大眾簇簇恁麼上來。有問有答有賓有主。且道於中還有恁麼事麼。若有恁麼端的底道理。便是對面相謾。實無如是事。既無如是事。又且是箇什麼。須知萬里無片雲萬里無寸草。所以道。欲得親切莫將問來問。有時問在答處。有時答在問處。雖然如是。要且問不在答處。答不在問處。又道闍黎不是不將來山僧不是不分付。於中具金剛眼向本分田地上承當。乃無可無不可。敢問大眾。著實底一句作麼生道。未明心地印。難透趙州關。下座。

師云當陽舉唱直截根源。貫古通今超情離見。恁麼恁麼二竅俱明。不恁麼不恁麼雙遮普照。恁麼中有不恁麼。不恁麼中有恁麼。草窠裏突出焦尾大蟲。若能離此三句外。撥轉向上機。即知諸人脚跟下有此一段大事。輝騰今古逈絕知見。祖師雖西來諸佛雖出世。不曾加一絲毫。諸佛不出世。祖師不西來。亦不曾減。一絲毫。淨裸裸赤灑灑。如印印空如印印水如印印泥也。須是不依倚一物。不墮聞見知覺。不處是非得失。直饒恁麼猶落他祖師指處在所以道。有祖以來。若將祖師言教。為人師範。却成賺人去。他只說無法本是道。又道佛說一切法。為度一切心。我無一切心。何用一切法。既無一切心不用一切法。則這裏八字打開。還知落處麼。山僧露箇消息去。也須知過量人契此過量事。下座。

> 師の言葉：正面から唱え挙げれば、根源をまっすぐに突く。古と今を通貫し、情を超え、見解を離れる。かくかくの如くならば、二つの門はともに明らか。かくの如くせず、かくの如くせざらんとすれば、双つながらに遮って普く照らす。かくの如きの中に、かくの如くならざるがある。かくの如くならざるの中に、かくの如きがある。草むらの中から、尾の焦げた大虎が飛び出す。もしこの三つの句の外に離れて、上の機を転ぜしめば、すなわち諸君の足もとに、この一大事があることを知るであろう。光り輝いて今も古も徹し、知見を絶してはるかに隔たる。祖師が西から来られたのも、諸仏が出世されたのも、微塵も増えることはなかった。諸仏が出世せず、祖師が西から来られなくても、微塵も減ることはなかった。清らかに露わで、さらりとして何も纏わず、印を空に押すが如く、印を水に押すが如く、印を泥に押すが如くである。かくあらねばならぬのは、一物にも依らず、聞き見知覚にも堕ちず、是非得失の内にも居らぬことだ。たとえかくの如くでも、なお祖師の指し示す処に落ちている。故にいう、祖師が世に在して以来、もし祖師の言教を以て人の師範とせば、かえって人を欺くことになる。ただ「法なし、これ道なり」と説き、また「仏は一切の法を説く、一切の心を度さんがために。我に一切の心なし、何ぞ一切の法を用いん」と説く。すでに一切の心なく、一切の法を用いざれば、すなわちここに八字が開け放たれる。なお落ち処を知るや。山僧、ひと言の消息を漏らさん。また知るべし、量を超えた人が、この量を超えた事に契うことを。下座。

師云。當軒正坐覿面無私。離相絕名當機有準。露箇形相通一線道。起箇面目示少津梁。如隔山見煙早知是火。隔牆見角早知是牛。若要只管隨數逐名求玄覓妙。則喪却自己脚跟下大事。埋沒從上來佛祖家風。只如今不依倚一物。不顯箇消息。還有共相證據底麼。若證據得。把斷要津不通凡聖。不向二千年前釋迦老子起模畫樣處。各自點胸。何故大丈夫兒。他人住處我不住。他人用處我不用。祖師階梯是第二頭。超佛越祖是第三首。淨裸裸赤灑灑當陽獨露。是第八解。所以道。末後一句始到牢關。把斷要津不通凡聖。若是上流之士。不將祖師言教為人師範。如龜負圖。自取喪身之兆。鳳縈金網。趨霄漢以何期。今夜與諸人一時拈却。敢問大眾。不落祖師言教一句作麼生道。萬緣不到無心處。至了渾加井覷驢。下座。

> 師が言った。「まさに軒に向かって正しく坐し、目の前で私心がない。形相を離れ名相を絶すれば、その機に当たって確かな基準がある。一つの形相を現して一筋の道を通じ、一つの面目を起こして少しの手がかりを示す。山を隔てて煙を見れば、すぐにそれが火だと知る。壁を隔てて角を見れば、すぐにそれが牛だと知る。もしただひたすら数や名を追い求め、玄妙を探し求めるならば、自分の足元の大事を見失ってしまう。古来よりの祖師たちの家風を埋もれさせてしまうのだ。 ただ今、一物にも依らず、一つの消息も示さない。共に証し合う者はいるだろうか。もし証し得たならば、要の津を押さえ、凡夫にも聖者にも通じない。二千年前の釈迦老子が手本を示したところに向かわずに、各自が胸を指して悟りを証すのだ。なぜなら、大丈夫たる者は、他人の住む所には住まず、他人の用いる所を用いないからだ。祖師の階段は第二の頭であり、仏を超え祖を越えるのは第三の首である。清らかに裸で、まさに日の当たる所に独り露わになる、これが第八の解脱である。それゆえに言う、最後の一句が初めて牢関に至ると。要の津を押さえ、凡夫にも聖者にも通じない。 もし上流の士であるならば、祖師の言葉や教えを人の師範とはしない。亀が図を背負うように、自ら身を滅ぼす兆しを取るようなものだ。鳳凰が金の網に絡まれば、天に昇ることは何時になるだろうか。今夜、皆とともに一時にこれらを取り除こう。あえて大衆に問う、祖師の言葉や教えに落ちない一句、どうやって道うのか。萬縁の到らざる無心の処、至って了すれば全く井戸を覗く驢馬のようだ。座を下りる。」

師云。一向據令而行。呵佛罵祖截斷眾流。直得釋迦彌勒文殊普賢退身無路。臨濟德山趙州睦州目瞪口呿。千里萬里無片雲。擬議不來三十棒。恁麼舉唱。本色衲僧愈生光彩。後學初機無摸索處。一向垂慈落草。立問立答存主存賓有始有末。三玄戈甲中論誵訛。四種料簡裏別皂白。絲來線去照用雙行。各各脚跟下只推明一箇大機。唯此一事更無餘事。恁麼舉唱。後學初機通一線道。其奈取笑衲僧。恁麼中有不恁麼。不恁麼中有恁麼。權實雙運照用並行。佛祖誵訛離名絕相。不守窠窟單明向上一路。猶是尋常茶飯。更或打翻許多露布。則上是天下是地。山是山水是水。僧是僧俗是俗。都無許多得失玄妙。又落在無事甲裏。四種為人。向此時為諸人都拈却。且道畢竟如何。所以道。欲識佛性義。當觀時節因緣。時節若至其理自彰。只如即今時節。大檀越設齋已了。陞堂已了。懺罪已了。薦亡已了。更教山僧說箇什麼。若能不以眼見。不以耳聞。不以意想。不以口說。則千里萬里見誵訛。千句萬句都穿却。恁麼會得。可以通徹古今。更須知有向上事始得。敢問大眾。作麼生是向上事。萬古碧潭空界月。再三撈摝始應知。下座。

> 師は言われた。「ひたすら禅の鉄則に従って教化を進めるならば、仏を叱り祖を罵り、一切の分別の流れを断ち切る。それによって釈迦も弥勒も文殊も普賢も、身を引く場処さえ失ってしまう。臨済、徳山、趙州、睦州も、ただ口を開けて呆然とするばかりだ。千里も万里も雲一片さえない晴れ渡った境地であり、少しでも思慮分別をめぐらせれば、三十棒を加えられる。このように提唱すれば、真の修行者はますます輝きを増すが、後の学び初めの者には、掴みどころがなくて途方に暮れるばかりである。 そこで、ひたすら慈悲を垂れて、世俗の場に身を落として教えることもある。問いを立て答えを設け、主と賓の立場を存し、始めと終わりを備える。三玄の戈甲のうちで、誤解や紛れを論じ、四種料簡のうちで、黒白を判別する。糸が絡まり針が行き交うように、照（静的な智慧）と用（動的な働き）を併用する。それぞれの足元で、ただ一つの大きな働き（大機）を明らかにさせることのみを説く。この一事あるのみで、他に余計なことはない。このように提唱すれば、後の学び初めの者にも、一筋の道筋が通じてくる。しかしながら、真の修行者に笑われることも免れない。 このようにある（恁麼）の中にも、このようにない（不恁麼）が含まれ、このようにない中にも、このようにあるが含まれる。権（方便の教え）と実（真実の教え）を双運し、照と用を併行させる。仏や祖師たちの間の、言葉を絶し形相を離れた深遠な境地。しかし、それでもなお、固定的な巣窟に安住せずに、ひたすら向上の一事を明らかにするだけでは、まだ日常茶飯事に過ぎない。 さらに、多くの形式的な説明（露布）をことごとく打ち破ってしまえば、上には天があり、下には地がある。山は山、水は水。僧は僧、俗は俗。得失も玄妙もすべてない、という境地に至る。しかし、これもまた「無事」という一つの殻（無事甲）に落ち着いてしまう過ちがある。 四種の人のための教化の方法（四種為人）も、今ここで皆のためにすべて払いのけてしまおう。さて、結局のところ、どうであるべきか。 古来よりこう言われる。「仏性の義理を知りたければ、まさに時節の因縁を観よ。時節が到来すれば、その理はおのずから顕れる」と。 ただいまの時節をみるに、大檀越（在家の篤信者）が斎（供養の食事）を設け終え、堂に上り、懺悔の業を終え、亡き者の追善供養も終えられた。さらに、山僧（私）に何を説けというのか。 もしも、眼で見ず、耳で聞かず、意で思わず、口で語らずに、このことを会得できるならば、千里万里の隔たりもなく誤解や紛れを正しく見抜き、千句万句の言葉もすべて貫き通すであろう。このように会得できれば、古今を貫き通すことができるだろう。しかし、さらに「向上の一事」を知らねばならない。 あえて大衆に問う。どのようなことが向上の一事であるか。 万古の碧潭、空界の月。 再三、捞摝（すくい取る）して、始めて知るべし。 （師は床から下りた。）」

師云。諸佛不出世。那裏得這箇消息。祖師不西來。免見累及後代。正當恁麼時。天之自高地之自厚。日月星辰之昭昭。人物境界之浩浩。不曾移易一絲毫。何不向這裏薦取。若向這裏薦得去。管取是一員無事道人。及至諸佛出世。提持一大事因緣。祖師西來。傳持箇正法眼藏。令一切聞者見者。生希有心起難遭想。各各依佛依祖。歷階梯超地位證無為登聖果。若恁麼薦得。亦是一員無事道人。更有箇具大闡提不起信根。逢佛叱佛遇祖罵祖。乃至滅却佛滅却祖。令人不見佛不聞法。淨裸裸赤灑灑。全體只是箇真實人。若向箇裏薦得。亦是一員無事道人。有箇信得及把得住依佛行而不著佛。依祖證而不著祖。善建法幢能立宗旨。讚佛讚祖如錦上鋪華。乃至天上天下如金如玉。若向箇裏薦得。亦是一員無事道人。此四員無事道人中。要選一人為師。且道。選那一人為師。若道得。試出來道看。若道不得。山僧不免露箇消息去也。披簑側立千峯外。引水澆蔬五老前。下座。

> 師は言われた。「諸仏が世に現れなければ、どうしてこの消息を得ることができようか。祖師が西から来なければ、後の世代に煩わしい思いをさせずに済んだであろうに。まさにそのような時、天は自然と高く、地は自然と厚く、日月星辰は明らかに輝き、人物や境界は広大無辺である。少しも変化することはない。どうしてここで悟りを得ようとしないのか。もしここで悟りを得ることができれば、きっと一人の『無事道人』となるであろう。そして、諸仏が世に現れ、一大事因縁を説き示し、祖師が西から来て、正法眼蔵を伝え継ぎ、全ての聞く者、見る者に希有の心を起こさせ、遭い難い者と思わせ、それぞれ仏に依り、祖に依り、階段を経て、位を超越し、無為を証し、聖果に登らせる。もしこのように悟りを得るならば、これもまた一人の『無事道人』である。さらに、大いなる一闡提でありながら信根を起こさない者がいる。仏に逢えば仏を叱り、祖に遇えば祖を罵る。さらには仏を滅し、祖を滅し、人々に仏を見せず、法を聞かせない。清らかで赤裸々、全体がただの真人である。もしこの中で悟りを得るならば、これもまた一人の『無事道人』である。また、信じ抜き、捉えどころを保ち、仏に従って行いながら仏に執着せず、祖に依って証しながら祖に執着しない者がいる。よく法幢を建て、宗旨を立てることができ、仏を讚え祖を讚えることは錦に花を敷くようなものである。そして天上天下に金の如く玉の如く輝く。もしこの中で悟りを得るならば、これもまた一人の『無事道人』である。この四人の『無事道人』の中から、一人を選んで師とすべきである。さあ、どの一人を師として選ぶのか。もし言えるなら、試しに出てきて言ってみよ。もし言えなければ、山僧がどうしても消息を漏らさざるを得ない。蓑をまとい千峰の外に立ち、水を引いて五老の前に野菜を灌ぐ。』そう言って、座を下りた。

師云。離言離相總無許多。不妨靜悄悄。只恐墮在死水裏去。示相顯言如錦上鋪華。不妨鬧浩浩。只恐入荊棘林去。於此二途。猶是時人昇降處。不落時人昇降。不住此二途。且如何顯示。還知箇裏麼。有通天路有絕聖機。向猛虎口裏橫身。毒蛇頭上揩痒。是尋常茶飯。所以道。威音王已前無師自悟則得。何故許他有超師之作。威音王已後須是因師打發。何故恐落天魔外道去。所以道。有時一句可與祖佛為師。有時一句堪與人天為師。透得過信得及見得徹把得住。方始契得古人。豈不見道見過於師方堪傳授。見與師齊減師半德。只如今釋迦老子。豈不是師。達磨大師豈不是師。還有見過釋迦老子達磨大師底麼。試出來露箇消息看。也要見從上來種草。有麼有麼。如無若不藍田射石虎。幾乎誤殺李將軍。

> 師は言われた。「言葉を離れ、形相を離れれば、そもそもそのような多くのことはない。静かで落ち着いているのは構わない。ただ、死んだ水の中に落ち込んでしまうのを心配する。形相を示し、言葉を顕せば、錦の上に花を敷くようなものだ。賑やかで騒がしいのも構わない。ただ、荊の林の中に入り込んでしまうのを心配する。この二つの道において、これらはまだ当時の人々が昇り降りする場所である。当時の人々の昇り降りに落ちず、この二つの道に留まらない。さて、どのように示し顕すべきか。あなたがたはこの中を悟っているだろうか。天に通じる道があり、聖を絶する機がある。猛虎の口の中で身を横たえ、毒蛇の頭の上で痒みを掻く。これは普通の茶飯事である。だから言うのだ。威音王より以前は、師なしで自ら悟ることは許される。なぜか。彼には師を超える働きがあることを許すからだ。威音王より以後は、必ず師によって悟りを開かせてもらう必要がある。なぜか。天魔や外道に落ちてしまうのを恐れるからだ。だから言うのだ。時には一句が祖や仏の師となることができ、時には一句が人や天の師となるに足る。これを透り抜け、信じきり、見極め、掴み取って初めて、古人に契い合うことができる。『見ることが師を超えて初めて伝授に値する。見ることが師と同じならば、師の半ばの徳を減じる』と言われたのを見なかったのか。今のこの釈迦老子は、師ではないか。達磨大師は、師ではないか。まだ釈迦老子や達磨大師を見ることを超えた者がいるか。試しに出てきて、その消息を少し示してみよ。また、昔からの種草を見極めたいのだ。いるか、いるか。もしおらねば、藍田で石虎を射ることをしなければ、ほとんど李将軍を誤って殺すところであった。」

師云。有句無句如藤倚樹。鉤頭香餌最誵訛。至道無難唯嫌揀擇。時人窠窟無摸索。若是具頂門上眼底衲僧。三千里外別端倪。有作家鑪鞴底宗師。未跨船舷已分付。所以道。箇裏是八十翁翁入場屋。不是小兒戲。箇箇須是具金剛正眼漢始得。明眼漢沒窠臼。只露目前些子。咬去咬住。有時一向不去。有時一向不住。若論戰也箇箇力在轉處。更說什麼佛。說什麼祖。說什麼心說什麼性。說什麼玄說什麼妙。說什麼有說什麼無。一筆句下只有一劍。劍下有分身之意。亦有出身之路。然於中若有箇脫情解。去藥忌識機宜別休咎底。試出來對眾道看。也要大家知有。然雖恁麼。也須實到這箇田地始得。敢問諸人。是時人窠窟。是鉤頭香餌。還委悉麼。目前已脫常流見。格外須知作者名。

> 師は言った。「句あり句なし、藤の樹に倚るが如し。鈎の頭の香餌、最も誵訛なり。至道は難きこと無し、唯だ揀択を嫌う。時の人の窠窟は摸索すべからず。若し頂門の眼を具えた衲僧ならば、三千里の外に別に端倪あり。作家の炉鞴ある宗師ならば、船の舷を跨がずして已に分付す。故に道う、箇裏は八十翁の場屋に入るが如し、小児の戯れに非ず。箇箇須く金剛の正眼を具えた漢たるべし。明眼の漢は窠臼なし。只だ目前の些子を露わすのみ。咬去咬住、有時一向に去らず、有時一向に住せず。若し戦を論ずれば、箇箇の力は転処に在り。更に何をか仏と説き、何をか祖と説き、何をか心と説き、何をか性と説く。何をか玄と説き、何をか妙と説く。何をか有と説き、何をか無と説く。一筆句下には只だ一剣あり。剣下に分身の意あり、亦た出身の路あり。然れども中に若し情解を脱し、薬忌を去り、機宜を識り、休咎を別つ者あらば、試みに出で来たって衆に向かって道え。大家にも知有らしめんと要す。然りと雖も恁麼なるも、須く実にこの田地に到るべし。敢えて諸人に問う。是れ時人の窠窟か、鈎頭の香餌か、還た委悉せるや。目前已に常流の見を脱す、格外に須く作者の名を知るべし。」

師云。只恁麼坐斷天下人舌頭。不恁麼穿却本色衲僧鼻孔。恁麼中不恁麼要辨龍蛇。不恁麼中却恁麼要擒虎兕。離却四句外更有什麼事。也許具一隻眼。何故。雙收雙放雙暗雙明。同死同生同得同失。也未為分外。雖然如是。猶是建立邊事。若據衲僧家自受用中。要且不然。只如衲僧家自受用處。還有人明得麼。若明不得。佛法無靈驗。若明得。平欺一切人去。今夜不妨向荒草裏合水和泥。和泥合水與諸人商量。豈不見南泉道。祖佛不知有。狸奴白牯却知有。又道爾當哆哆和和。何不自家究取。直待多知多解。却來與老和尚作頭抵。又道喚作如如早是變了也。今時人直得向異類中行。又道學道者如癡似兀難得。趙州道。我見千百億箇漢子。盡是覓作佛底人。中間求箇無心道人不可得。雲門大師道。和尚子莫妄想。山是山水是水。僧是僧俗是俗。見拄杖子但喚作拄杖子。見燈籠但喚作燈籠。此謂之覿體全真。只如恁麼處。還容人作得失解會麼。灼然論實不論虛。直得如狸奴白牯相似。直得如枯木朽株絕氣息。憨憨癡癡瞢瞢𥋾𥋾。千佛出世他也不知。目覩瞿曇如黃葉相似。方始是生鐵鑄就。千人萬人羅籠他不住。只如獨脫一句作麼生道。莫謂無心云是道。無心猶隔一重關。

> 師は言った：「ただそのまま坐っていれば、天下の人々の舌を封じてしまう。そうでなければ、本色の衲僧（修行者）の鼻をつまむことになる。そのままの中にそうでないものがあり、龍と蛇を見分けなければならない。そうでない中にそのままがあり、虎と犀を捕らえなければならない。四つの句を離れたなら、他にどんなことがあるだろうか。それでも一つの眼を持つことは許される。なぜか。双収双放、双暗双明、同死同生、同得同失、これもまた分を超えたことではない。たとえそうであっても、これはまだ立てられた境界の話である。衲僧家の自受用の境位から言えば、そうではない。ただ、衲僧家の自受用のところを、誰かが明らかに理解できるだろうか。もし理解できなければ、仏法に霊験はない。もし理解できれば、すべての人を凌駕していくことができる。今夜はあえて荒れ果てた草むらの中で、水と泥を混ぜ合わせ、泥と水を混ぜ合わせて、皆と共に商量しよう。南泉が言ったのを聞かないか。『祖師や仏も＜有＞を知らないが、狸奴や白牯（動物たち）は＜有＞を知っている』と。また言った、『お前たちは赤ん坊のように無心でいるがよい。どうして自分の内を究め取らないのか。多くを知り多くを解することを待って、老和尚と対抗しに来るとは』と。また言った、『【如如】と呼ぶならば、すでに変わってしまっている。今の人々は異類の中を行くべきだ』と。また言った、『道を学ぶ者は、痴者のように愚か者のように、ぼんやりとしていることが難しいのだ』と。趙州は言った、『私は何千億もの男たちを見てきたが、みな仏を求める者ばかりだ。その中で、無心の道人を求める者は一人もいない』と。雲門大師は言った、『和尚の子たちよ、妄想するな。山は山、水は水、僧は僧、俗は俗。杖があればそれを杖と呼び、灯籠があればそれを灯籠と呼べ。これを覿体全真という』と。ただ、このようなところで、なお人に得失の解釈を許すだろうか。まったくもって、虚を論ぜず実を論じるのだ。まさに狸奴や白牯のようになり、枯れ木や朽ちた株のように、まったく息を絶つ。ぼんやりと愚かで、もうろうとしてはっきりしない。千仏が現れても彼は知らない。瞿曇（釈迦）が目の前に現れても黄葉の葉のようなものと見る。そうして初めて、生の鉄で鋳造されたようになる。千人万人が取り囲んでも、彼を捕まえることはできない。ただ、独りで脱する一句を、どのように言うのか。『無心が道であると言うな。無心であっても、なお一重の関門を隔てているのだ』」

檀越請小參。師云。盡大地是箇解脫門。頭頭物物皆證入無邊剎海如來藏。綿綿密密悉包容。舉處峭巍巍。用時淨裸裸。譬如猛火聚近之則燎却面門。又如大阿劍擬之則神驚膽戰。若是知有恁麼。徹骨徹髓承當。不勞鵮啄。其或尚留觀。聽猶滯皮膚。須是透出金剛圈。吞却栗棘蓬。若透得一圈。則百千億圈一時透過。若吞得一蓬。則無數億蓬一時吞得。可以作奇特因。可以現殊勝相。無罪可懺而罪垢消除。無冤可解而冤家解釋。顯現一切難思議。作為無邊殊勝業。只消箇一道清虛。更不用周由者也。正當恁麼時。當機一句作麼生道。聲前突出金剛眼。彈指圓成八萬門。頌云。懺罪滌垢解冤釋結。似日鎔霜如湯沃雪。雲散長空一輪皎潔。感應道交綿。綿瓜瓞。

> 檀越の方々が小参をお求めになりました。師が言われました。「大地全体が一つの解脱の門である。あらゆるもの、あらゆる事柄が、限りない仏の世界、如来の蔵に悟り入っている。密やかに、そして完全に、すべてを包み込んでいる。示せば高くそびえ立ち、用いれば清らかではだかのままである。たとえば猛火の塊のようなもので、近づけば顔を焼き焦がす。また、大いなる宝剣のようなもので、構えれば心も魂も驚き震える。もしこのようなことを知っているならば、骨の髄まで徹して受け止めよ。わざわざ手間をかける必要はない。もしまだ観察や聴覚に留まり、皮膚の表面に留まっているならば、金剛の輪を突き抜け、栗の棘のある蓬を飲み込まねばならない。もし一つの輪を突き抜けたならば、百千億の輪も同時に突き抜ける。もし一つの蓬を飲み込んだならば、無数の蓬も同時に飲み込むことができる。それによって、奇 special な因を成し、殊勝な相を現すことができる。懺悔すべき罪はないのに、罪の垢は消え去り、解くべき冤罪はないのに、怨みの相手は解け合う。思いもよらないすべてを顕現し、限りない優れた業をなし遂げる。ただ一つの清らかで虚ろな道があればよいのであって、さらにあれこれと煩わせる必要はない。まさにそのような時、機に当たっての一句をどのように言うべきか。声が現れる前に、金剛の眼が突出する。指を弾けば、八万の門が円満に成就する。」 頌して言うには、 罪を懺めば垢は消え、冤を解けば結びは解ける。 太陽が霜を溶かすようであり、熱湯が雪を注ぐようである。 雲が散り晴れ渡った空には、一つの月が皓々と照る。 感応が道と交わり、連綿と続く、瓜の蔓が絶えず実を結ぶように。

鄧朝議請小參云。宏機獨唱千聖潛蹤。一句當陽十方坐斷。有亦不管無亦不拘。聖亦不收凡亦不立。明明無覆藏。明明無滲漏頂門眼照。山河大地全彰。肘後符開。萬象森羅頓現。有如是奇特相。有如是殊勝門。只求向上作家要接大乘根器。所以道。垂鉤四海只釣獰龍。格外玄機為尋知識。若是利根種智。具大解脫性。一聞一切聞。一了一切了。一見一切見。一證一切證。淨裸裸赤灑灑。只如今還有道得底麼。試出眾露箇消息看。若道未得山僧這裏八字打開去也。還委息得麼。利根上智須圓證。十聖三賢一念超。復頌云。無對毘耶彼上人。頂門有眼耀乾坤。只憑一箇無言說。遍界全開不二門。

> 鄧朝議が小参を請うた。師云く、「宏機独唱すれば、千聖も蹤を潜める。一句当陽にすれば、十方も坐断する。有も亦た管せず、無も亦た拘せず。聖も亦た収めず、凡も亦た立てず。明々として覆蔵なく、明々として滲漏なし。頂門の眼、照らすとき、山河大地ことごとく顕わる。肘後の符、開くとき、万象森羅たちまち現ず。かくの如き奇特の相あり、かくの如き殊勝の門あり。ただ向上の作家を求め、大乗の根器を接せんとす。故に道う、鉤を垂れて四海に、ただ獰龍を釣ると。格外の玄機は、知識を尋ぬるがためにあり。もし利根の種智、大解脱の性を具せば、一聞一切聞、一了一切了、一见一切見、一証一切証なり。浄裸裸、赤洒洒として、ただ今また道得る者あるや。試みに衆中に出でて一箇の消息を露わしてみよ。もし道得ずんば、山僧ここに八字開いて去らん。委息し得るや。利根の上智は円証を須い、十聖三賢も一念に超ゆ。」復た頌して云く、「対無き毘耶の彼の上人、頂門に眼有って乾坤を耀かす。ただ憑る一箇の無言説、遍界全く開く不二の門。」

滁州太平寺知山請小參云。祖佛提掇不起處。正好作工夫。魔外潛覷不見處。猶宜猛著力。直得通身是眼。也照他未了。直得通身是口。也說他不著。深深處有回互。密密處有誵訛。到這裏德山有棒。不論佛來祖來。一例行遣。臨濟有喝。不論佛來祖來。一例施呈。若向棒下見。未免瞞肝。若向喝下薦。更是漏逗。須知向上人有換骨換髓透色透聲透聖透凡透開透見底肘後符子。所以道。爾若坐我則立。爾若立我則坐。若也同坐同立。二俱瞎漢。到這裏還說心說性得麼。說玄說妙得麼。說理說事得麼。說得說失得麼。若有恁麼。盡是依草附木精靈。且獨脫一句作麼生道。須彌頂上翻身處。百尺竿頭撒手時。復頌云。昔歲依投蒙重顧。今春還沐渡江來同。風更話同風事。千手通身正眼開。

> 滁州太平寺の知山禅師、小参のための請いに応じて示す。 祖師や仏陀の提起し尽くせないところこそ、まさに功夫を積むべき場所である。魔や外道がこっそり覗いても見えないところこそ、なおさら力を込めて励むべきである。全身を目にしても、まだ彼を見尽くすことはできない。全身を口にしても、まだ彼を語り尽くすことはできない。深い奥には照応し合う働きがあり、微細なところには錯綜や誤解が潜んでいる。 この境地に至れば、徳山には棒があり、仏が来ようと祖師が来ようと、一律に打ち下ろす。臨済には喝があり、仏が来ようと祖師が来ようと、一律に喝破する。もし棒の下で悟ろうとすれば、結局は欺かれるだけである。もし喝の下で悟ろうとすれば、ますます見当違いになる。 知るべきである、向上の人は骨を換え、髄を換え、色を透かし、声を透かし、聖を透かし、凡を透かし、開けることと見ることのすべてを透かす、肘の後ろの符牒の道具を持っていると。だからこう言うのだ。お前が座れば我は立ち、お前が立てば我は座ると。もし同様に座り、同様に立つならば、その両者はともに盲人である。 この境地に至って、なお心や性について語ることができようか。玄や妙について語ることができようか。理や事について語ることができようか。得や失について語ることができようか。もしそのように語るならば、すべては草木に依存する精霊のようなものである。 さて、独り脱却した一句をどのように道うのか。 須弥山の頂上で身を翻すところ、 百尺の竿頭で手を放つ時である。 また頌して言う。 昔年、依投し蒙りし重顧、 今春また沐す、江を渡りて来たること。 同じ風、さらに同じ風の事を語ろう。 千手通身、正眼開く。

文倫二上人。薦安華嚴請小參。僧問。如何是理法界。師云。不動一絲毫。進云。如何是事法界。師云。縱橫十字。進云。如何是理事無礙法界。師云。銅頭鐵額鐵額銅頭。進云。如何是事事無礙法界。師云。重重無有盡。處處現真身。師乃云。言發非聲。高高峯頂立。色前不物。深深海底行。全機轉處沒承當。覿面呈時絕回互。離心意識非見聞覺知。須明徹法慧目離念明智。然後一塵纔舉大地全收。一毛頭師子百億毛頭一時現。直得一為無量無量為一。小中現大大中現小。寬同法界細入隣虛。無處不周無處不備。毘盧遮那大法性海中。不論聖不論凡。不論有情不論無情。一一把斷不漏絲毫。處處常光現前。一一壁立千仞。若說理法界事法界事理無礙法界事事無礙法界。正是沒交涉。直饒棒頭取證喝下承當。向空劫那畔識破根塵。威音已前洞然明白。尚未免在窠窟裏。只如出窠窟一句作麼生道。千峯勢到嶽邊止。萬派聲歸海上消。

> 文倫二上人が華厳を推薦して小参を請うた。僧が問う、「如何なるか是れ理法界」。師云く、「一絲毫も動かず」。進みて云う、「如何なるか是れ事法界」。師云く、「縦横十字」。進みて云う、「如何なるか是れ理事無礙法界」。師云く、「銅頭鉄額、鉄額銅頭」。進みて云う、「如何なるか是れ事事無礙法界」。師云く、「重重として尽きること無く、処処に真身を現ず」。師乃ち云く、「言発するは声に非ず、高高的峯頂に立つ。色前に物ならず、深深の海底に行く。全機転ずる処に承当無し。覿面に呈する時、回互を絶す。心意識を離れ、見聞覚知に非ず。須らく明徹の法慧、念を離れたる明智を徹すべし。然る後に一塵纔かに挙がれば大地全收し、一毛頭の師子、百億毛頭一時に現ず。直に一は無量となり、無量は一となる。小中に大を現じ、大中に小を現ず。寬は法界に同じく、細は隣虚に入る。周らざる所無く、備わらざる所無し。毘盧遮那の大法性海の中に、聖と論ぜず凡と論ぜず、有情と論ぜず無情と論ぜず。一々に把断して絲毫も漏らさず。処処に常光現前し、一々に壁立千仞なり。若し理法界事法界事理無礙法界事事無礙法界と説かば、正に没交涉なり。直に棒頭にて取証し、喝下に承当すと虽も、空劫の那畔に向かいて根塵を識破し、威音已前に洞然として明白なりとも、未だ窠窟の中を免れず。只だ窠窟を出づる一句、作麼生か道う。千峯の勢は嶽の辺に到りて止まり、万派の声は海上に帰して消す。

結夏小參。僧問馬師。離四句絕百非。請和尚答祖師西來意。馬祖云。我今日勞倦。不能為子說得。問取西堂去。此意如何師云。三頭兩面。進云。僧問西堂。西堂云。我今日頭痛。問取海兄去。又作麼生。師云。同坑無異土。進云。僧問海兄。海云。我到這裏却不會。又作麼生。師云。黑漆桶夜裏生光。進云。只如僧舉似馬祖。祖云。藏頭白海頭黑。又作麼生。師云。不許外人知。師乃云。一粒粟中藏世界。恒沙剎海始安居。萬緣不到千差超。超證無生等太虛。至實處不容聲。至深處無回互。明明蓋天蓋地。歷歷亘古亘今。坐斷千差壁立萬仞。千聖提撕不到。是衲子放下複子處。千人萬人羅籠不住。是無為無事人抝折拄杖時。雖然浩浩應機。要且如如不動。有時魔宮虎穴轉大法輪。有時荊棘林中建立梵剎。有時向十字街頭壁立千仞。有時向孤峯頂上合水和泥。有照有用有權有實。所以道。以大圓覺為我伽藍。身心安居平等性智。則於千人萬人羅籠不住處。始能安居。於千聖萬聖提撕不到處。始放複子。敢問。安居一句作麼生道。還委悉麼。但令身語常清淨。夏滿何須驗蠟人。

> 夏の安居の小参で、ある僧が馬祖に問うた。「四句を離れ、百非を絶した、というならば、和尚に祖師西来意を請う。」馬祖は言う。「今日は疲れて、お前に話してやることはできない。西堂に聞きに行け。」この意味はどうか。師は言う。「三頭両面だ。」僧はさらに問う。「僧が西堂に問うと、西堂は言う。『今日は頭が痛い。海兄に聞きに行け。』またどうか。」師は言う。「同じ穴に、異なる土はない。」僧はさらに問う。「僧が海兄に問うと、海は言う。『私はここまで来て、まだ分からない。』またどうか。」師は言う。「黒い漆桶が、夜中に光を放つ。」僧はさらに問う。「ただ、僧がこれを馬祖に示すと、祖は言う。『蔵頭は白く、海頭は黒い。』またどうか。」師は言う。「外の人に知らせてはならない。」 師はその上で言う。「一粒の粟の中に世界を蔵し、恒沙の刹海がここに安居する。万縁の到らざるところ、千差を超え、超えて無生を証し、太虚に等しい。至実のところは音声を許さず、至深いところは回互がない。明らかに天を蓋い地を蓋い、歴々と古を貫き今を貫く。千差を断ち切り、壁立千仞。千聖の提撕も到らない。これが衲子が複子を放下するところである。千人万人が羅籠しても留められない。これが無為無事の人が柱杖を拗折する時である。たとい浩浩として機に応ずるも、要するに如如として動じない。ある時は魔宮虎穴で大法輪を転じ、ある時は荊棘林の中で梵刹を建立する。ある時は十字街頭で壁立千仞、ある時は孤峯頂上で合水和泥する。照あり用あり、権あり実あり。ゆえに言う、大円覚をもって我が伽藍とし、身心安居して平等性智とする、と。これにおいて千人万人の羅籠の留められぬところに、初めて安居できる。千聖万聖の提撕の到らぬところに、初めて複子を放下する。あえて問う、安居の一句、どうか道うべきか。委悉するか。ただ身と語を常に清浄に保てば、夏満ちて、何ぞ蠟人を験するを要せん。」

曾先生請小參云。全機不動。會群像於目前覿面相呈。截千差於格外。動則影現覺即氷生。不動不覺直下揑目。箇中有一條路。蓋天蓋地蓋色蓋聲。密密綿綿平平穩穩。若是箇曹溪門下客。直到解脫處。更不落二落三。未舉覺已前。早是落二落三了也。何況舉覺言詮總納敗闕。所以道。西天二十八祖亦如是。唐土六祖亦如是。天下老和尚亦如是。山僧亦如是。到這裏不著眼試觀看。不著耳試聽看。若向箇裏一時截得斷把得定作得主。與千聖把手。同一正因同一解脫。然雖如是。正當恁麼時。不立階梯一句作麼生道。還委悉麼。聲前截斷千差路。出格唯憑作者知。復頌云。一著當機截眾流。選官選佛兩俱優。相逢相見呵呵笑。天上人間得自由。

> 曽先生が小参の説法をされた。「全機は動かず、群像を目前に会す。覿面相呈して、千差を格外に截す。動かざれば影は現れ、覚らざれば氷は生ず。動かず覚らざれば、直下に目を捏る。その中に一条の路あり。天を蓋い地を蓋い、色を蓋い声を蓋う。密密綿綿として、平平穏穏たり。もしこれ曹溪門下の客ならば、解脱の処に到るまで、さらに二にも三にも落ちず。覚りを挙げざる以前に、早くも二に落ち三に落ちている。ましてや覚りを挙げ言葉で説くならば、すべて敗闕を納める。だから言う、西天の二十八祖もまたかくの如し。唐土の六祖もまたかくの如し。天下の老和尚もまたかくの如し。山僧もまたかくの如し。ここに到って、眼を用いずに試みに観よ。耳を用いずに試みに聴け。もしその中で一時に截断し得て、把定し得て、作主し得るならば、千聖と手を携え、同じ一つの正因、同じ一つの解脱を同じくする。然りとはいえ、まさに恁麼の時、階梯を立てず一句をどうか道う。まさに委悉すべきか。声の前に截断す千差の路、出格は唯だ作者の知るに憑る。また頌して云う、一著当機して衆流を截す。官を選ぶも仏を選ぶも両つながら優れり。相い逢い相い見て呵呵と笑う。天上人間に自由を得たり。

祖上人請小參。師云。生身父母居堂上。從本爺娘在頂門。一念頓消諸祖意。堪任補報最深恩。一漚未發已前。滔滔流水。一塵未舉之際。茫茫剎塵。若是具透關眼有過量見。即知千聖萬聖羅籠不住。若也一漚已發一塵已舉。待著眼用意。盡未來際窮虛空劫。畢竟摸索不著。所以道。盡大地是般若光。光未發時無佛無眾生消息。從什麼處得來。正當恁麼時。無佛無眾生。無高無下。無得無失。無彼無我處。還薦得麼。若薦不得。不免打葛藤去也。道是無得麼。且喜沒交涉。道是有得麼。轉見沒交涉。道是不有不無得麼。轉更沒交涉。道是離四句絕百非。直是沒交涉。須知道一條路一種機。三世諸佛依此成立。一大藏教依此詮註。乃至世間虛空凡聖山河大地無邊香水海不可說不可說。全從他流出。只今若知一漚未發已前恩德。則自己脚跟下。如千日並照。如暗得燈如貧得寶。如渡得船如民得王。於一切時無一念落虛。無參雜時。全體恁麼來。全體恁麼去。只如空劫已前那畔一段事作麼生。還委悉麼。照開千聖頂門眼。放出威音物外春。復頌云。父母恩深重。過於蓋與載。若欲圖補報。碎身莫能賽。唯有般若力。一句截情愛。凱風吹棘心。二百四十歲。

> 祖師が小参を求められた時、師は言った。「生身の父母は堂の上に座し、本来の父母は頭頂にある。一念が瞬時に消えれば、歴代祖師の意は尽きる。それに堪えて、最も深き恩に報いることができる。一つの泡がまだ生じない前に、滔滔と水は流れる。一つの塵がまだ立ち上がらない前に、茫々として世界は広がる。もしこの関門を見透かす眼を持ち、度量を超えた見識を持つならば、千聖も万聖も、縛めつけることはできないと知るだろう。もし一つの泡がすでに生じ、一つの塵がすでに立ち上がったならば、目を向け心を尽くしても、未来際を尽くし虚空中の劫を窮めても、結局つかみ取ることはできない。ゆえに言う、尽きることのない大地は般若の光である、と。光がまだ生じない時、仏も衆生も消息はない。どこから得るのか。まさにそのような時、仏も衆生もなく、高きも低きもなく、得ることも失うこともなく、彼も我もない処、それを理解できるだろうか。もし理解できなければ、蔓を引きずるような余計な話をせざるを得ない。『無い』と言うならば、それは全く見当違いである。『有る』と言うならば、ますます見当違いになる。『有るのでもなく無いのでもない』と言うならば、さらに見当違いになる。『四句を離れ百非を絶する』と言うならば、それも全く見当違いである。知るべきである、一つの道、一つの機が存在し、三世の諸仏はこれによって成り立ち、一大蔵教はこれによって解釈される。さらに世間の虚空、凡聖、山河大地、果てしない香水海、説くことのできないほどの一切が、すべてこれから流れ出る。今、もし一つの泡がまだ生じない以前の恩徳を知るならば、自分の足元は、千の太陽が同時に照らすかのようであり、闇の中で灯りを得、貧しさの中で宝を得、川を渡るのに船を得、民が王を得るようなものである。すべての時において、一つの念も虚ろに落ちることがなく、雑ざりが無い時、全体がこのように来て、全体がこのように去る。ただ、空劫より以前のあの一事はどうであろうか。あなたはそれを知っているか。千聖の頂門の眼を開き、威音の、物の外の春を放つ。さらに頌していう。父母の恩は深く重く、天を覆い地を載せるとも勝る。もし報いようと欲するならば、身を砕けども敵うことはできない。ただ般若の力のみ、一語をもって情愛を断つ。凱風が棘の心を吹く、二百四十歳。

修道者請小參。天地與我同根。其根深固。萬物與我一體。其體虛凝。萬物之根亘古亘今。堅固之體包含萬有。毫茫得意。可以點鐵成金。可以轉凡作聖。如理如事即處即真。一念不生前後際斷。所以道。不思議解脫力。妙用恒沙也無極。若論妙用去。可以擊碎業山。可以點竭苦海。可以懺不懺之罪。可以解不解之冤。可以起必死之疾。可以證無生法忍。正當恁麼時。不立功勳一句作麼生道。還委悉麼。千年闇室一燈破。萬劫愆尤一句消。頌云。阿闍被疾投皇覺。調御垂慈放月光。法藥之功同佛力。自然身病得清涼。

> 修行者が老師のもとに参じて問うた。「天地は我と同根である。その根は深く堅固である。万物は我と一体である。その体は虚にして凝っている。万物の根は永遠の昔から永遠の未来まで続き、堅固なる体はすべてのものを包含している。ほんのわずかでもこの道理を会得すれば、鉄を黄金に変え、凡夫を聖者に転ずることができる。理としても事としても、その場その場が真実である。一念も生じなければ、前後が断たれる。それゆえにこう言うのだ。『不可思議な解脱の力、その妙用は恒沙のごとく、限りがない』と。もし妙用の働きについて語るならば、業の山を打ち砕き、苦の海を干上がらせ、悔い改められぬ罪も懺悔し、解けぬ怨恨も解き、必ず死ぬはずの病をも起こし、無生法忍を証得することができる。まさにこのような時、功績を立てるという一句をもって、どのように道うべきか。君たち、よくわかるか。千年の暗室も一灯をもって破れ、万劫の罪過も一句をもって消える。頌して云く、「阿闍、病を被りて皇覚に投ず。調御、慈を垂れて月光を放つ。法薬の功、仏力と同じ。自然に身病、清涼を得たり。」

小參。師云。一向說事說理論妙論玄談心談性。墮在葛藤窠裏。一向行棒行喝立照立用存捲存舒。落在荊棘林中。更或舉古舉今話偏話正立主立賓。也是撒沙撒土。忽若見山即山。見水即水。僧是僧俗是俗。落在無事界內。記使總不恁麼。大似曳尾靈龜。直饒獨體單明。亦是狐狸戀窟。若有箇出身處去。似地擎山。不知山之孤峻。如石含玉。不知玉之無瑕。譬如猛火聚近之則燎却面門。又如按太阿劍擬之則喪身失命。便可以不須說事不須說理。不行棒不行喝。不立主不立賓。見山不是山。見水不是水。全體恁麼來。全體恁麼去。總無許多露布葛藤聲色邊事。且超然獨脫一句作麼生道。還委悉麼。萬丈縣崖須撒手。大千沙界始全身。

> 小参の時、師が言われた。「ひたすら事を説き理を説き、妙を論じ玄を談じ、心を談じ性を談じるのは、葛藤の巣穴に堕ちている。ひたすら棒を行じ喝を行じ、照を立て用を立て、巻を存し舒を存するのは、荊棘の林の中に落ちている。さらに古を挙げ今を挙げ、偏を話し正を話し、主を立て賓を立てるのも、砂を撒き土を撒くようなものだ。もし忽然と山を見てそのまま山とし、水を見てそのまま水とし、僧は僧、俗は俗とするならば、無事の世界に落ちている。仮にすべてそのようにしないとしても、尾を曳く霊亀のようなものだ。たとえ独体単明であっても、これも狐が穴を恋しがるようなものだ。もし身を出す処があって去るならば、大地が山を擎ぐように、山の孤峻なるを知らず、石が玉を含むように、玉の瑕なしを知らない。譬えば猛火の聚まりに近づけば、面門を燎き却く。また太阿の剣を按ずるに擬せば、身を喪い命を失う。 これならば、事を説かず理を説かず、棒を行ぜず喝を行ぜず、主を立てず賓を立てず、山を見て山にあらず、水を見て水にあらず、全体がこのように来たり、全体がこのように去く。すべてこれらの露布・葛藤・声色の辺事はない。それで、超然として独脱する一句、どうやって道うのか。まだ委悉しているか。万丈の県崖には手を撒かねばならぬ。大千の沙界にして初めて全身ならん。」

張戶曹請小參。師云。直下便是不通擬議尋思。還有作家禪客麼。試出眾證據看。僧問。如何是臨濟下事。師云。一刃兩段。進云。如何是雲門下事。師云。三句縱橫進云。如何是曹洞下事。師云。五位君臣沒分付。進云。如何是溈仰下事。師云。進前退後絕商量。進云。那一句如何。師云。何不問法眼下事。僧禮拜。師乃云。靈山提密旨。獨有迦葉親聞。少林演妙訣。唯許神光擔荷。只為機機相副箭箭相投。用處聲色純真。舉時乾坤獨露。密密意絕誵訛。深深機沒回互。若是箇本色自由自在承當擔荷得底。更不落聲前句後。亦不用擬議尋思。直下當陽分明領取。所以道。若論此事。眨上眉毛早已蹉過。既已蹉過。何用鼓兩片皮口吧吧地。豈不是當堂蹉過。既若蹉過。還知未蹉過事麼。若知未蹉過事。雖終日說而不曾動著舌頭。終日行而不曾移著一步。終日喫飯不曾嚼一粒米。終日著衣不曾掛一縷絲。雖然如是。此猶是建化門庭向下為人處。豈不見。德山和尚但有問答語言。向上向下盡是依草附木竹木精靈。所以山僧從頭棒將去。待有箇獨脫底與他商量。後來浮山圓鑑道。只這獨脫底也是草木之精。且道。還有為人處也無。山僧不惜眉毛。入泥入水為諸人平展。還委悉麼。但能萬法不干懷。一超直入如來地。

> 張戶曹が小参を請うた。師は云く、「直下に便是れ、擬議尋思を通ぜず。還た作家禅客有りや。試に衆を出でて證據せよ。」僧問う、「如何なるか是れ臨済下の事。」師云く、「一刃両段。」進みて云く、「如何なるか是れ雲門下の事。」師云く、「三句縱横。」進みて云く、「如何なるか是れ曹洞下の事。」師云く、「五位君臣分付無し。」進みて云く、「如何なるか是れ潙仰下の事。」師云く、「進前退後商量を絶す。」進みて云く、「那一句如何。」師云く、「何ぞ法眼下の事を問わざる。」僧禮拜す。師乃ち云く、「霊山は密旨を提げしに、独り迦葉のみ親聞せり。少林は妙訣を演ぶるに、唯だ神光のみ擔荷を許さる。只だ機機相副ひ箭箭相投ずるが故に、用處は聲色純真、舉時は乾坤独露なり。密密の意は誵訛を絶し、深深の機は回互無し。若し是れ箇の本色自由自在承當擔荷し得る底ならば、更に聲前句後に落ちず。亦た擬議尋思を用いず。直下當陽分明に領取せよ。故に道く、若し此事を論ずれば、眉毛を眨め上ぐるも早已に蹉過せり。既に蹉過せり。何を用いて兩片皮を鼓し口吧吧地たるや。豈に當堂蹉過に非ずや。既に蹉過せば、還た未だ蹉過せざる事を知るや。若し未だ蹉過せざる事を知らば、終日説くと雖も曾て舌頭を動かさず。終日行くと雖も曾て一步を移さず。終日飯を喫すと雖も曾て一粒の米を嚼まず。終日衣を著ると雖も曾て一縷の絲を掛けず。然りと雖も是くの如くなるも、此れ猶お是れ建化門庭の向下の人を爲する處なり。豈に德山和尚の、但だ問答語言有れば、向上向下盡く是れ依草附木の竹木精靈なることを見ずや。故に山僧頭より棒し將つて去り、箇の獨脫なる者を待ちて與に商量せんとす。後に浮山圓鑑道く、只だ這の獨脫なるも亦是れ草木之精なり。且く道へ、還た人の爲にする處有りや無しや。山僧眉毛を惜しまず、泥に入り水に入りて諸人の爲に平展せん。還た委悉せりや。但だ能く萬法懷に干せざれば、一超直入如來地。

披剃小參。僧問。正令當行十方坐斷。宗風建立毫髮無差。時節因緣願聞舉唱。師云。只是舊時面目。進云。斬新處乞師再示。師云。換却適來底。進云。法輪再轉於閻浮。道光重映於千載。師云。誰不恁麼。進云。只如無邊身菩薩。為什麼不見如來頂相。師云。有時恁麼有時不恁麼。進云。如何是和尚頂相。師云錯。僧禮拜。師云。果然果然。師乃云。重圓僧相復方袍。優鉢羅華未易遭。恩重丘山何以報。輒提綱要一秋毫。盡十方世界若長若短若縱若橫。以至香水海不可說不可說無邊剎海。盡在箇一秋毫。有時現無邊身。東涌西沒南涌北沒中涌邊沒。作無量無邊神通變化。也只不出此一秋毫。有時冷啾啾地。如枯木朽株寒灰死火。一念萬年萬年一念。也只不出此一秋毫。乃至作為無量無邊殊勝奇特難行苦行。轉化一切成佛作祖。亦不出此一秋毫。諸人還知此一秋毫麼。若知去。未開口已前。未舉意已前。生佛未兆已前。空劫已前。好薦取。既薦得。則卷而懷之。任任運運如兀如癡。不妨是一箇決量大人。如或未然。却須返照回光。若動若靜若住若行若坐若臥。須是究他根源始得。父母未生已前。父母既生之後。六根四大三百六十骨節完具。寒時知寒熱時知熱。饑時知饑飽時知飽。以至頂天履地含齒戴髮。盡承此箇恩力。且道。此箇恩力如何趣向。還知麼。一氣不言含有象。萬靈何處謝無私。

> 披剃小参。僧が問う。「正令が当行すれば十方が坐断される。宗風が建立されれば毫髪の差もない。時節因縁について、どうか挙唱をお聞かせください。」 師、云く。「ただ旧時の面目のみ。」 さらに問う。「斬新な処を、どうか師に再びお示しください。」 師、云く。「先ほどのものを換えよ。」 さらに問う。「法輪が再び閻浮に転じ、道光が千載に重ねて映ずる。」 師、云く。「誰がかくの如くせんや。」 さらに問う。「ただ、無辺身菩薩がなぜ如来の頂相を見ないのですか。」 師、云く。「ある時はかくの如く、ある時はかくの如くならず。」 さらに問う。「和尚の頂相は如何。」 師、云く。「錯。」 僧、礼拝す。師、乃ち云く。「果然、果然。」 師、乃ち云く。「重ねて僧相を円かにし、方袍を復す。優曇華は未だ遭い易からず。恩重くして丘山の如し、何をもってか報ぜん。輒に綱要を提唱す、一秋毫のごとし。」 尽十方世界、長きも短きも、縦も横も、乃至香水海、不可説不可説の無辺刹海に至るまで、尽くこの一秋毫の中に在り。ある時は無辺身を現じ、東に涌き西に没し、南に涌き北に没し、中に涌き辺に没す。無量無辺の神通変化を作すも、只だこの一秋毫を出でず。ある時は冷啾啾として、枯木朽株、寒灰死火のごとし。一念万年、万年一念。只だこの一秋毫を出でず。乃至無量無辺の殊勝奇特、難行苦行を作為し、一切を転化して仏となり祖となるも、亦たこの一秋毫を出でず。 諸人、この一秋毫を知るや。若し知らば、未だ口を開かざる以前、未だ意を挙げざる以前、生仏未だ兆さざる以前、空劫以前に、好く薦取せよ。既に薦得せば、則ち巻いて懐に之を藏し、任運運々として兀坐すること愚のごとし。妨げず、これ一箇の決量大人たることを。 若し未だ然らざれば、却って須く返照回光すべし。動くも静なるも、住するも行くも、坐するも臥するも、須くその根源を究むるを得べし。父母未だ生ぜざる以前、父母既に生じたる以後、六根四大、三百六十骨節、完具す。寒き時は寒きことを知り、熱き時は熱きことを知る。飢うる時は飢うることを知り、飽くる時は飽くることを知る。乃至天を頂き地を履み、歯を含み髪を戴く。尽く此の恩力に承る。 且く道え。此の恩力、如何にして趣向す。還って知るや。 一気言わずして象を含み、万霊何処にか無私に謝せん。

蔣山辭眾云。終日相逢長背面。終朝背面却相逢。途中不是途中事。不動巍然達九重。這箇消息唯許作家明暗同途主賓互用。雖去似去而不去。雖來似來而不來。卓爾超然。動靜曾無兩種。所以道。動若行雲止若谷神。既無心於彼此。亦無象於去來。如是則去來不以象。而確然去來。動靜不以心。而超然動靜。在彼在此殊無間然。一道清虛廓周沙界。是以月上女出城。舍利弗入城。而舍利弗問云。聖姊向什麼處去。月上女云。如舍利弗恁麼去。舍利弗云。我方入城汝已出城。云何言如舍利弗恁麼去。女云。諸佛弟子當住何所。舍利弗云。諸佛弟子當住如來大解脫。女云。諸佛弟子既住大解脫。所以我云如舍利弗恁麼去。既得如來大解脫。去而無去去迹。入九重城裏毘贊聖化。住而無住住蹤。在深山白雲中。坐斷天下人舌頭。既住如來大解脫。安有動靜去來之意。正當恁麼時。作麼生道。九重城裏真消息。一句無私遍九垓。復云。憶得曹山和尚辭洞山。山云。向什麼處去。曹山云。向不變異處去。洞山云。不變異處豈有去耶。曹山云。去亦不變異。師云。大凡衲僧。佩肘臂下符。具頂門上眼。向一切萬境萬緣。當頭坐斷。豈不是箇無變異。何故。金剛正體湛寂凝然。曹山雖得此意。爭奈洞山憐兒不覺醜。若是山僧。待他道向不變異處去。只向他道。這漢未出門早變了也。

> 蒋山が大衆に告げて言った。「一日中顔を合わせていながら、いつも互いに背を向けている。一日中背を向けていながら、また顔を合わせる。道中は道中のことではない。動じることなく巍然として九重の宮殿に達する。この消息は、ただ卓越した者だけが知ることができる。明と暗が同じ道を歩み、主と客が互いに用いられる。去るように見えて実は去らず、来るように見えて実は来ない。ひときわ超然として、動と静に二つの種はない。だから言う、動くことは行雲の如く、止まることは谷神の如し。すでに彼此に心を用いず、去来に象ることもない。このようにすれば、去来は象によらずして確かに去来し、動静は心によらずして超然と動静する。彼に在っても此に在っても、少しの隔たりもない。一つの清らかな道が、虚しく周囲の世界を包む。ここにおいて、月上女は城を出で、舎利弗は城に入る。舎利弗が問うて言う、「聖女よ、どちらへ行かれるのか」と。月上女は言う、「舎利弗がこのように行くように」と。舎利弗は言う、「私はまさに城に入ろうとしているのに、あなたはすでに城を出られた。どうして『舎利弗がこのように行くように』と言われるのか」と。女は言う、「仏の弟子たちは、どこに住むべきでしょうか」と。舎利弗は言う、「仏の弟子たちは、如来の大解脱に住むべきです」と。女は言う、「仏の弟子がすでに大解脱に住むならば、それゆえに私は『舎利弗がこのように行くように』と言ったのです」と。すでに如来の大解脱を得ているならば、去っても去るという痕跡はなく、九重の城の中に入って聖なる教化を輔ける。住しても住むという跡はなく、深山の白雲の中にいて、天下の人の舌端を断つ。すでに如来の大解脱に住するならば、どうして動静去来の心があろうか。まさにこのような時、どう言うべきか。九重の城の中の真の消息、一句の私なき言葉は、遍く九垓に及ぶ。また言った。「憶うに、曹山和尚が洞山に辞した時、洞山が言った、『どちらへ行くのか』と。曹山は言った、『変わり異ならない場所へ行きます』と。洞山は言った、『変わり異ならない場所に、どうして去ることがあろうか』と。曹山は言った、『去っても変わり異なりません』と。師は言った、「およそ衲僧たる者は、肘の下の符を佩び、頂門の眼を具え、一切の万境万縁に対して、正面から坐断する。これはまさに無変異ではないか。なぜなら、金剛の正体は湛然として寂然と凝っているからだ。曹山はこの意を得たとはいえ、しかし洞山は子を可愛がるあまり自らの醜さに気づかなかった。もし山僧ならば、彼が『変わり異ならない場所へ行きます』と言うのを待って、ただ彼に言うだろう、『この男は、まだ門を出ないのに、すでに変わってしまった』と」。

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> 圓悟佛果禅師語録 巻第十