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title: "沙彌律儀要略增註 · 隨眾食第五"
description: "沙彌律儀要略增註由清代高僧弘贊律師註解。該書以明末蓮池大師輯錄的《沙彌律儀要略》為基礎進行深入註釋闡發。內容涵蓋沙彌應持的十戒二十四威儀等行持規範，並詳細解釋其制戒緣起與實踐細則。本書是漢傳佛教僧伽教育的重要律學典籍，系統總結了沙彌行為準則，為新出家者提供了權威的修行指南，在佛教戒律傳承中具有不可替代的地位，至今仍是寺院培養僧才的核心教材。"
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### △隨眾食第五

> 第五 大衆と共に食事すること

聞揵搥聲。即當整衣服。

> 合図の鐘の音が聞こえたら、すぐに衣を整えなさい。

凡木石銅鐵打而有聲者。名曰揵搥。聞聲不預整理。臨時則有倉卒之失。

> 木や石、銅や鉄を打って音を出すものを「けんつい」と呼びます。音を聞いても事前に準備を怠ると、いざという時に慌てふためくことになります。

臨食呪願。皆當恭敬。

> 食事の前に祈りを捧げます。皆、心を込めて敬いましょう。

食前念供。及唱僧跋。食後誦偈呪願。皆當起恭敬心。不得散意慢怠。自損己德。

> 食事の前には、供養の念を起こし、僧跋を唱えます。食事の後には偈を唱え、呪願をします。いずれも恭敬の心を起こし、気を散らしたり怠けたりしてはいけません。そうすれば、自らの徳を損なうことになります。

出生飯。不過七粒。󳫹不過一寸。饅頭不過指甲許。多則為貪。少則為慳。其餘蔬菜豆腐不出。

> 生飯は、七粒を超えず。 菜っ葉は、一寸を超えず。 饅頭は、爪先ほどの大きさを超えず。 多ければ貪りとなり、少なければ物惜しみとなる。 その他の野菜や豆腐は、これに準じる。

凡食。是米󳫹所成者。方可出之。若蔬菜果蓏。是嚼食。非五穀之噉食。不成食。故不出也。七粒者。言其極少。以呪願力故。能令諸鬼神遍皆飽足。多則為貪者。是一時之權言。恐無識之徒。狼藉在地。令檀越譏嫌。少則不成法數。反成褻慢。固非所宜。行護雖云七粒。而無慳貪之說。清規云。飯不過七粒。太少為慳。亦無貪辭。指甲許者。愛道經云。出生餅如指甲大是也。事鈔云。出生或在等供前後。隨情安置。按四分律。佛令比丘食時。若人非人。應施與食。乃至一摶。舊譬喻經。及雜事律。不得食盡。當留餘。普施羣生。勿拘一類。智度論。令初食時。先獻三寶。後施四生。涅槃經。因曠野鬼。受不殺戒。不得肉食幾死。佛敕隨有佛法處。悉施其食若有住處不施食者。是魔眷屬。非佛弟子。根本律。鬼子母從佛受戒已。佛令贍部州所有弟子。每於食次。施眾生食。於僧行末。設食一盤。呼其名字。及五百子。皆令飽食。并餘現在眾生。江山河海諸鬼神等。皆悉運心令其飽足。

> 施食について。これは米で作られたものだけを出すべきです。野菜や果物は噛む食べ物であって、五穀のような噛んで食べるものではないので、施食にはなりません。ですから出しません。 七粒というのは、ごくわずかな量を意味します。真言の願力によって、あらゆる鬼神を満腹にすることができるからです。多すぎると貪りとなりますが、これは一時的な方便の言葉です。無知な者が地面に散らかして檀家の非難を招くことを恐れたのです。少なすぎると法の数に合わず、かえって不敬になります。それは適切ではありません。 行護には七粒とありますが、貪りの説はありません。清規には「飯は七粒を超えず、少なすぎるのは貪りである」とありますが、貪りの言葉はありません。 爪の大きさというのは、愛道経にある「施食の餅は爪の大きさである」という記述に基づきます。事鈔には「施食は供物の前後に行い、状況に応じて配置する」とあります。 四分律によれば、仏は比丘が食事をするとき、人であれ人でなかれ、食べ物を施すべきだと説かれました。たとえ一握りでもです。旧譬喻経や雑事律には「食べ尽くしてはならず、余りを残してすべての生き物に施すべきだ」とあります。特定の種類に限定してはいけません。 智度論には「食事の初めにまず三宝に捧げ、その後で四生に施す」とあります。涅槃経には、曠野鬼が不殺戒を受けて肉を食べられず死にかけたとき、仏が「仏法のあるところではすべてに食べ物を施せ。もし住処で施食しない者がいれば、それは魔の眷属であって仏弟子ではない」と命じられたとあります。 根本律には、鬼子母が仏から戒を受け、仏が贍部州のすべての弟子に命じて、毎食ごとに衆生に食べ物を施すようにさせたとあります。僧の行列の最後に一皿の食べ物を設け、その名と五百の子の名を呼んで満腹にさせ、さらに現在のすべての衆生、山川河海の鬼神たちにも心を運んで満腹にさせたと記されています。

凡出生。安左掌中。想念偈云。汝等鬼神眾。我今施汝供。此食遍十方。一切鬼神共。

> 生まれてくるすべての命よ、安らかに私の左の掌に宿れ。 心に念じ、偈を唱えよう。 「汝ら鬼神の衆よ、今、私は汝らに供物を施す。 この食は十方に遍く行き渡り、一切の鬼神と共にあらん」

其食當安淨盤子上。如無盤子。方安掌中。右手撥著淨物上彈指三遍。念偈已。更念變食真言。普供真言。各七遍。大善。

> 食事は清らかなお皿の上に置くのが良いです。もしお皿がない場合は、手のひらに置いても構いません。右手で清らかな場所に移し、指を三回鳴らします。偈を唱えた後、変食真言と普供真言をそれぞれ七回唱えます。大変良いことです。

凡欲食。作五觀想。一計功多少。量彼來處。

> 食べる前に、五つの観想を心に留めなさい。 一に、この食べ物が自分に届くまでの労力を考え、その来し方を思い量りなさい。

計功多少者謂當觀此食。因墾植耘除。收穫蹂治。舂磨淘汰。炊煑而成。作夫流汗合集。食少汗多。功重辛苦如是。入口即成不淨。宿昔變為屎尿。惡不欲見。我若貪著。當墮地獄。吞熱鐵丸。出為畜生。償他宿債。如是觀已。心生厭離。方堪受食。量彼來處者。施主為求福故。減自口腹。割妻子分。而施將來。若無修行。粒米難消。故云粒米重如山。是也。

> 功の多少を計るとは、この食物を観察することである。耕し、草を刈り、収穫し、脱穀し、精米し、炊飯して成る。農夫たちが汗を流し集めたものであり、食は少なく汗は多く、労苦は重い。このようにしてできた食物も、口に入ればすぐに不浄となり、一夜で糞尿に変わる。見たくもない穢れたものだ。もしこれに貪着すれば、地獄に堕ちて熱い鉄の玉を飲み、畜生に生まれ変わって宿債を償うことになる。このように観じたなら、心に厭離の念が生じ、初めて食を受けるに堪えうる。 来処を量るとは、施主が福を求めるために、自らの口腹を減らし、妻子の分け前を削って施すものである。もし修行がなければ、一粒の米も消化しがたい。故に「一粒の米は山よりも重し」と言われる。

二忖己德行。全缺應供。

> 己が徳行を思え。完全か欠けているか、供養にふさわしいか。

自當思惟忖度己之德行。如不持戒。坐禪。誦經。營三寶事。則德虧行缺。不應受他供施。受則為施所墮。德行雖全。猶須觀法。方消信施。故天台云。不問乞食眾食。皆須作觀。若不入觀。即潤生死。所謂學道不通理。復身還信施。長者八十一。其樹不生耳。年齒既已高。園中蕈不生。教有明文。豈容不信。

> 自らの行いをよく考えてみるべきです。 もし戒律を守らず、座禅もしず、経典も読まず、三宝のための仕事もしなければ、徳が欠け行いが足りないことになります。 そのような状態で他人からの供養や布施を受けるべきではありません。 受け取れば、その布施に堕落してしまいます。 たとえ徳行が完全であっても、なお法を観じなければ、信心の布施を消化することはできません。 ですから天台大師は言われました。 「乞食であれ、大衆の食事であれ、すべて観想をしなければならない。 もし観想に入らなければ、生死を潤すことになる」と。 いわゆる「学道して理を通ぜず、身を復して信施に還す」とはこのことです。 長者の木が八十一歳になっても耳（キノコ）を生じないように、年をとっても園にキノコが生えないのと同じです。 教えには明確な文があり、どうして信じないことができましょうか。

三防心離過。貪等為宗。

> 三つの防護は心の過ちを離れること。貪りなどがその根本である。

謂此心具足無量無明煩惱之過患。而貪瞋癡是其根本。故曰為宗。行者時當防之。根本若遣。諸過頓離。故於美食不起貪想。於麤食不起瞋恚。於不麤不美食不起癡心。作是觀已。乃可受食。彌勒所問經論云。一切惡法。皆從貪瞋癡起。是也。

> この心には、無量の無明煩悩という過失と災いが備わっていると説かれます。そして、貪り・怒り・愚かさがその根本です。それゆえ、これらを中心的な問題として捉えます。修行者は常にこれを防がなければなりません。根本が取り除かれれば、あらゆる過ちはたちまち離れます。ですから、美味しい食べ物に対して貪りの思いを起こさず、粗末な食べ物に対して怒りの心を起こさず、粗末でもなく美味でもない食べ物に対して愚かな心を起こしません。このように観じた後に、はじめて食べ物を受けることができるのです。 『弥勒所問経論』には、「すべての悪しき法は、貪り・怒り・愚かさから起こる」とあります。まさにその通りです。

四正事良藥。為療形枯。

> 四つの正しい行いは良薬のようなもの。それは身体の衰えを癒すためにある。

四大成身。常為饑渴所病。苟非飲食。則形枯色悴。無由進修道業。是以飲食。正資身治病之良藥。修行進道之機關。如有貪著。則反成沉痾矣。阿育王經云。優波笈多。以一器盛滿乳糜。又以一空器。並置一貪食比丘前。語言。汝可待冷。稍稍飲之。而比丘貪食心重。便吹使冷。乃并食之。笈多曰。乳糜雖冷。汝心故熱。復須冷之。當以不淨觀為水。除此心熱。若見飲食。如服藥想。比丘食竟。即便吐出。滿於空器。笈多曰。汝可更食。比丘曰。不淨何可復食。笈多曰。汝觀一切法。猶如涕吐。因為說法。比丘精進思惟觀察。得阿羅漢果。

> この身体は四大（地水火風）によって成り立っていますが、常に飢えと渇きに悩まされています。もし飲食がなければ、体は枯れ、顔色は衰え、修行を進めることができません。ですから、飲食は身体を養い、病を治す良薬であり、修行を進めるための手段なのです。もしそれに執着すれば、かえって重い病となってしまいます。 『阿育王経』にこうあります。優波笈多（ウパグプタ）は、一つの器に乳粥を満たし、もう一つの空の器を、貪食の比丘の前に並べて置きました。そして言いました。「冷めるまで待って、少しずつ飲みなさい」と。しかし、比丘は貪食の心が強く、すぐに吹いて冷まし、すべて食べてしまいました。笈多は言いました。「乳粥は冷めても、あなたの心はまだ熱い。さらに冷ます必要がある。不浄観を水として、この心の熱を除きなさい。もし飲食を見たら、薬を飲むように思いなさい」と。比丘が食べ終わると、すぐに吐き出し、空の器を満たしました。笈多は言いました。「もう一度食べなさい」と。比丘は言いました。「不浄なものをどうしてまた食べられましょうか」と。笈多は言いました。「あなたは一切の法を、まるで吐瀉物のように観じなさい」と。そして説法をしました。比丘は精進して思惟し、観察し、阿羅漢の果を得ました。

五為成道故。方受此食。

> 悟りを成すために、この食事を受けるのです。

不食則形羸色變。道業難進。今為成就道業。故受斯食。苟不為道。則粒米難消。故古德云。為成道業施將來。道業未成爭消得。凡為受食。當作此五觀。若自知道業未成。須深生慚愧。故行護云。所食須生慚愧。常作觀法是也。摩德勒伽論云。若得食時。口口作念。第一匙默念云。願斷一切惡。第二匙念云。願修一切善。第三匙念云。所修善根。迴向眾生。普共成佛。

> 食わなければ体は痩せ衰え、顔色は悪くなる。修行の道は進みにくい。今、修行の道を成就するために、この食を受ける。もし修行のためでなければ、一粒の米さえ消化しにくい。だから昔の徳ある人が言われた。「修行成就のために施しを受ける。修行が未成就なら、どうして消化できようか」と。 凡そ食を受ける時は、この五つの観念を持つべきである。もし自分の修行がまだ成就していないと自覚するならば、深く慚愧の念を生じなければならない。だから『行護』には、「食する時は慚愧の念を起こし、常に観法を行え」とある。 『摩徳勒伽論』には、「食を得る時、一口ごとに念じる。第一匙には『一切の悪を断じんことを願う』と黙念し、第二匙には『一切の善を修めんことを願う』と念じ、第三匙には『修める善根を衆生に廻向し、共に仏道を成ぜんことを願う』と念じよ」と説かれている。

無呵食好惡。

> 食べ物の好き嫌いを責めたりしない。

不得呵嫌食之麤美。

> 食事の粗末さや美味しさにこだわってはいけません。

不得以食私所與。若擿與狗。

> 私の与えた物を勝手に食べてはならない。もしそれを犬に投げ与えるならば。

物屬僧伽。食無偏黨。私與即犯盜愆。眾食未竟。與狗即成非法。受食正當䖍恭作觀。擿與狗。即非威儀矣。

> 僧伽の所有物は、偏りなく分配されるべきものです。私的に与えれば盗みの過ちを犯すことになります。僧侶たちの食事が終わらないうちに犬に与えるのは、規則に反する行いです。食事を受けるときは、正しく恭しく観想をなすべきであり、つまんで犬に与えるのは、威儀にかなった行いではありません。

來益食。不得言不用。若已飽。當以手讓却之。

> お食事を差し入れられたら、断ってはいけません。もしすでにお腹がいっぱいでしたら、手で軽くお断りしましょう。

益者。進也。增添也。言不用則失謙遜。出聲復動眾念。讓之則恭遜合儀矣。

> 益とは、進むこと。増し加えること。言葉を用いなければ謙遜を失い、声を出せばまた人々の心を動かす。譲れば、恭しく謙遜して礼儀に適うのである。

不得爪頭。使風屑落鄰鉢中。

> 爪を頭に当ててはいけません。風に乗った埃が隣の鉢に落ちるからです。

自食尚不宜爪頭。況同眾飡。斯有三過。一動他念。二失威儀。三膩手污鉢得罪。

> 自分で食べる時でさえ、爪や頭に触れるのは良くありません。ましてや、皆と一緒に食事する時にはなおさらです。これには三つの過ちがあります。一つは、他人の心を動揺させること。二つは、威儀を失うこと。三つは、手の油で鉢を汚し、罪を得ることです。

不得含食語。

> 食事中に話してはいけません。

設有人問。咽已方應。況自發言可乎。

> 仮に誰かが尋ねてきたら、それに答えるだけでも大変なのに、ましてや自分から話し始めるなど、できるはずがありません。

不得笑談雜話。

> むやみに冗談を言ったり、無駄話をしたりしてはいけません。

心存五觀。即無此過也。

> 心に五つの観念を抱けば、この過ちは生じません。

不得嚼食有聲。

> 音を立てて噛んではなりません。

凡嚼食須合唇吻。餅果當細擘食之。亦不得啜羮粥作聲。

> 食べ物を口にするときは、唇を閉じて静かにいただきましょう。 お餅や果物は小さく分けてから口に運びます。 また、汁物やお粥をすする音を立てることも慎みましょう。

如欲挑牙。以衣袖掩口。

> 爪楊枝を使うときは、袖で口元を隠しましょう。

不掩則自失威儀。復令人厭惡心起。

> 隠さなければ、自然と威厳を失い、さらに人に嫌悪の心を起こさせる。

食中或有蟲螘。宜密藏掩之。莫令鄰單見。生疑心。

> 食事中に虫や蟻がいたら、そっと隠して片づけなさい。隣の人に見られて疑いの心を起こさせてはいけない。

鄰單。即比座也。若令彼見。或疑忌心生。致於變吐。不能復食也。

> 隣の席、つまり隣の座席のことです。もしその人に見られると、疑いや忌み嫌う心が生じ、吐き出してしまい、もう食べられなくなってしまうかもしれません。

當一坐食。不得食訖離座。更坐食。

> 一度座ったら、そのまま食事を終えるまで離席してはいけません。

有病無犯。

> 病があっても、過ちを犯さない。

不得食訖。以手指刮碗鉢食。

> 食事が終わったら、指で鉢をこすって食べてはいけません。

是饑餓相。非出家儀。亦不得以舌䑛食。

> これは飢えの相です。出家の作法ではありません。また、舌で食べ物をなめてはなりません。

凡食不得太速。不得太遲。

> 食事は、あまり急いではいけません。また、あまり遅くてもいけません。

速則失儀。遲則動眾。亦不得遺粒狼藉而食。不得頰食。不得縮鼻食等。

行食未至。不得生煩惱。

> 食事がまだ来ないからといって、煩悩を起こしてはいけない。

行食是益食也。五觀存心。時懷慚愧。則煩惱不生矣。古云。獃獃四顧起貪心。念食吞津咳𠻳頻。摝粥啜羮包滿口。開單展鉢響諸鄰。

> 食事をとることは、命を養うことです。 五つの観想を心に留め、常に慚愧の心を抱けば、煩悩は生じません。 古人はこう言いました。 ぼんやりと周りを見回して貪りの心を起こし、 食べ物を思いながらつばを飲み込み、咳払いを頻繁にし、 粥をかき混ぜて汁をすすり、口いっぱいに詰め込み、 食器を広げる音は近隣に響き渡る。

或有所需。默然指授。不得高聲大喚。

> 何か必要なことがあれば、静かに指図する。大声で呼びかけてはいけない。

需同須。索也。謂以指授令知。彼為取也。

> 必要は須と同じです。探し求めることです。指で示して知らせることを言い、あれを取るようにさせるのです。

不得碗鉢作聲。

> 器を打ち鳴らしてはなりません。

如前第九戒中釋。

> 先ほど第九戒の説明で述べた通りです。

不得食畢先起。

> 食事が終わる前に先に立ってはなりません。

除有急事。及病。不能久坐。無犯。

> 急用や病気など、長時間座っていられない事情がある場合は、この限りではありません。

若違僧制。聞白槌。不得抗拒不服。

> もし僧侶の定めに背いたならば、白槌の宣告を聞いたとき、抵抗したり従わなかったりしてはなりません。

白槌。是舉罪之規。抗拒是抵觸不順之貌。如其不服。生瞋違和。即非好僧。古人聞善言則拜。有告過則喜。斯皆聖賢氣象。何不效之。

> 白槌は、罪を挙げるための規則です。抵抗するとは、素直に受け入れずに逆らう様子を指します。もし不服を抱き、怒りを生じて調和を乱すならば、それは良い僧侶とは言えません。昔の人は善い言葉を聞けば礼をし、過ちを指摘されれば喜びました。これこそ聖賢のあり方です。どうしてそれを手本にしないのでしょうか。

飯中有穀。去皮食之。

> ご飯の中には穀物が入っています。皮をむいて食べましょう。

命依食住。道由食存。故宜惜之。不可賤棄。志逢禪師。一日宴坐。有神跪於前。師問為誰。曰。護戒神也。師曰。吾慮宿愆未殄。汝知之乎。曰。師有何罪。唯小過耳。師曰。何也。曰。凡折鉢水。亦施主物。師常輙棄之。非所宜也。言訖而隱。師自此悉飲之。

> 命は食によって保たれ、道は食によって成り立つ。 だからこそ食を大切にし、粗末にしてはならない。 志逢禅師がある日、静かに坐禅をしていたときのこと。 一人の神が跪いて現れた。 師が「お前は誰か」と尋ねると、 「戒律を守る神でございます」と答えた。 師は言った。 「私は過去の罪がまだ消えていないのではないかと心配しているが、お前は知っているか」 神は言った。 「師に何の罪がありましょう。ただ小さな過ちが一つあるだけです」 師が「それは何か」と問うと、 神は答えた。 「鉢を洗った水も、すべて施主からの施し物です。 師はいつもそれを捨てておられますが、それはよろしくありません」 そう言うと、神は姿を消した。 それ以来、師は洗い水もすべて飲むようになった。

不得見美味生貪心。恣口食。

> 美味しいものを見ると、貪りの心が生まれ、好きなだけ食べてしまう。

不知食之過患。故恣貪無厭。如昔一沙彌貪愛酪味。死即作酪瓶中蟲。復一沙彌貪著龍宮香飯。死後為龍。欲奪龍宮。殺諸龍屬。為害非小。是故於食不可生貪心也。

> 食べ物の過ちを知らないから、好きなだけ貪って飽きることがない。昔、一人の沙弥がチーズの味を貪り愛した。死後、チーズの瓶の中の虫になった。また別の沙弥が龍宮の香ばしいご飯に執着した。死後、龍となって龍宮を奪おうとし、多くの龍の仲間を殺した。害は小さくなかった。だから、食べ物に対して貪りの心を起こしてはならない。

不得偏眾食。

> 皆と一緒に食事を取らなければなりません。

僧物偏眾。準直成罪。自物偏眾。是無慚人。僧未食。不得先嘗。若為僧作食。欲知鹹淡。先嘗無過。昔唐登州文登縣。郭行妻王氏。生一女鶴喙。將終自言。酬先世甞齋之報。以此示人也。

> 僧の物を独り占めにするのは、規定に背く罪となります。自分の物を独り占めにするのは、恥知らずな人です。僧が食事を始める前に、先に味見をしてはいけません。ただし、僧のために食事を作る際、味の加減を知るために味見をするのは問題ありません。 昔、唐の登州文登県に、郭行の妻・王氏という女性がいました。彼女は口が鶴のようになった娘を産みました。娘は死ぬ間際に、「前世で僧の食事を先に味見した報いだ」と語りました。これは人々に戒めを示すためだったのです。