ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 維摩経文疏 (維摩經文疏)
  2. 第四 (第四)
  3. 第四 (第四)
←と→
矢印キーでページをめくれます

維摩経文疏 (維摩經文疏)


維摩羅詰經文疏卷第四(從「念、定」訖「三萬二千人俱」)

維摩経文疏 巻第四

念、定、總持,辯才不斷。

念( mindfulness )、定( concentration )、総持(total recollection)、弁才(eloquence)が断たれることがありません。

二、歎智德。文有三別:一,總歎智德;二,別歎智德;三,歎位釋成。

二、智慧の徳を讃える。文章には三つの区分がある。第一に、智慧の徳を全体的に讃える。第二に、智慧の徳を個別に讃える。第三に、位を讃えて説明を完成する。

一、明總歎智德者,即是念、定、總持也。若類餘經,悉歎三昧陀羅尼德。今歎念、定、總持,即是歎三昧陀羅尼之德,以此雙標歎章也。

第一に、智慧の功徳をたたえることについて。これは「念」「定」「総持」のことです。他の経典では、すべて三昧(深い集中)や陀羅尼(真理を記憶し保持する力)の功徳をたたえています。ここで「念」「定」「総持」をたたえるのは、まさに三昧と陀羅尼の功徳をたたえることであり、この二つを掲げて讃歎の章としているのです。

「念」,即是念佛三昧等諸三昧,菩薩得此念佛三昧,十方諸佛常現在前;亦名王三昧,入此三昧,一切三昧悉入其中。所以者何?若根本禪、背捨、勝處、九次第定、師子奮迅、超越等竝俗諦三昧;觀四諦、十二因緣、空、無相、無作,竝是真諦三昧;自性等九種大禪,及般舟、一行、首楞嚴等百八三昧,皆是中道第一義諦三昧。《仁王經》云「若得三諦三昧,即入王三昧。菩薩入是三昧,一切三昧皆入其中。十方諸佛,悉現在前」,故知歎念。

「念」とは、すなわち仏を思い念じる三昧などのさまざまな三昧のことであり、菩薩がこの仏を念じる三昧を得れば、十方のすべての仏が常にその前に現れます。また、これを「王三昧」とも呼び、この三昧に入れば、あらゆる三昧がすべてその中に含まれます。なぜなら、根本的な禅定や背捨、勝処、九次第定、師子奮迅、超越などの三昧は、いずれも俗諦の三昧であり、四諦・十二因縁・空・無相・無作を観じるものは、すべて真諦の三昧であり、自性などの九種の大禅や、般舟・一行・首楞厳などの百八三昧は、すべて中道第一義諦の三昧だからです。『仁王経』には「もし三諦の三昧を得れば、すなわち王三昧に入る。菩薩がこの三昧に入れば、あらゆる三昧がみなその中に入る。十方のすべての仏が、ことごとくその前に現れる」と説かれています。このことから、「念」をたたえる意味がわかります。

「定」,是歎諸三昧德也。約四教分別,若析俗入真,即是三藏教明二諦三昧;但約二諦,名王三昧。若體俗入真,即是通教二諦三昧;但約二諦,名王三昧。若從根本俗諦入中道,即是別教三諦三昧;約三諦,名王三昧。若一心圓入三諦,即圓教三諦三昧明王三昧也。《大智論》出「異家解三昧、王三昧不同」,意在此也。若約觀心,即是三觀觀三諦,修三諦三昧,成王三昧,任運可知。

「定」とは、諸々の三昧(さんまい)の徳を賛嘆したものです。 これを四教(しいきょう)に分けて説明すると、もし世俗を分析して真実に入るならば、それは三蔵教が明かす二諦の三昧であり、二諦に基づいて「王三昧(おうざんまい)」と呼ばれます。 もし世俗をそのままの姿で観じて真実に入るならば、それは通教の二諦の三昧であり、二諦に基づいて「王三昧」と呼ばれます。 もし根本の世俗諦から中道に入るならば、それは別教の三諦の三昧であり、三諦に基づいて「王三昧」と呼ばれます。 もし一心に円満に三諦に入るならば、それは円教の三諦の三昧であり、三諦の三昧における「王三昧」と明かされます。 『大智度論』に「異なる家の解釈による三昧と王三昧の違い」が出ているのも、まさにこの趣旨によります。 もし観心(かんじん)に基づいて言えば、これは三観によって三諦を観じ、三諦の三昧を修して王三昧を成就することであり、そのことは自然に理解できるでしょう。

「總持」者,即是歎陀羅尼德。此言能持、能遮,持諸善法不令漏失,遮諸惡法不令得起,故名遮持,亦言總持一切善法不漏失也。《法華經》明三陀羅尼:一者,旋陀羅尼;二者,百千萬億旋陀羅尼;三者,法音方便陀羅尼。

「総持」とは、陀羅尼の功徳を称賛した言葉です。これは「能く持ち、能く遮る」という意味で、善い法をしっかりと保持して漏れ失うことがなく、悪い法を遮って起こることがないようにするため、遮持とも呼ばれます。また、すべての善い法を総括して保持し、漏れ失うことがないという意味もあります。

『法華経』には三つの陀羅尼が説かれています。第一は旋陀羅尼、第二は百千万億旋陀羅尼、第三は法音方便陀羅尼です。

旋陀羅尼者,旋轉義也。從假入空觀能旋轉觀假入空,即轉破界內、外諸見愛,得入空真諦。若但破界內,即是通教陀羅尼;一心圓破界內外故,即是圓教陀羅尼。

旋陀羅尼とは「回転する」という意味です。「仮から空に入る観」によって、仮を観じて空に入るように回転させることができます。すなわち、三界の内側と外側における様々な「見惑」と「思惑」を打ち破り、回転させて空の真実(真諦)に入ることができるのです。もし三界の内側だけを打ち破るのであれば、それは通教の陀羅尼です。しかし一心に三界の内外を円かに打ち破るのであれば、それは円教の陀羅尼なのです。

百千萬億旋陀羅尼者,即是從空入假,旋轉分別入界內世諦、界外世諦,旋轉破塵沙界內、外無知,顯恒沙佛法。若別破界外無知,則別教陀羅尼也。今一心圓破界內、外無知,即是圓教陀羅尼也。

百千万億の旋陀羅尼とは、つまり「空」から「仮」に入り、旋転(回転)しながら分別して、世界内(迷いの世界)の世俗諦と世界外(悟りの世界)の世俗諦に入り込み、旋転しながら塵砂のように無数の世界内・外の無知を打ち破り、恒河沙(ガンジス川の砂)のように無数の仏法を明らかにするものです。もし世界外の無知だけを別々に打ち破ろうとするなら、それは別教の陀羅尼です。しかし今は、一心に世界内・外の無知を円満に打ち破るのですから、これこそが円教の陀羅尼なのです。

法音方便陀羅尼者,即是二觀為方便道,得入中道第一義諦。若斷無明,次第入中道,猶是別教陀羅尼;不斷無明,一心圓入中道,即圓教陀羅尼也。所言法音方便陀羅尼者,得此陀羅尼,解一切言音也,亦能一音說法,令眾生隨類得解。

法音方便陀羅尼というのは、二つの観法を方便の道として用い、中道の第一義諦に入ることを指します。無明を断ち切りながら段階的に中道に入るのは、まだ別教の陀羅尼です。無明を断ち切らずに、一心で円満に中道に入るのが、円教の陀羅尼です。ここで言う法音方便陀羅尼とは、この陀羅尼を得ると、あらゆる言葉や音声を理解できるようになることです。また、一つの音声で法を説き、衆生がそれぞれの性質に応じて理解できるようにすることも可能です。

菩薩得此三陀羅尼,即入無礙陀羅尼,具足一切陀羅尼也。

菩薩がこの三陀羅尼を得ると、そのまま無礙陀羅尼に入り、一切陀羅尼を具足することになります。

問:此經歎補處陀羅尼,何得約初心釋?

問い:この経典では、補処(次の仏となる菩薩)の陀羅尼(総持)を称賛していますが、なぜ初心者の立場で解説するのですか?

答:發心、畢竟二不別也。而後心入三諦無礙,橫廣細極,豎深窮源,即是補處無礙陀羅尼也。

答え:発心と畢竟の二つは別ではない。その後の心が三諦無碍に入り、横に広く細かく極まり、縦に深く源を窮めること、すなわちこれが補処無碍陀羅尼である。

問:三藏菩薩有陀羅尼不?

質問:三蔵菩薩に陀羅尼(お守りや真言)はありますか?

答:如尸毗王得歸命救護陀羅尼,當知亦有諸小陀羅尼也。輪王亦得,況菩薩也!

例えば、尸毘王が帰命救護陀羅尼を得たように、知るべきである、他にもさまざまな小さな陀羅尼があることを。転輪王でさえもこれを得ることができる。ましてや菩薩はなおさらである。

問:聲聞小得陀羅尼不?

問:声聞は、少しばかりの陀羅尼を得ることができるのでしょうか?

答:二乘入涅槃,不須陀羅尼也。約觀心修陀羅尼,三觀類作易見,不煩分別。

二乗が涅槃に入るには、陀羅尼は必要ありません。心の観察によって陀羅尼を修行する場合、三観の分類に従えば容易に理解できるので、わざわざ区別して説明する必要はありません。

「辯才」者,即四辯也。《大品經》明七辯,《大集經》明二十辯,《華嚴經》明四十辯也。此歎三昧陀羅尼力用,須約四教明辯義:初約三藏,若分別生滅四諦名字之法無滯,即是法無礙辯;若分別生滅四諦義無滯,即義無礙辯也;若通達六道言辭不同,亦能同其語,為說生滅四諦,言辭無滯,即辭無礙辯;若稱根緣,於生生不可說,用四悉檀赴機而說,說無窮盡,即樂說無礙辯。辯是辯了,才是才能,以蜜助藥,服之者易,才助文言化道行也。通教約無生,別教約無量,圓教約無作,類解可見。

「辯才」とは、四種の無礙辯のことです。『大品經』では七種の辯、『大集經』では二十種の辯、『華嚴經』では四十種の辯が説かれています。これは三昧と陀羅尼の力用を讃えるものであり、四教に基づいて辯の意味を明らかにする必要があります。まず三藏教について言えば、生滅の四諦における名字(名相)の法を滞りなく分別できるのが法無礙辯です。生滅の四諦における意味を滞りなく分別できるのが義無礙辯です。六道の衆生の言辭が異なっていても、それを通達し、同じ言葉で生滅の四諦を説き、言辭に滞りがないのが辭無礙辯です。衆生の根機や縁に応じて、生生の法は不可説であるにもかかわらず、四悉檀を用いて機に合わせて説き、説法が尽きることがないのが樂説無礙辯です。辯とは説き明かすことであり、才とは才能のことです。蜜が薬を助けて飲みやすくするように、才が言葉や教えを助けて、教化の道が行われるのです。通教では無生、別教では無量、圓教では無作について説かれますが、その類推は同様にして理解できるでしょう。

而言「不斷」者,不盡也。法辯、義辯緣苦、集,知病不盡也;法辯、義辯緣道、滅,識藥無盡也;辭辯、樂說辯,隨病授藥無盡。「無盡」,即不滅義也。復次,從生滅辯,起無生辯;從無生辯,出無量辯;從無量辯,出無作辯。無作辯者,如風於空中,說法無障礙,故言不斷也。三觀約心修四辯,類解可知。

「不斷」とは、尽きることのない意味である。 法弁(教えを説く自在)と義弁(義理を説く自在)は苦と集(苦の原因)に基づき、病を知ることが尽きない。法弁と義弁は道と滅(悟りの境地)に基づき、薬を識ることが尽きない。辞弁(言葉の自在)と楽説弁(喜んで説く自在)は、病に応じて薬を施すことが尽きない。 「無尽」とは、滅することがないという意味である。 さらに、生滅の弁から無生の弁が生じ、無生の弁から無量の弁が出で、無量の弁から無作の弁が現れる。 無作の弁とは、風が虚空にあって、説法に障りがないようなものである。ゆえに「不断」というのである。 三観をもって心を修め、四弁を起こすことは、種類によって解せば分かるであろう。

布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧,及方便力,無不具足。

布施、戒律を守ること、忍耐、精進、禅定、智慧(プラジュニャー)、そして方便力を、すべて完全に備えておられます。

此二別歎智德,還從定、慧開七度,從定下開四,慧下開方便,故言別也。若作十波羅蜜對十地者,開禪出力、願,開般若出方便及智也。若約四教分別不同者,但約四種四諦修布施,乃至方便,即四教所明布施、持戒,乃至方便,四種不同也。而言無不具足者,波羅蜜義。波羅蜜義者,此翻事究竟,亦翻到彼岸。布施具足,即是事究竟,到彼岸也,乃至方便亦如是,故云無不具足,即是七波羅蜜也。約三觀明七度者,若觀心因緣生滅即空、即假、即中,不見慳、施,不見持、犯,不見恚、忍,不見進、怠,不見定、亂,不見愚、智,不見巧、拙,畢竟無所有,而能善分別慳、施,乃至巧、拙,泠然自曉,即是無不具足也。

この二つは別に智慧の功徳を嘆じたものであり、さらには定と慧から七波羅蜜が開かれている。定からは四つが開かれ、慧からは方便が開かれるので、「別」と言うのである。もし十波羅蜜を十地に対応させるならば、禅からは力と願が開かれ、般若からは方便と智が開かれる。もし四教によって区別して異なるならば、四種の四諦に従って布施から方便に至るまでを修する。すなわち四教で説く布施や持戒から方便に至るまでに、四種の違いがあるのである。そして「無不具足」と言うのは、波羅蜜の意味である。波羅蜜の意味とは、これは「事が究まる」と翻訳され、また「彼岸に到る」とも翻訳される。布施が具足するとは、すなわち事が究まり彼岸に到ることである。方便に至るまでまた同様であり、よって「無不具足」と言い、すなわちこれが七波羅蜜である。

三観によって七度を明かすと、もし心の因縁生滅が即ち空であり即ち仮であり即ち中であると観じれば、慳と施を見ず、持と犯を見ず、恚と忍を見ず、進と怠を見ず、定と乱を見ず、愚と智を見ず、巧と拙を見ない。畢竟して何ものも無いのであるが、よく巧みに慳と施を分別し、乃至巧と拙を分別して、冷ややかに自ずから明らかになる。これがすなわち「無不具足」である。

逮無所得,不起法忍。

無所得を成就し、法忍(真理に安住する智慧)を起こす。

此下三歎位釋成者。「逮」之言及。「不起」者,不起界內、界外煩惱生死。諸行休息,無有動念,究竟寂滅,故名「不起法忍」也,即是大無生忍,亦名寂滅忍。而言無所得者,非是都無所得,無所得以為得也,故《大品經》言「無所得以為得,以此得無所得」也。又《仁王經》明五忍,《瓔珞經》明四忍,兩經雖復不同,俱明寂滅忍。寂滅忍有上、下,若金剛心,名下忍;佛地,名上忍。若開十地,別出等覺,亦得作三品,謂下、中、上也。今經歎德既隣果,復言「逮」者,當知逮於下忍,乃至中忍也。若就四教各分別四忍者,三藏教本無此文,今約義作,亦得分作四忍:初僧祇,為伏忍;二僧祇、三僧祇,為順忍;百劫種相,伏惑不起,為無生忍;三十四心斷結,名寂滅忍也。通教乾慧地,名伏忍;性地,名順忍;從須陀洹若智、若斷,乃至九地,名無生忍;十地為如佛,名寂滅。別教鐵輪十信,名伏忍;三十心,名順忍;初地至九地,名無生忍;十地、金剛心,名寂滅忍也。圓教五品弟子,名伏忍;鐵輪十信,六根清淨,是順忍;初住乃至九地,名無生忍;十地、金剛心,名寂滅忍。通論圓教,初心以上,亦名伏忍,亦名順忍,亦名無生忍,亦名寂滅忍,故《仁王》云:「從初發心,至金剛頂,皆名伏忍。」普賢賢首之義,意在此也。

以下三段は「位」を説いて成就を明らかにする部分です。「逮」は「及び」という意味。「不起」とは、三界(迷いの世界)と三界外(声聞・縁覚の世界)における煩悩や生死の苦しみを起こさないこと。あらゆる修行による働きが静まり、心が動くことなく、ついには寂滅(静かな境地)に至る。これを「不起法忍」といい、これこそが大いなる無生法忍(無生の真理を確信する境地)であり、寂滅忍(煩悩が完全に静まった境地)でもあります。しかし「得るものがない」と言うのは、何も得ることがないという意味ではなく、得るものがないこと自体を「得た」とするのです。『大品経』には「得るものがないことをもって得とし、この得によって得るものがない」と説かれています。

また『仁王経』では五つの忍(悟りの段階)、『瓔珞経』では四つの忍を明かしています。二つの経典の説き方は異なりますが、どちらも寂滅忍を説いています。寂滅忍には上・下の区別があり、金剛心(最後の悟りの直前の心)の場合は下忍、仏の境地は上忍と呼びます。もし十地(菩薩の修行段階)を開いて等覚(仏と等しい境地)を別に立てるなら、三品(下・中・上)に分けることもできます。

今、この経典では功徳をほめたたえている者が仏の境地に近く、しかも「逮」と言っているのですから、これは下忍、あるいは中忍に達していることを表していると知るべきです。

もし四つの教え(三蔵教・通教・別教・円教)に従って、それぞれ四つの忍を配当してみると、三蔵教には本来このような文はありませんが、意味に基づいて仮に配当すれば、四つの忍に分けることもできます。すなわち、最初の阿僧祇劫(計り知れない長い時間)の修行は伏忍(煩悩を抑える段階)、第二、第三の阿僧祇劫は順忍(真理に従う段階)、百劫の間に仏の相を具え、煩悩を抑えて起こさないことを無生忍(無生の真理を確信する段階)、そして三十四心の断惑(煩悩を断ち切る最後の心)をもって寂滅忍とします。

通教では乾慧地(智慧がまだ乾いている段階)を伏忍、性地(真理の性質を理解する段階)を順忍、須陀洹(悟りの第一段階)の智慧や煩悩の断滅から九地までを無生忍、十地(仏に近い段階)を如仏(仏と等しい)として寂滅忍とします。

別教では鉄輪(凡夫の位)の十信を伏忍、三十心(十住・十行・十回向)を順忍、初地から九地までを無生忍、十地・金剛心を寂滅忍とします。

円教では五品(五つの修行段階)の弟子を伏忍、鉄輪の十信(六根清浄の境地)を順忍、初住から九地までを無生忍、十地・金剛心を寂滅忍とします。

広く円教全体を論じれば、初めて心を起こした時からすでに伏忍とも順忍とも無生忍とも寂滅忍とも名づけられます。故に『仁王経』には「初めて発心した時から金剛頂(最後の悟り)に至るまで、すべてを伏忍と名づける」とあります。普賢菩薩や賢首菩薩の解釈の意味も、ここにあります。

問:下文歎淨名德,但言得無生忍。當知「不起法忍」只是無生忍,今何用寂滅釋「不起法忍」耶?

質問:以下の文では、維摩詰(ゆいまきつ)の徳を称賛して、ただ「無生忍(むしょうにん)」を得たと述べています。おそらく「不起法忍(ふきほうにん)」は、単に「無生忍」を指すものと思われます。それなのに、ここで「寂滅(じゃくめつ)」という言葉を使って「不起法忍」を説明するのは、なぜなのでしょうか?

答:在因讓果,說無生忍。若通義無生,只是寂滅之異名。故《大涅槃經》云「涅槃」,此經云「法本不生,今則無滅」,義若然者,寂滅忍即是無生忍,何所疑也?若約觀行,一心三觀、三諦,惑不起者,即是修不起法忍也,故《法華經》云:「著如來衣。如來衣者,柔和忍辱心是也。」

答え:因において果を譲り、無生忍を説く。もし通義としての無生であれば、これはただ寂滅の別名に過ぎない。ゆえに『大涅槃経』に「涅槃」と説き、この経には「法はもともと生じず、今は滅することもない」とある。その意味がそうであるならば、寂滅忍はすなわち無生忍であり、何を疑うことがあろうか。もし観行について言えば、一心三観・三諦において煩悩が起こらないこと、これこそが「起こらざる法忍」を修めることである。ゆえに『法華経』には「如来の衣を著る。如来の衣とは、柔和忍辱の心である」と説かれている。

已能隨順,轉不退輪,善解法相,知眾生根。

すでに〈法〉の流れに従い、退くことのない〈法輪〉を回し、〈諸法の相〉をよく理解し、衆生の〈根機〉を知る。

此二廣歎化佗者,復為二:一,明內具化佗法;二,正明化佗法。

これは、他者を教化することを広く称賛する部分を、さらに二つに分けて説明しています。第一に、内に他者を教化する方法を具えていることを明らかにし、第二に、実際の他者への教化の方法を明確に示しています。

一、內具化佗法,復為三:一,明內具化佗法;二,明外具化佗法;三,總釋內外具化佗法。如《大智論》明「內具智慧,名為力;外用無怯,名無畏」。若內智不明,外儀不具,處眾有畏,何能伏物?若內、外備足,可化眾生。
一、明內具化佗法者,即是「已能隨順」。隨順有三種:一,順佛;二,順理;三,順眾生根緣。佛為眾生轉四種四諦法輪,菩薩順佛而轉,即順佛也。因緣生滅三諦之理即空、即假、即中,順理而解,順理而說,故言順理也。眾生根性雖多,不出四種,用四悉檀赴機無爽,名順眾生也。復次,若順理而說,是順實智;順眾生說,是順權智;順佛出沒,方便不同,是順權、實二智也。今言隨順者,具此三義也。
「轉不退法輪」者,四種四諦是輪體,用四悉檀為轉也。不退法輪即有四種:一、事不退法輪轉生滅四諦也;二、位不退法輪轉無生滅四諦也;三、行不退法輪轉無量四諦也;四、念不退法輪轉無作四諦也。
若三藏教生滅四諦約菩薩位,事不退法輪。三藏教明不退位,不取斷結,但言「不生四惡道、不受女人身、不生邊地、諸根具足、得宿命智」,具此五事,名為阿鞞䟦致,此是事不退也。
若通教初果已去,齊羅漢,名位不退;從七地涉有化物,修種種行,名行不退;八地道觀雙流,名念不退也。
若別教者,十住位不退,十行行不退,十迴向修初念不退,十地分證念不退。
若圓教者,一心具三不退,初住法身不墮通、別之位,名位不退;一心具一切行,名行不退;念念入法流水,即念不退也。
約別相三觀釋者,從假入空觀,修位不退;從空入假,修行不退;正觀中道,修念不退。若約三觀判三不退,此義猶疎。今約一心三觀,正觀中道,修位不退;雙照二諦,修行不退;自然流入薩婆若海,名念不退也。
「善解法相,知眾生根」者,善解法相即是如法相解,知眾生根即是識病。善解四種四諦之法藥,善知四種眾生之病,以此化佗,決無差機之失。十力中有是處非處力,即是法相也;有知上下根力,即是知眾生根,皆是內力具足也。約四教以明,四種苦集即是根,四種道滅即法相也。
蓋諸大眾,得無所畏。
此是二明外具化佗法也。以無緣大慈,覆十法界,故言「蓋諸大眾」也。又,蓋之言過,深達四種四諦,出過物上,故能蓋也。「得無所畏」者,慈悲福慧,能益一切,故言得無所畏,即是釋「外用無怯、無畏法」也。
功德智慧,以修其心。
此是三明總釋內外化佗法。即為三:一,釋內心無畏;二,釋外用無畏;三,結成無畏。
一、釋內心無畏者,具二莊嚴,能師子吼,釋成內心無畏也。心即是自性清淨心,亦為法身福、慧,能顯出自性清淨心,故言「以修其心」,還用莊嚴自性清淨心,即是具二莊嚴莊嚴法身也。四教明福、慧,三權一實,總此權實,以修其心,故心無所畏也。
相好嚴身,色像第一,捨諸世間所有飾好。
二、釋外用無畏法者,種種色身,物所尊重,如迦旃延子所明種三十二相業,此是世間輪王、梵王共有,種小功德所致,何足為奇!故不名第一。若通教以空相應心,修三十二相者,此約真諦修相,諦理未極,相非第一。別教明相者,緣修顯真,修緣修相,緣修既是智障相好,亦非第一。若圓教所明相好者,法身若顯,即相好具足,故《法華經》云「深達罪福相,遍照於十方,微妙淨法身,具相三十二」。法身有此玅相,眾生無由能識,為顯此相,故於應身示白毫相,表中道之理;示紺眼相,表無緣大悲。餘相亦各有表,故知此相,即是法身三十二相也。色像第一者,即是法性色也。《大涅槃經》云:「玅色湛然恒安住,不為生老病死之所遷。」此之玅色,於諸色中最為第一,故能現十法界像,如如意珠。應身色,表真色,真色理中第一。應佛身色,於所化身色第一也。「捨諸世間所有飾好」,此傳釋真相好也。非捨世間衣服、嚴飾之具,若捨此者,二乘外道亦能,何足可歎!今言捨者,若三藏教菩薩,捨人天飾好,百劫修種相,以自莊嚴,為菩提器也。若通教菩薩,捨有所得心修相好,有所得心修即是世間嚴飾,故《大智論》破百劫相,《金剛般若》云「若以色見我……是人行邪道」。若別教菩薩,捨界內空心修相好,用界外緣修,修相好也。若圓教菩薩,界內外所修皆是世間飾好,悉皆併捨,法身若顯,真相自現,故說「相好嚴身,色像第一」,豈同虗妄修因相好嚴飾也!
名稱高遠,逾於須彌。
此下三結成也,即為二意:一,結成外;二,結成內。
一、結成外者,「名稱高遠,逾於須彌」即是成外無畏也。明菩薩外化之德,遍十法界,名高物表,故言高遠逾於須彌。又解,通、別兩教明十地如十寶山,通、別兩教明佛如須彌。今圓教十地位高通、別兩教所明佛果,故言逾須彌也。又,須彌盤固高遠,法性不動,理高無上,智有顯理之功,故言逾於須彌也。
深信堅固,猶若金剛。

深く信じる心が固く、まるで金剛のようである。

二、結成內無畏法也。信有二種:一者,聞信;二者,證信。四教分別,各有位次,今但約圓教分別二信,若五品弟子一向聞信,信何等法?信不思議三德之理;若十信六根清淨,亦是聞信,亦得相似證信;若初發心住已上,亦聞信,亦真證信;佛地但證信。今此諸大菩薩,既居高位,二信圓深,故言深信。牢固者,二信不為內外諸緣之所沮壞也。「猶若金剛」譬顯深信。金剛有二義:一,利徹本際;二,體牢萬物,所不能損。一、利徹本際者,內合聞、證二信,定慧利用,窮實際也。體牢萬物,所不能沮,譬二信真慧,煩惱、生死諸緣所不能損也。

第二に、内的な無畏の法についてまとめる。信心には二種ある。一つは聞くことによる信、二つ目は悟りによる信である。四教によって分別すれば、それぞれに位があるが、ここでは円教の立場で二種の信を説明する。五品弟子の位は、ひたすら聞く信による。何の法を信じるのか。不可思議な三徳の理を信じる。十信の位で六根清浄を得た者は、聞く信もあり、相似の悟りによる信も得る。初発心住以上の位では、聞く信もあり、真実の悟りによる信もある。仏地においては、悟りによる信のみである。

今ここにいる多くの大菩薩たちは、すでに高い位にあるため、この二種の信が円満に深く備わっており、よって「深く信ず」と言うのである。「牢固」とは、この二種の信が内と外の様々な縁によって破られることがないことである。「猶若金剛」とは、深い信を譬えで示したものである。金剛には二つの意味がある。一つは、よく本来の際に徹すること。二つは、体が牢固で万物をもってしても損なうことができないことである。

第一の「よく本来の際に徹する」とは、内的に聞く信と悟る信に配すれば、定と慧の働きが深く真実の極みに至ることをいう。「体が牢固で万物をもってしても損なうことができない」とは、二種の信の真の智慧が煩悩や生死などの様々な因縁によっても損なわれることがないことを譬えるのである。

此歎內具化佗法也。

この嘆きの内には、他を導く教えが備わっているのです。

法寶普照,

法の宝が広く照らし出す。

正明化佗。此下至「及心所行」,即有三別:一,放光說法明化佗;二,正說法明化佗;三,說進修化佗法。

さて、「正明化佗」の下から「及心所行」までの部分には、三つの区別がある。第一に、光を放ち法を説いて他者を教化することを明らかにする。第二に、正しく法を説いて他者を教化することを明らかにする。第三に、修行を進めるための教化の法を説くことを明らかにする。

一、放光說法化佗者,又為二:一,正明放光說法;二,明深入緣起釋成放光說法也。

**一、光を放ち説法して他を教化する事は、さらに二つに分けられる。**

**一、はっきりと光を放って説法することを明かす。** **二、縁起の深い道理に入って、光を放って説法する理由を明らかにする。**

一、放光說法者,即為三:一,放光;二,說法;三,釋歎。
一、放光者,此釋成化佗,即是「法寶普照」。菩薩慈悲智慧,緣三諦理,生諸善法之寶也。所言普照者,入放光三昧、普光三昧故,能普照也。若諸凡夫應以世間善法得度,即入世諦三昧,放世間善法光照,令離眾苦,得世間樂;若應以出世善法得度,即入真諦三昧,放世間善法光照,令得二乘道果;若應以出世間上上善法得度,即入中道三昧,放出世間上上善法光照,即開佛知見,入菩薩位,故《華嚴經》、《思益經》悉云「佛有光明,名無慳。若放此光照眾生,即能離慳、行布施,乃至六度,一切事亦如是」,《請觀音》云「普放淨光明,滅除癡闇冥」,故《大品》先放身支節光,次放毛孔光,觸眾生身,盲者得視,聾者得聽,如是等種種世間利益,亦能令得道發菩提心。譬如網魚,初網不得者,後更網之;初光未度者,更放光度之,如是有緣者,皆得利益入道。菩薩入道亦爾,放光普照十法界,眾生皆得利益入道也。復次,若放一光止除慳,一光除瞋者,是別教意,不名普照。復次,若放二諦光,亦不名普。今此諸菩薩,能放中道圓光普照,只放一光,照一切處,皆令各得利益,隨機入道,故名法寶照也。
問:光照云何能破惡生善?
答:譬如熏藥烟𧢻,病苦即除,身得安樂。放光觸身,破惡生善,亦復如是,以光從諸善根出故,隨𧢻有緣眾生,苦悉除也。
而雨甘露。
此二明說法。雨甘露者,甘露是諸天玅藥,服之安樂不死。《中論》云:「實相,名天甘露。能令三乘,同得聖道涅槃常樂也。」實相、甘露即有二種:一,真諦實相;二,中道實相。眾生應以真諦得度,即雨偏真甘露,三乘同得化城涅槃也。若有大乘圓機,即雨中道實相甘露,即開佛知見,見佛性,住大涅槃也。故《法華經》云:「佛平等說,如一味雨。隨眾生性,所稟不同。」此諸菩薩說甘露法,亦皆如是。
於眾言音,微玅第一。
此三明釋歎雨甘露雨。此諸菩薩何故能說甘露法雨?為有微玅之言音也。微玅言音,如《法華》明舌根功德「若欲以一言遍三千界,隨意即能至」,鐵輪菩薩尚能如是,何況補處大士而不能以玅音遍滿十法界!眾生隨類各得解,普得受行,獲其利也。微玅第一者,降佛以還,一切世間言語音聲,莫能過也。又解,即是法性言音,故云「微妙第一」也。
深入緣起,
二、明深入緣起,釋成放光說法者,即有二:一,明深入緣起,此歎智德釋成放光說法;二,「斷諸邪見」以下,此歎斷德,釋成放光說法。
一、歎智德釋成放光說法者,所以能放光說法,利益深普,良由智能深入緣起也。緣起有二種:一,生死緣起;二,解脫緣起。生死緣起即是無明十二因緣,一切生死也。解脫緣起即是觀十二因緣智慧,起一切解脫佛法也。
今明「深入緣起」者,深入十二因緣生死緣起,即成解脫緣起也,故《大涅槃經》云:「十二因緣有四種觀,若深入者,得上上智,了了見佛性也。」所以者何?若觀十二因緣生滅,即是三藏菩薩調伏諸根,滿足六度,未名深入。若觀十二因緣即空,斷界內惑,即是通教菩薩,亦未名深入。若觀十二因緣知空非空入假,名破界內、外恒沙無知,得進入中道,破十一品無明,是別教菩薩,亦未名深入。圓教菩薩,一心圓觀十二因緣,從初住發真見中道,至補處破四十一品,乃名「深入緣起」也。是諸菩薩,非但入十二因緣正報緣起,亦深入世界依報緣起,知世界因緣成、世界因緣壞也;既自能深入緣起,是以能說因緣實相甘露也,深入之義意亦顯也。
斷諸邪見、有無二邊,無復餘習。
此二歎斷德釋成放光說法者,普注甘露,只以自無惑闇,能普放光照眾生闇;只以自無繫縛,能雨甘露,解眾生縛。斷諸邪見、有無二邊者,諸邪見有二種:一者,界內;二者,界外。一、界內邪見者,六十二見等種種邪見,皆屬有、無二見也。二、界外亦有種種諸見,亦竝屬有、無二見。今總界內諸見,竝是屬有邊;總界外諸見,竝屬無邊,故《大涅槃經》云「凡夫者,有;二乘者,無;菩薩之法,不有不無」。正見中道佛性,則破有、無二邊,一切邪見,故言「斷諸邪見、有無二邊」也。又解云,正觀中道,破真俗有無二邊,至金剛頂邊際智滿,中道體顯,三諦之惑方盡也。而言無復餘習者,圓教始從初住,終至法雲,圓斷有、無諸見,猶有習在;等覺入重玄門,無量百千萬億劫重修凡夫事,見理分明,習氣微薄,事等微烟,故名無復餘習。譬如一升鹽,投於大河,無復鹹味也,故《大智論》云:「有、無二見滅無餘,諸法實相佛所說。」

この二つの「断徳」の讃嘆により、放光と説法の理由を明らかにされるのです。「甘露を普く注ぐ」とは、ただ自らに惑いや闇がないからこそ、広く光を放って衆生の闇を照らすことができ、ただ自らに束縛がないからこそ、甘露の雨を降らせて衆生の束縛を解くことができる、ということです。

「諸の邪見、有無の二辺を断ず」とは、諸々の邪見には二種あります。一つは世界の内(迷いの世界)に関する邪見、二つ目は世界の外(悟りの世界)に関する邪見です。 一つ目の、世界内の邪見とは、六十二見などの様々な邪見であり、いずれも「有」と「無」という二つの見解に属します。 二つ目の、世界外にも様々な見解がありますが、これらもすべて「有」と「無」の二見に属します。 今、世界内の諸々の見解をまとめれば、すべて「有」の側に属し、世界外の諸々の見解をまとめれば、すべて「無」の側に属します。ゆえに『大涅槃経』には「凡夫は『有』に執し、二乗(声聞・縁覚)は『無』に執する。菩薩の法は、『有』でもなく『無』でもない」と説かれています。 正しく中道の仏性を観じれば、「有」と「無」の二辺と、一切の邪見を打ち破ることができます。だから「諸の邪見、有無の二辺を断ず」と言うのです。

また、別の解釈では、正しく中道を観じることで、真諦と俗諦という「有」と「無」の二辺を打ち破り、金剛の頂点(最高の智慧)に至って智慧が満ち、中道の本体が顕現すると、三諦(空・仮・中)に関する迷いが尽きる、とも言えます。

「復(ま)た余習有ること無し」とは、円教では、初めての位(初住)から最後の法雲地に至るまで、円かに「有」「無」の諸見を断じますが、なお習慣の残り(余習)があります。 等覚の位になって重玄門(何度も修行を繰り返す道)に入り、無量百千万億劫もの長い間、改めて凡夫の行いを修行し、真理を明らかに見極めると、習慣の気配は極めて薄くなり、その様子は微かな煙のようなものとなります。だから「余習が残っていない」と言うのです。 たとえば、一升の塩を大河に投じれば、もはや塩辛さが感じられなくなるようなものです。ゆえに『大智度論』には「『有』と『無』の二見は滅し尽くして余りなく、諸法の実相こそ仏の説かれたところである」とあります。

問:此不應然?

問:これはそうであるべきではないのでしょうか?

答:若常徒解釋「斷界內有無二見」,豈得銷此文也!又,若用《地論》別教解義,登地離凡夫我相障,斷有、無二見,豈得銷此文也!

答え:常人解釋で、「断界内において有無の二見を断ず」と説くならば、どうしてこの文を解釈できようか。また、『地論』の別教の解釈を用いて、「登地して凡夫の我相の障りを離れ、有無の二見を断ず」とするならば、これもまたどうしてこの文を解釈できようか。

問:此有何過?
答:三藏、通教初見道,即斷諸邪見、有無二邊,豈可用此歎補處之德!別教登初地、見佛性,斷界外邪見、有無二邊,見惑皆空,豈可用銷此文,歎補處之德也!《優婆塞經》云「九地斷見習,十地斷愛習」,《地持論》云「離一切見清淨淨禪」,此據金剛等覺之位。今約《地持論》銷此經文,一家用圓教明斷惑,義轉分明。
演法無畏,猶師子吼。
二、正說法歎化佗者,此下至「過量」,皆歎說法也。

二、まさに説法をもって他者を教化することを称える部分について。この下から「過量」に至るまでは、すべて説法を称える内容である。

初即雙舉兩譬歎化佗,成就後一總歎化佗功德無量也。

まず、二つのたとえを用いて他を教化することを称え、後に一つのまとまった形で、他を教化する功徳が計り知れないことを称賛しているのです。

初譬云師子吼,師子吼者,名決定說;決定說者,說一切眾生皆有佛性也。所言「演法無畏」者,演之言廣,心無怯弱,故名無畏。是諸菩薩,能於四不可說,用四悉檀赴緣,而廣起四教也。「猶師子吼」即是譬演實相甘露法,得無畏也。如師子吼時,非但不畏禽獸,亦能令香象失糞,飛者墮落。此諸菩薩演甘露法,非但於一切天魔、外道,及諸眾生,心無怯弱,亦令天魔失愛論糞,外道執見高心墮落,亦令一切眾生愛見煩惱皆滅。

まず「師子吼」のたとえについて説明します。師子吼とは、決定の説と名づけます。決定の説とは、すべての衆生に仏性があると説くことです。

「演法無畏」と言うのは、「演」は広く説くという意味であり、心に怯えや弱さがないから、無畏と名づけるのです。これらの菩薩たちは、四つの不可説の法に対して、四悉檀を用いて機縁に応じ、広く四教を起こすことができるのです。

「師子吼のごとし」とは、すなわち実相の甘露の法を説き、無畏を得ることを譬えています。獅子が吼える時、ただ禽獣を恐れさせないだけでなく、香象(こうぞう)をも糞を失わせ、飛ぶものをも落とさせるように、これらの菩薩たちが甘露の法を説く時、ただ一切の天魔や外道、および諸々の衆生に対して心に怯えや弱さがないだけでなく、天魔の愛論の糞をも失わせ、外道の執見の高慢な心を堕とさせ、さらに一切の衆生の愛見の煩悩をも滅ぼさせるのです。

其所講說,乃如雷震。
此次譬雨甘露法,能令生善也。《釋論》具出四種法師,雷喻多聞,雨喻美行,具在論文。今明雷以驚蟄,雨以潤生,將說甘露雨,震八音雷,用驚二邊邪見之蟄,使一切善根萌芽開發,謂三草兩木,一地所生,一切行人,宿世善根開發增長,故言「其所說法,乃如雷震」也。
無有量,已過量。
此二句總歎化佗之功無量也。此諸菩薩,神通智慧,放光說法,十方世界所化眾生無有限量,不可以阿僧祇數也。「已過量」者,其所化度,不可說也。復次,「無有量」者,七種方便行人,用思量智,所不能量也。「已過量」者,圓教十地以下不思議智,所不能知也。
集眾法寶,如海導師,了達諸法深玅之義,善知眾生往來所趣,及心所行。

多くの優れた教えを集め、大海のような導き手となり、あらゆる教えの深く微妙な意味を悟り、生きとし生けるものの赴くところや心の働きをよく知る。

此三進修化佗法,明諸菩薩化佗之功雖大,未證極果,猶須進修化佗之法,即是菩薩入等覺地,於百千萬億劫入重玄門,修化佗行。重玄門者,《地持論》云:「入住起力禪,捨復入力禪。」入者,從凡心入一切法門,乃至上地也。起力者,從等覺地一切法門,起入一切法門。住者,隨住一法門,即住一切法門也。捨復入力者,從無量百千萬億劫重修也。故《法華經》彌勒歎下方菩薩言「善入、出、住無量百千萬億三昧,得大神通,久修梵行,善能次第習諸善法,巧於問答,人中之寶」也。
「集眾法寶,如海導師」,導師者,將導眾人入海採寶,非但眾人得寶,已亦自獲。菩薩導眾生,入生死海,非但令眾生得佛法寶,化功歸已,入重玄門,法利亦多,無量無邊也,故此經云「不入大海,不得無價寶珠。菩薩不入煩惱巨海,不得一切智寶也」。補處菩薩入重玄門,無量百千萬億劫報修凡夫事,故能放光說法,利益眾生也。
了達諸法深玅之義者,菩薩入重玄門,內慧莊嚴增進也。了達是智慧之異名,諸法即是十法界一切諸法也。深妙之義,十法界諸法、二諦、三諦之理甚深,故名深見;三德不縱不橫,故名深玅義也。
「善知眾生往來所趣,及心所行」,此兩句明菩薩入住重玄門,增進外見所化眾生根緣也。此諸菩薩得真天眼,常在三昧,不以二相見諸眾生死此生彼,名往;死彼生此,名來。所趣者,知因能趣果,善、惡業緣之因,趣受報好、醜之果也。而言及心所行者,用種智知其宿世習因所行,三草兩木,一地所生,根性不同也。三草兩木,即是三藏、通教、別教七種方便善根;一地所生,即是圓教之根緣也。前明用藥,今明知病,既識藥知病,即能隨病授藥,故知住重玄門,化佗之德轉深大也。
近無等等佛自在慧。

ほとんど比べるもののない、仏の自在の智慧に近づく。

第三約隣果歎德,此文有三別:一,歎自行;二,歎化佗;三,總釋成。

第三に、隣果を約して徳を歎ずる段は、この文に三つの別がある。第一に自行を歎ずる。第二に化他を歎ずる。第三に総じて説明を成す。

一、歎自行者,復為二別:一,歎自行智德;二,歎自行斷德。

一、自己の修行を歎ずることについては、さらに二つに分けられる。第一は、自己の修行による智慧の徳を歎ずること。第二は、自己の修行による煩悩を断つ徳を歎ずること。

一、歎自行智德,復為二:
一、總歎自行智德者,即「近無等等佛自在慧」也。「無等等」者,十方諸佛無與等者,今等於十方諸佛,故言無等等;又,約理為釋,實相之理無能與等,佛種智圓極,能等實相之理,故名無等等也。若圓教初住,雖發真見理,得無等法,猶有四十一品無明,去玅覺遠,不名隣果,約佛約理,俱非近無等等;金剛心菩薩,約佛約理皆近,故言無等等。約四教作無等等義,分別可知。
十力、無畏、十八不共。
二、別歎自行智德,如《大智論》解此有二:一云,菩薩自有無畏、不共之法;二云,菩薩分得佛力、無畏、不共法。補處如十四之月,佛如十五之月,相隣近也。若約四教明力、無畏者,如三藏釋十力、無畏,皆同大乘名教,《毗曇》釋不共法,別作名教,故《大智論》彈《毗曇》云:「力、無畏名,既同大乘,不共何得別立!」今但約其斷伏分別同異名義,異非妨也。通教約照二諦,八地分得十力、無畏等,十地當知如佛近無等等也。別教明中道,初地已上分得十力等法,至十地所得十力等法,名近無等等也。圓教初住已上,明分得力、無畏、不共等法,《華嚴經》明初住云「得如來是處、非處等十力智」也;至等覺位,乃是近佛力、無畏、不共法也。此即歎隣果智德也。前云「佛自在慧」者,佛慧中無無明,故究竟自在;菩薩雖有無明,如微烟,將得佛慧,故以此為歎也。
關閉一切諸惡趣門,
此歎自行斷德。諸惡趣門者,惡趣雖多,不出二種緣集,通教菩薩見空,關閉有為緣集惡趣之門;別教菩薩見不空,關閉無為緣集惡趣之門也。此諸菩薩見佛性中道之源,故能關一切諸惡趣門也。或屬歎化佗,關閉一切眾生惡趣門也。
而生五道以現其身,為大醫王,善療眾病,應病與藥,令得服行。
此二歎化佗也。若開修羅,即是六道示現其身也。若三藏教明,帶結願生,或用神通示五道之身,於染淨土化眾生。若約通教解,明七地斷界內結,願扶餘習,生五道示現其身,亦用神通化生也。若別教明,登地以上應生,不須扶習也。若圓教明,初住以上,得一身、無量身,「清淨玅法身,湛然應一切」,即是二十五三昧力,熏生二十五有,是名「而生五道以現其身」也。今言「而生五道以現其身」者,即補處大士法身得二十五三昧,內破二十五有,關諸惡趣,慈善冥熏,隨機應現,十方示受五道身,利眾生也。「為大醫王,療治眾病」,此明既生五道,意在利物。利物者,正為治眾生結業病也。又解,對小明大,三教菩薩及圓教下地菩薩,皆是小醫;今此諸菩薩,名大醫也,亦能現八相成道,作大醫王也。療治眾病者,治界內、外一切煩惱、不善業病也。「應病與藥」者,赴機用四悉檀說四教之法藥也。「令得服行」者,眾生聞法修行,能斷界內、界外煩惱,得大、小兩乘聖道解脫也。
無量功德皆成就,無量佛土皆嚴淨。其見聞者,無不蒙益;諸有所作,亦不唐捐。
此三總釋成隣果歎也。
「無量功德皆成就」者,釋自行功德滿;「無量佛土皆嚴淨」,此釋化佗功德滿也。
「其見聞者,無不蒙益」,法身非色非聲,隨機有應,若現形、聲,必為利物,以有緣故,見形聞聲,即獲世間、出世間之益也。

「それを見聞きする者は、ことごとく利益を蒙らない者はない」とは、法身は色や声ではないが、機縁に応じて応じる。もし形や声を現すならば、必ずや生きとし生けるものを利するためである。因縁があるがゆえに、形を見、声を聞く者は、ただちに世間・出世間の利益を得るのである。

「諸有所作,亦不唐捐」,唐之言虗,捐之言棄,亦謂失也。約自行而解者,隨心所行,任運契會,必成勝因,感果不失,故言不虗棄其功也。就化佗為釋者,眾生雖不得入第一義悉檀,不失三悉檀發心、歸向、生善、破惡之利,故言不虗棄其功也。化功歸已,亦是不失也。

何かを行っても、その努力が無駄になることはありません。「唐」とは「むだ」という意味であり、「捐」とは「すてる」という意味で、つまり「失う」ともいいます。自分の修行という観点から解釈すれば、心のままに行い、自然に理にかなっていれば、必ずすぐれた因を成し、その結果を失うことはありません。だから、その功績が無駄にならないというのです。 また、他者を教化するという観点から説明すれば、たとえ人々が第一義悉檀(最高の真理)に入ることができなくても、三悉檀(世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀)による発心、帰依、善を生み、悪を破るという利益を失うことはありません。だから、その功績が無駄にならないというのです。教化の功績が自分自身に還元されることも、これを失わないということです。

如是一切功德,皆悉具足。

このように、すべての功徳をことごとく備えている。

第三結成歎德,如上來所歎功德「是諸菩薩,悉皆成就」。若依南、北摘句配地歎德,豈得言諸菩薩皆成就也!一家解釋,理自冥會也。又解云,菩薩功德無量,上所歎止是數十耳,類歎無量皆成就,不可具述也。
其名曰:等觀菩薩、不等觀菩薩、等不等觀菩薩、
第四累名證成同聞。雖歎勝德,若不的顯名字,莫知其人,故須略出五十二菩薩,以證同聞,勸信之義成也。若約四教解釋,事轉繁多,今略就三觀釋名,足知大況。「等觀」者,從二觀入中,即是不二平等,故云等觀菩薩。「不等觀」者,但就雙照二諦分別,則有無量殊別,故名不等觀菩薩也。「等不等」者,是正觀中道,雙照二諦,照中,名等;照二諦,名不等;合體用得名,名等不等觀菩薩也。此悉須用六即分別,則不混濫也:一切眾生即是實相,是為理即之等觀菩薩也;若聞實相名字,自知即是實相之理,即是名字即等觀菩薩也;若觀中道,通達無礙,即是觀行即等觀菩薩;若發相似之解,得六根清淨,名為相似即等觀菩薩;若發真明,初住以上,皆名分證真實即等觀菩薩;若照窮實相之源,名等觀佛也。今此等觀菩薩乃是分證之極位,隣究竟即,故名等觀菩薩、不等觀、等不等觀,乃至文殊師利類,須深得此意,不得一往聞「觀心即是」,而便混濫,生增上慢,作菩薩旃陀羅也。若不受此語,即是不信一切大乘經了義之說也。
定自在王菩薩、
用一心三觀,能觀心性,名為上定。得此上定,於一切真俗禪定即得自在,如國王也。

一心三観を用いることで、心の本性を観ることができます。これを「上の定(最高の瞑想)」と呼びます。この上の定を得れば、あらゆる真実や世俗の禅定において自在になり、それはまるで国王のようなものです。

法自在菩薩、

法自在菩薩がおっしゃいました。

一心三觀正觀三諦,心無滯礙,於十法界一切諸法自在也。
法相菩薩、
一心三觀,顯十法界諸法三諦法相也。
光相菩薩、
一心三觀,此之慧光,能顯實相也。
光嚴菩薩、
一心三觀,觀心智慧光明,莊嚴法身也。
大嚴菩薩、
一心三觀,觀於心性,其性廣博,猶若虗空,境大故智大,大智以嚴法身也。
寶積菩薩、
一心三觀,正觀心性雖空,具足萬行之法寶聚積,故名寶積也。
辯積菩薩、
一心三觀若與法性相應,即四辯蘊蓄也。
寶手菩薩、
三觀心成,即具權實二智之寶為手也。
寶印手菩薩、
以實相印,印一心三觀智慧手也。
常舉手菩薩、
正觀之心手上,求佛果也。
常下手菩薩、
三觀智慧手,即無緣大慈,下化眾生也。
常慘菩薩、
住正觀心悲愍眾生也。
喜根菩薩、
正觀得如來藏,如貧得寶藏,大喜充遍心也。
喜王菩薩、
一心三觀得真中道,法喜自在,如王也。
辯音菩薩、
一心三觀分別法界殊方之音,皆一心中通達無礙也。
虗空藏菩薩、
若觀心性譬如虗空,無所積聚,乃名為藏也。
執寶炬菩薩、
一心三觀具三十七品之寶炬,照顯心源也。
寶勇菩薩、
正觀心性,見一切法寶於生死意,而有勇也。
寶見菩薩、
用一心三觀觀智慧寶,了了見佛性也。
帝網菩薩、
譬如帝王法網無量,一心三觀觀三諦理,具足無量諸法之網,網一切煩惱及眾生。
明網菩薩、
如《思益經》明「光明為法網」,《大智論》釋「放光作網魚」,喻一心三觀,觀心光明網。
無緣觀菩薩、
一心三觀觀因緣畢竟不可得,不見能觀所觀,真修體顯,無緣無念,寂而常觀也。
慧積菩薩、
一心三觀,具一切智慧聚。
寶勝菩薩、
勝觀寶,勝一切世間之寶。
天王菩薩、
正觀顯第一義天,得第一義天自在如王也。
壞魔菩薩、
正觀之心能壞二邊、八魔也。
電德菩薩、
一心三觀發真見理迅速,即成三觀,譬如夜見電光,即得見道也。
自在王菩薩、
一心三觀得真我性,於一切法得自在如王也。
功德相嚴菩薩、
一心三觀能具萬善,萬善功德之相莊嚴法身也。
師子吼菩薩、
正觀中道得佛性,成師子吼三昧也。
雷音菩薩、
觀心見中道多聞,美行如雷音震吼,驚一切二邊氷蟄也。
山相擊音菩薩、
如二山相擊,音遍四方。正觀境智相應,出四辯也。
香象菩薩、
正觀無煩惱臭,能荷負一切也。
白香象菩薩、
正觀法性之本,本無黑惡之氣,而生白淨善法五分身香,故名之白;香起諸慈悲,荷負一切,如白香象也。
常精進菩薩、
正觀精進,見法性真常,成無作四正勤也。
不休息菩薩、
正觀於空、不空,不住偏空化城休息也。
妙生菩薩、
觀心不生,則一切法不生,般若妙生。
華嚴菩薩、
觀心具福慧之因華莊嚴法身。
觀世音菩薩、
《請觀音經》云:「觀於心脉,使想一處,即見觀世音也。」
得大勢菩薩、
正觀成就,降伏魔怨,制諸外道也。
梵網菩薩、
「梵」名清淨,正觀清淨法,網內、外一切眾生也。
寶杖菩薩、
觀心具功德智慧為杖,憑此法寶杖,進菩提果也。又云,眾生憑杖入中道也。
無勝菩薩、
一心三觀得實相智慧,一切世間、出世間法,莫之能勝也。
嚴土菩薩、
一心觀,心淨則佛土淨也。
金髻菩薩、
一心三觀成實相慧,名金髻者,權智也,以此嚴心、首,故云金髻也。
珠髻菩薩、
一心三觀即是實相智慧,如《法華經》明轉輪聖王髻中明珠也。
彌勒菩薩、
此云「慈氏」。一心三觀得無緣慈,如礠石吸鐵也。
文殊師利法王子菩薩,
一心三觀若見佛性,即具三德,不縱不橫,故云玅德也。
如是等菩薩,隨舉一觀門別以標菩薩名,引物歸心。若一人各具一切觀門,即名字互通,即是字等、身等、法等。其能如是解者,即於正觀心中見一切諸佛也,故《法華經》云:「若人有能信汝所說,則為見我,亦見於汝,及比丘僧,并諸菩薩。」此言何謂?《華嚴》云「十方諸如來,同共一法身,一身一智慧,力無畏亦然」,故上來佛菩薩竝約觀心明也。
問:凡夫觀心,何得用此釋諸佛、菩薩義?
答:此經自云:「諸佛解脫,當於何求?當於一切眾生心行中求。」若執文字,離心而求諸佛菩薩解脫者,可謂抱石投淵,夜遊去燭也。
如是等三萬二千人。
此是第五大段結眾數。
問:此諸菩薩,定皆是十地、等覺補處位不?
答:北方諸師,從初地至十地;南土諸師云,是八地、九地、十地也。復有師,例如《大品經》云「皆補處也」。今謂不爾,前明本迹,已判高下莫測,何須定判?
維摩羅詰經文疏卷第四

第三
第五

CBETA コード: X0338

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません