維摩羅詰經文疏卷第五(從「復有萬梵」訖「目不蹔捨」)
維摩經文疏 巻第五
復有萬梵天王尸棄等,從餘四天下,來詣佛所而聽法;
また、数多の梵天王や尸棄尊たちが、他の四天下から仏のもとに集まり、説法を聴聞しました。
此下第三辨凡夫眾,雜明諸天、八部、四眾同聞此經,為證成傳經不繆也。此中不無大、小兩乘聖人,但以從多為論。又,對前聖眾,故制為凡夫也。就此有實有權,若實隨結業受生,即是實凡;若法身菩薩住二十五三昧,破二十五有,應迹受生,即是權也。此經上歎菩薩云「而生五道,以現其身」,即其義也。又云「以眾生病,故菩薩亦病」,意在此也。
第三に、凡夫の衆生について説明します。これは諸天、八部衆、四衆が共にこの経を聞いたことを示し、経典の伝承が誤りでないことを証明するものです。ここには大乗・小乗の聖人も含まれていますが、大多数を占めるという観点から凡夫として扱います。また、前出の聖衆と対比して、凡夫と分類しています。
これには実と権の二つの側面があります。業に従って生を受けるのが実の凡夫であり、法身の菩薩が二十五三昧に安住し、二十五有を打ち破り、衆生を救済するために仮の姿で生を受けるのが権の凡夫です。この経典の前半で菩薩を讃えて「五道に生まれ、その身を現す」とあるのは、この意味です。また「衆生の病のゆえに、菩薩もまた病む」という教えも、ここに意図があります。
所以諸天、八部、四眾預座聞經者,應作四句料簡,今傍《涅槃經》云「於戒緩者,不名為緩;於乘緩者,乃名為緩」,解此乃有多途,今取一邊義便,用通此經文,具作四句分別:一,戒乘俱急;二,戒緩乘急;三,戒急乘緩;四,乘戒俱緩。若通論戒乘,一切善法、一切觀行,皆得是戒,皆得是乘。今別判戒乘不同者,三歸、五戒、十善、八齋、出家律儀,乃至定共,能防身口遮惡道果,得人天報,名之為戒。乘者,若聞經生解,若觀智推尋四諦、十二因緣生滅、無生滅理,智慧能破煩惱,運出三界,名為乘也。故《大品經》云:「有相之善,不動不出;無相之善,能動出。」但戒有麤細之殊,乘有大小之別,今明此義,即為二別:一,玄釋;二,帖經文。
そこで、天、龍八部衆、四衆など、この経を聞いて集まった方々は、次の四つの区分をもって理解すべきである。今、『涅槃経』に「戒を緩くする者は、緩しと名づけず、乗を緩くする者を、まさに緩しと名づく」とある。この解釈には諸説あるが、今は一つの意味を取り、この経文に当てはめて、四句に分けて説明する。
第一に、戒も乗も共に急(励む)こと。 第二に、戒は緩く、乗は急なること。 第三に、戒は急で、乗は緩なること。 第四に、戒も乗も共に緩なること。
広く戒と乗を論じるならば、あらゆる善い行い、あらゆる観想の実践は、すべて戒となり、すべて乗となる。しかし、ここでは特に戒と乗を区別する。三帰依、五戒、十善、八斎戒、出家の律儀、さらには禅定によって得られる戒(定共戒)など、身と口の悪を防ぎ、悪道への果報を遮り、人や天に生まれる報いをもたらすものを、戒と名づける。
一方、乗とは、経を聞いて悟りを得ること、観智をもって四諦や十二因縁の生滅・無生滅の理を探求し、智慧によって煩悩を破り、三界を超え出る力を得ることをいう。故に『大品経』に「相ある善は動かず出でず、相なき善はよく動き出づ」とある。
ただし、戒にも粗いものと細かいものがあり、乗にも大小の違いがある。ここではこの意味を、次の二つに分けて明らかにする。第一に、玄妙な解釈。第二に、経文に即した説明。
一、玄釋,略為七意:第一,明乘戒緩急值佛不同;第二,明信法兩行根性;第三,明大小兩乘根性;第四,明聞漸頓根性;第五,明菩薩應迹同凡;第六,明觀心;第七,明化佗。
一、説明を簡単に述べると、七つの要点にまとめられます。 第一に、戒律と教えの修行に緩急があると、仏に出会う緣が異なること。 第二に、信(信仰)と法(教えの実践)という二つの行いに基づく人の性質。 第三に、大乗と小乗という二つの教えに適した人の性質。 第四に、徐々に悟る教えと、直接的に悟る教えを聞く人の性質。 第五に、菩薩が凡夫と同じ姿で現れること。 第六に、心を観察すること。 第七に、他者を教化することです。
第一明戒乘緩急值佛不同者,則是正釋前四句也。
第一に、「戒と乗の緩急によって仏に値うことが同じではない」ということを明らかにするとは、すなわち、先の四句を正しく解釈するものである。
一、明戒乘俱急。戒急,受人天報,加修禪定,發定共戒,受梵天身;乘急,見佛得道,今此經諸天、四眾,來會是也。
一、戒と乗(教え)の両方を大切にすることについて説明します。戒を大切にすると、人間や天人の良い報いを受け、さらに禅定(心を落ち着ける修行)を積むことで、修行と共に自然に守られる戒(定共戒)を得て、梵天(清らかな天界)に生まれ変わります。一方、乗(教え)を大切にすると、仏に出会い悟りを得ることができます。今、この経典に集まっている天の神々や四つの集まり(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)の人々は、まさにこの両方を大切にしてきた人々です。
二、戒緩乘急。戒緩,有所毀犯,生三惡道;乘急,值佛聞法,今得聖道,龍、神、夜叉、阿脩羅、乾闥婆、緊那羅、迦樓羅伽等皆來聽法,意在此也。乃至說《大方等陀羅尼》時,婆藪從地獄出,將諸罪人共來聽法,又諸餓鬼眾亦來聽法;佛說《大涅槃經》,種種諸鬼神、鳥獸等悉來。又,《大品》佛放光地獄,即得捨地獄身,生六欲天,來下聽法,皆是往昔戒緩乘急也。
二、戒を緩くし、乗に急なるもの。戒を緩くすれば、毀犯することありて、三悪道に生ず。乗に急なれば、仏に値い法を聞きて、今聖道を得。龍・神・夜叉・阿修羅・乾闥婆・緊那羅・迦楼羅伽等、皆来たりて法を聴く。その意、ここにあり。乃至『大方等陀羅尼』を説くとき、婆藪は地獄より出でて、諸の罪人を率い、共に来たりて法を聴く。また諸の餓鬼衆も来たりて法を聴く。仏が『大涅槃経』を説きたまうとき、種々の諸鬼神・鳥獣等、悉く来たる。また『大品』にて仏が光明を放ちて地獄を照らせば、即ち地獄の身を捨てて六欲天に生まれ、来たり下りて法を聴く。これらは皆、往昔に戒を緩くし、乗に急なりし者なり。
問曰:三惡道既是難處,云何得道?
問う:三悪道は確かに苦しみの世界ですが、どのようにして悟りを得ることができるのでしょうか?
答曰:少故言不得,非都不得道也。《大智度論》云:「譬如人身有黑靨子,雖不名黑人,非不有黑。」
答え:少しあるからといって「ない」とは言えませんが、全く道を得られないわけではありません。『大智度論』にはこうあります。「例えば、人の身体に黒いあざがあったとしても、その人を黒人とは呼ばないが、黒い部分が全くないわけではない。」
三、明戒急乘緩。戒急得天人身,受諸樂報;乘緩不得值佛聞經,設得值佛聞經,亦不得入道,如舍衛國三萬億家,不得見佛;三萬億家雖得見佛,不來聽法也。上界諸天貪著天樂,不來聽法,即是其事。周時,佛興於世,雖復星殞如雨,而此土不得見佛聞經,皆其義也。
三、戒は急にして乗は緩なることを明かします。戒を急にすれば天人の身を得て、さまざまな楽の報いを受けます。乗が緩ければ、仏に値い経を聞くことができません。たとえ仏に値い経を聞くことができても、道に入ることはできません。舎衛国の三萬億の家が仏を見ることができなかったようにです。三萬億の家は、たとえ仏を見ることができても、来て法を聞こうとはしません。上界の諸天は天の楽に貪著して、来て法を聞きません。まさにそのことです。周の時代、仏は世に興りましたが、星が雨のように隕ちるといえども、この土では仏を見て経を聞くことができませんでした。いずれもその意味です。
四、明戒乘俱緩。則墮三塗,乘緩不得見佛聞經。流轉生死,未有邊際也。
四つ目に、戒律と大乗の教えの両方を怠る場合について説明します。 戒律も教えもおろそかにすれば、三悪道に堕ちます。 特に教えを怠れば、仏に会い、経典を聞くことができず、 生まれ変わりを繰り返す生死の流れに漂い続け、その果てはありません。
第二明信法兩行根性不同者,即為二意:一,信行根性;二,法行根性。
第二に、信行(信心を中心とした修行)と法行(教えを中心とした修行)の性質の違いについて説明します。ここでは二つの観点から述べます。第一は信行の性質、第二は法行の性質です。
一、信行根性者,聞慧勳習所成也。此人悉是過去多聞、受持、讀、誦、聽講、講說等人也。就此即有四:一、戒乘俱急,得人天身,見佛聞經入聖道也;二、戒緩乘急,受龍、鬼等身,值佛聞經,亦得入聖道也;三、戒急乘緩,雖生人天,受五欲樂,不得見佛聞經入道也;四、戒乘俱緩,生三惡道,不得值佛聞法,流轉生死,沈淪苦海,未有邊際也。今時義學之人,必須善得此意。
一、信心と修行の素質を持つ人とは、聞く智慧(聞慧)を積み重ねて培われた者である。こうした人々は皆、過去に多くの教えを聞き、受持し、読誦し、聴講し、また説法を行ってきた人々である。これには四つの種類がある。
一、戒律と乗(教え)の両方を精進する者は、人天の身を得て、仏に出会い、経を聞き、聖道に入ることができる。
二、戒律は緩いが乗を精進する者は、龍や鬼などの身を受けながらも、仏に遇い、経を聞き、やはり聖道に入ることができる。
三、戒律は精進するが乗が緩い者は、人天に生まれても五欲の楽を受けるだけで、仏に出会い経を聞いて道に入ることができない。
四、戒律も乗も共に緩い者は、三悪道に生まれ、仏に遇い法を聞くことができず、生死に流転し、苦海に沈み続けて、その果てしがない。
今の時代に教えを学ぶ者たちは、この意味をよく理解しなければならない。
二、法行根性者,修慧勳習所成,即是過去坐禪觀行之人,乘戒四句分別得失,類信行根性可知,但利根有殊,少有所聞即能觀達,為異也。坐禪觀行人,亦深須在意也。
第二に、法によって修行する性質の者についてです。これは智慧を修める習慣によって培われたもので、過去に座禅や観想の修行をした人々のことです。戒律と教えの四つの組み合わせによって得失を分別する点は、信によって修行する性質の者と同じですが、利根(鋭い才能)の違いがあります。わずかに聞いただけで観想して理解できるという点が異なります。座禅や観想の修行をする人も、深く注意を払う必要があります。
第三明大小根性不同者,還約信法兩種根性,各有大小根性不同。即為二:一,信行;二,法行根性。
第三に、衆生の素質(根性)の大小の違いについて明らかにします。これは再び「信」と「法」の二つの修行方法に基づいて、それぞれに大小の根性の違いがあることを示します。すなわち、次の二つに分かれます:第一に、信仰によって修行する根性(信行);第二に、経典の教えによって修行する根性(法行)です。
一、明信行根性,二種不同:一,大乘根性信行人;二,小乘根性信行人。
一、明晰なる信心の人の根性には、二種の違いがあります。第一に、大乗の根性を持つ信心の人。第二に、小乗の根性を持つ信心の人です。
初、大乘根性信行人,過去聞大乘,戒乘俱急,戒急生人天,乘急還聞大乘,從聞得悟。餘三句,得失不同,類前可知。
まず、大乗の素質を持つ学び手(信行人)は、過去に大乗の教えを聞いたことがあります。戒律と教え(乗)の両方を大切にし、戒律を重んじた結果、人間や天界に生まれ、教えを心から求めたため、再び大乗の教えを聞く機会を得ます。その教えを聞いて悟りを開くのです。残りの三つのケース(戒急乗緩、戒緩乗急、戒乗俱緩)については、功徳や過ちの違いがそれぞれありますが、これまでの説明と同様の考え方で理解できるでしょう。
次、小乘根性信行人,過去聞小乘,戒乘俱急,戒急生人天,乘急還聞小乘,從聞得悟;餘三句,得失不同,類可知。
次に、小乗の資質を持つ「信行人」についてです。彼らは過去に小乗の教えを聞き、「戒(戒律)」と「乗(教え)」の両方を熱心に実践しました。戒を守った功徳で人間や天界に生まれ、乗を実践した縁で再び小乗の教えを聞き、その教えによって悟りを得ました。残りの三つのケース(戒急乗緩、戒緩乗急、戒乗倶緩)については、得るところに違いがありますが、同じように理解できるでしょう。
二、明法行根性,亦有大小兩乘根性不同。戒乘緩急四句,類信行可知。但過去修觀行利根少聞,自惟見理,為異耳。
法行の根性を明かすに、大小二乗の根性に異なるものがある。戒と乗の緩急に関する四句については、信行において説明した通りである。ただし、過去に観行を修行してきた利根の者は、聞くことが少なくても、自ら道理を見極めるという点で異なっている。
第四明頓漸根性不同,即為二:一,明大乘法兩行各有頓根性;二,明小乘信法兩行各有漸根性。
第四に、頓と漸の根性の違いを明かす。これには二つの点がある。第一に、大乗の法と行の二つには、それぞれ頓の根性があることを明かす。第二に、小乗の信と法の二つには、それぞれ漸の根性があることを明かす。
一、明大乘信法兩行各有頓根性,即為二:
一、大乗の信心と修行には、それぞれ頓悟の素質を持つ者がいる。これについては二つに分けられる。
初、明大乘信行頓根性,若從無量劫來聞大乘經,受持、讀、誦、解說、書寫,若乘戒俱急,即生人天,釋、梵身,值盧舍那,聞七處八會之說,入佛知見,譬如日出,前照高山。若戒緩、乘急,墮三惡道,受龍、鬼、脩羅、摩睺伽、風雨神等身,見盧舍那,亦聞七處八會之說,悟解大乘,入佛知見。戒急、乘緩雖受人天之身,佛值舍那,聞七處八會之說。若乘戒俱緩,墮三惡道,不得值佛聞七處八會之說,流轉生死,未有邊際。
まず、大乗の教えを信じ実践する、とっつきやすい性質の人について説明します。もし無限の過去から大乗経典を聞き、それを受け止め、心に留め、読み、暗唱し、解説し、書き写してきたなら、戒律と修行の両方をしっかりと守っている人は、人間や天人の世界、あるいは帝釈天や梵天などの身分に生まれ変わります。そして盧舎那仏に出会い、七つの場所と八つの集まりで説かれた教えを聞いて、仏の知見に入ることができます。これは、太陽が昇る時、まず高い山々を照らすようなものです。
もし戒律は緩いが修行に熱心な人は、三つの悪道に落ち、龍、鬼、阿修羅、摩睺羅伽、風神や雨神などの姿を得ます。しかしそれでも盧舎那仏を見て、七つの場所と八つの集まりの教えを聞き、大乗を悟り理解し、仏の知見に入ることができます。
戒律は堅く守るが修行が緩い人は、人間や天人の身を受けますが、盧舎那仏に出会い、七つの場所と八つの集まりの教えを聞くことができます。
もし戒律も修行も共に緩い人は、三つの悪道に落ち、仏に出会うことも、七つの場所と八つの集まりの教えを聞くこともできません。生死の流れの中を巡り続け、その果てはありません。
次、明大乘法行頓根性,即是過去學大乘,坐禪修一心三觀,假中、中假觀行之人,乘、戒、急、緩四句得失,類大乘信行可知。但利根少有所聞,自能觀達,致有異耳。
次に、大乗の法を行ずる頓根の性根について明かします。これは過去世において大乗を学び、坐禅を修して一心三観を実践し、仮中・中仮の観行を修めた人々のことです。乗・戒・急・緩の四句による得失は、大乗の信行に類推すれば理解できるでしょう。ただし、利根の者は少し聞くだけで自ら観達することができるため、その点が異なるのです。
二、明小乘信法兩行漸根性人,即為二:
二、小乗の教えにおける「信」と「法」の二つの修行のあり方について、次第に悟りを開く根性の人々を説明する。これには二つの区分がある。
一、信行漸根性人,既無頓悟之機,不預《華嚴》七處八會之說,由有漸悟之根緣,得聞三藏、方等、大品、法華等教,但須分別戒、乘、急、緩四句,行有得失之殊,類前知,此如《涅槃經》明毒鼓之喻,若聞毒鼓聲,近者亦死,遠者亦死。「近者死」喻聞華嚴之教始見佛身,即便信受,入如來慧。「遠者亦死」即喻於漸悟根緣,初作二乘,遠離佛道;次聞方等、般若,至法華、涅槃,即皆巳如來滅度而滅度之,喻如聞毒鼓聲,遠者亦死。五味相生,即其意也。
一、信仰と修行において少しずつ悟りへ進む性質の人々は、即座に悟る機縁がないため、『華厳経』の七つの場所での八回の説法には縁がありません。彼らが少しずつ悟る性質があるために、三蔵、方等(大乗経典)、大品(大般若経)、法華経などの教えを聞くことができます。ただし、戒律(戒)と智慧(乗)のどちらを重視するか、また急と緩との四種類の組み合わせを正しく見分ける必要があり、修行には良い結果と悪い結果の違いがあります。これは前の分類に従って理解すべきことで、『涅槃経』で毒鼓の喩えが説かれている通りです。毒鼓の音を聞けば、近くにいる人も死に、遠くにいる人も死にます。「近くにいる人が死ぬ」とは、華厳の教えを聞いて初めて仏の姿を見た者が、すぐに信仰し受け入れて、如来の智慧に入ることを喩えています。「遠くにいる人も死ぬ」とは、少しずつ悟る性質の者が、最初は二乗(声聞・縁覚)として仏道から遠ざかり、次に方等や般若の教えを聞き、法華経や涅槃経に至って、皆すでに如来の滅度によって滅度されることを喩えています。これは、毒鼓の音を聞いて遠くにいる人も死ぬことにたとえられます。五味相生(五味の順序に従って調理されること)の考え方も、同じ意味を示しています。
今此不思議解脫法座而有天龍八部為同聞眾者,即是戒急乘急、戒緩乘急。
この不思議な解脱の教えの法座には、天や龍などの八部の神々が共に聞く者として集まっています。彼らは戒律を固く守りながらも修行に励む者、あるいは戒律を緩やかに守るけれども修行に励む者なのです。
信法兩行,大小、漸頓根緣,唯得戒乘俱急、戒緩乘急二種根性,值佛聞經得道。
信と法の二つを共に実践する中で、大乗・小乗、頓悟・漸悟の区別や、それぞれの機根(能力)や縁に応じた違いがあります。ただ、「戒(道徳的な実践)も教えの学びも両方大切にする人」と「戒はやや緩くても教えの学びを優先する人」という二種類の性質(根性)を持つ者だけが、仏に出会い、教えを聞いて、悟りを得ることができるのです。
問曰:戒急乘緩、戒乘俱緩,亦有信法兩行根緣,何當得道?
問う:戒律を急ぎ、教えを怠る者、あるいは戒律も教えも共に怠る者、さらに信仰と修行の両方を行う素質や縁を持つ者がいますが、いつ道を得ることができるのでしょうか?
答曰:若值如來,即為作乘戒俱急因緣;若不值佛聞經,即於正、像佛法,為作戒乘俱急因緣。故如來將入涅槃,遺囑令依波羅提木叉住,四念處修道;又付囑流通,皆為作信行乘戒俱急因緣也。
答えましょう。もし如来に出会えば、戒律と教えの両方を大切にする因縁を作ります。もし仏に出会うことなく経典を聞くことができれば、正法・像法の時代に、戒律と教えの両方を大切にする因縁を作るのです。だからこそ、如来が涅槃に入られる際に、「波羅提木叉(戒律)に依って住し、四念処によって修行せよ」と遺嘱されました。さらに、経典の流布を託されたのも、すべて信仰と実践を兼ね備えた人々の因縁を整えるためなのです。
問曰:若但作戒乘俱急因緣,何得復有戒緩乘急之根緣也?
問うていわく、「もしただ戒乗ともに急なる因縁のみあらば、何ゆえにまた戒緩乗急の根縁あることを得るや。」
答曰:諸佛如來用安隱道為作因緣,但眾生罪垢深重,雖受持大乘坐禪觀行,不能淨持梵戒,致成戒緩乘急之根緣也。雖復戒緩,墮三惡道,未來若值彌勒千佛出,得聞漸頓之教,便得入道,故《涅槃經》云「於戒緩者,不名為緩」,即其義也。「於乘緩者,乃名為緩」,乘緩戒急,雖生人天,受五欲樂,不值佛聞經,果報若盡,流轉生死,是故於乘緩者,乃名為緩也。故云「寧為調達,死入地獄;不作鬱頭藍弗,生天受樂」,調達本得燸法,惡業退墮,地獄出,得人身,成辟支佛,聰明利智,過舍利弗;鬱頭藍弗雖得生天,天福報盡,即墮三塗,生死流轉,未有邊際也。
答え:諸佛・如来は、安らかなる道をもって因縁をなす。しかし、衆生の罪の垢は深く重いため、たとえ大乗を受持し、坐禅や観行を修行しても、清らかに梵戒を保つことができず、戒が緩んで乗が急であるという根縁となるのである。戒が緩んでいても三悪道に堕ちるが、未来に弥勒や千仏の出現に遇えば、漸頓の教えを聞き、道に入ることができる。ゆえに『涅槃経』に「戒において緩き者は、緩きと名づけず」とあるのは、この意味である。「乗において緩き者は、乃ち緩きと名づく」とは、乗が緩んで戒が急なる者は、人天に生まれ五欲の楽を受けても、仏に遇い経を聞くことがなく、果報が尽きれば生死に流転するからである。よって乗において緩き者を、乃ち緩きと名づけるのである。ゆえに「寧ろ調達となり、死して地獄に入らんも、鬱頭藍弗となり、天に生まれて楽を受くることなかれ」と言う。調達はもと燸法を得ていたが、悪業によって退堕し、地獄より出でて人身を得、辟支仏となり、その聰明利知は舎利弗を超えていた。一方、鬱頭藍弗は天に生まれて楽を受けたが、天の福報が尽きれば三塗に堕ち、生死に流転してその際限がないのである。
第五明菩薩應迹同凡者,為接有緣共往佛所聽經也。法身菩薩住二十五三昧,眾生二十五有機感,即應受二十五有之身,若受四惡趣身,即是無垢三昧、不退三昧、心樂三昧、歡喜三昧,慈善根力故,受四趣之身,為引戒緩乘急信法兩行、大小兩乘、頓漸根性眾生來聽釋迦漸頓二教,令入道。若戒乘俱緩,為作俱急因緣也。次住如幻三昧等二十一三昧慈善根力,受人天二十一種之身,為引乘戒俱急信法兩行、大小兩乘、漸頓眾生皆來聽漸頓兩教,令得入道;二為戒急乘緩著人天樂,令修乘戒俱急之因緣也。今不思議法座天龍八部、四眾之中,有法身菩薩現受八部、四眾之身,即其義也。
第五に、菩薩が凡夫に応じて同じ姿を現すのは、縁ある者を導き共に仏のもとへ赴き、経を聞かせるためである。法身の菩薩は二十五の三昧に住み、衆生は二十五有の機感を持つ。それに応じて菩薩は二十五有の身を受ける。もし四悪趣の身を受けるならば、それは無垢三昧・不退三昧・心楽三昧・歓喜三昧の慈悲の根の力によるものである。この四趣の身を受けて、戒は緩いが乗は急な者、また法と行の両方、大乗と小乗、頓教と漸教の根性を持つ衆生を導き、彼らをして釈迦の漸教・頓教の二教を聞かせ、道に入らせるのである。もし戒も乗も共に緩い者には、共に急となる因縁を作るのである。
次に、如幻三昧などの二十一の三昧の慈悲の根の力により、人天の二十一種の身を受ける。これは戒も乗も共に急な者、また法と行の両方、大乗と小乗、頓教と漸教の根性を持つ衆生を導き、皆をして漸教・頓教の二教を聞かせ、道に入らせるためである。また、戒は急だが乗は緩く人天の楽しみに執着する者には、乗も戒も共に急とする因縁を修めさせるためである。
今、この不可思議な法座には天竜八部や四衆がいるが、その中に法身の菩薩が八部や四衆の身を現している者がいる。これこそがその意味である。
第六約觀心,若人觀行,莫問大、小兩乘,若乘戒俱急,未來當受人天之身,得見彌勒,聞法入道;若戒緩乘急,未來當受三惡道身,得見彌勒,聞法入道;若戒急乘緩,未來受人天之身,不見彌勒,設使得見,著樂放逸,不能親近;若戒乘俱緩,未來墜墮三途,終不值佛聞經,設使見聞,終不能發心歸向。若不能坐禪、觀行、讀誦、講說,即成信行根性,戒、乘、急、緩得失可知。
第六に、心を観じる修行について考える。人が修行を行う場合、大乗・小乗のどちらであっても、戒律と教えの修行(乗)がともに精進していれば、来世では人や天の身を受け、弥勒菩薩に出会い、教えを聞いて悟りの道に入ることができる。戒律は緩いが教えの修行が精進していれば、来世では三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の身を受けるが、それでも弥勒菩薩に出会い、教えを聞いて悟りの道に入ることができる。戒律は精進しているが教えの修行が緩ければ、来世では人や天の身を受けるが、弥勒菩薩に出会うことはなく、たとえ出会えても楽しみや放逸に執着して、親しむことができない。戒律も教えの修行もともに緩ければ、来世では三悪道に堕ち、ついに仏に出会い経典を聞くことはなく、たとえ見聞きしても、心を発して帰依することができない。もし坐禅や観行、読誦や講説ができないならば、それは信心を修行の根性とする者となり、戒律と教えの修行の精進・緩慢による得失は、このようにして知ることができる。
第七明化佗者,若觀行純熟,坐禪、講說,當觀看心行,用此四意分別得失,即見所化之人行業不同,未來苦樂昇沉、入道得失,宛然可知,當以此意而導之。
第七に、他人を教化する方法を示します。もし観行(心を観察する修行)が純熟して、座禅や講説を行うなら、そのときは心の動きを観察し、この四つの意味を用いて得失を分別すべきです。そうすれば、教化すべき人の行業が同じではなく、未来の苦楽や昇沈、入道の得失が明瞭に分かります。この意味をもって、導くべきです。
第二釋經文。就辨凡夫眾為四:一,明梵天眾;二,明釋天眾;三,明八部眾;四,明四部眾。
まず経典の本文を解釈します。ここに述べられている凡夫の集まりは四つに分けられます。第一に梵天の集まり、第二に釈天の集まり、第三に八部の集まり、第四に四部の集まりです。
一、明萬梵天王者,「梵」是天竺語,此翻為離,或云淨行。梵王是娑婆世界主,住初禪中問,《毗曇》云「二禪以上,無言語法,不立王也」,《瓔珞經》明「禪禪皆有梵王」。今謂但加修無量心,果報勝故為王,無有統御也。初禪有覺觀,言語則有主領之事,故作娑婆世界主也。此由往昔戒乘俱急,戒急得初禪,加修四無量心,得生梵天為王,領初禪諸梵來聽法也。若菩薩應迹,即是白色三昧,種種三昧力薰,故生初禪梵天,化引諸梵眾來聽大乘也。
一、明梵天の王について。「梵」はインドの言葉で、中国語では「離」と訳され、「清らかな行い」ともいいます。梵王はこの娑婆世界の主であり、初禅の境地に住んでいます。『毘曇』には「二禅以上には言葉による教えがなく、王を立てることもない」とありますが、『瓔珞経』には「禅の境地ごとに梵王がいる」と説かれています。
ここで私(智顗)が考えますに、ただ無量心(慈悲喜捨の四無量心)を修行することに専念し、その果報が優れているがゆえに王となるのであって、実際に人々を統べ治めることはありません。初禅には覚(粗い思考)と観(細かい観察)があり、言葉によるやり取りがあるため、統率する役割が生じ、そのために娑婆世界の主となるのです。
これは、過去世において戒律と智慧の修行をともに大切に行い、戒律を守ったことで初禅を得、さらに四無量心を修行して梵天に生まれ王となり、初禅の諸々の梵天を率いて法を聞きに来るというわけです。
また、菩薩が仮の姿として現れる場合は、白い色の三昧(白色三昧)を体現し、様々な三昧の力で心を薰(くん)じることで、初禅の梵天に生まれ、多くの梵天の衆生を導いて大乗の教えを聞かせるのです。
所言「尸棄」,此翻云火,或云火首。又言翻為蠡髻也,頂上肉髻似蠡,故名蠡髻也。望《法華.序》,恐是二禪王也。又言「等」者,等三禪、四禪王也。此皆是往昔戒、乘俱急,戒急得二禪、三禪、四禪,悉加修四無量心,隨禪生上天也;乘急,故來聽法也。若菩薩應迹,即是住雙三昧,生二禪;雷音三昧,生三禪;霔雨三昧,生四禪,引諸梵眾來聽法也。
「尸棄」とは、ここでは「火」あるいは「火の頭」と訳します。また、「蠡の髻(かいのうず)」と訳されることもあり、頂上の肉髻(にっけい)がほら貝のような形をしていることから、蠡髻と呼ばれます。『法華経』の序品を見ると、おそらく第二禅天の王であると考えられます。また、「等」と言うのは、第三禅天と第四禅天の王も同様に含むことを示します。これらはいずれも、過去世において戒律と大乗の教え(乗)の両方を重要なものとし、戒律を守ったことで第二禅、第三禅、第四禅の境地を得て、さらに四無量心(慈悲喜捨)を修めたことにより、それぞれの禅定に対応する天に生まれました。そして、大乗の教えを重んじた(乗急)ために、法を聞きに来るのです。もし菩薩が応現した姿であるならば、それは双三昧に住して第二禅に生まれ、雷音三昧に住して第三禅に生まれ、霔雨三昧に住して第四禅に生まれ、様々な梵天の衆生を導いて法を聞かせるのです。
問曰:何故從餘四天下來?
問い:なぜ他の四つの天下から来るのか?
答曰:上界處空浩漫,來處難知,以下擬上,則知當向,故言從餘四天下來也。
答え:上の世界は広大で、どこから来たのか知りがたい。下の世界をもとに上の世界を推し量れば、進むべき方向がわかる。だから「他の四天下から来た」と言うのだ。
復有萬二千天帝,亦從餘四天下來在會座;
さらに、一万二千の天の帝王たちも、他の四つの天下からこの集会にやって来ていた。
此第二明釋眾。「帝」是釋提桓因,地居天主也;釋提因,翻為能作。若此間釋提桓因,昔迦葉佛滅度後,有塔頹壞,有一女人,發治塔;復有三十二人發心助治塔。治塔功德,作忉利天主;三十二人助治塔者,作三十二輔臣。君臣合數,名三十三天。此諸天帝及眷屬,皆是往昔戒、乘俱急,加修淨施諸功德,故得生彼天,以乘急故,同來此會也。菩薩權迹,天帝及眷屬,皆是難伏三昧薰生彼天,為引著樂諸天來聽法也。
この第二は衆を明かす部分です。「帝」とは釈提桓因のことで、地に住む天の主です。釈提因は「能作」と訳されます。この世間の釈提桓因は、昔、迦葉仏が滅度された後、塔が壊れていたのを、一人の女人が塔を修復しようと発心し、さらに三十二人も発心して塔の修復を助けました。塔を治めた功德によって忉利天主となり、三十二人の塔の修復を助けた者は三十二の輔臣となりました。君臣を合わせた数から三十三天と名づけられます。この諸天帝とその眷属は、みな往昔に戒と乗の両方を急ぎ努め、さらに清らかな布施などの諸功德を修めたので、彼の天に生まれることができ、乗を急いだために同じくこの会に来たのです。菩薩の権跡として、天帝とその眷属は、みな難伏三昧の薫りによって彼の天に生まれ、楽しみに執着する諸天を導いて法を聞かせるためなのです。
「從餘四天下來」者,此四天下,但有一天帝,今既有萬二千,故說從餘四天下來也。
「他の四天下から来た」というのは、この四天下には通常ただ一人の帝釈天しかいません。しかし、ここでは一万二千もの帝釈天がいることから、他の四天下から来たと説かれているのです。
問曰:上界勝天甚多,何故別出梵王、帝釋也?
問い:上の世界には、もっと優れた天がたくさんいるのに、なぜ特に梵王や帝釈天を取り上げるのですか?
答曰:梵王色界初天,又是娑婆世界主,故須別出;又是請佛轉法輪主,又是佛檀越,故別。先辨又言等者,等上色界也,天帝是欲界地居天主,亦請轉法輪主,亦是佛檀越主也。
梵王は色界の最初の天であり、また娑婆世界の主でもあります。そのため、特に別に扱う必要があります。また、梵王は仏に法輪を転ずるよう請うた主であり、仏の檀越(施主)でもあります。そのため、別に記されているのです。まず、「また」という言葉について説明します。これは先に述べた色界の天を指しています。帝釈天は欲界の地居天の主であり、やはり法輪を転ずるよう請うた主であり、また仏の檀越の主でもあります。
并餘大威德諸天、龍、神、夜叉、乾闥婆、阿脩羅、迦樓、緊那羅、摩睺羅伽等,悉來會座。
そして、その他の大威徳ある天や龍、神、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽たちも、皆この会座に集まった。
此是第三累八部眾。八部義,多有所關,今不具辨,但案此經文釋八部。
これは第三の八部衆です。八部の意味には様々な説明が関連していますが、今は詳しく論じず、ただこの経典の文に基づいて八部を解釈します。
「并餘大威力諸天」,大威力通貫八部,取勝而說,悉是大威力也。上所辨天,但出梵王、天帝欲色大威力,諸天及眷屬竝來會座。今更總出欲界有四天王,及炎摩、兜率、化樂天、佗化自在天,各有王眷屬與眷屬俱來聽法也。若色界四禪,亦是五那含天王及眷屬,此皆往昔戒乘俱急,及加修禪,故生彼天,乘急與諸眷屬皆來聽法也。若菩薩權迹生此等天者,住不動三昧,生四天王天;悅意三昧,生炎摩天;青色三昧,生兜華天;黃色三昧,生化樂天;赤色三昧,生佗化自在天;照鏡三昧,生五那含天,皆為引此諸天來聽法也。
「並びにその他の大威力ある諸天」とは、大威力は八部全てに通じ、優れたものを取って言えば、全て大威力ある者である。上に述べた天は、梵王・帝釈天の欲界・色界における大威力ある者のみを挙げたが、諸天とその眷属が皆、法会に集まっている。さらにここでは、欲界には四天王、および焔摩天・兜率天・化楽天・他化自在天がいることを総じて挙げる。それぞれの王とその眷属が共に来て、法を聴聞する。また、色界の四禅については、五那含天の王とその眷属である。彼らは皆、過去世において戒と乗(教え)の両方を精進し、さらに禅定を修めたがゆえに、その天に生まれた。乗を急ぐ者とその眷属が皆、来て法を聴くのである。もし菩薩が権化としてこれらの天に生まれる場合は、不動三昧によって四天王天に生まれ、悦意三昧によって焔摩天に、青色三昧によって兜率天に、黄色三昧によって化楽天に、赤色三昧によって他化自在天に、照鏡三昧によって五那含天に生まれる。いずれもこれらの諸天を導いて法を聴かせるためである。
問曰:無想天、四無色何不來也?
質問:無想天や四無色界の天人は、なぜやって来ないのですか?
答曰:無想是外道天,菩薩住如空三昧,亦生彼天,從多為論,往昔戒急乘緩,多不來也。四無色天,菩薩住無礙三昧,生虗空處;住常三昧,生識處;住樂三昧,生不用處;住我三昧,生非有想非無想處。亦生彼天,但彼無色,故不來聽法;設來,無色不可見,不可用證成同聞也。如此等諸天所未辨,故重云諸天也。
答えよう:無想天は外道の天である。菩薩は空のような三昧に安住して、その天に生まれることもあるが、多くは戒律を重視して修行を軽んじたため、来ないことが多い。四無色天については、菩薩は無礙三昧に安住して虛空処に生まれ、常三昧に安住して識処に生まれ、楽三昧に安住して無所有処に生まれ、我三昧に安住して非有想非無想処に生まれる。菩薩もその天に生まれることはあるが、彼らは無色であるため、法を聞きに来ない。たとえ来ても、無色のため姿が見えず、証として共に聞いたことを示すこともできない。これらの諸天はまだ分別を尽くしていないため、改めて「諸天」と呼ぶのである。
「龍」者,是畜生道,正報似蛇,依報有七寶宮殿,與天相似,亦能變作甚端正人,往昔戒緩乘急也。戒緩墮龍,布施得好依報,似天;乘急故,與眷屬來聽法也。如僧護比丘為四龍說法,閉口遠去,而聞法即悟也。菩薩住不退三昧生龍道,引諸龍聽法也。
「竜」とは、畜生道に属する生き物です。本来の姿は蛇に似ていますが、住む場所には七宝で飾られた宮殿があり、天界にも似た環境を持っています。また、非常に美しい人の姿に変わることもできます。これは、過去に戒律を軽んじていたものの修行を熱心に行っていたためです。戒律を軽んじた報いとして竜に生まれましたが、布施を行ったことで天界に似た良い住環境を得ました。そして修行に励んだ功徳により、眷属を連れて仏法を聞きに来るのです。例えば、僧護比丘が四匹の竜に説法をした時、彼らは口を閉じて遠くへ去りましたが、その法を聞いて悟りを得ました。菩薩は不退転の三昧に安住したまま竜道に生まれ、多くの竜たちを導いて仏法を聞かせるのです。
「神、夜叉」皆是鬼道,「夜叉」此翻云輕疾,有三種夜叉:一,在地;二,在虗空;三,在天為天給使。此皆戒緩乘急,毀戒故,墮鬼神;以惡毒故,受夜叉身,少行布施,亦微有果報,車馬施故,故能飛空而行。乘急故,得與眷屬來聽法也。若菩薩迹同,即是住心樂三昧,作神、鬼、夜叉,引其來聽法也。
「神」や「夜叉」はいずれも鬼道に属します。「夜叉」とはサンスクリット語で「軽やかで素早い」という意味で、三種の夜叉があります。第一は地に住むもの、第二は虚空に住むもの、第三は天に住み天の使いとなるものです。これらの者たちは戒律を軽んじる一方で教えを修めること(戒緩乗急)があったため、戒を破った報いで鬼神の世界に堕ちました。さらに悪毒な心を持ったために夜叉の身を受け、わずかに施しを行った功徳により多少の果報を受けます。車や馬を施した功徳によって空を飛ぶことができ、また教えを修めた功徳によって眷属と共に法を聞きに来るのです。もし菩薩が同じ姿を取るならば、それは心を三昧に安住させ、神・鬼・夜叉として現れ、彼らを導いて法を聞かせようとしているのです。
「乾闥婆」,此翻云香陰,此是陵空之神,不噉酒、宍香,唯須香資五陰。又云,是天主幢倒樂神,居十寶山,身異相現,即上天奏樂,往世好觀聽妓樂,戒緩墮鬼神,作樂神布施,果報似諸天也。
乾闥婆は「香陰」と訳されます。これは空中を飛ぶ神で、酒や肉を食べず、香りだけを栄養とします。また、天帝の幢倒楽神とも言われ、十宝山に住み、様々な姿を現します。天に上って音楽を奏でる存在で、前世で音楽や舞踊を好み、戒律を軽んじたために鬼神の道に落ちましたが、布施の功徳により天人のような果報を得ています。
「阿脩羅」,舊言無酒,或言身大,採四天下華於海釀酒不成,故言無酒。又翻云非天,此神果報最勝,隣亞諸天而非天也。又翻云不端正,唯生女舍脂端正,父、兄、眷屬皆醜,故云不端正也。有言「男醜、女端正」,此神往昔嫉妬好𱙍佗,故受報恒多怖畏也。此亦是戒緩乘急,戒緩墮脩羅,乘急故聽法也。菩薩住歡喜三昧,應生彼,引來聽法也。
「阿修羅」は、古くは「酒なし」、あるいは「身が大きい」とも言われ、四天下の花を集めて海で酒を醸造しようとしたが成功しなかったため、「酒なし」と呼ばれます。また「非天」と翻訳されることもあり、この神の果報は最も優れており、天に近く匹敵しますが、天そのものではありません。さらに「不端正」と翻訳され、ただ娘の舎脂だけが端正で、父や兄、眷属は皆醜いため、「不端正」と呼ばれます。「男は醜く、女は端正である」という説もあります。この神は過去世において嫉妬深く、他者をよく欺いたため、その報いとして常に多くの恐れや怖れを受けるのです。これもまた戒を緩くし、乗(教え)を急いだ結果であり、戒を緩くしたために阿修羅に堕ち、乗を急いだために教えを聞くことができるのです。菩薩は歓喜の三昧に住し、その界に生まれて、彼らを導き教えを聞かせます。
「迦樓羅」,此翻云金翅鳥,此畜生道攝,亦是往昔戒緩乘急,戒緩多慢,故墮迦樓羅,行布施故,頸下有如意珠,以龍為食也;以乘急故,得來聽法也。菩薩住不退三昧,迹同受生,引來聽法也。《華嚴經》云「法身金翅鳥,四如意為足,慈悲明淨眼,住一切智樹。菩薩金翅鳥王,生死大海中,搏撮天人龍,安置涅槃岸」,此是不退三昧金翅法門也。當知,法身住諸三昧,龍、神、阿脩羅等,皆有法門,類金翅可知也。
迦楼羅は、これを訳して「金翅鳥」という。これは畜生道に属するものである。また、過去世において戒律を軽んじて禅定を重視し、戒律を軽んじて傲慢であったために、迦楼羅に堕ちた。布施を行ったことにより、その首の下に如意宝珠を持ち、竜を餌としている。また、禅定を重視したことにより、法を聞きに来ることができるのである。菩薩は不退転の三昧に安住し、その迹においては同じく受生し、彼らを導いて法を聞かせるのである。『華厳経』には「法身の金翅鳥は、四つの如意足を足とし、慈悲と明浄の眼を持ち、一切智の樹に住す。菩薩の金翅鳥王は、生死の大海の中で、天・人・竜を捕らえ、涅槃の岸に置く」と説かれている。これが不退転の三昧における金翅の法門である。知るべきである。法身は諸々の三昧に住し、竜や神、阿修羅など、すべてに法門があることは、金翅の例によって類推して知ることができる。
「緊那羅」,此翻云疑神,頭上有角,諸天絲竹之神果報小弱乾闥婆,此亦往昔戒緩乘急,好樂音樂,生鬼神道作樂神,少修功德,微有果報也,乘急故來聽法。菩薩住心樂三昧生彼,引來聽法也。
緊那羅は、漢訳では「疑神」とも訳されます。頭に角があり、天界の音楽を司る神ですが、その果報は小さく、乾闥婆よりも劣ります。乾闥婆もまた、過去世において戒を軽んじながらも乗(教え)を重んじ、音楽を好んだため、鬼神の道に生まれて楽神となりましたが、わずかな功徳しか修めておらず、果報もわずかです。しかし、乗を重んじていたことから、法を聞くためにやって来るのです。菩薩は心楽三昧に安住することで彼らを導き、法を聞かせるために招き寄せるのです。
「摩睺羅伽」,此是蟒神,亦云地龍,無足腹行神,即世間廟神,受人酒肉,悉入蟒腹,此亦戒緩乘急,毀戒邪諂多瞋,少行惠施,貪嗜酒肉,戒緩墮鬼神而多瞋,蟲入其身而唼食之,少行施謙敬,得人供養,多送酒肉,乘急值佛聞法。菩薩住心樂三昧,現受此身,引其聽法也。
「摩睺羅伽(まごらが)」とは、蟒蛇(うわばみ)の神であり、地竜とも呼ばれます。足がなく、腹で這う神です。世の中の祠(ほこら)の神として、人々が供える酒や肉は、すべてその蟒の腹に入ります。これは戒律を軽んじ、教えを重んじるものの、戒を破り、邪(よこしま)で諂(へつら)い、怒りが多い一方、施しはほとんど行わず、酒や肉を好む者たちです。戒を軽んじたために鬼神に堕ち、多くの怒りを持ち、虫がその身に入って食い荒らされるのです。しかし、少しばかり施しや謙虚さ、敬いの行いがあったため、人々から供養を受け、多くの酒や肉を送られます。教えを重んじるゆえに、仏に出会い、法を聞くことができるのです。菩薩は心楽(しんらく)三昧にとどまり、この身を受けて現れ、その者たちを導いて法を聞かせるのです。
釋八部皆一一約信法兩行、大小乘、頓漸根緣不同,類前可知。
八部にわたり、それぞれ一つ一つを、信と法の二つの行、大小乗、頓と漸の根機・縁の違いに従って説明すると、その種類は先に述べた通りであると知るべきである。
諸比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷,俱來會座。
比丘たち、比丘尼たち、優婆塞たち、優婆夷たちが、皆この集まりの席に集いました。
此是第四累四部眾。「比丘」名含三義,如前釋;「尼」者,女也,有經云「除饉男、除饉女」。「優婆塞、優婆夷」,此翻清信士、清信女也,亦云善宿男、善宿女,或云勳士、勳女,雖在居家,持五戒、斷婬欲,男女不同宿,故云善宿,此解未可定用。此往昔行因,皆戒乘俱急,戒急生人道,乘急值佛聞法,為佛弟子學道也。
これは第四の第四衆である。「比丘」という名は三つの意味を含むことは、先に解釋した通りである。「尼」とは女を意味し、ある経典には「除饉男、除饉女」とある。「優婆塞、優婆夷」は、これを翻訳すると清信士、清信女となる。また善宿男、善宿女とも言い、あるいは勳士、勳女とも称する。家に在りながら五戒を守り、婬欲を断ち、男女が同じ宿に泊まらないことから善宿と呼ぶが、この解釋は必ずしも定説とは言えない。これらの人々は過去世に因を修め、みな戒と乗(教え)の両方を大切にした。戒を大切にしたことで人道に生まれ、乗を大切にしたことで仏に出会い法を聞き、仏の弟子として学道に励むのである。
問曰:四眾即悉備戒乘俱急,何意有出家、不得出家也?
問います。在家も出家も、戒律と教えを共に大切に実践しているのに、なぜ出家できる人とできない人がいるのでしょうか?
答曰:自有人心樂剪落,好味佛法,心形俱厭,是故值佛出家悟道;自有雖樂佛法,形不厭離,是故值佛在家悟道也。菩薩住日光三昧、月光三昧、如幻三昧、熱炎三昧,生四天下,為佛四眾弟子,引諸凡夫令作四眾,聽法入道也。
答え:ある者は心から出家を楽しみ、仏法を好み、心も形もともに俗世を厭う。ゆえに仏に出会い、出家して悟りを開く。またある者は仏法を楽しむが、形(俗世の姿)を厭い離れることはない。ゆえに仏に出会い、在家のままで悟りを開くのである。
菩薩は日光三昧、月光三昧、如幻三昧、熱炎三昧に住して、四天下に生まれ、仏の四衆の弟子となり、凡夫を導いて四衆となし、法を聞いて道に入らせるのである。
彼時,佛與無量百千之眾,恭敬圍繞,而為說法。
その時、ブッダは数えきれないほどの多くの人々に敬われ、囲まれながら、教えを説かれていました。
此下訖七言偈,是第二段別序也。所言現瑞、敘述,皆表別欲說此經相不同餘經也。就此即為二:一、從「彼時佛與……」,至長行盡,名發起序;二、從「長者子說偈」……竟,名敘述序。
ここから七言の偈頌までは、第二段の「別序」にあたります。ここで言う「瑞相の現れ」と「その叙述」は、どちらも他の経典とは異なり、これからこの経典を説こうとする特別な趣旨を示しています。これを二つに分けます。第一に、「その時、仏は…」から長行の終わりまでを「発起序」といいます。第二に、「長者の子が偈を説く」から終わりまでを「叙述序」といいます。
一、發起者,即是現相,別表欲說此經也。但相以表發為義,既將說不思議解脫法身之體、佛國因果之宗,故現三瑞,表於欲說不思議三德解脫法身、三種所依之淨土也。
第一に「発起」とは、現れる形相(瑞相)によって、これからこの経典を説こうとする意志を表すものです。形相は「発し起こす」ことを意味します。今まさに、不可思議な解脱の法身の本質と、仏の国における因果の根本を説こうとして、三つの瑞相が現れました。これは、これから説こうとする不可思議な三徳(法身・般若・解脱)と、それらがよりどころとする三種の浄土を表しているのです。
一、現巍巍尊特之身,表欲說真性解脫法身之體,亦表欲說性淨真境常寂光國。
第一に、荘厳で尊く特異な身を現して、真実の性質を説き、解脱の法身の本体を示そうとされている。また、清らかな本性の真実の境地である常寂光の国を示そうとされている。
二、長者子所獻五百寶蓋,佛之威神合為一蓋,又表欲說眾因圓聚,合成一實慧解脫圓報法身,亦表欲說圓淨實報之國也。
第二に、長者の子が五百の宝蓋を捧げると、仏の威神力によって一つのかさに合わさりました。これは、多くの因が円満に集まり、一つとなる真実の智慧による解脱と円満な報身(ほうじん)となることを示しています。また、清らかで真実の報土(ほうど)の国について説こうとしていることを表しています。
三、現三千國土,諸佛說法悉現蓋中,此是無方大用,表欲說方便解脫應身也。
第三に、三千世界の諸仏が説法する様子がすべて出現する蓋の内に示されるのは、これは限定されない大きな働きであり、方便や解脱、応身を説こうとする意志を表しています。
問曰:何以得知是現尊特身,表欲說不思儀真性解脫法身耶?
問う:どうしてこれが現前の尊特身であり、不可思議な真性解脱法身を説こうとしていることを示していると知るのか?
答曰:如《大品經》明「尊特身以須彌映海為喻,眾山無能及」者,此經亦爾。復次,《法華》明「長者所止一城,威德特尊,窮子驚避」者,此是如來示尊特身,說華嚴教,小機不堪,是故遠避也;「即脫瓔珞,著弊垢衣」,此是作老比丘身,擬說三藏教也;「過是以後,心相體信,入出無難」,出現弊衣之身,入現威德之體,即是現尊特身,說方等教也;「長者在宅內現威德之體,命於窮子領知家物」,即是現尊特身,命須菩提為諸菩薩轉教說般若也;又在宅內,集國王、大臣、眷屬,定父子天性「汝實我子,我實汝父」,即是《法華》現尊特身,為諸聲聞受記時也。初見遠避,次出入無難,次則領知眾物,後則定父子天性,凡四現尊貴長者,瓔珞嚴身,皆譬釋迦勝應尊特之身,光明色像,無量無邊,悉為表欲說實相法身也。此經是方等之教,入出無難,雖復出處草菴,見弊衣長者;入於宅內,見瓔珞長者。瓔珞長者,即是今佛,與無量之眾恭敬圍繞,現尊特之身。
答えて曰く、「大品経」において「尊特身を須弥山が海を映す喩えをもって示し、衆山の及ぶ所にあらず」と明かすが、この経もまた同じである。また、「法華経」において「長者の止まる一城は威徳特に尊く、貧しい子が驚いて避ける」とあるのは、これが如来が尊特身を現し華厳の教えを説いたが、小機の者は堪えられず、故に遠く避けたのである。「即ち瓔珞を脱ぎ、弊衣を著す」とは、これが老比丘の身を作り、三蔵教を説こうとしたことを表す。「これより後、心相体信し、出入りに難無し」とは、弊衣の身に現れ出で、威徳の体に入り現ずる、即ち尊特身を現し方等教を説くことである。「長者が宅内に在りて威徳の体を現し、貧しい子に命じて家の物を領知せしむ」とは、即ち尊特身を現し、須菩提に命じて諸菩薩のため般若を転説せしめることである。また宅内に在りて、国王・大臣・眷属を集め、父子の天性を定め「汝は実に我が子、我は実に汝が父なり」というは、即ち「法華経」において尊特身を現し、諸声聞のために受記する時である。初めに見て遠く避け、次に出入りに難無く、次に衆物を領知し、後に父子の天性を定む。凡そ四度、尊貴なる長者を現じ、瓔珞をもって身を厳飾す。皆、釈迦の勝応の尊特身を喩え、光明色像、無量無辺にして、悉く実相の法身を説かんと欲するを表す。この経は方等の教え、出入りに難無し。復た、草庵に出でては弊衣の長者を見、宅内に入りては瓔珞の長者を見る。瓔珞の長者は即ち今の仏、無量の衆と共に恭敬し圍繞し、尊特身を現ずるなり。
問曰:那得知現尊特勝應,表說法身?
問うていわく、どのようにして現前の尊特・勝応が法身を表していると知るのですか?
答曰:《法華經》云「我以相嚴身,光明照世間。無量眾所尊,為說實相印」,《大品經》云「諸法如實相即是佛,諸法實相無去」,故此經亦云「觀身實相,觀佛亦然」也。
答えよう。「法華経」にはこうある——「私は相をもって身を飾り、光明は世間を照らす。無量の衆生が尊ぶところ、実相の印を説くために」と。また「大品経」には「諸法の如実相こそが仏であり、諸法の実相に去来はない」とある。ゆえにこの経もまた「身の実相を観ずるように、仏を観ることもまた同じである」と説くのである。
問曰:何得復表寂光淨土?
問うて曰く、なぜ再び寂光浄土を明らかにするのでしょうか。
答曰:此經既以佛國為宗,既表淨智法身,豈不即表淨境之國土也!法身即淨土,離身無別土,離土無別身。但真如實相,非智非境,說智說境;非身非土,說身說土;既表於身,即是表土也,故《金剛般若論》云「智習唯識通」。如是取佛土非形,第一體非莊嚴莊嚴,此經言「如其心淨,則佛土淨」表說實相真心,豈非表說常寂光土也!但表身義通,通前說《普集經》表土;義別,正表將說佛國也。
答えよう。この経典は「仏国」を宗としているから、すなわち清らかな智慧の法身を表している。ならば、清らかな境である国土をも表しているのではないか?法身こそが浄土であり、身を離れて別に土はなく、土を離れて別に身はない。しかし真如実相は、智慧でも境でもない。智慧や境として説き、身や土ではないものを身や土として説くのである。身を表すならば、すなわち土を表すのである。ゆえに『金剛般若論』には「智習は唯識に通ず」とある。このように、仏土を形として取るのではなく、第一の体は荘厳にあらずして荘厳である。この経典に「心が清らかであれば、すなわち仏土が清らかである」とあるのは、実相の真心を表したものであり、常寂光土を表したものではないか?ただし身を表す義は通じており、前述の『普集経』で土を表す義とは別である。まさに、仏国を説こうとしていることを表しているのである。
問曰:合蓋現土,何得知表報、應二身土也?
問う:合蓋と現土によって、どうして報身と応身の二つの身と土を表していると知ることができるのですか?
答曰:五百小蓋合成一大蓋,豈非表眾因合成一大果!大果者,即是圓報法身,有報身即有報土,故此經云:「菩薩修檀等行,成佛時,如是眾生來生其國。」
お答えします。五百の小さな蓋が集まって一つの大きな蓋となる。これは、多くの因が集まって一つの大きな果報を成すことを示しているのではないでしょうか。大きな果報とは、すなわち円満な報身(ほうじん)のことです。報身があれば、その報身の国土もあります。だからこそ、この経典にはこう説かれています。「菩薩が布施などの修行を積み、仏となるときに、そのような人々がその国に生まれてくるのである。」
問曰:此明應身成道,豈得證報土也?
質問:ここでいう応身が成道するということは、報土を証得するということにはならないのではないでしょうか?
答曰:由報身成,則有應身、應國成也。
答えましょう。報身が成就することによって、応身と応国が成就するのです。
就發起序分為二:
ここから序分を述べるにあたり、二つの段階がある。
一、明佛現身者,文有三別:一,明佛為大眾說法;二,譬顯;三,合譬。
一、仏の御姿が現れることを明かす。この文には三つの区別がある。第一に、仏が大衆のために説法されること。第二に、たとえを用いて示すこと。第三に、たとえを合わせて説明すること。
一、明佛為大眾說法者,巍巍尊重勝應之形,表說不思議解脫法身者。「彼時,佛與無量百千之眾,恭敬圍繞,而為說法」,眾者有四種:一、發起眾,如寶積、文殊、彌勒等,更相發起者是也。二者、影響眾,此土、佗方法身菩薩權迹,天龍八部、四眾等是也。三、當機眾,若聞說得益,如五百長者,戒乘俱急、戒緩乘急天龍八部、四眾等是也。四、結緣眾者,為作毛孔受潤之緣,為未來解悟由漸,即是戒急乘緩、戒乘俱緩天龍八部、四眾是也。此四,通攝一切眾也。「恭敬圍繞」者,明內善機發。圍繞者,四面周帀也。此表如城四門通入,見一帝主也。四門機動,隨佛教轉,見一不思議真性解脫法身也。而為說法者,昔尚統師問長身耳三藏師云:「佛時與無量大眾說何等法?」答曰:「說《普集經》。」普集者,即方等教攝,所以得為今經作序者,彼說正報因果,今說依報佛國因果,正得有依,故得為序也。例如先說《無量義》,次說《法華》,《無量義》即為序也。
一、仏が大衆のために説法されることについて。仏は荘厳で尊く、最も勝れたお姿をもって、思いもよらぬ不可思議な解脱の法身を説き示されるのです。「その時、仏は無量・千百の大衆から、敬い恭しく囲まれ、そのために説法された」とあります。大衆には四つの種類があります。第一に、発起衆(ほっきしゅう)――宝積(ほうしゃく)・文殊(もんじゅ)・弥勒(みろく)など、互いに教えを引き出し合う人々です。第二に、影響衆(えこうしゅう)――この世界や他世界における法身の菩薩が仮の姿を現したもの、天・竜・八部衆、四衆などです。第三に、当機衆(とうきしゅう)――説法を聞いて直接の利益を得る人々で、五百長者(ごひゃくちょうじゃ)のように戒律と教えを共に急ぐ者、戒律は緩くとも教えを急ぐ天竜八部・四衆などです。第四に、結縁衆(けちえんしゅう)――仏の毛穴から潤いを受けるような縁を結び、未来に悟りへと至るきっかけを得る人々で、戒律は急ぐが教えは緩い者、戒律も教えも共に緩い天竜八部・四衆などです。この四種によって、あらゆる大衆が網羅されるのです。「敬い恭しく囲む」とは、内なる善の機縁が発現することを示しています。「囲む」とは、四方を取り巻くことです。これは城に四つの門があり、それを通じて唯一の帝王に拝することを譬えています。四つの門から心が動き、仏の教えに従って巡り、一つの不可思議な真性・解脱の法身を見るのです。「そのために説法された」とは、昔、尚統師(しょうとうし)が長身耳三蔵師(ちょうしんじさんぞうし)に問いました。「仏はその時、無量の大衆に、どのような法を説かれたのか?」と。答えには「『普集経(ふじゅうきょう)』を説かれた」とあります。普集とは、すなわち方等教(ほうどうきょう)に含まれます。この経が今の経典の序(じょ)となった理由は、『普集経』が正報(しょうほう)の因果を説き、今の経典が依報(えほう)の仏国(ぶっこく)の因果を説くからです。正(しよう)が依(え)を得て、はじめて序となり得るのです。例えば、まず『無量義経(むりょうぎきょう)』を説き、次に『法華経(ほけきょう)』を説く時、『無量義経』がその序となるようなものです。
譬如須彌山王,顯于大海。
例えば、大海にそびえる須弥山の大王のように。
此二譬顯也。「須彌山」者,此翻云安明。亦云好高,何但好高,亦是好大。此譬佛實報尊特之身,窮實相頂,故言好高;功德智慧遍滿法界,故言好大。「顯于大海」者,即顯此座有緣四眾四門善根,亦顯一切眾生生死海也。如山盤峙滄溟而能秀出海外,佛不住生死,不捨生死,不住生死,如山高出;不捨生死,故影現大海。如海水非青、黃、白、頗棃等四色,而山四邊寶映之水,則四邊有四種之色。此明眾生心非四門,佛以悉檀方便說四門,令善惡之心失滅本相,同佛法四門之教解,更無異解也。
この二つの比喩はその意味を示している。
「須弥山」とは、翻訳すると「安明」と「好高」という意味である。「好高」というだけではなく、「好大」でもある。この比喩は、仏の実報尊特の身が実相の頂点を極めていることを示し、それゆえに「好高」と言い、功徳と智慧が法界に満ちていることを示し、それゆえに「好大」と言うのである。
「大海に顕れる」とは、この座に縁ある四衆の四門の善根を顕し、また一切の衆生の生死の海を顕すのである。山が海中にそびえ立ちながら、海外に秀でるように、仏は生死に留まらず、しかも生死を捨てない。生死に留まらないから、山が高くそびえるようにであり、生死を捨てないから、その影が大海に現れるのである。
海水が青・黄・白・玻璃などの四色ではないが、山の四方の宝が水に映ることで、四方に四種の色が現れるように、衆生の心は本来四門ではないが、仏は悉檀の方便によって四門を説き、善悪の心に本来の姿を失わせ、同じく仏法の四門の教えによって理解させ、異なる解釈がないようにするのである。
安處眾寶師子之座,蔽於一切諸來大眾。
宝をちりばめた獅子の座に安らかにおさまり、集い来たるすべての大衆をその威光で包み込んでおられました。
此三合譬。「安處眾寶」是法性萬善之理,「師子無畏之座」是諸法空,是為萬善、無畏空為座也。身相巍巍,與寶座相稱,譬實慧微玅,與眾善無畏空理相應也,此合須彌山譬。「蔽於一切諸來大眾」者,明說大乘之教,蔽於大眾妄解,同成一大乘解也。此即蔽諸邪見四門,亦蔽於小乘四門之解,同成佛法大乘四門之解也,此合映顯大海譬。
この三つのたとえを合わせて説明します。「安處眾寶」とは、法性に備わるあらゆる善の理を意味します。「師子無畏之座」とは、すべての現象が空であるという真理を指し、あらゆる善と、恐怖のない空の道理を座とすることを示しています。仏の姿が高く立派で宝座と釣り合っているのは、真実の智慧が微細で妙なることをたとえ、あらゆる善と空の理が調和していることに相当します。これは須弥山のたとえに当たります。
「蔽於一切諸來大眾」とは、大乗の教えを説くことによって、集まった大衆の誤った理解をおおい隠し、すべてを同じ大乗の理解に統一することを意味します。これは、さまざまな邪見や四つの門(四門)をおおい、また小乗の四門による理解をもおおい隠して、すべてを仏法の大乗における四門の理解へと導くものです。これは大海がすべてを映し出すたとえに相当します。
爾時,毗耶離城有長者子,名曰寶積,與五百長者子,俱持七寶蓋,來詣佛所,頭面禮足,各以其蓋,共供養佛。
そのとき、ヴァイシャーリーの町に長者の子がいた。名を宝積(ほうしゃく)という。彼は五百人の長者の子たちとともに、七宝の飾りがついた宝蓋(ほうがい)を携えて、仏のもとを訪れた。彼らは仏の足に頭を付けて礼をし、それぞれが持ってきた宝蓋をささげて、共に仏を供養した。
此二明長者子獻蓋,為三:一,長者子為表發之由,故獻蓋;二,如來合蓋現瑞;三,大眾覩瑞歡喜。即此現相,以表三義。何以故?長者獻蓋,如來合為一者,表因中慈迴向佛果,成無緣慈,即表圓報法身,亦表依報淨國,即是表此經以佛國因果為宗也。而於此蓋現一切土,即表果地淨土現一切應土,表此經之力用。又見十方佛說法者,表應土必有佛化主也;大眾歡喜者,即是聞不思議解脫佛國機發,必沾大利,預生歡喜,故知現相密表發即此經之由藉,故為別序。
このうち、第二段は長者の子が宝蓋を捧げる場面を説明し、大きく三つの意味がある。第一に、長者の子が説法を請うきっかけを示すために蓋を捧げたこと。第二に、如来がその蓋を一つに合わせて瑞相を現したこと。第三に、大衆がその瑞相を見て歓喜したことである。 この現れた相には、三つの意味が表されている。なぜか。長者が蓋を捧げ、如来がそれを一つに合わせたのは、修行の因の段階における慈悲の心が、仏の果報へと回向され、無縁の慈悲(何の条件もなく一切の衆生を救う慈悲)が成就することを表す。すなわち、円満に報いられた法身を表し、また清らかな仏国土という依報(環境)を表すのであり、この経が仏国土の因果をその根本の教えとしていることを示している。 そして、この蓋の中にすべての国土が現れたのは、果報の位における浄土が、一切の応現された土(衆生に応じて現れる国土)を現すことを示し、この経の力用(はたらき)を表している。さらに、十方の仏が説法しているのが見えたのは、応現された土には必ず教化の主である仏が存在することを示している。大衆が歓喜したのは、不可思議な解脱の仏国土に関する教えを聞く機縁が発現し、必ず大きな利益を受けると予感して喜びが生じたことによる。 以上のことから、この現れた相が密かに、この経を説くに至るきっかけと因縁を表していることが分かる。ゆえに、これは別序とされるのである。
一、長者子為表發之由,故獻蓋者,為三意:一,明長者子與同類俱;二,明䖍敬;三,奉蓋。
一、長者の子が悟りを示す理由として、蓋(天蓋)をささげたことには、三つの意味があります。第一に、長者の子が同じ志を持つ者たちと共にいたことを示す。第二に、敬虔な心を表す。第三に、その蓋を捧げるという行為そのものです。
一、明長者子與同類俱來者,「毗耶離」具如前釋,「城」表涅槃,故《華嚴經》云「白淨法為城,觀慧為墻壁;無上智樓閣,慚愧為深壍;三空解脫門,正念為防守;四道為正路,遊之出界;建無上法幢,摧滅一切魔」,今明性淨涅槃如城,非長者子,亦非如來,長者子、如來共住此城,因故稱子,果故稱佛,本性非因非果,而因果依於本性,義同城也。釋寶積名義,如前與五百長者子,事數可知。若表法門,或表五種種性善根也。五種性,一種性有百,即是五百種善根也,皆是因故,悉稱為子也。「七寶蓋」者,表七覺調停,生實相真解,名七寶;歷法起慈,名之為蓋。蓋以蓋覆為義,慈心覆蔭一切眾生也。「來詣佛所」者,因修歷法緣之慈,迴向於果,將成無緣大慈圓蓋也。
一、ここで長者の子らが同類と共にやって来ると述べられているのは、「毘耶離」の意味は先に詳しく説明した通りですが、「城」は涅槃(ねはん)を表しています。そのため『華厳経』には「白浄の法を城とし、観慧を壁とし、無上の智を楼閣とし、慚愧(ざんき)を深い堀とし、三空解脱門を門とし、正念を守備とし、四道を正しい道として、そこを遊行して世界を出て行き、無上の法幢(ほうとう)を建てて、一切の魔を摧滅(さいめつ)する」と説かれています。ここでは、本性清浄(ほんしょうしょうじょう)の涅槃を城にたとえているのです。この城は、長者の子でもなく、如来でもありません。長者の子と如来の両方がこの城に共に住むのです。因の側から言えば「子」と呼ばれ、果の側から言えば「仏(ほとけ)」と呼ばれます。しかし本性は因でも果でもなく、因と果はこの本性に依っているのです。その意味で、本性は城にたとえられるのです。 宝積(ほうしゃく)の名の意味については、先に述べた通りであり、五百人の長者の子と共にいることの詳細は道理から理解できます。これを法門(ほうもん)として表せば、あるいは五つの種姓(しゅしょう)の善根を表しているとも言えます。五つの種姓は、それぞれ一種姓に百ずつあるので、合わせて五百の善根となるのです。これらはすべて因であるため、すべて「子」と呼ばれます。 「七宝の蓋(きん)」とは、七覚支(しちかくし)を調和させて、実相の真の理解を生み出すことを表します。これを七宝と名づけ、あらゆる法にわたって慈しみを起こすことを蓋にたとえるのです。蓋は覆いかぶさるという意味であり、慈しみの心が一切の衆生をおおい守ることを表しています。 「仏の御所に来詣(らいけい)する」とは、因においてあらゆる法を対象とする慈しみを修し、その功徳を果(仏果)に回向(えこう)して、やがて無縁の大慈(むえんのだいじ)という完全な蓋を成就しようとすることを意味しています。
二、䖍敬者,「頭面禮足」申其敬儀也,表因智之上,接果智之下也。
二、敬うことについて。 「頭面礼足(頭を地につけ足を礼すること)」とは、その恭敬の儀式を示します。これは、因位の智慧(修行中の智慧)が上位にあり、果位の智慧(悟りの智慧)が下位にあるという関係を表し、その智慧によって上位から下位へとつながることを示しています。
三、明奉蓋者,因有資成果之義,故言供養。
三、蓋(ほろ、きぬがさ)を捧げることについて言えば、これには因(原因)を積むことが果(結果)を成就させるという意味がある。そのため、「供養」と呼ぶのである。
佛之威神,令諸寶蓋,合成一蓋,遍覆三千大千世界。
仏の神通力により、あらゆる宝の蓋が一つに合わさり、三千大千世界の全体を覆い尽くす大きな蓋となりました。
此是二明如來合蓋現瑞,通表欲說不思議解脫法身淨土,故現此不思議之相;別而為言,正表欲說依報淨土、佛國因果也。就此為二:一,明合蓋;二,正現相也。
これは二つを示します。如来が蓋を合わせて瑞相を現されたことについて、全体としては、不可思議な解脱と法身・浄土を説こうとされたことを表すため、この不可思議な相を現されたのです。別々に言えば、正に依報の浄土と仏国の因果を説こうとされたことを表しています。これを二つに分けます。第一に、蓋を合わせたことを明らかにし、第二に、正に相を現したことを示します。
一、明蓋覆三千界者,五百長者子各獻,即是表各各修因;合為一蓋,即表成一圓果也。既有正因,能感正果,則成佛國依因,感得佛國之依果也。而言「遍覆三千」者,表一果之體,即是無緣大慈普覆法界也。若論正報,佛於《普集經》已說,今所現相,正表欲說依報國土普覆法界也。
一、あの一つの蓋が三千世界を覆ったことについて。これは、五百人の長者の子たちがそれぞれ蓋を捧げたこと、すなわち一人ひとりがそれぞれの修行の因を積んだことを表しています。そして、それらが合わさって一つの蓋となったのは、その修行が一つにまとまって完全な悟りの果報となることを示しています。 正しい因があれば、それにふさわしい正しい果報を得ることができます。これが仏の国という依報の因となり、その結果として仏の国という依報の果報が現れるのです。 「すべてを覆う」と説かれているのは、完全な果報の本質が、あらゆる区別を超えた大いなる慈悲であり、それが全世界を包み込むことを意味しています。仏の正報については、すでに『普集経』で説かれています。今ここに現れた瑞相は、まさに仏が依報の国が世界中に広がることを説こうとされていることを示しているのです。
而此世界廣長之相,悉於中現。
そして、この世界の広大な姿が、すべてその中に現れていた。
二、明正現相者,即有二:一,現國土;二,現諸佛說法。
二、正しい現相を明かすとは、すなわち二つあります。一つは、国土を現すこと。二つは、諸仏が説法されることを現すことです。
一、現「世界廣長之相」下,正表欲說依報國土。現相者,有四:一,現國土廣長之相;二,現十山;三,現大海江河;四,現日月天宮。
一、「世界広長の相」の下は、正に依報の国土を説こうとしていることを表している。相を現すことには、四つがある。一、国土の広長の相を現すこと。二、十山を現すこと。三、大海や河川を現すこと。四、日月や天宮を現すこと。
一、現國土廣長,即表國土依報世間也。橫極百億,稱廣;豎至有頂,名長。又解,橫極十方,稱廣;豎際四土,名長也。
第一に、「国土広長」とは、すなわち国土という依報の世の中を表します。横は百億の広がりに極まり、「広」といいます。縦は有頂天に至り、「長」といいます。また別の解釈では、横は十方に極まり「広」といい、縦は四土に及んで「長」といいます。
又此三千大千世界諸須彌山、雪山、目真隣陀山、摩訶目真隣陀山、香山、寶山、金山、黑山、鐵圍山、大鐵圍山,
そして、この三千大千世界にあるすべての須彌山、雪山、目真隣陀山、大目真隣陀山、香山、寶山、金山、黑山、鐵圍山、大鐵圍山も、
二、現十山,恐表眾生世間也。
二、十の山が現れるのは、これは迷いの世界に生きる人々の姿を表しています。
大海江河,川流泉源,
大海や川、流れる水や泉の源も、
三、現大海江河也,恐表五陰世間也。
三、大海や河川が現れることは、五蘊(ごうん)の世界を表しているのではないかと恐れられます。
及日月星辰,天宮、龍宮,諸尊神宮,悉現於寶蓋中;
また、日・月・星々、天の宮殿、龍の宮殿、諸々の尊い神々の宮殿が、すべて宝の蓋の中に現れた。
四、現日月天宮也,或可是表器世間也。上現四種相,恐是表四種世間也。此四世間現蓋中者,表既說正報,將說依報世間。依報世間,眾生五陰、器世間之所依也。
第四に、日月の天宮があるのは、あるいは器世間を表しているのかもしれない。上に四種の相が現れているのは、おそらく四種の世間を表しているのであろう。この四つの世間が蓋の中に現れているのは、すでに正報を説き終えて、これから依報の世間を説こうとしていることを示している。依報の世間とは、衆生の五陰と器世間がよりどころとするものである。
問曰:現無情相,何得表於情?
問うて言わく、「現在の情のない姿が、どうして情を示すことができるのか?」
答曰:佛欲說一切大乘經,現相何曾不爾!若當合眾生世間、五陰世間、器世間,非不歷然,但佛意難知,且置之也。
答え:仏がすべての大乗経典を説こうとするとき、その相(すがた)を現わさないことがありましょうか。たとえ衆生世間・五陰世間・器世間の三種の世間を合わせて示されても、はっきりと現れないわけではありません。ただ、仏の御心は私たちには測り知れないので、それはひとまず置いておきましょう。
又十方諸佛、諸佛說法,亦現於寶蓋中。
また、十方の諸仏や、諸仏が説かれる法も、この宝玉の蓋の中に現れるのである。
此二明現諸佛、諸佛說法。若說依報佛國,必有能依之眾生,既有可化眾生,必應佛化導,故蓋中現佛、現說法也。以有四佛住於四土,故皆名佛國也。
この二つは、現れている諸仏と、諸仏による説法を示しています。もし仏の国という依報(よりどころとなる環境)について説くならば、必ずそこに依る衆生が存在します。教化すべき衆生がいる以上、必ず仏が応じて導き現れるのです。ゆえに、宝蓋の中に仏が現れ、説法が示されています。四方に四仏が住していることから、それぞれをすべて「仏国」と呼ぶのです。
爾時,一切大眾覩佛神力,歎未曾有,合掌禮佛,瞻仰尊顏,目不蹔捨。
その時、すべての大衆は仏の神通力を目の当たりにし、かつてないことだと嘆賞し、手を合わせて仏に礼拝し、尊いお顔を一心に見つめて、一瞬も目を離しませんでした。
此三明大眾覩瑞歡喜也。就此文有三別:
この三つの明らかな瑞相を見て、大衆は皆、喜びの心を起こしました。この一文には、次の三つの区別があります。
一者、稱歎未曾有,是口業供養。而言「未曾有」,自昔以來,未曾現合蓋之瑞,表欲說佛國之相也。
一つ目は、「未曾有(みぞう)です」と称賛すること、これは言葉による供養です。「未曾有」とは、昔から今に至るまで、これまで未だかつて現れたことのない、蓋を合わせるような瑞兆(ずいちょう)であり、これから仏の国(仏国土)の在り様を説こうとすることを示しています。
二、「合掌禮佛」即是身業供養也。
二、「合掌して仏を礼する」とは、体(身)による供養のことです。
三、「瞻仰尊顏」是意業供養也。
三、「尊顔を仰ぎ見る」とは、心を込めた供養のことです。
以現瑞故,必聞說不思議佛國,當得三業清淨、三輪不思議化,當得如是等無量功德,故喜心預發,所以皆申三業供養也。但現瑞表發,正為發起物情,物情敬仰既發,大聖即須赴緣說法。喜敬為序,義轉親也。
瑞相が現れたので、必ずや思いもよらない仏の国についての説法を聞くことになるでしょう。そうすれば、身・口・意の三業が清らかになり、身・口・意の三輪が思いもよらない働きをするようになり、このような限りのない功徳を得られるはずです。ですから、喜びの心が前もって湧き起こり、皆が身・口・意の三業を尽くして供養したのです。ただ、瑞相が現れて表し示すのは、まさに人々の心を引き起こすためです。人々の敬い慕う心がすでに起こったなら、大聖はその縁に応じて説法されなければなりません。喜びと敬いが序分となり、その意味はより親しいものへと転じていくのです。
維摩羅詰經文疏卷第五
維摩羅詰経文疏 巻第五