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維摩経文疏 (維摩經文疏)


維摩羅詰經文疏卷第六(從「長者子」訖「稽首如空無所依」)

維摩経文疏 巻第六

長者子寶積即於佛前,以偈頌曰:

長者の子である宝積は、その場で仏の前で、偈(うた)をもって次のように述べました。

此第二別序,敘述序也。大聖現相難測,自非寶積神智高明,孰知所表?寶積欲發起時眾,令知現瑞表說佛國,信解分別,故說三十六行偈歎述也。

この第二の別序は、序分の一部を詳しく述べるものです。大いなる聖者が示される瑞相は、はかり知れないものです。宝積菩薩のような神々しい智慧と高ぶかい見識を持つ者でなければ、誰がその表すところを知ることができましょうか。宝積菩薩は、その場の大衆に発起を促し、これらの瑞相が仏の国を説き示すためのものであることを知らせ、信じ理解し分別させるために、三十六行の偈頌によって賛嘆し述べたのです。

「目淨脩廣如青蓮,

目は清らかにして広く長く、青き蓮の花のごとし。

就此三十六行偈述歎,文有二別:一,前有十七行,述歎表發之由;後,次有十九行,正述歎現瑞表發。

この三十六行の偈による嘆賛には、文に二つの区別があります。第一に、初めの十七行では、嘆賛が表される理由を述べています。次に、後の十九行では、実際に瑞相が現れて表されることを嘆賛しています。

就前表發之由,又為二:初九行,述歎勝應法身為發起近由;後八行,述歎劣應為發起遠由。

まず、前述した発起の理由について、さらに二つに分けて説明します。 最初の九行では、すぐれた応身と法身を讃嘆することが、発起の直接的な理由であると述べています。 後の八行では、劣った応身を讃嘆することが、発起の間接的な理由であると述べています。

所言勝應法身者,若為諸菩薩說大乘,所現色身,相好光明,威德殊勝,尋此勝應,即得法身。所言劣應者,若為聲聞說三藏教,所現身相則劣,尋此劣應,不見法身也。故《法華經》云「長者即脫瓔珞,著弊垢衣,塵土坌身,狀有所畏」也。

「すぐれた応身の法身」とは、菩薩たちに大乗の教えを説くために現された色身であり、その姿は相好(顔や体つきのすぐれた特徴)が光明に輝き、威徳(威厳と徳)が特に優れています。このすぐれた応身をたよりに探求していけば、そのまま法身(真理の本体)を得ることができます。

一方、「劣った応身」とは、声聞(声を聞いて悟る者)たちに三蔵(経・律・論)の教えを説くために現された姿であり、その身に現れる相は劣っています。この劣った応身をたよりに探求しても、法身を見ることはできません。

このため、『法華経』には「長者が瓔珞(宝玉の首飾り)を脱ぎ捨て、垢で汚れた粗末な衣服をまとい、塵にまみれた姿で、何か恐れるものがあるかのような様子をした」と説かれています。

問曰:何故勝應為近由?劣應為遠由?

問う:なぜ勝応が近い因となり、劣応が遠い因となるのでしょうか?

答曰:勝應,是即座說《普集經》,由此現瑞,故是近由也;劣應,是昔說三藏教,身遠藉為由,故是遠由也。

答えましょう。勝応の場合は、その場で『普集経』が説かれ、その瑞相が現れたこと自体が近い理由です。一方、劣応の場合は、昔、三蔵教が説かれた際、その身体が遠くに現れたことを理由としているので、それは遠い理由となります。

問曰:說三藏劣應自是昔事,何得為此經作遠由也?

問うて曰く、「三蔵の劣応自ら是れ昔の事と説くは、何ぞ得て此の経の為に遠き由と作さんや?」

答曰:《法華經》云「於二十年,常令除糞,過是已後,心相體信,入出無難」,是故今時共諸聲聞說大乘經,現勝應身,合葢現瑞,表說佛國。當知,由昔之劣應,得顯今之勝應現瑞表發,故得為遠由。

答えましょう。『法華経』にはこうあります。「二十年の間、常に糞掃除をさせていたが、その後は心が通じ合い、出入りに支障がなくなった」と。だからこそ、今、諸々の声聞と共に大乗経典を説き、殊勝な応身を現して、天蓋を合わせ、瑞相を現わし、仏の国土について説くのです。知るべきです。昔の劣った応身があったからこそ、今の勝れた応身が瑞相を現して顕されるのです。したがって、これを遠因とすることができるのです。

就九行偈述歎現瑞近由,為二:初兩行,略歎勝應法身形、聲兩益;次七行偈,廣歎勝應法身形、聲兩益。

まず九行の偈で、瑞相が現れた近しい理由を述べることを嘆じて、二つに分けられる。初めの二行では、勝れた応身の法の身体と声の二つの利益を簡単に嘆じる。次の七行の偈では、勝れた応身の法の身体と声の二つの利益を詳しく嘆じる。

今此略、廣歎形、聲兩益,竝是述前佛在四眾說《普集經》,明中道正報因果。何以得知?下偈歎云:「說法不有亦不無,以因緣故諸法生。」就前兩行歎形、聲益為二:初一行,正歎形益;次一行,歎聲益也。

まず、概説と詳細をもって、姿(形)と声の二つの利益を称賛します。これらは全て、先の仏が四眾の前で『普集経』を説かれたことを述べており、中道における正しい果報とその原因を明らかにしています。なぜそう言えるのでしょうか。後の偈で「説法は有にあらず、また無にあらず。因縁の故に諸法は生ずる」と称賛しているからです。この前の二行は、姿と声の利益を称えるもので、二つに分けられます。初めの一行は、正しく姿の利益を称え、次の一行は、声の利益を称えています。

初一句,歎色功德;次一句,歎心功德,故《大涅槃經》云:「佛性者,亦色非色……云何名色?金剛身故,亦言三十二相故。云何非色?十力、四無所畏,非色法故。」

まず第一句は、色の功徳を讃え、次の一句は心の功徳を讃えています。ゆえに『大涅槃経』にはこう説かれています。「仏性とは、色でもあり、色でもない……。何をもって色というのか?金剛身であるからであり、また三十二相を備えているからである。何をもって色でないというのか?十力や四無所畏は、色の法ではないからである。」

今初句歎色功德,約眼歎者,即是金剛身三十二之一相也。但身分雖多,所尊者首;首分又多,要用者目。歎勝攝劣,舉目為歎也。十力、無畏等智慧功德雖多,歎心則罄,無不攝故,舉要雙歎色、心也。所言「目」者,是眼之異名。眼主肝,肝悲則眼流淚,歎眼即是歎大悲也。《大智論》云「般若是佛母,大悲是般若母」,故約此相,以歎色功德也。

まず「色の功徳」を称えるにあたり、特に「眼」に着目して称えるのは、これが金剛身の三十二相の一つだからです。身体の部分は数多くありますが、最も尊ばれるのは頭部であり、頭部の中でも特に重要なのが目です。優れたものを称えれば劣ったものも包含されるため、目をもって代表とします。また、十力や無畏などの智慧の功徳も多いですが、心の働きを称え尽くせば、すべてを網羅できるため、その要点を押さえて「色」と「心」の両方を称えるのです。

ここで言う「目」とは、眼の別名です。眼は肝臓を司り、悲しみが深まると肝臓が応じて涙を流します。したがって、眼を称えることは、すなわち大悲を称えることでもあります。『大智度論』には「般若は仏の母であり、大悲は般若の母である」と説かれています。このような理由から、この相に基づいて、色の功徳を称えるのです。

問曰:法身亦有相耶?

問い:法身にも形があるのでしょうか?

答曰:此是勝應,表法身。尋此眼相,得法身佛眼,故歎應即是歎法身佛眼。餘相類此可知。故《法華》云「微妙淨法身,具相三十二」。但眼是總名,從用分別,則有五眼:一,肉眼見麤事色;二,天眼見因果細色;三,慧眼見麤細色心、偏真之理;四,法眼見色心麤細因緣假名,俗諦諸法;五,佛眼見中道圓真佛性之理,又能雙照麤細因緣事理。今約四教,明有四種佛不同;分別五眼義,亦有四種不同也。《金剛般若經》明「須菩提,如來有肉眼……乃至有佛眼不?須菩提白佛言:世尊!如來有肉眼……乃至有佛眼」。今寶積偈歎,言「目淨」者,五眼皆離垢障,故言目淨也。「修廣」者,脩之言長,廣之言闊;五眼見境,豎深窮源,故名修;橫遍法界,故言廣也。「如青蓮」者,事解云,西國有青蓮華葉,形相脩廣,青白可愛,相似佛眼,故以青蓮譬佛眼也。又解云,非但青蓮形似佛眼,青蓮雖處汙泥而不為所染,如來五眼亦爾,非但見境豎深橫廣,甚可愛敬,雖照世境而不為世境所染,故歎云「目淨脩廣如青蓮」也。

答えよう:これは勝れた応身を示し、法身を表している。この眼の相を尋ねれば、法身の仏眼を得るがゆえに、応身を讃歎することはすなわち法身の仏眼を讃歎することとなる。他の相もこれに準じて知るべきである。ゆえに『法華経』には「微妙にして淨らかなる法身、三十二の相を具える」と説かれている。ただし「眼」は総称であり、その働きに従って区別すれば、五種の眼がある。第一に、肉眼は粗い事象の色を見る。第二に、天眼は因果の細かな色を見る。第三に、慧眼は粗細の色・心と、偏真の理を見る。第四に、法眼は色・心の粗細なる因縁の仮名や、俗諦の諸法を見る。第五に、仏眼は中道の円なる真実の仏性の理を見るとともに、粗細の因縁や事理の両方を照らし見る。

今、四つの教えに基づいて四種の異なる仏があることを明らかにし、五眼の意味を分別すれば、やはり四種の違いがある。『金剛般若経』には「須菩提よ、如来に肉眼があるか……さらに仏眼があるか」と説かれ、須菩提は仏に答えている。「世尊よ、如来には肉眼があり……さらに仏眼がございます」と。この『宝積経』の偈頌で「目淨(目が清らか)」と讃えるのは、五眼がみな垢や障りを離れているからである。ゆえに「目淨」というのである。

「修廣(長く広い)」について、「修」は長さを指し、「廣」は広がりを指す。五眼が対象を見るとき、縦には深く根源にまで至るから「修」と名づけ、横には法界全体に遍く及ぶから「廣」というのである。

「如青蓮(青蓮のごとし)」については、世俗の解釈では、西方の国に青蓮華というものがあり、その葉の形は長く広く、青白く愛らしく、仏の眼に似ている。ゆえに青蓮を仏眼の譬えとするのである。また別の解釈では、ただ青蓮の形が仏眼に似ているだけでなく、青蓮は汚泥の中にあっても染まらないように、如来の五眼もまた、対象を見ることが縦に深く横に広く、非常に愛しく尊ばれるものでありながら、世間の対象を照らしても世間の汚れに染まらない。ゆえに「目淨修廣如青蓮(目は清らかにして長く広く、青蓮のごとし)」と讃歎するのである。

今略分別五眼,帖釋「目淨脩廣如青蓮」義不同:

さて、ここで「五つの眼」について簡単に説明し、「目は清らかにして広く、青い蓮の花のごとし」という句の意味が、経典によって異なることを示そう。

肉眼脩廣如青蓮者,功德果熏肉眼故,眼無惡業之障,名目淨;豎從地獄,上至有頂,諸色悉見,故名脩;橫遍百億,無色不見,故言廣;雖見諸色,不染不著,故云如青蓮也。

肉眼が広大で青蓮の如しとは、功徳の果が肉眼を熏じたがゆえに、眼に悪業の障りなく、清らかと名づく。地獄より有頂天に至るまで、あらゆる色を見尽くすゆえに「広大」といい、百億世界にわたって見えぬ色なきゆえに「広」という。諸々の色を見ると雖も、染まり執着せざるを、青蓮の如しと云うなり。

天眼脩廣青蓮者,因禪定離貪瞋五葢,發四大造色清淨眼根,名目淨;豎見界外諸色,故名脩;橫見十法界諸色,故名廣;雖見諸色,不染不著,如青蓮也。

天眼が広く長く、青い蓮のようであるとは、それは禅定によって貪りや怒り、五つの蓋を取り除き、四大によって作られる清らかな眼根を発現したものを「目が清らか」と言います。縦に世界の外のさまざまな色を見渡せるから「長い」と言い、横に十法界のあらゆる色を見渡せるから「広い」と言います。さまざまな色を見ても、それに染まったり執着したりしない様子が、青い蓮のようなのです。

慧眼脩廣如青蓮者,無有界內、界外見思,名目淨;豎照界內、界外真諦之理究竟,故言脩;橫見界內、界外真諦之理,故言廣;雖能見真,而不染真,如青蓮也。

智慧の眼を広く修めた人は、迷いの世界の内・外における「見惑」や「思惑」がなく、そのため「清らか」といいます。迷いの世界の内・外にある「真実の道理」を深く照らし、その極みに達しているから「修めた」といい、同じく内・外の真実の道理を広く見通すので「広い」といいます。真実を見ることができても、それに執着することはなく、あたかも青い蓮の花のようなのです。

法眼脩廣如青蓮者,無恒沙無知,名目淨;豎見界內、界外四種四諦之法,故名脩;橫見界內、界外十方法界四種四諦之法,故言廣;不著諸法,如青蓮也。

法の眼が広く修められていることは、青い蓮の花のようです。それは、恒河沙のような無知もなく、名は清らかです。縦に見れば、迷いの世界と悟りの世界における四つの真理を観るから「修」と言い、横に見れば、全世界の四つの真理を観るから「広」と言います。そして、あらゆるものに執着しないこと、それが青い蓮のようなのです。

佛眼脩廣如青蓮者,無有法界無明,名目淨;豎見界內、界外中道法界,窮源盡性,故言脩;橫見十方法界眾生中道法界海,一時圓照,故名廣;不為法界無明、一切煩惱、生死之所染汙,如青蓮也。

仏の眼は広く大きく、青い蓮の花のようである。この眼には、法界の無明(迷い)が一切存在しない。それを「清浄」と呼ぶ。また、この眼は縦には迷いの世界と悟りの世界、そしてその中間にある中道の法界をも見通し、その根源を究め、本性を尽くしている。ゆえに「大きい」と言う。さらに、横には十方の法界にいるすべての衆生の中道の法界という広大な海を、一瞬にして余すところなく照らし出す。そのため「広い」と表現する。この眼は法界の無明やあらゆる煩悩、生と死の汚れに染まることがなく、その清らかさは青い蓮の花のようである。

此但略取別、圓教意明五,三藏、通教皆約界內二諦明五眼。但約隨情因緣色心分別,即是三藏教明五眼;若約幻化因緣色心分別,即是通教明五眼也。
問曰:長者子說偈,四教、五眼定歎何眼?

問い:長者の子が偈を説かれましたが、四つの教えの中で五つの眼のうち、どの眼について確かに称賛されているのでしょうか?

答曰:此經既屬方等之教,具四教之說,隨眾生四教根緣,常所聞知,歎無乖隔,故下偈言「佛以一音演說法,眾生隨類各得解」。今寶積偈歎,豈非乖佛心而不能一音令眾生隨類各得解也!

答え:この経典は方等の教えに属し、四教を備えた説法です。衆生の四教に基づく根機や縁に従い、常に聞き知っているものですから、称賛しても矛盾や隔たりはありません。ゆえに、後の偈で「仏は一つの音声で法を説き、衆生はその種類に応じてそれぞれが理解する」と言われています。今、宝積が偈で称賛するのは、仏心に反して、一つの音声で衆生をその種類に応じて理解させることができないというのでしょうか?

若觀心明五眼,一心三觀照心因緣麤細境,名修肉眼;天眼照因緣即空,名修慧眼;照因緣法即假,名修法眼;照因緣即中道法界,名修佛眼。故《大涅槃經》云:「聲聞之人,雖有慧眼,名為肉眼;學大乘者,雖有肉眼,名為佛眼也。」

心を観じて五つの眼を明らかにするならば、一つの心で三つの観法をもって、心の因縁による粗い・細かい境を照らすこと、これを肉眼を修めるといいます。天眼が因縁を即ち空と照らすこと、これを慧眼を修めるといいます。因縁の法を即ち仮と照らすこと、これを法眼を修めるといいます。因縁を即ち中道の法界と照らすこと、これを仏眼を修めるといいます。ゆえに『大涅槃経』にはこう説かれています。「声聞の人は、慧眼を持っていても、これを肉眼という。大乗を学ぶ人は、肉眼を持っていても、これを仏眼というのである。」と。

心淨已度諸禪定。

心が清らかになり、すでにあらゆる禅定を超えました。

此約非色法以歎心功德者,即是歎十力、四無所畏等一切功德,皆是心也。而言「心淨」者,佛心一切結漏、生死眾惡以盡,眾善普會,故言心淨也。「已度諸禪定」者,若通論禪定,禪定通因、通果,故《大涅槃經》云「大般涅槃,名深禪定窟」,豈得歎言「心淨已度大涅槃」也!若約別義禪定據因,佛心據果,果出因外,故言已度諸禪定也。

ここでいう「心の功徳」とは、物質的なものではないことを示しています。すなわち、如来の十力、四無所畏など、すべての功徳が心そのものであることを意味しています。

「心が清らかである」というのは、仏の心は、あらゆる煩悩や生死の苦しみという汚れが尽き、あらゆる善が完全に集まっているからです。

「すでに諸々の禅定を超えた」というのは、広く禅定を論じるならば、禅定には因の側面と果の側面の両方があります。ゆえに『大涅槃経』には「大般涅槃は深い禅定の窟(くつ)と名づけられる」とあります。そうであれば、どうして単に「心が清らかで、すでに大涅槃を超えた」とだけ言えるでしょうか。

もし別の意味で言うならば、禅定は因の段階を指し、仏の心は果の段階を指します。果は因を超えたところにあるので、「すでに諸々の禅定を超えた」と言うことができるのです。

問曰:何以得知別義禪是因名?

問うていわく、なぜ別義の禅が因の名称であると知るべきなのか。

答曰:如《大智論》云「禪,隋言思惟修」,佛心智鑑圓明,豈繁思惟!究竟無學,豈得言修也!又翻云「禪名棄惡」,如來眾惡可棄,故《大涅槃經》云「有所斷者,名有上士;無所斷者,名無上士」,故知思惟修惡翻禪,皆是因也。

答えて曰く、「大智度論」に「禅とは、俗に言う思惟修のことである」とあるが、仏の心の智慧は完全に明らかであり、どうして煩わしい思惟があろうか。究極の境地である無学に至っては、どうして修と言えようか。また別の訳では、「禅とは悪を棄てることと名づける」という。如来は、衆悪を棄てるべきものではない。ゆえに「大涅槃経」には「断ずる所のある者を、有上士と名づけ、断ずる所のない者を、無上士と名づく」とある。したがって、思惟修や悪を棄てるという禅の訳語は、いずれも因の位のものであることが知られる。

今約四教明佛「心淨已度」不同:

さて、四教に従って「仏の心は清らかであり、すでに彼岸に至った」という意味の違いを明らかにすると、次のようになります。

若三藏教明,佛無正、習,故名心淨也;於四禪、四空、八背捨、九次第定、師子奮迅三昧、超越三昧等一切諸禪定,永離法愛,出入自在,故名已度諸禪定也。但十力、無畏,歷別照境,不能一時等照。

三蔵教の教えによれば、仏には煩悩とその残り香(習気)がないため、心は清らかだとされます。四禅、四空、八背捨、九次第定、獅子奮迅三昧、超越三昧など、あらゆる禅定において法への執着を完全に離れ、出入りが自在であることから、すでにすべての禅定を超えたと説かれます。しかし、十力や無畏については、一つ一つの対象を個別に照らし、一度にすべてを等しく照らすことはできません。

若通教明心淨已度諸禪定者,佛心照真諦極本淨之源,界內結習永盡,於一切禪定無礙自在,無出入相,一念十力、無畏,一時照境,故名已度諸禪定也。

もし通教において「心が清らかであり、すでに諸々の禅定を超えた」と説くならば、それは仏の心が真実の真理を照らし、清らかさの極みである本源に達しているからです。そのような境地では、三界内における煩悩の習慣(結習)が永遠に尽き、あらゆる禅定に対して障害なく自在であり、入定や出定の相(すがた)もありません。一瞬のうちに十力や無畏(むい)の智慧が働き、一瞬のうちに境(きょう)を照らします。このゆえに「すでに諸々の禅定を超えた」と説かれるのです。

若別教明心淨者,緣修正智,顯自性清淨心,非但界內正、習已盡,界外十二品無明究竟永滅,故名心淨已度諸禪定。《地持論》明菩薩有九種禪:一,自性禪;二,一切禪;三,難禪;四,一切門禪;五,善人禪;六,一切行禪;七,除惱禪;八,此世、他世樂禪;九,清淨菩薩依清淨禪,得大菩提果。大菩提果出過清淨,故言心淨已度諸禪定也。此約三十心修自性禪,登地得一切禪,乃至等覺住清淨禪,斷十一品無明,入重玄門,名清淨禪也。佛果出過此清淨禪,故言心淨已度。

別教において「心が清らかである」ことを明かす場合、それは縁(えん)による修行の智慧によって、自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)を顕(あらわ)すことを意味します。これは、三界内の正使(しょうし)と習気(じっけ)の煩悩が尽きるだけでなく、三界外の十二品(じゅうにほん)の無明(むみょう)も完全に滅し尽くされることをいいます。そのため、「心清らかにして、すでに諸々の禅定を度(ど)した」と説かれているのです。

『地持論』(じじろん)では、菩薩に九種の禅があると明かされています。 一に、自性禅(じしょうぜん) 二に、一切禅(いっさいぜん) 三に、難禅(なんぜん) 四に、一切門禅(いっさいもんぜん) 五に、善人禅(ぜんにんぜん) 六に、一切行禅(いっさいぎょうぜん) 七に、除悩禅(じょのうぜん) 八に、此世他世楽禅(しせたせらくぜん) 九に、清浄禅(しょうじょうぜん)です。

菩薩は清浄禅に依って、大菩提果(だいぼだいか)を得ます。この大菩提果は清浄をも超えているため、「心清らかにして、すでに諸々の禅定を度した」と説かれるのです。

これは、三十心(さんじゅうしん)の位で自性禅を修し、登地(とうじ)して一切禅を得、さらに等覚(とうがく)の位で清浄禅に安住し、十一品の無明を断じて重玄門(じゅうげんもん)に入ることを「清浄禅」と呼びます。そして仏果(ぶっか)はこの清浄禅をも超えているため、「心清らかにして、すでに度した」と説かれているのです。

若約圓教明心淨已度諸禪定者,鐵輪位六根清淨,即是自性禪;初發心住,即是一切禪,以究竟離虗妄,顯自性清淨心,如是乃至清淨禪,破四十一品無明,住無垢地,如來心淨度此禪定,登妙覺果,故言已度諸禪定也。是以《金光明經》云「是時,如來遊於無量甚深法性,過諸菩薩所行清淨」,即其義也。《瓔珞經》明「昔在華嚴,集八禪眾」,即是自性禪。至此世、他世樂禪為八禪眾為說《華嚴》,得入清淨禪,住金剛無垢地也。常徒舊取四禪、四空為八禪眾,說《華嚴經》,聲聞在座,尚如聾啞;八禪外道,何足可集?

もし円教の観点から「心が清らかで、すでにすべての禅定を超えた」という意味を明らかにするならば、鉄輪位(修行の初期段階)において六根が清らかになること、これがすなわち自性禅(本来の自己の禅定)である。最初の発心住(菩提心を起こした最初の段階)において、すでにあらゆる禅定を具えている。なぜなら、根本的に虚妄を離れ、自性清浄心(本来の清らかな心)を顕現するからである。このようにして清浄禅に至り、四十一品の無明(四十一種類の根本的な迷い)を打ち破り、無垢地(汚れのない境地)に住し、如来の心の清らかさがこの禅定を超越し、妙覚の果(完全なる悟りの位)に至る。それゆえに「すでにすべての禅定を超えた」と言うのである。

よって、『金光明経』には「その時、如来は無量の甚深なる法性(真理の本質)に遊び、すべての菩薩が行ずる清らかな行いを超えていた」と説かれており、まさにこの意味である。『瓔珞経』には「昔、華厳の会において、八つの禅定の衆(修行者たち)を集めた」とあり、これが自性禅を指す。この世とあの世における楽の禅定を修める八つの禅定の衆のために『華厳経』を説き、彼らが清浄禅に入り、金剛の無垢地に安住するように導いたのである。

凡庸な人々や古い解釈では、四つの色界の禅定と四つの無色界の禅定(四禅四空)を八つの禅定の衆とし、それらに対して『華厳経』を説いたと捉える。しかし、声聞(直接の弟子たち)でさえ、その席に居ながらも聞こえず、見えなかったというのに(『華厳経』の説法を理解できなかった)、ましてや八禅の外道(真実の教えから外れた者たち)など、どうして集まるに値するであろうか。

若約觀心,一心三觀眾生心即如來心,本性清淨,故言心淨;能度修事相禪定,故言度禪定也。

もし観心の立場から言えば、一心に三観を修して、衆生の心がそのまま如来の心であると観ずる。本性は清らかであり、それゆえ「心が清らかである」と言う。さらに、修行の形をとった禅定をも超えていくことから、「禅定を超える」とも言うのである。

久積淨業稱無量,導眾以寂故稽首。

長く清らかな行いを積み、その功徳は限りなく、人々を静けさへと導く方に、心から敬礼します。

此一行偈歎化他形、聲兩益。所以然者,「久積淨業稱無量」即是無量劫來修福德,內成三十二相,外能神通變化,稱會物情。又,無量劫來常修智慧,內能離結,稱法相理,故得心淨度諸禪定;外能稱無量眾生根緣,故能於四不可說,用四悉檀起四教,化導一切眾生,證四番滅諦之理,故云導眾以寂。既有形、聲兩益,荷利恩深,是可敬重,故須稽首也。又解云,導眾者,般若能導眾行;若至佛果,導義便息,故言已寂。是則「久積淨業稱無量」一句,釋成目淨脩廣;「導眾已寂」,釋心淨已度也。

この一句の偈は、他者を教化する姿(形の利益)と声(声の利益)の二つの利益を賛美しています。その理由は、「久しく浄業を積みて無量と称す」とは、無量の劫(長い年月)の間、福徳を修めて、内には三十二相を具え、外には神通変化を現して、物の心にかなうことを示します。また、無量の劫の間、常に智慧を修めて、内には煩悩の束縛を離れ、真理にかなうので、心が清らかになり、諸々の禅定を超えています。外には無量の衆生の機縁にかなうので、四つの不可説の法について、四悉檀を用いて四教を起こし、一切の衆生を教化し導き、四番の滅諦の真理を証得させます。ゆえに「衆生を導いて寂滅に至らしむ」と説くのです。このように、姿と声の二つの利益があり、その恩恵を受けることの深さゆえに、敬い尊ぶべきであり、ゆえに頭を垂れて礼拝するのです。

また、別の解釈では、「衆を導く」とは、般若(智慧)が衆生の修行を導くことです。仏の果位に至れば、導くという意味は止みます。そこで「已に寂す(すでに静まった)」と言うのです。このように解すれば、「久しく浄業を積みて無量と称す」の一句は、「目浄くして脩広し」という句を説明し、「衆を導きて已に寂す」は、「心浄くして已に度す」を説明しているのです。

既見大聖以神變,普現十方無量土。

すでに大聖が神変を示し、十方無量の土にあまねく現れたまえり。

此下七行偈廣歎形、聲兩益。

ここから七つの偈(げ)は、仏の姿と声という二つの功徳(くどく)を広くたたえています。

就此,文有二別:前五行,廣歎形益色用;次二行,廣歎聲益。

このことについて、文には二つの違いがある。まず最初の五行では、形や色の働きによる利益を広くたたえ、次の二行では、声による利益を広くたたえている。

「既見大聖以神變」者,即是廣歎見佛色功德用也。神變即是神通,約色為神變,法身之色,清淨無礙,應化變現,如如意珠,亦如明鏡,故放光動地,十方國土皆悉現也。是則,一切法趣色,是趣不過。色為不思議藏色,為色入法界海,是以任運能變,能現廣大如空,無有涯際,故歎色功德用也。

「すでに大聖の神変を見る」とは、すなわち仏の色(すがた)の功徳とそのはたらきを広く称えることです。神変とは神通のことです。色という観点から神変を説けば、法身の色は清らかでさわりなく、応じて変化して現れること、如意宝珠のようであり、また明鏡のようでもあります。それゆえに光を放ち大地を動かし、十方の国土ことごとく現れるのです。すなわち、一切の法は色に趣き、それを超えることはありません。色は不可思議の蔵(くら)なる色であり、色は法界の海に入ります。ゆえに自然のままに変じ、広大にして虚空の如く、際限なく現れ出ることをもって、色の功徳とそのはたらきを称えるのです。

其中諸佛演說法,於是一切悉見聞。

その中で諸仏が法を説き、一切の者がことごとくそれを見聞きする。

此一行還釋成色用神變也。若非佛神力被,此會四眾何得見他方諸佛聞佛說法也?如《法華經》明「踊出菩薩四眾,以佛神力故,得見百千萬億國土虗空菩薩」也。

この一文は、再び「色を用いた神通変化」を説明したものです。もし仏の神力がなければ、この法会の四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が、どうして他方の諸仏を見て、仏の説法を聞くことができましょうか。たとえば『法華経』にあるように、「湧出した菩薩や四衆は、仏の神力を授かったからこそ、百千万億の国土にわたる虚空の菩薩たちを見ることができた」と説かれています。

問曰:此即是現相表發,何得是表發近由也?

問うていう。「これはまさに現れた相が示しているのではないか。どうして、これを示している直接の原因と言えるのだろうか。」

答曰:亦有師謬取,謂此是合葢現土。今細尋偈文,不爾。此是歎說《普集經》現相,非是合葢現瑞,如下偈云「今奉世尊此微葢,於中現我三千界」,此始是歎正表發也。

答えよう:師の中には誤って解釈し、これを「合蓋して土を現ず」と説く者もいる。しかし今、偈文を細かく尋ねると、そうではない。これは『普集経』が相を現すことを歎じたものであって、合蓋して瑞相を現すのではない。下の偈に「今、世尊にこの微蓋を奉り、その中に我が三千界を現ず」とあるように、これこそが正しく表れを発することを歎じたものである。

法王法力超羣生,

法王の法力は、あらゆる生きとし生けるものを超えている。

此兩行即是歎佛心用。言「法王」者,得三昧王三昧,故名法王也。「法力」者,於二諦、三諦、四種四諦諸法,得自在無礙也。「超羣生」者,佛心清淨,智斷超過三界,逈出十法界眾生也。

この二行は、仏の心の働きを讃えたものです。「法王」とは、三昧王三昧を得たことから、法王と呼ばれます。「法力」とは、二諦、三諦、四種四諦などのあらゆる教えにおいて、自在で障りのない境地を得ていることをいいます。「超羣生」とは、仏の心は清らかであり、智慧と煩悩を断ち切る力が三界を超え、十法界のあらゆる衆生よりもはるかに優れていることを表しています。

常以法財施一切。

常に法の財をもって、すべての者に施しを与える。

此即四教所論四種道諦、七聖法財,常施十法界眾生也。

すなわち、これが四つの教えで説かれる四種の道諦であり、七つの聖者の法財です。これらを常に十法界の全ての衆生に施し与えています。

問曰:法財為屬色用、為屬心用?

問うていわく、法財というのは、色(物質)に属する働きなのでしょうか、それとも心に属する働きなのでしょうか。

答曰:法財施通色、心,如無盡意施瓔珞,淨名施瓔珞,皆名法施。但能施是心,約色、聲,皆得是法財施也。

答えましょう:法施と財施は、色(物質)と心の両方に通じています。例えば、無尽意菩薩が瓔珞(宝飾)を施し、維摩詰(浄名)居士が瓔珞を施したことも、すべて法施と呼ばれます。施すという行為は心によるものですが、色や声を対象としても、それらはすべて法施であり財施でもあるのです。

能善分別諸法相,於第一義而不動。

あらゆる法の姿を巧みに見分けながらも、最高の真理においては動じることがない。

此正約二智釋心用,成法財施義也。「能善分別」者,權智分別世諦法相也。於第一義不動者,實智照第一義不動也。

これは、二つの智慧(権智と実智)に基づいて心の働きを説明し、それが法の財産を施すという意味を成しているのです。「能善分別(よく分別する)」とは、権智が世俗の真理における物事の姿を正しく見分けることを指します。「第一義において動じない」とは、実智が最高の真理を照らし、そこから動かないことを意味します。

問曰:上多約三諦明義,今此經何得用二諦歎也?

質問します。「先に多くは三諦によって教えの意味を明らかにされましたが、この経典ではなぜ二諦を用いて称賛するのでしょうか?」

答曰:合真入中,合真入俗,通、別二諦具在《玄義》料簡也。又釋,若隨情辨真,即是權智所照分別法相;若隨智之真,是實智寂而常照,是故歎言於第一義而不動也。

答えよう。真諦に合わしめて中道に入り、真諦に合わしめて俗諦に入るという、通・別の二諦についての詳細は、『玄義』の料簡に述べられている。 また別の解釈として、もし情に従って真諦を論じるならば、それは権智が照らし分別する法相である。もし智に従う真諦ならば、それは実智が静かでありながら常に照らすものである。ゆえに、「第一義において動かず」と讃嘆するのである。

已於諸法得自在,是故稽首此法王。

諸法に自在を得たまいし、故にこの法王に稽首す。

此一行結歎色心用。已於「色」諸法得自在,故能神通轉變,普現佛土;已於「心」法得自在,故二諦開合,隨機利物。色心功用既備,是可歸依,故致敬稽首也。

この一節は、「色」と「心」の働きを総括して讃えるものです。 すでに「色」というすべての現象に対して自在の力を得ているので、神通力によって自由に変化し、あまねく仏の国々を現すことができます。 また、「心」というはたらきに対しても自在の力を得ているので、真実の道理(真諦)と世俗の道理(俗諦)を自在に開いたり閉じたりして、人々の機根に応じて利益を与えます。 このように「色」と「心」の働きがともに備わっているので、まことに帰依すべき尊い方であり、ここに敬って頭を地につけて礼拝するのです。

說法不有亦不無,以因緣故諸法生。

説法は有るとも言えず、無いとも言えない。縁によって、すべての法は生じるからである。

此下兩行第二正廣歎聲益,述歎上「四眾圍繞,而為說法」也。上現尊勝之身,表說大乘;今猶現說法,將表當說不思議依報之土,驗非異席,所以為序,致有此歎也。說法不有亦不無者,即中道之法也。不有故非俗,不無故非真。然說法本約二諦,既雙非二邊,說何等法?當知,正說大乘中道也。所以者何?凡夫者有,二乘者無,菩薩正觀中道佛性,是故大乘方等為諸菩薩說法多說中道入不二法門,故言「不有亦不無」也。

次の二行は、第二に、まさに声の功徳を広く称える部分であり、先の「四衆が囲繞して、そのために説法す」という文を述べて称えたものです。先に尊勝の身を現して、大乗を説くことを表しました。今、さらに説法を現しているのは、まさにこれから不可思議な依報の国土を説くことを表そうとしており、説法の場が別のものでないことを確かめるためのものです。ゆえに序となって、このような称えがあるのです。

「説法は有に非ず、また無に非ず」とは、すなわち中道の法です。「有に非ず」ゆえに俗諦ではなく、「無に非ず」ゆえに真諦ではありません。しかしながら、そもそも説法は二諦に基づくものです。すでに二辺を共に否定しているのなら、どのような法を説くのでしょうか。知るべきです。まさに大乗の中道を説くのです。なぜならば、凡夫は「有」に執着し、二乗は「無」に執着しますが、菩薩は中道の仏性を正しく観じるからです。この故に、大乗方等経は諸菩薩のために法を説くにあたり、多く中道を説き、不二法門に入らせます。ゆえに「有に非ず、また無に非ず」と言うのです。

問曰:上用二諦歎佛智,今明說法何得約三諦也?

問うていわく、上の文では二諦をもって仏の智慧をたたえられました。今、説法について説くのに、どうして三諦によって論じるのでしょうか。

答曰:無、有為俗,中道即是真諦,即是說二諦也。

答え:無(む)と有(う)は世俗的な見方です。中道こそが真実の教えであり、これが二つの真理を説いているのです。

問曰:外道亦說非有非無,如言「神及世間,非常非無常」,即是非有非無也。小乘聲聞經亦說非有非無,如為車匿說《離有無經》。今何得言但大乘說非有非無也?

問うて曰く、「外道もまた『非有非無』を説く。例えば『神および世間は、常でもなく無常でもない』と言うのが、すなわち非有非無である。小乗の声聞経典もまた非有非無を説く。例えば車匿のために説かれた『離有無経』がそうである。今、どうしてただ大乗のみが非有非無を説くと言えるのか?」

答曰:凡夫、外道顛倒妄計,尚不見真諦之無,何況見非無!聲聞經雖說非有非無,只見真諦之無,何曾見中道非無之理也?今約四教明非有非無不同:

答えよう。凡夫や外道は、心が逆さまになって妄想し、真理の「無」すら正しく見ず、ましてや「無ではない」ことなど見ようがない。声聞の教えでは「有にあらず無にあらず」と説くが、彼らはただ真理の「無」を見るだけで、中道の「無ではない」という道理をかつて見たことがあるだろうか。ここでは四教に基づいて、「有にあらず無にあらず」という意味の違いを明らかにしよう。

若外人所計,非但計單非有非無、計複非有非無、計具足非有非無,乃至畢竟不可說,皆是妄情橫計,流轉生死。不見真空非有,皆名為有,不出二十五有也。尚不得非有,何得說非無!悉三藏教有門之所破。

もし外部の者が立てる見解とは、単に「非有非無」を単独で計るだけでなく、「非有非無」を複合的に計り、さらに「非有非無」を完全に具足したものとして計り、究極的には言葉で表現できないとすることに至るまで、すべて誤った執着による勝手な分別であり、生死の輪廻を流転するものである。真実の空である「非有」を見ないことを、すべて「有」と名づけるが、それは二十五有の領域を出ることがない。ましてや「非有」すら得られないのに、どうして「非無」を説くことができようか。これらはすべて三蔵教の「有門」によって破られるものである。

若三藏教破見入理,凡有四門:為車匿說《離有無經》,即是三藏教非有非無門。若得方便,從四門入理見真,但名非有,不得名非無;若不得方便,即墮有、無,與外道不異,縱令入理,亦非大乘不有不無也。三藏教雖無外道妄計諸見之有,猶有滅色等見論、愛論,說無是故還是有無,非是不有不無。

もし三蔵教において、誤った見解を破って真理に至る道筋には、四つの門がある。車匿のために『有無を離れる経』が説かれたのは、つまり三蔵教における「非有非無の門」である。もし方便を得れば、この四つの門から真理に入って真実を見ることができるが、それはただ「非有」と名づけられるだけで、「非無」とは言えない。しかし、もし方便を得なければ、「有」または「無」に堕ちてしまい、外道と変わるところがない。真理に入ったとしても、大乗における「不有不無」ではないのである。 三蔵教には、外道が執着するような誤った見解の「有」はないが、それでもなお色を滅するなどの「見論」や「愛論」がある。このため、「無」を説いたとしても、結局は「有と無」にすぎず、「不有不無」ではないのである。

通若通教明觀色等,皆如夢幻,無有定性,不可言有,不可言無。通教有四門入道,此即非有非無門也。若向道之人聞說即悟,即得見理,言語道斷。若執即為愚癡論,邪見火燒,縱令入理,但見真諦之無,善滅諸戲論,亦非真中道非有非無也。

通教に基づき、色などの現象を観察するならば、それらはすべて夢や幻のように、決まった本質を持たず、「有る」とも「無い」とも言い切れないものである。通教には四つの門があり、これこそが「非有非無」の門である。もし道を求める人がこの教えを聞いて即座に悟れば、理を体得し、言葉による説明を超える。しかし、これに執着すれば愚かな論議となり、邪見の火に焼かれてしまう。たとえ理に入ったとしても、真諦の「無」を見るに過ぎず、様々な戲論を滅することはできるが、真の中道における「非有非無」ではないのである。

又,別教觀中道破二邊,明不有非俗諦之有,不無非真諦之無。若入中道不二法門,故言不有不無也。此約別教就如來藏佛性之門,明不有不無門不同前兩教。若別教四門得入理故,不須破非有非無;若未悟者,亦是愚癡論,非真中道不有不無也。

また、別教の観法において中道を観じて二辺を破する場合、「有にあらず」とは俗諦の有のことではなく、「無にあらざる」とは真諦の無のことではない。もし中道の不二法門に入るならば、故に「有にあらず無にあらざる」と言うのである。これは別教において如来蔵・仏性の門に従って、「有にあらず無にあらざる」の門を明かすもので、前の二教とは異なる。別教の四門によって理に入ることができるならば、非有非無を破する必要はない。もし悟らない者であれば、これもまた愚痴の論であり、真の中道の「有にあらず無にあらざる」ではない。

圓教雖立四門,只一門即是四門,四門即是一門,不定有,故不有;不定無,故不無。無所依倚,將此虗心豁然入不二法門,見中道佛性,即是真名不有不無。若於此生著,猶尚應破,何況餘邪!若其未悟,徒百千說,終成有、無,非不有不無也。

円教では四門が立てられているが、一門がそのまま四門であり、四門が即ち一門である。 「有」と定まらないから「有」ではなく、「無」と定まらないから「無」ではない。 何にも依りかからず、この虚ろな心で豁然として不二法門に入り、中道の仏性を見る。 これこそが真に「有にあらず無にあらず」と名づけるものである。 もしこの境地に執着すれば、それすらも打ち破られるべきなのに、ましてや他の邪見はなおさらである。 もし悟らなければ、いくら百千の説を聞いても、結局は「有」か「無」に落ちてしまい、「有にあらず無にあらず」ではないのだ。

今簡偽顯真,點出圓教得意之者,為不有不無,以歎勝、應如來說法不有亦不無也,即是說於圓教真佛性中道不有不無也。復次,前三教明不有不無,竝是權;若圓教明不有不無,即是實也。若權若實,皆說不有不無,故言「說法不有亦不無」也。以因緣故諸法生者,是歎說緣起用也。緣起有二種,如前說。今此歎文,備含二種緣起。法體既不有不無,豈得有生!有因緣故,亦得說生者,以界內無明見思惑因緣故,即有滅苦集生、無生苦集生;以因滅無明見思故,則有生滅道諦生、無生道諦生。以界外無明塵沙無知故,故有無量苦集生;以因滅無明塵沙無知故,故有無量道諦生;以法界無明故,故有無作苦集生;以因滅法界無明故,故有無作道諦生,故言「以因緣故諸法生」也。有四種道諦生,故即有四種滅諦,名之為無,是明不有不無,雙照有、無也。

ここで、仮の教えを排して真実を明らかにし、円教の真意を得た者を指して、「有にあらず、無にあらず」と説き、勝れた如来の説法が「有にもあらず、無にもあらざる」ことを讃えています。これはすなわち、円教における真実の仏性、中道が「有にあらず、無にあらず」であることを説いているのです。

さらに、前三教(蔵・通・別)で説く「有にあらず、無にあらず」は、すべて仮の教え(権)です。しかし、円教で説く「有にあらず、無にあらず」こそが真実(実)なのです。仮の教えであれ真実の教えであれ、いずれも「有にあらず、無にあらず」と説くからこそ、「説法は有にもあらず、無にもあらざる」と言うのです。

「因縁によって諸法が生じる」というのは、縁起の働きを讃える言葉です。縁起には二種類あり、先に述べた通りです。この讃える文は、その二種類の縁起をすべて含んでいます。

法の本体はすでに「有にあらず、無にあらず」なのですから、どうして「生」があり得ましょうか! しかし因縁があるからこそ、「生」があるとも説くのです。

すなわち、三界(界内)における無明・見惑・思惑という因縁によって、滅すべき苦集(苦とその原因)という「生」と、それを滅ぼす無生の苦集という「生」があります。無明・見思惑を滅する因縁によって、生滅の道諦(道)という「生」と、無生の道諦という「生」があります。

また、三界外(界外)の無明・塵沙の無知という因縁によって、無量の苦集という「生」があり、その無明・塵沙の無知を滅する因縁によって、無量の道諦という「生」があります。 さらに、法界全体の無明という因縁によって、無作の苦集という「生」があり、その法界の無明を滅する因縁によって、無作の道諦という「生」があります。これが「因縁によって諸法が生じる」と言われる所以です。

この四種の道諦の「生」があるからこそ、それに対応する四種の滅諦があり、それを「無」と呼びます。これは「有にあらず、無にあらず」と明らかにしつつ、同時に「有」と「無」の両方を照らし出すことを示しているのです。

無我、無造、無受者,

無我であり、作る者もなく、受け取る者もない。

自此一句,及下一句,結成不有不無也。以無我、無受,故不有;善惡之業不敗亡,故不無也。今此一句正明無我、無受,正結不有。分別歷四教,明三種無我、無受(云云)。若有我,可論造;若無我,誰造善惡也。

この一句と次の一句で、「有にあらず、無にあらず」という道理をまとめて示している。「我なし」「受ける者なし」ゆえに「有」ではない。しかし、善悪の業は滅び失せないので「無」でもない。 この一句は、まさに「我なし」「受ける者なし」を明らかにし、「有にあらず」という点をまとめている。これを四教にわたって細かく分ければ、三種の「我なし」「受ける者なし」の意味が明らかになる(詳細は略す)。 もし我があれば、造るということが論じられる。しかし我がなければ、誰が善悪を造るというのか。

善惡之業亦不亡。

善悪の業もまた、なくなることはありません。

此一句,結「因緣故諸法生」也。通無明見思因緣故,則善惡業三界之集不敗亡,隨有善惡不失,能感二十五有報也;以因滅此通無明見思故,則二乘三菩提燈善業不敗亡。以有無明,不了染真法生愛故,則有無量集善惡之業不敗亡;以有無量道故,則有菩提之善不敗亡。以有無明順道法愛生故,則有無作集善惡之業不敗亡;以因滅法界無明故,則有無上菩提燈善不敗亡。此結因緣生善惡不敗亡也。

この一句は、「因縁によって諸法が生じる」ということを結びつけて示しています。通教の無明・見思の因縁があるからこそ、善悪の業による三界の集(苦しみを集める原因)は滅びずに続き、善悪に応じて二十五有という報いを感ずることになります。この通教の無明・見思を因(根本原因)から滅ぼすならば、二乗や三乗の菩提(悟り)という善い業はなくなりません。

無明があって、真如の法に染まって愛著が生じることを理解しないならば、無量の集(原因の集まり)である善悪の業は尽きることがありません。無量の道があるからこそ、菩提という善もなくならないのです。

無明があって、道に順じた法の愛著が生じるからこそ、無作の集である善悪の業もなくならず、因として法界の無明を滅ぼすからこそ、無上の菩提という善い灯火もなくならないのです。

これが、因縁によって善悪の業がなくならないことを結びつけて示したのです。

問曰:集能感苦,可說不敗亡,道何所感?

問い:集(渇愛などの原因)が苦しみを感じさせるのであれば、それがなくなればよしと言えるでしょう。では、道(実践の道)は何を感じさせるのでしょうか?

答曰:四種之道,必得四種滅諦解脫果,故不敗必也。

答え──四つの道(四諦)によって、必ず四つの滅諦の解脱の果報を得ることができる。だからこそ、決して敗れることはないのだ。

始在佛樹力降魔,得甘露滅覺道成。

初めて仏の樹の下で、力を尽くして魔を降伏し、甘露(悟りの法)を得て、煩悩を滅ぼし、覚りの道を成就された。

此下有八行偈,是第二歎劣應為遠由也。就此,文有二別:初兩行,歎應體形益;次六行,歎劣應用聲益。

以下に八行の偈がある。これは第二に、劣った応身を称えて深遠な因縁とする部分である。この文には二つの区別がある。初めの二行は、応身の形の功徳を称える。次の六行は、劣った応身の声の功徳を称える。

今就歎體為二:前,歎應色;二,歎應心。

ここで、阿弥陀仏を讃嘆する内容を二つに分けて説明します。 第一に、その「形(色)」の素晴らしさを讃えます。 第二に、その「心(智慧と慈悲)」の素晴らしさを讃えます。

「佛樹」者,佛坐此樹成佛,故名佛樹也。有言元吉樹,亦云菩提樹。菩薩成道時,初詣此樹坐,魔王恐菩薩道成,化其眷屬,空其宮殿,前遣三女,三女不能惑亂,即變為三老姥還歸,魔王增忿,遂將欲界十八億鬼神兵眾,至菩薩所,魔自敗散,具在《瑞應經》明。「甘露滅」者,魔王去後,菩薩中夜入四禪三十四心,見四諦理,名得甘露。甘露是四諦理,今言甘露,是得四諦理也。滅者,即是滅諦,界內見思惑,正習俱盡,故名滅也。「覺道成」者,只見四諦,即發真智,名覺道也。又解云,因四諦發真見第一義時,朗然大悟,知一切有常法、無常法,眾生數、非眾生數等一切法了了覺見,足十力、四無畏等一切諸佛法,名為覺道成也。以神力降魔,神通即是色法功德用也。

「仏樹」とは、仏がこの木の下に座って成仏したことから、仏樹と呼ばれる。元吉樹とも言い、また菩提樹ともいう。菩薩が悟りを開く時、まずこの木の下に赴いて座った。魔王は菩薩の悟りが成就するのを恐れ、眷属を教化し、宮殿を空にし、先に三人の娘を遣わしたが、三人の娘は惑わすことができず、やがて三人の老女に変わり帰っていった。魔王はますます怒り、ついに欲界の十八億の鬼神の兵衆を率いて菩薩のもとに至ったが、魔は自ら敗れ去った。その詳細は『瑞応経』に明らかである。「甘露滅」とは、魔王が去った後、菩薩が真夜中に四禅三十四心に入り、四諦の理を見たことを甘露を得たと言う。甘露は四諦の理である。今、甘露と言うのは、四諦の理を得たことである。滅とは、すなわち滅諦であり、界内の見思の惑、正使と習気がともに尽きたことから、滅と呼ぶのである。「覚道成」とは、ただ四諦を見て真の智を発すること、これを覚道という。また別の解釈では、四諦によって真の智を発し第一義を見る時、はっきりと大いに悟り、すべての有常の法や無常の法、衆生の数や非衆生の数など、一切の法を了々と覚り見て、十力や四無畏など、一切の諸仏の法を具足し、これを覚道成という。神力をもって魔を降伏する。神通はすなわち色法の功徳の用である。

已無心意、無受行,而悉摧伏諸外道。

心もなく、受け取りも行いもないまま、あらゆる外道をことごとく打ち負かす。

「無心意、無受行」者,得甘露,一切見受、顛倒四陰滅,故名無心意也。所以者何?若有心意,即有心顛倒;有顛倒,即有三受,三受即三苦,是苦諦也。行即行陰,行陰思數作業,業招生死,輪轉不息,即集諦也。無心則無受,無受則無行,無行則無業,無業故無集,無集則無三苦,苦集滅,即是「得甘露滅覺道成」也。《大品經》明五受、五行,行即是集諦,集諦斷故,佛無心意。無心意故,無此五見受行,故能破外道五見受行也。雖無五受、五行,為調伏外道,用四悉檀說三藏教五門調伏外道也。如佛問破長爪云:「汝見汝受不?汝有不受之見,即還成受。受即是苦,與眾生與眾人何異?而猗不受,憍慢輕他,起心口意,即是行,行即成集,招生感死,何名得實相也?」長爪信伏,得法眼淨。此五門伏諸外道例爾。

「心もなく、受け取りも行いもない」とは、甘露を得ることである。すべての見解や感受、そして顛倒した四陰(四蘊)が滅するから、「心もない」と言うのである。なぜなら、もし心があれば、心の顛倒がある。顛倒があれば、三受(三つの感受)がある。三受はすなわち三苦であり、これが苦諦である。行(ぎょう)とは行陰のことである。行陰は思(し)という心所(心のはたらき)によって業を作り出し、その業が生死を招き、輪廻が絶え間なく巡る。これが集諦である。心がなければ受(受け取り)はなく、受がなければ行(行い)もなく、行がなければ業もなく、業がなければ集(苦の原因)もなく、集がなければ三苦もない。苦と集が滅することを、「甘露を得て滅(ねはん)の覚り、道が成就する」というのである。

『大品経』には五受と五行(五つの行い)が説かれている。行とは集諦であり、集諦が断たれるから、仏には心も意志もない。心も意志もないので、これら五つの見解や受・行は存在しない。そのため、外道の五つの見解や受・行を打ち破ることができるのである。五受や五行はないけれども、外道を調伏(調え導く)するために、四悉檀(ししつだん)を用いて三蔵教の五つの教えを説き、外道を調伏するのである。

たとえば、仏が長爪梵志(ちょうそうぼんし)を論破された時、「あなたは、『あなたの見解を受け取るか』と問うた。あなたには『受け取らない』という見解があるが、それ自体がすでに「受け取り」となっている。受け取りはすなわち苦である。それならば、他の人々と何の違いがあろうか。それなのに『受け取らない』ことに寄りかかって、おごり高ぶり、他人を軽んじ、心や言葉や身体で行いを起こす。それがすなわち行であり、行は集(原因)を作り出し、生死を招き、死を感じさせる。どうして実相を得たと言えようか。」と言われた。長爪は信じて伏し、法眼清浄(真理を見る清らかな眼)を得た。この五つの教えによって、すべての外道を調伏する例も、これと同じである。

問:長爪是後時事,此歎意明未轉法輪前已伏外道,是何等外道?

問:長爪の話は後の出来事であるが、ここでの賛嘆の意図は、法輪を転じる前からすでに外道を伏せていたことを明らかにしている。これはどのような外道なのか?

答曰:舊解云「佛昔為凡夫時,從阿羅邏仙受八禪定,菩薩實無心從其受學,但為化之」。今謂此解乖偈,明佛未成道降魔,成道後伏外道,何得以凡夫時受八禪為伏彼也!恐是如來初成道竟,未轉法輪前,為提謂長者說五戒,符其本習,對五戒辨五行、六甲陰陽曆數。其既信伏,令歸依佛法。有當來僧,汝當歸依佛,為提謂說五戒長者得須陀洹果。佛實無心受行五行、六甲世事,但為摧伏外道故說也。案結集法藏明從波羅奈至涅槃夜結為修多羅藏,故知伏提謂在法輪前,從是以後皆以不受之法破諸外道,如向所引長爪之類。

答えはこうだ。「古来の解釈では『仏がかつて凡夫だった時、アーラーラ仙人から八つの禅定を受け、菩薩は実際にはその教えを受けようとは思わなかったが、ただ教化のためにそうした』と説く。しかし、今、この解釈は偈にそぐわないと考える。仏は成道前に魔を降伏し、成道後に外道を屈服させたのである。どうして凡夫の時に八つの禅定を受けたことが外道を伏せることになろうか!おそらく、如来が成道を終え、まだ法輪を転じる前に、トラプシャ長者に五戒を説き、彼の本来の習いに合わせて、五行・六甲・陰陽・暦数を説いたのである。彼がすでに信伏したので、仏法に帰依させた。『未来に僧が現れる。あなたは仏に帰依しなさい』と、トラプシャ長者に五戒を説き、長者は預流果を得た。仏は実際には五行や六甲などの世間の事柄を行おうとは思わなかったが、外道を屈服させるために説いたのである。結集して法藏を編纂した記録によれば、波羅奈から涅槃の夜まで結集して修多羅藏とした。これによって、トラプシャを屈服させたのは法輪を転じる前であったと知ることができる。それ以降はすべて、受けない法をもって諸々の外道を破ったのである。先に引用した長爪のような例がこれである。」

三轉法輪於大千,其輪本來常清淨;

大千世界に仏の法輪(教え)を三度転じたもう。その法輪は本来、常に清らかなものである。

此下有六行偈,是第二歎轉法輪,即歎劣應聲益也。文有三別:初兩行,歎轉法輪;次兩行,歎天人得益;次兩行,結歎也。

ここに六行の偈があります。これは第二の「法輪を転ずることを歎ず」、すなわち劣応の声の利益を歎ずるものです。文章には三つの区分があります。初めの二行は法輪を転ずることを歎じ、次の二行は天人が利益を得ることを歎じ、最後の二行はまとめて歎じています。

今言「三轉法輪」者,是即趣波羅奈,說生滅四諦也。言輪者,佛證四諦之法,四諦之法有可轉之義,名之為輪。又解,能壞煩惱,名之為輪,如王輪寶能壞怨歒,佛法輪寶能壞煩惱,故名法輪也。如來成道,經三七日,方趣波羅奈,生生雖不可說,以悉檀方便,赴天、人、小乘機而說四諦,轉入彼心,壞彼煩惱,故名轉法輪也。而言三轉者:一、示轉,謂是苦、是集、是滅、是道。二、勸轉,謂苦應知、集應斷、滅應證、道應修。三、證轉,謂苦我已知、集我已斷、滅我已證、道我已修。初轉示見諦道,勸轉示修道,證轉示無學道,是為三轉十二行法輪。初一轉,即生眼智明覺也。若曇無德解三轉不同,事如別明。所言大千者,即娑婆三千世界是釋迦之土,轉法輪王所化之所也。「其輪本來常清淨」者,如三藥中,無三種病;三種病中,無三種藥。四諦法轉,無見思惑垢,故名本來清淨也。又解,生生不可說而說四諦法輪,不說即是真諦,真諦無苦、集,故說本來常清淨。如《大集經》云:「甚深之理不可說,第一實義無聲字。陳如比丘於諸法,獲得真實之知見。」

今、「三転法輪」というのは、すなわち波羅奈(バラナシ)に赴き、生滅の四諦(四つの真理)を説かれたことです。「輪」というのは、仏が悟られた四諦の教えには、回転して他に伝える働きがあるので、これを「輪」と名付けます。また別の解釈では、煩悩を壊すことができるので「輪」と言い、例えば王の輪宝が敵を打ち砕くように、仏法の輪宝は煩悩を打ち砕くので、「法輪」と呼びます。

如来が悟りを開かれてから三週間を経て、波羅奈へと赴かれました。「生生(絶対的な真理)」は言葉で説くことはできませんが、悉檀(教えを伝える四つの方法)という方便を用いて、天人の機根や人間の機根、小乗の機根に合わせて四諦を説き、その教えを彼らの心に転じ入れて、その煩悩を壊したのです。これが「転法輪」と呼ばれるゆえんです。

「三転」と言うのは、第一に「示転」で、「これが苦、これが集、これが滅、これが道である」と示します。第二に「勧転」で、「苦は知るべきもの、集は断つべきもの、滅は証するべきもの、道は修めるべきもの」と勧めます。第三に「証転」で、「苦はすでに知った、集はすでに断った、滅はすでに証した、道はすでに修めた」と証明します。

最初の転では「見諦道(真理を見る道)」を示し、勧転では「修道」を示し、証転では「無学道(学ぶことのない完成の道)」を示します。これが三転十二行の法輪です。最初の一転で、すでに「眼・智・明・覚」という智慧が生じます。

なお、曇無徳(ダルマグプタ)の解釈では、三転の意味が異なるとされていますが、詳細は別に述べます。

「大千世界」と言うのは、すなわち娑婆(この世界)の三千世界であり、釈迦の国土であり、転法輪王が教化される場所です。

「その輪はもとより常に清らかである」とは、例えば三種の薬の中に三種の病がなく、三種の病の中に三種の薬がないようなものです。四諦の法輪が転じるとき、見惑や思惑という汚れがないので、「もとより清らか」と言うのです。

また別の解釈では、「生生(絶対的な真理)」は言葉で説けないが、それでも四諦の法輪を説くのです。説かないことがすなわち真諦(最高の真理)であり、真諦には苦も集もありません。だから「もとより常に清らか」と言うのです。『大集経』にこうあります。

「甚深の理は説くべからず 第一義諦には声も文字もなし  陳如(カウンディニヤ)の比丘は諸法において  真実の知見を得たり」

問曰:若陳如見真,即如《成論》明「見空得道」不?

問う:もし陳如が真実を見たのなら、それは『成実論』で説く「空を見て道を得る」と同じことなのか?

答曰:陳如有門見真,《成論》空門見真,見真雖一,教門有異也。今用數解者,三藏教起有門為初,陳如得道正是有門得道;其次,空門得道,是須菩提也。

答えよう。陳如は「有門」によって真理を見、『成実論』は「空門」によって真理を見る。真理を見ることは同じでも、教えの門には違いがある。今、数によって説明するなら、三蔵教は「有門」をもって始まりとし、陳如が悟りを得たのも、まさにこの有門によるものである。次に、空門によって悟りを得たのは、須菩提である。

天人得道此為證,三寶於是現世間。

天人が悟りを得て、このことが証となり、 三宝がこの世に現れたのです。

「天人得道」,天是八萬諸天,人即拘隣五人。五人聞法,初得見諦初果;八萬諸天,得法眼淨也。有人解云「五人,拘隣始得道,餘四人至夏初方得」,恐是經論異出不同。此經親云「天人得道,三寶現世間」,若四人不得見道,即非見諦得戒;但拘隣一人不成僧寶也。故知若用此釋,非便也。所言此為證者,證佛說法,契理契緣不虗,非如六師妄說,不能令人得道也。

「天人得道」——「天」とは八万の諸天を指し、「人」とは俱隣(くりん)ら五人の比丘を指します。五人は説法を聞いて、初めて真理を観じる初果(第一の悟りの段階)を得ました。八万の諸天は、法の眼を清らかにしました。

ある解釈では「五人の中、俱隣だけが初めに悟りを得て、残りの四人は夏の初めになってようやく悟りを得た」といいますが、これは経論によって伝え方が異なるのでしょう。この経典では明らかに「天人(天と人)が道を得て、三宝が世に現れた」とあります。もし四人がまだ悟りを得ていないとすれば、彼らは真理を観じていないため戒を得たことにならず、俱隣一人だけでは僧宝とはなりえません。したがって、その解釈を用いるのは都合が悪いのです。

ここで「これを証とする」というのは、仏の説法が理にも縁にもかなっており、虚偽ではないことを証明するものです。六師の外道が偽りの説を述べて人を悟りに導けなかったのとは、まったく異なるのです。

「三寶於是現世間」者,不用一體三寶為釋,初得甘露覺道成,始有佛寶;三轉法輪,即是法寶;拘隣等見諦得戒,即是僧寶也。自迦葉佛滅度,三寶隱沒,但有舊醫之化;今佛興出,三寶始具現出世也。

「三宝、この世に現れる」とは、一体三宝を意味するものではありません。最初に甘露の法を悟り、覚りを成し遂げて、初めて仏宝が現れました。次に法輪を三度転じて、これが法宝です。そして、憍陳如(きょうじんにょ)らが真理を見極めて戒律を得たこと、これが僧宝です。過去の迦葉仏が涅槃に入られてからは、三宝は世に隠れ、ただ旧来の医者の教えだけが残っていました。しかし今、仏が世に出現されたことで、三宝が初めて完全にこの世に現れたのです。

以斯妙法濟羣生,

この素晴らしい教えで、すべての生きとし生けるものを救いましょう。

此歎妙法,故能濟一切也。「以斯妙法」者,生滅四諦,為妙法也。能令眾生發真見理,畢故不造新,謂之妙法也。

この素晴らしい教えを称えることによって、全ての人々を救うことができるのです。「この素晴らしい教えによって」とは、生と滅という四つの聖なる真理を指し、それこそが素晴らしい教えなのです。この教えによって、人々は真実の道理を見極めることができ、過去の迷いを終わらせて新たな苦しみを生み出さないようにできること、これを素晴らしい教えと言うのです。

一受不退常寂然。

一度受けた悟りは退かず、常に静かで安らかである。

即是初見聖諦得果,永不退失,常寂也。若世智斷結,遇緣更起。今無漏真智斷結,諸見戲論滅,畢竟不起,故言常寂然。《大涅槃經》云「世醫所療治,差已還復發;如來所療治,差已不復發」,故歎言常寂然也。案《婆沙》見有得道,至盡智,猶有退,退至須陀洹。曇無德見空得道,一向無退也。修道教門不同,見道不退,其義無別。今偈歎意,正歎見道發無漏,永不退為凡夫也。

これは、まさに初めて聖なる真理(聖諦)を観じて悟りの果(聖果)を得た境地であり、決して退失することがなく、常住の寂静の状態である。もし世間的な智慧(世智)によって煩悩を断ち切ったとしても、再び因縁に触れて煩悩が起こる。しかし今、煩悩のない真の智慧(無漏真智)によって煩悩を断ち切れば、あらゆる邪な見解や虚妄の戯論は滅し、ついに再び生じることがない。それゆえに「常に寂然としている」と説かれるのである。

『大涅槃経』には、「世の医者が治療すれば、治ってもまた再発する。如来が治療すれば、治った後は再発しない」と説かれている。そこから、讃嘆して「常に寂然としている」と言うのである。

『婆沙論』(毘婆沙論)を考えると、あるもの(有部の立場)は、得道してから尽智(無学位の智慧)に至っても、なお退くことがあり、須陀洹(預流果)までは退くこともあるとする。しかし、曇無徳(法蔵部)の立場では、空を観て得道するならば、一度も退くことはないとされる。

修道の教えの門には違いがあるが、見道(真理を初めて観る位)においては退かないという点で、その意味に違いはない。今、この偈の讃嘆の意図は、まさに見道において無漏の智慧を発し、再び凡夫に退くことが決してないことを讃えているのである。

度老病死大醫王,當禮法海德無邊。

老いと病と死を越える大いなる医師、 広大な教えの海、限りない徳に敬礼しよう。

此歎醫王,能除思惟惑也。佛自度此三界思惟老、病、死,亦度眾生三界思惟老、病、死,故名大醫王也。所以能度者,眾生病無量,佛法藥亦無量,如大海無邊,是可歸敬也。

これを、限りない病を治す大医王とたたえるのは、心の迷いを除く力を持つからです。 仏は自ら三界の迷いによる老・病・死を越え、さらに衆生の三界の迷いによる老・病・死をも越えさせます。それゆえに大医王と名づけられるのです。 なぜ越えさせることができるのかというと、衆生の病が限りなく、仏の法の薬もまた限りなく、大海のように広いからです。ここに帰依し敬うべき理由があるのです。

毀譽不動如須彌,於善不善等以慈。

毀誉に動じず、須弥山の如く、 善にも不善にも、等しく慈しみをもって接する。

此總歎生身佛,有八風不動、大慈三念之德。如栴遮邏女謗而不戚,諸天大梵讚而不欣,八風不移;如須彌山八方風所不能動。此山高廣三百三十六萬里,翻為安明,又翻好高也,是歎斷德也。「於善不善等以慈」者,歎智德也。雖復羅睺三摩,調達三呵,呵令改惡、摩令進善,慈心也。

これは、生身の仏の徳を総じて讃えたものです。仏には、八風(利益・損失など世間の八つの出来事)に動じず、大いなる慈悲と三つの心の平等をそなえた徳があります。例えば、栴遮(せんしゃ)の娘が誹謗中傷しても悲しまず、諸天や大梵天が讃嘆しても喜ばない。八風に揺るぎません。それは、須弥山が八方向からの風に全く動じないのと同じです。この山は高さと広さが三百三十六万里あり、「安明」とも訳され、「好高」とも訳されます。これは、煩悩を断ち切った功徳(断徳)を讃えるものです。

「善にも不善にも等しく慈悲をもって接する」とは、智慧の功徳(智徳)を讃えるものです。羅睺羅(らごら)を三昧(修行)に導き、調達(=提婆達多)を三度叱り戒めたのは、悪を改めさせ善へと進ませるための、まさに慈悲の心によるものです。

心行平等如虗空,孰聞人寶不敬承?

心の働きが平等で、あたかも虚空のようであるならば、いったい誰が、このような人の宝を敬い受け入れないことがあろうか?

「平等」三念處,所謂:一、香塗左;二、刀割右;三、不塗不割,視之平等,無有異想。此據色法,為三念處也。順我法不喜,違我法不瞋,不違不順,常行捨心。此約心明三念處,佛心於此善惡皆慈念平等也。孰,誰也。人寶者,用智人為寶也。智人能別真偽,故聞者敬承也。

「平等」という三念処(さんねんじょ)とは、次の三つを指します。第一に、左の肩に塗香(ずこう)を塗られること。第二に、右の肩を刀で切り裂かれること。第三に、塗られることも切り裂かれることもなく、すべてを平等に見て、差別の心を持たないこと。これは物質的な側面に基づく三念処です。

自分の教えに従う者に対しては喜びを持たず、自分の教えに背く者に対しては怒らず、背くことも従うこともない者には、常に捨てる心(平らかな心)をもって接する。これは心の面から見た三念処であり、仏の心は善悪のいずれに対しても、すべてを慈しみ、平等に念じるのです。

「孰(たれ)」とは「誰」のことです。「人宝(じんぽう)」とは、智慧ある者を宝とすること。智慧ある者は真実と偽りを見分けることができるので、それを聞く者は敬意をもって受け入れるのです。

今奉世尊此微葢,於中現我三千界,諸天龍神所居宮,乾闥婆等及夜叉,悉見世間諸所有,十力哀現此化變。

今、私はこの小さな葢を世尊に捧げます。 その中に、私の三千世界が現れました。 諸々の天や龍神が住む宮殿、 乾闥婆や夜叉たちも、 世の中のすべてのものが見えます。 十力(仏)が慈しみによって、この変化を現してくださったのです。

此十九行,是第二正述歎表發之事,即為二:初四行,總述歎現三瑞表發;二,有十五行,別述歎佛三密。

これらの19行は、第二段の「正しく述べて歎じ、表発を述べる」部分にあたります。 大きく分けて二つあります。 最初の4行は、三つの瑞相が現れたことを総じて歎じ、その表れを述べています。 次の15行は、仏の三つの密(身密・口密・意密)を個別に歎じています。

今就初為三:初半行,述歎五百奉葢;次二行半,正述歎如來受葢,合成一蓋,現瑞表發;次一行,述歎眾覩希有,大眾歡喜也。「奉微蓋」者,微之言小,因小果大,表不思議大果淨土無方莫測也。「現三千界」者,是述上蓋內現土、現佛、現佛說法,表說應土、應身之事也。「哀現」者,慈念欲為羣品說此佛國因果,是故先現瑞作由漸,方得開闡,故稱哀現也。

まず最初に、この部分を三つに分けて説明します。最初の半行は、五百の者が蓋を捧げたことを称賛しています。次の二行半は、如来がその蓋を受け取り、一つに合わせて一つの蓋とし、瑞相を示して表れを現したことを称賛しています。最後の一行は、人々がこの稀有な光景を目にして大いに喜んだことを称賛しています。

「微蓋(わずかな蓋)」の「微」は「小さい」という意味です。因が小さく果が大きいことを表し、思議を超えた大いなる果報である清らかな世界(浄土)が、計り知れない広がりを持つことを示しています。

「三千界を現す」とは、先に述べた蓋の中に世界が現れ、仏が現れ、仏が説法する様子を指しています。これは、応身の仏が説く応土の世界を表しているのです。

「哀れみて現す」とは、如来が慈しみの心をもって、すべての人々にこの仏の国の因果を説こうとされたことを意味します。そのため、まず瑞相を現して段階を踏み、それからようやく教えを開き示すことができたのです。ですから、これを「哀れみの現れ」と呼ぶのです。

眾覩希有皆歎佛,今我稽首三界尊。

人々はこの稀有な光景を目にして、皆仏を讃嘆しました。今、私は三界の尊き方に頭を垂れて礼拝いたします。

此述上「大眾歎未曾有」也。

ここに上記の「大衆、未だ曾て有せずと歎ず」の意味を述べたものです。

大聖法王眾所歸,淨心觀佛靡不欣,各見世尊在其前,斯則神力不共法。

大聖なる法王は、すべての者の帰依するところ。清らかな心で仏を観じれば、喜ばない者はいない。各々が世尊を己の前に見る。これこそが、他に類を見ない神力である。

此下十五行,是別述歎佛現三密利物也。即為三:前兩行,歎身密;次六行,歎口密;次七行,歎意密。此三密,即是三輪不思議化三無失、三不護也。

この下の十五行は、別に仏が三密を現して、衆生を利益することを讃嘆するものです。すなわち、三つに分けられます。最初の二行は身密を讃え、次の六行は口密を讃え、最後の七行は意密を讃えています。この三密とは、すなわち、三輪の不思議な教化、三つの過失がないこと、三つの守護がいらないことです。

「大聖法王眾所歸」是歎法身、勝應,若法身三昧王三昧,三諦自在,為四十一心菩薩聖眾所歸;勝應現化自在,為四眾所歸,即是上來所明「佛安處眾寶師子之座」,映蔽諸來大眾,故為眾所歸也。「淨心」者,即四眾大乘機發,心無疑濁,欲聞淨道;亦是諸大菩薩淨心入觀佛三昧,故言淨心。各見世尊在其前者,此明應身對十法界眾生,眾生各見同己所宜,譬如一月,影現百盆,方圓隨器。然身非勝應、劣應,而眾生機有大小、根有利鈍種種不同,各各見異身,或如老比丘像,或光明相好,或見尊特之身,或現小相、大相坐寶蓮華,或身如虗空。《像法決疑經》所明,此則法身非勝非劣,眾生感見種種勝劣之身不同,此是身密之德,故前釋佛在毗耶離,眾生見不同,意在此也。不共者,如此身密,不與二乘及下地共也。

「大聖法王眾所歸」とは、法身と勝応身を讚えたものです。法身は三昧王三昧において三諦を自在に体得し、四十一心の菩薩聖衆の帰依を受けます。勝応身は眾生を教化するために自在に姿を現し、四眾の帰依を受けます。これは先に述べた「佛安處眾寶師子之座」の意味であり、集まった大眾を照らし輝かせる存在、すなわち大眾の帰依するところです。

「淨心」とは、四眾に大乗の機縁が生じ、心に疑いや濁りがなく、清らかな教えを聞こうとすることです。また、多くの大菩薩が清らかな心で佛を見る三昧に入ることをも意味します。これが「淨心」です。

「各見世尊在其前者」とは、応身が十法界の眾生に向き合い、それぞれの眾生が自分にふさわしい姿を目にすることを示します。例えて言えば、一つの月が百の盆に映るように、その形は器によって丸くも四角くもなるようなものです。仏の本体は勝応身でも劣応身でもありませんが、眾生の機根には大小・利鈍の違いがあり、それぞれ異なる姿を見ます。老比丘の姿、光明相好の姿、尊特の身、小相・大相の宝蓮華に坐す姿、虚空のような姿など様々です。

『像法決疑経』に説かれるように、法身は優劣を超えており、眾生の感応によって優れた姿や劣った姿が現れるのです。これが身密の徳であり、先に「佛在毗耶離」を解釈した際に、眾生によって見える姿が異なる理由もここにあります。

「不共」とは、この身密が二乗や下位の菩薩と共通しないことを意味します。

佛以一音演說法,眾生隨類各得解,皆謂世尊同其語,斯則神力不共法。

仏は一つの音声で法を説かれるが、衆生はそれぞれの性質に従って理解し、皆「世尊は自分の言葉で話してくださった」と思う。これが、他に類を見ない神通力の働きである。

此是歎佛口密。六行偈歎四辯,文有三別,初兩行,即是辭辯、法辯。

これは仏の口の秘密を讃えるものです。六行の偈で四辯を讃えており、文章には三つの区別があります。初めの二行は、辞辯と法辯に当たります。

「同其語」即辭辯,「各得解」即歎法辯。辭辯者,一切眾生殊方,異不類同,言音各異。如來能同其類音,故知是辭辯也。法辯者,是一切諸法名字差別種種不一,雖是一物而名字各異,一切名字不同,各有所召,得法辯者,皆識異類語法,以同其語音,故即辭辯;同其語下之法,令得解,即法辯也。佛以一音而辭、法異趣,用二辯應物者,是口密也。佛尚非是梵音,況同眾生、鳥獸音,而令異類得解者,即是非辭而現辭、非而說種種名字之法,口密之力也。

「その者が話す言葉に合わせる」、すなわち辞弁(ことばの自在)であり、「それぞれが理解を得る」、すなわち法弁(教えの自在)です。辞弁とは、すべての生きとし生けるものの地域や種が異なり、類も同じではなく、言葉や音声もそれぞれ異なる中で、如来がその類の音声に合わせることができることを指します。それゆえ、これを辞弁と知るのです。

法弁とは、一切の諸法の名前や区別が様々で一様ではなく、同じ一つの物でも名称が異なり、すべての名前が同じではなく、それぞれが特定のものを指し示すことです。法弁を得た者は、あらゆる異なる種の言語や法を識別し、その言葉の音に合わせるので、これが辞弁です。そして、その言葉に合わせた法によって、彼らに理解を得させること、これが法弁なのです。

仏は一つの音声で、辞弁と法弁という異なる趣旨を用いて、二つの自在力で衆生に応じる。これが口密(言葉の秘密)です。仏はそもそも梵音(神聖な音)でさえないのに、ましてや衆生や鳥獣の音声に合わせて、異なる種類の者たちに理解を得させる。これは、辞弁ではないのに辞弁を現し、説くことがないのに様々な名前の法を説くという、口密の力によるものなのです。

佛以一音演說法,眾生各各隨所解,普得受行獲其利,斯則神力不共法。

仏は一つの声で法を説かれるが、眾生はそれぞれ自身の理解に従ってその教えを受け止め、皆が教えを受けて実践し、その利益を得る。これこそが、他に類を見ない悟りの力である。

此兩行是二歎義辯。一音說法,受行獲利,即是尋言求旨,得言下所以。所以即是義也。如來本無句義,豈有義辯而能為眾生分別一切句義者!此口密也。

この二行は、二つの「義」(意味)と「弁」(説明)についての解説です。 同じ一つの教えであっても、受け止める人によって理解し、行い、得る利益は異なります。 つまり、言葉を手がかりに意味を追求し、その言葉の奥にある本質を得ることです。 その本質こそが「義」です。 如来(仏)には本来、言葉も意味もありません。 それなのに、どうして「義」や「弁」という形で、すべての生きとし生けるものに、ありとあらゆる言葉や意味を区別して示すことができるのでしょうか。 これこそが、言葉の秘密(口密)の働きなのです。

佛以一音演說法,或有恐怖或歡喜,或生厭離或斷疑,斯則神力不共法。

仏は一つの声で法を説かれるが、それを聞いて恐れる者もいれば、喜ぶ者もいる。ある者は厭離(えんり)の心を起こし、ある者は疑いを断ち切る。これは、仏だけが持つ特別な力の働きである。

此兩行偈是三歎樂說辯也。「或恐畏、或歡喜」者,即樂說辯也。旋轉無窮,眾皆樂聞。約四諦逗機,我當為說怖畏之事,三界皆苦,苦故生怖,苦諦也。樂求涅槃,即歡喜,滅諦也。「厭離」者,諸苦所因,貪欲為本,即集諦也。「斷疑」,即道諦也。又,約悉檀者,三界苦可畏,即世界悉檀也。歡喜,即為人,令生善根,故歡喜。厭離,是厭煩惱,即對治,藥病相對也。斷疑,即見諦道,是第一義。一音之演,其力如是,如來本非四諦、非四悉檀,而能以四諦、四悉檀善巧利益,即是口密也。

この二行の偈は、三種の楽説弁才を称賛するものです。「ある者は恐れ、ある者は喜ぶ」とは、すなわち楽説弁才のことです。自在に説きめぐらして尽きることなく、人々は皆それを喜んで聞きます。

これを四諦に照らして機根に合わせてみると、私は彼らのために恐れの事柄を説くべきです。三界はすべて苦しみであり、苦しみがあるからこそ恐れが生じる。これが苦諦です。涅槃を求めて喜ぶこと、これが滅諦です。「厭離」とは、あらゆる苦しみの原因は欲望を根本とするものであり、これが集諦です。「疑いを断つ」こと、これが道諦です。

また、四悉檀に照らして言えば、三界の苦しみが恐ろしいというのは世界悉檀です。喜ぶというのは、人のために善根を生じさせる為人悉檀であり、それゆえ喜ぶのです。厭離とは煩悩を厭うことであり、対治悉檀で、薬と病が対応するものです。疑いを断つとは真理を見る道であり、第一義悉檀です。

一つの音声による説法の力は、このようなものです。如来はもともと四諦でも四悉檀でもありませんが、四諦や四悉檀によって巧みに利益を与えることができる。これがすなわち口密なのです。

稽首十力大精進,稽首已得無所畏。

十方の仏陀に敬礼します、努力を尽くした尊き方よ。 敬礼します、すでにあらゆる怖れを超越された方よ。

此下七行偈,正歎心密。佛心非權非實,能現權實化物,即是心密也。文為二別:初四行,約三種權實二智以歎心密;次三行,約三種二諦結歎心密。

以下の七行の偈は、まさに仏の心の秘密を賛嘆するものです。仏の心は権(仮の教え)でも実(真実の教え)でもなく、権と実の両方を現して人々を教化することができます。これが心の秘密なのです。文章は二つに分けられます。最初の四行は、三種類の権実二智(権と実の二つの智慧)によって心の秘密を賛嘆し、次の三行は、三種類の二諦(世俗諦と第一義諦)によって心の秘密を結び賛嘆しています。

「稽首十力」初一行,約內外歎自行。十力據內,智圓滿無畏;據外,用不怯弱。此為一雙,即是約自行權實歎心密也。

十力(じゅうりき)に頭を下げるという最初の一行は、内と外の二つの側面から、自らの修行を讃えています。内側の面から見れば、十力は智恵が完全に満ち、何の恐れもないことを示し、外側の面から見れば、その働きに臆するところがないことを示しています。この二つは対をなしており、すなわち自らの修行における権(仮の教え)と実(真実の教え)によって、心の秘密を讃えているのです。

稽首住於不共法,稽首一切大導師。

敬礼いたします、他にない独自の真理に安住される方。 敬礼いたします、すべてを導く偉大な師よ。

此一行偈歎自行化他。不共法是自證,導師是化他也。

この一つの偈(げ)は、自らの修行と他者を導くことをたたえています。「他と共有しない法」とは自らが悟ることであり、「導師」とは他者を教え導くことです。

稽首能斷眾結縛,稽首已到於彼岸。

ありがとうございます。それでは、与えられた課題に従い、日本語に翻訳いたします。

心の束縛を断ち切った方に、心から敬礼いたします。 すでに悟りの彼岸に達した方に、心から敬礼いたします。

此一行兩用,若作歎自行,即是歎佛自行智、斷兩德,能斷是斷德,到彼岸是智德;若作歎化他,此一行約化他權、實智斷,以歎心密也。能斷眾結縛者,即是化他權實,明智斷也。眾是眾人,故為化他。

この一つの句には二つの意味があります。「自らの修行を称える」と解釈するならば、仏陀が自らの修行によって得た智慧と煩悩を断ち切るという二つの功徳を称えることになります。煩悩を断ち切る力が「断徳」であり、彼岸に到る智慧が「智徳」です。

一方で、「他者を導く教化を称える」と解釈するならば、この句は教化における方便と真実の智慧、そして煩悩を断ち切る力を通じて、仏陀の心の秘密を称えるものとなります。「衆生の束縛を断ち切る」とは、他者を導く教化における方便と真実の智慧によって、迷いや執着を明らかに理解し、断ち切ることを意味します。「衆」とは多くの人々を指すため、これは他者への教化を表しています。

問曰:何得一偈兩用?

問うていわく、どうして一つの偈(げ)を二つの場所で用いることができるのでしょうか。

答曰:佛智斷,自既無縛,能解他縛,故得兩用也。

答えます。仏の智慧は煩悩を断ち切っており、自らが縛られることがないので、他人の縛りを解くことができます。そのため、二つの働きを併せ持つのです。

稽首能度諸世間,稽首永離生死道。

敬礼します、世の中の全てを超えゆく方に。 敬礼します、永遠に生死の道を離れた方に。

此即是總結上三種權實智斷也。

これが以上三種の権実智断をまとめたものです。

悉知眾生去來相,善於諸法得解脫。

あらゆる生きとし生けるものの、過去と未来のありようを完全に知り、あらゆる現象に対して自由を得ている。

下三行是舉三種二諦以諦歎心密也。

以下の三行は、三種の二諦を挙げて、その真理によって心の秘密を讃嘆しているのである。

初一行「知眾生去來」者,是隨情二諦也。何以故?俗諦百千,心亦無量,或是求真,或欲樂俗,情有去取,故言去來去取。無量佛亦赴情說無量二諦,即是隨情二諦也。

「衆生の行き来を知る」というのは、感情に従った二つの真理(二諦)を説くものです。なぜなら、世俗の真理は百千あり、心もまた無量であり、ある者は真実を求め、ある者は世俗を楽しみ、心には選択の動きがあるからです。そのため「行き来」と言い、選択の動きを指します。仏もまた、無量の心に応じて無量の二諦を説かれます。これがすなわち、感情に従った二諦です。

不著世間如蓮華,常善入於空寂行。

世間に執着せず、蓮の花のように清らかに、常に善く空寂の行(くうじゃくのぎょう)に入る。

此偈約隨情智二諦也。隨情而無染,隨智故言空寂也。

この偈は、衆生の状況に合わせた「情」と、真理を見極める「智」という二つの立場から説かれています。 「情」に従えば、この世は執着のない清らかなものとして現れます。 「智」に従えば、すべては本質的に空(くう)であり、静かで平安なものとして理解されます。

達諸法相無罣礙,稽首如空無所依。」

すべての物事のあり様をあるがままに悟り、何ものにもとらわれることなく、 空のように何にも寄りかからず、ひたすらに敬礼いたします。

一行是歎隨智二諦,智心所照,皆入一相,而無所礙,如空無所依,故名隨智二諦也。

この「一行」は「随智の二諦」を称えるものです。智慧の心が照らすところは、すべて一つの相に入り、何の妨げもありません。それは虚空のように何ものにも依らず、自在なのです。故に「随智の二諦」と名付けます。

維摩羅詰經文疏卷第六

維摩経文疏 巻第六


第五
第七

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