大乘阿毘達磨雜集論卷第四
大乗阿毘達磨雑集論 巻第四
安慧菩薩糅
安慧菩薩が編纂しました
大唐三藏法師玄奘奉 詔譯
大唐三蔵法師玄奘が勅命を受けて訳しました。
本事分中三法品第一之四
本事分の中の三法品 第一の四
云何不善?幾是不善?為何義故觀不善耶?謂自性故、相屬故、隨逐故、發起故、第一義故、生得故、方便故、現前供養故、損害故、引攝故、所治故、障礙故,是不善義。五蘊十界四處一分是不善。為捨執著非法合我故觀察不善。自性不善者,謂除染污意相應及色無色界煩惱等,所餘能發惡行煩惱隨煩惱。此復云何?謂欲界繫不任運起者是不善,若任運起能發惡行者亦是不善,所餘是有覆無記。相屬不善者,謂即此煩惱隨煩惱相應法。隨逐不善者,謂即彼習氣。發起不善者,謂彼所起身業語業。第一義不善者,謂一切流轉。生得不善者,謂由串習不善故感得如是異熟,由此自性即於不善任運樂住。方便不善者,謂依止親近不善丈夫故,聽聞不正法、不如理作意,行身語意惡行。現前供養不善者,謂想對歸依隨一天眾已,或殺害意為先、或邪惡見為先,建立祠廟興供養業,令無量眾廣樹非福。殺害意為先建立祠廟者,謂於是處害牛羊等以祭天神。邪惡見為先建立祠廟者,謂於是處受自餓等苦求福求願。損害不善者,謂於一切處起身語意種種邪行。引攝不善者,謂行身語意諸惡行已,於惡趣善趣引攝不愛果異熟或引或滿,於惡趣中具受引滿果異熟,於諸善趣唯受滿果,謂生彼已由惡行力受貧窮苦。所治不善者,謂諸對治所對治法。障礙不善者,謂能障礙諸善品法,如數與眾集等。
不善とは何でしょうか。いくつのものが不善なのでしょうか。どのような意味のために不善を観察するのでしょうか。それは、自性のため、相属のため、随逐のため、発起のため、第一義のため、生得のため、方便のため、現前供養のため、損害のため、引摂のため、所治のため、障碍のためであり、これが不善の意味です。五蘊・十界・四処の一分が不善です。非法を我に合わせるという執着を捨てるために、不善を観察します。
自性の不善とは、染汚意と相応するもの、および色界・無色界の煩悩などを除いた、残りの悪行を発起させる煩悩と随煩悩をいいます。これはさらにどのようなものでしょうか。欲界に繋属し、任運に起きないものが不善であり、任運に起きて悪行を発起させるものもまた不善です。残りのものは有覆無記です。相属の不善とは、まさにこの煩悩と随煩悩に相応する法です。随逐の不善とは、まさにそれらの習気です。発起の不善とは、それらによって起こされる身業と語業です。第一義の不善とは、一切の流転です。生得の不善とは、不善を繰り返し習うことによってこのような異熟を感得し、この自性によって不善に任運に楽住することです。方便の不善とは、不善な人に依止し親近することによって、不正な法を聞き、如理でない作意を行い、身・語・意の悪行を行うことです。現前供養の不善とは、帰依したと思って何らかの天衆に対して、あるいは殺害の意を先として、あるいは邪悪な見を先として、祠廟を建立し供養の業を行い、無量の衆生に広く非福を積ませることです。殺害の意を先として祠廟を建立するとは、その場所で牛羊などを害して天神を祭ることです。邪悪な見を先として祠廟を建立するとは、その場所で自ら餓えるなどの苦を受け、福を求め願を求めることです。損害の不善とは、一切の場所で身・語・意の種々の邪行を起こすことです。引摂の不善とは、身・語・意の諸々の悪行を行った後、悪趣や善趣において好ましくない果の異熟を引摂し、あるいは引き、あるいは満たすことです。悪趣においては引果と満果の異熟を具に受け、諸々の善趣においてはただ満果のみを受けます。すなわちそこに生まれた後、悪行の力によって貧窮の苦を受けるということです。所治の不善とは、諸々の対治が対治する法です。障碍の不善とは、諸々の善品の法を障碍するもので、数と衆の集まりなどに対するもののようなものです。
云何無記?幾是無記?為何義故觀無記耶?謂自性故、相屬故、隨逐故、發起故、第一義故、生得故、方便故、現前供養故、饒益故、受用故、引攝故、對治故、寂靜故、等流故,是無記義。八界八處全及餘蘊界處一分,是無記。八界者,謂五色根香味觸界,八處亦爾。為捨執著離法非法我故觀察無記。自性無記者,謂八色界處、意相應品,命根、眾同分、名句文身。相屬無記者,謂懷非穢非淨心者所有由名句文身所攝受心及心法。非穢非淨心者,顯善不善相違心。由名句文身所攝受者,顯彼行相義,以彼意言門轉故。隨逐無記者,謂即彼戲論習氣,以名身等熏習心故,由此習氣後戲論生。發起無記者,謂彼所攝諸心心法所發身業語業。彼所攝者,謂懷非穢非淨心者所有名身等戲論行相所攝心心法。第一義無記者,謂虛空、非擇滅。生得無記者,謂諸不善有漏善法報。方便無記者,謂非染非善心者所有威儀路、工巧處法。非染非善心者,此顯若非染非善心所發威儀路等是無記性,所餘隨其所應或善或不善。現前供養無記者,謂如有一想對、歸依隨一天眾,遠離殺害意邪惡見而建立祠廟興供養業,令無量眾於如是處不生長福非福。饒益無記者,謂如有一於自僕使妻子等所,以非穢非淨心而行惠施。受用無記者,謂如有一以無簡擇無染污心受用資具。無簡擇心者為別善性,無染污心者為別不善性。引攝無記者,謂如有一於工巧處串習故,於當來世復引攝如是相身,由此身故習工巧處速疾究竟。對治無記者,謂如有一為治疾病得安樂故,以簡擇心好服醫藥。寂靜無記者,謂色無色界諸煩惱等,由奢摩他所藏伏故。等流無記者,謂變化心俱生品是證等流故,名等流無記。變化心相應共有等法名俱生品,此心心法謂嬉戲故發起變化是無記性,若為利益安樂有情當知是善。復有示現善不善無記法,此復云何?謂佛及得第一究竟菩薩摩訶薩,為欲饒益諸有情故有所示現,當知此中無有一法真實可得。有所示現者,謂佛菩薩由所化有情力故,示現種種善不善等。示現不善者,謂化作賊等示現斷其首足等事,怖餘有情令調伏故。
何が無記でしょうか。いくつが無記でしょうか。どのような意味のために無記を観察するのでしょうか。自性のため、相属のため、随逐のため、発起のため、第一義のため、生得のため、方便のため、現前供養のため、饒益のため、受用のため、引摂のため、対治のため、寂静のため、等流のため、これが無記の意味です。八界八処の全部と、残りの蘊・界・処の一部が、無記です。八界とは、五つの色根と香・味・触の界をいい、八処も同じです。法・非法に対する執着を捨てるために無記を観察します。自性無記とは、八つの色界・色処と、意に相応する品、命根、衆同分、名句文身です。相属無記とは、非穢非浄の心を持つ者にある、名句文身に摂められる心と心法です。非穢非浄の心とは、善とも不善とも相違する心を示します。名句文身に摂められるとは、その行相の義を示し、その意言の門によって転じるからです。随逐無記とは、まさにその戯論の習気であり、名身などが心を熏習するため、この習気によって後に戯論が生じます。発起無記とは、それに摂められる諸々の心心法が発起する身業と語業です。それに摂められるとは、非穢非浄の心を持つ者にある名身などの戯論行相に摂められる心心法をいいます。第一義無記とは、虚空と非択滅です。生得無記とは、諸々の不善と有漏の善法の報いです。方便無記とは、非染非善の心を持つ者にある威儀路と工巧処の法です。非染非善の心を持つ者とは、非染非善の心が発起する威儀路などは無記の性であり、その余はそれぞれに応じて善または不善であることを示します。現前供養無記とは、ある者が一想対し、いずれか一天衆に帰依し、殺害の意と邪悪見を遠ざけて祠廟を建立し供養の業を興し、無量の衆生をしてそのような処において福も非福も生長させないようにするようなものです。饒益無記とは、ある者が自分の僕使や妻子などに対して、非穢非浄の心で恵施を行うようなものです。受用無記とは、ある者が簡択なく染汚のない心で資具を受用するようなものです。簡択のない心とは善性と区別するためであり、染汚のない心とは不善性と区別するためです。引摂無記とは、ある者が工巧処を串習するため、未来世において再びそのような相の身を引摂し、この身によって工巧処を習って速やかに究竟するようなものです。対治無記とは、ある者が疾病を治して安楽を得るために、簡択の心でよく医薬を服用するようなものです。寂静無記とは、色界・無色界の諸々の煩悩などが、奢摩他によって蔵伏されるからです。等流無記とは、変化心と俱生の品であり、証の等流であるから等流無記と名付けます。変化心と相応し共有する等の法を俱生の品といい、この心心法は嬉戯のために変化を発起するので無記の性であり、もし有情の利益安楽のためにするならば善であると知るべきです。さらに、善・不善・無記の法を示現することがあります。これはまたどういうことでしょうか。仏と第一究竟を得た菩薩摩訶薩が、諸々の有情を饒益しようとして示現するところがあり、この中には一つとして真実に得られる法はないと知るべきです。示現するところがあるとは、仏と菩薩が所化の有情の力によって、種々の善・不善などを示現することです。不善を示現するとは、賊などを化作してその首や手足を断つなどの事を示現し、残りの有情を怖れさせて調伏させるためです。
云何欲界繫?幾是欲界繫?為何義故觀欲界繫耶?謂未離欲者所有善不善無記法,是欲界繫義。未離欲言,顯猶未離少分欲界欲,是未證得三摩地義。若異此者非至定法,亦應是欲界繫。所以者何?由彼已得三摩地故愛樂斷滅,以所治麁重少分斷故,亦得說有一分離欲。外諸色等是未離欲,業增上力所生故,亦名欲界繫。經言一切有情共有業增上力所生者,為顯生色無色界者亦有未離欲,業種隨逐故。四界二處全及餘蘊界處一分,是欲界繫。四界者,謂香味鼻舌識界。二處者,謂香味處。餘一分者,謂除色無色界繫及無漏法。為捨執著欲增上我故觀察欲界繫。
欲界に繋がるとはどういうことでしょうか。いくつが欲界に繋がるのでしょうか。どのような意味のために欲界に繋がるものを観察するのでしょうか。まだ欲を離れていない者の持つ善・不善・無記の法が、欲界に繋がるという意味です。「まだ欲を離れていない」という言葉は、いまだ欲界の欲の一部さえも離れていないことを示しており、これは三摩地を証得していないという意味です。もしこれと異なるならば、非至定の法もまた欲界に繋がるはずです。なぜならば、彼はすでに三摩地を得ているので愛楽を断滅し、対治される粗重の一部が断たれているので、一分の離欲があるとも言えるからです。外界の色などは、まだ欲を離れていない者の業の増上力によって生じたものであるため、これも欲界に繋がると名づけます。経に「一切の有情が共有する業の増上力によって生じたもの」とあるのは、色界・無色界に生まれる者にもまだ欲を離れていない業の種が随逐していることを示すためです。四界と二処の全体、および残りの蘊・界・処の一分が、欲界に繋がります。四界とは、香・味・鼻識・舌識の界です。二処とは、香処・味処です。残りの一分とは、色界・無色界に繋がる法および無漏法を除いたものです。欲を増上とする我への執着を捨てるために、欲界に繋がるものを観察するのです。
云何色界繫?幾是色界繫?為何義故觀色界繫耶?謂已離欲界欲、未離色界欲者所有善無記法,是色界繫義。除前所說四界二處,餘蘊界處一分是色界繫。一分者,謂除欲無色界繫及無漏法。為捨執著離欲界欲我故觀察色界繫。
色界に繫(けい)するとは何でしょうか。いくつが色界に繫するのでしょうか。どのような意味のために色界に繫するものを観察するのでしょうか。すなわち、すでに欲界の欲を離れ、まだ色界の欲を離れていない者の、すべての善法と無記法が、色界に繫するという意味です。先に説いた四界と二処を除いて、残りの蘊・界・処の一分が色界に繫します。一分とは、欲界・無色界に繫する法および無漏法を除いたものです。欲界の欲を離れた我への執着を捨てるために、色界に繫するものを観察するのです。
云何無色界繫?幾是無色界繫?為何義故觀無色界繫耶?謂已離色界欲、未離無色界欲者所有善無記法,是無色界繫義。三界二處四蘊一分,是無色界繫。三界者,謂意界法界意識界。二處者,謂意處法處。四蘊者,謂受等。亦有三摩地所生色,少故不說。一分者,謂除欲色界繫及無漏法。為捨執著離色界欲我故觀察無色界繫。
無色界に繋属するとはどういうことでしょうか。いくつが無色界に繋属するのでしょうか。どのような意味のために無色界に繋属するものを観察するのでしょうか。すでに色界の欲を離れ、まだ無色界の欲を離れていない者の、すべての善法と無記法が、無色界に繋属するという意味です。三界と二処と四蘊の一分が、無色界に繋属します。三界とは、意界と法界と意識界です。二処とは、意処と法処です。四蘊とは、受などをいいます。また三摩地から生じた色もありますが、少ないため説きません。一分とは、欲界と色界に繋属する法および無漏法を除いたものです。色界の欲を離れた我への執着を捨てるために、無色界に繋属するものを観察するのです。
復次有一分離欲、具分離欲、通達離欲、損伏離欲、永害離欲。一分、具分離欲者,謂或依地離欲說,若於此地乃至能斷八品煩惱,是一分離欲;若已斷第九品,是具分離欲。或依薩迦耶離欲說,若有學位是一分離欲,若無學位是具分離欲。通達離欲者,謂由見道離欲。損伏離欲者,謂由世間道離欲。永害離欲者,謂由出世間道離欲。復有十種離欲,謂自性離欲、損害離欲、任持離欲、增上離欲、愚癡離欲、對治離欲、遍知離欲、永斷離欲、有上離欲、無上離欲。如是十種離欲,當知是違背義、不必斷義。由自性故離欲,名自性離欲。乃至由永斷故離欲,名永斷離欲。如是諸句義分別種類應知。自性離欲者,謂於苦受及順苦受處法生厭背性。損害離欲者,謂習欲者暢熱惱已生厭背性。任持離欲者,謂飽食已於諸美膳生厭背性。增上離欲者,謂得勝處已於下劣處生厭背性,猶如世間已得城主等勝位已,於村主等下劣位生厭背心。愚癡離欲者,謂諸愚夫於涅槃界生厭背性,以不了達寂靜性故,及堅實著薩迦耶故。對治離欲者,謂由世出世道斷諸煩惱。遍知離欲者,謂已得見道者於三界法生厭背性,由遍了知行苦性已,厭背一切有漏事故。永斷離欲者,謂永斷地地諸煩惱已生厭背性。有上離欲者,謂諸世間聲聞獨覺所有離欲。無上離欲者,謂佛菩薩所有離欲,為欲利樂諸有情故。
次に、一分離欲・具分離欲・通達離欲・損伏離欲・永害離欲があります。
一分離欲と具分離欲について。地による離欲の説では、ある地において八品の煩悩を断つことができれば一分離欲といい、すでに第九品を断じていれば具分離欲といいます。あるいは薩迦耶による離欲の説では、有学位は一分離欲であり、無学位は具分離欲です。
通達離欲とは、見道によって離欲することです。損伏離欲とは、世間道によって離欲することです。永害離欲とは、出世間道によって離欲することです。
また十種の離欲があります。自性離欲・損害離欲・任持離欲・増上離欲・愚癡離欲・対治離欲・遍知離欲・永断離欲・有上離欲・無上離欲です。これらの十種の離欲は、違背の意味であり、必ずしも断じる意味ではないと知るべきです。自性によって離欲するので自性離欲と名づけ、乃至、永断によって離欲するので永断離欲と名づけます。このように諸句の意味と分別の種類を知るべきです。
自性離欲とは、苦受および順苦受処の法に対して厭背の性を生じることです。損害離欲とは、欲を習う者が熱悩を暢べ終えて厭背の性を生じることです。任持離欲とは、飽食した後、もろもろの美食に対して厭背の性を生じることです。増上離欲とは、勝れた処を得て、下劣な処に対して厭背の性を生じることです。ちょうど世間で城主などの勝位を得た者が、村主などの下劣な位に対して厭背の心を生じるようなものです。愚癡離欲とは、もろもろの愚夫が涅槃界に対して厭背の性を生じることです。寂静の性を了達しないからであり、また薩迦耶に堅実に執着するからです。対治離欲とは、世間道と出世間道によってもろもろの煩悩を断じることです。遍知離欲とは、すでに見道を得た者が三界の法に対して厭背の性を生じることです。行の苦性を遍く了知し終えて、すべての有漏の事に厭背するからです。永断離欲とは、地地のもろもろの煩悩を永く断じ終えて厭背の性を生じることです。有上離欲とは、もろもろの世間の声聞・独覚が持つ離欲です。無上離欲とは、仏と菩薩が持つ離欲であり、もろもろの有情を利楽しようとするためです。
云何有學?幾是有學?為何義故觀有學耶?謂求解脫者所有善法,是有學義。從積集資糧位已去名求解脫者。當知求證解脫分位,名積集資糧位。十界四處諸蘊一分是有學。十界者,謂七識色聲法界。四處者,謂色聲意法處。為捨執著求解脫我故觀察有學。
どのようなものが有学なのでしょうか。いくつのものが有学なのでしょうか。どのような意味のために有学を観察するのでしょうか。解脱を求める者の持つすべての善法が、有学の意味です。資糧を積み集める位からすでに「解脱を求める者」と呼びます。解脱を証すべき分位を、資糧を積み集める位と知るべきです。十界・四処の諸蘊の一部が有学です。十界とは、七識と色・声・法界のことです。四処とは、色・声・意・法処のことです。解脱を求める我への執着を捨てるために、有学を観察するのです。
云何無學?幾是無學?為何義故觀無學耶?謂於諸學處已得究竟者所有善法,是無學義。以阿羅漢等於增上戒心慧學處已得究竟,故名無學。十界四處諸蘊一分是無學。為捨執著已脫我故觀察無學。
何が無学でしょうか。いくつが無学でしょうか。どのような意味のために無学を観じるのでしょうか。諸々の学処においてすでに究竟を得た者の持つ善法、これが無学の意味です。阿羅漢などが増上戒・心・慧の学処においてすでに究竟を得ているので、無学と名づけます。十界四処の諸蘊の一分が無学です。すでに我から脱したという執着を捨てるために、無学を観じるのです。
云何非學非無學?幾是非學非無學?為何義故觀非學非無學耶?謂諸異生所有善不善無記法,及諸學者染污無記法,諸無學者無記法并無為法,是非學非無學義。諸異生者,謂除求解脫者,以彼於諸學處求修學故,即名有學。有學染污無記者,如其所應不善及有覆無記是染污,無覆無記是無記。八界八處全及餘蘊界處一分,是非學非無學。為捨執著不解脫我故觀察非學非無學。
非学非無学とは何でしょうか。いくつが非学非無学でしょうか。どのような意味のために非学非無学を観察するのでしょうか。すなわち、すべての異生の持つ善・不善・無記の法、および学ある者たちの染汚・無記の法、無学の者たちの無記の法ならびに無為の法が、非学非無学の意味です。異生とは、解脱を求める者を除いた者たちをいいます。なぜなら、彼らは諸々の学処において修行・修学を求めるので、すなわち有学と名づけられるからです。有学の染汚無記とは、それぞれの対応に応じて、不善および有覆無記は染汚であり、無覆無記は無記であります。八界八処の全部、および残りの蘊・界・処の一分が、非学非無学であります。解脱しない我への執着を捨てるために、非学非無学を観察するのです。
云何見所斷?幾是見所斷?為何義故觀見所斷耶?謂分別所起染污見疑、見處、疑處,及於見等所起邪行煩惱隨煩惱,及見等所發身語意業,并一切惡趣等蘊界處,是見所斷義。此中分別所起染污見疑者,謂聞不正法等為先,所起五見等。分別所起言,為簡俱生薩迦耶見及邊執見。問:何相邊執見?是俱生耶?答:謂斷見。已學現觀者起如是怖:今者我我為何所在?見處者,謂諸見相應共有法及彼種子。疑處亦爾。於見等所起邪行煩惱隨煩惱者,謂依見等門及緣見等所起貪等一切一分,是見所斷。一分者,除修所斷及無漏故。為捨執著見圓滿我故觀察見所斷。
何が「見によって断ぜられるもの」として見られるのでしょうか。いくつが「見によって断ぜられるもの」なのでしょうか。どのような意味のために「見によって断ぜられるもの」を観察するのでしょうか。それはすなわち、分別によって起こされた汚れた見と疑、見の基盤、疑の基盤、また見などに基づいて起こされた邪な行いである煩悩と随煩悩、さらに見などから発せられた身と語と意の業、ならびにすべての悪趣などの蘊・界・処が、「見によって断ぜられるもの」の意味です。このうち「分別によって起こされた汚れた見と疑」とは、正しくない法を聞くことなどをきっかけとして起こされた五見などをいいます。「分別によって起こされた」という言葉は、俱生の薩迦耶見および辺執見を除くためです。問い:辺執見とはどのような相を持つものでしょうか。それは俱生のものでしょうか。答え:それは断見です。すでに現観を学んだ者が、このような恐れを起こします。今、私の我はどこにあるのか、と。「見の基盤」とは、もろもろの見と相応し、ともに存在する法およびその種子をいいます。「疑の基盤」も同様です。「見などに基づいて起こされた邪な行いである煩悩と随煩悩」とは、見などの門に依って、また見などを対象として起こされた貪などすべての一分で、これが「見によって断ぜられるもの」です。「一分」とは、修によって断ぜられるものと無漏を除くためです。見が円満であるという我への執着を捨てるために、「見によって断ぜられるもの」を観察するのです。
云何修所斷?幾是修所斷?為何義故觀修所斷耶?謂得見道後見所斷相違諸有漏法,是修所斷義。見所斷相違者,謂除分別所起染污見等,餘有漏法。有漏法言亦攝隨順決擇分善,麁重所隨故。一切一分是修所斷。一分者,除見所斷及無漏法。為捨執著修圓滿我故觀察修所斷。
どのように修所断を修めるのでしょうか。いくつが修所断なのでしょうか。どのような意味のために修所断を観察するのでしょうか。見道を得た後に、見所断と相違するもろもろの有漏の法が、修所断の意味です。見所断と相違するものとは、分別によって起こる染汚の見などを除いた、残りの有漏の法をいいます。有漏の法という言葉は、随順決択分の善も含みます。麁重が伴うからです。すべての一分が修所断です。一分とは、見所断および無漏の法を除いたものをいいます。修円満なる我への執着を捨てるために、修所断を観察するのです。
云何非所斷?幾是非所斷?為何義故觀非所斷耶?謂諸無漏法除決擇分善,是非所斷。無漏法者,謂出世聖道及後所得并無為法。十界四處諸蘊一分,是非所斷。問:何等色聲是非所斷?答:無學身中善身語業自性是非所斷。為捨執著成滿我故觀察非所斷。
何が非所断でしょうか。いくつが非所断でしょうか。どのような意味のために非所断を観察するのでしょうか。もろもろの無漏法から決択分の善を除いたものが、これが非所断です。無漏法とは、出世の聖道と、その後得と、ならびに無為法をいいます。十界・四処・諸蘊の一分が、これが非所断です。問い:どのような色声が非所断でしょうか。答え:無学の身の中の善なる身語業の自性が、これが非所断です。我を成満することへの執着を捨てるために、非所断を観察します。
云何緣生?幾是緣生?為何義故觀緣生耶?謂相故、分別支故、略攝支故、建立支緣故、建立支業故、支雜染攝故、義故、甚深故、差別故、順逆故,是緣生義。
緣生とは何でしょうか。いくつのものが緣生なのでしょうか。どのような意味のために緣生を観じるのでしょうか。すなわち、相のためであり、支を分別するためであり、支を略摂するためであり、支の縁を建立するためであり、支の業を建立するためであり、支が雑染に摂められるためであり、義のためであり、甚深のためであり、差別のためであり、順逆のためです。これが緣生の意義です。
相者,謂無作緣生故、無常緣生故、勢用緣生故,是緣生相。由此相故,薄伽梵說:此有故彼有,此生故彼生,謂無明緣行乃至廣說。此有故彼有者,顯無作緣生義。唯由有緣故果法得有,非緣有實作用能生果法。此生故彼生者,顯無常緣生義。非無生法為因故,少所生法而得成立。無明緣行等者,顯勢用緣生義。雖復諸法無作無常,然不隨一法為緣故一切果生。所以者何?以諸法功能差別故。如從無明力故諸行得生,乃至生力故得有老死。
相とは、無作の縁生であるから、無常の縁生であるから、勢用の縁生であるから、これが縁生の相です。この相によって、薄伽梵は説かれました。「これがあるから、あれがある。これが生じるから、あれが生じる。すなわち無明を縁として行があり、乃至広説する」と。
分別支者,謂分別緣生為十二分,由十二支緣起差別故。何等十二?謂無明、行、識、名色、六處、觸、受、愛、取、有、生及老死。
分別支とは、縁起によって生じるものを十二の部分に分けることであり、十二支の縁起には違いがあるからです。その十二とは何でしょうか。無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、そして老死です。
略攝支者,謂前所分別無明等十二支,今復略攝為四,謂能引支、所引支、能生支、所生支。唯由如是四種支故,略攝一切因果生起法盡。謂於因時有能引所引,於果時有能生所生。能引支者,謂無明、行、識。為起未來生故,於諸諦境無智為先,造諸行業熏習在心故。所引支者,謂名色、六處、觸、受。由心習氣力能令當來名色等前後相依次第生起種子得增長故。能生支者,謂愛、取、有。由未永斷欲等愛力,於欲等中愛樂妙行惡行差別為先發起貪欲。以有有取識故,於命終位將與異熟隨順貪欲,隨一業習氣現前有故。所生支者,謂生、老死。由如是業差別習氣現前有故,隨於一趣一生等差別眾同分中,如先所引名色等異熟生起故。生老死言,為顯依三有為相故。所以老死合立一支者,為顯離老得有死故。非於胎生身中離名色等得有六處等法,是故於彼各別立支。
略摂の支とは、前に分別した無明など十二支を、今また略して四つにまとめたもので、能引支・所引支・能生支・所生支です。ただこの四種の支によってのみ、一切の因果生起の法を略摂し尽くします。すなわち因の時には能引と所引があり、果の時には能生と所生があります。能引支とは、無明・行・識です。未来の生を起こすために、諸々の諦の対象に対して無知を先として、諸々の行業を造り心に熏習するからです。所引支とは、名色・六処・触・受です。心の習気の力によって、当来の名色などが前後に相次いで順に生起する種子が増長するからです。能生支とは、愛・取・有です。いまだ永く断たれていない欲などの愛の力によって、欲などにおいて愛楽の妙行・悪行の区別を先として貪欲を発起します。有・取の識があるため、命終の位において異熟と貪欲に随順しようとし、いずれか一つの業の習気が現前に有るからです。所生支とは、生・老死です。このような業の区別の習気が現前に有るため、いずれか一つの趣や一生などの区別の衆同分の中で、先に引かれた名色などの異熟が生起するからです。生・老死という言葉は、三有為の相に依ることを示すためです。老と死を合わせて一支とする理由は、老を離れて死を得ることがあることを示すためです。胎生の身の中では、名色などを離れて六処などの法を得ることはありません。それゆえ、それらにはそれぞれ別に支を立てるのです。
建立支緣者,謂習氣故、引發故、思惟故、俱有故,建立支緣。隨其所應依四緣相建立支緣,且如無明望行,前生習氣故,得為因緣,由彼熏習相續所生諸業能造後有故,當於爾時現行無明能引發故。為等無間緣。由彼引發差別諸行流轉相續生故、思惟彼故。為所緣緣,以計最勝等不如理思惟緣愚癡位為境界故、彼俱有故。為增上緣,由彼增上力令相應思顛倒緣境而造作故。如是一切隨其所應盡當知。
縁を成立させる支分について述べます。すなわち、習気があるため、引き起こすため、思惟するため、共に存在するため、支分の縁を成立させます。それぞれに応じて四つの縁のあり方に基づいて支分の縁を成立させるのであり、たとえば無明が行に対しては、前に生じた習気であるため因縁となり得ます。その熏習が相続して生じたもろもろの業が後の生存を造るためであり、その時、現行の無明が引き起こすためです。等無間縁となるのは、それが引き起こす種々の行が流転して相続して生じるためであり、それを思惟するためです。所縁縁となるのは、最勝であるなどと不合理に思惟して、愚癡の状態を対象とするためであり、それが共に存在するためです。増上縁となるのは、その増上力によって、相应する思が顛倒した対象を縁として造作するためです。このようにすべては、それぞれに応じて、ことごとく知られるべきです。
建立支業者,謂無明支有二種業:一令諸有情於有愚癡,二與行作緣。令諸有情於有愚癡者,謂由彼所覆於前中後際不如實知故。由此因緣起如是疑:我於過去世為有為無如是等。與行作緣者,由彼勢力令後有業得增長故。行有二種業:一令諸有情於諸趣中種種差別、二與識作緣。令諸有情於趣差別者,由業勢力令諸有情趣種種異趣故。與識作緣者,由習氣力能使當來名色等生起種子得增長故。識有二種業:一持諸有情所有業縛、二與名色作緣。持諸有情業縛者,與行所引習氣俱生滅故。與名色作緣者,由識入母胎名色得增長故。名色有二種業:一攝諸有情自體、二與六處作緣。攝有情自體者,由彼生已得預有情眾同分差別數故。與六處為緣者,由名色等前支為依止六處等後支得生起故。六處有二種業:一攝諸有情自體圓滿、二與觸作緣。攝諸有情體圓滿者,由彼生已餘根無缺故。觸有二種業:一令諸有情於所受用境界流轉、二與受作緣。令有情於境轉者,依此為門受用順樂受等三種境界故。受有二種業:一令諸有情於所受用生果流轉、二與愛作緣。令有情於受用生果流轉者,由此為依受用種種可愛等業異熟故。與愛為緣者,悕求與此和合等為門,諸愛生故。愛有二種業:一引諸有情流轉生死、二與取作緣。引諸有情流轉生死者,由彼勢力生死流轉無斷絕故。與取作緣者,愛味求欲為門,於欲等中貪欲轉故。取有二種業:一為取後有令諸有情發有取識、二與有作緣。為取後有發有取識者,為那落迦趣等差別後有相續不斷,令業習氣得決定故。與有作緣者,由此勢力諸行習氣得轉變故。有有二種業:一令諸有情後有現前、二與生作緣。令後有現前者,能引無間餘趣故。與生作緣者,由此勢力餘眾同分轉故。生有二種業:一令諸有情名色六處觸受次第生起、二與老死作緣。令名色等次第起者,能引後後位差別故。與老死作緣者,由有此生,彼相續變壞皆得有故。老死有二種業:一數令有情時分變異壞少盛故、二數令有情壽命變異壞壽命故。
無明の支には二つの働きがあります。一つは、もろもろの生きとし生けるものを「存在についての愚かさ」にとどめること、二つは「行」に対する縁となることです。生きとし生けるものを存在についての愚かさにとどめるとは、無明に覆われているために、過去・現在・未来についてあるがままに知ることができないということです。このことから、「私は過去世において存在したのか、しなかったのか」といった疑いが起こります。行に対する縁となるとは、その力によって後に続く業が増え広がっていくということです。
行には二つの働きがあります。一つは、生きとし生けるものをさまざまな世界にさまざまに差別すること、二つは「識」に対する縁となることです。生き物を世界の差別に振り分けるとは、業の力によってそれぞれ異なる世界に生まれていくということです。識に対する縁となるとは、習気の力によって未来の名色などを生み出す種子が増え広がっていくということです。
識には二つの働きがあります。一つは、生きとし生けるもののすべての業の束縛を保つこと、二つは「名色」に対する縁となることです。生き物の業の束縛を保つとは、行によって引き出された習気とともに生まれ滅していくということです。名色に対する縁となるとは、識が母の胎に入ることによって名色が増え広がっていくということです。
名色には二つの働きがあります。一つは、生きとし生けるものの自体を保つこと、二つは「六処」に対する縁となることです。生き物の自体を保つとは、生まれたことによって生き物の仲間としての区分に数えられるようになるということです。六処に対する縁となるとは、名色など前の支をよりどころとして、六処など後の支が生じるということです。
六処には二つの働きがあります。一つは、生きとし生けるものの自体を円満に保つこと、二つは「触」に対する縁となることです。生き物の体を円満に保つとは、生まれたことによって残りの感官に欠けがないということです。
触には二つの働きがあります。一つは、生きとし生けるものを受用する境界へと流転させること、二つは「受」に対する縁となることです。生き物を境界へと流転させるとは、これを門として、楽にかなう受など三つの境界を受用するということです。
受には二つの働きがあります。一つは、生きとし生けるものを受用の果へと流転させること、二つは「愛」に対する縁となることです。生き物を受用の果へと流転させるとは、これをよりどころとして、さまざまな好ましいものなどの業の異熟を受用するということです。愛に対する縁となるとは、これと和合したいと願い求めることを門として、もろもろの愛が生じるということです。
愛には二つの働きがあります。一つは、生きとし生けるものを生死に流転させること、二つは「取」に対する縁となることです。生き物を生死に流転させるとは、その力によって生死の流転が絶えることがないということです。取に対する縁となるとは、愛着し欲し求めることを門として、欲望などに対して貪欲が働くということです。
取には二つの働きがあります。一つは、後の存在を取るために生きとし生けるものに「有の取の識」を起こさせること、二つは「有」に対する縁となることです。後の存在を取るために有の取の識を起こさせるとは、地獄などの世界の違いに応じて後の存在が途切れず続くよう、業の習気を決定づけるということです。有に対する縁となるとは、その力によってもろもろの行の習気が転変するということです。
有には二つの働きがあります。一つは、生きとし生けるものの後の存在を目の前に現すこと、二つは「生」に対する縁となることです。後の存在を目の前に現すとは、間を置かずに他の世界へと導くということです。生に対する縁となるとは、その力によって他の仲間としての区分へと移っていくということです。
生には二つの働きがあります。一つは、生きとし生けるものの名色・六処・触・受を順に生じさせること、二つは「老死」に対する縁となることです。名色などを順に生じさせるとは、次々と後の段階の違いを引き起こすということです。老死に対する縁となるとは、この生があることによって、その相続が変わり壊れていくことがすべて成り立つということです。
老死には二つの働きがあります。一つは、しばしば生きとし生けるものの時分を変異させ、盛りを衰えさせること、二つは、しばしば生きとし生けるものの寿命を変異させ、寿命を壊すことです。
支雜染攝者,若無明若愛若取,是煩惱雜染所攝;若行若識若有,是業雜染所攝;餘是生雜染所攝。問:何故識支業雜染攝耶?答:諸行習氣所顯故。義者,謂無作者義、有因義、離有情義、依他起義、無作用義、無常義、有剎那義、因果相續不斷義、因果相似攝受義、因果差別義、因果決定義,是緣起義。謂離自在天等作者故,是無作者義。以無明等為因故,是有因義。無自然我故,是離有情義。託眾緣生故,是依他起義。眾緣作用空故,是無作用義。以非恒故,是無常義。生時過已無暫住故,是有剎那義。因剎那滅果剎那生時分等故,是因果相續不斷義。不從一切一切生故,是因果相似攝受義。從非一一類因一非一類果生故,是因果差別義。於餘相續不受果故,是因果決定義。甚深者,因甚深故、相甚深故、生甚深故、住甚深故、轉甚深故,是甚深義。謂即由此無作者等義,顯緣起法五種甚深。由二種義顯因甚深,對治不平等因、無因論故。由一種義顯相甚深,是無我相故。由二種義顯生甚深,雖從眾緣果法得生,然非彼所作故。由二種義顯住甚深,實無安立顯現似住故。由四種義顯轉甚深,因果流轉難了知故。又諸緣起法雖剎那滅而住可得,雖無作用緣而有功能緣可得,雖離有情而有情可得,雖無作者而諸業果不壞可得,是故甚深。業果不壞者,雖內無作者,而有作業、受彼果報。又諸法不從自生、不從他生、不從共生、非不自作他作因生,是故甚深。不從自生者,謂一切法非自所作,彼未生時無自性故。不從他生者,謂彼諸緣,非作者故。不從共生者,謂即由此二種因故。非不自作他作因生者,緣望果生有功能故。又有差別,謂待眾緣生故非自作。雖有眾緣,無種子不生,故非他作。彼俱無作用,故非共作。種子及眾緣皆有功能,故非無因生。是故如是說:自種有故不從他,待眾緣故非自作,無作用故非共生,有功能故非無因。若緣起理,非自非他遣雙句者猶為甚深,況總忘四句,是故緣起最極甚深。
支雑染に摂せられるものについて、無明・愛・取は煩悩雑染に摂せられます。行・識・有は業雑染に摂せられます。そのほかは生雑染に摂せられます。問い、なぜ識支は業雑染に摂せられるのですか。答え、諸行の習気によって顕現するからです。義について、作者がないという義、因があるという義、有情を離れるという義、依他起の義、作用がないという義、無常の義、刹那があるという義、因果が相続して断たれないという義、因果が相似して摂受するという義、因果の差別の義、因果が決定しているという義、これが縁起の義です。自在天などの作者を離れるから、作者がないという義です。無明などを因とするから、因があるという義です。自然の我がないから、有情を離れるという義です。衆縁に託して生じるから、依他起の義です。衆縁の作用が空であるから、作用がないという義です。恒常でないから、無常の義です。生じた時が過ぎれば暫くも住まないから、刹那があるという義です。因の刹那が滅し果の刹那が生じ、時分が等しいから、因果が相続して断たれないという義です。すべてからすべてが生じるのではないから、因果が相似して摂受するという義です。一類でない因から一類でない果が生じるから、因果の差別の義です。ほかの相続には果を受けないから、因果が決定しているという義です。甚深について、因が甚深であるから、相が甚深であるから、生が甚深であるから、住が甚深であるから、転が甚深であるから、これが甚深の義です。すなわちこの作者がないなどの義によって、縁起の法の五種の甚深を顕します。二種の義によって因の甚深を顕し、不平等な因や無因の論を対治するからです。一種の義によって相の甚深を顕し、無我の相であるからです。二種の義によって生の甚深を顕し、衆縁から果の法が生じるとはいえ、それは彼の作ったものではないからです。二種の義によって住の甚深を顕し、実に安立がなくても、顕現が住しているように見えるからです。四種の義によって転の甚深を顕し、因果の流転は了知しがたいからです。また諸々の縁起の法は、刹那に滅するとはいえ住があると得られ、作用の縁がないとはいえ機能の縁が得られ、有情を離れているとはいえ有情が得られ、作者がないとはいえ諸々の業果が壊れないと得られるから、甚深なのです。業果が壊れないとは、内に作者がなくても、作業があり、その果報を受けるということです。また諸法は自から生じるのではなく、他から生じるのではなく、共から生じるのではなく、自作でも他作でもない因から生じるのでもないから、甚深なのです。自から生じるのではないとは、一切の法は自らの作ったものではなく、それが未だ生じない時には自性がないからです。他から生じるのではないとは、それらの諸縁は作者ではないからです。共から生じるのではないとは、すなわちこの二種の因によるからです。自作でも他作でもない因から生じるのでもないとは、縁が果の生に対して機能があるからです。また差別があります。衆縁を待って生じるから自作ではないのです。衆縁があっても種子がなければ生じないから、他作ではないのです。それらはともに作用がないから、共作ではないのです。種子と衆縁の双方に機能があるから、無因から生じるのではないのです。それゆえこのように説きます。自種があるから他からではない、衆縁を待つから自作ではない、作用がないから共生ではない、機能があるから無因ではない、と。もし縁起の理が、自でも他でもないと二つの句を遣るのがなお甚深であるなら、まして四句をすべて忘れるのはなおさらです。それゆえ縁起は最も極めて甚深なのです。
差別者,謂識生差別故、內死生差別故、外穀生差別故、成壞差別故、食持差別故、愛非愛趣分別差別故、清淨差別故、威德差別故,是差別義。識生差別者,謂眼色為緣,眼識得生,如是等。內死生差別者,依有情世間說,謂無明等為緣,能生行等。外穀生差別者,謂種緣芽、芽緣莖,如是展轉枝葉花果次第得生。成壞差別者,謂一切有情共業增上力為緣,大地等生故。食持差別者,謂四食為緣,三界有情相續住故。愛非愛趣分別差別者,謂妙行惡行為緣,往善惡趣故。清淨差別者,謂順解脫分善為緣,生順決擇分善,如是見道等漸次乃至得阿羅漢果等。或外從他聞音、內如理作意為緣,發生正見,次第乃至諸漏永盡。威德差別者,謂內證為緣,發神通等最勝功德。由此差別應隨廣說諸行緣起。
差別とは、識が生じる差別のため、内なる死と生の差別のため、外なる穀物の生の差別のため、成壊の差別のため、食が持続させる差別のため、愛する趣と愛さない趣の分別の差別のため、清浄の差別のため、威徳の差別のためです。これが差別の意味です。
識が生じる差別とは、眼と色を縁として眼識が生じる、といったことです。内なる死と生の差別とは、有情世間について説くもので、無明などを縁として行などが生じることです。外なる穀物の生の差別とは、種を縁として芽が、芽を縁として茎が、このように次々と枝・葉・花・果実が順に生じることです。成壊の差別とは、一切の有情の共業の増上力を縁として、大地などが生じることです。食が持続させる差別とは、四食を縁として、三界の有情が相続して住むことです。愛する趣と愛さない趣の分別の差別とは、妙行と悪行を縁として、善趣と悪趣へ赴くことです。清浄の差別とは、順解脱分の善を縁として、順決択分の善が生じ、このように見道などへと次第に進み、乃至は阿羅漢果などを得ることです。あるいは、外に他から音声を聞き、内に如理作意を縁として、正見が発生し、次第に乃至は諸漏が永く尽きることです。威徳の差別とは、内証を縁として、神通など最も勝れた功德を発することです。これらの差別によって、諸行の縁起を広く説くべきです。
順逆者,謂雜染順逆故、清淨順逆故,是說緣起順逆。雜染順逆者,或依流轉次第說,謂無明緣行,如是等順次第說。或依安立諦說,謂老死苦、老死集。老死滅、老死趣滅行,如是等逆次第說。清淨順逆者,謂無明滅故行滅,如是等順次第說。由誰無故老死無?由誰滅故老死滅?如是等逆次第說。應如是觀緣生起義。一切皆是緣生,唯除法界法處一分諸無為法。為捨執著無因不平等因我故觀察緣生。
順逆とは、雑染の順逆と清浄の順逆を指します。これが縁起の順逆についての教えです。雑染の順逆には、流転の次第に基づいて説かれる場合と、安立諦に基づいて説かれる場合があります。流転の次第に基づく場合とは、無明によって行が縁となって生じる、といった順の次第で説かれるものです。安立諦に基づく場合とは、老死は苦であり、老死には集があり、老死には滅があり、老死には滅に趣く行がある、といった逆の次第で説かれるものです。清浄の順逆とは、無明が滅するがゆえに行が滅する、といった順の次第で説かれるものです。誰が無くなるがゆえに老死が無くなるのか、誰が滅するがゆえに老死が滅するのか、といった逆の次第で説かれるものです。このように、縁生起の義を観察するべきです。すべてのものは縁生であり、法界・法処の一分の諸無為法を除くのみです。無因や不平等因への執着を捨てるために、縁生を観察するのです。
云何緣?幾是緣?為何義故觀緣耶?謂因故、等無間故、所緣故、增上故,是緣義。一切是緣。為捨執著我為因法故觀察緣。因緣者,謂阿賴耶識及善習氣,與有漏無漏諸法,如其次第為因緣故。阿賴耶識復有二種,謂成熟及加行。成熟者,是諸生得法因緣。加行者,是諸方便法及當來世餘阿賴耶識因緣。又加行阿賴耶識者,謂於此生中現行轉識等之所熏集。善習氣者,謂順解脫分習氣,由此習氣用出世間證等流法為緣生故,能與出世法作因緣。又自性故、差別故、助伴故、等行故、增益故、障礙故、攝受故,是因緣相。當知此中以自性等六種因相顯因緣義,謂自性差別兩句建立能作因,餘句如其次第建立俱有、相應、同類、遍行、異熟因。
どのようなものが縁でしょうか。いくつが縁でしょうか。どのような意味のために縁を観察するのでしょうか。それは、因のため、等無間のため、所縁のため、増上のため、これが縁の意味です。すべてが縁です。我を因とする法への執着を捨てるために縁を観察します。因縁とは、阿頼耶識と善の習気が、有漏・無漏の諸法に対して、その順序に従って因縁となるからです。阿頼耶識にはさらに二種があります。成熟と加行です。成熟とは、もろもろの生得の法の因縁です。加行とは、もろもろの方便の法および当来世の他の阿頼耶識の因縁です。また加行の阿頼耶識とは、この生において現行する転識などによって熏じ集められたものです。善の習気とは、解脱に順ずる分の習気であり、この習気によって出世間の証などの流れを等しくする法を縁として生じるため、出世間の法に因縁を与えることができます。また自性のため、差別のため、助伴のため、等行のため、増益のため、障礙のため、摂受のため、これが因縁の相です。このなかで自性など六種の因の相によって因縁の意味を顕していることを知るべきです。すなわち自性と差別の二句は能作因を建立し、残りの句はその順序に従って俱有因、相応因、同類因、遍行因、異熟因を建立します。
自性者,謂能作因自性,依因自性建立能作因故。當知一切因皆能作因所攝,為顯差別義故,復別建立助伴等因。
自性とは、能作因の自性を指します。因の自性に依って能作因を建立するからです。すべての因は能作因に含まれることを知るべきですが、差别の意味を示すために、さらに助伴などの因を別に建立するのです。
差別者,謂能作因差別略有二十種:一生能作,謂識和合望識,由此和合所作本無今有故。二住能作,謂食望已生及求生有情,由此勢力生已相續不斷故。三持能作,謂大地望有情,載令不墮故。四照能作,謂燈望諸色,了闇障故。五變壞能作,謂火望薪,令彼相續變異故。六分離能作,謂鎌望所斷,令連屬物成二分故。七轉變能作,謂工巧智等望金銀等物,轉彼方分成異相故。八信解能作,謂煙望火,由此比知不現見故。九顯了能作,謂宗因喻望所成義,由此得正決定故。十等至能作,謂聖道望涅槃,由此證彼故。十一隨說能作,謂名想見,由如名字取相執著隨起說故。十二觀待能作,謂觀待此故於彼求欲生,如待飢渴追求飲食,由此是彼欲生因故。十三招引能作,謂懸遠緣,如無明望老死,由此異位展轉招當有故。十四生起能作,謂隣近緣,如無明望行,由此無間生當有故。十五攝受能作,謂所餘緣,如田水糞等望穀生等,雖自種所生,然增彼力故。十六引發能作,謂隨順緣,如臣事王令王悅豫,由隨順引發故。十七定別能作,謂差別緣,如五趣緣望五趣果,由差別自性招別別果故。十八同事能作,謂和合緣,如根不壞、境界現前、作意正起望所生識,以成自所作必待餘能作故。十九相違能作,謂障礙緣,如雹望穀,能損彼故。二十不相違能作,謂無障礙,如穀無障,與上相違。於此能作因差別中唯說識和合等者,且舉綱要為諸智者依此一方,類思餘故。
差別とは、能作因の差別には大きく分けて二十種があることをいいます。
一、生の能作。識と和合することを識に対して説きます。この和合によって作られたものは、もともと無かったものが今初めて有るようになるからです。
二、住の能作。食を、すでに生まれたものおよび生まれようと求める有情に対して説きます。この力によって、生まれたものが相続して断たれないからです。
三、持の能作。大地を有情に対して説きます。載せて堕ちないようにするからです。
四、照の能作。灯を諸々の色に対して説きます。闇の障りを明らかにするからです。
五、変壊の能作。火を薪に対して説きます。その相続を変異させるからです。
六、分離の能作。鎌を断たれるものに対して説きます。連なっているものを二つに分けるからです。
七、転変の能作。工巧の智などを金銀などの物に対して説きます。その形状を転じて異なる相にするからです。
八、信解の能作。煙を火に対して説きます。これによって現に見えないものを比べて知るからです。
九、顕了の能作。宗・因・喩を、成立される義に対して説きます。これによって正しい決定を得るからです。
十、等至の能作。聖道を涅槃に対して説きます。これによってそれを証するからです。
十一、随説の能作。名・想・見を説きます。名前の通りに相を取って執着し、それに随って説を起こすからです。
十二、観待の能作。これを観待するがゆえに、それに対して求欲が生じます。飢えや渇きを待って飲食を追い求めるようなものです。これによってそれが欲の生じる因となるからです。
十三、招引の能作。懸遠の縁を説きます。無明を老死に対して説くようなものです。これによって異なる位から展転して当の有を招くからです。
十四、生起の能作。隣近の縁を説きます。無明を行に対して説くようなものです。これによって間を置かずに当の有を生じるからです。
十五、摂受の能作。残りの縁を説きます。田や水や糞などを穀物の生じることにに対して説くようなものです。自らの種から生じたものであっても、その力を増すからです。
十六、引發の能作。随順の縁を説きます。臣が王に仕えて王を喜ばせるようなものです。随順することによって引き起こすからです。
十七、定別の能作。差別の縁を説きます。五趣の縁を五趣の果に対して説くようなものです。差別の自性によって別々の果を招くからです。
十八、同事の能作。和合の縁を説きます。根が壊れていないこと、境界が現前していること、作意が正しく起こることを、生じる識に対して説くようなものです。自らの所作を成し遂げるには必ず他の能作を待つからです。
十九、相違の能作。障礙の縁を説きます。雹を穀物に対して説くようなものです。それを損なうことができるからです。
二十、不相違の能作。無障礙を説きます。穀物に障りがないようなもので、上とは相違しています。
この能作因の差別の中で、ただ識と和合することなどを説くのは、ひとまず綱要を挙げて、諸々の智者がこの一方に依って、残りを類推して思うためです。
助伴者,謂諸法共有而生,必無缺減,如四大種及所造色隨其所應,非一切聚定有四大及色等所造。若於是處有爾所量,此必俱生,互不相離。
助伴とは、もろもろの法が共に生じることをいい、必ず欠けることはありません。たとえば四大種とそれによって造られた色は、それぞれに応じて存在しますが、すべての集まりに必ず四大や色など造られたものが備わっているわけではありません。あるところにそれだけの量があれば、それらは必ずともに生じ、互いに離れることはありません。
等行者,謂諸法共有等行所緣必無缺減,如心心法。前約助伴,決定建立俱有因中唯說大種及所造色者;此但略摽綱目,以心心法互不相離性決定故,亦助伴攝。若爾,不應別立相應因,諸心心法亦共有因所攝故。雖爾,然義有異,謂諸法共有等行所緣互不相離,此等行故立相應因,非唯共有義,如心心法。
等行(とうぎょう)とは、すべての法が等しく共通の働きと対象を共有しており、必ず欠けることがないことをいいます。たとえば心と心のはたらき(心所)のようなものです。先には助伴(じょばん)について述べ、俱有因(ぐうういん)の中ではただ四大種と四大種によって造られた色のみを説くと決定して建立しましたが、これはただ綱目(こうもく)を简略に示したにすぎません。心と心のはたらきは互いに離れることのない性質が決定しているからです。したがって、これらもまた助伴に含まれます。もしそうならば、別に相応因(そうおういん)を立てるべきではありません。もろもろの心と心のはたらきも、共有の因に含まれるからです。そうではありますが、しかし意味には違いがあります。すなわち、もろもろの法が共通の働きと対象を等しく共有し、互いに離れないということです。この等行のゆえに相応因を立てるのであり、ただ共有という意味だけによるのではありません。心と心のはたらきのようにです。
增益者,謂前際修習善不善無記法故,能令後際善等諸法展轉增勝後後生起。前際修習者,謂先所數習現行義。後際展轉增勝後後生起者,謂由彼長養諸種子故,於未來世即彼種類增勝而生。如是諸法能為相似增長因,故立同類因。
増益とは、前世において善・不善・無記の諸法を修習したために、后世において善などの諸法が次々と展転して増し勝り、のちのちに生起することをいいます。前世において修習するとは、以前に繰り返し習い行じてきた現行の意味です。后世において展転して増し勝り、のちのちに生起するとは、それによって諸々の種子を長養したため、未来世においてまさにその種類が増し勝って生じることをいいます。このように諸法は相似の増長の因となることができるため、同類因と立てるのです。
障礙者,謂隨所數習諸煩惱故,隨所有惑皆得相續增長堅固,乃令相續遠避涅槃。此遍行因,非唯令相似煩惱增長。所以者何?若有隨習貪等煩惱,皆令瞋等一切煩惱相續增長堅固,由此深重縛故障解脫得,是故建立遍行因。
障碍者とは、それに応じて数習した諸々の煩悩のために、有るままの惑が皆、相続して増長し堅固となり、ついには相続が涅槃から遠く離れることをいいます。この遍行因は、ただ似たような煩悩だけを増長させるのではありません。なぜでしょうか。もし貪などの煩悩を随習するならば、皆、瞋など一切の煩悩を相続して増長させ堅固にし、これによって深重な縛りのために解脱を得ることを妨げるからです。それゆえ遍行因を建立するのです。
攝受者,謂不善及善有漏法能攝受自體故,即是異熟因。由此能引攝當來一向不相似無覆無記自體所攝異熟果故,即攝受義建立異熟因。善有漏言為簡無漏,由違生死故不能感異熟果。
摂受とは、不善および善の有漏法が自らの自体を摂受するということです。すなわち異熟因です。これによって、未来に一向に相似しない無覆無記の自体に摂められる異熟果を引き摂することができるからです。すなわち摂受の意味によって異熟因が建立されます。善の有漏という言葉は無漏を簡別するためのものです。生死に違背するから、異熟果を感ずることができないのです。
大乘阿毘達磨雜集論卷第四
大乗阿毘達磨雑集論 巻第四