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大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)


大乘阿毘達磨雜集論卷第五

大乗阿毘達磨雑集論 巻第五

安慧菩薩糅

安慧菩薩が編纂しました

大唐三藏法師玄奘奉 詔譯

大唐三蔵法師玄奘が勅命を受けて訳しました。

本事分中三法品第一之五

本事分の中の三法品第一の五

等無間緣者,謂中無間隔等無間故、同分異分心心法生等無間故,是等無間緣義。中無間隔等無間者,不必剎那中無間隔,雖隔剎那但於中間無異心隔,亦名中無間隔。若不爾,入無心定心望出定心,應非等無間緣。然是彼緣,是故於一相續中前心望後心,中間無餘心隔故,是等無間緣。如心望心,當知心法亦爾。同分異分心心法生等無間者,謂善心心法望同分善、異分不善無記,無間生心心法,為等無間緣。如是不善、無記心心法望同分異分,無間生心心法亦爾。又欲界心心法望欲色無色界及無漏,無間生心心法為等無間緣。如是色界等心心法各各別望色界等及欲界等,無間生心心法,如其所應盡當知。

等無間縁とは、中に間隔がなく等しく無間であるから、また同分・異分の心心法が生ずるのに等しく無間であるから、これが等無間縁の意味です。中に間隔がなく等しく無間であるとは、必ずしも刹那の中に間隔がないということではなく、たとえ刹那を隔てていても、その中間に他の心が隔てることがなければ、これも中に間隔がないと名づけます。もしそうでなければ、無心定に入った心から出定の心を望む場合、等無間縁ではないことになってしまいます。しかしそれは彼の縁であるから、したがって一つの相続の中で前の心から後の心を望むに、中間に他の心が隔てないので、これが等無間縁です。心が心を望むように、心法もまた同様であると知るべきです。同分・異分の心心法が生ずるのに等しく無間であるとは、善の心心法が同分の善を望み、異分の不善・無記を望んで、無間生の心心法に対して等無間縁となるということです。このように不善・無記の心心法が同分・異分を望み、無間生の心心法に対してもまた同様です。また欲界の心心法が欲界・色界・無色界および無漏を望み、無間生の心心法に対して等無間縁となります。このように色界などの心心法がそれぞれ別々に色界などおよび欲界などを望み、無間生の心心法に対して、そのしかるべきに応じてすべて知るべきです。

問:為一切心無間一切心生耶?為有各別決定耶?答有。今於此中若廣別說如是心無間如是心生者,便生無量言論,是故唯應略總建立心生起相。謂諸心生起由十種力:一由串習力、二由樂欲力、三由方便力、四由等至力、五由引發力、六由因力、七由境界力、八由憶念力、九由作意力、十由相續力。

問:すべての心が途切れることなく、すべての心が生じるのでしょうか。それとも、それぞれ別々に決まっているのでしょうか。答:別々に決まっています。ここで、もし詳しく、この心が途切れることなくこの心が生じると説けば、無量の議論を生じてしまいます。ですから、ただ簡潔に、心が生じるあり方を全体的に示すべきです。すなわち、もろもろの心の生起には十種類の力によります。一には反復慣習の力によって、二には好み・欲求の力によって、三には努力・工夫の力によって、四には定(等至)の力によって、五には引き起こす力によって、六には原因の力によって、七には対象(境界)の力によって、八には記憶(憶念)の力によって、九には注意を向ける(作意)の力によって、十には連続の力によってです。

串習力者復有三種,謂下中上品。若於諸定入住出相未了達故,是下品。雖已了達,未善串習故,是中品。既了達已復善習故,是上品。若有下品串習力者,於諸靜慮,諸無色定唯能次第入。若有中品串習力者,亦能超越入,唯能方便超越一間。若有上品串習力者,隨其所欲或超一切,若順若逆入諸等至。

串習の力には、また三種類あります。下品・中品・上品です。諸々の定について、入・住・出の相をまだ理解していない場合は下品です。すでに理解していても、まだよく串習していない場合は中品です。すでに理解し、さらに善く習っている場合は上品です。下品の串習の力を持つ者は、諸々の静慮や諸々の無色定において、ただ次第に入ることができるだけです。中品の串習の力を持つ者は、超越して入ることもでき、ただ方便をもって一間を超越できるだけです。上品の串習の力を持つ者は、その欲するままに、あるいは一切を超越し、順にも逆にも諸々の等至に入ります。

樂欲力者,謂已得第二靜慮者入初靜慮已,若欲以第二靜慮地心出,或欲以欲界善及無覆無記心出,即能現前而出於定。如是廣說,餘一切地如理當知。

楽欲力とは、すでに第二静慮を得た者が初静慮に入った後、第二静慮地の心で出たいと望む場合、あるいは欲界の善および無覆無記の心で出たいと望む場合、その通りに現前にして定から出ることができることをいいます。このように広く説かれ、その他のすべての地についても、道理に従って知るべきです。

方便力者,謂初修行者唯欲界善心無間色界心生,未至定善心無間初根本靜慮心生,初根本靜慮善心無間第二靜慮地心生,如是廣說,乃至有頂皆如理知。

方便力とは、初めて修行する人は、ただ欲界の善心から間断なく色界の心が生じ、未至定の善心から間断なく初根本静慮の心が生じ、初根本静慮の善心から間断なく第二静慮地の心が生じる、ということをいいます。このように広く説かれ、有頂に至るまで、みな道理にしたがって知るべきです。

等至力者,謂已入清淨三摩鉢底,或時還生清淨等至、或時生染。

清浄な三摩鉢底に入った方は、等至の力によって、ある時は再び清浄な等至を生じ、ある時は染った等至を生じます。

引發力者,謂從三摩地起乃至現行定地心,與不定剎那心間雜隨轉,乃至由彼相違煩惱現行故即便退失。此相違煩惱相應心,復由因等四力方得現行。因力者,謂先以積習能退障故決定應退。境界力者,謂淨相勢力增上境界現前故,能隨順生貪等煩惱。憶念力者,謂憶念分別過去境界而生戲論。作意力者,謂由觀察作意思惟種種淨妙相貌。

引發力とは、定(三摩地)から起きて、さらには定地の心を現行するに至るまで、不定の刹那心と間雑して随転し、さらにはそれと相違する煩悩が現行するために、ただちに退失することをいいます。この相違する煩悩と相応する心は、また因など四つの力によって、はじめて現行することができます。因力とは、あらかじめ積習によって退失の障りをなしうるため、必ず退失するはずであることをいいます。境界力とは、浄相の勢力が増上した境界が現前するため、貪などの煩悩を随順して生じさせることができることをいいます。憶念力とは、過去の境界を憶念し分別して戯論を生じることをいいます。作意力とは、観察し作意して、種々の浄妙な相貌を思惟することをいいます。

相續力者,有九種命終心與自體愛相應,於三界中各令欲色無色界生相續。謂從欲界沒還生欲界者,即以欲界自體愛相應命終心結生相續。若生色無色界者,即以色無色界自體愛相應命終心結生相續。如是從色無色界沒,若即生彼若生餘處,有六種心,如其所應盡當知。又此自體愛唯是俱生,不了所緣境,有覆無記性攝,而能分別我自體生差別境界。由此勢力,諸異生輩令無間中有相續。未離欲聖者亦爾,臨命終時乃至未至不明了想位,其中能起此愛現行,然能了別,以對治力之所攝伏。已離欲聖者,對治力強故,雖未永斷,然此愛不復現行,彼由隨眠勢力令生相續中有。初相續剎那唯無覆無記,以是異熟攝故。從此已後,或善或不善或無記,隨其所應,除彼沒心,以中有沒心常是染污。猶如死有,生有相續心剎那,亦唯無覆無記。若諸菩薩願力受生者,命終等心當知一切一向是善。已說因論生論等無間緣義。

相続の力について述べます。九種の命終心があり、それらは自體愛と相応して、三界のそれぞれにおいて欲界・色界・無色界の生を相続させます。すなわち、欲界から没して再び欲界に生まれる者は、欲界の自體愛と相応した命終心によって結生が相続されます。色界や無色界に生まれる者も、色界・無色界の自體愛と相応した命終心によって結生が相続されます。このように、色界や無色界から没して、そのままその世界に生まれる場合も、他の場所に生まれる場合も、六種の心があり、それぞれに応じてすべて知られるべきです。また、この自體愛はただ倶生のものであり、所縁の境を了解せず、有覆無記性に含まれますが、自らの自体が生まれる差異の境界を分別することができます。この力によって、異生の人々は無間に中有を相続させます。欲を離れていない聖者も同様で、命終に臨み、まだ不明了な想の位に至らないうちは、その中でこの愛を現行させることができますが、了別することができ、対治の力によって抑えられます。すでに欲を離れた聖者は、対治の力が強いため、まだ永遠に断たれてはいませんが、この愛はもはや現行しません。彼は随眠の力によって中有の生を相続させます。最初の相続の刹那はただ無覆無記であり、異熟に含まれるからです。それ以後は、善か不善か無記であり、それぞれに応じて、その没心を除きます。中有の没心は常に染汚であるからです。死有のように、生有の相続心の刹那もまた、ただ無覆無記です。菩薩が願力によって生を受ける場合、命終などの心は一切が一向に善であると知られるべきです。因論・生論などの無間縁の意味をすでに説きました。

所緣緣者,謂有分齊境所緣故、無分齊境所緣故、無異行相境所緣故、有異行相境所緣故、有事境所緣故、無事境所緣故、事所緣故、分別所緣故、有顛倒所緣故、無顛倒所緣故、有礙所緣故、無礙所緣故,是所緣緣義。有分齊境所緣者,謂五識身所緣境界,由五識身各別境界故。無分齊境所緣者,謂意識所緣境界,以意識身緣一切法為境界故。

所縁縁とは、分斉のある境を所縁とするからであり、分斉のない境を所縁とするからであり、異なる行相のない境を所縁とするからであり、異なる行相のある境を所縁とするからであり、有事の境を所縁とするからであり、無事の境を所縁とするからであり、事を所縁とするからであり、分別を所縁とするからであり、顛倒のあるものを所縁とするからであり、顛倒のないものを所縁とするからであり、有礙を所縁とするからであり、無礙を所縁とするからです。これが所縁縁の意味です。

分斉のある境を所縁とするとは、五識身が所縁とする境界のことであり、五識身がそれぞれ別々の境界を持つからです。分斉のない境を所縁とするとは、意識が所縁とする境界のことであり、意識身が一切の法を境界として縁じるからです。

無異行相境所緣者,謂不能了別名想眾生意識所緣境界,由彼於境不能作名字故。有異行相境所緣者,謂與此相違。

無異行相境所縁とは、名と想の衆生の意識の所縁となる境界を了別することができないことをいいます。彼らは対象に対して名前を付けることができないからです。有異行相境所縁とは、これと相反するものをいいます。

有事境所緣者,謂除見慢及此相應法,餘所緣境界。無事境所緣者,謂前所除所緣境界,由彼於我處起故。事所緣者,謂除無漏緣不同分界地遍行於事不決了及未來所緣,餘所緣境界。分別所緣者,謂前所除所緣境界,由彼唯緣自所分別為境界故。有顛倒所緣者,謂常等行所緣境界。無顛倒所緣者,謂無常等行所緣境界。有礙所緣者,謂未斷所知障者所緣境界。無礙所緣者,謂已斷所知障者所緣境界。復次若欲決擇所緣緣義,應以相故、差別故、安立故、遍知故、斷故建立所緣相者,謂若義是似此顯現心心法生因,彼既生已還能執著,顯了內證此義是所緣相。

事境所縁について述べます。見と慢およびそれらと相応する法を除いた、その他の所縁の境界のことです。無事境所縁について述べます。先に除いた所縁の境界のことで、それらは我の処において起こるからです。事所縁について述べます。無漏の縁と異なる分の界地に遍行するもの、事に対して決了しないもの、および未来の所縁を除いた、その他の所縁の境界のことです。分別所縁について述べます。先に除いた所縁の境界のことで、それらはただ自ら分別したもののみを縁として境界とするからです。有顛倒所縁について述べます。常などの行の所縁の境界のことです。無顛倒所縁について述べます。無常などの行の所縁の境界のことです。有礙所縁について述べます。いまだ所知障を断たない者の所縁の境界のことです。無礙所縁について述べます。すでに所知障を断った者の所縁の境界のことです。

次に、もし所縁縁の義を決択しようと欲するならば、相によって、差別によって、安立によって、遍知によって、断によって建立すべきです。所縁の相とは、もしその義がこれに似て顕現する心心法の生じる因であり、それがすでに生じた後には、還って執著し、顕了に内証するならば、この義が所縁の相です。

差別者有二十九種:一非有所緣,謂顛倒心心法及緣過去未來夢影幻等所緣境界。二有所緣,謂餘所緣境界。三無所緣所緣,謂色心不相應行無為。四有所緣所緣,謂心心法。五正性所緣,謂善法。六邪性所緣,謂染污法。七非正性非邪性所緣,謂無覆無記法。八如理所緣,謂善心心法。九不如理所緣,謂染污心心法。十非如理非不如理所緣,謂異此心心法。十一同類所緣,謂善等緣善等、自地緣自地、有漏緣有漏、無漏緣無漏如是等。十二異類所緣,謂善等緣不善等、餘地緣餘地、有漏無漏緣無漏有漏如是等。十三異性所緣,謂有尋有伺心心法所緣。十四一性所緣,謂無尋無伺心心法所緣。十五威勢所緣,謂無想及彼方便心心法所緣境界,及空識無邊處所緣境界。此中前二句能除想故名威勢,所餘性大故名威勢。十六略細所緣,謂無所有處所緣境界。十七極細所緣,謂非想非非想所緣,過此更無極細性故。十八煩惱所緣,謂即此能有所緣故,如經中說斷滅所緣。十九法所緣,謂聖教名句文身。二十義所緣,謂依此法義。二十一狹小所緣,謂聲聞乘等。二十二廣大所緣,謂大乘。二十三相所緣,謂止舉捨相。二十四無相所緣,謂涅槃及第一有。二十五真實所緣,謂真如及十六行所緣諸諦。二十六安住所緣,謂滅盡定及定方便心心法所緣。二十七自在所緣,謂解脫等乃至一切種智諸功德所緣。二十八須臾所緣,謂無學所緣唯此生故。二十九隨轉所緣,謂佛菩薩所緣境界。

差別には二十九種があります。第一は「非有所縁」で、顛倒した心心法、および過去・未来・夢・影・幻などを対象とする境界をいいます。第二は「有所縁」で、その他の対象となる境界をいいます。第三は「無所縁所縁」で、色・心不相応行・無為をいいます。第四は「有所縁所縁」で、心心法をいいます。第五は「正性所縁」で、善法をいいます。第六は「邪性所縁」で、染汚法をいいます。第七は「非正性非邪性所縁」で、無覆無記法をいいます。第八は「如理所縁」で、善の心心法をいいます。第九は「不如理所縁」で、染汚の心心法をいいます。第十は「非如理非不如理所縁」で、これらと異なる心心法をいいます。第十一は「同類所縁」で、善などが善などを対象とし、自地が自地を対象とし、有漏が有漏を対象とし、無漏が無漏を対象とする、といったものです。第十二は「異類所縁」で、善などが不善などを対象とし、他の地が他の地を対象とし、有漏と無漏が無漏と有漏を対象とする、といったものです。第十三は「異性所縁」で、有尋有伺の心心法の対象をいいます。第十四は「一性所縁」で、無尋無伺の心心法の対象をいいます。第十五は「威勢所縁」で、無想およびその方便の心心法の対象となる境界、ならびに空無辺処・識無辺処の対象となる境界をいいます。このうち前の二句は想を除くため「威勢」といい、残りの性質が大きいため「威勢」といいます。第十六は「略細所縁」で、無所有処の対象となる境界をいいます。第十七は「極細所縁」で、非想非非想の対象をいい、これよりさらに極細の性質はないからです。第十八は「煩悩所縁」で、まさにこれが対象を持ちうるからであり、経の中で説かれる断滅所縁のようです。第十九は「法所縁」で、聖教の名・句・文身をいいます。第二十は「義所縁」で、この法に依る義をいいます。第二十一は「狭小所縁」で、声聞乗などをいいます。第二十二は「広大所縁」で、大乗をいいます。第二十三は「相所縁」で、止・挙・捨の相をいいます。第二十四は「無相所縁」で、涅槃および第一有をいいます。第二十五は「真実所縁」で、真如および十六行の対象となる諸諦をいいます。第二十六は「安住所縁」で、滅尽定および定の方便の心心法の対象をいいます。第二十七は「自在所縁」で、解脱などから一切種智に至るまでの諸功徳の対象をいいます。第二十八は「須臾所縁」で、無学の対象はただこの生のみによるからです。第二十九は「随転所縁」で、仏・菩薩の対象となる境界をいいます。

安立者,謂所緣境體非真實,唯安立故。由四種因知所緣境體非真實,謂相違識相故、無所緣境識可得故、不由功用應無倒故、隨三智轉故。由此道理能取體性亦非真實。三智者,謂自在智、觀察智無、分別智。為顯四因,乃說頌曰:

安立とは、所縁の境の体が真実ではなく、ただ安立であるからです。四つの理由によって、所縁の境の体が真実ではないと知られます。すなわち、相違する識の相であるから、所縁の境のない識が得られるから、功用によらずして倒ならざるべきであるから、三智に随って転じるからです。この道理によって、能取の体性もまた真実ではありません。三智とは、自在智・観察智・無分別智です。四つの理由を明らかにするために、そこで頌を説いて言います。

鬼傍生人天, 各隨其所應,
等事心異故, 許義非真實。
於過去事等, 夢像二影中,
雖所緣非實, 而境相成就。
若義義性成, 無無分別智,
此若無佛果, 證得不應理。
得自在菩薩, 由願解力故,
如欲地等成, 得定者亦爾。
成就簡擇者, 有智得定者,
思惟一切法, 如義皆顯現。
無分別智行, 諸義皆不現,
當知無有義, 由此亦無識。

餓鬼・傍生・人・天は、それぞれの応じるところに従い、 事は等しくとも心が異なるため、義は真実ではないと認められます。 過去の事などについても、夢と影像と鏡像の二つの影の中では、 所縁は実ではないけれども、境の相は成就しています。 もし義に義の本性が成立するなら、無分別智はないことになり、 これがもしなければ、仏果を証得することは道理に合いません。 自在を得た菩薩は、願と解の力によって、 欲するままに地などが成就するように、定を得た者もまた同じです。 簡択を成就した者、智慧ある定を得た者は、 一切の法を思惟すれば、義のとおりにすべて顕現します。 無分別智の行では、諸々の義はすべて現れず、 義は存在しないと知るべきです。それゆえ識もまた存在しません。

遍知者,謂如實知相差別安立所緣境界。

遍知者とは、相の違いをありのままに知り、安立された所縁の境界を知ることをいいます。

斷者,謂聲聞等及與大乘所得轉依。聲聞乘等所得轉依,雖於蘊界處所緣得解脫,然於彼不得自在。大乘所得轉依,具得二種。已說所緣緣,隨文決擇義。

断とは、声聞など、および大乗が得た転依をいうのであります。声聞乗などが得た転依は、蘊・界・処を所縁として解脱を得てはいますが、それに対して自在を得ることはできません。大乗が得た転依は、この二つのものをともに得ているのであります。すでに所縁縁について説きましたので、文にしたがって義を決択します。

增上緣者,謂任持增上故、引發增上故、俱有增上故、境界增上故、產生增上故、住持增上故、受用果增上故、世間清淨離欲增上故、出世清淨離欲增上故,是增上緣義。

増上縁とは、任持の増上のはたらき、引發の増上のはたらき、倶有の増上のはたらき、境界の増上のはたらき、產生の増上のはたらき、住持の増上のはたらき、受用果の増上のはたらき、世間清浄・離欲の増上のはたらき、出世清浄・離欲の増上のはたらきをいいます。これが増上縁の意味です。

任持增上者,謂風輪等於水輪等,器世間於有情世間、大種於所造、諸根於諸識,如是等。引發增上者,謂一切有情共業於器世間故,有漏業於異熟果,如是等。俱有增上者,謂心於心法、作意於心、觸於受,如是等。此後增上依二十二根建立。境界增上者,謂眼耳鼻舌身意根,由此增上力色等生故。產生增上者,謂男女根,由此增上力得入胎故。住持增上者,謂命根,由此增上力眾同分得住故。受用果增上者,謂苦樂憂喜捨根,依此能受愛非愛異熟故。世間清淨離欲增上者,謂信勤念定慧根,由此制伏諸煩惱故。出世清淨離欲增上者,謂所建立未知欲知根、已知根、具知根,由此永害諸隨眠故。

任持の増上とは、風輪が水輪などを支え、器世間が有情世間を支え、大種が所造を支え、諸根が諸識を支えるといった関係です。引發の増上とは、すべての有情の共業が器世間を生み出し、有漏業が異熟果を生み出すといった関係です。倶有の増上とは、心が心法を支え、作意が心を支え、触が受を支えるといった関係です。これらの増上は、二十二根に基づいて建立されています。境界の増上とは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根のことで、これらの増上の力によって色などの対象が生じます。產生の増上とは、男女根のことで、この増上の力によって母胎に入ることができます。住持の増上とは、命根のことで、この増上の力によって衆同分が保たれます。受用果の増上とは、苦根・楽根・憂根・喜根・捨根のことで、これらによって愛しい異熟も愛しくない異熟も受けることができます。世間清浄離欲の増上とは、信根・勤根・念根・定根・慧根のことで、これらによって諸々の煩悩を制し伏せることができます。出世間清浄離欲の増上とは、建立された未知欲知根・已知根・具知根のことで、これらによって諸々の随眠を永遠に断ち切ることができます。

云何同分彼同分?幾是同分彼同分?為何義故觀同分彼同分耶?謂不離識彼相似根於境相續生故,離識自相似相續生故,是同分彼同分義。初是同分,諸根與識俱識相似,於諸境界相續生故。由根與識相似轉義,說名同分。第二是彼同分,諸根離識自類相似相續生故。由根不與識合,唯自體相似相續生根相相似義,說名彼同分。色蘊一分眼等五有色界處一分,是同分彼同分。為捨執著與識相應不相應我故觀察同分彼同分。

同じ分と彼と同じ分とは何でしょうか。いくつが同じ分と彼と同じ分なのでしょうか。どのような意味のために、同じ分と彼と同じ分を観察するのでしょうか。識から離れず、それらの似た根が対象に対して相続して生じるからであり、識から離れて自ら似たものとして相続して生じるからであり、これが同じ分と彼と同じ分の意味です。最初のものは同じ分です。諸根が識とともにあり、識と似て、諸々の境界に対して相続して生じるからです。根と識が似て働くという意味によって、同じ分と名づけます。第二のものは彼と同じ分です。諸根が識から離れて自らの類として似て相続して生じるからです。根が識と合わず、ただ自体が似て相続して生じ、根の相が似るという意味によって、彼と同じ分と名づけます。色蘊の一分、眼などの五つの有色界処の一分が、同じ分と彼と同じ分です。識と相応する我、相応しない我への執着を捨てるために、同じ分と彼と同じ分を観察するのです。

云何執受?幾是執受?為何義故觀執受耶?謂受生所依色故,是執受義。若依此色受得生,是名執受。色蘊一分、五有色界處全及四一分,是執受。色蘊一分者,謂根根居處所攝。五有色界處全者,謂眼等。四一分者,謂不離根色香味觸。為捨執著身自在轉我故觀察執受。

執受とは何でしょうか。どれが執受なのでしょうか。また、どのような目的のために執受を観察するのでしょうか。受生の所依となる色であること、これが執受の意味です。この色に依って受が生じることができるならば、それを執受と名づけます。色蘊の一分、五つの有色界処の全部、および四つの一分が、執受です。色蘊の一分とは、根と根の居処に摂められるものをいいます。五つの有色界処の全部とは、眼などをいいます。四つの一分とは、根を離れない色・香・味・触をいいます。身を自在に転じる我への執着を捨てるために、執受を観察します。

云何根?幾是根?為何義故觀根耶?謂取境增上故、種族不斷增上故、眾同分住增上故、受用淨不淨業果增上故、世間離欲增上故、出世離欲增上故,是根義。取境增上者,謂眼等六,由此增上力於色等境心心法轉故。種族不斷增上者,謂男女根,由此增上力子孫等胤流轉不絕故。餘如增上緣中說。受識蘊全、色行蘊一分、十二界六處全、法界法處一分是根。色蘊一分者,謂眼耳鼻舌身男女根。行蘊一分者,謂命信勤念定慧根。十二界全者,謂六根六識界。六處全者,謂內六處。法界法處一分者,謂命及樂等信等五根。為捨執著增上我故觀察根。

何が根でしょうか。いくつが根でしょうか。どのような意味のために根を観察するのでしょうか。それは、対象を取ることに増上の力があるからであり、種族が絶えないことに増上の力があるからであり、衆同分が住することに増上の力があるからであり、清浄な業と不清浄な業の果を受用することに増上の力があるからであり、世間の離欲に増上の力があるからであり、出世間の離欲に増上の力があるからです。これが根の意味です。対象を取ることに増上の力があるとは、眼などの六つを指します。この増上の力によって、色などの対象に対して心と心の法が働くからです。種族が絶えないことに増上の力があるとは、男女の根を指します。この増上の力によって、子孫などが流れ続けて絶えないからです。残りは増上縁の中で説いた通りです。識蘊の全体、色蘊と行蘊の一分、十二界と六処の全体、法界と法処の一分を受け取るものが根です。色蘊の一分とは、眼・耳・鼻・舌・身・男女の根を指します。行蘊の一分とは、命・信・勤・念・定・慧の根を指します。十二界の全体とは、六根と六識の界を指します。六処の全体とは、内の六処を指します。法界と法処の一分とは、命および楽などと信など五つの根を指します。増上我への執着を捨てるために、根を観察するのです。

云何苦苦性?幾是苦苦性?為何義故觀苦苦性耶?謂苦受自相故、隨順苦受法自相故,是苦苦性義。苦受自相者,謂苦受,即用苦體為自相故,名苦苦性。隨順苦受法自相者,謂能生此受根境及相應法隨順苦受故,名苦苦性。一切一分是苦苦性。為捨執著有苦我故觀察苦苦性。

苦々性とは何でしょうか。いくつのものが苦々性なのでしょうか。どのような意味のために苦々性を観察するのでしょうか。苦受の自相、および苦受に随順する法の自相が、苦々性の意味です。苦受の自相とは、苦受のことであり、すなわち苦の体をそのまま自相とするので、苦々性と名づけます。苦受に随順する法の自相とは、この受を生み出す根・境および相応する法が苦受に随順するので、苦々性と名づけます。一切の一分が苦々性です。苦なる我への執着を捨てるために、苦々性を観察するのです。

云何壞苦性?幾是壞苦性?為何義故觀壞苦性耶?謂樂受變壞自相故、隨順樂受法變壞自相故、於彼愛心變壞故,是壞苦性義。此中樂受及隨順樂受法,於變壞位能生憂惱,故此變壞是壞苦性。又由愛故令心變壞,亦是壞苦。如經中說:入變壞心。一切一分是壞苦性。為捨執著有樂我故觀察壞苦性。

壊苦の性質とは何でしょうか。どれが壊苦の性質なのでしょうか。どのような目的で壊苦の性質を観察するのでしょうか。楽受が変壊する自相、楽受に随順する法が変壊する自相、それらに対する愛心が変壊すること、これが壊苦の性質の意味です。ここで楽受および楽受に随順する法は、変壊する段階において憂悩を生じさせるので、この変壊が壊苦の性質です。また愛によって心が変壊することも、壊苦です。経典に説かれている通りです。変壊する心に入る、一切の一分が壊苦の性質です。楽なる我への執着を捨てるために、壊苦の性質を観察するのです。

云何行苦性?幾是行苦性?為何義故觀行苦性耶?謂不苦不樂受自相故、隨順不苦不樂受法自相故、彼二麁重所攝受故、不離二無常所隨不安隱故,是行苦性義。不苦不樂受者,謂阿賴耶識相應受。隨順不苦不樂受法者,謂順此受諸行。彼二麁重所攝受者,謂苦壞二苦麁重所隨故。不離二無常所隨不安隱者,謂不解脫二苦故,或於一時墮在苦位、或於一時墮在樂位,非一切時唯不苦不樂位,是故無常所隨不安隱義,是行苦性。除三界二處諸蘊一分,一切是行苦性。三界者,謂意界法界意識界。二處者,謂意處法處。一分者,謂除無漏相。為捨執著有不苦不樂我故觀察行苦性。

行苦性とは何でしょうか。いくつのものが行苦性なのでしょうか。どのような意味のために行苦性を観察するのでしょうか。それは、不苦不楽受の自相のためであり、不苦不楽受に随順する法の自相のためであり、それら二つが麁重に摂められるためであり、二つの無常を離れず随伴されて安隠でないためです。これが行苦性の意味です。不苦不楽受とは、阿頼耶識と相応する受をいいます。不苦不楽受に随順する法とは、この受に順じた諸行をいいます。それら二つが麁重に摂められるとは、苦と壊の二つの苦の麁重に随伴されるためです。二つの無常を離れず随伴されて安隠でないとは、二つの苦から解脱していないためです。ある時は苦の位に堕ち、ある時は楽の位に堕ち、すべての時にただ不苦不楽の位にあるのではないのです。それゆえ、無常に随伴されて安隠でないという意味が、行苦性なのです。三界の二処の諸蘊の一分を除いて、すべてが行苦性です。三界とは、意界と法界と意識界をいいます。二処とは、意処と法処をいいます。一分とは、無漏の相を除くことをいいます。不苦不楽なる我があるという執着を捨てるために、行苦性を観察するのです。

云何有異熟?幾是有異熟?為何義故觀有異熟耶?謂不善及善有漏,是有異熟。由不善及有漏善法,能有當來阿賴耶識及相應異熟,由彼異熟,故此二種名有異熟。十界四處諸蘊一分,是有異熟。十界者,謂七識色聲法界。四處者,謂色聲意法處。一分者,謂除無記無漏。為捨執著能捨能續諸蘊我故觀察有異熟。又異熟者,唯阿賴耶識及相應法,餘但異熟生非異熟。餘者,謂眼耳等及苦樂等是阿賴耶識餘,此唯得名異熟生,從異熟生故。

「異熟があるとは、どのようなことでしょうか。いくつのものが異熟を持つのでしょうか。どのような目的のために、異熟があると観察するのでしょうか。それは、不善と、漏のある善が、異熟を持つということです。不善と、漏のある善法によって、未来の阿頼耶識と、それに伴う異熟が生じることができます。その異熟によって、この二種類は異熟を持つと呼ばれます。

十界と四処と、もろもろの蘊の一分が、異熟を持つものです。十界とは、七識と、色と声と法の界をいいます。四処とは、色処と声処と意処と法処をいいます。一分とは、無記と無漏を除いたものをいいます。捨てることのできる蘊と、続けることのできる蘊を我とする執着を捨てるために、異熟があると観察するのです。

また、異熟とは、ただ阿頼耶識とそれに伴う法だけであり、その他はただ異熟生であって異熟ではありません。その他とは、眼や耳などと、苦や楽などであり、これらは阿頼耶識の余分なものです。これはただ異熟生という名を得るだけで、異熟から生じるからです。」

云何食?幾是食?為何義故觀食耶?謂變壞故有變壞者、境界故有境界者、悕望故有悕望者、取故有取者,是食義。初是段食,由變壞時長養根大故。二是觸食,由依可愛境觸攝益所依故。三是意思食,由繫意悕望可愛事力攝益所依故。四是識食,由阿賴耶識執持力身得住故。所以者何?若離此識,所依止身便爛壞故。三蘊十一界五處一分是食。為捨執著由食住我故觀察食。又此四食差別建立略有四種:一不淨依止住食,謂欲界異生,由具縛故。二淨不淨依止住食,謂有學及色無色界異生,有餘縛故。三清淨依止住食,謂阿羅漢等,解脫一切縛故。四示現住食,謂諸佛及已證大威德菩薩,由唯示現食力住故。

食とは何でしょうか。幾つの食があるのでしょうか。どのような意味から食を観察するのでしょうか。壊れ変わるから壊れ変わるものがあり、対象があるから対象あるものがあり、希求があるから希求するものがあり、取るから取るものがある、これが食の意味です。第一は段食で、壊れ変わる時に諸根と四大を養い育てるからです。第二は触食で、好ましい対象に触れることに依って、よりどころとなる身心を益し保つからです。第三は意思食で、心に希求を結びつけ、好ましい事柄を願う力によって、よりどころとなる身心を益し保つからです。第四は識食で、阿頼耶識が執持する力によって身体が保たれるからです。なぜなら、もしこの識を離れれば、よりどころとなる身体は腐り壊れてしまうからです。三蘊・十一界・五処の一分が食です。食によって我が住するとの執着を捨てるために食を観察します。またこの四食の区別による分類には、およそ四種あります。第一は不浄依止住食で、欲界の異生であり、煩悩の束縛をことごとく具えているからです。第二は浄不浄依止住食で、有学および色界・無色界の異生であり、残余の束縛があるからです。第三は清浄依止住食で、阿羅漢などであり、すべての束縛から解脱しているからです。第四は示現住食で、諸仏およびすでに大威徳を証得した菩薩であり、ただ示現の食の力によって住するからです。

云何有上?幾是有上?為何義故觀有上耶?謂一切有為故、無為一分故,是有上義。除法界法處一分,一切是有上,以一切法中涅槃及清淨真如是最勝相故。為捨執著下劣事我故觀察有上。

何が「上(すぐれたもの)がある」ことでしょうか。いくつのものが上があるのでしょうか。どのような意味のために、上があるものを観察するのでしょうか。それは、すべての有為と、無為の一分であるからです。これが上があるということの意味です。法界・法処の一分を除いて、すべては上があるものであり、すべての法の中で涅槃と清浄な真如が最もすぐれた相であるからです。下劣な事柄への執着を捨てるために、上があるものを観察するのです。

云何無上?幾是無上?為何義故觀無上耶?謂無為一分故,是無上義。法界法處一分,如前所說是無上。為捨執著最勝事我故觀察無上。由此所說差別道理,餘無量門可類觀察。復次蘊界處差別略有三種,謂遍計所執相差別、所分別相差別、法性相差別。遍計所執相差別者,謂於蘊界處中遍計所執。我,有情,命者,生者,養者,數取趣者,意生者,摩納婆等,於蘊等中實無我等自性,但是遍計所執相故。所分別相差別者,謂即蘊界處法,由於此處我有情等虛妄分別轉故。法性相差別者,謂即於蘊界處中我等無性、無我有性,由離有無相,真如用蘊等中我等無性、無我有性為相故。當知此中依三自性及多分依數取趣無我理說三種相。

無上とは何でしょうか。いくつのものが無上なのでしょうか。どのような意味のために無上を観察するのでしょうか。それは無為の一分であるから、これが無上の意味です。法界・法処の一分は、前に説いたとおり、これが無上です。最も勝れた事柄に対する執着を捨てるために、無上を観察します。ここで説かれた差別の道理によって、残りの無量の門も同様に観察することができます。

次に、蘊・界・処の差別には大きく分けて三種類あります。すなわち、遍計所執相の差別、所分別相の差別、法性相の差別です。

遍計所執相の差別とは、蘊・界・処の中で遍計所執されたものです。我、有情、命者、生者、養者、数取趣者、意生者、摩納婆などは、蘊などの中に実に我などの自性はなく、ただ遍計所執の相であるからです。

所分別相の差別とは、すなわち蘊・界・処の法が、この処において我・有情などという虚妄の分別が働くからです。

法性相の差別とは、すなわち蘊・界・処の中で我などの無性、無我の有性です。有と無の相を離れ、真如が蘊などの中で我などの無性、無我の有性を相とするからです。

ここでは三自性に依り、また多くは数取趣の無我の道理に依って、三種の相を説くことを知るべきです。

復有四種差別,謂相差別、分別差別、依止差別、相續差別。相差別者,謂蘊界處一一自相差別,如色受等。分別差別者,謂即於蘊界處中,實有假有、世俗有勝義有、有色無色、有見無見,如是等無量差別。分別如前說。依止差別者,謂乃至有情依止差別有爾所,當知蘊界處亦爾,由依各別內身蘊等諸法種種異故。相續差別者,謂一一剎那蘊界處轉,於一身中蘊等諸法一一剎那性變異故。

また四つの違いがあります。相の違い、分別の違い、依止の違い、相続の違いです。相の違いとは、蘊・界・処の一つ一つが持つ自らの相の違いであり、色や受などがそれにあたります。分別の違いとは、その蘊・界・処において、実有と仮有、世俗有と勝義有、有色と無色、有見と無見といった、このように無量の違いがあることです。分別は前述のとおりです。依止の違いとは、有情の依止にこれだけの違いがあるように、蘊・界・処にもそれだけの違いがあると知るべきです。それぞれ異なる内なる身体の蘊などの諸法が種々に異なるからです。相続の違いとは、一つ一つの刹那に蘊・界・処が移り変わることであり、一つの身体の中で蘊などの諸法が一つ一つの刹那にその性質を変えるからです。

問:於相差別善巧為何所了知耶?答:了知我執過患。問:於分別差別善巧為何所了知耶?答:了知聚想過患。問:於依止差別善巧為何所了知耶?答:了知不作而得、雖作而失想過患。問:於相續差別善巧為何所了知耶?答:了知安住想過患。

問:相の差別に善巧であるとは、何を了知することですか。答:我執の過患を了知することです。問:分別の差別に善巧であるとは、何を了知することですか。答:聚想の過患を了知することです。問:依止の差別に善巧であるとは、何を了知することですか。答:作さずして得、作すれども失うという想の過患を了知することです。問:相続の差別に善巧であるとは、何を了知することですか。答:安住想の過患を了知することです。

又蘊界處有六種差別,謂外門差別、內門差別、長時差別、分限差別、暫時差別、顯示差別。外門差別者,謂多分欲界差別。多分言為簡等流法為因聞思所生慧。內門差別者,謂一切定地。長時差別者,謂諸異生。分限差別者,謂諸有學,及除最後剎那蘊界處所餘無學。暫時差別者,謂諸無學最後剎那蘊界處。顯示差別者,謂諸佛及已得究竟菩薩摩訶薩所示現諸蘊界處。

また、蘊・界・処には六種の違いがあります。すなわち、外門の違い、内門の違い、長時の違い、分限の違い、暫時の違い、顯示の違いです。

外門の違いとは、多くは欲界の違いをいいます。「多くは」ということばは、等流の法を因として聞思から生じた慧を除くためです。

内門の違いとは、すべての定地をいいます。

長時の違いとは、もろもろの異生をいいます。

分限の違いとは、もろもろの有学、および最後の刹那の蘊・界・処を除いた残りの無学をいいます。

暫時の違いとは、もろもろの無学の最後の刹那の蘊・界・処をいいます。

顯示の違いとは、もろもろの仏、およびすでに究竟を得た菩薩摩訶薩が示現されるもろもろの蘊・界・処をいいます。


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