(九)
(九)
昔有慳貪長者,佛欲度之,先遣舍利弗為說布施之福種種功德。長者慳貪都無施意,見日欲中,語舍利弗:「汝何不去?我無食與汝。」舍利弗知不可化,即還佛所。佛復遣目連神足返化而為說法。長者復言:「汝欲得我物故作此幻術。」目連知其不可化,即還佛所。於是佛必破其慳貪自造其家,長者見佛自來,為作禮,將佛入座。佛方便種種說法,語長者言:「汝能行五大施不?」長者白佛:「我小施猶尚不能,況復大施!」長者白佛:「云何五大施?」佛言:「五大施者,不得殺生,汝能作不?」長者思惟:「不殺生者,乃不用我財物又無所損。」即白佛言:「我能!」以是次第為說,乃至不飲酒,皆言:「能作!」於是佛即為長者種種說法五戒義:「若能持此五戒,便為作五大施竟。」即大歡喜,欲以一張不好㲲施佛,即入庫求,無不好者,便以一張而奉施佛。庫中餘㲲盡相隨來,至於佛前。佛知長者施心不定,語長者言:「天帝釋與阿修羅共鬪,心不定故三返不如,後以定心故大破阿修羅軍。」長者聞已,知佛大聖深知人意,信心清淨,佛為說法,即得須陀洹道。明日魔知其心,即化作佛欲來壞之,而至其家,長者以未得他心智故,不知是魔歡喜迎之,善來將入座。魔佛語長者言:「我昨日所說者,盡非是佛語,汝速捨之!」長者聞此語已,甚大怪之:「形雖是佛而所說者非,如師子皮被驢,雖形似獅子而心是驢。」長者不信,魔知其心正,還復其身言:「我故來試汝,而汝心不可轉。」是故經言:「見諦之人尚不信佛語,何況餘道?以深察理故。」是故佛弟子要解深理,魔說佛說悉皆能知。是故義不可不學,施不可不修。
昔に、吝嗇で貪欲な長者がいました。仏はその長者を救おうと思い、まず舎利弗を遣わして、布施の功徳や様々な徳について説かせました。しかし長者は吝嗇で、布施をする気持ちが全くなく、日が中頃になるのを見て、舎利弗に言いました。「あなたはなぜ帰らないのか。私はあなたに与える食べ物などないのだから。」舎利弗は彼が教え導けない人物だと知り、仏のところへ帰りました。仏はまた目連に、神通力をもって長者のもとへ行き説法させました。長者はまた言いました。「あなたは私の財産が欲しいから、そんな幻術を使うのだろう。」目連は彼が教え導けないことを知り、仏のところへ帰りました。そこで仏は、長者の吝嗇な心を必ず打ち破ろうと、みずから長者の家を訪れました。長者は仏が自ら来てくださったのを見て、礼拝し、仏を座に招き入れました。仏は方便を用いて様々な説法をし、長者に言いました。「あなたは五つの大きな布施を行うことができるか。」長者は仏に申しました。「私は小さな布施さえまだできません。ましてや大きな布施などできましょうか。」長者は仏に尋ねました。「五つの大きな布施とは何でしょうか。」仏は言いました。「五つの大きな布施とは、殺生しないことだ。あなたはできるか。」長者は考えました。「殺生しないことは、私の財産を使うこともなく、損もない。」そこで長者は仏に言いました。「できます。」このように順を追って説き、ついには飲酒しないことに至るまで、長者は皆「できます」と答えました。そこで仏は長者に五戒の意味を様々に説きました。「この五戒を守ることができれば、五つの大きな布施を行ったのと同じことになるのだ。」長者は大いに喜び、一枚の粗悪な布を仏に施そうと思い、倉庫に入って布を探しましたが、粗悪でないものはどこにもありませんでした。そこで一枚の布を取り出して仏に献上しました。すると倉庫にある残りの布がすべて、その布に続いて仏の前に現れました。仏は長者の施す心が定まっていないことを知って、長者に言いました。「天帝釈と阿修羅が戦った時、心が定まらなかったために三度負けたが、後に心を定めたことで、阿修羅の軍を大いに打ち破ったのだ。」長者はこれを聞いて、仏が大聖であり、人の心を深く知っておられることを悟り、信心は清らかになり、仏の説法によって、須陀洹の境地を得ました。翌日、悪魔はその心を知り、仏に姿を変えて長者のもとを訪れ、その信心を壊そうとしました。長者は他心通を得ていなかったので、悪魔とは知らず、喜んで迎え入れ、座に招きました。悪魔は仏の姿のまま長者に言いました。「私が昨日説いたことは、すべて仏の言葉ではない。いますぐ捨てなさい。」長者はこの言葉を聞いて、非常に不思議に思いました。「姿は仏であっても、説くことは仏の言葉ではない。獅子の皮をかぶった驢馬のようなものだ。形は獅子に似ていても、心は驢馬だ。」長者は信じませんでした。悪魔はその心が正しいことを知り、姿を現して言いました。「私はわざわざあなたを試そうと思って来たのだ。あなたの心は動かすことができないようだ。」だから経典にこうあるのです。「真理を見た人は、たとえ仏の言葉であっても、そのまま信じることはしない。ましてや他の教えなど、なおさらである。深く道理を観察するからである。」それゆえ仏弟子は深い道理を理解することが大切であり、悪魔の言葉も仏の言葉も、すべて見分けることができるのです。だからこそ教えを学ばないことはできず、布施を行わないこともできないのです。