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title: "大毘盧遮那成佛經疏 · 2"
description: "大毘盧遮那成佛經疏，又称大日经疏，由唐代高僧一行法师撰述。此疏是阐释密宗根本经典大日经的权威注疏，系统阐述了大日如来法身境界、密教教义与修行仪轨。一行法师融合中印思想，奠定了中国密宗的理论基础。该疏不仅是研究唐密的核心文献，对日本东密与台密也影响深远，被视为密教行者不可或缺的圣典，在汉传佛教中具有崇高地位。"
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## 大毘盧遮那成佛經疏卷第二

> 大日経疏　巻第二

沙門一行阿闍梨記

> 沙門一行阿闍梨記

### 入真言門住心品第一之餘

> 真言門に入る心の住処を説く品 第一の続き

經云「尊貴」者，此是那羅延天。外道計此天湛然常住不動，而有輔相造成萬物。譬如人主無為而治，有司受命行之。以能造之主更無所尊貴者，故云尊貴。又此宗計，尊貴者遍一切地水火風空處。昔有論師欲伏彼宗計故，往詣天祠，於彼天像身上坐而飲食。西方以飲食之殘為極不淨，皆共忿怒。論師云：「如所宗，豈非遍一切處地水火風空界相。」答言：「如是。」論師言：「彼即地水火風，我亦如是。以之相入，何所不可而忿怒耶？」彼眾默然不能加報。亦由不觀我之自性，故生如是妄計也。

> 経典に「尊貴」とあるのは、これは那羅延天のことです。外道はこの天は澄みきって常住不変でありながら、補佐する者たちが万物を造り出すと見なしています。ちょうど君主が無為にして治め、役人が命令を受けて実行するようなものです。万物を創造する主である以上、これ以上尊ぶべき存在はないため、「尊貴」と呼ぶのです。また、この宗派では、尊貴なるものはあらゆる地・水・火・風・空に遍在すると考えています。 昔、ある論師が彼らの見解を論破しようと、天祠を訪れ、その天像の上に座って飲食をしました。西方では飲食の残り物は極めて不浄とされ、皆が憤慨しました。論師は言いました。「あなた方の教えによれば、尊貴なるものはあらゆる地・水・火・風・空の世界に遍在するのではないか。」彼らは「その通りです」と答えました。論師は続けました。「それならば、この像も地・水・火・風であり、私もまた同じです。互いに混じり合うことに、何の不都合があって怒る必要があるのでしょうか。」彼らは黙り込み、反論することができませんでした。これはまた、自己の本性を観察しないがゆえに、このような誤った見解が生じるのです。

經云「自然」者，謂一類外道計一切法皆自然而有，無造作之者。如蓮花生而色鮮潔，誰之所染？棘刺利端，誰之所削成？故知諸法皆自爾也。有師難云：「今目覩世人造作舟船室宅之類，皆從眾緣而有，非自然成，云何自爾耶？若謂雖有而未明了，故須人功發之，是亦不然。既須人功發之，即是從緣，非自然有也。」

> 経典に「自然」とあるのは、ある種の外道が、一切の事物はすべて自然に存在し、それを創造するものはいないと考えることを指します。たとえば、蓮の花が咲いて色鮮やかであるのは、誰が染めたのでしょうか？茨の刺が鋭いのは、誰が削ったのでしょうか？だからこそ、すべての事物は自然にそうなっているのだと分かるのです。 ある師が反論されました：「今、世の人々が船や家屋などを造るのを目にしますが、それらはすべて因縁によって生じるものであり、自然にできたものではありません。どうして自然だと言えるのでしょうか？もし、たとえ存在していてもはっきりしないから、人の手を加えて完成させなければならないのだと言うなら、それも間違いです。人の手を加える必要があるなら、それは因縁によるものであり、自然に存在するものではないからです。」

經云「內我」者，有計身中離心之外別有我性，能運動此身作諸事業。難者云：「若如是者，我即無常。何以故？若法是因及從因生，皆無常故。若我無常，則罪福果報皆悉斷滅。」如是等種種論義，至挍量中廣明。

> 経典に「内我」とあるのは、身体の中に心とは別に独自の実体があると考え、この身体を動かして様々な行為を行う主体だとする見解を指します。 これに対して反論する者は言います。「もしそうであるなら、『我』は無常ということになります。なぜなら、原因となるものや原因から生じるものは、すべて無常だからです。もし『我』が無常ならば、罪や福の果報はすべて断滅してしまうことになります。」 このような様々な論議については、後の詳細な検討の箇所で広く明らかにしていきます。

經云「人量」者，謂計神我之量等於人身，身小亦小、身大亦大。《智度》云「有計：神大小隨人身，死壞時神亦前出。」即與此同。然彼宗以我為常住自在之法；今既隨身大小，即是無常，故知不然也。

> 経典に「人量」とあるのは、神我（アートマン）の大きさが人間の身体と同じであると考えることを指します。身体が小さければ神我も小さく、身体が大きければ神我も大きいと考えるのです。 『大智度論』には「神我の大小は人間の身体に従い、死んで身体が壊れる時、神我は先に抜け出る」と説かれています。これと同じ意味です。 しかし、外道の宗派は神我を常住で自在なものと考えています。今、身体の大小に従うというなら、それは無常であることを示しています。ゆえに、その考えは正しくないとわかります。

經云「遍嚴」者，謂計此神我能造諸法。然世間尊勝遍嚴之事是我所為，與自在天計小異。如論中破自在云「自在天何故。不盡作樂人，盡作苦人？而有苦者樂者，當知從愛憎生，故不自在。」今遍嚴者既能造諸福樂，而不能以樂遮苦，何名遍常自在耶？

> 経典に「遍厳」とあるのは、この神我が諸法を創造できると考えることを指します。しかし、世間において尊く勝れた遍厳の事柄は、私が行ったものであり、自在天を考えることとは少し異なります。論の中で自在天を破るように、「自在天はなぜ、楽しい人をすべて作り尽くさず、苦しい人をすべて作り尽くすのか？苦しむ者と楽しむ者がいるのは、愛憎から生じるものであるから、自在ではない」とあります。今、遍厳なる者が福と楽を創造できるならば、なぜ苦しみを楽で遮ることができないのか。それでは、どうして遍く常に自在であると言えるでしょうか。

經云「若壽」者，謂有外道計一切法乃至四大草木等皆有壽命也。如草木伐已續生，當知有命。又彼夜則卷合，當知亦有情識，以睡眠故。難者云：若見斬茢還生，以為有命；則人斷一支不復增長，豈無命耶？如合昏木有睡眠，則水流晝夜不息，豈是常覺？皆由不觀我之自性，故生種種妄見也。

> 経典に説かれる「もし寿命があるならば」とは、ある外道が、一切の法は四大や草木に至るまで、すべて寿命があると考えることを指します。例えば、草木が切られてもまた生えてくるのを見て、命があると知るべきだと考えます。また、草木が夜になると葉を閉じるのを見て、これもまた情識があるとし、睡眠するからだと言います。 反論する者が言います。もし、切られてもまた生えてくるのを見て命があるとするならば、人間の手足を一本切っても再び生えてこないのは、命がないということでしょうか。また、合歓木が睡眠するように見えるならば、川の流れが昼夜を分かたず止まないのは、常に覚めているということでしょうか。これらはすべて、私というものの自性を観察しないために、さまざまな妄見が生じるのです。

經云「補特伽羅」，謂彼宗計有數取趣者，皆是一我，但隨事異名耳。若有從今世趣於後世，是則識神為常。識神若常，云何有死生？死名此處滅，生名彼處出，故不得言神常。若無常，則無有我。如佛法中犢子道人及說一切有者，此兩部計有三世法。若定有過去未來現在，則同有數取趣者，失佛三種法印，西方諸菩薩作種種量破彼宗計也。

> 経典に「補特伽羅（プドガラ）」とありますが、これは彼らの宗派が「数取趣（すうしゅしゅ）」（何度も生まれ変わる主体）というものを想定し、すべてが一つの「我」であると考えるもので、ただ事柄に応じて異なる名前がついているだけです。もし、この世から来世へと移り行くものがあるならば、それは識神（しきしん）が常住であるということになります。しかし、識神が常住であるならば、どうして死と生があるのでしょうか。死とはこの場所で滅びることであり、生とはあの場所から現れることです。ですから、神が常住であるとは言えません。もし無常であるならば、「我」は存在しません。 仏法の中で、犢子部（とくしぶ）の道人や説一切有部（せついっさいうぶ）などは、この二つの部派は三世（過去・現在・未来）の法が実在すると考えています。もし過去・未来・現在が確固として存在するならば、それは「数取趣」を認める者と同じであり、仏の三つの法印（さんぼういん）を失うことになります。西方（インド）の諸菩薩は、さまざまな論理をもって彼らの

經云「若識」者，謂有一類執此識遍一切處，乃至地水火風虛空界，識皆遍滿其中。此亦不然。若識神遍常，應獨能見聞覺知。而今要由根塵和合方有識生，則汝識神為無所用。又若識神遍五道中，云何復有死生耶？故知不爾也。

> 経典には「若識」とありますが、これは、ある人々がこの識が一切の場所に遍く存在し、地・水・火・風・虚空界に至るまで、識がその中に満ちていると執着することを指します。これもまた正しくありません。もし識の本体が遍く常に存在するなら、それだけで見・聞・覚・知が可能であるはずです。しかし、実際には根（感覚器官）と塵（対象）が和合して初めて識が生じるのであり、あなたの言う識の本体は何の役にも立ちません。また、もし識の本体が五道（生存の境涯）に遍く存在するなら、どうしてまた死と生があるのでしょうか。ゆえに、そのようなことはないとわかります。

經云「阿賴耶」者，是執持含藏義，亦是室義。此宗說有阿賴耶能持此身，有所造作含藏萬像，攝之則無所有、舒之則滿世間。不同佛法中第八識義也。然世尊密意說如來藏為阿賴耶，若佛法中人不觀自心實相、分別執著，亦同我見也。

經云「知者見者」，謂有外道計身中有知者、見者，能知苦樂等事。復有計能見者即是真我。《智度》云「目覩色名為見者，五識知名為知者。皆是我計，隨事異名也。」難者云：汝言能見是我，而彼能聞能觸知者為是我不？若皆是者，六根境界互不相知，一不可作六、六不可作一。若有非我者，是亦同疑。故知根塵和合有所知見，無別我也。

經云「能執所執」，謂有外道言：身中離識心，別有能執者即是真我，能運動身口意作諸事業。或有說言：能執者但是識心，其所執境界乃名真我，此我遍一切處。然內外身受心法，性皆從緣生、無有自性。是中所執能執，執尚不可得，何況我耶？亦由不觀我之自性，故作是說也。

經云「內知外知」者，亦是知者別名。分為二計：有計內知為我，謂身中別有內證者即是真我。或以外知為我，謂能知外塵境界者即是真我也。

經云「社怛梵」者，謂與知者外道宗計大同，但部黨別異，故特出之耳。

經云「若摩奴闍」者，《智度》翻為人，即是人執也，具譯當言人生。此是自在天外道部類，計人即從人生，故以為名。唐三藏云「意生」，非也。末那是意，今云末奴，聲轉義別，誤耳。

經云「摩納婆」者，是毘紐天外道部類，正翻應言勝我，言我於身心中最為勝妙也。彼常於心中，觀我可一寸許。《智度》亦云「有計神在心中，微細如芥子。清淨名為淨色，或如豆麥，乃至一寸。初受身時，最在前受，譬如像骨。及其成身，如像已莊。」唐三藏翻為儒童，非也。儒童，梵云摩拏婆，此云納，義別，誤耳此二名是菩提闍梨解。

經云「常定生」者，彼外道計我是常住不可破壞，自然常生無有更生，故以為名也。

經云「聲非聲」者，聲即是聲論外道。若聲顯者，計聲體本有，待緣顯之，體性常住。若聲生者，計聲本生，待緣生之，生已常住。彼中復自分異計，如餘處廣釋。非聲者，與前計有異，彼計聲是遍常，此宗悉撥為無，墮在無善惡法，亦無聲字處，以此為實也。

經云「祕密主！如是等我分，自昔以來分別相應，希求順理解脫」者。經中略與三十事，若隨類差別則有無量無邊。如人坐得四禪，即計此法為真實常理。或生是念：「我是得禪者。」如是等皆是我分相應，例可知也。皆由不觀我實相故，但從久遠以來相承祖習此見，各各自謂有大師薄伽梵、一切知見者，以善修瑜伽故，現覺此法，而為世間說之。唯此是究竟道，更無餘道。如劫初時，獨有一天先生梵界，而作是念：「若更有眾生，來與我共住。豈不善哉。」時有上界天命終來生此中，先生者即謂之言：「由我念力故，汝得生此。汝即我所生也。」然彼亦作是念：「是尊能生我等。」便相隨順，計為最初有我者。從是以來，謂是梵天王能造世間。如是展轉生於異見，不可勝記。希求順理解脫者，順理梵音瑜祇，即是古昔修瑜伽行者。謂彼得真解脫是萬物之宗，今順彼行希求解脫，故云然也。已上皆是破壞內外因果違理之心。次明最初順理之心，順善即是世間八心也。

經云「祕密主！愚童凡夫類猶如羝羊，或時有一法想生，所謂持齋。彼思惟此少分，發起歡喜，數數修習。祕密主！是初種子善業發生」者，羝羊是畜生中性最下劣，但念水草及婬欲事，餘無所知，故順西方語法以喻不知善惡因果愚童凡夫也。世間從久遠來展轉相承有善法之名，然以違理之心種種推求而不能得。後時欻然自有念生：「我今節食持齋。」即是善法，然猶未是佛法中八關戒也。彼由節食自戒故，即覺緣務減少，令我飲食易足，不生馳求勞苦，爾時即生少分不著之心，其心歡喜而得安穩。由見此利益故，數數有修習之，即是最初微識善惡因果，故名種子心也。

經云「復以此為因，於六齋日，施與父母男女親戚。是第二牙種」者，此六齋日，即是《智度》中「上代五通仙人，勸令此日斷食。既順善法，又免鬼神災橫。」如彼廣說也。由見止息貪求，內獲利樂故、欲修習此法令得增長故，於持齋之日捨己財物以與六親，自念：「我無守護之憂，而令他人愛敬，獲孝義之譽。」以見此因果故，轉生歡喜。歡喜故，善心稍增，由如從種子生牙也。

經云「復以此施授與非親識者，是第三疱種」，謂欲成此守齋善法，修習無貪慧捨之心。由數習故善心漸增長，復能施與非親識人，見此平等施心功德利益故。爾時善萌倍復增廣，猶如牙莖滋盛未生業時，故名疱種也。

經云「復以此施與器量高德者，是第四葉種」，謂已能習行慧捨，藉此為因，漸能甄擇所施之境。如此之人德行高勝，我今宜應親近而供養之。即是慧性漸開，遇善知識之由漸也。

經云「復以此施，歡喜授與伎樂人等，及獻尊宿」者，謂慧性漸開，復甄別所施之境，見其利他之益，以伎樂人能化大眾，令其歡喜故賞其功。凡如此類眾多，是以云等也。尊宿耆舊，多所見聞，及學行高尚世所師範，以其多所遵利故，推誠歡喜而施與之，亦令我施時心倍歡喜故，即是花種也。

經云「復以此施，發親愛心而供養之，是第六成果」者，謂所習醇熟，非直歡喜而已，復能以親愛心施與尊行之人。又由前施因緣得聞法利，知彼內懷勝德，謂能出離欲等，狎習親附而供養之。望初種子，即是成果心也。

「復次祕密主！彼護戒生天，是第七受用種子」者，謂已能造齋施，見其利益，即知三業不善，皆是衰惱因緣，我當捨之護戒而住。由護戒故，現世獲諸善利，有大名聞、身心安樂，倍復增廣賢善，命終而得生天。譬如種果已成受用其實，故曰受用種子也。又云從一種子成百千果實，是一一果實復生若干，展轉滋育不可勝數。今此受用果心，復成後心種子，亦復如是，故曰受用種子也。

經云「祕密主！以此心生死流轉，於善友所聞如是言：此是天大，天與一切樂者，若虔誠供養，一切所願皆滿，所謂自在天等，乃至彼聞如是心懷慶悅，慇重恭敬隨順修行。祕密主！是名愚童異生生死流轉無畏依第八嬰童心。」已知尊行之人宜應親近供養，又見持戒能生善利，即是漸識因果。今復聞善知識言有此大天能與一切樂，若虔識供養所願皆滿，即能起歸依心也。雖未聞佛法，然知此諸天，因修善行得此善報。又漸信解甄別勝田，復聞佛法殊妙，必能歸依信受，故為世間最上心也。問曰：前說自在天等皆是邪計，今復云歸依此等是世間勝心，與前有何異耶？答曰：前是不識因果之心，但計諸法是自在天等所造。今由善根熟故，於生死流轉中求無畏依，欲效彼行因冀成勝果，故不同前計也。「商羯羅」，是摩醯首羅別名。「黑天」，梵音嚕捺囉，是自在天眷屬。「龍尊」，是諸大龍。「俱吠囉」等，皆世所宗奉大天也。「梵天后」，是世間所奉尊神。然佛法中梵王離欲，無有后妃。從「波頭摩」以下，所謂得叉迦龍、和脩吉龍、商佉龍、羯句擿劍龍、大蓮花龍、俱里劍龍、摩訶泮尼龍、阿地提婆龍、薩陀龍、難陀等龍，皆是世間所奉尊神也。「天仙」，謂諸五通神仙，其數無量，故不列名。圍陀，是梵王所演四種明論。「大圍陀論師」，是受持彼經、能教授者，以能開示出欲之行，故應歸依也。於彼部類之中，梵王猶如佛，四韋陀典猶如十二部經，傳此法者猶如和合僧，時彼聞如是等世間三寶，歡喜歸依隨順修行，是第八生死凡夫無畏依也。

經云「祕密主！復次殊勝行，隨彼所說中殊勝住，求解脫慧生」等者，謂即此第八無畏依中復有殊勝心也。既聞如上所說世間諸薄伽梵宜應供養歸依，後遂生心：「此諸三寶何者為勝？我當擇其善者隨順修行。」由前善根力故，隨彼所說法中得殊勝住，有求解脫智生。然以未知緣起法故，所有觀空智慧不離斷常，故曰常無常空，但隨順如是說而勤修學。此中復有二種：若求解脫智生名殊勝心、已於空法作證名決定心。若離分說之，并前凡有十心也。世尊欲對明出世間觀空智慧，故次說言：「祕密主！非彼知解空非空義、了知斷常，雖作非有非無平等觀絕諸戲論，然亦不能雙離是見，由彼未解正因緣故。」然佛法中，以知因緣有故則離無見，以觀自性空故不生有見。若離有無見者，即不墮斷常；若不達如是空義，雖復不著有無、離言絕相，終是以分別想作此無分別心。猶如長爪梵志觀諸法實相，不受一切法而受是見。夫真空離於分別，云何分別空耶？若不解空義者，雖復一心精進勤求解脫，非彼能知涅槃。是故佛言：「汝欲求涅槃者，應了知緣起之空，離於斷常也。」由彼初種子心減損少分貪垢，即順少分淨心，從此以後齋施漸增，即是淨心勢力漸得萌動。由此熏習則能甄擇所歸依處，有求解脫慧生。若不遇善緣，還從斷常空，退入邪見。然其八心種子終不敗亡，若聞佛法，但於斷常空，令觀緣起空，即入正道。若是未生種子無機之人，雖種種為說，終不能信解也。又如行者於第八心求生死無畏依時，若遇善知識為說三寶真歸依處，由彼漸識現世因果故，即能信受。復置是事。如彼修齋時，是人若遇善知識告言：「汝觀何利故為此齋施？」彼即答言：「我觀貪求保護因緣有種種憂苦，少欲行施得歡喜安樂住故。」時善知識告言：「善哉善男子！如佛所說，眾生以慳貪故，現世有種種憂苦，命終以此因緣墮惡趣中。以心離慳貪垢故，現世安樂有大名稱，命終生天，後得涅槃。是故汝今更應以勝上心受八齋法。」彼聞已即便信受如說修行。若無機之人，但說世間苦樂皆是自在天造，或地等變化、以時為因，則聞如是八齋少分安淨尚不能信，何況餘深事耶？問曰：如是八心最初種子，復以何為因？答曰：由世間自久遠以來有善惡之名，種子從是生也。如劫初眾生貪食地肥，爾時即以多食者為不善、少食者為善。或有見多食因緣起諸過患，便作是念：「我今少食此味。常自誡節，不亦善乎。」然此眾生亦未識因果後世之報，但展轉相承，謂仁義慙愧等以為善法，有能如是行者，世間共稱譽之。又如少劫終竟時，眾生忽爾發心，知世間惡法過患，更相勸導共行善事。爾時亦無善知識勸導使然，當知皆是自心實相熏習因緣力也。如最初種子，離微塵許心垢時，即顯如微塵許淨心勢力。雖云善種子生，其實即是不生生，以是堅固性故，在眾生識心終不敗亡，未至自心實際大金剛輪中間，更無住處。離果復成種，展轉滋長，然亦不出阿字門，故云「最上大乘句，心續生之相。諸佛大祕密，外道不能知。」《法華．藥草喻品》亦意在於此也。復次行者歸依三寶，隨順如來律儀，於一日中受八齋法，由聖戒所防護故，寂靜安樂。以安樂故，則信賢聖所行，數數修習，是名初種子。為令此善增長而修諸善，乃至由戒醇淨決定生天，後至涅槃，是名受用種子。復由親近善知識故，聞正法利，不起異歸依心，是生死流轉凡夫第八真實無畏依。又於此中殊勝住，有求解脫慧生，思惟觀察生決定想，從此即發聲聞菩提初種子心。皆應准傍前文廣分別說。乃至三乘一一地皆具十心，迄第十地亦具種子牙疱葉花果等，有求佛地智生，觀畢竟空得至金剛際也。

「爾時金剛手復請佛言：惟願世尊說彼心。如是說已。佛告金剛手祕密主言：祕密主諦聽！心相，謂貪心無貪心、嗔心慈心、癡心智心，乃至云何受生心？謂諸有修習行業彼生，心如是同性。」此答前問中諸心相句也。初列六十心名、次釋其相。

「祕密主！彼云何貪心？謂隨順染法」者，謂染著前境，即是染污淨心。若隨順修行此法，名有貪心。以心法微細難識，但觀彼所為事業，必有相彰于外。譬如鑒烟之狀貌，則火性可以比知。故諸句多以順修明義，以可例然也。此等皆是未得出世心以來與善種種雜起之心，若行者善識真偽，猶如農夫務除穢草以輔嘉苗，則淨心勢力漸漸增長。勿謂是因緣事相，輕忽至言，使心沒其中不自覺知也。

第二「云何無貪心？謂隨順無染法」者，謂與前心相違，乃至所應進求善處，亦復不生願樂。是故不染善法俱障善萠，與無染污心名同事異，最須觀察也。是故行者但觀貪心實相，自然貪不染心，不應起如是無慧不貪之行。

第三「云何嗔心？謂隨順怒法」者，怒謂嗔心發動，事彰於外，以心法難識故，以順修怒法釋之。若數起如是不寂靜相，即知是嗔心相也。但於此眾緣中觀察嗔心自無所住，則此障不生。

第四「云何慈心？謂隨順修行慈法」者，此慈亦是與嗔相違。愛見心垢之慈，非善種所生也。上慈字據內心，下慈字是外相所為事業。既覺知已，但治妨道之失，轉轉修慈無量心，即是對治。

第五「云何癡心？謂順修不觀法」，謂不觀前言善惡是非，遇便信受。凡所為事業，不能先以慧心甄別籌量是非，如是等多諸誤失，皆是癡心相也。

第六「云何智心！謂順修殊勝增上法」者，謂是人於種種所說中，皆以智簡擇此勝此劣、此應受此不應受、取其勝上者而後行之，即是無癡相也。然過人之法，非智力籌量所能及之，唯信者能入耳。是故觀察世智辯聰難，是彼對治。

第七「云何決定心？謂遵教命如說奉行。第八云何疑心？謂常收持不定等事」者，今先釋疑心，令決定心相易解明了故。謂此人隨有所聞，便生不決定心。如受戒時，便自生疑心：「我今定得戒，為不得戒耶？」或疑師疑法，諸事例爾。如人道行，以疑惑故不能前進。《智度》偈云「乃至譬如觀岐路，好利者應逐。」是彼對治。又決定心者，謂隨聞善友等如法教命，便即不生疑慮，至心奉行。然亦當以慧觀察，生正決定心也。

第九「云何闇心？謂於無疑慮法，生疑慮解」者，謂如四諦不淨無常等，世間智者不應生疑，然彼聞之心懷猶豫，如夜見株机生種種憶度之心。若見有如是相者，當知暗心使然也。

第十「云何明心？謂於不疑慮法，無疑慮修行」者，謂於決定法印非可疑慮之法，彼隨所聽聞即能懸信，當知是明心也。然是中若過若不及，即是障道之心，更處中慧是彼對治。

第十一「云何積聚心？謂無量為一為性」者，謂此人隨於一事生信解已，更聞種種殊異法，皆合集為一。如人學得一三昧已，見餘經教無量法門差別勝事，皆謂說此定心，離此之外更無餘法，故名積聚心也。

第十二「云何鬪心？謂互相是非為性」者，謂聞他所說言教，常好辨論是非，謂是義應爾、是事不然。假使所言合理，亦以種種方便伺求其長短，欲令墮在失處。設他來問，亦復求其長短，言：「此問乖僻，我不應答。」有如是相現，當知是鬪心也。

第十三「云何諍心？謂於自己而生是非」者，謂內懷是非之心，如自思惟一義竟，輒復自設異端推求其失。雖善心諮受於人，既領受已，還自推求得失，謂此事合爾、此不合。多有如是相現，當知是諍心也。

第十四「云何無諍心？謂是非俱捨」者，准梵本轉聲，云於六十心下皆合有為性之字，例可知也。謂其心不懷向背，雖先所宗習作如是見解，更聞異言，以違合理即受行之。或先以為是，聞他以為不善，即能改之。情無所執，是非俱捨。如有如是相，當知是無諍心也。覺知無記無諍之心，修諸法實相無諍之心，是彼對治也。

第十五「云何天心？謂心思隨念成就」者，如諸天以先世果報故，若有所須，不加功力隨心而生。數起如是願樂，當知是天心。亦由曾生上界，故有此習也。如真言行人，不期遠大之果，但為自心所率，能障淨菩提心。當自覺知，勿貪世間悉地，是彼對治。

第十六「云何阿修羅心？謂樂處生死」者，阿名為非，修羅名天，以其果報似天，而行業住處不同，故以為名也。此知有解脫之利，但深樂生死果報快樂，不能進趣。若行人有此相貌，當知名修羅心。亦由先世曾生此趣，故有此習也。觀察無常苦等，是彼對治。

第十七「云何龍心？謂思念廣大資財」者，謂數作是念：「我當以何方便，獲如是廣大資財勝妙珍寶？」有此多貪無厭之想，是龍趣之心也。亦本從龍趣中來，故生此習。喜令行人願求世間悉地，障出世淨心。思惟少欲知足無常等，是彼對治。

第十八「云何人心？謂思念利他」者，謂好追求思念：「某甲於我有恩，我當以如是方便令得大利。某甲曾於我所有不饒益，今當報之。」及種種理人利物之計，皆是人心也。當念自觀心行，早求法利，不應紛紜思慮他緣，是彼對治。

第十九「云何女心？謂隨順欲法」者，亦是人趣心，但以多欲為異耳。如經說言「女人多欲，百倍於男子，常念所經樂事，或想他容色姿態等。」能令行者障蔽淨心。亦是多生曾作女人，猶有本習也。是中以不淨念處等觀身實相，是彼對治。

第廿「云何自在心？謂思惟欲我一切如意」者，自在即外道所事天神也，彼宗計自在天能隨念造諸眾生及苦樂等事。修此法者，亦常係念願得如其本尊。若真言行人，數念如是悉地，念我隨念成就。當知是自在心，亦先習使然也。當觀諸法皆悉屬眾因緣，無有自在，是所對治。

第廿一「云何商人心？謂順修初收聚後分拆法」者，如世商人先務儲聚貨物，然後思惟分析之：「此物當某處用，彼物當某處用，可得大利。」若行人先務內外學問，令周備已方復籌量：「此是世典，當如是處用。此二乘法用，應接某人。此大乘資糧，是某緣所要。」此名商人心。亦由先習使然也。修捷疾智，是彼對治。謂隨聞何法，即應觀彼因緣事用，豈待多聞蓄聚方求用處耶？

第廿二「云何農夫心？謂隨順初廣聞而後求法」者，如學稼者詢問老農：「云何知地良美？云何耕植耘耨？云何候時？云何獲藏？」如是一一知已，方就功力。此心亦爾，先務諮承智者廣聞道品，然後行之。皆宿習使然也。以利智為所對治。如聞諸蘊無常，即知界入緣起等其例皆爾。又如毒箭入體，豈得竢三農月廣問而後拔之耶？

第廿三「云何河心？謂順修依因二邊法」者，此心性雙依二邊，或時修常或時修斷、或復邪正兼信，如河水雙依兩岸，其所漂流之物亦不定係一邊。此中對治，謂行人專心一境則能有所至到。若心不定守，能令事業俱辨，無此理也。

第廿四「云何陂池心？謂隨順渴無厭足法」者，譬如陂池，若眾水流入終無厭足。是心亦爾，若名利眷屬等事來集其身，終無厭足，乃至於所學法亦爾。如已得乳糜不務速食，更復渴望餘味。是中少欲知足以為對治。

第廿五「云何井心？謂如是思惟深復甚深」者，謂如俯𨶳井水，淺深之量難知。此心性亦如是，凡所思惟好尚深遠，所有善不善事皆欲令人不能測量，共行住同事亦不識其心行，當知是井心也。緣起法門及善人相皆顯了易知，是彼對治。

第廿六「云何守護心？謂唯此心實，餘心不實」者，如世人為護己身財物等故，乃至周牆重閣種種防守，不令為他所傷。此心亦爾，常守護身心，乃至如龜藏六，不令外境所傷。謂唯此行為實，諸餘有作之務皆為不實。學聲聞者多生此心也。以兼護他人，為所對治。又有人自保所解，不欲令他種種異論所傷，謂餘見解悉皆不實，亦是也。

第廿七「云何慳心？謂隨順為己亦與他法」者，謂此人諸有所作，皆悉為自身，故財物伎藝乃至善法皆好祕惜不以惠人。有此相者，知是慳心。以念施及無常等，為所對治。當念財物伎能，設無常時，無有隨我去者。然今此身，念念不可自保，何惜此耶？

第廿八「云何狸心？謂順修徐進法」者，如猫狸伺捕禽鳥，屏息靜住不務速進，望至度內然後取之。此人亦爾，遇聞種種法要，但作心領受記持而不進行，冀待良緣會合則當勇健勵行之。又如猫狸，蒙種種慈育亦不識恩分。若人但受他慈惠善言而不念報，是狸心也。以不待時處如聞輒行，常念恩德，為所對治。

第廿九「云何狗心？謂得少分以為喜足」者，以狗以薄福因緣，所期下劣故，遇得少分麁鄙之食便生喜足。若稍過於此者，則非本所望。此心亦爾，聞少分善法，便以為行不可盡，不復更求勝事。此聲聞種習所生也。以增上意樂，為所對治。乃至心如大海，少亦不拒、多亦不溢。

第三十「云何迦樓羅心？謂隨順朋黨羽翼法」者，此鳥常恃兩翅挾輔其身，所往隨意以成大勢，假少一羽則無所能為。此心亦爾，常念多得朋黨與輔翼相資以成事業。又因他所作而後發心，不能獨進。如見人行善，便念：「彼尚能行，我何不為？」當念勇健菩提心，如師子王不籍助伴，為所對治。

第卅一「云何鼠心？謂思惟斷諸繫縛」者，如鼠見他箱篋繩係等，輒好非理損壞，亦不作念：「由斷此故，令我得如是利。」但爾無趣為之。此心亦爾，所有繫屬及與成事，好為間隙而爼敗之。

第卅二「歌詠心」，梵本缺文，不釋。阿闍梨言：「此喻傳法音也。如世人度曲於他，得善巧已，復為他人奏之，出種種美妙之音，聞者歡喜。此心欲從他聽聞正法，我當轉為眾生以種種文句莊嚴分別演說，令此妙音處處聞知也。」多是聲聞宿習，亦能障淨心也。當念我當得內證自然之慧，然後普現色身而演說之，是彼對治。

第卅三「云何舞心？謂修行如是法，我當上昇種種神變」者，如世人支分散動說名為舞，神變亦爾，現種種未曾有事，令前人心淨悅眼。多是五通餘習者。若偏尚如是悉地方便願求，亦障淨心也。當念除蓋障三昧，心無散動，神通不起滅定而作加持神變，勿貪世間少驗，是所對治。

第卅四「云何擊鼓心？謂修順是法，我當擊法鼓」者，鼓能警誡眾生，令得覺悟。若行人作如是念：「眾生長夜昏寢，我當習種種無礙辨才，擊大法鼓而警悟之。」亦能妨礙淨心也。當念早證無量語言陀羅尼，以天鼓妙音普告一切眾，勿以世間小利妨大事因緣，是彼對治。

第卅五「云何室宅心？謂順修自護身法」者，如人造立舍宅庇衛其身，得免寒熱風雨盜賊惡虫等種種不饒益事。此心亦爾，我當持戒修善以自防護，令今世後世遠離惡道眾苦。多是聲聞習也。當念救護一切眾生，非獨一身，是所對治。

第卅六「云何師子心？謂修行一切無怯弱法」者，如師子於諸獸中，隨所至處皆勝，無有怯弱。此心亦爾，於一切事中皆欲令勝一切人，心不怯弱。自心謂無有難事，莫能與我觕其優劣者。若自覺知已，當發釋迦師子心，當令一切眾生遍勝，無有優劣，是所對治。

第三十七「云何鵂鶹心？謂常暗夜思念」者，此鳥於大明中無所能為，夜則六情爽利。若行者晝日雖有所聞，誦習昏憒不得其善巧，至暗夜思憶所為之事，重復籌量便得明了。乃至修禪觀等，亦以暗處為勝。若覺知已，當念等於明暗，令所作意無晝夜之別，是所對治。

第三十八「云何烏心？謂一切處驚怖思念」者，如烏鳥，若人善心附近惠養，或時伺求其便，俱生猜畏之心，一切時性常如是。此心亦爾，雖善友欲為饒益，及陷誤之者，一概猜阻而懷疑懼。乃至持戒修善時，亦於生死懷驚怖心。若覺知已，當修安定無畏心，是彼對治。

第三十九「云何羅剎心？謂於善中發起不善」者，如人見為善事，皆作不善意解。佛說造諸塔廟得無量福，而彼反作是言：「由此故，橫損無量小虫、煩擾施主，將何所益？當受苦報。」發起，謂如是等不善心生起也。是中但以觀功德利益，不念彼短，為所對治。

第四十「云何刺心？謂一切處惡作為性」者，猶如棘叢，於一切處多所損妨，令近者不安。此心亦爾，若行善事如大施等，既作已便生追悔之心。若作惡事竟，復自思惟亦懷慚懼。是故常懷惡作，動慮不安。此中對治法，若有犯速務懺除，勿生掉悔。所為善事，應自思惟生慶幸心。

第四十一「云何窟心？謂順修為入窟法」者，謂諸龍、阿修羅等，皆在地下或海底深窟中。多有神仙諸藥，能得長壽自在。行者或念彼中多有美女，端正同於諸天，可無夭逝之憂，五欲自恣。或念留住彼中，可得劫壽見未來諸佛。皆是窟心也。當念如法修行，可於此生見法明道乃至成佛，不應抂路稽留念此世仙之法，是彼對治。

第四十二「云何風心？謂遍一切處發起為性」者，風性散亂，由不住故。此人心亦爾，於一切處遍種善根，謂於世間外道、種種天尊及三乘諸行中皆令有分，而作是念：「如多種子，於一切處遍之，會有成者。」當知是風心也。當念石田不毛虛費種子，當求良美福田膏腴之處，專意耕耨所獲必多，是彼對治。

第四十三「云何水心？謂順修洗濯一切不善法」者，如水性清潔，雖暫為諸垢所污，澄之則淨，又能洗除垢穢。此人心亦爾，常欲發露垢惡，懺洗三業眾罪。以見此垢此淨，我如是行，則能障礙淨心。但當觀心實相，了從本來垢法不生，自能除一切蓋障，是彼治行也。

第四十四「云何火心？謂熾盛炎熱為性」者，如火性赫奕躁疾。此人心亦爾，若造善時須臾間能成無量功德，造惡亦少時成極重業。此中治行，應思惟猛暴之心多所敗傷，以柔和慈善之水方便令滅，而熾然善事務令恒久，是彼對治。

第四十五「泥心」，梵本缺文，不釋。阿闍梨言：「此是一向無明心也。乃至目前近事亦不能分別記憶，故律云猶如泥團。又如泥濘，以淖弱故，難事越度。要令有所由藉，謂假橋梁等方能越之。若覺有此方便，必須歸憑善友，令方便開發，乃能漸去無知，還生慧性也。」

第四十六「云何顯色心？謂類彼為性」者，譬如青黃赤白等染色，若素絲入之便與同色。此人心亦如是，見聞善法亦隨彼行，見聞惡事亦依隨修學，乃至無記亦爾，對種種境界隨事而遷。行人自覺知已，當念專求自證之法，不由他悟、不為他緣所轉，是彼對治。

第四十七「云何板心？謂順修隨量法，捨棄餘善故」者，如板在水中，隨其分量受載諸物，過限則不能勝，終亦傾棄之。此人心亦爾，簡擇善法業，隨己力分行一事已便作是語：「我承上以來唯行此法，不知其他。」乃至習行八齋即不捨離，更不慕行餘善。以發廣大心學菩提行，是所對治。

第四十八「云何迷心？謂所執異所思異」者，如人迷故，意欲向東而更向西。此人心亦如是，意欲學不淨觀，而反取淨相，自謂我今修不淨觀。若修無常無我時，反行常我倒中，謂我今修無常無我。由心散亂，故使然也。當念專一其心，審諦安詳無倒觀察，是彼對治。

第四十九「云何毒藥心？謂順修無生分法」者，毒謂龍蛇藥草諸惡毒也。如人中毒悶絕，轉趣死地，無有生分。此人心亦爾，不生善心亦不生惡心，乃至一切心不能生起，但任運而行，漸入無因無果中，故名無生分法也。行人自覺知已，應發起大悲眾善，離斷滅空，即是所謂甘露妙藥。

第五十「云何羂索心？謂一切處住於我縛為性」者，如人為羂索所縛，乃至手足支節不得動轉。此心如是，墮於斷見我縛之中。此見能縛行者心，乃至於一切處常為所拘不能自出，最是重障也。既覺知已，應速以緣起正慧刀決除障蓋，是所對治。

第五十一「云何械心？謂二足止住為性」者，在手曰杻、在足曰械。如人為械所持故，二足停住不得前進。此心亦爾，常好端坐寂然住立而修定心及觀察法義，為此所拘，故名為械心。此中治行，當於一切時處思惟修習使靜亂無間，是所對治。

第五十二「云何雲心？謂常作降雨思念」者，如西方夏三月中霖雨特甚，以常滯淫昏藝，故時俗憂樂思慮之心蔚翳滋多，故云作降雨時思念也。覺知已，則當行捨心，離於世間憂喜、隨順法喜，是所對治。

第五十三「云何田心？謂常如是修事自身」者，如人有良美之田，常修治耕墾芸除莣穢，種種方便令得清淨。此人亦爾，常好修事其身，以香花滋味等灌塗奉養，務令光潔嚴好。覺知已，常念迴此功力修事其心，以如是諸供養具播植福田資成勝果，是彼對治。

第五十四「云何鹽心？謂所思念彼復增加思念」者，如鹽性鹹，凡有所入處皆增鹽味。此人心亦如是，於所思事復加思念，如憶想欲色之時適生此意，還復自推求：是心由誰而生？作何相貌？觀此心未決，復念此推求之慮有何因緣？如是則無窮盡也。既覺知已，當一向安心諦理，務使穿徹。又心性離念，非憶度能知，不於分別之上更增心數也。

第五十五「云何剃刀心？謂唯如是依止剃除法」者，剔除鬢髮是離俗出家相。謂此人心但作是念：「我已剔除俗相，令惡法不得復滋，更何所求？」當知此心最惡，以自作分限故，能剃所有善根令不得生。當念一切賢聖所應斷者，所謂無明住地三毒之根，若能剃此令妄想不生，乃名真出家也。

第五十六「云何彌盧等心？謂常思惟心高舉為性」者，如須彌山高絕眾峯，無能出其上者。此人心亦爾，常以高舉為性，乃至師僧父母等所應尊敬處皆不能下意，猶如高幢不可屈撓。若欲撓之要必當折，終不改其常操。以忍辱謙卑，於一切眾生作大師想，為所對治。

第五十七「云何海等心？謂常如是受用自身而住」者，譬如大海，百川歸之，吞納無限。此心亦爾，於一切勝事皆歸之於己，謂嫌餘人無有比者，常自持如是眾多所長，自受用此而住。前心務高，此心務廣，故云與海等同也。行者覺知已，當念三賢十聖等無量大功德海展轉深廣，自剋心行曾未得其塵渧，不應起大慢之心也。

第五十八「云何穴等心？謂先決定彼，後復變改為性」者，譬如完堅之器，後若遇緣穿穴，無所堪任。此心亦爾，初時多所受持，後稍穿漏也。或初發心受戒時具足無缺，不久漸生漏法，同於已敗之器法水不停。凡如此例，皆名穴心也。故行者常令所為之事皆有終始。又知性多變改，最能障礙堅固菩提心，為彼對治。

第五十九「云何受生心？謂諸有修習行業彼生心如是同性」者，如人由白黑業受善惡報，由所作種種雜故，受彼彼無量差別身。此心亦爾，所修諸行皆欲迴向受生，當知得果亦兼善惡也。故行者當念甄擇善惡，除去不善、純修白法。就此善中，又復以慧更去麁鑛，如是次第，乃至得成純一清淨醍醐妙果，是所對治也。

第六十心，梵本缺文。阿闍梨云：「少一猨猴心也。猨猴之性，身心散亂常不暫住。行人亦爾，其性躁動不安，故多所攀緣，猶如猨猴放一捉一。」大略言之，眾生盡然，今就偏盛而言也。此中以不隨動散之想，繫緣一境，是所對治。猶如猨猴若繫之於柱，則不復肆情蹺躑騰躍，是所治也。然此六十心，或時行者本性偏多，或由行道用心發動先習，或一時雜起或次第而生，當於一切時留心覺察，自然得順淨菩提心。若阿闍梨為弟子平治心地時，亦當一一簡去也。

經云「祕密主！一二三四五再數，凡百六十心，越世間三妄執，出世間心生，乃至四分之一度於信解」者，亦是答諸心想及心殊異也。由有無明故，生五根本煩惱心，謂貪、嗔、癡、慢、疑。所以不說五見者，以屬見煩惱多在六十心中也。此五根本煩惱，初再數為十，第二再數成二十，第三再數成四十，第四再數成八十，第五再數成一百六十心，故云「一二三四五再數，成百六十心」也。以眾生煩惱心常依二法、不得中道，故隨事異名輒分為二。就此二中，復更展轉細分之，其名相具如十萬偈中說。若更約上中下九品等，乃至成八萬塵勞，廣則無量。譬如從一種子生五根本，於一根本皆破為二枝，至第五破則成百六十心小枝。從此復更離分，則條葉不可勝計。又如劫初時人皆化生、以念為食，身光自然安樂無礙。然以不知心實相故，稍貪著地肥，由食味多少，色貌隨異，是非勝負之心猶此而生。以有憍慢心故，福利衰減地肥隱沒，乃至地膚林藤亦復不現。次食自然粳米，始有男女之類，婬盜殺妄等種種非法次第而起。是事《阿含》中廣明。從是以來，有種種族姓、種種方俗，起種種業煩惱結、成種種眾生趣、造種種五陰之身，自非一切智人，則不能究其條末。諸阿闍梨所以為此喻者，欲表一無明心隨事離分，即成阿僧祇妄執也。越世間三妄執出世間心生者，若以淨菩提心為出世間心，即是超越三劫瑜祇行。梵云劫跛，有二義：一者時分、二者妄執。若依常途解釋，度三阿僧祇劫得成正覺。若祕密釋，超一劫瑜祇行，即度百六十心等一重麁妄執，名一阿僧祇劫。超二劫瑜祇行，又度一百六十心等一重細妄執，名二阿僧祇劫。真言門行者，復越一劫，更度百六十心等一重極細妄執，得至佛慧初心，故云三阿僧祇劫成佛也。若一生度此三妄執，則一生成佛，何論時分耶？然就第一重內，最初解了唯蘊無我時，即名出世間心生也。度世間六十心，離我倒所生三毒根本，名越三妄執也。復次有三妄執，所謂根、境、界淹留修行。根謂六根、境謂六塵、界謂六識界，以內外十二界即是根境，故合言之。此是三果學人所留滯處，故云淹留修行也。復次有三妄執，所謂業、煩惱株杌及無明種子，即是無學聖人所斷最難斷處凡有三種三妄執也。學摩訶衍人，初得出世初心，與小乘見道適齊，然不墮聲聞正位。所以爾者，由彼從初發心即知心性但為我倒所覆，未得現前。爾時諦觀陰界入等悉從緣生、無常變異，是中何者是神耶？作如是推求，即了神本不生，度無量見網，淨菩提心少分增明。由得菩提心勢力，所以不墮二乘地也。然彼行者有法執當心，若修禪定道品種種諸度時，雖不於中起諸我倒，而心住於禪慧等法稽留淹滯，不能速至菩提。以非如實巧度，故名淹留修行也。然亦稍離下地三執，能拔業煩惱根本無明種子。生十二因緣知，如是甚深之法，有佛無佛性相常爾。如前所說，建立淨、不建立無淨等種種宗計皆不相應，乃至長爪、先尼諸大論師等，自心以智慧利根推求諸法實相，皆亦不能圖度。此十二因緣義，如《稻芉》等經廣明。言湛寂者，寂是不生義，謂五根本煩惱及百六十隨煩惱等皆畢竟不生，故名為寂。湛者是甚深義，譬如清潭萬仞、澄恬鏡徹，臨視之者不測淺深，故說云三獸渡河，各隨足迹之所至處，獨有大香象王能漸次深進入到其源底耳。此中有三乘之人同以無言說道得諸法實相，然聲聞入法性最淺，故厭怖生死，自謂已得涅槃，生滅度想。辟支佛所入差深，故於生死不甚忩遽，然不能以方便力發起大悲。菩薩悟如是法時，即知是心垢漸除，所以淨心漸現，爾時便得菩提心務力，能以不住道學種種度門。故同前共一法中，而昇沈有異也。

經云「一切外道所不能知」者，此宗中說有兩種外道：外外道，猶如覩見清潭，逆生怖畏，不敢習近；內外道，雖能游泳其中，適熱除垢得清涼樂，然不覺是中有無量寶王。一則不入而不識，二則入而不識，故云一切外道不能知也。

「先佛宣說離一切過」者，言十方三世諸佛唯有此一門，誘進群迷出於火宅。是處無復障礙，戲論不生，故種種因量諸師無能出其過者。然未度法障，未名真淨菩提心，如蓮華已離濁泥尚未出水，故經云「出世間心住蘊中」也。以行者於瑜伽中，湛寂之心雖已明顯，然涉事時根塵識等猶尚當心，由厭怖有為故著無為法，然以菩提心勢力，自然不由他教也。有如是慧隨生，能於蘊等發起其心，修離著方便，於五種譬喻觀察無性空。初句「觀察聚沫」者，如水上浮沫，雖可目覩有種種形，推求性實了不可得。色陰亦爾，若麁若細無不從眾緣生，緣生生無性，即是色本不生也。次句「浮泡」者，如夏時暴雨水上浮泡，亦但屬眾緣。四句觀之都無起滅。受陰亦爾，諸苦樂等皆從情塵和合生，從緣無性，即是受本不生也。次句「陽炎」者，如春月地氣，日光望之如水，迷渴者生企求心，奔趣徒勤去之彌遠。眾生亦爾，不知緣起性空，有法想生，若悟實相即想本不生也。次「芭蕉」者，如人求芭蕉中堅實，乃至分分披拆之，至於隣虛亦不可得。行陰亦爾，一微涉於動境，無不從眾緣生。緣生無性，即是行本不生也。次「幻事」者，如世間呪術藥力蔽惑人心，現種種未曾有事。識陰亦爾，從一念無明幻心初出三界，究其源本都無生滅去來。當知從眾緣生無自性故，亦復本不生也。聲聞經中雖說此五喻，而意明無我。今此中五喻，意明諸蘊性空。如觀五蘊者，當知十二入、十八界、六入、十二緣等，皆應廣分別說，如《大般若》中說。行者如是觀察時，從無性門達諸法即空，得離一重法倒，了知心性。如是不為蘊界處能執所執之所動搖，故名證寂然界。證此寂然界時，漸過二乘境界，如蓮花雖未開敷，而稍出清流之上。行者亦爾，不復心沒蘊中，故名出世間心。若據正譯，當言上世間心也。

「祕密主！彼離違順八心相續業煩惱網」者，如前所說種子根疱等，及歸依三寶、為人天乘行齋施善法，皆名順世八心。若三乘初發道意，迄至拔業煩惱根本無明種子生十二因緣，名違世八心。或可就見道修道等諸位分之，各自有八心也。大乘行者了達諸蘊性空故，於一切法中都無所取亦無所捨，雙離違順八心我蘊兩倒二種業煩惱網，是名超越一劫瑜祇行。瑜伽，譯為相應，若以女聲呼之則曰瑜祇。所謂相應者，即是觀行應理之人也。依常途解釋，是菩薩從發心以來，經一大阿僧祇劫方證如是寂然界。今祕密宗，但度此一重妄執，即是超一阿僧祇劫。行者未過此劫，與辟支佛位齊時，名為極無言說處。爾時心滯無為法相，若失方便，多墮二乘地證小涅槃。然以菩提心勢力，還能發起悲願，從此以後三乘徑路始分。然所觀人法俱空，與成實諸宗未甚懸絕，猶約偏真之理作此平等觀耳，故以三乘上中下出世間心合論一僧祇劫，至第二僧祇乃與二乘異也。

經云「復次祕密主！大乘行發無緣乘心法無我性。何以故？如彼往昔如是修行者，觀察蘊阿賴耶，知自性如幻、陽焰、影、響、旋火輪、乾闥婆城」者，即是明第二重觀法無我性也。梵音莾鉢羅，是無義亦是他義。所謂他緣乘者，謂發平等大誓，為法界眾生行菩薩道，乃至諸一闡提及二乘未入正位者，亦當以種種方便折伏攝受，普令同入是乘。約此無緣大悲，故名他緣乘。又無緣乘者，至此僧祇，始能觀察阿陀那深細之識，解了三界唯心，心外更無一法而可得者。乘此無緣心而行大菩提道，故名無緣乘也。此無緣乘心，即是法無我性。以行者初劫修觀行時心沒蘊中，故以五種無性空門觀法無我。然望緣生中道，猶屬對治悉檀，若失般若方便即墮於斷滅，名惡取空者濫方廣道人。今大乘不可得空相，空相亦不可得，雖觀諸法無所有，然亦於諸法無所空，故須離有離無道觀法無我性。為欲淨除智障故，隨順古昔諸菩薩修學觀蘊阿賴耶，即《楞伽》、《解深密》等經八識、三性、三無性皆是此意。經言「知自性」者，即是知三界唯心也。如幻、陽焰、影、響、旋火輪、乾闥婆城六喻，皆是雙辨有無，明蘊阿賴耶別緣起義，與前劫上五喻觀無性空意復有殊矣。阿賴耶，義云含藏，正翻為室。謂諸蘊於此中生、於此中滅，即是諸蘊窠窟，故以為名。然阿賴耶有三種義：一者分別義、二者因緣義、三者真實義。如《大乘莊嚴論》求真實偈中，以「離二及迷依，無說無戲論」故，應知三性俱真實。所云離二者，謂分別性真實，由能所畢竟無故。迷依者，謂依他性真實，由此起諸分別故。無說無戲論者，謂真實性真實，由自性無戲論故。次說求真實譬喻偈云「如彼起幻師，譬說虛分別，如彼諸幻事，譬說二種迷。」釋曰：如幻師依呪術力，變木石等以為迷因。如是虛分別依他性亦爾，起種種分別為顛倒因。又如幻像金等種種相貌顯現，如是所起分別性亦爾。能取所取故，二迷恒時顯現。次偈云「如彼無體故，得入第一義。如彼可得故，通達世諦實。」此中意言：如彼幻事無有實體，此譬依他、分別二相亦無實體，由此道理即得通達第一義諦。又如幻者幻事體亦可得，此譬虛妄分別亦爾，由此道理即得通達世諦之實。又偈云「彼事無體故，即得真實境。如是轉依故，即得真實義。」釋云：若人了彼幻事無體，即得木等實境。若諸菩薩了彼二迷無體得轉依時，即得真實性義也。又偈云「是事彼處有，彼有體亦無。有體無有故，是故說是幻。」此偈明幻事有而非有。何以故？有謂幻像事，彼處顯現故。非有謂彼實體，不可得故。如是有體與無體無二，由此義故說彼是幻。又偈云「無體非無體，非無體即體，無體體無二，是故說是幻。」此偈明幻事非有而有。何以故？非有，謂彼幻事無體，由無實體故。而有，謂幻事非無體，由像顯現故。如是無體與有體無二，由此義故說彼是幻。此幻即譬諸蘊，是故當知虛妄分別有而非有。何以故？彼二影顯現，而實體不可得故，故說色等有體即是無體。復次虛妄分別非有而有。何以故？彼二都無實體，然有影顯現故，故說色等無體與有體無二。由此有無不二，能遮建立誹謗及趣小乘寂滅。所以然者？由於無體，知無體故不應安立。由於有體，知世諦故不應誹謗。又以彼二無別故，不應厭體入小涅槃。彼偈又云「幻像及取幻，迷故說有二。如是無彼二，而有二可得。骨像及取骨，觀故亦說二。無二而說二，可得亦如是。」前偈意云：迷人於幻像及取幻，以迷故說有能取所取二事。彼二雖無，而二可得，由迷顯現故。後偈意云：觀行人亦爾，於骨像及取骨，由觀故說有能觀所觀二事。彼二雖無，而二亦可得，由觀顯現故。問曰：如是觀已，何法為所治？故彼復說二偈云「應知所治體，謂彼法迷相，如是體無體，有非有如幻。應知能治體，念處等諸法，如是體無相，如幻亦如是。」前偈意云：何所治體？即是迷法相。迷法相者，謂如是如是體故。然如是體可說為有，由虛妄分別故。亦說非有，由能取所取二體與非體無別故。如是有亦如幻、無亦如幻，故說此相如幻。後偈意云：能治體即是諸法，謂佛所說念處等，如是如是體故。彼體亦皆如幻。何以故？如諸凡夫所取如是如是有體故。如諸佛所說，如是如是無體故，如是體無相。而佛世尊示現入胎、出生、踰城、出家、成等正覺，如是無相而影顯現，是故如幻。問曰：若諸法同如幻者，以何義故一為能治一為所治？彼偈答言「譬如強幻王，令餘幻王退。如是清淨法，能令染法盡。」由此義故。菩薩雖修眾行。而無所得也。彼論明觀察蘊阿賴耶，了知自性如幻，最與此經符會，故具出之。當知陽焰、影、響、旋火輪、乾闥婆城，亦應如是廣說。前劫五喻有泡沫、芭蕉，此中所以不論者，此三事猶帶拆法明無性空。然此中幻焰等喻意，明唯識無境體法難解之空，即是麁相轉融，故不論也。行者解諸蘊唯心，即是知法自性。未了如是自性時，畏墮有所得故，不能盡理觀有；畏墮斷滅故，不能盡理觀空。非但見有不明，亦復見空未盡。今以如幻等門照有空不二，而人法二空之相亦不當心，乃名真入法空，悟唯識性故。

經云「祕密主！彼如是捨無我，心主自在，覺自心本不生。」心主即心王也。以不滯有無，心無罣礙，所為妙業隨意能成，故云心主自在。心主自在，明即是淨菩提心。更作一轉，開明倍勝於前劫也。心王猶如池水，性本清淨。心數淨除，猶如客塵清淨。是故證此性淨時，即能自覺心本不生。何以故？以心前後際俱不可得故。譬如大海波浪，以從緣起故，非是先無後無。而水性不爾，波浪從緣起時，水性非是先無；波浪因緣盡時，水性非是後無。心王亦復如是，無前後際，以前後際斷故。雖復遇境界風從緣起滅，而心性常無生滅。覺此心本不生，即是漸入阿字門。爾時復離百六十心等塵沙上煩惱一重微細妄執，名第二阿僧祇劫。故經云「知自心性，是超越二劫瑜祇行也。」此中無為生死緣因生壞等義，如《勝鬘》、《寶性》、《佛性論》中廣明。今且明宗義，故不詳說。然上來原始要終，自發一毫之善，以至於超度人法有無二障，雖宗極炳著轉妙轉深，猶是對治心外之垢，尚未開此心中祕密種種不思議事，從此以後方乃說之。若不作如此對辨，則常情各翫先習，不能覺其微妙也。

經云「復次祕密主！真言門修行菩薩行諸菩薩，無量無數百千俱胝那庾多劫積集無量功德智慧，具修諸行無量智慧方便，皆悉成就」者，即是欲明超第三劫之心。欲令見聞者信樂尊重故，先歎其功德耳。可知。如餘教中菩薩，行於方便對治道，次第漸除心垢，經無量阿僧祇劫，或有得至菩提或不至者。今此教諸菩薩則不如是，直以真言為乘，超入淨菩提心門。若見此心明道時，諸菩薩無數劫中所修福慧自然具足。譬如有人以舟車跋涉，經險難惡道得達五百由旬。更有一人，直乘神通飛空而度，其所經過及至到之處雖則無異，而所乘法有殊。又世尊所以先廣說如上諸心相者，為教真言門諸觀行人，若行至如是境界時則須明識，不得未到謂到，而於中路稽留也。復次如輪王太子初誕育時，眾相備足無所缺減。雖未能遍習眾藝統御四洲，然已能任持七寶，成就聖王家業。何以故？以即是輪王具體故。真言行者初入淨菩提心亦復如是，雖未於無數阿僧祇劫具備普賢眾行、滿足大悲方便，然此等如來功德皆已成就。何以故？即是毘盧遮那具體法身故。是以經云「無量無數劫乃至智慧方便皆悉成就」也。又如王子始生，又已龍神兆庶之所宗歸。初發淨菩提心亦復如是，已為天人世間迷失正道者作大歸依。若常途諸論所明，證此心時即名為佛。是故舍利弗等一切聲聞緣覺，盡其智力不能測量。經云「所謂出過一切聲聞辟支佛地」也。以行者得此心時，即知釋迦牟尼淨土不毀，見佛壽量長遠，本地之身與上行等從地踴出諸菩薩同會一處。修對治道者雖迹隣補處，然不識一人，是故此事名為祕密。又此菩薩能於畢竟淨心中，普集會十方法界諸佛菩薩，亦自能普詣十方供養諸善知識、詢求正法，唯獨自明了，諸天世人莫能知。由此因緣，復名祕密。前二劫中，雖云度二乘地，雖須菩提等，猶能承佛威神衍說人法俱空，而於此祕密一乘心生驚疑、不知所趣，乃名直過聲聞辟支佛地也。時大威德諸天，不見菩薩心所依處，咸生敬信，故釋提桓因作如是願言：「今此上人不久成佛。若彼成佛時，我當奉吉祥草。」四天王亦生此念言：「若此菩薩成佛時，我當獻鉢。」梵天王亦生此念：「若此菩薩成佛時，我當請轉法輪。」故云親近敬禮也。已歎入真言門功德竟。然行者復以何法入此門耶？故經次云「所謂空性」。空性即是自心等虛空性。上文無量如虛空，乃至正等覺顯現，即喻此心也。前劫悟萬法唯心、心外無法，今觀此心即是如來自然智，亦是毘盧遮那遍一切身。以心如是故，諸法亦如是。根塵皆入阿字門，故曰「離於根境」。影像不出常寂滅光，故曰「無相」。以心實相智覺心之實相，境智皆是般若波羅蜜，故曰「無境界」。以此中十喻望前十喻，復成戲論，故曰「越諸戲論」。第三重微細百六十心，煩惱業壽種除，復有佛樹牙生，故曰「等虛空無邊一切佛法」。依此相續生，既不壞因緣即入法界，亦不動法界即是緣起。當知因緣生滅即是法界生滅，法界不生滅即是因緣不生滅，故曰「離有為無為界」。若如來出世若不出世，諸法法爾如是住，故曰「離諸造作」。如《般若》中「一切法趣眼，是趣不過。」猶如百川赴海，更無去處。是故當知眼即是第一實際。第一實際中，眼尚不可得，何況趣不趣耶？耳鼻舌身意亦如是，故曰「離眼耳鼻舌身意」。行者得如是微細慧時，觀一切染淨諸法乃至少分猶如隣虛，無不從緣生者。若從緣生即無自性，若無自性即是本不生，本不生即是心實際，心實際亦復不可得，故曰「極無自性心生」也。此心望前二劫，猶如蓮花盛敷；若望後二心，即是果復成種，故曰「如是初心，佛說成佛因故，於業煩惱解脫，而業煩惱具依。」此中云佛說者，世尊以十方三世佛為證。言以此一事因緣，為眾生開淨知見，其道玄同也。行者解脫一切業煩惱時，即知一切業煩惱無非佛事，本自無有縛，令誰解脫耶？如良醫變毒為藥用除眾病，又如虛空出過眾相而萬像具依。若住此不思議解脫時，即是真阿羅漢，不著於有為無為，一切世間應受廣大供養。故經云「世間宗奉，常應供養」也。復次阿闍梨欲明此應供養故，統論三劫始終，作寶珠譬喻。猶如有如意寶在石礦之中，以世人不識故，棄在衢路之間，與瓦礫無異。然別寶者見有微相纔影彰於外，即便識之，先用利鐵𩀟去鈍石。既近寶王其石漸軟，復以諸藥食之，使礦穢消化，而復不傷其質。爾時麁垢已除尚有細垢，既洗以灰水、磨以淨疊，種種方便而瑩發之。既得光顯，置之高幡，能隨一切所求普雨眾物。爾時世人生奇特想，尊重是寶猶如大天，以能充滿所希願故。然此寶於一時間普應眾心，隨其所得各各差別。然此眾物，為於寶中先有耶？先無耶？若先有者，即此小珠何能頓藏眾物？若先無者，又何能頓雨眾物？即此世間寶性已不可思議，何況眾生菩提心寶耶？是故諸善知識纔見眾生世間八心適萌動時，即便識是真寶，知有可鑿之理。如彼相者以曾多識名寶，是以遇便識之。諸佛菩薩亦爾，久已證知親從一毫之善自致大菩提道。是故鑑彼情機，即大歡喜，方便誘進令受三歸，如前已分別說。譬如收彼頑石置在家中，次以三種三心拔業煩惱根無明種子，如利鐵開鑿去其麁鑛。次觀無緣乘法無我性，如漸至軟處以藥物消化而不傷之。次生極無自性心，如灰水瑩拭使極光淨。爾時生於佛家，名置在高幢雨種種寶。以此因緣故，堪受世聞廣大供養也。若行者直從真言門得見心寶，如仙人善呪術，以神力取之。雖巧拙難易不同，而獲寶終無異路。故此經從淺至深廣明心相，皆為開示菩提心本末因緣。若但依常途法相，則不得言諸佛大祕密我今悉開衍也。

經云「祕密主！信解行地觀察三心，無量波羅密多慧觀四攝法，信解地無對無量不思議，建立十心無邊智生」者，此經宗。從淨菩提心以上十住地，皆是信解中行，唯如來名究竟一切智地。如《花嚴》中，初地菩薩能信如來本行所入、信成就諸波羅密、信入諸勝地、信成就力、信具足無所畏、信生長不可壞不共佛法、信不思議佛法、信出生無中邊佛境界、信隨入如來無量境界、信成就果，於如是諸事，其心畢竟不可破壞，不復隨他緣轉，故名信解行地，亦名到於修行地也。觀察三心，即是因根究竟心。若通論信解地，則是初地菩薩得此虛空無垢菩提心時，自然於十無盡界生十大願，乃至滿足百萬阿僧祇大願，以此即是菩提心為因。從二地以去，增修大悲萬行即是無盡大願，於十法界生根，乃至漸次增長。至第八地以去，皆名方便地。《佛性論》云「八地以上境界皆同，但約方便為降階耳。」若觀一一地，亦自有三心。如以眾多十因緣得入初地，名為因緣。既安住已，以種種大悲萬行淨治是地，名為根。說淨治地果相及方便業，名究竟。餘皆准此。此經無量波羅密多四攝法，即是治地也。行者從此無有待對，出過心量不思議地，有十心無邊智生，即是初地果相也。《花嚴》云「發十大願已，則得利益心、柔軟心、隨順心、寂靜心、調伏心、寂滅心、謙下心、潤澤心、不動心、不濁心。」次又成就十種淨諸地法，所謂信慈悲捨無有疲厭，知諸經論善解世法，慚愧及堅因力，供養諸佛依教修行。復次住是地已，善知諸地障，善知地成壞，善知地相果，善知地得修，善知地法清淨，善知地轉行，善知地地處非處，善知地地殊勝智，善知地地不退轉，善知淨治一切菩薩地，乃至轉入如來地。如是等有眾多十心，若廣分別，即有百萬阿僧祇度門，故曰無邊智生也。更約前三心，作十心說之。若通論信解地，則初地為種子；二地為牙；三地為疱；四地為葉；五地為花；六地為果；七地為受用種子；八地為無畏依，所謂果中之果；九地為有進求佛地慧生，是最勝心；十地此心決定。此二心無別境界，還是於第八心中約方便轉開出之耳。若一一地中，亦自具此十心。且如住初地時，成就淨治諸地法，及知諸地相，即是先解一地竟。籍此為因，智慧增長，更解二地。以十心類例，推之可知。《花嚴》有眾多十法門，亦當准此次第廣分別說也。然此經宗，從初地即得入金剛寶藏故。《花嚴》、《十地經》一一名言，依阿闍梨所傳，皆須作二種釋：一者淺略釋、二者深祕釋。若不達如是密號，但依文說之，則因緣事相往涉於〈十住品〉；若解金剛頂十六大菩薩生；自當證知也。

經云「我一切諸有所說，皆依此而得」者，如上一切智地無盡莊嚴境界，及餘無量修多羅，佛所稱歎一切行果，無不因此得之，是故餘經如是廣歎娑羅樹王莖葉花菓。今此經中，唯明此樹王種子及生育因緣，若離此因緣能成彼果者，無有是處。所以稱大日經王者，非為此乎！經復舉益勸修云「是故智者當思惟此一切智信解地，復越一劫昇住此地。」即是初入此信解地，是復越百六十心一重細惑，名度三大阿僧祇劫也。行者初觀空性時，覺一切法皆入心之實際，下不見眾生可度、上不見諸佛可求，爾時萬行休息，謂為究竟。若住此者，即退不墮二乘地，不進得上菩薩地，名為法愛生，亦名無記心。然以菩提心勢力及如來加持力，復能發起悲願，爾時十方諸佛同時現前而勸喻之。以蒙佛教授故，轉生極無自性心，乃至心之實際亦不可得。雖解脫一切業煩惱，而業煩惱具存。至此不思議地，乃名真離二乘地也。就前三句義中，更開佛地為上上方便心。至此第四心時，名究竟一切智地，故曰「此四分之一度於信解」也。

## 大毘盧遮那成佛經疏卷第二