曇摩難提,此云法喜,兜佉勒人。齠年離俗,聰慧夙成,研諷經典,以專精致業。遍觀三藏,闇誦《增一阿含經》,博識洽聞,靡所不綜,是以國內遠近,咸共推服。少而觀方,遍歷諸國,常謂弘法之體,宜宣布未聞,故遠冒流沙,懷寶東入,以符氏建元中,至于長安。
曇摩難提という方は、漢名を法喜(ほうき)といい、兜佉勒(ときろつ)という国の出身でした。幼い頃に世俗を離れて出家し、聡明で早くから才能が開け、経典を研究し誦読して、ひたむきな努力で学業に励みました。三蔵(経・律・論)を広く学び、『増一阿含経』をそらんじることができたほどで、博識で見聞も広く、精通しない分野はないほどでした。そのため、国内外を問わず、誰もが彼を敬い、認めていました。
若い頃から各地を巡り、多くの国々を訪れましたが、いつも「仏法を広める者は、まだ聞いたことのない人々に教えを伝えるべきだ」と考えていました。そこで、遠く流砂の地を越え、貴重な教えを携えて東へ向かい、符氏の建元(けんげん)の年中に長安に到着しました。
難提學業既優,道聲甚盛,符堅深見禮接。先是,中土群經,未有四《含》,堅臣武威太守趙正,欲請出經。時慕容沖已叛,起兵擊堅,關中擾動,正慕法情深,忘身為道。乃請安公等,於長安城中,集義學僧,請難提譯出《中》、《增一》二《阿含》,并先無所出《毘曇心》、《三法度》等,凡一百六卷。佛念傳譯,慧嵩筆受,自夏迄春,綿涉兩載,文字方具。及姚萇寇逼關內,人情危阻,難提乃辭還西域,不知所終。
難提は学識が優れ、仏道における名声も非常に高く、苻堅は深く敬い厚遇した。その頃、中国にはまだ四阿含経が伝わっていなかった。苻堅の臣下である武威太守の趙正は、経典の翻訳を請願したいと望んだ。ちょうどその時、慕容沖が既に叛き、兵を挙げて苻堅を攻撃し、関中は動揺していた。趙正は仏法を敬う心が深く、身を顧みずに仏道のために尽くした。そこで安公らに請い、長安の城中で義学の僧侶たちを集め、難提に『中阿含経』と『増一阿含経』の翻訳を依頼し、さらに従来訳出されていなかった『毘曇心』『三法度』なども翻訳させた。その総数は一百六巻に及んだ。仏念が通訳を務め、慧嵩が筆録を担当し、夏から春に至るまで、実に二年間にわたって、ようやく文字として整えられたのである。その後、姚萇が関中に迫り侵攻し、人心が危惧する状況となったため、難提は西域へ帰ることを辞し、その後、彼の行方は誰も知らない。
其時也,符堅初敗,群鋒互起,戎妖縱暴,民流四出,而猶得傳譯大部,蓋由趙正之力。
その頃、符堅は初めて敗れ、あちこちで戦乱が起こり、外敵が暴れ回り、民は四方に散り散りになった。しかしそれでもなお、大きな経典の翻訳が行われたのは、ひとえに趙正の力によるものであった。
正字文業,洛陽清水人,或曰濟陰人。年十八為偽秦著作郎,後遷至黃門郎,武威太守。為人無鬚而瘦,有妻妾而無兒,時人謂閹。然而情度敏達,學兼內外,性好譏諫,無所迴避。符堅末年,寵惑鮮卑,隳於治政,正因歌諫曰:「昔聞孟津河,千里作一曲,此水本自清,是誰攪令濁。」堅動容曰:「是朕也。」又歌曰:「北園有一棗,布葉垂重陰,外雖饒棘刺,內實有赤心。」堅笑曰:「將非趙文業耶。」其調戲機捷,皆此類也。後因關中佛法之盛,乃願欲出家,堅惜而未許,及堅死後,方遂其志,更名道整。因作頌曰:「佛生何以晚,泥洹一何早,歸命釋迦文,今來投大道。」後遁迹商洛山,專精經律。晉雍州刺史郄恢,欽其風尚,逼共同遊,終於襄陽,春秋六十餘矣。
趙文業という人物は、洛陽の清水の人である。あるいは済陰の人とも言われる。十八歳で偽秦の著作郎となり、後に黄門郎、武威太守にまで昇進した。その人は髭がなく痩せており、妻や妾はいたが子供がなかった。当時の人々は宦官ではないかと噂した。しかし、その人の機知と度量は敏捷で優れており、学問は内外に通じていた。また、風刺や諫言を好み、遠慮することがなかった。
符堅の治世の末期、鮮卑を寵愛し惑わされて政治が乱れた。そこで趙文業は歌をもって諫めた。「昔、孟津の河を聞けば、千里を行けば一つの曲がりがあるという。この水はもともと清らかだったのに、誰がかき混ぜて濁らせたのか。」これを聞いて符堅は顔色を変えて言った。「それは我のことだ。」さらに彼は歌った。「北の園に一本の棗の木がある。葉を広げ影を落とす。外は棘だらけだが、内には実に赤い心がある。」符堅は笑って言った。「まさか趙文業のことではないか。」その機知に富んだ冗談や言葉遊びは、すべてこのような類のものであった。
その後、関中で仏法が盛んになるのを見て、出家を望んだが、符堅は惜しんで許さなかった。符堅が亡くなって初めてその志を遂げ、道整と改名した。そして偈を詠んだ。「仏が生まれたのはどうしてこれほど遅かったのか。涅槃に入られたのはどうしてこれほど早かったのか。釈迦文仏に帰命し、今この大道に帰ってきた。」
その後、商洛山に身を隠し、経典や戒律の学びに専心した。晋の雍州刺史である郄恢がその風格を敬慕し、無理に同道を求めて共に遊んだが、最終的に襄陽で亡くなった。享年は六十余りであった。