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title: "六度集經 · 76 〔菩薩得禪〕"
description: "六度集经由三国时期吴国高僧康僧会编译，成书于公元3世纪。该经书主要辑录佛陀本生及修行故事，系统阐述大乘佛教的核心实践体系——布施、持戒、忍辱、精进、禅定、智慧六种度脱生死的方法。作为早期汉传大乘佛教的重要经典，它首次系统地将六度思想完整引入中土，对中国佛教伦理实践和菩萨道精神的形成具有奠基性作用。该经既是研究汉魏佛教传播的关键文献，也是修行菩萨道的重要指南。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmdztnkmi00tcl404n82pz3wk"
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### （七六）

> 第七十六章

「菩薩志道，凡以幾事，能令內淨心一得禪？或見老者，頭白齒落形體變異，覩之意悟曰：『吾後必然。』一心得禪。或覩病者身心困痛，猶被杖楚。悵然悟曰：『吾後必然。』一心得禪。或覩眾生壽命終訖，息絕熅逝，神遷身冷，九族捐之，遠著外野，旬日之間胮脹爛臭，或為狐犬眾鳥所噉，肌肉生蟲，蟲還食身，膿血惡露滂沱流地，骸骨解散，節節異處，足趺脛髀，尻脊脇臂，頭齒髑髏，各自分離。道人念曰：『夫生有死，人物猶幻，會即有離，神逝體散。吾豈得止，獨不如彼乎？』覩之愴然，一心得禪。或見久死體骨消滅，泥土同塵。深自惟曰：『吾體方爾。』一心得禪。或以聞太山湯火之毒、酷裂之痛，餓鬼飢饉積年之勞，畜生屠剝割截之苦，存之愕然，一心得禪，或見窮凍餓死，或見履非之人為王法所戮。道人念曰：『斯人遭患由無道志，吾不精進必復如彼也。』一其心得禪。深惟內觀，下即為𡱁尿所迫，上即為寒熱所愶，覺身可惡，一心得禪。或見惡歲五穀不豐，民窮為亂更相挌戰，死屍縱橫，覩之愴然：『吾不為道必復如之。』一其心得禪。覩盛有衰榮財難保，少壯有老病壽猶電光，憶之愕然，一其心得禪。念佛巍巍相難雙矣，皆由清淨致為眾祐，存之欣然，一其心得禪。念經深義，沙門高行，一其心得禪。惟身行善，前後積德，一其心得禪。惟愚所求違佛明法，勞而益罪，諸天處世守戒奉齋，自致升天榮壽無量，一其心得禪。受佛深經反覆思之，為眾訓導，中心歡喜，一其心得禪。存憶眾生有成輙壞，壞皆苦痛，惟之愴然，一其心得禪。眾生之性莫能自保，來始之變，道人自懼，命盡卒至，或墮惡道，視世榮樂真偽如夢，志重醒悟，一其心得禪。諸食入口與涕唾澆灒，外好內臭化成屎尿，憶之可惡，一其心得禪。兒在母腹，初如凝粥，以漸長大，三十八七日，身體皆成，臨生之難，多危少安。既生之後，諸病並進，或一或十、或五十至百年，皆當老死無免斯患，惟己亦然，一其心得禪。有存即滅，尋之無處，三界皆空，志無貪慕，悲念眾生不覩佛經，邪欲所蔽無知非常，誓願拯濟，一其心得禪。

> 菩薩が道を志すにあたり、心を清らかに保ち、一つの心で禅定を得るための方法とは何でしょうか。 ある時は、老いた人を見て、白髪や抜け落ちた歯、衰えた姿に気づき、「自分も後には必ずこうなるのだ」と悟り、一心に禅定に入る。 ある時は、病人の心身の苦しみ、まるで鞭で打たれるような痛みを見て、嘆き悲しみながら「自分も後には必ずこうなるのだ」と悟り、一心に禅定に入る。 ある時は、命尽きた衆生を見る。息が絶え、温もりがなくなり、魂が去り、身体が冷たくなる。親族はそれを捨て、遠くの野原に置き去りにする。十日も経てば、身体は膨れ上がり、腐って悪臭を放ち、狐や犬、鳥たちに啄まれる。肉には虫が湧き、虫はその身を食べ、膿や血が地面に流れ出す。骨は崩れ、關節はあちこちに離れ、足の甲、脛、腿、尻、背骨、脇、腕、頭、歯、頭蓋骨がそれぞれ分かれてしまう。 修行者はこう思う。「生あるものには死がある。人も物も幻のようなものだ。出会いがあれば必ず別れがあり、魂は去り、体は散る。私はどうしてこのまま留まり、彼らのようにならずに済むだろうか？」と。それを見て心を痛め、一心に禅定に入る。 ある時は、古い死体の骨が消え去り、土や塵と同化しているのを見る。深く考えて「自分の体もまさにこうなるのだ」と悟り、一心に禅定に入る。 ある時は、地獄での熱湯や火の苦しみ、激しい痛み、餓鬼として長年飢えに苦しむ境遇、畜生生まれでの屠殺や切り刻まれる苦しみを聞き、それに驚愕して一心に禅定に入る。 ある時は、貧しく凍え飢え死にする者を見る。また、過ちを犯した者が王法によって処刑されるのを見る。修行者は思う。「この人々が苦難に遭うのは、道を志さなかったからだ。私が精進しなければ、必ずや彼らのようになるだろう。」と。一心に禅定に入る。 深く内観すれば、下は大小便に追い立てられ、上は寒さ暑さに脅かされる。この身がいかに嫌悪すべきものであるかを覚り、一心に禅定に入る。 ある時は、不作で五穀が実らず、民が貧窮して乱を起こし、互いに争い戦い、死体が縦横に横たわるのを見る。それを見て嘆き悲しみ、「私が道を行わなければ、必ずやこのようになるだろう」と一心に禅定に入る。 盛りには衰えがあること、富や名誉は長く保ちがたいこと、若さには老いと病があること、寿命は稲妻のようなものであることを見て、思い起こし愕然とし、一心に禅定に入る。 仏の崇高なお姿は比べるものがないこと、すべては清らかさによって得られ、多くの人々の拠り所となられることを念じ、それを思い喜び、一心に禅定に入る。 経典の深い義理や、沙門の高潔な行いを思い、一心に禅定に入る。 身の良い行い、過去に積んだ徳を思い、一心に禅定に入る。 愚か者が求めるものは仏の明確な教えに反し、労多くして罪を増すことを思い、一心に禅定に入る。 天人が世に在りながら戒を守り斎を修め、自ら天に昇って栄えある寿命無量の果報を得ることを思い、一心に禅定に入る。 仏の深い経典を受け取り、繰り返し考え、多くの人々のために教え導き、心に歓喜を生じて、一心に禅定に入る。 衆生は存在すれば必ず壊れ、壊れる時はすべて苦しみであることを思い、それを悼み悲しみ、一心に禅定に入る。 衆生の性質は自らを保つことができず、様々な変化が起こることを知り、修行者は自ら恐れる。命が尽きる時は突然訪れ、悪道に堕ちることもある。世の栄華や楽しみが真実のように見えて実は夢のごとくであることを観じ、心を目覚めさせて一心に禅定に入る。 すべての食べ物は口に入れば唾や鼻水と混ざり、外側は良くても内側は臭く、やがて大小便となる。それを思い嫌悪し、一心に禅定に入る。 子どもは母の胎内にあり、最初は粥のように固まったものから、徐々に成長し、三十八週七日目に身体がすべて形成される。出産の時は難しく、危険が多く安らかは少ない。生まれた後は様々な病が次々と襲い、一年、十年、五十年、百年と生きても、皆老いて死に、この患いを免れる者はない。自分もまた同様であることを思い、一心に禅定に入る。 存在すれば必ず滅び、そのありかを尋ねても見当たらない。三界すべては空であり、心に貪りや執着はない。しかし、経典を見ることのできない衆生を悲しみ、彼らは邪な欲望に覆われて無常を知らず、誓って彼らを救済しようと願い、一心に禅定に入る。

「志成行高，懷四等心愍育眾生，猶若慈母哀護幼兒，兒隨輩熙戲，母以慈心行索，覩兒為泥塵所污，飢渴啼呼。覩兒若茲，悲淚抱歸，洗浴衣食，身康心悅，慈母歡喜，愛攝徘徊不捨如前。道人慈悲愛護眾生，踰彼慈母，教天下人蜎飛蚑行蠕動之類，奉佛覩經，親沙門眾，採執佛戒懷而行之，遠離三惡，心念善、口言善、身行善，抑上三惡，永興三善，長不令更太山、地獄、餓鬼、畜生窮苦險處。安以無極之福堂，尋復追誨，懼其處福為之憍蕩，恣縱惡心還處三塗，亦榮祿之禍，非常苦空之變以誡之也。勸取無為，如彼慈母攝護之意也。

> 志を立て、行いを高め、四等心（慈・悲・喜・捨）を抱いて生きとし生けるものを慈しみ育てることは、まるで慈母が幼子を哀れみ守るようなものです。子どもが仲間と遊び回る中で、母は慈しみの心で探し求めます。わが子が泥や埃にまみれ、飢えや渇きで泣き叫んでいるのを見れば、母は悲しみの涙を流して抱き帰り、体を洗い、衣服を着せ、食事を与えます。そうすれば子は心身ともに健やかになり、慈母は喜び、愛おしんで離れずに以前のように守り慈しみます。 道を求める者は、生きとし生けるものに対する慈しみの心が、この慈母よりもさらに勝っています。世の中の人々や、這うもの、飛ぶもの、動くものすべてに、仏を敬い、経典を拝読し、僧侶に親しみ、仏の戒めを受け持って実践するよう教えます。そうして三悪道（地獄・餓鬼・畜生）から遠ざかり、心に善を思い、言葉に善を語り、身に善を行うことで、三悪を抑え、三善を永く行い、再び地獄・餓鬼・畜生といった苦しみの険しい境遇に陥ることがないようにします。 さらに、無限の幸せの世界に安らかに導いた後も、その幸せに驕り高ぶり、心の悪に任せて再び三悪道に落ちることがないよう、また、名誉や繁栄の不幸や、すべては無常で苦しく空しいものであるという真理を教えて戒めとします。そして、執着のない境地（涅槃）を勧めるのです。これが、あの慈母が子を守り慈しむ心と同じなのです。

「思十六事，一其心得禪。何謂十六？喘息長短即自知，喘息動身即自知，喘息微著即自知，喘息快不快即自知，喘息止走即自知，喘息歡慼即自知，自惟萬物無常喘息自知，萬物過去不可追得喘息自知，內無所思棄捐所惟喘息自知，放棄軀命不棄軀命喘息自知。道人深思，有是即得是，無是不得是，夫生必有老死之患，魂靈不滅即更受身。不生即無老，不老即無死，念是一其心得禪。道人以眼觀世生死，但以十二因緣，念此一其心得禪。

> ■ 十六の事を思うことで、心を一つにして禅定を得る。その十六とは何か。 呼吸の長短をそのまま知る。呼吸が身体を動かすのをそのまま知る。呼吸が微かであるか顕著であるかをそのまま知る。呼吸が速いか遅いかをそのまま知る。呼吸が止まり、また流れ出すのをそのまま知る。呼吸に伴う喜びや悲しみをそのまま知る。万物は無常であると自ら考え、呼吸と共にそれを知る。万物は過ぎ去り、再び追い求めることはできないと呼吸と共に知る。内に思うことなく、すべての思いを手放すことを呼吸と共に知る。この身を捨てることも、捨てないことも、呼吸と共に知る。 道人は深く考える――これがあればこれを得、これがなければこれを得ない。生まれる者には必ず老いと死のわざわいがある。魂（意識）は滅びず、新たな身を受ける。しかし生まれなければ老いはなく、老いなければ死もない。これを念じて心を一つにし、禅定を得る。 道人は眼をもって世の生死を見るが、ただ十二因縁（十二支の縁起）によって見る。これを念じて心を一つにし、禅定を得る。

「道人以五事自觀形體：一曰自觀面類數變，二曰苦樂數移，三曰志意數轉，四曰形體數異，五曰善惡數改。是謂五事。數有變異猶如流水前後相及，念此一其心得禪。道人念禪當云何？目見死人自頭至足，諦思熟視存想著心，行坐臥起飯飲萬役，常念著心以固其志，得禪自在所念。譬如人炊數斛米飯欲知熟未，直取一米捻𭶥視之，一米熟者明餘者皆熟。道志若茲，心之迴走，猶水之流，道人直念一事，心停意淨，應儀真道，滅度可得。

> 修道者は五つのことによって自らの姿を観察する。第一に、自分の顔つきがしばしば変わることを観察すること。第二に、苦しみと喜びがたびたび移り変わること。第三に、心の思いが何度も変わること。第四に、からだの様子がしばしば異なること。第五に、善悪が何度も変わること。これを五つのことという。これらの変化が絶え間なく起こるのは、流れる水が前の流れと後の流れが続いているようなものである。これを思って心をひとつにすれば、静かな悟りを得ることができる。 修道者が静かな悟りを思うには、どうすればよいのか。目で死んだ人を見て、頭から足までをよく観察し、心にしっかりととどめて思い描く。歩いていようと、座っていようと、横になっていようと、起きていようと、食事をしていようと、あらゆる行いの最中も、常にそのことを心に刻んで志を固くすれば、思いのままに静かな悟りを得ることができる。 たとえば、人が何升ものご飯を炊くとき、それが炊けたかどうかを知ろうとして、一粒の米を取り出して押しつぶして見る。その一粒が炊けていれば、他の米もすべて炊けていることは明らかである。修道者の志もこれと同じである。心があちらこちらと走るのは、水が流れるようなものだ。修道者はただ一つのことに心をとどめ、心を落ち着け、思いを清らかにすれば、真実の道にかなって悟りの境地に達することができる。

「第一之禪欲得應儀，可得不？曰

> 第一の禅において、阿羅漢の位を得ようと欲するならば、それは可能でしょうか？答えはこうです。

「中有得者有不得者。何行能得？何行不得？於一禪中，有念有愛，道則不成。天地無常，虛空難保，盡內穢垢，無貪愛念，志淨如斯，應真可得。二三至四，執心當如一禪。志存一禪未得應儀，命終可趣，即上七天受壽一劫；在二禪終，上十一天受壽二劫；處三禪終，上十五天受壽八劫；處四禪終，上十九天壽十六劫。

> 中有（ちゅうう）にて得る者あり、得ざる者あり。何の行によりて得、何の行によりて得ざるか。 一禅に念と愛とあれば、道は成らず。天地は常住ならず、虚空も保ち難し。内なる穢れや垢を尽くし、貪りの念なく、心の清らかさこのごとくなれば、応真（あらはん）を得べし。 二、三より四に至るも、心を一つに保つこと、一禅のごとくせよ。 心を一禅に留めて未だ応儀（あらはん）を得ざれば、命終わりて趣くところ、すなわち七天に上り、寿命一劫を受く。 二禅にて終われば、十一天に上り、寿命二劫を受く。 三禅にて終われば、十五天に上り、寿命八劫を受く。 四禅にて終われば、十九天に上り、寿命十六劫を受く。

「道人自觀內體惡露都為不淨，髮膚髑髏皮肌，眼瞬涕唾，筋脉肉髓，肝肺腸胃，心膽脾腎，屎尿膿血，眾穢共合乃成為人。猶若以囊盛五穀也，有目瀉囊，分別視之，種種各異。明人如此內觀其身，四大種數各自有名都為無人，以無欲觀乃覩本空，一其心得禪。

> 修行者は自身の体を内観し、体内のあらゆる不浄なものをありのままに観察します。髪の毛、皮膚、頭蓋骨、皮や肉、まばたきの際の涙やよだれ、血管や筋、骨髄、肝臓、肺、胃や腸、心臓、胆のう、脾臓、腎臓、尿や便、膿や血――これらの数々の不浄なものが集まって、はじめて人は成り立っています。 例えるなら、袋に五種類の穀物を入れたようなものです。目のある者がその袋をあけ、中身を一つひとつ取り出して見分ければ、それぞれに異なるものだとわかります。賢者はこのようにして自身の体を内観し、地・水・火・風という四大要素がそれぞれ異なる要素として存在することを知り、そこに「私」と呼べる固定した実体はないと悟ります。欲望のない観察によって、本来の空（くう）を目の当たりにし、心を一つにして禅定を得るのです。

「道人深觀別身四大，地水火風。髮毛骨齒，皮肉五藏，斯即地也。目淚涕唾，膿血汗肪，髓腦小便，斯即水也。內身溫熱主消食者，斯即火也。喘息呼吸，斯即風也。譬如屠兒殺畜刳解，別作四分具知委曲。道人內觀分別四大，此地彼水，火風俱然，都為無人，念之志寂，一其心得禪。道人自覺喘息長短，遲疾巨細皆別知之，猶人削物自知深淺，念息如此，一其心得禪。菩薩禪度無極一心如是。」

> 修行者は深く観察する。この身体は四大元素、すなわち地・水・火・風から成り立っている。髪の毛、骨、歯、皮膚、肉、五臓（肝・心・脾・肺・腎）は、これすなわち地の要素である。涙、鼻水、唾液、膿血、汗、脂肪、髄、脳、小便は、これすなわち水の要素である。身体の内側の温かさで消化を司るものは、これすなわち火の要素である。息を吸い吐く呼吸は、これすなわち風の要素である。 例えるならば、屠畜師が獣を屠り、その内臓を取り出し、四分し、それぞれの部分を詳しく知っているようなものだ。修行者は内観によって四大を分別し、「これは地、これは水、火も風も同様である」と観じ、そこには実体としての「私」はいないと見極める。そのように心を寂静に保ち、一つの境地に心を統一して、禅定を得る。 修行者は自らの呼吸に気づき、その長短、速さ、細かさ、粗さをすべて明確に知覚する。あたかも人が物を削るとき、その深さを自ら知るのと同じである。そのように息を観じ、一つの境地に心を統一して、禅定を得る。 菩薩の禅定は限りなく深く、このように一心に行われる。