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title: "大般涅槃經疏 · 14 鳥喻品(一二)"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55w9ay00mojo04am7rsr82"
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### 鳥喻品

> 鳥のたとえ

河西云：〈文字〉、〈鳥〉、〈月〉三品，同明真應。文字半滿只是鳥喻常無常。常無常只是月喻隱顯，因字識理達常無常能隱能顯。今更次之，如來常依二諦三諦說法，故知文字是佛教，即文字達三諦，具足一教一切教。欲顯圓滿修多羅，故題文字品。次鳥喻者，依教立行，即雙流行二行，並觀一行一切行。下文云「復有一行是如來行。」次文字之後明二鳥共行，故成次第。亦是依教生智，智望於教，教即成境，由境發智，由智立行，教轉成境，智轉成行，故為次第。此品答云何共聖行娑羅迦隣提。此還舉鳥以況於行以為答問。能喻是娑羅迦隣提，所喻是雙流共行。舊解不同，或言娑羅是雙，迦隣是鳥。然娑羅翻為堅固，何得言雙？或言娑羅是一隻，隣提是一隻。此乃兩類，不得是雙。或言娑羅一雙，迦隣提一雙，引下文云「鳥有二種，一名鴛鴦、二名隣提。」此乃兩類為兩雙。或言娑羅翻為鴛鴦，問中問娑羅，答中答鴛鴦，類異義同，乃以鴛鴦替於娑羅。或言隣提無翻，或翻為天鶴，引六卷云「雁鶴舍利」。然漢不善梵音，只增爭競，意在況喻取其雌雄共俱飛息不離，以況一中無量、無量中一，非一非無量而一而無量，呼為雙流，乃名共行。問：為凡與凡共行？聖與聖共行？凡與聖共行？他解云：觀生死無常，不識涅槃常。觀涅槃常，不識生死無常。二解不明，如但識金不識鍮、但識鍮不識金。若精識二物，乃是雙觀苦樂，我無我亦如是。聖如是行，凡亦如是，故言共行。此不應爾，與譬相違，譬明二鳥俱游。如汝所釋，一鳥窮下之生死、一鳥窮高之涅槃，升沈碩乖，雙游不顯。假令二鳥但雙游下不雙游高、游高不游下，雙游不成。又一家引半滿約一法，雙游約二法。若取生死無常、佛果是常共為滿者，兩物各異、梨柰體別，安得是滿？夫雙游者，觀生死中有常無常，觀佛果中亦常無常，取生死涅槃兩常為一雙滿，取生死涅槃兩無常為一雙半，即是兩法共起，乃曰雙游。今明義皆不爾。兩常俱起乃是二雄俱飛，兩無常起乃是二雌並飛，與譬相背，雙游不成。今言雙游者，生死具常無常，涅槃亦爾，在下在高雙飛雙息，即事而理、即理而事，二諦即中、中即二諦，非二中而二中，是則雙游義成，雌雄亦成。事理雙游其義既成，名字觀行乃至究竟雙游皆成，橫竪具足無有缺減。此中備有凡凡共行、凡聖共行、非凡非聖共行，約人法分別俱成。以是義故，故言鳥喻品。

> 河西は言う。「文字」「鳥」「月」の三つの品は、同じく真実の応用を明らかにしている。文字の半満はただ鳥の譬えで常と無常を表し、常と無常はただ月の譬えで隠れと顕れを表す。文字によって理を識り、常と無常に達し、隠れることも顕れることもできる。今さらに順序を整えると、如来は常に二諦と三諦に依って説法する。故に文字は仏の教えであることを知り、文字によって三諦に達し、一つの教えがすべての教えを具足する。円満な修多羅を顕わすために、文字品と題する。次に鳥の譬えは、教えに依って行いを立て、双流を行じて二つの行いを並べて観じ、一つの行いがすべての行いとなる。下文に「また一つの行いは如来の行いである」とある。文字の後に二つの鳥が共に行うことを明らかにするので、順序が成り立つ。また教えに依って智慧が生じ、智慧が教えを見ると、教えはそのまま境となり、境によって智慧が発し、智慧によって行いが立てられる。教えが転じて境となり、智慧が転じて行いとなるので、順序となる。この品は「いかにして聖なる行いと共にするか、娑羅迦隣提」と答えている。これは鳥を挙げて行いに譬え、問いに答えている。譬えるものは娑羅迦隣提であり、譬えられるものは双流の共行である。古い解釈は様々で、あるいは娑羅は双を、迦隣は鳥を意味すると言う。しかし娑羅は堅固と訳されるので、どうして双と言えようか。あるいは娑羅は一羽、隣提は一羽と言う。これは二種類であって、双とは言えない。あるいは娑羅が一対、迦隣提が一対と言い、下文を引いて「鳥には二種類あり、一つは鴛鴦、二つは隣提」とある。これは二種類が二対となる。あるいは娑羅は鴛鴦と訳され、問いでは娑羅を問い、答えでは鴛鴦を答え、種類は異なるが意味は同じで、鴛鴦をもって娑羅に替えると言う。あるいは隣提には訳がなく、あるいは天鶴と訳し、六巻を引いて「雁鶴舍利」とある。しかし漢人は梵音に詳しくなく、ただ争いを増すのみで、意味は譬えにあり、雌雄が共に飛び休み離れないことを取り、一の中に無量、無量の中に一、一でもなく無量でもなく、しかも一であり無量であることを譬え、双流と呼び、共行と名付ける。問う：凡夫と凡夫が共に行うのか、聖者と聖者が共に行うのか、凡夫と聖者が共に行うのか。他の解釈では、生死の無常を観じて涅槃の常を識らず、涅槃の常を観じて生死の無常を識らない。二つの解釈が明らかでないのは、ただ金を識って鍮を識らず、ただ鍮を識って金を識らないようなものだ。もし二つの物を精しく識れば、それは苦と楽を双観することであり、我と無我もまた同じである。聖者はこのように行い、凡夫もまたこのようであるから、共行と言う。これはそうあるべきではなく、譬えに背く。譬えは二つの鳥が共に遊ぶことを明らかにしている。あなたの解釈によれば、一つの鳥は下の生死に窮し、一つの鳥は上の涅槃に窮し、昇り沈みが大きく隔たり、双游が顕わされない。仮に二つの鳥がただ下を双游し上を双游せず、上を游び下を游ばなければ、双游は成り立たない。また一家は半満を一法に約し、双游を二法に約する。もし生死の無常と仏果の常を取って共に満とするなら、二つの物はそれぞれ異なり、梨と柰は体が別であるから、どうして満と言えようか。双游とは、生死の中に常と無常があることを観じ、仏果の中にも常と無常があることを観じ、生死と涅槃の二つの常を取って一つの双満とし、生死と涅槃の二つの無常を取って一つの双半とし、つまり二つの法が共に起こることを双游と言う。今明らかにするに、これらの義はすべてそうではない。二つの常が共に起こるのは二つの雄が共に飛ぶことであり、二つの無常が起こるのは二つの雌が並んで飛ぶことであり、譬えに背き、双游は成り立たない。今双游と言うのは、生死は常と無常を具え、涅槃もまた同じで、下にあっても上にあっても双飛双息し、事のままに理であり、理のままに事であり、二諦は即ち中であり、中は即ち二諦であり、二つの中ではなくて二つの中である。これによって双游の義が成り立ち、雌雄もまた成り立つ。事理の双游が成り立つなら、名字観行から究竟までの双游がすべて成り立ち、横にも縦にも具足して欠けることがない。ここには凡夫と凡夫の共行、凡夫と聖者の共行、非凡非聖の共行が備わり、人と法によって分別してもすべて成り立つ。この義によって、鳥喩品と言うのである。

文為二：先總、次別。總又二：初略、後論義。略中，先譬、後合。初譬中舉二鳥譬常無常而合文，以苦無我合者但是略耳。私謂：又顯義同，是故互出，具論應六。次論義中，先問、後答。答中，先法、後譬。初法中言異法是苦是樂者，舊云：生死異涅槃、涅槃異生死，故言苦樂。觀師言：前多斥倒，約竪以論常與無常；今品一時明常無常，只生死中有異法而說苦，有異法而說樂，乃至我無我亦如是。後譬五穀各異，成前異意。下別譬中云華葉無常而果是常者，非常住常。言華葉不定故無常，果已定故是常，借此以顯無常成常。從「如是諸種」去，別說共行，又為三：一就生死明無常、二就涅槃明無我、三雙就生死涅槃以明苦樂。然前兩是橫、後一是竪，理應備論，但文互現。初文又二：初正明二行、次結章。初正明中，舉五譬。初譬又二：先譬、次合。譬又三：一譬、二論義、三領解。初萌芽譬生死中無常，熟時譬生死中常。次論義，二：先問、次答。答中明生死常與如來常異。三「迦葉」下，領解，又二：先領解、次述成等，皆可見云云。「善男子雖修一切」下，二合譬。未聞是經皆言無常，聞是經已皆云是常，豈非生死中具常無常。契經諸定者，修多羅翻名為契經，又是定藏，故言諸定。後四譬皆有合。次譬云金朴者，玉未理者名璞，金未理者亦名朴，此有木邊玉邊之異。金未理者亦名礦，礦者異金名也云云。招提呼為朴音，觀師呼為礦音，然朴字兩喚云云。「是故我言」下，第二結章。正應明常無常，而復結言無我，欲明例爾。

> まず全体を二つに分けます。総説と別説です。総説もまた二つに分かれます。最初に略説し、後に意義を論じます。略説の中では、まず譬えを挙げ、後に合わせます。最初の譬えでは二羽の鳥を挙げて、常と無常を譬え、それを合わせる文では、苦と無我を合わせていますが、これはただ略説したにすぎません。私の考えでは、また意義が同じであることを示すために、互いに示し出しているのであり、詳しく論じるならば六つあるべきです。次に意義を論じる中では、まず問い、後に答えています。答えの中では、まず法を説き、後に譬えを説いています。最初の法の中で「異法はこれ苦でありこれ楽である」と言うのは、古い解釈では、生死は涅槃と異なり、涅槃は生死と異なるので、苦と楽と言うのです。観師は言いました。前には多く倒れた見方を斥けて、竪に常と無常を論じた。今この品では一時に常と無常を明らかにする。ただ生死の中に異なる法があって苦と言い、異なる法があって楽と言い、さらには我と無我もまたこの通りである、と。後の五穀がそれぞれ異なるという譬えは、前の「異なる」という意味を成り立たせています。下の別の譬えの中で「華や葉は無常であるが果はこれ常である」と言うのは、常住の常ではありません。華や葉は定まらないから無常であり、果はすでに定まっているから常であると言い、これを借りて無常が常を成り立たせることを示しています。「如是諸種」から後は、別に共行を説き、また三つに分かれます。一つには生死について無常を明らかにし、二つには涅槃について無我を明らかにし、三つには生死と涅槃の両方について苦と楽を明らかにします。しかし前の二つは横であり、後の一つは竪であり、理としては詳しく論じるべきですが、ただ文が互いに現れています。最初の文もまた二つに分かれます。最初に二つの行を正しく明らかにし、次に章を結びます。最初の正しい明示の中で、五つの譬えを挙げます。最初の譬えもまた二つに分かれます。まず譬え、次に合わせます。譬えもまた三つに分かれます。一つに譬え、二つに意義を論じ、三つに領解です。最初の萌芽の譬えは生死の中の無常を譬え、熟する時は生死の中の常を譬えています。次の意義を論じる中は二つです。まず問い、次に答えです。答えの中で生死の常と如来の常が異なることを明らかにしています。三つ目に「迦葉」以下は領解であり、また二つに分かれます。まず領解し、次に述成など、いずれも見ての通りです<note>云云</note>。「善男子、たとえ一切を修めても」以下は、二つ目の合わせの譬えです。この経を聞かない者は皆無常と言い、この経を聞いた後は皆常であると言う。どうして生死の中に常と無常の両方が備わっていないことがありましょうか。契経と諸定については、修多羅は訳して契経と名付け、また定蔵であるので、諸定と言います。後の四つの譬えには皆合わせがあります。次の譬えで「金朴」と言うのは、玉でまだ加工していないものを璞と言い、金でまだ加工していないものもまた朴と言い、これには木偏と玉偏の違いがあります。金でまだ加工していないものはまた鉱とも言い、鉱とは金とは異なる名称です<note>云云</note>。招提は朴の音と呼び、観師は鉱の音と呼びますが、朴の字は二通りに呼びます<note>云云</note>。「是故我言」以下は、第二に章を結びます。まさに常と無常を明らかにすべきなのに、また無我と結んでいるのは、例としてそうであることを明らかにしたいからです。

「迦葉白佛」下，第二就涅槃以明無我我二行，無憂悲即有我，有憂悲即無我。文為二：先問、後答。問為二：正問、結問。一往謂是無端之問。然佛說涅槃亦有無常，無常是有為，有為即憂悲。今問憂悲，是問涅槃有無常不？佛答，為四：一釋問、二歎理、三重釋問、四重歎理。初文二：先譬、後合。譬中三：先正作譬、次更為譬作譬、三還以譬合譬。初云無想天者是譬。次更舉樹神譬顯無想譬，即是為譬作譬。「佛法亦爾」下，以譬合譬。二「復次善男子無想天」下，歎理甚深，先譬、次合。如來實無憂悲，但於無中說有。眾生有苦未得脫難，見佛有苦，既其有苦即有憂悲。佛斷苦因受第一樂，復無憂悲，有憂即無我，無憂即有我。若應物云如來有憂，實理即無。今問既示有悲，亦應有苦。如來心地不念眾生，應是無苦。問如來實無憂喜，汝何以云如來實喜？今亦反問佛無憂喜，何以定云如來無憂？我說如來實非憂喜，義說憂悲，此是不定之言。三「譬如空中」下，重釋問兩譬，先舉舍住譬、次舉幻師譬，皆先譬次合。初譬中有二：前為法作譬。「心亦如是」下，即為譬作譬。後復舉無想天壽，亦為譬作譬。「如來憂悲」下，正是合譬。「如幻師」下，次譬二譬合。「如來有憂及以無憂」下，重歎理，又四：一法、二譬、三合、四結。此即法說。「譬如下人」下，第二譬說。若依毘曇，有三種度義：一人度、二根度、三地度。下果不知上果，上果能知下，即是人度。鈍根不知中上，中上能知下，即是根度。初禪不知上禪，上禪能知下禪，即地度。成論不爾，互有知義，明獼猴尚見佛心，豈有鈍根不能知利？今亦有少分故知，亦得言知；不能具足知，故亦言不知。三合譬、四結，可尋。

> 「迦葉が仏に申し上げた」以下の部分は、次に涅槃について、無我と我の二つの行を明らかにする。憂い悲しみがなければ我があり、憂い悲しみがあれば無我である。文は二つに分かれる。まず問い、後に答えである。問いは二つに分かれる。正式な問いと、結びの問いである。一見すると、とりとめもない問いのように思える。しかし仏が説く涅槃にもまた無常があり、無常は有為であり、有為とはすなわち憂い悲しみである。今、憂い悲しみを問うのは、涅槃に無常があるかどうかを問うているのである。仏の答えは四つに分かれる。一に問いを解き、二に理を讃嘆し、三に重ねて問いを解き、四に重ねて理を讃嘆する。最初の文は二つに分かれる。まず譬え、後に合わせる。譬えの中は三つに分かれる。まず正しく譬えを作り、次にさらに譬えのために譬えを作り、三にその譬えをもって譬えに合わせる。最初に「無想天」というのは譬えである。次にさらに樹神の譬えを挙げて無想の譬えを明らかにする。これが譬えのために譬えを作るということである。「仏法もまたそのとおりである」以下は、譬えをもって譬えに合わせる。二つ目、「また次に善男子、無想天」以下は、理の甚深なることを讃嘆する。まず譬え、次に合わせる。如来には実に憂い悲しみはない。ただ無の中で有を説くのである。衆生には苦しみがあり、まだ解脱を得られない。仏に苦しみがあるのを見て、苦しみがある以上は憂い悲しみがあると思う。仏は苦しみの因を断ち、第一の楽を受けており、また憂い悲しみはない。憂いがあれば無我であり、憂いがなければ我である。もし相手に応じて如来に憂いがあると言うならば、実の理としては無である。今、問いにおいて既に悲があることを示したならば、また苦もあろう。如来の心は衆生を念じないならば、苦はないはずである。如来には実に憂いも喜びもないのに、あなたはなぜ如来には実に喜びがあると言うのか、と問う。今また逆に、仏に憂いも喜びもないのに、なぜ如来には憂いがないと定めて言うのか、と問う。私が説くところでは、如来は実に憂いでも喜びでもなく、意味の上で憂い悲しみを説くのである。これは定まらない言葉である。三つ目、「たとえば空中に」以下は、重ねて二つの譬えで問いを解く。まず舎住の譬えを挙げ、次に幻師の譬えを挙げる。いずれもまず譬え、次に合わせる。最初の譬えの中は二つに分かれる。前は法のために譬えを作る。「心もまたそのとおりである」以下は、譬えのために譬えを作る。後にまた無想天の寿命を挙げるのも、譬えのために譬えを作るのである。「如来の憂い悲しみ」以下は、まさに譬えを合わせるのである。「幻師のごとく」以下は、次の譬えで二つの譬えを合わせる。「如来に憂いがあり、また憂いがない」以下は、重ねて理を讃嘆する。また四つに分かれる。一に法、二に譬え、三に合わせ、四に結びである。これが法説である。「たとえば下人」以下は、第二の譬え説である。毘曇に依れば、三種の度の義がある。一に人度、二に根度、三に地度である。下の果は上の果を知らず、上の果は下を知ることができる。これが人度である。鈍根は中や上を知らず、中や上は下を知ることができる。これが根度である。初禅は上の禅を知らず、上の禅は下の禅を知ることができる。これが地度である。成論はそうではない。互いに知る義があり、獼猴でさえ仏の心を見ることができると明かす。どうして鈍根が利根を知ることができないことがあろうか。今また少分を知るがゆえに知と言い、具足して知ることができないがゆえに知らずとも言う。三に譬えを合わせ、四に結ぶことは、尋ねれば分かるであろう。

「復次善男子」下，第三雙就生死涅槃以明苦樂，即是竪論。文中有二：先釋、後論義。就初釋中三，謂譬、合、結。此即譬說。二鳥喻法身，子譬眾生，盛夏水長譬起倒。選擇高原者，病無常即須常藥，常為高原。病常即無常為藥，以無常為高原，即是非常非無常，常無常具足能離諸倒。為長養者，譬令其解常無常理。然後隨本安隱而游，譬如來度訖，然後游諸覺華。「如來出世」下，第二合譬。「是名異法」下，第三結成。

> 「また次に善男子よ」の以下は、第三に生死と涅槃を対比して苦と楽を明かす部分であり、すなわち縦の論述である。文中には二つあり、まず解釈し、後に義を論じる。最初の解釈の中には三つあり、すなわち譬え、照合、結論である。ここは譬えによる説明である。二羽の鳥は法身を譬え、雛は衆生を譬え、真夏に水が増すのは倒れた見方を起こすことに譬える。高原を選ぶとは、無常という病にはすなわち常という薬が必要であり、常が高原となる。常という病にはすなわち無常が薬となり、無常を高原とする。それはすなわち常でもなく無常でもなく、常と無常を具足してよくもろもろの倒れた見方を離れるのである。長養するとは、常と無常の理を理解させることに譬える。その後、もとの安隠に随って遊ぶとは、たとえば来が度し終えて、その後もろもろの覚りの華を遊ぶようなものである。「如来出世」の以下は、第二の譬えの照合である。「是名異法」の以下は、第三の結論である。

「迦葉白佛」下，第二論義。三番問答，具簡六行。初番又二：先問、次答。問可見。此中又兼常無常、我無我等。「佛言」下，第二如來答，又四：先舉二偈為答、次長行解釋。初中又二：初偈明生死涅槃二果、次偈明生死涅槃二因。初偈上半明涅槃果，下半明生死果。次偈亦爾，可見。次長行從「若放逸者」下，具釋上兩偈，如文。三「如人在地」下，明下不知上以明於苦，亦先譬、後合。初譬中明不見鳥迹者，欲明空中鳥飛無行地迹。亦有毛羽氣息當其飛處亦有此迹，但非地下人之所見。合如文。四「精勤勇進」下，明上能知下，以明於樂。又二：初舉兩偈正是解釋。此初偈明人、後偈明法。次少長行通釋二偈。「迦葉白佛」下，第二番，先問、次答。問中二：先非佛說、次則難。難意既無憂無喜，云何復言升智慧臺？佛答：以凡夫有憂，故云如來無憂，正是對治之義。又正念眾生故言有憂，如《淨名》說「眾生病故菩薩亦病。」第三番亦先問後答，皆可尋。

> 「迦葉白仏」より下が、第二の論義の段です。三度の問答があり、六行にわたって詳しく述べられています。最初の問答はさらに二つに分かれます。まず問い、次に答えるという順です。問いの内容は本文で確認できます。ここではさらに、常と無常、我と無我についても扱われています。 「仏言」より下が、第二の如来の答えで、四つの部分からなります。まず二つの偈を挙げて答え、次に長行で解釈します。最初の部分はさらに二つに分かれ、最初の偈は生死と涅槃という二つの結果を明らかにし、次の偈は生死と涅槃の二つの原因を明らかにします。最初の偈の前半は涅槃の結果を、後半は生死の結果を説きます。次の偈も同様で、本文で確認できます。 次に長行では、「若放逸者」より下で、上の二つの偈を詳しく解釈しており、その通りです。 三つ目に、「如人在地」より下では、下の者が上のことを知らないことを説き、苦について明らかにします。これもまず譬えを挙げ、後に合わせて説明します。最初の譬えで鳥の跡が見えないと言うのは、空中を飛ぶ鳥には地上に歩いた跡がないことを示そうとしているのです。羽毛や息の跡が飛んだところに残ることもありますが、地上にいる者には見えません。合わせて説明する部分は本文の通りです。 四つ目に、「精勤勇進」より下では、上の者が下のことを知ることができることを説き、楽について明らかにします。これも二つに分かれ、まず二つの偈を挙げて正しく解釈します。最初の偈は人について、後の偈は法について説きます。次に少しの長行で二つの偈を通して解釈します。 「迦葉白仏」より下が第二番で、まず問い、次に答えます。問いの中では二つに分かれ、まず仏の説を否定し、次に難問を投げかけます。難問の意図は、憂いも喜びもないなら、どうしてまた「智慧の台に昇る」と言えるのか、というものです。仏の答えは、凡夫には憂いがあるから、如来には憂いがないと言うのであり、まさに対治の意味です。また、衆生を正しく念じるから憂いがあると言うのであり、『浄名経』に「衆生が病むから菩薩もまた病む」と説かれている通りです。 第三番もまず問い、後に答えるという順で、どちらも本文で確認できます。