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title: "大般涅槃經疏 · 13 文字品(一二)"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55w9ay00mnjo04u753di2k"
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## 大般涅槃經疏卷第十二

> 大般涅槃経疏 巻第十二

隋章安頂法師撰

> 隋の章安頂法師による撰述

唐天台沙門湛然再治

> 唐の天台僧・湛然が再編集

### 文字品

> 文字の章

此品意有四：一次第者，上〈性品〉明字下之理，此品明理上之字，答上問云何解滿字及與半字義。前問名字功德，正論此經，專解出世上上滿字；今品通論眾教，若半若滿、世間出世間上上等文字。開密者，他解：無常為半、常為滿。興皇彈云：如樝梨兩片，是半邊之滿。他又解：昔說無常不名為滿，今教具說常與無常是故名滿。又彈：若以常足無常者，一片梨足半片樝；應為一果者，此是足滿。興皇解：涅槃佛性之體，非常非無常，常無常具足，故名為滿。今明彼家彈舊，或為半邊、或為足滿。自說非常非無常，常無常為滿者，此亦是樝梨柹栗四片合為一果。今依此品，開一切字悉是滿字，文云「如來出世能滅半字，是故汝今應離半字，隨逐滿字，於一切法無閡無著。」本對半明滿，既無有半亦復無滿，當知字非字。以無字為滿字，文云「半字是諸經書記論文章根本。又半字是煩惱言說根本。」又云「滿字是善法根本。一切善法言論根本，異論呪術一切文字，悉是佛說非外道說。」當知佛所說者悉是內道正法，此以正法而為滿字。又云「若解文字能令眾生口業清淨。佛性不爾，不假文字然後清淨，佛性自淨。」當知諸字悉是佛性，佛性非字非非字，而能字能非字，故稱滿字。雖有三義，勿作三解。即字無字、無字即字，亦即非字非非字，具足無缺、不縱不橫，爾乃名滿。譬如金銀種種等寶，同入爐冶，俱成一器而種種不失，亦名種種亦名於一，一即種種、種種即一，亦復非一非種種而一而種種。開一一字悉是佛性。法性法界亦復如是，包一切字，不得一字一切字而具一字一切字，豈隔半邊而非滿字？是則名為開祕說滿。從此立名，名文字品。

> この品の意味には四つの点があります。第一に順序についてです。前の〈性品〉では文字の下にある理を明かし、この品では理の上にある文字を明かします。これは前の問いである「どのように満字と半字の義を理解するのか」に答えるものです。以前の問いは名前と功徳についてであり、まさにこの経を論じ、出世間の最上の満字を専ら解き明かしています。今の品では諸々の教えを広く論じ、半であれ満であれ、世間・出世間・上上などの文字を扱います。秘密を開くとは、他者の解釈では無常を半とし、常を満としています。興皇はこれを弾じて言いました。「櫨梨の二片のように、それは半辺の満である」と。また他者は、昔は無常を説いて満と名づけなかったが、今の教えでは常と無常を具に説くので満と名づけると解しました。また弾じて言いました。「もし常をもって無常を足すなら、一片の梨で半片の櫨を足すことになる。一果とすべきなら、これは足満である」と。興皇の解釈では、涅槃仏性の体は常でも無常でもなく、常と無常が具足しているので満と名づけると。今、彼の家が旧説を弾じて、あるいは半辺と言い、あるいは足満と言うのを明らかにします。自ら非常非無常と説き、常無常を満とするのは、これもまた櫨梨柿栗の四片を合わせて一果とするようなものです。今この品に依れば、一切の字を開いて悉く満字とします。文に「如来が世に出て能く半字を滅する、是の故に汝今半字を離れ、満字に随逐し、一切の法において閡なく著なかれ」とあります。もと半に対して満を明かしましたが、既に半がなくまた満もありません。まさに字は字に非ずと知るべきです。字なきをもって満字とします。文に「半字は諸経の書記論文章の根本である。また半字は煩悩の言説の根本である」とあります。また「満字は善法の根本である。一切の善法言論の根本であり、異論呪術の一切の文字は、悉く仏の説であり外道の説ではない」とあります。まさに仏の説かれたものは悉く内道の正法であり、これをもって正法を満字とするのです。また「もし文字を解すれば能く衆生の口業を清浄にすることができる。仏性はそうではない。文字を仮らずして後に清浄となる。仏性は自ら浄である」とあります。まさに諸字は悉く仏性であり、仏性は字に非ず非字に非ず、而も能く字し能く非字するがゆえに満字と称するのです。三つの義があっても三つの解としてはいけません。即字は無字、無字は即字、また即非字非非字であり、具足して欠けることなく、不縦不横、それこそが満と名づけられます。譬如として金銀種々等の宝は、同じく炉冶に入り、俱に一器となりて種々不失であり、また種々とも名づけ一とも名づけ、一即種々、種々即一、また非一非種々にして一にして種々なのです。一一の字を開けば悉く仏性です。法性法界もまたこの通りであり、一切の字を包み、一字一切字を得ずして一字一切字を具し、どうして半辺を隔てて満字でないことがありましょうか。これすなわち秘密を開き満を説く名づけられます。ここから名を立てて文字品と名づけるのです。

文中為三：一略標字本、二廣明字義、三領解述成。初文先總標，異論呪術皆是佛說。有二解。一云：根本皆在佛法之中。三寶、四諦、涅槃四德，悉是佛法名教。長者去後，劫掠群牛外道偷之，安其己典。二云：是佛方便之說，如《清淨法行經》云「迦葉為老子，儒童為顏回，光淨為孔子。」若如前解佛則認歸，若如後解方便施與，若開一切文字皆佛正法則非認非與云云。「迦葉白」下，第二廣明字義。有二番問答。初問如文。「佛言」下，如來重答，為三：初明文理之本。「持諸記論」下，二別明字本。「凡夫人」下，三明學半得悟滿法。「迦葉復白」下，第二番騰問請答。問如文。「善男子十四音」下，如來答，為三：一通明諸字；二別釋半滿；三結得失，亦是明無字之義。初又四：一以音隨字，即是明音；二以字隨音，即是明字；三音字所因；四音字利益。初文音隨字者，十四音也，「是十四音」去是也。古來六解，大為二塗：前四解襌、後二解複。一、宗師云：書缺二字，師不能通，故無兩音，止有十二。二、招提足悉曇二字。三、梁武足涅槃二字，引經云：所言字者名曰涅槃。四、開善云：於十二字中止取十字，除後庵痾，謂是餘聲故。經釋炮音，便云於十四音是究竟義，更取下魯、留、盧、樓四音足為十四插著中心，謂阿阿伊伊憂憂魯留盧樓咽󰸛等。五、莊嚴複解。前十二為六音，後五五相隨。又取後三三相對中四字耶囉和賒，足前五成六，足上成十二。取羅沙娑訶羅為一遲音，魯留盧樓為一速音，是為十四。六、冶城云：前兩兩相隨有六，次五五相隨有五，後三三相隨有三，合成十四音。觀師云：古來六解，次第彈之。初云書缺二字者，外道師不解，反啟問太子，太子自知。今說涅槃，豈不安二字？猶言書缺。彈招提者，悉曇通是外國十四音之總名，豈得將總足別？彈梁武者，涅槃亦云槃利涅隷槃那，此則六字；亦云般涅槃那，此則四字。何故止取兩字足之？彈開善者，除庵痾兩字，足魯留盧樓四字；若魯留盧樓是音者，何不在音次第而在字後安之？彈莊嚴者，經文現云十四音，何時云以字足音？音字兩異，何得相混？莊嚴不成，冶城亦壞。又河西以前十二即是十二音，取後四字合為二音；古經本云梨樓梨樓，即是四字為二音，足前為十四。又梵本言字不言音，今十二字或十六字，隨世所用。又一解云：初十二是音，後迦佉下是字。又一解云：初十二字有三事，一字、二語、三音。因此字以為言論端首，然後方及餘字，故言字本。初半字者，世法名半字，佛性名滿字。又以九部為半字，大乘為滿字。又云：梵本無半滿之言，但以事未成為半、成就為滿。興皇有半邊相足，無牽申等滿云云。河西云：十二字喻之如飯，後二十五字喻之如羹。後九字攝持諸句，如守門人亦如瓔珞。後九字亦字亦音。魯留下之二字，童蒙所不習學。「吸氣舌根」，是第三明諸字所因皆有差別，故迦佉等是舌本聲，多他等是舌上聲，吒侘等是舌頭聲，波頗等是脣間聲，遮車等是齒間聲，故言皆因舌齒差別。「如是字義」下，第四明字之利益。前舉字義，後明佛性云不如是。「又半字」下，第二別釋半滿，為三：先法、次譬、三合。「何等名」下，第三更明無字之義，亦是得失。後番領解、述成，如文。

> 文中に三つに分ける。第一に字本を略標し、第二に字義を広く明かし、第三に領解と述成である。最初の文ではまず総標して、異論や呪術もみな仏の説いたものであるとする。これには二つの解釈がある。一つは、根本はみな仏法の中にあるという。三宝・四諦・涅槃の四徳は、すべて仏法の名教である。長者が去った後、群牛を劫掠し外道がこれを盗んで、自らの典に安置した。二つは、これは仏の方便の説であるという。『清浄法行経』に「迦葉は老子となり、儒童は顔回となり、光浄は孔子となった」とある。前の解のようにすれば仏は認め帰すことになり、後の解のようにすれば方便として施与したことになる。もし一切の文字がみな仏の正法であると開けば、認めでもなく与えでもない<note>云云</note>。「迦葉白」の下、第二に字義を広く明かす。二番の問答がある。初めの問は文の通り。「仏言」の下、如来が重ねて答え、三つに分ける。初めに文理の本を明かす。「持諸記論」の下、第二に別に字本を明かす。「凡夫人」の下、第三に半を学んで悟り満法を得ることを明かす。「迦葉復白」の下、第二番の問いを呈して答えを請う。問は文の通り。「善男子十四音」の下、如来の答え、三つに分ける。第一に諸字を通明し、第二に別に半満を釈し、第三に得失を結び、また無字の義を明かす。初めにまた四つある。第一に音を以て字に随わせ、すなわち音を明かす。第二に字を以て音に随わせ、すなわち字を明かす。第三に音字の所因。第四に音字の利益。初めの文の音随字とは、十四音である。「是十四音」の下がそれである。古来六つの解釈があり、大きく二つに分かれる。前の四解は単、後の二解は複である。一、宗師の云く、書に二字欠け、師は通じることができず、ゆえに二音なく、ただ十二のみ。二、招提は悉曇の二字を足す。三、梁武は涅槃の二字を足し、経を引いて云く、言うところの字とは名づけて涅槃という。四、開善の云く、十二字の中でただ十字を取る。後の庵痾を除き、これは余声であるからとする。経に炮音を釈して、便ち云く、十四音においてはこれ究竟義であると。さらに下の魯・留・盧・樓の四音を取って十四に足し、中心に挿著し、阿阿伊伊憂憂魯留盧樓咽󰸛などとする。五、荘厳の複解。前の十二を六音とし、後の五は五ごとに相随う。また後の三三を取って相対し、中の四字耶囉和賒を、前の五に足して六とし、上に足して十二とする。羅沙娑訶羅を取って一遅音とし、魯留盧樓を一速音として、これを十四とする。六、冶城の云く、前の兩兩相随うに六あり、次の五五相随うに五あり、後の三三相随うに三あり、合わせて十四音となる。観師の云く、古来六解、次第にこれを弾ず。初めに書に二字欠くというは、外道の師が解せず、反って太子に問いかけ、太子は自ら知る。今涅槃を説くに、どうして安の二字を欠くことがあろうか。なお書に欠くと言う。招提を弾ずるには、悉曇は通じてこれ外国十四音の総名であり、どうして総を以て別を足すことができようか。梁武を弾ずるには、涅槃はまた槃利涅隷槃那とも云い、これは六字である。また般涅槃那とも云い、これは四字である。どうしてただ二字だけを取って足すことがあろうか。開善を弾ずるには、庵痾の二字を除き、魯留盧樓の四字を足す。もし魯留盧樓が音であるなら、なぜ音の次第に置かず、字の後に安ずるのか。荘厳を弾ずるには、経文に現に十四音と云うに、いつ字を以て音を足すと云ったか。音と字は両つながら異なるに、どうして混じることができようか。荘厳は成らず、冶城もまた壊れる。また河西は、前の十二はすなわちこれ十二音であり、後の四字を取って合わせて二音とする。古経本に梨樓梨樓と云うは、すなわち四字で二音となり、前を足して十四とする。また梵本には字と言いて音と言わず、今の十二字あるいは十六字は、世の用いるところに随う。また一解に云く、初めの十二は音であり、後の迦佉の下は字である。また一解に云く、初めの十二字には三事あり。一に字、二に語、三に音。この字によって言論の端首とし、それから方めて余の字に及ぶ。ゆえに字本という。初めの半字とは、世法を半字と名づけ、仏性を満字と名づける。また九部を半字とし、大乗を満字とする。また云く、梵本には半満の言はなく、ただ事の未だ成らざるを半とし、成就を満とする。興皇に半辺相足あり、牽申等の満なし<note>云云</note>。河西の云く、十二字はこれを喩えて飯の如し、後の二十五字はこれを喩えて羹の如し。後の九字は諸句を摂持し、守門人の如くまた瓔珞の如し。後の九字もまた字また音。魯留の下の二字は、童蒙の習学せざるところ。「吸気舌根」は、第三に諸字の所因を明かし、みな差別あり。ゆえに迦佉などは舌本の声、多他などは舌上の声、吒侘などは舌頭の声、波頗などは脣間の声、遮車などは歯間の声。ゆえにみな舌歯の差別によるという。「如是字義」の下、第四に字の利益を明かす。前に字義を挙げ、後に仏性を明かして、かくの如くならずという。「又半字」の下、第二に別に半満を釈し、三つに分ける。先に法、次に譬、第三に合。「何等名」の下、第三にさらに無字の義を明かし、また得失である。後の番の領解・述成は、文の通り。