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title: "大般涅槃經疏 · 16 菩薩品(一二)"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
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### 菩薩品

> 菩薩品

此品次第者，上有十三或十五問，是問佛事，佛答已竟。從此品去有十九問，問菩薩事，佛皆答之。諸師或言：此品答十二至十七問。今明答十二問，諸問不可備題，從初為名，故言菩薩。釋菩薩義，略有四重：一、三藏菩薩。從見釋迦佛三事供養，名初發心；三阿僧祇百劫修相，名為中心；坐菩提樹，名為後心。二、通菩薩。從初虛信諸法幻化，未霑理水，名乾慧地；理水霑神，伏斷見思，名為中心；游戲神通，淨佛國土，餘有殘習微烟薄障，是名後心。三、別菩薩。從十信三十心是初心，十地是中心，等覺是後心。此三菩薩攝法不盡，退不攝一切眾生、進不攝佛根性人。四、圓菩薩。初謂理性菩薩，名字、觀行、相似、分真、究竟菩薩，始自理性通諸眾生，終于妙覺皆名菩薩。所以迦葉問云：云何未發心而名為菩薩者，故知不問前三菩薩，正問於圓。就圓菩薩，不問五位，正問理性。故從所問得名，正是理性菩薩標品。就如來答中，正答理性，是未發心稱為菩薩。而此理性為因，涅槃教光為緣，從謗而信轉成名字，名字即是發心菩薩。理性即是未發心者，問答之義炳然在文，安作餘解豈會經宗？從此題名，故言菩薩品。然河西明此品答四問，同為一意，謂未發心者因經發心得見佛性，見佛性故處眾無畏，乃至見佛性故如醫療病不為病污。今明經之圓意靡所不通，何但答於四問而已？乃至見性，能為船師、能脫故皮，如天意樹等，佛性之力無所不能，舉體皆通而少於眉目。

> この品の順序について述べる。前に十三あるいは十五の問いがあり、これらは仏の事についての問いで、仏が答え終わった。この品から後には十九の問いがあり、菩薩の事についての問いで、仏がすべて答えた。諸々の師は「この品は十二番から十七番までの問いに答える」と言う者もいる。今、十二の問いに答えると明らかにする。すべての問いを列挙することはできないので、初めに従って名を取る。よって「菩薩」と言うのである。 菩薩の意味を釈するに、大まかに四つの重がある。 一、三蔵菩薩。釈迦仏を見て三事をもって供養することから、初発心と名づける。三阿僧祇劫の百劫にわたって相を修めることを、中心と名づける。菩提樹の下に坐することを、後心と名づける。 二、通菩薩。初めに諸法が幻化であることを虚しく信じるが、まだ理の水に触れていないので、乾慧地と名づける。理の水が心に注がれ、見思の煩悩を伏し断ずることを、中心と名づける。遊戯神通し、仏国土を清めるが、わずかに残る習気と薄い障りが残ることを、後心と名づける。 三、別菩薩。十信と三十心は初心であり、十地は中心であり、等覚は後心である。この三つの菩薩は法を摂め尽くすことができない。退いては一切衆生を摂めず、進んでは仏の根性の人を摂めない。 四、円菩薩。初めを理性菩薩と謂い、名字、観行、相似、分真、究竟の菩薩をいう。始めは理性がもろもろの衆生に通じ、終わりは妙覚に至るまで、すべてを菩薩と名づける。ゆえに迦葉が問うて言う、「いまだ発心せざるを、いかがして菩薩と名づくると」。これにより前三の菩薩を問わず、正に円教のことを問うと知るべきである。円菩薩についても、五位を問わず、正に理性を問う。ゆえに問うところに従って名を得て、正に理性菩薩がこの品の標とされる。 如来の答えにおいても、正に理性を答えられ、これは未発心にして菩薩と称されることを明かすものである。この理性が因となり、涅槃の教えの光が縁となり、謗りから信へと転じて名字となる。名字とはすなわち発心した菩薩である。理性とはすなわち未発心の者である。問答の義は明らかに文のうちにある。どうして他の解釈をもってして、経の宗旨に会うことができようか。この題名に従って、ゆえに「菩薩品」と言うのである。 しかるに河西はこの品が四つの問いに答えて同じく一つの意とすることを明かす。すなわち、未発心の者が経によって発心し、仏性を見ることを得る。仏性を見るがゆえに、大衆の中にあっても怖れることがない。ついには仏性を見るがゆえに、医者が病を治しても病に染まらないようにするのである。今、経の円教の意が通じないものはないと明かす。どうしてただ四つの問いに答えるのみであろうか。ついには性を見て、船師となり、皮を脱がせ、天意樹のごときことができる。仏性の力はできないところがない。全体が通じているが、眉目のような細部を欠くのである。

今就答十二問為兩：先自行、次利他。初自行又二：先答生善、次答滅惡。初答生善中，先牒譬歎經旁答上問、次正合問。初歎經旁答，文兩：一旁答、二料簡。興皇云：以涅槃經力，令未發心者發心，又偪令發心如夢羅剎，即是其義。若爾，乃是內因外緣令得發心，發心方乃名為菩薩，非未發心得菩薩名。又救云：先已聞經，中忘斯意，今蒙聲光冥入其體方能發心，發心之前已是菩薩。今不用此解。何者？中忘之前已曾發心，若未曾發何名中忘？若已曾發已是發心，何謂未發名為菩薩？涅槃光者，二解。一云：佛放身光入彼毛孔，佛即涅槃，名涅槃光。二云：以涅槃教詮理分明喻之若光，闡提無善光不入心，四重五逆善根微少故言毛孔。光譬於教，毛孔譬信。契經者脩多羅藏，故舉三藏以彰劣，顯涅槃以為勝。又今經當機，勝餘契經。二料簡中，先問、次答。問中先領歎旨、次仰非、後作難。初領旨者，先領生善之，歎即此品之前；次領滅惡之歎，即前品之末。次仰非，如文。後作難，有三：一作持犯等難、二作賞善罰惡不等難、三作難易難。初「何以故」去，即持犯等難。若光入毛孔皆能發心，持戒毀戒、修善作惡有何等異云云？次如來何故說四依義是不等難。四依出世正欲賞罰，若因光發心，何用賞罰？三「如佛言」下，即難易難。上說熙連三恒猶未解義，此即是難。今云經耳能除煩惱，此即是易。既不解義，焉能除惑？以此難難易。今明迦葉以別難圓，就別明義，則持犯升沈賞罰自異，云何得等？就圓為論皆即佛性，何故不等？就別為言，積善方解；就圓為語，即理為解。故佛答云大事大德，即是圓意。二「佛言」去，答，又為兩：一正答、二釋答。初正答中二：初明去取、次正答。初中二：初簡闡提、次明其餘皆能發心。然發心者，非是隨宜，乃是大福大事。二釋答者，大福大事乃是祕藏如來佛性，此即不簡闡提，闡提寧非祕藏佛性？欲明名字等菩薩，故簡闡提，通取其餘。欲明理性菩薩，故言祕藏如來性也。若無一家圓別之義，如何消經云云？

> さて、十二の問いに答えるにあたり、まず二つに分ける。一つは自らの修行、次に他者を利する修行である。初めに自らの修行を説くが、それもまた二つに分かれる。先に善を生じる問いに答え、次に悪を滅する問いに答える。 初めに善を生じる問いに答える中で、まず譬えを用いて経を歎じ、間接的に前の問いに答え、次に直接問いに合わせて答える。 初めに経を歎じて間接的に答える部分は、文が二つある。一つは間接的な答え、二つ目は再検討である。 興皇は言う。「涅槃経の力によって、まだ発心していない者を発心させることができる。また、夢の中の羅刹のように迫って発心させる、というのがその意味である。」もしそうならば、これは内因と外縁によって発心を得るのであり、発心して初めて菩薩と名づけられるのであって、発心していない者が菩薩の名を得るのではない。 また、次のように救済する解釈もある。「先にすでに経を聞いたが、その途中でその意味を忘れてしまった。今、声と光の恵みによって、密かにその体に入り、ようやく発心することができる。発心する前からすでに菩薩であったのである。」 しかし、今はこの解釈を用いない。なぜか。忘れる前にすでに発心していたのである。もし曾て発心していなかったなら、何を「途中で忘れた」と言うのか。もし曾て発心していたなら、すでに発心していたのであり、何をもって「未発心」と言って菩薩と名づけるのか。 涅槃の光については、二つの解釈がある。一つは、「仏が身の光を放って彼の毛穴に入れる。仏はすなわち涅槃であり、これを涅槃の光と名づける。」二つ目は、「涅槃の教えが理を明らかにすることを、光に譬える。一闡提には善がないので光は心に入らない。四重禁や五逆罪を犯した者は善の根が極めて少ないので、毛穴と言うのである。光は教えに譬え、毛穴は信に譬える。」 「契経」とは修多羅蔵のことである。ゆえに三蔵を挙げて劣っていることを明らかにし、涅槃が勝れていることを示すのである。また、今のこの経は時代に適っており、他の契経よりも勝れている。 二つ目の再検討の部分では、先に問い、次に答える。問いの中では、先に歎じる意図を受け、次に仰いで非とし、後に難じる。 初めに意図を受けるとは、先に善を生じる歎きを受けることで、これはこの品の前にある。次に悪を滅する歎きを受けることで、これは前の品の終わりにある。 次に仰いで非とするのは、文の通りである。 後で難じることに、三つがある。一つは、戒を持ち破るなどの難じ方、二つは、善を賞し悪を罰することが平等でないという難じ方、三つは、難しさ易しさの難じ方である。 初めの「何以故」からは、戒を持ち破るなどの難じ方である。もし光が毛穴に入って皆発心するならば、戒を持ち、戒を破り、善を修め、悪を作ることに何の違いがあろうか<note>云云</note>。 次に、「如来は何故に四依の義を説くのか」というのは、平等でないという難じ方である。四依の出世は、正に善を賞し悪を罰するためである。もし光によって発心するならば、何の用があって賞罰を用いるのか。 三つ目に、「佛の言う如し」の下は、難しさ易しさの難じ方である。前に、熙連河で三恒河沙の劫を経ても、まだ義を理解しないと言った。これはすなわち難しいというのである。今、「経を耳にすれば煩悩を除くことができる」と言う。これはすなわち易しいというのである。義を理解しないのであれば、どうして煩悩を除くことができようか。この難じ方で、難しい易しいを難じるのである。 今、迦葉は別教をもって円教を難じている。別教の義に基づいて言えば、戒を持ち破ることで上がり下がりがあり、賞や罰も自ずから異なる。どうして平等と言えようか。円教に基づいて論じれば、皆即ち仏性である。何をもって平等でないとするのか。別教に基づいて言えば、善を積んで初めて解する。円教に基づいて語れば、即ち理をもって解とするのである。 故に仏は「大事大徳」と答える。これはすなわち円教の意味である。 二つ目の「佛言」の下は、答えであり、また二つに分かれる。一つは正しい答え、二つは答えを釈する。初めの正しい答えの中では二つある。初めに取捨を明らかにし、次に正しく答える。初めの中では二つある。初めに一闡提を簡別し、次にその他の者は皆発心できることを明らかにする。 しかし、発心するということは、機に随って適宜なのではなく、大きな福徳であり、大きな事柄なのである。 二つ目の答えを釈するとは、「大福大事」とは、すなわち秘蔵の如来仏性のことである。これはすなわち一闡提をも簡別しない。一闡提がどうして秘蔵の仏性でないことがあろうか。名字などの菩薩を明らかにしたいので、一闡提を簡別し、その他を総じて取るのである。理性の菩薩を明らかにしたいので、「秘蔵の如来性」と言うのである。 もし一つの宗派における円教と別教の義がなければ、どうして経を消化することができようか<note>云云</note>。

從「迦葉白佛」下，第二正答問，又兩：一問、二答。初問正是騰上作請。此有遠近，遠則騰初偈十二問，近騰品初之說。從「佛告」下，答，又二：初正答、後簡闡提。初正答又二：初因經致夢、次歎經。初因經致夢者，即是答四位菩薩，除前置後，但答中四。何者？其問菩提因，正答其問，略舉四耳。得聞涅槃，是名字菩薩。夢見羅剎，寤已發心，即觀行菩薩。不墮三惡，人天續發，即相似菩薩。是大菩薩，即是分真。明文在此云云。次歎經，可解。二從「善男子」去，舉十譬簡闡提。文為四：初一譬雙簡、次一譬別簡、三四譬重雙簡、四四譬重別簡。初譬除闡提取善根，故言雙簡。虛空譬法身，雲譬報身，雷雨譬應身說法。大地下田陂池，譬四位菩薩。枯木石山高原堆阜，喻於闡提不受佛教。次一譬唯簡闡提，是故云別。三四譬中，初譬可見。第二譬中言藥樹王和乳酪六物者，舊云依經作六行觀，若未譬長行散說。丸譬偈頌，塗創譬聞慧，熏譬思慧，塗目譬修慧，見譬讀，嗅譬誦，根譬法說，葉譬譬說，取身譬理味，取皮譬文言云云。開善但九譬，不取最後金剛譬。前第六金剛譬中云白羊角，《釋論》云山羊角云云。「迦葉白佛」下，是品中第二，但前答未發心是生善之義，次答三問是滅惡之義。生善滅惡是菩提要路、得佛近因。迦葉為後世開眼，故有斯問。就滅惡三問，即滅三障。初答云何於大眾而得無所畏，是滅業障。次答云何處濁世不污如蓮華，是滅報障。三答云何處煩惱煩惱不能染，是滅煩惱障。今舉三偈以答初問。前二偈明懺悔滅業障，後一偈明護法滅業障，即是改惡修功補過。通論懺悔凡有十意，謂逆順各十，如別記。懺護是其二也。懺中二：初偈舉非、次偈顯是。初約惡以明懺悔，先舉偈問、次釋偈為答，可見。二「迦葉復言」下，是約善以明懺悔，亦先舉偈問、次釋偈為答。凡三番釋偈：初番見所作即現在，生死際即過去，至無至處即未來，通懺三世業障。次番舉非。不見所作，謂一闡提。後從「若有菩薩所作善業」，即是舉是。二「作惡不即受」下，第三偈，是護法滅業。護法力大能滅業障，復感長壽不壞眷屬等。亦先舉偈、次釋。釋此偈有四意：初舉非、次明是、三重舉非、四歎經。初舉非中，河西云：天竺熱，停乳少時，自然成酪。文明惡即不受報，不如乳即成酪。而文不更安不字者，不須加之，以上不字而冠於下。次「譬如王使」下，明是正以護法滅業障，先譬、後合。王譬佛，使譬四依，善談論譬內智慧，巧於方便譬外能說法。實智居懷、巧說外化，如是之人能護法利他。奉命即傳佛旨，他國是入生死。寧喪身命不匿教者，身輕法重，死身弘法，合譬可見。三「善男子有一闡提」下，重舉非，更出前偈。四「是故當知」下，歎經。先歎滅惡，「如蓮華」下歎生善，皆可見。

> 「迦葉が仏に申し上げる」から下は、第二の正しく問いに答える部分で、また二つに分かれる。一つは問い、二つは答えである。初めの問いは、まさに先の説法を受けて請い願うものである。これには遠近があり、遠くは初めの偈の十二の問いを受け、近くは品の初めの説法を受ける。「仏が告げたまう」から下は答えで、また二つに分かれる。初めは正しく答え、後は闡提（せんだい）を簡別する。初めの正しく答える部分はまた二つで、初めは経によって夢を見ることを明かし、次に経を讃嘆する。初めの経によって夢を見ることを明かすとは、すなわち四人の菩薩に答えるものであるが、前を除いて後を置き、ただ答えの中に四つがある。なぜか。その問いは菩提の因についてであり、正しくその問いに答えて、略して四つを挙げるだけである。涅槃を聞くことを得るのは、これが名字菩薩である。夢に羅刹を見て、目覚めてから発心するのは、すなわち観行菩薩である。三悪道に堕ちず、人天に続けて発心するのは、すなわち相似菩薩である。この大菩薩というのは、すなわち分真である。明らかな文がここにある<note>云云</note>。次に経を讃嘆することは、理解できる。二つ目に「善男子」から去って、十の譬えを挙げて闡提を簡別する。文は四つに分かれる。初めの一つの譬えは双に簡別し、次の一つの譬えは別に簡別し、三つ目の四つの譬えは重ねて双に簡別し、四つ目の四つの譬えは重ねて別に簡別する。初めの譬えは闡提を除いて善根を取るので、双に簡別すると言う。虚空の譬えは法身であり、雲の譬えは報身であり、雷雨の譬えは応身の説法である。大地の下の田や池は、四人の菩薩の譬えである。枯れ木、石山、高原、堆阜は、闡提が仏の教えを受けないことの喩えである。次の一つの譬えはただ闡提だけを簡別するので、別に簡別すると言う。三つ目と四つ目の譬えのうち、初めの譬えは見ることができる。第二の譬えで「薬樹王と乳酪などの六物」と言うのは、昔の人は経に依って六行の観を行うと言った。もし譬えが長行の散説に及ばなければ、丸の譬えは偈頌であり、塗創の譬えは聞慧であり、熏の譬えは思慧であり、塗目の譬えは修慧であり、見ることは読むことであり、嗅ぐことは誦することであり、根の譬えは法説であり、葉の譬えは譬説であり、身を取ることは理味であり、皮を取ることは文言である<note>云云</note>。開善はただ九つの譬えだけであり、最後の金剛の譬えを取らない。前の第六の金剛の譬えの中で白羊角と言うが、『釈論』では山羊角と言う<note>云云</note>。「迦葉が仏に申し上げる」から下は、この品の中の第二であるが、前には発心していないことに答えて生善の意味を示し、次に三つの問いに答えて滅悪の意味を示す。生善と滅悪は菩提の要路であり、仏を得る近い因である。迦葉は後世の目のために、この問いがある。滅悪の三つの問いについて言えば、すなわち三つの障りを滅する。初めの答えは、どうして大衆の中で畏れることがないことを得るのかと問うものであり、これは業障を滅する。次の答えは、どうして濁世に処して蓮華の如く汚れないのかと問うものであり、これは報障を滅する。三番目の答えは、どうして煩悩の中に処して煩悩が染めることができないのかと問うものであり、これは煩悩障を滅する。今、三つの偈を挙げて初めの問いに答える。前の二つの偈は懺悔が業障を滅することを明かし、後の一つの偈は法を護ることが業障を滅することを明かす。すなわち悪を改め、功を修めて過ちを補うことである。通して懺悔を論じるに、およそ十の意味がある。逆順それぞれ十であり、別記の如くである。懺悔と護法はその二つである。懺悔の中に二つある。初めの偈は非を挙げ、次の偈は是を示す。初めは悪について懺悔を明かし、先に偈を挙げて問い、次に偈を解釈して答えとする。見ることができる。二つ目に「迦葉がまた言う」から下は、善について懺悔を明かすものであり、また先に偈を挙げて問い、次に偈を解釈して答えとする。およそ三度偈を解釈する。初めの解釈は、見る所の所作はすなわち現在であり、生死の際はすなわち過去であり、至る所のない所に至るはすなわち未来であり、三世の業障を通して懺悔する。次の解釈は非を挙げる。所作を見ないとは、一闡提をいう。後には「もし菩薩の所作の善業があれば」から、すなわち是を挙げる。二つ目に「悪を作りて即ち受けず」から下、第三の偈は、法を護ることが業を滅することを明かす。法を護る力は大きく、能く業障を滅し、また長寿や壊れない眷属などを感じる。また先に偈を挙げ、次に解釈する。この偈を解釈するに四つの意味がある。初めに非を挙げ、次に是を明かし、三度重ねて非を挙げ、四に経を嘆ずる。初めに非を挙げる中で、河西は言う。天竺は暑く、乳を少しの間置けば自然に酪となる。悪は即座に報いを受けないことを明かすので、乳が即座に酪となるのとは異なる。そして文にさらに「不」の字を置かないものは、加えるに及ばない。上の「不」の字を以て下を冠するからである。次に「譬えば王の使いの如く」から下は、是を明かす。正に法を護ることが業障を滅することを明かし、先に譬え、後に合わせる。王の譬えは仏であり、使いの譬えは四依であり、善く談論することは内の智慧の譬えであり、巧に方便を用いることは外に説法できることの譬えである。実智を心に懐き、巧説して外を化する。このような人は能く法を護り利益を他に施す。命を奉ずるとは仏の旨を伝えることであり、他国とは生死に入ることである。寧ろ身命を喪っても教えを隠さないとは、身は軽く法は重く、身を死して法を弘めることである。合わせた譬えは見ることができる。三つ目に「善男子、一闡提が有り」から下は、重ねて非を挙げ、さらに前の偈を出す。四つ目に「この故にまさに知るべし」から下は、経を嘆ずる。先に悪を滅することを嘆じ、「蓮華の如く」から下は生善を嘆ずる。すべて見ることができる。

「復次善男子如優鉢羅」下，是品第三，答上云何處濁世不污如蓮華，滅報障之問。文為兩：初舉華喻正答、次舉風喻助答，此釋報障。云何說華生淤泥耶？蓋由煩惱能成於報，如華生泥相緣由故。明於煩惱，正意在報，可尋。

> 「また、善男子よ、優鉢羅のごとし」以下の部分は、この品の第三節であり、先の「いかにして濁世にあって汚れず、蓮華の如くであるのか」という、報いの障りを滅する問いに答えるものである。文は二つの部分に分かれる。初めに蓮華の譬えを挙げて正しく答え、次に風の譬えを挙げて補助的に答える。これは報いの障りを釈明するものである。なぜ華が泥の中に生じると説くのか。それは煩悩が報いを成す原因となるからであり、華が泥の中に生じるのも、互いに関わり合う道理によるのである。煩悩について明らかにするが、その主旨は報いにある。よく考えてみるべきである。

「復次譬如良醫」下，品第四，答上云何處煩惱煩惱不能染，是答滅煩惱障問。凡十四譬，初十二譬譬所說教、次兩譬譬能說人。初譬教中，初一譬譬昔小教，先譬、次合。初譬譬昔教，八種譬八正，文云「無常不淨等五門，因緣、慈悲、不淨觀為八種。」阿薩闍無的翻，義言無可治。次良醫譬今教可解。第三，如文。次第四譬雙明生善滅惡，為三：一正舉譬、二更問答料簡、三重舉譬。初譬次合。舊解：吐懺現在，下懺過去，通生善滅惡為塗身，別持滅惡為灌鼻，求理為熏，受持文言為洗，持偈頌為丸，持長行為散。興皇分此八句，初四句譬昔無常，吐譬苦、下譬無常、塗身譬無我、不淨譬灌鼻。後四句譬今教，常德譬熏、淨德譬洗、樂德譬丸、我德譬散。貧愚不服醫將還家，舊解云：眾生顛倒，憚教不受，故言不肯服。將還家者，示三塗苦報是罪樓處所。興皇云：一說不受，再更為說。今明慈悲是聖人之家，慈心為說，故言將還。女人產者，舊云：女人譬生善。闍樓，此言兒衣。兒譬常解，衣譬煩惱。煩惱難除，譬衣不出。興皇云：女譬菩薩，產譬正觀，衣譬常無常兩教。夫兒衣裹兒，兒若出者衣亦須去，若不出者反為大患。常無常教本生中觀，觀解若成此教須去，教若不去反復成病。下雙合二譬，可見。次料簡中，先問、次佛答，亦可見。三如彼嬰兒，即重舉譬，還明前意正觀漸增，如嬰兒長大。先藉教生解，故言是醫最良。藥病不同，故言善解。一切眾生未聞經時常處無明，故言我本處胎。與母藥者，母譬經教，藥譬常與無常相治。病去解生，故言安隱。惑心既解，還歎於教，故言奇哉。十月者，二解：一云十使所覆；二云十地行滿。推乾去濕者，舊云：慢為乾，愛為濕。興皇云：二乘如乾，凡夫如濕。除不淨者，舊云：除無明。興皇云：除斷常諸倒，容受中道，故言長養其身。「犯四重」下，合譬，可尋。「復次譬如良醫」下，第五譬。解者不同。一云：醫譬佛，子譬菩薩，藥譬經教。二云：醫通譬此教，子譬持戒滅罪，蛇譬謗法。蛇似於龍，謗似闡提。龍譬五逆，蝮譬四重，良藥譬理，塗屣譬教。觸毒譬破謗法之心。又云屣是下物譬不善心，不善被調，能破惡毒。「譬如有人以毒塗鼓」下，第六譬。人譬佛，毒藥譬今教，塗鼓譬著教。又云：人譬此經，雖無心欲聞，遇時聞者必能斷惑。「譬如闇夜」是第七譬。昔教如夜，今教如明。「猶如天雨」是第八譬。八十者，三解。一云：應言八千，如〈持品〉中八千得記是也，出經者誤為八十。二云：外國本有八十人受記，此文不來故無。三云：此非人數，乃是指於諸老聲聞年已朽邁，於法華中方得信解。後之兩解不可承用。若定以八十為數，數陜不該諸得記人。若定是年，何必併同有過有少，故不可用。「秋收冬藏」是第九譬。雖非正譬教，要因於教得收藏故。「聞他人子」是第十譬。醫譬此經，使譬弘者。又言是滅罪生福章句。他人子者，往是佛子，起逆起重，即成他子。非人所持，譬被外誘。卿若遲晚我當自去者，譬弘經人不稱化緣，佛當自化。又遲晚者即是差機，若能詣理即是自往。「聾人」是第十一譬。「譬如良醫」是第十二譬。王譬犯罪眾生，必死病者譬必入惡道，王不信者譬不受此教。不見腹內者，不見未來。下藥，譬懺悔昔罪。王不肯服，譬諸眾生不肯懺悔。以呪力故令隱處生創者，譬經之力，令於夢中見墮地獄云云。

> 次に「例えば良醫あり」の下、品の第四は、先の「いかなる處にて煩惱も煩惱を染むること能わざる」に答えて、これは煩惱障を滅する問いに答えるものである。凡そ十四の譬えがあり、初めの十二の譬えは説かれた教えを譬え、次の二つの譬えは説く人を譬える。初めに教えを譬える中で、最初の一譬えは昔の小乗の教えを譬え、先に譬え、次に合わせて説く。初めの譬えは昔の教えを譬え、八種は八つの正しき行いを譬える。文に「無常・不淨等の五門、因緣、慈悲、不淨觀をもって八種とす」とある。阿薩闍は訳すべき定訳がなく、義としては「治すべきものなし」という意味である。次の良醫の譬えは現在の教えを譬えるもので、解し得る。第三は、文の如くである。次に第四の譬えは、善を生じ悪を滅することを併せて明かし、三つの部分からなる。一には正しく譬えを挙げ、二には更に問答して詳細に論じ、三には重ねて譬えを挙げる。初めに譬え、次に合わせて説く。昔の解釈では、吐き出すことは現在の懺悔を譬え、下すことは過去の懺悔を譬え、通じて善を生じ悪を滅することは塗身を譬え、別して悪を滅することを持つのは灌鼻を譬え、理を求めるのは熏を譬え、受持する文言は洗を譬え、偈頌を持つのは丸を譬え、長行を持つのは散を譬える。興皇はこの八句を分かち、初めの四句は昔の無常を譬え、吐くは苦を譬え、下すは無常を譬え、塗身は無我を譬え、不淨は灌鼻を譬える。後の四句は現在の教えを譬え、常の徳は熏を譬え、淨の徳は洗を譬え、樂の徳は丸を譬え、我の徳は散を譬える。貧しく愚かな者が服さず、醫者が家に連れ帰ることを、昔の解釈では、衆生は顛倒して教えを恐れ受け入れないから「肯んじて服せず」というのである。「家に連れ帰る」とは、三塗の苦報が罪の樓閣の住處であることを示す。興皇は「一度説いて受け入れなければ、再び更に説くのである」と言う。今、慈悲は聖人の家であると明かし、慈心をもって説くから「連れ帰る」と言うのである。女人が産むことを、昔は、女人は善を生じることを譬えると言う。闍樓は、これは児衣という。児は常の解釈を譬え、衣は煩惱を譬える。煩惱は除き難いから、衣が出ないことに譬える。興皇は「女は菩薩を譬え、産は正觀を譬え、衣は常と無常の二つの教えを譬える」と言う。そもそも児衣は児を包み、児が出るならば衣もまた去るべきであり、もし出なければかえって大きな災いとなる。常と無常の教えはもと中観を生じ、観の解釈が成就すればこの教えは去るべきであり、教えが去らなければかえって病となる。下に二つの譬えを合わせて説くのは、見ることができる。次に詳細に論じる中で、先に問い、次に佛が答えられる。これも見ることができる。三に「彼の嬰兒の如し」とは、即ち重ねて譬えを挙げ、前の意味を明かして正觀が漸く増すことを、嬰兒が成長するように譬える。先に教えを借りて解釈を生じるから「この醫は最も良し」と言う。藥と病が異なるから「善く解す」と言う。一切の衆生が経を聞かない時は常に無明に處るから「我はもと胎に處りき」と言う。母に藥を与えるとは、母は経教を譬え、藥は常と無常が互いに治することを譬える。病が去り解釈が生じるから「安隱なり」と言う。惑いの心が既に解ければ、また教えを歎ずるから「奇なるかな」と言う。十月とは、二つの解釈がある。一つには十使に覆われることを言う。二つには十地の行が滿ちることを言う。乾いたものを押しのけ濕ったものを去るとは、昔は、慢は乾に當たり、愛は濕に當たると言う。興皇は「二乗は乾の如く、凡夫は濕の如し」と言う。不淨を除くとは、昔は、無明を除くと言う。興皇は「斷常の諸の顛倒を除き、中道を受け容れるから『其の身を長養す』と言う」と言う。「四重を犯せば」の下は、譬えを合わせて説くもので、尋ねるべきである。「復次例えば良醫あり」の下は、第五の譬えである。解釈する者によって異なる。一つには、醫は佛を譬え、子は菩薩を譬え、藥は経教を譬えると言う。二つには、醫は通じてこの教えを譬え、子は戒を持ち罪を滅することを譬え、蛇は法を誹ることを譬える。蛇は龍に似て、誹るは闡提に似る。龍は五逆を譬え、蝮は四重を譬え、良藥は理を譬え、塗屣は教えを譬える。毒に觸れることは法を誹る心を破ることを譬える。又、屣は下の物であり不善の心を譬え、不善が調えられれば、惡の毒を破ることができると言う。「例えば人あり毒をもって鼓に塗ること」の下は、第六の譬えである。人は佛を譬え、毒藥は現在の教えを譬え、鼓に塗るは教えを著けることを譬える。又、人はこの経を譬え、心に聞こうとする意がなくとも、時に遇いて聞く者は必ず惑いを斷つことができると言う。「例えば暗夜の如し」は第七の譬えである。昔の教えは夜の如く、現在の教えは明るいことの如し。「猶お天の雨の如し」は第八の譬えである。八十とは、三つの解釈がある。一つには、八千と言うべきであり、〈持品〉の中の八千が記を受けしことに當たる。経を出した者が誤って八十としたのである。二つには、外国の本には八十人が記を受けたとあり、この文が來ていないから無いのである。三つには、これは人數ではなく、諸の老いた聲聞が年已に朽ち邁し、法華経に於いて始めて信解を得たことを指すのである。後の二つの解釈は用いるべきではない。もし定めて八十を數とすれば、數は狹く諸の記を得た人を全て含まない。もし定めて年とすれば、何ぞ必ずしも併せて同じく過ち有り、少なき有らんや、故に用いるべからず。「秋に收め冬に藏す」は第九の譬えである。正しく教えを譬えるのではないが、要するに教えに因って收め藏することができるからである。「他人の子の聞く」は第十の譬えである。醫はこの経を譬え、使は弘める者を譬える。又、これは罪を滅し福を生じる章句であると言う。「他人の子」とは、昔は佛の子であったが、逆を起こし重きを起こし、すなわち他人の子となる。非人に持たれるとは、外に誘われることを譬える。「卿もし遲晚ならば我は當に自ら去るべし」とは、経を弘める人が教化の緣にかなわないならば、佛が當に自ら教化することを譬える。又、遲晚とは機を失することであり、もし理に適うならば即ち自ら往くことである。「聾人」は第十一の譬えである。「例えば良醫」は第十二の譬えである。王は罪を犯す衆生を譬え、必ず死すべき病は必ず惡道に入ることを譬え、王が信じないのはこの教えを受け入れないことを譬える。腹の中を見ないとは、未來を見ないことである。藥を下すとは、昔の罪を懺悔することを譬える。王が肯んじて服さないとは、諸の衆生が懺悔しようとしないことを譬える。呪力によって隱れた處に創を生じさせるとは、経の力によって、夢の中で地獄に墮ちるのを見ることを譬える<note>云云</note>。

「復次善男子」下，有兩譬，是第二說教之人。文為兩：先譬昔教主、後譬今教主。上十二譬亦爾，前一譬譬昔教、後十一譬譬今教。初中昔教云八術，今云過八。又下文中合譬，皆以佛菩薩合之，以是得知譬今昔教主。

> 次に、善男子の教えの下には二つの譬えがある。これは第二に、教えを説く人についての教えである。文は二つの部分に分かれる。まず昔の教主を譬え、次に今の教主を譬える。上の十二の譬えも同じで、最初の一つの譬えは昔の教えを譬え、後の十一の譬えは今の教えを譬える。最初の部分では、昔の教えは八術と言い、今の教えは八を超えると言う。さらに下の文では、譬えを合わせて、すべて仏と菩薩に合わせている。これによって、譬えが昔と今の教主を指していることがわかる。

從「譬如大船」去，品中第五，答上生死大海中云何作船師之問。前答除障但自解縛，今答船師能解他縛。前是因時，藉經獲自行力；今是果時，藉經有化他力。前是法身善逝力，今是應身應來力。文舉四譬，前二譬是正答，後兩譬歎經助答。就初明船，未明船師；後譬具明船師及所度人。船譬涅槃，師即化主，所度之人即受化者。風及風王兩譬，並歎經教，如文。

> これは「大船」のたとえから始まる、この品の第五の部分です。これは先の「生死の大海において、どうやって船師となるのか」という問いに答えるものです。前の答えでは障害を取り除くこと、すなわち自分自身の束縛を解くことについて述べましたが、今ここでの答えは、船師が他者の束縛を解くことができるということです。前は因の位におけるもので、経典によって自己を修行する力を得ることでしたが、今は果の位におけるもので、経典によって他者を教化する力を持つことです。前は法身の善逝の力であり、今は応身の応来の力です。文中には四つのたとえが挙げられていますが、最初の二つのたとえは直接の答えであり、後の二つのたとえは経典を讃えて補助的な答えとするものです。最初に船を示すだけで、まだ船師については示していませんが、後のたとえでは船師と渡される人々の両方を詳しく示しています。船は涅槃のたとえであり、師とは教化の主たる者であり、渡される人々とは教化を受ける者たちです。風と風王の二つのたとえは、どちらも経典の教えを讃えるもので、本文の通りです。

「復次如蛇脫故皮」，即答第六應去之問。問：云何捨生死如蛇脫故皮？此中還舉蛇喻為答，文有兩譬：前蛇喻是正答、次金師譬助答。蛇譬譬一方應去、金師譬處處應來、處處應去云云。「復次如庵羅樹」下，是品中第七，答云何觀三寶猶如天意樹。今還舉人間樹為答。天樹隨天，欲見華果長短悉隨天意，譬佛適緣，宜見生王宮、宜見滅雙樹云云。人樹三時榮枯不同，取其譬便，亦應無在。文為五：一明佛身有三異、二明如來密語、三明興衰、四勸立丈夫志、五論起沒。前三是三寶，佛身是佛寶、密語是法寶、興衰是僧寶。然三寶有兩：一體多約果人、別體並約因果。佛是果人，僧是因人。此中既云僧有興衰，即是別體。初佛身譬，又三：初譬、次合、三領解，可尋。次「善男子如來密語」下，明法寶，文有四：法、譬、合、結。莊嚴云：密是涅槃總名，不可別翻。如四非常從大乘出，於一無常即備四義，各有其意，苦為破樂，乃至空為破有。智者應解如此密語。大乘亦爾，雖說一常，各有其意云云。今奇一事論密語者，佛但說一具四種意。如說有句，即具於無、亦有亦無、非有非無。但作有解，不名智臣。此與四教義合。佛說生滅，即不生滅、即亦生滅亦不生滅、即非生滅非不生滅。但作三藏生滅之解，即非智臣。此義又與四門義合。有門乃至非有非無門云云。六卷譬與此異，三者劍、四澡槃云云。三合譬中，先合無常、後合於常。初文具以四無常合四種語，以是義故。「是正解脫」去，是舉常教為合，亦四，而不與前相對，初明不動、次明無相、三明常不變、四佛性。雖有四種只一涅槃，亦如四句只先陀婆。四「是諸比丘」下，總結，可尋。

> また、蛇が旧い皮を脱ぎ捨てるようなものである、というのは、第六の問い（捨て去るべきもの）に対する答えです。問い：どのようにして生死を捨てるのが、蛇が旧い皮を脱ぐようなものなのか。ここでは再び蛇のたとえを用いて答えていますが、そこには二つの譬えがあります。前の蛇の譬えが正式な答えであり、後の金師（金細工師）の譬えは補助的な答えです。蛇の譬えは一方（修行者が去るべき場所）について述べ、金師の譬えは、あらゆる場所に現れ、あらゆる場所を去ることを示しています<note>などなど</note>。 次に「また庵羅樹（あんらじゅ）のようなもの」以降は、この品の中の第七の問いに対する答えで、どのように三宝を天意樹（天の意志に従う樹）のように観ずるのか、という問いです。ここでは、人間界の樹を挙げて答えとしています。天の樹は天の思いに従い、花や果実の長短もすべて天の意のままになります。これは仏が機縁に応じて、王宮に生まれるべき姿や、双樹の下で滅するべき姿を現すことにたとえられます<note>などなど</note>。 人間界の樹は、三つの時期に栄えたり枯れたりして同じではありませんが、そのたとえを用いるのに都合が良いので、それも問題はありません。本文は五つの部分に分かれます。一に仏身に三つの異なる姿があることを明かし、二に如来の密語（ひみつの言葉）を明かし、三に興衰（盛衰）を明かし、四に大丈夫（ますらお）の志を立てるよう勧め、五に起こりと滅びを論じます。前三つは三宝に当たります。仏身は仏宝、密語は法宝、興衰は僧宝です。しかし三宝には二つの種類があります。一つは同体（同じ本体）であり、多くは悟りを開いた人について述べます。別体（別々の本体）は原因と結果の両方について述べます。仏は悟りを開いた果ての人であり、僧は修行中の因の人です。ここで僧に興衰があると言うのは、別体を指しています。 始めの仏身のたとえもまた三つの部分から成ります。初めにたとえ、次に当てはめ、三に理解の表明です。これはたどって読むことができます。 次に「善男子、如来の密語とは」以降は、法宝を明かしています。ここには四つの部分があります。法（教え）、たとえ、当てはめ、結びです。 荘厳（僧侶の名前）は言います。「密」とは涅槃の総称であり、個別に翻訳することはできません。例えば、四非常（無常・苦・無我・空）も大乗から出たものであり、一つの無常の中にすでに四つの意味が備わっています。それぞれに意味があります。苦は楽を破るためであり、乃至、空は有を破るためです。智者はこのような密語を理解すべきです。大乗もまた同じで、一つの常と言っても、それぞれに意味があります<note>などなど</note>。 ここで密語について一つのことを取り上げて論じます。仏は一つの言葉で四つの意味を具えています。例えば「有」という句を説くとき、そこには「無」「亦有亦無」「非有非無」が含まれています。ただ「有」とだけ解釈するなら、それを智臣（賢い家来）とは呼びません。これは四教（蔵・通・別・円）の意味とも合致します。仏が生滅を説くとき、そこには不生不滅、即ち亦生滅亦不生滅、即ち非生滅非不生滅が含まれています。ただ小乗の生滅とだけ解釈するなら、智臣ではありません。この意味はまた四門（有門・空門・亦有亦空門・非有非空門）の意味とも合致します<note>などなど</note>。 六巻の経典ではたとえがこれとは異なり、三つ目は剣、四つ目は澡槃（あらいだらい）です<note>などなど</note>。 三番目の当てはめのたとえでは、先に無常を当てはめ、後に常を当てはめます。最初の文では四無常を用いて四種の言葉に当てはめています。そのためです。「是正解脱」以降は、常の教えを挙げて当てはめています。これも四つありますが、前と対照的ではありません。初めに動かないことを明かし、次に相（すがた）のないことを明かし、三に常に変わらないことを明かし、四に仏性を明かします。四種あるとはいえ、ただ一つの涅槃であり、ちょうど四句がただ一つの先陀婆（塩）を指すようなものです。 四番目の「是諸比丘」以降は、全体をまとめた結びです。これはたどって読むことができます。

三「復次如波羅奢樹」下，雙明二寶衰相，為三：初明經無威德，即法衰；次比丘起過，即僧衰；三深誡弘經，即是雙明二寶。初文，先譬、後合。夫藥樹值雨盡堪愈病，若值亢旱樹死無力。正法亦爾，得好弟子弘宣此法能破顛倒，值惡比丘法即衰滅。二「復次如來正法」去，是比丘起過，即是僧衰。由末世惡人懈怠造過，令僧衰訛。三「放牧」下，是深誡弘經，令好護持。由人起過，致毀法僧。先譬、次合。譬者，舊云：本一斗乳初加二分者，加二斗水成三斗，又加六斗成九斗，又加二九成二十七斗，又加二分成八斛一斗。又有解言：此不應爾。初本一斗，加二分成三，又加二成五，又加二成七，又加二成九。合譬有七句，前四度加水譬於添譯，後正譬於弘法之人。牧女譬弘經者。女性諂曲，譬弘經人不能亡懷為法，而多諂求利，故以牧女譬之。初加二分者，一鈔略此經、二分為多分。第二加二分者，一除深妙語、二安世言詞。第三加二分者，一鈔前著後、二鈔後著前。第四加二分者，前後著中、中著前後。有人解第四加二分云：一所遮則開、二所開則遮。「是時當有諸惡」下，合第三加二分也。「是諸惡人雖復讀誦」下，合第四加三分。第五譬受學者求法。為子納婦供賓客者，舊云子譬常解，婦譬常境，餘知見譬賓客。又子譬中觀實智，婦譬師資相繼。世人為後不絕納婦，譬欲使其化不絕師授於資。急須此乳者，譬求法人速請知解。賓客，譬以方便巧用。至市欲買，譬至講堂求法。賣乳者，是第六弘經之人多求利養。七是人語言者，即聽法人善別深淺。值我客急者，譬聽人云為無聽處而來於此。取以還家者，譬聽已作觀都無所以。猶勝千倍者，雖無深旨猶是大乘，比於小典則勝數倍。二「善男子」下，備合上七意也。天台大師釋云：牧女譬佛，真乳譬於涅槃之法。佛欲說此法，法不可說，說必依諦，所謂二諦，故言加二分水。餘牧女譬作論通經菩薩，為經難解，更作優波提舍申二諦教，即是第二加水。近城女人譬弘論之師，為論難解，更作義疏以申此論，即是第三加二分水。城中女人譬受學者，為疏難解，更作記申釋，即第四加二分水。經文以惡世比丘鈔略作多分，合初加水，不以如來為緣說法，緣樂鈔略，為依二諦而分別之。佛以所被緣合、智者以能被緣合，亦不違經合第二加水云隱深密語，此似作論申經。

> 三、ここで「またかの波羅奢樹のごとく」という教えの下では、二つの宝の衰えの相を同時に説いています。その内容は三つに分けられます。第一に、経典に威徳がなくなることを明かし、これは法の衰えです。第二に、比丘たちが過ちを起こすことを示し、これは僧の衰えです。第三に、経典を弘めることへの深い戒めを説き、これは法と僧の二つの宝を同時に明かしています。 最初の文は、先に譬えを用い、後にその意味を合わせて説きます。薬樹は雨に恵まれればすべての病を癒すことができますが、日照りが続いて枯れてしまえばその力は失われます。正しい教えも同じです。優れた弟子を得て、この教えを広く説き、誤った考えを打ち破ることができればよいのですが、悪い比丘に出会えば、教えは衰え滅びてしまいます。 二番目の「また、如来の正法」から始まる部分は、比丘たちが過ちを起こすことを示し、これは僧の衰えです。末世の悪人が怠り、過ちを重ねることで、僧伽が衰え、乱れるのです。 三番目の「牧牛の者が」から始まる部分は、経典を弘めることへの深い戒めであり、しっかりと護り保つことを促しています。人が過ちを起こすことによって、法と僧が毀損されるからです。ここでも先に譬えを示し、次にその意味を合わせて説きます。 譬えについて、以前の解釈ではこう述べています。もともと一斗の乳があり、最初に二分を加えるとは、二斗の水を加えて三斗にすることを意味します。さらに六斗を加えて九斗にし、さらにその二倍の十八を加えて二十七斗にし、さらに二分を加えて八斛一斗になります。また別の解釈では、これは正しくないと述べ、もともと一斗に二分を加えて三にし、さらに二を加えて五にし、さらに二を加えて七にし、さらに二を加えて九になるとしています。 この譬えには七つの句があり、最初の四度の水を加える譬えは、経典が追加されて翻訳されたことを示し、後の譬えは、教えを広く伝える人々を示しています。 牧牛の女は、経典を弘める者を譬えています。女性はへつらい、曲がった性質を持つとされ、これは教えを弘める人が、自己の執着を離れて教えのために尽くすことなく、多くが利得を求めてへつらうことを示しています。だから牧牛の女に譬えるのです。 最初の二分を加えるとは、一にはこの経典を省略すること、二には多くに分けることです。第二の二分を加えるとは、一には深遠で微妙な言葉を除くこと、二には世間の言葉を置くことです。第三の二分を加えるとは、一には前の部分を取り出して後ろに置くこと、二には後ろの部分を取り出して前に置くことです。第四の二分を加えるとは、前後の部分を中に置き、中の部分を前後に置くことです。ある解釈では、第四の二分を加えるとは、一には遮られていたものを開くこと、二には開かれていたものを遮ることだと述べています。 「そのときに多くの悪い者たちが」から始まる部分は、第三の二分を加えることを合わせて示しています。「これらの悪い人々は、読誦するとはいえ」から始まる部分は、第四の二分を加えることを合わせて示しています。 第五の譬えは、教えを学び求める者を示しています。子のために嫁を迎え、宾客をもてなすことについて、以前の解釈では、子は常に解釈することを譬え、嫁は常に境涯を譬え、その他の知見は宾客に譬えると述べています。また、子は中道の実相の智慧を譬え、嫁は師から弟子へと教えが受け継がれることを譬えると解釈する者もいます。世の人が後継ぎを絶やさないために嫁を迎えるのは、教化を絶やさず、師が弟子に教えを授けることを譬えています。 乳を急いで必要とするのは、教えを求める人がすぐに理解と知見を得ることを請い求めることを譬えています。宾客は、方便を用いて巧みに活用することを譬えます。市場に行って買おうとするのは、講堂に行って教えを求めることを譬えています。 乳を売る者は、第六の譬えであり、経典を弘める人が多くの利益と供養を求めることを示しています。 七番目の人々の言葉は、教えを聞く人々が、教えの深さと浅さをよく見分けることを示しています。「ちょうど私が急ぎの客を持っている時に出会った」とは、聴聞者が「ここにしか聴く場所がないからやって来た」と言うことを譬えています。「それを持ち帰る」とは、聴聞した後に観想しても、何も得るものがないことを譬えています。「なお千倍に勝る」とは、深い趣旨はないとはいえ、それでも大乗の教えであり、小乗の教典と比べれば数倍勝っていることを示しています。 二番目の「善男子」から始まる部分は、上記の七つの意味をすべて合わせて説いています。天台大師はこのように解釈しています。牧牛の女は仏を譬え、真実の乳は涅槃の教えを譬えています。仏はこの教えを説こうとされますが、この教えは言葉で説くことができず、説く場合には必ず真実の道理に依らねばなりません。その真実の道理とは、いわゆる二つの真実（世俗諦と第一義諦）です。だから「二分の水を加える」と言うのです。 その他の牧牛の女たちは、経典を解説する論書を作る菩薩を譬えています。経典が理解し難いため、さらに優波提舍（解説書）を作り、二つの真実の教えを説明しました。これが第二の水を加えることです。 城の近くにいる女たちは、論書を広く解説する師を譬えています。論書が理解し難いため、さらにその意味を詳しく解釈する注釈書を作り、この論書を説明しました。これが第三の二分の水を加えることです。 城の中にいる女たちは、教えを受けて学ぶ者を譬えています。注釈書が理解し難いため、さらに学びやすくするための記録を作って、その意味を説明しました。これが第四の二分の水を加えることです。 経典の文において、悪世の比丘が経典を省略して多くに分けたことを示すのは、最初の水を加えることを合わせています。如来が教化の対象に応じて教えを説かれ、その対象が省略を好むならば、二つの真実に依って教えを分かりやすく説かれたのです。仏は教化される者に合わせて教えを説かれ、智者たちもまた教化できる者に合わせて教えを述べます。これも経典に反することなく、第二の水を加えること（深く隠された密な言葉を隠して分かりやすくする）に合わせており、これは論書を作って経典を解説することを示しています。

「復次善男子」去，第四勸立丈夫志，為二：先勸、次領解。初又二：先毀訾女身、次定判男子。初訶毀，如文。「何以故」下，定判也。經判出兩句，若廣明應有四句云云。

> また、善男子よ——というところから、第四の「丈夫の志を勧め立てる」段階に入ります。ここでは二つの部分に分かれます。まず勧め、次に理解を示すことです。初めの部分もまた二つに分かれ、まず女身を否定し譴責し、次に男子としての在り方を明確に判断します。初めの否定と譴責は、本文の通りです。「何以故」以下が、明確な判断です。経典では二つの句を示していますが、広く詳しく述べるならば、四つの句があるべきです。

「復次如蚊子澤」下，第五明大法起沒，又二：先沒相、次雙辨起沒。初文，先譬、次合。惡世惡人多，弘宣人少，如蚊子澤不能救旱。次「過夏名秋」去，雙辨起沒。沒如沒地，盛如秋雨云云。

> 次に「復次、蚊の沢の如し」の下は、第五に大法の起こりと滅びを明かす。ここにまた二つの段がある：先に滅びの相を示し、次に起こりと滅びの両方を併せて示す。最初の文では、先に譬えを示し、次にその合（当てはめ）を示す。悪い時代には悪い人が多く、法を広く伝える人が少ない。それは蚊の沢が日照りを救えないようなものである。次に「夏を過ぎて秋と名づく」より下は、起こりと滅びの両方を併せて示す。滅びは地に沈むようなものであり、盛んになることは秋の雨のようである<note>云云</note>。

從「爾時文殊」下，是品中第八，答上三乘若無性問。文為兩：初釋偈疑兼遣上問、二迦葉論義正答上問。初文為五：一文殊騰純陀疑、二如來許說、三文殊出疑、四如來為釋、五文殊領解。然此是答問那忽騰疑？疑何不決復使他騰？河西解云：文殊是游方大士，影響釋迦，即眾中上座，恒為啟發之主，所以為其騰疑。二云：聖無彼我，唯益是存。況復二人為友，為騰何妨。純陀於何處生疑？前設五難，佛答中未見性是無常、見性是常。如來受飯食已入金剛三昧，是食消已則見佛性得三菩提。如此之常即本無今有、已有還無，便是無常，當知如來不得是常。何故復言兼答迦葉？三乘若無性，云何得有三乘差別之問？今舉此偈明差別無差別，所以得為兼答問也。迦葉所問，懸與理同。若三乘人同一乘性，何得三異？若三乘人全未有於一乘之性，云何說有？若舉偈答差無差疑，一切皆遣，即兼答意也。然純陀與佛論未見性是無常、見性是常，時凡三根解悟，上根於〈哀歎品〉中已悟；中根於迦葉問中悟；下根既未解悟，今文殊更為騰疑。此一偈凡四出：一出此中、二出梵行、三出二十五、四出二十六，大意是同而為緣則異。此中釋差無差別義，梵行中釋得無所得義，二十五釋有不定有、無不定無、非有非無中道之義，二十六為釋破定性明無性義。此之四出，亦為下品三根。成論師云：金剛心未是常、後心是常，無常則本有而今無，常則本無而今有。此釋正是純陀所疑，非關偈意。又解：本有者，本有煩惱，此昔日之本；今無者，今無般若，即昔日之今。皆是金剛心前本有今無耳。三世有法無有是處者，據金剛心已後常住。佛果非三世攝，故言無有是處。復云：上半不異前，而言三乘人同入無餘涅槃，故言三世有法無有是處。復一解：本有煩惱、今無煩惱，非三世攝；本無涅槃、今有涅槃，亦非世攝。諸師雖作眾解，都不遣純陀疑。只為汝本既無常今亦無常，本未得常今始得常，本無今有三世所攝。疑難宛然，何關偈意？地人云：常法非是始得，本來體用具足，但為妄惑所覆，後時方顯。若爾，先隱後顯，亦應顯已還隱。既顯已不隱，亦應隱而不顯云云。三藏師云：生死無始而有終，涅槃有始而無終；今時始得故言有始，一得永已故言無終。作此釋者還同地人，小乘亦得作如此說。惑滅道存、本無今有，悉是無常。作此說者，準舊不免純陀之難。興皇云：迦葉難意，三乘各得涅槃，云何同一佛性？同一佛性亦應同一佛乘。佛答三乘只一佛性，昔於一為三，今只三為一，豈可三乘。前來無性而今方有，但隨緣異辨，前來未悟則本有而今無，今時始悟則本無而今有。例如過去燈王、多寶，此是本有今無；未來彌勒，即是本無今有，亦是現在過去、現在未來，斯乃上半意也。至論佛性，何關有無及以今本，即下半意。又彈他解云：有三可三便成差別，有一可一便成無差，若差則失無差、若無差則失差，開一為三則失一、合三為一則失三。今明不爾。昔三猶是今一、今一猶是昔三，開三不失一、合一不失三，即是差即無差、無差即差。若得此意，本有今無三世有法，無有是處。亦應例言，本無今有三世有法，斯有是處。無常常境、智非境智、因果非因果，例皆如是。又云：本有只是有，今無只是無。又本不有今不無，只是非有非無。又云：上半是有，下半是無，無有是處是非有非無，例本無今有亦復如是云云。然興皇以同一佛性為本有，始悟為今無釋上半，佛性非今非本釋下半，指此為差別無差別義。斯乃分文兩派，義不相關。今則不爾，只約一句，差即無差、無差即差，一諦即三諦故言本有，三諦即一諦故言今無，即三一而非三一，故言三世有法無有是處。如是展轉不得相離，乃是差即無差、無差即差、非差非無差，是則遣迦葉之難豁無遺餘。亦是無常即常、常即無常，即非常非無常，釋純陀之疑雲消氷冶。智悟亦然，悟一即三名本有，悟三即一名今無，悟三一非三一名無有是處。此則何難不遣、何疑不除？如是則本有者，一有一切有，即是世界。今無者，一無一切無，即是對治。合此有無，一切亦有亦無，即為人。三世有法無有是處，即第一義。今此一悉即具四悉，乃遣難釋疑。私謂：若二人疑難皆遣皆釋，是則物機咸融悉會。本有即有句有門，今無即無句無門。聲聞緣覺亦有差別亦無差別，即亦有亦無句亦有亦無門。三世有法無有是處，即非有非無句非有非無門。一四相即，乃遣難釋疑。觀師三釋：一云上三句出所非，除性有性無；後一句結無有是處。二云：本有即不有，此有可令無。本無即不無，此無可令有。此有不有故非有，此無不無故非無。非有非無，故言三世不攝。三云：上半無差別而差別，下半差別而無差別。釋此為二：一者當體、二者為緣。當體即法身本地，故無差別；約緣故有三乘之異、差別不同。又釋本有今無即是無今之本，此本非今，即是非今之本。本無今有即是無本之今，此今非本，即是非本之今。故非世攝。此解大意可見，不復具之。

> 「爾時文殊」以下は、この品の中の第八番目の部分で、上で問われた「三乗に自性はないのか」という問いに答えるものです。文は二つに分かれます。初めに偈の疑問を釈いて、かつ上の問いに答える。次に迦葉が議論して、正式に上の問いに答える。初めの文は五つに分かれます。一に文殊が純陀の疑問を述べる、二に如来が説法を許す、三に文殊が疑問を出す、四に如来が説明する、五に文殊が理解を示す。しかしこれは問いに答える場面なのに、どうして疑問を述べるのでしょうか。疑問が解決しないのに、どうして他の者に述べさせるのでしょうか。河西の解釈では、文殊は四方を遊行する大士であり、釈迦のために働きかけ、衆の中の上座で、常に啓発の主となる者なので、そのために疑問を述べるのだとします。また、聖人は彼我の区別がなく、利益のみを考えます。ましてや二人は友人であり、疑問を述べることに何の差し支えがあいましょうか。純陀はどこで疑問を生じたのでしょうか。前に五つの難問を出しましたが、仏の答えの中では「性を見ることは無常であり、性を見ることは常である」ということが明らかではありませんでした。如来は食事を受け取った後、金剛三昧に入りました。この食事が消化されれば、仏性を見て三菩提を得るのです。このような「常」は、本来は無かったものが今ある、すでにあったものがまた無くなる、ということであり、すなわち無常です。そうであれば、如来は「常」ではないと知るべきです。なぜ「兼ねて迦葉に答える」とも言うのでしょうか。「三乗に自性がないなら、どうして三乗の差別があり得るのか」という問いに答えるためです。今、この偈を挙げて、差別が無差別であることを明らかにするので、兼ねて問いに答えることができるのです。迦葉の問いは、深く理にかなっています。もし三乗の人が同じ一乗の性質を持つなら、どうして三つの違いがあるでしょうか。もし三乗の人がまったく一乗の性質を持っていないなら、どうして「有る」と言えるでしょうか。もし偈を挙げて「差別と無差別」の疑問に答えれば、すべての疑問は解消され、それが兼ねて答える意味になります。しかし純陀は仏と「性を見ないのは無常、性を見るのは常」と論じましたが、その時、三つの根機の人の悟りがありました。上根は「哀歎品」の中で悟り、中根は迦葉の問いの中で悟り、下根はまだ悟っていなかったので、今、文殊がさらに疑問を述べるのです。この一つの偈は、全部で四回出てきます。一つはここ、二つは「梵行」、三つは「二十五」、四つは「二十六」です。大意は同じですが、縁に応じて説き方が異なります。ここでは「差別が無差別」の意味を説き、「梵行」では「得が無得」の意味を説き、「二十五」では「有は必ずしも有にあらず、無は必ずしも無にあらず、非有非無の中道」の意味を説き、「二十六」では「定性を破って無性の意味を明らかにする」ことを説きます。この四つの説き方は、下の品の三根の人のためでもあります。成論の師は言います。金剛心はまだ常ではなく、後の心が常である。無常は、本にあったものが今は無くなることであり、常は、本に無かったものが今あることである。この解釈は、まさに純陀の疑問と一致するもので、偈の意味とは関係ありません。また解釈します。本有とは、本に煩悩があったことで、これは昔の本です。今無とは、今、般若が無いことで、これは昔の今です。どちらも金剛心の前の「本有今無」です。「三世の有法は有る所の理なし」とは、金剛心の後の常住を指します。仏の果報は三世に含まれないので、「有る所の理なし」と言うのです。また、上半分は前と変わらず、三乗の人が同じ無余涅槃に入るので、「三世の有法は有る所の理なし」と言うのです。また一つの解釈では、本に煩悩があり、今煩悩が無いのは、三世に含まれない。本に涅槃が無く、今涅槃があるのも、また三世に含まれない。諸々の師は多くの解釈をしましたが、どれも純陀の疑問を解消していません。ただあなたの「本」はすでに無常であり、「今」も無常であり、「本」にはまだ常を得ておらず、「今」になって初めて常を得たのであり、「本無今有」は三世に含まれるのです。疑問はそのまま残っており、偈の意味と何の関係があるでしょうか。地論の師は言います。常の法は最初から得るものではなく、本来、体と用が完全に備わっています。ただ妄想の惑いに覆われていて、後に顕れるだけです。もしそうなら、先に隠れて後に顕れるのだから、顕れた後はまた隠れるべきでしょう。しかし、顕れた後は隠れないのなら、隠れていて顕れないのもまた理にかなうはずです。三蔵の師は言います。生死には始まりがなく終わりがあり、涅槃には始まりがあって終わりがありません。今、初めて得るので「始まりがある」と言い、一度得たら永遠に失わないので「終わりがない」と言います。この解釈は、地論の師と同じであり、小乗もこのように説くことができます。惑いは滅び道は残る、「本無今有」はすべて無常です。このように説くなら、以前と同じで、純陀の難問を免れません。興皇は言います。迦葉の難問の意味は、三乗がそれぞれ涅槃を得るのに、どうして同じ一つの仏性と言えるのか、ということです。同じ一つの仏性なら、同じ一つの仏乗であるべきでしょう。仏は「三乗はただ一つの仏性である」と答えました。昔は一を三とし、今は三を一とするのです。どうして三乗であり得ましょうか。以前は自性がなく、今になって初めてあるのです。ただ縁に応じて説き方が異なるのです。以前に悟っていなければ「本有今無」であり、今、悟り始めれば「本無今有」です。例えば、過去の燈王仏や多宝仏は「本有今無」であり、未来の弥勒仏は「本無今有」です。また、現在の過去、現在の未来というのも、これが上半分の意味です。究極の仏性は、有無や今本と何の関係があるでしょうか。それが下半分の意味です。また、他の解釈を批判します。「三」があって「三」となり得るなら差別となり、「一」があって「一」となり得るなら無差別となります。もし差別なら無差別を失い、無差別なら差別を失います。一を開いて三とすれば一を失い、三を合わせて一とすれば三を失います。今、そうではないと明らかにします。昔の三は、今の一であり、今の一は、昔の三です。三を開いても一を失わず、一を合わせても三を失いません。すなわち「差別が無差別」であり、「無差別が差別」なのです。もしこの意味を得れば、「本有今無」は「三世の有法は有る所の理なし」です。また、同様に「本無今有」は「三世の有法」であり、これは「有る所の理あり」と言うべきでしょう。「無常と常」「境と智」「非境非智」「因果と非因果」も、すべて同じように考えられます。また、「本有」は「有」であり、「今無」は「無」です。また、「本不有」「今不無」は「非有非無」です。また、上半分は「有」、下半分は「無」、「無有是処」は「非有非無」であり、「本無今有」も同様です。しかし興皇は「同一の仏性」を「本有」とし、「始めて悟る」を「今無」として上半分を解釈し、「仏性は今でも本でもない」として下半分を解釈し、これを「差別が無差別」の意味と指します。これは文を二つに分けて、意味が互いに関係しません。今はそうではなく、ただ一つの句について「差別が無差別、無差別が差別」と言います。一諦が三諦であるから「本有」と言い、三諦が一諦であるから「今無」と言います。「三と一」でありながら「三と一」でないから、「三世の有法は有る所の理なし」と言います。このように転々として互いに離れることができず、これが「差別が無差別、無差別が差別、非差別非無差別」であり、迦葉の難問を残すことなく解消します。また、「無常が常」であり「常が無常」であり、「非常非無常」であり、純陀の疑問を雲が消え氷が溶けるように解消します。智慧の悟りも同じです。一を悟り三と知るのを「本有」と言い、三を悟り一と知るのを「今無」と言い、三と一が三と一でないと悟るのを「有る所の理なし」と言います。これならば、どの難問が解消されず、どの疑問が除かれないでしょうか。このように、本有とは「一があればすべてがある」ことであり、これが世界悉檀です。今無とは「一がなければすべてがない」ことであり、これが対治悉檀です。この有無を合わせると「一切は亦有亦無」であり、これが為人悉檀です。「三世の有法は有る所の理なし」が第一義悉檀です。今、この一つの悉檀が四つの悉檀を具え、これで難問を解消し疑問を解くのです。私には思われます。もし二人の疑問と難問がすべて解消されるなら、物の機がすべて溶け合い、すべてが会得されるでしょう。本有は「有」の句・「有」の門であり、今無は「無」の句・「無」の門です。声聞・縁覚も「差別があり、かつ無差別」であり、「亦有亦無」の句・門です。「三世の有法は有る所の理なし」は「非有非無」の句・門です。一と四が互いに即するので、難問を解消し疑問を解くのです。観師の三つの解釈。一つには、上の三句は否定されるものを示し、「性有・性無」を除き、後の一句は「有る所の理なし」と結ぶ。二つには、本有は「不有」であり、この「有」は「無」とすることができる。本無は「不無」であり、この「無」は「有」とすることができる。この「有」は有でないので「非有」であり、この「無」は無でないので「非無」である。「非有非無」なので、「三世に含まれない」と言う。三つには、上半分は「無差別の中の差別」であり、下半分は「差別の中の無差別」である。これを二つに分けて解釈する。一つは「当体」、二つは「為縁」である。当体とは法身の本地であり、無差別である。縁に従えば三乗の違いがあり、差別が異なる。また、「本有今無」は「今のない本」であり、この本は今ではないので、「今でない本」である。「本無今有」は「本のない今」であり、この今は本ではないので、「本でない今」である。だから三世に含まれない。この解釈の大意は見て取れるので、詳しく述べない。

「迦葉白」下，第二正答上問，又為四：一論無差別、二論有差別、三雙領二義、四重論有差別。初有問答。問如文。答有兩譬，前譬聞經信見、後譬分明證見。初譬中二：先譬、次合。譬中為三：初譬眾生同有佛性、次譬致疑、三譬解悟。長者有二解：一云譬佛；二云譬眾生。諸牛，譬六道不同。種種色者，譬於六道差別萬品。一人守護，譬有信心。又云譬弘經菩薩，令教化之。為祠祀者，譬弘經者能報佛恩，盡𤛓一器，觀諸眾生同中道性。白色者，譬理性淨。次「尋便驚怪」下，譬一往生疑，譏迦葉之問。眾生既殊，佛性豈一？三「是人思惟」下，譬解悟。眾生業報今乳色一，知是眾生正因之性即一中道。次合譬中還合上三，初合同一佛性；次「而諸眾生」下，合致疑；「是諸眾生久後」下，合解悟。次「如金卝」下，譬於證見，先譬後合，可見。「迦葉白」下，第二明有差別。兩番問答。初問三乘同一佛性者，應同如來常住涅槃，不應灰斷令三別異。文云「不同如來涅槃而般涅槃」，有文云「不同如來涅槃不般涅槃」，此二並得。同般者同證常住，不般者常住不變，何曾證入？次佛答意，為懈怠者說有三乘，實同如來一般涅槃。世若無佛者，假設之言，而實不爾，是故實無二乘涅槃。佛不出世即有二乘得二涅槃，佛若出世並同如來得一涅槃。第二番問答，如文。「迦葉言」下，第三雙領兩義。「迦葉言云何性差別」，即第四重論差別，有三：初二問答，佛仍無差別中作差別答。第三「迦葉復言」下，問意者，既言聲聞佛性勝者，那忽凡夫前得記作佛？佛答意者，不以佛性故前作佛，有速願者即速與記。

> 「迦葉が申す」の下は、第二に先の問いに正しく答える部分です。さらに四つの段落に分けられます：第一に無差別を論じ、第二に有差別を論じ、第三に二つの義をともに領解し、第四に改めて差別を論じます。 初めに問答があります。問いは文の通りです。答には二つの譬えがあります。前の譬えは経を聞いて信じ見ることを表し、後の譬えははっきりと証得して見ることを表します。 初めの譬えの中に二つの部分があります：先に譬え、次に合わせて説明します。譬えの中は三つに分けられます：初めに衆生がみな仏性を有することを譬え、次に疑いを生じることを譬え、三に解悟を譬えます。 「長者」には二つの解釈があります：一つは仏を譬えるというもの、もう一つは衆生を譬えるというものです。「諸牛」は六道の違いを譬えます。「種々色」は六道の様々な差別、万の品目を譬えます。「一人守護」は信心を持つことを譬えます。また、経を弘める菩薩が教化することを譬えるという解釈もあります。 「祠祀のため」は、経を弘める者が仏の恩に報いることを譬えます。「𤛓を尽くして一器にする」は、衆生がみな中道の性を有することを観じることを表します。「白色」は理性が清らかであることを譬えます。 次に「尋いで便ち驚怪す」の下は、ひとたび疑いを生じることを譬え、迦葉の問いを諷します。衆生がすでに異なるならば、仏性がどうして一つでありましょうか？ 三に「是の人は思惟す」の下は、解悟を譬えます。衆生の業報は、今は乳の色が一つであるように、これが衆生の正因の性、すなわち一なる中道であると知ることを表します。 次に、合わせて説明する部分では、先の三つの内容を再び合わせます：初めに同一の仏性を合わせ、次に「而して諸の衆生」の下で疑いを生じることを合わせ、「是の諸の衆生は久後に」の下で解悟を合わせます。 次に「金卝の如し」の下は、証得して見ることを譬えます。先に譬え、次に合わせて説明があり、これは明らかです。 「迦葉申す」の下は、第二に差別があることを明かします。二つの問答があります。初めの問いは、三乗が同一の仏性を持つならば、如来の常住涅槃と同じであるべきで、灰身滅智によって三つを別々に異ならせるべきではない、というものです。文に「如来の涅槃と異なって般涅槃す」とあり、またある文には「如来の涅槃と異なって涅槃せず」とありますが、この二つはどちらも成り立ちます。「同じく般涅槃す」は同じく常住を証得することをいい、「涅槃せず」は常住で変わらないことをいい、どうして証入がありましょうか？ 次に仏の答えの意図は、懈怠の者のために三乗があると説くが、実際には如来と同じく一つの般涅槃である、ということです。世に仏がいなければ、これは仮設の言葉であり、実際はそうではない、ゆえに実際には二乗の涅槃はないのです。仏が世に出なければ二乗が二つの涅槃を得、仏が世に出ればみな如来と同じく一つの涅槃を得るのです。 第二番目の問答は、文の通りです。 「迦葉言う」の下は、第三に二つの義をともに領解します。 「迦葉言う、性の差別は如何」は、すなわち第四に改めて差別を論じます。ここに三つあります：初めの二つの問答では、仏は無差別のうちに差別の答えをなされます。第三の「迦葉復た言う」の下は、問いの意図は、声聞の仏性が勝れると言うならば、どうして凡夫が先に記別を得て作仏するのか、ということです。仏の答えの意図は、仏性のゆえに先に作仏するのではなく、速やかに願う者には速やかに記別を与える、ということです。

從「迦葉復白」下，是品中第九，答上云何諸菩薩而得不壞眾。迦葉更牒問為請，次佛答中還以護法為答。

> 「迦葉復白」以下は、この品の第九節であり、「いかにして諸菩薩が衆を壊れざることを得るや」という先の問いに答えるものである。迦葉が再び問いを挙げて請い、次に仏が答えられる中で、やはり法を護ることをもって答えとされるのである。

「迦葉白佛何緣」下，是品中第十，答上云何為生盲而作眼目導。先騰脣口乾焦，即生盲義。佛答中，先答口爽、次答生盲。初云口爽者，不知三寶常住之味，名為口爽。口爽即是生盲，若計定有，撿覓即無。從「復次善男子」下，答生盲。盲故即是不識。不識手足者，不識身內之佛性也。

> 「迦葉が仏に問うて『何緣』と申す」以下の部分は、この品の中の第十番目で、先ほどの「生まれながらの盲人に、どのようにして眼目（め）となり導きとなるのか」という問いに答えるものです。まず、唇や口が乾き焦げることを挙げて、それが生まれながらの盲人の意味であると示します。仏の答えの中では、先に口の味覚を失うことを答え、次に生まれながらの盲人に答えます。最初に「口爽（こうそう）」と言うのは、三宝が常住であるという味わいを知らないことを指し、これを口爽と名付けます。口爽とはすなわち生まれながらの盲人です。もし「実に有る」と固く執着して計（はか）るならば、探し求めても実は無いのです。「また善男子（ぜんなんし）」以下の部分から、生まれながらの盲人に答えます。盲人であるがゆえに、認識できないのです。手足を認識できないとは、身体の内にある仏性を認識できないという意味です。

「復次如來常為」下，是品中第十一，答上云何示多頭之問。佛答如來示種種身即是多頭，說種種法即是多舌云云。

> 次に「如来は常に為す」の下は、この品の中の第十一番目で、前の「どのようにして多くの頭を示すのか」という問いに答えるものです。仏は答えて、如来が種々の身を示すこと、それがそのまま多くの頭であり、種々の法を説くこと、それがそのまま多くの舌である、と説かれます<note>云云</note>。

「復次如人生子」下，是品中第十二，答上云何說法者增長如月初之問。前舉月問佛，今約生子悉有增長答之。十六月者，二解：一云十箇六月，即是五歲；二解始經十六月，即是過周四月。在文可見。

> 次に「人の子を生むがごとし」という经文の下は、この品の中の第十二の部分であり、先ほどの「どのように説法する者は月の初めのように成長するのか」という問いに答えるものです。前に月を用いて仏に問い、今は子を生むことにたとえて、すべての者が成長することを以て答えます。十六ヶ月については、二つの解釈があります。一つは十と六ヶ月、すなわち五歳であるというもの。もう一つは、初めから十六ヶ月を経過したもの、すなわち一歳を過ぎて四ヶ月後であるというものです。本文中にその根拠が見られます。

## 大般涅槃經疏卷第十二

> 大般涅槃経疏 巻第十二