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  1. 維摩経略疏 (維摩經略疏)
  2. 第一 (第一)
  3. 1 佛國品(一-二)
  4. 1 維摩経略疏巻第一 (1 維摩經略疏卷第一)
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維摩経略疏 (維摩經略疏)


次明入文,大為五意:一、明經度不盡;二、略分文;三、辨佛國義;四、釋品;五、正入文。初意者,前後五譯不同,今釋什本。尋經文義,西土猶多。何以知之?如命十弟子,如是五百乃至八千,各辭不堪,不堪之言並不來此,推此而論經卷不少。又文殊入室傳如來旨,慇懃無量,兼八千菩薩各說入門,此諸言談何止半卷?爰至出室詣菴羅園,對揚如來辨佛國義,當時敷演高論往復,豈容止有數紙經文?意謂振旦生民神根狹劣,不堪具足讀誦受持,刪彼富文採其綱格流傳茲土,略存義焉。

ここから本文の解釈に入る。その大まかな区分は五つある。第一に、経典の原典が完全には伝わっていないことを明らかにする。第二に、経典の構成を大まかに区分する。第三に、仏国の意味を明らかにする。第四に、各品の題名を解説する。第五に、いよいよ本文の解釈に入る。

第一の点について、この経典は前後して五度の翻訳があるが、その中で現在は鳩摩羅什の訳本に基づいて解釈を行う。原典の内容を調べてみると、インドではもっと多くの分量があったと考えられる。なぜそう言えるのか。例えば、経典の中では、十人の高弟に問いかけ、さらに五百人、そして八千人に至るまで、それぞれが辞退する場面があるが、これらの辞退のことば自体が漢訳には伝わっていない。このことからも、原典の経巻は決して少なくなかったと推測できる。また、文殊菩薩が維摩詰の室に入って如来の教えを伝える場面では、実に懇切丁寧な対話が数限りなく交わされ、さらに八千の菩薩たちがそれぞれ悟りに入る方法を述べている。これらの対話の内容は、現在の漢訳にある半巻ほどの分量に収まるものではない。さらに、維摩詰が室から出て庵羅園に赴き、如来と向かい合って仏国の意味を論じた場面では、当時、高度な議論が詳細に交わされたのであり、それがわずか数紙の経文に収まるはずがない。つまり、当時の中国の人々は、その精神的な素質が未熟で、完全な形の経典を読誦し受持するに堪えなかったため、豊富な原典の内容を削り、その綱要

問:此經西土文言浩大,將不是《大論》明佛所說不思議經有十萬偈耶?答:有云即是。今謂不爾。《大論》所明不思議經,是《華嚴》別名。故論云「般若有二種,一共二乘說、二不共二乘說。不共說者,如不思議經。」故《華嚴》云「此經不入二乘人手」。共說者,即是《摩訶般若》及諸方等。

問:この経典は、インドの言語で非常に大部ですが、それは『大智度論』で説かれている、仏が述べた「不可思議経」十万偈に当たるものではないでしょうか? 答:そうだとする人もいます。しかし、私はそうではないと考えます。『大智度論』で説かれている「不可思議経」とは、『華厳経』の別名です。なぜなら、論には「般若には二種ある。一つは二乗と共に説くもの、二つは二乗と共に説かないもの。共に説かないものとは、例えば『不可思議経』の如し」とあるからです。よって『華厳経』には「この経は二乗の人の手に入らない」とあります。共に説くものとは、すなわち『摩訶般若経』やその他の方等経典です。

問:《華嚴》豈得名不思議?此經一名不可思議解脫,何故反謂非耶?答:此經既有兩名,豈獨《華嚴》更無別稱?然細尋《大論》前後所引不思議經,悉是《華嚴》。如說謳舍那優婆夷為須達那菩薩說度眾生數量,乃是《華嚴》明善才入法界所聞之事;若引此經,即云「毘摩羅詰所說」。

問う:『華厳経』は「不可思議」と称されることができるではないか。この経(『維摩経』)には「不可思議解脱」という別名があるのに、なぜ逆に『華厳経』はそうではないとされるのか。

答える:この経には二つの名称があるが、では『華厳経』だけに別の呼び名がないということはない。しかし、『大智度論』の前後で引用されている「不可思議経」を詳しく調べてみると、全て『華厳経』の内容である。例えば、讖舍那優婆夷が須達那菩薩に衆生を度す数を説いた話は、『華厳経』で善財童子が法界に入って聞いた出来事である。もしこの経(『維摩経』)を引くならば、「毘摩羅詰(維摩詰)の所説」と記されている。

二、分文,為二:先出古今、次明一家。先明諸師者,什生及古諸師悉不開科段,直帖文解釋。而肇師云「始于淨土終法供養,其間所明雖殊,不思議一也。」是則寶積發問已前為序,〈囑累〉一品以為流通,其間並是正說也。次靈味小亮云「此經題既云淨名所說,從〈方便品〉皆是正說。」次開善師分為四:一、序,訖〈菩薩品〉;二、正,即室內六品;三、證成,即〈菩薩行〉、〈阿閦佛〉兩品;四、流通,即〈法供養〉、〈囑累〉兩品。若莊嚴、光宅,同用初四品為序,入室六品為正,後四品為流通。晚三論師亦同此釋。北地論師用〈佛國〉一品為序,〈方便品〉訖〈見阿閦佛品〉十一品為正,後兩品為流通。但古今不同互有分別,承習之者各有宗門。諸禪師見此分別多延紛諍,不開科節,但約觀門直明入道。

二、章を分けて、二とする。まず古今を出だし、次に一家を明らかにす。

先に諸師を明らかにする。羅什やそれ以前の諸師は、みな科段を開かず、直接経文に沿って解釈した。しかし肇師は「浄土に始まり法供養に終わる。その間に明かされるところは違いがあるが、不思議という点では一つのことである」とした。これは、宝積が問いを発する以前を序分とし、「嘱累」の一品を流通分とし、その間のすべてを正宗分とするものである。

次に、霊味の小亮によると、「この経の題がすでに『維摩の説かれたもの』とあるので、『方便品』からすべて正宗分である」とした。

また、開善師は四つに分けた。一、序分(「菩薩品」まで)、二、正宗分(室内の六品)、三、証成分(「菩薩行」「阿閦仏」の二品)、四、流通分(「法供養」「嘱累」の二品)である。荘厳や光宅も同じく、初めの四品を序分、室内の六品を正宗分、後の四品を流通分とした。後の三論師も同じ釈を用いる。

北地の論師は、「仏国」の一品を序分、「方便品」から「見阿閦仏品」までの十一品を正宗分、後の二品を流通分とした。しかし古今の解釈には違いがあり、互いに分別がある。これを学び受け継ぐ者には、それぞれに宗門がある。諸禅師はこのような分別がしばしば争いを招くのを見て、科節を設けず、観門に従って直接入道の道を明らかにしたのである。

次明今家者,若不開科段則不識起盡佛教承躡,若開科段執諍紛然於解脫之法橫生繫累;今尋經意趣傍經開科,而非固執。夫佛說法雖復殊源,而初中後善文必備矣。今約此三對序等三,仍為三意:一、正開經;二、約觀心;三、異眾家。一、正分經者,經無大小例有三段,謂序、正、流通。序者,大聖將欲說法,必先現瑞表發以為由藉。如欲說《大品》即放支節雜色之光,表欲說般若以導諸行;欲說《法華》放眉間光,表欲說中道實相;今經合蓋現土,表欲說佛國因果。既由藉不同,正表教門赴機有異,發起物情使咸信慕,歸宗有在,故曰序也。二、正說者,四眾覩瑞悉皆忻仰堪聞聖旨,大聖知時赴機設教。時眾聞經咸沾法利,故名正說也。三、流通者,流譬水之下霔,通則無滯無壅。如來大慈平等說法,非止但為現在,亦欲遠被正像末代有緣,使咸沾法潤。是則法水流霔無窮並沾斯澤,故名流通也。今開為三:一、從「如是我聞」訖七言偈,具通別二序。此於正說由藉義足,名為序分。二、從寶積請問佛國因果已去訖〈阿閦佛〉有十一品半,皆明不思議解脫佛國因果,皆是赴機之教,現在沾益,並為正說。三、從〈法供養〉訖〈囑累〉,明天帝發誓弘經,如來印可,勸發囑累宣通未來,使流傳不絕,此並屬流通也。

まず、我が天台宗の立場を明らかにする。もし科段(章節)を設けなければ、仏教が説くところの始まりと終わり、その繋がりを理解することができない。しかし、科段を設ければ、解釈を巡って争いが起こり、本来解脱のための教えであるはずが、かえって執着や煩わしさを生んでしまう。そこで、私は経典の趣旨に沿い、経典に即して科段を設けるが、決して固執するものではない。

仏が説かれる法は、その根源は異なっていても、どこにおいても初め・中・終わりの三段階が整っているものである。ここでは、この三つの観点から、序・正宗・流通の三分を立て、さらに三つの意味とする。すなわち、第一に経典を正しく開くこと、第二に観心に照らすこと、第三に他の宗派と区別することである。

第一に、経典を正しく分けるとは、経典の大小を問わず、必ず三段あること、すなわち序分・正宗分・流通分を指す。

序分とは、大聖(仏)がまさに説法しようとする時、必ず先に瑞相を現し、その予兆を示して説法の縁とすることを言う。例えば、『大品般若経』を説こうとされた時には、手足や身体の各部分から様々な色の光を放たれた。これは、般若波羅蜜を説いて諸々の行いを導こうとされた予兆である。『法華経』を説こうとされた時には、眉間の白毫から光を放たれた。これは、中道実相を説こうとされた予兆である。今、この『維摩経』では、合わさった蓋と現れた浄土が瑞相であり、仏国土の因果を説こうとされた予兆である。

このように瑞相には違いがあるので、教えが機根に応じて異なることを示している。人々の心を奮い起こして、皆が信じ敬い慕うように導き、その帰結する根本があることを示す。これが序分と呼ばれる所以である。

第二に、正宗分とは、四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が瑞相を目の当たりにして、皆喜び仰ぎ、聖者の教えを受けるにふさわしい状態となった時、大聖(仏)が時機を知り、機根に応じて教えを施されることである。その時、大衆は経典を聞いて皆等しく法の利益を蒙るので、正宗分と呼ばれる。

第三に、流通分とは、「流」は水が下へ注ぐことに喩えられ、「通」は滞りや塞がりのないことを意味する。如来は大いなる慈悲をもって平等に説法され、それはただ現在の衆生のためだけでなく、遠く正法・像法・末法の時代に縁ある者たちにも等しく及ぼし、皆が法の潤いを蒙るようにと望まれた。このように法水は流れ注ぎ、尽きることなく全てにその恵みが及ぶ。これが流通分と呼ばれる所以である。

ここで、三分に開いて示す。

第一に、「如是我聞」から七言の偈頌までが、通序と別序の二つの序分を備えている。これは、正宗分の説法が起こる縁として充分な意味を持つので、序分と呼ぶ。

第二に、宝積の請問による仏国土の因果以降、『阿閦仏品』までの十一品半は、すべて不可思議な解脱と仏国土の因果を明かしている。これらはすべて機根に応じた教えであり、現在の与会者が法の利益を蒙るものである。ゆえに、これらを正宗分とする。

第三に、『法供養品』から『囑累品』までは、天帝(帝釈天)が発誓して経典を弘めんとし、如来がそれを許可し、未来永劫にわたって経典が宣揚され、途絶えることなく伝わるよう勧発し付嘱する内容である。これらはすべて流通分に属する。

問:此經題稱「維摩詰所說」,今何得從佛國為正?答:淨名承佛威神助佛揚化,化道有功,故從其受稱。譬如國王勅臣布政,布政有功而臣受賞,正命之主歸於國王,受功之名而臣受稱。不可謂臣受賞而臣為正,君垂正命而翻為傍。淨名得佛印定方乃為正,故名維摩詰所說經。

問:この経の題は「維摩詰所説」とありますが、なぜ今は仏の国土から正しいとするのですか?

答:浄名は仏の威神力を承け、仏の教化を助けて広めました。その教化の功績があったため、その名をもって呼ばれるのです。例えば、王が臣下に命じて政治を布かせる時、政治を布く功績があれば臣下が褒美を受けますが、正しい命令の主は王に帰し、功績の名は臣下が受けて称えられます。だからといって、臣下が褒美を受けたから臣下が正しいとし、君主が正しい命令を下しているのをかえって傍とするわけにはいきません。浄名も仏の印可を得て初めて正しいとするのです。ゆえに「維摩詰所説経」と名づけられたのです。

二、約觀心者,即約三觀以為三分。二觀方便即是序義,得入中道即是正義,雙照二諦心心寂滅自然流入即流通義。三:簡異者,問:何不依什師及諸禪師不分科段?答:若論觀行,實不繁開。今欲令學者知文起盡,識聖善巧言不孤致必有承躡。若於文無壅,帖釋觀行轉覺分明。

二、観心の立場から言えば、三つの観(三観)をもって三分とする。初めの二つの観は方便であり、これは序分の意義に当たる。中道に入るを得ることが正宗分の意義であり、二諦を同時に照らし、心々が寂滅し自然に流れ入ることが流通分の意義である。

三、違いを明かす。問う:なぜ鳩摩羅什師や諸々の禅師のように科段を分けなかったのか。答える:観行について論じるならば、実際に細かく分ける必要はない。今、学ぶ者に文の始まりと終わりを知らせ、聖者の巧みな説法を理解させ、言葉が無駄ではなく必ず前後のつながりがあることを示そうとしている。もし文に滞りがなければ、観行を説き明かすことが一段と明らかになるだろう。

問:何不全用肇師注意?答:〈法供養〉屬正義,不然也。

質問:なぜ僧肇師の註釈を完全に用いないのですか? 答え:「法供養」は正しい意味に属しているため、そうではないのです。

問:何不依靈味?答:〈佛國〉為序,義不應然。何者?佛為法王道王,三千有所宣說,豈非正也。但寶積所請、佛所酬答,赴此機緣明佛國因果,時眾聞經獲大小益,豈折為序?又且淨名助佛闡揚,正是獎成佛教,豈可弟子助說為正、大師說者翻為序乎?

問:なぜ「霊味」に依らないのか? 答:『仏国品』を序分とするのは、道理に合わない。なぜか? 仏は法の王として三千世界を統べ、その説法が正しいことではないはずがない。しかし宝積の請いに応じて仏が答えたのは、この機縁に合わせて仏国の因果を明かしたものであり、その時に大衆が経を聞いて大小の利益を得たのである。これをどうして序分と見なせるだろうか。さらに、維摩詰は仏の教えを助け広めたのであり、まさに仏の教えを成就させたのである。それなのに、どうして弟子の助説が「正説」で、大師の説法が逆に「序分」となるだろうか。

問:何不同開善?答:經無大小例有三段,何得此經獨開為四?問:何以不同莊嚴、光宅及三論師?答:〈佛國〉為序,其妨同前。又用〈菩薩行〉、〈阿閦佛〉以屬流通,恐此不然。何者?淨名掌擎大眾還菴羅園對佛印定,室內所說方得成經。又佛還對淨名辨佛國因果,撮經終始、宗旨分明,大眾蒙益過乎室內。此是正說,豈謂流通?

問:なぜ開善寺の解釈と異なるのか? 答:経典には大小にかかわらず、必ず三段の構成がある。それなのに、なぜこの経だけを特別に四段に分けるのか。

問:なぜ荘厳寺、光宅寺、そして三論宗の師たちの解釈とも異なるのか? 答:〈仏国品〉を序分とする説には、先ほど述べたと同じ問題がある。また〈菩薩行品〉や〈阿閦仏品〉を流通分とするのは、おそらく正しくない。なぜか。維摩が大衆を手のひらに乗せて庵羅園に戻り、仏に確認を得ることで、室内での説法が初めて経典として成立したからである。さらに仏は維摩と相対して仏国の因果を説き、経典の始まりから終わりをまとめ、宗旨を明確にした。大衆の受けた利益は室内での説法を上回る。これは正説であって、どうして流通分と言えようか。

問:何不依北地大乘師?答:〈佛國〉為序,其妨同前。

問:どうして北方の大乗の師に依らないのですか? 答:「仏国」を序とすることは、その妨げは先ほどと同じです。

三、釋佛國義者,此明長者子寶積問佛國因果,世尊具答。身子生疑,佛以神力現淨土相,時諸大眾得大乘益。還復穢土,求聲聞眾得小乘道。約此標名,故云佛國。此經既以佛國為宗,必須明識佛國之義,今略為八重:一總明佛國、二別明佛國、三明修佛國因、四明見佛國不同、五明往生、六明說教、七約觀心、八用佛國義通釋此經。

三、仏国土の意味を明かすことについて。 これは、長者子の宝積が仏の国土の因と果について質問し、世尊が詳しくお答えになったことを示しています。舎利弗(しゃりほつ)が疑問を抱くと、仏は神通力をもって清らかな浄土の姿を現されました。その時、多くの人々は大乗の教えの利益を得ました。その後、再び穢れた土(この世界)に戻り、声聞(しょうもん)の者たちには小乗の道が示されました。これらに基づいて題名が付けられたため、「仏国」というのです。 この経典は仏国土を宗旨としているため、その意味をはっきりと理解しなければなりません。ここでは簡単に八つの項目に分けて説明します。 第一に、仏国土について総体的に明かすこと。 第二に、仏国土について個別に明かすこと。 第三に、仏国土を成就するための因(修行)について明かすこと。 第四に、仏国土を見ることに違いがあることを明かすこと。 第五に、往生について明かすこと。 第六に、教えを説くことについて明かすこと。 第七に、観心(心を観察する修行)について明かすこと。 第八に、仏国土の意味を用いてこの経典全体を解釈すること。

一、總明佛國者,前說普集及諸方等多明正報,今因寶積獻蓋、如來合蓋現土,即表欲說依報。何者?正報既顯,須廣明依。如說王民,必須知土治正事業。言佛國者,佛所居域故名佛國。譬如王國,雖臣民共住,而從王受稱名某王國。今佛雖與有緣共居,而從佛受名名某佛國。佛身所依名為佛土,佛住界分名佛世界,佛所居止萬境不同亦名為剎。然國有事理,事即應身之域、理則極智所照之境。而至理虛寂,本無境智之殊,豈有能所之別?但以隨機應物說有真應,故明理事也。然非本無以垂迹,故有應形應土;非迹無以顯本,故引物同歸法身真國。故文云「雖知諸佛土永寂如空,而現種種清淨佛土」,則應同凡聖、現有封疆。凡聖果報高下殊別,所現淨穢亦復如是。故《瓔珞》云「起一切眾生應、一切國土應。」或有釋言:應國者是眾生集業所感,故文云「眾生之類是菩薩淨土」。聖人慈悲來此現生,故《法華》云「而生三果朽故火宅,為度眾生生老病死。」有云「諸佛法身猶如明鏡,一切色像悉現其中。」是則一切國土皆從法身本國應現,國由佛身故云佛國。故《法華》云「今此三界皆是我有,其中眾生悉是吾子。」今詳斯語,若云應國從法身現即是自生,若從眾生即是他生,眾生對佛即是共生,若離生離佛即是無因而有土也。皆墮性義,此即須破。當知國土若淨若穢皆不可說,有因緣故而可說者,悉檀赴機皆得說也。

一、仏国土について総論する。これまでに述べた「普集」や「諸方の経典」は主に仏の正報(主体としての仏そのもの)を明らかにしてきた。今、宝積が蓋を献じ、如来がその蓋を合わせて国土を現じたのは、仏の依報(環境としての国土)を説こうとする表れである。なぜなら、正報がすでに明らかになったなら、その依報を広く示す必要があるからだ。例えば、王と民衆について語るならば、必ずその国土の統治や正しい事業を知らねばならない。

「仏国土」とは、仏がおられる領域のことを言い、ゆえに仏国土と名づける。例えば王の国は、臣民が共に住んでいながらも、王の名を取って「某王国」と呼ぶのと同じである。今、仏もまた縁ある者と共におられるが、仏の名を取って「某仏国土」と名づける。仏の肉身のよりどころを仏土、仏の住む境域を仏世界、仏の住居する一切の環境を「刹」とも呼ぶ。

国土には事と理がある。「事」とは応身(衆生に応じて現れる姿)の領域であり、「理」とは究極の智慧が照らす境涯である。しかしながら、究極の真理は虚しく静かであり、本来、境と智の区別もなく、能と所の違いもない。ただ衆生の機根に応じて、真身と応身があると説くのであり、ここに事と理を明らかにするのである。

しかも、本源がなければ応現する途もないので、応身と応土が現れる。また、応現がなければ本源を顕すこともできないので、衆生を導いて法身の真の国土に帰らせる。それゆえ経典には「諸仏の国土が永遠に寂静であり空であることを知りながら、種々の清浄な仏土を現ずる」とある。これは応身が凡聖と共にあり、国土の境界が現れることを示す。凡夫と聖者の果報には高低の差があり、現れる清浄と穢れもまた同様である。故に『瓔珞経』には「一切衆生の応、一切国土の応を起こす」とある。

ある解釈では、「応土」とは衆生の共同の業が感応して生じたものだから、経典に「衆生の類こそが菩薩の浄土である」とあるという。聖人は慈悲をもってこの世界に現れ生まれる。故に『法華経』には「三界の朽ちた火宅に生まれ、衆生の生老病死を救うために現れる」とある。また、ある説では「諸仏の法身は明鏡のようであり、一切の色や形はその中に映る」という。そうであれば、すべての国土は法身の本国から応現したものであり、国は仏身に由来するから仏国土という。故に『法華経』には「今この三界はすべて我が所有であり、その中の衆生はすべて我が子である」とある。

しかし、今これらの言葉を詳しく考察すると、応国が法身から現れると言えばそれは「自生」であり、もし衆生から生じると言えば「他生」であり、衆生と仏とを対置すれば「共生」にあたる。また、生と仏の両方を離れて言えば「無因(原因なくして国土が生じる)」となる。これらはいずれも固定的な実体を想定する「性」の見解に陥るものであり、ここで破却されねばならない。知るべきである。国土は清浄であれ穢れであれ、言葉で表せるものではない。ただ因縁によって語ることが許されるのは、衆生の機根に応じた方便(悉檀)として、いずれも説くことができるからである。

二、別明佛國者,諸佛利物差別之相無量無邊,今略為四:一、染淨國,凡聖共居;二、有餘,方便人住;三、果報,純法身居,即因陀羅網無障礙土也;四、常寂光,即妙覺所居也。前二是應,即應佛所居;第三亦應亦報,即報佛所居;後一但是真淨,非應非報,即法身所居。言染淨者,九道雜共。何者?六道鄙穢故名為染,三乘見真故名為淨。三六共居故名染淨,亦名凡聖同居國也。就染淨土,凡聖各二。凡居二者,一惡眾生,即四惡趣也;二善眾生,即人天也。聖居二者,一實二權。實聖者,四果及支佛,通教六地、別十住、圓十信後心,通惑雖斷,報身猶在。二權聖者,方便有餘三乘人,受偏真法性身,為利有緣願生同居;若實報及寂光法身大士及妙覺佛,為利有緣應生同居,皆是權也。是等聖人與凡共住,故云凡聖同居。四惡趣共住,故云穢土。二、明同居淨土者,無量壽國雖果報殊勝難可比喻,然亦染淨凡聖同居。何者?雖無四趣,而有人天。何以知之?生彼土者未必悉是得道之人,故經云「犯重罪者,臨終之時懺悔念佛,業障便轉,即得往生。」若但聖生,凡夫何得願生彼土?故知雖具惑染,願力持心亦得居也。聖生權實,類前可知。但以無四惡趣,故名為淨。舉此往類。同居之國優劣非一,雖復穢淨多種,如《法華經》授弟子記所住國土,束而明之,並屬凡聖同居土也。

2. 次に、仏の国について詳しく説明します。諸仏が衆生を利益するための境界の様相は無量無辺ですが、ここでは大きく四つに分けます。一に染浄土、凡夫と聖人が共に住む世界。二に有余土、方便の人が住む世界。三に果報土、純粋に法身の者が住む世界であり、因陀羅網のごとく障りのない国土。四に常寂光土、妙覚の者が住む世界である。

前の二つは応身に相当し、応身仏の住む世界。第三は応身でもあり報身でもあり、報身仏の住む世界。最後の一つは真に清浄であり、応身でも報身でもなく、法身仏の住む世界である。

「染浄」とは、九つの道が雑ざり合って共に存在することを言う。なぜか。六道は低く汚れているから「染」と呼び、三乗は真理を見ているから「浄」と呼ぶ。三乗と六道が共に住むから「染浄」と言い、また「凡聖同居土」とも言う。

この染浄土には、凡夫と聖人がそれぞれ二種類ずついる。凡夫の二種とは、第一に悪の衆生、すなわち四悪趣である。第二に善の衆生、すなわち人間と天人である。聖人の二種とは、第一に真実の聖者、第二に権化の聖者である。真実の聖者とは、四果および縁覚、通教の六地、別教の十住、円教の十信の後の心を持つ者で、通惑は断じているが報身はまだ存在する。権化の聖者とは、方便有余土の三乗の者で、偏った真実の法身を受けている。彼らは有縁の衆生を利益するため、願によって同居土に生まれる。また実報土や常寂光土の法身の大士や妙覚の仏も、有縁の衆生を利益するために応じて同居土に生まれるが、これらは全て権化である。

このような聖人たちが凡夫と共に住むから「凡聖同居」と言う。四悪趣と共に住むから「穢土」と言う。

第二に、同居浄土について説明する。極楽世界はたとえ果報が殊勝で比べようがないが、やはり染浄凡聖同居の土である。なぜか。四悪趣はないが、人間と天人は存在する。どうしてそれが分かるか。あの国に生まれる者は、必ずしも全て悟りを得た人とは限らないからである。経典にこうある、「重い罪を犯した者でも、臨終の時に懺悔し念仏すれば、業障が転じて往生を得る」と。もし聖者だけが生まれるのなら、凡夫はどうして往生を願うことができようか。ゆえに、煩悩の染めを受けてはいても、願いの力が心を支えればそこに住むことができると知るべきである。

聖者が生まれることの真実と権化については、前の分類と同じである。ただ、四悪趣がないから「浄」と呼ぶのである。こうして分類してみると、同居土の優劣は一様ではない。様々に穢れと清浄があるが、例えば『法華経』で弟子たちに授記された国々も、まとめて言えば、すべて凡聖同居土に属するのである。

問:染淨國名出何經論?答:《思益經》云「日月光佛命梵天來此土云:『汝當用十法遊彼世界,娑婆之土名染淨世界。』」染即是凡,淨即是聖。

質問:「染浄世界」という国名は、どの経典や論書に出てくるのですか?

答え:『思益経』にこう説かれています。「日月光仏が梵天に、この娑婆世界へ行くよう命じて言われた。『あなたは十の教えを用いて、かの世界を遊行しなさい。娑婆の国土は、染浄世界と名づけられる。』」ここで「染」とは凡夫のことであり、「浄」とは聖者のことです。

問:穢土十惡所感四趣依正皆穢可然,但十善果淨土因同,何得依正頓殊別耶?答:二處修因善名雖同,淨土修善精微勝故,故彼凡聖所得依正不同穢土。

問い:穢土(けど)は十悪によって感応(かんのう)されるものであり、四悪趣(四つの苦しみの世界)に属する依報(環境)と正報(身体)はすべて穢れているという点は理解できます。しかし、十善の果報は浄土の因(原因)と同じであるのに、どうして依報と正報が急にこれほど異なるのでしょうか?

答え:二つの場所(穢土と浄土)で修行する際の因(善行)の名は同じでも、浄土での修行の善はより精密で優れているからです。それゆえ、浄土における凡夫や聖者の依報と正報は、穢土のものとは異なるのです。

二、明有餘土者,二乘、三種菩薩證方便道之所居也。何者?若修二觀斷通惑盡,恒沙別惑無明未斷,捨分段身而生界外受法性身,即有變易所居之土,名為有餘,亦名方便,方便行人之所居也。故《攝大乘》七種生死,此即第四方便生死。

第二に、「有余土」について説明します。これは、声聞・縁覚の二乗と、三種類の菩薩が方便の修行を証得した者たちが住む世界です。なぜそう言えるのでしょうか。もし二つの観法を修して通惑を完全に断ち切り、無数の別惑や無明をまだ断ち切っていなくても、分段の身を捨てて三界の外に生まれ変わり、法性の身を受けるならば、そこには変易に基づく住む世界が現れます。これを「有余」と呼び、また「方便」とも言います。方便の修行者が住む場所だからです。したがって、『摂大乗論』で説かれる七種の生死のうち、これが第四番目の「方便生死」に当たります。

問:有餘國名出何經論?答:《法華》云「我於餘國作佛,更有異名。是人雖生滅度之想,而於彼土求佛智慧。」即其義也。《大論》云「二乘入滅,雖不生三界,界外有淨土,於彼受法性之身。」

問:その「余国」とは、どの経典や論書に出てくるのでしょうか。

答:『法華経』にはこうあります。「私は他の国で仏となり、別の名前を持つ。その人は仏の涅槃に入ったと思うけれども、実はその国で仏の智慧を求めるのである。」これがその意味です。また『大智度論』には「声聞や縁覚は涅槃に入っても、三界には生まれない。しかし三界の外には清らかな土地があり、そこで法の真理を体現した身を受ける。」と説かれています。

三、明果報土者,即因陀羅網是。華藏世界純諸法身菩薩所居,以其觀一實諦,破無明、顯法性,得真實果報,而無明未盡,潤無漏業受法性報身。報身所居依報淨國,名果報國也。以觀實相發真無漏所得果報,故名為實。修因無定色心無礙,亦名實報無障礙土。言無障礙者,謂一世界攝一切世界,一切世界亦如是,此名世界海,亦名世界無盡藏。別教初地入此世界,有七種淨義:一、同體淨,如一即一切、一切即一。二、自在淨,一切國土平等清淨。三莊嚴淨,一切佛土神通莊嚴。四、受用淨,離一切惑,成清淨道。五、住處淨,大智眾生悉滿其處。六、因淨,入佛土妙平等境界。七、果淨,隨物所宜而為示現。前五是體滿,有體相用;六是因圓;七是果滿。初住生彼,悉成就此七淨義。

三、果報土とは、すなわち帝網のことである。華蔵世界は、純粋に法身の菩薩たちが住むところであり、彼らが一実諦を観じ、無明を破り、法性を顕かにして、真実の果報を得るからである。しかし無明がまだ尽きず、無漏の業を潤して法性の報身を受ける。報身の住む依報の清浄な国を、果報国と名付ける。実相を観じて真の無漏を発し、得た果報であるゆえに、実と名付ける。修行の因には定まった形がなく、色と心に障りがないので、また実報無障礙土とも名付ける。無障礙とは、一つの世界が一切の世界を摂め、一切の世界もまたそのようであることをいい、これを世界海とも、また世界無尽蔵とも名付ける。別教の初地はこの世界に入り、七種の清浄の義がある。一に、同体の清浄、一が即ち一切、一切が即ち一であるが如し。二に、自在の清浄、一切の国土が平等に清浄である。三に、荘厳の清浄、一切の仏土が神通をもって荘厳される。四に、受用の清浄、一切の惑いを離れて清浄な道を成す。五に、住処の清浄、大智の衆生がその処に満ちる。六に、因の清浄、仏土の妙なる平等の境界に入る。七に、果の清浄、物に随ってその宜しきに応じて示現する。前の五つは体が満ちたものであり、体・相・用を有する。六つ目は因が円かなこと、七つ目は果が満ちたことである。初住に生まれた者は、ことごとくこの七つの清浄の義を成就する。

問:出何經論?答:《仁王》云「三賢十聖住果報」,當知即是果報為土也。《法華》云「娑婆世界坦然平正,其諸菩薩咸處其中。」《大論》云「法性身佛為法身菩薩說法,其國無聲聞支佛之名。」《華嚴》明因陀羅網世界,《攝大乘》明華王世界,皆明果報土無障礙相。

問い:どの経典や論書に基づくのか? 答え:「仁王経」には『三賢十聖は果報に住す』とあり、これこそ果報がそのまま浄土であると知るべきである。「法華経」には『娑婆世界は平坦で広く、諸々の菩薩は皆その中に住す』とある。「大智度論」には『法性身の仏は法身の菩薩のために説法し、その国には声聞や縁覚の名はない』とある。「華厳経」には因陀羅網の世界が説かれ、「摂大乗論」には蓮華王の世界が説かれている。これらはいずれも、果報の浄土には障害となるものが一切ない姿を示している。

四、明寂光土者,妙覺極智所照如如法界之理,名之為國。但大乘法性即是真寂智性,不同二乘偏真之理,故《涅槃》云「第一義空名為智慧」,此經云「若知無明性即是明」,如此皆是常寂光義。不思議極智所居,故云寂光,亦名法性土。但真如佛性非身非土而說身土,離身無土、離土無身。其名土者,一法、二義。故《金剛般若論》云「智集唯識通,如是取淨土,非形第一體,非莊嚴莊嚴。」

第四に、寂光の土について説明します。妙覚の極智が照らす、如如たる法界の理を「国」と名づけます。ただし、大乗における法性とは、真実に寂滅した智慧の性そのものであり、二乗の偏った真諦の理とは異なります。ゆえに『涅槃経』には「第一義空を智慧と名づく」とあり、この経典には「無明の性すなわちこれ明なりと知る」とあります。これらはすべて、常寂光の義を示しています。

不可思議な極智の住まうところであるため、「寂光」と言い、また「法性の土」とも名づけます。しかし、真如や仏性は、本来「身」でも「土」でもありませんが、仮に「身」や「土」として説かれています。「身」を離れて「土」はなく、「土」を離れて「身」はありません。その「土」と呼ぶのは、一つの法に対して二つの意味があるからです。よって『金剛般若論』には「智慧は唯識に集まり、かくのごとく浄土を取る。形にあらざる第一体、荘厳にあらざる荘厳」とあります。

問:出何經論?答:《仁王》云「唯佛一人居淨土」。此經云「心淨則佛土淨」,心淨之極極於佛也。《普賢觀》云「釋迦牟尼名毘盧遮那遍一切處,其佛住處名常寂光。」

問い:どの経典や論書に基づくのですか? 答え:『仁王経』には「ただ仏のみが浄土に住む」と説かれています。また『維摩経』には「心が清らかであれば、仏の国も清らかとなる」とあり、心の清らかさの極みこそが仏の境地です。『普賢観経』には「釈迦牟尼は毘盧遮那とも名づけられ、あらゆる場所に遍満している。その仏の住むところを常寂光という」と説かれています。

問:經論散明可如向說,不見四土一處出之。答:經論度此本自不多,尋讀之者又不備悉,四土共出何必無文?正如此經答長者子,即是其意。文云「隨所化眾生而取佛土,隨所調伏眾生而取佛土,隨諸眾生應以何國入佛智慧,隨諸眾生應以何國起菩薩根。」若對四土,宛然相似。名目既異,佛意難量。在下對文,別當解釋。

問:経論に説かれていることは、今述べたように様々で、四つの浄土が一箇所にまとめて示されているのを見たことがありません。 答:経論の本来の目的は、この点について多くを述べることではありません。しかし、読者の中には十分に理解せずに読んでいる人もいます。四つの浄土が一緒に説かれているところが全くないわけではありません。 まさにこの経典で、長者子(青年)の問いに答えている箇所が、その趣旨です。経文にはこうあります。 「教え導く衆生に応じて、仏の国を取る。調伏する衆生に応じて、仏の国を取る。衆生がどのような国で仏の智慧に入るべきかに応じて、また衆生がどのような国で菩薩の根を起こすべきかに応じて、仏の国を取る。」 これを四つの浄土に対応させてみると、まことに似ているところがあります。ただし、名称が異なるため、仏の意図は推測しがたいのです。後の本文において、別に解釈を加えることにしましょう。

問:此經未明開權顯實,何得明二乘生有餘土?答:經云「佛以一音演說法,眾生隨類各得解。」何妨二乘通教菩薩並得橫解,別圓兩教橫竪無礙?

問:この経典では「権を開き実を顕す」ことを明らかにしていないのに、なぜ二乗が有余土に生まれると説けるのですか?

答:経典に「仏は一つの音で法を説かれ、衆生はその種類に従ってそれぞれに理解する」とあります。二乗や通教の菩薩が横に理解することを妨げることはありません。また、別教と円教の二教においては、横にも竪にも障りがないのです。

問:《華嚴》明十種佛土,此四攝盡以不?答:何但攝十。乃至有人言,經明二十七品佛土,無量壽土止是第六。見文對四,攝無不盡。

問い:『華厳経』には十種の仏土が説かれていますが、この四つの摂(四摂法)ですべて尽くされているのでしょうか?

答え:十種どころか、ある人が言うには、経典には二十七種の仏土が説かれており、無量寿土はその第六にすぎません。しかし、仏土を四つに分類して対照すれば、すべてを尽くすことができないものはありません。

問:若爾,何不依十及二十七?答:一往有文欲對四教,厝意難見。

問:では、なぜ十や二十七に依らないのですか? 答:まず、文章が四教と対応するよう意図されており、その意図を察するのは難しいからです。

三、明修佛國因者,此經非但約正報果明依報國,亦約正因明於依因。依因者即佛國因,故佛答寶積橫約十七正因以明依因,竪約十三正因以明依因。國既有四,須明四因。一往明四教菩薩願行之因感四佛果,依因感於四土。子細窮覈非無小妨,今還約四義分別:一者菩薩修三權一實願行之因成就眾生,若四種眾生未斷界內緣集、若斷未盡,菩薩界內成佛之時,四種眾生來生同居之土,修於四種願行之因。二者菩薩修於權實四行成四眾生,四種眾生方便觀成界內結盡,菩薩於有餘土成佛之時,四種眾生同生其國,修於別圓兩教之因。三者菩薩修於別圓教願行之因,成就二種眾生,二種眾生能斷無明,菩薩報國成佛之時,別圓眾生成於實相無漏之因,來生其國,同修圓因。四者修於圓斷願行之因,因極果滿成妙覺位居常寂光,稟圓眾生若修圓因願行圓極,亦栖寂光。十方諸佛湛若虛空無有增減,為成眾生起四土因,引四眾生同栖佛國,修願行因成菩提果,同居寂光盡未來際。如《法華.壽量品》之所明也。

第三に、仏の国の因を明らかにします。この経典は、正報の果によって依報の国を説くだけでなく、正因によって依因を明らかにしています。依因とは仏の国の因であり、そのため仏は宝積の問いに答えて、横には十七の正因によって依因を示し、縦には十三の正因によって依因を示しました。

国には四つの種類があるので、四つの因を明らかにする必要があります。まず大きく分けて、四教の菩薩が願行の因を修行して四つの仏の果を得、その依因が四つの土に感応することを示します。細かく詳しく調べれば、多少の不都合がないわけではありませんが、ここでは四つの意味によって区別します。

第一に、菩薩が三権一実という願行の因を修行して、衆生を成就させることについて。もし四種類の衆生がまだ界内の見思惑を断ち切っておらず、あるいは断ち切っても尽きていない場合、菩薩が界内で成仏する時、四種類の衆生は同居土に生まれ、四種類の願行の因を修行します。

第二に、菩薩が権実の四つの行を修行して四種類の衆生を成就させることについて。四種類の衆生が方便の観法を成就して界内の煩悩を尽くしたなら、菩薩が有余土で成仏する時、四種類の衆生はその国に共に生まれ、別教と円教の二つの教えの因を修行します。

第三に、菩薩が別教と円教の願行の因を修行して、二種類の衆生を成就させることについて。二種類の衆生が無明を断ち切ることができるなら、菩薩が報土の国で成仏する時、別教と円教の衆生は実相の無漏の因を成就して、その国に生まれ、共に円教の因を修行します。

第四に、円教の断惑という願行の因を修行することについて。因が極まり果が満ちて妙覚位に至れば、常寂光土に住します。円教の教えを受ける衆生がもし円因を修行し願行が円満に極まれば、やはり常寂光土に安住します。

十方の諸仏は、虚空のように湛然として増減がありません。しかし衆生を成就するために、四土の因を起こし、四種類の衆生を導いて同じく仏の国に住まわせ、願行の因を修行させて菩提の果を成就させ、共に常寂光土に住して未来際を尽くします。これは『法華経』の寿量品で明らかにされている通りです。

四、明見佛國不同者,此經云「譬如諸天共寶器食,隨其福德飯色有異。」至論佛土皆如虛空,豈有不同之見耶?若不見相而可見者,具有十番;下釋飯色當分別也。

4. 「仏の国に異同がある」ということについて明らかにすると、この経典には「例えば天人が共に宝の器で食事をするとき、その福徳に応じて飯の色が異なるようなものだ」と説かれています。極論すれば、仏の国土はすべて虚空のようなものであり、どうして異同といった見解があるでしょうか。もしありのままの姿を見ずに見ることができるなら、十通りの解釈があります。後に「飯の色」について説明する箇所で、詳しく分別することにしましょう。

問:經言「諸天同寶器食,隨其福德飯色有異」,此為是一質異見、異質一見?答:應作四句。一、異質異見,如娑婆、極樂,此土見穢、彼土見淨。二、異質一見,如娑婆、極樂垢淨質異,別圓菩薩用天眼見,但一有餘。三、一質異見,如身子、螺髻所見,於一有餘見同居土淨穢之異。四、一質一見,謂羅漢支佛三種意生。此五種人,界內結盡同生有餘,所見無異。

問う。経典に「諸天は同じ宝器で食事をするが、その福徳に従って飯の色に違いがある」と説かれる。これは同一の物質を見る対象として異なる見解が生じるのか、それとも異なる物質に対して同一の見解が生じるのか。 答え。四つの区分で答えよう。 一、異なる物質に対して異なる見解が生じる場合。例えば、娑婆世界と極楽世界では、この世界は穢れていると見え、かの世界は清らかであると見える。 二、異なる物質に対して同一の見解が生じる場合。例えば、娑婆世界と極楽世界は穢れと清らかという異なる質であるが、別教や円教の菩薩が天眼で見れば、どちらもただの有余土として一様に見える。 三、同一の物質に対して異なる見解が生じる場合。例えば、舎利弗と螺髻梵王が見たように、一つの有余土において、同居土の清らかと穢れという違いが見える。 四、同一の物質に対して同一の見解が生じる場合。阿羅漢、独覚、そして三種の意生身の菩薩をいう。これら五種の人々は、三界内の煩悩を尽くして、ともに有余土に生まれ、その見るところに違いはない。

問:那約有餘明一質耶?答:三乘同以無言說道發真無漏,所感國土一法相同,故言一也。

問:では、残りの明らかな部分は、一つの本質(質)と言えるのでしょうか? 答:三乗(声聞・縁覚・菩薩)は皆、無言の教えによって真の無漏の智慧を発し、悟りにより感得する国土(浄土)は、一つの法として同じ性質を持つため、「一」と言えるのです。

問:此經「譬如諸天同寶器食,見飯色異」,為是無障礙色有障礙見、有障礙色有障礙見而有異耶?答:應作四句。一有障礙色有障礙見,即染淨有餘兩土不同。二有障礙色無障礙見,即法身菩薩無礙天眼見染淨有餘悉無障礙。三無障礙色有障礙見,即因陀羅網染淨有餘二種眾生見有障礙。四無障礙色無障礙見,即三賢十聖住果報土見無障礙也。

問:この経典で「譬えば諸天が同じ宝器で食事をするにも、飯の色が異なって見える」とあるのは、障礙のない色に障礙のある見解があるのか、それとも障礙のある色に障礙のある見解があって、違いが生じるのか?

答:この問いに対しては、四つの場合に分けて説明すべきである。

第一に、障礙のある色に障礙のある見解が生じる場合。これは、凡夫や二乗の住む染浄の有余土において、国土に違いが見えることである。

第二に、障礙のある色に障礙のない見解が生じる場合。これは、法身の菩薩が障礙のない天眼によって、染浄の有余土をすべて障礙なく見ることである。

第三に、障礙のない色に障礙のある見解が生じる場合。これは、因陀羅網の世界において、染浄の有余土に住む二種の衆生が、障礙のある見方をするということである。

第四に、障礙のない色に障礙のない見解が生じる場合。これは、三賢十聖の菩薩が果報土に住み、すべてを障礙なく見ることである。

問:此經言「同寶器食見飯色異」,為有質見異、無質見異?答:亦應四句。一染淨有餘實報悉是有質見異。二有質礙色見無質礙,即是菩薩依佛慧見三土皆寂光也。三無質礙色見有質礙,即三土眾生於常寂光見有異質。四無質礙色見無質礙,即是諸佛心淨土淨,見於如如平等法界常寂光土。無形無質,略出十二不同,委推無量。雖有無量,皆如虛空,故淨名空室表十方佛土悉皆空也。

質問:この経典に「同じ宝の器で食事をするのに、見える飯の色が異なる」とありますが、これは実体のある物質を見て異なるのか、実体のない物質を見て異なるのか、どちらでしょうか?

答え:これには四つの場合がある。第一に、染めや清めに余裕があり、真実の報いとしての世界は、すべて実体のある物質として見え、違いが生じる。第二に、実体のある物質としての色が、実体のないものとして見える場合。これは菩薩が仏の智慧に依って、三つの世界がすべて常寂光土であると見ることを指す。第三に、実体のない物質としての色が、実体のあるものとして見える場合。これは三つの世界の衆生が、常寂光土の中で異なる実体のあるものを見ることを指す。第四に、実体のない物質としての色が、実体のないものとして見える場合。これは諸仏の心が清らかで、浄土が清らかであり、如如として平等な法界である常寂光土を見ることを指す。形も実体もなく、簡単に言えば十二の異なった場合があるが、細かく考えるなら無数にものがある。たとえ無数にあっても、すべてが虚空のようである。だからこそ、維摩経の空の部屋は、十方の仏の世界がすべて空であることを表しているのである。

五、明往生者,為二:一總、二別。一、總約四土明往來者,亦云來生,具如《大品》。從此至彼名為往生,從彼來此名為來生。二土亦然,但橫竪異耳。常寂光土絕於生名,無往來也。應來三土,無應往也。二、別約四土明往生者,為四:一、染淨土明往生者,有穢有淨。若穢土受生,以見思惑,惑潤惡業生四惡趣、惑潤善業則生人天。若明三乘聖人往生,初果斷見,未斷欲思,九品潤生,人天七反。二果三品潤生,欲一往來。三果二界思惟惑潤往生二界;通六地來及別十住并圓五品乃至入信,通惑未盡並類三果,可知皆是實來生同居土。若權來生者,三乘聖人界內惑盡,或從方便土願來,或從果報寂光應來。次明淨土凡夫實生者無四惡趣,但以見思潤善來生人天。聖權實生,類前可知。二、有餘土往生者,三藏二乘、通教三乘、別教十行、圓信後心,長別三界皆實往生。故《勝鬘》云「變易生死者,二乘及大力菩薩三種意生所不能斷」,故生有餘受法性身。

五、往生についての説明は、全体と個別の二つに分けられます。 一、全体として四土における往き来について述べます。「来生」とも言い、詳しくは『大品般若経』の通りです。ここからあちらへ行くことを「往生」、あちらからこちらへ来ることを「来生」と言います。二つの土も同様ですが、横の関係か縦の関係かの違いがあります。常寂光土には「生」という概念はなく、往き来はありません。ただし、応じて三土に来ることはあり、その場合も「往く」ということはありません。 二、個別に四土における往生を述べます。四つに分けられます。 一、染浄土における往生とは、穢れた土と清らかな土があることです。穢土に生を受ける場合、見惑と思惑の煩悩によって悪業が潤されると四悪趣に生まれ、善業が潤されると人間や天界に生まれます。三乗の聖者の往生については、初果は見惑を断じていますが、欲界の思惑を断ち切っておらず、九品の潤生によって人間や天界に七回往来します。二果は三品の潤生により、欲界に一度だけ往来します。三果は二界(色界・無色界)の思惑によって潤され、二界に生まれます。通教の六地から別教の十住、円教の五品から十信に至るまで、共通の煩悩が尽きていない者は、みな三果と同様に、実際に同居土に生まれてくることが分かります。権化として生まれてくる場合は、三乗の聖者で界内の煩悩を尽くした者、あるいは方便土からの願いによる場合、あるいは果報土や寂光土からの応現による場合があります。 次に、浄土における凡夫の実際の生まれについては、四悪趣はありませんが、見惑・思惑によって善業が潤され、人間や天界に生まれます。聖者の権化としての実際の生まれについては、前述の通りです。 二、有余土における往生とは、蔵教の二乗、通教の三乗、別教の十行、円教の信の後の心が、長く三界を離れ、みな実際に往生することを言います。それゆえ『勝鬘経』には「変易生死は、二乗および大力の菩薩、三種の意生身が断じることができないものである」と説かれており、有余土に生まれて法性身を受けるのです。

問:何等是三種意生身?答:一、三昧正受。此恐是通教同入真空寂定之樂,故《涅槃》云「聲聞定力多,故不見佛性。」二、覺法自性。此恐是別教菩薩,雖證偏真而覺知有中道法性。三、無作。此恐是圓教菩薩觀於中道無作四諦,圓伏無明。皆言意者,未發真修猶是作意,無明為緣、無漏業為因,即此彼土受法性身。

問う:三種の意生身とは何か。 答う: 一、「三昧正受」。これは通教において、共に真空・寂定の境地に入る楽しみを指すと思われる。ゆえに『涅槃経』には「声聞は定力が多いため、仏性を見ることができない」とある。 二、「覚法自性」。これは別教の菩薩が、偏った真理を証得しながらも、中道の法性があることを覚知することを指すと思われる。 三、「無作」。これは円教の菩薩が、中道の無作四諦を観じ、無明を円満に抑えることを指すと思われる。 いずれも「意」と言うのは、未だ真の修行が発せられず、なお作意の境地にあるからである。無明を縁とし、無漏の業を因として、この(迷いの)世界において法性の身を受けるのである。

問:如《楞伽》明三種意生,悉是十地應生報土。那云有餘?答:約別十地判三意生,即生報土。約通十地判,正與向解三教菩薩界內惑盡則同生有餘意同。若實報、寂光,破無明顯法身,則應生有餘。

問:『楞伽経』に説かれる三種の意生身は、いずれも十地の菩薩が報土に生まれるものとされています。それなのに、なぜ「有余土」があるのでしょうか? 答:別教の十地の立場で三種の意生身を判断すれば、それは報土に生まれることになります。しかし通教の十地の立場で判断すれば、先に述べた三教の菩薩が界内の煩悩を尽くせば、同じく有余土に生まれるという解釈と一致します。 もし実報土や寂光土について言えば、無明を破り法身を顕わしたならば、それらの菩薩は有余土に生まれるべきなのです。

三、果報土明來生者,若於同居、有餘侵除無明,別圓地住皆得往生。四、常寂光土,若究竟寂光即是不生,不生豈有往來生也?若分明寂光,下寂滅忍十地二生,中寂滅忍等覺一生。或云圓教初住分破無明,見佛性理亦得分生,乃至等覺皆有此義,但有無明變易生死果報所拘,故云住果報也。妙覺永盡,故言一人居淨土。前四十一地若約果報名生果報,若分見真理名常寂光。

三、果報土において来生について明らかにするならば、もし同居土や有余土において無明を除き侵しているならば、別教の地、円教の住位に至れば、みな往生することができる。四、常寂光土においては、もし究竟の寂光であれば、それはすなわち不生であり、不生なのに、どうして往き来する生ということがあろうか?もし明らかな寂光であれば、下の寂滅忍の十地の二生、中の寂滅忍の等覚の一生がある。あるいは、円教の初住において分かれて無明を破り、仏性の理を見ることも分に応じて生ずることができ、等覚に至るまでみなこの義がある。ただし、無明の変易生死という果報に拘束されることにより、「果報に住す」と言うのである。妙覚は永遠に尽きるので、「一人、浄土に居す」と言う。前の四十一地は、もし果報に約せば、果報に生ずるといい、もし分かれて真理を見るならば、常寂光という。

問:分段同居要見思盡捨身方生有餘,有餘亦應別見思盡捨變易身方生報土耶?答:不然。分段質礙煩惱雖盡,必須捨報。若有餘土,隨破別惑,因移果易即名實報。

問い:分段同居土では、見思惑を全て断ち切ってからこの身を捨てて、ようやく有余土に生まれることができます。では有余土においても、さらに別の見思惑を尽くして変易身を捨ててから、ようやく実報土に生まれるのでしょうか?

答え:そうではありません。分段の身には質的な障りがあり、煩悩を尽くしても必ず報いの身を捨てる必要があります。しかし有余土では、別の惑を破るに従って、因が変わり果が移り変わること自体が、そのまま実報土となるのです。

問:實報受生寂光生不?答:既云常寂,豈得受生?生即流動,何名常寂?

問う:実報土に生まれ、常寂光土に生まれることはあるのでしょうか? 答える:すでに「常に寂滅している」というのなら、どうして受生があるでしょうか?「生」とは流れ動くことですから、何をもって「常寂」と呼べるでしょうか?

問:上何得云生常寂光?答:若果報土有邊論生,發慧見真真即不生,即是不生生也。

問:なぜ「生」と言いながら常寂光土に生じるというのか? 答:もし果報の土に限りがあって「生」があると論じるならば、智慧を発して真実を観ずれば、真実そのものは不生である。すなわち、これは「不生生」という意味である。

問:若不生生,亦應云不常常。

問う:もし「生じないことによって生じる」のであれば、同じように「常住しないことによって常住する」とも言えるのではないでしょうか。

答:亦如所並。何者?究竟常寂不生不生,四十一地分居常寂即不生生、不常常也。

答え:その通りです。なぜなら、究極の真実(究竟常寂)は、永遠に静寂であり、生じることもなければ生じないこともないからです。しかし、菩薩の四十一の修行段階にある者たちは、この永遠の静寂の中にあっても、常に新たな気づきを生み出し続けます。つまり、彼らにとっては、生じないことの中に生じるがあり、永遠でないものの中に永遠があるのです。

六、明四土說教不同,即為四:一、染淨土說教不同者,凡聖同居既有淨穢,穢者五濁障重而根有利鈍,利感頓教,譬如日出前照高山;鈍根障重,即開三藏、方等、大品方便調伏,於法華、涅槃始聞圓教,見於佛性開祕密藏。淨者,如華光土,雖非惡世,願說三乘,此亦得有頓漸之教。

6. 四つの浄土における教えの違いを明らかにする。すなわち、四つの場合がある。

第一に、凡聖同居土の浄・穢における教えの違いについて述べる。凡聖同居土には浄土と穢土がある。穢土では五濁の煩悩が重く、衆生の根機には利根と鈍根がある。利根の者は頓教(直接的に悟りへ導く教え)に感応する。たとえば、太陽が昇るとまず高い山を照らすようなものである。鈍根で煩悩の障りが重い者は、三蔵教・方等経・大品経といった方便の教えによって調伏され、法華経・涅槃経に至ってようやく円教(完全な教え)を聞き、仏性を見て秘密の蔵を開くのである。

一方、浄土では、例えば華光土のように、決して悪い世界ではないが、仏は衆生の願いにより三乗の教えを説く。これにも頓教と漸教の両方が存在するのである。

問:淨土亦得開漸教者,香積菩薩何故驚怪?答:本願說故。

問い:浄土にもまた段階的な教えがあるというなら、香積菩薩はなぜ驚き怪しんだのでしょうか? 答え:それは本願に説かれているからです。

二、有餘土說教不同者,斷通結盡皆得往生,不無利鈍。藏通二乘皆鈍,故《大論》明羅漢法性身鈍,以於佛道而紆迴故。通別圓教迭判利鈍可知,如來於彼但說一乘,雖無開三,而於一乘不無權別赴兩機緣。若明開顯,雖無藏通而開別權顯圓之實,故《法華》明羅漢生彼求佛智慧,得聞是經,唯以佛乘而得滅度。三、明果報土說教不同者,既皆破無明,其往生者同一根性,行大直道無復紆迴,佛於彼土但說一圓也。四、常寂光國說教不同者,若究竟寂光,無說無示而言說者,法身無緣冥資一切,無說而說即是法身說法。若約果報明常寂光,分別二種說法不同者,說無作四諦即果報土,說一實諦即常寂光。下兩土類此可知。

二、有余土における説教の違いについて――煩惱の結縛を断ち尽くし、生死を超えれば皆、往生できるが、そこには利根と鈍根の区別がないわけではありません。蔵教と通教の二乗はいずれも鈍根であり、ゆえに『大智度論』には、阿羅漢の法性の身は鈍いと説かれています。それは仏道において迂遠な道をたどるからです。通教・別教・円教の順に利根・鈍根を判別することは、理解できるでしょう。如来はかの土ではただ一乗のみを説き、三乗を開くことはありませんが、一乗の中にも権(仮の教え)と別(特別な教え)がなく、二つの機縁に対応するわけではありません。もし開顕(真実を開き顕すこと)を明かすならば、蔵教・通教はなくとも、別教の権を開いて円教の実を顕します。ゆえに『法華経』には、阿羅漢がかの土に生まれ、仏の智慧を求めてこの経を聞き、ただ仏乗によってのみ滅度を得ると説かれています。 三、果報土における説教の違いについて――すでに無明を破った者であり、往生する者はみな同じ根性を持ち、真っ直ぐな大乗の道を行くので、もはや迂遠な道はありません。仏はかの土ではただ一つの円教のみを説かれます。 四、常寂光土における説教の違いについて――もし究極の寂光土においては、説くことも示すこともありません。しかし、あえて説くと言うならば、法身は縁なくして一切を冥(ひそか)に資け、説かずして説く、これすなわち法身の説法です。もし果報(修行の結果としての報い)の立場から常寂光土を明かすならば、二種の説法の違いを分別できます。すなわち、無作の四諦を説くのが果報土であり、一実諦を説くのが常寂光土です。下の二土(方便有余土・実報無障礙土)もこれに類して理解できます。

七、約觀心明四國者,心性本來畢竟空寂,而眾生多顛倒少不顛倒,無明因緣而起善惡,即所生法即空即假即中。中是因緣善惡之境,即凡聖同居。何者?所觀善惡即淨穢土。了因緣虛假折體入空,空境即是有餘土也。知空非空不以為證,知中非因非果而因而果,若了因果無障礙者,即是果報無障礙土。雖復空假入出之殊,而無明心源即是佛性,若知無明性即是明,即常寂光。故文云「隨其心淨即佛土淨」,《大集》云「欲淨佛國,當淨汝心」,《華嚴》云「無量諸世界,悉從心緣起。一切諸法界,皆入一毛道」。

七、観心の上から四つの国土を明らかにするとは、心の本性は本来、畢竟して空にして寂滅している。ところが衆生は、顛倒している者が多く、顛倒していない者は少ない。無明の因縁によって善悪が生じる。すなわち、生じたところの法は、即ち空であり、即ち仮であり、即ち中である。中とは、因縁によって生じた善悪の境であり、すなわち凡聖同居土である。なぜか。観ずる所の善悪は、すなわち浄土と穢土である。因縁の虚仮であることを了知して、析空と体空によって空に入る。空の境は、すなわち有余土である。空が空にあらずと知り、それによって証とせず、中が因にあらず果にあらずして、因であり果であることを知る。もし因果に障りがないと了知すれば、すなわち果報無障礙土である。たとえ空・仮・入・出の違いがあるとしても、無明の心の源は、すなわち仏性である。もし無明の性が、すなわち明であると知れば、すなわち常寂光土である。故に経文に「その心の清らかなるに随って、すなわち仏の土も清らかなり」とあり、『大集経』には「仏の国を清らかにせんと欲せば、当に汝の心を清らかにすべし」とあり、『華厳経』には「無量の諸世界は、ことごとく心の縁より起こる。一切の諸法界は、皆一毛道に入る」とある。

八、用佛國義釋此經者,為三:一、通序分;二、通正說;三、釋流通。一、通序分者,合蓋現土,此瑞正表欲說佛國,故寶積述歎云「今奉世尊此微蓋,於中現我三千界。」寶積深知欲說淨土,故稱歎竟即問佛國因果,敘述現瑞正意,表於欲說佛國。二、通正說者,為三:一室外、二室內、三出室。一通室外者,有三品半文。寶積請說佛國因果,如來具答,故足指案地現於淨土,令諸眾生得大乘益;復土如故,求聲聞人得小乘益。若迷佛國依報之義,豈識此品之玄旨也。次通〈方便品〉者,為國王長者說折體兩觀,勸求佛果正因。若成依因,則具界內,結業未斷生同居淨,結業若斷即生有餘,若成佛時則二種眾生來生其國。次通〈弟子品〉,訶諸聲聞,意在令斷界外緣集,若至法華進斷別惑生果報土,後成佛時三種眾生來生其國。次通〈菩薩品〉,呵諸菩薩令斷無明則生寂光,後成妙覺之時一種眾生來生其國。二、通室內六品者,文殊問疾入毘耶離,淨名即現空室,云十方諸佛國土皆空,故現室空也。此豈非正表顯佛國義,扶成如來說佛國也。次通〈不思議品〉,現須彌入芥等不思議事,皆顯佛國依報自在。次通〈觀眾生品〉,天女住室十有二年,即同淨名在常寂國,正是助顯佛國之義,故云「十方佛土常現此室」。次通〈佛道品〉,行於非道通達佛道,即是於不淨國顯現淨國。故偈云「雖知諸佛國,及與眾生空,而常修淨土,教化諸群生。」次通〈入不二法門品〉,諸大菩薩各說入門,欲破前二土無明,入果報土住常寂光。次通〈香積品〉,此室現眾香之淨國對娑婆之穢土,即是證成室內五品扶成佛說淨穢兩國。三、通出室兩品者,〈菩薩行品〉淨名掌擎大眾還菴羅園,佛對阿難說種種土,復宗明義。若不精解,此品經文何由可別?次通〈阿閦佛品〉,即是室外現土證成如來說種種土。其義分明,聞經得道倍於前也。三、用佛國釋流通兩品者,〈法供養品〉天帝發誓弘經,如來印可,正為流通不思議解脫之體、佛國因果之宗。〈囑累品〉付囑彌勒及阿難等,流通不思議解脫法門及上所明佛國因果,使不斷絕。

第八、「仏国」の義を用いてこの経を解釈するに、三つがある。一、通序分。二、通正説。三、流通を釈す。

一、通序分とは、合わせて蓋をして土を現ずる。この瑞相は、まさに仏国を説こうとすることを表す。ゆえに宝積が述べて歎ずる、「今世尊のこの微蓋を奉る、其中に我が三千界を現ず」と。宝積は深く、浄土を説こうとすることを知り、故に称歎し終わり、即ち仏国の因果を問う。これは現瑞の正意を述べ、仏国を説こうとすることを表す。

二、通正説とは、三つがある。一、室外。二、室内。三、出室。

一、通室外とは、三品半の文がある。宝積は仏国の因果を請いて説く。如来は具に答え、故に足の指で地を按じ、浄土を現じ、諸々の衆生に大乗の益を得せしむ。また土を元の如くに復し、声聞を求むる人は小乗の益を得る。もし仏国の依報の義に迷わば、どうしてこの品の玄旨を識るを得んや。

次に、「方便品」を通ずる。国王や長者のために、折体の両観を説き、仏果の正因を求めるよう勧める。もし依因を成せば、則ち界内を具える。結業未だ断たざれば、同居浄に生ず。結業もし断たれば、即ち有余に生ず。もし仏と成る時は、則ち二種の衆生が来りてその国に生ず。

次に、「弟子品」を通ずる。諸々の声聞を呵し、その意は界外の縁集を断たしむるに在り。もし法華に至れば、進んで別惑を断じ、果報土に生ず。後に仏と成る時は、三種の衆生が来りてその国に生ず。

次に、「菩薩品」を通ずる。諸々の菩薩を呵し、無明を断じて、則ち寂光に生ぜしむ。後に妙覚と成る時は、一種の衆生が来りてその国に生ず。

二、通室内六品とは、文殊が疾を問いて毘耶離に入る。浄名即ち空室を現じ、云く「十方の諸仏国は皆空なり」と。故に室の空を現ずるなり。これは豈に、正しく仏国の義を表し、如來の仏国を説くことを扶け成すに非ずや。

次に、「不思議品」を通ずる。須弥を芥子に入れる等の不思議の事を現ず。皆、仏国の依報の自在なることを顕す。

次に、「観衆生品」を通ずる。天女、室に住むこと十有二年、即ち浄名と常寂の国に同じく在す。正に仏国の義を助けて顕す。故に云く「十方の仏土、常に此の室に現ず」と。

次に、「仏道品」を通ずる。非道に行じて仏道に通達する。即ち不浄の国に於いて浄国を顕すなり。故に偈に云く「諸仏国及び衆生の空なるを知ると雖も、而も常に浄土を修し、諸群生を教化す」と。

次に、「入不二法門品」を通ずる。諸大菩薩、各々入門を説く。前の二土の無明を破り、果報土に入り、常寂光に住せんと欲す。

次に、「香積品」を通ずる。この室に衆香の浄国を現じ、娑婆の穢土に対す。即ち是れ、室内の五品を証成し、仏の説く淨穢の両国を扶け成す。

三、通出室の両品とは、「菩薩行品」、浄名、掌に大衆を擎げて菴羅園に還る。佛、阿難に対して種々の土を説き、宗を復し義を明らかにす。もし精解せずんば、此の品の経文、何に由りてか別つべけんや。

次に、「阿閦佛品」を通ずる。即ち是れ、室外に土を現じ、如來の種々の土を説くを証成す。其の義分明にして、経を聞きて道を得ること、前に倍せり。

三、仏国を用いて、流通の二品を釈す。「法供養品」、天帝、発誓して経を弘めんとす。如来、印可して、正に不思議解脱の体、仏国因果の宗を流通することを為す。

「嘱累品」、弥勒及び阿難等に付嘱し、不思議解脱の法門、及び上に明かせる仏国因果を流通し、断絶せしめざらしむ。

四、釋品者,品以品類為義,義類同者聚為一段,故稱品也。但此品題應云序品,言佛國者從正當名。

第四に、「品」の意味を解釈します。「品」というのは分類のことです。意味や種類が同じものを一つにまとめたものを「品」と呼びます。この章の題名は本来「序品」とすべきですが、「仏国」とあるのは、内容の中心を示した呼び方です。

問:既有序正,何得用正以標初品?答:此問非也。設用序當名,復應問云何不用正?今解:不無其例。如《摩訶般若》初半品是序,從「告舍利弗」後半品是正,而用序標品復有何妨?若不許此經序受正名者,亦應不許彼經正用序標品也。

問い:「すでに序分があるのに、なぜ正宗分の名を用いて最初の品の標題とするのですか?」 答え:「この問いは正しくありません。仮に序分の名を用いて品の名としたなら、また『なぜ正宗分を用いないのか』と問うべきでしょう。今、解説します。そうでない例もあります。例えば『摩訶般若経』では、初めの半品は序分であり、『舎利弗に告ぐ』から後の半品は正宗分ですが、序分を用いて品の標題としています。それに何の差し支えがあるでしょうか?もしこの経において序分が正宗分の名を受けることを許さないならば、あの経において正宗分が序分を用いて品の標題とするのも許されるべきではないでしょう。」

問:若爾,定應用序標題。答:《金光明》序正同品亦應為妨。此既晚人安品厝意不同,非佛所制亦非阿難,不足定執。此經雖不標序品為初,而序義宛然。事須玄釋。序義眾多略用三意:一略釋序、二明通別、三約觀心。一、略釋者,有三義:一以次序為義、二以由藉為義、三以序述為義。一、次序者,夫著文初,文之為序。今如是六義是經之首,故名為序。二、由藉者,大聖說教必須由藉,是以現瑞表發生物喜心,故云道從歡喜生也。如此為由,故得說教。三、序述者,既生忻慕,而聖意難量,時眾歸心莫知所趣,所以須假高位弟子或化佛菩薩預先稱述。眾疑既息歸心有在,方可致教,故云序述。今經初六義即是次序,合蓋現土即是由藉,寶積述歎即是序述。
問:諸經悉具三序以不?答:有具不具、或二或一,皆為序分也。
問:序訓不同,何得俱用次序會通眾義?答:字書雖爾,經意含三,共用次序之字亦應無妨,依義不依語也。
二、明通別者,還束前三以為通別。如是六義即是通序,現瑞序述合為別序。諸經通以六義為首,故名通序。眾經之初現瑞不同序述各異,有所表發故云別序。今因別名,則有別序、有別言教,若因通名則有通序,行理通別因此而有兩序。
問:若以兩序從兩名立者,立名則前別後通為序,何得前通後別?答:立名之便應前別後通,為序之便應前通後別。復次一途亦前別後通。何者?如現瑞由藉是說經之前,如是等六乃是如來將入涅槃方說此語,故知在後。經前序正為發起現在弟子信心,經後序為令未來弟子生信。若爾,佛在世時經初無序不名經耶?答:別序之前雖無六義,佛說法時已有其事,故得名經。
三、約觀心者,心即是通、觀即是別,因此觀心成就一切佛法,即是入道之門,即由藉也。
問:若以觀心為兩序者,豈不顛倒?答?立名之便故言觀心,修行之便即是心觀,類前事義其理顯然。
問:《玄義》處處多明觀心,已恐不可入文;復爾,將不壞亂經教耶?答:說經本為入道,若懷道之賢觸處觀行,豈有尋求聖典而不觀行者乎?但巧說得宜,非止不損文義,兼得觀慧分明。分別法門,非觀何逮?豈有壞亂之咎也。

1 佛國品(一-二)
2 維摩經略疏卷第二

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