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  3. 1 佛國品(一-二)
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維摩経略疏 (維摩經略疏)


維摩經略疏卷第二

維摩経略疏 巻第二

五、入經文,就序為二:一通、二別。先釋通序六義。通為眾經之序,須為兩義:一總、二別。一、總釋者,是佛教阿難等諸大弟子說入佛法之相。《大論》云「佛將涅槃,阿難親屬愛結未除,心沒憂海。阿泥樓馱語阿難言:『於未來事若有疑者,及時諮決。何為沒在憂海如世凡夫?』阿難得念道力,悶心得醒,即以四事請問:一問佛涅槃後云何修道;二問誰當作師;三問惡口車匿云何共住;四問佛經初首作何等語。佛告阿難:『若今現在若去世後,依四念處修道。解脫戒經是汝大師。惡口車匿依梵法治,若其心渜伏,教那陀迦旃延經即得入道。我三僧祇所集法藏,初應作如是說「如是我聞一時佛在其方其國土與其大眾」,非獨我法如是,三世諸佛經初亦然。』」故知六義即是通序;亦名遺囑序,如來遺言令標經首故;亦名經前序,三世諸佛經前皆然。

五、経文に入り、序を二つに分ける。一に通、二に別。先ず通序の六義を解く。

「通」とは、多くの経典の序として共通するものであり、二つの意味を持つ。一に総、二に別である。

一、「総」の解釈とは、これは仏が阿難などの大弟子たちに、仏法に入る相を示されたものである。

『大論』に「仏が涅槃に入ろうとされた時、阿難は親類に対する愛着の結び目がまだ除かれず、心は憂いの海に沈んでいた。阿泥樓駄が阿難に言った。『未来のことについて疑いがあるなら、その時に諮り決せよ。どうして世の凡夫のように憂いの海に沈んでいるのか?』」とある。

阿難は念道の力によって、沈んだ心が覚醒し、すぐに四つのことをお尋ねした。 一に問う、仏が涅槃された後、いかにして修道すべきか。 二に問う、誰を師とすべきか。 三に問う、悪口の車匿とはいかに共に住すべきか。 四に問う、仏の経典の初めには何と書くべきか。

仏は阿難に告げられた。 「もし今現在に在っても、もし去世した後も、四念処によって修道せよ。 解脱戒経こそが汝の大師である。 悪口の車匿は梵行の法によって治めよ。もしその心が柔らかに従ったならば、那陀迦旃延経を教えて、すなわち道に入らしめよ。 我が三僧祇の間に集めた法蔵は、初めにこう言うべきである『如是我聞、一時、仏はその方の、その国に在して、その大衆と共にありき』。 私の法のみがこのようなのではなく、三世の諸仏の経典の初めもまた同じである。」

よって六義はすなわち「通序」である。また「遺嘱序」とも名付ける。如来の遺言が経の初めに掲げることを命じられたからである。また「経前序」とも名付ける。三世の諸仏の経典も、前にみなこうだからである。

問:何故經初安如是等,乃至但令修四念處?答:經初安如是等者,為斷疑勸信故,亦為印定佛說非弟子及九十六種所說故,亦為破外人經初以阿漚二字標其教首故。阿漚者,是謂吉相邪僻之事,具如《百論》。惡口車匿梵法治者,其自恃王種輕諸比丘,僧法事時即輕笑言:「如似落葉旋風所吹聚在一處,何所互論?」佛去世後猶自不改。佛令作梵壇,謂默擯也。亦云彼梵天治罪法,別立一壇,其犯法者令入此壇,諸梵不得共語。若心調伏為說那陀迦旃延經者,令離有無即入初果。一家明三藏教,立非有非無門,異於三門,意在此也。教諸比丘依波羅提木叉住者,波羅提木叉此云保得解脫,亦云報解脫、亦云處處解脫。

問:なぜ経典の冒頭に「このように私は聞いた」などを置き、四念処のみを修行させるのでしょうか。

答:経典の冒頭に「このように私は聞いた」などを置くのは、疑問を断ち、信じることを勧めるためです。また、仏の教えであることを確証し、弟子や九十六種の外道の説ではないことを示すためです。さらに、外道が経典の冒頭に「阿(ア)」「漚(ウ)」の二字を教えの標とすることに対抗するためです。「阿」「漚」とは、いわゆる吉祥を表す邪僻(じゃへき)な事柄であり、詳細は『百論』に述べられています。

悪口を言う車匿(チャンナ)に対する梵天の罰則とは、彼が自らを王族の出身と恃み、諸々の比丘を軽んじ、僧団の法事の際には嘲笑して言いました。「まるで落ち葉が旋風に吹き集められて一か所に集まったような者たちが、何を互いに論じ合うことがあろうか」と。仏が亡くなられた後も、彼はその態度を改めませんでした。仏は彼に「梵壇」(ぼんだん)の処置を命じられました。これは「黙擯」(もくひん)、すなわち言葉を交わさない罰のことです。また、梵天が罪を治める方法として、別に一つの壇を設け、罪を犯した者をこの壇に入れ、諸々の梵天はその者と話をしてはならない、ともいいます。

もし心が調い、柔和になったならば、彼のために『那陀迦旃延経』を説き、有無の見解を離れさせ、そこから初果に入らせました。一つの流派では三蔵教を明かし、「非有非無の門」を立て、他の三つの門と異なることを説きますが、その意図はここにあります。

諸々の比丘に波羅提木叉(プラティモークシャ)に依って住するよう教えるのは、波羅提木叉とは「保得解脱」(解脱を得ることを保証する)、また「報解脱」(果報としての解脱)、また「処処解脱」(あらゆる場での解脱)と訳されます。

問:毘尼明時食時衣等,多非正義,那云保得解脫?答:《大論》云「佛說毘尼為令佛法久住,不應求實,求實即生邪見。」今時僧眾不以戒律在心者,恐滅佛法。令依念處修道者,若離念處,施但得富、戒生人天、坐禪得定隨禪受生、多聞說法但是世智,若修念處能破四倒。

問い:戒律(毘尼)が説くところの、適切な時に食事をとることや、適切な時に衣服を身につけることなどは、必ずしも正しい真理(正義)ではありません。それなのに、どうして戒律を守ることが解脱を得る保証になるというのでしょうか?

答え:『大智度論』にはこうあります。「仏が戒律を説かれたのは、仏法を長く世に保たせるためであり、そこに究極の実在(実)を求めてはならない。実を求めれば、かえって誤った見解(邪見)を生むことになる」。現代の僧侶たちが戒律を心に留めないならば、仏法は滅びてしまう恐れがあります。今、私たちが「念処(四念処)」に基づいて修行するのは、もし念処を離れてしまえば、布施をしても単に富を得るだけで、戒律を守ってもただ天界に生まれるだけで、座禅を組んでもただ禅定に応じてその世界に

問:聲聞經說須依念處。摩訶衍教無生入道,豈須念處有所觀耶?答:大乘有無生無量無作念處,若離此三則無正觀。但佛教雖多不出半滿,生滅念處即是半字,三種念處即是滿字。半枯滿榮,枯榮中間得見佛性,住大涅槃名諸佛法界。出念處外無入道法,故佛遺囑令依念處。

問:声聞経には念処に依るべきと説かれています。大乗教では無生によって悟りに入るとされるのに、どうして念処の観察がなお必要なのでしょうか。

答:大乗には無生・無量・無作の三種の念処があります。これら三つを離れては正しい観法はありません。仏教は多くの教えがあるとはいえ、半字(小乗)と満字(大乗)を出ません。生滅を観じる念処は半字であり、三種の念処は満字です。半は枯れ、満は栄え、枯れと栄えの間にあって仏性を見、大涅槃に住することを諸仏の法界といいます。念処を離れて悟りに入る道はありません。それゆえ仏は遺嘱して、念処に依るべしとお示しになったのです。

次、別釋者,舊多用五義,今依六義。一、「如是」者,勸信之端。二、「我聞」者,親承音旨。三、「一時」者,感教之時。四、「佛住」者,約出化主。五、方所者,聞經之處。六、同聞者,證非謬傳。此六義者,正為獎成佛去世後見聞之徒息疑增信,自利利人功成道熟。是謂勸信之端者,如是等六皆為勸信。「如是」居初,故云端也。初「如是」為三:一總明、二約教、三觀心。一、總明者,意在勸信。如法相解、如法相說,所說誠諦必可信從。《大論》云「佛法大海,信為能入。」又如是者,善信之辭。不信者言是事不如是,其信者言是事如是。又《大論》云「如是者,示人無諍法。佛以無倚心說,弟子以無著心受,能得解脫故言如是。」不如外道說者聽者皆以著心,現世鬪諍死入地獄,豈名如是?又古來多云:如是者,文如理是。文以巧詮為如,理以無非曰是。二、約教者,四不可說,赴機而說,則有四種:一生滅、二即空、三假名、四即中。一、因緣生滅如是者,佛昔於波羅奈說五陰生滅,俱隣等聞如是說即得悟道。此經復土,求聲聞人知有為法無常,得羅漢果及法眼淨。二、明即空如是者,如《大品》三乘同見無言說道而斷煩惱,此經破迦旃延明五義,二百比丘聞如是說心得解脫,即是示人無諍法。三、假名如是者,如《無量義》云「摩訶般若華嚴海空,宣說菩薩歷劫修行。」此經亦云「以無所受而受諸受」,若聞如是說得道種智,入菩薩位知眾生根。四、中道如是者,如《大品》說「佛以諸法實相故出現於世,化佛亦以諸法實相故出現於世。」《法華》云「諸法實相義,已為汝等說。」此經諸菩薩各說入不二法門,若菩薩聞如是說即見佛性,開佛知見住不思議解脫。佛法有此四種如是,故眾經之初皆安如是。《華嚴》頓教有因緣假名中道二種如是,三藏但因緣生滅如是,若諸方等具有四種,《摩訶般若》則有三種,《法華》但有中道實相,若《大涅槃》明諸佛法界亦具四種。此經猶是方等大乘生蘇不定之說,具有四種,如上所引。此經既具四如是義,故於經初標如是也。

次に、別に解釈する。古くは五義を用いることが多かったが、今は六義に従う。第一に「如是」とは、信を勧める端緒である。第二に「我聞」とは、亲自に音旨を承けたことである。第三に「一時」とは、教えに感じ入る時である。第四に「佛住」とは、説法の主を明らかにすることである。第五に方所とは、経を聞いた場所である。第六に同聞とは、誤った伝えでないことの証拠である。この六義は、まさに仏が世を去った後に見聞する者たちが疑いを息め、信を増すよう奨励し、自利利他の功が成り、道が熟するためである。これを「勧信の端」という。如是などの六つはすべて勧信のためである。「如是」が初めにあるので、端というのである。

初めに「如是」を三つに分ける。第一に総明、第二に約教、第三に観心である。 第一に総明とは、その意図は信を勧めることにある。法の相に従って解し、法の相に従って説く。説かれたところは誠実で真実であり、必ず信じ従うべきである。 『大智度論』に「仏法の大海は、信をもって入ることを能くす」とある。また、「如是」とは、善く信じる言葉である。信じない者は「この事は如是にあらず」と言い、信じる者は「この事は是くのごとし」と言う。また、『大智度論』に「如是とは、人に無諍法を示す。仏は倚る心なくして説き、弟子は執着する心なくして受け、能く解脱を得るがゆえに如是という」とある。外道のように説く者も聞く者も皆執着の心をもち、現世で争い、死んで地獄に入る。どうして如是と言えようか。 また、古来より多く「如是とは、文は如く、理は是なり。文は巧みに詮ずるをもって如とし、理は非なることなきをもって是とする」という。

第二に約教とは、四種の不可説であるが、機に赴いて説くので四種がある。一に生滅、二に即空、三に仮名、四に即中である。 一に、因縁生滅の如是とは、仏が昔、波羅奈において五陰の生滅を説き、倶隣らが如是の説を聞いて即ち悟りを得たことである。この経はまた、声聞を求める者に有為法は無常であることを知らせ、阿羅漢果および法眼浄を得させる。 二に、即空の如是とは、『大品般若経』において三乗が同じく無言の説道を見て煩悩を断ずるように、この経は迦旃延を破って五義を明らかにし、二百比丘が如是の説を聞いて心に解脱を得た。すなわち人に無諍法を示すことである。 三に、仮名の如是とは、『無量義経』に「摩訶般若華厳海空、菩薩の歴劫修行を宣説す」とあるようである。この経もまた「受けるところ無きをもって諸々の受を受く」といい、もし如是の説を聞いて道種智を得、菩薩の位に入り、衆生の根を知る。 四に、中道の如是とは、『大品般若経』に「仏は諸法実相のゆえに世に出現す。化仏もまた諸法実相のゆえに世に出現す」と説き、『法華経』に「諸法実相の義は、已に汝らのために説きつくせり」という。この経では諸菩薩が各々不二法門を説き入る。もし菩薩が如是の説を聞けば、即ち仏性を見、仏知見を開き、不可思議解脱に住する。

仏法にはこの四種の如是があるので、諸経の初めに皆「如是」を置く。『華厳経』の頓教には因縁・仮名・中道の二種の如是があり、三蔵はただ因縁生滅の如是のみである。諸方等経には四種を具え、『摩訶般若経』には三種があり、『法華経』にはただ中道実相のみであり、『大涅槃経』は諸仏の法界を明らかにし、また四種を具える。この経はなお方等大乗の生蘇・不定の説であり、四種を具えている。上に引用した通りである。この経は既に四種の如是の義を具えているので、経の初めに「如是」を標示するのである。

問:理無二是,何得有四?答:諸法畢竟無說,非權非實,尚無一種,何況有四。而權而實者,權故說三,實故說一,權實備明則有四種。

問:理は一つで、どうして四つもあるのでしょうか? 答:すべてのものごとは究極的には言葉で説明できるものではなく、仮のもの(権)でも真実(実)でもありません。そもそも一つもないのに、まして四つあるはずがありません。しかし、仮のもの(権)と真実(実)という観点からいえば、仮のものだからこそ三つが説かれ、真実だからこそ一つの教えが説かれます。仮と真実を合わせて明らかにすれば、四つの種類があることになります。

三、觀心明者,即是三觀明四如是。《華嚴》云「欲知如來心,但觀眾生心。若見如來心,即見眾生心。」如破一微塵出大千經卷,眾生一念無明因緣所生之心即具四理。若觀心因緣生滅入空,即生滅如是即空。即假即中,例說可知。

三、心を観じる智慧が明らかなるとは、すなわち三つの観法によって四つの「如是」が明らかになることである。『華厳経』には「如来の心を知りたければ、ただ衆生の心を観よ。もし如来の心を見れば、すなわち衆生の心を見る」と説かれている。一粒の微塵を破れば大千世界の経巻が現れるように、衆生の一瞬の無明と因縁によって生じる心には、すでに四つの真理が備わっている。もし心の因縁による生滅を観じて空に入れば、すなわち生滅がそのまま空であると分かる。そのまま仮であり、そのまま中道であることも、例に倣って推し測ることができる。

問:若觀心具四,應即是佛。答:六即分別,進不叨濫生增上慢,退免貧人數寶之失。

問:心に四つが具わっているのなら、すぐに仏なのでしょうか。 答:六即という段階で分けて考えることで、進む時に慢心に陥らず、退く時に宝を数えるだけの貧者の過ちも免れるのです。

「我聞」者,即阿難等親所聞法,故云我聞。亦為三釋:一、總釋者,親承音旨故。若傳從他聞,多致偽謬。今既親聞,是則可信,群情承受無所致疑。《大論》云「隨俗說我,和合稱聞。」隨俗說我者,學人傳法利生,順俗說我,外不乖宜、內不乖實。如用金錢以買銅錢,賣買法爾,人無怪也。和合稱聞者,耳根不壞作意欲聞,情塵和合耳識即生,意識分別種種所聞,因緣和合故稱聞也。阿難等內則耳根聰利,外則對佛八音領納無遺,故稱我聞。

「我聞」とは、阿難尊者たちが直接仏陀から法を聞いたことを表しており、だから「我聞」と言うのです。これには三つの解釈があります。

第一に、総体的な解釈です。これは自ら直接、仏陀の教えを承けたという意味です。もし他人から伝え聞いたものであれば、誤りや偽りが多く生じるものです。しかし、今は直接聞いたものであるため、これは信頼でき、人々も疑いを抱くことなく受け入れることができます。『大智度論』には「世間の習慣に従って『我』と言い、諸々の要素が集まって『聞く』と称する」とあります。

「世間の習慣に従って『我』と言う」とは、修行者が法を伝え、衆生を利益する際に、世間の習慣に従って『我』という言葉を用いるということです。そうすることで、外の人々の感覚に反せず、内側では真理に背かないのです。例えば、金貨を使って銅貨を買うようなもので、売買の道理として当然のことであり、誰も不思議に思いません。

「諸々の要素が集まって『聞く』と称する」とは、耳の器官が正常で、意識的に聞こうと欲し、心と外界の対象が出会うことで耳の認識が生まれ、意識がさまざまな聞いたことを分別する。このように原因と条件が調和して初めて「聞く」と言えるのです。

阿難尊者たちは、内には耳の器官が非常に優れており、外では仏陀の八つの美しい声を完全に受け止めて失うことがなかったため、「我聞」と称するのです。

問:《大論》云「阿難是佛得道夜生」,《涅槃》明佛成道後過二十年方為給侍,自爾之前說經,阿難不聞。佛將涅槃,為魔所蔽亦不得聞。云何皆稱如是我聞?答:《大論》云「阿難將欲結集法藏,合掌向涅槃處而說偈言:『佛初說法時,爾時我不見。如是展轉聞,乃至波羅奈。』」展轉聞者,《舍利弗問經》云「阿難修不忘禪,得佛覺三昧,以三昧力自能聞也。」又《報恩》云「阿難從佛求乞四願。三如涅槃,第四願者佛所說經未聞之者更請為說。佛可其願,有所不聞重為說也。」復次《大論》明結集法藏,優婆離等各登高座,皆稱如是我聞,未必並是阿難也。

問:『大智度論』に「阿難は仏の成道の夜に生まれた」とあり、『大般涅槃経』には仏が成道してから二十年後に初めて阿難が給仕となったと説かれています。それ以前に説かれた経典を阿難は聞いていません。また、仏が涅槃に入ろうとされた時も魔に覆われて聞けませんでした。それなのに、なぜすべての経典で「如是我聞」と言うのでしょうか。

答:『大智度論』に次のようにあります。「阿難が経典を編集しようとして、涅槃の方向に合掌して偈を唱えた。『仏が初めて説法された時、私はその場にいなかった。しかし、このように伝え聞いて、ついに波羅奈に至るまでを知った』」と。また、「伝え聞く」ということについて『舎利弗問経』では、「阿難は不忘の禅を修し、仏の覚りの三昧を得たので、その三昧の力によって自ら聞くことができた」と説かれています。さらに『報恩経』には、「阿難が仏に四つの願いを請いました。三つは涅槃のことで、第四の願いは、仏が説かれても未だ聞いていない経典があれば、再度説いて下さいというものでした。仏はその願いを許され、聞いたことのないものについても改めて説かれました」とあります。また『大智度論』では、経典編集の際に、優波離などがそれぞれ高座に登って「如是我聞」と唱えたとされており、必ずしもすべてが阿難個人によるものとは限らないのです。

問:阿難但結集小乘、亦大乘耶?答:解者不同。有言,但結集小乘。諸大乘經是文殊、彌勒等所共結集。又言,阿難亦結集共二乘說大乘經,故《大品》付屬阿難,此經亦爾。其不共者,大菩薩集也。又云,阿難亦結集不共二乘人說,如《正法念》云「阿難有三種:一阿難賢、二阿難持、三阿難海。」今謂阿難賢持三藏教,阿難持持共大乘,阿難海持不共大乘。故《法華》云「阿難聞佛授記,即時憶念過去無量千萬億諸佛法藏如今所聞,亦識本願。」豈不備持一佛之教?

問:阿難は小乗のみを結集したのか、それとも大乗も結集したのか? 答:解釈者によって異なる。「小乗のみを結集した」という説がある。諸々の大乗経典は文殊菩薩や弥勒菩薩などが共に結集したものだという。また、「阿難は二乗と共に説かれた大乗経典も結集した」という説もある。だから『大品』では阿難に付嘱され、この経も同様である。二乗と共に説かれなかったもの(不共)は、大菩薩たちが結集したという。さらに「阿難は二乗と共に説かれなかったものも結集した」という説もある。例えば『正法念経』に「阿難には三種ある。一に阿難賢、二に阿難持、三に阿難海である」とある。今の見解では、阿難賢は三蔵教を保持し、阿難持は共大乗を保持し、阿難海は不共大乗を保持する。だから『法華経』に「阿難は仏が授記するのを聞いて、ただちに過去無量千万億の諸仏の法蔵を、今聞くところのように憶念し、また本願も認識した」とある。どうして一仏の教えをすべて備えて保持していないことがあろうか?

次、別釋,為二:一我、二聞。我亦有四:一、約三藏明我者,依薩婆多,我但有名;依曇無德,說有假我;犢子明我在第五藏。是等雖殊,悉破外人計神我性說假名我。二、通教者,如《大品》云「色性如我性,我性如色性。我之與色但有名字,皆如幻化。」三、別教者,以自在為我。善於知見,得無罣礙,即我義也。又《攝大乘》明自他差別識,亦名似我識,皆是別義也。四、圓教者,中道佛性即我義也。《中論》云「佛或時說我,或時說無我。於佛正法中,無我無非我。」此經云「於我無我而不二,是真無我義。」《大經》云「無我法中有真我」,又云「我與無我其性不二,不二之性即是實性,實性者是二十五有真我也。」前三是權我,圓教是實我。

次に、別に釈す。二あり。一には我、二には聞。

我にもまた四あり。

一、三蔵において我を明かす者。薩婆多(せつだた)に依れば、我はただ名あるのみ。曇無徳(どんむとく)に依れば、仮の我ありと説く。犢子(とくし)は、我を第五蔵にありと明かす。これらは異なるといえども、みな外人の神我の性を計ることを破って、仮名の我を説く。

二、通教。『大品経』に「色の性は我の性のごとく、我の性は色の性のごとし。我と色とはただ名字あるのみ、みな幻化のごとし」と説くがごとき。

三、別教。自在をもって我となす。よく知見し、さわりなきを得る、これ即ち我の義なり。また『摂大乗論』に自他の差別の識を明かし、また似我識と名づく。みな別教の義なり。

四、円教。中道仏性、即ちこれ我の義なり。『中論』に「仏はあるときは我を説き、あるときは無我を説く。仏の正法の中には、無我もなく、無我にあらざるもなし」と。この経に「我と無我において不二なるは、これ真の無我の義なり」と。『大涅槃経』に「無我の法の中に真我あり」と、また「我と無我とはその性不二なり。不二の性は即ち実性なり。実性は二十五有の真我也」と。

前の三つは権の我、円教は実の我なり。

問:若爾,何得《大論》云「隨俗說我」?答:三教隨情,豈非隨俗?若圓教明我即是佛性,非隨俗也。三教我聞並約耳根;圓教明我,我即是聞。以點色性說真我故,離法性外無別能聞耳也。用教約諸經明我多少,如前可知。

問:もしそうなら、なぜ『大智度論』に「世俗に従って我と言う」とあるのですか?

答:三教(蔵・通・別)は状況に応じて説かれたものであり、それは世俗に従うことにほかなりません。しかし円教において「我」を明かすとき、それは仏性そのものであり、世俗に従うものではありません。三教における「我聞」はすべて耳根(耳の感覚器官)に基づいていますが、円教における「我」とは、「我」すなわち「聞くこと」です。これは、色の本性を指して真の我を示すからであり、法性のほかに別に「聞く」耳があるわけではありません。教えに従って諸経典の中で「我」が述べられる頻度を見れば、先に述べたとおりです。

二、明聞者,《大經》有四種:一聞聞、二不聞聞、三聞不聞、四不聞不聞。今恐此是四教辨聞,藏教即聞聞,以小生生大生故名生生,今亦得云少聞成大聞故名聞聞。

二、聞くことについて、『大経』には四つの種類がある。 一に聞聞(もんもん)、二に不聞聞(ふもんもん)、三に聞不聞(もんふもん)、四に不聞不聞(ふもんふもん)である。

今、これらは四教において聞くことを分別したものと考えられる。 蔵教は聞聞にあたる。小なる生が大なる生を生むことから「生生」と名づけられるように、 今はまた、少ない聞き方から大きな聞き方へと至ることをもって「聞聞」と名づけることができる。

問:《大經》生生是十二因緣相續不斷,何以類解聞聞義耶?答:彼經釋生具有兩義,今不取約行,但取約理。若約十二因緣相續以明生生,即於聖人聞經不便。何者?藏教諸得道人生生已壞,但有報身,根塵和合故稱聞也。

質問:『大経』では「生生(しょうしょう)」は十二因縁が相続して絶えないこととされていますが、なぜ「聞聞(もんもん)」の意味を類推して解釈するのでしょうか。

答え:あの経典では「生」に二つの意味があります。今ここでは「行(修行)」の意味は取らず、「理(道理)」の意味だけを採用します。もし十二因縁が相続するという意味で「生生」を説明すると、聖人が経典を聞く際に都合が悪くなります。なぜなら、蔵教における悟りを得た人々はすでに「生生」が崩れており、報身だけが残っています。その報身と外界の環境(六根と六境)が出会って調和することで「聞」と言えるからです。

二、通教即是不聞聞,如夢如幻點空說聞。三、別教即聞不聞,所聞自在。何者?世諦死時即聞聞死而生聞持,隨有所聞自在能持故。《攝大乘》說有塵者應受識,即是別教大乘明聞也。四、圓教即是不聞不聞,大般涅槃聞相盡也。

二、通教とは「聞かずして聞く」であり、夢や幻のように空を指して説き聞かせることです。三、別教とは「聞きて聞かず」であり、聞かれたものが自由自在です。なぜか?世俗の真理が尽きる時、すなわち「聞きて聞く」というあり方が尽きて、聞き保つことが生まれ、聞くところにしたがって自在に保つことができるからです。『摂大乗論』に「塵ありと説くは、識を受くべきなり」とあるのは、まさに別教の大乗が聞くことを明らかにしたものです。四、円教とは「聞かずして聞かず」であり、大般涅槃において聞く相が尽きることです。

問:若無聞相,云何說聞?答:若聞相盡都不聞者,佛住涅槃應都不聞法界音聲。如《法華》明耳根功德相似聞相盡,十方無數佛百福莊嚴相為眾生說法悉聞能受持,況分證聞相盡,聞十方佛法如雲持雨耶?妙覺聞相究竟盡,一切法界所有音聲一時聞也。故《大經》云「若知如來常不說法,是名具足多聞。」此經亦云「其聽法者無聞無得」。用四教約眾經聞義多少,亦類如是可知。

問う:もし「聞くという相」が尽きているなら、どうして「聞く」と言えるのか。 答える:もし「聞く相」が完全に尽きて何も聞こえないのであれば、仏が涅槃に住しているとき、法界の音声を一切聞くことができないことになる。しかし『法華経』に説かれる耳根の功徳によれば、「聞く相が尽きる」というのはそういうことではない。十方の無数の仏が、百福荘厳の相をもって衆生のために説法するとき、そのすべてを聞いて受持することができるという。ましてや、部分的な悟りによって聞く相が尽きた者は、十方の仏法を聞くことが、雲が雨を降らせるように無尽蔵であるという。妙覚の位においては、聞く相が完全に尽き、一切法界のあらゆる音声を一時に聞くのである。ゆえに『大涅槃経』には「もし如来が常に説法しないことを知るならば、それを具足した多聞という」と説かれている。この経典にも「その法を聞く者は、聞くこともなく、得ることもない」とある。四教によって、様々な経典における聞の意味の多寡を分類すれば、おおよそこのようになることを知るべきである。

問:《大論》明佛法無我,何分四?若爾,便是有我。答:若定有我,何得四教之別?若定無我,何得經教有此異說?若其不許作此分別,非但壞佛方便教門,亦順諸不信者義宗。

質問:『大論』では仏法は無我と説くのに、なぜ四つの教えに分けるのでしょうか?もし分けるなら、それは「我」があることになりませんか? 答え:もし確かに「我」があるなら、なぜ四つの教えに違いがあるのでしょう?逆に、確かに無我なら、なぜ経典や教えにこのような異なる説があるのでしょう?もしこのような区別を認めなければ、仏が説かれた方便の教えの門を壊すだけでなく、仏法を信じない人々の立場にも沿ってしまうことになります。

三、約觀心,類如是可知。

三、心を観じるという観点から言えば、同じようにして理解できる。

「一時」者,四眾感教得道之時,此亦助成如是可信。故《大論》云「說時方皆為生信」。亦為三:一、總解者,《大論》云「數時等實無,陰入持所不攝。但隨世俗說一時無咎也。」言四眾感教得道之時名一時者,若通論四眾感一期之教,始終久近皆名一時,即是多時少時共明一時。如戒序云「春分四月日為時」。春分實有多時,但總束為一時也。若約得道明一時者,赴機說教即入,如苦忍一剎那。此約少時明一時也。今約此多少總明一時,謂一期說法通是一時之事也。就此為五:一、約機發者,世善機發即是多時,出世機發即是少時,總此多少皆名一時。二、約佛說教者,三悉起教即是多時,用第一義即是少時,總此多少皆名一時。三、約機教合明一時者,亦以世出世善合為多少,機教合故不在二時,故名一時。四、約四眾得道明一時者,世與出世多少准上,總此多少皆名一時。五、約阿難聞經明一時者,約佛說經多時少時,阿難聞非異時,故名一時。又阿難得佛覺三昧,如前說。又解佛為阿難重說,即是聞經之時,名一時也。二、約教者,三藏生滅一時。通教如夢幻一時。別教破時顛倒,能分別數無滯礙也。《攝大乘》明數識攝阿僧祇、明世識攝三世,即是別教明一時也。圓教約不思議法性明一時,一時入一切時、一切時入一時。如此經明,住不思議解脫菩薩七日為一劫、一劫為七日。《法華》明六十小劫謂如食頃。《華嚴》明十一切等。一一教皆具五種一時。約諸經多少,類如是可知。三、觀心者,觀因緣生滅者,心在定時能知世間生滅法相,則一念慧眼開發見生滅之理,故名一時。若非定心見理,即前思後覺憶想顛倒,雖解生滅不能見理,非一時也。若體空慧眼,入假法眼、中道佛眼,皆是定心,一念少時豁然開發各見諦理,名一時也。

「一時」とは、四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が仏の教えを聞いて悟りを得た時のことです。この言葉もまた、この経典が信ずるに足ることを示しています。そこで『大智度論』には「説法の時と場所を明かすのは、すべて信仰を起こさせるためである」とあります。

これについて、さらに三つの観点から解説します。

**一、総合的な解釈** 『大智度論』には「時や数などの概念は実体がなく、五蘊・十二処・十八界にも含まれない。しかし世俗に従って『一時』と言っても差し支えない」とあります。 「四衆が教えを聞いて悟りを得た時」を「一時」と言うのは、広く見れば四衆が一連の教えを聞いた始終全てが「一時」にあたります。つまり長い時間も短い時間もまとめて「一時」とするのです。例えば戒律の序文に「春分から四月までの期間を時とする」とあるように、春分の時期は実際には長い期間ですが、それを一まとめにして「時」とするのと同じです。 悟りを得るという観点から「一時」を言えば、機に応じて説法を聞き即座に悟る、例えば苦法忍の一刹那のようなものです。これは短い時間での「一時」です。 ここでは、これら長短の時間を総合して「一時」とします。すなわち、一連の説法全体が一つの「時」の出来事である、ということです。

これをさらに五つに分けて説明します。 1. **機(衆生の素質)の発現について**:世間的な善が発現するのは長い時間、出世間的な善が発現するのは短い時間ですが、これらを総合して全て「一時」と言います。 2. **仏の説法について**:三悉檀(世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀)による教化は長い時間、第一義悉檀による教化は短い時間ですが、これらを総合して全て「一時」と言います。 3. **機と教えが合致する観点からの「一時」**:世間・出世間の善を合わせて長短としますが、機と教えが合致しているため、特定の一方の時だけではないので「一時」と言います。 4. **四衆の悟りについての「一時」**:世間・出世間の区別による長短は上記に準じ、これらを総合して全て「一時」と言います。 5. **阿難が経を聞いた時の「一時」**:仏が経を説いた時間が長くても短くても、阿難がそれを聞いた時は別の時ではないので「一時」と言います。また、阿難は仏の覚りの三昧を得ていたこと(前述)、あるいは仏が阿難のために重ねて説法した時が、経を聞いた時であり、これを「一時」とします。

**二、教えの段階による解釈** - **三蔵教**では、生滅する現象を「一時」と見ます。 - **通教**では、一切を夢や幻のようなものとして「一時」と見ます。 - **別教**では、時間という概念の誤りを破り、時間を自在に分別して滞りがありません。『摂大乗論』で「数の認識は阿僧祇劫を、時の認識は三世を捉える」というのは、別教の「一時」の説明です。 - **円教**では、不可思議な法性に基づいて「一時」を説きます。「一時」の中に一切の時が入り、一切の時が「一時」に入るのです。例えばこの経典で言う、不思議解脱の菩薩が住むところでは七日が一劫となり、一劫が七日となるようなものです。『法華経』では六十小劫が食事のわずかな間のように感じられると説き、『華厳経』では十種の一切の時を説きます。 それぞれの教えには五種類の「一時」が含まれています。諸経典における長短の時についても、このように類推して理解できます。

**三、観心による解釈** 心を観察するに、因縁によって生滅する現象を見るとき、心が定まっていれば世間の生滅する法の相を知ることができます。すると一瞬のうちに智慧の眼が開かれ、生滅の道理を見るので、これを「一時」と言います。もし心が定まらずに道理を見ようとすれば、先に考え後に思いを巡らせ、憶念や妄想に惑わされます。生滅を理解しても道理を実際に見ることはできず、これは「一時」ではありません。 空を体得する慧眼、仮の世界に入る法眼、中道を見る仏眼、これらはいずれも定まった心によるものです。一念という短い瞬間に明晰に悟りが開かれ、それぞれの真理を見ることを「一時」と言います。

「佛在」,佛是能說,顯其化主,亦為助成傳聞可信。何者?九十六種不足歸心,三乘聖人獨居、不極說、非究竟,今明無師大覺朗然頓悟、所言誠諦,從是聞經,稱物機緣、眾情忻愜。亦為三:一、總明者,舊稱佛陀,此言覺者,自覺覺他名之為佛。《智論云》「佛陀,秦言知者。知何等法?謂知三世眾生數非眾生數及常無常等一切諸法。菩提樹下了了覺知,故名為佛,十號具足,亦名一切智人。佛德無量,稱名亦爾。」今不具釋。所言在者,住之異名。《大論》云「四種威儀住,故名為住。」住有四種:一、天住者,謂布施、持戒、善心三事故。二、梵住者,住四禪、四無量心、四無色定。三、聖住者,住三空、四諦、十二因緣理也。四、佛住者,住首楞嚴等無量三昧、力、無畏等一切佛法。佛所得法,佛於中住,憐愍眾生示住毘耶離。別約教者,四教明佛已略在《玄》。但為化四種根性,現相亦四,如初成道乃至涅槃皆現四相。初成道者,如《勝天王》明,初坐道樹得成正覺,或現坐草、或坐天衣、或處寶座、或在虛空,即表四教佛相不同。次、明轉法輪現相不同者,《華嚴》圓頓則現大小相。若鹿野轉生滅四諦,即脫瓔珞現老比丘。若說方等,即現門內尊特之身,或現門外塵坌之像。若說般若,亦現門內尊特之身及現種種佛身之相,以眾生疑,故現常身放常光明。若說法華,但現尊特。若說涅槃,備現四種,事同方等。如是隨緣現種種身,一往大略言四種耳。次、明身相不同者,如《像法決疑》云「如來將入涅槃,是時大眾或見如沙門像,或見威德相好端嚴,或見坐寶蓮華說心地法門,或見身如虛空無有邊表。」此豈非表說四教其功已訖,將入涅槃現此相也。此經既方等教攝,亦應隨機感見四種。故長者子說偈歎云「各見世尊在其前,斯則神力不共法。」

「仏がおられる」——「仏」とは説き手を示し、その教えの主を明らかにするとともに、伝え聞いたことが信頼できることを助けます。なぜか。九十六種の外道は帰依するに足らず、三乗の聖人も一人に留まり、完全な説法をせず、究極ではありません。今ここに、師なくして大覚を成し、朗らかにして頓悟し、その語るところ誠実で真実である方を示します。この方から経を聞くことによって、機に応じ、縁にかなって、人々の心は喜び満ち足ります。また、三つの点があります。第一に総じて明かすならば、昔はこれを「佛陀」と言い、これは「覚者」の意味で、自ら覚り、他を覚ますことを「仏」と名づけます。『大智度論』に「佛陀とは、秦(中国)の言葉で知者という。何の法を知るのか。三世の衆生、衆生ならざるもの、常・無常など一切の諸法を知る。菩提樹の下で明瞭に覚り知ったから仏と名づけ、十号を具足し、また一切智人ともいう。仏の徳は無量であり、名もまた同じである」とあります。今は詳しく説きません。言うところの「在」とは、住(とどまる)の異名です。『大智度論』に「四種の威儀に住するから、住と名づける」とあります。住には四種があります。第一に「天住」とは、布施・持戒・善心の三つの事柄です。第二に「梵住」とは、四禅・四無量心・四無色定に住することです。第三に「聖住」とは、三空・四諦・十二因縁の理に住することです。第四に「仏住」とは、首楞厳三昧などの無量の三昧・力・無畏など一切の仏法に住することです。仏の得た法、仏はその中に住し、衆生を憐れんで毘耶離に住するを示します。別に教えに約して言えば、四教に明かすところの仏はすでに『玄義』に略述されています。ただ、四種の根性を教化するために、現ずる相もまた四つあり、例えば初めて成道してから涅槃に至るまで、皆四つの相を現じます。初めて成道した場合、例えば『勝天王般若経』に明かすように、初めて道樹の下に坐って正覚を得、あるいは草の上に坐る相を現じ、あるいは天衣の上に坐る相を現じ、あるいは宝座に坐る相を現じ、あるいは虚空に坐する相を現じます。これは即ち四教の仏の相の異なることを表します。次に、転法輪の相が異なることについて言えば、『華厳経』の円頓の教えでは大小の相を現じます。もし鹿野苑で生滅の四諦を転ずるならば、瓔珞を脱いで老比丘の相を現じます。もし方等の教えを説くならば、門内の尊特の身を現じ、あるいは門外の塵にまみれた姿を現じます。もし般若を説くならば、また門内の尊特の身を現じ、種々の仏身の相を現じます。衆生が疑うから、常身を現じて常光を放つのです。もし法華を説くならば、ただ尊特の相のみを現じます。もし涅槃を説くならば、四種を備えて現じますが、これは方等の場合と同じです。このように縁に従って種々の身を現じますが、ひとまず大まかに言えば四種ということです。次に、身の相が異なることについて言えば、『像法決疑経』に「如来がまさに涅槃に入らんとするとき、その時に大衆はあるいは沙門の像を見、あるいは威徳相好の端厳なるを見、あるいは宝蓮華に坐して心地の法門を説くを見、あるいは身が虚空の如く辺表なきを見る」とあります。これはまさに四教の功がすでに終わり、涅槃に入らんとしてこの相を現じることを表しているのではありませんか。この経は方等教に含まれるので、また機に応じて四種の相を見るべきです。故に長者の子が偈を説いて賛嘆して「各々世尊がその前に在るを見る、これすなわち神力の不共法なり」と言ったのです。

問:四教所見,定如前不?答:且一往相對,理在隨緣。若就障邊,亦可劣身而說勝法。如觀世音以種種形遊諸國土說大乘法,豈況如來。

問:四つの教えによって見られるものは、必ず前に述べた通りでしょうか? 答え:まずは一通り相対的に見ると、理は縁に従って動くものと言えます。もし障害の面から見れば、優れた説法が劣った身から示されることもあります。例えば、観世音菩薩は様々な姿で諸国の国土を巡り、大乗の法を説かれます。ましてや如来においてはなおさらのことです。

次、用四教明住義者,隨教所辨法門不同,佛於中住憐愍眾生,故示住毘耶。三、約觀心者,《華嚴》云「欲見如來心,但觀眾生心。」何者?一心三觀圓觀三諦開佛知見,雖有肉眼名為佛眼亦名種智。若用三智,以不住法住三諦三昧,亦是佛所得法。佛於中住,憐愍眾生,不捨道法現凡夫事,住世間法也。此須善用六即分別,入大乘之要門也。

次に、四教(蔵・通・別・円)によって「住」の意味を明らかにすると、各教えが説く法門は異なります。仏はその中に住して衆生を憐れみ、その故に毘耶離(ヴァイシャーリー)に住まうことを示されたのです。

第三に、観心について述べます。『華厳経』には「如来の心を見たければ、ただ衆生の心を観察せよ」とあります。なぜならば、一心三観(一つの心で三つの観門を修めること)によって三諦(空・仮・中)を円満に観じ、仏の知見を開くからです。たとえ肉眼であっても、それは仏眼と名づけられ、また一切種智とも呼ばれます。

もし三智(一切智・道種智・一切種智)を用いるならば、とどまることのない法によって三諦の三昧に住する、これもまた仏が得た法です。仏はその中に住し、衆生を憐れんで、道の法を捨てずに凡夫のわざを現し、世間の法に住むのです。このことを理解するには、六即(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・

「毘耶離菴羅樹園」,此明方所,即是顯示說經之處,助成勸信也。今為二:一、通方所,即毘耶離;二、別方所,即菴羅園。通方所復為三:一、約事者,此云廣博嚴淨,其國寬平名為廣博,城邑華麗故名嚴淨。有師翻為好稻,出好粳糧勝於餘國故也。有言,好道,國有好路,平正砥直。又言好平道,其國人民好樂正道,自敦仁義、不須君主,五百長者共行道法,率土人民莫不歸德,故云好道。次、對法門釋者,隨前所翻即以對之。廣博嚴淨者,即是釋迦法身,本居寂光,其性廣博猶若虛空,功德智慧無諸穢惡故云嚴淨:迹居人間,詫廣博嚴淨之土。是知非本無以垂迹,故居人間嚴淨之國;非迹無以顯本,寄毘耶離說諸佛國永寂如空,以顯遮那常寂本國。言好稻者,釋迦本住大般涅槃百句解脫,故《法華》云「百穀苗稼普皆增長,因其增長穀實得成。」即是百句解脫之妙果為好稻也。垂迹顯本,類前可解。言好道路者,此表智度大道佛從來也。故《大經》云「譬如隘路,不容二人並行。解脫不爾,多所容受,即真解脫。」今釋迦居不思議法界大道,即是多所含容,故名好道。垂迹顯本,類前可知。言好平道者,思議之道作意而修不名好道,不思議道自行真修任運理顯化他,如礠石吸鐵無緣無念,此是性好之道也。由本垂迹故名好道,因迹顯本故居人間好道之國,說於心淨佛土淨也。三、約觀心者,一心三觀能觀心性,即知心性猶如虛空,即具福慧二種莊嚴,無染無著畢竟清淨,是則心淨故佛土淨。約好稻者,若觀心性,即是百句解脫之本,名為好稻。約好道路者,若觀因緣中道,即是行大直道,無留難故,無有眾魔群盜得入,此道最勝故名好道。約好平道者,若觀偏真,盡苦涅槃,則於一切道法無好樂心。今觀圓真之道,則好樂一切,心無厭足盡未來際,故名好道。

「毘耶離菴羅樹園」というのは、場所を示しています。つまり、この経典が説かれた場所を明らかにすることで、人々の信仰を促す助けとするのです。ここでは二つに分けて説明します。第一に、広い意味での場所、すなわち毘耶離。第二に、特定の場所、すなわち菴羅園です。

まず、広い意味での場所である毘耶離について、三つの観点から説明します。

**一、事実に基づく説明**

毘耶離とは、「広く広々として厳かで清らか」という意味です。その国は広く平らなので「広博」といい、城や町は華やかで美しいので「厳浄」といいます。ある師は「良い稲」と翻訳し、それは優れた粳米が他の国より多く産出するからだと言います。また、「良い道」という説もあり、国に素晴らしい道路が平らに真っ直ぐに整っていることを指します。さらに「良い平らな道」という解釈もあり、その国の人々は正しい道を好み、自ら仁義を重んじ、君主を必要とせず、五百人の長者が共に道を実践し、全国民がその徳に帰依したため、「良い道」と呼ばれるのです。

**二、法門(教え)に基づく解釈**

先述の翻訳に即して、法門の観点から対応させて説明します。

* **「広博厳浄」について**:これは釈迦の法身を指します。本来、法身は常寂光土に住み、その性質は虚空のように広く、功徳と智慧にはいっさいの穢れがなく、ゆえに「厳浄」といいます。仮の姿として人間界に現れ、その広大で厳かな清らかな国土に住むのです。これにより、根本(本)がなければ仮の姿(迹)を現せず、ゆえに釈迦は人間界の厳かな清らかな国に住まわれること、また、仮の姿がなければ根本を顕せず、ゆえに毘耶離において諸仏の国は永遠に寂静であり虚空の如くであると説き、毘盧遮那仏の常に寂静なる本来の国を示されることがわかります。 * **「良い稲」について**:釈迦は本来、大般涅槃の百句解脱に住まれます。『法華経』には「百の穀物や苗や作物がことごとく生長し、その生長によって穀物の実りが成就する」とあります。これは百句解脱の妙なる果報が「良い稲」であることを意味します。「迹」を垂れて「本」を顕すという意味は、先の例と同様に理解できます。 * **「良い道路」について**:これは智慧の大道、すなわち仏がお出でになる道を表します。『大涅槃経』には「例えば狭い道は、二人が並んで歩くことを許さない。しかし解脱はそうではない。多くのものを容れ受け入れる。これが真の解脱である」とあります。釈迦が不可思議な法界の大道に住まわれるということは、多くを含み容れることであり、ゆえに「良い道」といいます。「迹」を垂れて「本」を顕す意味は、先の例と同様にわかるでしょう。 * **「良い平らな道」について**:思議の道(分別を伴う修行の道)は、わざわざ心を用いて修めるものであり、「良い道」とは呼べません。不可思議の道、すなわち自然に真の修行が行われ、運びのままに理が顕れて他を教化する、それは磁石が鉄を吸い寄せるように、縁もなく、念もない、これこそが本性にかなった道です。根本(本)から仮の姿(迹)が現れるので「良い道」といい、仮の姿によって根本が顕れるので、釈迦は人間界の「良い道」の国に住み、心が清らかであれば仏土も清らかになる、と説かれるのです。

**三、観心(心を観ずる修行)に基づく解釈**

一心三観によって心の本性を観ずれば、心の本性は虚空の如くであり、福と慧の二つの荘厳を具え、汚れも執着もなく、究極的には清らかであると知ります。すなわち、心が清らかであれば仏土も清らかとなるのです。

* **「良い稲」に基づく観心**:心の本性を観ずるならば、それは百句解脱の根本であり、ゆえに「良い稲」といいます。 * **「良い道路」に基づく観心**:因縁中の道(空・仮・中の三観の中道)を観ずるならば、それは大いなる真っ直ぐな道を行くようなものであり、障りがなく、悪魔や盗賊の入り込む余地もありません。この道は最も優れているので、「良い道」といいます。 * **「良い平らな道」に基づく観心**:偏った真実(小乗の無常・苦・空の観)を観じ、苦を尽くした涅槃を求めるならば、一切の道や法に対して好む心は起こりません。しかし今、円融な真実の道を観ずるならば、一切を好み楽しみ、未来際に至るまで心に飽き足ることがありません。ゆえに「良い道」というのです。

二、別方所者,上通方所助證猶漫,今的舉所住則助信轉明。亦為三:一、約事者,肇師注云「菴羅是果樹之名,以菓目樹故云菴羅樹。」其菓似桃而非桃也,又云似㮈定非㮈也。又翻云難分別樹,其菓似桃非桃、似㮈非㮈,故名難分別也。此與《大經》意同,經云「如菴羅菓,生熟難分。具有四句,釋難分別。」有師云,此樹開華,華生一女,國人歎異,以園封之。園既屬女,女人守護,故云菴羅樹園。宿善冥薰,見佛歡喜,以園奉佛,佛即受之而為住所。次、對法門者,佛住道品總持之法,故云住菴羅樹園。何者?道品為樹,念處為種子,正勤為生長,如意為芽生,五根如根莖,五力如枝葉,七覺為華,八正為菓。從七覺華起慈悲心,為諸眾生興大誓願,因願勤行得發總持,故說總持以為園也。《大集》云「三十七品是名菩薩寶炬陀羅尼」,陀羅尼者此翻為總持,園持樹菓不致侵犯故表總持。華中生女者,即七覺華生慈悲女。女用奉佛者,表因中總持迴向佛果。佛受住者,由因成果,如佛所得佛於中住也。由本垂迹故居菴園,用迹顯本住菴羅園,說不思議總持之園苑也。難分別者,如來住園表居中道,三十七品雖非有無而似有無,如來住此難分別理,成於道品佛菩提果。如此妙果所依之土,七種方便之所莫測,表難分別之樹也。三、約觀心者,三觀觀心心性不動,而修道品因起悲誓,善根牢固成諸總持,即住園也。故《華嚴》說菩薩有十種園,即是道品園也。若約觀心解難分別者,如《大經》明具有四句。若修三觀觀不思議難分別理,亦有四種:一、自有觀心都無所以威儀麁獷,如菴羅菓內外俱生。二、自有威儀齊整似如柔和,內觀之心不證定慧,如菴羅菓外熟內生。三、自有威儀不足可觀,而觀行淳熟入諸法門,如菴羅菓外生內熟。四、自有修一心三觀調熟身口柔和似得道相,三觀開發入諸法門,或成觀行或成相似,如菴羅菓內外俱熟。是故行人難可分別,如菴羅菓也。

二、次に「別方所」について説明します。前節では「方所」について広く述べましたが、証明がまだ漠然としていました。ここでは特に住処を挙げることで、信仰をより明確にします。これも三つの観点から述べます。

一、事相について:肇師(僧肇)の注釈に「菴羅は果樹の名であり、果実で木を指すので菴羅樹という」とあります。その果実は桃に似ていますが、桃ではなく、また㮈(なし)に似ていますが、㮈ではありません。また「難分別樹」と翻訳されます。果実が桃に似て非ず、㮈に似て非ずであることから、この名があります。これは『大般涅槃経』の意図と同じで、経典に「菴羅果のように、熟しているかどうか見分けがつかない」とあり、四つの句で難分別を説明しています。

ある師は言います。「この樹は花を咲かせ、花から一人の娘が生まれた。国中の人々が驚き珍しがり、園を彼女に与えた。園は娘のものとなり、娘が守ったので、菴羅樹園と呼ばれる。前世の善行が密かに薫じ、仏を見て喜び、園を仏に捧げた。仏はそれを受け入れ、住まいとされた」。

二、法門について:仏は道品(三十七道品)と総持(陀羅尼)の法に住されるので、「菴羅樹園に住す」と言うのです。なぜか?道品を樹とし、念処を種子とし、正勤を生長とし、如意足を芽生えとし、五根を根と茎とし、五力を枝葉とし、七覚を花とし、八正道を果実とします。七覚の花から慈悲の心が起こり、衆生のために大誓願を起こし、その願いによって精進し、総持を得るに至ります。ゆえに総持を園と説くのです。

『大集経』には「三十七品は、これを菩薩の宝炬陀羅尼という」とあります。陀羅尼は総持と翻訳され、園が樹や果実を守り侵されないようにすることを表しています。花から娘が生まれるのは、七覚の花から慈悲の娘が生まれることです。娘を仏に捧げるのは、因位の総持を仏果に回向することを表します。仏がそれを受け入れ住まれるのは、因によって果が成就し、仏が得たものに仏が住まれることです。本体から迹を垂れるので菴園に住み、迹によって本を顕すので菴羅園に住むのです。不可思議な総持の園苑であると説かれます。難分別とは、如来が園に住むことは中道に住むことを表します。三十七品は有無ではないが有無のようであり、如来はこの難分別の道理に住み、道品と仏の菩提の果を成就されます。このような妙果の依る土は、七種の方便(七方便)の者には測り知ることができず、難分別の樹を表しているのです。

三、観心について:三観(空・仮・中)によって心と心の性を観じると、動くことなく、そこから道品を修め、慈悲の誓いを起こし、善根が堅固になり、諸々の総持を成就します。これが「園に住す」という意味です。ゆえに『華厳経』では、菩薩に十種の園があると説かれますが、これが道品の園です。観心によって難分別を解釈するならば、『大般涅槃経』に四つの句があるのと同じです。もし三観を修して不可思議で分別しがたい道理を観ずるにも、四つの種類があります。

一、自らの観心に何の理由もなく、威儀が粗雑で荒々しいこと。これは菴羅果が内外ともに生であるようなものです。 二、自らの威儀が整っていて柔和に見えるが、内の観心は定慧を証得していないこと。これは菴羅果が外は熟し内は生であるようなものです。 三、自らの威儀が見るに足らず、観行は淳熟して諸々の法門に入っていること。これは菴羅果が外は生で内は熟しているようなものです。 四、自ら一心三観を修し、身口が柔和に調えられて道を得たかのような相を示し、三観が開発されて諸々の法門に入り、あるいは観行を成就し、あるいは相似位を成就すること。これは菴羅果が内外ともに熟しているようなものです。

ゆえに修行者は他人から分別しがたく、まさに菴羅果のようなものなのです。

問:那得處處對法門以約觀心?佛意豈然?答:佛心如海眾流皆入,如如意珠隨念雨寶,亦如淨鏡隨對像生,亦如大地隨種生長。《大經》摸象各不能知,執見之徒自謂己解諍論是非,寧會佛旨?若言經中無對法門者,如普現色身問淨名言:「父母妻子親戚眷屬悉為是誰?」大士答言:「智度菩薩母,方便以為父」等。淨名既是在家菩薩,何容無有父母家屬,而不依事答悉約法門?當知不起道法現凡夫事,雖現凡夫事皆內表道法。亦如佛涅槃處在枯榮間,豈可直作樹木之解。且佛誠說皆表半滿,今欲說不思議解脫法門,不捨道法現迹同凡住於毘耶,豈不表於極地所住法門?華嚴明十城十園,豈止直是世間城園?此經下文〈菩薩行品〉云「諸佛威儀有所進止無非佛事」,何得但作事解而已,不思諸聖善權祕密表發之事。又《法華》云「欲說是經,應入如來室,著如來衣,坐如來座,然後於四眾中以無所畏心說。」若彼經不對法門者,欲講說時,將不入佛殿昇佛座披佛衣處眾說法得佛意耶?

問:経典のあちこちにある教えを、必ず心の修行に結びつけて解釈しなければならないのでしょうか?仏の意図はそういうものなのでしょうか?

答え:仏の心は海のようなもので、あらゆる川の水が流れ込むのです。また、如意宝珠のように、願いに応じて宝を降り注ぎ、清らかな鏡のように、対象に応じて像を映し、大地のように、種に応じて生長をもたらします。

『大般涅槃経』で、象の各部分を触った人々が皆、別々に解釈したように、執着する人々は自分こそが理解したと主張し、正邪を争いますが、それで仏の真意にかなうでしょうか。

もし経典には心の修行に結びつける教えがないと言うなら、例えば普現色身菩薩が維摩居士に「父母、妻子、親類、眷属は、一体誰なのですか?」と尋ねた時、居士は「智慧の菩薩は母であり、方便は父である」などと答えました。維摩居士は在家の菩薩であり、両親や家族がいないはずがありません。それなのに、事実に即して答えず、すべてを教えの比喩で答えているではありませんか。「道の教えを起こさずに凡夫の行いを現す」とは、凡夫の行いを現していても、そのすべてが内に道の教えを表しているのです。

また、仏が涅槃に入られた場所が、枯れた沙羅樹と生きた沙羅樹の間にあったのも、単に木々として解釈すべきではないでしょう。ましてや、仏はすべての教えが完全なものと不完全なものを表していると説かれました。今、不可思議の解脱の法門を説こうとされて、道の教えを捨てず、姿を凡夫と同じくして毘耶離(ヴァイシャーリー)に住まわれたのは、最高の境地に住まう法門を表していないと言えるでしょうか。

『華厳経』に説かれる十の城や十の園も、単なるこの世の城や園に過ぎないのでしょうか。この経典の後の方の『菩薩行品』には、「諸仏の威儀、進退の動作に、仏の教化でないものはない」とあります。それなのに、ただ事実としてだけ解釈し、諸々の聖者が巧みに示された秘密の象徴や暗示の働きを考えないのは、どういうことでしょうか。

また、『法華経』には「この経を説こうと思うなら、如来の室に入り、如来の衣をまとい、如来の座に坐って、しかる後に四衆の中で、畏れる心なくして説くべきである」とあります。もしあの経典に教えを象徴する解釈がないなら、説法しようとする時、仏殿に入らず、仏座にのぼらず、仏衣をまとわずして群衆の中で説法して、仏の意図にかなうでしょうか。

問:《法華》中佛自解說,其義可然。今此城園,佛不解釋,何得師心對法門耶?答:若佛不釋不得厝意者,一切經文何曾併是佛自解釋?若各師心,豈皆有失?

質問:『法華経』の中で仏陀ご自身が解説されているので、その意味は確かです。しかし、ここでの「城園」は仏陀が説明されていません。どうして自分の考えで法門に当てはめることができるのですか?

答え:もし仏陀が説明していなければ、意味を確定してはいけないというのなら、すべての経典はどこまで仏陀ご自身が説明しているのでしょうか。もしそれぞれが自分の考えを拠り所にするなら、すべてが間違いなのでしょうか?

問:《華嚴》頓教可得約行明諸法門,此方等經及小乘教,何得亦約觀行明義?答:此經既云「諸佛解脫當於眾生心行中求」,若不約觀行,豈稱斯文?若不以毘耶菴園對諸法門,則不得約觀心解釋,何得於眾生心行中求諸佛解脫?若不於心求解脫者,云何得住不思議解脫?若不住不思議解脫,云何於一毛孔見諸佛土變現自在,廣如〈不思議品〉。又豈得如華嚴無量諸世界悉從心緣起,無量諸佛土皆於毛孔現?若言小乘不得約觀心解者,何故聲聞經中佛為牧牛人說十一法,一一內合比丘觀心。如是等例,豈非方等及三藏經對諸法門觀心義也。

問:『華厳』では頓教において行に即して諸法門を明かすことができるが、この方等経や小乗教では、なぜ観行に基づいてその義を明かすのか。

答:この経に「諸仏の解脱は、まさに衆生の心の行いの中に求むべし」と説かれている。もし観行に基づかなければ、どうしてこの文に沿えるだろうか。もし毘耶離の庵園をもって諸法門に対照しなければ、観心による解釈は成り立たず、どうして衆生の心の行いの中に諸仏の解脱を求められようか。もし心において解脱を求めなければ、どうして不可思議解脱に安住できようか。もし不可思議解脱に安住しなければ、どうして一毛の孔に諸仏の国土が変現自在であるのを見ることができようか。その広大さは『不可思議品』に説かれる通りである。また、どうして『華厳』のように無量の諸世界がすべて心より縁起し、無量の諸仏土がすべて毛孔に現じるということがありえようか。

もし小乗では観心によって解釈してはならないと言うならば、なぜ声聞経の中で仏が牧牛人のために十一の法を説き、その一つ一つを比丘の観心に内に合わせたのであろうか。このような例は、方等経や三蔵経が諸法門に対する観心の義を示していることにほかならない。

問:三觀四教懸釋此經觀前教後,入文何得教前觀後?答:論其玄旨,教從觀出,如破微塵出大千經卷。入文帖釋,從事入理,故先須四教消釋經文。尋文入理必須觀行,故次點出三觀章門,一品一偈一句無不皆入不二法門住不思議解脫也。

問:「三観・四教を懸けてこの経を解釈する場合、観が先で教が後と述べられているのに、実際の経文に入ると教が先で観が後となっているのはなぜですか。」 答:「その深遠な趣旨について言えば、教は観から生じるものです。これは、微塵を砕けば大千世界の経巻が現れるようなものです。しかし、経文に入って具体的な解釈をする際には、事象から道理へと入っていくため、まず四教によって経文を解釈する必要があります。そして、経文をたどって道理に入るには、必ず観行が必要となるため、次に三観の章門が示されるのです。一品、一偈、一句に至るまで、すべて不二の法門に入り、不可思議な解脱に安住するためのものなのです。」


1 維摩經略疏卷第一
3 維摩經略疏卷第三

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