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弘賛法華伝 (弘贊法華傳)


弘贊法華傳卷第十

弘賛法華伝 巻第十

藍谷沙門慧詳撰

藍谷沙門慧詳撰

書寫第八

第八章 書写

  • 齊太祖高皇帝
  • 齊竟陵文宣王并世子
  • 北齊釋道超故弟子
  • 隋河東練行尼
  • 隋楊州嚴恭父子
  • 隋客僧救同學
  • 隋司空竇杭弟璡
  • 唐貝州人馬衡
  • 唐比干山釋曇韻
  • 唐巴西令狐元軌
  • 唐洺州妙智
  • 唐雍州人陳法藏
  • 唐左僕射蕭𨺲父子
  • 唐弘福寺釋智曄
  • 唐洛州人何玄玲
  • 唐汝州梁縣劉老
  • 唐藍田徐氏
  • 唐郎將吳氏
  • 唐悟真寺釋玄際
齊大祖高皇帝。姓蕭。諱道成。字紹伯。閱想真乘。虎心寶地。出火宅而長騖。超化城而直指。度僧立寺。大啟福門。鑄像持經。頻修慧業。每七月十五日。普寺送盆。供僧三百。朔望之日。不許殺生。又以萬機之暇。手寫法花。莊嚴傑異。恒申供養。

斉の太祖高皇帝は、姓は蕭、諱は道成、字は紹伯と申しました。真実の教えを敬い、仏の土地を心から慕い、三界の苦しみの家を出て遥かな道を進み、化城のたとえを超えて直ちに悟りを目指しました。僧を度し寺院を建立して、広く福徳のもとを開き、仏像を鋳造し経典を誦持して、たびたび慧業を積まれました。毎年七月十五日には、すべての寺院に盆を送り、三百人の僧に供養しました。毎月一日と十五日には、殺生を許しませんでした。また、多忙な政務の合間を縫って、自ら『法華経』を写経されました。その経典は荘厳で他に類を見ず、常に供養を捧げられました。

蕭子良。南蘭陵人。封竟王。齊永明七年。誌上。以四千錢。就竟陵王。作八關齊。白王云。可請雲副。此是真出家人。王即請副為善知識。共王造法華經千部。王夢一人問云。欲得功德不。王云。欲得。即指水中功德。王仍入水。得一卷法花。覺已深懷喜躍。即澡潔中表。手寫法花經一部。觀世音一部。世子巴陵王。亦手寫法花經一部。副又夢。一人騎白馬。於空從東方來。授副信幡。又永明十一年四月末。夢一人送經一卷云。言有誤。明日遇得一部法花。試略披看。遂見第五卷壽量品。有一句異。云一塵一劫。于時。募集數十部經。悉無此句。即言推義。乃是法花之極致。是以即撰經文。便有白雀來翔。以應嘉瑞。副後不知所終。

蕭子良は、南蘭陵の出身で、竟陵王に封じられました。斉の永明七年(489年)のこと、ある僧が志を立て、四千銭を持って竟陵王のもとを訪れ、八関斎を行いました。そして王に申し上げました。「雲副師をお招きください。この方は真の出家者です」と。王はすぐに雲副師を善知識としてお迎えしました。共に『法華経』一千部を製作しました。

ある時、王は夢の中で一人の人から問われました。「功徳を得たいと思いますか?」王が「得たいと思います」と答えると、その人は水中の功徳を指し示しました。王が水の中に入ると、一巻の『法華経』を得ました。目覚めた王は深く喜び勇み、身も心も清らかにして、自ら『法華経』一部と『観世音経』一部を書き写しました。世子の巴陵王もまた、自ら『法華経』一部を写経しました。

また、雲副師は夢の中で、一人の人が白馬に乗り、東の空からやって来て、自分に信幡を授けるのを見ました。

さらに、永明十一年(493年)四月の終わりごろ、夢の中で一人の人が一巻の経典を届け、こう言いました。「言葉に誤りがあります」と。翌日、たまたま一部の『法華経』を入手し、試しにざっと見てみると、第五巻の寿量品に、一句異なる箇所がありました。「一塵一劫」という句です。当時、数十部の経典を集めましたが、どの経典にもこの句はありませんでした。そこで意味を推し量ったところ、これはまさに『法華経』の極意でした。そのためただちに経文を撰んでいると、白い雀が飛来し、吉祥の応兆を示しました。

雲副師のその後は、誰も知りません。

釋道超。不知何許人也。出家住齊郡山寺。立行清潔。有弟子。亡名。年十五。誦法花經。得一卷。忽因病而亡。此弟子。為性勤學。兼有神采。天懷仁孝。師甚愛之。自從終亡以後。旦夕悲憶。齊郡去太山祠不遠。道超心念。吾常聞。人死。神明必先經太山府君所。然後方得受生。幽明雖隔。有誠必感。吾試問太山府君。或知弟子生處。因而執錫杖焚香。往造山廟。具陳來意。三反告神。木主。忽然發聲。酬對曰。法師既戒行精誠。來心又重。所問之事。敢不告師。便命一木侍神。令呼所由主者。侍神。便往東廂屋內。呼一人來。府君即問。弟子亡名。今在何許。此人答云。繫在此間。未有生處。道超仍乞相見。府君。即令隨其人往至東廂屋。相去十餘許步。即見弟子。形貌衣服。宛若生平。師弟悲泣。良久問其即曰。苦樂果報云何。弟子答曰。即今拘繫。亦無苦樂。但生處未定。急須功德扶持。若無善根。恐生惡處。師問。作何福善。可得莊嚴。弟子答云。願師為造法花經一部。一百僧齊。師云。此事可辦。因別弟子。更見府君。府君具問。相見何說。師。述須建齊造經之事。府君云。冥道大須功德。師可急營造畢。更來相見。超因還本住。即具紙筆。雇人寫經。仍建齊慶。功德既了。還往廟所。與府君相見。述修福已竟。來覓弟子。府君還命侍神。呼前主者。主者既至。府君即問。弟子在無。其人答云。已生勝處。超問。何是受生。其答云。寫經之人。初作妙字。女字始成。未得作少。當於此時。即得生處。超復問。今生何方。神人答云。生齊郡王武家。待其生兩三歲。可往訪覓。超心記神言。辭府君而退。後經三載。乃造王家。問云。檀越有兒。貧道欲見。此家富室。敬信三寶。但由來無子。近遠所知。後有此兒。疎親亦不相語。王君拒諱。不言有子。超云。貧道弟子。來生檀越家。已得三年。何為不以相示。因具說告太山府君之由。其母在閤內聞之。語其父曰。法師靈感若此。何得隱諱。即抱兒安閤限外。去超數丈。因直走遙入超懷。啼泣良久。年大出家。還事超為弟子。即開皇十五年也。不知師弟各年幾而終。

道超という僧侺がいた。どこの出身かはわからない。斉郡の山寺に住み、清らかな行いを保っていた。ある弟子に亡名という者がいた。十五歳で法華経を一巻だけ読誦していたが、急に病にかかって亡くなってしまった。この弟子は勤勉で学問を好み、才気があり、心から孝行で師を敬愛していたため、師は非常に可愛がっていた。その死後、師は朝な夕なに悲しみ、思い出しては嘆き悲しんだ。

斉郡は太山の祠から遠くない場所にあった。道超は心の中で思った。「私はよく聞く。人が死ねば、その霊魂は必ずまず太山府君のところを通り、それからようやく生まれ変わると。幽と明は隔たっているが、誠の心があれば必ず感じ合うものだ。試しに太山府君に尋ねてみよう。あるいは弟子がどこに生まれたか知っているかもしれない。」そこで錫杖を持ち、香を焚いて太山の祠へ向かった。

祠に着き、来意を詳しく述べ、三度神に告げた。すると木主(位牌)が突然声を発して答えた。「法師は戒律を守り心が清らかで、来る思いもまた深い。お尋ねのことは、どうしてお伝えしないことがありましょう。」そして一人の木の侍神に命じて、担当の主者を呼ばせた。侍神は東の廂の部屋へ行き、一人を呼んで来た。府君が尋ねる。「弟子の亡名は今どこにいるのか。」その人は答えた。「ここに拘束されていて、まだ生まれる場所が決まっていません。」

道超はなおも面会を願った。府君はその人に付き従って東の廂の部屋へ行くことを許した。十数歩の距離で、弟子が見えた。姿や衣服は生前のままであった。師弟は悲しみの涙を流し、しばらくして師が尋ねた。「苦楽の報いはどうか。」弟子は答えた。「今ここに拘束されているだけで、苦も楽もありません。しかし生まれる場所がまだ決まっていません。早く功徳の支えが必要です。もし善根がなければ、悪い場所に生まれる恐れがあります。」師が尋ねる。「どのような善いことをすれば、功徳を飾ることができるのか。」弟子は答える。「師よ、どうか法華経一部を写経し、百人の僧侺に斎を施してください。」師は言う。「それは容易にできることだ。」こうして弟子と別れ、再び府君に会った。

府君が詳しく尋ねる。「面会して何を話したのか。」師は斎を設け経を写す必要があることを述べた。府君は言う。「冥土には大いに功徳が必要だ。師は急いで営みを終え、再び来て会うがよい。」超は寺に戻り、紙と筆を用意し、人を雇って経を写させ、斎を設けて慶賀した。功徳が終わると、再び祠に行き府君に会い、福を修めたことを述べ、弟子を訪ねた。

府君は再び侍神に命じて先の主者を呼ばせた。主者が来ると、府君は尋ねる。「弟子はいるか。」その人は答えた。「すでに良い場所に生まれました。」超が尋ねる。「どのようにして生まれたのか。」その人は答える。「写経の人が最初に『妙』の字を書き、『女』の字が出来上がった時、まだ『少』の字を書いていない、その時に生まれる場所を得たのです。」超がさらに尋ねる。「今どこに生まれたのか。」神人は答える。「斉郡の王武の家に生まれました。二、三歳になった時、訪ねてみてください。」

超は神の言葉を心に刻み、府君に別れを告げて戻った。三年後、王の家を訪ねて尋ねた。「檀越にはお子さんがおられますか。私はお会いしたいのです。」この家は裕福で、三宝を敬い信じていたが、もともと子供がおらず、それは近隣の者の知るところであった。その後この子が生まれたが、遠い親戚も近い親戚もそのことを話さなかった。王君は隠して言おうとせず、子はいないと言った。超は言う。「私の弟子が檀越の家に生まれ変わって、もう三年になります。どうして見せてくださらないのですか。」そして太山府君に問うた次第を詳しく語った。

その母親が閤の中でこれを聞き、夫に言った。「法師の霊験がこのようなものなら、どうして隠し立てできましょう。」そこで子供を抱いて閤の外に置き、超から数丈離れたところから、子供がまっすぐに遠くから超の懐に飛び込み、長い間泣き続けた。やがて成長して出家し、再び超の弟子となった。これは開皇十五年(西暦595年)のことである。師弟がそれぞれ何歳で亡くなったかはわからない。

比丘尼練行。河東人也。不知其本名。但以苦節專心。勤策無怠。俗稱練。因以名之。常誦法花。志欲抄寫。訪工書者一人。數倍酬直。別為淨室。莊嚴中表。經生。一起一沐。燃香薰衣。仍於寫經之室。鑿壁通外。加一竹筒。令寫經人。每欲出息。輒含竹筒。吐氣壁外。寫經七卷。八年乃畢。供養嚴重。盡其恭敬。龍門僧法端。常集大眾。講法花經。以此尼經本精定。遣人請之。尼固辭不與。法端責讓之。尼不得已。乃自送付。端等開讀。唯見黃紙。了無文字。更開餘卷。皆悉如此。法端等慚懼。即送還尼。尼悲泣受之。以香水洗函。沐浴頂戴。遶佛行道。於七日夜。不暫休息。既而開視。文字如故(云云)。

比丘尼の練行(れんぎょう)は、河東(かとう)の人である。その本名は知られていない。ただ苦行に徹して一心に修行し、怠ることなく励んだので、世間では「練(れん)」と呼び、それが名となった。常に法華経を誦し、書き写そうと志した。上手な書き手を一人探し、謝礼を何倍も払った。別に清らかな部屋を設け、内外を荘厳に飾った。経を写す人は、一文字書くごとに一度身を清め、香をたいて衣を薰した。さらに写経の部屋には、壁に穴を開けて外へ通じる竹筒を設け、写経人が息を吐くたびにその竹筒をくわえて外へ息を出すようにした。七巻の経を書き写すのに八年かけてようやく完成した。供養は厳かに行われ、その恭敬の心は尽きることがなかった。

竜門(りゅうもん)の僧、法端(ほうたん)は、常に大衆を集めて法華経を講じていた。この尼の経本がとても精確であると聞き、人を遣わして請うた。尼は固く辞して与えなかった。法端が責めると、尼はやむを得ず自ら送り届けた。法端らが開いて読もうとすると、ただ黄紙があるばかりで、文字は全くなかった。他の巻を開いても、すべて同様であった。法端らは恥じ恐れ、すぐに尼のもとへ返した。尼は悲しみ泣きながらそれを受け取り、香水で箱を洗い、身を清めて頭の上に戴き、仏の周りを歩いて行道した。七昼夜、休むことなく行った。その後開いて見ると、文字はもとの通りになっていた(云云)。

嚴恭。字近禮。本泉州人。家富於財。而無兄弟。父母愛恭。言無所違。陳大建初。恭年弱冠。請於父母。願得錢五萬。往揚州市物。父母從之。恭乘船載錢而下。去揚州數十里江中。逢一船載黿。將詣市賣之。恭問知其故。念黿將死。因請贖之。黿主曰。我黿大。頭別千錢乃可。恭問。有幾頭。答有五十。恭曰。我正有錢五萬。願以贖之。黿主喜取錢。付黿而去。恭盡以黿放江中。而空船詣揚州。其黿主別恭。行十餘里。船沒而死。是日。恭父母在家。昏有皂衣客五十人。詣門寄宿。并送錢五萬。付恭父母曰。君兒在揚州。附此錢歸。願依數受也。恭父母怪愕。疑恭死。固審之。客曰。兒無恙。但不須錢。故附歸耳。恭父受之。記是本錢。皆水濕。留客為設食。客止。明旦辭去。後月餘。恭還家。父母大喜。既而問附錢所由。恭言。無之。父母說客形狀。及附錢日月。乃贖黿之日。於是。知五十客皆所贖黿也。父子驚歎。因從家揚州。專勤福業。常讀法花。至見寶塔品。輟經而歎曰。一塔之內。有二如來。分身諸佛。其數不少。我今何為不逢一聖。感慨良久。其夜。忽夢見有梵僧。自稱法脫。語恭云。若寫此經。兼事講說。欲見諸佛。斯事可階。恭因發願造法花百部。未幾之間。忽遇重疾。誓造千部講五百遍。於是。大起房宇。為經之室。莊嚴清淨。供給豐厚。書生常數十人。揚州道俗。共相崇敬。號之為嚴法花。其病既愈。志願彌稱。恭甞一時在經堂北。有一異僧。年可八十。來告恭云。聞君造經。願請一部。又承未有提婆達多品。今留此品。可於寶塔品後安之。貧道。從龜茲國來。今往羅浮山去。得經一部。粗略披尋。仍留金一鉼。重三十斤。用入法花。來歲夏間當附物。又云。向見普賢品內呪。少一句語。宜覓足之。言畢而退。恭尋後看。莫知所在。後有捿霞寺禪師寶恭。送零落法花經五十許卷。使恭成就擬用流通。有一卷第七。是宋元嘉二十九年宋懿所造。校普賢呪。果少婆羅帝三字。是第十六句。自後寫經。仍依足之。恭甞有親知從貸經錢一萬。恭不獲已與之。貸者受錢。以船載歸。中路船傾。所貸之錢落水。而船人不溺。是日。恭入錢庫。見有一萬濕錢。如新出水。恭甚怪之。後見前貸錢人。乃知濕錢是所貸者。至來年夏內。有廬江人侯志。從鄱陽郡下。到宮亭湖。卒遇暴風。宗伴多有被溺。唯志一船。如被持引。橫風截浪。遙到廟所。見有一神形長二丈。被甲帶劍。身坐一人。問志生平所有罪過。無非實錄。志悉款伏。又問。識蔣州造法花經嚴恭以不。我今寄錢一萬。入其功德。汝可付之。語竟便隱。志不知錢之所出。唯記嚴恭姓名。仍值便風。乘船利涉。行止二日。到彼當塗縣。船纔泊岸。忽有一人。自稱姓許。來覓侯志云。在陳之日。曾於會稽。就君市錦四匹。餘直尚少。今欲還君。乃留錢一萬。逼志令受。志憶有交關。不記餘贖。留錢乃去。遂不知所之。志心方曉神錢不二。到江寧縣。訪恭以錢付之。委陳上事。恭倍歡忻。精到愈功。乃發願造三千部。講一千遍。後有江夏郡人李湛。請經一部。還鄉供養。於三山遇風。一舟漂沒。湛身亦沒。經涉五日。新林坊人。忽望水上。有數十鴉鵄。共擁一物。光彩映日。隨流而下。仍輕舸往取。得一漆函。上岸披。經一無霑濕。坊人送上刺史張熙。熙撿經後。乃是嚴恭造經。送還恭舍。勘目即是李湛所請之部。又齊王府人。忘姓名。請經一部還家。過江遭風船沒。財物皆盡。唯身獲存。法花一函。在江半日。隨浪上下。似如緘持。後人接獲尋撿。一無損濕。送還恭舍。勘目知是齊王府人所請之經。又甞至市買紙。適遇少錢。忽見一人。持錢三千。授恭曰。助君買帋。言畢不見。如此非一。隨開皇末。恭死。子孫傳其業。隋季。盜賊至江都。皆相與約。勿入嚴法花里。里人賴之獲全。前後所寫。二千五百餘部。

厳恭(げんきょう)は、字を近禮(きんれい)という。もとは泉州の出身で、家は裕福だったが兄弟はいなかった。両親は恭をかわいがり、彼の言うことには何も逆らわなかった。

陳の大建(たいけん)の初め、恭は二十歳になった。両親に願って、五万の銭をもらい、揚州(ようしゅう)に品物を買いに行きたいと請うた。両親はそれを許した。恭は船に銭を積んで下った。揚州から数十里の川の中で、一そうの船がスッポンを載せて、市に売りに行くところに出会った。恭が事情を尋ねると、スッポンが殺されようとしているのを知った。そこで、スッポンを贖い求めたいと請うた。スッポンの主は言った。「私のスッポンは大きい。一頭につき千銭ならばよい」と。恭が「何頭いるのか」と尋ねると、五十頭だと答えた。恭は言った。「私はちょうど五万の銭を持っている。どうかそれで贖わせてほしい」と。スッポンの主は喜んで銭を受け取り、スッポンを渡して去っていった。恭はすべてのスッポンを川に放してやり、空の船で揚州へ向かった。

そのスッポンの主は恭と別れ、十余里行ったところで、船が沈んで死んでしまった。

その日、恭の両親は家にいた。夕暮れに、黒い服を着た五十人の客が門に来て、宿を借りたいと願い出た。そして、五万の銭を差し出して、恭の両親に渡し、こう言った。「あなたのご子息が揚州にいて、このお金を届けよとのことです。どうか数えのままお受け取りください」と。恭の両親は怪しみ驚き、恭が死んだのではないかと疑った。しかし、よく尋ねると、客は言った。「お子さんは無事です。ただ、お金は必要ないと言って、届けさせたのです」と。恭の父はそれを受け取った。もとの銭であることがわかり、みな水でぬれていた。客を留めて食事を振る舞い、客は泊まった。翌朝、辞去していった。

その後、一か月余りたって、恭が家に帰った。両親は大喜びした。そして、金を届けさせたわけを尋ねた。恭は「そんなことはありません」と言った。両親が客の姿や金を届けた日付を話すと、それはスッポンを贖った日だった。そこで、五十人の客は、みな自分が贖ったスッポンたちだとわかった。父子は驚き嘆息した。それ以来、揚州の家から、専ら福業に励み、常に法華経(ほけきょう)を読んだ。宝塔品(ほうとうほん)を見るに及んで、読経をやめて嘆息して言った。「一つの塔の中に、二体の如来(にょらい)がいらっしゃる。分身の諸仏(ぶっしゃ)の数は少なくない。私は今、どうして一人の聖者にもお会いできないのだろう」と。長く感慨にふけった。

その夜、夢の中に梵僧(ぼんそう)が現れ、自ら「法脱(ほうだつ)」と名乗った。恭に言った。「もしこの経を写し、かつ講説に努めるならば、諸仏に会いたいというその願いは叶うでしょう」と。恭はそこで、法華経一百部を造ることを発願した。ほどなくして、突然重い病にかかったが、千部を造り、五百回の講説を行うことを誓った。こうして、大きな家屋を建てて、経を置く部屋とし、荘厳清浄に整え、供養も豊かにした。書生はいつも数十人いた。揚州の道俗(どうぞく)は、共にこれを崇敬し、「厳法花(げんほっけ)」と呼んだ。その病は治り、志はますますかなえられた。

恭がかつて経堂の北にいた時のことである。一人の異僧(いそう)がおり、年は八十ばかりだった。恭のもとに来て告げた。「あなたが経を造られると聞き、一部いただきたい。また、あなたのところには提婆達多品(だいばだったほん)がないと聞いた。今、この品を留め置くので、宝塔品の後ろに安置しなさい。私は亀茲国(くじこく)から来て、今、羅浮山(らふざん)へ行くところだ。経を一部いただき、ざっと披見した。」そのまま、金の塊一つを置いていった。重さ三十斤あり、法華経の事業のために使うようにと言った。「来年の夏に、品物を届けさせよう」とも言った。さらに、「先ほど見た普賢品(ふげんぼん)の中の呪文に、一句足りない。探して補いなさい」と言い終えて、立ち去った。恭は追って見たが、どこにいるのかわからなかった。

その後、棲霞寺(せいかじ)の禅師、宝恭(ほうきょう)が、散逸した法華経の巻物を五十巻余り持ってきて、恭に仕上げさせ、流通に用いようとした。その中に、巻第七があった。宋(そう)の元嘉(げんか)二十九年、宋懿(そうい)が造ったものである。普賢呪(ふげんじゅ)を校合すると、果たして「婆羅帝(ばらだい)」の三字が欠けていた。それは第十六句だった。その後、経を写す時には、それに従って補った。

恭にはかつて、親しい知人から経のための金一万を貸してほしいと請われたことがあった。恭はやむを得ず貸した。借りた人は金を受け取り、船に載せて帰った。途中で船が傾き、貸した金は水に落ちたが、船の人は溺れなかった。その日、恭が金の倉庫に入ると、一万の湿った金があり、まるで水から出たばかりのようだった。恭は大いに怪しんだ。後日、前に金を貸した人に会って、湿った金がまさに貸した金であることを知った。

次の年の夏、廬江(ろこう)の人、侯志(こうし)が、鄱陽郡(はようぐん)から下って、宮亭湖(くていこ)に至った。突然暴風に遭い、仲間の多くは溺れたが、ただ侯志の船だけは、何かに引き寄せられるように、風を横切り波を断って、遠くの廟所(びょうしょ)にたどり着いた。そこに、一柱の神がいた。丈は二丈(約六メートル)あり、よろいを着て太刀を帯び、一人の人を座らせていた。侯志の生まれながらの罪過をことごとく尋ね、全て実録であった。侯志はことごとく白状した。また尋ねた。「蔣州(しょうしゅう)に住む、法華経を造っている厳恭を知っているか。今、私は金一万をその功徳に寄進する。お前が届けよ」と言い終えると、たちまち姿を消した。侯志は金の出所を知らなかったが、ただ厳恭の姓名だけは覚えていた。そのまま順風に乗り、船は快適に進み、二日で当塗県(とうとけん)に着いた。船がちょうど岸についた時、突然一人の人が現れ、姓は許(きょ)と名乗った。侯志を訪ねて言った。「陳(ちん)の時代に、會稽(かいけい)であなたから錦(にしき)四匹を買った。代金がまだ少し足りない。今、あなたに返したい。」そのまま金一万を置いて、侯志に無理に受け取らせた。侯志は取引があったことは覚えていたが、残金があったことは覚えていなかった。金を置いて去っていったので、どこへ行ったかわからなかった。侯志はようやく、神の金が偽りではないことを悟った。江寧県(こうねいけん)に行き、恭を訪ねて金を渡し、その次第を詳しく話した。恭はますます喜び、精進の功を一層深めた。そして、三千部を造り、千回の講説を発願した。

その後、江夏郡(こうかぐん)の人、李湛(りたん)が、経を一部請い、故郷に持ち帰って供養しようとした。三山で風に遭い、一そうの舟は没し、李湛自身も水に没した。五日を経て、新林坊(しんりんぼう)の人々が、ふと水上を見ると、数十羽のカラスやトビが、一つのものを共に支えていた。そのものは光彩を放ち、日に映え、流れに従って下ってきた。そこで、小舟で行って取ると、漆の箱を得た。岸に上がって開けると、経は一滴も濡れていなかった。坊の人々はそれを刺史(しし)の張熙(ちょうき)に差し出した。張熙が経の後ろを調べると、それは厳恭の造った経だった。恭の家に送り返し、目録を調べると、それはまさに李湛が請い受けた部だった。

また、斉王府(せいおうふ)の人で、姓名を忘れた者が、経を一部請い受けて家に帰ろうとした。長江を渡るに当たり、風にあって船が沈み、財物はすべて失われたが、その人の身だけは助かった。法華経の箱一つは、川の中で半日、波に上下に揺られながらも、まるで密封されたようだった。後日、人が拾い上げて調べると、全く濡れておらず、損傷もなかった。恭の家に送り返され、目録を調べると、それは斉王府の人が請い受けた経であることがわかった。

また、かつて市に紙を買いに行った時、たまたま金が足りなかった。すると突然、一人の人が現れ、三千の金を恭に渡して言った。「あなたの紙代に加えてください」と言い終わると、姿が見えなくなった。このようなことは一度ではなかった。

開皇(かいこう)の末年、恭は亡くなった。子孫がその業を伝えた。隋(ずい)の末期、盗賊が江都(こうと)に来た時には、皆で約束し合って、「厳法花(げんほっけ)の里には入るな」と言った。里の人々はそのおかげで全うされた。前後に写した経は、二千五百余部に及んだ。

釋某。失其名。隋大業中。行至太山廟。求寄宿。廟令曰。此無別舍。唯神廟廡下可宿。然此來寄宿者。輒死。僧曰。無苦也。令不得已從之。為施床於廡下。僧至夜端坐誦經。可一更。聞屋中環佩聲。須臾神出。為僧禮拜。僧曰。聞此宿者多死。豈檀越害之耶。願見護念。神曰。遇其死時將至。聞弟子聲。因自懼死。非殺之也。願師無慮。僧延坐。談說如人。良久。僧問曰。聞人傳說。太山案鬼。寧有之耶。神曰。弟子薄福有之。豈欲見先亡乎。僧曰。有兩同學僧先死。願見之。神問名。一人已生人間。一人在獄。罪重不可喚。與師就見可也。僧甚悅。因共起出門。不遠而至一所。多見廂獄。火光甚盛。神將僧入一院。遙見一人在火中。號呼不能言。形變不可復識。而血肉燋臭令人傷心。神曰。此是也。師不復欲歷觀耶。僧愁愍求出。俄而至廟。又與神坐。因問。欲救同學。有得理耶。神曰。可得耳。為寫法花經者便免。既而將曙。神辭僧入堂。旦而廟令視僧不死。怪異之。僧因為說。仍即為寫法花經一部。莊嚴畢。又將經就廟宿。其夜。神出如初。歡喜禮拜。慰問來意。僧以事答。神曰。弟子知之。師為寫經。始書題目。彼已脫免。今久出生不在也。然此處不淨潔。不可安經。願師還送經向寺。言說久之將曉。辭訣而入。僧送經於寺。

ある僧がいた。名前は伝わっていない。隋の大業年間、太山の廟に至って宿を請うた。廟の役人は言った。「ここには他に宿舎はなく、ただ神廟の廂の下に泊まることができる。しかしこれまでに宿を求めた者は、必ず死んでしまうのだ」と。僧は「苦にはなりません」と答えた。役人はやむを得ず承諾し、廂の下に床を設けた。夜になり、僧は端座して経を読誦していた。初更の頃、家の中で環佩の音が聞こえ、しばらくして神が現れた。神は僧に向かって礼拝した。僧が言った。「聞くところによると、ここに泊まる者は多くが死ぬとのこと。それは檀越が害しているのか。どうか私を守り慈しんでほしい」。神は答えた。「彼らは死ぬ時が来た時に、私の声を聞いて自ら恐怖して死んだのであり、私が殺したわけではない。どうかご心配なく」。僧は神を座に招き、人のように談話した。しばらくして、僧が尋ねた。「人が伝えるところでは、太山は鬼を裁くと聞くが、本当だろうか」。神は答えた。「私は不徳でして、そのような役目があります。亡くなった方々をお見になりたいのですか」。僧が言った。「共に学んだ二人の僧が先に亡くなった。彼らに会いたい」。神が名前を尋ねると、一人はすでに人間界に生まれ変わり、もう一人は地獄にいて、罪が重く呼び出すことはできないと言う。「お師匠様と共に行って見ることはできます」と神は言った。僧は大喜びし、共に立ち上がって門を出た。遠くない場所に着くと、多くの牢獄が見え、火の光が盛んに燃えていた。神は僧を一つの院に連れて行った。遠くに一人の人が火の中にいて、叫んでも声が出せず、姿は変わり果てて見分けがつかない。血肉は焦げて臭く、心を傷ませた。神は言った。「これがその人です。お師匠様は、まだ他を見学なさいますか」。僧は悲しみと憐れみの念から、すぐに外へ出たいと願った。やがて廟に戻り、再び神と共に座った。僧は尋ねた。「あの同門を救う方法はあるだろうか」。神は答えた。「できます。『法華経』を写経すれば、免れるでしょう」。ほどなく夜が明けようとし、神は僧に別れて廟堂に入った。翌朝、廟の役人が僧が死んでいないのを見て、不思議に思った。僧は一部始終を語り、すぐに『法華経』一部を写経した。荘厳が終わると、その経を持って再び廟に宿った。その夜、神は前のように現れ、喜んで礼拝し、来意を尋ねた。僧が事の次第を答えると、神は言った。「私も知っています。お師匠様が写経を始め、題目を書かれた時、彼はすでに免れて、今は久しくこの世に生まれ出ており、ここにはおりません。しかしここは不浄で、経を安置するにふさわしくありません。どうかお経を寺に持ち帰ってください」。話も長くなり、夜が明けようとした。神は別れの言葉を述べて廟堂に入った。僧は経を寺に納めた。

司空陳容公竇抗。早出中衢。宿知寶所。雖貴極台輔。而凝心妙覺。爰捨淨財。立靜法寺。莊嚴輪奐。將美天宮。其弟璡。行盡色難。志窮惡道。奉為考安豐公。妣成安公主。敬造法花金剛般若。各一部。乃妙思神𮂌。幽情獨悟。每菡萏將發。澡雪身衣。自搴池內白蓮花葉。潔淨曝乾。擣以為紙。於是。嚴飾道場。躬自抄寫。刺心取血。用以為墨。斯事振古罕儔。理多祥瑞。而璡謙損慎密。不許外傳。使後代無聞。惜哉。其經。緘之寶藏。于今尚在。

陳の司空で容公の竇抗は、早くから世俗の中心に身を置きながら、心のよりどころを知っていました。位は高官の頂点にありましたが、心を悟りに向け、私財を投じて静法寺を建立しました。その荘厳さは色彩豊かで、天の宮殿に勝るとも劣りません。その弟の璡は、孝行を尽くし、悪しき道を断ち切ろうと志しました。父の安豊公と母の成安公主のために、法華経と金剛般若経をそれぞれ一部、心を込めて作りました。その思惟は神々しく、深い慈しみをもって悟りを開きました。蓮の花が咲こうとするたび、自ら身を清め、池から白い蓮の葉を摘み、それを清浄に乾燥させ、すりつぶして紙としました。そして、道場を厳かに飾り、自ら書き写し、心臓を刺して血を取り、墨としました。この行いは古来まれであり、多くの瑞兆がありました。しかし、璡は謙虚で慎み深く、外部に伝えることを許しませんでした。そのため後世に知られることはなく、惜しまれます。その経典は、宝蔵に納められ、今もなお存在しています。

馬衡。具州洛水人也。父母喪亡。盧於墓側。營造墳塋三所。皆躬自負土。積三年乃就。境甚高峻。人所歎伏。每在廬中宿臥。恒有大白蛇。曳身廬屋上。垂頭臨戶。若欲出入。蛇即縮頭避之。如是為恒。不至侵害。狀如守護。又有一白狼。恒去來。臥起廬側。及墳事畢。其人又起念。我雖為父母。造成此墳。仍未為亡靈別修功德。因即發願。造法花經。以資魂路。乃以塚傍淨處。香水灑地。採取穀子種之。生長之後。每以香水溉養。及其成樹。即採皮如法造紙。亦用香水和泥。作屋於墳傍。請書生寫經。護淨齊蔬。出入每易衣服。仍以四事供養不闕。及書經了。未得莊嚴。以三重紙裹。著小屋壁上。忽然夜中風雨大至。及明。乃上屋被風雨飄破。草木皆盡。在地水深數尺。失經所在。凡經二日。水歇之後。於水下收得所寫之經。唯在上一重紙濕。至第二重。儼然乾淨。一無傷損。不濕不污。其人初失此經。悲號懊惱。日夜悲動。及見經在。歡喜踊躍。得未曾有。遂得莊嚴成就。永為供養。
釋曇韻。定州人。行年七十。隋末喪亂。隱于離石比干山。常誦法花經。欲寫其經。無人同志。如此積年。忽有書生。無何而至。云所欲潔淨。並能行之。於是。清旦食訖。入浴著淨衣。受八戒。含香燒香。寂然抄寫。至暮方出。明又如先。曾不告倦。及經寫了。如法親奉。相送出門。斯須不見。乃至裝潢。一如□法。韻受持讀之。七重裏結。一重一度。香水洗手。初無暫廢。後遭胡賊。乃箱盛其經。置高巖上。經年賊靜。方尋不見。周慞窮覓。乃於巖下獲之。箱巾糜爛橃朽。見經如舊鮮好。
令狐元軌者。敬信佛法。欲寫法花金剛般若等經。貞觀五年。任隆州巴西縣令。無由自檢。憑當土杬禪師檢校。杬乃為在寺。如法潔淨寫了。下秋。還岐州莊所。寫得經。留在莊舍。并老子五千文。同在一處。忽為外火延燒。堂是草䨱。一時灰蕩。家人相命撥灰。取金銅經軸。既撥外灰。其諸經宛然如故。黃色不改。唯箱成灰。又覓老子。便從火化。鄉村嗟異。讚詠成音。金剛般若一卷。題字焦黑。訪問所由。乃初題經時。有州官能書。其人行急。不獲潔淨。直爾立題。由是被焚。軌。于時任馮翊令。聞之驚喜。深增信悟。
張萬福。貞觀年中。從晉州刺史。改為洺洲刺史。其人性麁獷。不甚敬信。初至任所。問訪左右。管內有何德行眾僧。左右報云。郭下有一尼。名妙智。甚精進。又造一部法花經。如法受持供養。緣此譽滿鄉閭。其時福問。此經。可用幾物造成。答云。此尼。用一千五百段物。萬福大驚曰。京下極好手書。寫一部。正可至七八段。何因用如許物。試為我索經來看。尼聞刺史索經。拒而不與。為使君不護淨。又未齊潔。萬福大瞋。更使人往。尼遂不敢留。即作香湯。與來使沐浴。并與新衣。著訖。始付經去。萬福得經竟。不洗手。即取經開。卷中並黃紙。遂無一字。萬福大怒曰。此妖老嫗。何由可耐。即命左右。追取尼來。使往語尼曰。師經上並無一字。使君大瞋。令追師來。尼甚憂懼。莫知所由。汗流浹體。即隨使往。至刺史牙門入屏牆。尼見一雙金剛。手擎杵棒。如似授尼。尼遂心安。即入至刺史前。其經文並在空中。化作金字。刺史見尼至。并見金剛及金字在虛空中。因即驚懼。走起下廳。號咷悲泣。謝罪懺悔禮拜。遂即迴心信向。發願造法花經一千部。通十方供養。仍自受持。不敢懈怠。乃問尼造經由緒。尼曰。欲造經之時。於山中。先種穀樹。每用香水溉灌。令得滋長。樹成之後。即預以香水和泥。造作紙屋。紙屋既成。乃採取樹皮。雇匠如法香水清淨造紙成。即募訪能護淨經生。不論工拙及貴賤。乃經三年。不獲其人。後有一江南人士。年可二十四五。應募為書。其書經屋。還以香水和泥清淨造屋。屋成之後。書生著新淨衣。未寫經前。預四十九日。護淨清齊。然後始書。每出入訖。皆須改易衣服。洗浴畢。然始就書。書時。尼手執香爐。胡跪經前供養。書生止乃止。若書生夜臥。尼亦和起。燒香旋遶。如是不闕。經了莊嚴。莊嚴就。乃作僧尼男女四色人衣。各十通。每來借經。或誦或讀。及書寫者。預令七日護淨。兼與新衣著。然始付經。如是恭敬。永不虧闕。遠近崇仰。大為利益。緣此刺史歸向之後。人皆以法花為業。
陳法藏。雍州萬年縣霸曲人也。身為供膳。貞觀十八年。洛州上番。去後妻亡。下番迴道。離本住村。可十餘里。路逢亡妻。妻云。我今已死。經於數日。須臾之間。藏忽見八九家。如貧人宅。藏坐一間編茨屋。少時。其妻被喚將去。藏隨後看。見妻。被牛頭獄卒䥫釵貫之。內鑵湯中。骨肉分散。釵出還活。如是七返訖。放來相見。形容頓惡。語藏云。與君為後妻。前婦自死。非妾所害。君襆內有五百錢。家中有牛。可直千五百。至家𧫎阿婆。努力為妾。寫法花經。妾即得離此苦。將妾此語。諮請阿婆。藏歸咨母賣牛。恰得千五百當。即喚經生買紙。藏因行。更尋妻住處。藏始扣門。便聞此家遙報云。君新婦。昨買紙時。以即生天。其人驚喜。信奉增至。所得財利。每寫法花。十九年。向興善寺。供官行道。具向諸僧說之。
左僕射宋國公蕭瑀其崇佛法。乃於雍州藍田縣界。營置伽藍。召大德。四事供養。奏請名額。號曰津梁寺焉。瑀雖貴極人臣。位登台輔。恒持齊戒。常誦法花。每日一遍。被山衲袈裟。於精舍中。行道懺禮。同僧列食。居沙彌末筵。爰捨珍財。寫法花經。凡一千部。紙墨等事。盡妙窮微。書寫經生。清淨香潔。有人欲受持者。必慇懃三請。方始授之。中門之外。置一方青石。每令請經者。登此石立。瑀親捧經函。頂載授之。所有持經之人。瑀皆書其姓名。日禮一遍。其敬法重人。皆此類也。瑀家佛堂中。一朝。舍利流溢而出。他人分取供養者。忽然自失。舍利還歸瑀家。京師朝野。無不知矣。子銳。封襄城公駙馬都尉。襲父爵為宋公。妙業貞觀。本之庭語。然而沈毅有大量。善隷書。津梁寺額。是其迹也。造佛殿大像。又寫法花千部。甞為益府長史。州內有池。魚盈數萬。府內官寮。每恒採取。銳性蘊慈仁。告諸官曰。魚雖賤身。形命是等。切彼心肝。甘我口腹。誠不忍也。銳今永贖。願公等隨之。惠化既行。莫不悅服。諸寺若有講說。輒往其處。隨眾廗地。僧欲設床。竟不肯受。次子利州刺史錢。杞府法曹𫓏。並誦法花。時講父瑀之義疏(云云)。
釋智曄。江州人也。初出家。住廬山西林寺。高情雅量。殊有物外之風。美恣容。工轉讀。聲韻雄暢。數卷不疲。隋朝徵入日嚴。唐運召居弘福。且京都法席。接武連環。不有伊人。孰當其寄。然頗工書翰。尤好福門。日恒自厲。寫法花經五紙。年事乃秋。斯業無怠。得外利即寫此經。兼其自手。二千餘部。終日平坐繩床。異香滿室。時年八十矣。
洛州洛陽人。何玄玲。龍朔二年。終於京師。冥司遣為主簿。麟德年。玲鄉人。死至冥道。與玲相見。玲問鄉人。君何至此。答曰。被追至此。玲云。我見案主逗留君。枉來也。放君還去。鄉人別玲將出。乃見同村嫗。謂鄉人曰。君至此。豈不觀我受罪處耶。便見鑊陽湧沸。烹煮罪人。嫗曰。君可語我夫。為我造法花經一部。脫蒙見許。却後十日。君可報我。於村南水頭。鄉人既穌。乃即喚其夫。令為寫經。其夫。急與買紙付令寫。鄉人。至前期日。往到水濱。乃別見他嫗。謂鄉人曰。君是前所囑寫經者乎。鄉人曰。是也。嫗曰。前者婦人。夫為買紙之日。已往生天。所以不獲赴期。與君今日相見。故留言囑。令我報君。言畢。遂不獲見也。
雍州藍田縣界。有一村。忽然地陷。深百餘尺。村中有姓徐者。宅中有佛屋。在其陷處。有一部法花經。是徐氏常所受持供養。於其陷處。乃為一土柱。承此佛屋。迢然擢聳。竟不崩落。見者咸共怪異之。並為如法抄寫之徵也。
儀鳳年。汝州梁縣北。有梁村劉氏男。失名。先因從征東討高麗。沒為奴。於遼海東岸牧馬。因而寢睡。屢夢有一僧。喚令入海。共海歸家。若此非一。劉氏子自惟。漂落與死莫殊。頻感斯夢。逐投身海浦。於水中。抱得菊草一束。隨波漂流。浮渡西。至于岸上。行餘一里。思念。此草能濟吾身命。劫迴取草。解束曝之。乃於其中。得法花經第六卷。遂持還家。其父劉老。先緣子沒蕃。遂為造法花經一部。書寫清淨。每事嚴潔。及見子到。相持悲慶。怪問所由。劉氏子。具說前事。父子遂共於精舍中。開視經函。乃欠第六一卷。驗其子於海中得者。果是其父為子所造之經。部軸具足。紙墨僉同。彼此無殊。宛然符會。於是。父子篤信三寶。戒行精勵。
郎將吳氏。忘名。東征高麗。破馬邑城。焚燒屋宇。延及寺舍。城外望見。煙雲直上。中有一物。如白帶。高飛入雲。須臾飄墮城東草中。郎將吳君。走馬往視之。見黃書展在地上。就而觀之。乃是法花經第七卷也。於是。將至營中。夜安幕上。忽逢暴雨。明旦收之。一無霑濕。後將還京。於靜安坊李益常將軍舊宅。設齋慶喜。興善寺沙門萬相玄際。親見其經。各讀一遍。吳君。許進入內云。並為書寫。如法淨業所成。故特表殊祥。將悟群品也。
釋玄際。一名靜務。俗姓劉。浬南人也。曾祖鶻。隋岥州刺史。祖挺。隋宣範府果毅。並自家形國。文武兼濟。早悟玄珠。尤精佛。父通。久修儒術。晦迹衡門。不競塵喧。無悶朝市。通以際童年異稟。神情俊爽。愛其名器。因放出家。故纔登十一。便蒙落采。於是。洮汰法流。沐浴真化。筈而羽之。所入深矣。及進具足後。專精行檢。敬慎法儀。特堪師表。年三十有二。舉充興善維那。非其好也。性愛山水。深思閑寂。以咸亨之歲。託迹悟真。習誦法花般若。以為恒務。初誦法花。滿二千遍。夢登一大殿。殿內四面金山。光明徹耀。山間即有像龕。皆是觀音菩薩。頂禮圍遶。悲忻良久。乃見瑠璃瓶。盛一舍利。以手取之。倏然驚覺。誦滿五千遍。于時晝坐。忽夢空中數百檀龕。觀音菩薩。以手仰攀。漸覺來就。又於空中。見金珠無數。從上流下。光耀可愛。際以口承咽。身心遍喜。經兩食間。似飽而覺。自爾身心安預。持誦無廢福之。日兼宵五遍。誦至九千遍。時在北嶺院中。景將隅角。忽有異鳥。形如翡翠。膺白骨黃。玄吻丹足。從外飛來。直入懷內。於是。將至佛前。即飛上花樹。香奩經格。處處遊放。或以果食飼之。都無所噉。唯遇香蠟。時時以喙。晝即翩翾庭際。夜即眠息堂中。七日七夕。倏自飛去。俄又夢一人長可七八尺。姿容端正。一如捻素形像。自腰已下。文彩莊嚴。際時歡喜頂禮。號為觀音菩薩。即就菩薩。捧持其足。口稱大悲名字。乃蒙修撫摩頂。往反數迴。際以手攀。數口其乳。唅咽少時。遂便驚悟。或晝夕眠息。誦時將晚。便聞鍾磬之音。以相警發。其所誦法花。一萬二千遍。金剛般若一萬遍。中間念諸佛菩薩等名。誦滅罪隨心等呪。功挌相準過於上。有清信士祕書省校書郎劉玄曰。安者。冠纓茷族。才花秀出。神契釋門。心馳法寶。與際早狎忘言。深期淨福。以儀鳳二年。憑於寺基禪師院。讀誦之室。藻雪中表。香泥塗飾。懸幡散花。數重護淨。屈工書生行正。令其一入一浴。著新淨衣。燒香含香。虔誠繕寫。際躬罄資奉。晨昏不輟。初寫法花。未盈一紙。正夜夢神僧。授以妙香。又聞經屋前花壇之內。禮懺數拜之聲。怪往視之。寂無人物。正因不寐。獨坐肅然。俄聞空中擊鍾之響。寫第二卷。日正辰時。見一婆羅門僧。來入經室。儀容甚偉。合掌而立者久之。寫金剛波若初卷。正夢其心上光明。大如鉢許。書第二卷。到五眼前。筆硯放光。總為金色。正特加悚怖。定心書寫。其光初起題字。赫然朗燭。歷菩薩亦如是若作如是言我當滅度無量眾生。凡一十八言乃滅。至第三卷。其經本軸上。又放光明。長二尺餘。直耀窓際。于時。際與花嚴法師賢首等十餘人。親所聞見。乃相謂曰。我等末學。去聖茲遠。今寫尊經。忽垂靈相。豈可不於鴻烈而申起塔之誠乎。當即從初至終。清心潔事。謹於其處。而建一堂。以供全身兼書滿字。即七月二十六日。各捨衣鉢。置經屋前。燒香散花。共立弘誓。至後年三月。道俗數十。一宿行道。除舊屋立新基。使信士四人。齊潔沐浴。著新淨衣。僧等。以香花音樂。盡誠供養。引此四人。營制規式。雖荷畚覆簣。皆散以香花。其時。蒙鄙之人。咸發道意。其後沙門志寬文禮寺。親事板築。一舉槌杵。一稱佛名。餘清信士。但齊戒運土而已。成基之後。屢聞禮佛誦經之音。其年十月。於北嶺。別起經淨屋。表裏莊嚴。召巧匠路貞等。以香湯灌木。乃施斤斧。即聞空際數下鴻鍾之聲。夜叉夢花幢并二神長丈餘。立於作處。又遣縣人毛普達。採斫堂柱於散谷之內。見一孤松。聳乎高嶺之上。去水甚遠。匠斫所以棄之。其人既伐此樹。不日而倒。枝之所刺。地涌一泉。匠以療飢。遂成十柱。其堂。尚加彫飾。即日未就。而遠稽真典。用善法為名。餘待畢功。以寄能者。際閟采林泉。三十餘載。冷疾頻發。至于不救。道俗聞之。悽慟巖壑。春秋六十有七。即神龍二年三月一日也。際每慈柔宅性。拯濟居懷。不入市廛。不行尼寺。又勤修福務。勞不告倦。禮誦之餘。殆無閑隙。至於接對賓寮。臨機應物。言行無擇。眾共推之。所以吏部侍郎劉玄挺。兵部侍郎劉玄機。虞部郎中徐昭。高士許仁則等。欽其雅度。重其景業。供旋相仍。共結塵外之交矣。藍田縣令鄭南金。一言造盡。披襟寫契。敬挹風猷。為之贊曰。際公恬淡。無為無欲。待物以慈。處身知足。樹春唯茂。潭秋更綠。懿哉上人。如金如玉。其為時賢所敬。如此。
弘贊法花傳卷第十(終)
弘贊法花傳者。始自東晉。終乎李唐。凡學法花。得其靈應者。備載於此。斯可謂裨贊一大事之因緣。使其不墜于地者歟。然。今海東。唯得草本。年祀逾遠。筆誤頗多。鑽仰之徒。病其訛升。余雖不敏。讎挍是非。欲廣流通。因以雕板。庶幾披閱之士。開示悟入佛之知見者也。時天慶五年歲在乙未李春月十七日。於內席釋院明慶殿記。
海東高麗國義龍山弘化寺住持究理智炤淨光處中吼石法印僧統賜紫沙門德緣勘校。文林郎司宰。
承同 正李 唐翼書
大日本國保安元年七月八日。於大宰府勸俊源法師書寫畢。宋人蘇景。自高麗國奉渡聖教之中。有此法華傳。仍為留兩本所令書寫也。
半僧覺樹記之

7 轉讀
附錄

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