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摩訶止観 (摩訶止觀)


摩訶止觀卷第四(下)

摩訶止観 巻第四(下)

隋天台智者大師說

隋の天台智者大師の説

門人灌頂記

弟子灌頂記

第三、閑居靜處者,雖具衣食,住處云何?若隨自意,觸處可安;三種三昧,必須好處。好處有三:一、深山遠谷,二、頭陀抖摟,三、蘭若伽藍。

第三に、閑居静処について。たとえ衣食が十分にあっても、どのような場所に住むべきでしょうか。自分の心に従えば、どこにでも落ち着くことはできますが、三種の三昧(三昧)には良い場所が必要です。良い場所には三つの種類があります。 一つは、深い山中や遠く離れた谷。 二つは、托鉢や修行に専念すること。 三つは、静かな寺院や僧院です。

若深山遠谷,途路艱險,永絕人蹤,誰相惱亂?恣意禪觀,念念在道,毀譽不起,是處最勝。

もし深山の遠く離れた谷あいで、道のりが険しく、人の往来が絶えて久しい場所であれば、一体誰が心を乱すことがありましょうか。思いのままに坐禅し、真理を見つめ、一瞬一瞬を修行の道に生き、毀りや褒め言葉にも心が動かされない――このような環境こそ、最も勝れた場所なのです。

二、頭陀抖摟。極近三里,交往亦疎,覺策煩惱,是處為次。

二つ目は、頭陀(托鉢修行)の生活です。寺院から三里ほど離れた場所で、人との交わりも最小限に抑え、自分の煩悩を深く見つめ、対処していくこと。これが第二の心得です。

三、蘭若伽藍。閑靜之寺,獨處一房,不干事物,閉門靜坐,正諦思惟,是處為下。

第三に、蘭若(りゃんにゃ)や伽藍(がらん)などの静かなお寺で、ひとりの部屋にこもり、物事に心を煩わされず、戸を閉じて静かに坐り、正しく深く思惟すること。このような環境が、最も劣ったものといえる。

若離三處,餘則不可。白衣齋邑,此招過來恥;市邊鬧寺,復非所宜。安身入道,必須選擇,慎勿率爾。若得好處,不須數移(云云)。

三つの場所を離れるならば、それ以外は問題ありません。在家信者が集まる場所は、かえって恥を招くもととなり、街中のにぎやかな寺も、ふさわしいとは言えません。身を落ち着けて道に入るには、必ず場所を選ばねばならず、くれぐれも軽率であってはいけません。もし良いところを得たら、たびたび移る必要はありません(云云)。

觀心處者,諦理是也。中道之法幽遠深邃,七種方便絕跡不到,名之為「深」;高廣不動,名之為「山」;遠離二邊,稱之為「靜」;不生不起,稱之為「閑」。《大品》云:「若千由旬外,起聲聞心者,此人身雖遠離,心不遠離。」以憒鬧為不憒鬧,非遠離也。雖住城傍,不起二乘心,是名「遠離」。即上品處也。

ここで「心を観じる場所」とは、真理そのものを指します。中道の法は、はるか遠く深遠であり、七種の方便(声聞・縁覚・菩薩などの修行段階)の道筋では決して到達できません。これを「深い」と名付けます。高く広く動かないことを「山」と名付けます。両極端を遠く離れていることを「静か」と名付けます。生じず起こらないことを「閑か」と名付けます。

『大品般若経』にはこうあります。「もし人が千里の彼方にいても、声聞の心を起こすなら、その人の身体は遠く離れていても、心は遠く離れていない。騒がしいことを騒がしくないと思うなら、それは真の遠離ではない。たとえ街の近くに住んでいても、二乗(声聞・縁覚)の心を起こさないこと、これを『遠離』と名付ける。」これこそが、最上の場所なのです。

頭陀處者,即是出假之觀。此觀與空相隣,如蘭若與聚落並。出假之觀,安心俗諦,分別藥病,抖擻無知,淨道種智。此次處也。

頭陀の境地とは、すなわち仮の世界に出る観察のことです。この観察は空の観察と隣り合っており、ちょうど山林の修行所と村が並んでいるようなものです。仮の世界に出る観察では、心を俗諦(世俗の真理)に落ち着け、薬と病を分別し、無知を振り払って、道種智(あらゆる道を知る智慧)を清めます。これが修行を進める場なのです。

閑寺一房者,即從假入空觀也。寺本眾鬧居處,而能安靜一室;假是囂塵,能即假而空,當知真諦亦是處也。

閑かな一つの部屋とは、すなわち「仮から空に入る観」のことです。寺は本来、多くの人が集まり騒がしい場所ですが、その中で一室を静かに保つことができます。同様に、仮とは塵埃のように騒がしいものですが、この仮に即して空とすることができるのです。まさに知るべきです。真諦もまた、そのような境地であると。

安三諦理,是止觀處,實不遁影山林,房隱密室(云云)。

三つの真理を安んじて観ずる、これこそが止観の道である。決して山深くに隠れ、密室にこもることにその本質があるのではない。<脚注:かくのごとし>

○第四、息諸緣務者,緣務妨禪,由來甚矣。蘭若比丘去喧就靜,云何營造緣務,壞蘭若行?非所應也。緣務有四:一、生活,二、人事,三、技能,四、學問。

第四に、様々な「縁務(えんむ)」を断つことについてです。縁務とは、修行の妨げとなる様々な事柄のことですが、それが禅の修行を妨げることは、昔から大変大きな問題でした。静かな林間(らんじゃ)で修行する僧は、騒がしい場所を離れて静けさを求めています。それなのに、なぜ縁務を作り出して、林間での清らかな修行を壊してしまうのでしょうか。それは本来すべきことではありません。

縁務には四種類あります。

一つ目は、生活のための世話。 二つ目は、人との付き合い。 三つ目は、様々な技術や技能を身につけること。 四つ目は、学問をすることです。

一、生活緣務者,經紀生方,觸途紛糾,得一失一,喪道亂心。若勤營眾事,則隨自意攝,非今所論。

一、生活の様々な仕事について――家計を立てるための方法は、道のあらゆるところで複雑に入り組み、一つを得れば一つを失い、道を失わせ心を乱します。もしあれこれと忙しく仕事に励めば、それは「心を自らの意志で整える」という方法に従うものであり、ここで論じる対象ではありません。

二、人事者,慶弔俯仰,低昂造聘,此往彼來,來往不絕;況復眾人交絡,擾攘追尋?夫違親離師,本求要道;更結三州,還敦五郡,意欲何之?倒裳索領,鑽火求水,非所應也。

第二に、世間のつきあいについてです。慶弔の儀礼や、うつむき、あおむき、上下の動き、訪問や贈答のやりとり、これらは行ったり来たりして絶えることがありません。ましてや人々が入り乱れて、あくせくと追い求めていることといったら、なおさらです。

そもそも親や師と別れて仏道を求めたのは、本来、大切な教えを求めるためだったはずです。それなのに、また様々な土地で新しい交わりを結び、昔からの知り合いとの関係を盛んにしようとしていますが、いったい何をしようというのでしょうか。 まるで、着物の裾を引きずりながら襟を探したり、火の中を掘って水を探すようなもので、本来あるべき姿ではありません。

三、技能者,醫方、卜筮、泥木、彩畫、棊書、呪術等是也。皮文美角,膏煎鐸毀,己自害身,況修出世之道,而當樹林招鳥,腐氣來蠅,豈不摧折污辱乎?

三つ目に、「技能」とは、医術・占い・左官・大工・絵画・碁・書道・呪術などを指します。動物が美しい皮や角のために自ら害を招くように、膏を煎じれば鐸(すず)が壊れるように、身を傷つけるものです。ましてや、世を超える道を修める者が、林を茂らせて鳥を招き、腐った臭いで蝿を寄せるようでは、自らを損ない汚すことにならないでしょうか。

四、學問者,讀誦經論、問答勝負等是也。領持記憶,心勞志倦;言論往復,水濁珠昏,何暇更得修止觀耶?此事尚捨,況前三務(云云)。

四つ目に、学問とは、経典や論書を読んで暗誦したり、問答で勝ち負けを競ったりすることです。これらに心を費やして記憶しようと努めれば、心は疲れ、志は衰えます。また、言葉のやり取りを重ねれば、水が濁って真珠が曇るように、心が乱れてしまい、どうしてさらに止観の修行をする暇がありましょうか。この学問のようなことさえも捨てるべきなのです。ましてや、先に挙げた三つの務め(事務・世俗・芸能)は言うまでもありません(云々)。

觀心生活者,愛是養業之法,如水潤種。因愛有憂,因憂有畏。若能斷愛,名「息生活緣務」也。

心を観じて生活する者にとって、愛執(あいしゅう)は業(ごう)を育てる法であり、ちょうど水が種を潤すようなものです。愛執があるゆえに憂いが生じ、憂いがあるゆえに恐れが生まれます。もし愛執を断ち切ることができれば、これを「生活の縁務(えんむ)を息(や)める」と名づけます。

人事是業也。業生三界,往來五道。以愛潤業,處處受生;若無業者,愛無所潤。諸業雖有力,不逐不作者;不作故,生死則斷。

人の行いが業である。業は三界を生み出し、五つの道を巡る。愛欲が業に潤いを与え、あらゆる場所で生を受け継ぐのだ。業がなければ、愛欲は潤うところがない。様々な業には力があるが、行わない者を追いかけることはない。行わなければ、生死の輪廻は断ち切られるのである。

技術者,未得聖道,不得修通,虛妄之法,障於般若。般若如虛空,無戲論,無文字;若得般若,如得如意珠。但一心修,何遽怱怱用神通為?

修行者は、まだ悟りの境地に達していなければ、神通力を修めてはならない。なぜなら、虚偽の心が般若(智慧)を障げるからである。般若とは虚空のようなものであり、分別論議もなく、文字もない。もし般若を得ることができれば、如意宝珠(思いのままに願いを叶える宝)を得たようなものである。ただ一心に修行に励めばよい。どうして慌てて神通力を使う必要があるだろうか?

習學者,未得無生忍,而修世智辯聰,種種分別,皆是瓦礫草木,非真寶珠。若能停住,水則澄清;下觀瑠璃,安徐取寶。能知世間生滅法相,種種行類,何物不知?以一切種智知,以佛眼見。欲行大道,不應從彼小徑中學也。

修行中の者は、まだ無生法忍(生も滅もないと悟る境地)を得ずに、世俗の知識や弁舌の賢さを磨き、あれこれと分別を働かせている。そうしたものはすべて、瓦礫や草木のようなもので、本当の宝珠ではない。もし心を静め止めるならば、水は澄み渡る。その澄んだ水の中を、瑠璃のごとく見通し、ゆったりと落ち着いて宝を取るのだ。世の中の、生まれ、滅するすべての現象の本質を知ることができれば、さまざまな行いやあり方を、何一つ知らないことがあろうか。あらゆるものを知る智慧(一切種智)によって知り、仏の眼(仏眼)によって見るのである。大道を行こうとするならば、そのような小道から学ぶべきではない

○第五、善知識者,是大因緣,所謂化導令得見佛。阿難說:「知識,得道半因緣。」佛言:「不應爾,具足全因緣。」知識有三種:一、外護,二、同行,三、教授。

第五に、善知識とは、大きな縁となるものです。つまり、人を導いて仏と出会えるようにするのです。阿難は「善知識は、悟りを得るための半分の縁である」と言いましたが、仏は「そうではない。すべての縁である」と言われました。善知識には三つの種類があります。第一に外護(外から支える人)、第二に同行(共に修行する人)、第三に教授(教え導く人)です。

若深山絕域,無所資待,不假外護;若修三種三昧,應仰勝緣。夫外護者,不簡白黑,但能營理所須。莫見過、莫觸惱、莫稱歎、莫汎舉而致損壞。如母養兒,如虎銜子,調和得所。舊行道人,乃能為耳。是名「外護」。

もし深山の隔絶された地にいて、身の回りのものを何も頼れず、外部からの助けも得られないならば、それも一つの道です。しかし、三種の三昧を修めようとするならば、優れた助縁(外護)に頼るべきです。外護とは、在家・出家の区別なく、必要な物を適切に準備し整えることを指します。過ちを指摘せず、煩わせず、称賛せず、軽率に推挙して支障をきたさないようにするのです。まるで母が子を育てるように、虎が子をくわえて運ぶように、調和よく適切に振る舞うのです。古くからの修行者だけが、これをよく行うことができます。これを「外護」と呼びます。

二、同行者,行隨自意及安樂行,未必須伴;方等、般舟行法,決須好伴,更相策發,不眠不散,日有其新;切磋琢磨,同心齊志,如乘一船;互相敬重,如視世尊。是名「同行」。

二つ目は「同修行者」についてです。自分の意志に従って歩む修行や、安楽に行う修行には、必ずしも仲間が必要なわけではありません。しかし、「方等」や「般舟」の修行法を行う際には、必ず良い仲間が必要です。互いに励まし合い、眠らず、気を散らさず、日々新たな気持ちで修行に取り組みます。そして、互いに切磋琢磨し、心を一つにして志を同じくし、あたかも同じ船に乗っているかのように行動します。また、互いに敬い重んじること、まるで仏世尊を拝むかのようにします。これを「同修行」と言います。

三、教授者,能說般若,示道、非道;內外方便,通塞妨障,皆能決了。善巧說法,示教利喜,轉破人心。於諸方便,自能決了,可得獨行;妨難未諳,不宜捨也。經言:「隨順善師學,得見恒沙佛。」是名「教授」。

第三に、「教授者」とは、般若(智慧)を説き示し、正しい道とそうではない道を教え導く人です。内外の方便や、道が通じるか塞がるか、妨げや障害についても、すべてを明らかに判断できます。巧みに法を説き、教え、利益を与え、喜ばせ、人々の心の誤りを打ち破ります。さまざまな方便について自ら明確に判断できるため、独りで修行の道を進むこともできます。しかし、もし妨げや困難についてまだ十分に理解していないならば、師を離れるべきではありません。経典には「善き師に従って学べば、恒河沙(ごうがしゃ)の数の仏に出会うことができる」と説かれています。これが「教授」と呼ばれるものです。

觀心知識者,《大品》云:「佛、菩薩、羅漢是善知識;六波羅蜜、三十七品是善知識;法性、實際是善知識。」若佛菩薩等威光覆育,即外護也。六度、道品是入道之門,即同行也。法性、實際,即是諦理,諸佛所師;境能發智,即教授也。

心を知る善知識について、『大品経』にはこう説かれています。「仏、菩薩、羅漢は善知識である。六波羅蜜、三十七品は善知識である。法性、真如は善知識である。」もし仏や菩薩などの威光が私たちを包み守ってくれるなら、それは外護の善知識です。六波羅蜜や三十七品は悟りの道に入るための門であり、それは同行の善知識です。法性や真如とは真理そのものであり、諸仏が師と仰ぐものです。境が智慧を発するきっかけとなること、それが教授の善知識なのです。

今各具三義:一、如佛威神覆護,即是外護。二、諸佛聖人亦脫瓔珞,著弊垢衣,執除糞器,和光利物,豈非同行?三、諸佛菩薩一音演法,開發化導,各令得解,即是教授。此即具三義也。

今、それぞれに三つの意味が備わっています。 第一に、仏の威神が覆い守るというのは、外からの守護です。 第二に、諸仏や聖人たちも瓔珞(ようらく)を脱ぎ、汚れた衣服をまとい、糞をかき出す道具を持ち、その光を和らげて人々を利益する。これは同じ行いといえるでしょう。 第三に、諸仏や菩薩たちが一つの声で法を説き、開発し導き、それぞれに悟りを得させる。これは教えを授けることです。 以上、これが三つの意味を備えているのです。

六度、道品亦具三義:助道名護助;助道發正道,即是外護。正、助合故,即是同行。依此正助不失規矩,通入三解脫門,即是教授。

六波羅蜜と三十七道品にも、三つの意味があります。 修行を助けるものを「護助」といいます。 この修行を助けるものによって正しい道が発せられる、これが「外護」です。 正しい道と助ける道が合わさることで「同行」となります。 この正と助によって規則を失わず、三つの解脱門へ通じる、これを「教授」といいます。

法性亦具三義:境是所師,冥熏密益,即是外護。境智相應,即是同行。未見理時如盲,諦法顯時如目,智用無僻。經言:「修我法者,證乃自知;心無實行,何用問為?」即教授也。

法性にもまた三つの意味がある。境は師とすべきもの(所師)であり、密かに熏習し、知られざる利益をもたらす、すなわち外護である。境と智が相応すること、すなわち同行である。真理を見ていない時は盲人のようであり、真理を明らかにする時は目のある者のようで、智の働きに誤りはない。経典に言う:「我が法を修める者は、その証を自ら知る。心に真実の修行がなければ、問うても何になろう?」これはすなわち教授である。

此則三三合九句,就前為十二句。前三、次三,是事知識;餘六句,是理知識。若將此約三諦者:入空觀時,眾聖為外護;即空道品為同行;真諦為教授。亦具六事、六理。假、中兩觀,亦復如是。三諦合有三十六番,十八事、十八理。若歷四悉檀,即有眾多知識義也。若能了此知識法門,善財入法界意則可解。

これは三と三を合わせて九句となり、先のものと合わせて十二句となる。最初の三句と次の三句は「事の善知識」であり、残りの六句は「理の善知識」である。これを三諦に当てはめて考えるならば、空観に入る時、諸々の聖者は外護となり、空即ち道の品々は同行となり、真諦は教授となる。これにも六つの事と六つの理が備わっている。仮観と中観の二つの観についても、まったく同様である。三諦を合わせると三十六通りとなり、十八の事と十八の理がある。これを四悉檀にわたって考えれば、さらに多くの善知識の意味があることになる。もしこの善知識の法門を理解することができれば、善財童子が法界に入るという意味も、おのずと理解できるであろう。

此等雖同是知識,依《華嚴》云:「有善知識魔、三昧魔、菩提心魔。」魔能使人捨善從惡,又能化人墮二乘地。若然者,羅漢之人但行真諦,非善知識。若取內祕外現聲聞為知識者,菩薩亦作天龍引入實相,何獨羅漢?此義則通,無非知識。今言魔者,取實羅漢;令人至化城者,即非真善知識,但是半字知識。行半菩提道,損半煩惱;奪、與互明,或知識,或魔也。別教若不得意,不會中道,亦是知識魔也。圓教三種方是真善知識。三昧、菩提心,例此可解(云云)。

これらの修行者は、いずれも善知識と呼ばれていますが、『華厳経』によれば、「善知識の魔、三昧の魔、菩提心の魔」があると説かれています。魔とは、人をして善を捨てて悪に従わせ、さらに二乗の境地に堕とさせるものです。

では、もしそうであるならば、阿羅漢は真諦(究極の真理)のみを行じるため、善知識とは言えません。しかし、内に深い悟りを秘めつつ外には声聞(弟子)の姿を現す者を善知識とするならば、菩薩もまた天や竜の姿と化して、人を実相に導くのです。羅漢だけに限った話ではありません。

この理は通じています。つまり、全てが善知識でないものはないということです。ここで「魔」と言うのは、本当の阿羅漢(真の悟りに至っていないもの)を指します。人を化城(仮の目的)に至らせる者は、真の善知識ではなく、「半字の知識(不完全な知識)」に過ぎません。半ばの菩提道を行じ、半ばの煩悩のみを断ち切るものです。

奪うことと与えることが互いに明らかになるように、善知識ともなり、魔ともなります。別教(教えを区別する立場)において、もしその真意を得ず、中道にかなわなければ、それもまた「知識魔」となるのです。円教(円満な教え)における三つの種類こそが、真の善知識です。「三昧の魔」「菩提心の魔」の意味も、これに準じて理解できます((以下、省略))。

第二、呵五欲者,謂色、聲、香、味、觸。《十住毘婆沙》云:「禁六情,如縶狗、鹿、魚、蛇、猨、鳥。狗樂聚落,鹿樂山澤,魚樂池沼,蛇樂穴居,猨樂深林,鳥樂依空。六根樂六塵,非是凡夫淺智弱志所能降伏;唯有智慧,堅心正念,乃能降伏。」總喻六根。今私對之:眼貪色,色有質像,如聚落;眼如狗也。耳貪聲,聲無質像,如空澤;耳如鹿也。鼻貪香,如魚也。舌引味,如蛇也。身著觸,如猨也。心緣法,如鳥也。

第二に、五欲を呵責するとは、色・声・香・味・触を指す。 『十住毘婆沙論』にこうある。「六情を禁じることは、犬・鹿・魚・蛇・猿・鳥を繋ぐようなものだ。 犬は村を好み、鹿は山や野原を好み、魚は池や沼を好み、蛇は洞穴に住むことを好み、猿は深い林を好み、鳥は空に依ることを好む。 六根が六つの感覚の対象を好むのは、凡夫の浅い智慧や弱い意志では抑えきれるものではない。ただ智慧と、堅固な心と正しい念いだけが、これを抑えられるのだ。」 これはまとめて六根のたとえである。 ここで私が私的に比べると、 眼は色を貪る。色には形や像があるので、それを村にたとえ、眼を犬にたとえる。 耳は声を貪る。声には形や像がないので、それを空き野や沢にたとえ、耳を鹿にたとえる。 鼻は香りを貪る。これを魚にたとえる。 舌は味を引き寄せる。これを蛇にたとえる。 身は触れ合いを執着する。これを猿にたとえる。 心は法に縁りて動く。これを鳥にたとえる。

今除意,但明於五塵。五塵非欲,而其中有味,能生行人須欲之心,故言「五欲」。譬如陶師,人客延請,不得就功;五欲亦爾,常能牽人入諸魔境,雖具前緣,攝心難立,是故須呵。

さて、「意」のことは一旦おき、まずは「五つの感覚の対象」(五塵)について明らかにしましょう。 これら五つの対象そのものは「欲」ではありません。しかし、その中には味わいがあり、修行をする人の中に「どうしても欲しい」という心を起こさせます。だからこそ「五欲」と呼ぶのです。

例えるなら、陶芸の職人が客を招いても、仕事に集中できないようなものです。 五欲もまた同じで、常に人を引っ張り、様々な魔の境地に引きずり込みます。 たとえ修行にふさわしい環境(前縁)が整っていても、五欲にとらわれては心を一つに保つことが難しくなります。 ですから、この五欲をよく戒めなければならないのです。

色欲者,所謂赤白長短、明眸善睞、素頸翠眉、皓齒丹脣;乃至依報,紅黃朱紫,諸珍寶物,惑動人心。如《禪門》中所說。色害尤深,令人狂醉;生死根本,良由此也。如難陀為欲持戒,雖得羅漢,習氣尚多,況復具縛者乎?國王耽荒無度,不顧宗廟社稷之重,為欲樂故,身入怨國。此間上代,亡國破家,多從欲起。赫赫宗周,褒姒滅之,即其事也。經云:「眾生貪狼於財色,坐之不得道。」《觀經》云:「色使所使,為恩愛奴,不得自在。」若能知色過患,則不為所欺。如是呵已,色欲即息,緣想不生,專心入定。

色欲というのは、いわゆる赤や白、長や短、美しい瞳でしっとりと見つめること、白いうなじに青みがかった眉、白い歯に紅い唇といったもの、さらにはその依報として、紅・黄・朱・紫の様々な珍宝が人の心を惑わし動かすことを指します。『禅門』に説かれている通り、色欲の害は特に深く、人を狂わせ酔わせるものです。生死の根本も、実にこれに起因します。例えば難陀(ナンダ)は欲を制するために戒を持ったものの、阿羅漢の果を得た後でもなお習気(習慣的な煩悩の残り香)が多くありました。ましてや、煩悩の束縛をすべて備えた凡夫の場合はなおさらです。国王がこの欲に溺れて節度を失えば、宗廟(祖先の霊を祀る廟)や国家の重みを顧みず、快楽のために敵国に身を委ねることにもなりかねません。我が国の上代においても、国を滅ぼし家を破った原因は、多くがこの欲から起きています。あの栄華を誇った周の王朝も、褒姒(ほうじ)によって滅ぼされました。これがその例です。経典には「衆生は財と色に貪欲なために、それに妨げられて道を得ることができない」と説かれています。また『観経』には「色欲の使いに使役され、恩愛の奴隷となり、自在ではない」とあります。もし色欲の過ちと災いを知ることができれば、それに欺かれることはありません。このように呵責したならば、色欲はたちまち収まり、妄想も生じず、一心に禅定に入ることができるのです。

聲欲者,即是嬌媚妖詞、婬聲染語、絲竹絃管、環釧鈴珮等聲也。

「声の欲」とは、甘く魅惑的な言葉や、不道徳な響きの語り、楽器の音色、装飾品の揺れる音などのことを言うのです。

香欲者,即是欝茀氛氳、蘭馨麝氣、芬芳酷烈郁毓之物,及男女身分等香。

香を欲するとは、つまり沈香や白檀の芳しい香り、蘭の馨りや麝香の気配、匂い豊かで強烈に立ち込めるもの、そして男女の身体から発する香りなどのことを言う。

味欲者,即是酒肉珍肴、肥膄津膩、甘甜酸辣、酥油鮮血等也。

味への執着とは、酒や肉、珍しい料理、脂っこいもの、甘味や酸味、辛味、また酥油や生血などへの執着のことです。

觸欲者,即是冷暖細滑、輕重強軟、名衣上服、男女身分等。

触欲とは、すなわち冷たさ・温かさ、細やかで滑らかな感触、軽さ・重さ、強さ・柔らかさ、名高い衣や上等な衣服、男女の身体の部分などを指します。

此五過患者,色如熱金丸,執之則燒。聲如毒塗鼓,聞之必死。香如憋龍氣,嗅之則病。味如沸蜜,湯舌則爛;如蜜塗刀,舐之則傷。觸如臥師子,近之則齧。此五欲者,得之無厭,惡心轉熾,如火益薪,世世為害,劇於怨賊。累劫已來常相劫奪,摧折色心。今方禪寂,復相惱亂;深知其過,貪染休息。事相具如《禪門》中(云云)。上代名僧詩云:「遠之易為士,近之難為情;香味頹高志,聲色喪軀齡。」

この五つの過患について言えば、色は熱した金の球のようで、掴めば焼ける。声は毒を塗った太鼓のようで、聞けば必ず死ぬ。香りは龍の毒気のようで、嗅げば病になる。味は沸騰した蜜のようで、舌に触れれば爛れる。また、蜜を塗った刀のようで、舐めれば傷つく。触れ方は獅子が伏しているようで、近づけば噛まれる。

これらの五つの欲望は、得ても満足することがなく、悪心はますます盛んになり、火に薪を加えるようなものである。世々にわたって害をもたらすこと、怨敵や盗賊よりも甚だしい。長い劫の間、常に奪い合い、人の心身を摧き折ってきた。今、静かに坐禅しているのに、再び悩ませ乱してくる。その過ちを深く知れば、貪りや執着は休まるであろう。

事の細かい説明は、『禅門』の中に(詳しく述べられている)。

昔の名僧の詩に言う。「遠ざければ士となりやすく、近づければ情を持ち難し。香りや味は高き志をくつがえし、声や色は身を滅ぼす。」

○觀心呵五欲者,如色欲中滋味無量,謂常無常、我無我、淨不淨、苦樂、空有、世第一義,皆是滋味。故《大論》云:「色中無味相,凡夫不應著。」若謂色是常,是見依色;若色無常、亦常亦無常、非常非無常,是見皆依色。乃至非如去非不如去、非邊非無邊等,是見皆依於色。悉是諍競,執謂是實,戲論破智慧眼,互相是非,為色造業。適有此有,即有生死;如是觀者,增長於欲,非是呵欲。

心に対して五欲を呵責するとは、例えば色欲の中には無量の味わいがある。すなわち、常住と無常、我と無我、清浄と不浄、苦と楽、空と有、世間と第一義など、すべてがその味わいである。ゆえに『大智度論』にはこうある。「色の中に味わいの相はない。凡夫は執着すべきではない」。もし色は常であると説くなら、その見解は色に依っている。もし色は無常である、あるいは常かつ無常である、常でも無常でもないと説くなら、その見解はすべて色に依っている。さらに「如来の去るところに非ず、去らざるところに非ず」「辺に非ず、無辺に非ず」などの見解も、すべて色に依っている。これらはすべて争いであり、執着してこれを実とし、戯論が智慧の眼を破り、互いに是非を争い、色のために業を造る。そなたにこの「有」があれば、すなわち生死がある。このように観ずる者は、欲を増長させ、欲を呵責するのではない。

今觀色有無等六十二見,皆依無明。無明無常,生滅不住,速朽之法念念磨滅,無我無主,寂滅涅槃。無明既爾,從無明生,若有、若無等,悉皆無常,寂滅涅槃。既無主我,誰實、誰虛?終不於色起生死業,業謝果亡,是為呵色入空而得解脫。呵色既爾,餘四亦然。是名三藏析法呵五欲也。《中論》指此云「不善滅戲論」也。

さあ、色(物質的なもの)について「有る」「無い」といった六十二もの見解を見つめなさい。これらはすべて無明(無知)に基づいている。 無明は無常であり、生まれては滅し、留まることなく、速やかに朽ちる性質のものだ。瞬間ごとに磨り減り、消え去っていく。そこには自己も、支配者もない。それが静寂に帰した涅槃の境地である。 無明がすでにそうであるなら、無明から生じる「有る」とか「無い」といったあらゆる見解も、すべて無常であり、静寂にして涅槃である。 そこに我や主はないのだから、何が実在で、何が虚妄だと言えようか。 結局、人は色について生死の業(行い)を起こすことはない。業が滅すれば、その結果も消え去る。これが「色を呵(しか)り、空に入って解脱を得る」という教えである。 色の場合がそうであるなら、残りの四つの対象(声・香・味・触)についても同様である。これが三蔵(小乗経典)で説く、五欲を分析して呵る方法である。 『中論』

若摩訶衍呵色欲者,體知諸見皆依無明;無明即空,諸見亦即空。故《金剛般若》云:「須陀洹者,名為入流,實不入流,不入色、聲、香、味、觸故。」所以者何?若有色可析,可名入色;色即是空,無色可入,故名不入。既無流可入,即無業果。是名善滅戲論。呵色既爾,餘四亦然。

もし大乗が色や欲を否定するなら、その本質として、あらゆる見解(邪見)はすべて無明に依っていると知るべきです。無明はすなわち空であり、諸々の見解もまた空なのです。ゆえに『金剛般若経』にはこう説かれています。「須陀洹(シュダオン)とは入流(流れに入る)と名付けられるが、実際には流れに入るのではない。色・声・香・味・触に入らないからである」。なぜでしょうか。もし色というものに分解できる実体があるなら、それを「色に入る」と言えるでしょう。しかし色はすなわち空であり、入るべき色の実体がないので、「入らない」と説かれるのです。入るべき流れがない以上、業の報いも存在しません。これを「戯論をよく滅する」と名付けます。色や欲を否定するのがこのようにであるなら、残りの四つの感覚対象(声・香・味・触)も同じくそうなのです。

復次,呵色即空者,但入色空,不能分別種種色相,云何能度一切眾生?眾生於色起種種計,即是種種集,招種種苦。苦、集病多,道、滅之藥亦復無量。若欲化他,豈可證空而不觀察?是故知空非空,從空入假,恒沙佛法悉令通達。若不如此,猶名受入色空。今深呵色空,不受不入,廣分別色。雖復分別,但有名字;名字即空,故稱為假。呵色既爾,餘四亦然。

さらに、色即是空を説く場合も、ただ色の空に入り、様々な色の相を区別できなければ、どうして全ての衆生を救うことができようか。衆生は色に対して様々な分別(計)を起こす。これが様々な集(苦の原因)となり、様々な苦を招く。苦と集という病は多く、道と滅という薬もまた無量である。もし他の者を導こうとするなら、どうして空を証得しただけで観察しないでいられようか。ゆえに知るべきである、空は空にあらず、空より仮に入り、恒河の砂の如き無量の仏法をすべて理解せねばならない。もしこのようにしなければ、それはまだ色の空を受け入れたに過ぎない。ここに深く色空を呵責し、受け入れず入らず、広く色を分別する。分別するといえども、ただ名のみであり、名はすなわち空である。それゆえ仮と名付ける。色を呵責するのがこのようなものであれば、他の四蘊(受・想・行・識)も同様である。

又呵色二邊,如《大品》云:「色中無味相,凡夫不應著;色中無離相,二乘不應離。」破色無明、有無等見,是呵其味;破其沈空,是呵其離。若定有味,不應有離;若定有離,不應有味。味不定,故非味;離不定,故非離。不著二邊,即是非味、非離,顯色中道實相。故《釋論》云:「二乘為禪故呵色事,不名波羅蜜。」菩薩呵色,即見色實相;見色實相,即是見禪實相,故名波羅蜜,到色彼岸。到色彼岸,即是見色中道。分別色者,即是見色俗;即色空者,是見色真。如是呵色,盡色源底,成三諦三昧,發三種智慧。深呵於色,為止觀方便,其意在此。呵色既然,餘四亦爾。

さらに「色」の二つの極端について、『大品経』にはこうある。「色の中に味わいの相はないゆえに、凡夫は執着すべきではない。色の中に離れる相はないゆえに、二乗は離れるべきではない」。色における無明や有無などの見解を打ち破ることは、その「味わい」を呵責することであり、沈空を打ち破ることは、その「離れ」を呵責することである。もし決定的な「味わい」があれば、「離れ」はありえない。もし決定的な「離れ」があれば、「味わい」はありえない。「味わい」は定まっていないから「味わい」ではなく、「離れ」も定まっていないから「離れ」ではない。二つの極端に執着しないこと、これこそが「味わい」ではなく「離れ」でもないことであり、色の中道の実相を明らかにするのである。

ゆえに『大智度論』にはこうある。「二乗は禅定のために色の事柄を呵責するが、それを波羅蜜とは呼ばない。菩薩が色を呵責するとき、すなわち色の実相を見る。色の実相を見ることは、すなわち禅の実相を見ることである。ゆえに波羅蜜と名づけられ、色の彼岸に到達するのである」。色の彼岸に到達すること、これがすなわち色の中道を見ることである。色を分別することは、すなわち色の俗諦を見ることである。色がすなわち空であると見ることは、すなわち色の真諦を見ることである。このように色を呵責することによって、色の根源にまで達し、三諦の三昧を成就し、三種の智慧を発するのである。深く色を呵責することは、止観のための方便であり、その意味はここにある。色の呵責がこのようであるならば、残りの四つも同様である。

○第三、棄五蓋者,所謂貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑。通稱「蓋」者,蓋覆纏綿,心神昏闇,定慧不發,故名為「蓋」。前呵五欲,乃是五根對現在五塵發五識。今棄五蓋,即是五識轉入意地,追緣過去、逆慮未來五塵等法,為心內大障。喻如陶師,身中有疾,不能執作。蓋亦如是,為妨既深,加之以棄。如翦毒樹,如檢偷賊,不可留也。《大品》云:「離欲及惡法。」離欲者,五欲也;如前所呵。惡法者,五蓋也,宜須急棄。

第三に、五蓋を捨てるとは、すなわち貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑いのことです。一般に「蓋」と呼ぶのは、心を覆い包み込み、精神を曇らせ、定や慧が発現しなくなるからです。先に五欲を戒めたのは、五根が現在の五つの対象に触れて五つの感覚を生じさせることでした。今、五蓋を捨てるのは、五つの感覚が心の領域に入り込み、過去を追想したり未来を思い悩んだりする五つの対象などの働きが、心の内で大きな障りとなるからです。たとえて言えば、陶工が体に病気を抱えていて作業ができないようなものです。蓋もまた同じで、妨げが深いため、これを捨て去ることに力を注ぐのです。これは毒樹を断ち切り、盗人を取り押さえるようなもので、決して放置してはなりません。『大品般若経』には「欲と悪しき法を離れる」とあります。「欲」とは五欲のことで、先に戒めた通りです。「悪しき法」とは五蓋のことで、速やかに捨て去るべきなのです。

此五蓋者,其相云何?

これらの五つの蓋(修行を妨げる障り)とは、どのような特徴を持つのでしょうか。

貪欲蓋起,追念昔時所更五欲:念淨潔色與眼作對;憶可愛聲髣髴在耳;思悅意香開結使門;想於美味甘液流口;憶受諸觸毛竪戰動。貪如此等麁弊五欲,思想計校,心生醉惑,忘失正念;或密作方便,更望得之。若未曾得,亦復推尋,或當求覓,心入塵境,無有間念。麁覺蓋禪,禪何由獲?是名貪欲蓋相。

貪欲の覆いが起これば、かつて経験した五つの欲望を思い起こす。清らかな色が目に入る。愛しい声が耳に残る。心を喜ばせる香りが心の結び目を開く。美味なる味に舌がぬれる。さまざまな触れ心地に肌が震える。このような粗雑な五つの欲望に心を奪われ、思い巡らせ、酔い惑い、正しい念を忘れる。あるいはひそかに手を尽くして、再びそれを得ようと願う。まだ得ていないならば、なおさら探し求め、心は塵の世界に入り込み、一瞬の間(ま)もない。粗い覚えは禅定を覆い、それでどうして禅を得られようか。これを貪欲の覆いのすがたという。

瞋恚蓋者,追想是人惱我、惱我親、稱歎我怨;三世九惱,怨對結恨。心熱氣麁,忿怒相續;百計伺候,欲相中害,危彼安身。恣其毒忿,暢情為快。如此瞋火燒諸功德,禪定支林豈得生長?此即瞋恚蓋相也。

瞋りの覆いとは、こういったことです。つまり、「あの人が私を悩ませた」「私の味方を悩ませた」「私の敵を褒めたたえた」などと、過去・現在・未来の三つの時代における九つの悩みによって、相手に対する恨みが結びつき、心が熱くなり、荒々しい息のもとで怒りが次々と湧き起こる。あらゆる手を使って機会をうかがい、あの人を害そうとし、安らかな暮らしを脅かす。その毒のような怒りを心ゆくまで発散し、自分だけが満足しようとするのです。このような怒りの炎は、あらゆる善い行いの功徳を焼き尽くします。そうなれば、禅定という森の木々は、どうして育つことができるでしょうか。これが

睡眠蓋者,心神昏昏為「睡」;六識闇塞、四支倚放為「眠」。眠名「增心數法」,烏闇沈塞,密來覆人,難可防衛。五情無識猶如死人,但於片息名為「小死」。若喜眠者,眠則滋多,《薩遮經》云:「若人多睡眠,懈怠妨有得;未得者不得,已得者退失。若欲得勝道,除睡、疑、放逸,精進策諸念,離惡功德集。」《釋論》云:「眠為大闇無所見,日日欺誑奪人明;亦如臨陣白刃間,如共毒蛇同室居。如人被縛將去殺,爾時云何安可眠?」眠之妨禪,其過最重。是為睡眠蓋相。

睡眠の覆いとは、心がぼんやりとしている状態を「睡」といい、六識が塞がり四肢がだらける状態を「眠」といいます。眠りは「心の働きを増す法」と呼ばれ、暗く沈んで心を閉ざし、ひそかに忍び寄って人を覆うため、防ぎにくいものです。五感は意識を失い死人のようであり、ほんの一呼吸の間だけ「小さな死」と名付けられています。眠りを好む者は、ますます眠りが増えます。

『薩遮経』にはこうあります。「人が多く眠れば、怠け心が妨げとなり得るものを得られない。未だ得ていないものは得られず、すでに得たものも失う。もし優れた道を得ようと願うなら、眠り・疑い・放逸を除き、精進して諸々の念を励まし、悪を離れて功徳を集めよ。」

『釈論』にはこうあります。「眠りは大きな闇であり、何も見えず、日々欺いて人の明るさを奪う。また、戦場で刃物を目の前にするようなもの、毒蛇と同じ部屋にいるようなものでもある。人が縛られて殺されそうになっている時、どうして安らかに眠っていられようか。」眠りが瞑想を妨げるその過ちは最も重いのです。これが睡眠の覆いの相です。

掉悔者,若覺、觀偏起,屬前蓋攝;今覺、觀等起,遍緣諸法,乍緣貪欲,又想瞋恚,及以邪癡。炎炎不停,卓卓無住,乍起乍伏,種種紛紜;身無趣遊行,口無益談笑,是名為「掉」。掉而無悔,則不成蓋。以其掉故,心地思惟謹慎不節。云何乃作無益之事?實為可恥!心中憂悔,懊結繞心,則成悔蓋;蓋覆禪定,不得開發。若人懺悔改往,自責其心而生憂悔。若人禪定,知過而已,不應想著。非但悔故而得免脫,當修禪定清淨之法,那得將悔縈心,妨於大事?故云:「悔已莫復憂,不應常念著;不應作而作,應作而不作。」即是此意。是名掉悔蓋相也。

掉悔について説明します。

もし「掉(心が落ち着かず、あちこちに飛び回る状態)」と「悔(後悔)」がどちらか一方だけに偏って現れるのであれば、それは前の蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑惑という五つの煩悩の障り)に含まれます。

しかし、ここで言う掉悔の蓋とは、心が落ち着かず(掉)、さまざまな対象に次々と移り変わっていく状態を指します。その心は、一瞬で貪欲に移り、次には怒りに、さらに誤った考えに飛びつきます。まるで炎が激しく揺れ動くかのように、とどまることなく、上がったり下がったり、さまざまな思いが入り乱れます。身体は目的もなくうろつき、口は無益なおしゃべりや笑いに終始します。これが「掉」です。

この「掉」があるだけで、悔い(後悔)が伴わなければ、まだ蓋(妨げ)にはなりません。ところが、この心の落ち着かなさによって、自分の行動を振り返り、反省したときに、「なぜこんな無駄なことをしてしまったのだろう」と恥ずかしく思い、心の中で後悔し、苦しみ、後ろめたさが心を縛ります。これが「悔」であり、この二つが合わさって「掉悔蓋」となるのです。

この蓋は、禅定を覆い隠し、その境地が開かれるのを妨げます。

過去の過ちを反省し、改めようと心から悔いることは大切です。しかし、すでに終わったことをいつまでも後悔し、心を苦しめ続けるべきではありません。後悔したからといって、それだけで過ちからの解脱が得られるわけではないのです。大切なのは、静かに禅定を修め、清らかな心を育てることです。後悔に心を縛られて、このより大切な修行の妨げになってはなりません。

古い教えにもあります。「悔いたなら、その後はもう憂うことなく

疑蓋者,此非見諦障理之疑,乃是障定疑也。疑有三種:一、疑自,二、疑師,三、疑法。一、疑自者,謂我身底下,必非道器,是故疑身。二、疑師者,此人身口不稱我懷,何必能有深禪好慧?師而事之,將不誤我?三、疑法者,所受之法,何必中理?三疑猶豫,常在懷抱,禪定不發;設發永失。此是疑蓋之相也。

疑いの蓋とは、これは真理を見極める智慧を妨げる疑いではなく、禅定を妨げる疑いです。疑いには三種類あります。第一に自己に対する疑い、第二に師に対する疑い、第三に教えに対する疑いです。

第一に、自己に対する疑いとは、「私は生まれつき劣っており、到底、悟りの器ではない」と、自分の能力を疑うことです。

第二に、師に対する疑いとは、「この師の言動は自分の意に沿わない。本当に深い禅定や優れた智慧を持っているのだろうか?師として敬うことが、かえって自分を誤らせはしないか」と疑うことです。

第三に、教えに対する疑いとは、「受けた教えは、はたして理にかなっているのだろうか」と疑うことです。

これら三つの疑いが心の中で揺れ動き、常に胸中から離れないため、禅定は発現しません。たとえ発現しても、すぐに失われてしまいます。これが疑いの蓋のすがたです。

五蓋病相如是,棄法云何?行者當自省察,今我心中何病偏多?若知病者,應先治之。

五蓋(ごがい)という病の様子はこの通りです。では、これを捨てる方法とはどのようなものなのでしょうか。 修行する人は、自らをよく省みて、「今、私の心の中には、どの病が多いのだろうか」と観察すべきです。もし自分の病を知ったならば、まずその病を治すようにしなさい。

若貪欲蓋重,當用不淨觀棄之。何以故?向謂五欲為淨,愛著纏綿;今觀不淨,膿囊涕唾,無一可欣。厭惡心生,如為怨逐,何有智者當樂是耶?故知此觀治貪之藥;此蓋若去,心即得安。

もし貪欲の覆いが強すぎるならば、不浄観を用いてそれを取り除きなさい。なぜなら、これまでは五感の欲望を清らかなものと見なし、愛着に絡みついていたが、今や不浄を観じれば、膿の袋や鼻水、唾などの、喜べるものが何一つないことを知るからだ。厭う心が生じ、あたかも怨敵に追われるかのようになる。どうして智慧ある者がこれを楽しもうとするだろうか。ゆえに、この観想は貪欲を治す薬であることを知りなさい。この覆いが取り除かれれば、心はたちまち安らかになるのだ。

若瞋恚蓋多,當念慈心,滅除恚火。此火能燒二世功德,人不喜見。毒害殘暴禽獸無異,生死怨對累劫不息;即世微恨,後成大怨。今修慈心,棄捨此惡;觀一切人,父母親想,悉令得樂。若不得樂,我當勤心令得安樂,云何於彼而生怨對?作是觀時,瞋心即息,安心入禪。

もし「怒りの覆い」に多く覆われているなら、慈しみの心を思い起こして、怒りの火を消しなさい。この火は、現世と来世の功徳を焼き尽くし、人々の目には不快に映ります。害を与え、残虐に振る舞うのは、獣と何ら変わりません。生死の縁は、幾多の劫を経ても絶えることなく、ほんの小さな恨みが後に大きな怨恨へと変わります。

今こそ慈しみの心を修めて、この悪しきものを捨て去りなさい。すべての人を、父母や親族のように思い、皆が幸せでありますようにと願いなさい。もし幸せでないなら、私は心を込めて安楽をもたらし、どうしてその人に対して怨恨の思いを抱くことがありましょうか。

このように観じる時、怒りの心はたちまち消え去り、心は安らかになり、深い瞑想へと入ります。

若睡蓋多者,當勤精進策勵身心,加意防擬思惟法相,分別選擇善惡之法,勿令睡蓋得入。又當選擇善惡之心,令生法喜;心既明淨,睡蓋自除。莫以睡眠因緣失二世樂,徒生徒死,無一可獲。如入寶山,空手而歸,深可傷歎!當好制心,善巧防御也。杖、毱、貝、申脚、起星、水洗。

眠気が強い時は、心身を奮い立たせて努力精進し、意識的に防ぎながら法の本質を観察しなさい。善悪の道理をはっきりと見分けて、眠気が入り込むのを許してはいけない。さらに、善悪を見分ける心を起こして、教えに触れた喜びを生み出しなさい。心が澄んで清らかになれば、眠りたいという煩わしさは自然と消え去る。どうして睡眠のせいで、現世と来世の二つの幸せを失ってよいものか。何も得るものなく、ただ無為に生まれ死んでいくのは、宝の山に入りながら手ぶらで帰るようなものだ。実に悲しく、嘆かわしいことではないか。しっかりと心を整え、上手に防ぎなさい。杖、毛毬、螺貝、足を伸ばすこと、星を見ること、水で顔を洗うこと。

若掉散者,應用數息。何以故?此蓋甚利,來時不覺,于久始知。今用數息,若數不成,或時中忘,即知已去,覺已更數。數相成就則覺觀被伏;若不治之,終身被蓋。

心が散乱している人は、呼吸を数える方法を用いるべきです。なぜなら、この煩悩の覆いは非常に鋭く、気づかないうちに襲ってきて、しばらく経ってから初めて自覚されるからです。そこで呼吸を数えることで、数え方がうまくいかなかったり、途中で数を忘れたりすると、すでに心が散っていたと気づき、再び数え直します。この数える方法がしっかりと身につけば、粗雑な思考は抑えられます。もしこの対処法を実践しなければ、生涯にわたってこの覆いに妨げられ続けるのです。

若三疑在懷,當作是念:我身即是大富盲兒,具足無上法身財寶,煩惱所翳,道眼未開;要當修治,終不放捨。又無量劫來,習因何定?豈可自疑,失時失利?人身難得,怖心難起,莫以疑惑而自毀傷。若疑師者,我今無智,上聖大人皆求其法,不取其人。雪山從鬼請偈,天帝拜畜為師。《大論》云:「不以囊臭而棄其金。」「慢如高山,雨水不停;卑如江海,萬川歸集。」我以法故,復度敬彼。《普超經》云:「人人相見,莫相平相;智如如來,乃能平人。」身子云:「我從今去,不敢復言,是人入生死,是人入涅槃。」即此意也。常起恭敬三世如來,師即未來諸佛,云何生疑耶?若疑法者,我法眼未開,未別是非,憑信而已。佛法如海,唯信能入。《法華》云:「諸聲聞等,非己智分,以信故入。」我之盲瞑,復不信受,更何所歸?長淪永溺,不知出要。和伽利(云云)。優波笈多教弟子上樹(云云)。若心信法,法則染心;猶豫狐疑,事同覆器。

もし心に三つの疑いが宿るならば、こう思うべきである。「我が身はまさに大いなる富める家の盲いた子のようなものだ。無上の法身という財宝を具えながら、煩悩に覆われて道を見る眼が開かれていない。必ず修行してこれを整えるべきであり、決して手放してはならない。また、無量劫の昔から、いかなる因によって修行を積んできたのか。自ら疑って、時を失い、利益を損なってよいものか。人の身を得るのは難しく、恐れの心を起こすのも難しい。疑いによって自らを傷つけてはならない。」

もし師を疑うならば、「私は今、智慧がない。しかし、上聖や大人たちは皆、その法を求めて、その人を選ばなかった。雪山では、鬼から偈を請い、天帝は獣を師と拝した。」『大論』には「袋が臭いからといって、その金を捨てない」とある。「傲慢は高山の如く、雨水を留めず、卑下は江海の如く、万の川が集まる。」私は法のゆえに、その人をも敬うのである。『普超経』には「人は互いに会っても、互いに評価してはならない。如来のような智慧ある者だけが、人を評価できる」とある。舎利弗は「私は今後、再び『この人は生死に入る』とか、『この人は涅槃に入る』とは言うまい」と言った。これがその意である。常に三世の如来を恭敬せよ。師はすなわち未来の諸仏である。どうして疑いを生じようか。

もし法を疑うならば、私の法眼はまだ開かれておらず、善悪の区別もつかない。ただ信頼して受け入れるのみである。仏法は海の如く、ただ信によってのみ入ることができる。『法華経』には「声聞たちは、自らの智慧の及ぶところではなく、信によって入る」とある。私のような盲いた者は、もし信じ受け入れなければ、いったいどこに帰るべきか。長く生死に沈み、永遠に溺れて、出離の要を得ることができない。和伽利(云云)。優波笈多が弟子に木に登るよう教えた話(云云)。もし心をもって法を信じるならば、法はその心を染める。しかし、ためらい疑い惑うならば、それは器を覆せたのと同じである。

問曰:五蓋悉障定不?

問い:五つの蓋は、すべて禅定を妨げるのでしょうか?

答:解者不同。或云:「無知是正障。」何者?禪是門戶詮次之法,知無知相乖故,疑、眠蓋是也。或言:「散動是正障。」何者?定散相乖故,掉悔是也。或言:「貪瞋是正障。」何者?禪是柔軟善法,剛柔相乖故,貪瞋是也。如是等,各據不同。今釋不然,五蓋通是障,而隨行者強弱。若人貪欲蓋多,此蓋是正障,餘者是傍。四蓋亦爾。譬如四大,通皆是病,未必俱發;隨其動者,正能殺人。蓋亦應爾,先治於強,弱者自去,禪定得發(云云)。

答え:解釈する人によって異なります。 ある者は言う。「無知こそが正しい障害である。なぜか。禅は門戸を開き、順序を追って進める教えであり、知と無知は互いに相反するからである。その例として、疑いや眠気の蓋がある」と。 またある者は言う。「散乱した動きこそが正しい障害である。なぜか。定と散乱は相反するからである。その例として、掉挙と後悔がある」と。 またある者は言う。「貪りと怒りこそが正しい障害である。なぜか。禅は柔和で善い法であり、剛と柔は相反するからである。その例として、貪りと怒りがある」と。

このように、それぞれ主張が異なる。 しかし、ここではそうは考えない。五つの蓋はすべて障害であるが、修行者によってその強さが異なる。もし人の貪欲の蓋が強ければ、この蓋が主たる障害となり、残りは従たるものとなる。他の四つの蓋も同様である。

例えば、四大(地・水・火・風)はすべて病気の原因となりうるが、必ずしも同時に発病するわけではない。その中で活発に動くものが、人を死に至らしめる力を持つ。蓋についても同じで、強いものを先に治せば、弱いものは自然に去り、禅定が得られる(云云)。

《十住毘婆沙》云:「若人放逸者,諸蓋則覆心;生天猶尚難,何況於得果?若人勤精進,則能裂諸蓋;諸蓋既裂已,諸願悉皆得。」是名依事法棄蓋也。

『十住毘婆沙』にこう説かれています。「もし人が怠け心にふけるならば、心は様々な覆いによって覆われてしまう。そうなれば、天に生まれることすら難しく、ましてや悟りの果てを得ることなど、なおさら難しい。しかし、人がしっかりと努力して精進するならば、それらの覆いを打ち破ることができる。覆いを打ち破ったならば、願いのすべてを叶えられるのだ」と。これを、具体的な行いに基づいて「覆いを捨て去る」という教えとします。

問:初禪發時,五蓋畢竟盡不?

問:初禪が生じるとき、五蓋は完全になくなるのでしょうか?

答:此當分別。何者?離三毒為四分。貪瞋癡偏發是三分,不名為等;三分等起,名為等。三毒偏起,是覺觀而非多;三分等起,名覺觀多,即是第四分也。《成論》呼此為「剎那心」。剎那心既通緣三毒,三毒等起,故知剎那之心即是善惡成也。《阿毘曇》明此剎那心起,但是無明無記,善惡未成。何以故?雖通緣三毒,不正屬三毒;既不正屬,那得是善惡?雖非是惡,三毒因之而起,呼此無記為因等起,而不名為善惡。此二論雖異,同是明第四分也。離此四分為五蓋:貪、瞋兩分是兩蓋,開癡分為睡、疑兩蓋,等分為掉悔蓋。

答え:これは分別すべきである。どのように分別するか。三毒を離れて四分となる。貪・瞋・癡が偏って生じることを三分とし、これを「等」とは呼ばない。三分が等しく生じることを「等」という。三毒が偏って生じる場合は覚観(けっかん)であって「多」ではない。三分が等しく生じる場合を覚観の「多」といい、これが第四分である。

『成実論』ではこれを「刹那心」と呼ぶ。刹那心は三毒に通じて縁するので、三毒が等しく生じる。ゆえに刹那心こそが善悪を成すのである。

『阿毘曇』では、この刹那心が生じるのは、ただ無明・無記であって、善悪はまだ成っていないと説く。なぜか。三毒に通じて縁するとはいえ、正しく三毒に属するわけではない。正しく三毒に属さないならば、どうして善悪となり得ようか。悪ではないが、三毒がそれによって生じるので、この無記を「因等起」と呼び、善悪とは呼ばない。

この二つの論は異なるが、同じく第四分を明かしているのである。

この四分を離れて五蓋とする。貪・瞋の二分は二つの蓋となり、癡分を開いて睡・疑の二蓋とし、等分を掉悔蓋とする。

若廣開四分,一分則有二萬一千煩惱,四分合有八萬四千。約於苦諦,則是八萬四千法藏;約於集諦,則是八萬四千塵勞門;約於道諦,則是八萬四千三昧陀羅尼等;約於滅諦,則是八萬四千諸波羅蜜。四分法相該深若此;五蓋理應高廣。《阿毘曇》那得判貪止欲界,上地名愛,上亦無瞋?此義已為《成論》所難。若上地輕貪名愛,亦應輕瞋名恚耶?故知覆相抑異,未是通方耳。今釋五蓋,望於四分,通至佛地。上棄五蓋相,此是鈍使五蓋,止障初禪。初禪若發,此蓋棄盡。常途所論,秖是此意。

もし広く四つに分けるならば、その一つ一つに二万一千の煩悩があり、四つを合わせると八万四千となる。これを苦諦に当てはめれば八万四千の法蔵となり、集諦に当てはめれば八万四千の塵労門となり、道諦に当てはめれば八万四千の三昧や陀羅尼などとなり、滅諦に当てはめれば八万四千の波羅蜜となる。この四分の法のあり方は、これほどまでに深いものである。ましてや五蓋は、その理(ことわり)が高く広大であるべきだ。

『阿毘曇』では、どうして貪(とん)を欲界に限り、上の境地では「愛」と名づけ、上の境地には瞋(しん)もないと断じられるのか。この教えはすでに『成実論』によって批判されている。もし上の境地の軽い貪を「愛」と呼ぶならば、同じように軽い瞋を「恚(い)」と呼ぶべきではないか?したがって、表面的に違いを示して抑えつけるような解釈は、普遍的な道理ではないことがわかる。

今、五蓋を説くにあたって、この四分の立場から見れば、仏の境地に至るまでは通じるものである。前に述べた五蓋の様相を捨てるというのは、あれは鈍い煩悩による五蓋であり、ただ初禅(しょぜん)を妨げるにすぎない。初禅が現れれば、この五蓋は完全に捨てられる。通常論じられているのは、ただこの意味にすぎないのである。

利使五蓋障於真諦,如前所明空見之人,計所執為實,餘是妄語。乖之則瞋,順之則愛,即貪、瞋兩蓋也;無明闇心,謬有所執,非明審知,即睡眠蓋;種種戲論,見諍無益,即掉悔蓋;即雖無疑,後方大疑。何以故?既執是實,何所復疑?後若被破,心生疑惑。此五覆心終不見諦。

利使(煩悩)と五蓋(五つの覆い)が真実の教え(真諦)を妨げます。前に述べたように、我見や空見に執着する人は、自分の執着するものを真実とし、それ以外を虚妄の言葉と見なします。これに背くものには怒り(瞋)を起こし、従うものには愛着(愛)を生じます。これが貪(むさぼり)と瞋(いかり)の二つの蓋です。 無明(むみょう)の暗い心で誤って執着し、明らかに正しく知ることができないのが睡眠蓋(すいみんがい)です。 様々な戯論(けろん)や意見の争いは何の益もなく、それが掉悔蓋(じょうきがい)です。 最初は疑いがなくても、後に大きな疑いが生じます。なぜなら、自分の執着を真実だと思っているうちは何を疑うことがありましょうか。しかし後になって、それが打ち破られると、心に疑惑が生

呵棄此蓋,蓋去道發,證須陀洹。從初果去,取真為愛;捨思為瞋。思惑未盡為睡;失脫忘念為掉;非無學名疑,故知五蓋障真通至三果。除此五蓋,即是無學。

これらの五つの蓋(五蓋)を捨て去れば、蓋が取り除かれて道が開け、修行の成果である「須陀洹」(初果)に至ります。初果から進むにあたり、真理を捉えることを「愛(むさぼり)」とし、分別を捨てることを「瞋(いかり)」とします。思惑(煩悩の微細な働き)が完全に尽きていない状態を「睡(ねむり)」とし、気を失い念を忘れることを「掉(じょう:心の動揺)」とします。完全な悟りに達していない段階を「疑(うたがい)」と名付けます。ゆえに、五蓋が真理への洞察を妨げ、修行の第三段階(三果)まで達するのを遮ることが分かります。この五蓋を除き

復次,依空起蓋,障俗諦理。所以者何?沈空取證,以空為是。譬如貧人,得少便為足,更不願好者。保愛此空,即貪蓋;憎厭生死,捨而不觀,即瞋蓋;無為空寂,不肯照假,乃至不識五種之鹽,名睡蓋;空亂意眾生,非其境界,名掉悔蓋;假智不明,名疑蓋。此蓋不棄,道種智、俗諦三昧終不現前。此蓋若除,法眼明朗。

次に、「空(くう)」に執着することで、俗諦(ぞくたい/日常の真理)の道理が覆い隠されてしまいます。なぜか。空に沈み、それを正しいとして執着するからです。例えるなら、貧しい人がわずかなものに満足し、より良いものを望まないようなものです。 この空を愛し守るのが「貪の蓋(とんのふた)」です。 生死を嫌い、それを捨てて顧みないのが「瞋の蓋(じんのふた)」です。 空に安住して動かず、仮の世界を観ようとせず、五蘊(ごうん)の区別すらつかないのが「睡の蓋(すいのふた)」です。 心が空の概念に乱れる凡夫には理解できない境地が「掉悔の蓋(じょうけのふた)」です。 仮の知恵がはっきりしないのが「疑の蓋(ぎのふた)」です。 これらの蓋を捨てなければ、道種智(どうしゅち/菩薩の智慧)や俗諦(日常の真理)に基づく三昧(さんまい)はついに現れません。 この蓋が取り除かれて初めて、法眼(ほう

復次,依中起蓋,障於中道。所以者何?菩薩貪求佛法,如海吞流,無有厭足。生名愛法,起順道貪,此名貪蓋;不喜二乘,大樹折枝,不宿怨鳥,是名瞋蓋。無明長遠,設使上地猶有分在,《大論》云「處處說破無明三昧」者,初雖破,後更須破。無智慧明,即睡蓋;菩薩三業雖無失,比佛猶有漏失,名掉悔蓋;初、後理圓,而初心智慧不逮於後,是名疑蓋。此蓋不棄,終不與實相相應;此蓋若除,真如理顯,開佛知見。此五蓋法不局在初心,地地皆有,唯佛究竟八萬四千波羅蜜,具足圓滿,到於彼岸。故《地持》云:「第九離一切見清淨淨禪。」若得此意,蓋相則長,非但欲界而已。

次に、この中道に基づいて生じる煩悩の覆いが、中道を妨げます。なぜなら、菩薩が仏法を求めることは、海が流れを飲み込むように尽きることがなく、これを「愛法」と呼び、順道の貪りを起こすので、これを「貪りの覆い」と言います。また、二乗(声聞・縁覚)を喜ばず、大木が枝を折って怨みの鳥を宿さないようにすることを「怒りの覆い」と言います。

無明は長く遠く、たとえ上位の境地にあってもなおその分け前があります。『大智度論』に「あらゆる所で無明を破る三昧を説く」とあるのは、最初に破っても、後でさらに破る必要があるからです。智慧の明るさがない状態が「眠りの覆い」です。菩薩の三業(身・口・意)には過失がなくても、仏と比べればなお漏れや失いがあることから、これを「後悔の覆い」と言います。

初めと後ろの理は円満ですが、初心の智慧は後ろの智慧に及ばないことから、これを「疑いの覆い」と言います。これらの覆いを捨てなければ、ついに真実の相と対応することはできません。この覆いが除かれれば、真如の理が現れ、仏の知見が開かれます。

この五つの覆いの法は、初心に限られるものではなく、すべての修行の段階に存在します。ただ仏だけが八万四千の波羅蜜を究め、完全に円満し、彼岸に至ります。ゆえに『菩薩地持経』に「第九の地はすべての見解を離れた清浄清浄の禅である」と説かれています。この意味を理解すれば、覆いの相は長く、欲界に限られるものではないと分かります。

復次,言語分別邐迆階梯,前鈍利兩蓋是凡夫時所棄;俗諦上蓋,是二乘時所棄;障中道蓋是菩薩時所棄。如此論蓋,後不關初。《地》、《攝》二論師多明此意。果頭之法,不關凡夫,那可即事而修?

さらに、言葉による分別は、まるで階段のように段階を追って進むものです。まず、鈍いものと鋭いものの二つの蓋(迷いのもと)は、凡夫の段階で捨てられます。世俗の真理に関する蓋は、声聞や縁覚の二乗の段階で捨てられます。中道を妨げる蓋は、菩薩の段階で捨てられます。このように蓋について述べると、後の段階は最初の段階とは関係がありません。『地論』や『摂論』の論師たちは、この意味を詳しく説いています。悟りの極みである真理は、凡夫には関係のないものなので、それを日常の事柄として修行することはできないのでしょうか?

圓釋不爾。何以得知?若為上地人說,應作法性佛,現法性國,為法性菩薩說之,何意相輔現此三界?為欲度此凡俗故,論此妙法,使其得修。若言不爾,為誰施權?權何所引?若得此意,初心凡夫能於一念圓棄諸蓋。故《大品》云:「一切法趣欲事,是趣不過。欲事尚不可得,何況當有趣不趣?」釋曰:趣即是有,有能趣、所趣故,即辯俗諦。欲事不可得,即是明空;空中無能趣、所趣故,即辯真諦。「云何當有趣非趣?」即是辯中道。當知三諦秖在一欲事耳。

円教の解釈はそうではない。なぜそう言えるのか。もし上の位の人のために説くのであれば、法性の仏として法性の国に現れ、法性の菩薩のために説くべきである。それなのに、なぜわざわざ三界を現すのか。それは、この凡夫を救済しようとして、この妙法を説き、彼らに修行させようとするからである。もしそうでないと言うなら、誰のために仮の教え(権)を施すのか。その権は何を導き出すのか。もしこの意味を理解すれば、初発心の凡夫でも、一念において一切の蓋(煩悩)を捨て去ることができる。ゆえに『大品経』にはこうある。「一切の法は欲事に向かう。その向かうことを超えるものはない。欲事すらも得られない。ましてや、向かうことや向かわないことがあり得ようか」。これを釈するに、「趣(向かう)」すなわち「有」であり、能趣・所趣があるので、これが俗諦を明かす。欲事が得られない、すなわち空を明かす。空には能趣・所趣がないので、これが真諦を明かす。「どうして趣・非趣があり得ようか」とは、すなわち中道を明かす。これによって、三諦はただ一つの欲事にのみあると知るべきである。

今更廣釋,令義易解。云何一切法趣欲事,是趣不過?欲事為法界故,一切法之根本。如初起欲覺,已具諸法;心麁不知,漸漸滑利,不能制御,便習其事。初試歇熱,習之則慣,餐啜叵忘,即便退戒還家,求覓欲境。覓不知足,或偷或劫,或偪或貿,如是等種種求欲而生罪過。若得此境,大須供養,或偷奪求財,或殺生取適。若其富貴,縱心造罪;若其貧窮,惡念亦廣。欲罪既成,適有、此有,則有生死,應遍受果。隨在何道,欲轉倍盛,受胎之微形,世世常增長;十二因緣輪轉無際。當知一切法無不趣欲;欲法界外,更無別法。當知一切五蓋如上說者,於初一念悉皆具足。欲為因緣生法,其義可見也。

さて、さらに分かりやすく広く解釈して、その意味を明らかにしよう。

では、「あらゆる現象が欲望の対象に向かって進み、その先へは進めない」とは、どういうことか? 欲望の対象は法の世界そのものだからだ。すべての現象の根本である。 例えば、最初に欲の思いが起こった時、すでにすべての諸々の現象が備わっている。 心が粗いために気づかず、次第に慣れ親しんでしまい、抑えられなくなって、その行動を習慣としてしまう。

最初は試しに味わう程度だが、慣れると癖になり、飲み食いするように忘れられなくなる。 すると戒律を捨てて在家に戻り、欲望の対象を求め始める。 求めても満足せず、盗んだり、奪ったり、脅したり、交換したりする。 このように様々な方法で欲を求め、その結果、罪過を生み出す。

もし欲望の対象を得られれば、盛大に供養しなければならない。 あるいは盗み奪って財を求め、あるいは殺生して快楽を得る。 もし富貴であれば、心のままに罪を犯す。 もし貧しければ、悪い考えはさらに広がる。

欲望の罪が成り立つと、生存が生まれ、その生存があれば、生死が存在する。 そして、その結果を様々に受けなければならない。 どのような生存の道にあっても、欲望はさらに倍増し盛んになる。 胎内に宿る微細な形体は、世々にわたって常に成長する。 十二因縁は輪廻して限りがない。

知るべきである。あらゆる現象は、ことごとく欲望に向かわないものはない。 欲望の法の世界の外に、別の法は存在しない。

また知るべきである。五つの妨げ(五蓋)も、上に述べた通りであり、その最初の一念のうちにすべて備わっている。 欲望が縁となって生じる法であることは、その意味が明らかである。

云何欲法界空?外五塵求不可得;內意根求不可得;中間意識求不可得。內外合求不可得;離內外求不可得。過去欲緣求不可得;現在欲因求不可得;未來欲果求不可得。橫竪求之,畢竟寂靜,欲即是空。欲空故,從欲所生一切法亦即是空,空亦不可得。是為觀空棄利鈍蓋也。

欲の法界が空であるとは、どういうことか。外側の五つの感覚対象に求めて得ることはできず、内側の意根に求めて得ることもできない。その中間の意識に求めて得ることもできない。内と外を合わせて求めても得られず、内と外を離れて求めても得られない。過去の欲の縁に求めて得ることはできず、現在の欲の因に求めて得ることもできず、未来の欲の果に求めて得ることもできない。縦横に求めてみても、ついには静かに寂滅している。欲、すなわちそれは空である。欲が空であるから、欲から生じるすべての法もまた空であり、空そのものもまた得ることはできない。これが空を観じて、利根と鈍根の蓋(煩悩)を捨て去るということである。

既識己心一欲一切欲,即識一切眾生亦復如是。且置餘道,直就人道種種色像、種種音聲、種種心行、種種依報,各各不同。當知欲因,種別無量。一人因果已自無窮,何況多人?一界如是,況九法界?一法如是,何況百法?譬如對寇,寇是勳本;能破寇故,有大功名,得大富貴。無量貪欲是如來種亦復如是,能令菩薩出生無量百千法門。多薪火猛,糞壞生華;貪欲是道,此之謂也。若斷貪欲,住貪欲空,何由生出一切法門?經云:「不斷五欲能淨諸根。」如是觀時,俗諦五蓋自然清淨。

すでに己の心を知り、一つの欲望がすべての欲望であると悟れば、すべての衆生もまた同じであることを知る。さて、他の道はひとまず置き、ただ人道に直接目を向ければ、さまざまな色や形、さまざまな音声、さまざまな心の働き、さまざまな環境(依報)があり、それぞれが異なっている。知るべきである。欲望の因は種類が無量であると。一人の因果すらすでに限りがないのに、ましてや多人数においてはなおさらである。一つの世界がこのようであるのに、ましてや九つの法界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩)においてはなおさらである。一つの法がこのようであるのに、ましてや百の法においてはなおさらである。例えば、敵と向き合うようなものである。敵こそが手柄のもとである。敵に打ち勝つことができれば、大きな功名を得て、大きな富貴を得る。無量の貪欲が如来の種であるのもまた同じである。これによって菩薩は無量百千の法門を生み出すことができるのだ。薪が多ければ火は勢いよく燃え、糞や悪いものの中から花が咲く。「貪欲こそが道である」とは、まさにこのことを言うのである。もし貪欲を断ち切り、貪欲が空であることに執着すれば、どのようにして一切の法門を生み出せようか。経典に曰く「五欲を断たずして諸根を清らかにす」と。このように観ずるとき、世俗諦における五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑)は自然と清らかになるのである。

雖能如此,未見欲之實性。實非空,亦復非假。非假故,豈有無量?非空故,豈有寂然?空及假名,是二皆無;無趣,無非趣。無趣者,利鈍兩番五蓋玄除;無非趣,一番五蓋除;得識中道,又一番除。無所斷破,無所棄滅,而四番五蓋一念圓除。破二十五有,見欲實性,名王三昧,具一切法。是名圓觀棄於圓蓋。

そのように観じることはできても、まだ欲望の真実の本性を見ていないのです。 真実の本性は「空」ではなく、また「仮」でもありません。 「仮」ではないから、どうして無量でありえましょうか? 「空」ではないから、どうして静寂でありえましょうか? 「空」と「仮」という名前の二つは、どちらも存在しません。 趣くところもなく、趣かないところもありません。

「趣くところがない」とは、利根・鈍根の二つの場面において、五つの蓋が深く取り除かれることです。 「趣かないところがない」とは、一つの場面で五蓋が除かれ、中道を識得し、さらに一つの場面で除かれることです。 断ち破るところもなく、捨て滅するところもありませんが、四つの場面の五蓋が、一つの念において円かに除かれるのです。

二十五有を破り、欲望の真実の本性を見ることを「王三昧」と言い、一切の法を具えています。 これを「円觀をもって円盖を弃つる」と名づけるのです。

如此法門,名「理即是」。作如此解,名「名字即是」。初心此觀,名「觀行即是」。如上訶色,即淨眼根;訶聲即淨耳根;訶香即淨鼻根;訶味即淨舌根;訶觸即淨身根;棄五蓋即淨意根。六根淨時,名「相似即是」。三惑破,三諦顯,名「分真即是」。若能盡欲蓋邊底,名「究竟即是」。圓棄欲蓋既爾,棄餘蓋亦然。

この法門は「理即是」と名づけられる。このように理解することを「名字即是」という。初心者がこの観法を行うことを「観行即是」という。先に述べたように、色を厭離すれば眼の根が清らかになり、声を厭離すれば耳の根が清らかになり、香りを厭離すれば鼻の根が清らかになり、味を厭離すれば舌の根が清らかになり、触を厭離すれば身の根が清らかになり、五蓋を捨てれば意の根が清らかになる。六根が清らかになった状態を「相似即是」という。三惑を破り、三諦が顕われることを「分真即是」という。もし欲望の蓋を徹底的に尽くしきることができれば、それを「究竟即是」という。欲望の蓋を完全に捨てるのがこのようであるように、他の蓋を捨てるのもまた同様である。

○第四、調五事者,所謂調食、調眠、調身、調息、調心。如前所喻,土水不調,不任為器。五事不善,不得入禪。眠、食兩事,就定外調之;三事,就入、出、住調之。

第四に、五つの事を整えるとは、食事を整えること、睡眠を整えること、身体を整えること、呼吸を整えること、心を整えることをいいます。先に譬えたように、土と水の加減が整わなければ、器として用いることができません。これら五つの事が適切でなければ、禅定に入ることはできません。睡眠と食事の二つは、座禅の外で整えるものであり、残りの三つは、座禅に入るとき、座禅を続けるとき、座禅を終えるときに整えるものです。

調食者,增病、增眠、增煩惱等食,則不應食也;安身愈疾之物,是所應食。略而言之,不飢不飽,是食調相。《尼揵經》曰:「噉食太過,體難迴動;窳惰懈怠,所食難消,失二世利;睡眠自受苦,迷悶難醒寤。」

食べ物についての調整は、病気を増やし、睡眠を増やし、煩悩を増やすようなものは、食べるべきではありません。身体を安定させ、病気を癒すものは、食べるべきものです。簡単に言えば、空腹でも満腹でもない状態が、食べ物の調整が整った姿です。『尼揵経』にはこう述べられています。「食べ過ぎると、体は動かしにくくなり、なまけ怠け、食べたものは消化されにくく、現在と未来の二つの利益を失います。睡眠によって自ら苦しみ、心は迷いぼんやりとして、なかなか目覚めることができません。」

調眠者,眠是眼食,不可苦節,增於心數,損失功夫;復不可恣。上訶蓋中一向除棄,為正入定障故。此中在散心時從容四大,故各有其意。略而言之,不節、不恣,是眠調相。

眠りの調整について。眠りは眼の食べ物のようなものです。ですから、必要以上に厳しく節制してはいけません。そうすると心の働きが増え、修行の妨げとなります。また、好き勝手に眠ることも許されません。先に「五蓋」の説明では、眠り蓋は完全に捨て去るべきだとされました。それは、正しい禅定に入るための妨げとなるからです。しかし、ここで言う「調眠」は、心が散乱している平常時の話であり、身体を快適に保つためのものです。それぞれに意味があるのです。簡単に言えば、節制しすぎず、また好き放題にもしないこと、これが眠りの適切な調整法というものです。

三事合調者,三事相依不得相離,如初受胎:一、煗,二、命,三、識。煗是遺體之色;命是氣息,報風連持;識是一期心主。託胎即有三事。三事增長,七日一變,三十八七日竟,三事出生,名「嬰兒」;三事停住,名「壯年」;三事衰微,名為「老」;三事滅壞,名為「死」。三事始終不得相離,須合調也。

三つの事柄が調和しているとは、三つのものが互いに依存し合い、離れることができないことを言う。例えば、最初に胎内に宿る時、すなわち、一に温もり、二に命、三に識である。温もりは身体という色(物質)であり、命は息吹、すなわち業報によって身体に結びついた風であり、識は一期の心の主である。胎内に宿れば、この三つがそろっている。この三つが成長し、七日ごとに変化して、三十八週間が終わると、三つが完全に現れて「乳児」と呼ばれる。三つが安定して留まる時期を「壮年」と呼ぶ。三つが衰え弱まることを「老い」と呼ぶ。三つが滅び壊れることを「死」と呼ぶ。三つのものは、初めから終わりまで、決して離れることができない。このため、三者は調和していなければならないのである。

初入定時,調身令不寬不急,調息令不澁不滑,調心令不沈不浮。調麁入細,住禪中;隨不調處,覺當檢校,調使安隱。如調絃入弄,後不成曲,即知絃軫差異,覺而改之。若欲出定,從細至麁,備如《次第禪門》也。若能調凡夫三事,變為聖人三法:色為發戒之由;息為入定之門;心為生慧之因。此戒能捨惡趣凡鄙之身,成辦聖人六度,滿足法身。此息能變散動惡覺,即成禪悅法喜;因禪發慧,聖人以之為命。此心即能改生死心為菩提心,真常聖識。始此三法,合成聖胎。始從初心,終至後心,唯此三法不得相離(云云)。

まず禅定に入ろうとする時には、身体を緊張させず緩めすぎず、呼吸を滑らかでなく詰まらせもせず、心を沈ませも浮き立たせもせずに調えなさい。粗い状態から細やかな状態へと整え、禅定の中に留まるのです。もし調えが整わないところがあれば、気づいて点検し直し、安定するよう調えなさい。まるで琴の弦を調律して曲を奏でる際、うまく曲にならなければ弦や糸巻きにずれがあると知り、気づいて直すようなものです。

もし禅定から出ようとするならば、細やかな状態から粗い状態へと順に戻します。詳しくは『次第禅門』に述べられている通りです。

凡夫の三つの要素を調えることができれば、それを聖者の三つの法に変えることができます。すなわち、 - 身体は戒を生み出す基となり、 - 呼吸は禅定に入る門となり、 - 心は智慧を生み出す因となります。

この戒によって、悪い道や凡庸な身を捨て、聖者の六波羅蜜を成就し、真の仏の体を満たすことができます。 この呼吸によって、散り乱れる動きや悪しき感覚を変え、禅の喜びと法の楽しみとすることができます。禅定によって智慧が生じ、聖者はこれを生命とします。 この心によって、迷いの生死の心を菩提心へと変え、真実で永遠なる聖なる認識とすることができます。

これらの三つの法が合わさって、聖なる胎児が育まれます。修行の初めの心から終わりの心に至るまで、ただこの三つの法が互いに離れることがないのです(云云)。

觀心調五事者,如前法喜禪悅為食也。初觀真諦所生定慧,多為入空,消淨諸法,此是「飢相」。《法華》云「飢餓羸瘦,體生瘡癬」也。第二觀俗諦所生定慧,多是扶俗,假立諸法,名為「飽相」。故云:「歷劫修行恒沙佛法。」是二觀,飢飽不調。中道禪悅法喜,調和中適,無二邊之偏。是名「不飢不飽」(云云)。

心を観じて五つの事を調えるとは、先に述べた法喜や禅悦を食とする道理と同じです。

まず初めに、真諦を観じて生じる定慧は、多くは空に入り、一切の諸法を消し去って清らかにするものです。これは「飢えの相」と呼ばれます。『法華経』には「飢えと渇きにやせ細り、身には癩(らい)やかさぶたができる」と説かれています。

第二に、俗諦を観じて生じる定慧は、多くは俗の世界を助け、仮に諸法を立てるもので、「飽きの相」と呼ばれます。ゆえに「長い年月をかけて、恒沙(ごうしゃ)の仏法を修行する」と説かれています。

この二つの観は、飢えと飽きという偏りがあり、調和がとれていません。中道の禅悦と法喜は、これらを調和させて中庸とし、二つの極端な偏りがありません。これを「飢えず、飽きず」と名づけるのです。 (云云)

調眠者,空觀未破無明,無明與空合,沈空保住,眠相則多。出假分別,伏無明,眠相則少。今中道觀從容,若斷無明,一切善法則無生處,塵勞之儔是如來種,不斷癡愛起諸明脫。若恣無明,無上佛道何由得成?經云:「無明轉,即變為明。」「行於非道,通達佛道。」「無明性、明性,無二無別。」豈可斷無明性,更修明性耶?不住調伏,不住不調伏,即是理觀調眠也。

眠りを調整するとは、空の観察によって無明を打ち破ることができていない状態を言います。無明と空が一体となり、空に留まって保とうとするため、眠りの相が多くなります。仮の世界に分け入って分別することで無明を抑えれば、眠りの相は少なくなります。今、中道の観察はゆったりとしています。もし無明を断ち切ってしまえば、すべての善い法は生じる場を失い、煩悩の仲間こそが如来の種子であり、迷いや愛着を断ち切らずとも、様々な解脱が現れます。しかし、もし無明を放任すれば、無上の仏道はどうして成就できるでしょうか。経典には「無明が転じれば、それが智慧となる」「道ならざる所に行きながらも、仏道に通じる」「無明の性と智慧の性は、二つではなく別でもない」と説かれています。どうして無明の性を断ち切って、さらに智慧の性を修めようとするのでしょうか。調伏に留まらず、調伏しないことにも留まらない、これこそが理の観察による眠りの調整なのです。

合調三事,即為三番。《大經》云:「六波羅蜜滿足之身。」調如此身,令不寬不急。《大品》云:「樂說辯卒起,是為魔事;不卒起,亦是魔事。」卒起者,卒行六度,是急;卒放捨,是寬。不急不寬,是身調相。調息者,以禪悅法喜、慧命為息。如《大品》云:「般若非利非鈍。」若鈍,名為澁;若利,即名滑;不鈍不利,名息調相。調心者:菩提心難得,是為沈;菩提心易得,名為浮;非難非易,是為調相。

三つの要素(身・息・心)を整えることを、三段階の調和と言います。『大無量寿経』には「六波羅蜜を満たした身」と説かれています。この身を、緩すぎず張りつめすぎないように整えます。『大品般若経』には「楽説弁才が突然に起こるのは魔の仕業であり、突然に起こらないのもまた魔の仕業である」とあります。「突然に起こる」とは、六度(六波羅蜜)を急いで行うことであり、それが張りつめすぎた状態です。「突然に捨てる」とは、緩んだ状態です。張りつめすぎず、緩みすぎないこと、それが身を調える姿です。

息を整えるとは、禅の喜びや法の楽しさ、智慧の命を息とすることです。例えば『大品般若経』に「般若は鋭くも鈍くもない」とあります。鈍い場合は「澁(渋い)」と言い、鋭い場合は「滑(滑らか)」と言います。鋭くも鈍くもないこと、それが息を調える姿です。

心を整えるとは、菩提心を得るのが難しいと思えば沈み込んだ状態になり、易しいと思えば浮き立った状態になります。難しくも易しくもないこと、それが心を調える姿です。

次約三觀調三事者,以微妙善心為菩提心,如前明四種菩提心。若三藏、通教,為斷結入空,以真為證,此心為沈;若別教,化他出假,分別藥病,廣識法門,發菩提心,此心為浮;若圓教,觀實相理,雙遮雙照,非空故不沈,非假故不浮,發如是心,名為調相。調身者:通教斷惑明六度為急,別教出假分別為寬,中道不依二邊為不寬不急也。調息者,通教慧命入空為滑;別教入假為澁;中道不依二邊為不澁不滑。

次に、三つの事柄を調えるとは、微細で善い心を菩提心とすることです。前に四種の菩提心を明らかにした通りです。三蔵教や通教が煩悩を断って空に入り、真実を証とする場合、この心は沈みがちになります。別教が他者を教化するために仮の世界に出て、薬と病を分別し、広く教えの方法を知り、菩提心を発す場合は、この心は浮きがちになります。円教が実相の真理を観じて、双遮双照し、空ではないから沈まず、仮ではないから浮かず、このような心を発すことを、調えられた状態と言います。 身を調えるとは、通教が惑いを断ち、六波羅蜜を明らかにすることを急とし、別教が仮の世界に出て分別することを緩やかとし、中道が二辺に依らないことを緩やかでも急でもないとすることです。 息を調えるとは、通教の慧命が空に入ることを滑らかとし、別教が仮に入ることを澁(しぶ)いとし、中道が二辺に依らないことを澁らず滑らかでもないとすることです。

復次,約三觀各各調者:初觀止身息心為急滑沈,次觀身息心為寬澁浮。若能中適,即成方便,得入真諦也。第二觀止身息心為急滑沈,觀身息心為寬澁浮。能止觀中適,則成方便,發道種智,見俗諦理(云云)。中道止身息心為急滑沈,觀身息心為寬澁浮。若能中適,止觀從容,即成方便,得入中道見實相理也。行者善調三事,令託聖胎。如即行,心未有所屬,應當勤心和會方便、智度父母,託於聖胎。豈可託地獄三途、人天之胎耶?

さらに、三つの観法について、それぞれを調整する方法を述べる。 第一の観において、「止」を身・息・心に対して行うとき、その働きが急すぎると滑らかさを失い沈んでしまう。一方、「観」を身・息・心に対して行うとき、その働きが緩すぎると粗く浮ついてしまう。もしこの二つが程よく調和すれば、それは修行の助け(方便)となり、真諦(第一義諦)を悟ることができる。 第二の観では、「止」を身・息・心に対して行うと急で滑りやすく沈みがちになり、「観」を身・息・心に対して行うと緩く粗く浮つきやすい。しかし、「止」と「観」が程よく整えば、それもまた助けとなり、道種智(菩薩の智慧)が芽生え、俗諦(世俗の真理)の道理を見ることができる(云々)。 中道の観においても、「止」を身・息・心に対して行えば急で滑り沈み、「観」を身・息・心に対して行えば緩く粗く浮つく。だが、「止」と「観」が調和し、ゆったりと落ち着いていれば、それが助けとなり、中道に入り実相(ありのままの真理)の道理を悟ることができる。 修行者はこの三つの事柄(身・息・心)をうまく調整し、聖なる胎内(悟りの境地)に宿るようにしなさい。たとえば、心がまだどこにも属していない状態であれば、熱心に心を一つにし、方便と智慧という父母と出会い、聖なる胎内に宿るように努めなさい。どうして地獄や三悪道

○第五、行五法者,所謂欲、精進、念、巧慧、一心。前喻陶師,眾事悉整,而不肯作、作不殷勤、不存作法、作不巧便、作不專一,則事無成。今亦如是,上二十法雖備,若無樂欲希慕、身心苦策、念想、方便、一心決志者,止觀無由現前。若能欣習無厭、曉夜匪懈、念念相續、善得其意、一心無異,此人能進前路。一心譬船柁,巧慧如點頭,三種如篙櫓,若少一事則不安隱。又如飛鳥,以眼視,以尾制,以翅前。無此五法,事禪尚難,何況理定?當知五法通為小大、事理而作方便也。

第五に、五つの行いを修すること。すなわち、欲、精進、念、巧慧、一心である。以前に陶芸家のたとえを挙げた。すべての準備が整っていても、実際に作ろうとせず、作ることに熱心でなく、作る方法を意に留めず、巧みに作らず、一つのことに専念しなければ、何事も成し遂げられない。今もこれと同じで、先に述べた二十の法がすべて備わっていても、もし楽しんで願い求める気持ち、身心を苦しめて励むこと、心に留め続けること、上手な方法、一つの心に決意する志がなければ、止観は現れてこない。 もし喜んで学び飽くことを知らず、昼夜怠ることなく、心を次々と絶やさず、その意味をよく会得し、一心で他の雑念がなければ、この人は前に進むことができる。一心は船の舵にたとえられ、巧慧は船首の舵取りのようなもので、残りの三つは竿や櫓のようなものである。もしこの一つでも欠ければ、安全とは言えない。 また、飛鳥は目で見て、尾で方向を調整し、翼で前に進むようなものである。この五つの法がなければ、世俗的な禅定でさえ難しいのに、ましてや理の禅定などなおさらである。知るべきである、この五つの法は、小乗・大乗、事・理のあらゆる修行のための方便として通じるものである。

《成論》用四支為方便,一心為定體。若然者,四禪皆有一心,一心無異,云何判四禪之別?今不用此。若《瓔珞》云:「五支皆方便,第六默然為定體。」四禪俱有默然,亦難分別。若《毘曇》,用五法為方便,五支皆為定體,所以有四禪通別之異。一心為通體,初支為別體,故云覺觀俱禪乃至捨俱禪。別支與一心同起,得簡一心有深淺異。《釋論》同此說,今亦用之。

『成実論』では、四つの支分(しし)を方便とし、一心(いっしん)を瞑想の本質としています。そうだとすれば、四禅(しぜん)にはすべて一心があり、一心に違いはないのに、どうやって四禅の違いを判断するのでしょうか。ですから、私はこの説を用いません。

次に、『瓔珞経(ようらくきょう)』には「五つの支分はすべて方便であり、第六の沈黙(もくねん)が瞑想の本質である」とあります。四禅にはいずれも沈黙があるため、これもまた区別が難しいのです。

一方、『毘曇(びどん)』では、五つの法を方便とし、五つの支分すべてを瞑想の本質としています。そのため、四禅には共通する面と、それぞれに特有の面があるという違いが生まれます。一心は共通の本質であり、最初の支分がそれぞれ独特の本質です。ですから、「尋(じん)と伺(し)を伴った瞑想」から「平安を伴った瞑想」までがあると説かれています。それぞれに固有の支分は一心と共に生じるため、一心にも浅い深いの違いがあると簡別されます。『大智度論(だいちどろん)』もこの説と同じであり、私もこれを用います。

《論》文解五法者:欲者,欲從欲界到初禪。精進者,欲界難過,若不精進,不能得出;如叛還本國,界首難度。故論云:「施、戒、忍,世間常法;如客主之禮,法應供給。見作惡者被治,不敢為罪,或少力故而忍,故不須精進。今欲生般若,要因禪定,必須大精進;身心急著,爾乃成辦。如佛說血肉脂髓皆使竭盡,但令皮骨在,不捨精進,乃得禪定、智慧。」得是三事,眾事皆辦。是故須大精進也。念者,常念初禪,不念餘事。慧者,分別初禪尊重可貴;欲界欺誑可惡。初禪為攀上勝、妙、出;欲界為厭下苦、麁、障。因果合論,則有十二觀。若依此言,與外道六行同。但外道專為求禪;今佛弟子用邪相入正相,無漏心修,還成正法,是為巧慧。一心者,修此法時一心專志,更不餘緣;決定一心,非是入定一心也。

論では、この五つの方法を次のように説明しています。

「欲」とは、欲界から初禅に至りたいと願うことです。 「精進」とは、欲界を超えるのは難しく、精進しなければそこから出られないということです。まるで反逆して自国に帰ろうとする者が国境を越えるのが難しいようなものです。だから論にはこうあります。「施し、戒律、忍辱は世間の常なる法であり、客と主人の礼儀のように、当然施し与えるべきものです。悪を見れば罰せられて罪を犯せなくなり、力が弱いゆえに忍ぶこともあるので、精進は必要ありません。しかし今、般若を生み出そうとするなら、必ず禅定に依らねばならず、大いなる精進が必要です。身心を集中して切に求めてこそ、成し遂げられるのです。例えば、仏がおっしゃったように、血肉や髄を尽くし、皮と骨だけになっても精進を捨てずに初めて禅定と智慧を得られる、と。」この三つのことを得れば、全てのことが成就します。それゆえに大いなる精進が必要なのです。

「念」とは、常に初禅を思い、他のことを思わないことです。 「慧」とは、初禅が尊く貴ぶべきものであると分別し、欲界は人を欺き汚らわしいものであると見極めることです。初禅は「より優れ、より殊勝であり、より素晴らしく、より超越している」と観じ、欲界は「より苦しく、より粗雑で、より障害がある」と厭い嫌うことです。因と果を合わせて考えれば、十二種の観があります。これは言葉の上では外道が修行する六行と同じです。しかし、外道はひたすら禅定を求めるだけですが、仏弟子は誤った観相を用いて正しい相に入り、煩悩なき心で修行するので、正しい法に還ることができます。これが「巧慧(巧みな智慧)」です。

「一心」とは、この法を修行する時に心を一つに集中し、他の因縁に心を向けないことです。ここで言う一心とは、禅定に入った時の一心のことではなく、決意して心を一つにすることを指します。

復次,欲者,欲從生死而入涅槃。精進者,不雜有漏名「精」;一向專求名「進」。念者,但念涅槃寂滅,不念餘事。巧慧者,分別生死過患,賢聖所呵;涅槃安樂,聖所稱歎。一心者,決定怖畏,修八聖道,直去不迴。是為方便而得入真。

さらに、「欲」とは、生死の世界から涅槃に入ろうと願うことである。「精進」とは、煩悩を交えずに専念することを「精」といい、ひたすら目的を求めることを「進」という。「念」とは、涅槃の静かな安らぎだけを思い、他のことを考えないことである。「巧慧」とは、生死の苦しみや過ちをはっきりと見極め、それが聖者たちから戒められていること、そして涅槃の安らぎが聖者たちに称賛されていることを分別することである。「一心」とは、確固たる畏れをもって、八つの正しい道を修行し、まっすぐに進んで退かないことである。これらが方便となり、真実に入ることができるのである。

復次,欲者,欲廣化眾生,成就佛法。精進者,雖眾生性多,佛法長遠,誓無退悔。念者,悲心徹骨,如母念子。方便者,巧知諸病,明識法藥,逗會適宜。一心者,決定化他,誓令度脫,心不異、不二。

さらに、欲とは、広く衆生を教化し、仏法を成就させたいと願うことである。精進とは、たとえ衆生の性質が多様で、仏法の道のりが長く遠くとも、決して退いたり悔いたりする誓いを立てないことである。念とは、骨の髄まで慈悲の心が通い、あたかも母が子を思うかのようであることである。方便とは、様々な病を巧みに知り、法の薬を明らかに識別し、相手に合わせて適切に施すことである。一心とは、他者を教化する決意を固め、必ずや解脱させると誓い、心がぶれたり、二つに分かれたりしないことである。

復次,欲者,如薩陀波崙欲聞般若,不自惜身命。精進者,為聞般若故,七日七夜閑林悲泣;七歲行立不坐不臥。念者,常念我何時當聞般若,更無餘念。巧慧者,雖有留難,留難不能難。如賣身,魔不能蔽;隱水,更能刺血。轉魔事為佛事,即巧慧。一心者,決志不移,不復二念也。

次に、「欲」とは、例えばサダープラルダ(常啼菩薩)が般若(波羅蜜)を聞こうとして、自らの身や命さえ惜しまなかったような情熱です。「精進」とは、般若を聞くために七日七晩、林の中で声をあげて泣き、七年もの間、立ったり歩いたりして座らず横にならなかった努力を指します。「念」とは、「いつ般若を聞くことができるだろうか」と常に思い続け、他の考えが一切ないことです。「巧慧」とは、たとえ妨害や困難があっても、それに打ち勝つ知恵です。例えば、自らの身を売ろうとした時に魔が妨げられず、水が隠されてしまっても自らの血を刺して書き写したことなどがそれにあたります。また、魔の仕業を仏の教えの行いに変えることこそ、巧慧です。「一心」とは、決意が揺るがず、二心(迷いの心)を持たないことです。

復次,重說欲者,欲從二邊正入中道。不雜二邊為「精」;任運流入為「進」。繫緣法界,一念法界為「念」。修中觀方便名「善巧」。息於二邊,心水澄清,能知世間生滅法相;不二其心,清淨常一,能見般若也。

さらに、欲望についてもう一度述べよう。欲望は二つの極端から離れて、中道へと正しく入るものである。二つの極端に混ざらないことを「精」といい、自然に流れ込むことを「進」という。心を法界に結びつけ、一つの念が法界そのものであることを「念」という。中観を修するための方便を「善巧」という。二つの極端を静めれば、心の水は澄み渡り、世の中の生滅の法のありさまを知ることができる。心を二つにせず、清らかで常に一つであれば、般若を見ることができるのである。

此二十五法,通為一切禪、慧方便。諸觀不同,故方便亦轉。譬如曲弄既別,調絃亦別。若細分別,則有無量方便。文繁不載,可以意得。今用此二十五法為定外方便,亦名「遠方便」。因是調心,豁然見理。見理之時,誰論內外?豈有遠近?《大品》云:「非內觀得是智慧;非外觀、非內外觀;不離外觀、不離內觀及內外觀;亦不以無觀,得是智慧。」今且約此明外方便也。然不可定執而生是非。若解此意,沈浮得所,內外俱成方便;若不得意,俱非方便也。

この25の方法は、あらゆる禅定と智慧(プラジュニャー)への道を開く、共通の手段です。さまざまな観法があるように、その手段もまた変わります。例えば、曲が異なれば調弦も異なるのと同じです。細かく分ければ、無数の手段がありますが、ここでは煩雑を避け、その意図するところをくみ取るべきです。

ここでこの25の方法を、外的な準備の方便として定めます。これは「遠方便」とも呼ばれます。これによって心を整え、悟りを開くのです。真理を見るとき、内外や遠近の区別はどこにあるでしょうか。『大品般若経』にはこうあります。「智慧は内的な観察によって得られるのではない。外的な観察によっても、内外両方の観察によっても得られない。外的観察、内的観察、内外の観察を離れず、また、何の観察もないことによっても、この智慧は得られない」と。

今はひとまず、この教えをもとに外的な方便について述べているのです。ただし、これに固執して是 nonを論じてはいけません。この意味を理解すれば、深浅を得て、内外ともに方便となります。しかし、その意図をくみ取れなければ、どちらも方便とはならないのです。

摩訶止觀卷第四(下)

摩訶止観 巻第四(下)


第四(上)
第五(上)

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