摩訶止觀卷第四(上)
摩訶止観 巻第四(上)
隋天台智者大師說
隋の天台智者大師の説
門人灌頂記
弟子灌頂記
第六、明方便者,「方便」名善巧。善巧修行,以微少善根,能令無量行成解發,入菩薩位。《大論》云:「能以少施少戒,出過聲聞、辟支佛上。」即此義也。又方便者,眾緣和合也;以能和合成因,亦能和合取果。《大品經》言:「如來身者,不從一因一緣生,從無量功德生如來身。」顯此巧能,故論方便。
第六に、方便について説明します。「方便」とは巧みな方法という意味です。修行を巧みに行うことで、わずかな善根をもって、無量の行を成就させ、悟りを開き、菩薩の位に入ることができます。『大智度論』には「わずかな布施やわずかな戒律によっても、声聞や辟支仏を超えることができる」とあります。まさにこの意味です。
また、方便とは様々な条件や因縁が調和することです。この調和によって因を成就させ、また調和によって果報を得ることができます。『大品般若経』には「如来の身体は、ただ一つの原因や一つの条件から生まれるのではなく、無量の功徳から如来の身体が生まれる」と説かれています。この巧みな働きを示すために、方便について論じるのです。
若依漸次,即有四種方便。方便各有遠近,如《阿毘曇》明五停心為遠,四善根為近。通、別方便,例可意知。圓教以假名、五品觀行等位,去真猶遙,名遠方便;六根清淨,相似隣真,名近方便。
もし段階に従って進むならば、四つの「方便」(手段・準備)がある。これらの方便には、それぞれ遠いものと近いものがある。例えば『阿毘曇』では、五停心観を遠い方便とし、四善根を近い方便と説く。通教や別教の方便についても、同様に理解できるであろう。
円教においては、仮名や五品の観行などの位は、真実からまだ遠いので「遠方便」と呼ぶ。一方、六根清浄の位は、真実に似て近いので「近方便」と呼ぶ。
今就五品之前,假名位中,復論遠近:二十五法為遠方便;十種境界為近方便。橫竪該羅,十觀具足,成觀行位,能發真似,名近方便。今釋遠方便略為五:一、具五緣,二、呵五欲,三、棄五蓋,四、調五事,五、行五法。
ここで、五つの位に進むための準備段階について、さらにその浅い深いを論じます。 二十五の方法は、深い準備段階(遠方便)です。 十種の境地は、浅い準備段階(近方便)です。 これらを縦横に網羅し、十種の観法が整えば、観行の位に達します。 そこから真実や類似の境地を現すことができるので、これを浅い準備段階と呼びます。 ここでは、深い準備段階(遠方便)を簡潔に五つに分けて説きます。 第一に、五つの因縁を整えること。 第二に、五つの欲望を戒めること。 第三に、五つの心の覆いを捨てること。 第四に、五つの事柄を調えること。 第五に、五つの修行法を行うこと。
夫道不孤運,弘之在人;人弘勝法,假緣進道,所以須具五緣;緣力既具,當割諸嗜欲;嗜欲外屏,當內淨其心;其心若寂,當調試五事;五事調已,行於五法,必至所在。譬如陶師,若欲得器,先擇良處,無砂無鹵,草水豐便,可立作所。次息餘際務。際務不靜,安得就功?雖息外緣,身內有疾,云何執作?身雖康壯,泥輪不調,不成器物。上緣雖整,不專於業,廢不相續,永無辦理。止觀五緣,亦復如是。有待之身,必假資藉,如彼好處;呵厭塵欲,如斷外緣;棄絕五蓋,如治內疾;調適五事,如學輪繩;行於五法,如作不廢。
道は形あるものとしてそれだけで歩むことはできず、それを広めるのは人に依っています。 優れた教えを人々に広めるには、縁(よすが)に頼って道を進むため、五つの縁を備える必要があります。 その縁の力が整えば、次に様々な欲望を断ち切らねばなりません。 欲望を外に抑えたなら、次に内側から心を清めましょう。 心が静まったなら、五つの事柄をうまく調整し整えます。 これらの五つの事が整ったなら、五つの実践法を行えば、必ず悟りの境地に至ることができるでしょう。
例えば陶工(すえつくり)が器を作ろうとする時、 まず砂や塩気のない良い場所を選び、草や水が豊かで便利なところに作業場を設けます。 次に他の雑務をやめます。雑務が静まらなければ、どうして作業に専念できるでしょうか。 外の縁を断っても、身体に病気があれば、どうして作業ができるでしょう。 身体が健やかでも、土がうまく調えられず、ろくろが整っていなければ、器は完成しません。 これらの準備が整っても、業に専念せず、廃れて続かなければ、永久に器を作ることはできません。
止観(しがん)の修行に必要な五つの縁も、これと同じです。 この身体は頼りないものであり、必ず生活の支えが必要です。それはあの良い場所のようなものです。 俗世の欲望を嫌い離れることは、外の雑務を断つようなものです。 五つの蓋(とらわれ)を捨て去ることは、身体の病気を治すようなものです。 五つの事柄をうまく調整整えることは、ろくろや縄を学ぶようなものです。 五つの実践法を行うことは、作業を怠らず続けるようなものなのです。
世間淺事非緣不合,何況出世之道?若無弄引,何易可階?故歷二十五法約事為觀,調麁入細,檢散令靜,故為止觀遠方便也。此五法,三科出《大論》,一種出《禪經》,一是諸禪師立。
世の中のささいなことでさえ、縁がなければ成就しない。ましてや、この世を超えた悟りの道においてどうして縁なくして成就できようか。もし導入(導き)がなければ、どうして容易に悟りの境地に達することができようか。
そこで、二十五の教えを示し、事実に即して観察することを説き、粗い心を調えて細やかにし、散乱した心を整えて静める。これこそが「止観」を実践するための、遠い準備の方法なのである。
これらの五つの教えのうち、三つは『大智度論』に基づき、一つは『禅経』に由来し、もう一つは諸々の禅師によって立てられたものである。
一、具五緣者:一、持戒清淨、二、衣食具足、三、閑居靜處、四、息諸緣務、五、得善知識。《禪經》云:「四緣雖具足,開導由良師。」故用五法為入道梯隥,一闕則妨事。釋此具如《次第禪門》。
一、五つの条件を備えるとは: 一つ目は戒を清らかに保つこと。 二つ目は衣服と食物が十分にあること。 三つ目は静かな場所に独り居ること。 四つ目はあらゆる俗世の用務を休止すること。 五つ目は善き指導者(善知識)を得ること。
『坐禅三昧経』には、 「四つの条件がそろっていても、 善き指導者が道を開き導く。」 と説かれています。
したがって、これら五つの条件を悟りへの階段とし、 一つでも欠ければ修行に支障をきたします。 この詳しい解説は『次第禅門』に委ねます。
○此中,明持戒清淨即四意:一、列戒名,二、明持戒,三、明犯戒,四、明懺淨。
ここでは、戒めを清らかに保つことの意義を、四つの側面から明らかにします。第一に戒めの名前を挙げ、第二に戒めを守ることについて説き、第三に戒めを破ることについて述べ、第四に懺悔によって清らかになることについて明らかにします。
列名者,經論出處甚多,且依《釋論》。有十種戒,所謂不缺、不破、不穿、不雜、隨道、無著、智所讚、自在、隨定、具足。此十通用性戒為根本。《大論》云:「性戒者,是尸羅。身口等八種,謂身三、口四,更加不飲酒,是淨命防意地。」又云:「十善是尸羅。佛不出世世常有之,故名『舊戒』。」佛不出世,凡夫亦修八禪,故名「舊定」。外道邪見,六十二等舊醫乳藥,名為「舊慧」。常途云:「無客定,無漏導八禪耳。」今難此語,亦應無漏導十善也。戒、慧既有客法,定何獨無?
戒の種類については、経典や論書に多くの異説があるが、ここでは『釈論』に従う。十種の戒がある。すなわち、不缺戒、不破戒、不穿戒、不雑戒、随道戒、無著戒、智所讚戒、自在戒、随定戒、具足戒である。これら十はすべて、本性としての戒(性戒)を根本とする。
『大論』にはこうある。「性戒こそが尸羅(正しい行い)である。身と口に関する八つの戒、すなわち身体に関する三つの戒(殺生・偸盗・邪淫)と、口に関する四つの戒(妄語・両舌・悪口・綺語)に、さらに飲酒をしないことを加えたものである。これは清らかな生活(浄命)を保ち、心の働き(意地)を防ぐためのものである。」
また、こうも述べられている。「十の善行(十善)が尸羅である。仏が世に現れなくても、世の中に常に存在するものであるから、これを『旧戒』(古くからの戒)と呼ぶ。」仏が世に現れなくても、凡夫は八つの禅定(八禅)を修めることがある。そのため、これを「旧定」(古くからの禅定)と呼ぶ。また、外道の誤った見解や六十二種の邪見、あるいは昔の医者が用いた乳薬のようなものは、「旧慧」(古くからの智慧)と呼ばれる。
一般に、「客定(新たな禅定)はなく、無漏の智慧が八禅を導くだけである」と言われる。しかし、私はこの言葉を疑問に思う。それならば、無漏の智慧が十善を導くのも同じことではないか。戒と慧には「客」の法(新たなもの)があるのに、なぜ定だけにそれがないと言
今用三歸、五戒、二百五十為客戒根本。十種得戒人者,如佛自言:「善來比丘!」自然已得具足戒;如摩訶迦葉,自誓因緣得具足戒;如憍陳如,見諦故受具足戒;如波闍波提比丘尼,以八敬法受具足戒;如達磨提那比丘尼,遣信受具足戒;如須陀耶沙彌,論義受具足戒;如耶舍比丘等,善來受具足戒;如跋陀羅波楞伽加,三歸受具足戒;如邊地,第五律師受具足戒;中國,十人白四羯磨受具足戒。客戒人也。根本淨禪,觀、練、熏、修為客定。四諦慧為客慧,佛出方有也。
現在、三帰依・五戒・二百五十戒を、修行の途中にある人々の戒律の基礎としています。戒律を授かる方法には十通りあり、仏が自ら次のように説かれました。
「善来よ、比丘よ!」とおっしゃると、自然に具足戒が得られました。また、大迦葉のように自らの誓いによって具足戒を得た人、憍陳如のように真理を見て具足戒を受けた人、波闍波提比丘尼のように八敬法によって具足戒を受けた人、達磨提那比丘尼のように使いを送って具足戒を受けた人、須陀耶沙弥のように法義の論議によって具足戒を受けた人、耶舍比丘たちのように「善来」と招かれて具足戒を受けた人、跋陀羅波楞伽加のように三帰依によって具足戒を受けた人、辺境では第五の律師によって具足戒を受け、中国では十人の僧による白四羯磨によって具足戒を受けるのです。これらはすべて、修行途上の人々の戒律です。
本来の清らかな禅定とは、観・練・熏・修の四つの禅定を完成させることですが、これらは修行途上の人々の定められた修行です。四つの真理に関する智慧もまた、修行途上の智慧であり、仏がこの世に現れて初めて存在するものなのです。
性戒者,莫問受與不受,犯即是罪;受與不受,持即是善。若受戒,持生福,犯獲罪。不受,無福;不受,犯無罪。如伐草、害畜,罪同;對首懺,二罪俱滅。《大論》解云:「違無作罪同滅耳,而償命猶在。」故知受得之戒與性戒有異也。故《四分》問遮法云:「不犯邊罪不?」邊罪即性罪也。此罪障優婆塞戒,何況大戒?若性戒清淨,是戒度根本、解脫初因。因此性戒,得有無作受得之戒。
性戒とは、戒を受けているかどうかを問わず、犯せばすなわち罪となる。受けていても受けていなくても、保つことは善である。もし戒を受ければ、保つことで福が生じ、犯せば罪を得る。受けていなければ福はなく、犯しても罪はない。例えば草を刈ったり動物を害したりする罪は同じであり、対首懺悔によって二つの罪はともに滅する。『大智度論』の解釈には、「無作の罪を犯したことは共に滅するが、命を償うことはなお存在する」とある。これにより、受戒によって得られた戒と性戒には違いがあることがわかる。そのため『四分律』の遮法を問う箇所には、「辺罪を犯していないか」とある。辺罪とはすなわち性罪である。この罪は優婆塞戒を障げる。ましてや大戒においてはなおさらである。もし性戒が清浄であれば、これが戒度の根本であり、解脱の初めの因となる。この性戒によって、無作の受得の戒が存在するのである。
小乘明義,無作戒即是第三聚;大乘中《法鼓經》但明色、心,無第三聚。心無盡故,戒亦無盡。若就律儀戒論,無作可解。「定共戒無作」者,與定俱發。有人言:「入定時有,出定時無。」有人言:「無作依定,定在不失,定退即謝也。」「道共戒無作」者,此無作依道,道無失故,此戒亦無失。戒定、道共,通是戒名說,通以性戒為本。故經云:「依因此戒,能生禪定及滅苦智慧。」即此意也。
小乗の教えでは、無作戒は第三の聚(集まり)であると説かれています。一方、大乗の『法鼓経』では、色と心の二つだけを明かしており、第三の聚はありません。心が尽きることがないから、戒もまた尽きることがないのです。
律儀戒について言えば、無作は理解できるものです。「定共戒の無作」とは、禅定とともに発現するものです。ある人は「入定している間は存在するが、出定すれば消える」と言います。また別の人は「無作は禅定に依っており、禅定が保たれている間は失われず、禅定が退くとともに消える」と言います。
「道共戒の無作」について言えば、この無作は道に依っています。道には失われることがないため、この戒にも失われることがありません。戒、定共戒、道共戒は、いずれも戒という名称で括られ、共通して性戒をその根本としています。
それゆえ経典には「この戒に依り頼むことによって、禅定や苦しみを滅する智慧が生じる」と説かれているのです。まさにこの意味を指しています。
○二、明持者,此十種戒攝一切戒。
二つ目に、戒を保つことについて明らかにします。この十種の戒は、すべての戒を含んでいます。
不缺戒者,即是持於性戒乃至四重,清淨守護如愛明珠。若毀犯者,如器已缺,無所堪用;佛法邊人,非沙門釋子,失比丘法,故稱為「缺」。
戒律を欠くことなく守るとは、すなわち本来の戒(性戒)を保つことであり、四重禁(最も重い戒)に至るまでも清らかに守り、それを愛しい宝珠のように大切にすることである。
もし戒を破り犯すならば、それは器がすでに欠けてしまい、何の役にも立たないのと同じである。仏法の立場からすれば、そうした者はもはや沙門(修行者)でもなく、仏陀の弟子(釈子)でもなく、比丘としての道を失っている。そのため、これを「欠けている」と表現するのである。
不破者,即是持於十三,無有破損,故名「不破」。若毀犯者,如器破裂也。
「不破」とは、十三の戒を保ち、損なうことなく守り抜くことである。故に「不破」という。もし戒を破り犯すならば、器が割れるようなものである。
不穿者,是持波夜提等也。若有毀犯,如器穿漏,不能受道,故名為「穿」。
「穿(うが)たず」とは、波夜提(波逸提)などの戒を保つことです。もし戒を破り犯せば、器に穴が開いて漏れるように、道を受けることができなくなります。そのため「穿(うが)ち」と名づけるのです。
不雜者,持定共戒也。雖持律儀,念破戒事,名之為「雜」;定共持心,欲念不起,故名「不雜」。如《大經》云:「雖不與彼女人身合,而共言語嘲調;壁外釧聲;見男女相追,皆污淨戒。」《十住婆沙》云:「雖制其事,而令女人洗拭、按摩,染心共語相視;或限爾許日持戒;或期後世富樂,天上自恣,皆名不淨。」若持不雜戒,悉無此等念也。
不雑とは、定共戒(瞑想と共に保つ戒め)を守ることをいいます。戒律の儀式だけを守っていても、戒を破る行為を心に思い浮かべるなら、それを「雑」と呼びます。定共戒によって心を統一すれば、欲の心が起こらなくなるので、「不雑」というのです。
例えば『大般涅槃経』にはこうあります。「たとえ女人と身体を交わさなくても、言葉を交わして戯れたり、壁越しに腕輪の音を聞いたり、男女が互いに追いかけ合うのを見たりすれば、それらはすべて清らかな戒を汚すことになる」と。
また『十住毘婆沙論』にはこうあります。「たとえ行為そのものを制限していても、女人に洗わせたり、揉ませたり、マッサージさせたり、欲心を伴って話したり見つめ合ったりすること。あるいは、限られた日数だけ戒を守ると決めること。または来世の富や安楽、天界での思いのままを願って戒を守ること。これらはすべて清らかではない」と。
もし不雑の戒を守るなら、このような思いは一切起こりません。
隨道者,隨順諦理,能破見惑。無著戒者,即是見真成聖,於思惟惑無所染著也。以此兩戒約真諦持戒也。
「道に随う」とは、真理に従い従うことで、誤った見解という煩悩を打ち破ることができる、ということです。 「執着のない戒」とは、真理を悟って聖者となり、思考から生まれる煩悩にも一切染まらないことです。 この二つの戒こそが、真実の教えに基づいて戒を保つことなのです。
智所讚戒、自在戒,則約菩薩化他,為佛所讚,於世間中而得自在,是約俗諦論持戒也。
智者の称賛する戒、自在の戒とは、菩薩が他者を導くための戒であり、仏に称賛され、世の中において自由自在に振る舞えるというものです。これは世俗の真理に基づいて戒律を説いたものです。
隨定、具足兩戒,即是隨首楞嚴定,不起滅定,現諸威儀,示十法界像,導利眾生。雖威儀起動,而任運常靜,故名「墮定戒」。前來諸戒律儀防止,故名「不具足」;中道之戒無戒不備,故名「具足」。此是持中道第一義諦戒也。用中道慧,遍入諸法,故經云:「式叉。」式叉,名「大乘戒」也。
「定に随順し、両戒を具足する」とは、すなわち首楞厳定に随順し、滅定を起こさずして諸々の威儀を現じ、十法界の像を示して、衆生を導き利することを言います。威儀には動きが現れても、自然のままに常に静かであることから、「堕定戒」と名付けられます。先に述べた諸々の戒律や儀軌は、防ぎ止めることを主としているため、「不具足」と言います。中道の戒は、備わらない戒が無いことから「具足」と言います。これは中道の第一義諦の戒を保つことです。中道の智慧を用いて、あらゆる法に遍く入るため、経典には「式叉」と説かれています。「式叉」とは「大乗戒」のことです。
《涅槃》明五支戒及十種戒,義勢略同。設諸經論更明戒相,終不出此十科。
『涅槃経』では五支戒と十種戒が説かれていますが、その意味や趣旨はほぼ同じです。さまざまな経典や論書で戒の細かい相(すがた)がさらに説かれても、結局この十の分類から外れることはありません。
束前三種戒,名「律儀戒」。秉善防惡,從初根本乃至不穿,纖毫清淨,束名律儀戒。凡夫散心,悉能持得此戒也。
三種類の戒めをまとめて「律儀戒」といいます。善を保ち悪を防ぐために、最初の根本から最後まで、わずかな汚れもなく清らかに守ることを、律儀戒と名づけます。凡夫の散乱した心でも、この戒めを守ることができるのです。
次、不雜一戒,定法持心,心不妄動,身口亦寂,三業皎鏡,此是定共戒。入定時任運無雜;出定身口柔軟,亦不雜。凡夫入定則能持得也。
次に、戒律を混じり気なく保つとは、定の法によって心を支え、心がみだりに動かず、身体と口もまた静まり、身・口・意の三つの業が清らかに鏡のようであること、これを「定共戒」といいます。禅定に入っているときは自然と混じり気がなく、禅定から出ても身体と口が柔らかく、やはり混じりません。凡夫でも禅定に入れば、これを保つことができるのです。
隨道戒,初果見諦,發真成聖;聖人所持,非凡夫能持也。
道に従い、戒律を守ることで、初めての悟りの境地(預流果)に達して真理を見極め、真実の智慧を発現して聖者となります。聖者が保つ戒律は、凡夫には守ることができないものなのです。
無著戒,則三果人所持,亦非初果所持也。
無著戒は、三果(第三の悟りの段階)の人が保つものであり、初果(最初の悟りの段階)の人が保つものではありません。
智讚、自在,此乃菩薩利他須持此戒,則非二乘所持也。
智慧を讃え、自在であること。 これは菩薩が他者を利益するために守るべき戒めであり、声聞や縁覚の二乗が持つ戒めではありません。
隨定、具足,此是大根性所持,則非六度、通教菩薩所能持也,況復凡夫、二乘耶?向判位高下,事義不同。
定に随い、具足する。これは大いなる根性の者が保つものであり、六度や通教の菩薩が保てるものではない。ましてや凡夫や二乗に至ってはなおさらである。先に位の高低を判じたが、その事柄や意味は異なっている。
理觀觀心論持戒者,具能持得上十戒也。先束十戒為四意:前四戒,但是因緣所生法,通為觀境;次二戒,即是觀因緣生法即空,空觀持戒也;次兩戒,觀因緣即是假,假觀持戒也;次兩戒,觀因緣生法即是中,中觀持戒也。
理観・観心論における戒律の保持とは、上述の十戒を完全に守ることです。まず十戒を四つの意味にまとめます。最初の四つの戒は、因縁によって生じた法(現象)に過ぎず、全体的に観察の対象となります。次の二つの戒は、因縁によって生じた法を観じて、それがすなわち空であると見る、空観による戒律の保持です。次の二つの戒は、因縁を観じてそれが仮(かりそめの存在)であると見る、仮観による戒律の保持です。最後の二つの戒は、因縁によって生じた法を観じて、それが中道であると見る、中観による戒律の保持です。
所言「觀心為因緣生法」者,若觀一念心從惡緣起,即能破根本乃至破不雜戒,與善相違,故名為惡。今以善順之心防止惡心,能令根本乃至不雜等戒善順成就,得無毀損,故稱善心,名為防止。惡心既止,身口亦然。防即是止善;順即是行善,行善即是觀;止善即是止。是名「觀因緣所生心持四種戒」也。
「心を観じて因縁生法とする」というのは、もし一つの心の念が悪い縁によって生じるならば、その心は根本戒から不雑戒に至るまでを破り、善と相反するため、これを悪と呼ぶ。
今、善く素直な心をもって悪い心を防ぎ止めることで、根本戒から不雑戒に至るまでの戒めが善く素直に成就し、毀損することがない。そのためこれを善心と呼び、防止と言うのである。
悪心がすでに止まれば、身と口もまた同様である。防ぐとは止善であり、従うとは行善である。行善とは観であり、止善とは止である。これを「因縁によって生じた心を観じて、四種の戒めを持つ」と言うのである。
次「觀善惡因緣所生心即空」者,如《金剛般若》云:「若見法相者,名著我、人、眾生、壽者;若見非法相者,亦著我、人、眾生、壽者。不見法相、不見非法相,如筏喻者,法尚應捨,何況非法?」故知法與非法,二皆空寂,乃名持戒。今云「法」者,秖善惡兩心,假、實之法也。若見有善惡假名,即是著我、人、眾生、壽者;若見善惡實法,亦是著我、人、眾生、壽者。所言「非法相」者,若見善惡假名是無者,亦是著我、人、眾生、壽者;若見善惡實法是無者,亦著我、人、眾生、壽者。
次に「善悪の因縁によって生じる心を観じて、即ち空なりと為す」とは、『金剛般若経』に説かれている通りです。「もし法相を見る者は、我・人・衆生・寿者に執着する者である。もし非法相を見る者もまた、我・人・衆生・寿者に執着する者である。法相を見ず、非法相を見ず、筏の譬えのように、法すらも捨てるべきである。ましてや非法においておや」と。
このことから、法と非法の二つは共に空であり寂静である、これを「戒を持つ」と言うのです。
ここで言う「法」とは、善と悪の二つの心、すなわち仮の法と実の法のことです。もし善悪の仮の名があると見なせば、それは即ち我・人・衆生・寿者に執着することです。もし善悪が実体のある法であると見なせば、それもまた我・人・衆生・寿者に執着することです。
「非法相」と言うのは、もし善悪の仮の名は無いと見なせば、それもまた我・人・衆生・寿者に執着することです。もし善悪の実体のある法は無いと見なせば、それもまた我・人・衆生・寿者に執着することです。
何以故?依無起見,故不應著;乃至依非有非無起見,皆名著我、人、眾生、壽者。觀如是等法與非法,皆即是空。由此觀故,能順無漏,防止有、無,六十二見,故名「隨道戒」。若重慮此觀,思惟純熟,歷緣對境,於一切色、聲,皆悉即空,名「無著戒」。防止思惑,善順真諦,是名「觀因緣心即空持二種戒」也。
なぜなら、「有」という見解に基づくならば、それに執着してはならないからです。さらに「非有非無」という見解に基づくならば、それはすべて「我、人、衆生、寿者」という考えに執着することになります。このような「法」や「非法」は、すべて即座に空であると観じるべきです。このように観じることによって、煩悩のない境地に従い、「有」と「無」に関する六十二の邪見を防ぐことができます。これを「道に随う戒」と呼びます。さらにこの観法を重ね深く考え、熟考し、あらゆる経験や環境に直面しても、あらゆる色や音がすべて即座に空であると観じられるなら、これを「執着のない戒」と呼びます。こうして思考の迷いを防ぎ、真理の諦にうまく従うことができます。これを「因縁の心を空と観じる二種の戒を保つ」と説くのです。
次「觀因緣心即是假」者,知心非心,法亦非法,而不永滯非心非法。以道種方便,無所有中,立心、立法,拔出諸心數法,導利眾生,為「智所讚」。雖廣分別無量心法,但有名字,如虛空相,不生愛著,惑相不拘,名為「自在」。如此假觀,防止無知,善順俗理;防邊論止,順邊論觀,即是「假觀持兩戒」也。
次に「因縁の心を観じて即ちこれ仮なり」とは、心は心にあらず、法もまた法にあらざるを知りながらも、永く「心にあらず、法にあらず」に停滞しないことです。道種の方便によって、無所有の中に心を立て、法を立て、あらゆる心数法を抜き出し、衆生を導き利益することを「智の讚えるところ」とします。広く無量の心法を分別するといえども、ただ名前があるのみで、虚空の相のごとく、愛着を生ぜず、惑いの相に拘束されないことを「自在」と名づけます。このような仮観は、無知を防ぎ、俗理に善く従います。辺見を防ぐのが止であり、辺見に順じるのが観であり、すなわち「仮観が二つの戒を保つ」ということです。
次「觀因緣生心即中」者,觀於心性畢竟寂滅,心本非空亦復非假。非假故非世間;非空故非出世間。非賢聖法,非凡夫法;二邊寂靜,名為「心性」。能如是觀,名為「上定」。心在此定即「首楞嚴」。本寂不動,雙照二諦,現諸威儀,隨如是定無不具足。如是觀心,防止二邊無明諸惡,善順中道一實之理;防邊論止,順邊論觀,此名「即中而持兩戒」也。
次に「因縁によって生じた心を観じて、すなわち中道である」とは、心の本性を観じると、それは究極的に寂静であり、心はもともと空でもなく、また仮でもないということです。仮でないから世間ではなく、空でないから出世間でもありません。賢聖の法でもなく、凡夫の法でもなく、二つの極端を離れて寂静であることを「心性」と呼びます。このように観じることができるのを「上定」と呼びます。心がこの定にあるとき、それがすなわち「首楞厳」です。もともと寂静で動かず、二つの真理を同時に照らし、さまざまな威儀を現し、この定に随えばすべてが具わらないものはありません。このように心を観じることで、二つの極端の無明とさまざまな悪を防ぎ止め、善く中道一実の理に順います。極端を防ぐ側からは止を論じ、順う側からは観を論じます。これを「すなわち中道にして二つの戒を持つ」と呼びます。
故《梵網》云:「戒名大乘,名第一義光,非青黃赤白。戒名為孝,孝名為順;孝即止善,順即行善。如此戒者,本師所誦,我亦如是誦。」當知中道妙觀,戒之正體。上品清淨,究竟持戒。《十住》廣說云:「若無我我所,遠離諸戲論,一切無所有,是名上尸羅。」故《淨名》云:「罪性不在內,亦不在外,亦不在兩中間。如其心然,罪垢亦然。其能如是,是名善解,是名奉律。」即此意也。
そこで『梵網経』にはこう説かれています。「戒は大乗と名づけ、第一義の光と名づける。それは青や黄、赤や白ではない。戒を孝と名づけ、孝を順と名づける。孝とは悪を止めることであり、順とは善を行うことである。このような戒を、本師は誦し、私もまたこのように誦する。」このことから、中道の妙なる観法こそが戒の真の本体であると知るべきです。上品の清らかさが、究極の戒を保つことなのです。『十住経』にはこう詳しく説かれています。「もし我も我がものもなく、様々な虚妄の論議を離れ、一切が無所有であるならば、これを最上の戒と名づける。」故に『維摩経』にはこうあります。「罪の本性は内にもなく、外にもなく、また両者の間にもない。心がそのようであるならば、罪の垢もまたそのようである。もしそのように悟ることができれば、これを善く解すると名づけ、これを律にかなうと名づける。」まさにこの教えの趣旨なのです。
復次,觀心持戒,即是「五名」。所以者何?「防止」是戒義,觀亦如是。三觀名能防,三惑名所防。如此防止,義遍法界,不局在身口(云云)。
さらに、心を観じて戒を持すること、これこそが「五名」である。なぜかと言えば、「防ぎ止める」ということが戒の意味であり、観じることもまた同様である。三観は防ぐ主体(能防)と呼ばれ、三惑は防がれる対象(所防)と呼ばれる。このような防ぎ止める働きは、その意味が法界全体に及び、身や口だけに限られるものではない。
又《毘尼》名「滅」,滅身口諸非,故今觀心亦名為滅。即空之觀能滅見思之非;即假觀能滅塵沙之非;即中觀能滅無明之非。如此論滅,遍滅法界諸非,不止七支。故《淨名》云:「當直除滅,勿擾其心。」即此意也。
また『毘尼』では「滅」と説かれ、身・口の様々な過ちを滅することを意味します。そこで、心を観察する上でもこれを「滅」と呼びます。
すなわち、空(くう)の観によって見惑・思惑の過ちを滅し、仮の観によって塵沙(じんしゃ)の煩悩の過ちを滅し、中(ちゅう)の観によって無明(むみょう)の過ちを滅するのです。このように説かれる「滅」は、法界全体にわたるあらゆる過ちを遍く滅するものであり、単に身・口・意の七つの行為(七支)にとどまりません。
ゆえに『浄名経』には、「まさに直接に滅し去るべきであり、心を乱してはならない」と
又波羅提木叉名「保得解脫」者,觀心亦爾。若不觀三諦之理,三惑保不解脫;若見三諦,三惑保脫。如此解脫,遍法界脫,非止解脫三途及出生死而已。
また、波羅提木叉(戒律)を「解脱を保証するもの」と呼ぶのは、心の観察もまた同じである。もし三つの真理(三諦)の理を観ずることがなければ、三つの惑い(三惑)は決して解脱しないことが保証される。しかし、もし三つの真理を見極めれば、三つの惑いは必ず解脱する。このような解脱は、あらゆる世界(法界)に及ぶ解脱であり、単に三つの悪道(三途)からの解脱や、生死の輪廻を出ることだけに留まらないのである。
又「誦」者,背文闇持也。今觀心亦爾,三觀之名詮三諦理,即是其文。知名非名,研心諦理;觀法相續,常自現前,不生妄念,名之為「誦」。如此誦者,遍法界誦,非止八十誦也。
「誦」とは、文字を暗記して心に唱えることです。しかし、実は観心も同じで、三観の名は三諦の理を説き示す、すなわちそれが「文」なのです。その名が名そのものではないと知り、心を理に極め、観法を絶え間なく続けていけば、常に自ら目の前に現れ、誤った思いを起こさないこと、これを「誦」と言います。このようにして唱えるならば、それは全法界に及ぶ誦であり、単なる八十誦にとどまるものではありません。
又「律」者,詮量輕重,分別犯非犯。觀心亦爾,分別見思麁惡滓重。界內無知,小、輕;塵沙客塵橫起,復為小重;根本微細,如上菩提心中已說。三觀觀三理,是不犯;三惑障三理,名為犯。三藥治三病,詮量無謬,纖毫不差。
さらに「律」とは、善悪の軽重を計り、犯すことと犯さないことを区別するものです。心を観察することもこれと同じで、見惑・思惑という粗雑で重い煩悩を区別します。三界内の無知は小さく軽いものですが、塵沙の煩悩は客塵として横から起こり、さらにやや重いものです。根本の微細な煩悩については、先ほど菩提心の中ですでに述べた通りです。三つの観法で三つの真理を観じることは、犯さないことです。三つの惑(見思・塵沙・無明)が三つの真理を覆うことを、犯すといいます。三つの薬で三つの病を治すことは、その計らいに誤りがなく、細かな点まで一点の狂いもありません。
又知持「事戒」有三品:上品得天報,中品得人報,下品得修羅報。犯上退天,犯中退人,犯下退修羅,入三惡道。惡道又三品:輕者入餓鬼道,次者入畜生道,重者入地獄道。中品又多種,上、中、下、下下,即四天下也。上品又多種,謂三界諸天,各有品秩也。
また、「事戒」を守ることには三つの等級があることを知るべきです。 最上の等級は天界に生まれ変わりの報いを得、中の等級は人間界に、下の等級は修羅道に生まれ変わりの報いを得ます。 戒めを破れば、最上の者は天界から落ち、中の者は人間界から落ち、下の者は修羅道から落ちて、三悪道に入ります。 悪道にもまた三つの等級があります。 軽い者は餓鬼道に入り、次は畜生道、重い者は地獄道に入ります。 中の等級にもまた多くの種類があり、上、中、下、下下の四つがあり、これが四天下です。 最上の等級にも多くの種類があり、三界の諸々の天といい、それぞれに位の等級があります。
又持「理戒」,空假中三品,各有上中下。即空三品者,下品為聲聞,中品為緣覺,上品為通教菩薩。退則傳傳失也。即假三品者,下品為三藏菩薩,中品為通教出假菩薩,上品為別教菩薩。即中三品者,下品為別教菩薩,中品圓教菩薩,上品是佛。唯佛一人具淨戒也。又下品為五品,中為六根清淨,上入初住。此略就觀心判其階差。中道觀心即是法界;摩訶衍遍攝一切法,可以意得,不復煩文也。
さらに「理の戒」を説くに、空・仮・中の三品には、それぞれに上・中・下がある。 「即空」の三品とは、下品は声聞、中品は縁覚、上品は通教の菩薩である。これらは退くごとに、次第に伝えが失われていく。 「即仮」の三品とは、下品は三蔵教の菩薩、中品は通教から仮の世界に出る菩薩、上品は別教の菩薩である。 「即中」の三品とは、下品は別教の菩薩、中品は円教の菩薩、上品は仏である。ただ仏のみが清らかな戒を完全に具えているのである。 また、下品は五品の位、中品は六根清浄の位、上品は初住の位に入るとも説く。 これはひとまず、観心の立場からその階級の差別を判別したものである。 中道を観ずる心、すなわちこれが法界である。大乗はあらゆる法をことごとく包括するのであり、その意味は心で悟るべきであって、あらためて文字を費やす必要はない。
私諮云:下、中三品皆約發真,上品何意約真似為三品耶?
質問します。下品と中品の三種類はすべて真理を悟った境地に基づいて区分されていますが、上品ではなぜ真理を悟った境地とそれに近い境地の二つを合わせて三種類に区分するのでしょうか?
答:前三道未合,可得分張橫辯;即中既融,宜約一道竪判。又亦得約橫者,別接通、別、圓三品(云云)。如此分別得失輕重,遍詮量法界,豈止煮燒覆障耶?
答える。最初の三つの道は未だ統一されておらず、横に分けて論じることができる。中道はすでに融和しているため、一つの道に沿って縦に判別するのが適切である。また、横の見方に沿って、別接通・別・円の三つの品を区別することも可能である(云云)。このように分別し、得失や軽重を評価することで、法界全体をくまなく測り知ることができる。どうして単に「煮る」「焼く」「覆う」「塞ぐ」といった表面的な問題に留まることがあろうか。
觀心五名,宛然可見。若「事」中恭謹,精持四戒;而其心雜念,事亦不牢。猶如坯瓶,遇愛見惡,則便破壞。若能觀心,六種持戒,理觀分明,妄念不動;設遇惡緣,堅固不失。理既不動,事任運成。故《淨名》云:「其能如是,是名善解,是名奉律。」正意在此也。
心を観じる五つの名は、はっきりと見て取れます。もし「事」の面で慎み深く戒律を細かく守っていても、心に雑念があれば、その行いも確かなものとはなりません。それはまるで、焼き固めていない土の器が、好みや憎しみの邪悪に遭えばすぐに壊れてしまうようなものです。もし心を観じることができ、六種の戒律を保ちながら道理を観じてはっきりと見極め、妄念が動かなければ、たとえ悪い縁に遭っても、固く守って失うことはありません。道理が動かなければ、事の方も自然と成就します。だからこそ『維摩経』には「そのようにできる者を、よく理解した者といい、戒律を奉じる者という」と説かれています。この教えの真意は、まさにここにあるのです。
三、明犯戒相者,夫毀滅淨戒,不出癡愛、倒見,是戒怨家,喻二羅剎。《大經》云:「譬如有人,帶持浮囊,渡於大海。爾時,海中有一羅剎來乞浮囊。初則全乞,乃至微塵,悉皆不與。」行人亦爾,發心秉戒,誓渡生死大海,愛、見羅剎乞戒浮囊。
三、戒律を破る様相について述べます。清らかな戒を壊す原因は、無知・愛執・誤った見解の三つを超えるものはなく、これらは戒の敵であり、ちょうど二人の羅刹(悪鬼)のようなものです。『大般涅槃経』にはこう説かれています。「たとえば、ある人が浮き袋を身につけて大海を渡ろうとする。そのとき、海の中から一匹の羅刹が現れて浮き袋を乞う。最初は全体を要求し、最後には塵のように小さな一片に至るまで、決して与えてはならない。」修行者もまた同じです。心を発して戒を受ければ、生き死にの大海を渡りきろうと誓います。愛執と誤った見解という羅刹が、戒の浮き袋を求めてくるのです。
愛羅剎言「令汝安隱得入涅槃」者,此以欲樂暢情,稱為涅槃。如飢得食,如貧得寶,獼猴得酒,則得安樂。安樂名涅槃,誘誑行人。若隨愛轉,毀破四重,是全棄浮囊,是名「犯相」。若愛心雖起,不可全棄。何者?我今欲過生死大海,尸羅不淨,還墮三途,禪定、智慧皆不得發。思惟是已,生大怖畏,故言:「汝寧殺我,浮囊叵得。」是名「持相」。愛心復起,摩觸快意;若隨愛觸,是棄半浮囊,是名「犯相」。行人復念:「禁戒豈可輸半?論其果報,地獄苦惱,論其即目,下意治擯,甚可羞恥,豈應如此損毀大事?」是故護惜,不隨愛情,是名「持相」。愛心又起,乞重方便。若毀犯者,是乞手許;又毀波夜提是乞指許;又毀吉羅是乞微塵許。吉羅雖小,開放逸門,微塵不多,水當漸入,沒海而死。是為愛心破律儀戒。貪攀覽五欲,破定共戒。深著生死,為有造業,破即空戒。不息世譏嫌,無護他意,破即假戒。不信戒善與虛空等,不信此戒具足佛法,不信此戒畢竟清淨,破中道戒。此例可解(云云)。
愛羅刹が「君を安らかに涅槃へ導こう」と言うのは、これは欲望の快楽で心を満たすことを涅槃と呼んでいるに過ぎません。例えば飢えた者が食べ物を得、貧しい者が宝を得、猿が酒を得て楽しむようなものです。その楽しみを涅槃と名付け、修行者を惑わすのです。もし愛欲に従ってしまえば、四重禁戒を破ることになり、それは浮き袋を全て捨てることに等しく、これが「犯す相」です。たとえ愛心が起きても、全てを捨ててはいけません。なぜか。私は今、生死の大海を渡ろうとしているのに、戒律が清らかでなければ、三つの悪道に落ち、禅定や智慧も得られないからです。こう考えて大いに恐れを抱き、「むしろ私を殺せ。浮き袋は渡せない」と言う。これが「保つ相」です。再び愛心が起き、相手に触れて快楽を味わいたくなる。もし触れる愛欲に従えば、それは半分の浮き袋を捨てることであり、これが「犯す相」です。修行者はまた考える。「禁戒の半分を差し出すなどできるだろうか。その報いを言えば地獄の苦しみがある。目先のことだけを言えば、屈して罰を受け、仲間から追われるのは大変な恥辱であり、どうしてこのようなことで大事を損なってよいものか」と。それゆえに守り惜しみ、愛欲の心に従わない。これが「保つ相」です。愛心がまた起き、様々な便宜を求める。もし戒を破れば、それは手のひらほどの許しを乞うことであり、更に波夜提戒(軽い罪)を破れば、指一本ほどの許しを乞うことです。更に吉羅(微細な罪)を破れば、それは微かな塵ほどの許しを乞うことです。吉羅は小さくとも、放逸への門を開くものです。微かな塵ほどでも、水は次第に染み込み、やがて海で溺れ死ぬのです。これが愛欲の心によって律儀戒を破る姿です。五欲に執着して貪ることで、定共戒を破ります。生死に深く執着し、存在のために業を積むことで、即空戒を破ります。世間の非難を気にせず、他人への気遣いも持たないことで、即仮戒を破ります。戒の善が虚空と等しいこと、この戒が完全な仏法を備えていること、この戒が究竟的に清浄であることを信じないことで、中道戒を破ります。この例からも理解できるでしょう(云云)。
次見羅剎乞浮囊者,若為財色而毀戒者,如前所說,觸人皆爾,此名「已起之惡」;為除斷故,一心勤精進。若見心猛利,於所計法而起罪過,此是解僻,名「未生之惡」;為不生故,一心勤精進。此見雖未起,若修得少禪,無好師友,即生念著而起過患。佛在世,一比丘得四禪,謂為四果。臨終見中陰起,即謗佛云:「羅漢不生,今那得生?」阿難問佛:「此人命過,今生何處?」佛言:「已墮地獄。」雖持戒得有漏禪,是亦不可信。佛在世尚爾,況末代癡人,罪著深重!
次に、羅刹が浮き袋を乞うのを見るように、もし財や色のために戒律を破るならば、それは先に述べた通りで、触れる者すべてがそうなる。これを「すでに生じた悪」という。
これを除き断つために、一心に努力精進せよ。
もし心が鋭く激しく、執着する法について罪過を起こすならば、これは誤った見解であり、「まだ生じていない悪」という。
これを生じさせないために、一心に努力精進せよ。
この見解はまだ起きていなくても、もし少しの禅定を得て、良い師や友がいなければ、すぐに執着の念が生じて過ちを起こす。
仏が在世の時、一人の比丘が第四禅を得て、それを四果(阿羅漢果)と思い込んだ。臨終に中陰が現れるのを見て、仏を誹謗して言った。「阿羅漢は再び生まれないはずなのに、どうして今、生まれるのか?」と。
阿難が仏に尋ねた。「この人は命終して、どこに生まれますか?」
仏は言われた。「すでに地獄に堕ちた。」
戒を持っていても有漏の禅定を得ることはあり、それもまた信用できない。仏在世でさえこのようである。ましてや末法の愚かな人々は、罪障が深く重いのだ。
故《大虛空藏經》云:「若起惡見,名第三波羅夷。」云何惡見?或得空解,發少智慧,師心自樹,謂證無生。見心既強,能破諸法,無佛無眾生,撥世因果、出世因果。《法華》云:「或食人肉,或復噉狗。」即此義也。破正見、威儀、淨命,起於平等無分別見,何者有罪?何者非罪?若有分別,分別即礙,礙即非真。於貪欲中莫生怖礙;無怖礙即是菩提,謂此是實,餘皆妄語。又值惡師,為說惡法,見毒轉熾,邪鬼入心,邪解更甚。猖狂顛倒,無種不為,見慢峨嵯,陵蔑一切。見行善者謂有所得,欺之如土,由是見故,浮囊全去。設不全去者,即思惟言:「理雖如此,我未能見,何容頓棄,惜猶不與?」見心復起:「一切法空,豈有觸與不觸男女等相?」即便把執歍抱,是名半去;或重方便,乃至吉羅。謂諸法空寂,何用事相紛紜?既不存微塵,空心轉盛,如小水漸漏,無礙稍滑,一切戒律皆悉吞噉,故浮囊永沒。
そこで『大虚空蔵経』にいう。「もし悪見を起こせば、これを第三波羅夷と名づける」と。では、悪見とは何か。ある者は空の悟りを得て、わずかな智慧を発し、自らの心を師として立て、「無生を証得した」と自称する。その見解の心がすでに強く、あらゆる法を破壊しうる。「仏なし、衆生なし」とし、世間の因果も出世間の因果も否定する。『法華経』に「あるいは人の肉を食べ、あるいはまた犬を食らう」とあるのは、まさにこの意味である。正しい見解・威儀・清らかな生き方を破り、平等で無分別な見解を起こして、「何が罪であるのか。何が罪でないのか」とする。もし分別があれば、その分別こそが障りとなり、障りがあれば真実ではないとする。貪欲の中にあっても、怖れたり妨げられたりしてはならない。怖れや妨げがないことこそが菩提であるとし、これこそが真実であり、その他はすべて虚妄の言葉であるとする。また、悪い師に出会い、悪い法を説かれれば、見解の毒はいよいよ燃え盛り、邪な鬼が心に入り込み、邪な解釈はさらにひどくなる。ほしいままに狂い倒れ、為さざる悪はなく、見解と慢心は高くそびえ立ち、すべてを侮り見下す。善行を行う者を見れば「執着がある」と罵り、土のように欺く。この見解のゆえに、浮き袋(戒律)をまったく失ってしまう。たとえまだ失っていない者でも、こう思惟する。「道理は確かにそうだが、私はまだその境地に見えていない。だからといって、すぐにすべてを捨て去るのは忍びない。惜しんで与えないのはまだよいだろうか」と。すると再び見解の心が起きて、「一切の法は空である。まさか、触れる・触れない、男・女などの相があるはずがない」と考え、相手を抱き寄せたりする。これを「半ば失う」という。あるいは、方便を重視し、乃至は吉羅(軽い罪)を犯すに至る。「諸法は空寂である。どうして事相でごたごたする必要があろうか」とする。微塵(わずかな戒)すらも保たず、空の心はいよいよ盛んになり、それは小さな水が少しずつ漏れるように、妨げがなく滑らかになり、すべての戒律をまるごと飲み込んでしまう。かくして浮き袋は永遠に没してしまうのである。
當知見心大可怖畏!何以故?若謂四重及犯者皆空,而五逆亦空,何不造逆?空見既強,亦無父母。若通、若害,皆不為礙。既無礙者,亦應不礙王及夫人。論其見心,實不謂有王及夫人;而自於己,惜身惜命;若侵國王,身碎命盡。如此癡空,不空身命,惜己身命,亦於王不空。既於己於王不能空者,那得獨欺父母,輕忽佛教,而言四重五逆皆空耶?當知此人不能自見執空之過,近尚不見,何況遠耶?
心の見解がどれほど恐ろしいものであるかを知るべきです。なぜなら、もし「四重罪(殺生・盗み・邪淫・妄語の重罪)を犯した者も空であり、五逆罪(父殺し・母殺し・阿羅漢殺し・仏身出血・僧団分裂)も空である」と言うなら、なぜ五逆罪を犯さないのでしょうか?「空」という見解が強いと、父母さえも存在しないことになります。妨げることも害することも、一切の障りとはなりません。もし障りがないなら、王や后に対して妨げがないはずです。彼の心の見解を論じれば、実際には王や后が存在するとは考えていません。しかし自分自身については、身や命を惜しみ大切にします。もし国王を侵せば、身は砕け命は尽きます。このような愚かな「空」の見解は、身や命を空にできず、自分の身や命を惜しむなら、王に対しても空ではありません。自分と王に対して空にできないのに、どうして父母だけを欺き、仏教を軽んじて「四重罪や五逆罪はすべて空である」と言えるのでしょうか?知るべきです、この人は自分が「空」に執着する過ちを自ら見ることができず、近いものさえ見えないのに、遠いものが見えるはずがありましょうか?
既以惡空撥佛禁法,是破律儀戒;空見擾心,破定共戒;堅執己見,是破即空戒;污他善心,破即假戒;不信見心與虛空等,即是佛法畢竟清淨,破即中戒。當知邪僻空心,甚可怖畏!若墮此見,長淪永沒;尚不能得人天、涅槃,何況大般涅槃?故論云:「大聖說空法,本為治於有;若有著空者,諸佛所不化。」又經云:「若於諸法生疑心者,能破煩惱如須彌山;若定起見,則不可化。」《無行經》云:「貪欲即是道。」僻取此語,以證無礙,何不引《無行》:「貪著無礙法,是人去佛遠;若有得空者,終不破於戒(云云)。」是名「見心羅剎毀禁戒」也。大意如此(云云)。
すでに悪しき空の見解によって仏の禁じた法を否定すれば、これは戒律の儀軌を破る戒である。空という見解に心を乱されれば、定と共にある戒を破る。自分の見解に固執すれば、即空の戒を破る。他人の善心を汚せば、即仮の戒を破る。心が虚空と等しいという見解を信じないことは、すなわち仏法は畢竟清浄であるという真理であり、これを破れば即中の戒を破ることになる。まさに知るべきである。邪で偏った空の心は、非常に恐ろしいものである。もしこの見解に堕ちれば、長く沈み、永遠に没してしまう。人天の果報や涅槃にさえも得ることができず、ましてや大般涅槃に至ることなどできようか。ゆえに『論』にはこうある。「大聖が空の法を説かれたのは、もともと「有」に対する執着を治すためである。もし空に執着する者があれば、諸仏であっても教化することはできない」と。また経典にはこうある。「もし諸々の法に対して疑いの心を起こす者は、須弥山のように煩悩を破ることができる。しかし、もし決定的な見解を起こせば、教化することはできない」と。『無行経』には「貪欲すなわちこれ道なり」とある。この言葉を曲解して、無礙の証拠とするならば、なぜ『無行経』の次の句を引用しないのか。「貪って無礙の法に執着する者は、この人、仏より遠ざかる。もし空を得る者があれば、ついに戒を破ることはない(云々)」と。これを「見心羅刹が禁戒を毀つ」というのである。大意はおおよそこのようなものである(云々)。
復次,前一向論持,次一向論犯,今明十戒持犯不定。若通論動出,悉名為「乘」,故有人、天等五乘。通論防止,悉名為「戒」,故有律儀、定共、道共等戒。若就別義,事戒三品名之為「戒」,戒即有漏,不動不出;理戒三品名之為「乘」,乘是無漏,能動能出。約此乘、戒,四句分別:一、乘戒俱急,二、乘急戒緩,三、戒急乘緩,四、乘戒俱緩。
前の段ではただひたすら戒律を守ることについて論じ、次の段ではひたすら戒律を破ることについて論じてきました。今ここで、十戒における「守る」と「破る」は定まったものではない、ということを明らかにします。
広く、迷いの世界を出て悟りへと進むはたらきについて論じれば、すべてを「乗(のりもの)」と呼びます。そのため、人乗・天乗などの五乗があるのです。 また広く、悪を防ぎ止めるはたらきについて論じれば、すべてを「戒」と呼びます。そのため、律儀戒・定共戒・道共戒などの戒があるのです。
もし細かい意味に分けて言えば、事相の戒である三品(上・中・下)を「戒」と呼びます。この戒は煩悩の影響を受けるものであり、動くこともなければ、迷いの世界を出ることもありません。 一方、真理の戒である三品を「乗」と呼びます。この乗は煩悩を離れたものであり、よく動き、よく迷いの世界を出ることができるのです。
この「乗」と「戒」について、四つの組み合わせで分別します。 第一に、乗も戒もともにしっかりと行う者。 第二に、乗はしっかりと行うが、戒はおろそかにする
一、乘戒俱急者,如前持相,十種清淨,事理無瑕,觀念相續,今生即應得道。若未得道,此業最強,強者先牽,必升善處。若律儀戒急,則為欲界人天所牽;若無雜戒急,隨禪梵世。三品理乘何乘最急?若三品即中乘急,以人天身值彌勒佛,聞華嚴教,利根得道。若上品出假乘急,以人天身值彌勒佛,於華嚴座,作鈍根得道。若上中二品入空乘急,以人天身值彌勒佛,聞方等般若等教,得三乘等道。若下品入空乘急,以人天身值彌勒佛,聞三藏經得道。得人天身,是持事戒力;見佛得道,修乘觀力。事理俱持,諸行中最,故不可緩也。
一、戒律と修行の両方を大切にする人について述べます。先に示したように、十種類の清らかな状態を保ち、事相と理の両方に欠けるところがなく、正しい観想を絶やさずに続ければ、現世においてすでに悟りを得るはずです。もし悟りを得られなくても、この行いの力が最も強く、強いものが先に導くため、必ず良い境遇に生まれ変わります。
もし戒律(律儀戒)を厳守するならば、欲界の人間や天人の世界に導かれます。もし雑念のない戒律を厳守するならば、禅定の境涯に応じて色界の天内に生まれます。
では、三つの位の理の乗(教えの実践)のうち、どの乗が最も重要でしょうか。 もし三品のうち中乗の実践を急ぐならば、人間や天人として弥勒仏の世に遇い、華厳経の教えを聞いて、鋭い根機の者として悟りを得ます。 もし上品の仮(現象世界)へ出る乗を急ぐならば、人間や天人として弥勒仏の世に遇い、華厳経の説法の場で、鈍い根機の者として悟りを得ます。 もし上品と中品の二品の空(真理の世界)へ入る乗を急ぐならば、人間や天人として弥勒仏の世に遇い、方等経や般若経などの教えを聞いて、三乗などの悟りを得ます。 もし下品の空へ入る乗を急ぐならば、人間や天人として弥勒仏の世に遇い、三蔵経典を聞いて悟りを得ます。
人間や天人の身を得られるのは、戒律を実際に守る力によるものです。仏に遇い悟りを得られるのは、乗(教え)を観想し実践する力によるものです。事相と理の両方を大切にすることは、あらゆる修行の中で最も優れているため、決
二、戒緩乘急者,是人德薄垢重,煩惱所使,是諸事戒皆為羅剎毀食;專守理戒,觀行相續。如上覺意,六蔽中用心,央掘示為其相;以事戒緩,命終故墮三惡道,受於罪報。於諸乘中,何乘最強?強者先牽。若析空乘強,以三途身值彌勒佛,聞三藏經,乃可得道。若即空乘急,以三途身值彌勒佛,聞般若、方等得道。若即假乘急,以三途身值彌勒佛,聞華嚴及聞餘教作鈍根得道。若即中乘急,以三途身值彌勒佛,聞華嚴經,作利根得道。是故佛說漸頓諸經,龍、鬼、畜、獸悉來會坐,即是其事。破事戒故,受三惡身;持理觀故,見佛得道。《大經》云:「於戒緩者不名為緩;於乘緩者乃名為緩。」正是此一句也。
戒律を軽んじても大乗の教えを熱心に修行する場合、その人は徳が薄く煩悩に強く支配されているため、様々な具体的な戒律は悪魔に壊されてしまいます。しかし、真理に基づく戒律を守り、観想と修行を絶え間なく続けます。先に述べたような正しい心構えのもと、六つの煩悩の中でも修行に励む姿勢は、央掘摩羅の例に見られます。具体的な戒律を軽んじたことで、死後には地獄・餓鬼・畜生の三つの悪道に堕ち、苦しみの報いを受けます。
では、様々な教えの中で、どの教えが最も強い力を持つのでしょうか?最も強いものが、その人を次の生へと導きます。もし「諸法は空である」と分析する教え(析空観)が強ければ、三悪道の身でありながら弥勒仏に出会い、三蔵経(声聞乗の教え)を聞いて悟りを得るでしょう。
もし「諸法は即ち空である」と観ずる教え(即空観)が強ければ、三悪道の身でありながら弥勒仏に出会い、般若経や方等経(菩薩乗の教え)を聞いて悟りを得るでしょう。
もし「諸法は仮の存在である」と観ずる教え(即仮観)が強ければ、三悪道の身でありながら弥勒仏に出会い、華厳経やその他の教えを聞き、機根の鈍い者として悟りを得るでしょう。
もし「諸法は中道そのものである」と観ずる教え(即中観)が強ければ、三悪道の身でありながら弥勒仏に出会い、華厳経を聞き、機根の鋭い者として悟りを得るでしょう。
だからこそ、仏は悟りに至る道が緩やかな教えもあれば、直接的な教えもあると説かれ、竜神・餓鬼・畜生・獣に至るまで全てが説法の場に集まったのです。これはまさにこの道理を表しています。
具体的な戒律を破ったために三悪道の身を受けながらも、真理の観想を保ち続けたために仏に出会い悟りを得るのです。
『大般涅槃経』にはこうあります。「戒
三戒急乘緩者,事戒嚴急,纖毫不犯;三種觀心,了不開解。以戒急故,人天受生;或隨禪梵世耽湎定樂,世雖有佛說法度人,而於其等全無利益;設得值遇,不能開解。振丹一國,不覺不知;舍衛三億,不聞不見。著樂諸天及生難處,不來聽受,是此意也。譬如繫人,或以財物求諸大力,申延日月,冀逢恩赦。在人天中亦復如是,冀善知識化導修乘,即能得脫。若於人天不修乘者,果報若盡還墮三途,百千佛出終不得道。
三つの戒律のうち「修行よりも戒律を急ぐ者」とは、行動の戒律を厳格に守り、少しの違反も許さないが、三種の観心についてはまったく理解しない状態を指します。戒律を厳守するがゆえに、人間や天人の世界に生まれ変わり、あるいは禅定や梵天の世界に執着して、その安楽に耽ってしまいます。このような者たちにとっては、たとえ世に仏が現れて人々を教え導いても、まったく利益がありません。たとえお会いできたとしても、理解することができません。中国の国中が知らず、舎衛国の三億の人々も聞かずに見ないのは、このような意味です。楽に執着する天人たちや、難しい境遇に生まれた者は、説法を聞きに来ません。これがその心です。 ちょうど囚人が、財物を使って有力者に助けを求め、刑の執行を先延ばしにし、いつか恩赦にあうことを願うようなものです。人間や天人の世界にいることもまた同じで、善き友(善知識)に導かれて乗(修行の道)を修めることを願えば、すぐに解脱できるのです。しかし、人間や天人の世界にあっても乗を修めなければ、その果報が尽きたとき、再び三悪道に落ち、百千の仏が現れても、結局は悟りを得ることができません。
四、事理俱緩者,如前十種皆犯,永墜泥犁,失人天果報;神明昏塞無得道期,迴轉沈淪不可度脫。
4. 行いと理屈の両方をおろそかにする者とは、先に挙げた十種類の過ちをすべて犯す人のことです。そのような人は永遠に地獄に落ち、人間や天界に生まれ変わる善い報いを失います。心の働きは鈍く塞がり、悟りを得る望みはなく、迷いの世界を繰り返し漂い続け、決して救い出されることはありません。
行者當自觀心,事理兩戒,何戒緩急?於事三品,何品最強?於理三品,何品小弱?自知深淺,亦識將來果報善惡。既自知已、亦知他人。將此觀心,亦識諸經列眾之意,亦識如來逗緣大小。故《華嚴》中,鬼神皆言「住不思議解脫法門」者,此是權來引實,令昔修不思議乘急者得道。《涅槃》列眾,亦復如是。若細尋此意,廣歷四教乘戒緩急,以辯其因;後歷五味以明其果,皆使分明。凡如是等,因果差降,升沈非一。云何難言:「理戒得道,何用事戒耶?」幸於人天受道,何意苦入三途?
<行者は自らの心を観察し、事理の二つの戒律において、どの戒律が緩く、どれが厳しいかを考えるべきである。事上の三つの品では、どの品が最も強いか? 理上の三つの品では、どの品がやや弱いか? 自分の深浅を知り、将来の果報の善悪をも見極める。自らを知ったならば、他者をも知る。この心の観察をもって、諸経に列挙された衆生の意味をも理解し、如来が縁に合わせて大小を説かれたことも理解できる。故に『華厳経』において、鬼神たちが皆「不可思議解脱法門に住す」と言うのは、これは方便によって真実を導き、昔に不思議乗を受けて戒律を急とした者が道を得るためである。『涅槃経』に列挙された衆生も、また同じである。もしこの意味を細かく尋ねれば、広く四教にわたって乗戒の緩急を綱領とし、その因を弁別し、後に五味を経てその果を明らかにする。全てを明瞭にせよ。およそこのように、因果の差別や上下があり、上昇と沈降は一つではない。どうして「理戒で道を得られるのに、なぜ事戒が用いられるのか」と難じることがあろうか? 幸いにして人天において道を受けられるのに、どうして苦しみながら三途に入ろうとするのか?』
四、明懺淨者,事理二犯俱障止觀,定慧不發。云何懺悔,令罪消滅,不障止觀耶?
第四に、懺悔による清めについて説明します。 事相と理観の両方における違反は、ともに止観の修行を妨げ、定と慧を発現させません。では、どのように懺悔すれば、罪を消滅させ、止観の妨げとならないようにできるのでしょうか。
若犯事中輕過,律文皆有懺法。懺法若成,悉名清淨;戒淨障轉,止觀易明。若犯重者,佛法死人,小乘無懺法。若依大乘,許其懺悔。如上四種三昧中說,下當更明。
もし修行中に軽い過ちを犯した場合、経典にはすべて懺悔の方法が定められています。懺悔の作法が成就すれば、すべて清らかとなります。戒律が清らかになり障りが転じれば、止観は明らかになりやすいのです。もし重い罪を犯したならば、仏法においては死人のごときものとなり、小乗には懺悔の方法がありません。しかし大乗に依れば、その懺悔を許しています。これは先に述べた四種三昧の中に説かれており、後ほどさらに明らかにすることでしょう。
次理觀小僻不當諦者,此人執心若薄,不苟封滯,但用正觀心,破其見著,慚愧有羞,低頭自責,策心正轍,罪障可消,能發止觀也。見若重者,還於觀心中修懺,下當說也。
もし理の観慧がやや偏って、真実の道理に適わない人がいるならば、その人の執着心が薄く、固執してとどまることがなければ、ただ正しい観慧の心を用いて、その見解への執着を破ればよいのです。そして、慚愧の心をもって恥じ入り、うつむいて自らを責め、心を正しい道に向かわせれば、罪の障りは消え、止観を発することができるのです。もし見解への執着が重いならば、観慧の心の中で懺悔を修めればよいのです。これについては、後に述べるでしょう。
若犯事中重罪,依四種三昧則有懺法。《普賢觀》云:「端坐念實相,是名第一懺。」《妙勝定》云:「四重、五逆,若除禪定,餘無能救。」《方等》云:「三歸、五戒,乃至二百五十戒,如是懺悔,若不還生,無有是處。」《請觀音》云:「破梵行人作十惡業,蕩除糞穢,還得清淨。」故知大乘許悔斯罪。罪從重緣生,還從重心懺悔,可得相治。無殷重心,徒懺無益。障若不滅,止觀不明。若人現起重罪,苦到懺悔,則易除滅。何以故?如迷路近故;過去重障,必難迴轉,迷深遠故。
もし戒律上の重罪を犯した場合、四種三昧に基づく懺悔の方法があります。『普賢観経』には「心を落ち着けて実相を観じる。これを第一の懺悔とする」と説かれています。『妙勝定経』には「四重罪や五逆罪は、禅定によって除かれなければ、他に救う方法はない」とあります。『方等経』には「三帰依や五戒、さらに二百五十戒に至るまで、このように懺悔しても、戒が回復しないということはあり得ない」と説かれています。『請観音経』には「梵行を破り十悪業を犯した者でも、その汚れを洗い清めれば、再び清らかになることができる」とあります。
これにより、大乗仏教ではこれらの罪の懺悔を認めていることが分かります。罪は重大な因縁から生じるものであり、それと同じく真剣な心で懺悔すれば、罪を消し去ることができます。しかし、真剣な思いがなければ、ただ懺悔の形式をとっても効果はありません。障りが消えなければ、止観(瞑想と智慧)も明らかになりません。
もし現在新たに重罪を犯したのであれば、苦しみ抜いて懺悔すれば、比較的容易に罪を滅することができます。なぜなら、迷いの道がまだ近いからです。しかし過去の重い障りは、迷いの深さゆえに、元に戻すのが極めて難しいのです。
若欲懺悔二世重障,行四種三昧者,當識順流十心,明知過失;當運逆流十心,以為對治。此二十心通為諸懺之本。
二世(過去・現在)における重い障りを懺悔し、四種の三昧を修めようと願うならば、まず「順流十心」を正しく理解し、自らの過ちを明らかにしなければなりません。そして「逆流十心」を心に起こして、それに対処していくのです。この二十の心は、あらゆる懺悔の根本となる大切な教えです。
順流十心者:一、自從無始闇識昏迷,煩惱所醉,妄計人我。計人我故,起於身見;身見故,妄想顛倒;顛倒故,起貪瞋癡;癡故,廣造諸業;業則流轉生死。二者內具煩惱、外值惡友,扇動邪法,勸惑我心,倍加隆盛。三者內外惡緣既具,能內滅善心,外滅善事。又於他善都無隨喜。四者縱恣三業,無惡不為。五者事雖不廣,惡心遍布。六者惡心相續,晝夜不斷。七者覆諱過失,不欲人知。八者魯扈底突,不畏惡道。九者無慚無愧。十者撥無因果,作一闡提。是為十種順生死流,昏倒造惡。廁蟲樂廁不覺不知,積集重累不可稱計,四重五逆極至闡提,生死浩然而無際畔。
順逆の流れに関する十の心とは、次の通りである。
第一に、無始の昔より、暗き認識に惑い、煩悩に酔いしれ、誤って我と我が物とを計り見ること。我と我が物とを計るがゆえに、身見が生じる。身見ゆえに妄想が顕倒し、顕倒ゆえに貪り・怒り・無明が生じる。無明ゆえに広く諸々の業を造り、業によって生死に流転する。
第二に、内に煩悩を具え、外に悪しき友に値い、邪法を扇動され、我が心を惑わし、さらに倍して盛んにすること。
第三に、内外の悪縁が既に具わると、内には善心を滅し、外には善事を滅する。また、他者の善に対して全く随喜することもない。
第四に、身・口・意の三業をほしいままにし、悪を行わざるはないこと。
第五に、事は広くなくとも、悪心は遍く行き渡ること。
第六に、悪心が相続し、昼夜絶えることがないこと。
第七に、過ちを覆い隠し、人に知られたくないと思うこと。
第八に、粗暴で無鉄砲であり、悪道を畏れないこと。
第九に、慚愧の心がないこと。
第十に、因果を否定し、一闡提となること。
これらが十種の順生死流であり、昏倒して悪を造るものである。便所の虫が便所を楽しんで、それと知らず覚えず、積み集まる重き累積は量り知れず、四重罪・五逆罪の極みは一闡提に至る。生死は広大にして際限がない。
今欲懺悔,應當逆此罪流,用十種心翻除惡法。先正信因果決定孱然。業種雖久,久不敗亡;終無自作他人受果。精識善惡,不生疑惑,是為深信,翻破一闡提心。
今、懺悔しようと願うなら、この罪の流れに逆らうべきである。十種の心を用いて、悪い法を除き去るのだ。 まず第一に、因果の道理を正しく信じる心。決然として揺るがないこと。 業の種は、たとえ長い時を経ても、決して朽ちることがない。 自らが行ったことを、他人がその果報を受けることは、決してない。 善悪をはっきりと見極め、疑いを起こさないこと。 これこそが「深く信じる心」であり、この心によって「一闡提の心」を打ち破るのである。
二者自愧剋責,鄙極罪人無羞無恥習畜生法,棄捨白淨第一莊嚴。咄哉無鉤,造斯重罪!天見我屏罪,是故慚天;人知我顯罪,是故愧人。以此翻破無慚無愧心。
第一に、自ら恥じ、深く責める。思え。「私は極まりなき罪人であり、恥を知らず、羞じる心もなく、畜生のような行いを慣れ親しんできた。清らかで最も尊い徳を捨て去ってしまった。なんと哀れなことだ。制御する手綱もなく、このような重い罪を犯してしまった。天は私の隠れた罪を見ているから、天に対して恥じる。人は私の明らかな罪を知っているから、人に対して愧じる。」こうして、恥じる心も愧じる心もない心を打ち破るのである。
三者怖畏惡道。人命無常,一息不追,千載長往;幽途綿邈,無有資糧;苦海悠深,船筏安寄?賢聖呵棄,無所恃怙;年事稍去,風刀不奢,豈可晏然坐待酸痛?譬如野干失耳、尾、牙,詐眠望脫;忽聞斷頭,心大驚怖。遭生老病,尚不為急;死事弗奢,那得不怖?怖心起時如履湯火,五塵六欲不暇貪染。如阿輸柯王,聞旃陀羅,朝朝振鈴,一日已盡,六日當死;雖有五欲,無一念愛。行者怖畏,苦到懺悔,不惜身命,如彼野干決絕;無所思念,如彼怖王。以此翻破不畏惡道心。
三者は、恐ろしい悪道を怖れるべきである。人の命は無常で、ひと息の間も確かではなく、一旦途絶えれば長い年月が過ぎ去る。幽かなる冥途は遠く果てしなく、旅の糧となる善行もない。苦しみの海は深く広く、渡るための船や筏はどこに頼ればよいのか。聖者や賢人たちも見捨て、頼るべきものは何もない。歳は次第に過ぎ去り、病の刃は容赦なく迫る。どうして安穏に座して、その痛みを待つことができようか。
それは、まるで野干(ジャッカル)が、自らの耳・尾・牙を失い、死を逃れようと眠ったふりをしているようなものだ。ところが、首を切られるという言葉を聞けば、心に大いなる恐れを抱く。生・老・病の苦しみは、まだ急を要するものではない。しかし死という事は、決して甘くなどない。どうして恐れずにいられようか。その恐れの心が起これば、まるで熱湯や火の上を歩くかのように、五つの欲望の対象や六つの感覚の楽しみに、少しの執着も抱く暇はない。
例えば、アショーカ王が、チャンダーラ(屠殺人)の鈴が毎朝鳴らされるのを聞き、「今日で一日が終わり、六日後には死ぬ」と知った時、どんなに五欲があろうとも、一瞬の愛着も抱かなかったように。修行者は、畏怖の心を起こし、苦しみながら懺悔し、身命を惜しまないこと。それは、あの野干が死を決意し、何事にも思いを寄せなかった
四者當發露,莫覆瑕疵。賊毒惡草,急須除之;根露條枯,源乾流竭。若覆藏罪,是不良人。迦葉頭陀令大眾中發露;方等令向一人發露;其餘行法但以實心向佛像改革。如陰隱有癰,覆諱不治則死。以此翻破覆藏罪心也。
第一に、過ちは隠さず告白すべきである。それはあたかも毒草や悪草が生えた時、すぐにそれを取り除かなければならないのと同じである。根が現れれば枝は枯れ、源が乾けば流れは尽きる。もし罪を隠し覆い隠すなら、それは良き人とは言えない。迦葉の頭陀行では大衆の中で告白することを求め、方等の教えでは一人の僧に向かって告白することを求める。その他の修行の法では、ただ真心をもって仏像に向かい、心を改める。それはあたかも陰部にできた腫れ物を隠し、治療せずに放置すれば死に至るようなものである。このようにして、罪を隠し覆う心を打ち崩すのである。
五、斷相續心者,若決果斷奠,畢故不造新,乃是懺悔。懺已更作者,如王法初犯得原,更作則重。初入道場,罪則易滅;更作難除。已能吐之,云何更噉?以此翻破常念惡事心。
第五に、悪の連鎖を断ち切る心について。もし、心に決めて断ち切るならば、過去の行為は終わらせ、新たな悪を造らないことこそが、真の懺悔である。懺悔した後に再び同じ過ちを犯すことは、例えば国の法律で、初犯は許されることがあっても、再犯は重い罰を受けるようなものである。最初に道場に入る時は、罪は滅しやすいが、再び犯した罪は除きがたい。すでに吐き出したものを、どうして再び口にするというのか。このように考えて、常に悪事を思い続ける心を打ち破るのである。
六、發菩提心者,昔自安危人,遍惱一切境;今廣起兼濟,遍虛空界利益於他。用此翻破遍一切處起惡心也。
六、菩提心を発する者は、かつては自らの安楽や安全のために他人を顧みず、あらゆる境遇に対して悩み苦しみをもたらしていた。しかし今は、広く全てを救おうとする心を起こし、虚空の果てにまで及ぶ広大な利益を他者に与える。このようにして、あらゆる場所で生じていた悪しき心を打ち破るのである。
七、修功補過者,昔三業作罪不計晝夜;今善身口意策勵不休。非移山岳,安填江海?以此翻破縱恣三業心。
七、功徳を積み過ちを改めるとは、昔、身・口・意の三業によって罪を作ったのは、昼夜を問わず続いていた。今は、この身・口・意を善く保ち、休むことなく励み続ける。山を動かさずして、どうして海を埋め尽くせようか。こうして、三業を勝手気ままに任せる心を打ち破るのである。
八、守護正法者,昔自滅善亦滅他善;不自隨喜亦不喜他。今守護諸善,方便增廣,不令斷絕,譬如全城之勳。《勝鬘》云:「守護正法,攝受正法最為第一。」此翻破無隨喜心。
正法を守る者は、かつては自らの善も滅ぼし、他者の善も滅ぼしていた。自ら随喜せず、他者にも随喜しなかった。しかし今は、あらゆる善を守り、巧みな手段でそれを増大・広げ、決して絶えさせない。それは、城全体を守る手柄のようなものである。『勝鬘経』には次のように説かれている。「正法を守り、正法を受け止めることが、最も第一である。」これは、無随喜の心を打ち破る教えである。
九、念十方佛者,昔親狎惡友,信受其言。今念十方佛、念無礙慈,作不請友;念無礙智,作大導師,翻破順惡友心。
```plaintext 九、十方の仏を念ずるとは、かつて悪しき友と親しく交わり、その言葉を信じ受け入れていた。今、十方の仏を念じ、障害のない慈しみを念じて、請われずとも友となる。また、障害のない智慧を念じて、偉大な導師として、かつて悪友に従っていた心を打ち破るのである。 ```
十、觀罪性空者,了達貪欲瞋癡之心,皆是寂靜門。何以故?貪瞋若起,在何處住?知此貪瞋住於妄念;妄念住於顛倒;顛倒住於身見;身見住於我見;我見則無住處。十方諦求,我不可得,我心自空,罪福無主。深達罪福相,遍照於十方。今此空慧與心相應,譬如日出時朝露一時失;一切諸心皆是寂靜門,示寂靜故。此翻破無明昏闇。
十、罪の本性が空であると観じるとは、貪欲・瞋り・愚痴の心がすべて寂静の門であると、はっきりと理解することである。なぜなら、貪りや怒りが生じたとして、それはどこに留まるのか。知るべきである。この貪りや怒りは妄想に留まり、妄想は顛倒(誤った見解)に留まり、顚倒は身見(身体への執着)に留まり、身見は我見(自己への執着)に留まる。しかし、我見には実に留まる場所がない。十方(あらゆる方向)において「私」を真実に求めても得ることはできず、私の心はもともと空であり、罪も福も主体がないのである。罪と福の本質を深く悟り、その理は十方に遍く照らされる。この空の智慧が心と相応するとき、まるで太陽が昇れば朝の露がたちまち消え去るかのようである。あらゆる心は皆、寂静の門であり、寂静を示すのである。これが無明(無知の闇)を破ることとなる。
是為十種懺悔,順涅槃道逆生死流,能滅四重、五逆之過。
これが十種の懺悔であり、涅槃の道に従い生死の流れに逆らうものです。この懺悔によって、四重禁戒や五逆の罪業も滅することができるのです。
若不解此十心,全不識是非,云何懺悔?設入道場,徒為苦行,終無大益。《涅槃》云:「若言勤修苦行是大涅槃近因緣者,無有是處。」即此意也。是名懺悔事中重罪也。
もしこの十の心を理解していなければ、善悪の区別もまったくつかず、どうして懺悔ができましょう。たとえ道場に入っても、ただの苦行に終わり、結局は大きな利益はありません。『涅槃経』にはこうあります。「もし『苦行に励むことが大涅槃に至る近い因縁である』と言うなら、それは正しくない」。まさにこの意味です。これが、懺悔における重い罪の事相を説いたものです。
次、懺見罪者,以見惑故,順生死流,如前所說。向運十心附事為懺,懺鈍使罪;今扶理懺見,懺利使罪。然見心猛盛,起重煩惱,應傍用事助。如服下藥,須加巴豆,令黈瀉盡底。是故還約十法以明懺見。
次に、見惑(けんわく)による罪を懺悔する方法について説きます。見惑とは、物事の見方の誤りによって生じるもので、先に述べたように、生死の流れに従い続ける原因です。
これまでは、十の心を事相(実際の行動)に沿って起こし、煩悩を重くする「鈍使」の罪を懺悔してきました。今度は、理(道理)に基づいて見惑を懺悔し、「利使」の罪を清めます。
しかし、見惑は心を激しく動かし、強い煩悩を引き起こす性質があります。そのため、必要に応じて事相による助けも併用すべきです。例えるなら、強い下剤を飲む際に巴豆(ハズ)を加え、体内の毒素
一、翻破不信者,即點身見心,令識無明苦集。如欝頭藍弗得非想定,世人崇之如佛;不識苦集,報盡還墮。須跋陀羅得非想定,雖無麁想,有細煩惱。長爪利智,而受不受。高著外道,尚未出見,非是涅槃;況麁、淺者,尚不逮藍弗,而言是真道,豈非大僻?是人愛著觀空智慧,是事不知,名為「無明」;而起違從,依見造「行」;見行依色,即是「名色」;名色即是苦等。迷苦起於「愛」、「有」;「有」生未來「生死」,流轉相續,豈是寂滅?若謂生死盡者,乃是漫語。呼無明見心為道,非道為道,非因計因,名為「戒取」,豈非因盜?呼未來三途苦報為涅槃,此是「見取」;非果計果,是為果盜。身、邊、邪見,其事可知。如此見心,乃是苦集,非滅道也。尚非三藏道滅,豈是摩訶衍道滅?
一、因果を信じない者を翻すとは、すなわち「身見」(自我への執着)の心を指し示し、無明が苦しみの原因であると気づかせることである。例えば鬱頭藍弗(ウッドラカラーマプトラ)は非想定(無所有処定)を得て、世の人々は彼を仏のように崇めたが、苦しみの原因(苦集)を悟らなかったために、報いが尽きると再び迷いの世界に堕ちた。また須跋陀羅(スバッドラ)も非想定を得ていたが、粗い想念はなくとも微細な煩悩が残っていた。長爪梵志(長爪外道)は鋭い智慧を持ちながら「受けることも受けないこともない」と主張した。これらの高慢な外道たちは、まだ「見惑」を超えておらず、涅槃には達していない。ましてや粗雑で浅はかな者たちは、鬱頭藍弗にも及ばないのに「これこそ真の道だ」と言うのは、大きな誤りではないか。 このような人は「空の智慧」を観ずることに執着している。この事実を知らないことを「無明」と呼び、それによって従い、あるいは反発する心が生じ、見解に基づいて「行」(形成的力)が作られる。この見解と行為が「色」(物質的存在)に依拠すること、これを「名色」と呼ぶ。名色はすなわち苦しみそのものである。迷いは苦しみから「愛」(渇愛)と「有」(存在)を生み出し、「有」は未来の「生死」(輪廻)を生む。こうして流転し続けるのであって、どうして寂静(涅槃)と言えようか。もし「生死が尽きた」と言うなら、それはまったくの虚言である。無明の見解を心として道とし、道でないものを道とし、原因でないものを原因と見なすことを「戒取」(誤った戒律や修行への執着)と呼ぶ。これは「原因を盗む」ことに当たらないか?未来の三悪道の苦しみを涅槃と呼ぶのは「見取」(誤った見解への執着)である。結果でないものを結果と見なすことは、まさに「結果を盗むこと」である。「身見・辺見・邪見」などの誤った見解については、その内容は自ずと明らかである。このような誤った見解は、まさに苦しみとその原因(苦集)であり、もはや滅びと道(滅道)ではない。これは小乗の三蔵経典が説く
若能如是,即知世間因果,復識出世因果。故《大品》云:「般若能示世間相。」所謂示「是道」、「非道」,是為深識見心苦集也。又深者,非但知無明苦集,亦識三藏因果,亦識因緣生法即空;四諦因果。又復深者,亦知因緣即假;無量四諦因果。又復深者,亦知因緣即中;無作四諦因果。於一見心具識一切因果。故《大經》云:「於一念心悉能稱量無量生死,是名不可思議。」故名深信,破不信也。
このように悟ることができれば、世間の因果を知り、さらに出世間の因果をも理解する。ゆえに『大品経』には、「般若は世間の相を示すことができる」と説かれている。それが示すところの「是なる道」「非なる道」、これを深く識るのが、心における苦と集(苦集)を見抜くことである。
さらに「深い」とは、単に無明による苦集を知るだけでなく、三蔵(声聞・縁覚・菩薩の三乗)の因果をも識り、また因縁によって生じる法がすなわち空であるという、四諦の因果をも識ることをもいう。
さらに深く進めば、因縁がすなわち仮(仮有)であることを知り、無量の四諦の因果をも識る。
さらにまた深く進めば、因縁がすなわち中(中道)であることを知り、無作の四諦の因果をも識る。
一つの見る心において、あらゆる因果をことごとく識るのである。ゆえに『大涅槃経』には、「一念の心において、無量の生死をことごとく秤量することができる。これを不可思議という」と説かれている。これをもって深く信ずるといい、不信を打ち破るのである。
二、生重慚愧者,不見我心中三諦之理,名「慚愧」。且約理觀論人天者:慚乾慧、性地之人;愧四果淨天,三十心人、十地義天,五品、六根清淨之人,四十二位天。例如作意得報名為「人」;自然果報名為「天」。二種天人亦復如是,方便道名為「人」;真理顯名為「天」。見心造罪,覆三諦理,不逮三種人天,是故慚愧,翻破無慚愧心也。
二、深い慚愧の心を起こすというのは、自身の心の中に三諦の真理が見えていない状態を「慚愧」と言います。 さらに、理観の立場から人や天について論じると次のようになります。 慚は、乾慧地や性地の人に対するものです。 愧は、四果の浄天、三十心の人、十地の義天、五品・六根清浄の人、四十二位の天に対するものです。 例えば、意志を働かせて得る報いを「人」と呼び、自然に得られる報いを「天」と呼びます。 この二種の天人も同様で、方便の道にあるものを「人」、真理が現れたものを「天」と呼びます。 心が罪を造り、三諦の真理を覆い隠し、これら三種の人天に達することができないことから、慚愧の心が生まれます。これによって、無慚愧の心を打ち破るのです。
三、怖畏者,知「見」心造罪,此過深重。《大論》云:「諸佛說空義,為離諸見故;若復見有空,諸佛所不化。」我今由見而起大罪。此間劫盡,他方獄生;此間劫成,還來此處。如是展轉無量無邊。若說果報所受之身,當吐熱血死!故知見罪大重,既非無漏,不出生死,煩惱潤業,墮落何疑?一命不追,永無出日。為是義故生大怖畏,翻破不畏惡道心也。
三、恐れについて。「見解」によって心が罪をつくることを知れば、この過ちの深さと重さがわかる。『大智度論』にはこうある。「諸仏が空の意味を説かれたのは、あらゆる見解から離れるためである。それなのに、もし空に執着する見解を抱くなら、諸仏でさえもその人を導くことはできない」。私は今、この見解によって大きな罪を犯している。この世界が壊滅する時には、他の世界の地獄に生まれ、この世界が再び形成される時には、またここに戻ってくる。このようにして、無限に繰り返す。もしその果報として受ける身について語るなら、熱い血を吐いて死ぬであろう!したがって、見解の罪は非常に大きいと知るべきである。それは無漏の境地ではなく、生死を超えることもできない。煩悩が業に潤いを与え、堕落するのは疑いようがない。一度命を落とせば、二度と戻ることはなく、永遠に出離の日はない。このような理由から、大きな恐れを生じさせ、それによって悪道を恐れない心を打ち破るのである。
四、發露者,從來諸見而生愛著,覆此三諦,不能決定生信。今知見過失,發却三疑無所隱諱,顯其諦性。是為發露,翻破覆藏罪心也。
第四に「発露(はつろ)」について。これまでさまざまな誤った見解にとらわれ、愛着を生じてきたために、三つの真理(三諦)が覆い隠され、確かな信心が生まれなかったのです。今、その誤った見解の過ちを知り、三つの疑いを打ち捨てて、何ひとつ隠し立てせずに、真理の本性を明らかにします。これが「発露」であり、「覆い隠す罪の心」を打ち破る行いです。
五、斷相續心者,三諦之觀勿令有間,以八正道治三惑心,斷而不習。此翻破相續惡心也。
五、心の連鎖を断ち切ることとは、「三諦」の観想を途切れさせずに行い、「八正道」によって三つの惑い(三惑)の心を治め、断ち切って再び慣れ親しまないことです。これは、連鎖する悪しき心を打ち破ることの対訳です。
六、發菩提心者,即是緣三諦理,皆如虛空;空則無邊,愍傷一切,普令度脫。昔迷此起惑有無邊故,罪亦無邊。今菩提心遍於法界,起無作善,亦遍法界,翻破昔遍空無作惡也。奏師子琴,餘絃斷絕,即此義也。
六、菩提心を起こすとは、三つの真理がすべて虚空の如くであることを縁とするものです。空であるならば限りがなく、一切のものを哀れみ、皆を悟りの彼岸へと導こうとします。昔、この真理に迷い、惑いを起こしたことには限りがなかったので、罪もまた限りがありません。今、菩提心は法界全体に広がり、無作の善を起こすことも法界全体に及び、昔の遍く空であり無作である悪を打ち破ります。獅子琴を奏でれば、他の弦が切れるというのは、まさにこの意味です。
七、修功補過者,三諦道品即是菩薩寶炬陀羅尼,是行道法趣涅槃門。如此道品,念念相續,即是修功補過。昔執於見,謂為涅槃,於見不動,不修道品;設令動有入無,如屈步蟲,雖於見動,亦不能修道品。今知有、無是見,不執為實,是名見動而不修道品。若破析諸見,行於道品,是名見動而修道品。又體見即空、即假、即中。既言「即」者,於見不動而修三種道品。是為修功補於縱見之過也。
(七) 功を積み過ちを補うとは、三諦の道品こそが菩薩の宝炬陀羅尼であり、それは道を行じ涅槃へと向かう法門である。この道品を、心の働きが途切れることなく続けていくこと、これを功を積み過ちを補うという。かつては「見解」に執着してそれを涅槃だと思い込み、見解に動かされることなく道品を修さなかった。仮に見解を動かして「有」から「無」に入ろうとしても、それはあたかも尺取虫が体を曲げるようなもので、見解に動かされてはいても、やはり道品を修することはできなかった。今では、「有」も「無」もただの見解であると知り、それを実在だと執着しない。これを「見解は動くが道品は修さない」という。もし諸々の見解を打ち砕き分析して道品を行ずるなら、これを「見解が動き、道品を修する」という。さらに、見解をそのまま空ととらえ、仮ととらえ、中ととらえる。すでに「そのまま」と言うからには、見解に動かされることなく、この三種の道品を修するのである。これこそが、功を積み、勝手な見解に陥る過ちを補うという所以である。
八、守護正法者,昔護見不令他破,方便申通;今護三諦諸空,不令見破。若有留滯,善巧申弘;亡身存法,猶如父母守護其子。此翻破毀善事也。
第八に、正しい教えを守る者について。昔は、見解を守って他人に破らせず、巧みに申し開きを通したものである。今は三諦や一切の空を守り、見解が破られることを許さない。もし滞りがあれば、巧みにそれを述べ広める。身を捨ててでも法を守ることは、ちょうど父母が子を守るようなものである。これは善いことを破壊する見解を打ち破る意味である。
九、念十方佛者,昔服見毒,常無厭足,如渴思飲;又遇惡師,如加以鹹水。以苦捨苦,我慢矜高,諂心不實,於千萬億劫不聞佛名字。今念三諦不來不去即是佛,無生法即是佛,常為諦理所護。此翻破狎惡友心。
九、十方の仏を念ずるとは、昔、毒を見ては、常に飽くことを知らず、渇きの水を思うが如くであった。さらに悪しき師に出会えば、それに塩水を加えるようなものである。苦をもって苦を捨て、我慢(がまん)と高ぶりの心を持ち、偽りの心で真実ではなく、千万億劫(せんまんおくこう)もの間、仏の名前を聞くことさえなかった。今、三諦(さんたい)が来たらず去らず、これがすなわち仏であると念じ、無生法(むしょうほう)がすなわち仏であると知り、常に真理の教えに守られる。これは、悪しき友に親しむ心を破るのである。
十、觀罪性空者,此三種惑本來寂靜,而我不了,妄謂是非。如熱病人,見諸龍鬼。今觀「見」如幻如化,來無所從,去無足跡,亦復不至東西南北。一切罪福亦復如是。一空一切空;空即罪性,罪性即空。此翻破顛倒心也。
十、罪の本性が空であると観じるとき、これらの三つの惑いは本来静寂であるのに、私はそれを理解せず、誤って是・非と見なしている。それは、熱病にかかった人が竜や鬼を見るようなものである。今、その「見ること」が幻や変化のように虚ろであり、来るところもなく、去る跡もなく、東西南北にも至らないと観じる。すべての罪や福もまた、これと同じである。一つの空がすべての空であり、空がすなわち罪の本性であり、罪の本性がすなわち空である。これが、顛倒した心を破るのである。
運此十懺時,深觀三諦;又加事法,以殷重心,不惜身命,名「第二健兒」。是名事理兩懺,障道罪滅,尸羅清淨,三昧現前,止觀開發。事戒淨故,根本三昧現前,世智、他心智開發。無生戒淨故,真諦三昧現前,一切智開發。即假戒淨故,俗諦三昧現前,道種智開發。即中戒淨故,王三昧現前,一切種智開發。得此三諦三昧,故名「王三昧」,一切三昧悉入其中。又能出生一切諸定,無不具足,故名為「止」;又能具足一切諸智,故名為「觀」。故知持戒清淨,懇惻懺悔,俱為止觀初緣,意在此也。
この十種の懺悔を行う時、三つの真理(三諦)を深く観じ、さらに事相の修行を加え、殷重な心をもって身命を惜しまず行うことを「第二の勇者(第二健児)」と名づける。これが事と理の二つの懺悔であり、障道の罪が滅し、戒(尸羅)が清らかとなり、三昧が現前し、止観が開顕される。
事相の戒が清らかであれば、根本三昧が現前し、世間の智慧や他心通が開かれる。 無生の戒が清らかであれば、真諦の三昧が現前し、一切智が開かれる。 即仮の戒が清らかであれば、俗諦の三昧が現前し、道種智が開かれる。 即中の戒が清らかであれば、王三昧が現前し、一切種智が開かれる。
この三諦の三昧を得ることを「王三昧」と名づける。あらゆる三昧はすべてこの中に含まれる。また、あらゆる定を生み出し、すべてを具足するから「止」と名づけ、さらにあらゆる智慧を具足するから「観」と名づける。
ゆえに知るべきである。戒を清らかに保ち、心を尽くして懺悔することは、いずれも止観の初めの縁となる。その意味はまさにここにある。
○第二、衣食具足者,衣以蔽形,遮障醜陋;食以支命,填彼飢瘡。身安道隆,道隆則本立。形命及道,賴此衣食。故云:「如來食已,得阿耨三菩提。」此雖小緣,能辦大事。裸餒不安,道法焉在?故須衣食具足也。
第二に、衣と食が十分に備わることについて。衣は身体を覆い、みにくさを隠すためのものであり、食は命を支え、飢えという傷を満たすためのものです。身体が安らかであれば道は盛んになり、道が盛んになれば根本が確立します。形体や命、そして道は、この衣と食に依存しています。それゆえに「如来は食事を終えて、無上正等覚を得た」と言われています。これは小さな縁ではありますが、大きなことを成し遂げる力を持っています。裸で飢えていては心が落ち着かず、道や法がどこにありましょうか。ですから、衣と食が十分に備わることが必要なのです。
衣者,遮醜陋、遮寒熱、遮蚊虻、飾身體。衣有三種:雪山大士,絕形深㵎,不涉人間。結草為席,被鹿皮衣,無受持、說淨等事。堪忍力成,不須溫厚;不遊人間,無煩支助。此上人也。十二頭陀,但畜三衣,不多不少。出聚入山,被服齊整,故立三衣。此中士也。多寒國土,聽百一助身。要當說淨,趣足供事,無得多求。多求辛苦,守護又苦;妨亂自行,復擾檀越。少有所得,即便知足,下士也。
三種類の衣について述べる。衣には、見苦しさを隠し、暑さ寒さを防ぎ、蚊や虻を遮り、身体を飾るという役割がある。
まず、雪山の大士(すぐれた修行者)は、深い谷間に身を隠し、俗世間に関わらない。草を敷いて座とし、鹿の皮を衣として身にまとい、受持や説浄などの作法は行わない。苦難に耐える力がすでに身についており、温かく厚い衣を必要としない。また、人の世に遊ぶことがないので、支援を煩わせることもない。これが上等の者である。
次に、十二頭陀行を実践する者は、三衣(三種類の衣)だけを携え、多くも少なくも持たない。村から山へと出没する際、服装を整えるために三衣を定めたのである。これが中等の者である。
寒さの厳しい国では、百一種までの身の回りの品が許されている。ただし、必ず説浄を行い、身の回りに必要なだけを備え、多くを求めてはならない。多くを求めれば苦労が多く、守るのもまた苦しい。自らの修行の妨げとなるばかりか、施主にも煩わしさをかけることになる。少し得られれば、それで足ることを知る。これが下等の者である。
觀行為衣者,《大經》云:「汝等比丘雖服袈裟,心猶未染大乘法服。」如《法華》云:「著如來衣。如來衣者,柔和忍辱心是。」此即寂滅忍。生死、涅槃,二邊麁獷,與中道理,不二不異,故名「柔和」;安心中道,故名為「忍」。離二喧故名「寂」;過二死故名「滅」。寂滅忍心覆二邊惡,名「遮醜衣」;除五住故,名「障熱」;破無明見,名為「遮寒」;無生死動,亦無空亂意,捨二覺觀,名「遮蚊虻」。此忍具一切法。如鏡有像,瓦礫不現;中具諸相,但空則無。故云:「深達罪福相,遍照於十方;微妙淨法身,具相三十二,用莊嚴法身。」寂忍一觀具足眾德,亦名為「衣」,亦名「嚴飾」;非九、七、五割截所成也。
観行を衣とするとは、『大経』にこう説かれている。「汝ら比丘よ、袈裟をまとっていても、その心がまだ大乗の法衣に染まっていないことがある」と。 また『法華経』にはこうある。「如来の衣を着よ。如来の衣とは、柔和で忍辱の心である」と。これがすなわち寂滅忍である。 生死と涅槃という二つの極端は粗く荒々しいが、中道の道理とは不二不異である。だから「柔和」というのである。心を中道に安んじるから「忍」というのである。二つの喧騒を離れるから「寂」といい、二つの死を超えるから「滅」という。 この寂滅忍の心は、二つの極端という悪を覆い隠すので「遮醜衣」という。五住の煩悩を除くので「障熱」という。無明の見解を破るので「遮寒」という。生死の動きもなく、また空の乱れ思う心もなく、二つの覚観(粗い分別と細かい分別)を捨てるので「遮蚊虻」という。 この忍には一切の法がそなわっている。鏡が映像を映すように、瓦礫は映らない。中道にはあらゆる相がそなわるが、ただの空には何もない。だからこう説かれている。「罪福の相を深く達し、十方に遍く照らす。微妙で清らかな法身は、三十二の相を具えて、法身を荘厳する」と。 寂滅忍という一つの観行には、あらゆる徳がそなわっている。これを「衣」ともいい、「荘厳」ともいう。これは九条・七条・五条の袈裟を切り裂いて作ったものではない。
三衣者,即三觀也。蔽三諦上醜;遮三諦上見愛寒熱;却三覺蚊虻,莊嚴三身。故以三觀為衣,即是伏忍、柔順忍、無生寂滅忍也。又起見名「寒」,起愛名「熱」。修止觀得見諦解如煖,見則不生;得思惟解如涼,愛則不生。五根無惡,即福德莊嚴;意地無惡,即智慧莊嚴。餘二觀上衣,例可解。
三衣とは、すなわち三観(三つの観法)のことです。この三衣は三諦(三つの真理)の上にある醜さを覆い隠し、三諦の上における見解や執着の「寒さ」と「熱さ」を防ぎ、三覚(三つの煩悩)という蚊やあぶを追い払い、三身(三つの仏身)を荘厳します。このため、三観を衣とするとは、すなわち伏忍(煩悩を抑える忍)、柔順忍(柔らかく従う忍)、無生寂滅忍(無生の理に安住する忍)のことを指します。
また、邪見が生じることを「寒さ」と呼び、執着が生じることを「熱さ」と呼びます。止観(瞑想と智慧)を修めて真理を見通す智慧を得れば、それは暖かさのようなものとなり、邪見は生じなくなります。さらに、思索を深める智慧を得れば、それは涼しさのようなものとなり、執着は生じなくなります。
五根(五つの感覚器官
百一長衣者,即是一切行行助道之法,助成三觀,共蔽諸惑,嚴於三身。此是歷諸法修忍為衣也。
百一長衣とは、あらゆる修行の道を支え助ける法のことです。これは三観を助けて成就させ、ともにさまざまな迷いを防ぎ、三身を荘厳します。すなわち、あらゆる現象を経験しながら忍耐を修することが、この衣となるのです。
食者,三處論食,可以資身養道。
食べ物には三つのポイントがあります。それは体を養い、道を修行するための糧となるものです。
一、深山絕跡,去遠人民,但資甘果美水,一菜一果而已。或餌松柏以續精氣,如雪山甘香藕等。食已,繫心思惟坐禪,更無餘事。如是食者上士也。
一、深い山に人跡を絶ち、遠く人里を離れ、ただ甘い果実と清らかな水だけを頼りに、一菜一果のみを食す。あるいは松や柏の実を食べて精気を養い、雪山の甘く香ばしい蓮根などのようにする。食事を終えたなら、心を一つのことに繫ぎ止めて座禅を組み、他のことは一切行わない。このように食する者は、上等の修行者である。
二、阿蘭若處,頭陀抖摟,絕放牧聲,是修道處。分衛自資。七佛皆明乞食法。《方等》、《般舟》、《法華》皆云乞食也。路徑若遠,分衛勞妨;若近,人物相喧。不遠不近,乞食便易,是中士也。
第二に、静かな修行の地(阿蘭若)について。ここでは、頭陀行(とくだぎょう)によって煩悩を振り落とし、家畜の声さえ聞こえない静けさの中に、修行の場がある。托鉢(たくはつ)によって自らの生活を支える。過去七仏は皆、托鉢の大切さを説いている。『方等経』『般舟三昧経』『法華経』の中でも、托鉢の行を勧めている。托鉢に行く道のりが遠すぎれば、疲れて修行の妨げとなる。逆に近すぎれば、人や物の騒がしさに心が乱される。遠すぎず近すぎず、托鉢に程よい距離──それが中程度の修行の地というものである。
三、既不能絕穀餌果,又不能頭陀乞食,外護檀越送食供養,亦可得受。又僧中如法結淨食,亦可得受,下士也。
三つ目。穀物や果実だけを食べて修行することもできず、托鉢して食べ物を乞うこともできない。そうした者が、在家の信者が布施として食事を届けてくれるなら、それを受け取ってもよい。また、僧侶の中で、清らかな食事を規則正しく共にするのであれば、それも受け取ってよい。これらは、下位の修行者である。
若就觀心明食者,《大經》云:「汝等比丘雖行乞食,而未曾得大乘法食。」「法食」者,如來法喜禪悅也。此之法喜,即是平等大慧,觀一切法無有障礙。《淨名》云:「於食等者,於法亦等;於法等者,於食亦等。」「煩惱為薪,智慧為火,以是因緣成涅槃食,令諸弟子悉皆甘嗜。」此食資法身,增智慧命;如食乳糜,更無所須,即真解脫。真解脫者,即是如來。用此法喜禪悅,歷一切法無不一味,一色一香無非中道,中道之法具一切法,即是飽義、無所須義。如彼深山上士,一草一果,資身即足。
心の観察に基づいて「食」を明らかにすれば、『大経』にこう説かれています。「汝ら比丘たちは、托鉢して食事をしても、大乗の法の食を得たことはない」と。「法の食」とは、如来の法喜と禅悦のことです。この法喜こそが、平等の大いなる智慧であり、一切の法を障碍なく観じるものです。『浄名経』にはこうあります。「食べ物に対して平等である者は、法に対しても平等である。法に対して平等である者は、食べ物に対しても平等である。」「煩悩を薪とし、智慧を火として、この因縁によって涅槃の食が成り、すべての弟子たちをして皆、甘く味わわせる。」この食は法身を養い、智慧の命を増します。乳がゆを食べるように、他に何も必要としません。これこそが真の解脱です。真の解脱とは、すなわち如来です。この法喜と禅悦をもって、あらゆる法を味わえば、すべてが一味となり、一つの色、一つの香りも、みな中道でないものはありません。中道の法は一切の法を具えている、これが「満たされる」という意味であり、「何も必要としない」という意味です。それはあたかも、深い山に住む修行者が、一本の草や一つの果実で身を養い、それで十分とするようなものです。
頭陀乞食者,行人不能即事而中修實相慧者,當次第三觀調心而入中道。次第觀故,名為「乞食」;亦見中道,又名飽義。即中士也。
托鉢行乞の修行者は、ただちに実相の智慧を修行することができないため、順序立てた三つの観法によって心を整え、中道に入ります。このように段階を踏んで観察することを「乞食」といいます。また、中道を悟ることを「満腹する」といいます。これが中程度の修行者です。
檀越送食者,若人不能即事通達,又不能歷法作觀,自無食義;應須隨善知識能說般若者,善為分別,隨聞得解而見中道。是人根鈍,從聞生解,名為「得食」。如人不能如上兩事,聽他送食。又僧中結淨食者,即是證得禪定支林功德,藉定得悟,名「僧中食」也。
浄財(檀那)から食べ物をいただくというのは、もし人がその場で即座に真理を悟ることができず、また様々な教えを観察して修行することもできず、それ自体に「食の意味」がない場合、智慧(般若)を説くことのできる善知識のもとへ行き、その人にわかりやすく解説してもらい、その話を聞いて理解し、中道を見出すべきです。このような人は根が鈍いため、聞くことによって理解を得るので、「食べ物を得る」と言われます。ちょうど、先に述べた二つのことができない人が、他人から食べ物を送ってもらうようなものです。また、僧団(僧伽)の中で清浄な食事を共にするというのは、つまり禅定の段階(支林)の功徳を証得し、その定の力によって悟りを得ることを指し、「僧の中で食事をする」と言うのです。
是故行者常當存念大乘法食,不念餘味也。
よって、修行者は常に大乗の法の味わいを心に留め、他の味わいを思ってはならない。
摩訶止觀卷第四(上)
摩訶止観 巻第四(上)