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大乗理趣六波羅蜜多経 (大乘理趣六波羅蜜多經)


大乘理趣六波羅蜜多經卷第四

大乗理趣六波羅蜜多経 巻第四

罽賓國三藏般若奉 詔譯

罽賓国の三蔵般若、詔を奉じて訳す

布施波羅蜜多品第五

第五品 布施波羅蜜多

爾時佛薄伽梵於大眾中作師子吼,廣說五種發菩提心已。時慈氏菩薩摩訶薩與無量無數百千俱胝諸大菩薩摩訶薩眾,文殊師利菩薩摩訶薩而為上首,皆已成就六種波羅蜜多。復有無量大阿羅漢,諸漏已盡所作已辦,捨離重擔梵行清淨。及無數俱胝百千萬億那庾多天、龍、阿蘇羅、乾闥婆、迦嚕羅、緊捺羅、摩怙洛迦、藥叉羅剎、鳩畔茶、薜荔多、毘舍遮、人非人等。時慈氏菩薩摩訶薩在大眾中即從座起,整理衣服偏袒右肩,長跪合掌一心恭敬而白佛言:「世尊已說大乘菩薩不退轉心,菩薩摩訶薩修習幾法得名菩薩摩訶薩?唯願世尊分別解說。」

その時、尊き仏は大衆の中で獅子吼(力強い説法)をして、広く五種の菩提心を発することについてお説きになりました。すると、慈氏菩薩摩訶薩(弥勒菩薩)が、数え切れないほどの多くの大菩薩の僧侶たち、中でも文殊師利菩薩摩訶薩を上首として率い、皆がすでに六波羅蜜多を成就しているお方々と共に集いました。さらに、数え切れない大阿羅漢たちもいました。彼らはすでに煩悯を尽くし、修行を成し遂げ、重い荷を下ろし、梵行(清らかな行い)を清めていました。また、数え切れないほどの天、龍、阿修羅、乾闥婆、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、薬叉、羅刹、鳩槃荼、薛荔多、毘舎遮、人非人等の衆生も参集していました。

その時、慈氏菩薩摩訶薩は大衆の中から立ち上がり、衣を整えて右肩を露わにし、ひざまずいて両手を合わせ、一心に恭敬の念を込めて仏に申し上げました。 「世尊はすでに大乗の菩薩における不退転の心についてお説きになりました。では、菩薩摩訶薩は何を修め習得すれば、菩薩摩訶薩と名乗ることができるのでしょうか。どうか世尊、詳しくお教えください。」

爾時薄伽梵告慈氏菩薩摩訶薩言:「若有善男子、善女人,以清淨心歸依佛法僧寶,發阿耨多羅三藐三菩提心,得不退轉即名菩薩,生我法中名摩訶薩。與殑伽沙等諸佛菩薩而為法子,為彼有情而為父母,以大福德光明照曜過百千日莊嚴其身。」

そのとき、世尊は慈氏菩薩(弥勒菩薩)に告げられました。「善男子・善女人が、清らかな心で仏・法・僧の三宝に帰依し、無上正等覚(悟り)を目指す心を起こすならば、退くことのない境地に達する。これを菩薩と名付け、我が教えの中に生まれた者を摩訶薩(大菩薩)と称する。かれらはガンジス川の砂の数ほどもいる諸仏・菩薩の教えの子となり、すべての生きとし生けるものの父母となる。その大いなる福徳の光は、百千の太陽よりも輝き、その身を荘厳するのだ。」

爾時慈氏菩薩摩訶薩白佛言:「世尊!此諸菩薩摩訶薩,云何遠離?云何親近?復以何人而為伴侶?先作何事?應云何住?云何修行?云何降伏其心?云何攝持?誰之勢力速疾證得阿耨多羅三藐三菩提?」

その時、慈氏菩薩摩訶薩が仏に申し上げた。 「世尊よ、これらの菩薩摩訶薩たちは、どのようにして遠ざかるべきでしょうか。どのようにして親しむべきでしょうか。 また、どのような人を伴侶とすべきでしょうか。 まず、何をなすべきでしょうか。どのようにして安住すべきでしょうか。 どのように修行すべきでしょうか。どのようにしてその心を調伏すべきでしょうか。 どのようにして心を保ち摂めるべきでしょうか。 誰の力によって、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を証得することができるのでしょうか。」

爾時佛薄伽梵告慈氏菩薩摩訶薩言:「若善男子、善女人,應當導引五趣眾生,置於無上正等菩提,遠離外道邪法及惡知識,應當親近修行布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧具足,行大乘者而為伴侶。應於自身,聽聞正法精勤誦持,應常安住如是六種波羅蜜多精進修行,降伏心意攝護六根,由此勢力疾證無上正等菩提,是名菩薩摩訶薩。云何名為六種波羅蜜多?所謂布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧,是為六種波羅蜜多。何故先說檀波羅蜜?」

その時、世尊であり覚者であられるお方は、慈氏菩薩摩訶薩に告げて言われた。 「もし善男子・善女人がいるならば、五つの迷いの世界にいる生きとし生けるものを導き、最高の悟りである無上正等菩提に置くべきである。外道の誤った教えや悪友から遠ざかり、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を備えた修行に親しみ、大乗を実践する者を仲間とすべきである。また自ら、正しい教えを聞いて熱心に唱え覚え、常にこの六つの波羅蜜多(完全な修行)に安住し、精進して修行し、心を調伏し六つの感覚器官を守りなさい。この力によって速やかに無上正等菩提を悟ることができる。これを菩薩摩訶薩という。」 「では、六つの波羅蜜多とは何か。すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、これを六つの波羅蜜多という。なぜ最初に檀波羅蜜多(布施の完成)を説くのか。」

佛告慈氏:「我今為汝廣分別說。其布施者,於六度中最易修習,是故先說。譬如世間諸所作事,若易作者先當作之,是故先說布施波羅蜜多。一切有情無有不能行布施者,若藥叉,若羅剎,師子虎狼,及諸獄卒屠兒魁膾,此等眾生於有情中極為暴惡,尚能離慳而行布施。云何布施?所謂養育男女慈念乳哺。然此眾生雖不能知福利之事,以憐愛故,令得色力壽命安樂、離飢渴苦,亦名布施。以是義故,於六波羅蜜多先說檀波羅蜜。又如一切貧窮有情,飢寒裸露身心不安,何能造作種種事業?若與衣食令得安樂,然後能修種種事業。菩薩摩訶薩亦復如是,見諸有情貧窮所逼,不能發起無上信心,修行大乘種種事業。先施一切衣服飲食、房舍臥具、病瘦醫藥,令心安樂,然後令發無上正等覺心,修行大乘種種事業。以是義故,六度彼岸布施為門,四攝之行而為其首。猶如大地一切萬物依之生長,以是義故,先說布施波羅蜜多。如上所說藥叉等類,不知福田及非福田,由愛念故施於乳哺,當作人身,富有資財所須無乏。以此習故,所生之處常離慳貪,給施一切,能除有情貧窮困苦。所以者何?諸菩薩摩訶薩,為欲利樂諸有情故,先行布施波羅蜜多。有來乞者皆施與之,不得顰蹙,亦不邪視忿恚懷恨而行布施,隨其所有而施與之,不得遲疑而生慳悋。於所愛物衣服臥具、飲食湯藥、國城妻子、奴婢僮僕、象馬七珍,不生慳悋隨乞與之,乃至一念不生追悔。若生疑惑,當知是魔。何以故?魔王波旬化為財寶令使慳悋,以此方便惑亂我心,於大菩提而為障礙。以是義故,不應慳悋。如是思惟,一切珍財愛戀之心,皆應捨離。」

仏が慈氏に告げられた。「今、あなたのためにはっきりと説き明かそう。布施という行いは、六つの波羅蜜多(完成された実践)の中で最も修行しやすいものである。だからこそ最初に説かれるのだ。例えば世の中のあらゆる仕事も、易しいものから先に行うように、布施波羅蜜多も最初に説かれる。あらゆる生きとし生けるものは、布施を行うことができない者はない。たとえ薬叉(夜叉)や羅刹、獅子や虎や狼、さらに地獄の獄卒や屠殺者、罪人を処刑する者たちのような、生き物の中で最も残忍で極めて暴虐な者たちでさえも、吝嗇(けち)の心を離れて布施を行うことができるのである。」

「では、布施とは何か。それは子を育て、愛情を込めて乳を飲ませるようなことである。このような者たちは、功徳や利益の道理を理解していなくとも、慈しみ愛する心ゆえに、相手に体力や寿命、安楽を与え、飢えや渇きの苦しみから遠ざけることができる。これもまた布施と呼ばれるのである。このような理由から、六波羅蜜多の中で最初に檀波羅蜜多(布施の完成)が説かれるのだ。」

「また、たとえばあらゆる貧しい人々は、飢えや寒さ、裸でいることなどにより、心身ともに安らかでない。そのような状態で、どうして様々な仕事を成し遂げることができようか。もし衣服や食べ物を与えられて安楽を得れば、それから様々な仕事を営むことができる。菩薩摩訶薩(偉大な菩薩)もまた同じである。生きとし生けるものが貧しさに苦しめられているのを見ると、彼らは無上の信心を起こすことができず、大乗の様々な修行を行うことができない。そこでまず衣服や飲食、住居や寝具、そして病気の治療や薬などを施して心身を安楽にし、それから無上の正しい悟りの心を起こさせ、大乗の様々な修行を行わせるのである。このような理由から、六つの波羅蜜多のうち布施がその門戸となり、四つの摂事(他者を導く四つの方法)の中でもその第一とされるのだ。」

「ちょうど大地がすべての万物のよりどころとなり、それによって成長するように、布施波羅蜜多もまた一切の功徳を生み育てるのである。このような理由から、最初に布施波羅蜜多が説かれるのだ。」

「先に述べた薬叉などの種類の者たちは、功徳を生むべき対象(福田)とそうでないものとの区別も知らないが、ただ愛情によって乳などを与える。このことによって、彼らは人間の身を受け、財産に恵まれ、必要なものに欠けることがなくなるであろう。そしてこの習慣によって、生まれ出る場所には常に吝嗇(けち)の心から離れ、すべてのものを施すことができるようになり、生きとし生けるものの貧しさや苦しみを取り除くことができるのである。」

「なぜかといえば、菩薩摩訶薩は生きとし生けるものを利益し安楽にしようと願うがゆえに、まず布施波羅蜜多を修行するからである。施しを求めて来る者があれば、皆それに施しを与えるのであり、決して眉をひそめて嫌な顔をしたり、横目で睨んだり、怒りや恨みの心を持って布施してはならない。そして持てるものに応じて施し与え、ためらったり吝嗇(けち)の心を起こしてはならない。愛着のある物品、衣服や寝具、飲食や薬湯、国や城、妻や子、召使いや下男、象や馬、七つの宝などに対しても、吝嗇の心を起こさず、乞われるままに施し与え、その後に少しでも後悔の念を起こしてはならない。」

「もし疑いや迷いが生じたら、知るがよい、それは魔の仕業であると。なぜなら、魔王の波旬(悪魔)は財宝に姿を変えて人を吝嗇にさせ、この方便によって我が心を惑わし、大いなる菩提(悟り)への道を妨げようとするからである。このような理由から、決して吝嗇であってはならない。このように考えなさい。すべての貴重な財産や愛着の心は、すべて手放すべきものである、と。」

爾時慈氏菩薩摩訶薩白佛言:「世尊!若所愛財寶皆應布施不生悋惜,菩薩摩訶薩為轉輪王,所有七寶千子圍遶不知云何?譬如微細草木處於谿㵎遇天暴雨,大水汎漲漂盡無遺。其轉輪王五欲自恣,雄猛自在千子隨身,滌菩提心皆悉漂盡,云何修習布施行耶?以是因緣難為捨離。」

その時、慈氏菩薩(弥勒菩薩)が仏に申し上げました。「世尊よ。もし愛しい財宝をすべて惜しみなく布施すべきならば、菩薩が転輪聖王となった時、七宝を所有し千人の子に囲まれている場合はどうなのでしょうか。まるで細かな草や木々が谷川に生えているところに大雨が降り、大水が氾濫してすべてを洗い流してしまうように、転輪聖王は五欲にふけり、自由自在に振る舞い、千人の子が従いながら、菩提心がすべて流れ去ってしまうのです。このような状況で、どうやって布施の修行を実践すればよいのでしょうか。そのような理由から、これを手放すことは難しいのです。」

爾時薄伽梵告慈氏菩薩摩訶薩言:「善男子!菩薩摩訶薩所生之處,常得富貴財寶豐足,法應如是。若為轉輪聖王,應作如是二種思惟:一者思惟過去諸佛難行之行,及佛菩薩所有教法。此轉輪王五欲勝樂,皆從妄計分別而生,猶如幻夢。轉輪聖王於五欲境,不起分別不生計著,何能障礙菩提之心?二者思惟一切有情,我已引入阿耨多羅三藐三菩提安樂之地,亦如過去殑伽沙等諸佛如來難捨能捨,我亦誓當作如是捨,為欲滌除慳悋之垢,發如是心:『願從今身乃至成佛,誓以此身捨與法界一切眾生,所修福業若多若少,願與一切眾生共之,迴向無上正等菩提。以是觀之,我昔已捨一切身命如妙高山。觀我此身猶如芥子,身命尚捨何況珍財。若諸菩薩多積珍財不行布施,猶如白象於殑伽河淨澡浴已,以鼻噏取糞穢塵土遍身坌之。我以福德淨水澡浴其身端嚴清潔,不應慳悋愛惜財寶坌污其身。』慈氏!當知菩薩應作如是思惟:『若有人來乞我身皮,我即剝之不生瞋恨,歡喜施與。若乞身首血肉骨髓,皆悉能施。』以是因緣,菩薩摩訶薩利益安樂諸有情故,不捨生死而取涅槃。復作是念:『我今此身,前際不來後亦無去,父母和合不淨種子而有我身,處不淨中生熟藏間,猶如種樹枝葉茂盛花果成實,我身亦爾,以苦為枝、憂悲為葉、欺誑為花、癡為根本,瞋恚羅剎而居此樹,又為惡業虎豹犲狼師子等獸圍遶此樹。我今暫時憩此樹下,何為愛惜此毒樹耶?而此樹身無我我所,設復有者我亦捨之,願奉眾生任彼所須終無悋惜。何以故?我已捨故,不求果報、不求恩德,無所著故。所以者何?以此毒身有三惡法之所纏繞。云何為三?一者不淨,二者極苦,三者無恩。若復有人,於此羅剎毒害惡獸圍遶眾中救拔我身,當知此人於我大恩,而於我身作大利益。我於此人常懷恩德,豈更於此而惜身耶?又此大地所有園林草木藥等,根芽枝葉花果成實,而堪服食及帶持者,若以利斧斬此草木,枝葉花果分析與人,而能利益無量眾生。而此大地,不念眾生食我身分枝葉花菓而得除病。彼無情物尚不分別,而能利益一切有情,而況我身不能於他而興利益行於布施,反於乞者起我慢心輕罵凌懱?』復於自身內外觀察。先觀內身,眼是我耶?是我所耶?若非我者,云何悋惜,耳鼻舌身亦復如是,周遍觀察無我我所。次觀外身,色是我耶?是我所耶?聲香味觸亦復如是。於此內外周遍觀察皆無有我,既無有我,云何慳惜而不施耶?應當決定如是思惟:『願將此身速奉一切。何以故?此身無常遷變不定,剎那生滅無所有故。』」

その時、世尊は慈氏菩薩摩訶薩に告げられた。「善男子よ、菩薩摩訶薩が生まれるところは、常に富貴と財宝が豊かに満ち足りている。それは法としてそうあるべきである。もし転輪聖王となるならば、次の二つのことをよく考えるべきである。 一つには、過去の諸仏が成し遂げ難い行いをなされたこと、そして仏や菩薩のすべての教えについて思惟すること。この転輪王の五欲の勝れた楽しみは、すべて誤った分別から生じたものであり、幻や夢のようなものである。転輪聖王は五欲の境に対して分別を起こさず、執着しない。どうして菩提心の障害となり得ようか。 二つには、すべての有情を、すでに無上正等菩提の安楽の境地に導き入れたと考えること。また、過去のガンジス河の砂の数ほどの諸仏如来が、捨て難いものをよく捨てられたように、私もまた断じてそのように施しを行うと誓う。慳吝(けち)の汚れを洗い清めるために、こう心に誓う。『今のこの身から未来、成仏するに至るまで、誓ってこの身を法界の一切衆生に施し与えよう。積んだ福徳の業が多かろうと少なかろうと、これを一切衆生と共有し、無上正等菩提に回向しよう。このように観ずるならば、私はすでに一切の身命を、妙高山のように施し捨ててきたのである。我がこの身を見れば、芥子(ごま)の粒ほどに過ぎない。身命すら捨てるのだから、ましてや珍宝や財物はなおさらである。もし諸々の菩薩が多くの珍宝を積みながら布施を行わないならば、それはまるで白象がガンジス河で清らかに沐浴した後、鼻で糞や塵を吸い取って全身にまぶすようなものである。私は福徳という清らかな水で身を洗い、端正で清潔であるのに、慳吝によって財宝を惜しみ、その身を汚してはならない。』 慈氏よ、菩薩はこう思惟すべきである。『もし誰かが来て、私の身体の皮を乞うならば、直ちにこれを剥ぎ取って与え、怒りの心を起こさず、喜んで施そう。もし頭や身、血肉や骨髄を乞うならば、すべて施すことができる。』この理由により、菩薩摩訶薩は、諸々の有情を利益し安楽にするため、生死を捨てずして涅槃を取るのである。 また、こう考える。『今、我がこの身は、前の辺際より来たることもなく、後にも去ることもない。父母の和合による不浄の種子によって我が身があり、不浄の中に生まれ、熟した臓物や生の臓物の間にあって、あたかも木を植えたように、枝葉が茂り花や果実が実るようである。我が身もまた同じで、苦しみを枝とし、憂い悲しみを葉とし、欺瞞を花とし、無明を根本とする。怒りの羅刹(悪鬼)がこの木に住み、さらに悪業という虎や豹、狼、獅子などの獣がこの木を取り巻いている。私は今、一時この木の下で休んでいるに過ぎない。どうしてこの毒木を愛し惜しむことがあろうか。しかもこの木の体には、我も我所もない。仮にあったとしても、私はそれをも捨て、衆生に奉仕し、彼らの欲するままに与え、決して惜しむことはない。なぜなら、私はすでに捨てたのであり、果報を求めず、恩恵を求めず、何にも執着しないからである。 なぜかと言えば、この毒身は三つの悪法に纏われているからである。その三つとは何か?第一に不浄、第二に極苦、第三に無恩である。もし誰かが、この羅刹や毒ある獣の群れに囲まれた中から、我が身を救い出してくれたなら、この人は我にとって大いなる恩があり、我が身に大きな利益をもたらしたのである。私はこの人に対して常に恩を感じるべきであり、どうしてこの身を惜しむことがあろうか。 さらに、この大地にあるすべての園林や草木、薬草など、根・芽・枝・葉・花・果実が実り、服用したり身に帯びたりできるものがある。もしこれらを鋭い斧で切り、枝葉や花果を分析して人に与えれば、無量の衆生を利益することができる。そしてこの大地は、『衆生が我が身の枝葉や花果を食べて病を癒す』などとは思わない。あの無情のものすら、分別することなく、一切の有情を利益することができるのに、ましてや我が身が、他に対して利益を施し布施を行うことができず、かえって乞う者に対して我慢の心を起こし、軽蔑し罵り辱めることがあろうか。』 さらに、自分の身について内外を観察する。まず内身を観ずる。『眼は我であるか?我がものであるか?もし我でなければ、どうして惜しむことがあろうか。耳・鼻・舌・身もまた同じである』と、くまなく観察して、我も我がものもないと知る。次に外身を観ずる。『色は我であるか?我がものであるか?声・香・味・触もまた同じである。』この内外をくまなく観察しても、すべて我なるものはない。我なるものがなければ、どうして慳吝して施さないことがあろうか。 まさに決定的にこう思惟すべきである。『願わくは、この身を速やかに一切に捧げよう。なぜなら、この身は無常であり、移り変わり定まらず、刹那に生滅し、実体がないからである。』」

爾時世尊而說偈言:

その時、世尊は偈を説かれた。

「若他逼捨身命財, 制不自由無利益,
如是知已諦思惟, 開心自施為最勝。
迷人若悟夢幻法, 內外皆捨無所著,
如是布施等虛空, 無我無受為最勝,

もし他人に迫られて財産や命までも捨てるとしても、 不本意で自由がなければ、それに利益はない。 このように知って、よくよく考えなさい—— 心から喜んで自ら施すことが、最も優れている。

迷える人は、もしこの世が夢や幻のようなものだと悟れば、 内も外もすべて手放し、執着することがなくなる。 そのような布施は、虚空のように広く、 「施す私」も「受ける人」もない——それが最も優れている。

「復次,慈氏!若菩薩摩訶薩修行大乘求阿耨多羅三藐三菩提者,當修空法。以觀空故心得自在,於殑伽沙佛所得受記別,心不退轉而行布施無有劬勞,檀施為刀破慳悋賊,慳悋賊者眾苦根本。菩薩於此不生愛著。何以故?菩薩摩訶薩雖有煩惱,皆是方便利物而生,然彼煩惱不為過失,以諸菩薩隨願生故。身口意業住無功用,得清淨故。善調五根,無放逸故。能多利樂一切眾生,能知勝義及世俗諦。以正定水洗滌慳垢,除此垢已於施自在,說大乘法威光照曜,如日流輝破諸黑闇,說法聲光除心昏冥。」

「さらに、慈氏よ。大乗を修行して、無上正等覚(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を求める菩薩摩訶薩は、空の法を修めるべきである。空を観ずるがゆえに心は自在を得て、ガンジス河の砂の数ほどの仏のもとで、成仏の記別(授記)を受ける。心は退転することなく、布施を行うに労苦もない。布施という刀で、むさぼりの賊を断つ。むさぼりの賊は、あらゆる苦しみの原因である。菩薩はこれに対して愛着を起こさない。なぜか。菩薩摩訶薩には煩悩があるが、それはすべて、他者を利益するための方便として生じたものである。したがって、その煩悩は過失とならない。諸々の菩薩は願いに従って生まれるからである。身・口・意の三業は、無功用のうちに安住し、清らかである。五根(五つの感覚機能)をよく調え、放逸(気まま)がないからである。多くの衆生をよく利益し楽しませ、勝義諦(最高の真理)と世俗諦(世間の真理)とを知る。正しい定の水をもって、むさぼりの垢を洗い清める。その垢を除いたなら、施しにおいて自在となり、大乗の法を説いて、その威光は照り輝き、太陽が光を放って闇を破るように、法を説く声と光とが心の昏冥(暗さ)を取り除く。」

慈氏菩薩摩訶薩白佛言:「世尊!以何因緣先明法施?」

慈氏大菩薩が仏に申し上げました。「お釈迦様、どのような理由で、まず法の施し(法施)を明らかにされるのですか?」

佛告慈氏菩薩摩訶薩:「此法施者,有三種事勝於財施。云何為三?一財施者而有竭盡,法施增長則無有盡,以是校量勝於財施。二受財施者現在利益,受法施者現在未來俱有利益,於無量世恒相隨逐無人侵奪,乃至無上正等菩提不相捨離。三財施者能施獲益受者無益,若法施者自他俱益,由聞法故發心速趣無上菩提。由此三義,法施之者勝於財施。由行法施名稱遠聞,一切人天尊重恭敬,以此因緣先說法施。若菩薩摩訶薩修習布施波羅蜜多,為三種事,與諸功德而為其本:一者能利自他,若不利他自受世樂非菩薩行;二者於大乘中無有退轉;三者隨修少分乃為無量功德之本。何以故?由清淨心無分別故。譬如日出照於世間,情與非情皆蒙利益,是日不言我能照觸,亦不分別情與非情。以是菩薩所作功德,乃至布施一花一果,皆為利益一切眾生,以此功德成無上果,悲化十方示導一切。

仏は慈氏菩薩摩訶薩に告げられた。「この法施には、財施に勝る三つの事がある。その三つとは何か。第一に、財施には尽きる時があるが、法施は増え続けて尽きることがない。ゆえに比べれば、財施に勝る。第二に、財施を受ける者は現在の利益しか得られないが、法施を受ける者は現在も未来も共に利益を得る。無量の世にわたって常に伴い、奪われることがなく、無上正等菩提に至るまで離れない。第三に、財施は施す者が利益を得るだけで、受ける者には利益がない。しかし法施は、自らも他者も共に利益を得る。法を聞くことによって、心を起こし速やかに無上菩提に向かうからである。この三つの義によって、法施は財施に勝る。法施を行うことによって、その名は遠くに聞こえ、一切の天人は尊重し敬う。この因縁により、まず法施を説くのである。

もし菩薩摩訶薩が布施波羅蜜多を修習するなら、三つの事を為し、諸々の功徳の根本となる。一つには、自他を共に利益できる。もし他を利益せず、自ら世の楽しみを受けるだけなら、それは菩薩の行ではない。二つには、大乗の中で退転することがない。三つには、わずかな部分を修しても、無量の功徳の根本となる。なぜなら、清らかな心によって分別がないからである。たとえば太陽が世に昇り、有情も非情も共に利益を受けるが、太陽は『私は照らす』と言わず、また有情と非情を分別しない。このように、菩薩が作す功徳は、一輪の花や一つの果実を布施するところまでも、全てが一切衆生を利益するためのものである。この功徳によって無上の果を成し、悲心をもって十方を教化し、一切を導き示すのである。」

「復次,慈氏!菩薩摩訶薩以施為寶作莊嚴具,乃至成佛相好莊嚴。云何少施功德多耶?以方便力少分布施,迴向發願,與一切眾生同證無上正等菩提。以是功德無量無邊,猶如少雲漸遍世界。

また、慈氏(弥勒菩薩)よ。菩薩摩訶薩は施しを宝として荘厳の具とし、ついには仏の相好荘厳を成就する。では、どのようにわずかな施しの功徳が多くなるのだろうか。方便の力によって少しの施しを行い、それを回向して発願し、一切の衆生と共に無上の正しい悟りを証するのである。それゆえ、その功徳は限りなく広大で、あたかも小さな雲がしだいに世界中に広がるようなものである。

「復次,慈氏!施有三種:一者小施,二者大施,三者第一義施。言小施者,謂以種種飲食衣服諸莊嚴具,財寶象馬庫藏倉廩,城邑聚落園林屋宅,及轉輪王所有樂具而行布施,是名小施。二大施者,輪王所愛后妃眷屬及與己身,以施乞者,是名大施。三第一義施者,能以身命而行布施,以無所得心相應故,名為第一義施。菩薩摩訶薩以是三種而行布施,是故名為檀波羅蜜。

「さらに、慈氏よ、施しには三種あります。第一に小施、第二に大施、第三に第一義施です。小施とは、様々な飲食物や衣服、装飾品、財宝や象・馬などの財産、蔵や倉庫、城や村落、庭園や家屋、そして転輪王が持つあらゆる楽しみの品々を施すことです。これを小施といいます。第二の大施とは、転輪王が愛する后妃や一族、そして自身の体を施し求める者に与えることです。これを大施といいます。第三の第一義施とは、自分の命や身体を投げ打って施しを行うことです。これは「得るものがない」という心(無所得心)に対応するから、第一義施と名付けられます。菩薩摩訶薩はこの三種の施しを行うことによって、これを檀波羅蜜と名付けるのです。

「復次,慈氏!以食施者當施五事。云何為五。一者施命,若人無食難以濟命。二者施色,因得食故顏色和悅。三者施力,以是食故增益氣力。四者施樂,以此食故身心安樂。五者施辯,若飢餓者身心怯弱,言說謇訥不能辯了,飲食充足身心勇銳,得大辯才智慧無礙。菩薩摩訶薩施飯食時,應作如是迴向發願:『我施食時施此五事。若施命者,願與一切眾生得佛壽命長遠無盡,一劫二劫隨願而住。二施色者,願與一切眾生得佛色身如紫金色,照曜世間過百千日。三施力者,願與一切眾生得佛十力,一一節中皆有八萬四千六百六十三種那羅延力。四施樂者,願與一切眾生得佛無比涅槃安樂。五施辯者,願與一切眾生得佛世尊四無礙辯。若施味時,願與一切眾生得佛無上甘露法味具足充滿,安置無比清淨涅槃。若施漿時,願與一切眾生除其渴愛。若施美飲砂糖石蜜甘蔗蒲萄種種香飲,得如來口中四牙,所有飲食及諸毒藥,至此牙時變成甘露。若施醫藥,願與一切眾生得六度藥療生死病,悉得痊除獲涅槃樂。若施衣服,願與一切眾生得慚愧服以覆其身,離諸陋形端嚴殊勝,獲金色身最勝無比。若施塗香種種末香,願與一切眾生戒香塗身,悉除煩惱臭穢習氣。若施象馬車乘輦輿船筏,願與一切眾生皆得如來隨心三昧,遊止自在無所障礙。施橋梁時,願與一切眾生得六度橋,越生死河至涅槃岸。若施瓔珞,願與一切眾生得三十二相八十種好瓔珞莊嚴。若於曠野沙磧之處,往來渴乏為日所曝,施以井池飲水沐浴,願與一切眾生離於流轉生死曠野,三毒炎火渴愛之苦。復願我身為法泉池,一切智水充滿其中,隨彼眾生飲水沐浴,竭生死源得真解脫。施義堂屋令諸眾生,離風雨怨賊惡獸怖懼,身得安樂,願與一切眾生悉得入於涅槃堂屋,離煩惱賊地獄寒熱生死風雨,永無怖畏。若施氈褥細軟敷具,願與眾生坐菩提座,自然覺悟得真平等。若施種種上妙衣服,願與一切眾生得三乘法衣,普覆一切苦惱眾生。若施三寶師僧父母種種燈燭,願與一切眾生得一切智眼。若施音樂,願與一切眾生得真天耳,十方世界所有音聲皆悉聞知。若於逈遠無佛法處,建立僧坊及招提舍,置諸資具飲食湯藥,願與一切眾生置涅槃城安樂之處,永離流轉生死之苦。若施湯藥,願與一切眾生施以法藥除煩惱病。若施僕使,願與一切眾生悉如阿難奉侍如來。若救囚繫令得解脫,願與眾生遠離一切煩惱囚繫,得真解脫住法王位。若施金銀及無價寶,願與一切眾生得百福相莊嚴其身。若施寶冠莊嚴之具,瓔珞環釧耳璫珠鬘種種校飾,願與一切眾生獲八十種好莊嚴法身。若施阿蘭若修道之處,願與一切眾生得四聖種依止之所。若施伏藏,願與一切眾生得佛無上功德法財。若施七寶及轉輪王位自在安樂,願與一切眾生得大力用,以妙法手拔濟眾生出十惡業,以十善水洗令清淨,以淨戒香用塗其身,除斷一切惡名臭氣,以慚愧衣服而為覆蓋,以佛功德而為瓔珞,以忍辱為花鬘莊嚴其身,以靜慮為床座安處不動,以菩提冠置於頂上,處法王位而受灌頂。』慈氏!當知如是施者,此即名為菩薩行於小施。

「また、慈氏よ。食物を施す場合には、五つのことを施すべきである。五つとは何か。第一に命を施すこと。人は食物がなければ命を支え難い。第二に顔色を施すこと。食物を得るゆえに顔色が和らぎ悦ぶ。第三に力を施すこと。この食物ゆえに気力が増す。第四に楽しみを施すこと。この食物ゆえに身心が安楽となる。第五に弁才を施すこと。飢えた者は身心が怯え弱り、言葉がつまり滑らかでなく弁じることができないが、飲食が充足すれば身心は勇み鋭くなり、大いなる弁才と智慧を得て妨げがない。

菩薩摩訶薩が飯食を施す時には、次のように廻向し発願すべきである。『私が食を施す時には、この五つのことを施す。まず命を施すならば、すべての衆生が仏の寿命のように長遠で尽きることなく、一劫二劫と願いに従ってとどまれることを願う。第二に顔色を施すならば、すべての衆生が仏の色身のような紫金色を得て、世間を照らすこと百千の太陽に勝ることを願う。第三に力を施すならば、すべての衆生が仏の十力を得て、その各々の節に八万四千六百六十三種の那羅延の力を持つことを願う。第四に楽しみを施すならば、すべての衆生が仏の無比の涅槃の安楽を得ることを願う。第五に弁才を施すならば、すべての衆生が仏世尊の四無礙弁を得ることを願う。』

味を施す時には、すべての衆生が仏の無上の甘露の法味を具足し満たされ、無比の清らかな涅槃に安置されることを願う。飲み物を施す時には、すべての衆生の渇愛が除かれることを願う。砂糖や石蜜、葡萄などの様々な香りの良い飲み物を施すならば、如来の口の中の四本の牙を得て、すべての飲食や毒薬もこの牙に触れると甘露に変わることを願う。

医薬を施す時には、すべての衆生が六度の薬を得て生死の病を治し、すべてが癒えて涅槃の楽しみを得ることを願う。衣服を施す時には、すべての衆生が慚愧の服を身にまとってその身を覆い、醜い形相を離れ端厳で殊勝になり、金色の最も勝れた身を得ることを願う。塗香や種々の末香を施す時には、すべての衆生が戒の香を身に塗り、煩悩の臭いや習気をすべて除くことを願う。象馬車乗や輦輿、船筏を施す時には、すべての衆生が如来の随心三昧を得て、遊びとどまること自在で妨げがないことを願う。橋梁を施す時には、すべての衆生が六度の橋を得て、生死の河を越え涅槃の岸に至ることを願う。瓔珞を施す時には、すべての衆生が三十二相八十種好の瓔珞で荘厳されることを願う。

荒野や砂漠の地で、往来する者が渇き疲れ、日差しにさらされている時に、井戸や池を設けて飲み水や沐浴を施すならば、すべての衆生が流転する生死の荒野、三毒の炎や渇愛の苦しみを離れることを願う。さらにまた、我が身が法の泉池となり、一切智の水がその中に満ちあふれ、その衆生が水を飲み沐浴して、生死の源を尽くし真の解脱を得ることを願う。

義堂や屋舎を施して、すべての衆生が風雨や怨賊、悪獣の怖れを離れ、身に安楽を得るならば、すべての衆生が涅槃の堂屋に入り、煩悩の賊や地獄の寒熱、生死の風雨を離れ、永遠に怖れがないことを願う。氈褥や細やかな敷物を施すならば、すべての衆生が菩提の座に坐り、自然に覚醒して真の平等を得ることを願う。種々の上妙な衣服を施すならば、すべての衆生が三乗の法衣を得て、すべての苦悩の衆生を広く覆うことを願う。

三宝や師僧、父母に種々の灯燭を施すならば、すべての衆生が一切智の眼を得ることを願う。音楽を施すならば、すべての衆生が真実の天耳を得て、十方世界のすべての音声を聞き知ることを願う。遠く離れた仏法のない所に僧坊や招提舎を建立し、飲食や湯薬などの資具を備えるならば、すべての衆生を涅槃の城という安楽の場所に置き、永遠に流転する生死の苦しみを離れることを願う。

湯薬を施すならば、すべての衆生に法薬を施して煩悩の病を除くことを願う。僕使を施すならば、すべての衆生が皆アーナンダのように如来に仕えることを願う。囚われの身を救って解脱させるならば、すべての衆生がすべての煩悩の束縛から遠く離れ、真の解脱を得て法王の位にとどまることを願う。金銀や無価の宝を施すならば、すべての衆生が百福の相でその身を荘厳することを願う。宝冠や荘厳の具、瓔珞や環釧、耳璫や珠鬘などの種々の飾りを施すならば、すべての衆生が八十種好を獲得して法身を荘厳することを願う。阿蘭若(修行の閑静な場所)を施すならば、すべての衆生が四聖種という依止の場所を得ることを願う。地下の財宝を施すならば、すべての衆生が仏の無上の功徳という法財を得ることを願う。

七宝や転輪王の位、自在の安楽を施すならば、すべての衆生が大いなる力用を得て、妙なる法の手で衆生を救い十悪の業から抜き出し、十善の水で洗って清らかにし、清らかな戒の香でその身を塗り、すべての悪名や臭気を断ち除き、慚愧の衣服で覆い、仏の功徳を瓔珞とし、忍辱を花鬘としてその身を荘厳し、静慮を床座として安らかに動かず、菩提の冠を頂上に置き、法王の位について灌頂を受けることを願う。』

慈氏よ、知るがよい。このように施すことを、菩薩が小施を行うというのである。」

「復次,言大施者,菩薩摩訶薩於所愛敬貞順妻妾,及以端正孝友男女愛無雙者,以用布施。若我不捨此妻子者,云何得與一切眾生為法父母,及能憐愛一切眾生,悲愍救護如己愛子,能令離於生老病死。以是義故,菩薩摩訶薩一切寵愛珍惜之者悉皆布施,乃至成佛無上菩提。慈氏!當知如是施者,名為菩薩行於大施。

また、大施というのは、菩薩摩訶薩が、敬い愛する貞淑な妻や妾、および端正で親孝行で友愛ある子で、他に代えがたいほど愛する者を施しとして捧げることです。もし私がこの妻子を手放さなければ、どうしてすべての衆生にとって法の父母となり、すべての衆生を憐れみ愛し、我が子のように悲しみ慈しみ救い護り、生老病死から遠ざけることができるでしょうか。このような理由から、菩薩摩訶薩は、寵愛し大切にするすべてのものを、すべて施しとして捧げ、ついには仏となり無上の悟りを成就するのです。慈氏よ、知るがよい。このような施しを、菩薩の行う大施というのである。

「復次,第一義施者,菩薩摩訶薩以清淨心,於自身手足皮肉骨髓頭目耳鼻乃至身命,以用布施,心無悋惜。以此功德,願與一切眾生於當來世得佛金剛不壞之身。若施手足心無悋惜,願與一切眾生於生死流轉漂溺瀑河無救護者,授正法手拔濟令出置安樂地。若施耳鼻舌時,願與一切眾生於當來世,悉得諸佛清淨五根,以是妙法莊嚴眾生。若以血肉施諸眾生,如是施時,願與一切眾生當得此身猶如大地,與諸有情作依止處,亦如大水能除垢穢,潤澤枯涸百卉滋長,又如大火能除闇冥成就一切,復如大風能鼓一切,開發生長使得敷榮。若施眼時,願與一切眾生而得佛眼。若施頭首及施寶冠,願與一切眾生得佛無上七覺寶冠。

さらに、最も優れた施し(布施)とは、菩薩(ぼさつ)が清らかな心で、自らの手や足、皮や肉、骨や髄、頭や目、耳や鼻、さらには命までもを惜しみなく施すことです。その功徳によって、一切の衆生(しゅじょう)が未来に仏の金剛のように壊れない体を得られるよう願います。

手や足を施すとき、心に惜しみがありません。その願いは、生まれ変わり死に変わりする流れに溺れ、激しい川に漂い、助けてくれる者のない衆生を、正しい教えという手を差し伸べて救い出し、安らかな場所に置くことです。

耳や鼻や舌を施すときの願いは、未来において一切の衆生が諸仏の清らかな五根(ごこん)をすべて得て、この素晴らしい教えによって荘厳(しょうごん)されることです。

血肉を衆生に施すとき、その施しで願うのは、一切の衆生がこの身を大地のようにし、生きとし生けるもののよりどころとなること。また大水のように、汚れを除き、枯れたものを潤し、すべての草木を成長させること。大火のように、暗闇を除き、すべてを成就させること。さらに大風のように、すべてを吹き動かし、開き、成長させ、花咲かせることです。

目を施すときには、一切の衆生が仏の眼を得られるよう願います。頭や宝冠を施すときには、一切の衆生が仏の無上の七覚支(しちかくし)という宝冠を得られるよう願います。

「復次,慈氏!菩薩摩訶薩所有世間妙好之物,不生貪著,常能惠施一切有情。所以者何?以大悲心等視眾生猶如一子,願與一切眾生永息貧窮,於所求願悉令滿足,而於生死曠野之中備七聖財得佛智寶。

さらに、慈氏(彌勒菩薩)よ、菩薩大乗修行者がこの世のすばらしい品々に執着することなく、常にすべての生きとし生けるものに施しを行う理由は何か。それは、大いなる慈悲の心で全ての生きとし生けるものをわが子のように等しく見つめ、全ての者に貧しさから永遠に解放されることを願い、彼らの求める願いを満たすからである。そして、生死の広大な荒野の中にあって、七つの聖なる宝を備え、仏の智慧の宝を得るのである。

「復次,慈氏!云何菩薩摩訶薩修行布施無諸過患?謂自手營作而行布施,非嫉妬他、非畏惡名、非求恩德而行布施,為濟貧乏惸獨困苦而行布施,是名為施。若為名聞而作師長行於布施,如商賈人非真施也。起大悲心,不擇怨親財物多少而行布施,名真施也。

また、慈氏よ。菩薩が修行において施しを行う際、どのようにすれば過ちを犯さないのでしょうか。自らの手で準備し施しを行うこと。他人を妬んだり、悪い評判を恐れたり、見返りを求めたりせずに行うこと。貧しく孤独で苦しむ人々を救うために施すこと。これを真の施しといいます。

名声を得るためや、師長としての立場から施しを行うのは、商人が商売をするようなもので、真の施しとは言えません。大いなる慈悲の心を起こし、相手が敵か味方かを選ばず、財物の多い少ないを問わずに行う施し。これを真の施しといいます。

「復次,慈氏!有二種田!云何為二?一者悲田,謂諸孤露貧窮困苦。二者敬田,謂佛法僧父母師長。於悲田所,不應輕賤言無福田。於敬田所,不應求報。以大悲心,無所分別等施一切,名真施也。又布施者勿起希求,而於財物不能捨離。或被官逼奪而行布施,或畏損失而行布施。於三寶所不得輕慢,應生尊重,不自稱說而行布施。若以重寶無所愛著,不生我慢亦不貢高而行布施,名真布施。若於敬田不生恭敬,將所厭物而施與之,不名為施。或為家貧無妙好物,而有麤鄙,恥不施之,以是因緣都不行施。善男子!夫行施者不應分別,隨其所有來即與之,是即名為檀波羅蜜。菩薩摩訶薩不應自恃持戒、多聞、禪定、智慧而行布施,亦不輕慢他人貪恚、愚癡、寡聞、破戒而行布施,非淨施也。菩薩摩訶薩所行布施,無不活畏、無惡趣畏,隨其多少而施與之。以廣大心,皆得無盡無量功德,是即名為檀波羅蜜。若為布施互相嫉妬,令家眷屬鬪諍不和,不名布施。若為布施譏毀乞人:『汝今丁壯,諸根具足,何不自作營理生業而求乞耶?』如是施者不名布施。或施已追悔而作是言:『我為愚癡枉費財物。』如是施者不名為施。或希他讚歎、或怖惡名,如是施者不名布施。或為惡願而行布施,不名布施。或擇日而施——謂白月一日、八日、十四日、十五日,黑月三日、八日、九日、十三日、十四日、十五日,如是日施餘日不施——不名為施。或擇時施——晨朝布施,午時不施,日暮餘時亦復如是——如此施者不名布施。或擇人施——施與貧者不施富者,或貧富俱施不施病者,或與病者不施餘類,或施此人不施彼人——如是施者不名布施。或選知識顏貌端正而與好物,餘施惡物,不名為施。或見乞者俳優鼓樂善戲談笑而施與之,餘者不施,如是施者不名布施。夫布施者不求果報——輪王、護世、釋梵諸天、剎帝利家及婆羅門長者、居士,如是家生——而為已身自求解脫而行布施,亦不厭退生疲倦心,言:『我已施,不應更施。』如是等施但名布施,不得名為檀波羅蜜。

さらに、慈氏よ。二つの田がある。どのような二つか。第一に悲田とは、孤児や貧しく苦しむ者たちのことである。第二に敬田とは、仏法僧、父母、師長のことである。悲田に対しては、福田がないと軽んじてはならない。敬田に対しては、見返りを求めてはならない。大悲の心をもって、差別なく平等にすべてに施すこと、これを真の施しという。

また、施しを行う者は、むさぼりの心を起こさず、財物に執着してはならない。あるいは官職に奪われるのを恐れて施しをしたり、損失を恐れて施しをしたりしてはならない。三宝に対しては軽んじてはならず、尊重の念を起こし、自ら誇って施しを行ってはならない。もしも高価な財宝に執着せず、傲慢さも高ぶりもなく施しを行うならば、これを真の布施という。

もし敬田に対して敬意を払わず、嫌な物を与えるならば、それを施しとは呼ばない。あるいは家が貧しくて良い物がないのに、粗末な物を恥じて施さないこともあるが、そのためにまったく施しを行わないのである。

善男子よ。施しを行う者は、分別すべきではない。自分の持っているものに応じて、来た者に与えること、これを檀波羅蜜という。菩薩摩訶薩は、自己の戒律、多聞、禅定、智慧を誇って施しを行ってはならず、また、他人の貪り、怒り、愚かさ、無知、戒律の破りを軽んじて施しを行ってはならない。それは清らかな施しではない。

菩薩摩訶薩が行う施しには、生きるのが怖いという恐れも、悪い道に落ちるという恐れもなく、その量の多少にかかわらず施しを行う。広大な心をもって行えば、すべてが尽きることのない無量の功徳を得る。これを檀波羅蜜という。

もしも布施のために互いに嫉妬し、家族を争わせ和を乱すならば、それを布施とは呼ばない。もしも布施のために乞う者を誹謗して、「あなたは今、壮健で諸根も備わっているのに、どうして自ら仕事をして生計を立てず、乞食するのか」と言うならば、そのような施しは布施とは呼ばない。

また、施した後に後悔して、「私は愚かにも財物を無駄に費やした」と言うならば、そのような施しは布施とは呼ばない。あるいは他者の称賛を望んだり、悪い評判を恐れたりして行う施しも、布施とは呼ばない。あるいは悪しき願いのために行う施しも、布施とは呼ばない。

あるいは日を選んで施すこと――白月の一日、八日、十四日、十五日、黒月の三日、八日、九日、十三日、十四日、十五日など、これらの日だけ施し、他の日には施さないこと――これを布施とは呼ばない。あるいは時を選んで施すこと――朝に施し、昼には施さず、夕方やその他の時も同様にすること――そのような施しは布施とは呼ばない。

あるいは人を選んで施すこと――貧しい者には施し、富める者には施さない。あるいは貧富ともに施しても病人には施さない。あるいは病人にだけ施し、他の者には施さない。あるいはこの人には施し、あの人には施さない。そのような施しは布施とは呼ばない。

あるいは知識人の顔立ちが端正であるから良い物を与え、他の人には悪い物を与えること。それを布施とは呼ばない。あるいは乞う者が芸人や楽師、戯れに笑いを取る者だから施し、他の者には施さない。そのような施しは布施とは呼ばない。

そもそも布施とは、果報を求めないものである――転輪王、護世、帝釈、梵天、諸天、刹帝利の家、あるいは婆羅門、長者、居士などの家に生まれたいと願い、自己の解脱のみを求めて施しを行うこと。また、厭うことなく倦む心を起こさず、「私はもう施したのだから、これ以上施すべきではない」と言わないこと。これらのような施しは、単に布施と呼ばれるだけで、檀波羅蜜とは呼べないのである。

「復次,慈氏!菩薩摩訶薩不為如上非法布施,以正解脫迴向發願無上菩提是真布施,檀波羅蜜究竟清淨,於阿耨多羅三藐三菩提得不退轉。若能如是,離諸過失行無相施,所得功德無量無邊,廣大如法界,究竟若虛空。菩薩摩訶薩以如是心,若施一華、若施一果乃至施水一滴,而於此經受持讀誦乃至一偈一句,令他聽聞經一剎那,所得功德無量無邊。若復有人從無量阿僧祇劫所行布施,以金銀七寶及餘種種上妙珍財以用布施,求轉輪王、釋梵護世或求阿羅漢果、獨覺菩提及餘作業,於無量無邊阿僧祇劫受持淨戒所有功德,比前菩薩摩訶薩無住相施所得功德,百分千分萬分億分俱胝分乃至鄔波尼殺曇分不及其一。而此菩薩願力所施,一滴之水投於大海,海水有盡滴水無盡。何以故?眾生無盡故菩薩願力亦無有盡,虛空、法界亦復如是。

「さらに、慈氏よ。菩薩摩訶薩は上述のような誤った布施を行わず、正しい解脱に基づいて心を向け、無上の悟りを願うことこそが真の布施であり、布施の完成(檀波羅蜜)は完全に清らかとなり、無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)において退転しなくなります。このようにして、あらゆる過ちを離れ、形なき布施(無相施)を行うならば、得られる功徳は限りなく、広大で法界の如く、究極的には虚空の如きものとなります。

菩薩摩訶薩がこのような心で、もし一輪の花を施し、あるいは一つの果物を施し、さらには一滴の水を施すだけでも、またこの経典を受持し読誦し、たとえ一偈一句であっても、それを他者に聞かせることが一刹那(ごく短い時間)であれば、得られる功徳は限りなく広大です。

たとえある人が無量阿僧祇劫(計り知れない長い時間)にわたって、金銀や七宝、その他さまざまな優れた宝物をもって布施を行い、それによって転輪聖王や帝釈天、梵天、護世四天王などの地位を求め、あるいは阿羅漢果や独覚菩提(縁覚の悟り)その他の果報を求め、さらに無量無辺阿僧祇劫の間、清らかな戒律を保ち続けて得られるすべての功徳をもってしても、先の菩薩摩訶薩の形に執着しない布施(無住相施)によって得られる功徳と比較すれば、百分、千分、万分、億分、俱胝分、さらには邬波尼殺曇分(極めて微小な単位)の一つにも及びません。

そして、この菩薩の願力によって施された一滴の水が大海に投じられれば、海水が尽きることがあっても、その一滴の水の功徳は尽きることがありません。なぜなら、衆生が尽きることがないからです。菩薩の願力もまた尽きることがなく、虚空や法界もまた同じように尽きることがないからです。」

「復次,菩薩摩訶薩如是漸次勤行精進,得大神通昇妙高山,或至大海獲無價寶,還贍部洲雨種種寶給施有情,或雨飲食、衣服、臥具、救病醫藥,除斷有情飢渴疾病貧窮困苦。以此功德願施有情,盡未來際常無休息,廣大如法界,究竟若虛空,若但自利而行布施。如空片雲風吹即散,豈能利益一切眾生。

また、菩薩摩訶薩はこのように次第に精進に励み、大きな神通力を得て妙なる高山に登り、あるいは大海に至って無価の宝を得ます。そして、贍部洲に戻って様々な宝を降らせ、生きとし生けるものに施し与えます。あるいは飲食、衣服、寝具、病を救う薬などを降らせ、生きとし生けるものの飢えや渇き、病、貧しさ、苦しみを断ち除きます。

この功徳をもって、生きとし生けるものに施し与え、未来際まで絶え間なく続けます。その広がりは法界の如く、究極的には虚空の如くです。もしもただ自己の利益のみを求めて布施を行うならば、それは空に浮かぶ一片の雲が風に吹かれて散ってしまうようなもので、どうしてすべての衆生を利益することができましょうか。

「復次,菩薩摩訶薩如是布施,同真際、等法界,火不能燒,水不能漂,風不能吹,金剛堅寶不能碎壞,是故菩薩布施願力,能令眾生得大利益究竟安樂,亦令一切有情同此行願,乃至無上正等菩提,誓不退轉常行是行,乃至涅槃利益有情令得解脫。

さらに、菩薩摩薩はこのように施しを行うことで、真理そのものと一体となり、法の世界と等しくなります。この布施は火に焼かれることなく、水に流されることもなく、風に吹き消されることもなく、金剛石のような堅固な宝でも壊すことはできません。ゆえに菩薩の布施の誓いの力は、すべての生きとし生けるものに大きな利益と究極の安らぎをもたらし、またすべての有情にこの行いと誓いを共にさせ、無上の正しい悟りに至るまで決して退かず、常にこの行いを実践し、涅槃に至るまで生きとし生けるものを利益し、解脱させるのです。

「復次,慈氏!如來在世,一切有情而以種種上妙衣服、房舍、臥具、飲食、湯藥、酥燈、油燈、瞻蔔油燈、種種花香,以奉供養尊重恭敬歌唄讚歎,於佛滅後取佛舍利起窣堵波,亦作如上種種供養尊重讚歎。如是二事,功德果報等無差別。由此義利,令諸有情發慇重心虔誠愛樂,以敬慕故,發菩提心聽聞正法如說修行,便能趣證阿羅漢果、辟支佛果及諸菩薩成就十地圓滿六度,乃至佛果無上正等菩提。即此有情復能勸喻諸有情等,同修勝行乃至證得無上正等菩提。以是義故,菩薩摩訶薩修行布施波羅蜜多,乃至施水一滴所有利益,同真際、等法界,無有窮盡。若行施時,不能普為一切有情迴向無上正等菩提,設以寶聚如妙高山而用布施,利益甚少。猶如芥子易可窮盡,亦如片雲風飄即滅。

「また、慈氏よ。如来が世に在します時、一切の有情が様々な上等の衣服・房舎・寝具・飲食・薬湯・酥油灯・油灯・瞻蔔油灯・種々の花香をもって、供養し敬い称賛し謳歌する。そして如来の滅後には、仏舎利を取りて塔を建て、同様にこれらの供養と尊敬と讃嘆を行う。この二つの行いの功徳と果報には、何ら差別がない。 このような利益によって、一切の有情は慇重なる心を起こし、誠実に愛楽し、敬慕の思いから菩提心を発して正しい法を聞き、教えのままに修行すれば、阿羅漢果・辟支仏果、および諸々の菩薩が十地を成就し六波羅蜜を円満することを証得し、ついに仏果・無上正等菩提に至るのである。 さらにこの有情は、他の諸々の有情をも勧め諭し、共に勝れた行いを修めて、ついに無上正等菩提を証得するのである。 このような理由により、菩薩摩訶薩が布施波羅蜜多を修行するとき、たとえ一滴の水を施すだけの利益であっても、真際と等しく、法界と等しく、尽きることがない。 もし布施を行う時に、一切の有情のために無上正等菩提に回向することがなければ、たとえ宝を妙高山のように積んで布施しても、その利益は極めて少ない。それは芥子の種のように容易に尽きてしまい、また一片の雲が風に吹かれてすぐに消え失せるようなものである。」

「復次,慈氏!菩薩摩訶薩修習大乘布施行時,猶如伏藏隨自身行,如如意樹隨有情意能滿彼願。菩薩摩訶薩應當更發二種勝心:一者所有資財庫藏諸物知自性空:猶如陽焰:夢想:幻化;二者於諸有情起大悲心,若見貧窮起憐愍心。發是心已應正了知,於是財寶不應慳悋,手自行施,願與一切有情同證無上正等菩提。如是之財真我所有,設畜財物終不為已,皆為饒益一切眾生,悉皆成就檀波羅蜜。若我積聚種種財物不能自施,如是之物非是我有,用不自在同於裸形,如守藏人自無其分,無常賊來風刀解體,所愛財物、妻妾持去別奉他人。彼人得已倍復慳惜,乃至命終亦復如是,展轉慳悋終不能捨。如是等人暫時守護,以是當知如是資財定非我物,王、賊、水、火及與惡子悉皆有分、常懼侵奪思寄親知、寢息不安恒憂散失。由慳不施招此憂危。

また、慈氏よ。菩薩摩ヒョウが大乗の布施の修行を行う時、それはまるで伏蔵が自らの身に従うかのようであり、如意樹が有情の意に従ってその願いを満たすかのようです。菩薩摩ヒョウは、さらに二つの勝れた心を発すべきです。一つには、全ての財産や倉庫の蔵物は、自らの本性が空であること、陽炎や夢、幻の如くであると知ること。二つには、全ての有情に対して大悲の心を起こし、貧しい者を見れば憐れみの心を起こすことです。この心を発したならば、正しく了知すべきです。すなわち、これらの財宝に対して慳吝であってはならず、自らの手で布施を行い、一切の有情と共に無上正等菩提を証することを願うのです。このような財こそ、真に我が所有するものです。たとえ財物を蓄えても、決して自分のためではなく、全ては一切の衆生を益するためであり、皆が檀波羅蜜を成就するためです。もし私が種々の財物を積み集めながら自ら施すことができなければ、そのようなものは我が所有ではありません。自由に用いることができず、裸形の者と同じであり、財庫の守り人のように自分には分け前がなく、無常の賊が訪れ風刀が体を解くとき、愛する財物や妻妾は奪い去られて他の者に仕えることになります。その者は得た後、更に慳み惜しみ、命終わるまでまた同じように、展転して慳吝を続け、ついに捨てることができません。このような人々は一時的に守護するに過ぎません。これによって知るべきです。すなわち、このような資財は定めて我が物ではなく、王・賊・水・火及び悪子が皆、分け前を持ち、常に侵奪されることを恐れ、親しい者に寄託しようと思い、寝食も安らかでなく、散失することを常に憂えるのです。慳吝によって施さないことから、このような憂いと危険を招くのです。

「復次,慈氏!行此施已,水、火、怨賊不能侵奪,寢息安隱心無憂慮。若自手施迴向發願,彼諸有情方霑其分,乃至佛果恒相隨逐,心常安隱離諸憂怖。若慳悋者常懷憂惱,現在世中諸苦根本,於未來世當知亦然。

また、慈氏よ、この施しを行う者は、水や火、怨敵や盗賊に侵されることがなく、安らかに眠りにつき、心に憂いや思い煩いがありません。自らの手で施しを行い、功徳を他者に回向し発願すれば、その諸々の有情はその施しの分け前にあずかることができます。そして仏果に至るまで、その功徳は常にその人に従い、心は常に安らかで、あらゆる憂いや恐れから遠ざかります。一方、物惜しみする人は常に憂い悩みを抱え、現在の世における諸々の苦しみの根本となり、未来の世においても同様であると知るべきです。

「復次,慈氏!慳悋不施所畜財物,如把草炬逆風而行,草盡燒手當受痛苦;若速棄者則無諸苦。如是知已,當觀此財猶如火炬亦如幻焰,應速捨之求真實果。若慳貪有情互相讚歎:『汝有黠慧守護珍財,莫如愚人妄行惠施。』如是之人謗無因果,當墮地獄,餓鬼,畜生,設得為人常多貧賤。

また、慈氏よ。物惜しみして蓄えた財産を施さないことは、風に向かって草の松明をかざすようなものです。草が燃え尽きれば手を焼き、苦しみを受けるでしょう。しかし、すぐにそれを捨てれば、一切の苦しみはありません。このように知ったなら、この財産は松明の火のようなもの、また幻の炎のようなものだと観じ、速やかにそれを手放して真実の果報を求めるべきです。 もし物惜しみする者たちが互いに褒め合って、「あなたは賢い。財産をしっかり守りなさい。愚か者のように無闇に施しをするものではありません。」と言うなら、そのような人々は因果の道理を否定する者であり、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるでしょう。たとえ人として生まれても、常に貧しく賤しい身となるのです。

「復次,能行施者,國王、大臣、婆羅門、居士之所稱讚,所出言詞人皆信受。慳悋之人不能惠施,常懷憂惱,謂施無福,當墮三塗。

さらに、喜んで施しを行う者は、王様や大臣、バラモン、在家の人々から称賛され、その者の言葉は皆に信じられます。しかし、物惜しみして恵み施しをしない人は、常に憂いや悩みを抱え、「施しには良い報いはない」と考え、やがて三悪道に落ちるのです。

「復次,能施之人一切敬愛,慳貪之輩眾所憎嫌。能布施者如僧伽藍,一切人天悉皆歸向;慳貪之人如陷塜墓,一切賢聖皆悉遠之,亦如涸池眾鳥不集。如是二人處大眾中,若讚於施聞之怡暢,若訶慳悋𧹞而媿之。

また、施しを行う人は全ての人から敬愛され、けちで貪欲な人は大勢から嫌われます。施しをする人は僧伽藍(僧院)のように、すべての人々や天人が帰依し向かうところとなります。けちで貪欲な人は墓穴に落ちた人のように、すべての聖者や賢人が遠ざかります。また、水の干上がった池に鳥が集まらないのと同じです。この二人が大勢の中にいるとき、施しを称賛されればそれを聞いて心は安らぎ楽しくなり、けちで貪欲なことを咎められれば恥じて顔を赤らめるのです。

「復次,行布施者諸天賢聖樂與同處,慳不施者餓鬼、畜生自然會集。

また、施しを行う者は、天や聖者たちと共にいることを喜ばれます。施しを惜しむ者は、餓鬼や獣たちが自然と集まってくるのです。

「復次,行無相施,住第一義,得人法空,能利自他究竟圓滿。

さらに、無相の施しを行い、第一義に安住し、人法の空を得て、自他を利益し究極的に円満する。

「復次,慈氏!若有善男子、善女人,自稱菩薩修行大乘,應當決定正念思惟:『布施功德無量無邊,慳悋過失亦復無量。』如是知已,決定斷除無有障礙。見乞者來,顏色和悅言無譏毀,若聞乞聲歡喜愍念。譬如孝子違離父母五十餘年,忽聞還家不勝喜躍聞。乞者聲亦復如是,迎至家中瞻覩如佛,發如是心:『此善知識今受我施,除我慳貪惡趣過失,無量利益莊嚴我身,無上菩提瑩飾我體。如是乞士著弊垢衣,和顏軟語愍我而來,是我良友。所以者何?除我身中慳貪過惡。此之乞者是我郎主,我即奴僕,應受教命。』發是心已,從座而起,手自捧持所施之物,右膝著地歡喜奉施,願與一切眾生利益安樂,迴向無上正等菩提。復於乞者起利益心:『如是之人即是能行天如意樹,若無是者,如何得度生死曠野,不乏資糧,達於人天涅槃彼岸。』以是當知,人天安樂無上解脫,皆因乞者而得成就。

さらに、慈氏よ。もし善男子・善女人がいて、自ら菩薩と称して大乗を修行するならば、必ず確かな正しい思いを巡らせるべきである。「布施の功徳は限りなく広大であり、慳吝(けちん)の過失もまた限りない」と。このように知ったならば、必ず断じて除き、障りがあってはならない。乞う者が来たならば、顔色を和らげ、言葉に嘲りや悪口を交えず、乞う声を聞けば喜びと哀れみの念を起こせ。例えば、孝養の子が父母と離れて五十余年、忽然と帰って来たと聞けば、喜び勇んで堪えられないのと同じである。乞う者の声を聞くこともまた、これと同じである。家に迎え入れ、仏を見るように敬い瞻仰し、このような心を起こせ。「この善知識は、今、私の施しを受け、私の慳貪と悪趣の過失を取り除き、無量の利益をもって私の身を荘厳し、無上の菩提をもって私の体を飾り清める。このように、乞う者は、垢れた弊衣をまとい、穏やかな顔と優しい言葉で、私を哀れんで来てくれる。これこそ私の良き友である。なぜならば、私の身の中の慳貪の過悪を取り除いてくれるからだ。この乞う者は私の主君であり、私は奴僕である。その教えに従うべきである。」この心を起こしたならば、座より立ち上がり、手ずから施す物を捧げ持ち、右膝を地につけて喜んで施しを捧げ、願わくは一切の衆生と共に利益と安楽を得て、無上正等菩提に回向せよ。また、乞う者に対して利益の心を起こせ。「このような人は、まさに天の如意樹を生み出す者である。もしこの者がいなければ、どうして生死の広野を渡り、資糧を欠くことなく、人天や涅槃の彼岸に達することができようか。」このゆえに知るべきである。人天の安楽と無上の解脱は、みな乞う者によって成就されるのである。

「復次,慈氏!若時乞者至菩薩所起大希望,菩薩是時家貧無物,應當軟語慰諭彼人,無令瞋恨不生疑惑令悉有無。以是因緣歡喜而去。

また、慈氏よ。もしも乞う者が菩薩のもとに来て大きな望みを抱いたとき、菩薩がそのとき貧しくて何も与えられないならば、優しい言葉でその人を慰め、怒らせたり疑いを抱かせたりしてはいけません。そして「あるものもないものもすべてあります」と伝えなさい。このような因縁によって、その人は喜んで去っていくのです。

「復次,菩薩摩訶薩行布施時,應當慈悲寬其心意,所有乞者任彼往來,隨其所須皆不遮悋。

また、菩薩(ぼさつ)・摩訶薩(まかさつ)は布施(ふせ)を行うときは、慈しみと思いやりの心で広く寛容(かんよう)であるべきです。すべての求める者たちが自由に行き来できるようにし、その人々の求めるものに対して、妨げたり惜しんだりしてはいけません。

「復次,慈氏!一切財物,無常敗壞眾苦之本,如身瘡疣鳥持敗肉,其慳悋者不自食用,功德不修復不與人。堅守財寶亦復如是,當知此人非行施者、不名菩薩,於大乘法不發勝心,亦不能成不退轉位。譬如大海不宿死屍,大乘海中不容慳者。菩薩所以修大乘行,為欲遠離一切罪垢、具修功德,於佛法中不生疑慮,於諸有情及諸財寶一切時中心無分別,常行惠施利樂群生。以如是行圓滿布施波羅蜜多,速得成就阿耨多羅三藐三菩提。是則名為第三勝義檀波羅蜜多。」

さらに、慈氏よ。すべての財産は無常であり、やがて滅び、苦しみの根源となる。それはあたかも身体にできたできものや、鳥がくわえた腐った肉のようなものである。物惜しみする者は、自分で使うこともなく、善い行いを積むこともなく、人に与えることもない。財宝を堅く守り続けることも同じである。このような者は施しを行う者ではなく、菩薩とは呼べない。大乗の教えに対して優れた心を起こさず、退転しない境地に達することもできない。例えるなら、大海は死体を宿さないように、大乗の海は物惜しみする者を受け入れない。菩薩が大乗の修行をするのは、あらゆる罪や汚れから遠ざかり、善い行いを十分に積み、仏の教えに疑いを持たず、すべての生きとし生けるものや財宝に対して常に差別の心なく、施しを行い、生きとし生けるものを利し、楽しませるためである。このような行いによって布施波羅蜜多を完成させ、速やかに無上正等覚を成就する。これを第三の勝義檀波羅蜜多という。

大乘理趣六波羅蜜多經卷第四

大乗理趣六波羅蜜多経 巻第四


4 不退轉品
6 淨戒波羅蜜多品

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