大乘理趣六波羅蜜多經卷第六
大乗理趣六波羅蜜多経 巻第六
罽賓國三藏般若奉 詔譯
罽賓国の三蔵般若、詔を奉じて訳す
安忍波羅蜜多品第七
第七章 忍辱波羅蜜多品
爾時,佛薄伽梵顯說如是淨戒波羅蜜多已。時慈氏菩薩即從座起,偏袒右肩右膝著地,頂禮佛足而白佛言:「世尊!菩薩修行安忍波羅蜜多,云何進求而得圓滿,然此安忍復有幾種,若修行者功用如何,唯願開示,我等樂聞。」
その時、仏陀(バガヴァン)がこのように清らかな戒めの完成(浄戒波羅蜜多)を説き終えられました。すると、慈氏菩薩(弥勒菩薩)がただちに座を立ち、右肩を露わにして右膝を地につけ、仏陀の足に頭を触れて礼拝し、こう申し上げました。「世尊よ、菩薩が忍辱の完成(安忍波羅蜜多)を修行するにあたり、どのように進んで求め、それを円満に成就するのでしょうか。また、この忍辱にはいくつの種類があるのでしょうか。修行する者はどのような心構えで臨むべきなのでしょうか。どうかお示しください。私たちは喜んでお聞きいたします。」
爾時佛薄伽梵讚慈氏菩薩摩訶薩言:「善哉,善哉!汝今為欲利益安樂一切眾生,能問如是甚深義趣。汝今諦聽,善思念之,吾今為汝分別解說。善男子!當知生死涅槃悉皆平等,以無分別,是名安忍波羅蜜多。復次,若有愚下狂亂眾生來罵辱者,安忍受之。譬如醉象難可禁制,應以鐵鉤而調伏之。瞋心醉象亦復如是,以忍辱鉤而制禦之,令其調伏,名為安忍波羅蜜多。復次,若諸有情,為彼三十六俱胝天魔鬼神藥叉羅剎而來侵害菩薩,唯將安忍波羅蜜多能破彼軍,乃至八萬四千煩惱怨賊欲摧伏者,亦以安忍而除滅之。非唯如是天魔大軍煩惱怨賊,乃至極下微小怨賊,亦以安忍而調伏之。是名安忍波羅蜜多。復次,譬如王子善習王法,父王崩已次紹王位,當以正法頒告四方,率土之內悉皆奉行五種正法。云何為五?一不斷生命,二不行盜竊,三離欲邪行,四不虛誑語,五不分外賦稅財物。若王境內有犯殺者,其王便獲第六分罪,偷盜邪行及以妄語亦復如是。何以故?若法非法,王為根本,於罪於福第六一分皆屬於王。菩薩摩訶薩亦復如是,心為國土,大悲為王,以五忍法宣布境內,所謂打、罵、忿、恚、戲弄,如是五法皆安忍之,若違犯者獲大重罪。
その時、世尊は慈氏菩薩摩訶薩を称賛して言われた。「善きかな、善きかな。汝は今、一切の衆生を利益し安楽にせんと欲して、かくも深遠なる義趣を問うたのだ。汝は今、よく聴き、よく思念せよ。我は今、汝のためにそれぞれに説き明かそう。
善き男子よ。知るがよい。生死と涅槃は、全て平等であり、分別を離れること、これを安忍波羅蜜多と名づける。
さらに、もし愚かで下劣な、狂乱した衆生が来て罵り辱めるならば、それを安らかに受け止めよ。たとえば、酔った象は制御し難いが、鉄の鉤をもって調伏するように。怒りの心という酔った象もまた同じであり、忍辱という鉤をもって制御し、それを調伏させることを、安忍波羅蜜多と名づける。
さらに、もし諸々の有情が、三十六俱胝もの天魔鬼神や薬叉・羅刹のために、菩薩を害そうとして来たとしても、ただこの安忍波羅蜜多によって、その軍を破ることができる。さらに、八万四千もの煩悩という怨敵を打ち負かそうとする場合も、また安忍によってそれを除き滅ぼすのである。ただ、このような天の魔軍や煩悩の怨敵のみならず、極めて微小な怨敵に至るまでも、また安忍によって調伏するのである。これを安忍波羅蜜多と名づける。
さらに、たとえば王子が王の法をよく学び、父王が崩じた後に王位を継ぎ、正しい法をもって四方に告げ知らせれば、領土の内の全てが五つの正しい法を奉じ行うようなものである。五つとは何か。一つには命を断たないこと。二つには盗みを働かないこと。三つには欲に基づく邪な行いを離れること。四つには虚偽の言葉を語らないこと。五つには定め以上の税や財物を課さないこと。もし王の領内に殺生を犯す者がいれば、その王は第六番目の罪を得る。盗み、邪淫、妄語もまた同じである。なぜならば、法も非法も王を根本とし、罪と福の第六分の一は全て王に属するからである。
菩薩摩訶薩もまた同じである。心を国土とし、大悲を王とし、五つの忍法をもってその領内に宣布する。すなわち、打つ、罵る、怒る、恨む、嘲る。この五つの法を全て安らかに忍ぶのである。もしこれに違反する者は、大きな重罪を得るのである。
「復次,慈氏!譬如農夫欲種植時,為引水故先理溝渠,興功之次中遇山石,穿掘無由於斯便止。菩薩摩訶薩則不如是,於生死流轉大曠野中,欲穿智渠引甘露水,既修習次遇瞋恚石,無方除遣唯有安忍,審諦觀察而穿破之。復次一切國王大臣長者居士,恒以瓔珞而為莊嚴,諸佛法王大菩薩等,常以安忍瓔珞而自嚴身。若遇眾生非理欺負,大悲安忍而救護之。又此安忍與苾芻、苾芻尼而為師範。以信、進、念、定、慧而為樹林、以淨戒為枝葉、於此林內瞋火欻起、焚戒枝葉無由撲滅、以安忍雨而得滅除、現在未來一切苦難永無憂患。無安忍者於現世中、行住坐臥無有安樂、於未來世豈有樂耶?菩薩摩訶薩以安忍力而為甲冑,彼造罪人為旃荼羅,以瞋恚手執妄想弓,放麁語箭射安忍甲,而彼弓箭自然摧折,安忍甲冑一無損壞,其碎弓箭變為蓮花。當知菩薩如是修行,是則名為安忍波羅蜜多。復次,譬如世間阿伽陀藥,能除自他一切毒病。菩薩亦爾,忍伽陀藥能治自他一切瞋恚煩惱毒病,是名安忍波羅蜜多。譬如世間明月寶珠,商主持行度大曠野砂磧之中絕無水處,於夜月中持珠向月,以器承之水即隨出,商主飲之得度曠野。菩薩亦爾,持此安忍明月寶珠,度於生死曠野磧中絕無智水煩惱之處,於佛智月持忍辱珠,承佛法水菩薩飲之,出於生死至涅槃岸。
では、慈氏(弥勒菩薩)よ、もう一度話そう。たとえば農夫が作物を育てようとする時、まず水を引くために溝や水路を整える。しかし、その途中で大きな岩盤に突き当たれば、掘り進むことができず、そこで諦めてしまう。ところが、菩薩摩訶薩はそうではない。生と死が繰り返される広大な荒野の中で、智慧という水路を開き、甘露の水を導こうと努める。その修行の途中で、どうにもできない怒りという岩に直面した時、彼はただ忍耐(忍辱)をもって、それをじっくりと観察し、砕いていくのだ。
さらに言えば、世の王や大臣、長者や在家信者たちは、常に首飾りなどの装身具で身を飾る。しかし、仏法の王である諸仏や大菩薩たちは、常にこの忍耐という飾りを身にまとっている。もしも、道理に合わない仕方で責め苛む者に出会ったとしても、彼らは大いなる慈悲の忍耐をもってその者を救い守るのだ。
また、この忍耐とは、比丘や比丘尼たちにとっての模範でもある。彼らは信仰、努力、心の集中、智慧を林とし、清らかな戒律をその枝葉としている。ところが、その林の中で怒りの火が突然燃え上がり、戒律という枝葉を焼き尽くそうとしても、どうしても消すことができない。しかし、忍耐という雨を降らせれば、その火は消え去り、現在も未来も、あらゆる苦しみや困難から永遠に解放される。
忍耐のない者は、現在の生活においても、歩く、立つ、座る、横たわるというすべての動作に安心がなく、ましてや未来に安楽があるはずもない。そこで菩薩摩訶薩は、忍耐の力を鎧とする。一方、罪を犯す者は、いわば屠殺人(チャンダーラ)のようなもので、怒りの手で妄想という弓を引き、粗暴な言葉という矢を放って、その忍耐の鎧を射ようとする。しかし、そうした弓矢は自然と折れ砕け、忍耐の鎧は少しも傷つかない。折れた弓矢は、やがて蓮の花へと変わるのだ。菩薩がこのように修行することを、まさに安忍波羅蜜多(忍耐の完成)と呼ぶのである。
さらにまた、世の中の阿伽陀薬(万能の解毒薬)は、自分自身と他人のあらゆる毒による病を癒すことができる。菩薩もまた同じで、この忍耐という阿伽陀薬は、自分と他人のあらゆる怒りや煩悩という毒の病を治すことができる。これを安忍波羅蜜多という。
また、世の中に明月宝珠というものがある。商人がこれを持って、広大な荒野や砂漠を旅し、水が全くない場所に行き着いたとする。すると、夜に月がある時、その宝珠を月に向け、器を差し出すと、そこに水が自然と湧き出る。商人はその水を飲んで、荒野を無事に渡り切ることができる。菩薩もまた同じである。この忍耐という明月宝珠を持って、生と死の広大な荒野、智慧の水が全くなく煩悩ばかりの場所を渡ろうとする。そこでは、仏の智慧という月に向かって、忍耐という宝珠を掲げ、仏法という水を器で受ける。菩薩はその水を飲み、生死の迷いの世界を抜け出して、涅槃の岸に至るのである。
「復次,慈氏!譬如大地,一切草木依之得生,一切有情依之而住。安忍亦爾,一切菩薩摩訶薩於十地中修習六種波羅蜜多,依之生長,由斯而住。復次,如有梯隥極為高大,眾生登陟直至梵天。安忍之梯高大亦爾,菩薩登陟至天中天。復次,如巧畫師,畫種種像莊彩成就。安忍畫師亦復如是,莊嚴功德圓滿成就。復次,譬如虛空起大密雲,降注洪雨瀑水汎漲,漂蕩一切草木花果,入殑伽河轉至大海。菩薩亦爾,心如虛空,能起一切大悲密雲,降大法雨安忍瀑流,漂蕩一切瞋恚草木愚癡華果,流入智河轉至涅槃清淨大海。復次,菩薩雖見生死流轉諸苦,以安忍力代為受之,經無量劫不辭厭倦,亦無棄捨而取涅槃。復次,菩薩摩訶薩以安忍力,能捨一切頭目髓腦身肉手足及與身命,心無悋惜。凡夫無智,聞之驚怖身毛皆竪,何能捨之?菩薩如是以安忍力,所生之處容貌端正,一切眾生之所樂見,於大會中常為諸佛之所稱歎。
「さらに、慈氏よ。譬えば大地が、一切の草木を生み育て、一切の衆生を支えて住まわせるように、安忍(忍耐)もまた同じである。一切の菩薩摩訶薩は、十地において六種の波羅蜜多を修行するが、その修行は安忍に依って成長し、安忍によって安住するのである。
さらに、譬えば、非常に高い梯子があり、衆生がそれを登って梵天にまで至るように、安忍という梯子もまた高く大きく、菩薩はそれを登って天中の天(仏陀)に至るのである。
さらに、譬えば、巧みな絵師が様々な絵を描き、色彩を施して完成させるように、安忍という絵師もまた、功徳を荘厳して円満に成就させるのである。
さらに、譬えば、虚空に大きな密雲が起こり、大雨を降らせて洪水が溢れ、一切の草木や花果を流し去り、ガンジス川に入り、さらに大海に至るように、菩薩もまた、心が虚空の如く、一切の大悲の密雲を起こし、大いなる法の雨である安忍の奔流を降らせ、一切の怒りの草や愚痴の花果を流し去り、智慧の川に入り、涅槃の清らかな大海に至るのである。
さらに、菩薩は、生死の流転における様々な苦しみを見ても、安忍の力によって代わりにそれを受ける。無量の劫の間も倦むことなく、また涅槃に入ることを捨てることもない。
さらに、菩薩摩訶薩は安忍の力によって、一切の頭、目、髄、脳、身の肉、手足、そして生命までも捨てることができ、心に惜しむことがない。しかし、智慧のない凡夫はこれを聞いて驚き恐れ、身の毛がよだつ。どうしてこれを捨てることができようか。菩薩はこのように安忍の力によって、生まれるところでは容貌が端正であり、一切の衆生から喜ばれ、大いなる集いの中では常に諸仏から称賛されるのである。」
「復次,菩薩摩訶薩安住忍力堅固不動。如妙高山,旋嵐猛風所不能動。忍妙高山亦復如是,瞋恚猛風所不能動。復次,一切外道因惡知識,生邪見心修諸苦行——裸形自餓、五熱炙身、投巖赴火——謂得生天不信正法。菩薩見已起大悲心,示同苦行倍過於彼,是諸外道尊敬菩薩以為師範,然後導之示以正法,令彼邪徒住於正見。復有外道而作是言:『此身有我住在心中,如大母指而無障礙亦無形相,唯天眼者方得見之。而此眼根為我侍者,眼既得已尋報我知,耳鼻舌身意亦如是。以此因緣,若有眾生毀罵我者,人能殺之得生天上,忍受罵者死墮三塗。譬如多人同事一將,若毀我將眾共殺之,若不殺者眾人有罪。』菩薩以安忍力愍彼邪見,皆忍受之,以種種方便除彼邪見。譬如時雨,隨彼草木而能滋潤增長成實。菩薩安忍亦復如是。」
また、大菩薩は忍びの力をしっかりと保ち、揺るぎなく堅固にあります。それはまるで、高くそびえる妙高山(みょうこうせん)が、激しい旋風(せんぷう)によっても動かされないのと同じです。忍びの心の妙高山もまた、怒りの激しい風によって動かされることはありません。
さらに、あらゆる外道は悪知識によって、邪な見方を起こし、裸で飢えに耐えたり、五熱(ごねつ)で身を焼いたり、崖から飛び降りたり、火の中に飛び込んだりといった苦行を修めて、「この行いによって天に生まれ変われる」と信じ、正しい教えを信じません。その姿を見た菩薩は大いなる慈悲の心を起こし、彼らと同じ苦行を自ら行い、しかもそれをはるかに超える厳しさで実践します。そうして外道たちが菩薩を尊敬し、師範と仰ぐようになってから、正しい教えを示して導き、彼らの邪な仲間を正しい見方へと導くのです。
また、ある外道はこう言います。「この身体には我(が)が存在し、心の中に宿っている。その大きさは親指ほどで、何の障りもなく、形もない。ただ天眼を持つ者だけがそれを見ることができる。そして、この眼根(げんこん)は我がための召使であり、眼がものを捉えるとすぐに我に知らせる。耳、鼻、舌、身、意もまた同じである。このような因縁(いんねん)があるから、もし人が私をののしり罵るなら、その人を殺すことで天に生まれ変われる。一方、罵るのを耐え忍ぶ者は、死んで三悪道(さんあくどう)に落ちる。例えるなら、多くの人が一つの将軍に仕えているようなものだ。もし誰かが我が将軍をののしるなら、皆でその者を殺すべきである。もし殺さなければ、その人々には罪が生じる。」
菩薩は安忍(あんにん)の力によって、このような邪な見方を哀れみ、それらをすべて耐え忍び、様々な方法で彼らの邪見を取り除きます。それは、ちょうど季節の雨が、草木に応じて潤いを与え、成長させ、実を結ばせるように、菩薩の安忍もまたそのように働くのです。
爾時薄伽梵而說頌言:
その時、世尊は次のように詩句を唱えられた。
「如天欲雨蟻出穴, 聚土為封作穴居,
父母不淨集成身, 妄識於中執為我。
相續色力恃豪強, 智者諦觀如幻焰,
一念之頃作微塵, 如象蹈封皆散壞。
眴息剎那速生滅, 行住坐臥皆為苦,
若了色身苦無常, 智人於此何貪著。
諸天梵住苦行者, 毒虵視觸無能害,
設有中傷呪藥解, 無常毒螫誰為救。
善法易修悉棄捨, 欲樂敗類苦貪求,
智者觀之無所成, 猶如垢衣欝金染。
雨が降る前、蟻が巣から出て 土を積み上げて塚を作り、その中に巣食うように、
父母の不浄が集まってこの身が成り、 誤った意識がその中に「私」があると執着する。
身と心が続き、体力が強くなるのに頼るが、 賢者はよく観察して、幻や陽炎のようだと知る。
一瞬の間にも微塵となり、 象が堤防を踏み壊すように、すべては散り失せる。
瞬きするほどの刹那に速やかに生まれ滅び、 歩く、立つ、座る、横たわるすべてが苦しみである。
もしこの色身が苦しく、無常であると知ったなら、 賢者がどうしてこれに貪り執着するだろうか。
諸天の梵天や苦行をする者たちは、 毒蛇の視線や接触も害することができない。
たとえ傷つけられても呪術や薬で癒せるが、 無常の毒に刺されれば、誰が救えるだろうか。
善い法は易しく修められるのにすべて捨て去り、 欲楽に溺れる者は苦しみながら貪り求める。
賢者がこれを観察しても何も成就せず、 それはちょうど、汚れた衣に鬱金を染めるようなものだ。
「菩薩摩訶薩應為外道說無我法:『汝所執我,為在內耶?為在外耶?前際來耶?後際去耶?汝言有者,汝命終時應不能救,既不能救,明知無我。譬如忠臣一心奉主,若在危難主必救之,今既不能,定知無我。若有我者應得自在,云何乃被無常壞耶?而諸眾生被無常鬼眾苦所逼,肢節分離奄然而逝,若有我者應得免之,既不免離故知無我。以是因緣,汝諸外道從無始來奉事於我,造諸惡業受苦無窮。當知此我無少恩分,汝久事他捨汝而去,遂將汝身付諸惡獸犲狼虎豹而為噉食,然我棄汝別覓餘身,從無始來捐棄汝等,若計其數無量無邊,現在未來亦復如是。復次,汝若謂心即是神我,身為僮僕,當知此身即是我所,從無始來受身無量莫知其數。如是諸身,為一我耶?為多我耶?若我多者即是無常,以無常故我義不成。若我是一即應常住,恒守一身不應移去,以不住故一亦不成。由此因緣汝應思察,多我一我義並不成。以是當知,心非是我。復當觀察,身非我所亦非僮僕。身若屬我,行住坐臥生老病死須我處分,我未教勅相次而來,明不屬我。若屬我者,生應常生不應老死,行住坐臥亦復如是,改易非常定非我所。以此定知無我我所。復次當知,所執我者汝之大怨。何以故?汝於前世積集善根,五欲果報今世受盡,現在造作種種惡業,以業力故付與獄卒。若有我者何不相救?』菩薩摩訶薩以安忍力,於我我所惡鬼之中,救拔有情置正見處,離我我所,見一切法本性空寂,是名菩薩修習安忍波羅蜜多。
「菩薩摩様は、外道に対して「無我」の法を説くべきです。『あなたがたが執着する「我」とは、内側にあるのでしょうか?外側にあるのでしょうか?過去から来たものですか?未来へ去っていくものですか?もし「我」があるというのなら、あなたが命終える時、その「我」はあなたを救えないはずです。救えないのなら、「我」がないことは明らかです。例えば、忠臣が一身に主君に仕えても、主君が危難にあれば必ず救うものですが、今それができない以上、「我」がないと知るべきです。もし「我」があるなら、自在であるべきなのに、どうして無常に壊されてしまうのでしょうか?あらゆる衆生は無常の鬼に苦しめられ、多くの苦しみに迫られ、四肢が分離して静かに逝ってしまいます。もし「我」があるなら、これを免れられるべきです。免れられない以上、「我」がないと知るべきです。このような理由から、あなたがた外道は無始以来、「我」に仕え、さまざまな悪業を造り、無限の苦しみを受けてきました。この「我」には、わずかな恩恵もないことを知るべきです。あなたが長く仕えた「我」は、あなたを捨てて去り、あなたの身体を獣や狼、虎、豹に与えて食わせます。そして「我」はあなたを捨てて、別の身体を探します。無始以来、あなたがたを捨て続けてきたその数を数えれば無量無辺であり、現在や未来もまた同様です。また、もし心が神我であり、身体がその召使いであると言うなら、この身体は「我所」(我に属するもの)であることを知るべきです。無始以来、受けた身体は無量で、その数は知れません。こうした多くの身体は、一つの「我」なのでしょうか?それとも多くの「我」なのでしょうか?もし「我」が多いなら、それは無常であり、無常である以上「我」の義は成立しません。もし「我」が一つなら、それは常住であり、常に一つの身体を守って移り変わるべきではないのに、移り変わることから、一つでも成立しません。この理由から、あなたはよく考えるべきです。多くの「我」も一つの「我」も、いずれも成立しません。よって、心は「我」ではないと知るべきです。さらに、身体は「我所」ではなく、召使いでもないと観察すべきです。もし身体が「我」に属するなら、行住坐臥、生老病死はすべて「我」の指示を待つべきですが、「我」が命じる前に、次々と起こってきます。これは明らかに「我」に属さないことを示しています。もし属するなら、生は常に生まれ、老いたり死んだりしないはずです。行住坐臥も同様であり、変化して常住ではない以上、確かに「我所」ではありません。これによって、「我」と「我所」がないと確かに知るべきです。さらに、あなたが執着する「我」は、あなたの大いなる怨みであることを知るべきです。なぜなら?あなたは前世で善根を積み、五欲の果報を今世で享受し尽くしました。そして現在、様々な悪業を造り、その業の力によって地獄の獄卒に引き渡されます。もし「我」があるなら、なぜ救わないのでしょうか?』菩薩摩様は安忍の力をもって、「我」と「我所」という悪鬼の中から、有情を救い出し、正しい見解の場所に置き、「我」と「我所」を離れ、すべての法の本性が空であり寂静であることを見ます。これを菩薩の安忍波羅蜜多の修行と名づけます。」
「復次,慈氏!猶如有人為護子故造作呪術,令諸惡鬼不得侵害。菩薩亦爾,用安忍呪護諸眾生,瞋等怨賊無能損害。
「また、慈氏よ。例えば、ある人が我が子を守るために呪術を作り、あらゆる悪鬼が子に害を及ぼせないようにするように、菩薩もまた、忍びの心という呪いをもってすべての生きとし生けるものを守り、怒りなどの怨敵が彼らを傷つけることができないようにするのである。」
「復次,慈氏,譬如有人為刺刺腳,欲以諸皮遍覆大地,於上遊行免有憂患。智者問曰:『汝所求皮,欲作何事?』此人具報如上因緣。智者訶云:『咄哉愚人!不應如是。但以少皮用充革屣,足得行李不被損傷,何用多皮覆於大地?』凡夫眾生亦復如是,遍造怨害,持刀欲殺大地怨家。菩薩見之深生悲愍,但以安忍而為革屣護汝身心,何有眾怨持刀遍害,是則名為安忍波羅蜜多。譬如有人以毒惡言種種毀罵,菩薩聞之,不應卒暴而起瞋心,當觀察之:『如是罵者為是誰耶?受毀罵者復是誰耶?彼此二身各十二處——眼處見色、耳處聞聲、鼻處嗅香、舌處甞味、身處覺觸、意處知法——而是眼處實非是我,若非我者,自他眼處誰過失耶?若有過者應須治罰。』如是觀察俱無過失,既無過失誰受誰罵而瞋恚耶?如是觀察,乃至法處亦復如是。十二處外更無一物,罵者受者二俱是空。以此思惟瞋心頓息。若聞麤語應諦觀察:『如是語言何者是麤?麤語二字生不同時,麤時非語、語時非麤,剎那生滅各不相待。二字尚無況多毀罵。』以是觀察百千劫中,作是麤言不成罵辱。又復觀察能罵之人及所罵法,二俱無常剎那不住,何有瞋耶?以是當知,過去已滅、未來未至、現在不住,罵法既空,我身亦爾,同彼無常生滅不住,以不住故一切皆空。作是觀時,無量怨賊一時消滅。若離此觀取相分別,但名安忍,不得名為波羅蜜多。五蘊無我乃至十八界等,悉亦無我、如幻如化,毀讚平等本性空寂亦復如是。
また、慈氏よ。譬えば、ある人が棘に足を刺され、その痛みから逃れるために、地面全体を皮で覆って歩こうと考えたとする。そこに賢者が現れて「お前はその皮で何をしようというのか」と尋ねると、その人は事情を説明した。すると賢者は「愚か者よ、そうすべきではない。ほんの少しの皮で靴を作れば、足を傷つけずに歩けるではないか。なぜ広大な大地をすべて皮で覆おうとするのか」と叱った。 凡夫の衆生もこれと同じである。あらゆる場所に怨みを抱き、刀を持って大地中の怨敵を殺そうとする。しかし菩薩はこれを見て深く悲愍し、ただ忍びの心を靴として、あなたの身心を守る。いったい、あらゆる怨みを抱いて刀を持ち、広く害そうとする者があろうか。これを安忍波羅蜜多というのである。 譬えば、ある人が毒々しい悪口でさまざまに罵倒したとする。菩薩はそれを聞いても、すぐに怒りの心を起こしてはいけない。次のように観察すべきである。「この罵る者は誰か。罵られている者は誰か。この両者の身体は、それぞれ十二処(眼・耳・鼻・舌・身・意とその対象)から成っている。眼の処は色を見、耳の処は声を聞き、鼻の処は香を嗅ぎ、舌の処は味を嘗め、身体の処は触れ、意の処は法を知る。しかし、この眼の処は決して私ではない。私でないならば、私と他の者の眼の処に、いったい過失があるだろうか。もし過失があるならば、それを罰すべきだ。」 このように観察すれば、どちらにも過失はない。過失がないならば、誰が罵り、誰が罵られているというのか。それなのに、どうして怒りの心が起きようか。このように観察すれば、意の処についても同様である。十二処の他には何ものもなく、罵る者も罵られる者も、共に空である。このように思惟すれば、怒りの心はたちまち消える。 もし荒々しい言葉を聞いたならば、よく観察すべきである。「この言葉の中の何が荒々しいのか。『荒々しい言葉』という二つの字は、同時に生じることはない。『荒々しい』が生じている時は『言葉』ではなく、『言葉』が生じている時は『荒々しい』ではない。刹那ごとに生滅し、互いに待つことはない。二つの字でさえそうなのだから、まして多くの言葉による罵倒などなおさらである。」 このように観察すれば、百千劫もの間、このような荒々しい言葉を吐いても、それは罵倒とはならない。さらにまた、罵る人と罵られるという法の両方も、無常であって刹那もとどまらず、どこに怒りがあろうか。このように知るべきである。過去はすでに滅し、未来はまだ来ず、現在もとどまらない。罵るという法がすでに空であるように、私の身体もまた同様に、無常であり生滅してとどまらない。とどまらないがゆえに、すべては空である。 このように観想する時、無量の怨敵は一時に消え去る。もしこの観想を離れて、形相に執着して分別するならば、それはただの安忍と呼ばれ、波羅蜜多とは呼ばれない。 五蘊に我はなく、十八界などもまた、すべて我はなく、幻や変化のようである。毀りも誉めも平等であり、本性は空にして静かであることも、また同じである。
「復次,慈氏!菩薩摩訶薩見毀罵者當生憐愍:『如是之人瞋魔所持、煩惱所覆作是毀罵。我今為欲辟除此魔,應善修學忍陀羅尼不生瞋恨,無令瞋恚及餘煩惱損害眾生。我若瞋者,鬼魅我身。』由此因緣,於彼罵者生大悲愍而安忍之。雖能如是但名安忍,若離分別是則名曰波羅蜜多。
また
「復次,慈氏!菩薩摩訶薩行安忍時,若見有人執持利刀斷其手足,當於是人生欣慰心善知識想,猶如有人施己歡悅——我於今者得大福報,於彼受者常懷恩德,傍人見之皆生隨喜。菩薩亦爾,見割截者生大慶慰:『除我罪業、施我法財,由為我故受惡名稱,失於人天解脫之樂、受三塗苦。以是因緣,為我善友作我良伴,成我安忍波羅蜜多。我於彼人應生敬重,乃至菩提不忘恩德,況反生瞋。若起瞋恚,是負恩德。』由是緣故,倍生敬心作善師想。雖能如是難忍能忍,由於自他未亡分別,但名安忍,不得名為波羅蜜多。
また、慈氏よ。菩薩摩訶薩が安忍を行う時、もしある人が刃物を持ってその手足を断つのを見たなら、その人に対して欣慰の心を起こし、善知識と思うべきである。まるで人が自ら喜んで施しをするのを見るように——「私は今、大いなる福報を得た。この受ける者に対して常に恩恵と徳を思い、見る者も皆、共に喜ぶ」と。菩薩もまた同じである。断たれる者を見て大いに慶び慰める。「私の罪業を除き、私に法の財を施してくれる。私のために悪い名前を受け、人天の解脱の楽を失い、三途の苦しみを受ける。この因縁によって、私の善友となり、良き伴侶となり、私の安忍波羅蜜多を成就させる。私はその人に対して敬重の心を起こし、菩提に至るまで恩徳を忘れない。ましてや逆に怒ることなどあろうか。もし怒りを起こせば、それは恩徳に背くことになる」と。このような因縁によって、ますます敬う心を倍にし、善き師と思うのである。このように、耐え難きに耐えることができても、未だ自他の区別を滅し尽くしていなければ、それはただの安忍であり、波羅蜜多とは呼ばれない。
「復次,菩薩住閑寂處,而有人來謗菩薩言:『汝不與取、作婬欲行,打罵治罰。』菩薩摩訶薩而安忍之,作是思惟:『非他過失,是我宿世曾謗於他、打罵治罰,以我餘殃招彼治責。彼因害我當墮惡趣,應於是人生大悲愍。』復自思惟:『我今此心極為姧詐,畏墮地獄生安忍心,又欲自成忍波羅蜜,令割截者當墮三塗。』如是思惟深生慚媿,菩薩是時見己過已,於割截者生媿惡心善知識想,深生尊重,但名安忍,非波羅蜜多。何以故?由於自他有分別故。
また、菩薩が閑寂な場所に住んでいる時に、誰かが来て菩薩を誹謗して言う。「あなたは与えられていない物をとり、淫らな行いをし、打ち、罵り、罰した」と。菩薩はこれを耐え忍び、こう考える。「これは他者の過ちではない。私が過去世において他者を誹謗し、打ち罵り罰したのだ。その残った災いが、今、この責めを受ける原因となった。彼は私を害したことで、悪道に堕ちるだろう。この人に対して大いなる悲愍の心を起こすべきである」と。
さらに自ら考える。「今の私のこの心は、極めて欺瞞に満ちている。地獄に堕ちるのを恐れて耐え忍ぶ心を起こし、また自ら忍辱波羅蜜を成就しようとして、私を切り裂く者を三悪道に堕とそうとしている」と。このように考えて深く慚愧の念を生じる。菩薩はこの時、自らの過ちを見て、自分を切り裂く者に対して、慚愧と「悪心の善知識」という想いを抱き、深く尊重する。しかし、これはただの「安忍」であり、波羅蜜多ではない。なぜなら、自他について分別があるからである。
「復次,菩薩了瞋恚法諸苦所因,知行安忍萬行根本。以是因緣而行安忍,但名安忍,非波羅蜜多。何以故?由於善惡生分別故。
また、菩薩は、怒りの心によってあらゆる苦しみが生じる原因となることを理解し、忍耐の実践がすべての修行の基礎となることを知ります。この理由から忍耐を行じても、それは単なる「忍耐」であり、波羅蜜多(完成された修行)とは呼べません。なぜなら、善悪の区別をまだ立てているからです。
「復次,菩薩觀五蘊身五種過失,眾苦所集剎那無常,五種不淨、三十六物,無我我所一切皆空。外道邪見執身安樂,常住無變是清淨法,有我我所。菩薩諦觀此五種法,一切有情亦復如是。既知是已,聞罵不瞋、讚譽不喜,但名安忍,非波羅蜜多。
さらに、菩薩は五蘊の身体に五つの過失があると観じます。様々な苦しみが集まり、刹那ごとに無常であり、五種の不浄、三十六の物質から成り、私も私の所有するものもなく、すべては空です。外道の間違った見解は、身体が安楽であると執着し、常住で変わらず、清浄な法であり、私と私の所有するものがあるとします。菩薩はこれら五つの法を正しく観じ、すべての有情もまた同じであると知ります。これを知ったならば、罵られても怒らず、誉められても喜ばず、これをただ「安忍」と呼びますが、「波羅蜜多」ではありません。
「復次,慈氏!略說菩薩安忍三十二種。所謂無貪是安忍,不害是安忍,無熱惱是安忍,無瞋是安忍,無恨是安忍,無忿是安忍,無諍論是安忍,不染欲境是安忍,能護自他是安忍,順菩提心是安忍,無分別心是安忍,不著生死是安忍,順業果是安忍,身清淨是安忍,口意清淨是安忍,堅固不退是安忍,言說自在是安忍,無遍計是安忍,自覺聖智是安忍,將護彼意是安忍,修四梵行不隨禪生是安忍,於人天樂得自在是安忍,相好圓滿是安忍,梵音深妙是安忍,滅除諸惡是安忍,遠離慳垢是安忍,除斷嫉妬是安忍,捨諸怨賊是安忍,近菩提分是安忍,離諸不善是安忍,樂處寂靜是安忍,獲諸佛法是安忍。慈氏!如是三十二種安忍波羅蜜多,菩薩修行能得無生法忍,速成阿耨多羅三藐三菩提。
また、慈氏よ、菩薩の安忍について三十二種を簡潔に説こう。すなわち、貪りがないことが安忍であり、害さないことが安忍であり、熱悩がないことが安忍であり、怒りがないことが安忍であり、恨みがないことが安忍であり、憤りがないことが安忍であり、争いがないことが安忍であり、欲の対象に染まらないことが安忍であり、自他を守れることが安忍であり、菩提心に従うことが安忍であり、分別心がないことが安忍であり、生死に執着しないことが安忍であり、因果の業に従うことが安忍であり、身が清らかであることが安忍であり、口と意が清らかであることが安忍であり、堅固で退かないことが安忍であり、言葉が自在であることが安忍であり、妄想分別がないことが安忍であり、自ら聖なる智慧を覚ることが安忍であり、他者の心を思いやることが安忍であり、四つの梵行を修めても禅定の果報に従わないことが安忍であり、人天の楽において自在を得ることが安忍であり、相好が円満であることが安忍であり、梵音が深く妙なることが安忍であり、諸々の悪を滅ぼすことが安忍であり、慳吝の汚れを遠ざけることが安忍であり、嫉妬を断ち除くことが安忍であり、怨みや賊を捨てることが安忍であり、菩提の部分に近づくことが安忍であり、諸々の不善を離れることが安忍であり、寂静に安住することを楽しむことが安忍であり、諸々の仏法を得ることが安忍である。
慈氏よ、これらの三十二種の安忍波羅蜜多を菩薩が修行すれば、無生法忍を得て、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就するであろう。
「復次,慈氏!云何名為安忍波羅蜜多?若人惡罵,當觀此聲猶如谷響。若被打時,當觀此身猶如鏡像。若被瞋時,當觀此心猶如幻化。若見忿怒,當觀此心性無諠動。若得利養,當觀此心自性調伏,不生歡喜。若失利養,當觀此心善妙寂靜,不生瞋恚。若遭毀謗,當觀此身猶如虛空,不應加報。若遇讚譽,當觀自身性無我慢而不高舉。若得稱歎,當觀心性本來空寂,不生忻慰。若被譏嫌,當觀本心性離怖畏,不生憂慼。若遇苦時,當觀法性本無逼迫,不見苦相。若受樂時,當觀實性常住不變,無苦樂相。菩薩摩訶薩住安忍時,如是八風不能動轉。何以故?以菩提心住真實相,離於彼我、見法身故。復次,有不安事皆忍受之,為欲降伏諸魔怨故。當行一切難行苦行,為調外道諸邪見故。慈氏!當知我今略說安忍波羅蜜多。
「また、慈氏よ。何を以て安忍波羅蜜多と名づけるのか。もし人が悪口を言われたら、この声は谷のこだまの如くであると観じなさい。もし打たれた時は、この身は鏡の中の像の如くであると観じなさい。もし怒りが生じた時は、この心は幻の如くであると観じなさい。もし忿怒を見たら、この心の本性には騒ぎ動くものがないと観じなさい。もし利養を得たら、この心の自性は調えられており、喜びを生じないと観じなさい。もし利養を失ったら、この心は善く妙に寂静であり、怒りを生じないと観じなさい。もし誹謗に遭ったら、この身は虚空の如くであり、報復すべきでないと観じなさい。もし称賛に遇ったら、自身の本性には我慢がなく、高ぶらないと観じなさい。もし誉められたら、心の本性は元々空寂であり、喜びを生じないと観じなさい。もし非難されたら、本来の心の本性は怖れを離れており、憂い悲しみを生じないと観じなさい。もし苦しみに遇ったら、法の本性は本来逼迫がなく、苦しみの相は見えないと観じなさい。もし楽しみを受けたら、実の本性は常住不変であり、苦楽の相はないと観じなさい。菩薩摩訶薩が安忍に住する時、このような八風も動かすことはできない。それは何故か。菩提心が真実の相に住し、彼と我を離れ、法身を見るからである。また、もし安らかでない事があっても、すべてこれを受け忍ぶ。それは諸々の魔の怨みを降伏しようがためである。あらゆる難行苦行を行うべきである。それは外道の諸々の邪見を調えようがためである。慈氏よ、知るがよい。私は今、安忍波羅蜜多を略説したのである。」
「復次,慈氏!若觀無常離彼我相,心得安忍,非真實忍。若觀諸法善不善相,心得安忍,非真實忍。若復諦觀十二處忍,於諸根、塵離恚罵相而得安忍,非真實忍。若觀恚罵以為顛倒,忍為真正。辯邪正忍,非真實忍。復次,見忍有理、恚罵無理,此取相忍,非真實忍。復次,住八正忍、離八邪忍,道非道忍,非真實忍。復次,不觀諸法無常、無我、不淨、苦忍,唯觀諸法常、樂、我、淨,無生法忍,此相違忍,非真實忍。復次,於空法忍,諸見不忍;無相法忍,有相不忍;無願法忍,有願不忍;無行法忍,有行不忍;無煩惱法忍,有煩惱不忍;諸善法忍,非善不忍;出世法忍,世間不忍;無過法忍,有過不忍;無漏法忍,有漏不忍;涅槃法忍,生死不忍。如是諸忍,是對治忍,非究竟忍。」
また、慈氏よ。無常を観じて我相と他相を離れることで心に安忍を得ても、それは真実の忍びではありません。諸法の善と不善の相を観じて心に安忍を得ても、それは真実の忍びではありません。さらに十二処を仔細に観じて、諸々の根や塵について怒りの罵りを離れることで安忍を得ても、それは真実の忍びではありません。怒りの罵りを顛倒と見なして忍びが真実であるとし、邪正を弁別する忍びも、真実の忍びではありません。また、忍びには道理があり怒りの罵りには道理がないと見ることは、相を取る忍びであり、真実の忍びではありません。さらに、八正道に安住し八邪道を離れる忍び、道と非道を分ける忍びも、真実の忍びではありません。また、諸法の無常・無我・不浄・苦を観ぜずに、ただ諸法の常・楽・我・浄を観じて得る無生法忍は、これらに相反する忍びであり、真実の忍びではありません。さらに、空の法には忍び、諸々の見解には忍びないこと、無相の法には忍び、有相には忍びないこと、無願の法には忍び、有願には忍びないこと、無行の法には忍び、有行には忍びないこと、無煩悩の法には忍び、有煩悩には忍びないこと、諸々の善法には忍び、非善には忍びないこと、出世間の法には忍び、世間には忍びないこと、無過の法には忍び、有過には忍びないこと、無漏の法には忍び、有漏には忍びないこと、涅槃の法には忍び、生死には忍びないこと――こうした諸々の忍びは、対治のための忍びであり、究極の忍びではありません。
爾時,慈氏菩薩摩訶薩白佛言:「世尊!如是忍者既非究竟,云何名曰究竟忍耶?唯願如來分別解說。」
その時、慈氏菩薩(弥勒菩薩)が仏に申し上げた。「世尊(お釈迦様)、そのような忍び(忍耐・許容)は、究極のものではないのであれば、どのようにして『究極の忍び』と名付けるのでしょうか。どうか如来様が詳しくお示しください。」
爾時薄伽梵告慈氏菩薩摩訶薩言:「善男子!真實忍者,以正智慧了一切法本性皆空,即此空性與一切法本性無二故,一切法性、空性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。以是當知,世間法即是空,空即是世間法,二法本性不相離故。如是忍者名究竟忍。
その時、尊き師(薄伽梵)は慈氏菩薩摩訶薩に告げられた。 「善男子よ。真実の忍とは、正しい智慧をもって、あらゆるものごとの本性がすべて空であると理解することである。この空の性質と、すべてのものごとの本性とは別のものではなく、本性において一つである。したがって、すべてのものごとの本性、空の性質、そして正しい智慧の本性は、もとから清らかであり、二つではなく、分けられるものではなく、別のものでもなく、断ち切られるものでもない。これを知るがよい。世の中のあり方そのものが空であり、空そのものが世の中のあり方である。この二つの本性は互いに離れることがないのである。このように理解する忍こそを、究竟の忍と呼ぶのである。」
「復次,以正智慧了一切法性即無相性,無相性即一切法,本性無二故。一切法性本無相性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。以是當知,一切法即無相,無相即一切法,二法本性不相離故。如是忍者名究竟忍。
さらに、正しい智慧をもって、あらゆる法則の本質には形がないことを理解する。形がないという本質こそが、あらゆる法則そのものであり、もともと二つに分かれていないからである。あらゆる法則の本質は、もともと形がなく、正しい智慧の本性は清らかであり、二つではなく、二つに分かれることもなく、区別もなく、途切れることもない。したがって知るべきである。あらゆる法則は形がなく、形のないものがあらゆる法則である。この二つの法則の本性は、もともと互いに離れていないのである。このように受け入れることを、究極の受け入れと呼ぶ。
「復次,以正智慧了一切法性即無願性,無願性即一切法性,本性無二故。無願性、一切法性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。是以當知,一切法即無願,無願即一切法,二法本性不相離故。如是忍者名究竟忍。
さらに、正しい智慧をもって、あらゆる法の本質がまさに「無願」の性質であると理解する。無願の性質がすなわちあらゆる法の性質であり、本来の性質に区別はないからである。無願の性質とあらゆる法の性質は、正しい智慧の本質として本来清らかであり、二つではなく、区別もなく、別れず、断たれることもない。したがって、知るべきである。あらゆる法は無願であり、無願はすなわちあらゆる法である。この二つの法は、本性として互いに離れることがないからである。このように悟ることを、究極の忍び(究竟忍)という。
「復次,以正智慧了一切行性即無行性,此無行性與一切行性,本性無二故。一切行性無行性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。乃至如是忍者是究竟忍。
さらに、正しい智慧によって、すべての行いの性質は本来「行いのない性質」であると悟る。この「行いのない性質」と「すべての行いの性質」は、本来、区別がないからである。すべての行いの性質が「行いのない性質」であるという正しい智慧は、本来、清らかであり、二つではなく、二つに分かれることもなく、別のものでもなく、断たれることもない。このようにして得られる忍びが、究極の忍びである。
「復次,以正智慧了煩惱性即無煩惱性,無煩惱性則煩惱性,本性無二故。煩惱性、無煩惱性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。乃至如是忍者是究竟忍。
さらに、正しい智慧をもって煩悩の本質を観れば、それはすなわち煩悩なき本質である。煩悩なき本質こそが煩悩の本質であり、もともと二つに分かれていないからである。煩悩の本質と煩悩なき本質は、正しい智慧の本質において本来清らかであり、二つではなく、区別もなく、分断もないのである。このようにして、この忍びを究極の忍びとする。
「復次,以正智慧了一切善性即不善性,不善性即一切善性,本性無二故。善性、不善性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。乃至如是忍者是究竟忍。
さらに、正しい智慧によって、あらゆる善なる性質がすなわち不善なる性質であり、不善なる性質がすなわちあらゆる善なる性質であると悟ります。その本性には区別がないからです。善なる性質も不善なる性質も、正しい智慧の本性はもともと清らかであり、二つではなく、二つに分かれることもなく、区別もなく、断たれることもありません。このように了承する者こそが、究極の忍耐を実践しているのです。
「復次,以正智慧了出世法性即世間法性,世間法性即出世間法性,本性無二故。出世法性、世間法性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。乃至如是忍者是究竟忍。
さらに、正しい智慧をもって理解すべきである。世間を超えた法の本質は、すなわち世間の法の本質であり、世間の法の本質は、すなわち世間を超えた法の本質である。なぜなら、その本性に区別はないからだ。世間を超えた法の本質と世間の法の本質は、正しい智慧のもとでは、本来、清らかであり、区別も、二つに分かれることもなく、差異も、断絶もない。このようにして、この道理をあるがままに受け入れること、それを「究竟の忍び」と呼ぶのである。
「復次,以正智慧了無過失性即過失性,過失性即無過失性,本性無二故。無過失性,過失性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。乃至如是忍者是究竟忍。
さらに、正しい智慧によって理解すべきである。過ちのない性質こそが過ちの性質であり、過ちの性質こそが過ちのない性質である。その本性は二つではないからである。過ちのない性質と過ちの性質、正しい智慧の本性は本来清らかであり、二つでもなく、二つに分かれることもなく、区別もなく、断絶もないのである。このようにして、このような忍びこそが究極の忍びである。
「復次,以正智慧了無漏法性即有漏法性,有漏法性即無漏法性,本性無二故。無漏法性、有漏法性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。乃至如是忍者是究竟忍。
さらに、正しい智慧によって無漏の法性(煩悩を離れた真理の本質)を理解すれば、それはそのまま有漏の法性(煩悩に染まった世界の本質)であり、有漏の法性はそのまま無漏の法性です。なぜなら、本来の性質に区別はないからです。無漏の法性と有漏の法性は、正しい智慧の本性がもともと清らかであり、二つではなく、分かちがたく、別々ではなく、断ち切られることもありません。このように理解する忍(諦観)こそが、究極の忍なのです。
「復次,以正智慧了涅槃性即生死性,生死性即涅槃性,本性無二故。涅槃性、生死性正智本性清淨,無二無二分,無別無斷故。乃至如是忍者是究竟忍。」
「さらに、正しい智慧によって、涅槃の性質こそが生死の性質であり、生死の性質こそが涅槃の性質であると悟るのです。その本性には区別がなく、一つだからです。涅槃の性質も生死の性質も、正しい智慧の本性は本来清らかであり、二つではなく、分けることもなく、別々でもなく、途切れることもありません。このように、この真理に耐えうる者が、究極の忍びの境地なのです。」
佛告慈氏:「如是真實究竟安忍,於一切法,非自非他、非有非無、非生非不生、非滅非不滅,獲此忍者名真究竟無生法忍,是名安忍波羅蜜多。」
仏が慈氏に告げられた。「このような真実かつ究極の安忍とは、あらゆる現象(法)において、自己によるものでもなく、他者によるものでもなく、存在するのでもなく、存在しないのでもなく、生じるのでもなく、生じないのでもなく、滅するのでもなく、滅しないのでもない。このような忍びを得る者を、真に究極の無生法忍と名づけ、これを安忍波羅蜜多と名づけるのである。」
佛說此安忍波羅蜜多時,慈氏菩薩而為上首,與無量諸大菩薩摩訶薩眾及此大會,異口同音讚薄伽梵言:「善哉,善哉,希有善逝!甚奇世尊!」即以無量珍妙供具而供養之——所謂種種妙香、瞻蔔花香、燒香、塗香、末香,種種花鬘、衣服、繒綵、幢幡、寶蓋,擲虛空中以為供養——種種音樂而為娛樂,種種歌頌讚歎如來。是諸眾生,聞佛說此安忍波羅蜜多,不驚不懼不怖不畏,悉得如來真實法忍。所散香花種種供養,在虛空中遍滿三千大千世界。
仏がこの忍辱波羅蜜多(にんにくはらみつた)をお説きになったとき、慈氏菩薩(みろくぼさつ)をはじめ、数えきれないほどの大菩薩たちや、この大集会に集まった皆が、声をそろえて仏を称賛しました。「善きかな、善きかな。めったにないお方、善逝(ぜんぜい)! なんと素晴らしいお方、世尊(せそん)!」と。そして、計り知れないほどの貴重な供え物で仏を供養しました――すなわち、様々な妙なる香り、ジャスミンの花、焼香、塗香、末香、様々な花輪や衣類、絹織物、幢幡(とうばん)、宝蓋(ほうがい)を虚空に投げ上げて供養したのです。また、様々な音楽で楽しみ、様々な歌で如来(にょらい)を称えました。これらの人々は、仏がこの忍辱波羅蜜多を説かれたのを聞いて、驚かず、恐れず、怖がらず、おそれず、皆が如来の真実の法忍(ほうにん)を得ました。散らされた香や花、様々な供養物は虚空の中に広がり、三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)を満たしました。
爾時,薄伽梵告慈氏菩薩摩訶薩言:「善男子!汝應安置如是種種花、香、衣服乃至幡蓋。」
そのとき、世尊は慈氏菩薩摩訶薩に告げて言われた。 「善き者よ、あなたはこのように様々な花や香り、衣服さらには幡や蓋を整えて安置しなさい。」
時慈氏菩薩摩訶薩白佛言:「世尊!我已安置如是香、花、種種衣服,各各置在諸菩薩等天龍眾會本身之中而為處所。」
そのとき、慈氏菩薩摩訶薩(弥勒菩薩)が仏に申し上げました。 「世尊よ。わたしはこのような香り、花々、種々の衣服を、それぞれ諸々の菩薩や天・龍などの会衆の方々のご自身の身の中に安置し、その方々の拠り所といたしました。」
爾時慈氏菩薩說是語已,即入一切色身三昧。入是定已,所有三千大千世界,遍滿虛空種種花、香、衣服、繒綵乃至幡蓋,以定力故悉入慈氏臍輪之中不相障礙,而諸供具亦不減小,菩薩之身亦不廣大。
その時、慈氏菩薩はこの言葉を終えると、直ちに一切色身三昧に入った。この定に入ると、三千大千世界の全体にわたり、虚空に満ちていた様々な花、香り、衣服、絹織物、さらには幢や天蓋までもが、定の力によって全て慈氏菩薩の臍の輪の中に入り込んだが、互いに妨げ合うことはなく、それらの供物も小さくなることはなく、菩薩の身も広がることはなかった。
爾時,無盡藏菩薩摩訶薩問慈氏菩薩摩訶薩言:「善男子!此三昧名字何等?住此定中能令如是諸供養具悉入䐡中,汝身不增、眾物不減。」
その時、無尽蔵菩薩摩訶薩が慈氏菩薩摩訶薩に問うた。「善き男子よ、この三昧の名は何というのか。この定に住して、あらゆる供養の具をすべてお臍の中に入れさせながら、あなたの身は増えず、物も減らないのはなぜか。」
慈氏菩薩言:「善男子!此三昧名普入一切色身三昧。」
慈氏菩薩がおっしゃいました。「善き方よ、この三昧(深い瞑想の境地)は、『あらゆる物質的な姿(色身)に遍く入り込む三昧』と名づけられています。」
無盡藏菩薩復言:「大士!此三昧神變境界,其事云何?」
無尽蔵菩薩がまたお尋ねしました。「大士よ、この三昧の神通変化の境地とは、どのようなものなのでしょうか。」
慈氏菩薩言:「仁者!三千大千世界一切所有入我䐡輪,我身不增、彼像不減。何以故?法性如是。」
慈氏菩薩がおっしゃいました。「尊者よ。この三千大千世界のすべてのものは、私のへその輪の中に入りますが、私の身は増えもせず、その姿も減りもしません。なぜでしょうか。法の本質がそのようであるからです。」
爾時,會中或有菩薩、天、龍、鬼、神、人非人等竊作是念:「我等欲見是三昧境界神變,不知云何?」
その時、集会の中にいた菩薩、天、龍、鬼、神、人ならざる者たちの中には、ひそかにこう思う者もおりました。「私たちはこの三昧の境地とその神変を見たいと願っているが、どのようにしてそれを目の当たりにできるのだろうか。」
爾時薄伽梵知諸菩薩、天、龍、大眾心之所念,告慈氏菩薩摩訶薩言:「善男子!汝當現此三昧神變,令眾同知。」
その時、尊き世尊は、菩薩や天、竜神たちが心の中で思っていることをご存知になり、慈氏(弥勒)菩薩摩訶薩にこう告げられました。 「善き男子よ、あなたはこの三昧の神変を示しなさい。皆に同じく知らせるために。」
時慈氏菩薩久已修習如是三昧,善得純熟無諸障礙,令諸菩薩、他方大眾及在此會諸苾芻僧及佛世尊,一切悉入慈氏身中,而諸有情亦無驚怖,得未曾有身心安樂。譬如東方過無量阿僧企耶世界,有世界名寶瓔珞莊嚴,而彼眾生所受用物,皆以種種珍寶而為莊嚴,受諸快樂。而此身中天人大眾所受快樂,如彼世界等無有異,此諸大會皆悉了知,在慈氏身都無障礙。
その時、慈氏菩薩はこのような三昧を長く修行し、完全に熟達し、あらゆる障りがなくなっていた。そのため、諸菩薩、他方から来た大衆、この法会に集まった比丘たち、そして仏世尊までもが、すべて慈氏の身の中に入った。しかし、すべての生きとし生けるものは驚き怖れることなく、かつてない心身の安らぎを得た。
たとえば、東方の限りなく多くの世界を超えた先に、「宝瓔珞荘厳」という名の世界がある。そこでは、人々が使う物はすべて様々な宝で飾り立てられ、至福の楽しみを受けている。この慈氏の身の中にいる天や人の大衆が受ける楽しみも、その世界とまったく変わらず、この大集会のすべての者は、自分たちが慈氏の身の中にいることをはっきりと知りながら、何の妨げも感じなかったのである。
爾時慈氏菩薩還攝神力。時諸大眾及佛世尊,各復本座儼然而住。是諸大眾一切有情,都不覺知有往來相。
そのとき、慈氏菩薩(弥勒菩薩)は神通力を収められました。すると、大衆や仏・世尊はそれぞれもとの座に戻り、静かにお座りになりました。そして、これらの大衆や一切の生きとし生けるものは、誰一人として往き来の様子に気づく者はいませんでした。
爾時無盡藏菩薩白慈氏菩薩言:「希有,大士!此三摩地神變之事,得未曾有,昔所未見。」
その時、無尽蔵菩薩が慈氏菩薩にこう語りかけました。「なんと稀有なことでしょう、大士よ。この三昧の神通変化のさまは、いまだかつて見たことがなく、全くもって未曾有の出来事です。」
慈氏菩薩言:「仁者!非但此會一切大眾入我身中,設以三千大千世界諸妙高山及十寶山、大鐵圍山、大海、江河、日月星辰、天宮、龍宮、諸尊神宮、五趣四生人非人等、悉內身中亦無妨礙。我身不增、彼亦無減,是諸眾生亦不覺知有往來相。法性如是,況此會耶。」
弥勒菩薩が言われた。「尊者よ、この集会の全ての大衆が私の身の中に入るだけでなく、たとえ三千大千世界にある様々な妙高山や十宝山、大鉄囲山、大海、河川、日月星辰、天宮、龍宮、諸々の尊い神々の宮殿、五趣四生の人間や人間でないものたちまでも、全て私の身の中に納めても何の障りもありません。私の身が増えることもなく、彼らも減ることもなく、これらの衆生は往来の相に気づくこともありません。法の性質はこのようなものですから、ましてやこの集会においてはなおさらのことです。」
時薄伽梵說此安忍波羅蜜多及現大神變時,會中有七十六那庾多人天,皆發阿耨多羅三藐三菩提心,三萬二千菩薩皆得無生法忍。
その時、尊き世尊がこの安忍波羅蜜多(忍耐の完成)を説き、大いなる神通の変現を示されると、その会衆の中から七十六那由他(無数の)の人々や天人が、皆、阿耨多羅三藐三菩提(最高の完全な悟り)を求める心を起こしました。また、三万二千の菩薩たちは、無生法忍(すべての現象が生じもせず滅しもせぬと悟る智慧)を得ました。
佛告慈氏:「若有善男子、善女人,暫聞此安忍波羅蜜多名能生信心,是人決定不墮地獄、鬼趣、傍生,於阿耨多羅三藐三菩提永無退轉。我今說是安忍波羅蜜多,究竟圓滿利益安樂一切眾生。」
仏が慈氏に告げられた。 「もし善き男子、善き女人が、ほんの一時でもこの安忍波羅蜜多の名を聞き、それに信心を生じることができるならば、その人は決して地獄、餓鬼、畜生の世界に落ちることはなく、また阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟り)から永遠に退転することはない。今、わたしがこの安忍波羅蜜多を説くのは、すべての衆生を究竟的に円満させ、利益し、安楽にするためである。」
大乘理趣六波羅蜜多經卷第六
大乗理趣六波羅蜜多経 巻第六