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title: "正法念處經 · 9"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第三十三

> 正法念処経 巻第三十三

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之十二三十三天之九

> 天観の章 第十二<note>三十三天 その九</note>

「爾時，天主釋迦提婆告天子曰：『此諸天子以放逸行，不如實知，不行正法。我為如是放逸天子，欲令離於憍慢放逸，示如是化。此諸天子既生厭離，其心調伏，我今說法必能信受。』時天帝釋見諸天子心調伏已，告諸天眾：『汝等諦聽，當為汝說。如此丈夫第一大力，形貌醜陋，能壞他人，難以為敵，非呪術力所能調伏，一切天眾無如之何。復有勝天過於汝等，亦不能遮，復況汝等色力減少，無自在力。是丈夫者，名閻羅使、名死時使，以煩惱業縛諸眾生，縛之而去，將至地獄、餓鬼、畜生。有八種法攝於一切生死眾生。何等為八？一者一切生者，皆歸於死；二者無有強健而不病惱；三者一切少壯皆歸衰老；四者具足財富，當有貧窮；五者皆由業故，有諸世間業之所得，隨順於業，隨所作業或善不善，如是如是得業果報；六者一切恩愛皆當別離，無有堅固；七者自作之業決定受報，無有他作我受其果，無有自作他受其報，一切諸法決定如是；八者世間放逸，無有安隱，必受苦果。是名八法。如是之法於世間中流轉生死，從因緣生。如是之法不可以力而觝捍之，非呪術力所能調伏。如是閻羅使者非力能敵，非呪術力之所能遮。生死之法，法皆如是，若人造惡，能加苦惱無量楚毒。諸天、阿修羅、人、龍、夜叉、毘舍遮等，如是閻羅使者皆能加害，令此眾生墮於地獄、餓鬼、畜生。』

> 「その時、天主である釋迦提婆（帝釋天）は天子たちに告げました。『これらの天子たちは、放逸（放縦）な生き方をしており、真理を如実に知らず、正しい法を実践していません。私は、そうした放逸な天子たちに、驕りや放漫から離れさせようとして、このような変化を示しているのです。これらの天子たちはすでに厭離の心を生じ、心が調えられています。今、私が説法すれば、必ずや信じ受け入れることができるでしょう。』 その時、天帝釋は天子たちの心が調えられたのを見て、天の衆たちに告げました。『あなたがたはよく聴きなさい。今、あなたがたのために説きましょう。このような男は、第一の大力を持ち、形貌は醜く、他者を打ち負かす力を持ち、敵対するのは難しい。呪術の力で調えることはできず、すべての天の衆たちもどうすることもできません。また、あなたがたを超えたすぐれた天々も、これを防ぐことはできません。ましてや、あなたがたのように色力が衰え、自在の力を持たない者たちがどうして防げましょう。この男とは、閻魔の使い、死の時の使いと呼ばれるものです。煩悩と業によってすべての衆生を縛り、縛ったまま連れて行き、地獄・餓鬼・畜生へと導きます。 一切の生死の衆生を摂する八つの法があります。八つとは何か？ 1. 一切の生あるものは、すべて死に帰する。 2. 健康で病悩のないものはない。 3. すべての若者は老いに帰する。 4. 財産を豊かに持っていても、貧しくなることがある。 5. すべては業によってあり、諸々の世間は業によって得られる。業に従い、善悪の業に応じて、そのように業の果報を受ける。 6. すべての恩愛の関係は必ず別れの時が来て、堅固なものはない。 7. 自らが作った業は必ず報いを受ける決定があり、他者が作って私がその果報を受けたり、私が作って他者がその報いを受けたりすることはない。一切の諸法は、まさにこのように決定している。 8. 世間の放逸には安穏はなく、必ず苦しみの果報を受ける。 これらを八つの法といいます。これらの法は世間の中で生死を流転し、因縁から生じます。これらの法は力によって防ぎ止めることはできず、呪術の力で調えることもできません。このような閻魔の使いは、力でも敵わず、呪術の力でも防ぐことはできません。生死の法は、すべてこのようなものです。もし人が悪を造れば、無量の苦悩と苦痛を与えることができます。天、阿修羅、人、龍、夜叉、毘舍遮など、このような閻魔の使いはすべての者に害を加え、これらの衆生を地獄、餓鬼、畜生に堕とすのです。』」

「時諸天眾白帝釋言：『天王！我於如是閻羅使者不得自在。唯願天王以方便力，令我得脫閻羅使者，我當隨順天王之教。』

> その時、天の神々たちは帝釈天にこう申し上げました。 「天王よ、私たちはこの閻魔の使いから逃れることはできません。どうか天王の巧みな力によって、私たちを閻魔の使いから救い出してください。そうすれば、私たちは天王のお教えに従います。」

「爾時，天王釋迦提婆告諸天曰：『有大方便，若能修者不為閻羅使者所害。云何方便能得自在？謂斷一法；言一法者，謂斷放逸。復修二法，謂舍摩他、毘婆舍那。復斷三過，謂貪、瞋、癡。觀四聖諦：苦、集、滅、道。知五善護，謂五境界。復有六護，所謂六根。知七正智，謂七覺分。行八聖道，謂正見等。知九眾生居、知十業得果、知十一修、知十二入、知十三念隨順係念、知十四禪善修其心、知十五法、知於十六阿那波那、知十七中陰有道相續輪轉行法、知十八界、知十九中有。知於欲界眾生所居有二十處，知其行業。如是知者，則得自在。若天若人能如是知，能斷三惡道，能生一切善法，攝諸善法。若天若人能斷惡道，死則不為閻羅使者之所怖畏。是故應捨放逸之行，放逸能斷一切善法，猶如怨家。放逸之人不得世樂及出世樂，放逸覆人猶如畜生，未睡如睡，不知應作及不應作、福德非福德、親友非親友、福田非福田、應說不應說，不知利益、不知損減、不知功德、不知過惡，是名初惡。一切無利、衰惱之根本也。應斷放逸，一切諸天皆行放逸，云何不為閻羅使者之所繫縛？』

> 爾の時、天主・釋迦提婆（天帝釋）は諸天に告げた。「大きな方便（方法）がある。もしこれを修める者であれば、閻魔の使いに害されることはない。どのような方便によって自在を得られるのか。すなわち、一つの法を断ち切ることである。一つの法とは、放逸（なまけ・だらしなさ）を断つことである。さらに二つの法を修める。それは、奢摩他（しゃまた：止・心の静けさ）と毘婆舎那（びばしゃな：観・物事をありのままに見ること）である。さらに三つの過ちを断つ。それは貪り・怒り・愚かさである。四つの聖なる真理（四聖諦）を観察する。苦しみ・その原因・滅び・道である。五つの善い守り（五境界）を知る。さらに六つの守り（六根）がある。七つの正しい智慧（七覚支）を知る。八つの聖なる道（八正道）、すなわち正見などを実践する。九つの衆生の住処（九有情居）を知り、十の業が結果をもたらすこと（十業得果）を知り、十一の修めること（十一修）を知り、十二の処（十二入）を知り、十三の念（十三念）を次第に正しく心にとどめることを知り、十四の禅定（十四禅）を善く修めて心を整えることを知り、十五の法（十五法）を知り、十六の阿那波那（あなはな：出入息・呼吸の観察）を知り、十七の中陰（中有）において道が絶えることなく続き、輪廻し、移り変わる法（十七中陰有道相続輪転行法）を知り、十八の界（十八界）を知り、十九の中有（十九中有）を知る。また、欲界の衆生の住むところには二十の場所（二十処）があることを知り、その業と行いを知る。このように知る者こそ、自在を得るのである。もし天や人がこのように知ることができれば、三悪道を断ち切り、一切の善い法を生じ、諸々の善い法を身に集めることができる。もし天や人が悪道を断ち切れば、死んでも閻魔の使いに怖れられることはない。ゆえに、放逸の行いを捨てるべきである。放逸は一切の善い法を断ち切る。あたかも怨みの敵のようである。放逸の人は、この世の楽しみも、世を超えた楽しみも得られない。放逸は人を覆い隠す。あたかも獣のようであり、眠っていなくても眠っているかのようで、なすべきこととなすべきでないこと、徳と非徳、親友と非親友、福田（功徳を積む機会）と非福田、語るべきことと語るべきでないことを知らず、利益を知らず、損失を知らず、功徳を知らず、過ちや悪を知らない。これを第一の悪とする。一切の無益、衰えと悩みの根本である。放逸を断つべきである。一切の諸天はみな放逸にふける。どうして閻魔の使いに縛られないことがあろうか。」

「爾時，天主釋迦提婆而說頌曰：

> その時、天の主である帝釈天が、讃歌を唱えました。

「『若天人放逸，樂行於非法，至於臨終時，則見閻羅使。放逸如毒害，智者所捨離，臨於命終時，則無眾苦惱。放逸死受苦，不放逸最樂，若欲求樂者，常應離放逸。

> 天人が放縦にふけり、 教えに反する行いを好むならば、 命の終わりに臨んで、 閻魔の使いを目にすることになる。 放縦は毒のような害をもたらすゆえ、 賢者はこれを遠く離れる。 そのため命の終わりに臨んでも、 様々な苦しみに悩まされることはない。 放縦にふける者は死に際に苦しみ、 放縦しない者は最も安らかである。 もし安らぎを求めるならば、 常に放縦を離れるべきである。

「『諸天子！斷一法者，謂斷放逸，則有六種。何等為六？眼見色已，生放逸心，非如實見。或見好色、或見惡色，若黃若黑、若赤若白、若長若短、若方若圓。如是世間不如實知，以放逸故，亦復不知出世之法。以放逸意，雖復見色，不如實見，於己身色，不能正觀，不樂觀於四真諦法。於諸色中，不實見實，心放逸故，不能觀於世間之法及出世法。耳聞聲已，不知其義，或歌或語，若義、若非義，不解如是世間之義。若修多羅、若伽陀、若祇夜、若毘伽那、若憂陀那、若尼陀那、若毘多迦、若闍多迦、若毘佛略、若阿浮多達摩，聞如是法，不解其義。以放逸故，命終之時為閻羅使繫縛將去。復有放逸：既聞諸香，鼻即貪嗅，不知花香及以果香，不知如是世間之香先以燒香供養布施。以放逸故，不知諸香。復以放逸，不知諸味：其所食味若甘若酢、若醎若苦、若辛若淡、若澁若滑不知差別。心放逸故，不知如是世間之味及以不知出世法味。以放逸故。復以放逸，不知身觸，不作身業，修治宅舍，不修作業、不作眾善，是人宅舍物不具足。不知世間所不應作，不知出世間所不應作，不近耆舊亦不恭敬禮拜問訊。以放逸故。

> 「天の君たちよ。たった一つのことを断ち切るだけで、それは『放逸』を断つことであり、そこには六つの種類がある。どの六つか。 眼で色を見て、心に放逸を生じ、ありのままに見ることがない。美しい色を見ても、醜い色を見ても、黄、黒、赤、白、長、短、方、円——このように世の中のことをありのままに知らず、放逸のゆえに、また世を超えた真理も知らない。放逸の心で、色を見ても実の通りに見ることができず、自分の身や色を正しく観ずることができず、四つの真実の教えを喜んで観ずることがない。様々な色の中にあって、虚ろなものを実と見誤り、心が放逸であるために、世の中の法と世を超えた法を観ることができない。 耳で音を聞いても、その意味を理解せず——歌い声や語り声も、意味あるものも、無意味なものも、世の中の意味を正しく解さない。経典（修多羅）、偈頌（伽陀）、重頌（祇夜）、授記（毘伽那）、自説（憂陀那）、因縁（尼陀那）、譬喩（毘多迦）、本生（闍多迦）、方広（毘仏略）、未曾有法（阿浮多達摩）——これらの教えを聞いても、その意味を理解しない。放逸のゆえに、命終わるときには閻魔の使いに縛られて連れて行かれる。 また、放逸によって、鼻で香りを嗅ぐとすぐに貪り、花の香りや果実の香りを知ることがなく、世の中の香り——先に香を焚いて供養し布施することを知らない。放逸のゆえに、香りを知ることがない。 さらに、放逸によって、味を知ることがない。食べる味が甘いのか酸っぱいのか、塩辛いのか苦いのか、辛いのか淡白なのか、渋いのか滑らかなのか、その違いがわからない。心が放逸であるために、世の中の味を知らず、また世を超えた法の味を知ることもない。放逸のゆえに。 さらに、放逸によって、触れられる感覚を知らず、身の行いをせず、家を整え修理することもなく、善い行いを積まず、様々な善をなさない。その人の家には物が不足している。世の中のしてはならないことを知らず、世を超えたしてはならないことを知らない。年長者に近づかず、敬うことも礼拝することも問いかけることもない。放逸のゆえに。」

「『諸天子！復以放逸，不知心法，若善、不善、若無記。不知臨命終時，死杖所害，受大苦惱，為閻羅使自在將去。是故天子應斷一法，所謂放逸。修二法者：一者賒摩他；二者毘婆舍那。如是二法示涅槃道。賒摩他者，能斷生法及未生法，能令寂靜。毘婆舍那者，見心、見法二種身故，名毘婆舍那。如是二法以為善伴，能斷三過：若著欲者，教不淨觀；若瞋恚者，教慈心觀；若愚癡者，教以智慧。如是三法對治三法，令其不復起於放逸。若臨終時，不復畏於閻羅使者。云何四聖諦？四聖諦者，謂苦諦、集諦、滅諦、道諦。苦諦者，苦有二種：一者身苦；二者心苦。集諦者，謂陰、界、入。滅諦者，所謂寂滅。道諦者，謂八聖道。是名四聖諦。善護五境界者，所謂色、聲、香、味、觸等。云何六護？所謂六根——眼、耳、鼻、舌、身、意，於境界處善守護之。何等七法？謂七覺分，如人身分亦如城分，亦如眾分，是名菩提分。何等為七？謂念覺分、擇法覺分、精進覺分、喜覺分、猗覺分、定覺分、捨覺分。念覺分者有何等相？所謂念於有為過惡、念於實諦、念於涅槃寂滅之法，是名念覺分。擇法覺分有何等相？以智慧簡擇。云何簡擇？以如實相法簡擇此法，思惟其義，心念其義，念念不離。既思念已，復修精進，是名精進覺分。念此法已，希欲心生，念如是義，而生歡喜，是名喜覺分。復於此義，心思惟已，身法、心法如實調伏，柔軟輕樂，修行不亂，是名猗覺分。復於此義，心思惟已，緣於住心以攝其心，是名定覺分。復捨定意及以餘念，是名捨覺分。如此之法，若果、若智及斷煩惱，皆悉差別，其果亦別，上上轉勝，一緣而生，其用各異。如是天子！是名七覺分，若有念者，能捨放逸。

> 「諸天子よ、さらに、放逸によって、心の法を知らず、善・不善・無記も知りません。命終わりの時に臨んで、死の杖に害され、大きな苦悩を受け、閻魔の使いに自在に連れ去られることを知りません。それゆえ天子よ、一つの法を断つべきです。すなわち、放逸です。修すべき二つの法とは、第一に奢摩他、第二に毘婆舎那です。この二つの法は涅槃への道を示します。奢摩他は、生じた法と未だ生じていない法を断ち、寂静ならしめることができます。毘婆舎那とは、心と法という二つの体を見ることから、毘婆舎那と名づけます。この二つの法を善き友として、三つの過ちを断つことができます。もし欲望に執着する者には、不浄観を教えましょう。もし怒りを持つ者には、慈心観を教えましょう。もし愚痴の者には、智慧を教えましょう。この三つの法は三つの法への対治法であり、彼らが再び放逸を起こさないようにします。もし臨終の時には、閻魔の使いを恐れることはもうありません。では、四つの聖なる真理とは何でしょうか。四つの聖なる真理とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦です。苦諦とは、苦には二種類あります。第一に身体の苦、第二に心の苦です。集諦とは、五蘊・十八界・十二処です。滅諦とは、いわゆる寂滅です。道諦とは、八つの聖なる道です。これを四つの聖なる真理と名づけます。五つの境界を善く護るとは、色・声・香・味・触などです。では、六つの護りとは何でしょうか。いわゆる六根――眼・耳・鼻・舌・身・意――これらを境界の処において善く守護することです。どのような七つの法かといえば、七つの覚りの支分であり、人の身体の部分のようなもの、また城の部分のようなもの、また集団の部分のようなものです。これを菩提の支分と名づけます。七つとは何か。すなわち、念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・猗覚支・定覚支・捨覚支です。念覚支にはどのような特徴があるのか。いわゆる、有為の過ちや悪しきことを念じ、真実の真理を念じ、涅槃の寂滅の法を念じることです。これを念覚支と名づけます。択法覚支にはどのような特徴があるのか。智慧をもって簡択することです。どのように簡択するのか。真実の相の法をもってこの法を簡択し、その意味を思惟し、心でその意味を念じ、念念に離れません。そう思惟したのち、さらに精進を修します。これを精進覚支と名づけます。この法を念じたのち、希求の心が生じ、このような意味を念じて、歓喜を生じます。これを喜覚支と名づけます。さらにこの意味について心で思惟したのち、身の法と心の法を如実に調伏し、柔軟で軽やかな楽を得て、乱れることなく修行します。これを猗覚支と名づけます。さらにこの意味について心で思惟したのち、心をとどめる縁によってその心を摂めます。これを定覚支と名づけます。さらに定の心やその他の念を捨てます。これを捨覚支と名づけます。このような法は、その果報も智慧も煩悩を断つことも、すべて違いがあり、その果もまた別であり、上々へと転じて勝れていき、一つの縁から生じても、その働きは各々異なります。このように天子よ、これを七つの覚りの支分と名づけます。もしこれを念ずる者がいれば、放逸を捨てることができるでしょう。」

「『諸天子！云何八聖道能離放逸，怖畏未來，以求安樂、求涅槃道？正見聖諦如實見、正思惟聖諦、正語聖諦、正業聖諦、正命聖諦、正精進聖諦、正念聖諦、正定聖諦。云何正見？如實見相應義，是名正見。云何正思惟？如實見如實法自相、平等相，於如是法，心念種子，是名正思惟。云何正語？思惟四種口業，捨口四過，護持禁戒，是名正語。云何正業？捨於三種身不善業，護持禁戒，是名正業。云何正命？乃至失命，持戒不捨，是名正命。云何正精進？於如是義，其心憶念而起精進，是名正精進。云何正念？於如是法義，憶念思惟，不忘不失，是名正念。云何正定？於如是法義，以實念心，一心憶念，決定一相，是名正定。是名賢聖八聖道分，若能憶念則不畏於閻羅王使。復觀九種眾生居處。

> 「諸々の天よ。八聖道がどのようにして放逸を離れ、未来を畏れて安楽を求め、涅槃の道を求めるのか。正見とは聖諦を如実に見ること、正思惟とは聖諦を如実に思惟すること、正語とは聖諦にかなった言葉、正業とは聖諦にかなった行い、正命とは聖諦にかなった生活、正精進とは聖諦にかなった努力、正念とは聖諦にかなった気づき、正定とは聖諦にかなった心の統一である。 では、正見とは何か。あるがままに見て、それに相応する意味を理解すること、これを正見という。正思惟とは何か。あるがままの法の自相と平等相を如実に見て、その法について心に種を思い描くこと、これを正思惟という。正語とは何か。四つの口の業について思惟し、口の四つの過ちを捨て、戒律を守り保つこと、これを正語という。正業とは何か。三つの身体の不善の業を捨て、戒律を守り保つこと、これを正業という。正命とは何か。たとえ命を失うことがあっても戒律を守り捨てないこと、これを正命という。正精進とは何か。こうした意味について心に念じ、そこから奮起して努力すること、これを正精進という。正念とは何か。こうした法の意味について、思い起こし、考え続け、忘れず失わないこと、これを正念という。正定とは何か。こうした法の意味について、真実の念の心をもって一心に思い続け、一つの相に定まること、これを正定という。 これらを賢聖の八聖道の部分という。これを心に念じれば、閻魔大王の使いを恐れることはない。さらに、九種の衆生の住処（九有）について観察せよ。」

「『諸天子！又觀十種大地之法。何等為十？一者受；二者想；三者思；四者觸；五者作意；六者欲；七者解脫；八者念；九者三昧；十者慧。是名十大地法，共心而生，各各異相。汝等當知！何等相？如是之法，一緣而生，猶如日光。如是之法，共心而生，有增減相應相。云何名想？知差別相應，故名為想。云何名思？意緣三種——善、不善、無記。復有三種，謂身、口、意。思所依止而無相貌。云何名觸？三種和合而生於觸，起三種受，故名為觸。天子當知！云何三觸生三種受？謂苦受、樂受、不苦不樂受。云何名作意？攝取於法，故名作意。云何名欲？憶念所作，故名為欲。云何解脫？能辯了故。亦名為信，以能信故。亦名為力，以能持故。云何名念？若攀緣處，心不迷亂，是名為念。云何名三昧？若心一緣，是名三昧。云何名慧？分別觀法，是名為慧。

> 「諸天子よ、さらに十の大地の法（心に共通して働く基本的な機能）について観察しなさい。十とは何か。一に「受（感受）」、二に「想（表象）」、三に「思（意志）」、四に「触（接触）」、五に「作意（注意）」、六に「欲（欲求）」、七に「解脱（了解・確信）」、八に「念（記憶・気づき）」、九に「三昧（集中）」、十に「慧（智慧）」である。これを十の大地の法と名づける。これらは心と共に生じ、それぞれ異なる特徴を持つ。あなたたちは知るべきである。どのような特徴か？これらの法は、同じ一つの対象因によって生じる。例えるなら日光のようなものである。これらの法は心と共に生じ、互いに影響し合い増減する相応の関係がある。 「想」とは何か？対象の違いを認識する働きである。ゆえに「想」と名づける。 「思」とは何か？心が三種の対象（善・不善・無記）に向かうことである。さらに三種がある。すなわち身（身体的行為）・口（言語的行為）・意（心的行為）である。思はこれらに依って働くが、それ自体に形はない。 「触」とは何か？三つの要素（根・境・識）が和合して生じ、三種の感受を起こす。ゆえに「触」と名づける。天子たちよ、知るべきである。どのように三つの触が三つの感受を生むか？苦受・楽受・不苦不楽受である。 「作意」とは何か？心を対象に向けさせる働きである。ゆえに「作意」と名づける。 「欲」とは何か？為すべきことを心に留めて願望することである。ゆえに「欲」と名づける。 「解脱」とは何か？対象をはっきりと見極めることである。また「信」とも呼ばれる。信じる力があるからである。また「力」とも呼ばれる。確かに保つからである。 「念」とは何か？対象に心を向けた時、心が動揺せず混乱しないこと。これを「念」と名づける。 「三昧」とは何か？心が一つの対象に集中すること。これを「三昧」と名づける。 「慧」とは何か？物事を区別し観察すること。これを「慧」と名づける。」

「『諸天子！復有十種煩惱大地，若有受行如此法者，臨命終時為閻羅使自在繫縛。何等為十？一者不信；二者懈怠；三者不念；四者亂心；五者愚癡；六者不善觀；七者邪見解脫；八者不調伏；九者無明；十者放逸。是名十法煩惱大地，染生有法，為閻羅王使者所縛之因緣也。諸天子！如我所說，云何十種不善大地？云何不信？不信解脫。若不信於解脫之法，故名不信。云何懈怠？捨離精進，故名懈怠。云何不念？以忘失法，故名不念。云何亂心？其心不正，故名亂心。云何愚癡？無方便心，故名愚癡。云何不善觀？不正觀察，思惟非法，不行正道，不淨見淨，故名不善觀。云何邪見？取顛倒法，堅著不捨，故名邪見。云何不調伏心？不寂靜故，名不調伏。云何無明？迷於三界，故名無明。云何放逸？不作善業，故名放逸。是名十種煩惱大地，甚可鄙惡。

> 「天子たちよ、さらに十種類の煩悩という大きな地があります。もしこれらの教えを受け行う者がいれば、命の終わるときに、閻魔の使いに縛りつけられてしまいます。その十種類とは何か。第一に、信じないこと。第二に、怠けること。第三に、心に留めないこと。第四に、心が乱れること。第五に、愚かであること。第六に、正しく観察しないこと。第七に、誤った見解から解放されないこと。第八に、心が調えられていないこと。第九に、無明であること。第十に、放逸であること。これらを十の煩悩という大きな地と呼びます。これらは迷いの世界の命ある者を染め、閻魔の使いに縛られる原因となるのです。 天子たちよ、私が説いたように、どのようなものが十の善からざる大きな地なのでしょうか。どのようなものが「信じない」ことか。それは、解脱を信じないことです。もし解脱の教えを信じなければ、それを「信じない」と言います。どのようなものが「怠ける」ことか。それは、努力を捨て去ることです。それを「怠ける」と言います。どのようなものが「心に留めない」ことか。それは、教えを忘れ去ることです。それを「心に留めない」と言います。どのようなものが「心が乱れる」ことか。それは、心が正しくないことです。それを「心が乱れる」と言います。どのようなものが「愚かである」ことか。それは、適切な方法を心得ていないことです。それを「愚かである」と言います。どのようなものが「正しく観察しない」ことか。それは、正しく観察せず、道理に反したことを考え、正しい道を行かず、清らかでないものを清らかだと見ることです。それを「正しく観察しない」と言います。どのようなものが「誤った見解」か。それは、あべこべな考え方を取り、固く執着して手放さないことです。それを「誤った見解」と言います。どのようなものが「心が調えられていない」ことか。それは、静まっていないからです。それを「心が調えられていない」と言います。どのようなものが「無明」か。それは、三つの世界に迷い込んでいることです。それを「無明」と言います。どのようなものが「放逸」か。それは、善い行いをしないことです。それを「放逸」と言います。これらを十の煩悩という大きな地と呼び、まことにお粗末で憎むべきものです。

「『諸天子！復有十種染地之法。何等為十？一者瞋；二者恨；三者不悔；四者堅；五者幻；六者諂曲；七者嫉妬；八者慳；九者憍慢；十者大慢。是名十種染地法也。何故名曰染地法耶？大地所攝，故名染地。云何名瞋？其心麁惡，故名為瞋。云何名恨？其心結縛，轉成怨結，故名為恨。云何不悔？樂作眾惡，作已歡喜，故名不悔。云何名堅？作諸惡業，執著不捨，是名為堅。云何名幻？誑眾生故，為十二入之所誑惑，故名為幻。天子當知！云何十二入？所謂內有眼耳鼻舌身意，是名內入；外有色聲香味觸法，是名外入。二種分別：一者相；二者自體大。所言相者：四大因緣而生眼識，是名為眼，當知耳鼻舌身意，分別境界各有自相。云何當知自體相耶？言自體者，名不顛倒。以五因緣而生眼識。何等為五？有眼、有色、有明、有空、有憶念故，眼識得生。耳則不爾，耳識之生，明闇俱知，不因於明。鼻舌身意亦復如是。意識於明，或時有用、或時不用。云何有用？云何不用？若眼識見色，意識決了，是名為用。云何或用或有不用？眼識觀色，若無光明則無所見，餘根所知，不因光明，是名識大。諸天子！復有四大因緣，各各相依。云何四大互共相依或增或減？眼增火大；鼻增地大；身增風大；舌增水大；耳增空大。此法增勝，耳中空界，意得取聲。是故當知，故有增減。復次觀入：何者近緣？何入遠緣？鼻舌及身如是三根，對觸乃知。眼之所見，非近非遠。耳之所聞，遠則不了，近則能知，內亦自聞。鼻之所聞，近則能知，內亦自了。如鼻內有病亦自聞臭，如耳中風聲亦皆自聞。如是識，二種所攝——眼識、意識。如是盡攝，譬如一火，隨然得名，或名木火，或名草火。一切諸識亦復如是，因於意識，各各差別。天子當知！如是諸入，既得知已，莫得放逸。不放逸行、不貪、不瞋、不癡，如是善人命終之時，不畏閻羅王使者所縛，不見可畏獄卒惡相，不見閻羅王惡境界也。不墮地獄、餓鬼、畜生，常受安樂乃至涅槃，成就無量歡喜安樂，不放逸故。

> 「天子たちよ、さらに、この世を汚す十の教えがある。その十とは何か？第一に怒り、第二に恨み、第三に悪行を悔いないこと、第四に執着、第五にごまかし、第六にへつらい、第七に嫉妬、第八にけち、第九に高慢、第十に大いなる慢心である。これらを『世を汚す十の教え』と呼ぶ。なぜ『世を汚す教え』というのか？それは大地（根本的な心のあり方）に属するものだからである。 では、『怒り』とは何か？心が荒々しく粗悪になることを言う。『恨み』とは何か？心が縛られ、それが怨みへと変わってしまうことを言う。『悔いないこと』とは何か？様々な悪行を好んで行い、それを行った後に喜ぶことを言う。『執着』とは何か？悪い行いをして、それに固執して離れようとしないことを言う。『ごまかし』とは何か？生きとし生けるものを欺くことであり、また十二の入（感覚の領域）に惑わされることにより生じる。これを『ごまかし』と呼ぶ。 天子たちよ、よく聞きなさい。十二の入とは何か？内側に、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの器官があり、これを『内の入』と呼ぶ。外側には、色・声・香・味・触・法という六つの対象があり、これを『外の入』と呼ぶ。これらには二種類の分別がある。一つは『相（特徴）』、もう一つは『自らの本質』である。 『相』について言えば、地・水・火・風の四大元素の縁によって眼の認識が生じる。これを『眼』という。耳・鼻・舌・身・意についても同様に、それぞれの領域に応じて独自の特徴があることが分かる。 では、『自らの本質』の特徴をどう知るのか？『自らの本質』とは、誤りのないあり方を言う。五つの縁によって眼の認識は生じる。その五つとは、眼があること、色があること、光があること、空間があること、そして心に思い浮かべることである。これらの縁により、眼の認識は生じる。耳の認識はこれとは異なり、明るくても暗くても、どちらでも認識が生じ、光に依存しない。鼻・舌・身・意の認識も同様である。意識は、明るさに対して、時に働き、時に働かないことがある。 どういう時に働き、どういう時に働かないのか？もし眼の認識が色を見て、意識がそれをはっきりと判断するならば、それを『働き』と呼ぶ。どういう時に働き、また働かないのか？眼の認識が色を見るとき、もし光がなければ見ることができない。しかし、その他の器官の認識は、光に依存しない。これを『認識の大元（元素）』と呼ぶ。 天子たちよ、さらに四大元素の縁があって、それぞれが互いに依存し合っている。では、四大元素はどのように互いに依り合って増減するのか？眼は火の元素が増し、鼻は地の元素が増し、身は風の元素が増し、舌は水の元素が増し、耳は空の元素が増す。このようにして、耳の中の空間の要素が際立ち、それによって意識は音を捉えることができる。このように、増減があることを知るべきである。 さらに、観察を進める。どの『入』が近い縁となり、どの『入』が遠い縁となるのか？鼻・舌・身の三つの器官は、直接触れることによって初めて認識が生じる。眼が見るものは、近くも遠くもない。耳が聞くものは、遠くでは分かりにくく、近くであれば分かりやすい。また、耳は体内の音も聞くことができる。鼻が嗅ぐものは、近くにあれば分かり、体内の臭いも自分で感じ取ることができる。例えば、鼻に病があればその臭いを自分で感じ、耳に風の病（耳鳴り）があればその音を自分で聞くのと同じである。 これらの認識は、二つのものにまとめられる。すなわち、眼の認識と意識である。このようにして、すべての認識はこれらに含まれる。例えば、一つの火が、燃えるものによって『木の火』『草の火』などと名前を変えるように、あらゆる認識も、意識に基づいてそれぞれに違いが生じるのである。 天子たちよ、これらの『入』のあり方を知ったならば、心を放縦にしてはならない。放縦せず、貪らず、怒らず、迷わないこと。このように生きる善人は、命終える時に、閻魔大王の使いに縛られることを恐れず、恐ろしい獄卒の姿も見ず、閻魔大王の恐ろしい世界に直面することもない。また、地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちることもなく、常に安楽を受け、ついには涅槃に至り、限りない喜びと安楽を成就する。それは、放縦しないからである。」

「『復次，天子！觀十二入無常苦空無我，觀其依止，因緣而生。如是觀已，離於放逸。觀眼識生，猶如幻法，空無所有，非堅非實，破壞之法。眼識滅已，而生耳識，空無所有，不堅破壞。如是觀內六入、外六入，或生或滅，鬪諍愛味，衰變無常，從因緣生。如實知之，如是見已，不貪於色。若見愛色，不生染著。不放逸者，諸天五欲尚不生貪，何況人欲。』

> 「また、天子よ、十二処（内六処と外六処）について、無常・苦・空・無我であると観察しなさい。それらは依りどころに基づき、因縁によって生じるものであると観察しなさい。このように観察したならば、放逸から離れることができる。眼識が生じるのを、幻術のようなもの、空にして何ものもないもの、堅固ではなく実体もなく、壊れゆく性質のものとして観察しなさい。眼識が滅した後に耳識が生じるが、それもまた空にして何ものもなく、堅固ではなく壊れゆくものである。このように、内の六処と外の六処において、生じたり滅したりするもの、争いや執着や渇愛を伴うもの、衰え変わり無常なるもの、因縁によって生じるものであると、あるがままに知りなさい。このように見るならば、色に対して貪ることはない。たとえ愛着を誘う色を見ても、染まり執着することはない。放逸でない者にとっては、天人の五つの欲望でさえも貪ることがない。ましてや、人間の欲望においてなおさらである。」

「爾時，釋迦天王而說頌曰：

> その時、忉利天の王・帝釈天が、次のように詩句（偈）を唱えました。

「『迷惑於界入，妨於涅槃道，以此放逸故，失一切善法。若有三種過，是大惡道使，癡為第一惡，放逸故流轉。愚癡放逸行，死常在手中，若有樂放逸，一切盡破壞。若人過一法，思惟於二法，知於三處相，是人則受樂。若天福德盡，放逸所破壞，墮落癡所誑，無人能救護。一法常最勝，能忍而修行，若與忍相應，悲念諸眾生。命終怖畏時，得如是大力，是故離放逸，精進修諸行。若能捨無明，常守護明智，以知明無明，放逸不能壞。若人捨放逸，決定得大利，如是不放逸，則能自利益。放逸網自縛，勤修則解脫，如是縛解相，我今總略說。天子既已知，若有行放逸，至於臨終時，乃知其果報。』

> 「五蘊と六処、十八界に惑わされれば、涅槃の道を妨げられる。 この放逸のゆえに、あらゆる善い法を失うのだ。 もし三つの過ちがあれば、それは大きな悪道の使いであり、 愚かさが第一の悪であり、放逸であるゆえに輪廻を続ける。 愚かさと放逸の行いを持つ者は、死が常にその手の中にある。 もし放逸を楽しむ者がいれば、すべての善が壊れてしまう。 もし人が一つの法を超え、二つの法を思惟し、 三つの処の相を知るなら、その人は安楽を得る。 もし天の福徳が尽き、放逸によって壊され、 愚かさに惑わされて堕落すれば、誰も救うことはできない。 一つの法が常に最も優れている――それは忍びて修行することだ。 もし忍びと相応すれば、全ての生きとし生けるものを悲れみ慈しむ。 命終わりの恐れの時に、そのような大きな力を得る。 それゆえ放逸を離れ、精進して諸々の行いを修めなさい。 もし無明を捨て、常に明かな智慧を守るなら、 明と無明を知るゆえに、放逸によって壊されることはない。 もし人が放逸を捨てれば、必ず大きな利益を得る。 このように不放逸であれば、自らの利益を達成できる。 放逸という網に自ら縛られても、勤めて修行すれば解脱する。 このような束縛と解脱の相を、今わたしは簡潔に説いた。 天子よ、すでに知ったなら、もし放逸を行う者がいれば、 臨終の時に至って、その報いを知ることになるのだ。」

「如是天帝釋廣說十二入相，調伏放逸諸天子等。若諸天子曾種善根，少行放逸，聞此法已，心自覺悟不復放逸，諸根淳熟皆能受行。若諸天子根未熟者，如破生癰，破捺之時，捺已洗治，無所利益，亦復如是。

> 「このように、天帝釈は十二入の相（十二処の特徴）を広く説き、放逸な天子たちを調え導きました。もし天子たちの中に、かつて善根を植え、少し放逸のあった者が、この法を聞いて心から悟り、再び放逸にならず、諸根が純粋で成熟し、すべてを受け入れて実践できるようになりました。しかし、もし根が未熟な天子たちは、ちょうど膿がまだ熟していない癰（できもの）を、押したり潰したりしてから洗って治療しようとしても、何の利益もないのと同じです。」

「復次，帝釋天王從一漸增，次第說於十二入法。十二入相。已於諸天大眾之中作神通力，示希有事，次第令入，繫心正念，覺因緣相，離於放逸，令其利益。見此變化，心生厭離。時天帝釋方便利益，為諸天眾廣說妙法。『諸天子！云何諂曲？心不正直，堅著生死，故名諂曲。云何名妬？於他熱惱，故名為妬。云何名慳？懼己物盡而生貪惜，故名慳。是名三界染地之法，分別則有，三界所攝。瞋、恨、慳、妬、幻，欲界所繫，諂曲一法遍於欲界及於梵天，憍慢、大慢遍於三界。諸天子！是名十種不善大地法也。復有十種善大地法。何等為十？所謂不貪、不癡、有慚、有愧、有信、調伏、不放逸精進、捨離、不生侵惱。是名十種善大地法，如是十法，各各異相。謂不貪者，一切善法之根本也，猶如梁柱。不癡善根亦復如是。慚者自守正直。愧者愧於他人。信者於一切法，其心清淨。調伏者，身心調善離於惡法，依清涼法。不放逸者，勤修善法。捨者，於作不作因緣之中，其心捨離。不侵惱者，不惱眾生。是名十種善法大地。若有心念如是法者，於命終時不畏死怖，不畏閻羅使者所縛。何以故？攝善法故。如向所說心心數法、善大地法、染大地法。自相總說，是名十法。

> また、帝釈天は一から始めて徐々に増やしながら、十二入の法を順序立てて説いた。十二入の相を示し、すでに諸天の大衆の中で神通の力を起こし、希有の事を示して、次第に彼らを導き入れた。心を繫ぎ、正念を保たせ、因縁の相を覚らせ、放逸を離れさせ、利益を得させるためであった。この変化を見て、諸天は心に厭離を生じた。その時、帝釈天は方便を用いて利益を与え、諸天の大衆のために広く妙法を説いた。 「諸天子よ。」「諂曲とは何か。心が正直でなく、生死に固く執着する。これを諂曲と名づける。」「妬とは何か。他者の熱悩を喜ぶ。これを妬と名づける。」「慳とは何か。自分の物が尽きるのを恐れて貪り惜しむ。これを慳と名づける。」「これらは三界の染地の法である。区別すれば有り、三界に摂せられる。瞋、恨、慳、妬、幻は欲界に繋がれ、諂曲の一法は欲界および梵天に及ぶ。憍慢と大慢は三界に遍く及ぶ。」「諸天子よ。これが十種の不善大地法である。」「さらに十種の善大地法がある。十とは何か。すなわち、不貪、不癡、有慚、有愧、有信、調伏、不放逸精進、捨離、不生侵諂である。これを十種の善大地法と名づける。」「この十の法は、それぞれ異なる相を持つ。」「不貪とは、一切の善法の根本であり、ちょうど梁や柱のようなものである。不癡の善根もまた同じである。」「慚とは、自らを守り正直であることである。」「愧とは、他人に対して恥じることである。」「信とは、一切の法に対して心が清らかであることである。」「調伏とは、身と心を調え善くし、悪法を離れ、清涼の法に依ることである。」「不放逸とは、精進して善法を修することである。」「捨とは、作ると作らざるの因縁の中で、心が捨て離れることである。」「不侵諂とは、衆生を悩まさないことである。」「これらを十種の善法大地と名づける。」「もし心にこれらの法を念ずる者があれば、命終の時に死の恐怖を怖れず、閻魔羅の使いに縛られることを怖れない。なぜならば、善法を摂するからである。」「今、説いたところの心と心所の法、善大地法、染大地法。自相を総じて説く。これを十法と名づける。」

「『復次，諸天子！云何名為修十一法？若有比丘觀於自身，自見其身，不愛不迷，心不堅著，是名初修。

> さらに、天の皆さんよ。どのようにして十一の法を修めるというのか。ある比丘が自身を観察し、自分の体を見つめて、それに執着せず、迷わず、心を固く執着させないこと、これを最初の修めと呼びます。

「『復次，諸天子！若有比丘先受所欲毀訾，不味不著不念，生厭離心，是則名曰第二修也。

> 「さらに、諸天の皆さんよ。もし比丘が、かつて欲望の対象を経験したとしても、それを非難し、味わい求めず、執着せず、心に留めず、厭離の心を生じさせるならば、これを第二の修行と呼びます。」

「『復次，諸天子！若有比丘常不放逸，不著境界，盡諸結使，是名修於不放逸行。是則名曰第三修也。

> 「さらに、天子たちよ。もし比丘が常に心を緩めず、境に執着せず、すべての煩悩を尽くすならば、これを『不放逸の修行』と名づける。すなわち、これが第三の修行である。」

「『復次，諸天子！若有比丘憶念善法、修行善法。「如是善法能生樂報，樂因樂緣，如是樂報。我當受之，斷不善法。」是則名曰第四修也。

> 「さらに、天の皆さまよ。比丘が善い教えを心に留め、善い行いを実践するならば、この善い行いは楽しい報いを生みます。楽しい原因と楽しい縁から、このような楽しい報いが生まれます。『私はそれを受け入れ、不善な行いを断ち切りましょう』——これが第四の修行と呼ばれるものです。」

「『復次，諸天子！修行樂受生。受有何力，云何而生？何因何緣？云何因緣？云何而生？如是受生，莫為妨礙。如實觀受，不堅不實，空無所有。是則名曰第五修也。

> 「さらに、諸天の皆さまよ。修行者は楽受（快い感覚）に執着すると、それが新たな苦しみを生み出します。では、この感覚にはどんな力があり、どのように生じるのでしょうか？その原因や条件は何でしょうか？どのような理由と縁によって、それは生まれるのでしょうか？このように感覚が生じる際、妨げとなってはなりません。感覚をあるがままに観察すれば、それは堅固ではなく、実体もなく、空であり、何もないことが分かります。これを第五の修行と言うのです。」

「『復次，諸天子！若有比丘修行一切諸行無常、苦空無我、無所有，互相因緣而得有生，非一力生。如是修行。如是修已，心不愛樂，是則名曰第六修也。

> 「さらに、天子たちよ。もし比丘が、あらゆる行（つくりごと）は無常であり、苦しみであり、空であり、実体のない自己（我）はなく、所有するものもなく、互いに縁（因縁）によって生じるのであり、単独の力で生じるのではない、と修行するならば。このように修行し、修行を終えて、心がその世界を愛好し楽しむことがなくなるとき、これを第六の修行と名づける。

「『復次，諸天子！若有比丘作如是念：「我生善念、生善因緣。」既生此念，異念所壞。「我今所緣，生滅不善之念，壞我善念，妨我善法。」如是常念所緣，是則名曰第七修也。

> “さらに、諸天の皆さんよ。もし比丘がこのように思うことがあります——『私は善い思いを起こし、善い因縁を生じている』と。そう思ったその瞬間に、別の思いによって妨げられてしまいます。『私が今、心のよりどころとしている対象によって、善くない思いが生じたり消えたりして、それが私の善い思いを壊し、善い教えを妨げている』と。このように、常に心のよりどころを意識し続けること、これを第七の修行と呼びます。」

「『復次，諸天子！若有比丘修第八行法相、平等相、住自相，法不顛倒，一切諸法，性無垢故。如是比丘復自觀察：「我既有生，畢定當死。有為之法，無非三相。」如是修行，一切諸法皆悉無常，是則名曰第八修也。

> また、諸天の子らよ。もし比丘が第八の修行の法の相を修め、平等の相に住し、自らの相に安住して、法が倒錯せず、すべての諸法の性質には汚れがないのであれば、その比丘はさらに自らを観察する。「私には生がある以上、必ず死ぬことになる。有為の法には、三つの相がないものはない」と。このように修行し、すべての諸法はみな無常であると知ることを、第八の修行と名付けるのである。

「『復次，諸天子！云何名為第九修耶？三煩惱根，三種對治。所謂貪欲、瞋恚、愚癡。貪欲之人，教不淨觀；瞋恚之人，教以慈心；愚癡之人，教觀因緣。是名對治。如是修觀，心常思念，是則名曰第九修也。

> 「さらに、諸天の皆さま、第九の修行とは何でしょうか？三つの煩悩の根源には、三つの対治法があります。すなわち、貪欲、瞋恚、愚痴です。貪欲のある人には、不浄観を教えます。瞋恚のある人には、慈しみの心を教えます。愚痴のある人には、因縁を観じることを教えます。これが対治法です。このように心を観じ、常に思いを巡らせること、これを第九の修行と名づけます。」

「『復次，諸天子！云何名為第十修耶？念佛功德，安樂世間，是故修行利益自身，是則名曰第十修也。

> 「さらに、諸天の皆さん。第十番目の修行とは何でしょうか。仏の功徳を心に念じ、世の中を安らかにすることが、己をも利益する修行となります。これが第十番目の修行と名づけられるのです。」

「『復次，諸天子！云何名為第十一修？從他次第聞無常法，念念不住，從於處胎，生滅不住，如始處胎、童子、少年乃至老時。如是比丘及餘修習，既修習已，臨命終時，不畏閻羅王使者，自在所持，不見醜惡怖畏之相。是則名曰十一修也。

> 「さらに、諸天の皆さま。第十一の修行とは何でしょうか。それは、師や先達から無常の教えを順に聞き、すべての瞬間がとどまることなく、胎内に宿った時から、誕生、幼少、青年、老年に至るまで、生まれては消え、とどまることがないと繰り返し観じます。このように比丘や他の修行者が修習を積み、臨終の際には、閻魔大王の使いに対しても恐れることなく、自分の心を自在に保ち、醜悪で恐ろしい相をまったく見ることがありません。これを第十一の修行と名づけるのです。」

「『復次，諸天子！云何名為十三係念善修利益安樂乃至涅槃？何等十三？念不放逸、念生住滅、念不散亂，如是念已，若見好色、若見惡色、若見女人，觀其身內膿血不淨之所住處，大小便利不淨之處。如是係念令不散亂。若入城邑聚落乞求，行色境界不應行處，若不係念則著色欲。以是因緣，係心不散，是名第一一心係念也。

> 「また、諸天の皆さまよ。十三の係念をよく修め、利益と安楽、そして究極には涅槃に至る方法とは何でしょうか。 その十三とは、まず第一に、放逸しないという念。第二に、生じ、とどまり、滅するという念。第三に、散乱しないという念です。このように念じたならば、美しい形を見ようと、醜い形を見ようと、あるいは女性を見ようと、その身の内に膿や血などの不浄なものが住み、大小便の不浄があることを観察します。このように心をとどめて、散乱させないようにします。 もし町や村に托鉢に入り、形あるものの世界の中で行動する時、本来行くべきでない場所では、もし心をとどめていなければ、色欲に執着してしまいます。このような理由から、心をとどめて散乱させないこと、これを第一の一心係念と名づけます。」

「『復次，第二係念：思惟觀外境界可愛園林及蓮華池、可愛河泉遊戲之處，見已作如是念：「如是可愛遊戲之處，以愚癡心而生貪著，必當衰壞。樹葉萎黃，失其本相，彫零墮落，狀似枯死，蔭影希踈。如是有為，一切無常，空無所有，何況愛法。」如是作心係念，作是念已，心不貪著內外境界，魔不能亂。是名第二一心係念。

> 「次に、第二の心の集中についてお話しします。 外の世界にある美しい庭園や蓮池、清らかな川や泉、遊びの場所を思い浮かべてください。そして、こう考えます。 『このような楽しい場所も、愚かな心で執着すれば、必ず衰えていく。葉は黄色くなり、元の姿を失い、散り落ちて枯れ、木陰はまばらになる。このように、この世のすべての現象は無常であり、実体はなく、何もない。ましてや、快楽への執着などなおさらである』と。 このように心を整え、内外のあらゆる現象に執着しなければ、悪魔も乱すことはできません。これが第二の一心不乱の境地です。」

「『復次，第三一心係念利益安樂。云何係念？緣何等法？若食若眠曾見美色，念不分別，心不係念，作如是念：「愚癡凡夫，諸根貪著不知厭足。」如是係念，是名第三一心係念。

> 「さらに第三に、一心に心を留めて、利益と安楽を得る方法があります。どのように心を留めるのでしょうか。何をよりどころとするのでしょうか。飲食や睡眠の際に、かつて見た美しい色を思い出しても、それを分別せず、心を留めません。このように考えます。『愚かな凡夫は、諸々の感覚器官に執着し、満足することを知らない』と。このように心を留めること、これを第三の一心に心を留めるといいます。」

「『復次，第四一心係念：隨何等處得供養利——衣服床褥、臥具醫藥，心不歡喜，不喜不樂。何以故？供養之利，利養瘡深，割皮壞肉，壞肉斷筋，斷筋破骨，破骨傷髓。利養因緣能壞善法亦復如是。是名第四一心係念。

> さらに、第四の教えとして、心を一つに集中して念じ続けなさい。どのような場所で衣服や寝具、薬などの供養の利益を得ても、心は喜ばず、楽しみも感じない。なぜなら、それら供養の利益は、深い傷のようなものだからだ。皮膚を切り裂き、肉を傷つけ、筋を断ち切り、骨を砕き、髄をも損なう。供養の利益という因縁は、善い法を壊してしまうことも、まさにこれと同じである。これが第四の、心を一つに集中して念じ続ける教えである。

「『復次，第五一心係念：若遊城邑聚落村營，不住城邑。若有眾人往至其所，不與多言、不樂多語。何以故？若人遊行城邑聚落，心則散亂不能自利。如是一心係念，如實觀之，是名第五一心係念。

> 「さらに、第五の一心に念じるとは：もし町や村や集落を巡り歩いても、町に留まらないこと。もし多くの人がそのもとに来ても、多くを語らず、多くを語ることを好まない。なぜなら、もし人が町や村を巡り歩くと、心は散乱して自らの利益にならないからである。このように一心に念じ、あるがままに観察する。これを第五の一心に念じることと名づける。」

「『復次，第六一心係念：見如是過於塚間樹下、若草𧂐邊、若山㵎邊、若住空舍，無所愛著亦無親愛，不親近他，善法增長得自利益，遠避眾人。是名第六一心係念。

> さらに、第六の一心に心をとどめるとは、次のような過ちを見てのことである。すなわち、墓場の木の下、草むらのほとり、山の谷間のほとり、あるいは空き家に住み、何にも執着せず、親しい間柄も持たず、他人に近づかず、善い行いを増やして自らの利益を得、人々から遠く離れることである。これを第六の一心に心をとどめるという。

「『復次，第七一心係念：聞說天報，心不愛樂，而生厭離。樂聞說於地獄苦果，其心無厭，作如是念：「天退衰沒，為閻羅使自在將去。我今不復作地獄業，亦不隨喜。見有作者，教令捨離。」如是比丘聞天不喜，聞地獄苦不生怖畏，離憂離喜，常念善法，是名第七一心係念。

> 「さらに、第七の一心に念じること。天上の果報についての教えを聞いても、心に愛着せず、むしろ厭い離れる心を起こす。地獄の苦しみの報いについての教えを聞くことを好み、その心に飽きることがない。こう考えます。『天界から衰退し没落すれば、閻魔の使いに自由に連れ去られる。私は今、地獄の業を再び作らず、それに喜びも感じない。それを為す者を見たら、その行いを捨てさせよう。』このように、比丘は天界を聞いても喜ばず、地獄の苦しみを聞いても怖れず、憂いから離れ喜びから離れて、常に善い法を念じる。これを第七の一心に念じると名付ける。」

「『復次，第八一心係念。「我起善念，捨不善法，悉令盡壞，離於餘氣，生餘善法。係念善法，若不善念妨於善念，我已斷不善念。」如是攀緣，想念次第之數，一心係念，調伏其心。是人能於洄澓湧波怨家之心，令住境界。是名第八一心係念。

> 8\. 次に、第八の一心専念についてです。 「私は良い心を起こし、善くない行いを捨て去り、それらをすべて消し尽くし、その残り気もなくして、他の善い行いを生み出します。善い行いに心を留めているとき、もし善くない思いが善い行いを妨げようとしても、私はすでにその善くない思いを断ち切っています。」 このように、心を対象に捉え、次々と移り変わる思いを順に観察し、一心に心を留めて、自分の心を調え整えます。 この人は、渦巻く流れや逆巻く波のような敵対する心をも、自分の境地に落ち着かせることができるのです。 これを第八の一心専念といいます。

「『復次，第九一心係念：念佛功德、念敬重法、念敬信師，隨善師行，正意修行，直視一尋，利益一切眾生，心念度脫。如是係念，得果不空乃至涅槃，是名第九一心係念。

> さらに、第九の一心係念とは、仏の功徳を思い、敬い重んずる法を思い、敬い信ずる師を思い、善き師に従って行動し、正しい心で修行し、前方一尋をまっすぐに見つめ、すべての生きとし生けるものを利益し、彼らを救い解脱させようと心に念じることです。このように心を一つに集中することで、得られる果報は虚しくなく、ついには涅槃に至ります。これを第九の一心係念と名づけます。

「『復次，第十一心係念：善修正行，如有四種大怖畏至，謂衰、老、病、死。怖畏死怨，不憙憶念，見四種法，流動無常於壽命安隱、少壯具足。如是四種，如前所說，常有怖畏。如是修無常想，不樂五欲，不為愛怒之所使也。常行正念，則能碎於煩惱大山。是名第十一心係念。

> また、第十一の心の持ち方とは、正しい行いを善く修することです。ちょうど四つの大きな恐れが訪れるかのようです。すなわち、衰え、老い、病、死です。死という怨みを恐れ、好んで思い出そうとはしません。四つのもの、すなわち寿命の安穏、若さ、壮健さが流動して無常であるのを見ます。これらの四つは、先に述べたように、常に恐れがあるものです。このように無常の想いを修することで、五つの欲望を楽しまず、怒りや愛欲に使われることがありません。常に正しい念を保てば、煩悩という大山を打ち砕くことができます。これを第十一の心の持ち方といいます。

「『復次，第十一一心係念：不生分別，此是精進，此是懈怠。若生是念，則自毀傷。不惱他人，其心清淨，係念調伏，不惱眾生。是名第十一一心係念。

> さらに、第十一の心の統一について―― 「これは精進だ」「これは怠けだ」と区別を立ててはならない。 もしそのような思いを起こせば、自らを傷つけることになる。 他人を悩ませず、心を清らかに保ち、心を整えて調和し、生きとし生けるものを悩ませない。 これを第十一の心の統一という。

「『復次，第十二一心係念：常聽正法，聞已受持，既受持已，堅持不忘。是人知於善法及不善法，如是之人，如大闇中大燈明也。善不善法於佛法中，皆能了知，猶如明燈，是名一心係念。如是一心係念，不為愛怒、不為魔使，是名第十二一心係念。

> 「さらに、第十二の心を一つに集中するとは、常に正しい教えを聞き、聞いたならばそれを心に受け止め、受け止めたならばしっかりと保ち、忘れないことです。このようにする人は、善い行いと悪い行いとを知ります。そうした人は、大きな闇の中にあって、大きな灯明のようなものです。善い行いと悪い行いとを、仏の教えにおいて、みなはっきりと知ることができる。それは、まるで明るい灯のようです。これを、心を一つに集中すると言います。このように心を一つに集中すれば、愛欲や怒りに支配されず、悪魔の使いにもなりません。これを第十二の心を一つに集中すると言うのです。

「『復次，第十三一心係念：念身受心，念如是處，知於自相，正心係念，離放逸行。既不放逸，不為閻羅使者自在將去。以自在故，不失憶念，無非時行，不行非處、不行惡境，一切係念。是名第十三一心係念。

> 次に第十三、一心に係念することについて説明します。心を一つに集中して、身体における感受、心、そしてそれらの対象を観察します。そのような観察の場において、自らの本質を知り、正しく心を集中し、気ままな行いから離れます。気ままな振る舞いをしないので、閻魔の使いに自由に連れて行かれることはありません。心が自由であるため、記憶や念を失わず、時でない時に行動せず、ふさわしくない場所にも行かず、悪い環境にも進まず、すべてに心を集中し続けます。これを第十三の一心係念と呼びます。

「『復次，諸天子有十四種善修其心，善調伏心、善清淨心，離於放逸。何等十四？一者知足；二者精進；三者寂靜；四者親近善師；五者離惡知識；六者修習佛法；七者善觀修習；八者捨於憍慢；九者信於因果，法及非法；十者念於善欲；十一者不觀女色；十二者不近親族；十三者正住一切境界；十四者畏於生死。是名十四法善修其心。以此因緣，調伏其心，臨命終時，不畏惡道閻羅獄卒，不開惡道門，不斷正法，不為閻羅使者之所繫縛，隨意將去。不作惡業，能得一切善法者，所謂善調伏心，令修善業，能將眾生至人天中，開涅槃門，後得涅槃。是故，諸天子！汝等應善調伏其心。心調伏故，尚不見於閻羅使者，何況將去。』

> 「また、天子たちよ、心をよく修め、よく調伏し、よく清浄にし、放逸を離れる十四の方法がある。どのような十四か。第一に、足ることを知ること。第二に、精進すること。第三に、寂静であること。第四に、善き師に親しむこと。第五に、悪い知識を遠ざけること。第六に、仏法を修習すること。第七に、よく観察し修習すること。第八に、高慢を捨てること。第九に、因果、法と非法とを信じること。第十に、善い欲求を心に留めること。第十一に、女色を観じないこと。第十二に、親族に近づかないこと。第十三に、すべての境涯に正しく安住すること。第十四に、生死を畏れること。これらを、心をよく修める十四の法という。この因縁によって心を調伏すれば、命終の時に臨んでも、悪道や閻魔の獄卒を畏れず、悪道の門を開かず、正法を断たず、閻魔の使者に縛られることなく、意のままに往くことができる。不善の業を作らず、一切の善法を得られる。いわゆる、心をよく調伏し、善業を修する者は、衆生を人天の道に導き、涅槃の門を開き、ついには涅槃を得るのである。それゆえ、天子たちよ、あなたがたは心をよく調伏すべきである。心が調伏されれば、閻魔の使者さえも見ることがなく、ましてや連れて行かれることなどあろうか。」

「時天帝釋為諸天眾說惡道畏，見閻羅王使者怖畏。『我已如是一一漸增，次第為汝說十四法，今當為汝說十五法。如我往昔從佛所聞，我今當說。何等十五？若出家沙門毀於法式，亦令他作。被袈裟法，所著袈裟令他愛欲，樂好袈裟以自莊嚴，其音麁惡猶如驢聲，細步徐行端嚴威儀，為愛欲故，莊嚴其身。如是沙門不勤精進，樂見女人，憍慢自大，其心輕躁，欲心放逸。是故所著衣服為遮寒熱，纔得覆身，不生貪著、不為愛著。放逸所誑，臨命終時，不生悔心，是名初法。

> その時、帝釋天は天の衆生たちに対して、悪道の恐ろしさと閻魔王の使者の怖ろしさについて説きました。 「私はこのように、一つ一つ少しずつ増やしながら、順を追ってあなたたちに十四の法を説きました。今、十五番目の法を説きましょう。かつて私が仏から聞いた通り、今、お前に説きます。いったい何が十五か。 もし出家した沙門が、法の在り方を破り、他人にもそれをさせるならば、彼は袈裟を身にまとっていながら、その袈裟を他人に執着させ、良い袈裟を好んで自らを飾り立てます。その声は荒々しく、まるで驢馬の声のようでありながら、細やかな歩みでゆっくりと歩き、厳かな威儀を装います。愛欲のためにその身を飾るのです。 このような沙門は、努め励むことなく、女を見ることを好み、高慢で思い上がり、心は軽はずみで、欲望に心を奪われて放逸になります。 それゆえに、着る衣服というものは、寒さや暑さを防ぎ、かろうじて身を覆うだけのものであり、それに執着せず、愛着しないものでなければなりません。放逸に惑わされて、命終わりの時に後悔の心を起こさないこと、これを初めての法と名づけます。」

「『復次，諸天子！云何沙門知第二法，知於知足？持何等戒？出家修行或修智慧，既自知已，於施主所施臥具醫藥，知足受畜，相應受施、如法受施。如是受施，不妨出家沙門之法，是名知於第二法也。

> 「さらに、天の諸子よ。では、沙門が第二の法を知り、知足を知るとはどういうことか。どのような戒を持ち、出家して修行し、あるいは智慧を修めるのか。自らそれを知った上で、施主から施された寝具や薬について、足ることを知って受け持ち、相応しく受け、法に従って受ける。このように受けることは、出家した沙門の道を妨げない。これを第二の法を知る、というのである。」

「『復次，諸天子！云何沙門知第三法？不以貪心念於臥具。若聚落城邑非功德處，為飲食衣服故，捨離阿蘭若處，入於聚落城邑，妨修善法，失於知足。沙門法中第一勝者，所謂知足及不放逸。若人樂貪，不樂知足，為貪所誑，害於善法。如是之人猶如癡狗，還自食吐。是名沙門第三法也。

> 「さらに、天の衆よ。では、修行者が理解すべき第三の教えとは何か。それは、寝具や住まいに対して執着の心で思わないことである。もし村や町に、功徳を積む場とは言えない場所がある場合、飲食や衣服を得るために、静かな修行の場（アーランヤカ）を捨てて村や町に入れば、善い行いを妨げ、足ることを知る心を失ってしまう。修行者の道において最も優れたもの、それは足ることを知る心と、心を怠らないこと（不放逸）である。もし人が執着を好み、足ることを知る心を好まなければ、その人は執着に欺かれ、善い行いを損なう。そうした人は、まるで愚かな犬が自分の吐いたものを再び食べるようなものである。これが修行者の第三の教えである。」

「『復次，諸天子！云何沙門知第四法？所讀經典，不言多讀，恐於施主多設供養飲食衣服、臥具醫藥，恐其難消，妨出家法。非我所應，自知止足。是名沙門知第四法。復有第四少欲之法：若有比丘少欲知足，於何等法不放逸行？如是沙門，或為僧使、或為病人至施主家乞求財物，於施主家若飲一水，妨於善法，唐勞行使，虛作勤勞而無福德。何以故？以貪味故，至施主家，令諸施主心生輕賤。如是比丘非自利益，不利病人，非利眾僧，此是第一輕慢因緣。所謂至檀越家貪於食味、輕躁、不正語，此三種法，世間、出世間之所輕賤。是故知足不放逸行，捨於此法。是名沙門第四法也。

> 「さらに、天の神々よ。では、沙門が知るべき第四の法とは何か。彼が学ぶ経典において、多くを読むことを欲しない。それは、施主から多くの布施（衣服や食べ物、寝具や薬など）を受け過ぎると、それらを消化しきれず、出家の道の妨げとなることを恐れるからである。これこそが自分にふさわしいことではないと知り、自ら足ることを知る。これを、沙門が知るべき第四の法という。 さらに、第四の少欲の法がある。もし比丘が少欲知足であるなら、どのような法に対して放逸な行いをせずにいるべきか。そのような沙門は、僧侶の使いとして、あるいは病人のために施主の家に財物を乞いに行くことがある。その際、もし施主の家で一杯の水を飲むことさえも、善い法の妨げとなることがあり、ただ無駄に働き、苦労しても功徳を得られないのである。なぜなら、味への貪りによって施主の家を訪れると、施主たちに軽んじられてしまうからだ。このような比丘は、自分自身のためにもならず、病人のためにもならず、僧伽のためにもならない。この第一の軽慢の因縁は、すなわち、施主の家で食べ物の味に貪り、軽薄で落ち着きがなく、不適切な言葉を使うことである。この三つの法は、世の間でも、また世を超えた修行の世界においても、軽んじられるものなのである。よって、知足し放逸な行いをせず、このような法を捨てるべきである。これを、沙門の第四の法とする。」

「『復次，諸天子！云何知第五法？少欲知足，依止乞食，受出家法，唯受一食，不舉宿食。若舉宿食，心則貪著，不樂禪誦，貪著食味，恐後不得。如是少貪，妨沙門法，何況比丘多貪供養。若畜此法，為於愛網堅牢繫縛。是名沙門第五法也。

> 「さらに、天の皆様よ。第五の法とは何かを知っていますか？ それは、『少欲知足』（欲を少なくし、足ることを知る）に基づき、托钵（托鉢）に身を委ね、出家の道を受け入れることです。ただ一食だけを受け、余った食べ物を翌日まで残してはなりません。もし残しておけば、心は執着し、瞑想や読経を楽しめず、味への執着が生まれ、将来また食べられなくなるのではと恐れるでしょう。このような小さな貪りでさえも、修行者の道を妨げます。ましてや、多くの供養を貪る比丘はなおさらです。もしこのような習慣を身につければ、愛欲の網にしっかりと縛られてしまうでしょう。これこそが、修行者の第五の法なのです。」

「『復次，諸天子！云何沙門知第六法？若有沙門大姓出家，少欲知足。「我既出家已，不自說言：『我是某甲大姓出家。』」亦教弟子不令宣說，若受法弟子、若出家弟子教令不說。恐諸施主多設供養臥具衣服、飲食醫藥。「若我受取，妨於善法；若我不受，壞弟子心，若生瞋恚，妨其善法，於未來世得不饒益。」如是之人知足受施，不為愛攝，心不散亂，於正法中生正念心，樂於林中修學禪觀，觀身循身觀，觀心循心觀，觀受循受觀，觀法循法觀。如是比丘於有為獄則能超越，以行少欲知足行故。是名沙門第六法也。

> 「また、諸天の皆さま、どのように修行者が第六の法を知るのでしょうか。もし修行者が名高い家系から出家し、少欲知足（欲が少なく満足を知る）であるならば、『私は出家したのだから、自ら「私は某という名高い家系から出家したのだ」と言わない』とし、また弟子たちにも宣説させず、法を受ける弟子や出家した弟子にも、言わせないようにします。それは、施主たちが多くの供養や寝具、衣服、飲食、医薬を施すのを恐れるからです。『もし私がそれらを受け取れば、善法の妨げとなる。もし私が受け取らなければ、弟子の心を損ない、もし怒りが生じれば、その善法を妨げ、未来の世において利益を得られなくなる』と。このようにする人は、足ることを知って施しを受け、愛執に捕らわれず、心は散乱せず、正法において正念の心を生じ、林の中で禅観を修めることを楽しみ、身体を観じて身体を辿り観じ、心を観じて心を辿り観じ、感受を観じて感受を辿り観じ、法を観じて法を辿り観じます。このような比丘は、有為の牢獄を超えることができます。少欲知足の行を実践するからです。これを修行者の第六の法と呼びます。」

「『復次，諸天子！云何沙門知第七法？少欲知足，畏大利養。捨利養已，知何等法？若有比丘多有知識，樂多事務、樂多弟子、多利供養，貪樂請食，數見親舊。如是比丘修行之人，不應與之共為行伴至聚落中。何故不得與其相隨？恐放逸故。如是比丘樂於利養，眾人所知，同處行故，亦謂此人多貪無厭。以供養故，敬重其人，二俱妨礙。若多事比丘受他利養，若此行人不受其物，令多事者其心忿恚，言此比丘諂曲不實，誑於聚落諸施主等，謂是比丘內心貪濁。以是因緣，令他見者內自毀傷。是故少欲知足比丘不應與彼多事比丘同止共住、行來出入，以生過故。是名沙門第七法也。

> 「さらに、天の子らよ。では、修行者が第七の法をどのように知るのか。求めるところ少なく、足ることを知り、大きな財物や利益を得ることを恐れることである。その利益を得ることを捨てるとは、どのようなことを知るのか。たとえば、ある修行者が多くの知人を持ち、多くの雑務を好み、多くの弟子を持ち、多くの施しや供養を受け、食事に招かれることを好み、しばしば親類や旧友を訪ねるとしよう。そのような修行者に対して、真に修行に励む人は、共に村に入る道連れとなるべきではない。なぜ一緒に歩いてはならないのか。心が緩み、怠ける恐れがあるからである。このように、修行者が利益や供養を好むことは多くの人の知るところとなる。共に行動すれば、この修行者もまた貪欲で満足を知らぬ者だと思われる。供養のゆえにその人を敬い重んじることも、双方にとって妨げとなる。もし、多忙な修行者が他からの施しを受ける時、この修行者がそれを受け取らなければ、多忙な修行者は心に怒りをいだき、『この修行者は心が歪んで、真実でない。村の施主たちを欺いている。内心は汚れた欲望に満ちている』と言うだろう。このような因縁によって、それを見る者たちは自らの心を損ない傷つけるのである。ゆえに、求めること少なく足ることを知る修行者は、そのような多忙な修行者と共に住み、共に行動し、出入りしてはならない。過ちを生じるからである。これが、修行者の第七の法である。」

「『復次，諸天子！云何沙門知第八法？少欲比丘怖畏生死，遠於利養，常念一心。云何知法？若在家時，種種技術，既出家已，不復自說。所謂醫方工巧、伎樂刀矟，如是種種技術，不自談說。何以故？恐諸施主知我技術，多致供養，妨沙門法。或以如是世俗技術，心樂習行，毀壞善法，不得一心、不得禪定，心不清淨，妨沙門法，自利利他亦皆損減，不能利益調伏弟子。是故應捨不說技術，是名沙門第八法也。

> 「さらに、諸天の皆さんよ。では、修行者にとって第八の法とは何か。それは、欲の少ない比丘が、迷いの生まれ変わりを恐れ、利益や供養から遠く離れ、常に心を一つに保つことである。では、どのように法を知るのか。在家の頃に様々な技術を身につけていたとしても、出家した後は、それについて自ら語ってはならない。つまり、医術や工作、芸能や武術といった様々な技術を、自ら話し合ってはならないのである。なぜか。それは、在家の信者たちに自分の技術を知られ、多くの供養を受けることになり、修行者の道を妨げるからである。あるいは、こうした世俗の技術を心から楽しんで習い行うことで、善い法を壊し、心を一つにできず、禅定も得られず、心が清らかでなくなり、修行者の道を妨げる。自分自身の利益も他人の利益も減らしてしまい、弟子を導き整えることもできなくなる。それ故、技術の話は捨て、語らないこと。これが修行者の第八の法なのである。」

「『復次，諸天子！云何沙門知第九法？少欲比丘智慧之人，遠離供養。見塔寺中，若城邑內、若聚落中、若近聚落、若柵邑中、若近柵邑見有僧寺。若有眾多破戒比丘多欲無厭，多畜飲食，食不淨食，飲酒放逸，治生販賣不淨之物，出入財產，親近俗人以為知識，不樂住寺，多樂住於施主之家。少欲比丘不應與此多欲比丘共住一寺。若有欲得寂靜之心，欲離魔縛，不應住於如是之處。何以故？恐城中人、若聚落人、柵邑中人知諸比丘破戒行惡，謂我一人持戒第一，多施供養。「若我受此供養之物，不名少欲。若我不受如是利養，眾人嫌恨，亦令多人瞋恨施主何故以物乃施一人，不施多人？」知此過已，少欲比丘不應共於不淨比丘同處而住，是名沙門第九法也。

> また、天の者たちよ。では、沙門が知るべき第九の法とは何か。 欲の少ない智慧ある比丘は、供養から遠ざかる。塔や寺、城の中、村の中、村の近く、柵で囲まれた集落、あるいはその近くに僧寺を見たとする。そこに多くの破戒の比丘がいて、欲が多く飽くことを知らず、多くの飲食を蓄え、清らかでないものを食べ、酒を飲んで放逸に過ごし、商売や売買で不清浄な物を扱い、財産を出し入れし、俗人と親しんで友とし、寺に住むことを好まず、施主の家に住むことを好むような者たちがいる。 欲の少ない比丘は、そのような欲の多い比丘と同じ寺に住むべきではない。もし静かな心を得たいと願い、魔の束縛から離れたいと望むなら、そのような場所に住んではならない。なぜなら、町の人々や村の人々、集落の人々が、比丘たちの破戒や悪行を知り、「私一人が戒律を守る第一の者だ」と思って、多くの供養を施すかもしれないからだ。 「もし私がこの供養の品々を受ければ、それは欲の少ない者とは言えない。しかし、もしこのような利養を受けなければ、人々は私を嫌い恨み、また多くの人々が施主に対して『なぜ一人だけに施し、多くに施さないのか』と怒りを抱かせることになる。」 このような過ちを知って、欲の少ない比丘は、不清浄な比丘と同じ場所に住むべきではない。これが沙門の第九の法である。

「『復次，諸天子！云何沙門知第十法？若有比丘得世俗通，能示異相，少欲比丘不應宣說。何以故？恐諸聞者謂我當是阿羅漢人，多設供養，妨沙門法，或失神通，壞少欲法。是名沙門第十法也。

> 「さらに、天の皆さんよ。では、修行者は第十の法をどのように知るのでしょうか？もし修行者が世俗的な神通力を得て、不思議な現象を示すことができても、欲の少ない修行者はそれを語るべきではありません。なぜなら、それを聞いた人が『私は阿羅漢である』と思い、多くの供養を設けて修行者の道を妨げ、あるいは神通力を失い、少欲の法を損なう恐れがあるからです。これを修行者の第十の法と名づけます。」

「『復次，諸天子！云何沙門知第十一法？若有比丘持佛舍利，從城至城，從村至村，從邑至邑，從鄉至鄉，以實神力示於世間。如是舍利是大福田，當設供養。如是比丘少聞無智，稱美讚歎少欲比丘，言此比丘多聞智慧，能為汝等演說正法。施主聞已，敬重舍利及多聞比丘，廣設供養。若此比丘受此供養，非少欲法。少欲比丘不應與此遊行比丘共行共住。何以故？諸施主等見此比丘不持禁戒，謂少欲者亦破禁戒。是故不應與破戒者行住坐臥，恐閻羅使獄卒縛故，恐放逸故。是名沙門第十一法也。

> 「さらに、天の神々よ。沙門が知るべき第十一の法とは何か。もし比丘が仏舎利を持ち、町から町へ、村から村へ、地域から地域へ、地方から地方へと巡り、真実の神通力をもって世に示すとする。このような舎利は大きな福田であるから、供養を設けるべきである。この比丘は学が少なく智慧もないのに、少欲の比丘を称え讚え、『この比丘は聡明で智慧があり、あなたがたに正しい法を説くことができる』と言う。施主はこれを聞き、舎利と聡明な比丘を敬い、盛大に供養を設ける。もしこの比丘がその供養を受けるならば、それは少欲の行いとは言えない。少欲の比丘は、このような遊行する比丘と共に行き、共に住むべきではない。なぜなら、施主たちはこの比丘が戒律を守っていないのを見て、少欲の者も戒律を破っていると見なすからである。それゆえ、戒律を破る者と同じ行・住・坐・臥を共にしてはならない。閻魔の使いである獄卒に縛られることを恐れ、放逸を恐れるからである。これが沙門の第十一の法である。」

「『復次，諸天子！云何沙門知第十二法？受乞食法，頭陀功德。無知識處遊行乞食，不行放逸，捨於著味，是名沙門第十二法也。

> さらに、諸天子よ。いわゆる沙門が第十二の法を知るとは、どういうことか。 それは、托鉢（たくはつ）の修行を受け入れ、頭陀（ずだ）の功徳を実践することである。 人に知られない場所で托鉢して歩き、放逸（ほういつ）にふるわず、味への執着を捨てる。 これが沙門の第十二の法である。

「『復次，諸天子！云何沙門知第十三法？知足比丘受糞掃衣，知足受衣，畜陳故衣，於物知足，是名沙門第十三法也。

> さらに、天の皆さまよ。どのようにして修行者は第十三の法を理解するのでしょうか。満足を知る比丘（修行者）は、捨てられた布で作った衣を受け、それで満足し、古い衣を用い、物に対して満足する。これを修行者の第十三の法と名づけるのです。

「『復次，諸天子！云何沙門少欲比丘知第十四法？知足比丘能破魔眾，是名沙門第十四法也。

> さらに、天子たちよ。では、少欲の修行者（沙門）である比丘が第十四の法をどのように知るのか。足ることを知る比丘は、悪魔の群れを打ち破ることができる。これが沙門の第十四の法である。

「『復次，諸天子！云何沙門知第十五法？少欲比丘獨行無侶，捨惡知識，摧破無始煩惱堅山。如是知足得第一樂，臨命終時則不為於閻羅使者自在所縛，不見醜惡大怖畏相，心不怖畏。』

> 「さらに、諸々の天の子らよ。では、修行者は第十五の法をどのように知るのでしょうか。それは、欲の少ない比丘が、独りで修行し仲間を持たず、悪い知識（悪友）を捨て、無始の昔からの煩悩という堅い山を打ち砕くことです。このようにして足ることを知れば、最高の喜びを得ることができます。臨終の時には、閻魔の使いに自在に縛られることなく、醜く恐ろしい大きな姿を見ることもなく、心に恐怖を抱くこともないのです。」

「爾時，釋迦天王即說偈言：

> その時、釈迦天王が偈を説かれました。

「『少欲知足法，出家應修行，如是持戒人，則近涅槃道。所作不悕望，勤求涅槃道，不為魔境縛，不至魔境界。若人常修行，不生悕望心，修行勤精進，則無有眾苦。念已作怖畏，思惟於現在，亦知於未來，則脫煩惱縛。常樂不放逸，畏於不信法，修無垢淨智，則近涅槃住。諸天受快樂，猶起放逸行，何況愚癡人，為放逸所使！若人行放逸，是為已死人；若不放逸行，常住智慧人。放逸懈怠心，精勤能斷除；放逸眾苦本，捨之如棄死。』

> 「少欲を知足の法、出家して修行すべき。 かくの如く戒を保つ人は、涅槃の道に近づく。 なすことにも願い望みを抱かず、涅槃の道を求め励む。 魔の境に縛られることなく、魔の世界に至ることもない。 もし人が常に修行し、願い望む心を生じなければ、 修行に努め精進すれば、さまざまな苦しみはない。 気をつけて恐れを起こし、今この時をよく考え、 未来もまた知るなら、煩悩の束縛から解き放たれる。 常に油断せずを楽しみ、信じない法を畏れ、 汚れなき清らかな智慧を修めれば、涅槃の住まいに近づく。 天の神々でさえ楽しみを受けながら、なお油断の行いを起こす。 ましてや愚かな人が、油断に使われることなど言うまでもない。 もし人が油断の行いをすれば、それはすでに死んだ人と同じ。 油断なく暮らす人は、常に智慧ある者とされる。 油断や怠けの心は、精進によって断ち切れる。 油断はあらゆる苦しみの根源、それを死を捨てるように捨て去れ。』

「如是釋迦天王為諸天眾化閻羅使怖諸天子，為之說法。爾時，帝釋知諸天子於正法中心生信樂，見閻羅使漸欲消滅。既見此事，復往詣於釋迦天王，復有諸天恐怖隱藏於園林中，一切皆往詣帝釋所。爾時，帝釋知此諸天心之所念，隨諸天眾心漸清淨，漸漸滅化。

> このように、釈迦提婆（帝釈天）は天の衆生たちのために閻魔の使いを幻化し、天の王子たちを畏れさせて、彼らに法を説きました。その時、帝釈天は天の王子たちが正しい法に対して心から信じ、喜びを生じたことを知り、閻魔の使いが次第に消え去ろうとしているのを見ました。これを見た後、再び釈迦提婆のところへ赴きました。また、天の者たちの中には恐怖して園林の中に隠れている者もいましたが、やがて皆帝釈天のところへ集まりました。その時、帝釈天はこれらの天の者たちの心に思うところを知り、天の衆生たちの心が次第に清らかになり、徐々に（その恐怖が）消え去っていく様子を見守りました。

## 正法念處經卷第三十三

> 正法念処経 巻第三十三