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title: "正法念處經 · 3"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9tojpc007iphj0vayqc8xyk"
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## 正法念處經卷第三十八

> 正法念処経 第三十八巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之十七夜摩天之三

> 観天品第十七<note>夜摩天 その三</note>

「爾時，如是始生天子作如是念：『彼天大樂，勝於此間夜摩天王。』如是思惟，於須臾間心動不定，於境界樂心生愛樂，復更深著觀諸樂處，普於天眾何者何者受樂之事，一切皆見，次第安詳遊歷彼處，如是次近牟修樓陀夜摩天王所住之處。王於彼處無量百千多億天眾圍遶受樂，多有無量諸天女眾手執蓮花圍遶供養。彼天王色不可比類，無與等色，威德光明功德具足。彼王出勝一切天眾所有光明，如日勝於一切星等眾星圍遶，夜摩天王亦復如是，威德殊勝在師子座。其座軟觸，非絲等成，純是妙寶，希有之色形服莊嚴，威德具足。無量種聲歌樂之音，異異嬉戲，聞欲功德，勝心受樂。夜摩天中如是境界，更無勝者。勝帝釋王所有功德：牟修樓陀夜摩天王有五十聚勝妙光明從身而出，皆有焰起；彼帝釋王於兩肩上二處出光，彼光明聚，於此則劣。牟修樓陀夜摩天王六根門眾，以善業故如是和合，於帝釋王所有功德百倍為勝。如是勝故，不可比類。彼色如是無可譬喻，樂及境界亦如是勝，不可譬喻。彼王眷屬下劣威德猶勝帝釋，何況天王牟修樓陀所有威德內外清淨。彼既如是，云何可喻？

> その時、新たに生まれた天子はこう思った。「あの天の楽しみは、この夜摩天の王よりも勝れている」。こう思ううちに、ほんのわずかの間に心は定まらず揺れ動き、外界の楽しみに心が執着し、さらに深く様々な楽しみのある場所に耽溺していった。そして、天人の集いの中で、誰がどのような楽しみを受けているかを、すべて見渡した。順を追って安らかにそこを巡り歩き、ついに牟修楼陀夜摩天王の住まわれる場所に近づいた。王はその場所で、無量百千億もの天人の群れに囲まれ、楽しみを受けていた。また、数え切れないほどの天女たちが、手に蓮華を持ち、王を囲んで供養していた。その天王の姿は比べるものなく、並ぶ色もないほど、威徳の光明と功徳を具えていた。その王は、すべての天人の集いの光明を凌駕していた。それは、太陽がすべての星々を凌ぎ、星々に囲まれているようなものである。夜摩天王もまた、そのような威徳に優れて、師子座に座っていた。その座は柔らかな感触で、絹などで作られたものではなく、純粋な妙宝でできており、希有な色形と荘厳を備え、威徳が満ちていた。無量の種類の声、歌、楽の音、様々な遊戯があり、欲望の功徳を聞き、勝れた心で楽しみを受けていた。夜摩天におけるこのような境地には、さらに勝るものはない。帝釈天の全ての功徳よりも優れていた。牟修楼陀夜摩天王には、五十の集まりの勝れた妙なる光明が身体から放たれ、すべて炎を発していた。帝釈天は、両肩の二か所からのみ光明を放つが、その光明の集まりは、これに比べれば劣っていた。牟修楼陀夜摩天王の六つの感官の門は、善業によってこのように調和し、帝釈天の全ての功徳の百倍も勝れていた。このように優れているため、比べることはできない。その姿は譬えようもなく、楽しみや境地もまた同様に勝れており、譬えることはできない。その王の眷属ですら、その威徳は帝釈天に勝っている。まして、天王・牟修楼陀の威徳は内外共に清らかであり、それらがこのようなものである以上、どうして譬えることができようか。

「爾時，如是始生天子即於遙見牟修樓陀天王之時，色樂威德一切微劣。既見天王，觀自身已，如是思惟：『我身於彼天王之身，億百千倍、百千千倍微劣不如。以行第一勝善業故，得此天王牟修樓陀上妙之身。此有如是殊勝威德，何況所聞，名為寂靜，勝於此王。牟修樓陀所有威德皆悉具足，上上天業次第勝勝轉轉微妙。』如是少時心思惟已，而復專聽歌等音聲。爾時，如是始生天子更復前進，安詳徐詣牟修樓陀夜摩天王所住之處。牟修樓陀夜摩天王周匝多有勝妙身色，第一莊嚴，容貌端正，殊勝威德，好身妙音，七千天女近身歌舞喜笑遊行。自餘天女小遠身者，不可計數。嬉戲娛樂，皆飲天酒，彼此共迭意念同心。

> 爾時、このようにして生まれたばかりの天子は、遠くに牟修楼陀天王を認めるや、その色と楽と威徳のすべてがかすんでしまった。天王を拝見し、己の身を顧みてこう思った。 「我が身は、かの天王の御身に比べれば、億百千倍、百千千倍も劣り、及ばない。第一の勝れた善業を修行したがゆえに、この天王、牟修楼陀はこのような勝れた御身を得たのだ。このような殊勝な威徳があるとは、ましてや『寂静』と聞こえる方、この王よりもさらに勝れたお方がおられるとは。牟修楼陀のすべての威徳は完全に具わり、上々の天の業は次第に勝れ、ますます微妙である。」 このように、しばし心に思いを巡らせてから、さらに歌などの音声に耳を傾けた。 爾時、この生まれたばかりの天子はさらに進み、安らかにゆっくりと、牟修楼陀夜摩天王のおわす所へと赴いた。 牟修楼陀夜摩天王の周囲には、勝れた身色を持つ、まこと第一の荘厳、容貌端麗、殊勝な威徳、美しい身と妙なる音声を持つ七千の天女が近くに侍り、歌舞し、笑い戯れながら遊行していた。それより少し離れた所にいる他の天女たちは、数えきれないほどであった。彼女たちは戯れ楽しみ、みな天の酒を飲み、互いに心を通わせ、思いは同じであった。

「彼諸天女各得天王牟修樓陀共受欲樂，心作是知：『王唯愛我，更不愛餘。於我得樂，不於餘女。唯我欲勝，餘則不爾。』夜摩天欲，口說則成，身不交合。彼諸天女皆有是意，一一皆謂牟修樓陀夜摩天王唯獨愛之。

> 天女たちはそれぞれ、天王である牟修楼陀と一緒に欲望の楽しみを共有しながら、心の中でこう思っていました。「王は私だけを愛している。他の者を愛してはいない。私と楽しみを得ていて、他の女たちとはそうではない。私の欲望の方が勝っていて、他の女たちはそうではない」と。 夜摩天の欲望は、言葉で言えば叶い、身体を交えることはありません。天女たちは皆、こう考えていました。一人ひとりが「牟修楼陀夜摩天王は、ただ私だけを愛している」と思っていたのです。

「爾時，如是始生天子更復前近牟修樓陀夜摩天王，見有無量百千天眾之所圍遶，有無量種具足勝妙功德舌語調伏天眾。牟修樓陀夜摩天王於一切天——若舊生者、若始生者——皆悉普識。牟修樓陀見始生天，眼則不轉，自餘舊天即便語彼始生天子，作如是言：『大王今者如是看汝，何以不跪？』

> その時、生まれたばかりの天子はさらに進み出て、牟修樓陀夜摩天王のもとへと向かった。そこには数え切れないほどの天人有情が周りを取り囲み、無数の優れた功徳に満ちた、見事な言葉で語りかける王の姿があった。牟修樓陀夜摩天王は、すべての天人の心を、古くからいる者も新しく生まれた者も、ことごとく見通していた。 牟修樓陀は新たに生まれた天人の姿を一目見て、目を離さなかった。すると、古くからいる天人がその新しい天子にこう告げた。「大王が今、あなたをこのようにご覧になっている。どうしてひざまずかないのか？」

「爾時，如是始生天子聞已即跪。爾時天王牟修樓陀見其跪已，告言：『大仙！汝今始生夜摩天地。汝今可在夜摩天地第一樂處，於中受樂。汝以修行三種善業得生此處，汝今善來。自善業故，此中受樂，於此天處久住多時，勿放逸行。』牟修樓陀夜摩天王為始生天而說偈言：

> その時、こうして新たに生まれた天人は、その言葉を聞いてすぐにひざまずきました。すると、夜摩天の王である牟修樓陀（むしゅるだ）は、そのひざまずく姿を見て言いました。「大仙よ、あなたは今、夜摩天の世界に生まれました。今、あなたは夜摩天の世界の第一の楽しい場所で、その楽しみを受けることができます。あなたは三つの善い行い（三種の善業）を修行したことによって、この場所に生まれたのです。ようこそおいでくださいました。あなた自身の善い行いの力によって、ここで楽しみ、この天の場所に長く滞在し、しかし放逸な行いをしてはいけません。」牟修樓陀・夜摩天の王は、新たに生まれた天人のために、次のような詩（偈）を語りました。

「『始初生天子，若愛此生樂，彼不及退苦，十六分中一。味少怖畏多，常誑惑丈夫，如乾闥婆城，欲樂味亦爾。此欲極為惡，能破壞眾生，是故有智者，心常不信欲。』

> 「最初に生まれた天子よ、もしもこの世の快楽を愛しむならば、 その快楽は苦しみが過ぎ去る時の、十六分の一にも及ばない。 快楽の味わいは少なく、恐れの方が多い。常に人を欺き惑わす。 それはまるで蜃気楼の城のようなもの。欲の楽しい味わいも同じだ。 この欲望は極めて厄介で、衆生を破滅させる。 だからこそ賢い人は、その心で決して欲望を信じない。」

「牟修樓陀夜摩天王如是教彼始生天子，始生天子如是啟白牟修樓陀夜摩天王，而作是言：『實爾，天王！我初不知此天之中有如是過，不知天中云何法行？如他餘天之所行作，我如是作，我自不知。』

> 牟修楼陀夜摩天王は、このようにして新しく生まれた天子を教え諭しました。するとその天子は牟修楼陀夜摩天王にこう申し上げました。「本当にその通りです、天王様。私はこの天界にこのような過ちがあることを、初めは全く知りませんでした。また、天界ではどのように行うべき法があるのかも知りませんでした。他の天人が行うように、私も同じように行動していただけで、自分が何をしているのかも分かっておりませんでした。」

「爾時，天王牟修樓陀復說偈言：

> その時、天主の牟修楼陀は再び偈を説かれました。

「『若至死到時，更無餘同伴，死後異處去，無有共行者。眾生心種種，若干心性欲，如是異異業，造作生死縛。乃至即生時，必定已屬死，種種癡覆心，於此不知怖。若退時已到，能破第一有，彼癡心不覺，死苦之可畏。歡喜生放逸，數數受生死，癡者不覺知，境界能誑天。境界蛇能齧，境界愛生癡，天常不覺知，退時大怖畏。生苦最為大，退無如是苦，如是大生苦，唯天中成就。業風之所吹，輪轉受大苦，丈夫死所將，心誑不自在。非父亦非母，非知識非親，若死時既至，無有同伴者。本性如是誑，一切無伴侶，唯意如是惡，各各迭相誑。非餘亦非親，而能為救者，死時既到已，親亦如非親。汝若見非親，亦受大快樂，死王力自在，公奪大樂去。境界令心迷，常為欲所使，雖未覺苦惱，必定得不疑。』

> 「死ぬときには、他に誰も伴う者はいない。 死後は別の場所へ行き、共に行く者はいない。 生きとし生けるものの心は様々で、心の性質や欲望もまた様々である。 そのような異なる行いによって、生死の縛りが作られる。 生まれたその瞬間から、すでに死に属しているのに、 様々な愚かさに心を覆われ、それに気づかず怖れもしない。 もし衰える時が来れば、最も優れた存在さえも打ち破る。 その愚かな心は、死の苦しみの恐ろしさを悟らない。 喜びに浮かれて放逸になり、何度も何度も生死を繰り返す。 愚かな者は気づかない。境涯が天人の心を惑わすことを。 境涯は蛇のように噛みつき、境涯への執着から愚かさが生まれる。 天人は常に気づかない。衰える時の大きな恐怖に。 生まれる苦しみは最も大きく、衰える時にはこのような苦しみはない。 このような大きな生の苦しみは、天人の世界にこそある。 業の風に吹き飛ばされ、輪廻して大きな苦しみを受ける。 立派な人も死に導かれ、心は惑わされ、自由を失う。 父も母も、知人も親類も、 死ぬ時が来れば、誰一人伴う者はいない。 本来、この世はこのように偽りに満ち、全てに伴侶はいない。 ただ心という悪だけが、互いに欺き合うのである。 他の人も親類も、救いとなる者はいない。 死ぬ時が来れば、親類もまた他人のようになる。 もし他人を見ても、大きな楽しみを受けることがある。 しかし死王の力は自由自在であり、公然と大きな楽しみを奪い去る。 境涯は心を迷わせ、常に欲望の使いとなる。 まだ苦しみを悟っていなくても、必ず苦しみを受けることは疑いない。」

「牟修樓陀夜摩天王以如是等真實之法，教彼如是始生天子。時彼天子既得聞已，心生厭離；於須臾間，還復歌舞戲樂喜笑，更復染著。一切世間愚癡凡夫心無常故、心不定故、以樂力勝覆其心故、為愛使故，心百倍動。以此因緣，天放逸行。以如是故，乃至少法不住心中。

> 牟修楼陀夜摩天王は、このような真実の教えをもって、そのように生まれたばかりの天子たちを教え導きました。そのとき、天子たちはそれを聞いて、心に厭離の思いを起こしました。しかし、ほんのわずかの間のうちに、再び歌舞や遊戯、楽しみや笑いに戻り、さらに執着してしまいました。すべての世の中の愚かで無知な凡夫は、心が無常であるからであり、心が定まらないからであり、楽の力に勝たれて心を覆われるからであり、愛欲の使いに動かされるからであり、心は百倍も揺れ動くのです。このような理由によって、天人は放逸な行いをします。そのようにあるがゆえに、わずかな法でさえも心にとどまらないのです。

「爾時，如是始生天子於彼天王牟修樓陀堂殿之所，種種戲樂，共自眷屬如是歌舞種種嬉戲，五欲功德皆悉具有。境界受樂，和集還去，著來時道，到自所止。雲處遊行，本所住處。既還到已，復共餘天種種受樂，嬉戲遊行向名廣殿。彼殿可愛，今具足說。內有二十那由他舍，有種種色、異異形相寶光明集，多有天眾、諸天女眾。如是妙殿，隨天所念，一切皆得。如彼天子心之所念，一切皆得，如是之色、如是形相。園林花池多有無量百千鳥眾以為莊嚴，七寶山峰。彼殿如是，天善業故。若天憶念欲遊行時，殿并園林、蓮花河池、種種天樹飛行虛空，如鳥無異。若天憶念：『此殿動去，我則受樂。』即於念時飛行而去。若天憶念，起如是心：『隨我所須，飲食具足。』則有河流皆是天食，無量種種皆悉具足，隨念而有，色香味具滿河流出。以彼天子本善業故，若不善業無此境界。

> 「さて、こうして初めて生まれた天子は、その天主である牟修楼陀の殿堂において、様々な戯れや楽しみを、自分の眷属と共に行いました。彼らは歌い踊り、様々に遊戯し、五欲の功徳をことごとく備えていました。そして、このような境地の楽しみを味わった後、再び集まって、来た時と同じ道を通って、自分の住まいに帰って行きました。 雲の上を遊行し、もとの住処に戻った彼は、さらに他の天部の人々と共に、様々な楽しみを味わい、戯れ遊びながら、『広殿』という名の殿堂へと向かいました。その殿堂は実に愛らしく、これから詳しくお話ししましょう。 内部には二十那由他もの部屋があり、それぞれが様々な色、異なる形、そして宝石の光を集めていました。多くの天部の人々や天女たちが集い、この素晴らしい殿堂は、天人の心のままに、すべてを叶えてくれました。 その天子が心に思い浮かべるままに、そのような色、そのような形のものがすべて現れました。園林、花の池、数え切れないほどの百千の鳥たちが美しく飾り、七宝の山々がありました。この殿堂は、天人の善行の果報によるものです。 もし天人が「遊行したい」と心に念じれば、殿堂は園林や蓮の花の池、様々な天樹と共に、虚空を飛び立ちます。まるで鳥のように、自由自在です。 もし天人が「この殿堂が動いてくれたら、楽しめるのに」と心に念じれば、その瞬間に殿堂は飛び去っていきます。 また、「私に必要な飲食が十分にありますように」と心に念じれば、そこには天の食べ物である川が流れ出します。無量の様々な味わいがことごとく備わり、心のままに現れ、色と香りと味が備わったものが川となって溢れ出るのです。これは、その天子の過去世における善行の果報によるものです。もし不善の行いが多ければ、このような素晴らしい境地は得られないのです。」

「又復此天生如是念：『我此殿內轉更寬博，廣百由旬。』即於念時，多有無量種種可愛諸流水河、妙蓮花池并諸㵎谷，具足房舍、種種園林、妙蓮花等皆悉具足。如是寬博，彼天見已，轉更歡喜，生如是心：『我於此處遊行戲樂，我心歡喜，更共餘天此中受樂。復令餘天於此殿中共我戲樂，若夜摩王天眾來此，我共受樂。』即彼天子心生念時，牟修樓陀夜摩天王所有天眾，向其殿內而共遊戲。即於念時，彼天發行：有乘鵝者、乘孔雀者，復有乘於他養鳥者，有乘花者，有乘鴨者，復有異天乘鴛鴦者，復有乘於命命鳥者，有乘樹者。如是異異種種乘來，勝歡喜心，樂音遊戲，復共種種形服莊嚴諸天女等，喜笑歌舞，蓮花妙鬘角絡其體，受第一樂。勝歡喜心，天女讚歎，乘空而行，向天遊戲殿舍之中。既行到已，彼此迭共種種受樂，如是遊戲放逸行故，其心不定。

> また、この天人はこのように念じます。「我が殿内はさらに広大になり、広さ百由旬にもなった。」すると、その念じた瞬間に、無量の様々な愛らしい流水の川や見事な蓮池、渓谷が現れ、豊かな建物や様々な庭園、美しい蓮などがすべて満ち足りました。このような広大な様を見て、天人はさらに喜び、こう心に思います。「私はここで遊び楽しみ、心は喜びに満ちている。さらに他の天人たちと共にここで楽しもう。また他の天人たちにもこの殿で共に遊ばせ、もし夜摩天王の天衆が来たなら、共に楽しもう。」 その天人が心に念じた時、牟修楼陀夜摩天王のすべての天衆が、その殿内に訪れて共に遊戯しました。そしてその念じた時に、その天人が出発しました。ある者は鵞鳥に乗り、ある者は孔雀に乗り、また他にも養鳥に乗る者、花に乗る者、鴨に乗る者、さらに異なる天人は鴛鴦に乗る者、命命鳥に乗る者、樹に乗る者もいました。 このように様々な乗り物で、勝れた喜びの心を持ち、楽の音に合わせて遊びながら、様々な形や服装で飾られた天女たちと共に笑い歌い舞い、蓮華の美しい華鬘を身体に掛け、最高の楽を受けてやって来ました。勝れた喜びの心で、天女たちは賛嘆し、虚空を乗りながら天の遊戯殿舎へと向かいました。そこに到着すると、互いに様々な楽しみを分かち合い、このように遊戯に耽り放逸に行動するため、その心は定まることがありませんでした。

「牟修樓陀夜摩天王見其放逸，而觀察之。如放逸天，放逸行觀。生如是心：『我於今者，以何方便而能利益安樂如是放逸之天？』爾時，天王牟修樓陀復微細意，深思惟曰：『今令餘天須陀洹者，共我相隨，籌量語論。如彼地處——雲雲遊行地處之中，種種受樂行於放逸，云何善法攝取彼天？自他利益，彼此皆作，令我及彼皆離過罪。我為善友，令彼利益，說法利他，是善知識。若教惡業，則是怨家，能令和集地獄惡業。』

> 「牟修樓陀夜摩天王は、彼らが安逸にふけっているのを見て、注意深く観察しました。まるで安逸をむさぼる天人のように、その放埓な行動を見つめながら、こう考えました。『今、私はどのような方法で、このように安逸にふける天人のために利益となる安楽をもたらすことができるだろうか？』その時、天王牟修樓陀はさらに細やかな心で深く思案しました。『今、須陀洹果を得ている他の天人たちと共に、私に従って来てもらい、共に考え、話し合おう。あの雲が湧き上がる場所の中で、様々な楽しみを受けながら安逸にふけっている彼らを、いかにして善法で導き取ることができるだろうか？自分と他者の利益をともに成し遂げ、私と彼らが共に過ちや罪から離れられるようにしたい。私は善き友となり、彼らを益し、法を説いて他者を利する、それが善知識であるのだ。もし悪業を教えれば、それは怨敵であり、地獄の悪業を集める原因となる。』」

「爾時，天王牟修樓陀共須陀洹既籌量已，自神通力化作妙殿，共昇彼殿，而向彼去。第一河池流水具足，園林諸樹皆悉備有，無量種種皆悉可愛。有如是等勝妙之事，共向彼處。雲雲遊行地處之殿則為下劣，百倍不如、千倍不如。何以故？善業力故，夜摩天中一切諸天所有善業，牟修樓陀夜摩天王善業最勝。善業勝者，神通亦勝。以此因緣，其殿則勝，有妙光明勝於一切夜摩諸天所有殿舍。譬如日殿，一切餘殿不及少分。如是彼殿最為殊勝，餘天之殿不及少分。彼如是殿，自分功德皆悉具足，行虛空中，向彼地處雲雲遊行受樂地處，須陀洹天相隨共往。以須陀洹聖人之天，少放逸行，故與相隨向彼地處。

> 「さて、天の王ムチュリンダ（牟修樓陀）は、預流果（須陀洹）の者たちと相談した後、自身の神通力によって見事な宮殿を出現させました。そして共にその宮殿に昇り、ある場所へと向かいました。そこには第一の川や池が流れ、水が満ち溢れ、林や木々がすべて備わり、数え切れないほどの様々な美しさがありました。このような素晴らしい事柄が整い、彼らは共にその場所へと向かったのです。 「雲雲遊行地処」の宮殿は、それに比べれば劣っており、その百倍にも、千倍にも及びません。なぜでしょうか。善業の力によるからです。夜摩天における一切の天人の持つ善業の中でも、夜摩天王ムチュリンダの善業が最も優れています。善業が優れれば、神通力もまた優れています。この因縁によって、その宮殿は優れ、全ての夜摩天の天人たちの宮殿を超える妙なる光を放ちます。例えば、太陽の宮殿は他のすべての宮殿の光に比べれば、その一部分にも及びません。このように、その宮殿は最も殊勝であり、他の天人の宮殿はその一部分にも及びません。 そのような宮殿は、自らの功徳がすべて完全に備わり、虚空の中を進み、あの「雲雲遊行受楽地処」へと向かいました。預流果の天人はそれに従い、共に進みました。預流果（須陀洹）という聖者である天人は、わずかに放逸の行いがあるため、そのように共にその場所へと向かったのです。」

「爾時，彼處放逸行天既見天王牟修樓陀，生敬重心，速爾前進，一切皆向牟修樓陀夜摩天王相與奉迎。或百或千、百百千千，如是一切奉迎天王。爾時，天王牟修樓陀既到彼殿，即作神通，變化力故，令彼迎天忽爾之中各不相見，唯見自身獨近天王；於其樂音，一切不聞，種種妙色皆悉不見。以王神通故，令使爾彼天各各有如是心：『唯我在此，自餘諸天為何所在？恒常共我坐此殿中，今何處去，一切不見？』如是念已，彼天各各前向天王牟修樓陀。唯見天王及須陀洹，不見餘者。彼一切天各各皆生希有之心，心生怖畏，皆白天王牟修樓陀作如是言：『我此殿中共住諸天，不知今者向何處去？』

> その時、その地で放逸な行いをしていた天部の者たちは、天王である牟修楼陀（むしゅるだ）を見て、敬いの心を起こした。彼らは速やかに前に進み、皆一斉に夜摩天の王・牟修楼陀を迎えるために向かっていった。ある者は百、ある者は千、百や千の集団となり、皆こぞって天王を出迎えた。 さて、天王・牟修楼陀がその殿に到着すると、神通変化の力によって、出迎えた天部の者たちは、たちまち互いの姿が見えなくなった。各自がただ自分だけが天王のそばにいるのを感じ、音楽の音も一切聞こえず、様々な妙なる色も全く見えなくなった。 天王の神通力によって、彼ら天部はそれぞれにこう思った。「自分だけがここにいる。他の天部たちはどこへ行ったのだろう？いつも共にこの殿に座っていたのに、今どこへ行ってしまったのか、誰一人見えない」と。 こう思った後、彼ら天部はそれぞれに天王・牟修楼陀の前に進み出た。彼らは天王と須陀洹（すだおん）の姿だけを見て、他の者たちは見えなかった。どの天部も皆、稀有な思いを抱き、怖れの心を生じ、天王・牟修楼陀にこう言った。 「この殿で共に住んでいた天部の者たちは、今、どこへ行ってしまったのでしょうか？」

「爾時，天王牟修樓陀告彼天言：『如是等天一切放逸，行放逸行，以業盡故，退墮地獄、餓鬼、畜生，或生人中。若放逸天行放逸行，放逸所壞，為境界愛之所破壞。心樂五欲諸功德故，於境界火，心念分別而自焰然，從自心燧生此熾火。業風所吹，名廣殿中，心未厭足，為五焰火所燒然已，復為地獄大火所燒，受種種苦。自心所誑，身壞命終生地獄中。此放逸過，一切過中最為勝上。何以故？為放逸過所破壞者，散失一切諸善法故。彼如是天，自心自誑。如是癡天，後時心悔。』

> 爾時、天王・牟修樓陀はかの天たちに告げて言った。 「これらの天々はみな放逸であり、放逸の行いを行う。その業が尽きると、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるか、あるいは人間に生まれる。もし放逸な天が放逸な行いを続ければ、放逸によって壊され、境涯の愛欲によって破壊される。心は五つの欲望の功徳を楽しむゆえに、境涯の火に向かって心の念と分別とが自ら燃え上がり、自らの心の火打ち石からこの激しい火が生じる。 業の風に吹かれ、『広殿』と呼ばれる場所にあっても、心は満足を知らず、五つの欲望の炎に焼かれた後、さらに地獄の大火に焼かれ、様々な苦しみを受ける。自らの心に欺かれ、身体が壊れ命が終わると地獄に生まれる。 この放逸の過ちは、あらゆる過ちの中でも最も優れて大きい。なぜなら、放逸の過ちに破壊された者は、あらゆる善い法を散失してしまうからである。かの天たちは自らの心に自ら欺かれているのだ。このような愚かな天たちは、後に心から後悔するであろう。」

「爾時，彼處一切諸天，既於天王牟修樓陀如是聞已，一一心中皆生厭離，皆生怖畏，各白天王牟修樓陀而作是言：『天主大王！云何如是一念之頃，一切天退？此未曾有。一切諸天於一念頃，如是皆退，雲雲遊行地處盡空。此為甚苦，以何方便令我不退？不受苦惱，不愛別離，令我不受別離之苦？令我不墮地獄、餓鬼、畜生等中？』

> その時、その場にいたすべての天人は、天主である牟修楼陀（むしゅろうだ）のこの言葉を聞いて、一人ひとりの心に厭い離れる思いと畏れの念が生じ、それぞれが天主にこう言った。 「天主大王よ！ どうしてほんの一瞬の間に、すべての天人が退転してしまうのでしょうか。このようなことはかつてありませんでした。すべての天人が一瞬にしてこうも退き、雲のように遊び楽しんでいた場所はことごとく空になってしまいます。これは何と耐え難い苦しみでしょう。どのような方法を用いれば、私たちは退転せずに済むのでしょうか。苦しみを受けず、愛するものとの別れを嘆かず、地獄・餓鬼・畜生などに堕ちることなく過ごせるのでしょうか。」

「爾時，天王牟修樓陀即為彼天而說偈言：

> その時、天人の王である牟修樓陀（むしゅるだ）は、天人们に向けて次のように詩句（げく）を語りました。

「『行放逸道者，則不見賢善，猶如鑽氷者，火則不可得。離因則無果，無因果叵得，放逸求功德，究竟不可獲。放逸破壞生，如是轉行天，彼癡失善業，墮於惡道處。若有是癡心，於愛欲受樂，後得衰惱已，其心則生悔。欲火所燒者，為境界所誑，不得寂靜道，一切上樂處。若世間欲樂，若愛所生樂，不及一內樂，十六分之一。猗生為第一，白法離生死，愛盡第一樂，畢竟不退樂。不怖畏知足，此修者不求，如是禪定樂，更無樂可比。若不為愛縛，疑所不壞者，彼則渡有海，常受一切樂。若心住欲者，彼則不受樂，是一切苦器，入於地獄處。常為業羂縛，之所牽挽者，一切無能救，令脫此苦者。所見去來法，由業有生死，去來皆如是，業因之所得。愚癡故貪欲，乃至終退時，受生死大苦，而不能覺知。以愚癡覆故，受樂不厭足；以不知足故，如是常破壞。非初非中後，非今非後世，常修習欲者，無明故流轉。以善業盡故，於此處必退，食放逸毒者，癡故不覺知。此身念念變，以癡故不覺，於後欲退時，乃覺知苦惱。若於苦怖畏，及怖畏死者，應念於正法，如是必得樂。』

> 「放逸の道を歩む者は、善き人や賢者を見ることができない。 氷を鑽（き）って火を得ようとするようなものだ。 原因がなければ結果はなく、結果がなければ原因も得られない。 放逸のまま功徳を求めても、結局は得られない。 放逸は生命を破壊し、そのようにして天界を転生し続ける。 愚かにも善業を失い、悪い場所に堕ちてしまう。 もし心が愚かで、愛欲の快楽に溺れるなら、 後で衰えや苦悩を得て、その心は後悔するだろう。 欲の火に焼かれる者は、対象に惑わされ、 静けさの道や、あらゆる最高の安楽の境地を得られない。 世の中の欲の快楽や、愛から生まれる快楽も、 内なる一つの安楽の、十六分の一にも及ばない。 清らかな生き方こそ第一であり、善なる法は生死を離れる。 愛が尽きたことが最高の安楽であり、決して退かない安楽である。 怖れず、足ることを知る修者は、求めずとも、 このような禅定の安楽を得る。これに勝る安楽はない。 もし愛に縛られず、疑いに破られないなら、 その者は生と死の海を渡り、常にすべての安楽を受ける。 もし心が欲に留まるなら、その者は安楽を受けず、 それはすべての苦しみの器となり、地獄の場所に入る。 常に業の罠に縛られ、引きずられる者は、 誰も救うことができず、この苦しみから逃れられない。 見られる過去未来の法は、業によって生と死がある。 過去も未来もすべて同様に、業の因から得られる。 愚かさゆえに貪欲があり、ついに終わり退く時まで、 生死の大きな苦しみを受けながら、それに気づかない。 愚かさに覆われているため、快楽を受けても満足しない。 満足しないため、このように常に壊れていく。 初めにも中にも後にもなく、今にも後世にもなく、 常に欲を修める者は、無明のゆえに流転する。 善業が尽きるため、この場所から必ず退き、 放逸の毒を食らう者は、愚かさゆえに気づかない。 この体は一瞬ごとに変わるが、愚かさゆえに気づかず、 後に退こうとする時になって、初めて苦悩を知る。 もし苦しみを怖れ、死を怖れるなら、 正しい法を念じるべきだ。そうすれば必ず安楽を得るだろう。」

「爾時，彼天既聞天王牟修樓陀如是說已，於放逸行少時心離，復白天王牟修樓陀而作是言：『天主大王！此一切天皆悉不見，豈一念間皆破壞耶？一切失耶？願王實說。』

> その時、その天人は、天王・牟修樓陀がこう語るのを聞いて、一時的に放逸な行いから心を離し、再び天王・牟修樓陀に申し上げた。 「天主・大王よ。この全ての天人は、これらのことを見ていないのでしょうか。まさか、一念の間に全てが壊れてしまうのでしょうか。全てを失ってしまうのでしょうか。どうか、王が真実をお話しください。」

「爾時，天王牟修樓陀即告之言：『如來善業，還如是去。以業盡故，一切業法決定如是。一切眾生迭相別離，心生懊惱，老、病、死等如是三種有相對法，命少無病。若何丈夫——或人或天——心不放逸，不放逸行，彼於如是三種可畏，則能覺知。如此三種命少無病，以放逸故能令皆失，一切諸天畢竟如是，死未來間。勤行精進，作諸方便，三種精進謂施、戒、智，此三能除此三大畏。無量分別常隨逐行，暫時不離，若不畏者，彼則於後臨欲死時，口面破壞、眼目轉動、諸根乾燥，一切諸親兄弟、妻子眷屬皆捨，爾時則為退愛別離火之所燒，極大苦死。彼一切天於一切時無量分別，五欲現前，歌舞戲笑歡喜遊行，於園林中如是受樂放逸境界。

> その時、天王の牟修樓陀はこう告げた。 「如来の善業も、またこのように還っていく。業が尽きるからであり、すべての業の法は必ずこのようである。すべての衆生は互いに別れ、心に懊悩を生じる。老・病・死というこの三つは、対となる法を持つ。寿命は短く、若さと健康はない。 もしある丈夫（人であれ天であれ）が心を放逸にせず、放逸な行いをしないなら、その者はこの三つの恐れを覚知できる。 このような寿命の短さと若さや健康（の無常）という三つは、放逸によってすべて失われる。すべての天人は、結局このようにして死が来るまでの間、隙間なくあり続けるのだ。 （だから）精進に励み、様々な方便をなせ。三つの精進とは、すなわち布施・戒・智慧である。この三つが、この三つの大きな恐れを除くことができる。 無量の分別は常に（心に）付き従い、一時も離れない。もし（死を）恐れなければ、その者は後に死の間際に、顔は歪み、目は動き、諸根は乾き、すべての親族や兄弟、妻子、眷属に見捨てられる。その時、愛別離の火に焼かれ、極めて大きな苦しみの中で死ぬ。 すべての天人は、常に無量の分別を抱え、五欲が目の前に現れ、歌舞や笑い戯れ、喜び遊行し、園林の中でこのように楽を受けて放逸の境にいるからである。

「『如見善友、知識之面，不覺其果，彼於後時，悔火所燒。「我身云何不作善業？何不布施？何不持戒？何不修智？如是三種，我何不作？由放逸故，我於今者孤獨而死，捨離諸親及兄弟等，為死所攝。如是將去，離此世間第一愛處，無量境界受樂之處。」如是後時心生悔惱，乃至如是能破壞天。大力死王未來之間，汝等畢竟莫行放逸。捨放逸故，必得安隱，於彼死時，不為悔火之所燒然，如此之道第一安隱。凡諸一切衰惱之者，於施、戒、智樂修多作，彼時依此蒙救得脫，是依、是救、是大力伴。

> 「善き友や知識ある人の顔を見ながら、その結果に気づかず、後に悔いの火に焼かれることがある。『なぜ私は善い行いをしなかったのか。なぜ布施をしなかったのか。なぜ戒律を守らなかったのか。なぜ智慧を磨かなかったのか。この三つを、なぜ行わなかったのか。放逸さのために、今、孤独に死に、親族や兄弟たちと別れ、死に捕らえられるのだ。こうして連れ去られ、この世で最も愛する場所、無量の境地で楽しむ場所を離れるのだ』と。後にこのような悔いと苦しみが生じる。これは天をも壊す力を持つ。力強い死の王が来る前に、あなたたちは決して放逸に振る舞ってはならない。放逸を捨てれば必ず安らぎを得られ、死の際に悔いの火に焼かれることはない。この道こそが最も安らかなのだ。あらゆる衰えや苦しみに遭った者は、布施・戒律・智慧の楽しみを多く修め行いなさい。その時、これらに頼って救われ、脱出できるのだ。これこそが拠り所であり、救いであり、力強い伴侶なのである。」

「『若死至時，必定不免，必能破壞。彼來至時，不可禁制，不可免離，能奪一切眾生之命。如是惡死，何不方便精進勤修，令使不來。一切放逸惡未至時，甚為賢善。如大毒火，放逸亦爾。汝等諸天是放逸使。又復諸天皆屬放逸，彼放逸怨，隨逐不捨。於園林中山峯之上，遊戲而行，一切諸法皆悉無常而謂是常，生如是心：「我常共彼諸天女眾相隨受樂，如是天女常少不老。我此天女常共相隨，終不能別。」如是常為諸境界樂之所誑惑，第一大力能為破壞。

> 『死が訪れる時、それは必ず避けられず、必ず全てを壊す。それが来た時には、防ぐことも逃れることもできず、全ての衆生の命を奪う。このような恐ろしい死があるならば、どうして精進して修行し、それが来ないように努めないことがあろうか。あらゆる放逸（気ままな生活）という悪がまだ来ないうちに、それは実に賢明で良いことである。大きな毒火のように、放逸もまた同じである。あなたがた諸天は、放逸の使いである。さらに、諸天はみな放逸に属しており、その放逸という敵は、執拗に追いかけ離れない。庭園や山の頂上で遊び戯れながら、全ての諸法は無常であるのに、それを常であると思い込み、「私はいつもあの天女たちと共に楽しみ、この天女たちは常に若く老いることがない。私のこの天女たちと常に共に過ごし、ついに別れることはない」という心を起こす。このようにして、常にあらゆる境界の楽しみに惑わされ、第一の大きな力によって破壊されてしまうのである。』

「『死王既至，非諸天女能遮能救，彼思量心亦不能救；常不別心亦不能救。彼所思惟，一切皆空、一切無常不堅不牢，既為放逸所破壞已，生於地獄、餓鬼、畜生。為癡所壞，致此大苦。又復彼天於無始時輪轉生退，數數懊惱，常被誑惑，愚癡不覺。』

> 「死の王が訪れたならば、天女たちでさえも、それを遮ることも救うこともできません。また、あれこれ思う心も救うことはできず、一つのことに集中していない心も助けることはできません。その考えのすべては、むなしく、すべては無常であり、堅くも確かでもありません。放逸に打ち負かされてしまえば、地獄・餓鬼・畜生の世界に生まれ変わります。無知に蝕まれて、この大きな苦しみを受けるのです。 また、あの天人は、いつ始まったかも分からない昔から、輪廻しながら衰え、何度も何度も心を悩ませ、常に惑わされ、愚かでありながらそれに気づかないのです。」

「爾時，天主牟修樓陀，法相應語、義相應語，如是說已。若彼處天有智慧者，則於彼語，猶如甘露無垢清淨，攝取在心，捨離放逸，於欲深厭。彼天如是心正念已，即向天王牟修樓陀而說偈言：

> その時、天主・牟修楼陀は、法にかなった言葉、意味にかなった言葉をこのように説きました。もしその天界に智慧ある者がいれば、その言葉をあたかも甘露のごとく、汚れなく清らかに心に受け止め、放逸を捨て、欲望に深く厭い離れました。その天人がこのように正しく心を念じたのち、天王・牟修楼陀に向かって偈を説きました。

「『若利益及實，如相應不異，天作如是語，是利益之因。能攝心寂靜，如是者得樂，從樂至樂處，必得樂不疑。若於此顛倒，放逸破壞天，如是癡心者，必當墮地獄。』

> 「もしも利益と真実が、事実にのっとり異なることがなく、 天がこのように語るなら、それは利益をもたらす原因となる。 心を静めて集中できる人、そのようにする者は安楽を得る。 安楽から安楽の境地へ至り、必ず安楽を得ることは疑いない。 もしここで逆さまな考えを持ち、放逸に流れて天のおきてを破るなら、 そのような愚かな心の者は、必ず地獄に落ちることになる。」

「如是天子既向天王如是說已，生厭離心。彼諸天子又復重爾問天王言：『我今有疑。此殿舍中一切天眾為何處去？』爾時，天王牟修樓陀見其調伏，心生厭離，已捨放逸，即攝神通，彼諸天眾迭互相見。既相見已，彼此迭共生歡喜心。

> このように天子が天主に対してこう語った時、心に厭離の想いが生じました。すると、その天子たちは再び天主に問いかけました。「今、我々には疑問があります。この宮殿の中にいた天の衆生たちは、いったいどこへ行ったのでしょうか？」その時、天主・牟修樓陀は彼らが調伏され、心に厭離を生じて放逸を離れたのを見て、神通の力を収めました。すると、天の衆生たちは互いに見えるようになりました。互いに見えるようになると、互いにあいまって喜びの心が生じました。

「彼諸天眾心歡喜已，牟修樓陀夜摩天王而告之言：『汝等各各迭相見障，向來乃是我神通力所障礙故，而令汝等互不相見。汝於今者還復迭共相見如本。彼能破壞——大力死王若來至者，百千億劫永不相見，令汝等退，生在地獄、餓鬼、畜生，更不可得如是相見。是故應念不行放逸，勿起異心，常當攝意，勿樂境界。』

> 「天々の皆が心から喜んだ後、牟修樓陀夜摩天王がこう告げました。『お前たちは、今まで互いに見えなかったのは、私の神通力による障りがあったからだ。それにより、お前たちは互いに見えずにいたのだ。今、元のように再び互いに見えるようになった。しかし、あの破壊する者、力強き死の王がやって来たならば、百千億劫もの間、互いに永遠に見ることはできなくなり、お前たちは退けられ、地獄・餓鬼・畜生に生まれ、このように互いに会うことは二度と叶わないだろう。だからこそ、心に留め、放逸に身を任せてはならない。異なる心を起こさず、常に心を一つに保ち、境界を楽しんではならない』」

「爾時，多天如是聞已，極生厭離。心厭離故，得須陀洹。爾時，天王牟修樓陀如是知已，甚大歡喜，生如是心：『我於今者，所作已辦，自意滿足，捨離此處向嬉戲處。』

> その時、多くの天人がこのように聞いて、深く厭離の心を生じました。心が厭離したがゆえに、須陀洹（初果）を得ました。 その時、天王・牟修楼陀はこのことを知って、非常に大いに喜び、このような心を生じました。「私は今、なすべきことを成し遂げ、自らの思いも満ち足りた。この場所を離れて、遊戯の場所へ向かおう」と。

「雲處遊行諸天眾等，第一善心，若有已得須陀洹者，不放逸行。若不得者，其心則輕，猶行放逸，樂放逸行、樂放逸樂。如是園林流水河池、山峯㵎谷，共諸天女受種種樂，不慮死畏，乃至彼處受樂遊戲，歌舞喜笑，可愛善業和集皆盡。善業盡已，於所應作，悉皆不作，復墮地獄、餓鬼、畜生。若有餘業，生於人中，常一切時第一喜樂，第一端正，第一財物具足而有，一切人愛，本性心喜，隨順法行，嬉戲歌舞而受諸樂，樂行寺舍，有蓮華處流水河池。若王大臣、王等富者，一切知識皆共善友，諸親兄弟心皆愛樂，常不妄語，心常正直，一切善人常樂共行，不壞威儀，無量功德皆悉具足。如是彼人身聚具足，如是得身，以餘業故。

> 「雲を行き巡る天の衆たちよ。第一の善き心を持ち、すでに須陀洹（しょうとおん）を得た者は、放逸な行いをしません。しかし、得ていない者は心が軽く、なお放逸にふけり、放逸な行いを楽しみ、放逸な楽しみを喜びます。このように、園林や流水、河池、山の峰や谷間で、天女たちと共に様々な楽しみを受け、死の恐れを顧みることなく、その場所で楽しみや遊戯にふけり、歌舞や喜び笑いの中にあって、愛しい善業のすべてが尽きるまで過ごします。善業が尽きれば、なすべきことを一切行わず、地獄・餓鬼・畜生に堕ちます。もし余った業があれば、人間に生まれ、常にすべての時に第一の喜びと楽しみ、第一の端正な姿、第一の財物を十分に備え持ち、すべての人に愛され、本性は心喜び、法に従って行い、遊戯や歌舞を楽しみながら様々な楽しみを受け、寺や清らかな蓮華の池や流水のある場所を好みます。もし王や大臣、王に準ずる富者であれば、すべての知り合いや友人、親族や兄弟も心から愛し楽しみ、常に偽りを言わず、心は常に正直で、すべての善人と共に歩むことを楽しみ、威儀を壊さず、無量の功徳をすべて備えています。このように、その人の身体は完全に備わり、このような身体を得るのは、余った業によるのです。」

「又彼比丘知業果報，觀夜摩天所有地處。彼見聞知：彼夜摩天復有地處，名為積負。眾生何業生彼地處？彼見聞知：若善丈夫常畏業果，心性正直，正見不邪，修行正業捨惡知識，常一切時念佛法僧，微少惡業深生怖畏，不殺盜婬，乃至道行。若見婦女若歌若舞莊嚴具聲，聞已不著，心不愛念，心善觀察，無不善心亦不喜樂，見其過已，心不分別。彼若如是不起邪行，身壞命終生於善道——夜摩天中積負地處。

> また、あの比丘は因果応報（いんがおうほう）の道理を理解し、夜摩天（やまてん）にあるすべての地処（ちしょ）を観察した。彼が見聞（けんもん）したところによれば、夜摩天には「積負（せきふ）」という地処がある。では、どのような業（ごう）によって、衆生（しゅじょう）はその地処に生まれるのだろうか。 彼が見聞したところによれば、もし善き人が常に業の果報を畏れ、心が正直で、正しい見解を持って邪見に染まらず、正しい行いを修め、悪友を遠ざけ、常に仏法僧（ぶっぽうそう）を念じ、わずかな悪い業にも深く畏れの心を抱き、殺生・盗み・邪淫（じゃいん）を行わず、そのような心がけで道を歩むとする。もし女性が歌い踊り、装飾品の音を立てているのを見聞きしても、心を執着させることなく、愛着の念を起こさず、善く観察して不善の心を起こさず、また楽しむこともない。そのような過ちを見極めたならば、心で分別することもない。彼がこのようにして邪な行いを起こさなければ、命終わって後、善き道である夜摩天の積負地処に生まれるのである。

「此善業人生彼處已，受樂不斷，恒常成就自身光明，五欲境界受於快樂。彼處有山名聚積崖，七寶諸樹以為莊嚴，滿彼山中。無量百千種種鳥眾，鳥有無量種種妙色莊嚴彼山，在彼山處出種種聲，行種種處，見則可愛。多有無量種種妙色，種種處行，無量形相，滿彼山中。又復更有流水河池，種種蓮花諸㵎谷中，多有種種名憶念樹以為莊嚴，交枝為舍，種種花果皆悉具足。其山之量三百由旬，諸天子眾、諸天女眾處處多饒，普彼山中皆可愛樂。第一天眾所住之處。如是山中分分地處，彼處一切善分分處，七楞七廂皆有園林種種間雜。

> この善業を積んだ人は、その場所に生まれると、絶え間なく楽しみを受け、常に自らの光明を成就し、五つの欲望の対象による快楽を味わいます。その場所には、「聚積崖」という名の山があります。七種の宝からなる様々な木々が装飾として、その山を満たしています。無数の百千もの様々な種類の鳥たちがいて、鳥たちは無数の様々な美しい色でその山を飾り、その山の中のあちこちで様々な声を発し、訪れる場所には様々なものがいて、見る者を楽しませます。多く、無数の様々な美しい色、様々な場所を行き、無数の姿形で、その山は満ちています。さらに、流れる水や池、様々な蓮の花が咲く谷々が多くあり、そこには様々な「名を憶えさせる樹」という装飾があり、枝を交わして住まいとなり、様々な花や果実がすべて備わっています。その山の大きさは三百由旬です。多くの天子や天女がそのあちこちに溢れ、山の全ては愛しく楽しむべきものとなっています。これは第一の天の衆が住む場所です。このような山の区画ごとの地には、そこでの一切の善業の区画ごとに、七つの稜と七つの囲みがあり、それぞれに園林が様々に混ざり合っています。

「彼善分處有七種寶，彼七種寶各為一廂。一廂青寶光明遍至六萬由旬，如是光明一切虛空普遍青色。若天憶念欲上山時，天自普身以種種寶間錯莊嚴，在彼如是聚積崖山，行於如是青寶之廂，乘空而去。自身種種莊嚴諸寶，無有色光與山同色，皆作青色及青光明，與山平等。青色青光皆悉第一。聚積崖山，一廂如是青寶之色。又復如是聚積崖山第二廂處皆是頗梨，若天種種莊嚴其身，種種間錯行於彼廂，乘空而去，舉身種種莊嚴諸寶無有光色，與山同色，謂頗梨色。光明亦爾，與山平等。彼天身光如入水池。又復如是聚積崖山第三廂處，悉皆是銀，色及光明所遍至處五百由旬，第一白光，見者甚樂。若何者天行於彼廂，乘空而去，其身種種莊嚴之色皆同白色，以彼山廂光明力故。又復如是聚積崖山第四廂處，一切皆是閻浮那提真金為體，光色如日。彼廂光明其焰圓輪滿千由旬。若何者天行於彼廂，乘空而去，身亦同色。又復如是聚積崖山第五廂處，皆鉢頭摩真寶之色，一切普赤，光明遍至一千由旬。若何者天行於彼廂，乘空而去，身同赤色。彼天若著赤寶莊嚴，本赤色滅，百倍更赤。以彼寶廂光明力故。又復如是聚積崖山第六廂處，皆是金剛真寶之色，其光遍至五千由旬，楞間色出如天虹色。若何者天行於彼廂，乘空而去，身亦同色。以是彼山光明力故。又復如是聚積崖山第七廂處，皆是七寶種種雜色，光明遍至百千由旬。若何者天行於彼廂，乘空而去，隨天之身諸莊嚴色皆悉更勝，隨種種衣其色轉勝。

> その素晴らしい積聚崖山（しゅうじゅうがいせん）には、七種類の宝がそれぞれ七つの区画を形作っています。 第一の区画は青宝で、その光は六万由旬にまで広がり、虚空全体が青く染まります。天人が山に登ろうと思い立つと、自らの身に様々な宝をちりばめて荘厳し、この積聚崖山の青宝の区画の上を、虚空を飛んで進みます。その身は様々な宝で飾られていますが、山と同じ青色の光を放ち、山と一体となります。その青さと光は、この上なく素晴らしいものです。積聚崖山の第一の区画は、このような青色の宝でできています。 次に、第二の区画はすべて玻璃（はり）でできています。天人が様々な宝で身を飾り、この区画の上を虚空を飛んで進む時、その身の飾りはすべて山と同じ玻璃色になります。光もまた山と等しくなります。その天人の身の光は、まるで池に飛び込んだかのようです。 第三の区画はすべて銀で、その色と光は五百由旬にまで広がり、最も優れた白い光は見る者に大きな喜びをもたらします。天人がこの区画の上を虚空を飛んで進む時、その身の様々な飾りの色はすべて白くなります。それは、この区画の光の力によるものです。 第四の区画はすべて、閻浮那提（えんぶなだい）の真金でできており、その色と光は太陽のようです。その光の炎は円を描き、千由旬にわたって広がります。天人がこの区画の上を虚空を飛んで進む時、その身も同じ色になります。 第五の区画はすべて鉢頭摩（はっとま）の真宝の色で、全体が赤く染まり、その光は千由旬にまで広がります。天人がこの区画の上を虚空を飛んで進む時、その身も赤くなります。天人が赤い宝で身を飾っていたとしても、その元の赤色は消え、百倍も鮮やかな赤となります。これもこの区画の光の力によるものです。 第六の区画はすべて金剛の真宝の色で、その光は五千由旬にまで広がり、その稜の間からは、天の虹のような色が現れます。天人がこの区画の上を虚空を飛んで進む時、その身も同じ色になります。これもこの山の光の力によるものです。 第七の区画はすべて七宝が混ざり合った様々な色で、その光は百千由旬にまで広がります。天人がこの区画の上を虚空を飛んで進む時、その身の装飾の色はすべて、さらに素晴らしく輝きを増します。着る衣の色に応じて、その色もまた、より一層鮮やかになるのです。

「如是勝妙聚積崖山威德普勝，若須彌樓妙寶山王而欲比此聚積崖山光明可愛、妙寶光明，百倍不及、千倍不及，至百千倍亦所不及。彼勝妙山如是威德。何以故？善業勝故，彼山光明亦如是勝。彼夜摩天淨戒勝故、善業勝故，以是勝因，是故彼山普勝可愛。又復彼山普真珠網，周匝遍覆，第一善淨、第一光明，一切天見皆得利益。彼真珠網如是覆山，甚為端嚴，有大光明。彼有大城名如意念，真珠瓔珞莊嚴殊妙，如是光明甚為廣博。多有無量種種諸鳥，名雜瓔珞，住彼網中。「若天放逸，行放逸時，彼鳥說偈教誡之言：

> 「このように、勝れた功徳を積み集めた崖山は威徳が全てに勝り、須弥楼（しゅみる）や妙宝山王に比べようとしても、この崖山の愛らしく、妙なる宝の光には、百倍にも及ばず、千倍にも及ばず、百千倍にも及ぶことはない。その勝れた山は、このような威徳を備えている。なぜか。善業が勝れているからであり、その山の光明もまた、このように勝れている。あの夜摩天（やまてん）は、浄戒に勝れ、善業に勝れているため、この勝れた因によって、その山はすべてに勝れ、愛されるのである。 さらに、その山は一面に真珠の網で覆われ、周囲を完全に飾っている。最も清らかで、最も光り輝き、すべての天人が見れば利益を得る。その真珠の網がこのように山を覆い、非常に端厳（たんごう）で、大きな光明がある。そこには『意念（いねん）』という名の大きな城があり、真珠の瓔珞（ようらく）で飾られ、殊更に妙であり、このような光明は非常に広大である。また、無数の様々な鳥がいて、その名を『雑瓔珞（ぞうようらく）』といい、その網の中に住んでいる。 もし天人が放逸（ほういつ）にふけり、放逸の道を歩む時、その鳥は教誡の偈（げ）を説くのである。」

「『種種業因故，今生此天身，得天不知法，後則心生悔。此園林可樂，枝枸欄莊嚴，身生此處者，一切是善果。何人作何業，作業作善業，彼彼如是成，果亦如是得。汝等天現見，下中上等樂，何人如業行，彼彼如是果。癡種種莊嚴，隨逐癡行人，彼為癡所迷，不見大怖畏。若癡放逸者，不作自利益，喜樂種種欲，悕求種種果。天為癡覆故，不造作諸業，若天愛雜果，彼天不持戒。譬如捨離燈，欲唯取光明，彼天亦如是，離因異求果。若以因求果，彼則常受樂；無子果叵得，無燈豈有光。無戒則無天，離智無解脫；若得解脫者，則無所悕望。若離欲愛者，慧則非我所；若業所得樂，一切是垢濁。若得盡滅樂，一切不垢濁；不得盡滅樂，垢濁則不疑。彼復經百劫，境界不知足，愛境界樂故，於樂不知足。若常近於欲，數數更增長，彼增長如毒，後時與苦惱。欲能為破壞，恒常是退因，若不能捨欲，彼天甚懈怠。若知功德過，此是智慧相；不知功德過，則為愚癡相。若知功德相，過亦如是知，真知功德過，恒常不離樂。善人知此欲，境界過功德；天云何捨智，受行樂境界？』

> 「様々な業の因によって、この天の身が生まれた。 天の身を得ても法を知らなければ、後に心に悔いが生じる。 この園林は楽しむに値し、枝や欄干で荘厳されている。 ここに生まれた者は、すべて良い果報の結果である。 どんな人がどんな業を作り、善い業を作ったか。 そのように、その結果は得られるものとなる。 あなたがた天人は今、下・中・上の楽を目の当たりにしている。 どんな人でも、自分の行いに応じて、そのような結果を得るのである。 愚かさの様々な荘厳に、愚かな人は追い従う。 その人は愚かさに惑わされて、大きな恐れを見ることがない。 もし愚かで放逸な者が、自分の利益をなさなければ、 様々な欲望を喜び、様々な結果を求める。 天人は愚かさに覆われているため、諸々の業を積まない。 もし天人が雑多な結果を愛するならば、その天人は戒を保たない。 例えば、灯明を捨てて、ただ光だけを得ようとするようなもの。 その天人も同様に、因を離れて別に結果を求める。 もし因によって結果を求めるならば、その人は常に楽を受ける。 種がなければ果実は得られず、灯明がなければ光があるだろうか。 戒がなければ天となることはなく、智慧を離れては解脱はない。 もし解脱を得たならば、何の望みもない。 もし欲望への愛着を離れたならば、智慧は私のものではない。 もし業によって得られる楽があるならば、そのすべては汚れである。 もし滅尽の楽を得たならば、すべては汚れていない。 滅尽の楽を得なければ、汚れは疑いなく存在する。 その者はさらに百劫を経ても、境界に満足することがない。 境界の楽を愛するがゆえに、楽に満足することがない。 もし常に欲望に近づくならば、それはますます増大する。 その増大は毒のようであり、後に苦しみをもたらす。 欲望は破壊をもたらすものであり、常に退転の原因である。 もし欲望を捨てることができなければ、その天人ひどく懈怠している。 もし功徳の過ちを知るならば、これが智慧の相である。 功徳の過ちを知らなければ、それが愚かさの相である。 もし功徳の相を知り、過ちもまたそのように知るならば、 真に功徳と過ちを知る者は、常に楽を離れない。 善き人はこの欲望が、境界における過ちであり功徳であることを知る。 天人はどうして智慧を捨てて、楽の境界を受けて行じるのだろうか。」

「彼如是鳥真珠網中，利益天故，已說此偈。又復彼山普光明輪之所圍遶，山上種種諸寶輪旋而纏遶之，種種光明如閻浮提虹色相似。若諸天等，見彼輪旋心生歡喜，則有輪旋遶身而生。彼一切天見一一廂，生希有心，有無量寶莊嚴天身。此一一廂遊戲受樂，以修種種勝善業故，如是受樂。

> 「その鳥は、まさしく真珠の網の中で、天人のためにこの偈を説いたのです。また、その山は普く光明の輪に囲まれ、山の上には様々な宝の輪が旋回して取り巻いています。その光は様々で、閻浮提の虹のような色合いです。天人们がその旋回する輪を見て心に喜びを生じると、自ずと輪が彼らの身の回りに巡り生じます。彼ら全ての天人は、それぞれの区画を見るごとに希有の思いを起こし、無量の宝が天人の身を荘厳します。この一つ一つの区画で遊戯し楽しみながら、様々な優れた善業を積んだ結果、このような楽しみを受けるのです。」

「又彼山中所有諸殿有四園林，如須彌樓。何等為四？一名端正莊嚴、二名峰林、三名甘露端嚴、四名種雜。此等名為四種園林。流水河池、妙蓮花等，種種澗谷有種種鳥，音聲微妙。諸樹花敷、樹鳥音聲皆悉可愛。枸欄重樓、種種堂殿，行行相應。有山名為一切布施，希有殊勝。到彼山已，次到彼林，如彼雲處遊行地處，如是天子共天女眾，受天五欲功德之樂。而彼樹林第一可愛，彼中一林皆是閻浮那提金寶，其葉皆是毘琉璃寶、妙蓮花寶、車𤦲色花。復次，第二林是白銀林，真金色葉。彼林之花有無量種第一善香，熏百由旬。彼天嗅之，既嗅香已，勝歡喜心。彼第三林是毘琉璃，其葉是銀，其花則有種種雜色，有種種香。彼第四林名種雜林，無量雜色，無量河池有妙蓮花，種種諸鳥種種音聲，百千功德具足而有。於彼林中種種音聲，如彼第二三十三天帝釋之王。如是彼處須夜摩天光明威力、功德具足，多有無量諸善業者於彼山中，多有無量百千天眾之所圍遶，而受快樂，種種境界功德具足。彼須夜摩大福德天第一神通、第一光明、第一勢力，自業所化，五欲功德皆悉具足，五欲境界皆悉可愛，六根受樂。彼處如是須夜摩天，彼天中勝，以善業故。

> また、その山中にある全ての宮殿には、須弥楼のように四つの林があった。その四つとは何か。第一を端正荘厳、第二を峰林、第三を甘露端厳、第四を種雑という。これらを四つの林と名付ける。そこには流れる水や池、美しい蓮の花などがあり、様々な谷には様々な鳥がいて、その声は繊細で美しい。多くの木々は花を咲かせ、木々や鳥の声はすべて愛らしい。欄干や楼閣、様々な殿堂が列をなして整っている。一切布施という名の山があり、稀に見る素晴らしいものだった。その山に着いた後、次にその林に至り、あたかも雲の遊行地を進むように、かの天子は天女たちと共に、天の五つの欲望の功徳の楽しみを受けた。そしてその林は何よりも愛らしく、その中の一つの林はすべて閻浮那提金の宝でできており、その葉はすべて毘瑠璃の宝、美しい蓮華の宝、車𤦲色の花であった。次に、第二の林は白銀の林で、真金色の葉を持っていた。その林の花には無数の種類があり、第一の善い香りが百由旬にまで及んだ。かの天人はそれを嗅ぎ、香りを嗅いだ後、この上ない喜びの心を抱いた。第三の林は毘瑠璃で、その葉は銀であり、その花は様々な色と様々な香りを持っていた。第四の林は種雑林と名付けられ、無数の様々な色、無数の池には美しい蓮の花があり、様々な鳥の様々な声、百千の功徳を備えていた。その林の中の様々な音は、あたかも第二の三十三天の帝釈天のようなものであった。このように、かの処の須夜摩天の光明の力と功徳は備わり、無数の善行を積んだ者たちがその山には多くいた。無数の百千の天人の群れに囲まれながら、楽しみを受け、様々な境地の功徳を備えていた。その須夜摩天の大福徳の天は、第一の神通力、第一の光明、第一の勢力を持ち、自らの業によって生まれ変わったものであり、五つの欲望の功徳をすべて備え、五つの欲望の対象はすべて愛らしく、六根は楽しみを受けた。このように、かの須夜摩天は、その天の中でも優れており、善い業によるものであった。

「彼山如是具足可愛，彼中有鳥，名一切時常歡喜鳥。彼鳥如是自業口語，悕望相應，而說偈言：

> その山は、まことに愛しさに満ちている。そこに住む鳥は「常に歓喜する鳥」という名であり、その鳥は己の業に基づき、望みに応じて、この偈（うた）を口にした。

「『非智慧心念，亦復非悕望，唯業能與樂，樂由作業得。勝中復勝勝，可愛中可愛，持戒善果報，從丈夫作得。境界門搖動，如曲河下流，若能調御心，彼天是樂器。自作福德業，自身而修行；或受苦受樂，自身如是受。造作惡業者，自身則如怨，身善如善友，如是身自行。如河流之速，身轉變亦爾，是故應作福，無垢淨持戒。若意樂不善，常憙境界樂，猶如大闇處，作不饒益行。喜樂境界動，常隨順欲行，有此非法意，彼則受苦惱。諸苦是魔業，法樂普周遍，如是苦樂相，智者如是知。若心求樂者，隨順正法行；若有悕望苦，彼心行非法。非因不得樂，種種苦皆然，苦樂因差別，爾知自利行。若無量分別，則有無量種，彼一切業果，如是得生死。若不愛樂法，一生身空過，法能將到天，行法者得樂。若法救護者，此如是善足，離法者非善，必定入地獄。好人寧身死，而不行非法，若捨離法者，生死常轉行。離於法眼者，為癡覆於心，樂虛妄無利，如病眼看樂。法芽意如田，無心則不生，若持戒意鈍，專行於非法。依非法道已，不善使令行，久轉行生死，為心所疲惓。此心念念中，無量種轉行，其體甚輕動，如幻乾闥婆。彼心有繫縛，謂智慧持戒，不縛有大力，無量種種轉。境界欲樂多，為愛使令行，是故誑惑天，令行放逸行。不覺知終退，命終必破壞，一切無常動，盡時必失樂。一切天上樂，癡天不覺知，癡愛放逸行，如是喜樂樂。天眾愚癡故，常輪轉生死，先無後時有，已有後還無。天當必定退，世間法如是，唯有智慧者，不著世間樂。』

「如是彼鳥行彼山中作如是說，與種種法和合相應。若天先曾已於多世行善業來，聞彼鳥語，心念攝受。若未多世，一、兩世來行善法者，雖聞鳥語，乃至一句而不覺知。是故應當勤行精進，常作利益，修行智明，除此已外，無如是救，無如是藥。此智能遮一切惡道，乃是第一樂之種子。智者應當心樂正法，正念思惟而修心意。若修意者，是則具有如是功德和合相應，次第乃至到於涅槃。若天聞彼鳥音聲已，於須臾間暫息放逸。

> かの鳥は、その山の中を行きながら、様々な法と調和した教えを説いていました。もし天人が、すでに多くの世にわたって善行を積んできたなら、その鳥の言葉を聞いて心に受け止めます。しかし、多く世を経ず、わずか一世か二世しか善行を積んでいない者は、鳥の言葉を聞いても、一言すら理解することができません。ゆえに、人は努めて精進し、常に善い行いを積み、智慧を明らかにする修行をすべきです。これよりほかに、救いもなければ、薬もないのです。この智慧こそが、すべての悪しき道を防ぎ、最高の楽しみの種となるものです。賢者は、喜んで正しい教えを心に抱き、正しく思いを巡らせて、心を修めねばなりません。もし心を修めるならば、そこにはこのような功徳が備わり調和し、やがて順を追って涅槃に至るのです。もし天人が、かの鳥の声を聞いて、しばしの間でも放逸を休めるならば、その者は實に心をよく修めた者と言えましょう。

「又復彼天於山園林無量眾寶光明峰上，彼天山中五欲功德種種和集，嬉戲遊行，多種受樂。乃至可愛善業和集，一切盡已，彼處復退，如業而行，生於地獄、餓鬼、畜生。有生人中，彼於一生常受快樂，身得自在，不屬於他，第一大富，心常愛智，第一勝色端正具足，為一切人之所樂見，為一切人之所敬重，生於可愛富樂國土或在城內或多人處，親舊兄弟之所供養，若王、大臣，其心正直，隨順法行，正見不邪。彼餘業故。

> また、かの天人たちは、山々や園林にある無数の宝や光明の峰において、五欲の功徳を様々に集めて楽しみ、遊び歩き、多くの楽しみを受ける。しかし、愛すべき善業がすべて尽きると、その場所から退き、業に従って、地獄・餓鬼・畜生に生まれることがある。また、人間として生まれる者もいる。その者は一生の間、常に楽しみを受け、身は自在であり、他に従属せず、第一の大富豪となり、心は常に智慧を愛し、第一の勝れた色かたちを備え、すべての人々に喜ばれ、敬われる。愛すべき豊かな国に生まれ、都の中や人々の集まる場所で、親戚や兄弟のもてなしを受け、王や大臣は心が正しく、法に従って行動し、正しい見解を持ち、邪な見解を持たない。これは、その他の業の余力によるものである。

## 正法念處經卷第三十八

> 正法念処経 第三十八巻