阿毘達磨俱舍論卷第十
阿毘達磨倶舎論 巻第十
尊者世親造
尊者世親造
三藏法師玄奘奉 詔譯
三蔵法師玄奘奉詔訳
分別世品第三之三
第三品 世間の分別 その三
無明何義?謂體非明。若爾,無明應是眼等。既爾,此義應謂明無。若爾,無明體應非有。為顯有體義不濫餘,頌曰:
無明の意味とは何か。それは、その本質が明らかではないことである。そうだとすれば、無明は眼などの感覚器官と同じである。しかしその場合、この意味は「明がない」ということになるべきである。ならば、無明の本体は存在しないことになる。本体が存在するという意味を示し、他の概念と混同しないために、次の偈頌で述べられる。
明所治無明, 如非親實等。
明らかにするものが対治するのは無明であり、 それはあたかも、親しむべきでないものや実在しないもののようである。
論曰:如諸親友所對怨敵,親友相違名非親友,非異親友、非親友無。諦語名實,此所對治虛誑言論名為非實,非異於實、亦非實無。等言為顯非法非義,非事等性非異非無。如是無明別有實體,是明所治,非異非無。云何知然?說行緣故。復有誠證。頌曰:
論曰:ちょうど友人に向けられた敵意のように、友人との関係が壊れたものを「非友人」と呼ぶ。これは友人とは別のものでもなく、また友人が無いわけでもない。真実の言葉を「実」と呼び、それに対治される虚偽の言論を「非実」と呼ぶ。これは実とは別のものでもなく、また実が無いわけでもない。「等」という言葉は、非法・非義・非事などの性質が、別のものでもなく、無いものでもないことを示す。このように、無明には別個の実体があり、明に対治されるものであって、別のものでもなく、無いものでもない。どうしてそう分かるのか?「行を縁とするから」と説かれているからである。さらに確かな証拠がある。それを頌で示す。
說為結等故, 非惡慧見故,
與見相應故, 說能染慧故。
結などの煩悩と説かれるからであり、悪慧や見解ではないからです。 見解と対応するからであり、智慧を染めると説かれるからです。
論曰:經說無明以為結縛、隨眠及漏、軛、瀑、流等,非餘眼等及體全無可得說為結縛等事,故有別法說名無明。如惡妻子名無妻子,如是惡慧應名無明,彼非無明有是見故。諸染污慧名為惡慧,於中有見故非無明。若爾,非見慧應許是無明。不爾,無明見相應故。無明若是慧,應見不相應,無二慧體共相應故。又說無明能染慧故,如契經言:貪欲染心令不解脫,無明染慧令不清淨,非慧還能染於慧體。如貪異類能染於心。無明亦應異慧能染,如何不許?諸染污慧間雜善慧令不清淨說為能染,如貪染心令不解脫,豈必現起與心相應方說能染?然由貪力損縛於心令不解脫,後轉滅彼貪熏習時心便解脫。如是無明染污於慧令不清淨,非慧相應,但由無明損濁於慧。如是分別何理相違,誰復能遮自所分別。然異慧類別有無明,如貪異心,此說為善。有執煩惱皆是無明,此亦應同前理遮遣。若諸煩惱皆是無明,於結等中不應別說,亦不應與見等相應,見等不應自相應故。或亦應說無明染心,若謂此中就差別說,應於染慧不說總名。既許無明別法為體,應說此體其相云何。謂不了知諦實業果。未測何相名不了知?為異了知、為此非有?二俱有過,如無明說。此謂了知所治別法。此復難測,其相是何?此類法爾應如是說。如餘處言:云何為眼?謂清淨色眼識所依。無明亦然,唯可辯用。大德法救說此無明是諸有情恃我類性,異於我慢。類體是何?經言:我今如是知已、如是見已,諸所有愛、諸所有見、諸所有類性、諸我我所執、我慢執、隨眠,斷遍知故無影寂滅,故知類性異於我慢。寧知類性即是無明?不可說為餘煩惱故。豈不可說為餘慢等?若更於此巨細研尋,言論繁雜故應且止。名色何義?色如先辯,今唯辯名。頌曰:
論じて曰く、経には無明を以て結縛・随眠・漏・軛・瀑・流などと説いていますが、眼などの他のものや、全体がまったく存在しないものを結縛などと呼ぶことはできません。ですから、無明という別の法があると説かれるのです。悪い妻を持つことを無妻と呼ぶように、悪い慧は無明と呼ばれるべきです。しかしそれは無明ではなく、見があるからです。すべての汚れた慧を悪慧と呼びますが、その中には見があるので無明ではありません。もしそうなら、見ではない慧は無明と認めるべきです。そうではありません。無明は見と相応するからです。もし無明が慧であるなら、見とは相応しないはずです。二つの慧の体が共に相応することはないからです。また、無明は慧を汚すと説かれています。契経に言うとおりです。貪欲は心を汚して解脱させず、無明は慧を汚して清浄にしません。慧が再び慧の体を汚すことはありません。貪が異なる類のものを汚して心を汚すように、無明もまた慧とは異なるものが慧を汚すはずです。どうして認めないのでしょうか。すべての汚れた慧が善い慧に間雑して清浄でなくなることを汚すと言います。貪が心を汚して解脱させないように、必ずしも現起して心と相応するからといって汚すと言う必要があるでしょうか。しかし貪の力によって心が損なわれ縛られて解脱できなくなり、後にその貪の熏習を転滅する時、心は解脱します。このように無明は慧を汚して清浄でなくしますが、慧と相応するのではなく、ただ無明によって慧が損なわれ濁るのです。このように分別することに何の道理の相違がありましょうか。誰がまた自分の分別を遮ることができるでしょうか。しかし慧とは異なる類に別に無明があり、貪が心と異なるようなものです。これを善と説きます。煩悩はすべて無明であると執する人がありますが、これもまた前の道理と同じく遮遣されるべきです。もしすべての煩悩が無明であるなら、結などの中で別に説かれるべきではなく、また見などと相応するはずもありません。見などは自ら相応しないからです。あるいはまた、無明は心を汚すと説かれるべきです。もしここで差別について説くというなら、汚れた慧について総名を説くべきではありません。すでに無明が別の法を体とすると認めたなら、この体の相はどのようなものか説くべきです。それは諦・実・業・果を知らないことです。まだ何の相を測って知らないと呼ぶのか。了知と異なるのか、これが非有なのか。二つとも過失があります。無明の説のように。これは了知の所治の別法を言います。これまた測り難く、その相は何でしょうか。この類の法はおのずからこのように説くべきです。他の所で言うように、眼とは何か。清浄な色で眼識の所依です。無明もまた同じで、ただ用を弁じるだけです。大徳法救は、この無明はすべての有情が我に恃む類性であり、我慢とは異なると説きます。類体とは何でしょうか。経に言います。私は今このように知り、このように見た。すべての愛、すべての見、すべての類性、すべての我我所執、我慢執、随眠は、断じ遍知するがゆえに影もなく寂滅する。ゆえに類性は我慢と異なると知ります。どうして類性がすなわち無明であると知るのか。他の煩悩と言うことはできないからです。どうして他の慢などと言うことができないでしょうか。もしさらにここで巨細に研尋するなら、言論が繁雑になるので、しばらく止めるべきです。名色とは何の義でしょうか。色は先に弁じたとおりです。今はただ名を弁じます。頌に曰く。
名無色四蘊。
名無しの四つの色(物質)でない蘊(受・想・行・識)のこと。
論曰:無色四蘊何故稱名?隨所立名根境勢力於義轉變,故說為名。云何隨名勢力轉變?謂隨種種世共立名,於彼彼義轉變詮表,即如牛馬色味等名。此復何緣標以名稱?於彼彼境轉變而緣。又類似名,隨名顯故。有餘師說:四無色蘊,捨此身已轉趣餘生,轉變如名,故標名稱。觸何為義?頌曰:
論曰:無色の四蘊(しうん)は、なぜ「名」と呼ばれるのか。それは、名づけられた対象や根(感覚器官)・境(対象)の力によって、その意味が状況に応じて変わるからである。ゆえに「名」と説くのである。では、どのように名の力によって意味が変わるのか。世間で共通に用いられる様々な名前が、それぞれの対象に応じて意味を変えて指し示すことによる。例えば「牛」「馬」「色」「味」などの名前がそうである。では、なぜ特に「名」という言葉で呼ばれるのか。それは、個々の対象に向かって、意味を変えながら認識が働くからである。また、名前のように認識も変化するため、名に従って対象が明らかにされるからである。別の師はこう説く。「四つの無色の蘊(感受・想念・形成作用・認識)は、この身体を捨てて次の生へと移り変わる。その変化は名前のようであり、ゆえに『名』と名づけるのである。」では、「触(しょく)」とは
觸六三和生。
触れるということが六つの感覚と三つの結びつきを生み出します。
論曰:觸有六種,所謂眼觸乃至意觸。此復是何?三和所生,謂根、境、識三和合故有別觸生。且五觸生可三和合,許根境識俱時起故。意根過去、法或未來、意識現在,如何和合?此即名和合,謂因果義成。或同一果故名和合,謂根境識三同順生觸故。諸師於此覺慧不同。有說:三和即名為觸。彼引經證。如契經言:如是三法聚集和合說名為觸。有說:別法與心相應,三和所生說名為觸。彼引經證。經言:云何六六法門?一、六內處;二、六外處;三、六識身;四、六觸身;五、六受身;六、六愛身。此契經中根境識外別說六觸,故觸別有。說即三和名為觸者,釋後所引六六經言,非由別說便有別體。勿受及愛非法處攝無如是失,離愛受觸別有所餘法處體故。汝宗離觸無別有三,可觸及三差別而說,雖有根境不發於識,而無有識不託根境。故已說三,更別說觸便成無用。有餘救言:非諸眼色皆諸眼識因,非諸眼識皆諸眼色果。非因果者別說為三,因果所收總立為觸。說離三和有別觸者,釋前所引如是三法聚集和合名觸。經言我部所誦經文異此,或於因上假說果名,如說諸佛出現樂等。如是展轉更相難釋,言論煩多故應且止。然對法者說有別觸,即前六觸復合為二。頌曰:
論曰:触には六種類がある。すなわち、眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触である。これは何か。三つのものが和合して生じるものである。すなわち、根・境・識の三つが和合するゆえに、別個の触が生じるのである。
例えば、五つの触(眼触など)が生じるには、三つのものが和合する必要がある。なぜなら、根と境と識が同時に起こると認められているからである。しかし、意根は過去のもの、法(対象)は未来のもの、意識は現在のものである場合、どうして和合するといえるのか。
これもまた和合と呼ばれる。なぜなら、因果の意味が成立するからである。あるいは、同じ一つの結果をもつゆえに和合と呼ばれる。すなわち、根・境・識の三つが共に同じ触を生じさせるからである。
諸師の間では、このことについて智慧に違いがある。ある説では、三つの和合こそを触と名づける。その師は経典の証拠を引く。経典に「このように三つの法が集まり和合することを、触と名づける」と説かれているからである。
別の説では、触は心と相応する別個の法であり、三つの和合によって生じるものを触と名づける。その師も経典の証拠を引く。経典に「六六法門とは何か。第一に六内処、第二に六外処、第三に六識身、第四に六触身、第五に六受身、第六に六愛身である」と説かれている。この経典では、根・境・識とは別に六つの触が説かれているので、触は別個の存在であるとわかる。
「三つの和合こそを触と名づける」と説く者には、後に引用した六六経の言葉について、別々に説かれているからといって別個の実体があるわけではない、と説明する。受や愛が法処に含まれないという過失はない。なぜなら、愛や受とは別に、触とは別個の法処の実体が存在するからである。あなたの宗派では、触を離れて別に三つの和合は存在せず、触と三つを区別して説くことになる。根と境があっても識が起こらないことはあるが、識があって根と境に依らないことはない。それゆえ、すでに三つのものが説かれているのに、さらに別に触を説くことは無用である。
他のある者は救済の説として、「すべての眼色がすべての眼識の因となるわけではなく、すべての眼識がすべての眼色の果となるわけではない。因果の関係にないものは別に三つとして説かれ、因果に含まれるものはまとめて触とされる」と述べる。
「三つの和合を離れて別個の触がある」と説く者は、先に引用した「このように三つの法が集まり和合することを触と名づける」という経典の言葉について、次のように説明する。「私の部派が誦する経典の文はこれとは異なる。あるいは、因の上に仮に果の名を説く場合もある。例えば『諸仏の出現は楽しい』などと説かれるようなものである。」
このようにして、互いに論難し合い、議論が煩雑になるので、ここで止めるべきである。しかし、阿毘達磨(対法)の論師は、別個の触が存在すると説く。すなわち、前述の六つの触をさらに二つにまとめる。頌に曰く:
五相應有對, 第六俱增語。
五つのものは対になって対応し、 第六のものは総称としてさらに加わる。
論曰:眼等五觸說名有對,以有對根為所依故。第六意觸說名增語。所以然者,增語謂名,名是意觸所緣長境,故偏就此名增語觸。如說眼識但能了青不了是青,意識了青亦了是青,故名為長。故有對觸名從所依,增語觸名就所緣立。有說:意識語為增上方於境轉,五識不然,是故意識獨名增語,與此相應名增語觸。故有對觸名從所依,增語觸名就相應立。即前六觸隨別相應復成八種。頌曰:
論曰:眼などの五つの触は「有対」と説かれる。それは、物質的な感覚器官(根)をよりどころとしているからである。第六の意触は「増語」と説かれる。その理由はこうである。「増語」とは「名」のことである。「名」とは、意識の触が認識の対象とする、より広がりのある境である。この点に著目して、特にこれを「増語触」と名付ける。例えば、「眼識は青を了別することはできても、それが『青である』とは了別しない。意識は青を了別すると同時に、それが『青である』とも了別する」と説かれるように、意識の認識はより広がりがあるのである。したがって、「有対触」という名称は、そのよりどころ(依)に従って付けられ、「増語触」という名称は、認識の対象(縁)に従って付けられている。
また、ある説によれば、意識は言葉をよりどころとして初めて、境に対して認識を生じるのであり、五識にはそのようなことはない。それゆえ、意識だけを特に「増語」と名付け、これと対応する触を「増語触」と名付ける。したがって、「有対触」という名称は、そのよりどころ(依)に従って付けられ、「増語触」という名称は、対応するもの(相応)に従って付けられている。
このように、上述の六種の触は、その対応する作用の違いに従
明無明非二, 無漏染污餘,
愛恚二相應, 樂等順三受。
「無明」と「明るさ」は、別々のものではありません。 煩悩のない清らかな状態と、それに染まった状態も、別々のものではないのです。 「好き」と「嫌い」という二つの感情は、幸福や苦しみといった三つの感覚と結びついて現れます。
論曰:明無明等相應成三,一明觸、二無明觸、三非明非無明觸。此三如次,應知即是無漏染污餘相應觸。餘謂無漏及染污餘,即有漏善、無覆無記。無明觸中一分數起,依彼復立愛恚二觸,愛恚隨眠共相應故。總攝一切復成三觸:一順樂受觸、二順苦受觸、三順不苦不樂受觸。此三能引樂等受故,或是樂等受所領故,或能為受行相依故,名為順受。如何觸為受所領行?相依行相極似觸,依觸而生故。如是合成十六種觸。受何為義?頌曰:
論じる:明と無明などの対応関係により、三つの触が成立する。第一は「明の触」、第二は「無明の触」、第三は「明でも無明でもない触」である。これら三つは順に、無漏、染汚、その他の対応する触であると知るべきである。「その他」とは、無漏と染汚以外を指し、すなわち有漏の善と無覆無記を意味する。無明の触の一部は頻繁に生起し、それに基づいてさらに愛の触と恚の触が立てられる。これは愛と恚の随眠が共に対応するからである。すべてを総合すると、さらに三つの触が成立する。第一は楽受に順ずる触、第二は苦受に順ずる触、第三は苦でも楽でもない受に順ずる触である。これらの三つは楽などの受を引き起こすからであり、あるいは楽などの受に領納されるからであり、また受の行相の依処となるからである。ゆえに「順受」と名づける。では、どのように触が受に領納され、行相となるのか。行相は極めて触に似ており、触に依って生じるからである。このようにして十六種の触が成立する。受とは何を意味するのか。偈頌に曰く:
從此生六受, 五屬身餘心。
ここから六つの感受が生じ、 五つは身体に属し、残りは心に属する。
論曰:從前六觸生於六受,謂眼觸所生受至意觸所生受。六中前五說為身受,依色根故。意觸所生說為心受,但依心故。受生與觸,為後、為俱?毘婆沙師說俱時起,觸受展轉俱有因故。云何二法俱時而生?能生所生義可成立。如何不立?無功能故,於已生法餘法無能。此與立宗義意無別,如言二法俱時而生,能生所生義不成立;於已生法餘法無能,義意同前,重說何用?若爾,便有互相生失。許故非失。我宗許二為俱有因,亦互為果。仁雖許爾,而契經中不許此二互為因果。契經但說:眼觸為緣生眼觸所生受。曾無經說,眼受為緣生眼受所生觸。又此義非理,越能生法故。若法極成能生彼法,此法與彼時別極成。如先種後芽、先乳後酪、先擊後聲、先意後識等,先因後果非不極成。亦有極成同時因果,如眼識等,眼色等俱。四大種俱有所造色,此中亦許前根境緣能發後識。前大造聚生後造色,何理能遮?如影與身,豈非俱有。有說:觸後方有受生,根境為先,次有識起,此三合故即名為觸,第三剎那緣觸生受。若爾,應識非皆有受,諸識亦應非皆是觸。無如是失。因前位觸故,後觸位受生,故諸觸時皆悉有受,所有識體無非是觸。此不應理。何理相違?謂或有時二觸境別,因前受位觸生後觸位受。如何異境受從異境觸生?或應許受此心相應,非與此心同緣一境。既爾,若許有成觸,識是觸無受。於此位前有識有受而體非觸,緣差故然。斯有何過?若爾,便壞十大地法,彼定一切心品恒俱。彼定恒俱依何教立?依本論立。我等但以契經為量,本論非量,壞之何咎?故世尊言:當依經量。或大地法義非要遍諸心。若爾,何名大地法義?謂有三地:一有尋有伺地、二無尋唯伺地、三無尋無伺地。復有三地:一善地、二不善地、三無記地。復有三地:一學地、二無學地、三非學非無學地。若法於前諸地皆有,名大地法。若法唯於諸善地中有,名大善地法。若法唯於諸染地中有,名大煩惱地法。如是等法各隨所應更代而生,非皆並起。餘說如是大不善地法,因誦引來,是今所增益,非本所誦。若於觸後方有受生,經云何釋?如契經說:眼及色為緣生於眼識,三和合觸俱起受想思。但言俱起不說觸俱,此於我宗何違須釋?又於無間亦有俱聲,如契經說:與慈俱行修念覺支。故彼非證。若爾,何故契經中言:是受是想是思是識,如是諸法相雜不離,故無有識離於受等。今應審思,相雜何義?此經復說:諸所受即所思,諸所思即所想,諸所想即所識。未了於此,為約所緣、為約剎那作如是說?於壽與煖俱時起中,亦有如斯相雜言故,例知此說定約剎那。又契經言三和合觸,如何有識而非三和?或是三和而不名觸?故應定許一切識俱悉皆有觸,諸所有觸無不皆與受等俱生。傍論已終,應辯本義。頌曰:
論曰:六つの触(接触)から六つの受(感覚)が生じる。すなわち、眼触から生じる受から意触から生じる受までである。六つのうち、最初の五つは「身受」と呼ばれ、これは物質的な感官(色根)に基づくからである。意触から生じるものは「心受」と呼ばれ、心のみに基づくからである。では、受は触の後に生じるのか、それとも同時に生じるのか。
毘婆沙師(ヴァイバーシカ派)は同時に生じると説く。触と受は互いに「倶有因(共存する原因)」となるからである。しかし、二つの法(現象)が同時に生じることは可能だろうか。「能生(生み出す側)」と「所生(生み出される側)」という関係は成立しうる。なぜ成立しないのか?それは、すでに生じた法に対して他の法が作用する力を持たないからだ。この主張は、「二法が同時に生じるなら、能生と所生の関係は成立しない」という立場と同じであり、「すでに生じた法に他の法が作用できない」という点でも同じである。ならば、同じことを繰り返しても意味がないではないか。
もしそうなら、互いに生み出すという誤りが生じるだろう。しかし、我々はそれを認めているので誤りではない。我々の宗派では、触と受は「倶有因」であり、互いに結果ともなると認めるからである。あなた方もそれを認めるが、経典ではこの二つが互いに因果関係にあるとは説いていない。経典はただ「眼触を縁として、眼触から生じる受が生じる」と説く。しかし、「眼受を縁として、眼受から生じる触が生じる」と説く経典はない。また、この道理は不合理である。というのも、「能生の法」という概念を越えているからだ。ある法が別の法を生み出すと確立されているなら、それらの法の時間的な前後関係も確立されている。例えば、種が先で芽が後、乳が先で酪が後、打撃が先で音が後、意(心)が先で識が後のように、原因が先で結果が後ということは決して否認されない。
しかし、同時に因果関係が成立する場合もある。例えば、眼識と眼や色などは同時に存在する。四大元素(地・水・火・風)とそれらから作られる物質も同時に存在する。ここでも、先の感官と対象が縁となって後の識を発すると認める。先の四大元素の集合が後の所造色(派生物質)を生む。何がこれを否定できるだろうか?例えば、影と体が同時に存在するようなものだ。
ある説では、触の後に受が生じるとされる。すなわち、根(感官)と境(対象)が先にあり、次に識が起こる。この三つの和合が触と呼ばれる。そして第三の刹那(瞬間)に、触を縁として受が生じる。もしそうなら、識はすべて受を伴うわけではないし、すべての識が触であるわけでもないことになる。しかし、そのような誤りはない。なぜなら、前の瞬間の触によって、後の触の瞬間に受が生じるからである。したがって、すべての触の瞬間に受が伴い、すべての識は触である。しかし、この説は理にかなわない。なぜ矛盾するのか?時には、二つの触が異なる対象に関わることもある。前の受の瞬間の触が、後の触の瞬間の受を生むとするなら、異なる対象の受が異なる対象の触から生じることになる。あるいは、受はこの心と対応するが、同じ対象を縁とするわけではないと認めるべきだろう。そうならば、もし触が成立し、識が触であって受がない瞬間が認められるなら、その前の瞬間には識と受がありながら、その本体は触ではないことになる。それは縁の違いによる。これに何の過失があるだろうか?
もしそうなら、「十大地法(心に常に伴う十の作用)」が崩れてしまう。大地法はすべての心の働きに常に伴うとされるからである。しかし、その「常に伴う」ということは何の教えに基づくのか?「本論(アビダルマ論書)」に基づく。しかし、我々は経典を基準とすべきであり、本論は基準ではない。それを否定して何の誤りがあろうか?だから、世尊(ブッダ)は「経典を基準とせよ」と説かれたのである。あるいは、「大地法」という概念は、必ずしもすべての心に遍く存在するという意味ではない。では、「大地法」とは何を意味するのか?三つの地(領域)がある。すなわち、尋(粗い思考)と伺(微細な思考)がある地、尋はなく伺のみがある地、尋も伺もない地である。さらに三つの地がある。善の地、不善の地、無記(善でも不善でもない)の地である。さらに三つの地がある。有学(修行中の者)の地、無学(すでに悟った者)の地、有学でも無学でもない地である。ある法がこれらのすべての地に存在するなら、それを「大地法」と呼ぶ。ある法が善の地にのみ存在するなら、「大善地法」と呼ぶ。ある法が染汚(煩悩に染まった)の地にのみ存在するなら、「大煩悩地法」と呼ぶ。これらの法はそれぞれの条件に応じて交替で生じ、同時にすべてが起こるわけではない。
また、「大不善地法」という説は、後世の付加であり、もともとのテキストにはなかったものである。
もし触の後に受が生じるなら、経典の説をどう解釈するのか?例えば、経典には「眼と色を縁として眼識が生じ、三つの和合が触となり、それと共に受・想・思が生じる」とある。「共に生じる」とは説かれても、「触と共に」とは説かれていない。これは我々の宗派にとって何の矛盾もない。また、「無間(間断なく)」という場合にも「共に」という言葉が使われる。例えば、経典には「慈と共に行じ、念覚支を修する」とある。したがって、その経文は証拠にはならない。では、なぜ経典には「これが受、これが想、これが思、これが識である。これらの法は混ざり合い、分離しない。したがって、受などを離れた識は存在しない」と説かれているのか。
ここでじっくり考えるべきだ。「相雑(混ざり合う)」とは何を意味するのか?この経典はさらに「受けるところのものが、すなわち思うところのものであり、思うところのものが、すなわち想うところのものであり、想うところのものが、すなわち識るところのものである」と説く。これは「所縁(対象)」について言っているのか、それとも「刹那(瞬間)」について言っているのか。寿命と体温が同時に生じる場合にも、このような「相雑」という言葉が使われる。したがって、この経文は瞬間について語っていると確定できる。また、経典は「三和合触」と説く。識が三つの和合でないことがあるだろうか?あるいは、三つの和合でありながら触と呼ばれないことがあるだろうか?したがって、すべての識には常に触が伴い、すべての触は常に受などと共に生じると確定すべきである。
これらの付随的な議論はここまでとし、本義に戻ろう。偈頌に曰く、
此復成十八, 由意近行異。
これによってさらに十八種類が成立する。それは、意による近行(対象への関わり方)の違いによる。
論曰:於前略說一心受中,由意近行異,復分成十八。應知此復聲,顯乘前起後。此意近行十八云何?謂喜、憂、捨各六近行。此復何緣立為十八?若由自性應但有三,喜憂捨三自性異故。若由相應應唯有一,一切皆與意相應故。若由所緣應但有六,色等六境為所緣故。此成十八,具足由三。於中十五色等近行名不雜緣,境各別故。三法近行皆通二種。意近行名為目何義?傳說喜等意為近緣,於諸境中數遊行故。有說喜等能為近緣,令意於境數遊行故。如何身受非意近行?非唯依意故不名近,由無分別故亦非行。第三靜慮意地樂根,意近行中何故不攝?傳說初界意識相應無樂根故,又無所對苦根所攝意近行故。若唯意地,何故經言:眼見色已,於順喜色起喜近行,廣說如經。依五識身所引意地喜等近行,故作是說。如依眼識引不淨觀,此不淨觀唯意地攝。又彼經言眼見色已乃至廣說,故不應難。若雖非見,乃至觸已而起喜憂捨,亦是意近行。若異此者,在欲界中應無緣色界色等意近行。又在色界應無緣欲香味觸境諸意近行。見色等言隨明了說,見色等已於聲等中起喜憂捨亦意近行,隨無雜亂故作是說,於中建立根境定故。為有色等於喜等三,唯能順生一近行不?有就相續非約所緣。諸意近行中幾欲界繫?欲界意近行幾何所緣?色無色界為問亦爾。頌曰:
論じて曰く、先に略説した一心受の中に、意近行の違いによって、更に分けて十八となる。知るべきである、この「復」の声は、前を乗り越えて後を起こすことを示すと。この意近行の十八とは何か。謂わく、喜・憂・捨の各六近行である。この十八は、何を因縁として立てられるのか。もし自性によるならば、ただ三あるべきである。喜・憂・捨の三つは自性が異なるからである。もし相応によるならば、ただ一つあるべきである。全ては意と相応するからである。もし所縁によるならば、ただ六つあるべきである。色などの六境を所縁とするからである。この十八となるのは、三つを具足することによる。その中で、十五の色などの近行は、雑じらない所縁と名づける。境がそれぞれ別だからである。三つの法近行は、皆、二種に通じる。意近行という名は、何の義を目指すのか。伝えられるところでは、喜などは意を近縁として、諸々の境において数多く遊行するからであると言う。また、ある説では、喜などが能く近縁となり、意をして境において数多く遊行せしめるからであると言う。どうして身受は意近行ではないのか。唯に依るのでなく、故に「近」と名づけず、無分別であるが故に「行」でもない。第三静慮の意地の楽根は、意近行の中に、何故に摂められないのか。伝えられるところでは、初界の意識には楽根が相応しないからであり、また、苦根に摂められる意近行も無いからである。もし唯だ意地であるならば、何故に経に「眼に見る色已りて、順喜の色に於いて、喜近行を起こす。広く説くこと経の如し」と言うのか。五識身に依って所引の意地の喜などの近行によって、故にこの説を作すのである。例えば、眼識に依って不浄観を引く。この不浄観は唯だ意地に摂められる。また、彼の経に「眼に見る色已りて、乃至広説」と言うので、故に難ずべきに非ず。もし、見ずして、乃至触已りて、喜憂捨を起こすことも、亦是れ意近行である。もし、これと異なるならば、欲界に在りて、色界の色などを縁ずる意近行は無くなるべきである。また、色界に在りて、欲界の香味触の境を縁ずる諸意近行は無くなるべきである。色を見るなどの言は、明了に随って説く。色などを見己りて、声などの中に於いて喜憂捨を起こすことも、亦た意近行である。無雑乱に随って、故にこの説を作すのである。その中に根境の定めを建立するからである。色などが、喜などの三に於いて、唯だ一つの近行を順生するのみであることは有るか。相続に就くことは有るが、所縁に就くことではない。諸意近行中、幾つは欲界に繋属するのか。欲界の意近行は、幾つの所縁か。色無色界について問うことも、亦た同じである。偈に曰く、
欲緣欲十八, 色十二上三,
二緣欲十二, 八自二無色,
後二緣欲六, 四自一上緣,
初無色近分, 緣色四自一,
四本及三邊, 唯一緣自境。
欲界に縁するものは十八種、 色界に縁するものは十二種、そのうち上界(無色界)を縁するものが三種。
二つのものが欲界に縁するのは十二種、 そのうち八つは自界(色界)、二つは無色界を縁する。
後の二つのものが欲界を縁するのは六種、 そのうち四つは自界、一つは上界(無色界)を縁する。
最初の無色界の近分定は、 色界に縁するのが四種、そのうち一つは自界を縁する。
四つの根本定と三つの辺地定は、 ただ自らの境(自界)のみを縁する。
論曰:欲界所繫具有十八,緣欲界境其數亦然。緣色界境唯有十二,除香味六,彼無境故。緣無色境唯得有三,彼無色等五所緣故。說欲界繫已,當說色界繫。初二靜慮唯有十二,謂除六憂。緣欲界境亦有十二,除香味四,餘八自緣,二緣無色,謂法近行。三四靜慮唯六,謂捨緣欲界,境亦得有六。除香味二,餘四自緣,一緣無色,謂法近行。說色界繫已,當說無色繫。空處近分唯有四種,謂捨但緣色、聲、觸、法。緣第四靜慮,亦具有四種,此就許有別緣者說;若執彼地唯總緣下,但有雜緣法意近行。緣無色界唯一,謂法四根,本地及上三邊唯一,謂法但緣自境,無色根本不緣下故,彼上三邊不緣色故。不緣下義如後當辯。此意近行,通無漏耶?頌曰:
論じて曰く、欲界に属するものには十八の意近行があり、欲界の境を縁とするものもその数は同じである。色界の境を縁とするものは十二のみであり、香・味の六を除く。それは、それらの境が存在しないからである。無色の境を縁とするものは、ただ三つだけである。それは、無色には色などの五つの所縁が存在しないからである。
欲界に属するものを説き終えたので、次に色界に属するものを説く。初静慮と第二静慮には十二のみあり、憂の六を除いたものである。欲界の境を縁とするものもまた十二あり、香・味の四を除いたものである。残りの八は自らの境を縁とし、二つは無色を縁とする。すなわち法近行である。第三静慮と第四静慮には六のみあり、捨を縁とし、欲界の境を縁とするものも亦た六つある。香・味の二を除き、残りの四は自らの境を縁とし、一つは無色を縁とする。すなわち法近行である。
色界に属するものを説き終えたので、次に無色界に属するものを説く。空処近分には四種のみあり、捨のみが色・声・触・法を縁とする。第四静慮を縁とするものも、亦た四種を具える。これは、別に縁することを許す立場による説である。もし、その地はもっぱら下を総縁するのみであると執するならば、ただ雑染の法意近行があるのみである。
無色界を縁とするものは唯一、法と四根である。本地及び上の三辺は唯一、法のみが自らの境を縁とする。無色の根本地は下を縁としないからであり、上の三辺は色を縁としないからである。下を縁としないという意味は、後に弁じる通りである。
この意近行は、無漏のものにも通じるのであろうか。偈頌に曰く、
十八唯有漏。
十八は、ただ煩悩のある状態(有漏)のみです。
論曰:無意近行通無漏者,故言十八唯是有漏。誰成就幾意近行耶?謂生欲界,若未獲得色界善心,成欲一切;初二定八,三四定四;無色界一。所成上界皆不下緣,唯染污故。若已獲得色界善心未離欲貪,成欲一切;初靜慮十,餘說如前。初靜慮中唯成四喜,染不緣下香味境故。捨具成六,未至定中善心得緣香味境故。餘隨此理,如應當知。若生色界,唯成欲界一捨法近行,謂通果心俱。有說如是諸意近行,毘婆沙師隨義而立。然我所見經義有殊。所以者何?非於此地已得離染,可緣此境起意近行,故非有漏喜憂捨三皆近行攝。唯雜染者與意相牽數行所緣是意近行。云何與意相牽數行?或愛或憎、或不擇捨。為對治彼說六恒住,謂見色已不喜不憂,心恒住捨具念正智,廣說乃至知法亦爾。非阿羅漢無有世間緣善法喜,但為遮止雜染近行故作是說。又即喜等為三十六師句,謂為耽嗜出離依別。此句差別,大師說故。耽嗜依者,謂諸染受。出離依者,謂諸善受。如是所說受,有支中應知。義門無量差別,何緣不說所餘有支?頌曰:
論じて曰く、意近行は無漏にも通じるものもあるが、ここで言う十八種はただ有漏のみである。では、誰が幾つの意近行を成就するのか。例えば欲界に生まれた者が、まだ色界の善心を得ていない場合、欲界の一切の意近行を成就する。初禅と第二禅では八つ、第三禅と第四禅では四つ、無色界では一つを成就する。成就する上界の意近行はすべて下界の境を縁としない。なぜなら、それは染汚のみだからである。
もしすでに色界の善心を得ているが、まだ欲の貪りを離れていない者は、欲界の一切を成就する。初静慮では十を成就し、その他は先に述べた通りである。初静慮においては、ただ四つの喜の意近行のみを成就する。なぜなら、染汚心は下界の香りや味の境を縁としないからである。捨は六つを成就する。未至定においては、善心が香りや味の境を縁とし得るからである。その他はこの理に従い、しかるべく知るべきである。
もし色界に生まれた者は、ただ欲界の一つの捨の法近行のみを成就する。それは通果心と俱にあるものである。
ある者は、このように諸々の意近行は、毘婆沙師が義に随って立てたものだと説く。しかし、私の見るところでは経の意味には違いがある。なぜなら、この地においてすでに染を離れた者が、この境を縁として意近行を起こすことはありえないからである。ゆえに、有漏の喜・憂・捨の三つすべてが近行に摂せられるわけではない。ただ雑染なるもののみが意と相牽き、数々行じて所縁となる。これを意近行という。
どのように意と相牽き数々行ずるのか。あるいは愛し、あるいは憎み、あるいは選択せずに捨てるのである。それを対治するために六恒住が説かれた。すなわち、色を見てから不喜不憂であり、心は恒に住して捨を具え、念と正智をそなえる。広く説いて法を知るに至るまで同じである。阿羅漢に世間の善法を縁とする喜がないわけではない。ただ雑染の近行を遮り止めるために、このように説くのである。
また、この喜等が三十六師句となる。すなわち、耽嗜の依と出離の依とに別れるからである。この句の差別を大師が説かれたのである。耽嗜の依とは、諸々の染汚の受のことである。出離の依とは、諸々の善なる受のことである。
このように説かれた受は、有支の中において知るべきである。義の門には無量の差別があるのに、なぜ残りの有支を説かないのか。偈頌に曰く、
餘已說當說。
残りの教えについては、すでに説き終えた。また、これから説くべきことも、すでに説いた。
論曰:所餘有支,或有已說、或有當說,故此不論。此中識支如先已說,識謂各了別,此即名意處等。其六處支如先已說,彼識依淨色,名眼等五根等。行有二支,業品當說。愛取二支,隨眠品當說。此諸緣起略立為三,謂煩惱、業、異熟果事。應寄外喻,顯別功能。頌曰:
論曰:そのほかの縁起の支分については、すでに述べたものや、後で述べるものがあるため、ここでは論じない。 この中の「識支」はすでに説明した通りである。「識」とは各々を認識することを意味し、これは「意処」などと呼ばれる。 「六処支」もすでに説明した通りであり、それは認識のよりどころとなる清らかな物質的なものを指し、眼・耳・鼻・舌・身の五根などである。 「行」と「有」の二支は、業に関する章で述べられる。 「愛」と「取」の二支は、煩悩に関する章で述べられる。 これらすべての縁起は、大きく三つにまとめられる。すなわち、煩悩・業・異熟果という事柄である。 ここで、それぞれの機能を明確にするために、たとえ話を借りて説明しよう。 偈頌にはこうある。
此中說煩惱, 如種復如龍,
如草根樹莖, 及如糠裹米;
業如有糠米, 如草藥如花;
諸異熟果事, 如成熟飲食。
煩悩は、種や龍のようなもの、 草の根や木の幹のようなもの、 あるいは糠に包まれた米のようなものとして説かれています。
業(カルマ)は、糠がついた米や、 草薬や花のようなものです。
様々な異熟の果報というものは、 ちょうど料理が煮えて食べごろになるようなものです。
論曰:如何此三種等相似,如從種子芽葉等生?從煩惱生煩惱業事,如龍鎮池水恒不竭。煩惱鎮業生續無窮,如草根未拔苗剪剪還生。未拔煩惱根趣滅滅還起,如從樹莖頻生枝花果。從諸煩惱數起惑業事,如糠裹米能生芽等,非獨能生。或得裹業能感餘生,非獨能感。惑如種等應如是知。如米有糠能生芽等,業有煩惱能招異熟。如諸草藥果熟為後邊,業果熟已更不招異熟。如花於果為生近因,業為近因能生異熟。業如米等,應如是知。如熟飲食但應受用,不可復轉成餘飲食。異熟果事既成熟已,不能更招餘生異熟。若諸異熟復感餘生,餘復感餘應無解脫。事如飲食,應如是知。如是緣起煩惱業事,生生相續不過四有:中、生、本、死,如前已釋。染不染義三界有無,今當略辯。頌曰:
論じて曰く、どのようにこれら三種は等しく相似するのか。例えば、種子から芽や葉が生じるように。煩悩から煩悩の業(わざ)とその果報(異熟)が生じる。それは、龍が池に水をたたえて尽きることがないようなものである。煩悩が業をとどめて、生まれ変わりが尽きることがないのは、草の根を抜かずに苗を刈れば、また刈った跡から生えてくるようなものである。煩悩の根を抜かなければ、輪廻の苦しみは滅んでもまた起き上がる。これは、木の幹から枝や花や果実が次々と生じるようなものである。諸々の煩悩から、迷いの行為(惑業)という事象が幾度となく生じる。
これは、糠(ぬか)で包まれた米が、それだけで芽を生やす力を持つのではないように、あるいは、業をまとう(得)ことで次の生を感応するのであって、業そのものだけで感応するのではない、という道理と同じである。煩悩は種などのように理解すべきである。
米に糠があるから芽が生えるように、業には煩悩があるから次の生(異熟)を招くのである。
また、諸々の草や薬草は果実が熟した時をもって終わりとなるように、業の果報(異熟)が熟した後は、それ以上新たな業を招くことはない。
花が果実を生む直接の原因となるように、業もまた直接の原因となって果報(異熟)を生み出すのである。業は米などのように理解すべきである。
例えば、調理された食べ物は、ただ受けて享受するだけで、再び別の食べ物に変えることはできない。果報(異熟)という事象は、いったん成熟してしまうと、それ以上に別の生における果報を招くことはできない。もし、ある果報がさらに別の生を感応し、その別の生がまた別の生を感応するならば、解脱はありえないことになる。果報という事象(事)は、食べ物のように理解すべきである。
このようにして、縁起によって生じる煩悩・業・事(異熟)は、生々流転して、四つの生存(四有:中有、生有、本有、死有)を過ぎることがない。これはすでに前に説明したとおりである。それらが煩悩に染まっているか、染まっていないか、また三界における有無については、今ここ
於四種有中, 生有唯染污,
由自地煩惱, 餘三無色三。
四つの有(存在の状態)のうち、 生有(生まれる瞬間の状態)だけが、 その世界の煩悩に染まっている。 残りの三つの有(本有・死有・中有)は、 無色界では三つの状態にある。
論曰:於四有中生有唯染。由何煩惱?自地諸惑。謂此地生,此地一切煩惱染污此地生有。故對法者咸作是言:諸煩惱中無一煩惱於結生位無潤功能。然諸結生唯煩惱力,非由自力現起纏垢。雖此位中心身昧劣,而由數起或近現行引發力故,煩惱現起。應知中有初續剎那亦必染污,猶如生有。然餘三有一一通三,謂本、死、中三,各善染無記。於無色界除中有三,非彼界中有處隔別,為往餘處可立中有。頌中不說欲色二界,故知於中許具四有。有情緣起已廣分別,是諸有情由何而住?頌曰:
論じられています。「四有」のうち、生有には必ず煩悩が伴います。どの煩悩によるのでしょうか?それは、その生まれる地(生存世界)におけるすべての煩悩によります。つまり、ある地に生まれるとき、その地のすべての煩悩がその生有を汚染するのです。そのため、アビダルマの論師たちは皆、次のように言っています。「あらゆる煩悩の中で、結生(生まれ変わりの瞬間)において潤す(作用する)機能を持たない煩悩は一つもない」。しかし、結生はただ煩悩の力のみによって起こり、自力で現れる煩悩の現れや汚れによるものではありません。この瞬間、心と身体は弱く不明瞭ですが、繰り返し生じたり、最近の強い現れの引き起こす力によって煩悩が現れます。知っておくべきは、中有(中有存在)の最初の継続する瞬間もまた、必ず煩悩に染まっているということです。これは生有と同じです。しかし、残りの三つの有(本有、死有、中有)は三つの性質(善、悪、無記)をすべて持ちます。つまり、本有、死有、中有のそれぞれに善、悪、無記の状態があるということです。ただし、無色界(無色界)には、中有の三つの性質はありません。なぜなら、その世界には中有が存在するための場所的な隔たりがなく、他の場所へ移動するために中有が成立することがないからです。偈頌では欲界と色界について特に述べていないので、この二つの世界では四有すべてが認められていると理解すべきです。
有情の縁起について詳しく分別しましたが、では、これらの有情は何によって生存し続けるのでしょうか?偈頌は答えます。
有情由食住, 段欲體唯三,
非色不能益, 自根解脫故。
觸思識三食, 有漏通三界,
意成及求生, 食香中有起。
前二益此世, 所依及能依,
後二於當有, 引及起如次。
生きとし生けるものは「食」によって存在する。 「段食」は欲望の領域にあるものの身体においては、ただ三つの範疇に限られる。 物質でないもの(「触」「思」「識」)は、身体を益することができない。 なぜなら、それは六根そのものによる解脱(=認識作用)だからである。 「触」「思」「識」の三つの食は、煩悩があるものであり、三界にわたって存在する。 意生身、求生、食香(中有)は、中有(次の生への移行状態)において生じる。 前の二つの食(段食と触食)はこの世において役立つ。(身体という)所依と(心という)能依のために。 後の二つの食(思食と識食)は来世に対して、次第に「引き寄せ」と「生じさせる」働きをする。
論曰:經說:世尊自悟一法正覺正說,謂諸有情一切無非由食而住。何等為食?食有四種:一段、二觸、三思、四識。段有二種,謂細及麁。細謂中有食,香為食故。及天劫初食,無變穢故,如油沃砂散入支故。或細污虫嬰兒等食說名為細,翻此為麁。如是段食唯在欲界,離段食貪生上界故。唯欲界繫。香味觸三,一切皆為段食自體,可成段別而飲噉故,謂以口鼻分分受之。光影炎涼如何成食?傳說此語從多為論。又雖非飲噉,而能持身,亦細食所攝,如塗洗等。色亦可成段別飲噉,何緣非食?此不能益自所對根,解脫者故。夫名食者,必先資益自根大種,後乃及餘。飲噉色時,於自根大尚不為益,況能及餘,由彼諸根境各別故。有時見色生喜樂者,緣色觸生,是食非色。又不還者及阿羅漢解脫食貪,雖見種種上妙飲食而無益故。觸謂三和所生諸觸,思謂意業,識謂識蘊,此三唯有漏,通三界皆有。如何食體不通無漏?毘婆沙師作如是釋:能資諸有是其食義,無漏修生為滅諸有。又契經說:食有四種,能令部多有情安住,及能資益諸求生者。無漏不然,故非食體。言部多者,顯已生義,諸趣生已皆謂已生。復說求生為何所目?此目中有,由佛世尊以五種名說中有故。何等為五?一者意成,從意生故,非精血等所有外緣合所成故。二者求生,常喜尋察當生處故。三者食香,身資香食往生處故。四者中有,二趣中間所有蘊故。五者名起,對向當生暫時起故。如契經說:有壞自體起,有壞世間生。起謂中有。又經說:有補特伽羅已斷起結、未斷生結。於此經中廣說四句:離二界貪諸上流者為第一句,中般涅槃為第二句,諸阿羅漢為第三句,除前諸相為第四句。又部多者謂阿羅漢,餘有愛者說名求生。幾食能令部多安住?幾食資益求生有情?毘婆沙師說皆具四。諸有愛者亦由段食為緣資益令招後有,以世尊說四食皆為病癰箭根老死緣故。亦見思食安住現身。世傳有言:昔有一父,時遭飢饉,欲造他方。自既飢羸,二子嬰稚,意欲攜去力所不任,以囊盛灰挂於壁上,慰喻二子云是麨囊。二子希望多時延命,後有人至取囊為開,子見是灰望絕便死。又於大海有諸商人,遭難敗船飲食俱失,遙瞻積沫疑為海岸,意望速至命得延時,至觸知非望絕便死。《集異門足》說:大海中有大眾生,登岸生卵埋於砂內還入海中,母若常思卵便不壞,如其失念卵即敗亡。此不應然,違食義故。豈他思食能持自身?理實應言卵常思母得不爛壞,忘則命終。起念母思在於觸位,諸有漏法皆滋長有。如何世尊說食唯四?雖爾就勝說四無失。謂初二食能益此身所依能依,後之二食能引當有能起當有。言所依者,謂有根身,段食於彼能為資益。言能依者,謂心心所,觸食於彼能為資益。如是二食於已生有資益功能最為殊勝。言當有者,謂未來生,於彼當生思食能引。思食引已,從業所熏識種子力後有得起。如是二食於未生有引起功能最為殊勝。故雖有漏皆滋長有,而就勝能唯說四食。前二如養母,養已生故;後二如生母,生未生故。諸所有段皆是食耶?有段非食,應作四句。第一句者,謂所飲噉為緣損壞諸根大種。第二句者,謂餘三食。第三句者,謂所飲噉為緣資益諸根大種。第四句者,除前諸相。如是觸等隨其所應,一一當知皆有四句。頗有觸等為緣,資益諸根大種而非食耶?有,謂異地無漏觸等。諸有食已捐食者身亦名為食,初資益故。毘婆沙說:食於二時能為食事,俱得名食:一、初食時能除飢渴;二、消化已資根及大。何趣何生各具幾食?五趣四生皆具四食。如何地獄有段食耶?鐵丸洋銅豈非段食?若能為害亦是食者,則與前說四句相違。又《品類足》言:云何為段食?謂能資益諸根大種,廣說乃至識食亦爾。彼說且依能資益者說名為食,故不相違。然地獄中熱鐵丸等,雖於食已能為損害,而能暫時解除飢渴,得食相故亦名為食。又孤地獄段食如人。故五趣中皆有四食。世尊所說:有人能施一百外道離欲仙食,若能施一贍部林中異生者食,其果勝彼。何謂贍部林中異生?有作是釋:所有一切住贍部洲諸有腹者。彼釋非理,說一言故。又於此中有施無量異生者食,理勝以食施少外道離欲仙人,何足為奇挍量歎勝?有言:彼是近佛菩薩。理亦不然,施彼獲福,勝施俱胝阿羅漢故。毘婆沙者說:此異生是已獲得順決擇分。此名與義亦不相應,曾無契經或本論說,得順決擇分居贍部林中,當知彼唯自所分別。後身菩薩居贍部林名彼異生。此說應理,爾時菩薩同離欲仙,故對彼仙挍量歎勝,雖施菩薩福勝無邊。乘前挍量且言勝百,理必應爾。由後世尊除彼異生,還將外道對預流向挍量勝劣。若不爾者,世尊則應將彼異生對預流向。已說有情緣起及住。如先所說壽盡死等,今應正辯。何識現前何受相應有死生等?頌曰:
論じて曰く、経に説く、世尊は自ら一法を悟り、正覚し正しく説かれた。それはすなわち、すべての有情はみな食によって住するということである。何をか食となす。食に四種あり。一は段、二は触、三は思、四は識である。段に二種あり。細と麁とである。細とは中有の食をいい、香を食とするからである。また天の劫初の食も細であり、変穢がないからである。油を砂に注げば散じて支に入るようなものである。あるいは細汚虫や嬰児などの食も細と名づけ、これに反するものを麁とする。このように段食はただ欲界にのみあり、段食の貪を離れて上界に生まれるからである。ただ欲界に繋せられる。香・味・触の三は、すべてみな段食の自体となり、段別を成して飲啖することができるからである。すなわち口や鼻で分々に受けるのである。光・影・炎・涼はどのようにして食となるのか。伝説にこの語は多くを論じたものであるという。また飲啖するのでなくても、身を保つことができるならば、これも細食に摂められる。塗ったり洗ったりするなどである。色もまた段別を成して飲啖できるのに、何の原因で食でないのか。これは自ら対する根を益することができないからであり、解脱者はそうだからである。そもそも食と名づけるものは、必ずまず自らの根大種を資益し、その後で他のものに及ぶ。色を飲啖する時、自らの根大に対してすらなお益とならないのに、まして他に及ぶことができようか。それらの諸根の境はそれぞれ別であるからである。時に色を見て喜楽を生ずることは、色に縁する触から生じるのであって、食であって色ではない。また不還者および阿羅漢は食の貪を解脱しており、種々の上妙な飲食を見ても益がないからである。触とは三和の所生の諸触をいい、思とは意業をいい、識とは識蘊をいう。この三はただ有漏のみであり、三界に通じてすべてにある。どうして食の体が無漏に通じないのか。毘婆沙師はこのように釈する。諸有を資するのが食の意義であり、無漏は修生であり、諸有を滅するためである。また契経に説く、食に四種あり、多くの部多の有情を安住せしめ、および諸の求生を資益することができると。無漏はそうではない、ゆえに食の体ではない。部多と言うのは、すでに生じたという意義を顕す。諸趣に生じたものはみな已生という。また求生と言うのは何を目指すのか。これは中有を目指す。仏世尊は五種の名で中有を説いたからである。何をか五となす。一は意成、意より生じるからであり、精血などのすべての外縁が合して成るものではないからである。二は求生、常に当に生ずべき処を尋ね察することを喜ぶからである。三は食香、身は香の食を資として生処に向かうからである。四は中有、二趣の中間に所有する蘊であるからである。五は名起、当に生ずべきものに対して暫時起こるからである。契経に説くように、自体の壊れるものありて起あり、世間の壊れるものありて生あり。起とは中有をいう。また経に説く、ある補特伽羅はすでに起結を断じ、未だ生結を断じないと。この経の中で広く四句を説く。二界の貪を離れた諸上流者が第一句であり、中般涅槃が第二句であり、諸阿羅漢が第三句であり、前の諸相を除いたものが第四句である。また部多とは阿羅漢をいい、余有の愛あるものを求生と名づける。幾種の食が部多を安住せしめるか。幾種の食が求生の有情を資益するか。毘婆沙師は皆四つを具すると説く。諸有の愛ある者もまた段食を縁として資益され、後に有を招く。世尊は四食は皆病癰箭根老死の縁であると説いたからである。また思食が現在身を安住せしめるのを見る。世に伝えて言う、昔一人の父があり、時に飢饉に遭い、他方に赴こうとした。自らすでに飢えて羸せ、二人の子は嬰稚で、連れて行こうとしたが力が及ばない。囊に灰を盛り壁に掛けて、二人の子に、これは食囊であると慰め諭した。二人の子は希望して多くの時を延命したが、後に人が至り囊を取って開くと、子は灰だと見て望みが絶えて便ち死んだ。また大海に諸の商人があり、難に遭って船が破れ飲食ともに失い、遥かに積んだ沫を瞻て海岸と疑い、意に速やかに至ることを望んで命が延びたが、至って触れてそうでないと知り望みが絶えて便ち死んだ。集異門足に説く、大海の中に大衆生があり、岸に登って卵を生み砂の中に埋めてまた海に入る。母がもし常に思えば卵は便ち壊れず、もしその念を失えば卵は即ち敗亡すると。これはそうであるはずがない、食の義に違うからである。どうして他の思食が自らの身を保つことができようか。理実には卵が常に母を思うから爛壊せずに得て、忘れれば命終すると言うべきである。念を起こして母を思うのは触の位にある。諸の有漏法は皆よく有を滋長する。どうして世尊は食はただ四つと説いたのか。そうであっても勝れたるについて四つを説くのに失はない。初めの二つの食はこの身の所依と能依を益することができ、後の二つの食は当有を引くことができ当有を起こすことができる。所依と言うのは有根身をいい、段食はそれに対して資益となることができる。能依と言うのは心心所をいい、触食はそれに対して資益となることができる。このように二つの食は已生の有に対して資益の功能が最も殊勝である。当有と言うのは未来の生をいい、それに対して当に生ずる思食が引くことができる。思食が引き已れば、業に熏ぜられた識種子の力から後有が起こり得る。このように二つの食は未生の有に対して引起の功能が最も殊勝である。ゆえに有漏は皆よく有を滋長するけれども、勝能についてただ四食を説く。前の二つは養母のようであり、已生を養うからである。後の二つは生母のようであり、未生を生ずるからである。すべての段はみな食であるか。段ありて食に非ず、四句を作すべきである。第一句とは、飲啖する所のものを縁として諸根大種を損壊するものである。第二句とは、余の三食である。第三句とは、飲啖する所のものを縁として諸根大種を資益するものである。第四句とは、前の諸相を除いたものである。このように触などもそれに応じて、一一に皆四句があると知るべきである。およそ触などが縁となって諸根大種を資益して食でないものがあるか。ある。異地の無漏の触などである。すべて食已んで食を捐つる者の身もまた食と名づける。初めに資益したからである。毘婆沙に説く、食は二時に食の事をなすことができ、俱に食と名づけるに得る。一には初めて食する時、飢渴を除くことができ、二には消化し已って根および大を資する。何の趣、何の生にかそれぞれ幾つの食を具するか。五趣四生は皆四食を具する。どうして地獄に段食があるのか。鉄丸や洋銅は段食ではないのか。もし害をなすことができるものもまた食であれば、前の四句の説と相違する。また品類足に言う、いかんが段食となす。諸根大種を資益することができるものであり、広く説くが乃至識食もまた爾であると。それは且に資益することができるものに依って食と名づけると説く、ゆえに相違しない。しかし地獄の中の熱鉄丸などは、食し已って害をなすことができても、暫時飢渴を解除することができ、食の相を得るからまた食と名づける。また孤地獄の段食は人の如し。ゆえに五趣の中に皆四食がある。世尊の所説に、ある人は百の外道離欲仙に食を施すことができ、もし一の贍部林中の異生に食を施すことができれば、その果は彼に勝れる。何をか贍部林中の異生となす。あるいはこのように釈する、すべて一切贍部洲に住する諸の腹ある者であると。その釈は理に非ず、一言を説いたからである。またこの中に無量の異生に食を施す者があり、理は少ない外道離欲仙人に食を施すに勝れる、何ぞ奇と為すに足らん、挍量して勝を歎ずる。あるいは言う、彼は近仏の菩薩であると。理もまたそうではない、彼に施せば福を得ることは、俱胝の阿羅漢に施すに勝れるからである。毘婆沙の者は説く、この異生はすでに順決択分を得た者であると。この名と義もまた相応しない、かつて契経あるいは本論に、順決択分を得た者が贍部林中に居ると説いたことはない。まさに彼はただ自ら分別したものであると知るべきである。後身の菩薩が贍部林に居るのを彼の異生と名づける。この説はまさに理にかなう。その時菩薩は離欲仙と同じであるから、ゆえに彼の仙に対して挍量して勝を歎ずる。菩薩に施せば福は無辺に勝れるといえども、前の挍量に乗って且に百に勝ると言う。理は必ずそうであるべきである。後の世尊が彼の異生を除いて、還って外道を将って預流向に対し挍量して勝劣したからである。もしそうでなければ、世尊は則ち彼の異生を将って預流向に対すべきである。すでに有情の縁起および住を説いた。先に説いた所の寿尽死などのごとく、今まさに正しく弁ずべきである。何の識が現前し何の受と相応して死生などがあるのか。頌に曰く。
斷善根與續, 離染退死生,
許唯意識中, 死生唯捨受,
非定無心二, 二無記涅槃。
漸死足臍心, 最後意識滅,
下人天不生, 斷末摩水等。
善根が断たれることと、再び生じること、 また煩悩から離れても退き戻ること、 さらに死と生まれ変わりについては、 意識の中だけに許されている。
死と生まれ変わりにおいては、 ただ「捨受」だけが働いている。 心が定まっていない状態でもなく、 無心の状態でもない二つの状態、 「無記」の状態と涅槃においても同じである。
徐々に死ぬ場合、足の先か、臍か、心臓か、 いずれかの場所で最後の意識が消えていく。 下の世界に生まれ変わる者は、天には生まれない。 「末摩」(急所)を断つことや水などの説明もある。
論曰:斷善續善離界地染,從離染退命終受生,於此六位法爾唯許意識非餘。所說生言應知亦攝初結中有。死生唯許捨受相應,捨相應心不明利故,餘受明利不順死生。又此二時唯散非定,要有心位必非無心。非在定心有死生義,界地別故、加行生故、能攝益故。亦非無心有死生義,以無心位命必無損。若所依身將欲變壞,必定還起屬所依心然後命終,更無餘理。又無心者不能受生,以無因故,離起煩惱無受生故。雖說死有通三性心,然入涅槃唯二無記。若說欲界有捨異熟,彼說欲界入涅槃心亦具威儀異熟無記。若說欲界無捨異熟,彼說欲界入涅槃心但有威儀而無異熟。何故唯無記得入涅槃?無記勢力微順心斷故。於命終位何身分中識最後滅?頓命終者意識身根欻然總滅,若漸死者往下人天。於足齊心如次識滅,謂墮惡趣說名往下,彼識最後於足處滅;若往人趣識滅於臍,若往生天識滅心處。諸阿羅漢說名不生,彼最後心亦心處滅。有餘師說:彼滅在頂,正命終時於足等處身根滅故意識隨滅。臨命終時身根漸滅,至足等處欻然都滅。如以少水置炎石上,漸減漸消一處都盡。又漸命終者,臨命終時多為斷末摩苦受所逼。無有別物名為末摩,然於身中有異支節觸便致死,是謂末摩。若水火風隨一增盛,如利刀刃觸彼末摩,因此便生增上苦受,從斯不久遂致命終。非如斬薪說名為斷,如斷無覺故得斷名。地界何緣無斯斷用?以無第四內災患故。內三災患,謂風熱淡水火風增隨所應起。有說:此似外器三災。此斷末摩天中非有,然諸天子將命終時,先有五種小衰相現:一者衣服嚴具出非愛聲;二者自身光明忽然昧劣;三者於沐浴位水渧著身;四者本性囂馳今滯一境;五者眼本凝寂今數瞬動。此五相現非定當死。復有五種大衰相現:一者衣染埃塵;二者花鬘萎悴;三者兩腋汗出;四者臭氣入身;五者不樂本座。此五相現必定當死。世尊於此有情世間生住沒中建立三聚。何謂三聚?頌曰:
論じて曰く、善根を断ち、善根を続け、界や地の染汚を離れ、染汚から退き、命終し、受生する。この六つの場合において、法爾として唯だ意識のみが許され、他の識は許されない。ここでいう「生」という語には、最初に結生する中有も含まれると知るべきである。
死と生は、唯だ捨受と相応すると許される。捨受と相応する心は明利ではないからである。他の受は明利であり、死生には順わない。また、この二つの時は、唯だ散心であって定心ではない。必ず心のある位であり、無心ではありえない。定心にある者に死生の義はない。界地が異なるからであり、加行によって生じるからであり、摂益する力があるからである。また、無心の者に死生の義はない。無心の位では、寿命に必ず損ないがないからである。もし所依の身がまさに変壊しようとするならば、必ず還って所依の心を起こしてから命終するのであり、他の理はない。また、無心の者は受生することができない。因がないからであり、煩悩を起こさなければ受生がないからである。
死有は三性の心を通じると説くが、涅槃に入るのは唯だ二種の無記のみである。もし欲界に捨の異熟があると説くならば、その説では、欲界において涅槃に入る心もまた、威儀と異熟の無記を具える。もし欲界に捨の異熟がないと説くならば、その説では、欲界において涅槃に入る心は、ただ威儀のみあって異熟はないと説く。なぜ唯だ無記のみが涅槃に入ることを得るのか。無記の勢力は微細であり、心の断滅に順ずるからである。
命終の位において、どの身体の部分で識が最後に滅するのか。頓に命終する者は、意識と身根が忽然として総じて滅する。もし漸く死する者は、人天に向かって下る。足・臍・心の次第に従って、識が滅する。すなわち、悪趣に堕ちることを「下る」と説き、その識は最後に足の処で滅する。もし人趣に生まれるならば、識は臍において滅する。もし天に生まれるならば、識は心の処で滅する。諸々の阿羅漢は「不生」と説かれ、その最後の心もまた心の処で滅する。他の師は説く、その滅は頂にあると。
正に命終する時、足などの処において身根が滅し終わり、意識が随って滅する。臨終の時、身根は漸く滅し、足などの処に至って忽然として皆滅する。例えば、少ない水を熱した石の上に置くように、徐々に減じ徐々に消え、一つの処でことごとく尽きる。また、漸く命終する者は、臨終の時、多く末摩(まつま)が断たれる苦受に逼(せま)られる。別の物があって末摩と名づけるのではない。しかし身の中に異なる支節があり、それに触れると死に至る。これを末摩という。もし水・火・風の随一が増盛し、鋭利な刀刃の如く、その末摩に触れるならば、これによって増上の苦受が生じ、それより間もなく命終に至る。薪を切るように「断」というのではなく、例えば無覚を断つから「断」の名を得る。地界はなぜこのような断の作用がないのか。第四の内の災患がないからである。内の三災患とは、風・熱・淡(水)であり、水火風の増に従って、それぞれ起こる。ある説では、これは外の器の三災に似ているという。
この末摩の断は天には存在しない。しかし諸々の天子は、命終しようとする時、先に五種の小衰相が現れる。一には、衣服や荘厳の具から愛でない声を出す。二には、自身の光明が忽然として昧劣する。三には、沐浴の時に水の滴が身に留まる。四には、本性は騒がしく馳せていたが、今は一つの境に留まる。五には、眼は本来凝寂であるが、今は数多く瞬動する。この五相が現れても、必ずしも死ぬとは限らない。また五種の大衰相が現れる。一には、衣に埃が染まる。二には、花鬘が萎れ縮む。三には、両腋に汗が出る。四には、臭気が身に入る。五には、本の座所を喜ばない。この五相が現れれば、必ず死ぬ。
世尊は、この有情世間の生・住・没の中において、三聚(さんじゅ)を建立された。三聚とは何か。偈に曰く、
正邪不定聚, 聖造無間餘。
正邪は定まらず、不定の聚まり。 聖者が作りし無間と余という境地。
論曰:一正性定聚、二邪性定聚、三不定性聚。何名正性?謂契經言:貪無餘斷,瞋無餘斷,癡無餘斷。一切煩惱皆無餘斷,是名正性。定者謂聖,聖謂已有無漏道生,遠諸惡法故名為聖,獲得畢竟離繫得故。定盡煩惱,故名正定。諸已獲得順解脫分者,亦定得涅槃,何非正定?彼後或墮邪定聚故。又得涅槃時未定故,非如預流者極七返有等。又彼未能捨邪性故,不名正定。何名邪性?謂諸地獄、傍生、餓鬼,是名邪性。定謂無間,造無間者必墮地獄,故名邪定。正邪定餘,名不定性。彼待二緣,可成二故。
論曰:一、正性定聚、二、邪性定聚、三、不定性聚。
「正性」とは何か──経典に説くところによれば「貪欲が余すところなく断たれ、瞋りが余すところなく断たれ、無知が余すところなく断たれる。一切の煩悩が余すところなく断たれる。これを正性と名づける」とあります。「定」とは聖を意味します。聖とは、すでに無漏の道が生じた者であり、諸々の悪法から遠ざかっていることから「聖」と呼ばれ、最終的な解脱の繋がりを得ているからです。必ず煩悩を尽くすことから「正定」と名づけられます。
では、すでに解脱の素質を持つ者は必ず涅槃を得るのに、なぜ正定に数えられないのか──彼らは後に邪定聚に堕ちることもあるからです。また、涅槃を得る時期が定まっていないからです。預流果のように「最長で七回の輪廻を経て必ず涅槃に至る」といった確定がないのです。さらに、彼らは邪なる性質をまだ捨てていないため、正定とは呼ばれません。
「邪性」とは何か──地獄・畜生・餓鬼の三悪趣をいいます。「定」とは無間の業を意味し、無間業を造った者は必ず地獄に堕ちるため「邪定」と名づけます。
正定と邪定のどちらでもない残りの衆生を「不定性」と名づけます。彼らは二つの縁に従って、いずれの状態にもなり得るからです。
說一切有部俱舍論卷第十
説一切有部倶舎論 巻第十