ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 成実論 (成實論)
  2. 第三 (第三)
  3. 苦諦聚
  4. 色論
  5. 44 四大相品
←と→
矢印キーでページをめくれます

成実論 (成實論)


四大相品第四十四

四大相品 第四十四

問曰:我知有是堅法,而今見金熱則流,水寒成氷,此金以堅故屬地、流故屬水。答曰:各自有相,若法堅依堅是地種,若濕依濕是水種等。

問い:私は、この堅いという法があることを知っています。しかし、今、金は熱すれば流れ、水は寒ければ氷になると見ています。この金は、堅いがゆえに地に属し、流れるがゆえに水に属するのです。答え:それぞれに自らの相があります。もし法が堅さに依存して堅いのであれば、それは地という種です。もし湿りに依存して湿っているのであれば、それは水という種です。

問曰:金堅則為消流,水濕則為堅氷,云何諸大不捨自相?如經說:四大相或可變,得四信者不可得異。答曰:我不以堅為流、以濕為堅,但堅與流為因、濕與堅為因,是故不捨自相。

問い:金は堅いのに溶けて流れることがあり、水は湿っているのに固い氷になることがあります。それなのに、なぜ四大はそれぞれ自らの相を捨てないのでしょうか。経に説かれているとおりです。四大の相は変わりうることがあっても、四信を得た者は異なるものを得ることはありません。

答え:私は堅さをもって流れとしたり、湿りをもって堅さとしたりしているのではありません。ただ堅さが流れの原因となり、湿りが堅さの原因となるのです。それゆえ、それぞれ自らの相を捨てないのです。

問曰:阿毘曇中說濕是水相,或有人說流是水相,經中說潤是水相,竟以何者為實?答曰:流、濕、潤皆是水之別名。

問い:阿毘曇では湿が水の相であると説かれ、ある人は流が水の相であると言い、経では潤が水の相であると説かれています。いったい何を実とするのでしょうか。答え:流・湿・潤は、いずれも水の別名です。

問曰:流是水業,眼所見法,是故流非濕潤。答曰:以濕潤故流,是故赴下,是故流即是潤。亦濕潤是水相,流是水業。

問い:流れは水の働きであり、目に見える対象です。それゆえ、流れは湿潤ではありません。

答え:湿潤であるからこそ流れ、それゆえ低きへと向かいます。したがって、流れとはすなわち湿潤です。また、湿潤は水の相であり、流れは水の働きです。

問曰:風中說輕動相,輕異動異,輕是觸入所攝,動是色入所攝,今可以二法為風耶?答曰:輕是風相,動是風業,與業合說。

問:風についての説明の中で「軽やかで動く」という相が説かれ、軽と動は異なり、軽は触入に属し、動は色入に属します。ここで二つの法をもって風とすることはできるのでしょうか。答:軽は風の相であり、動は風の業です。業と合わせて説いているのです。

問曰:無有動相,諸法念念滅,故不至餘處。以至餘處故名曰動,至、去、動是一義故。答曰:我但以世諦故說名為業,非第一義。因是輕法,餘處法生,得名為業,爾時名去。

問い:動きという相はありません。もろもろの法は念念に滅するので、他の処に至ることはありません。他の処に至るからこそ、これを動と名づけるのであり、至ること・去ること・動くことは同一の意味だからです。

答え:私はただ世諦(世俗の真理)によって業と名づけて説くだけであって、第一義(究極の真理)によるのではありません。この軽い法が原因となって、他の処に法が生じるので、これを業と名づけることができ、その時には去ると名づけるのです。

問曰:輕無定相。所以者何?以相待故有,如十斤物於二十斤為輕,於五斤為重。答曰:重法、量法、因心等法亦相待有,如或有法相待故長、或有法相待故短,總相因心故,即為別相。若輕法以相待故無,是等亦應皆無,而不然,是故相待非是正因。又輕非相待故有,以不可稱故,有物不可稱,如排囊中風,是故非相待有。但重法相待,無有重物不可稱者。

問い:軽さには定まった相がないと。なぜでしょうか。相対的な関係によるからです。たとえば十斤の物は二十斤に対しては軽く、五斤に対しては重いのです。

答え:重さの法、量の法、心によるなどの法もまた、相対的な関係によって存在します。たとえば、ある法は相対的な関係によって長く、ある法は相対的な関係によって短いのです。総相は心によるため、すなわち別相となります。もし軽さの法が相対的な関係によるために無いのであれば、これらもすべて無いことになるはずですが、そうではありません。したがって、相対的な関係は正しい根拠ではないのです。

また、軽さは相対的な関係によるから存在するのではありません。称えることができないからです。称えることのできない物があります。たとえば、ふいごの中の風のようなものです。したがって、相対的な関係による存在ではないのです。ただ重さの法だけが相対的な関係にあり、重い物で称えることができないものはありません。

問曰:若不可稱名為輕者,除重,餘色等法不可稱故皆應為輕。而不然,是故汝所說非是輕相。答曰:我等意離色等更無異法名為重。色等法或有生性可稱,如堅不堅、力無力、新故、朽不朽、消不消、麁軟等,亦不離色等而有,重相亦如是。是色等眾若屬地水,是則可稱;若屬風火,則不可稱。

問:もし「重」に対して「軽」という名を当てられないのなら、「重」(重いもの)を除いた残りの色などの法は計ることができないので、すべて「軽」ということになるはずです。しかしそうはなりません。したがって、あなたが説くところのものは「軽」の相ではありません。答:私たちの考えでは、色などを離れて別に「重」と名づけるような法はありません。色などの法には、あるものは生じる性質を持ち、計ることができます。たとえば、堅い・堅くない、力がある・力がない、新しい・古い、朽ちる・朽ちない、消える・消えない、粗い・柔らかいなども、色などを離れて存在するのではありません。「重」の相もまた同様です。その色などの集まりが地や水に属するものであれば、計ることができます。風や火に属するものであれば、計ることはできません。

問曰:若重法不離色等者,輕亦應不離色等而有。答曰:然離色等無別輕法,但色等眾和合為輕。

問い:もし重さという法が色などから離れていないのなら、軽さもまた色などから離れて存在しないはずです。

答え:その通りです。色などから離れて別に軽さという法があるのではなく、ただ色などの諸要素が和合したものが軽さなのです。

問曰:不然,欲分別輕重必以身根,是故輕重非是色等眾。答曰:如分別堅等,或以眼或以耳等,此堅等物不離色等,輕重亦如是,雖用身根,是中更無異相。又身根不觸,不生身識。是重相身雖未觸,亦能生識,如重物雖以物裹持亦知其重。

問い:そうではありません。軽重を分別するには必ず身根を用いるのですから、軽重は色などの諸要素ではないのです。

答え:堅さなどを分別する場合、あるいは眼によって、あるいは耳などによって行いますが、この堅さなどの物は色などを離れていません。軽重もまた同じです。身根を用いるとはいえ、そこに別の相があるわけではありません。また、身根が触れなければ、身識は生じません。しかし重いという相は、身がまだ触れていなくても識を生じることができます。たとえば重い物は、物で包んで持っていても、それが重いと分かるようなものです。

問曰:非於爾時知是重相。答曰:如人著衣,雖不相觸,亦知有力無力。輕重亦爾。所以者何?從種種觸生種種身識,如或因按掐生堅軟識、或從舉動生輕重識、或從把捉生強弱識、或從觸對生冷熱識、或從摩捫生澁滑識、或從擠搦生強濯識、或從劖刺或因鞭杖生異種識。或有觸常在身內,非如寒熱等從外假來,所謂猗樂、疲極不疲極、若病若差、身利身鈍、嬾重、迷悶、瞪瞢、疼痺、嚬呻、飢渴飽滿、嗜樂不樂、懵等諸觸,各生異識。

問い:その時には重い相であると知ることができないのではないでしょうか。答え:たとえば人が衣を着ているとき、たとえ触れ合っていなくても、力があるかないかを知ることができます。軽いか重いかも同じです。なぜでしょうか。さまざまな触れ方からさまざまな身識が生じるからです。たとえば、あるいは押したりつねったりすることから堅いか軟らかいかの識が生じ、あるいは持ち上げたり動かしたりすることから軽いか重いかの識が生じ、あるいは握りしめることから強いか弱いかの識が生じ、あるいは触れ合うことから冷たいか熱いかの識が生じ、あるいは撫でさすることからざらつくか滑らかの識が生じ、あるいは押しもむことから強く濯ぐような識が生じ、あるいは刺したり鞭や杖で打ったりすることから異なった種類の識が生じます。また、常に身内にあって、寒熱などのように外から借りて来るものではない触れ方があります。いわゆる快い楽、疲れているか疲れていないか、病んでいるか治っているか、身体が利発か鈍いか、だるく重いこと、迷い悶えること、ぼんやりすること、疼きしびれること、顔をしかめてうめくこと、飢え渇きや満ち足りること、好ましく思うか思わないか、朦朧とすることなど、これらのさまざまな触れ方が、それぞれ異なった識を生じるのです。

問曰:若輕重相即色等眾者,云何於色等中以身識緣?答曰:非色等眾中用身識緣,但此中觸分以身識緣。如堅不堅等雖在色等眾中,或以眼見得知。又如猗樂等是色等眾,亦以身識分別。是事亦爾。

問:もし軽重が互いに即ち色などの衆であるならば、どのようにして色などの中で身識によって縁じるのでしょうか。答:色などの衆の中で身識によって縁じるのではありません。ただし、ここでは触の部分を身識によって縁じます。堅い・堅くないなどは色などの衆の中にあっても、あるいは眼によって見て知ることができます。また、快さ・楽などは色などの衆でありながら、身識によっても分別されます。このこともまた同様です。

問曰:若輕重但是觸有何咎?何用分別色等眾為?答曰:如世人說新穀陳穀,是新陳相應異色等,而實不爾,但色等初生名為新。若此新相是色等眾,重相云何非耶?

問い:もし軽い・重いということがただ触のみに関わるのなら、どんな過失があるのでしょうか。どうして色などの諸法を分別する必要があるのでしょうか。

答え:たとえば世間の人が新穀・陳穀と言うとき、この新・陳という相は色などとは異なっているように対応していますが、実際はそうではありません。ただ色などが初めて生じたことを新と名づけるだけです。もしこの新という相が色などの諸法であるなら、重という相もどうしてそうでないことがありましょうか。

問曰:若色等眾即是輕重等者,是輕相在火風中,則輕多色等眾應名為風。若然,火即為風。答曰:隨相多者即名為大。火中亦有輕熱相,以熱多故名為火,不以輕多故名火。風中但有輕無熱,是故但以輕為名。又我等不但以輕為風,若輕而能為動因故名為風。如經中說:輕動相名風。於是中,輕相是風、動是風業。

問い:もし色などの諸要素がすなわち軽や重などであるならば、この軽い相が火と風の中にあることになり、軽さが多くある色などの諸要素は「風」と名づけられるはずです。もしそうなら、火もすなわち風になってしまいます。答え:相の多いものに従って、それを大と名づけます。火の中にも軽い相と熱い相があり、熱さが多いために火と名づけられ、軽さが多いために火と名づけられるのではありません。風の中にはただ軽さだけで熱さがありません。それゆえただ軽さによって名づけられます。また、私たちはただ軽さだけによって風とするのではありません。軽くて、しかも動きの原因となれるものを風と名づけます。経の中に説かれているように、軽く動く相を風と名づけます。このうち、軽い相は風であり、動きは風の業です。

問曰:風能倒山,若是輕物云何能爾?答曰:風麁而力強,勢能如是。如或有風能動小草、或能頹山,當知風業如是。

問:風は山を倒すことができるのに、もし軽いものであるなら、どうしてそのようになれるのでしょうか。

答:風は粗く力が強いので、その勢いはこのようになれるのです。ある風は小さな草を動かすことができ、ある風は山を崩すことができます。風の業とはこのようなものだと知るべきです。

問曰:今地等大皆是色香味觸眾,無差別耶?答曰:不定。如名地中有色香味觸,或但有色觸,如金銀等。或水中有色香味觸,或有三色味觸。或火中有色香味觸,或有三色香觸,或但色觸。風中或有觸無香,或有香觸。是故不定。

問い:今、地などの四大は皆、色・香・味・触の集まりであって、区別はないのでしょうか。

答え:一定ではありません。たとえば「地」と名づけられるものの中には、色・香・味・触を備えるものもあれば、ただ色と触だけをもつものもあります。金や銀などがそれです。また「水」の中には、色・香・味・触を備えるものもあれば、色・味・触の三つを備えるものもあります。また「火」の中には、色・香・味・触を備えるものもあれば、色・香・触の三つを備えるものもあり、ただ色と触だけのものもあります。「風」の中には、触はあっても香のないものもあれば、香と触を備えるものもあります。ですから一定ではないのです。

問曰:風觸云何?答曰:寒熱堅軟等諸觸,若隨大相續不離,可知即此大觸。

問い:風の触れ合いとはどのようなものでしょうか。答え:寒・熱・堅・軟などの諸々の触れ合いが、四大の相続に従って離れずに伴う場合、それがすなわち四大の触れ合いであると知ることができます。

問曰:有醫言風色黑。是實云何?答曰:風與黑色為因,如風病人口中有辛苦味。而此醫不說風中有味,則風與味為因。

問い:ある医者が「風は黒い色である」と言います。これは本当でしょうか。

答え:風は黒い色の原因となるものです。たとえば、風の病にかかった人の口の中には苦く辛い味がします。しかしこの医者は風の中に味があるとは言いませんが、それでも風は味の原因となっているのです。

問曰:或有人說風是冷,不說為輕。是實云何?答曰:無有名冷為風,如氷雪有冷不名為風。又風冷名異。所以者何?如熱風及不冷不熱風亦名為風,是故應依輕眾名為風。又無色觸等法生名為風,非冷為風。

問い:ある人は風は冷たいものであると言い、軽いものだとは言いません。実際はどうなのでしょうか。答え:冷たいものを風と名づけることはありません。氷や雪に冷たさがあっても、それを風とは名づけません。また、風と冷たさは名前が異なります。なぜでしょうか。熱い風や、冷たくも熱くもない風も風と呼ばれるからです。したがって、軽さを多くの性質とするものを風と名づけるべきです。また、色も触もない諸法が生じることを風と名づけますのであって、冷たさが風なのではありません。

問曰:風有色味,有何咎?答曰:風中色味不可得。若言雖有,以微細故不可得者,心中亦應憶想分別謂有色味,是事不然。又我等不說因中有果,是故若事果中可得,不必因中先有,是名成四大實。

問い:風に色や味があるとして、どのような過ちがあるのでしょうか。答え:風の中に色や味は得られません。たとえ有ると言っても、微細であるために得られないというのなら、心の中でもまた色や味があると思い計るはずですが、そうではありません。また、私たちは因の中に果があるとは説きません。ですから、ある事柄が果の中に得られるとしても、必ずしも因の中に先にあるとは限りません。これが四大の実在を成立させることです。

成實論卷第三

『成実論』巻第三


43 有堅相品
45 根假名品

CBETA コード: T1646

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません