---
title: "成實論 · 131 邊見品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmbmc27rd00ohl404qpagh7vp"
---

### 邊見品第一百三十一

> 辺見品 第百三十一

若說諸法或斷或常，是名邊見。有論師言，若人說我若斷若常，是名邊見，非一切法。所以者何？現見外物有斷滅故。經中說：有見名常，無見名斷。又身即是神，名為斷見。身異神異，是名常見。又死後不作名曰斷見，死後還作名為常見。死後亦作亦不作，是中所有作者名常，所不作者名斷。非作非不作亦如是。

> もし「すべてのものは断滅する」とか「永遠に続く」と言うなら、これは「辺見」（偏った見解）と呼ばれます。ある論師は言います、「もし人が『我は断滅する』とか『我は永遠に続く』と言うなら、それが辺見であり、すべての法について言うのではない。なぜなら、外の物が断滅するのを現に見ることができるからだ」と。経典にはこう説かれています。「存在するという見解を『常』と名づけ、存在しないという見解を『断』と名づける」。また、身体そのものが神（我）であるという見解を断見と呼び、身体と神が別々であるという見解を常見と呼びます。また、死後に何も生じないという見解を断見と呼び、死後に再び生じるという見解を常見と呼びます。死後に生じることもあり、生じないこともあるという場合、その中の「生じる」という部分を常と名づけ、「生じない」という部分を断と名づけます。生じるのでもなく、生じないのでもないという場合も、同じように理解すべきです。

問曰：是第四不應名見。答曰：是人於世諦中亦無人法，故名為見。常無常邊無邊等四句亦如是。又經中說：六觸入盡滅，有異餘即為常，無異餘即名斷。又若見我先作，後當更作，是名常見；我先不作，後不更作，是為斷見。又《邪見經》說：人身七分，地、水、火、風、苦、樂、壽命。若其死時，四大歸本，根歸虛空。又說：以刀輪害眾生，積為肉聚無殺生罪，是名斷見。及《梵網經》中說斷見相，若言有後世，作者即是受者，是名常見。

> 問い：この第四は「見」と名づけるべきではないのではないか。 答え：この人は世俗の真理の上でも、人も法も実体としては存在しないと観じているから、「見」と名づけるのである。常と無常、辺と無辺など四句についても、同じように解すべきである。 また経典にはこう説かれている。「六つの触入が尽き滅するとき、それとは別の何かが残って常であると言うのは『常見』であり、別の何かが残らないで断滅するというのが『断見』である」と。 さらに、もし「私が過去に作り、未来にもまた作るであろう」と観じるならば、それは常見であり、「私は過去に作らず、未来にも作らないであろう」と観じるならば、それは断見である。 また『邪見経』にはこう説かれている。「人の身体は七つの部分から成る。地・水・火・風・苦・楽・寿命である。人が死ぬとき、四大はその本源に帰し、諸根は虚空に帰する」と。 また、「刀の輪で衆生を害しても、それが積もって肉の塊となるだけで、殺生の罪はない」と説くのも、断見と呼ばれる。 さらに『梵網経』において説かれる断見の相、および「後世があると説き、作った者がまさに受ける者であると説く」のが常見であるとされる。

問曰：斷常見云何生？答曰：隨以何因緣說，死後還作是因緣，故生常邊見。隨以何因緣說，死後不作是因緣，故生斷滅見。

> 問う：断見と常見はどのように生じるのですか？ 答える：どのような因縁に基づいて説くかによって異なります。もし「死後もこの因縁によって再び生じる」と説くならば、そこから常見が生じます。もし「死後はこの因縁によって再び生じない」と説くならば、そこから断滅見が生じます。

問曰：此見云何斷？答曰：正修習空則無我見，我見無故則無二邊。如《炎摩伽經》中說：若一一陰非人，和合陰亦非人，離陰亦非人。現在如是不可得，云何當說阿羅漢死後不作？故知人不可得。人不可得故，我見及斷常見亦無。又見諸法從眾緣生，則無二邊。又如說：見世間集則滅無見，見世間滅則滅有見。又行中道故則滅二邊。所以者何？見諸法相續生則滅斷見，見念念滅則滅常見。又說：五陰非即是人，亦不離陰是人，故知非常非斷。能得異身故不得為一，俱是眾生故不得為異。又五陰相續故，有眾生生死，是中不得言即，以是相續異故，亦不得言異，以相續中可說一故。又從此陰彼陰異故不得言常，從自相續因緣力生故不得言斷。

> 問う：この見解はどのようにして断ち切るのか。答え：正しく空を修習すれば、我見は存在しない。我見が無いゆえに、二つの極端も存在しない。例えば『炎摩伽経』に説かれる通り、一々の五蘊（ごうん）が人ではないならば、和合した五蘊もまた人ではない。五蘊から離れたものも人ではない。現在においてもこのように得ることができないのに、どうして阿羅漢が死後に存在しないと説くことができようか。したがって、人が得られないことを知る。人が得られないゆえに、我見および断見・常見もまた存在しない。また、諸法が縁によって生じるのを見れば、二つの極端は存在しない。さらに説かれる通り、世間の集まりを見れば無見は滅し、世間の滅びを見れば有見は滅する。また中道を行ずるゆえに、二つの極端は滅する。なぜか。諸法が相続して生じるのを見れば断見は滅し、念念に滅するのを見れば常見は滅する。さらに説かれる通り、五蘊はすなわち人ではなく、また五蘊を離れて人がいるのでもない。したがって、常ならず断ならざることを知る。異なる身を得ることができるゆえに、一つとすることはできず、ともに衆生であるゆえに、異なるとすることもできない。また五蘊が相続するゆえに、衆生の生死がある。ここにおいて、「すなわち同じである」と言うことはできない。その相続が異なるゆえに、「異なる」と言うこともできない。相続の中において一つと説くことができるからである。また、この蘊と彼の蘊とが異なるゆえに、「常」と言うことはできず、自己の相続という因縁の力によって生じるゆえに、「断」と言うこともできない。