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title: "成實論 · 132 邪見品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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### 邪見品第一百三十二

> 邪見品 第132

若實有法而生無心，是名邪見，如言無四諦、三寶等。經中說邪見，謂無施無祠無燒、無善無惡無善惡業報、無今世無後世、無父母無眾生受生，世間無阿羅漢正行正至自明了證此世後世，知我生盡、梵行已成、所作已辦，從此身已更無餘身者。施，名為利他故與。祠，名以韋陀語言因天故祠。燒，名於天祠中燒蘇等物。善，名能得愛果三種善業。惡，名得不愛果三種惡業。善惡業報，名今世善惡名等，及天身等後世報。今世名現在，後世名未來。父母名能生。眾生受生，名從今世至後世。阿羅漢，名盡煩惱者，謂無此事，故名邪見。又眾生垢淨、有知見無知見皆無因緣，又無力無勇及此果等，名為邪見。取要言之，所有倒心皆名邪見。如無常常想、苦為樂想、不淨淨想、無我我想，非勝勝想、勝非勝想，淨道非淨想、非淨道淨想，無中有想、有中無想。如是等諸顛倒心，謂阿毘曇中五見，《梵網經》中六十二見，皆名邪見。

> ここに実に存在する法（ものごと）があるのに、心が生じないと考えるならば、これを邪見（誤った見解）という。例えば、四諦や三宝などは存在しないと言うようなものである。 経典の中で説かれる邪見とは、施しもなく、祭祀もなく、火供養もなく、善もなく、悪もなく、善悪の業報もなく、この世もなく、後の世もなく、父母もなく、衆生の受生（生まれ変わり）もなく、世の中に阿羅漢（煩悩を滅し尽くした聖者）の正しい行い・正しい到達・自ら明らかにして証得することがなく、この世と後の世を知り、「我が生は尽き、梵行（清らかな修行）はすでに成り、なすべきことはすでに成し遂げ、この身をもって以後、さらなる余身はない」と知る者もない、と考えることである。 施しとは、他の者の利益のために与えることをいう。祭祀とは、ヴェーダの言葉によって天のために祭ることをいう。火供養とは、天の祠の中で酥（ぎゅう）などの物を焼くことをいう。善とは、愛（うるわ）しい果報を得ることができる三種の善業をいう。悪とは、愛しくない果報を得る三種の悪業をいう。善悪の業報とは、この世における善悪の名称などと、天の身などの後の世における報いをいう。この世とは現在をいい、後の世とは未来をいう。父母とは、生み育てる者をいう。衆生の受生とは、この世から後の世へと至ることをいう。阿羅漢とは、煩悩を尽くした者をいう。これらは無いと考えるから、邪見というのである。 また、衆生の汚れと清らかさ、あるいは知る見解があることもないことも、すべて因縁がなく、また力もなく、勇気もなく、およびこれらの果報もない、と考えるのが邪見である。 要約していえば、すべての顛倒（ひっくり返った）した心が邪見なのである。例えば、無常を常と思い、苦を楽と思い、不浄を浄と思い、無我を我と思うこと。また、勝れたものでないものを勝れたものと思い、勝れたものを勝れたものでないと思い、清らかな道を清らかでないと思い、清らかでない道を清らかだと思うこと。無いのに有ると思い、有るのに無いと思うこと。このような様々な顛倒した心をいう。阿毘曇（論蔵）の中の五見、『梵網経』の中の六十二見も、すべて邪見と名づける。

問曰：是邪見云何生？答曰：以癡故生。染著非因以因，故邪見生。又以染著樂因故說無苦，又失空道故說無苦。以無受苦者故，若說世間萬物無因無緣，或說因自在等不因於愛，是名無集。隨以何因緣說無泥洹，或異說泥洹是名無滅，若無泥洹道何所至耶？或說更有異解脫道，謂斷食等，是名無道。無佛者，是人言：諸法無量，云何一人能盡知耶？或生是念：佛為人中之尊，以無人故，當知無佛；無煩惱盡，故名無法；無有正行得此法者，故曰無僧。以布施現果不可得故，謂無布施。又有經書說無布施，比知亦不決定，世間有好布施者而更貧窮、有慳貪者而得富貴，以是等因故說無施。無祠、無燒亦如是。若火燒物為灰，是中有何等果？無善惡無善惡業報者言：若神是常則無善惡，若神無常則無後世，無後世故則無善惡、無善惡業報、無今世者，分析諸法終歸都無。無後世者，隨以死後不作因緣故，謂無後世。無父母者，亦以分分析之令盡。又說，如因糞生虫，糞非虫父母。又頭等身分，非即父母身分。又諸法念念滅故，以何為父母耶？無眾生受生者，眾生法無故，今世尚無，況能受身。又思惟言：是眾生為是身耶、為非身耶？若是身者，眼見此身埋則為土、燒則成灰、虫食為糞，故無受生。非身則有二種，若心、若離心。若是心者，心法生滅念念不住，況至後身。若離心則不計我，於他心中尚不計我，況無心處，是故無受生者。無阿羅漢者，是人見一切人，飢則求食、寒則求溫、熱則求涼、毀害則瞋、敬養則喜，故無有能盡煩惱者。又經書或說無阿羅漢，隨逐此經故生是見。垢淨等無因緣者，是人見此垢法自然而生。又有垢者即體是垢，故說無因。知見無知見亦如是。無力無勇者，見一切眾生皆假因緣。或有言：由自在天能有所作。又見眾生屬業因緣不自在故，說無力無勇及此果。無常常想者，隨以何因緣破念念滅，以是因緣故生常見，又說諸法滅時還為微塵，或言還歸本性。又諸法雖滅，以憶想故能受苦樂，則生常想。又說神是常、音聲亦常，以是等緣故生常想。苦謂樂者，隨以何因緣說言有樂，如先三受品中說，以是因緣故生樂想。不淨淨想者，以染著身故，眼見不淨而生淨想。或作是念，我得人根，見此人身不淨，更有眾生以之為淨，如是等緣故生淨想。無我我想者，見陰相續生，而取一相以之為我。又如先生身見因緣，以是因緣故生我想。非勝勝想者，是人於富蘭那等外道師中而生勝想。又梵王自說：我是大梵天王、造萬物者如是等。有人言：若人具足受五欲樂，是名勝法。又言：若人離欲入初禪乃至四禪，是最勝法。又說：世間現見眾生中，婆羅門為尊，非現見眾生中天為最尊，是非勝勝想。勝非勝想者，一切眾生中佛為最勝，有人於中不生勝想，作如是言：是剎利種，又學道日淺，又謂佛法言不巧妙，文辭煩重不如韋陀，此不名勝。眾僧中有四品人，是故不勝。如是等勝中生非勝想。非淨道中淨道想者，若人言以灰水等洗令人清淨，又說生死盡訖名清淨道。又但貪著持戒梵行供養天等，亦說由自在天故得清淨。或說苦行本業盡故名清淨道。又斷葷辛及蘇酪等故得清淨。又淨洗浴，以韋陀語呪然後飲食，名清淨道。以如是等種種邪道而得解脫，不以八直為清淨道。有中生無想者，若法世諦中有，亦說為無。無中生有想者，若說有陀羅驃、有有分者，亦說有數量等求那，亦說總相別相及集，亦說世性等無物為有。如是等因緣生顛倒心，皆名邪見。於此邪見中別四種見，餘殘重者皆名邪見。

> 問う：この邪見はどうして生じるのか。答えよう：無明によって生じるのである。非因を因として執着するがゆえに、邪見が生じる。また、楽を因として執着するがゆえに苦はないと言い、また空の道を失うがゆえに苦はないと言う。苦を受ける者がいないからである。もし世間の万物には因も縁もないと言い、あるいは因は自在天などにあり、愛によるのではないと言うならば、これを「集なし」と名づける。どのような因縁によって涅槃はないと言うにせよ、あるいは異なる説で涅槃はないと説くならば、これを「滅なし」と名づける。もし涅槃の道がなければ、どこへ至るというのか。あるいはまた、別の解脱の道があると説き、断食などをそれとするならば、これを「道なし」と名づける。 仏がいないという者は、こう言う：「諸法は無量であるのに、どうして一人の人間がすべてを知り尽くせるだろうか」。あるいはこう思う：「仏は人の中の尊い者であるが、人としての仏がいないのだから、仏はいないと知るべきだ」。煩悩を尽くす者がいないがゆえに「法なし」と言い、正しい行いによってこの法を得る者がいないがゆえに「僧なし」と言う。 布施には現世の果報が見えないがゆえに、布施はないと言う。また経典にも布施はないと説くものがあり、比べて考えても決定的ではない。世間にはよく布施をする者がいてもかえって貧しくなり、吝嗇な者がいても富貴を得る者がある。これらの理由によって、布施はないと説くのである。祠祭も焼供も同じである。火が物を焼いて灰にするならば、その中にいったい何の果報があるだろうか。 善悪もなく、善悪の業報もないと言う者は、こう言う：「もし神が常ならば善悪はないであろう。もし神が無常ならば後世はないであろう。後世がないがゆえに、善悪もなく、善悪の業報もない」。今世もないと言う者は、諸法を分析してついにはすべて無に帰するからである。後世がないと言う者は、死後に因縁を作らないがゆえに、後世はないと言うのである。 父母もないと言う者は、これもまた細かく分析して尽くすのである。またこう説く：「糞から虫が生まれるようなもので、糞は虫の父母ではない」。また頭などの身体の部分は、父母の身体の部分そのものではない。また諸法は刹那ごとに滅するのだから、何を父母としようか。 衆生に受生する者はいないと言う者は、衆生という法がないのだから、今世においてすら存在しないのに、どうして身を受けることができようか。またこう思惟する：「この衆生はこの身であろうか、身ではないであろうか」。もし身であるならば、この身が埋められれば土となり、焼かれれば灰となり、虫に食われれば糞となるのを目の当たりにする。ゆえに受生はない。身でないならば二種ある。心であるか、心を離れたものであるか。もし心であるならば、心の法は生滅して刹那もとどまらない。ましてや後の身に至ることなどできない。もし心を離れたものであるならば、我を認めないことになる。他者の心の中においてすら我を認めないのだから、ましてや心のないところにおいてであろう。ゆえに受生する者はいないのである。 阿羅漢はいないと言う者は、この人はすべての人が飢えれば食を求め、寒ければ温を求め、暑ければ涼を求め、害されれば怒り、敬われ養われれば喜ぶのを見る。ゆえに煩悩を尽くし得る者はいないと言うのである。また経典に阿羅漢はいないと説くものがあり、その経典に従ってこの見解を生じるのである。 垢（けがれ）も浄も因縁がないと言う者は、この人はこの垢の法が自然に生じるのを見るのである。また垢なる者はその体がすなわち垢であるがゆえに、因はないと言う。知見も無知見も同じである。 力も勇もないと言う者は、すべての衆生がみな因縁による仮のものであるのを見る。あるいはこう言う者もある：「自在天によってすべてがなされるのだ」。また衆生が業の因縁に属して自在でないのを見るがゆえに、力も勇もなく、その果報もないと言うのである。 無常を常と思う想いを生じる者は、どのような因縁によって刹那滅を破るにせよ、その因縁によって常見を生じる。また諸法が滅するときには微塵に還ると説き、あるいは本性に還ると説く。また諸法は滅しても、記憶によって苦楽を受けることができるがゆえに、常という想いを生じる。また神は常であり、音声も常であると説く。これらの縁によって常という想いを生じるのである。 苦を楽と思う者は、どのような因縁によって楽があると説くにせよ、先の三受の品の中で説いたように、その因縁によって楽という想いを生じるのである。 不浄を浄と思う想いを生じる者は、身に執着するがゆえに、目で不浄を見ながら浄という想いを生じる。あるいはこう思う：「私は人の根を得て、この人の身が不浄であるのを見るが、他の衆生にはこれを浄とする者もある」。これらの縁によって浄という想いを生じるのである。 無我を我と思う想いを生じる者は、五陰が相続して生じるのを見て、その一つを取りて我とする。また先の身見の因縁に説いたように、その因縁によって我という想いを生じるのである。 非勝を勝と思う想いを生じる者は、この人は富蘭那（プーラナ）などの外道の師において勝れた想いを生じるのである。また梵王が自ら「私は大梵天王であり、万物を造る者である」と説く。またこう言う者がある：「人が五欲の楽を十分に受けるならば、これを勝れた法と名づける」。また「人が欲を離れて初禅に入り、乃至四禅に至るならば、これが最も勝れた法である」と言う。また「世間で現に見る衆生の中では、バラモンが最も尊く、現に見ない衆生の中では天が最も尊い」と説く。これが非勝を勝と思う想いである。 勝を非勝と思う想いを生じる者は、すべての衆生の中では仏が最も勝れているのに、その中で勝れた想いを生じずに、こう言う：「仏はクシャトリヤの種族である。また修行の日も浅い。また仏法は言葉が巧みでなく、文辞が煩雑で重く、ヴェーダに及ばない。これは勝れたものとは言えない」。僧伽の中には四種類の人がいるゆえに、勝れていない。このように勝れたものの中において非勝という想いを生じるのである。 非浄道を浄道と思う想いを生じる者は、ある人が「灰や水などで洗えば人を清浄にする」と言い、また「生死が尽き終わることを浄道と名づける」と説く。またただ戒律を保ち梵行を行じ天に供養することに執着し、また自在天によって清浄を得ると説く。あるいは「苦行によって本の業が尽きるゆえに、これを浄道と名づける」と言う。また五辛や蘇・酪などを断つことによって清浄を得ると言う。また清浄に沐浴し、ヴェーダの呪文を唱えてから飲食することを浄道と名づける。これらの様々な邪道によって解脱を得るのであって、八正道を浄道とはしないのである。 有の中に無という想いを生じる者は、もし法が世諦の中に有っても、これを無と説くのである。無の中に有という想いを生じる者は、ドラヴィヤ（実体）があると説き、有分（部分を持つもの）があると説き、また数量などのグナ（性質）があると説き、また総相・別相および合集を説き、また世性などの無い物を有と説く。これらの因縁によって顛倒の心を生じる。これらをすべて邪見と名づけるのである。 この邪見の中において、別に四種の見を立てる。そのほかの残りの重いものはすべて邪見と名づけるのである。

問曰：是邪見云何斷？答曰：經中佛說，正見能消邪見。

> 問い：この邪見は、どのようにして断ち切ることができるのでしょうか？ 答え：経典の中で仏はこう説かれました。「正見があれば、邪見を消し去ることができる」と。

問曰：正見云何生？答曰：若見聞比知正決定故，則正見生。又善修正定則正見生，如經說：攝心能如實知，非散心也。

> 問う：正見はどのように生じるのか。答える：見ること、聞くこと、比べ知ることによって正しく決定されるならば、正見が生じる。また、善く正定を修めるならば正見が生じる。経典に説くように、心を摂めれば如実に知ることができ、散乱した心ではそうではないのである。

問曰：是邪見有何等過？答曰：一切過咎及諸衰惱皆由邪見。此人謂無罪福及善惡業報，故現在無諸好事，況未來世。如是破善惡人，名斷善根，決定當墮阿鼻地獄。如阿毘曇六足中說，殺是人罪，輕殺虫蟻。又此邪見人污染世間，為多減損眾生故生，如毒樹生為惱害故。又此人所起身口意業皆為惡報，如經中說：邪見人所起身口意業欲瞋思念皆為惡報，如種苦瓠、拘賒毒枝必害蔓陀樹種，是中所有地種水火風種皆為苦味，以種苦故。如是邪見人諸餘心心數法，以邪見故皆得惡報，是故此人雖有施等終無好果，以先為邪見心所壞故。是人所作不善皆是增上，以久集惡心故。又以戒法故能制非法，是人無善惡故無所禁忌，深為放逸行不善法，定破慚愧二種白法，與畜生無異。又若人言無善惡，是人心中常懷不善。又是人無有能受善法因緣。所以者何？是人不能親近善人、不聞善法，惡心易起、善心難生，以易起惡故無善因緣，如是漸積則斷善根。又此邪見人名在難處，如地獄眾生不任得道。如此人雖生中國，具足六根能別好醜，亦不任得道。又此邪見人無惡不造，不忌輕重。又少作不善亦墮地獄，以重罪心起是業故。如業品中解地獄業，以是因緣此人所作皆為地獄。又此人不能盡罪惡業，以不善法常在心故。又此人展轉地獄難得解脫。所以者何？斷善根人，若善根未相續間，終不脫地獄，是人邪見在心中故，善根云何得相續耶？又邪見人名不可治，猶如病人死相已現，雖有良醫不能復治。是人亦爾，無餘善故，乃至諸佛亦不能治，是故必墮阿鼻地獄。

> 問う：この邪見には、どのような過ちがあるのか。答う：あらゆる過ちや衰え悩みは、すべて邪見に由来する。この人は、罪や福、善悪の業報は存在しないと言うがゆえに、現在において良いことが何もなく、ましてや未来世においてはなおさらである。このように善悪を破る人を、善根を断ち切った者と名づけ、必ず阿鼻地獄に堕ちると定められている。阿毘曇の六足論に説かれるとおり、この人を殺す罪は、虫や蟻を殺す罪よりも軽いのである。また、この邪見の人は世間を汚し、衆生に多くの損減をもたらすために生まれてきたのであり、毒樹が害をなすために生えるようなものである。また、この人から起こる身口意の業は、すべて悪報をもたらす。経典に説かれるとおり、邪見の人が起こす身口意の業や、欲・瞋・思念はすべて悪報となる。それは、苦い瓢箪や毒のある拘賎の枝を蒔けば、その中の地・水・火・風の種がすべて苦い味になるように、苦い種を蒔くがゆえである。このように、邪見の人の他の心や心所の法も、邪見によってすべて悪報を受ける。それゆえ、この人は布施などの善行を行っても、最終的に良い果報を得ることはない。すでに邪見の心に壊されてしまったからである。この人のなす不善はすべて増上（特に強い）のものである。長い間、悪心を積み重ねてきたからである。また、戒律の法によってのみ非法を制することができるのに、この人には善悪の観念がないゆえ、何の禁忌もなく、深く放逸に不善の法を行い、必ず慚愧という二つの白法を破り、畜生と異なるところがない。また、もし人が善悪なしと言うならば、その人の心には常に不善が宿る。また、この人には善法を受ける因縁が存在しない。なぜなら、この人は善人に親近せず、善法を聞かず、悪心は起こりやすく善心は生じがたく、悪心が起こりやすいがゆえに善の因縁がなく、このようにして徐々に積み重なれば、善根を断ち切るに至るからである。また、この邪見の人は、難処（修行の難しい場所）にいると名づけられる。地獄の衆生が悟りを得るに堪えないのと同じである。この人が中国（仏法の盛んな地）に生まれ、六根が具わり善悪を弁別できたとしても、同様に悟りを得るには堪えない。また、この邪見の人は、悪を造らないことはなく、軽い重いを顧みない。また、少しの不善をなしても地獄に堕ちる。重い罪の心でその業を起こすからである。業品に地獄の業について説かれているとおり、この因縁によって、この人のなすことはすべて地獄に至るのである。また、この人は罪悪の業を使い尽くすことができない。不善の法が常に心にあるからである。また、この人は転々と地獄にありて解脱を得ることが難しい。なぜなら、善根を断ち切った人は、善根が再び繋がらない間は、決して地獄を脱することがない。この人の心に邪見があるゆえ、善根がどうして繋がることがあろうか。また、邪見の人は治すことができないと名づけられる。ちょうど死相の現れた病人を、名医であっても再び治すことができないようなものである。この人もまた同じで、残余の善がないがゆえに、諸仏でさえも治すことができない。それゆえ、必ず阿鼻地獄に堕ちるのである。