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菩薩従兜術天降神母胎説広普経 (菩薩從兜術天降神母胎說廣普經)


菩薩處胎經卷第三

菩薩処胎経 第三巻

姚秦涼州沙門竺佛念譯

姚秦涼州沙門竺仏念訳

想無想品第六

想無想品第六

爾時,世尊告彌勒菩薩:「今此座中無有異類,純一生補處。今當說識、想、受,無識、無想、無受。是時菩薩云何說識、想、受?於是菩薩分別說識、想、受,識非想非受,受非識非想,想非受非識。想非過去、非未來、非現在,受非過去、非未來、非現在,識非過去、非未來、非現在;非識非過去、非未來、非現在,非想非過去、非未來、非現在,非受非過去、非未來、非現在。云何識非過去、未來、現在?於是菩薩入無閡定,化受識眾生,從有住地至無住地。此識非過去、非未來、非現在。復次,菩薩摩訶薩化想眾生,從住地至無住地。菩薩化受眾生,從住地至無住地。」

その時、世尊は弥勒菩薩に告げられた。 「今、この座にいる者は皆、一様に一生補処の菩薩たちである。今、識・想・受について、また無識・無想・無受について説こう。 菩薩はどのように識・想・受を説くべきか。 菩薩は識・想・受を分けて説くのである。識は想でもなく受でもない。受は識でもなく想でもない。想は受でもなく識でもない。 想は過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。受は過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。識は過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。 無識は過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。無想は過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。無受は過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。 では、なぜ識は過去・未来・現在ではないのか。 菩薩は無礙の定に入り、識を受ける衆生を教化して、住地から無住地へと導く。この識は過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。 また、菩薩摩訶薩は想の衆生を教化して、住地から無住地へと導く。菩薩は受の衆生を教化して、住地から無住地へと導くのである。」

爾時,尊者大迦葉即從坐起,偏露右臂,右膝著地前白佛言:「世尊!意、心、識、受、想,有何差別?」

その時、尊者マハーカッサパは座より立ち上がり、右肩をあらわにし、右膝を地につけて、仏陀に申し上げました。

「世尊よ、意(い)と心(しん)と識(しき)と受(じゅ)と想(そう)には、どのような違いがあるのでしょうか?」

佛告迦葉:「知身即知差別。為眾生故,從足至頭支節各各別名,如《樹喻經》說:『根、皮、莖、節、枝、葉故名為樹。』心、意、識、受、想亦復如是。」

仏は迦葉に告げられた:「身体を知ることは、すなわち差別を知ることである。衆生のために、足から頭まで、四肢や関節それぞれに別々の名がある。『樹木の譬えの経典』に説かれているように、『根、皮、幹、節、枝、葉、これらによって樹木と名づけられる』と。心、意、識、受、想もまた同じである。」

大迦葉白佛言:「想是外法,受是內法。云何為一?」

大迦葉が仏に申し上げました。「想は外なる法、受は内なる法です。どうしてこれらが一つと言えるのでしょうか?」

佛告大迦葉:「想從外來從內出也?」

仏は大迦葉に告げた:「想いは外から来るのか、内から出るのか?」

迦葉白佛言:「想從外來。何以故知?若外無形,內想何由得生?若外物不害,內何由知痛?」

迦葉が仏に申し上げました。「想いは外からやってくるものだと思います。なぜそう言えるかといいますと、もし外に形がなければ、内なる想いはどうして生じることができるでしょうか。もし外の物が害を及ぼさなければ、内なる心はどうして痛みを知ることができるでしょうか。」

佛告迦葉:「此事不然。何以故?此識非外非內非兩中間,識住處非識住處,外想外受,即是內法非外法也。菩薩摩訶薩信解甚深內外中間法,乃能解了識所住處,此是眾生此非眾生,乃至有無法非此非彼,便入無礙獨步三昧。」

仏は迦葉に告げられた:「それは違う。なぜなら、この識は外でもなく内でもなく、その中間でもない。識が住むところも、識が住まないところもない。外なる想いや外なる感受も、実は内なる法であって外なる法ではないのだ。菩薩摩訶薩は、この深遠なる内と外と中間の法を信じて理解し、はじめて識の住むところを解き明かすことができる。これが衆生であり、これが衆生ではない。有も無も、これでもなくあれでもない。そうしてこそ、無碍にして独歩の三昧に入ることができるのだ。」

迦葉白佛言:「今聞說法增益狐疑。何以故?如佛所說,想亦是受,受亦是想,識法分別識亦是想,亦是受想,想自空受,受自空識,識自空想。空非識空,識空非受空,受空非想空。如樹喻者是事不然。」

迦葉が仏に申し上げました。「今、説法を聞いて、かえって疑いが深まりました。なぜなら、仏がおっしゃるには、『想もまた受であり、受もまた想である。識法は識によって分別されるが、識もまた想であり、また受想である。想は自ら空であり、受は自ら空であり、識は自ら空である。空は識の空ではなく、識の空は受の空ではなく、受の空は想の空ではない』と。木のたとえのように、これは理にかなっていません。」

佛告迦葉:「我當與汝說喻,智者以喻得解。往昔有王,王名特異,王有四子,一、名喜悅,二、名長壽,三、名百歲,四、名無畏。彼長壽子,不滿月數即便命終。喜悅子者,身生瘡痍見者惡賤,父母厭患常無歡心。百歲子者,不滿百日復取命終。無畏子者,脣騫鼻嵃反齒橫牙,人見恐畏。此亦如是,想、受、識無若干差別。」

仏は迦葉に告げられた。「譬えを説こう。賢き者は譬えによって理解を得るものだ。昔、ある王がいた。名を特異という。王には四人の子がいた。第一は喜悅、第二は長壽、第三は百歳、第四は無畏といった。その長壽という子は、一か月も満たないうちに命を落とした。喜悅という子は、体に瘡ができ、見る者から嫌われ軽蔑され、父母も厭い患い、常に喜ぶ心がなかった。百歳という子は、百日も満たずにまた命を失った。無畏という子は、唇がめくれ鼻は高く、歯は反り返り横に生え、人々は見て恐れ畏れた。これもまた同じこと、想・受・識にも何ら差別はないのだ。」

佛告迦葉:「吾今與汝說識想受一一分別。過去九十一劫有王名智慧,專行十善以法治化,無有煩惱,察眾生意行,知彼眾生所念不同,即遣侍臣案行國界,諸有盲人盡仰來集宮庭,臣受王教,即出巡行國界,得五百盲人將詣庭內。王復以五百白象羅列殿前,一一令諸盲人自在捉象。是時盲人,或捉象鼻,或捉象耳,或捉象頭,或捉象脚,或捉象腹,或捉象尾。王問諸盲人曰:『象何所像類?』盲人答白,捉鼻者言:『如角。』捉頭者言:『如甕。』捉耳者言:『如簸箕。』捉腹者言:『如簞。』捉脚者言:『如柱。』捉尾者言:『如橛。』時傍觀有目之士,笑彼盲者不得象具相。盲人屏處自共論說,各言己是而共諍競。此眾生類亦復如是,識、想、受法各各不同。」

仏は迦葉に告げられた。「今、あなたに識・想・受の一つ一つを分けて説こう。 過去九十一劫の昔に、智慧という名の王がいた。彼は十善を専ら行い、法をもって国を治め、煩悩はなかった。 彼は衆生の心の動きを観察し、衆生の思いがそれぞれ異なることを知った。そこで侍臣に命じて国中を見回らせ、すべての盲人を集めて宮廷に連れて来させた。 臣は王の命を受け、国中を巡り、五百人の盲人を見つけて庭内に連れてきた。 王はさらに五百頭の白象を殿前に並べ、それぞれの盲人に自由に象を触らせた。 その時、盲人たちは象の鼻をつかむ者、耳をつかむ者、頭をつかむ者、脚をつかむ者、腹をつかむ者、尾をつかむ者と様々だった。 王が盲人たちに『象はどんなものに似ているか』と尋ねると、盲人たちは答えた。 鼻をつかんだ者は『角のようだ』と言い、頭をつかんだ者は『甕のようだ』と言い、耳をつかんだ者は『箕のようだ』と言い、腹をつかんだ者は『筵のようだ』と言い、脚をつかんだ者は『柱のようだ』と言い、尾をつかんだ者は『杭のようだ』と言った。 その時、傍らで見ていた目が見える人々は、盲人たちが象の全体像を得られないのを笑った。 盲人たちは人目を避けて互いに論じ合い、それぞれが自分が正しいと言って争った。 この衆生の類いもまた同じである。識・想・受という法は、それぞれが異なっているのだ。」

佛告迦葉:「猶如有人設百味食,粳米、豆、麥、大小麻子,當其所得得粳米者,不知有餘豆麥之屬。迦葉!此亦如是,識、想、受法各各不同,觀諸法性無異無別。」

仏は迦葉に告げられた:「たとえば、ある人が百種類の味をそろえた食事を用意したとしよう。粳米、豆、麦、大小の麻の実などが並んでいるが、その人が手にしたのが粳米だけなら、他の豆や麦の存在に気づかない。迦葉よ、これと同じことだ。識も、想も、受も、それぞれの法は異なっているが、それら諸法の本性を観れば、違いも区別もないのだ。」

爾時世尊即與迦葉而說頌曰:

その時、世尊は迦葉に向かって偈を説かれました。

「見額知有頭, 視煙知有火,
覩雲知有雨, 觀行知體性。
空雨無兩足, 水影不可捉;
言議盡法師, 結使盡涅槃。
想盡在無想, 受滅亦無受,
識滅無有識, 梵行無上道。
吾從無數劫, 常為識所惑;
今世及後世, 不遇安樂處。
我今現在胎, 分別諸法相;
不見想受名, 況當有識法。」

額を見れば頭があると知り、煙を見れば火があると知る。 雲を見れば雨があると知り、行いを見ればその本質がわかる。

空の雨には両足なく、水に映る影はつかめない。 言葉で論じ尽くすのが法師であり、煩悩を滅し尽くすのが涅槃である。

想いが尽きれば無想にあり、感受が滅すれば感受もなくなる。 識が滅すれば識はなくなり、清らかな行いは至上の道である。

私は無数の劫より、常に識に惑わされてきた。 今世も後世も、安楽の境地に遇うことはなかった。

今、私は母胎の中にあって、諸々の法の相を分別する。 想いや感受の名さえ見えず、ましてや識の法などあるはずがない。

爾時,世尊說此偈時,五百比丘得不起法忍,有千眾生心樂空行,於無餘涅槃界心得自在。

その時、世尊がこの偈を説かれたとき、五百人の比丘たちは不退転の境地を得られ、千人の衆生は空の実践に心を喜び、煩悩の尽きた涅槃の境地に心が自在に至りました。


5 三世等品
7 住不住品

CBETA コード: T0384

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