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title: "三國遺事 · 魏滿朝鮮"
description: "三国遗事由高丽时代僧侣一然所撰，是朝鲜半岛重要佛教历史文献。该书成书于13世纪，在高丽王朝佛教兴盛的背景下，补充了三国史记未收录的古代新罗、高句丽、百济历史传说与佛教事迹。内容涵盖王系编年、佛教传播、高僧轶事及灵异故事，尤其记录了阿道、墨胡子等早期传法者的事迹与佛国寺创建等史实。作为朝鲜佛教史核心典籍，它融合历史与宗教叙事，对研究韩国古代文化、佛教发展及民间信仰具有不可替代的权威价值。"
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### 魏滿朝鮮

> 魏満朝鮮

前漢朝鮮傳云。自始燕時常略得真番朝鮮師古曰戰國時□國始略得此地也。為置吏築障。秦滅燕。屬遼東外徼。漢興。為遠難守。復修遼東故塞。至浿水為界師古曰。浿在樂浪郡。屬燕。燕王盧綰反入凶奴。燕人衛滿亡命。聚黨千餘人。東走出塞。渡浿水。居秦故空地上下障。稍役屬真番朝鮮蠻夷。及故燕齊亡命者王之。都王儉李曰。地名。臣讚曰。王儉城在樂浪郡浿水之東。以兵威侵降其旁小邑。真番臨屯皆來服屬。方數千里。傳子至孫右渠師古曰。孫名右渠。真番辰國欲上書見天子。雍閼不通師古曰。辰謂辰韓也。元封二年。漢使涉何諭右渠。終不肯奉詔。何去至界。臨浿水。使馭刺殺送何者朝鮮裨王長師古曰。送何者名也即渡水。馭入塞。遂歸報。天子拜何為遼東之部都尉。朝鮮怨何。襲攻殺何。天子遣樓。舡將軍楊僕。從齊浮渤海。兵五萬。左將軍荀彘出遼討右渠。右渠發兵距嶮。樓舡將軍將齊七千人先到王儉。右渠城守。規知樓舡軍小。即出擊樓舡。樓舡敗走。僕失眾遁山中獲免。左將軍擊朝鮮浿水西軍。未能破。天子為兩將未有利。乃使衛山因兵威往諭右渠。右渠請降。遣太子獻馬。人眾萬餘持兵。方渡浿水。使者及左將軍疑其為變。謂太子已服。宜毋持兵。太子亦疑使者詐之。遂不渡浿水。復引歸。報天子誅山。左將軍破浿水上軍。迺前至城下。圍其西北。樓舡亦往會居城南。右渠堅守。數月未能下。天子以久不能決。使故濟南太守公孫遂往正之。有便宜將以從事。遂至。縛樓舡將軍并其軍。與左將軍急擊朝鮮。朝鮮相路人。相韓陶。尼谿相參。將軍王唊師古曰。尼谿地名。四人也相與謀欲降。王不肯之。陶唊路人皆亡降漢。路人道死。元封三年夏。尼谿相參使人殺王右渠來降。王儉城未下。故右渠之大臣成已又反。左將軍使右渠子長。路人子最。告諭其民。謀殺成已。故遂定朝鮮。為真番　臨屯　樂浪　玄菟四郡。

> 前漢の朝鮮に関する記述にはこうある。昔、燕の時代からすでに真番と朝鮮の地をたびたび攻略し、支配していた。燕は役人を置き、防壁を築いた。秦が燕を滅ぼすと、この地は遼東の外側の辺境に属した。漢が興ると、遠すぎて守るのが難しいと考え、再び遼東の古い防塞を修復し、浿水を境とした。この地は燕に属した。燕王の盧綰が反乱を起こして匈奴に逃げ込むと、燕人の衛満も命からがら逃亡し、仲間千人余りを集めて、東へ塞を出て、浿水を渡り、秦の時代の古い空地の上下の防壁のある場所に住んだ。次第に真番や朝鮮の異民族を支配下に置き、かつての燕や斉からの逃亡者たちを従わせて、王となった。都は王険に置いた。武力で周辺の小国を脅し、服従させた。真番や臨屯も皆来て服属した。その領土は数千里に及んだ。王位は子に伝わり、孫の右渠に至った。真番と辰国が漢の天子に上書し謁見しようとしたが、右渠が妨げて通さなかった。元封二年、漢は使者の渉何を遣わして右渠を諭させたが、右渠はついに詔に従おうとしなかった。渉何が去って国境に至り、浿水のほとりで、自分の御者に命じて、見送りに来た朝鮮の副王の長を刺し殺させ、すぐに川を渡った。御者は塞に入り、帰って報告した。天子は渉何を遼東の部都尉に任命した。朝鮮は渉何を恨み、襲撃して殺した。天子は楼船将軍の楊僕に、斉から渤海を渡って兵五万を率いさせ、左将軍の荀彘には遼東から出撃して右渠を討たせた。右渠は兵を発して険しい所で防いだ。楼船将軍は斉の兵七千人を率いて先に王険に到着した。右渠は城を守り、楼船将軍の軍勢が小さいと知ると、すぐに出撃して楼船将軍を攻めた。楼船将軍は敗走し、楊僕は兵を失って山中に逃げ込み、かろうじて難を免れた。左将軍は朝鮮の浿水の西にいる軍を攻めたが、破れなかった。天子は両将が成果を上げられないので、衛山を遣わし、兵の威光を示して右渠を諭させた。右渠は降伏を申し出て、太子を遣わして馬を献上させた。その人々は万余りで武器を持っていた。ちょうど浿水を渡ろうとした時、使者と左将軍は変事を起こすのではないかと疑い、太子はすでに服従したのだから、武器を持つべきではないと言った。太子も使者が自分を欺いているのではないかと疑い、ついに浿水を渡らずに引き返した。このことを報告すると、天子は衛山を誅殺した。左将軍は浿水の上の軍を破り、ついに城の近くまで進み、西北を包囲した。楼船将軍もまたやって来て城南に陣取った。右渠は固く守り、数ヶ月経っても攻め落とせなかった。天子は長く決着がつかないので、元済南太守の公孫遂を遣わして事態を正させ、便宜に従って行動することを許した。公孫遂が到着すると、楼船将軍を縛ってその軍を合わせ、左将軍と共に朝鮮を急襲した。朝鮮の相の路人、相の韓陶、尼谿の相の参、将軍の王唊は互いに謀って降伏しようとしたが、王は承知しなかった。陶、唊、路人は皆、漢に逃げて降伏した。路人は道中で死んだ。元封三年の夏、尼谿の相の参が人を遣わして王の右渠を殺し、降伏してきた。王険の城はまだ落ちていなかったので、かつての右渠の大臣の成已が再び反乱を起こした。左将軍は右渠の子の長、路人の子の最に、民を告諭させ、成已を殺すことを謀らせた。こうしてついに朝鮮を平定し、真番、臨屯、楽浪、玄菟の四郡を置いた。