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title: "三國遺事 · 高句麗"
description: "三国遗事由高丽时代僧侣一然所撰，是朝鲜半岛重要佛教历史文献。该书成书于13世纪，在高丽王朝佛教兴盛的背景下，补充了三国史记未收录的古代新罗、高句丽、百济历史传说与佛教事迹。内容涵盖王系编年、佛教传播、高僧轶事及灵异故事，尤其记录了阿道、墨胡子等早期传法者的事迹与佛国寺创建等史实。作为朝鲜佛教史核心典籍，它融合历史与宗教叙事，对研究韩国古代文化、佛教发展及民间信仰具有不可替代的权威价值。"
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### 高句麗

> 高句麗

高句麗即卒本扶餘也。或云今和州又成州等皆誤矣。卒本州在遼東界。國史高麗本記云。始祖東明聖帝姓言氏諱朱蒙。先是北扶餘王解夫婁。既避地于東扶餘。及夫婁薨。金蛙嗣位。于時得一女子於太伯山南優渤水。問之。云我是河柏之女。名柳花。與諸弟出遊。時有一男子。自言天帝子解慕漱。誘我於熊神山下鴨綠邊室中知之而往不返壇君記云。君與西河河伯之女要親。有產子名曰夫婁。今按此記。則解慕漱私河伯之女而後產朱蒙。壇君記云產子名曰夫婁。夫婁與朱蒙異母兄弟也父母責我無媒而從人。遂謫居于此。金蛙異之。幽閉於室中。為日光所照。引身避之。日影又逐而照之。因而有孕。生一卵。大五升許。王棄之與犬猪。皆不食。又棄之路。牛馬避之棄之野。鳥獸覆之。王欲剖之而不能破。乃還其母。母以物裹之。置於暖處。有一兒破殼而出。骨表英奇。年甫七歲。𡹉嶷異常。自作弓矢。百發百中。國俗謂善射為朱蒙。故以名焉。金蛙有七子。常與朱蒙遊戲。技能莫及。長子帶素言於王曰。朱蒙非人所生。若不早圖。恐有後患。王不聽。使之養馬。朱蒙知其駿者。減食令瘦。駑者善養令肥。王自乘肥。瘦者給蒙王之諸子與諸臣將謀害之蒙母知之。告曰。國人將害汝。以汝才略。何往不可。宜速圖之。於是蒙與烏伊等三人為友。行至淹水今未詳。告水曰。我是天帝子河伯孫。今日逃遁。追者垂及。奈何。於是魚鼈成橋。得渡而橋解。追騎不得渡。至卒本州玄莬郡之界遂都焉。未遑作宮室。但結廬於沸流水上居之。國號高句麗。因以高為氏本姓解也。今自言是天帝子。承日光而生。故自以高為氏時年十二歲。漢孝元帝建昭二年甲申歲。即位稱王高麗全盛之日。二十一萬五百八戶。珠琳傳第二十一卷載。昔寧稟離王侍婢有娠。相者占之曰。貴而當王。王曰。非我之胤也。當殺之。婢曰氣從天來。故我有娠。及子之產。謂為不祥。捐圈則猪噓。棄欄則馬乳。而得不死。卒為扶餘之王即東明帝為卒本扶餘王之謂也。此卒本扶餘。亦是北扶餘。之別都。故云扶餘王也。寧稟離乃夫婁王之異稱也。

> 高句麗は、すなわち卒本扶餘である。あるいは、現在の和州や成州であると言うのは、いずれも誤りである。卒本州は遼東の境に位置する。 国史の高麗本記にはこう記されている。始祖の東明聖帝は、姓は言氏、諱は朱蒙という。それより先、北扶餘の王、解夫婁が東扶餘に避難していた。夫婁が亡くなると、金蛙が位を継いだ。その時、太伯山の南、優渤水の辺りで一人の女性を得た。尋ねると、こう言った。「私は河伯の娘で、名は柳花と申します。弟たちと一緒に遊びに出ておりましたところ、一人の男性が現れ、天の帝の子、解慕漱と名乗りました。熊神山の下、鴨綠の辺りの部屋に私を誘い込みました。そして、それを知っても、帰ってまいりませんでした」<note>檀君記にはこうある。「君は西河の河伯の娘と親しくなり、子を産んだ。その名を夫婁という」。今この記を考えてみると、解慕漱が河伯の娘と密通した後に朱蒙を産んだのである。檀君記には「子を産んで名を夫婁といった」とあるが、夫婁と朱蒙は異母兄弟なのである。</note> 両親は、仲介者もなしに男性に従ったことを責め、ついにこの地に追放した。金蛙はこの女性を不思議に思い、部屋に閉じ込めた。すると日光が照らしつけたので、身を引いて避けた。しかし日影はまた追いかけて照らした。それによって身ごもり、一つの卵を生んだ。大きさは五升あまりあった。 王はこれを捨てて犬や豚に与えたが、どれも食べなかった。また道に捨てたが、牛馬は避けて通った。野に捨てると、鳥や獣が覆い守った。王は割こうとしたが、破ることができなかった。そこで母のもとに返した。母は布で包み、暖かいところに置いた。すると一人の子供が殻を破って生まれ出た。骨格はすぐれて秀で、年はわずか七歳にして、聡明で並みはずれていた。自ら弓矢を作り、百発百中であった。 国では、射ることに優れた者を「朱蒙」と呼ぶのが習慣であったため、名とした。金蛙には七人の息子がいたが、いつも朱蒙と遊んでも、その技量は彼に及ばなかった。長男の帶素は王に言った。「朱蒙は人間の生んだ子ではありません。もし早いうちに始末しなければ、後々の災いとなる恐れがあります」。 王は聞き入れず、馬を飼うことを命じた。朱蒙は優れた馬を見分けると、餌を減らして痩せさせた。駄馬は上手に飼って肥らせた。王は自ら肥えた馬に乗り、痩せた馬は朱蒙に与えた。 王の諸子と家臣たちは、朱蒙を害そうと謀った。朱蒙の母はこれを知って告げた。「国の者たちがあなたを害そうとしている。あなたの才覚をもってすれば、どこへ行ってもやっていけないことはない。速やかに計略をめぐらしなさい」。 そこで朱蒙は烏伊ら三人を仲間として、逃れていった。淹水<note>今は詳らかでない</note>に至り、水に向かって告げた。「私は天の帝の子、河伯の孫である。今日逃れてきたが、追手がもうすぐ及ぼうとしている。どうすればよいか」。 すると魚や鼈が橋となって渡すことができ、渡り終えると橋は解けて、追う騎馬は渡ることができなかった。卒本州<note>玄莬郡の境である</note>に至り、ついにそこに都を定めた。 宮殿を建てる暇もなく、沸流水の上に家を結んで住んだ。国号を高句麗とし、それによって高を姓とした<note>もともとの姓は解である。今、自分は天の帝の子であり、日光を受けて生まれたと語っているので、自ら高を姓としたのである</note>。この時、年は十二歳であった。漢の孝元帝の建昭二年、甲申の歳に位につき、王と称した。 高麗が最も栄えた時には、二十一万五百八戸あったという。珠琳傳の第二十一巻にはこう載っている。昔、寧稟離王の侍女が妊娠した。相者が占って言った。「高貴な生まれで、王になるでしょう」。 王は言った。「我が血筋ではない。殺すべきだ」。侍女は言った。「気が天から来たので、私の身ごもりがありました」。 子が生まれると、不吉であるとされて、垣根に捨てたが、豚が息をかけた。家畜の囲いに捨てると、馬が乳を与えた。そうして死なずに済み、ついに扶餘の王となった<note>すなわち東明帝が卒本扶餘の王となったことを言うのである。この卒本扶餘もまた、北扶餘の別都であるので、扶餘王と言うのである。寧稟離とは、夫婁王の異称である。</note>。