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title: "三國遺事 · 奈勿王　金堤上"
description: "三国遗事由高丽时代僧侣一然所撰，是朝鲜半岛重要佛教历史文献。该书成书于13世纪，在高丽王朝佛教兴盛的背景下，补充了三国史记未收录的古代新罗、高句丽、百济历史传说与佛教事迹。内容涵盖王系编年、佛教传播、高僧轶事及灵异故事，尤其记录了阿道、墨胡子等早期传法者的事迹与佛国寺创建等史实。作为朝鲜佛教史核心典籍，它融合历史与宗教叙事，对研究韩国古代文化、佛教发展及民间信仰具有不可替代的权威价值。"
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### 奈勿王一作那密王金堤上

> 奈勿王（一作那密王）金堤上

第十七那密王即位三十六年庚寅。倭王遣使來朝曰。寡君聞大王之神聖。使臣等以告百濟之罪於大王也。願大王遣一王子表誠心於寡君也。於是王使第三子美海一作末吐喜以聘於倭。美海年十歲。言辭動止猶未備具。故以內臣朴娑覽為副使而遣之。倭王留而不送三十年。至訥祗王即位三年己未。句麗長壽王遣使來朝云。寡君聞大王之弟寶海秀智才藝。願與相親。特遣小臣懇請。王門之幸甚。因此和通。命其弟寶海。道於句麗。以內臣金正。謁為輔而送之。長壽王又留而不送。至十年乙丑。王召集群臣及國中豪俠。親賜御宴。進酒三行。眾樂初作。王垂涕而謂群臣曰。昔我聖考誠心民事。故使愛子東聘於倭。不見而崩。又朕即位已來。隣兵甚熾。戰爭不息。句麗獨有結親之言。朕信其言。以其親弟聘於句麗。句麗亦留而不送。朕雖處富貴。而未甞一日暫忘而不哭。若得見二弟。共謝於先主之廟。則能報恩於國人。誰能成其謀策。時百官咸奏曰。此事固非易也。必有智勇方可。臣等以為歃羅郡太。守堤上可也。於是王召問焉。堤上再拜對曰。臣聞主憂臣辱。主辱臣死。若論難易而後行。謂之不忠。圖死生而後動。謂之無勇。臣雖不肖。願受命行矣。王甚嘉之。分觴而飲。握手而別。堤上簾前受命。徑趨北海之路變服入句麗。進於寶海所。共謀逸期。先以五月十五日歸。泊於高城水口而待。期日將至。寶海稱病。數日不朝。乃夜中逃出。行到高城海濱。王知之。使數十人追之。至高城而及之。然寶海在句麗。常施恩於左右。故其軍士憫傷之。皆拔箭鏃而射之。遂免而歸王既見寶海。益思美海。一欣一悲。垂淚而謂左右曰。如一身有一臂一面一眼。雖得一而亡一。何敢不痛乎。時堤上聞此言。再拜辭朝而騎馬。不入家而行。直至於栗浦之濱。其妻聞之。赤馬追至栗浦。見其夫已在舡上矣。妻呼之切懇。堤上但搖手而不駐。行至倭國詐言曰。雞林王以不罪殺我父兄。故逃來至此矣。倭王信之。賜室家而安之。時堤上常陪美海遊海濱。逐捕魚鳥。以其所獲每獻於倭王。王甚喜之而無疑焉。適曉霧濛晦。堤上曰。可行矣。美海曰。然則偕行。堤上曰。臣若行。恐倭人覺而追之。願臣留而止其追也。美海曰。今我與汝如父兄焉。何得棄汝而獨歸。堤上曰。臣能救公之命。而慰大王之情則之矣。何願生乎。取酒獻美海。時雞林人康仇麗在倭國。以其人從而逸之。堤上入美海房。至於明旦。左右欲入見之。堤上出止之曰。昨日馳走於捕獵。病甚未起。及乎日𣅳。左右怪之。而更問焉。對曰。美海行已久矣。左右奔告於王。王使騎兵逐之。不及。於是囚堤上問曰。汝何竊遣汝國王子耶。對曰。臣是雞林之臣。非倭國之臣。今欲成吾君之志耳。何敢言於君乎。倭王怒曰。今汝已為我臣。而言雞林之臣。則必具五刑。若言倭國之臣者。必賞重祿。對曰。寧為雞林之犬㹠。不為倭國之臣子。寧受雞林之箠楚。不受倭國之爵祿。王怒。命屠剝堤上脚下之皮。刈蒹葭使趨其上今蒹葭上有血痛俗云提上之血更問曰。汝何國臣乎。曰雞林之臣也。又使立於熱鐵上。問何國之臣乎。曰雞林之臣也。倭王知不可屈。燒殺於木島中。美海渡海而來。使康仇麗先告於國中。王驚喜。命百官迎於屈歇驛。王與親弟寶海迎於南郊。入闕設宴。大赦國內。冊其妻為國大夫人。以其女子為美海公夫人。議者曰。昔漢臣周苛在滎陽。為楚兵所虜。項羽謂周苛曰。汝為我臣。封為萬祿侯。周苛罵而不屈。為楚王所殺。堤上之忠烈。無怪於周苛矣。初堤上之發去也。夫人聞之追不及。及至望德寺門南。沙上放臥長號。因名其沙曰長沙。親戚二人。扶腋將還。夫人舒脚。坐不起。名其地曰伐知旨。久後夫人不勝其慕。率三娘子上鵄述嶺。望倭國痛哭而終。仍為鵄述神母。今祠堂存焉。

> 第十七代国王・那密王の即位から三十六年目の庚寅の年。倭の王が使者を遣わして参上し、こう述べました。「我が君は、大王の神聖なる御心を聞き及び、臣らを使わして、百済の罪を大王に申し上げさせたのです。どうか大王の御子を一人、我が君に誠心を示すためにお遣わしくださいませ。」そこで王は、三番目の息子である美海（別の文献には末吐喜とも記される）を倭へ使いに差し出しました。美海はまだ十歳で、言葉遣いや立ち居振る舞いも未熟でありましたので、内臣の朴娑覽を副使として付け添えました。 倭の王は美海を引き留め、二十年もの間帰しませんでした。訥祗王の即位三年目の己未の年に、高句麗の長壽王が使者を遣わして参上し、こう述べました。「我が君は、大王の御弟である寶海が聡明で才芸に秀でていると聞き及び、ぜひ親しく交わりたいと願っております。特に小臣を使わして、切にお願い申し上げる次第です。」王はこれを聞いて大変喜びました。そこで弟の寶海を高句麗へ遣わすこととし、内臣の金正・謁を補佐として付け添えて送り出しました。しかし、長壽王もまた宝海を引き留め、帰しませんでした。 訥祗王の即位十年目の乙丑の年。王は群臣や国中の豪傑たちを集め、自ら御宴を催されました。酒が三巡し、楽の演奏が始まった頃、王は涙を流して群臣にこう語りかけました。「かつて我が父上は、民のことを誠心誠意思い、それゆえに愛しい子を倭へ使いにやられた。しかし、その子の姿を見ることなく亡くなられたのだ。また、朕が即位して以来、周辺諸国との戦いは激しさを増し、絶えることがない。ただ高句麗のみが縁組を結びたいと言ってきた。朕はその言葉を信じ、実の弟を高句麗へ遣わした。ところが、高句麗もまた彼を引き留めて帰さない。朕は富み栄える地位にありながらも、一日たりとも彼らのことを忘れ、涙せぬ日はない。もし二人の弟に再び会うことができ、共に先君の御廟でお詫び申し上げることができれば、これこそ国中の人々への恩返しとなろう。誰かこの計画を成し遂げられる者はいないか。」 この時、百官が口を揃えて申し上げました。「この事は決して容易な事ではございません。必ずや知恵と勇気を兼ね備えた者でなければなりません。臣らは、歃羅郡の太守である堤上こそが適任かと存じます。」そこで王は堤上を召して、尋ねられました。堤上は二度礼をして、こう答えました。「臣は『主が憂えれば臣は辱めを受け、主が辱めを受ければ臣は死すべきである』と聞き及びました。もし難しさやすいさを論じてから行動するならば、それは忠義とは言えません。生死を図ってから動くならば、それは勇気とは言えません。臣は不肖ではございますが、お受けいたしましょう。」王は大いに喜び、自分の杯を分け与えて酒を飲み交わし、手を握って別れを惜しみました。 堤上は御簾の前で命を受け、そのまま北の海へ向かう道を急ぎ、衣を変えて高句麗に入りました。そして寶海のもとへ赴き、共に逃げ帰る計画を練りました。まず五月十五日に先に歸り、高城の水口に船を止めて待つことにしました。いよいよ約束の日が近づくと、寶海は病気と称して數日の間、朝廷に出ませんでした。そして夜中に抜け出し、高城の海辺にたどり着いたのです。王はこれを知り、數十人の兵を追跡させました。彼らは高城で追いつきましたが、しかし寶海は高句麗にいる間、常に周りの者たちに恩恵を施していたため、その兵士たちは彼を哀れに思い、皆、矢じりを抜いてから射ました。こうして寶海は無事に逃げ帰ることができたのです。 王は寶海と再會し、ますます美海のことを思い出し、喜びと悲しみが入り混じって、涙を流しながら左右にこう語りました。「まるで、一つの體に一つの腕、一つの顔に一つの目があるようなものだ。一方を得ても、もう一方を失ったならば、どうして痛まないことがあろうか。」この言葉を聞いた堤上は、再び礼をして朝廷を辭し、馬に乗ったまま家にも寄らずに、栗浦の浜辺へと急ぎました。妻はこの知らせを聞き、赤馬に乗って栗浦まで追いかけましたが、夫はすでに船の上にいるのでした。妻が懸命に呼びかけても、堤上はただ手を振るだけで船を止めませんでした。 堤上は倭國に渡ると、偽ってこう言いました。「雞林の王が、罪もない私の父や兄を殺しました。それで逃げてここへ參りました。」倭の王はこれを信じ、家や妻を与えて大切にしました。その間、堤上はいつも美海に付き添って海辺を散策し、魚や鳥を捕まえては、その獲物を毎回倭の王に獻上しました。王は大変喜び、疑うことはありませんでした。 ある日の明け方、霧が深く立ち込めた時、堤上は言いました。「今が絶好の機會です。」美海が「では、一緒に行こう。」と言うと、堤上は申し上げました。「私も同行いたしますと、倭人が気づいて追いかけてくるかもしれません。私がここに殘って追手を食い止めましょう。」美海は言いました。「私はあなたを父や兄のように思っている。あなたを置いて、どうして一人で帰れるだろうか。」堤上は答えました。「私はあなたの命を救い、大王の悲しみを慰めることができればそれで本望です。どうして生きながらえることを願いましょうか。」そう言って酒を取り出し、美海に差し出しました。ちょうどその時、雞林人の康仇麗が倭國にいましたので、彼に付き添わせて美海を逃がしました。 堤上は美海の部屋に入り、翌朝になっても出てきませんでした。家來たちが中に入って様子を見ようとすると、堤上は出てきて止め、「昨日は獲物を追いかけ回して疲れたのか、病が重くてまだ起き上がれないのです。」と言いました。日が暮れても出てこないので、家來たちは不審に思い、改めて尋ねると、堤上は「美海さまは、もうずいぶん前に旅立たれましたよ。」と答えました。家來たちは走って王に知らせました。王は騎兵を遣わして追わせましたが、間に合いませんでした。 そこで王は堤上を捕らえ、尋問しました。「なぜ、お前は自國の王子を密かに逃がしたのだ。」堤上は答えました。「私は雞林の臣です。倭國の臣ではありません。ただ我が君の思いを遂げさせたいと思ったまでです。どうしてあなた様に申し上げられましょうか。」倭の王は怒って言いました。「お前はもはや我が臣下である。それなのに『雞林の臣』と言うならば、五刑の全てを言渡そう。もし『倭國の臣』と言うならば、必ずや高い位と多くの祿を與えよう。」堤上は答えました。「寧ろ雞林の犬や豚になる方がましです。倭國の臣や子にはなりませぬ。寧ろ雞林の鞭の苦しみを受ける方がましです。倭國の爵位や祿は受けませぬ。」王は怒り、堤上の足の裏の皮を剝ぎ取り、葦（あし）を刈り取ってその上を歩かせました（この葦の上に殘る血の跡は、今も「堤上の血」と呼ばれています）。そして再び問いました。「お前はどこの國の臣か。」答えは「雞林の臣です。」でした。さらに燒けた鐵の上に立たせて、どこの國の臣かと問い尋ねましたが、答えは「雞林の臣です。」のままでした。倭の王は、もはや心を屈させることはできないと知り、木島の中で彼を燒き殺しました。 一方、美海は海を渡って來ました。まず康仇麗を使わして國中に知らせました。王は喜びと驚きのあまり、百官に命じて屈歇驛まで迎えに行かせました。そして王自身は、實の弟寶海と共に南の郊外まで出迎えました。美海は帰國し、王宮での宴が開かれ、國中に大赦が行われました。また、美海の妻を國大夫人とし、王の娘を美海公の夫人とされました。 世の識者はこう言いました。「昔、漢の臣である周苛が滎陽で楚の兵に捕らわれたことがあった。項羽は周苛に『我が臣となれば、萬祿侯に封じよう』と言った。しかし周苛はののしって屈せず、楚の王に殺された。堤上の忠烈も、周苛に劣ることはないだろう。」 もともと、堤上が發つ時、その妻はこれを聞いて追いかけたが間に合いませんでした。彼女は望德寺の門の南まで行き、砂の上に大の字に倒れて聲を上げて泣きました。それ以來、その砂の場所は「長沙」と呼ばれるようになりました。親戚の者が二人で彼女の脇を支えて帰ろうとしましたが、彼女は足を投げ出して座り込んだまま、どうしても立ち上がろうとしませんでした。その場所を「伐知旨」と名付けました。長い年月が經ち、妻はその慕う思いに堪えきれず、三人の娘を連れて鵄述嶺に登り、倭國の方を望んで慟哭しながら命を終えました。そのため、彼女は「鵄述神母」と呼ばれ、今もその祠堂が殘っています。