六以文字徵之。此土方言討尋無本。文字開俗肇自古皇。或鳥跡垂文。或科斗程字。或史籀制篆。或程邈造隷。六文紛其昭晰。八體煥乎斯彰。勘諸史冊難得定指。詳於顧氏之論。亦附寶公之篇。所以三蒼三雅總會說文。字本九千字源極矣。字林字統字苑桂苑。世增二萬澆流漸繁。抑惟人情無可憑據。天竺音字一准上天。天分二十八部。並尊梵王為主。所以世界初立人物俱空。梵天來下遂有情品。故梵天有生之元始。音字亦隨彼而族之。今則梵音梵文五天同軌。若凡若聖今古一同。故一音所演唯指梵言。群生各解乃隨方類。此方有述胡書胡語者。此曲指嶺北三十六蕃。實惟戎胡不參大夏。故大宛月支書語各別。不于天竺佛生之地。相去數萬無得混同。大雪山南五天之國。書語承天萬代恒定。所遵既勝明知非邊。震旦文言下方蟲鳥或出凡情。曾無典據。義非中矣。
六、文字によってこれを証せば、この土の方言は、その根本を尋ねるに本がない。文字は俗を開き、古の皇より起こる。あるいは鳥の跡が文字を垂れ、あるいは科斗が字を程し、あるいは史籀が篆を制し、あるいは程邈が隷を造る。六文は紛れもなく昭らかに、八体は燦然と輝いて顕れる。諸々の史冊を調べても、定まった指摘を得るのは難しい。顧氏の論に詳しく、また宝公の篇にも付されている。そこで三蒼・三雅は説文に総会され、字の本は九千字。字源はここに極まる。字林・字統・字苑・桂苑は世に二万字を増やし、浅薄な流れが次第に繁くなった。思うに、これは人情に過ぎず、拠るべきものはない。
天竺の音字はただひとえに上天に依り、天は二十八部に分かれ、みな梵王を主と尊ぶ。ゆえに世界が初めて立ち、人物ともに空であった時、梵天が来下してついに情ある者(有情)となった。それで梵天は生の元始であり、音字もまたそれに随って族される。今、梵音・梵文は五天において軌を同じくする。凡夫も聖者も、古も今も同じである。ゆえに一つの音で演説されるものはただ梵言を指す。群生はそれぞれに解するが、それは方類に随うのである。
この土(震旦)に胡書・胡語を述べるものがあるが、これは曲がりなりにも嶺北の三十六蕃を指す。実にこれらは戎胡であり、大夏に参入しない。ゆえに大宛や月支は書語がそれぞれ異なり、天竺の仏生の地には及ばない。その距離は数万里もあり、混同してはならない。大雪山の南、五天の国は、書語を天に承けて万代にわたり恒定している。その遵うところがすでに勝れているゆえ、辺境でないことは明らかである。
震旦の文言は、下方の虫や鳥または凡情から出たものであり、かつて典拠がない。その義は中正ではない。