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title: "法苑珠林 · 8 壽量部"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
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### 壽量部第八

> 寿量品 第八

依阿毘曇論云。天壽量者。如人間五十歲。為四天王天一日一夜。即用此日月歲數。四天王天壽命五百歲。計人間日月九百萬歲。即是等活地獄一日一夜。如是日月歲數。等活地獄壽五百歲。計人間百歲為三十三天一日一夜。如是日月歲數。三十三天壽千歲。計人間三億六百萬歲。即是黑繩大地獄一日一夜。如是日月歲數黑繩地獄壽千歲。計人間二百歲。為焰摩天一日一夜。如是日月歲數焰摩天壽二千歲。計人間十四億四百萬歲。即是眾合大地獄一日一夜。如是日月歲數。眾合大地獄壽二千歲。計人間四百歲。為兜率陀天一日一夜。如是日月歲數。兜率陀天壽四千歲。計人間五十七億六百萬歲。即是呼地獄一日一夜。如是日月歲數呼地獄壽四千歲。計人間八百歲。為化樂天一日一夜。如是日月歲數。化樂天壽八千歲。計人間二百三十億歲。即是大呼地獄一日一夜。如是日月歲數大呼地獄壽八千歲。計人間一千六百歲。他化自在天一日一夜。如是日月歲數他化自在天壽一萬六千歲。計人間九百二十一億六百萬歲。即是熱大地獄一日一夜。如是日月歲數熱大地獄壽一萬六千歲。計眾熱大地獄壽其半劫。無擇大地獄壽一劫。畜生趣極長壽亦一劫。如地持論。龍餓鬼等極長壽五百歲。

第二計色界壽命者。即用劫為量。初梵眾天壽命半劫。梵福樓天壽一劫。大梵天壽一劫半。少光天四劫。光音天八劫。少淨天十六劫。無量淨天三十二劫。遍淨天六十四劫。福愛天一百二十五劫。福光天二百五十劫。廣果天五百劫。無想天亦爾。無悕望天千劫。無熱天二千劫。善見天四千劫。善現天八千劫。色究竟天一萬六千劫。

> 次に色界の寿命について説明します。色界の寿命は劫（長い時間の単位）で測ります。初めに梵衆天の寿命は半劫、梵輔天は一劫、大梵天は一劫半です。少光天は四劫、光音天は八劫、少浄天は十六劫、無量浄天は三十二劫、遍浄天は六十四劫、福愛天は一百二十五劫、福光天は二百五十劫、広果天は五百劫です。無想天も同じです。無慾望天は千劫、無熱天は二千劫、善見天は四千劫、善現天は八千劫、色究竟天は一万六千劫です。

第三計無色界天壽命者。空處天二萬劫。識處天四萬劫。無所有處天六萬劫。非想非非想處天八萬劫。三界皆有中夭。唯欝單越。及兜率天最後身菩薩。及無想天。皆定壽命不說中夭。餘有中夭也。順正理論。此亦同。然北俱盧人於人趣福力最強。鈍根薄塵多諸快樂無攝受過。死必上生餘同前說。

> 第三に、無色界の天人の寿命について述べる。空無辺処天は二万劫、識無辺処天は四万劫、無所有処天は六万劫、非想非非想処天は八万劫である。三界のすべてにおいて、寿命を全うせずに途中で命を終える「中夭（ちゅうよう）」がある。ただし、欝単越（北倶盧洲）の人々、兜率天の最後身の菩薩、そして無想天の天人だけは、定められた寿命を全うし、中夭はないとされる。それ以外には中夭がある。『順正理論』でも同様に説かれている。しかし、北倶盧洲の人々は人間界の中でも福徳の力が最も強く、根機も鈍く、煩悩も薄く、多くの楽しみに恵まれ、執着による過ちがない。死後は必ずより良い境地に生まれ変わる。それ以外は前に述べた通りである。

問曰。此火劫起時上至初禪悉皆燒盡。何故論云。大梵天王得壽一劫半耶。答曰。此言一劫半者據積六十小劫為一劫半。不據大劫。若據水火風大劫說者。猶是一劫合成八十小劫。小中尚少二十小劫。與彼一劫半壽義不相違也。云何知然。如舊俱舍論名為別劫。立世阿毘曇論名為小劫。新俱舍論新婆沙論名為中劫。此三名別體唯是一。時量共等。如阿含經說。謂從人壽八萬四千歲。百年減一。乃至十歲。還從十歲復增至八萬四千歲。一上一下。爾許時分名一中劫量別小亦同若依俱舍論說。謂天地。始終三災一運盡時始名大劫。隨一水火風災。要經八十中劫。如以一中劫壞一中劫成。十九中劫眾生次第住。二十中劫正住。十九中劫次第壞空。此則一中劫。隨逢一火水風壞器世界。十九中劫。隨逢飢病刀壞眾生世界。以如斯義。是故毘曇說如是言。是處最後住。是處最初空。眾生最後住者。謂是最下阿鼻地獄也。是處最後空。眾生最初住者。其則不定。若據火劫即是初禪。若約水劫是其二禪。若約風劫是其三禪。以此而論。是故一大劫中具彼六十中劫并空劫中二十別劫。合有八十小劫。始為一大劫。辯劫如是。次顯無違。今言初禪第一梵眾天壽命半劫者。當知據彼一別劫中半劫二十中劫為言。第二梵輔天壽命一劫者。所謂據彼一別劫四十中劫為語。第三大梵天壽命一劫半者。當知據彼一別劫半六十中劫而說。以如斯義故。不相違也。初禪如是。二禪已上當知皆據三災大劫以明壽量。不據中別劫也。二禪之中。第一少光天壽命二劫。第二無量光天壽命四劫。第三光音天壽命八劫。若言水災既至二禪。光音諸天何以得壽八大劫者。應知於彼七火災後。方有一水災起上及二禪。是光音得壽八大劫也。三禪之中第一少淨天壽命十六劫。第二無量淨天壽命三十二劫。第三遍淨天壽命六十四劫。若言風災既至三禪。何以遍淨諸天得壽六十四大劫者。此亦應知。彼六十三運水火災後。方有一風災起。是故遍淨得壽六十四劫。云何知然。此如毘曇中說。於七火劫次第起後。然有一水災起。如是七七四十九火起時。是則有其一七水災合說即有五十六劫。更復於此五十六劫之後。復有七火劫起。於此七火之後方有一風災起壞及三禪。并前即為六十四劫。以如斯義。是故遍淨得壽六十四劫。故彼毘曇說是偈言。

> 問う。この火劫が起こる時、上は初禅に至るまでことごとく焼き尽くされる。なぜ論には「大梵天王は一劫半の寿命を得る」と説かれているのか。 答える。ここでいう一劫半とは、六十の小劫を積んで一劫半とするのであって、大劫を基準にしたものではない。もし水火風の大劫に基づいて説くなら、一つの大劫は八十の小劫から成る。その中でさらに二十小劫が足りないとしても、あの一劫半の寿命と矛盾するものではない。 どうしてそうだと知るのか。例えば旧『倶舎論』では「別劫」、『立世阿毘曇論』では「小劫」、新『倶舎論』や新『婆沙論』では「中劫」と呼ぶ。この三つの名称は異なるが、本体はただ一つであり、時間の長さも等しい。 例えば『阿含経』に説くように、人間の寿命が八万四千歳から百年に一歳ずつ減じて十歳に至り、また十歳から増えて八万四千歳に戻る。この一上一下の間を一中劫の量とする。<注：別劫も小劫も同じである>。 もし『倶舎論』の説に従えば、天地の始まりから終わりまで、三災が一巡して尽きる時を初めて一大劫という。一つの水火風の災いが起こるごとに、必ず八十の中劫を経る。すなわち、一中劫をもって壊し、一中劫をもって成し、十九中劫をもって衆生が次第に住み、二十中劫をもって正しく住み、十九中劫をもって次第に壊れ空になる。この一中劫の時に、一つの火・水・風の災いに遭って器世界が壊れる。十九中劫の時に、飢饉・疫病・刀兵の災いに遭って衆生世界が壊れる。 このような理由から、毘曇はこう説く。「最も後に住む所、最も先に空になる所」。衆生が最も後に住む所とは、すなわち最下の阿鼻地獄である。最も後に空になる所、衆生が最初に住む所は、それは一定しない。もし火劫に基づけば初禅であり、水劫に基づけば二禅であり、風劫に基づけば三禅である。 これによって論じるなら、一大劫の中には、あの六十の中劫と空劫の中の二十の別劫が含まれ、合わせて八十の小劫があって、初めて一大劫となる。劫について弁明した上で、次に矛盾のないことを示す。 ここで初禅の第一梵衆天の寿命が半劫であるというのは、一つの別劫の中の半ば、すなわち二十中劫を指して言うことを知るべきである。第二の梵輔天の寿命が一劫であるというのは、一つの別劫の四十中劫を指して言う。第三の大梵天の寿命が一劫半であるというのは、一つの別劫の半分である六十中劫を指して言う。このような理由により、矛盾はないのである。 初禅がこの通りであるように、二禅以上はみな三災の大劫に基づいて寿命の量を明らかにするのであって、中劫や別劫に基づくのではない。 二禅の中では、第一の少光天の寿命は二劫、第二の無量光天の寿命は四劫、第三の光音天の寿命は八劫である。もし「水災が二禅にまで及ぶなら、なぜ光音天は八劫もの寿命を得るのか」と言うならば、七度の火災の後に初めて一つの水災が起こり、上は二禅にまで及ぶことを知るべきである。それゆえ、光音天は八劫の寿命を得るのである。 三禅の中では、第一の少浄天の寿命は十六劫、第二の無量浄天の寿命は三十二劫、第三の遍浄天の寿命は六十四劫である。もし「風災が三禅にまで及ぶなら、なぜ遍浄天は六十四大劫もの寿命を得るのか」と言うならば、これもまた、六十三回の水火災が巡った後に初めて一つの風災が起こることを知るべきである。それゆえ、遍浄天は六十四劫の寿命を得るのである。 どうしてそうだと知るのか。これは毘曇の中で説かれている。七回の火劫が次第に起こった後に、初めて一つの水災が起こる。このようにして七度の七回の火災が起こる時、すなわち七回の水災がある。合わせて五十六劫となる。さらに、この五十六劫の後に、再び七回の火劫が起こる。この七回の火災の後に、初めて一つの風災が起こり、三禅にまで及んで壊す。先のものを合わせると六十四劫となる。このような理由により、遍浄天は六十四劫の寿命を得るのである。 それゆえ、毘曇は次の偈を説いている。

七火次第過 然後一水災七七火七水 復七火後風

> 七回の大災の後、次に一度の大水の災いが訪れる。 さらに七回の火災と七回の水害の後、再び七回の火災が過ぎて、今度は風の災いが起こる。

問曰。此四天識處壽命既倍空處。未知後之二天何故不倍前耶。答曰。如婆沙論中說。有三論師俱釋此義。第一說者。謂彼空識二處。各有無量行及餘皆捨一切入等行故壽命相倍。空處以有無量行故。得一萬劫壽。餘行復得一萬劫壽是故合得二萬劫壽。識處以有無量行故得二萬劫壽。餘行復得二萬劫壽。以此倍前故得四萬劫壽。上地更無無量行。故壽不倍。一說如是。第二師說者。謂彼空識二處各有定慧二種行故。壽命相倍。定得一萬劫壽。慧行復得一萬劫壽。是故合得二萬劫壽。識處定行得二萬劫壽。慧行復得二萬劫壽。以此倍前故得四萬劫壽。上之二地。但有定行而無慧行。是故壽命不復相倍。二說如是。第三師說者。謂彼四無色處定壽報分。各唯有其二萬劫壽。由有離欲不離欲不離欲故。是故壽命有倍不倍。空處地中以其未離自地欲故。是故但有二萬劫壽。識處地中二萬劫者。是其定壽。由離空處欲故。復得二萬劫。以此倍前故得四萬劫壽。無所有處二萬劫者。是其定壽。由離空識二處欲故。復四萬劫壽。非想地中二萬者。是其定壽由離下之三地欲故。復得六萬劫壽。以如斯義是故非想地中得其八萬劫壽。三說如是。義顯於斯也。

> 問う。この四つの識処天の寿命は、既に空処の倍であるが、後の二つの天がなぜ前の倍ではないのか。 答え。『婆沙論』の中に説かれるように、三つの論師がいて、皆この義を説明している。 第一の説。かの空処と識処には、それぞれ無量行およびその他一切の捨等の行があるため、寿命が倍になると言う。空処は無量行があるゆえに一万劫の寿命を得、また他の行によってさらに一万劫の寿命を得る。そのため合わせて二万劫の寿命となる。識処は無量行があるゆえに二万劫の寿命を得、他の行によってさらに二万劫の寿命を得る。これにより前の倍となるので四万劫の寿命を得る。上の地にはもはや無量行がないため、寿命は倍にならない。これが一つの説である。 第二の説。かの空処と識処には、それぞれ定と慧の二種の行があるため、寿命が倍になると言う。定によって一万劫の寿命を得、慧行によってさらに一万劫の寿命を得る。そのため合わせて二万劫の寿命となる。識処は定行によって二万劫の寿命を得、慧行によってさらに二万劫の寿命を得る。これにより前の倍となるので四万劫の寿命を得る。上の二つの地には定行のみあって慧行がないため、寿命は倍にならない。これが二つの説である。 第三の説。かの四無色処の定まった寿命の報いは、それぞれに二万劫の寿命のみである。しかし、欲を離れているか、離れていないかによって、寿命に倍がある場合とない場合が生じる。空処の地では、自らの地の欲をまだ離れていないため、二万劫の寿命のみである。識処の地で二万劫というのは、その定まった寿命である。空処の欲を離れているため、さらに二万劫を得る。これにより前の倍となるので四万劫の寿命を得る。無所有処の二万劫は、その定まった寿命である。空処と識処の二つの地の欲を離れているため、さらに四万劫の寿命を得る。非想地の二万劫は、その定まった寿命である。下の三つの地の欲を離れているため、さらに六万劫の寿命を得る。このような義により、非想地では八万劫の寿命を得るのである。これが三つの説である。このように義はここに明らかである。