釋迦內外族姓名譜第七(出長阿含經)
第七章 釈迦の内外族の姓と名の系譜(『長阿含経』より)
釋種尸休羅王有四子(此出彌沙塞律。案長阿含經曇無德律。大智論。並云師子頰生淨飯王)。
シューラ(釋迦族の国王)には四人の息子がいた(これは『弥沙塞律』による。『長阿含経』『曇無徳律』『大智度論』では、すべて「師子頬王から浄飯王が生まれた」と記されている。)。
一名淨飯(大智論同。十二遊經云。菩薩父名白淨王)。
浄飯王という方がいました。 大智論にも同じように記されています。 『十二遊経』には、「菩薩の父を白浄王という」とあります。
二名白飯(大智論同。十二遊經云。菩薩叔父。名甘露淨王)。
白飯という名があります(※注釈:大智度論に同様の記述があります。また十二遊経によれば、菩薩の叔父であり、甘露浄王とも呼ばれます)。
三名斛飯(大智論同。十二遊經云。菩薩中叔名穀淨王)。
三、名は斛飯です。(『大智論』も同じです。『十二遊経』には「菩薩の中叔を名づけて浄王という」とあります。)
四名甘露飯(大智論同。十二遊經云。菩薩小叔名設淨王)。
四名の甘露飯(注釈:大智論に同じ。十二遊経には「菩薩の小叔、名を設浄王という」とある)
淨飯有二子。一名菩薩(大智論同。十二遊經云。白淨王有二子。其太子名悉達)二名難陀(大智論同。十二遊經云。其小子名難陀)。
浄飯王には二人の子がいた。一人目は菩薩(注:大智論に同じ。十二遊経には「白浄王に二子あり。その太子の名を悉達という」とある)、二人目は難陀(注:大智論に同じ。十二遊経には「その小子の名を難陀という」とある)である。
白飯有二子。一名阿難。二名調達(大智論云。白飯二子跋提提沙。十二遊經云。甘露淨王二子。長子名調達。小子名阿難)。
白飯(はくはん)王には二人の子がいました。一人の名は阿難(あなん)、もう一人の名は調達(ちょうだつ)です。
斛飯有二子。一名摩訶男。二名阿那律(大智論云。斛飯二子。提婆達多。阿難 十二遊經云。穀淨王有二子。大子名釋摩納。小子名阿難律)。
斛飯には二人の子がいました。一人は摩訶男、もう一人は阿那律といいます(大智論によれば、斛飯の二人の子とは提婆達多と阿難である。十二遊経には、白浄王には二人の子がおり、長男を釈摩納、次男を阿難律と記す。)。
甘露飯有二子。一名婆婆。二名拔提(大智論云。甘露飯二子。摩訶男阿泥盧豆。有一女。名甘露味。雜阿含云。低沙比丘是佛姑子兄弟。十二遊經云。設淨王有二子。大子名釋迦王。小子名釋少王。尋此四王名號次序及生子名字互有同異。正其然否寄之來哲。其淨飯王白淨真淨悅頭檀輸頭檀眾經名各不同。蓋是譯出致異。即是一人耳。阿泥盧豆。即阿那律。推例而求。類多如此)。
甘露飯には二人の子がいた。一人は婆婆(ばば)、もう一人は拔提(ばつだい)という。
調達。四月七日食時生。身長一丈五尺四寸(出十二遊經)。
調達(デーヴァダッタ)は、四月七日の食事時に生まれました。身の丈は一丈五尺四寸(約4.6メートル)ありました(※『十二遊経』による)。
菩薩四月八日夜半明星出時生。身長丈六(出十二遊經)。
菩薩は四月八日、真夜中に明星が現れる頃にお生まれになりました。その身の丈は一丈六尺ありました(『十二遊経』より)。
佛弟難陀以四月九日生。身長一丈五尺四寸(出十二遊經)。
仏弟子ナンダは4月9日に生まれた。身長は1丈5尺4寸であった(『十二遊経』による)。
阿難以四月十日生。身長一丈五尺三寸(出十二遊經)。
アーナンダは、四月十日に生まれました。身長は一丈五尺三寸です。
菩薩外家去迦維羅閱城(晉言妙德)八百里。姓瞿曇氏作小王主百萬戶。名一億王(出十二遊經。釋迦託生王宮譜稱一億王。次釋少王下。又云菩薩母名摩耶。難陀母名憍曇彌。即大愛道也)。
菩薩は、ガヴィラヴァッティ(カピラ城)から八百里離れたところに住む、ある豪族の娘でした<注:晋の時代の言葉で「妙徳」と訳す>。その家はゴータマ姓を名乗り、小国の王として百萬の戸を治めていました。その王の名は一億王といいます<注:『十二遊経』による。釈迦が王宮に生まれた系譜では一億王と称される。次は釈迦の父であるシュッドーダナ王(浄飯王)より前の王。また、菩薩の母はマーヤー(摩耶)といい、難陀の母はゴータミー(憍曇弥)といい、すなわち大愛道である>。
菩薩婦家姓瞿曇氏。舍夷長者名水光。其婦名月女。有一城居近其邊。生女之時日將欲沒。餘明照其家室內皆明。因字之為瞿夷(瞿夷晉言明女)。瞿夷是太子第一夫人(出十二遊經)。
菩薩の妻の家は姓が瞿曇(くどん)氏で、舎夷(しゃい)長者の名は水光と言いました。その妻の名は月女でした。ある城があり、そのすぐ近くに妻が住んでいました。娘が生まれた時、日が沈もうとしていましたが、その残りの明かりが家の中を照らし、すべて明るくなりました。そこで、その子を瞿夷(くい)と名付けました。瞿夷とは晋の言葉で「明るい女」という意味です。瞿夷は太子の第一夫人でした(十二遊経より)。
太子第二夫人。生羅云者名耶惟檀。其父名移施長者。
太子の第二夫人、羅雲(らうん)を生んだ方は耶惟檀(やいたん)といいます。その父は移施(いせ)という長者です。
祐案。瑞應本起善權眾經。及大智論並云。羅睺羅是裘夷所生而十二遊獨云。是第二夫人子。從多而斷則。宜以瑞應為正。
諸経典の記述により、羅睺羅は裘夷(ヤショーダラー)の子であるとされています。具体的には、『瑞應本起経』や『善権経』、そして『大智度論』などが一致して、彼をヤショーダラーの子と説いています。一方、『十二遊経』だけが「第二夫人の子である」と述べていますが、多くの信頼ある経典に従って判断するならば、『瑞應本起経』の記述を正しいとするのが妥当です。
第三夫人名鹿野。其父名釋長者。以有三婦故。父王為立三時殿。殿有二萬婇女。以太子當作遮迦王(晉譯飛行皇帝)故三殿置六萬婇女(出十二遊經)。
第三夫人の名は鹿野といい、その父は釈迦長者と呼ばれました。王妃には三人の妃がいたので、父王は彼女たちのため三つの時季の宮殿を建てました。それぞれの殿には二万の女官が仕えました。太子がいつか遮迦王(晋訳では飛行皇帝)となる身であるため、三殿全体で六万の女官が置かれたのです(十二遊経による)。
祐觀大覺俯應跡均俗典。所以胤裔繼哲姻亞重明。並緣發曠。劫故能翼讚靈化耳。
大いなる覚者(仏陀)を敬い仰ぎ見ると、その現れ出た跡は俗世の経典と等しく、それゆえに子孫は賢者を受け継ぎ、姻戚関係は幾重にも輝きを重ねる。これらすべては因縁が広大な劫(長い時間)を超えて発現したからであり、その故に霊妙な教化を翼のように助け、讃えることができるのである。