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止観輔行伝弘決 (止觀輔行傳弘決)


止觀輔行傳弘決卷第三之一

止観輔行伝弘決 巻第三之一

唐毗陵沙門湛然述

唐の毘陵の沙門、湛然が述べる

大章第二釋名者。夫立名不同。如大經云。或有因緣如目連等。或無因緣如桃李等。涅槃亦爾。無有因緣彊為立名。止觀亦爾彊名止觀。即此無因名為有因。為眾生故隨機立稱。又依於世名立出世名。是故眾聖先立世名。為出世名而作方便。而是世名本是出世。故金光明云。世間名字皆出佛經。故知諸名法理而立。名既法理理亦因名。故假妙名以詮妙理莊子云。而世貴言傳書不足貴也。莊既以言傳書則莊自不足可貴。老子曰。知則不言言則不知。而老有言則同不知。意欲使於天下無言。獨揚己言。不意反以無言自斥世人。被此自斥之言。而潛斥之反以為得謬之甚矣。今則不爾。因罤得兔得已亡罤。罤何所亡弗謂為兔。文字解脫斯之謂歟。立止觀名例之可見前分別中名為廣略。亦云總別。總別二文互相映顯。故前文云。生起五略顯於十廣。又前略後廣為解義故。前廣後略為攝持故。今演前略令義易了。若為利鈍二人不同。如大經三十一。佛告舍利弗。汝慎勿為利根之人而廣說法。鈍根之人而略說法。舍利弗言。我為憐愍故說非為具足根力。佛言。廣略說法非諸聲聞緣覺所知。經明逗機故寄斥身子。今論解釋兼為二人。況前略文且為生解。解猶未備故此廣論。又此廣文亦與五重玄義意同。五重則玄譚教旨。今此則依經起行。所以彼為釋經此為成觀是故次第稍異於彼。初釋名者即標名也。次體相者即顯體也。攝法秖明體所攝法。方便下三即是明宗。起教是用。偏圓判教。彼釋法華理須分別一代教門故教居後分別前四。此為成觀觀由解生。名體偏圓並屬於解。由解立行故次解後方便正觀。行始為因行終為果。故次正觀以明果報。宗是自行用是益他。由自行滿故能起教旨歸秖是自他所契。故彼玄文引神力品約教次第。故名用體宗若引序品約行次第。故名體宗用。今文正當約行次第。但以教相在於宗前。前後之意如向所說。今解釋名。初結前生後亦是來意次第。大途去結前也。復以去生後也。途道也。未委論其蹊徑故曰大途。梗略也。概平也。秖是粗略出其大綱。如前大意自他因果行解略足。復以何義名為止觀。故今文中開為四門。若無此釋將何以辨名體之功。是故四段。前三正明能詮之名後一旁立以所顯能。待詮次第絕詮不次。會異秖是絕待異名。初相待者彼此互形曰相。以他望己為待。如長短大小互受其名。莊子云。人長七尺不以為大。螻蟻七寸而得大名。俱舍疏云。待謂觀待。前觀於後名過後觀於前名未。父子兄弟更互得名。例此可見。判今法華唯具二妙。所謂待絕。所言待者唯有待麁成妙。更無待妙成麁。若以迹望本亦可互形。若以部望部一向唯妙。今約法華迹理復置互形。所以玄文待絕俱稱為妙。故以部教相望復有橫竪。望前四時名為竪待圓望三教。名為橫待。此文既依法華經意。而釋名等大概準彼。相待是麁。義當待麁論妙。絕待是妙。義當開麁論妙。此二亦名廢麁開麁。故法華中唯論二妙。更無非待非絕之名。彼為判教故待之與絕同稱為妙。今此相待則判為麁。唯明絕觀無部可待則無竪待。無教可望名無橫待。故唯一絕以為能詮。雖立相待以顯絕待。尚無於絕何待之有。為詮三德故假名絕。借相待名判為思議。故唯絕待方稱為妙。所以思議境後佛界雖妙。居九界末通名為麁故並判云。非今所用。次與不次意亦如是。故次第意但云衍門。用通用別但云似通似別。雖云不用正約思議明不思議。開於所待以成能絕。即是今文妙觀意也。釋名下去諸義皆然。所以釋名論待論絕。體相唯論次與不次。攝法六義偏圓五門亦復如是雖無部會可以對論。還借教味以顯圓妙。境境十觀秖應唯妙尚寄橫竪顯非橫竪。故知一部之文共成圓乘開權妙觀。豈指一句別謂高深。若其然者。何殊體踏。此中四段。文四義二意唯在一。待絕為二意在於絕又所一能三亦名義一以所顯能故云意一。三止者。雖開三名名猶通總。該括三諦未判淺深至顯體中分方優劣。觀中三義亦復如是諸惡覺觀等者。語似見思意且通說。所引淨名亦且通證。若借體相文來此預辨者。謂止息見思停心真理。真理不當止與不止。若止息塵沙停心俗理。俗理不當止與不止。若止息無明停心中理。中理不當止與不止。此則三諦各有三止。觀亦如是準說可知。故下文云。前三成次三。後一具前三。次第既爾一心例然。次停止中緣心諦理。及仁王入理般若通而未別意亦如前。故此中云理。但語能入之智。未云所入之理。觀中亦然。第三止中云語通意殊者。此中亦云對於不止以明止者。語似上文。上之二止息對不息停對不停。今以無明對於法性。一往觀之。無明似不息不停法性似息似停。故云語通上也意則不爾。無明即法性。法性即無明。體同名異相對立稱。是故永異上之二止。上二不可云相即故今別約等者。正出第三止相。所言別者。以上二止但屬通途。言通途者。二止皆有一智一斷。斷邊有智且對生死。即約涅槃而立斷名。智邊有斷且對理外。即約般若而立智名。斷故名息智故名停。智約能斷斷約所斷。故云智斷通論二止。今則不爾。專約諦理理非能所。但由具惑惑即法性。惑性相待非關智斷。是故第三不同前二。又第三止約理立名而止非理。前之二止但依智斷智斷是止。是故第三不同前二。又智斷依理而智斷非理。故前二止但以智斷而為親依。不同第三專以諦理而為親依。是故第三不同前二。又且順思議故有斯異。若不思議三體本一。如經下引證。通引諸經未為別證故無的指。無明法性皆非生滅。理雖俱非若云法性須言寂滅。若云無明須言生滅。此則二名俱通三諦。名皆對立理並無差。故知釋名且在消釋止觀二字名息貫等。未暇委述能所淺深。故下文云。不可尋通名求於別體。三止既爾三觀例然。初觀中云利钁等者。大鉏曰钁。此琢治玉耳。非今意也應作此斲。斵者破也。大石曰磐粉石曰砂小石曰礫。大經十八性品云。譬如有人善知伏藏。即以利钁斲地磐石砂礫直過無難。唯至金剛不能穿徹。今借彼譬總含三惑準止可知。應置金剛但存穿徹。即此中意。次引法華穿鑿義邊以證貫穿。未分乾濕故亦通也。次釋觀達中引瑞應文。言雖有息意存達邊。次不觀觀及引經等準止可知。是故下結如文。

# 大章第二 名の解釈

そもそも、名称のつけ方には違いがある。『大涅槃経』に説かれるように、因縁があって名づけられる場合(目連など)と、因縁なくして名づけられる場合(桃や李など)とがある。涅槃もまた同じで、無理に名づける必要はない。止観もまた同様、無理に止観と名づけている。この「因なし」ということが、実は「因あり」となる。衆生のため、機に応じて名づけるのである。

また、世俗の名に依って、出世の名を立てる。それゆえ、聖者たちは先に世俗の名を立て、それを出世の名のための方便とする。しかし、この世俗の名は、もともと出世のものである。ゆえに『金光明経』には「世間の名は、すべて仏経に由来する」と説かれている。したがって、あらゆる名は、法と理に基づいて立てられている。名が法・理に基づくならば、理もまた名に依る。ゆえに、妙なる名を借りて、妙なる理を説明するのである。

荘子は言う。「世間は言葉によって書物を伝えることを重んじるが、書物そのものは貴ぶに足りない」。荘子自身、言葉によって書物を伝えたのだから、荘子もまた貴ぶに足りないことになる。老子は言う。「知る者は語らず、語る者は知らない」。老子が語った以上、彼もまた「知らない」者と同じである。天下に言葉なからしめんとしながら、自らの言葉だけを主張したことになる。思いがけずも、無言をもって自らを責めることになったのだ。世人はこの自らを責める言葉を受け、それにひそかに責められながら、かえってそれを正しいとするのは、大きな誤りである。

今、ここではそうではない。兎を捕らえるために罠を用い、兎を得たならば罠は忘れる。罠を忘れることを、兎だと言うのではない。文字と解脱の関係も、これである。止観の名を立てる例は、先の「分別」の中で「広略」とも「総別」とも説かれている。総と別の二つの文は、互いに映し合い、明らかにし合う。先の文には「五つの略を生起して、十の広を顕す」とある。また、先に略を説き後に広を説くのは、意味を理解させるためであり、先に広を説き後に略を説くのは、要点をまとめるためである。今、先の略を詳しく述べて、意味を分かりやすくする。

もし、利根の人と鈍根の人とで異なるならば、『大涅槃経』第三十一に、仏が舎利弗に告げられた。「あなたは、利根の人に広く説法してはならない。鈍根の人に略して説法してはならない」。舎利弗が言う。「私は憐れみのゆえに説くのであって、根力が備わっているからではありません」。仏は言う。「広く説き、略して説くことは、声聞や縁覚の知るところではない」。経は機に合わせることを明かすために、舎利弗を仮に斥けたのである。今、解釈を論じるにあたっては、兼ねて二人のためとする。まして先の略文は、理解を生じさせるためのものであり、理解がまだ十分でないので、ここで広く論じるのである。

また、この広文は「五重玄義」の趣旨とも同じである。五重は教えの趣旨を深く論じ、今ここでは経に依って行を起こす。ゆえに、あちらは経を解釈し、こちらは観を成就するためのものであり、そのため順序が少し異なる。初めに「名を釈す」のは、名を標示することである。次に「体相」は、体を顕すことである。「摂法」は、体の摂する法を明らかにするに過ぎない。「方便」以下の三つは、宗を明らかにすることである。「起教」は用であり、「偏円」は教を判別することである。

あちら(法華玄義)は法華経を解釈するので、一代の教門を分別する必要があり、教を後に置いて、前の四つを分別する。こちらは観を成就するためのものであり、観は理解によって生じる。名・体・偏円はすべて理解に属する。理解によって行が成立するので、理解の次に方便・正観が来る。行の始めが因であり、行の終わりが果である。ゆえに正観の次に果報を明らかにする。宗は自行であり、用は他を利益することである。自行が満ちることによって、教えを起こすことができる。その帰趨は、ただ自他が契入するところにある。ゆえに、あの玄義は「神力品」を引いて、教による順序について説き、「名・用・体・宗」とする。もし「序品」を引いて行による順序について説くならば、「名・体・宗・用」となる。今の文は、正に行による順序に当たる。ただ教相を宗の前に置く点が異なる。前後の意図は、上述の通りである。

## 名の解釈

初めに、前を結び後を生ずる。これは来意の順序でもある。「大途」は前を結ぶことである。「復以て」以下は後を生ずることである。途は道のことである。まだその道筋を詳しく論じていないので、「大途」と言う。梗は粗いこと、概は平らかなことである。ただ粗略にその大綱を出すに過ぎない。先の「大意」の章では、自行・化他、因・果、行・解がほぼ詳しく述べられた。さらに「何の義をもって止観と名づけるのか」という問いがある。ゆえに今の文では、四つの門を開く。もしこの解釈がなければ、どうして名と体の働きを明らかにできようか。ゆえに四段ある。前三段は、正しく能詮の名を明かす。後の一段は、傍らに所詮を立てて、能詮を顕す。

### 相待と絶待

「待」によって詮する順序と、「絶待」によって詮する順序がある。「会異」は、ただ絶待の異名である。

初めに「相待」とは、互いに相対して形をなすことを「相」と言い、他を以て己を望むことを「待」と言う。長短・大小のように、互いにその名を受ける。荘子は言う。「人は七尺の身長でも大とは言わない。蟻は七寸でも大と呼ばれる」。『倶舎論疏』には「待とは観待のことである。前のものを観て後ろのものと名づけ、後のものを観て前のものと名づける。父子・兄弟が互いに名を得るようなものである」とある。これによって例を知るべきである。

今の法華経を判ずれば、ただ二つの「妙」を具える。すなわち「相待妙」と「絶待妙」である。「相待妙」とは、ただ粗を待って妙を成すことであって、妙を待って粗を成すことはない。もし迹門から本門を望めば、互いに形をなすこともあり得る。もし部から部を望めば、一方的に妙のみである。今、法華経の迹門の理によって、さらに互形を置く。ゆえに玄義では相待・絶待ともに妙と称する。部と教を相望すれば、さらに横と竪がある。前の四時を望むのを竪待と言い、円が三教を望むのを横待と言う。

この文は法華経の意に依っている。名の解釈などは、おおむねそれに準じる。相待は粗であり、粗を待って妙を論じる義に当たる。絶待は妙であり、粗を開いて妙を論じる義に当たる。この二つはまた、「廃粗開粗」とも言う。ゆえに法華経ではただ二妙を論じるのみで、「非待非絶」の名はない。あちら(玄義)は教を判ずるためのものであり、待と絶とを共に妙と称する。今ここでは、相待を粗と判ずる。ただ絶観を明らかにし、部として待つべきものがないので、竪待はない。教として望むべきものがないので、横待はない。ゆえにただ一つの「絶」をもって能詮とする。相待を立てて絶待を顕すとはいえ、なお「絶」すらないのに、何を待つことがあろうか。三徳を詮するために、仮に「絶」と名づける。相待の名を借りて、思議と判ずるのである。ゆえにただ絶待のみが妙と称される。だから思議の境において、仏界が妙であっても、九界の末に位置するので、すべて粗と名づけられ、「今の用いるものにあらず」と判ずるのである。

次と不次の意もまた、この通りである。ゆえに次第の意は、ただ「衍門」と言う。通用・別用は、ただ「似通似別」と言う。「用いず」と言うものの、正に思議を借りて不思議を明らかにし、待つところを開いて能絶を成すのである。これが今の文の妙観の意である。「名の解釈」以下、すべての義もまたそうである。

ゆえに名の解釈では待と絶を論じ、体相ではただ次と不次を論じる。摂法の六義、偏円の五門もまた、そうである。部会があって対論できるものではないが、また教味を借りて円妙を顕す。境々の十観は、ただ妙であるべきだが、なお横・竪を借りて非横・非竪を顕す。ゆえに一巻の文が、共に円乗の開権妙観を成すことを知るべきである。どうして一句を指して、特に高深だと言えようか。もしそうならば、足で踏むのと何の違いがあろうか。

この四段は、文としては四つ、義としては二つ、意はただ一つに在る。待と絶の二つは、意が絶に在る。また、能詮は一つ、所詮は三つであり、これを「義一」とも言う。所詮によって能詮を顕すので、「意一」と言うのである。

### 三止

三つの止について。三つの名を開くとはいえ、名はなお通総である。三諦を該括するが、まだ淺深を判じていない。体を顕す段階になって、初めて優劣が分かれる。観の中の三義もまた、この通りである。

「諸の悪覚観等」という言葉は、見思を指すように見えるが、意味は通説である。引くところの『維摩経』も、また通じて証とする。もし体相の文を借りて、これを予め説くならば、「止は見思を息め、心を真理に停める。真理は止と不止とに当たらない。もし止が塵砂を息め、心を俗理に停めるならば、俗理は止と不止とに当たらない。もし止が無明を息め、心を中理に停めるならば、中理は止と不止とに当たらない」となる。このように三諦はそれぞれ三止を持つ。観もまた同様であり、準じて知るべきである。ゆえに後の文に「前三は後三を成し、後一は前三を具える」とある。次第がそうであるならば、一心もまた例によって同じである。

第二の「停止」において、「心を諦理に縁する」ことや、『仁王経』の「入理般若」は、通じて未だ別ではなく、意もまた前の通りである。ゆえにここでは「理」と言うが、ただ能入の智を言うのみで、未だ所入の理を言わない。観の中もまた同様である。

第三の止について「語は通じて意は異なる」とは、ここでも「不止に対して止を明かす」と言うので、言葉は上文と似ている。上の二つの止は、「息」を「不息」に対し、「停」を「不停」に対す。今、無明を法性に対す。一往に観れば、無明は不息・不停のようであり、法性は息・停のようである。ゆえに「語は上の文に通ず」と言う。しかし意はそうではない。無明すなわち法性、法性すなわち無明である。体は同じで名が異なり、相対して称を立てる。ゆえに上の二つの止とは全く異なる。上の二つは「相即」と言えないからである。

「今、別に約する」とは、正に第三の止の相を出す。別と言うのは、上の二つの止がただ通途に属するからである。通途とは、二つの止が共に一智一断を持つことである。断の辺には智があり、生死に対し、即ち涅槃に依って断の名を立てる。智の辺には断があり、理外に対し、即ち般若に依って智の名を立てる。断を名づけて息とし、智を名づけて停とする。智は能断に約し、断は所断に約す。ゆえに智断は二つの止に通じて論じられる。

今はそうではない。専ら諦理に約する。理は能所ではない。ただ惑を具えることによって、惑すなわち法性である。惑と性は相対するものであり、智断に関わらない。ゆえに第三は前の二つと異なる。また、第三の止は理に約して名を立てるが、止は理ではない。前の二つの止は、ただ智断に依り、智断は止である。ゆえに第三は前の二つと異なる。また、智断は理に依るが、智断は理ではない。ゆえに前の二つの止は、ただ智断を親依とする。第三のように、専ら諦理を親依とするのとは異なる。ゆえに第三は前の二つと異なる。

また、しばらく思議に順ずるので、このような違いがある。もし不思議ならば、三体はもともと一つである。

「経に曰く」以下は、証を引く。諸経を通じて引き、別証ではないので、特定的に指さない。無明と法性は、ともに生滅ではない。理はともに「非」であるが、もし法性と言えば寂滅と言わねばならない。もし無明と言えば生滅と言わねばならない。この二つの名は、ともに三諦に通ずる。名は皆、対立であり、理には差別がない。ゆえに知るべきである。名の解釈は、ただ止観二字の名を消釈するにあり、「息」が「貫く」などである。未だ能所の淺深を詳述する暇はない。ゆえに後の文に「通名によって別体を求めてはならない」とある。

三止がそうであるならば、三観もまた例によって同じである。

初めの観に「利钁」とあるのは、大きな鍬を「钁」と言う。これは玉を琢つことである。今の意ではない。正しくは「斵」であるべきである。斵とは破ることである。大きな石を「磐」、粉にした石を「砂」、小さな石を「礫」と言う。『大涅槃経』第十八「性品」に「譬えば、ある人がよく伏蔵を知っていて、利钁をもって地の磐石・砂礫を穿ち、直ちに過ぎて困難がない。ただ金剛に至っては、穿ち徹すことができない」とある。今、この譬えを借りて、総じて三惑を含める。止に準じて知るべきである。金剛を置いて、ただ穿ち徹すことを存する。これがここでの意である。

次に、法華経の「穿鑿」の義の辺を引いて、貫穿を証する。未だ乾湿を分けないので、また通である。

次に、「観達」の解釈において、『瑞応経』の文を引く。言葉には「息」の意があるが、意は「達」の辺に存する。

次に、「不観観」および経を引くことなどは、止に準じて知るべきである。

「是の故に」以下は結び。文の如し。

○次釋絕待者。先總標文意。次破橫竪。次正明絕。初文意者。以橫法破破令成橫。令知橫待不名為絕。以竪法破破令成竪。令知竪待。不名為絕。所言橫者。四句相望未有淺深故名為橫。生生等四。四句相望有深淺故。故名為竪。初破橫中前之兩句。皆云照境為正除惑為旁者旁即是他。正即是自。欲判性過先立旁正。旁正者何。秖是一止得名處殊。約破惑邊即名為息。約依智邊即名為停。約依體性名不止止。故使得名旁正等別。何者。凡論入道正為用智旁為除惑。若從除惑而立名者。名從旁立。若從照境而立名者。名從正生。所破是惑惑望於智。惑即是他。故止息止從所破立即墮他性。能破之止復從能照。照望於惑照即是自。故停止止從能照立。即墮自性。此中所言照境等者。隨語便故。據理應云。依諦為正息惑為旁。至下釋觀方可云照。從若非下。若雙取自他即墮共性。文似雙非意實雙取。故云智斷因緣故止。不偏用一故似雙非。不止止義墮無因性。正是雙非秖是俱離自他故也。非止是離自。非不止是離他。離他是離所破。離自是離能依。故第三止墮無因性。觀亦如是可以比知。然能詮名實不出此三止三觀。故絕待中及顯體中。亦約此名而以辨頓。為除情計故須破性。故引龍樹不自生等。證離性過。無生下結也。絕待無生不從相待四句立名。四句立名下。斥成待義。互相因依待對而立。可思可說即可思議。執性未斷名為結惑。由結惑故未證無生名結惑生。被橫法破名為可破。二空義成相待義壞。名為可壞。起滅去。別約三止三觀破也。略舉中間一止一觀。具足應明三止三觀皆悉不成。中例前後故略不說。又竪下次竪破者。以從前自他四性生故。故是生生。能所俱生故名生生。不免性過即是有為。有為即為四相所遷大生生小生故名生生。因緣是生成所生法。又名為生故名生生。又因生果生故名生生。設於中道而起性過。亦屬生死。況復餘耶。雖三止觀名通三諦。若起四執尚無初觀故屬生死名為生生。破此等生入於涅槃名為不生。此之不生待生得名名生不生。待真不生說於俗生名不生生。待邊說中二邊俱生。破此二生名不生不生。一一文中皆悉應有三止三觀。文中但有二止名耳。初云止息見思即止息止。停住真諦即停止止。下二例之。故知三諦並闕不止止及以三觀。以不止止秖是諦理故不說也。觀義比止亦應可識。四句展轉生後後名。是故四句俱名相待。故須將橫入竪。一一竪句無不有橫。故止息等名遍於竪。是故應須橫竪二破方顯絕待不思議名。皆是下總斥。雖橫竪不同能計義等。是故亦云待對乃至破壞等也。問。橫計自他乃至無因是故生惑。竪至中道云何亦云結惑生等。答。後後皆是前前結惑。故皆是生。又中道未極猶屬教道。教道有惑故亦是生。又信教道於初心中。預計次第展轉能生。故判初心生結惑等。尚未是下亦別斥也。攬相待名成絕待已。還以待名展轉相況。是故後望於前雖得名止。復望於後還成不止。所以總彼相待中三。尚未成於絕待之中止息停止。況不止止。觀亦如是。中道雖復無別諦境。以之為後。若望實道不思議中亦未成止。故三諦止俱未名止。何以故下。釋前斥意。遣執不盡。釋待對中橫竪四句性執不斷。言語道不斷。釋其展轉相生成可思議也。業釋惑也。果釋生也。亦可業果二俱是生。言不絕者。釋可破可壞。今言下正釋絕待。先明所絕。所絕即上橫竪諸待。煩惱秖是四性計耳。由性計故有業有果。稟教修觀次第證得。如是皆成可思議等。是故須破。悉皆下次明能絕即是止觀。雖云能絕能稱於所。何者。既云絕待即待名絕故名為止。止亦自亡名不可得。觀亦如是。非所觀外能稱於所。故云觀冥如境。觀亦自亡故云何得有觀。止觀尚無等者斥於相待。絕待尚無豈立相待。故此止觀非但無於所除暗散。亦乃止觀體自本亡。何者。有所破故說有能破。所即能故無能可論。不得如彼相待名中。待能說所待所說能。又第三止觀待於無明說於法性。名之為止。待於法性說於無明。名為不止。法性不當止與不止。故約法性明第三止待前為異。故云待止不止說非止非不止。即是待前二止說第三止。二止皆對不止而說。故云止不止。若約竪說者。今絕待止觀尚無絕待。何得待生生之不止。說生不生之止觀。乃至待不生生之不止。說不生不生之止觀。何得二字冠下三句。故知下結釋絕意。先止中言皆不可得者。待即是絕。無待可論。故云止不至非止非不止皆不可得。橫竪並然。細思方見。待對既絕下。總結橫竪悉皆絕故。斥彼橫竪俱有為故。今既絕彼故非有為。不可思等者。不可以前橫竪四句。思之能見。非言說等明絕待不可說。既無橫竪四句名相。故前橫竪四句之中所生結惑等。一切皆滅。滅却絕待故云滅絕。能滅亦無故云絕滅。次結觀中顛倒等者。橫竪四句皆名為想。亦是絕有為等者。結得名異也。能絕體一隨所絕處得名不同。絕待止觀等者。次明利他。先明說意。自既證絕能隨四機。無說而說故云可說。若爾。何但三悉是化他法。第一義悉亦為化他。故以四章對於四悉。若有下正釋。問。今明說絕應但明絕。而以四章對於四悉。其義何耶。答。自行唯絕他宜不同。故以絕待離為四說。故玄文中。簡示用云。宗是自行故須簡他。用是益他。是故雙取。不思議用尚取方便。況圓絕待不得作圓四悉說耶。故玄文第六卷末明開四悉云。開麁世界成妙世界。乃至開麁第一義同成妙第一義。故無說而已。說必四悉。何者。異是隔別會成圓異。不異而異故對世界。通是生義名能通理。故以理善而對為人。對有能所絕無能所。亦寄能所為圓對治。絕待約理理雖無說。亦約絕理說第一義。說為止觀者。如是四章莫非止觀。無不皆至絕待之理。又約化儀以明絕者。如淨名中三十二菩薩。各自說己所入之門。門皆通理理故名絕。故諸菩薩說已語文殊言。仁者當說。文殊言。乃至無有言說文字是真入不二法門。得名滅絕。淨名杜口無言得名絕滅。問。同得絕待何故不同。答。兼有所表故示異途。諸菩薩表能詮不同。文殊表所詮不異。淨名表所詮無說。又諸菩薩但表化他。文殊表自行化他。淨名但表自行。各舉一邊共成妙事。四悉絕待準此可知。又大經不可說。大集無言。般若清淨。法華止歎。涅槃不生。皆絕待之異名也。然又須知諸教絕異。開顯無外方稱今文。此之下。結此絕待以成二空。初立。次是字下釋。初明性空。亦不在下次明相空。既破橫竪復赴四機。絕理如何所謂實相。實相之體具足二空。永異於前從假入空之二空也。是字不可得下結名。亦名下。明絕待異名。故如此下。釋絕待相。絕體既遍無所可對。故不因小名為大也。譬如下舉譬。可知。止觀亦爾下合譬。不因愚故名之為觀。不因亂故名之為止。世人下。破謬也。初總破世人依世心說。以語破語。語不可絕。釋絕不成。是故當知須識絕理。何以故下。釋世人語不成絕意語隨想變故語非絕。是故雖云悟不悟等。不免惑染。互待無已故名輪轉。悟約智證心約惑境。有心非悟悟乃絕心。不秖是無。無九界心故名不心。順想虛譚絕復成待無理可依故云無寄。若得意下。出絕待正體。既達絕理誰復分別。雖緣絕理分別不亡皆名為待。是則唯證名真慧開。又得意去明絕不可議。心行去明絕不可思隨智去重出絕位。亦不下。翻前世人謬解也等者。等取輪迴等也。種種下重斥也。真慧下。重舉位功能。如前下。又舉譬譬絕。前者進也。謂進火杖。杖進火已亦復自燒。絕諸待竟絕還自絕。故大論問曰。不應言無相。何以故。若言無相即是於相。若無無相不應復能破諸法相。若有無相。則不應言一切無相。答。以無相破諸相。若有無相相則墮諸法中。無相滅諸相亦自滅無相。如前火木然諸薪已。亦復自然。是故聖人修無相無相三昧以破無相。空空三昧無作無作三昧亦復如是。絕已復絕意亦同之。若爾下釋疑。疑云。真慧開發方名絕者。乃被初住。何益初心。今以下釋也。初心即是故無所失。聖在極位不可濫初。

○次に「絶待」について釈します。まず全体の文意を総括し、次に「横」と「竪」の誤りを破り、最後に「絶」を正しく明かします。

初めに文意ですが、「横の法」で破るとは、破ることによって「横」の状態を作り出し、「横」の対立(待)は「絶」とは呼べないと知らせることです。「竪の法」で破るとは、破ることによって「竪」の状態を作り出し、「竪」の対立も「絶」とは呼べないと知らせることです。

「横」とは、四つの句(四句)が並んでいて、深浅の区別がないことを言います。「生生」などの四句は、相互に深浅があるので「竪」と呼びます。

初めに「横」を破る中で、前の二つの句には「境を照らすことを正とし、惑いを除くことを傍(わき)とする」とあります。「傍」とは他であり、「正」とは自己です。如来蔵の過ち(性過)を判断するために、まず傍と正を立てます。傍と正とは何か。それはただ一つの「止」という境地に対して、名前の付け方が異なるだけです。惑いを破るという側面からは「息」と名づけ、智慧に依るという側面からは「停」と名づけ、体性に依るという側面からは「不止止」と名づけます。このように名前の付け方に傍正の違いが生じるのです。

なぜか。一般に悟りの道に入ることは、智慧を用いることを正とし、惑いを除くことを傍とします。もし惑いを除くという側面から名前を付ければ、その名は「傍」から生じます。もし境を照らすという側面から名前を付ければ、その名は「正」から生じます。破られる対象は惑いであり、惑いは智慧から見れば「他」です。ですから「止息」「止」は、破られる対象から名づけられれば「他性」に堕ちます。破る側の「止」は、照らす側から来ます。照らすことは惑いに対して「自」です。ですから「停止」「止」は照らす側から立てられれば「自性」に堕ちます。

ここで「境を照らす」などと言うのは、言葉の都合上です。理屈から言えば「真理(諦)に依ることを正とし、惑いを鎮めることを傍とする」と言うべきです。「観」を釈する時に初めて「照らす」と言えます。「もし…にあらざれば」以下で、もし自他を両方取れば「共性」に堕ちます。文面では両方を否定しているように見えますが、実は両方を取っています。ですから「智と断の因縁によって止となる」と言い、一方だけを用いないので両方を否定するように見えるのです。「不止止」の義は「無因性」に堕ちます。これは両方を否定することであり、自他を共に離れることです。「非止」は自を離れることであり、「非不止」は他を離れることです。他を離れるとは破られる対象を離れることであり、自を離れるとは依る主体を離れることです。ですから第三の止は無因性に堕ちるのです。「観」も同様で、これに照らして知ることができます。

しかしながら、言葉の名目はこの三止三観を超えるものではありません。ですから「絶待」や「顕体」の中でも、この名目によって頓(とん)を説き明かすのです。情や計らいを除くために、性(自性など)を破る必要があります。そこで竜樹の「不自在生」などを引き、性の過ちを離れることを証します。「無生」以下は結論です。絶待・無生は、相待の四句から名づけられるものではありません。「四句立名」以下は、それを否定して「待(対立)」の義を斥けます。互いに依存し対立して成り立つものは、思惟可能であり、言語化可能ですから「可思議」です。性の執着が断たれていないので「結惑」と呼びます。結惑があるために無生を証せず、「結惑生」と呼びます。横の法によって破られることを「可破」と呼びます。二空の義が完成すれば相待の義は壊れますから「可壊」と呼びます。「起滅」以下は、別に三止三観による破り方を述べます。中間の一止一観を挙げますが、完全には三止三観すべてが成立しないことを示すべきです。中を例にとって前後を略して述べません。

次に「竪」の破り方です。これは前の自他四性から生じるので、「生生」と言います。能所ともに生じるので「生生」です。性の過ちを免れないので「有為」です。有為は四相(生・住・異・滅)に遷されるもので、大なる生が小なる生を生むので「生生」です。因縁が生じさせ、生じた法があるので、これをまた「生」と呼び「生生」です。また因が果を生み、果が因を生むので「生生」です。たとえ中道において性の過ちを起こせば、それも生死に属します。ましてや他のものは言うまでもありません。三止観の名は三諦に通じますが、もし四つの執着を起こせば、初観すら存在しないので生死に属し、「生生」と呼びます。これらの生を破って涅槃に入ることを「不生」と呼びます。この「不生」は「生」に対して名づけられるので「生不生」です。真の不生に対して俗の生を説くので「不生生」です。辺に対して中を説けば、二辺ともに生ですから、この二つの生を破って「不生不生」と呼びます。各文にはすべて三止三観があるべきですが、文中には二止の名しかありません。初めに「止息見思」は「止息止」であり、「停住真諦」は「停止止」です。以下もこれに準じます。ですから三諦にはすべて「不止止」および三観が欠けていることがわかります。「不止止」はまさに諦理そのものなので、あえて説かないのです。観の義は止に準じて知ることができます。四句が次々に後の句を生み出すので、四句はすべて「相待」と呼ばれます。そこで「横」を「竪」に取り入れる必要があります。一々の竪の句には必ず横があります。ですから「止息」などの名は竪全体に行き渡ります。ですから横と竪の二つの破り方によって初めて「絶待・不可思議」の名が明らかになるのです。「皆是」以下は総括です。横と竪は異なりますが、執着の内容は同じなので、やはり「待対」乃至「破壊」などと言うのです。

問:横の計らいでは自他乃至無因によって惑いが生じますが、竪が中道に至っても、なぜ「結惑生」などと言うのですか。 答:後の句はすべて前の句の結惑であるので、すべて「生」です。また中道はまだ極まっていないので、教道に属します。教道には惑いがあるので「生」です。また教道を信じて、初心において次第を予想し、次々に生じさせるので、初心の「生・結惑」と判断します。「尚未」以下は、別に斥けるものです。相待の名を集めて絶待を作った後も、また相待の名によって次々と比較します。ですから後のものは前のものに対して「止」と名づけられますが、さらに後のものに対してはまた「不止」となります。ですから相待の中の三止は、絶待の中の「止息・停止」にすら至らず、ましてや「不止止」は言うまでもありません。観も同様です。中道には特別な諦境はありませんが、これを「後」とします。もし実相の不思議の中を望めば、これもまだ「止」とはなりません。ですから三諦の止はすべて「止」とは名づけられません。「何以故」以下で、前の斥ける意味を釈します。執着を払い尽くしていないことを示します。「待対」を釈する中で、横と竪の四句に対する性の執着が断ち切れていません。「言語道断」でないのは、次々に相対して生じ、可思議となることを示します。「業」は惑いを釈し、「果」は生を釈します。また業と果はどちらも「生」です。「言不絶」は「可破・可壊」を釈します。

「今言」以下で、正しく絶待を釈します。まず「絶たれるもの(所絶)」を明かします。所絶とは上の横と竪の諸々の対立です。煩悩とは、まさに四性(自・他・共・無因)の計らいです。この性の計らいによって業と果があります。教えを学び観を修して次第に証得しても、これらすべてが可思議などとなります。ですから破る必要があります。「悉皆」以下で、「絶つもの(能絶)」すなわち止観を明かします。「能絶」と言っても、それは「所」に相応します。なぜなら「絶待」と言えば、対立の名が絶たれるから「止」と呼ばれます。「止」もまた自ら消え去り「不可得」となります。観も同様です。観察されるもの(所観)の外に能観があって、それに相応するのではありません。ですから「観は境に冥合する」と言います。観もまた自ら消え去るので「何ぞ得て観有らんや」と言います。「止観尚無」以下は、相待を斥けます。絶待すら存在しないのに、どうして相待を立てられましょうか。ですからこの止観は、除かれる暗散がないだけでなく、止観の体自体が本来消えているのです。なぜなら破られるものがあって初めて破るものがあると言えるからです。破られるものが破るものそのものであれば、破るものは論じられません。相待の名のように、能に対して所を説き、所に対して能を説くのとは異なります。また第三の止観は、無明に対して法性を説いて「止」と名づけ、法性に対して無明を説いて「不止」と名づけます。法性は止とも不止とも定められないので、法性によって第三の止を明かす際には、前の二つとの違いに基づきます。ですから「止と不止に対して、非止非不止を説く」と言うのです。これは前の二つの止に対して第三の止を説くことであり、二つの止は皆「不止」に対して説かれるので、「止不止」と言うのです。もし竪で言えば、今の絶待の止観には絶待すらないのに、どうして「生生」の「不止」に対して「生不生」の止観を説くことができましょうか。乃至「不生生」の「不止」に対して「不生不生」の止観を説くことができましょうか。「何得」の二文字は下の三句に掛かります。「故知」以下で、絶の意味を結論づけます。

先に「止」の中で「皆不可得」と言うのは、対立がすでに絶たれているから、対立すること自体がないのです。ですから「止」も「非止・非不止」もすべて不可得です。横と竪も同様です。細かく考えて初めて見えてきます。「待対既に絶ゆ」以下で、横と竪がすべて絶たれたことを総括します。横と竪はすべて有為であることを斥けます。今はそれらが絶たれたので、有為ではありません。「不可思」などとは、前の横と竪の四句によって思惟し見ることができないことを言います。「非言説」は、絶待は説くことができないことを明かします。横と竪の四句の名相がすでにないので、前の横と竪の四句の中で生じた結惑などはすべて滅します。絶待を滅ぼすので「滅絶」と言います。能滅もまたないので「絶滅」と言います。

次に「観」を結ぶ中で「顛倒」などとは、横と竪の四句はすべて「想」と呼ばれることを言います。また「絶は有為を絶つ」などは、名前が異なることを結びます。能絶の体は一つですが、絶たれる場所に応じて名前が異なります。「絶待止観」以下で、利他を明かします。まず説く意味を明かします。自分はすでに絶を証しているので、四種の機根に応じて説くことができます。説かないのに説くので「可説」と言うのです。もしそうなら、なぜ三悉はただ化他の法だけなのでしょうか。第一義悉もまた化他のためです。ですから四章を四悉に対応させます。「若有」以下で、正しく釈します。

問:今、絶を説くのに、ただ絶だけを明かすべきではないでしょうか。四章を四悉に対応させるのは、なぜですか。 答:自行はただ絶だけですが、他には異なる教えが必要です。ですから絶待を四つの説法に分けるのです。玄文の中で、簡別して用いる際に「宗は自行なので、他を簡別する必要がある。用は他を益するので、両方を取る」とあります。不思議の用ですら方便を取るのに、ましてや円の絶待が円の四悉を説かないことがありましょうか。ですから玄文の第六巻末で四悉を開く際に「麁(あら)き世界を開いて妙世界と成す。乃至麁き第一義を開いて妙第一義と成す」とあります。ですから説かない限り、説くならば必ず四悉です。なぜなら「異」は隔別ですが、それが円の異に会し、異ならずして異なるので世界に対応します。「通」は生の義であり、理に通じるので、理の善によって対人に対応します。「対」には能所がありますが、絶には能所はありません。これも能所によって円の対治とします。絶待は理に基づきますが、理には説はなくても、絶理によって第一義を説くのです。止観として説くとは、この四章がすべて止観であり、すべて絶待の理に至ることを言います。

また教化の儀式によって絶を明かすと、例えば維摩経の中で三十二の菩薩がそれぞれ自分の入る門を説きました。門はすべて理に通じるので、理は絶です。そこで菩薩たちが語り終えて文殊に「仁者が説くべきです」と言いました。文殊は「言葉や文字がないことが真の不二法門である」と言い、「滅絶」の名を得ました。維摩は口を閉じて言葉を発さず、「絶滅」の名を得ました。

問:同じく絶待を得たのに、なぜ異なるのですか。 答:表すものがあるので、異なる道を示すのです。諸菩薩は異なる教えを表し、文殊は教えの内容が異ならないことを表し、維摩は内容には説がないことを表します。また諸菩薩はただ化他を表し、文殊は自行と化他を表し、維摩はただ自行を表します。それぞれが一方を挙げて、共に妙なる事を成すのです。四悉の絶待もこれに準じて知ることができます。また大涅槃経の「不可説」、大集経の「無言」、般若経の「清浄」、法華経の「ただ歎ず」、涅槃経の「不生」も、すべて絶待の異名です。

しかしまた、諸教の絶には異なりがあることを知るべきです。「開顕」によって外がないものこそ、今の文に当たります。「此の」以下で、この絶待を結んで二空を完成させます。まず立て、次に「是字」以下で釈します。初めに性空を明かし、「亦不在」以下で相空を明かします。横と竪を破り、さらに四機に応じます。絶の理とは何か、すなわち「実相」です。実相の体は二空を具え、以前の「仮から空に入る」二空とは永遠に異なります。「是字不可得」以下で名前を結びます。「亦名」以下で、絶待の異名を明かします。絶の体は遍く行き渡り、対するものがないので、小に因んで大と呼ばれることはありません。「譬如」以下は譬えで、理解できるでしょう。「止観も亦た爾」以下で、譬えに合わせます。愚かさに因んで観と名づけず、乱れに因んで止と名づけません。

「世人」以下で、誤りを破ります。まず総じて世人が世間の心によって説くことを破ります。言葉で言葉を破ろうとしても、言葉は絶されることがなく、絶の説明は完成しません。ですから絶の理を識るべきです。「何以故」以下で、世人の言葉が絶とならない理由を釈します。言葉は想いに従って変わるので、言葉は絶ではありません。ですから「悟る」「悟らない」などと言っても、惑いと汚れを免れません。互いに待ち続けるので「輪転」と言います。悟りは智慧による証得に基づき、心は惑いの境に基づきます。心があれば悟りではなく、悟りは心を絶つことです。それはただ無いという意味ではなく、九界の心がないことを「不心」と言います。想いに従って虚ろに語れば、絶もまた対立となってしまい、依るべき理がないので「無寄」と言います。

「若し意を得れば」以下で、絶待の正体を出します。絶の理に達すれば、誰が分別するでしょうか。絶理に縁っても分別を亡くさなければ、すべて「待」と呼ばれます。これこそ「証」のみが「真慧が開く」と呼ばれるものです。また「意を得れば」で、絶は議すべからざることを明かします。「心行」以下で、絶は思うべからざることを明かします。「随智」以下で、重ねて絶の位を出します。「亦た…に非ず」以下で

○三會異者。會諸經論悉皆成絕止觀。初文且會絕待異名。諸經下。會止觀異名雖通名絕寂照宛然。故諸經論所有異名。並是寂照之異名耳。故異名下。皆云絕大不可思議。所以者何下。釋會異意。一切皆是三德異名。是故會之令入三德。初般若下是觀異名。即般若德。解脫下即止異名。是解脫德。如虛空下是止觀不二異名。即法身德。般若是一法等者。即讚般若偈文也。解脫亦爾多諸名字者。即大經第五百句解脫文也。近七八紙。古今講者長唱而已。真諦三藏有一卷記。釋此百句。天台大師曾於靈石寺。一夏講此百句解脫。每一一句以百句釋。百句乃成一萬法門一萬名字。章安云。先學自飽而不記錄。今無所傳。惜哉惜哉。後代無聞。虛空等者。譬如虛空亦有四名。一虛空。二無所有。三不動。四無礙。虛空無形尚有四名。況不思議非止非觀。問。此中但會止觀異名。何須列此法身異耶。答。下文通德。既以止觀通於三德。是故會異列於法身。故知諸經雖復多名。不出止觀又以不二。故知秖是三德異名。當知下。結云三德秖是一實相法。隨眾生類為立異名。若聞下誡勸也。絕待意深誡勿驚畏。會異名廣勸勿生疑。相待義近故不須勸。通德秖是絕待所通。故亦不勸。又止觀自相會下。今既絕前諸相待名。故相待名咸成絕待。所以還寄止息等義。以自相會。止亦名觀即停止止。觀亦名止即貫穿觀。不止即是不止止也。不觀即是不觀觀也。皆須約圓以釋息等。三惑體寂名之為息。三諦理遍名之曰停。諦理不當止與不止。無惑可破名為貫穿。無智可照名為觀達。達理不當觀與不觀。若絕待名自相會者。止亦名觀寂即照故。亦名不止寂體自亡。觀亦名止照即寂故。亦名不觀照體自亡。如空非明暗明暗即空。空明非明空暗非暗。非暗而暗非明而明。寂照止觀例此可知。

〇三つの「会」の違いについて。 経典や論書を集めて、すべてを「絶待の止観」に帰するものである。 最初の一文では、「絶待」の別名をまとめて示している。 「諸経下」の部分では、「止観」の別名をまとめている。 「絶待」という名称は共通していても、「寂」と「照」の働きは明らかである。 したがって、諸経論にあるあらゆる別名は、すべて「寂」と「照」の別名にほかならない。 だからこそ、別名のあとには必ず「絶大不可思議」と記されている。 「所以者何」以下の部分は、そのようにまとめる理由を説明している。 すべては三徳の別名である。そのため、それらを集めて三徳に導き入れるのである。

「初般若下」は「観」の別名であり、すなわち般若徳である。 「解脱下」は「止」の別名であり、すなわち解脱徳である。 「如虚空下」は「止観不二」の別名であり、すなわち法身徳である。

「般若是一法等」とは、般若を讃える偈文である。 「解脱亦爾多諸名字」とは、大涅槃経にある五百句の解脱の文である。 その分量は約七、八紙にわたる。 古今の講師たちは、ただ長く唱えていただけである。 真諦三蔵には、この百句を解釈した一卷の記録がある。 天台大師はかつて霊石寺で、一夏の間この百句の解脱を講じた。 その一句一句を、さらに百句で解釈した。 百句が一つの法門、一万の名号を生み出すことになった。 章安大師は言う、「先に学んだ者は自ら満足して記録に残さなかった。今は伝わっていない。惜しいことだ、惜しいことだ。後の世に聞く者はない」と。

「虚空等者」について。 例えば虚空にも四つの名前がある。 一に虚空、二に無所有、三に不動、四に無礙である。 虚空は形がなくとも、なお四つの名がある。 ましてや不思議なるもの、止にも観にもあらざるものが、名を持たないはずがあろうか。

問う。ここではただ止観の別名をまとめているだけなのに、どうして法身の別名を挙げる必要があるのか。 答える。後の文で徳を通じて説明するからである。 すでに「止観」によって「三徳」へと通じるのだから、別名をまとめるにあたって法身を挙げるのである。 したがって、諸経典にたとえ多くの名前があっても、止と観、およびその不二を超えるものはない。 それゆえ、ただ三徳の別名にすぎないのである。

「当知下」の部分は、結びとしてこう述べている。 三徳はただ一つの実相の法であり、衆生の類にしたがって異なる名前が立てられている。 「若聞下」は戒めと勧めである。 絶待の意味は深いので、驚き恐れないよう戒める。 別名が広いことを示して、疑いを起こさないよう勧める。 相待の義は身近なものなので、勧めは不要である。 「通徳」は、まさに絶待によって通じるものであるから、これも勧めは不要である。

また、「止観自相会下」について。 今、すでにこれまでの相待の名を絶したのだから、相待の名もことごとく絶待となる。 そこで、「止」「息」などの意味に仮託して、自らを統合するのである。 「止」をまた「観」と言うのは、これが「停止」の「止」であるからである。 「観」をまた「止」と言うのは、これが「貫穿」の「観」であるからである。 「不止」は「不止の止」である。 「不観」は「不観の観」である。 すべて円教によって「息」などを解釈しなければならない。 三惑の本体が寂滅していることを「息」と名づける。 三諦の理が遍く行き渡っていることを「停」と名づける。 諦理は、本来「止」とも「不止」とも対立しない。 惑を破すべきものがないことを「貫穿」と名づける。 智によって照らすべきものがないことを「観達」と名づける。 理に達すれば、本来「観」とも「不観」とも対立しない。

もし絶待の名が自らを統合するならば、 「止」もまた「観」となる。寂はすなわち照だからである。 また「不止」ともなる。寂の体は自ら滅するからである。 「観」もまた「止」となる。照はすなわち寂だからである。 また「不観」ともなる。照の体は自ら滅するからである。 例えば、虚空は明暗ではなくとも、明暗はすなわち虚空である。 虚空の明は明ではなく、虚空の暗は暗ではない。 暗ではないが暗であり、明ではないが明である。 寂と照、止と観も、この例によって知るべきである。

○四通三德中。初文先明用名之意。先問。為對下答。次諸法下重問。大論下重答。自他初後等者。菩薩初心常觀涅槃。自行初修也。亦令眾生常觀涅槃。化他初修也。安置諸子祕密藏中。化他後入也。我亦不久自住其中。自行後入也。故知自他初心無不皆修。自他後心無不皆入即是今文一部正意。始終秖是觀於三德入於三德。何者。且五略中。初發大心去。自行初修也。裂大網去。化他初修也。歸大處去。自他後入也。次廣釋中。釋名自行初也。起教化他初也。指歸自他後也。若別論者。涅槃唯果。今從通義故遍初後。故用對之以為行本。次若用下正明相通中。初以兩字共通三德者。若分兩字不能具德。故須二合義方具三。問下釋疑也。凡能通名通於所通。能所相稱方期所至。但用二法為能通名。云何通至所通三法。答。藏通止觀二法別異。尚不能通別異三德。若不思議一心止觀則能通於一心三德。二三雖殊不思議一不二而二以通二德。二而不二以通法身。又大品下。引證也。故大論五十二。委悉列釋百八三昧竟。即云。前十八空。釋般若竟。今以百八三昧釋禪。既是首楞嚴禪種智般若。故知此二不可孤然。是則一一空中一切空。一一空中一切定。一一定中一切定。一一定中一切空。經論列數從事而立。破十八有云十八空。對百八散云百八定。如火燒物隨物得名。豈所燒殊令火別異。故引十八空以證於觀。引百八三昧以證於止。二而不二而證法身。是故下復引大經重證二名。義兼三德。二十五云。一切眾生皆悉盡有首楞嚴定。首楞嚴定亦名般若。亦名金剛三昧。亦名師子吼。亦名佛性。經稱首楞嚴定有五種名。楞嚴亦在五名之內。今引佛性有五種名。佛性亦在五名之內。今所引者。以通兼別故也。其意如何。答。經釋眾生有楞嚴定。故云楞嚴有五種名。若通論者。云師子吼有五種名。乃至般若有五種名。於理無失。雖皆無失。然五名中佛性是通。通定慧故。餘之四名二二寄局。般若師子吼從慧為名。金剛首楞嚴從定為名。今明佛性非定非慧而定而慧。故云佛性有五種名。以證今文不二而二。復次下各通也。初明各通之意。止之與觀互相有故。故得各通。如止有觀亦復自有非止非觀。觀若有止亦復自有非止非觀。是故止觀各得通三。如止息下。次正各通。初止次觀。又前文共通從名便故。今此各通從義便故。故將二止以對二德。不止止義似非止觀故通法身。觀亦如是可以準知。復次止觀下言共通者。不同前文兩字共通。今此止觀各有三義。二二並通故名為共。復次三德下。復以三德通於止觀。問。止觀通德即是能詮通至所詮。何故復以德通止觀。答。名召於理名為通德。理應於名名為德通。理不應名。名無所通。名不召理理無能顯。又名即理故止觀通德。理即名故德通止觀。又止觀並有三德義故止觀通德。三德亦有止觀義故德通止觀。為此三義復須德通。為顯理教融通無礙。是故互辨究竟今文。名正理旁已如前說。亦應又約行論止觀與德互通。義在下文故今未辨。於中亦先共次各。共謂三德共通止觀及非止觀。各謂三德各各具三。如文可見。若信下。舉例勸信。初舉異名勸信三德。所言止觀互相通者。本示止觀是絕是妙。能通絕妙不思議德。既信三德須信止觀。若信下。引喻勸信。而諸經下。名偏意圓。初諸經。楞嚴智度如前引證。不二而二已略知竟。一一既其諸法具足。當知無非祕密之藏。言楞嚴者。他云寶名。諸大菩薩皆以此寶而為首飾。菩薩得此首飾寶者。具足三昧。從寶為名名楞嚴定。大經云。首楞者。一切事竟。嚴名堅固。一切畢竟而得堅固名首楞嚴。大論十八翻為健相。大經大論並以三字俱是梵音。俱名三昧。唐梵二釋未見所憑。故知經題不從首飾。止觀亦爾下。引於止觀以例諸經。偏舉下況釋也。諸經偏舉尚具三德。況今止觀是圓舉耶。此是圓具非謂圓頓。義雖圓頓語意且爾。次通諸異名如文。又通諸三名者。三名無量故云一切。今依金光明觀音玄淨名疏等。並以十三例釋三德。言十三者。頌曰。道識性般若。菩提大乘身。涅槃三寶德。一一皆三法。今文略列菩提等三。仍略不釋。今依彼部略屬對之。三德如前。三菩提者。實性即法身。實智即般若。方便即解脫。三佛性者。正因即法身。了因即般若。緣因即解脫。言三寶者。法寶即法身。佛寶即般若。僧寶即解脫。三道者。煩惱即般若。結業即解脫。苦即是法身。言三識者。真諦三藏云。阿陀那七識。此云執我識。此即惑性體是緣因阿賴耶八識。此名藏識。以能盛持智種不失。體是無沒無明。無明之性性是了因。菴摩羅九識名清淨識。即是正因。唐三藏不許此釋云。第九乃是第八異名。故新譯攝論不存第九地論文中亦無第九。但以第八對於正因。第七對於了因。第六以對緣因。今依真諦仍合六七共為緣因。以第六中是事善惡亦是惑性。委釋識義非今所論。但以三識體性對於三德三因。於理即足。論家雖云翻識為智。而不即照三識一心。即此一心三智具足。三般若者。實相正因。觀照了因。文字緣因。對德可知。三大乘者。理乘法身。隨乘般若。得乘解脫。言三身者。如旨歸中。三涅槃者。性淨即法身。圓淨即般若。方便淨解脫。古人不立圓淨。仍以方便對於報身。諸文有破(云云)。然此十三展轉相對其義不殊。義雖不殊生起次第不無前後。無始流轉不出三道。流轉由識識內具性照性由智。智滿成道道由乘至。至故身顯。顯必涅槃。涅槃具故稱為三寶。寶必具德。是故始終且列此十。問云何下。廣料簡德。初出舊解。且引大經問起其意。是彼經中宗極之義。又是一家行解旨歸。故須料簡。具引古今大小乘師比決校量。方顯絕待三德祕藏故哀歎品云。云何名為祕密之藏。猶如伊字。三點若並則不成伊。縱亦不成。如摩醯首羅面上三目乃得成伊。三點若別亦不成伊。我亦如是。解脫之法亦非涅槃。如來之身亦非涅槃。摩訶般若亦非涅槃。三法各異亦非涅槃。我今安住如是三法。為眾生故名入涅槃。如世伊字。章安云。西方俗典伊有新舊。舊伊縱橫如橫川等可譬他經。新伊字者不縱不橫。如此方草下可譬圓經。欲釋新伊。應須先了他人異解。方免舊伊縱橫等過。乃至邪宗橫計等失。故塗灰外道亦計大自在天。具足三德云。法身充滿法界。報身居自在天。三目八臂即摩醯首羅是也。化身隨形六道。況大小乘諸師釋義。為是義故。委出諸師。初小乘師。言種智已圓者。謂三十四心斷結之時。已有般若名為種智。父母生身猶未滅度。名為果縛。雖斷子縛果縛未除。但是有餘未得無餘。故云未具。雖斷通惑未有法身。身是無常猶資段食。段食非一是故云雜。以三藏佛同凡報故。一優。謂般若德種智已圓。二劣。謂解脫未具身是雜食。此二雖劣已有少分。具在不久義當一時。譬之橫川及以走火。走火者烈火也。並一畫長餘畫短故也。三德亦爾。雖則俱有優劣不同。又云下第二師中。言先得相好者。謂百劫已滿。次得種智者。謂三十四心。後滅身智者。謂八十入滅。無餘在當故云方具。譬意可知。而生公云。般若居宗在上。全濫小乘初師三德。縱異小乘終成縱義。仍同次師。若入下第三師。若入滅定等者。既有身在名為法身。受想心所識智不行。名無般若。故云無智。羅漢在無色等者。無色般含。於彼無色得有餘般。名為羅漢。唯有心智而無色身。似有般若而無法身。若入無餘等者。灰身故無身。滅智故無智。獨一解脫故云孤調。此則三法各屬一人。云不相關。若使三法並在一人。謂滅定起有斷結智。不在無色復名有身。定當無餘名有解脫。同在一人故名為並。若以三法累在一人。謂先得無色次在滅定後入無餘。故名為縱。此則小乘三師。永闕伊字義也。次大乘初師云法身是正體等者。法身本有是故居初。二德當有是故居次。於二德中般若必居無累之前。故成縱義。此二彌亘者。般若解脫也。彌滿也。布也。亘遍也。雖修種智種智未具。分得解脫。解脫未滿亦得名淨。亦得名穢。展轉相望互為淨穢。隔無量生跨無量世。生世無別綺文故爾。經歷時節三德次第。故名為縱。次師云三德無前後等者。初師體唯法身。此師體具三德。雖具三德義同初師。據體具邊復不相冥。故成橫義。以本有故名為體橫。從修得邊名為義縱。後師云體義俱不殊等者。體之與義俱從本有。故云不殊。據行證得復似前後。故云隱顯。法身一德在纏為隱出纏為顯。餘之二德種子久具。名之為隱究竟果滿名之為顯。三德俱有此之二義。本有三法俱名為橫。俱有隱顯故俱名縱。以隱顯故則有先後。故成縱也。眾釋如此下結斥也。大小六釋皆悉不與大經文會。今明下。今家正釋。以三義故方應經旨。理性三德含一切法。故名為藏。一皆具三三三相冥。三秖是一一一無一。是故此藏不可三一縱橫一異。而言思之。是故皆云不可思議及那忽等。一異等者。並別名異。對異語便故云一耳。身常等者。此之行因修向理藏。至得果時法身已滿。故云身常。種智已成故云智圓。煩惱永盡故云斷具。理藏釋者。六即之中當理即也。行因釋者。六即之中別在究竟通具五即也。今對理釋別從究竟。雖身常等得非前後。故不成縱。理之與修因之與果。並一時具而皆互融。彼彼相冥故非橫義。言相冥者且從行說。理性冥故方令行冥。行能顯理故從行說。能種種者。非但三德有利他用。法身亦然。故約化用則一身一切身。一智一切智。一脫一切脫。是故名為種種建立。息化論歸同歸冥寂。故云第一義也。次即一下約字義釋者。秖是三點同是一伊。雖是一伊而有三點。是故伊字非縱非橫。不同舊義。故曰真伊。應知大經始終三德。故於經初哀歎品中。以伊字義釋此三德。三十六問廣顯三德。所以序中序於三德。純陀一品明涅槃施正明三德。從長壽去十四品中。明涅槃義解釋三德。言以佛法不付聲聞付諸菩薩者。正是付此三德祕藏。從現病去凡有五品。明涅槃行修此三德。從師子吼去至陳如品。凡有三品。明涅槃用即三德功能。若了三德在一心中。則大經一部居于方寸。況法華開顯十方三世同說三軌。三軌妙故。故云妙法。華嚴法界淨名解脫不共般若與此三德一體無殊。若識此意。今文可了十方佛法在一剎那。問下料簡。有二重問答。初文正判。次文開通。初文問者。三德四德俱在涅槃。云何同異。答意者。三四似別俱在涅槃。涅槃不殊三四不別。是故會通令識不二。於中復有通別二會。初通會者。三德一一皆具四德。故名為通。通復二解。初引大經。法身常故二德亦常。既有於常豈無樂等。此乃比望準例以釋。法既有常必有餘三。復以餘二反例法身。佛是覺了。覺了是智。故屬般若。又能垂形調伏於他。故屬解脫。是故佛字具有二德。次引大經因滅五陰。皆具四德。陰即法身。法身既然。餘二例爾。故知三德皆具四德。是則通對有此二解。次若依下。復轉五陰及四念處。以成四德。別別相對故名為別。是則別對亦有二解。謂陰及念處開合不同。準文可見(云云)。是則下結。依圓是頓義等者。如向所對通別二解。但以法對法未論行相。若初心觀便成頓義。後心方會便成別義。次開通中初問意者。前第二卷末云。有發心所治之三障。乃至究竟所治之三障。又云。有發心所得之三德。乃至究竟所得之三德。此則三障三德俱通至極。今將三道四倒以並三障。障之與道及以四倒。名異義同。隱蔽聖德名之為障。通至生死名之為道。見解違理名之為倒。倒故能障。障故生死。是故今以三道四倒並難三障。開謂開拓通近至遠。答中先許所問。次為解釋。先許問云。倒道及倒三義既同。俱應至極。次何者下。為釋倒意以義同故。於中重明三障義通。通至極故極方破盡。故云至極。以許三道亦至極故。所以業報煩惱一一開三。言報由三種煩惱者。恐文誤。應云業由三種煩惱。從又約下。次示三道四倒至極。報障分三既至於極。一一報中開於三道。是故三道亦至於極。何者。分段三道。謂見思惑為煩惱道。煩惱潤業名為業道。感界內生名為苦道。方便三道。謂塵沙惑為煩惱道。以無漏業名為業道。變易生死名為苦道。實報三道。謂無明惑為煩惱道。非漏非無漏業為業道。彼土變易名為苦道。問。何不感寂光。答。今論感報不論寂光。寂光無報故不說也。約三煩惱各開四倒者。見思煩惱有常等四。塵沙煩惱有無常等四。無明煩惱又有常等四。問。今文三障之中已明苦及煩惱。何不云業開為三耶。答。業由煩惱是故感報。已說餘二業居其間。故不須說。問。何故。諸倒唯說有四不三不五。答中但說常及無常等耶。答。理本無名彊為立名。雖彊為立德不出四。佛滅度後外人竊佛常等四名。以計神我。故佛初出說無常等。以破常等。二乘不了計無常等。以之為極。故佛復說常等四德說無常等。出假菩薩異二乘邊。名為常等。菩薩不達但執教道。又說非常非無常等。以破常等。此約漸教化儀以說。若頓教者。即於常等說無常等。而達無常。即達中道祕密之藏。依圓是頓依別是漸。意亦同此。但別教次第少異化儀。思之可見。

四通三徳のうち、初めに「用名」の意を明かす。先に質問を設け、後に答えを対置する。次に「諸法」以下の部分で重ねて問い、「大論」以下で重ねて答える。「自他初後等」とは、菩薩の初心において常に涅槃を観ずることを、自行の初めての修行とし、また衆生に常に涅槃を観ずることを勧めることを、化他の初めての修行とする。「諸子を秘密の蔵に安置する」とは、化他の後の帰入であり、「我もまた久しからずして自らその中に住す」とは、自行の後の帰入である。ゆえに知るべし、自行・化他の初心において、いずれも皆修行しないことはなく、自行・化他の後心において、いずれも皆帰入しないことはない。これこそが、この一文の一部の正しい意趣である。始終ただ三徳を観じ、三徳に入ることのみである。

なぜならば、五略の中でも、初めに「大心を発す」より、これ自行の初修であり、「大網を裂く」より、これ化他の初修であり、「大処に帰す」より、これ自他の後入である。次に広釈の中では、「名を釈す」が自行の初めであり、「起教化」が化他の初めであり、「指帰」が自他の後である。もし別に論じるならば、涅槃はただ果のみであるが、今は通義に従うゆえに、初めと後ろに遍く及ぶ。ゆえにこれを用いて行の本と対するのである。

次に「若し用いて」以下は、正しく相通を明かす。初めに「以つ」の二字をもって三徳に共通するとは、もし二字を分かつならば、三徳を具することができない。ゆえに二つを合わせて初めて義が三を具するのである。「問」以下は、疑問を解く。およそ能通の名は、所通に通ずるものである。能と所とが相称えて、初めて至る所に到る。ただ二法を能通の名と用いて、どのようにして三法という所通に至るのか、と問う。

答えに、蔵・通の二教の止観は二法が別異であり、なお別異の三徳に通ずることができない。もし不可思議の一心の止観ならば、則ち一心の三徳に通ずることができる。二と三とは同じではない。しかし不思議の一は、二にあらずして二であり、もって二徳に通じ、二にして二にあらず、もって法身に通ず。また、「大品」以下は、証拠を引く。故に「大論」五十二に、詳しく百八三昧を列挙し釈し終わって、すぐに「前の十八空は般若を釈し終わる。今、百八三昧をもって禅を釈す。これすなわち首楞厳の禅、種智の般若なり。故に知る、この二つは孤然とすることはできない」と言う。

これにより、一々の空の中に一切の空があり、一々の空の中に一切の定があり、一々の定の中に一切の定があり、一々の定の中に一切の空がある。経論の列挙する数は、事に従って立てられる。十八有を破するに、十八空と言う。百八の散を対するに、百八の定と言う。火が物を焼くように、物に従って名を得る。どうして焼かれる物が異なるからといって、火が別異となるだろうか。ゆえに十八空を引きて観を証し、百八三昧を引きて止を証す。二にして二にあらず、もって法身を証す。この故に、以下で再び「大経」を引きて、二名を重ねて証し、義は三徳を兼ねる。

「二十五に云く、一切衆生は皆悉く首楞厳の定を有す。首楞厳の定は亦た般若と名づけ、亦た金剛三昧と名づけ、亦た師子吼と名づけ、亦た仏性と名づく」。経に首楞厳の定に五種の名があると称する。楞厳もまた五名の中に在り。今、仏性に五種の名があると引く。仏性もまた五名の中に在り。今引くところは、通をもって別を兼ねたものである。その意はどうか。

答えに、経に衆生に楞厳の定があると釈するゆえに、楞厳に五種の名があると言う。もし通論するならば、師子吼に五種の名があると言い、乃至般若に五種の名があると言っても、理において失いはない。皆失いはないといえども、五名の中でも仏性は通である。定慧に通ずるからである。余の四名は二二、局するところに寄託する。般若と師子吼は慧から名づけられ、金剛と首楞厳は定から名づけられる。今、仏性は定にあらず慧にあらずして、定にして慧であることを明かす。ゆえに仏性に五種の名があると言う。以て今の文の不二にして二なることを証するのである。

「復次」以下は、それぞれに通ずることである。初めに各通の意を明かす。止と観とは互いに有するがゆえに、各々に通ずることができる。例えば、止に観があり、また自ら止にあらず観にあらざるものがある。観に止あり、また自ら止にあらず観にあらざるものがある。この故に止観は各々、三に通ずることができる。

「止息」以下は、次に正しく各通を明かす。初めに止、次に観。また、前の文の共通は、名の便りに従うからである。今、この各通は、義の便りに従うからである。故に二つの止をもって二徳に対し、「不止止」の義は、止観に似るにあらず、ゆえに法身に通ず。観もまたこれに準じて知ることができる。「復次止観」以下に「共通」と言うは、前の文の二字共通とは異なる。今、この止観はそれぞれに三義があり、二二ともに通ずるゆえに「共」と名づく。

「復次三徳」以下は、また三徳をもって止観に通ず。「問う、止観が徳に通ずるは、すなわち能詮が所詮に至る。何故にまた徳をもって止観に通ずるのか」。答えに、名は理を召ぶことを、名の徳に通ずると言う。理は名に応ずることを、徳の名に通ずると言う。理が名に応じなければ、名の通ずる所なし。名が理を召さなければ、理の能顕なし。また、名は即ち理であるがゆえに、止観は徳に通ず。理は即ち名であるがゆえに、徳は止観に通ず。また、止観は並びに三徳の義を有するがゆえに、止観は徳に通ず。三徳もまた止観の義を有するがゆえに、徳は止観に通ず。これらの三義のために、また徳による通じを必要とする。理と教との融通無碍を顕わすためである。故に互いに弁じて、ついに今の文を究める。

名は正しく理は傍らであることは、すでに前に説くが如し。また、行について止観と徳との互通を論ずべきであるが、義は下文にあるゆえに、今はまだ弁じない。その中も、先ず共、次に各である。共とは、三徳が共通して止観および非止観に通ずること。各とは、三徳が各々に三を具することを言う。文の如く見るべし。

「若し信じて」以下は、例を挙げて信を勧める。初めに異名を挙げて三徳を信ずることを勧める。言うところの「止観互いに通ず」とは、そもそも止観が絶であり妙であることを示し、能く絶妙の不可思議の徳に通ずることを示す。すでに三徳を信ずれば、止観を信ずることを要す。「若し信じて」以下は、譬喩を引いて信を勧める。「而るに諸経」以下は、名は偏り意は円満であること。初めに諸経。楞厳と智度とは、前の如く証拠を引く。不二にして二なることは、すでに略して知り終わる。一々がすでにその諸法を具足するとき、当に知るべし、秘密の蔵にあらざるはなし。

「楞厳」と言うは、他には宝の名であると説く。諸の大菩薩は皆、この宝をもって首飾りと為す。菩薩のこの首飾りの宝を得る者は、三昧を具足す。宝から名を取って、楞厳の定と名づく。「大経」に云く、「首楞とは、一切の事竟なり。厳とは堅固なり。一切が畢竟して堅固を得るを、首楞厳と名づく」。「大論」十八には翻じて「健相」と為す。「大経」「大論」共に、三字を俱に梵音と為す。俱に三昧と名づく。唐と梵との二つの解釈は、未だ拠るところを見ず。故に知る、経の題は首飾りに従うにあらず。

「止観もまた爾なり」以下は、止観を引きて諸経の例と為す。「偏挙」以下は、もし説いて釈するなり。諸経の偏挙も、なお三徳を具す。況んや今の止観は円挙なるをや。これは円具であり、円頓というにあらず。義は円頓といえども、語意はかくのごとし。次に、諸の異名に通ずることは、文の如し。また、諸の三名に通ずることは、三名は無量なるゆえに「一切」と言う。今、「金光明」「観音玄」「浄名疏」等に依るに、並びに十三の例をもって三徳を釈す。十三と言うは、頌に曰く、

「道・識・性・般若、菩提・大乗・身、涅槃・三宝・徳、一一みな三法」

今の文は、略して菩提等の三つを列ね、なお略して釈さず。今、彼の部に依りて、略して対属す。三徳は前の如し。三菩提は、実性は即ち法身、実智は即ち般若、方便は即ち解脱。三仏性は、正因は即ち法身、了因は即ち般若、縁因は即ち解脱。三宝と言うは、法宝は即ち法身、仏宝は即ち般若、僧宝は即ち解脱。三道は、煩悩は即ち般若、結業は即ち解脱、苦は即ち法身。三識と言うは、真諦三蔵云く、阿陀那(七識)は、これを執我識と云う。これは即ち惑性、体は是れ縁因。阿頼耶(八識)は、これを蔵識と名づく。能く智種を盛持して失わざるをもってなり。体は是れ没無明。無明の性は、性は是れ了因。菴摩羅(九識)は清浄識と名づく。即ち是れ正因。唐三蔵は此の釈を許さず、第九は、乃ち第八の異名なりと云う。故に新訳の摂論には第九を存せず。地論の文中にも、第九無し。但だ第八をもって正因に対し、第七をもって了因に対し、第六をもって縁因に対す。今、真諦に依るも、なお六七を合わせて共に縁因と為す。第六の中の事の善悪も、亦是れ惑性なればなり。委しく識の義を釈することは、今の論ずる所に非ず。但だ三識の体性をもって三徳・三因に対すれば、理において即ち足る。論家、識を翻じて智と為すと云うといえども、而も三識一心を即照せず。即ち此の一心は三智を具足す。

三般若は、実相は正因、観照は了因、文字は縁因。徳に対すれば可知なり。三大乗は、理乗は法身、随乗は般若、得乗は解脱。三身と言うは、旨帰の中の如し。三涅槃は、性浄は即ち法身、円浄は即ち般若、方便浄は解脱。古人、円浄を立てず、仍ち方便をもって報身に対す。諸文に破有りのこと、云云。然るに此の十三は展転して相対し、その義は同じにして異ならず。義は同じといえども、生起の次第は前後無きにあらず。無始の流転は、三道を出でず。流転は識に由る。識の内に性を具し、性を照すは智に由る。智は満ちて道を成す。道は乗に由りて至る。至れば故に身は顕る。顕るるは必ず涅槃。涅槃を具するが故に、三宝と称す。宝は必ず徳を具す。是の故に始終、且く此の十を列ねるなり。

「問う、云何が」下、広く徳を料簡す。初めに旧解を出だす。且く「大経」を引きて、その意を問い起こす。これ、彼の経の中の宗極の義なり。また、一家の行解の旨帰なり。故に須らく料簡すべし。具さに古今の大小乗師を引きて、比決し校量す。方ち絶待の三徳秘蔵を顕わす。故に「哀歎品」に云く、「云何が名づけて秘密の蔵と為す。猶お伊字の如し。三点、若し並ぶれば則ち伊を成さず。縦も亦た成さず。摩醯首羅の面上の三目の如く、乃ち伊を成すを得。三点、若し別なれば亦た伊を成さず。我も亦た是くの如し。解脱の法も亦た涅槃に非ず。如来の身も亦た涅槃に非ず。摩訶般若も亦た涅槃に非ず。三法、各おの異なれば、亦た涅槃に非ず。我、今、是くの如き三法に安住し、衆生の為に故に入涅槃と名づく。世の伊字の如し」。

章安云く、西方の俗典に、伊に新旧あり。旧伊は縦横なり。横川等の如く、他経に譬うべし。新伊字は、不縦不横。此の方の草の下の如く、円経に譬うべし。新伊を釈せんと欲すれば、須らく先ず他人の異解を了すべし。方ち旧伊の縦横等の過を免るべし。乃至、邪宗の横計等の失。故に塗灰外道も、亦た大自在天を計し、三徳を具すと云う。「法身は法界に充滿す。報身は自在天に居す。三目八臂、即ち摩醯首羅是れなり。化身は形を六道に随う」。況んや大小乗の諸師の釈義をや。この義の為に、委しく諸師を出だす。

初めに小乗師。「種智已に円し」とは、謂う、三十四心の断結の時、已に般若の名有り。種智と名づく。父母の生身は、未だ滅度せず。これを果縛と名づく。子縛を断ずといえども、果縛未だ除かれず。但し有余にして、未だ無余を得ず。故に未だ具さずと云う。通惑を断ずといえども、未だ法身無し。身は是れ無常にして、なお段食を資く。段食は一に非ず。故に雑なりと云う。三蔵仏は同じく凡報に同ずるが故に。一は優なり。謂う、般若の徳は種智已に円し。二は劣なり。謂う、解脱は未だ具さず。身は是れ雑食なり。この二は劣なりといえども、已に少分有り。具すること久しからざるに在り。義は一時に当たる。譬えば横川及び走火の如し。走火とは、烈火なり。並びに一画は長く、余の画は短きが故なり。三徳も亦た爾なり。倶に有るといえども、優劣同じからず。

又云く、第二師の中、「先に相好を得」とは、謂う、百劫已に満つ。「次に種智を得」とは、謂う、三十四心。「後に身と智を滅す」とは、謂う、八十に入滅す。無余は当に在り。故に方に具すと云う。譬の意は知るべし。而るに生公云く、「般若は宗に居して上に在り」。全く小乗の初師の三徳を濫す。縦は小乗に異なるといえども、終に縦の義を成す。仍ち師に同じ。

「若し入って」以下、第三師。「若し滅定に入る等」とは、身有ることを以て法身と名づく。受想心所は、識智は行かず。般若無しと名づく。故に無智と云う。「羅漢、無色に在る等」とは、無色般含なり。彼の無色に於て、有余般を得るを以てなり。羅漢と名づく。ただ心・智有りて、色身無し。般若有りに似て、法身無し。「若し無余に入る等」とは、灰身なるが故に身無く、滅智なるが故に智無し。独一の解脱、故に孤調と云う。これ則ち三法は各おの一人に属す。相い関せずと云う。若し三法を並べて一人に在らしめば、謂う、滅定の起に断結の智有り。無色に在らざれば、復た身有りと名づく。定んで無余を当つれば、解脱有りと名づく。同じく一人に在るが故に、並と名づく。若し三法を累ねて一人に在らしむれば、謂う、先ず無色を得、次に滅定に在り、後に無余に入る。故に縦と名づく。これ則ち小乗の三師。永く伊字の義を闕く。

次に大乗の初師、「法身は正体なり等」とは、法身は本有なり。故に初めに居す。二徳は当有なり。故に次に居す。二徳の中、般若は必ず無累の前に居す。故に縦の義を成す。「この二、弥亘す」とは、般若、解脱なり。弥は瀰たる、布くるなり。亘は遍く亘るなり。種智を修すといえども、種智は未だ具さず。分に解脱を得。解脱は未だ満たず。亦た名づけて浄と為すを得、亦た名づけて穢と為すを得。展転して相い望み、互いに浄穢と為す。無量の生を隔て、無量の世を跨る。生世に別無く、綺文の故に爾るなり。時に節を経歴し、三徳次第なり。故に縦と名づく。

次師云く、「三徳に前後無し等」とは、初師は体、唯だ法身なり。此の師は体、三徳を具す。三徳を具すといえども、義は初師に同じ。体の具する辺に拠れば、復た相い冥せず。故に横の義を成す。本有なるが故に、体の横と名づく。修得の辺りを従えば、義の縦と名づく。

後師云く、「体と義は俱に殊ならず等」とは、体と義とは、俱に本有に従う。故に殊ならずと云う。行証に拠れば、復た前後の似あり。故に隠顕と云う。法身の一徳は、纏に在りては隠、纏を出でては顕なり。余の二徳は、種子は久しく具す。之を名づけて隠と為し、究竟は果満す。之を名づけて顕と為す。三徳、俱に此の二義有り。本有の三法は、俱に横と名づく。俱に隠顕有り、故に俱に縦と名づく。隠顕なるが故に、則ち先後有り。故に縦を成す。

「衆釈此の如し」以下、結して斥く。大小の六釈、皆悉く大経の文に会せず。「今明かす」以下、今家の正釈。三義をもって、方ち経旨に応ず。理性の三徳は、一切の法を該含す。故に蔵と名づく。一つ一つは皆三を具す。三三は相い冥す。三は祇是一、一は一無し。是の故に、此の蔵は三一縦横一異すべからず。而して之を思えと云う。是の故に皆、不可思議及び那忽等と云う。一異等とは、並べば則ち別、名は異なり。異に対すれば、語便りの故に一と云うのみ。「身常等」とは、此の行因は、向に理蔵を修す。果に至り得る時、法身已に満つ。故に身常と云う。種智已に成る故に智円と云う。煩悩永く尽くる故に断具と云う。

「理蔵」の釈は、六即の中に、当に理即なり。「行因」の釈は、六即の中に、別して究竟に在り。通じて五即を具す。今、理釈に対して、別して究竟に従う。身常等なりといえども、前後を得ざるが故に縦を成さず。理と修、因と果と、並びに一時に具して、而も皆互いに融す。彼彼は相い冥ずるが故に、横の義に非ず。「相い冥ず」と言うは、且く行に従って説く。理性の冥ずるが故に、方ち行を冥ぜしむ。行は能く理を顕わすが故に、行に従って説く。「能種種」なるは、三徳のみ利他を用有るにあらず。法身も亦た然り。故に化用に約すれば、則ち一身は一切身、一智は一切智、一脱は一切脱。是の故に名づけて種種建立と為す。化を息めて帰に論ずるは、同じく冥寂に帰す。故に第一義なりと云う。

「次に即ち一」以下、字義に約して釈するは、祇だ三点、同じく一つの伊なり。一つの伊なりといえども、三点有り。是の故に伊字は非縦非横なり。旧義に同じからず。故に真伊と曰う。応に知るべし、大経は始終三徳なり。故に経の初め、哀歎品の中に、伊字の義を以て此の三徳を釈す。三十六問は、広く三徳を顕わす。序の中に三徳を序する所以なり。純陀の一品は、涅槃の施しを明かす。正しく三徳を明かす。長寿より去って十四の品の中に、涅槃の義を明かし、三徳を解釈す。「仏法を声聞に付さず、諸の菩薩に付す」と言うは、正しく此の三徳秘蔵を付するなり。現病より去って、凡そ五品有り。涅槃の行を明かし、此の三徳を修す。師子吼より去って、陳如の品に至るまで、凡そ三品有り。涅槃の用を明かす。即ち三徳の功能なり。若し三徳の一心中に在るを了せば、則ち大経の一部は、方寸に居す。況んや法華の開顕、十方三世同じく三軌を説く。三軌は妙なり。故に妙法と云う。華厳の法界、浄名の解脱、不共般若、此の三徳と一体、殊なること無し。若し此の意を識れば、今の文は了るべし。十方の仏法は、一刹那に在り。

「問う」以下、料簡す。二重の問答有り。初めの文は正しく判じ、次の文は開通す。初めの文の問う、三徳と四德は、俱に涅槃に在り。云何が同異なるや。答の意は、三四は別の似あり、俱に涅槃に在り。涅槃は殊ならず、三四は別ならず。是の故に会通し、不二を識らしむ。中に、復た通別の二会有り。初めに通会す。三德、一々皆四德を具す。故に通と名づく。通に復た二解有り。初めに大経を引く。[法身常なるが故に]二德も亦た常なり。既に常有り、豈に楽等無からんや。これは乃ち比望の、準例をもって釈す。法に既に常有れば、必ず余の三有り。復た余の二をもって法身に反例す。仏は覚了なり。覚了は智なり。故に般若に属す。又、能く形を垂れて他を調伏す。故に解脱に属す。是の故に、仏の字は二德を具有す。次に大経を引く。「因に五陰を滅す」、皆四德を具す。陰は即ち法身。法身の然るが如く、余の二も例も爾なり。故に知る、三德は皆四德を具す。是の則ち、通対に此の二解有り。

次に「若し依れば」以下は、復た五陰及び四念処を転じて、四德を成す。別別に相対す。故に別と名づく。是の則ち、別対にも亦た二解有り。謂う、陰及び念処、開合同じからず。文に準じて見るべし、云云。是の則ち、結するに、円に依れば是れ頓の義等とは、向の通別二解の如きは、ただ法をもって法に対し、未だ行相を論ぜず。若し初心の観ならば、便ち頓義と成る。後心の方に会すれば、便ち別義と成る。

次に開通の中、初めの問意は、前の第二巻末に云く、「発心有り、所治の三障有り、乃至究竟、所治の三障有り」。又云く、「発心有り、所得の三德有り、乃至究竟、所得の三德有り」。此れ則ち三障三德、俱に至極に通ず。今、将に三道四倒を以て三障に並ぶ。障と道、及び四倒とは、名を異にし義を同じくす。聖德を隠蔽するを、之を障と名づく。生死に通ずるを、之を道と名づく。見解、理に違するを、之を倒と名づく。倒なるが故に能く障す。障するが故に生死なり。是の故に、今、三道四倒を以て、並びに三障を難ず。開とは、開拓し通達して、近より遠きに至るを謂う。

答えの中、先ず所問を許す。次に解釈の為す。先ず問を許して云く、「倒と道及び倒、三義既に同じ。俱に至極に応ずべし」。次に「何者ぞ」下、倒の意を釈す。義の同じきを以ての故なり。中に重ねて三障の義の通ずるを明かす。極に通ずるが故に、極に至りて方に破し尽くす。故に至極と云う。三道も亦た至極に至るを許すを以ての故、これにより業報煩惱、一々開いて三と為す。

「報は三種の煩惱に由る」とは、恐らく文は誤らん。応に「業は三種の煩惱に由る」と言うべし。「又約して」下、次に三道四倒の至極を示す。報障、分けて三と為すこと、既に至極に至於る。一々の報の中に、三道を開く。是の故に、三道も亦た至極に至る。何者の、分段の三道とは、見思惑を煩惱道と謂う。煩惱、業を潤すを、業道と名づく。界内の生を感ずるを、苦道と名づく。方便の三道とは、塵沙惑を煩惱道と謂う。無漏業を以て、業道と名づく。変易生死を、苦道と名づく。実報の三道とは、無明惑を煩惱道と謂う。非漏非無漏の業を、業道と為す。彼の土の変易を、苦道と名づく。問う、何ぞ寂光を感ぜざる。答う、今、報を感ずるを論ず。寂光を論ぜず。寂光に報無きが故に、説かざるなり。

三煩惱に約して、各おの四倒を開くとは、見思煩惱に常等の四有り。塵沙煩惱に無常等の四有り。無明煩惱に亦た常等の四有り。問う、今の文の三障の中、已に苦及び煩惱を明かす。何ぞ業を云いて三と開かざる。答う、業は煩惱に由るが故に報を感ず。已に余の二を説く。業は其の間に居す。故に説くを須いず。問う、何故、諸の倒は唯だ四有りと説きて、三ならず五ならざるや。答中、但だ常及び無常等を説くのみ。答う、理は本より名無く、彊いて名を立つ。彊いて德と為すといえども、四を出でず。佛滅度の後、外人、佛の常等の四名を窃み、以て神我を計す。故に佛、初めに出でて、無常等を説き、常等を破す。二乘、了せず、無常等を計し、以て之を極と為す。故に佛、復た常等の四德を説き、無常等を説く。出假の菩薩は、二乘の辺に異なり、常等と名づく。菩薩、達せず、但だ教道に執す。又、非常非無常等を説き、常等を破す。此れは漸化の化儀に約するを以て説く。若し頓教ならば、即ち常等に於て無常等を説き、而して無常を達するは、即ち中道秘密の蔵に達す。円に依るは是れ頓なり。別に依るは是れ漸なり。意も亦た此れに同じ。但だ別教の次第は、化儀に少しく異なる。思うべし、之を見る可し。

○次釋體相中。明此止觀所顯之體。雖用止觀以為能顯。止觀是行行藉教興。教為能詮行理為所。行望於理復為能顯。能顯復通因果得失。得謂能顯今之妙體。失謂但屬方便凡小。是故今文四章顯體。於中初明來意。亦是結前生後。從初至若向是結前兩章。既知至如前結前大意。名字至若向結前釋名。須識已下生後顯體。大意通於因果自他。故云豁達。釋名遍於偏圓橫竪。故云曠遠。曠橫廣也遠竪深也。如釋名中相待即是亦橫亦竪。絕待即是橫竪不二。此約橫竪而論不二。通德竪遠也。會異橫廣也。此則約不二而論二。初云如前。次云若向者。前之與向義俱在往。義而推之以小遠者為前。以稍近者為向。故法華經不輕品云。誹謗獲罪如前所說。指法師品在第四卷。所得功德如向所說。指法師功德品在第六初。須識體理淵玄者。復以體相望於前二。前二俱橫體相唯竪。故云淵玄。淵深也。玄幽也。故分別中云。體相竪餘八橫。此據一往大分而言。故釋名中復通橫竪及不二等。次開章別釋中。所詮諦理名之為體。分別權實大小不同。故名為相。亦云顯體者。體是所顯。教相眼智即是能顯。能從於所故云顯體。初云粗寄四意者。粗略也。體相難申略寄四意方能識體。夫理藉下。明用章所依及生起者。教能詮理故教居初。詣理須行行即眼智。是故居次。次辨所詣即是理境。是故居次。辨取理人自他得失。是故居次。若從生起似如四章共成體相。解釋文旨當分高深。俱能顯體豈須相假。問。初教相章與釋名何別。答。彼釋通名但得名教。今判同異故云教相。問。既云體相那列教相。答。雖語能詮意在所詮。不約能詮無以辨所。約眼智章能所亦爾。如前通德德是所詮。明能通名能至於所。以所顯能故云通德。故釋名四段意在絕待。體相四章意在境界。是故四章文四義二。章意在一。法華下。明用章意者。前釋名中既用玄文待絕二妙。故今顯體。還用疏中四一顯實。實不異彼是故用之。此四一名本出光宅。光宅疏意。以三三為權指於昔教。以四一為實指於法華。昔三無果故三但三。今教無三四種皆一。故云四一。今家和舊亦作四一。數同名異不全同舊。舊云果一今云理一。若無理印則同魔說。舊云因一今云行一。因語則單。行通因果。人教二一與舊不殊。玄文有破今不具論。玄文復以十妙而為十一。今且依四以對四章。故經云。為令眾生開佛知見。取所知見而為理一。但教菩薩即是人一。常為一事即是行一。為眾生說即是教一。疏釋理一約能知見。又為四釋謂四智四門四位觀心。能所相對四章義足。智是眼智。門是教相。觀心秖是稟教證智次位秖是眼智所階。以契於理。於中先明教相中。初文更明來意故也。名即是教故云教相。但前釋名。名通凡聖大小偏圓。不能尋之求於別體。別體不顯欲捨偏從圓。無由能致。今明此章分其相別。教家之相。故云教相。言通別者。如大經三十三云。佛言。須陀洹者名為逆流。迦葉難言。若如是者阿羅漢乃至佛。亦得名為須陀洹耶。佛乃至須陀洹亦名佛耶。迦葉正以通名難於別體。以逆流名通一切故。若言所斷三結名須陀洹。乃至三十四心名為佛者。則名體俱別。前止觀名其名既通。今以別體甄於通名。故不必須名體俱別。又如成論止觀異時。薩婆多宗止觀同時。雖有同時異時之言。豈可以彼同時為圓異時為別。是故須以教相簡之。前釋名中。意且總語衍門三諦。亦可義兼三藏真諦。今顯體中欲委分別從寬就狹。所以始自凡夫終至圓極。皆名止觀。初明有漏者界內法也。止善所治謂殺盜等。行善所生謂放生等。由行由止故得善名。名止行善。四禪等者。準下攝法此據多分。若委說者。如四禪中各有一心。名為止相。餘並屬觀。又第四禪復是止相。餘屬觀相。今通云止者通屬定故。四無量心前三觀相捨心止相。又悲令離苦亦是止相。慈令與樂亦是觀相。喜心具二兼於止觀。今通云止者。此之四心非定不剋。六行觀者。別論亦可厭下為止。欣上為觀。通云觀者有欣厭故。故大論下約譬斥奪。大經亦云。除摩黎山能出栴檀。餘無出者。且以出世三乘望於有漏名真智慧。故有漏法非今所用。次若二乘下。明三藏析法所有法門。一切事定多屬止者。且從定故大判為止。若別論者。且如十想見道有三。謂無常苦無我。修道有四。謂食不淨世間不可樂死不淨。此七屬觀無學道三。謂斷離盡。此三屬止亦可俱觀一一文下。皆云智慧相應故也。判為止者既名事禪。禪宜屬止。又無學後三其名近止。故判屬止。八背亦可前三屬觀後五屬止。色望無色無色宜作止名說故。九次第定練八背捨。亦可隨彼以分止觀。既俱云定故判屬止。有此不同。是故文中皆云一往。言有作四諦慧等者。一往雖復從禪判止。彼大經中九想等文。皆在慧聖行中。既以慧為名復判屬觀此之下斥拙度法。以巧望拙拙不名觀者。止觀二法同滅色故。是故滅名且與止號。次釋如文。

○次に体相を釈する中で、この止観が顕す体について明らかにする。止観をもって能顕として用いるけれども、止観は行であり、行は教によって興る。教は能詮であり、行と理は所詮である。行を理に対して見れば、再び能顕となる。能顕はさらに因果や得失に通じる。得とは、今の妙体を顕すことができることを言う。失とは、ただ方便や凡夫・小乗に属することを言う。そのため、今の本文では四章に分けて体を顕す。その中で、初めに来意を明かす。また、これは前を結び後を生ずることでもある。初めから「若向」までは前の二章を結ぶ。「既知」から「如前」までは大意章を結ぶ。「名字」から「若向」までは釈名章を結ぶ。「須識」以下は後の顕体章を生ずる。大意は因果や自他に通じるので、「豁達」という。釈名は偏・円や横・竪にわたるので、「曠遠」という。曠は横に広いことであり、遠は竪に深いことである。例えば釈名の中での相待は、横にも竪にもある。絶待は横竪不二である。これは横竪について不二を論じたものである。通徳は竪に遠く、会異は横に広い。これは不二について二を論じたものである。初めに「如前」と言い、次に「若向」と言うのは、「前」と「向」の意味はともに過去にあり、意味を推し量れば、少し遠いものを「前」とし、少し近いものを「向」とする。法華経不軽品に「誹謗して罪を得ること、前の説く所の如し」とあり、これは法師品(第四巻)を指す。「得る所の功徳、向に説く所の如し」とあり、これは法師功徳品(第六巻の初め)を指す。「須識体理淵玄」とは、再び体・相を前の二章に対して見る。前の二章はともに横であり、体・相はただ竪である。そのため「淵玄」という。淵は深く、玄は幽かである。分別の中に「体相は竪、余の八つは横」とあるのは、これはひとまず大まかに分けたに過ぎない。故に釈名の中では、再び横・竪や不二などを通じる。次に章を開いて別に釈する中で、所詮の諦理を名づけて体とし、権実・大小の異なりを分別することを名づけて相とする。また、顕体ともいう。体は所顕であり、教相と眼智は能顕である。能は所に従うので、顕体という。初めに「粗寄四意」というのは、「粗」は大意であり、体相は述べ難いので、大まかに四つの意味に寄せて初めて体を識ることができる。「夫理藉」以下は、章を用いる所依と生起を明かす。教は理を詮することができるので、教を初めに置く。理に至るには行を必要とし、行はすなわち眼智であるから、次に置く。次に所詣を弁ずれば、すなわち理境であり、次に置く。次に理を取る人の自他・得失を弁ずれば、次に置く。もし生起に従えば、四章が共に体相を成すように見える。しかし解釈の文旨は、それぞれの立場で高深であり、いずれも体を顕すことができるから、どうして互いに仮りる必要があろうか。問う。初めの教相章と釈名章との違いは何か。答う。釈名章は通名を釈するだけで、ただ教の名を得る。今は同異を判ずるので、教相という。問う。既に体相と言うのに、なぜ教相を列挙するのか。答う。能詮について語るけれども、意は所詮にあり、能詮に拠らなければ所を弁ずることができない。眼智章についても、能所は同じである。例えば前の通徳では、徳は所詮である。能通の名を明かすことで、能が所に至ることができる。所をもって能を顕すので、通徳という。故に釈名の四段は、意が絶待にあり、体相の四章は、意が境界にある。そのため四章は文は四つで義は二つであり、章の意は一つである。法華以下、章を用いる意を明かす中で、前の釈名では既に玄文の待・絶二妙を用いた。それゆえ今の顕体でも、また疏の中の四一を用いて実を顕す。実は彼と異ならないので、これを用いる。この四一の名は、もとは光宅に出た。光宅の疏の意は、三つの三をもって権とし、昔の教を指す。四つの一をもって実とし、法華を指す。昔の三つには果がないので、三つはただ三つである。今の教には三つ・四つはなく、四種すべてが一つであるので、四一という。今の家(天台)は旧説を和合して、また四一を作る。数は同じだが名は異なり、旧説とは完全には同じではない。旧説は果の一と言い、今は理の一と言う。もし理の印がなければ、魔説と同じになる。旧説は因の一と言い、今は行の一と言う。因の語は単独である。行は因果に通じる。人の一と教の一は、旧説と異ならない。玄文では破するところがあるが、今は詳しく論じない。玄文ではさらに十妙をもって十一とする。今はひとまず四に従って四章に対応させる。故に経に「衆生のために仏の知見を開かせしめんがため」とある。取る所の知見をもって理一とする。ただ菩薩を教えることは、すなわち人一である。常に一事を為すことは、すなわち行一である。衆生のために説くことは、すなわち教一である。疏は理一を能く知る知見について釈する。また四種の解釈、すなわち四智・四門・四位・観心とする。能所を相対させれば、四章の義は足りる。智は眼智であり、門は教相であり、観心はただ教を稟け智を証する次位を観じることであり、ただ眼智の所に階することであり、もって理に契合する。その中で、先ず教相を明かす。初めの文は、さらに来意を明かすためである。名はすなわち教であるので、教相という。ただ前の釈名では、名は凡聖・大小・偏円に通じるので、それに従って別体を求めることができない。別体が顕れなければ、偏を捨てて円に従おうとしても、その方法がない。今この章はその相の別を分ける。教家の相であるので、教相という。通別ということについて、例えば大経三十三に「仏の言わく、須陀洹は名づけて逆流という。迦葉の難じて言わく、もしそうならば阿羅漢乃至仏もまた須陀洹と名づけるべきか。仏は乃至、須陀洹もまた仏と名づけるべきか」とある。迦葉は正に通名をもって別体を難じる。逆流の名が一切に通じるからである。もし言う所の断つ三結をもって須陀洹と名づけ、乃至三十四心をもって仏と名づけるならば、名と体はともに別である。前の止観の名はその名が既に通であるので、今別体をもって通名を甄別する。だから必ずしも名と体がともに別である必要はない。また成実論のように止観は時を異にし、薩婆多宗は止観は同時である。同時・異時の言があるけれども、どうして彼の同時を円とし、異時を別とすることができようか。だから教相をもってこれを簡別する必要がある。前の釈名では、意はひとまず総じて衍門の三諦を述べる。また義として三蔵の真諦を兼ねることもできる。今の顕体では、詳しく分別し、広いところから狭いところに従おうとする。だから凡夫に始まり、円教の極に終わるまで、すべて止観と名づける。初めに有漏を明かすのは、界内の法である。止善の所治は殺・盗などであり、行善の所生は放生などである。行と止によって善の名を得るので、止行と善と名づける。四禅などについては、下の摂法に準じれば、これは多くの部分に基づく。もし詳しく言えば、例えば四禅の中にそれぞれ一心があり、名づけて止相とし、その余りはすべて観に属する。また第四禅は再び止相であり、その余りは観相に属する。今、通じて止と言うのは、通じて定に属するからである。四無量心は、前三つは観相、捨心は止相である。また悲は苦を離れさせることは止相でもあり、慈は楽を与えることは観相でもある。喜心は二つを具え、止観を兼ねる。今、通じて止と言うのは、この四心は定でなければ克ち得ないからである。六行観は、別に論じれば、また下を厭うことを止とし、上を欣うことを観とすることもできる。通じて観と言うのは、欣厭があるからである。故に大論の下では、譬えをもって奪い斥ける。大経にも「摩黎山を除けば、栴檀を出だすことができるものはない。その余りに出だすものはない」とある。ひとまず出世の三乗をもって有漏に対して望めば、真智慧と名づける。故に有漏の法は今の用いる所ではない。次に「若二乗」以下は、三蔵の析法の所有する法門を明かす。一切の事定は多く止に属するのは、ひとまず定に従って大まかに止と判ずるからである。もし別に論じれば、例えば十想の中で、見道には三つ、すなわち無常・苦・無我がある。修道には四つ、すなわち食不浄・世間不可楽・死・不浄がある。この七つは観に属する。無学道には三つ、すなわち断・離・尽がある。この三つは止に属する。またすべて観とすることもできる。一々の文の下に、皆「智慧相応」とあるからである。止と判ずるのは、事禅と名づけられるので、禅は止に属するのが適当である。また無学の後の三つはその名が止に近いので、止と判ずる。八背捨は、また前三つを観に属し、後五つを止に属することもできる。色を無色に対して望めば、無色は止の名で説くのが適当であるからである。九次第定は、八背舎を練る。またそれに従って止観を分けることもできる。いずれも定と言うので、止と判ずる。このように同じでないところがあるので、文中では皆「一往」と言う。「有作四諦慧等」と言うのは、一往は禅に従って止と判ずるけれども、大経の中の九想などの文は、皆慧聖行の中にある。慧を名とし、また観に属すると判ずる。この下では拙度法を斥ける。巧をもって拙に対して望めば、拙は観と名づけるに足りない。止観の二法は同じく色を滅するからである。そのため滅の名はひとまず止の号を与える。次に解釈は文の如し。

止觀輔行傳弘決卷第三之一

止観輔行伝弘決 巻第三之一

止觀輔行傳弘決卷第三之二

止観輔行伝弘決 巻第三之二

唐毘陵沙門湛然述

毘陵の沙門湛然が述べる

次明巧度。先列即次第三觀通名為巧望拙得名。若大論中引喜根等名巧度者。即指三教。是則次第與不次第。俱名為巧。今從初說故亦名巧。次正釋。初次第中先止後觀。初明止中初體真止。案文解釋其文尚略。具起應以四性推檢。破性計已具二空故方名得空。次第二止者。初且通語三乘所證。而大同小異。若二乘下釋不須方便。次引經云動止心常一者。止即是空動即入假。空心入假故云常一。次第三止中云偏行等者。斥前二止故也。意之所趣曰行意之所依曰用。初體真止俱觀二諦。偏趣於真依真起行故。次方便止亦俱觀二諦。偏趣於俗。雖依俗起行未觀中道故並名偏。故今斥之不會中道。又涅槃住空名為偏行。出假流動名為偏用。又知俗非俗義通二種。緣生之俗及出假俗。二俗俱寂故云寂然。此三止名等者釋疑。此是大師謙退之辭。次釋論下。證三止意。何但映望三觀使名有憑。大論亦許隨義立名。言依三觀立三止者。大小乘經止觀二名皆悉並立。況止觀秖是定慧異名。既定慧之名處處並列。故今望觀以立止名。所以瓔珞三觀義必兼止。故成論中有止觀品。四阿含中凡有佛教令修二法。即是止觀。又婆沙十七云。諸比丘問上座云。樹下閑房為修何法。上座答言。當修二法。所謂止觀。又問。多修止觀為何所得。答。得初果乃至阿羅漢果。如是次第問五百比丘。皆云修止觀二法。阿難白佛。佛亦云修止觀二法。阿難歎言。善哉善哉。如來與弟子所說皆同。句義味同。又淨名云。法身者從止觀生。大瓔珞云。若欲學諸法深入善本。當見菩薩力修習止觀。大小經論一切皆爾。次詳此下。與釋名中對辨同異。言髣髴者。上音彷下音佛。非謂合同故云也。所言同者。前云止息約煩惱息。今云體真體妄即真。前云停止約心往理。今云隨緣心隨俗理。前不止止約理不當止與不止。今息二邊。空邊如止假如不止。中道不當空假二邊似不止止。其相異者。前之三止共成一諦。今之三止各成一諦。前三成次三等者。次之與後並指體相。綺文互說是故不同。前釋名三成體相三。故體相三一一皆假釋名三成。何者。如體真止必息見思停心真諦。及見真理非止不止。體真既爾。餘二例然。是故一一皆具前三。下句云後一具前三者。複疎上句云體相中一。皆具釋名中三故也。次明三觀者。先依經列。彼本業瓔珞有兩處文。明此三觀。下卷佛為普賢文殊等七菩薩說。具如第一卷引。上卷明十迴向中一。一迴向各各有十所緣境界。第十向中第十觀者。名為無相第一義觀得入初地。初地已上三觀一心。言三觀者。從假入空名二諦觀。從空入假名平等觀。二觀為方便因是二空觀。得入中道第一義諦觀。雙照二諦。心心寂滅自然進入初地法流水中名摩訶薩。今文依彼略三五字耳。從所言去。解釋經意。初釋入空復名二諦。文有五重。初通途約詮能所共論。何者。俗是能詮空是所詮。若無能詮無以識所。是故須立二諦之名。又會空下。第二約證況修說。先法次譬後合。初法中云會空之日秖應見空。尚空假俱見。況由觀假見真。而不得云二諦觀耶。是故不得不立二諦。如雲除等者。次舉譬也。雲即是障。障除名發。發即開也。如雲除時上空一色顯。下萬象必明。上顯譬見真。下明譬見俗。雲譬見思惑上顯必下明。是故須二諦。由真下合譬。由真合上顯假顯合下明。由見真故其假更顯。今由下況釋。明證真時尚見二諦。今始修真由觀假得。何意不名二諦觀耶。故云今由等也又俗下。第三約破用說也。若有所破必有能破。能破即是所用真諦。能所不孤是故俱立。又分別下。第四約情智說。今家釋諦凡大小乘皆對情智義方盡理。故以大經釋瓔珞文。大經三十二云。隨自意者。如五百比丘各說身因。五百皆問舍利弗言。佛說身因何者是耶。舍利弗曰。汝等亦各得正解脫。自應知之。何緣方更作如是問。有比丘言。我等未得正解脫時。意謂無明以為身因。作是觀時得阿羅漢。有說愛有說行。有說飲食及五欲等。如是五百各各說已。共詣佛所。右繞却坐各述己說。身子白佛誰為正說。佛言。五百比丘無非正說。各說己證名隨自意。亦名隨智。如已吒羅長者。稱佛為幻人。佛因廣說一切幻法種種不同。隨順物情名隨他意。亦名隨情。如云世人心之所見者。名為世諦。出世人心之所見者名第一義諦。世諦屬情第一義屬智。情智共合得二諦名。名隨自他意。亦名隨情智。此約藏通二教二諦。義當今文初觀意也。後之二教準說可知。如說三德云。如來名號十萬不同。般若一法說種種名。解脫亦爾。多諸名字。是名隨情。安置諸子自亦住中。是名隨智。修德性德名隨情智。今準初觀尚具情等三種二諦。何況一種。問既未契真只應隨情。何得餘二。答。通初後故故須遍說。今文正以教行二種。以顯初修成二諦義次問下料簡。有八重問答。初問者。以前初觀第三釋意難第二觀。初觀破俗用真。次觀破真用俗。二觀既俱破一用一。亦應俱得名二諦觀。何故第二名平等耶。答意者。俱名二諦觀於理實通。但前後名同優劣混濫。是故第二從勝立名。所言勝者。前但用真今能用俗。真唯自利俗則益他。自行兼人故名為勝。次問者。以第三觀。難第二觀。第二望初從勝受名。第三望初何不從勝。第二偏用尚名平等。第三用等應名平等。而但名為中道觀耶。答意者。前之二觀俱有破用。當觀而論俱不平等。第二望初初後合說。故至第二方名平等。此從破用相對名等。今第三觀當觀而論。已自平等。望前二觀翻為末等。是故但成更破更用。今此俱照不對破用。是故但從能用立稱。故此第三二俱無滯。縱在地前未入中道。邊滯已破但用於中。又中道觀非不平等更名平等。復成混濫。次問雙難前二俱觀二諦。亦應俱入。何故初但入真次但入俗。答中意者。但答初觀準知第二。初既俱觀而不俱入。第二亦為破空用假。破用不等入亦不同。次問者。前已難於真俗破用。今以真中難於俗諦。三諦之中但舉真中難一俗者。二俱名俗何須別難。真中即是界內外真。即有所破界內外俗。真中是理容可稱諦。所破非理何得稱諦。答意者。法性是理理即是諦。既俱法性故俱稱諦。次問者。諦故無惑故無生死。既俱稱諦俱涅槃耶。答意者。真俗雖異俱得名諦。世出世異俱名涅槃。涅槃即是出世安樂。故世安樂亦名涅槃。次問者。涅槃即是無漏無為。二諦俱得名為涅槃。亦應俱得名為無漏。答意者。夫入無漏必須正見。既許世間亦有正見。即名世間無所漏失。次問者。以無漏故即是無生。既許真俗俱名無漏。亦應真俗俱名無生。答意者。無生之名亦通二諦。故借大經三十二文外道計答。猶如世間有四種無。一者未生名無如泥無瓶。二者滅已名無。如瓶破已。三者異相互無。如牛馬互無。四者畢竟名無。如龜毛兔角。今借第三互無為答。即是出世無世間生。世間亦無出世之生。所言借者。雖非正義然約世諦。四無非謬。權借以為適時之答。下去例爾。次問者。從假之言為破不破。答中開為三十六句。具如下文煩惱境中。今初且對文中四句。破謂破假入謂入空。不破而入即體法無學。破入即是析法無學。破不入謂得禪外道。不破不入即一切凡夫。破與不破俱名從假。亦俱入空即前二句。謂破不破俱名從假。而不入空即後二句。次單釋第二觀中。異時相望稱平等者。此第二觀得名平等。非獨從此第二觀得。初觀用真而破於俗。此復用俗而破於真。兼前乃成雙用雙破。前後相望名為異時。至今第二方名平等。次今當下。有兩重譬合。初譬入空次顯入假。凡夫生盲真俗俱瞑。慧眼開已。見真諦空亦見俗色。從假下。合入空譬。雖見二諦但能用真。未能分別不能用俗。故譬中云不能分別種種等也。四種四諦名為種種。卉是草之都名都標三草。木是樹之總稱總舉二木。根莖枝葉疏中譬於信戒定慧。四教各具此四法故。四種道滅名之為藥。四種苦集名之為毒四教區分故種類各別。故初入空未能分別。是故名為不能用假。次重譬者。慧眼開後即入假時。亦見二諦名見空色。分別前來所破之色。洞見諸法根等不同。了四四諦名識種類。達於藥病因起不同。名解因緣。展轉相望互論麁細。治苦集邊名之為藥。藥資法身故名為食。識藥識病名為皆識。善能授藥名為皆用。遍四四諦故並云皆。所被九界名為益他。此譬下合也前後二觀俱觀真俗。此能分別望前故等。次釋中道者。初正鎖瓔珞經文。經中釋前二觀竟。即云。因是二空觀為方便道。得入中道雙照二諦。心心寂滅自然進入初地。今初釋方便者。有二種。一者雙亡二者雙照。初言二空者。空假空空。空即是遮遮即是亡。由前異時雙亡方便。今入中道任運雙亡。亡即是中故云心心寂滅。又初觀下。次釋雙照。初二觀時用空用假。由前異時雙用方便。用即是照照即是中。故引經云心若在定等也。生即是俗滅即是真。故住中道能知生滅。知秖是照意在於此。以皆中故故得任運。此之任運由前作意。更互亡照而為方便。入中道時故能爾也。次問者。引經釋妨以證今文。入初地時方乃名等。是故先問偏相云何。答中意者。所言偏多不見性者約次第義。次問者難向答文。向答兩觀屬偏定慧。故不見性。復引大經以難前答。慧眼在於法眼之前。尚得云見。但言不了云何而言兩全不見。此文是大經佛答師子吼云。慧眼見故而不了了。佛以佛眼見則了了。菩薩行故見不了了。若無行故見則了了。住十住故見不了了。不住不去見則了了。云何而言行向等位亦不見耶。答意者。所言兩眼俱不見者。約次第義。兩觀既屬偏假偏空。則慧法眼俱不見性。汝所引經慧眼見者。慧眼雖為十住之位。借別名圓故云十住及慧眼見。依圓為語。初住已去實是佛眼。故知此借圓住。名為慧眼。非謂慧眼十住能見。次引法華以證慧眼。世尊究竟尚名慧眼。豈況十住不得名慧。佛慧眼者。見畢竟空空即是中。慧眼即是佛眼故也。言如斯者。指前住中慧眼不了。不及世尊慧眼究竟。如無明夜見中道色。餘無明在故見不了。空中鵝雁亦復如是。有餘無明與眼作障。故令見中鵝雁不了。故大經第八云。譬如遠觀空中鵝雁。為是虛空為是鵝雁。諦觀不已髣髴見之。十住菩薩於如來性少分知見。亦復如是。空如無明鵝等如性。不了之言在彼十住慧眼菩薩。何關二乘偏空慧眼。是則別教地前皆悉不見。況通菩薩及兩二乘。復引法華穿鑿等喻。證第三觀圓住方見。法華疏中為鎖經文。觀約四教教約五時。當知教觀俱成約教。方顯彼部稱為獨妙。彼寄四教以釋觀者。初三藏教以眾生為高原。習觀為穿鑿。證理為清水。通觀以乾慧為乾土。性地為濕土。見真為清水。別觀以空觀為乾土。假觀為濕土。見中為清水。圓觀以五品為乾土。六根為濕。初住為清水。彼約教中。通約漸中四時教也。三藏為乾土。方等般若為濕土。法華為泥。見中為水。二義並以初住為水。令約修觀但修頓觀。圓教初心並名清水。不同彼疏剋取初住方名清水。判位雖殊初後不二。故令即是依經起觀。二教下結前約教。言二教者。藏通也。故彼二教如乾濕土全未有水。別教如泥。教道雜故不名清水。初心知中是故但云二教不詮。二行不到者。行即是觀。結前約觀即空假二觀。謂兩二乘通別入空。空行所攝。三藏菩薩通別出假。假行所攝。是故總云二觀不到。次第觀中中道雖非今文所用。證道同故。是故但云二行不到。權教尚爾況復餘耶。故云遍空乃至無有是處。次此三觀下。與前釋名三觀辨異。準釋三止意亦可知。此依摩訶衍等者。判前巧度次第三觀。雖有空假俱屬衍門。故此三觀用昔教中相待名義。以為總詮。次第教相以為能顯。次第三諦以為所顯。為是義故非圓頓相。雖非圓頓本為顯圓。復非別教但云依衍。故下結人位通大小。以義等者。此依大品摩訶衍門。釋三觀相。既未被會但成次第。以次第義隨次第相。三觀條然一一各別。此總標別相。若論下。約觀智人以釋別相。義即是教。教隨相別顯體不同。故使觀等未能融即。前二觀權中道觀實。三觀展轉遞為淺深。觀因智果。因既差別。果亦如之。故使三智展轉優劣有前有後。觀法雖通行人各別。故使三觀攝於大小。一切諸位咸入其中。通含二教故云諸位。旁挾聲聞故通於小。是故若言次第則唯在於大。若論其人則通收大小。故觀智後更論於人。故知空觀二乘唯小。通教菩薩義通於大。別雖入空一向在大。通別並有入假菩薩。亦一向大。通教利根後心有分。謂被接者。別人初地方乃現前。是故諸位大小不同。若論權門唯應廢藏。且從次第故亦置圓。次明圓頓。用絕待名以為能詮。一諦三諦以為所顯。上下文相對當分明。於中初止次觀後明同時。初明止中有法喻合。初法文中。止為能緣諦為所繫。是故經云。繫緣法界法界不異能所一故。次譬中。雙譬止諦三一不二。止諦下合。初法說中。止之與諦並即一而三。譬中通譬三一不二。合中諦則即一而三。止則即三而一。文似不同意顯止諦三一不二。不二而二。以觀下。明觀也。觀之與境雖復互作觀發之名。以觀故發以發故觀。同時體遍能所皆悉即一而三。次譬中。亦譬三一不二。合止約諦即一而三。觀之與境亦即一而三。所觀是境所發是觀。合觀與止文翻倒者。亦秖明於三一體等。然止觀既一緣照不殊。諦境名異本是一法。法於止觀使無差別。仍分能所而一而三。是故不須前後定執。譬中言摩醯首羅者。色頂天主一面三目。嚴彼天顏而照大千。嚴天顏者。譬眾德備。照大千者。譬於遍見。不權不實下。顯妙斥麁。不權不實斥前三觀權實淺深。不優不劣斥前三智優劣前後。不並不別寄伊字譬總斥觀智。不大不小斥前三人諸位大小。次引中論者。證三觀三止相即互融。次引金剛。譬止觀與境其體不二。眼喻下合譬。可見。然止觀諦境不二而二。義意似同不無差別。止觀二法雖即不二寂照宛然。諦境二法雖對止觀分於二名。然實無有二體之別。故此喻文分於止觀以喻日眼。諦境一。名同喻一色。眼日色三無前無後。若見下結勸。勸曉文旨。何但下。總明開顯也。開前諸名同一實相。此即舉況總標。何但此圓三一相即。總前一切次第中名同開入實。其相下。次示開相。初開顯體中次第三止三觀。同成絕待一妙止觀。教既開已體無復麁。次體真下。約顯體名。開釋名中相待麁名。即成妙名。名既即妙體亦無麁。還於體真具前釋名三止三觀。準例亦應隨緣方便及息二邊。俱明三止三觀等妙。不更論者。體真已妙即是後二。故不復論。世人多迷以相待名顯相待體。豈復至此識開次第及相待名悉成絕耶。若得此意以銷下文。諸義自顯。如此下結也。既云諸義但一念心。當知一理應一切名。亦是一理應一切理。故云不動乃至差別。經云下。引淨名證。雖多下。引般若證。眾名下結成也。既開前來一切名義。圓外無法故云皆圓。用如此名顯於妙體。是故名為教相顯體。相待絕待等者。結歎。相待絕待結前釋名成不思議。對體結前次第教相所顯成不思議。立名之法各主所詮。故云對體。今開顯竟。名無別趣體無別理。皆遍一切不障一切。故云無礙。皆攝一切無所減少。故云具足無減。具足故頓無減故圓。如此方能顯止觀體。

次に、巧みな教えを明らかにします。まず、順序のある三観を列挙します。これら三観はすべて「巧み」と総称され、「拙い教え」に対する名称です。もし『大智度論』の中で喜根などの「巧みな教え」を挙げている箇所があれば、それは三つの教えを指しています。つまり、順序のあるものも順序のないものも、ともに「巧み」と呼ばれるのです。今は初めの説に従うので、これも「巧み」と名付けます。

次に、正式な解釈です。まず順序のあるものについて、初めに「止」、次に「観」を説きます。初めに「止」を明かす中で、まず「体真止」を説きます。経典に基づき解釈すると、その文章はまだ簡略です。詳しくは、四性の推究によって破るべきです。性という観念を破り、二つの空が備わって初めて空を得たと言えるのです。次に、第二の「止」についてです。初めに、三乗の証得について大まかに述べますが、大同小異です。もし二乗以下の場合、「方便を要さない」と解釈します。次に、経典で「動き念じても心は常に一つである」と説かれているのは、「止」は空を意味し、「動」は仮を意味します。空の心で仮に入るので、「常に一つ」というのです。次に、第三の「止」の中で「偏った行い」などと言うのは、前の二つの「止」を批判しているからです。心の向かうところを行いといい、心の拠り所を用といいます。「体真止」は二諦をともに観ますが、真に偏り、真に依って行いを起こします。次に「方便止」もまた二諦をともに観ますが、俗に偏ります。俗に依って行いを起こしても、中道を観ていないので、ともに「偏り」と名付けられます。だからこそ、中道に合わないと批判するのです。また、『涅槃経』では空に住むことを「偏った行い」といい、仮に出て流動することを「偏った用」といいます。また、俗が非俗であることを知るという意味は、二つの種類に通じます。因縁によって生じた俗と、仮に出る俗です。この二つの俗が共に静かになるので、「寂然」というのです。これらの三つの「止」の名称などについては、疑いを解き明かします。これは大師の謙虚な言葉です。次に、『倶舎論』などの引用は、三つの「止」の意味を証明するものです。ただ三観に対応して、名称に根拠があることを示すだけではありません。『大智度論』も、意味に従って名称を立てることを許しています。「三観に基づいて三止を立てる」と言うのは、大小乗の経典において、「止」と「観」の二つの名称は必ず併記されているからです。ましてや止観はただ定慧の別名に過ぎません。定慧の名称はあらゆる場所に併記されています。だからこそ、今「観」に対応して「止」の名称を立てるのです。『瓔珞経』において三観の意味が必ず「止」を兼ねるのも、この理由によります。また『成実論』には「止観品」があります。『四阿含』においても、仏が修行させる二つの法は、すなわち止観です。さらに『毘婆沙論』の第十七巻には、比丘たちが上座に「樹下や閑房で何を修行すべきですか」と尋ねたところ、上座は「止観の二法を修めるべきです」と答えました。さらに「止観を多く修めると何が得られますか」と尋ねると、「初果から阿羅漢果に至るまで得られます」と答えました。このように五百人の比丘に次々と尋ねましたが、皆「止観の二法を修めます」と答えました。阿難が仏に申し上げると、仏もまた「止観の二法を修めなさい」と言われました。阿難は「素晴らしい、素晴らしい。如来と弟子たちの説は皆同じであり、句や義、味わいも同じです」と嘆きました。また『維摩経』には、「法身は止観から生まれる」とあります。『大瓔珞経』には、「諸法を学び、善根を深く修めたいと願うならば、菩薩の力を観て、止観を修習すべきである」とあります。大小乗の経論はすべて、このようでないものはありません。

次に、これらの解釈と、名称の解釈における対比を詳しく見ます。同異を辨別すると言うことです。「彷彿」という言葉は、上を「ほう」、下を「ふつ」と読みます。完全に一致するという意味ではありません。同じ点は、以前は「止息」は煩悩が息むことを指していましたが、今「体真」は、虚妄を体得すればそれが真であることを説きます。以前は「停止」は心が理に留まることを指していましたが、今「随縁」は、心が俗の理に従うことを説きます。以前の「不止止」は、理が止と不止に当たらないことを説きましたが、今「息二辺」は、空の側面を止とし、仮の側面を不止とし、中道は空仮の二辺に当たらないので、まるで止であって止でないかのようです。異なる点は、以前の三つの「止」は共に一つの諦を成していたのに対し、今の三つの「止」はそれぞれが一つの諦を成すことです。前三つが次第を成すなどというのは、次と後はともに「体相」を指します。文章が綾織のように互いに説かれているため、異なるのです。以前の「釈名」の三つが「体相」の三つを成すので、体相の三つはそれぞれがすべて「釈名」の三つを借りて成り立ちます。なぜでしょうか?例えば「体真止」は必ず見思惑を息め、心を真諦に留め、真理を見て、非止非止となります。「体真」がこのようであるならば、残りの二つも同様です。したがって、それぞれがすべて前三つを備えているのです。次の句「後一は前三つを備える」というのは、前の句「体相の中の一つ」がすべて「釈名の中の三つ」を備えることを、より詳しく述べています。

次に、三観を明かします。まず経典に従って列挙します。『菩薩瓔珞本業経』には二か所でこの三観が述べられています。下巻では仏が普賢、文殊などの七人の菩薩のために説いたもので、詳細は第一巻に引用されています。上巻では十回向のそれぞれに十の所縁の境界があることを明かし、第十回向の第十観を「無相第一義観」と名付け、初地に入るとされています。初地以上では三観を一心で行います。「三観」とは、仮から空に入ることを「二諦観」、空から仮に入ることを「平等観」といい、この二観を方便として、この二つの空観によって、中道第一義諦観に入り、二諦をともに照らし、心々寂滅となり、自然と初地の法流水中に入り、摩訶薩と名付けられます。今の文はそれに基づいて、三五字を略したものです。「所言」からは、経典の意味を解釈しています。初めに空に入ることを「二諦」と名付けることについて、五重の解釈があります。第一に、総じて教えの表現とその対象について論じます。俗は表現するものであり、空は表現されるものです。表現するものがなければ、表現されるものを認識できません。だからこそ二諦の名称を立てる必要があるのです。第二に、「空を会得する日」には、ただ空を見るべきですが、それでもなお空と仮をともに見ます。ましてや、仮を観て真を見るのですから、「二諦観」と言わないわけにはいきません。だから二諦を立てざるを得ないのです。「雲が晴れるが如し」などは、比喩です。雲は障りであり、障りが除かれることを「発」といい、開くことを意味します。雲が晴れる時、上の空は一つの色が現れ、下の万象は必ず明らかになります。上が現れるのは真を見ることを譬え、下が明らかになるのは俗を見ることを譬えます。雲は見思惑を譬え、上が現れれば下も必ず明らかになります。だから二諦が必要なのです。「真によって」以下、比喩を合わせます。真は上の現れることを合わせ、仮は下の明らかになることを合わせます。真を見るからこそ、その仮はより明らかになります。今、「真によって」などと、状況を説明します。真を証する時でさえ二諦を見るのですから、今初めて真を修めるのに、仮を観て得るのですから、二諦観と名付けないわけにはいきません。だから「今、~によって」といいます。第三に、破と用について説きます。もし破るものがなければ、必ず破る主体があります。破る主体こそ、用いられる真諦です。主体と客体は孤立しないので、ともに立てられます。第四に、情と智について説きます。当流派が諦を解釈する場合、大小乗ともに情と智に対応して初めて意味が尽くされます。だから『大般涅槃経』を用いて『瓔珞経』の文を解釈するのです。『大般涅槃経』第三十二巻には、「随自意」とは、五百人の比丘がそれぞれ身の因を説いたようなものです。五百人が皆舎利弗に「仏が説く身の因とは何ですか」と尋ねました。舎利弗は「あなたがたもそれぞれ正しい解脱を得ているのだから、自ら知っているはずです。どうして今さらそんな質問をするのですか」と言いました。ある比丘は「私たちがまだ正しい解脱を得ていなかった時は、無明が身の因だと思っていました。そう観じて阿羅漢を得ました」と言い、ある者は愛を、ある者は行を、ある者は飲食や五欲などを挙げました。このように五百人がそれぞれ説き終えて、共に仏のもとへ行き、右繞して座り、それぞれの説を述べました。舎利弗が「誰が正しい説ですか」と尋ねると、仏は「五百人の比丘は皆、正しい説です。それぞれが自分の証得を説いているので、これを随自意といい、随智ともいいます」と答えました。例えば已吒羅長者のように、仏を幻人と呼び、仏はそれに応じてあらゆる幻法のさまざまな違いを広く説かれました。物の情に随順することを「随他意」といい、「随情」ともいいます。「世の人々の心に見えるものを世諦といい、出世の人の心に見えるものを第一義諦という」ように、世諦は情に属し、第一義諦は智に属します。情と智が共に合わさって二諦の名を得ることを、「随自他意」、あるいは「随情智」といいます。これは蔵教と通教の二諦に当たり、今の文の初観の意味に当たります。後の二教も、これに準じて説くことができます。三徳を説く場合のように、「如来の名号は十万もの違いがあり、般若の一法も様々な名前で説かれ、解脱もまた多くの名前がある。これを随情という。諸子を安置し、自らも中に住むことを随智という。修徳と性徳を随情智という」とあります。今、初観はなお情などの三種の二諦を具えているのですから、ましてや一種だけでしょうか。問う:まだ真に契合していないのだから、ただ情に随うべきであり、どうして残りの二つがあるのでしょうか。答える:初めから後まで通じるので、広く説く必要があるのです。今の文は正に、教と行の二種によって、初めて修行する者が二諦の義を成すことを示しています。次に問答があり、八つの問答があります。初めの問いは、初観の第三の解釈を用いて第二観を難じています。初観は俗を破って真を用います。第二観は真を破って俗を用います。二観ともに一を破り一を用いるのだから、ともに二諦観と名付けられるべきなのに、なぜ第二観だけを平等と名付けるのか、という問いです。答えの趣旨は、ともに二諦観と名付けることは理の上では通じます。しかし、前後の名称が同じだと優劣が混同されます。だから第二観は勝れた名称を取るのです。勝れた点とは、前はただ真を用いるだけだったのが、今は俗を用いることができるようになったことです。真はただ自利のみですが、俗は他を利益します。自らを行い同時に他をも利益するので、勝れているというのです。次の問いは、第三観で第二観を難じています。第二観は初観に比べて勝れた名称を受けています。第三観が初観に比べて、なぜ勝れた名称を受けないのでしょうか。第二観は偏った用でありながらなお平等と名付けられるのに、第三観は用が等しいのだから平等と名付けられるべきであり、なぜただ中道観と名付けるだけなのか、という問いです。答えの趣旨は、前の二観はともに破と用を持っていますが、当該の観だけを見れば、どちらも平等ではありません。第二観は初観と合わせて初めて平等と言えるのです。これは破と用を相対的に見て平等というのです。今、第三観は当該の観だけを見ても、すでに自ら平等です。前の二観に比べれば、むしろ等しくないと言えます。だからこそ、さらに破しさらに用いることになるのです。今、この第三観は対照的に照らすだけで、破と用を対にしないので、ただ用いることができるという名称を取るのです。だから第三観は二つの観点からも滞りがありません。たとえ地前で中道に入っていなくても、辺見の滞りはすでに破られて、ただ中を用いるだけです。また、中道観は平等でないのではありませんが、さらに平等と名付けると、かえって混同が生じます。次の問いは、前の二観を双難しています。どちらも二諦を観るのに、なぜ初観はただ空に入り、第二観はただ仮に入るのか、という問いです。答えの趣旨は、初観だけを答えれば第二観も類推できます。初観はともに観てもともに空に入るわけではなく、第二観もまた、空を破って仮を用いるため、破と用が等しくないので、入ることも同じではありません。次の問いは、前の問いですでに真俗の破用を難じましたが、今度は真と中をもって俗諦を難じます。三諦の中でただ真と中をもって一つの俗を難じるのは、二つとも俗と呼ばれるものだから、わざわざ別に難じる必要はありません。真中はすなわち界内と界外の真であり、つまり破られる界内と界外の俗があります。真中は理であり、諦と称することができますが、破られるものは理ではないので、どうして諦と称することができるでしょうか。答えの趣旨は、法性は理であり、理はすなわち諦です。ともに法性であるから、ともに諦と称されるのです。次の問いは、諦であれば惑いはなく、生死もありません。ともに諦と称されるならば、ともに涅槃なのでしょうか。答えの趣旨は、真俗は異なってもともに諦と名付けられ、世出世は異なってもともに涅槃と名付けられます。涅槃はすなわち出世の安楽であり、世間の安楽もまた涅槃と名付けられます。次の問いは、涅槃はすなわち無漏無為です。二諦ともに涅槃と名付けられるならば、ともに無漏と名付けられるべきではないでしょうか。答えの趣旨は、無漏に入るには必ず正見が必要です。世間にも正見があると認めるならば、それを世間の無漏失と名付けることができます。次の問いは、無漏であるから無生です。真俗ともに無漏と名付けられるならば、真俗ともに無生と名付けられるべきではないでしょうか。答えの趣旨は、無生の名称も二諦に通じます。だから『大般涅槃経』第三十二巻の、外道が答えた話を借ります。世間には四種の「無」があります。一つは未生の無、例えば泥に瓶がないこと。二つは滅した後の無、例えば瓶が割れた後。三つは異なるものが互いに無いこと、例えば牛と馬が互いに無いこと。四つは畢竟の無、例えば亀の毛や兎の角。今、第三の「互いに無いこと」を借りて答えとします。すなわち、出世には世間の生はなく、世間にも出世の生はないということです。「借りる」と言うのは、正しい意味ではないけれども、世諦に約すれば、四つの「無」は誤りではありません。権宜的に借りて、時宜に適った答えとするのです。以下も同様です。次の問いは、「仮より」という言葉は、破るのか破らないのか。答えは三十六句に分けられます。詳細は後述の煩悩境にあります。今は初めに文中の四句を対比します。破は仮を破ること、入は空に入ることをいいます。破らずに入るとは、すなわち体法の無学です。破って入るとは、すなわち析法の無学です。破って入らないとは、禅定を得た外道です。破らず入らないとは、一切の凡夫です。破ると破らないはともに「仮より」と名付けられ、ともに空に入るのは、前の二句です。破ると破らないはともに「仮より」と名付けられるけれども、空に入らないのは、後の二句です。

次に、第二観を単独で解釈します。「異時相望で平等と称する」とは、この第二観が平等と名付けられるのは、単独でこの第二観から得られるのではありません。初観は真を用いて俗を破り、この第二観はさらに俗を用いて真を破ります。第一観を兼ねて、双用双破となります。前後を相対してみると、「異時」と名付けられます。第二観に至って初めて「平等」と名付けられるのです。次に、「今当に」以下、二つの譬えとその合説があります。初めは空に入る譬え、次に仮に入ることを示します。凡夫は生まれつき盲目で、真俗ともに暗いです。慧眼が開かれて初めて、真諦の空と俗の色を見るのです。「仮より」以下、空に入る譬えを合わせます。二諦を見るけれども、ただ真を用いるだけで、まだ分別できず、俗を用いることができません。だから譬えの中で「種々のものを分別できない」というのです。四種の四諦を「種々」といいます。「卉」は草の総称で、三草を総括します。「木」は樹木の総称で、二木を総称します。根、茎、枝、葉は、疏の解釈では信、戒、定、慧に譬えられます。四教にはそれぞれこの四法が備わっているからです。四種の道滅を「薬」と名付け、四種の苦集を「毒」と名付け、四教の区別によって種類はそれぞれ異なります。だから初めて空に入る人は分別できず、これが「仮を用いることができない」と名付けられる理由です。次に、重ねて譬えます。慧眼が開かれた後、すなわち仮に入る時です。空と色を見る、すなわち二諦を見る、と名付けられます。前に破られた色を分別し、諸法の根などの違いを洞見し、四種の四諦を了知して種類を識り、薬と病の因起の違いを達して因縁を解する、と名付けられます。展転相望して、互いに麁と細を論じます。苦集を治す側面を「薬」と名付け、薬が法身を資けるので「食」と名付けます。薬を識り病を識ることを「皆識」と名付け、薬を施すことに巧みなことを「皆用」と名付けます。四種の四諦にわたるので、「皆」と言います。対象となる九界を利益するので「益他」と名付けます。この譬えを合わせて以下、前後の二観はともに真俗を観ます。この第二観は分別できるので、第一観に比べて「等しい」と名付けられます。次に中道を解釈します。初めに『瓔珞経』の文を正確に結びます。経典で前の二観を解釈した後、「この二つの空観を方便道として、中道に入り二諦を双照し、心々寂滅となり、自然と初地に入る」とあります。今、初めに「方便」を解釈します。二種類あります。一つは双亡、二つは双照です。初めに「二空」と言うのは、空と仮を空とすることです。空は遮であり、遮は亡です。前の異時の双亡の方便によって、今中道に入り、自然と双亡となります。亡はすなわち中なので、「心々寂滅」というのです。また、初観などで次に双照を解釈します。初めの二観の時は空を用い仮を用いました。前の異時の双用の方便によって、用はすなわち照であり、照はすなわち中です。だから経典で「心が定にあれば」などと引用するのです。生はすなわち俗であり、滅はすなわち真です。だから中道に住んで生滅を知ることができるのです。知はすなわち照であり、その意味はここにあります。すべて中であるから、自然と任運となります。この任運は、前の作意によるものです。互いに亡じ照らすことを方便として、中道に入る時、そうなることができるのです。次の問いは、経典を引用して疑問を解き、今の文を証明します。初地に入って初めて等しくなるのです。だからまず偏った相とは何かを問います。答えの趣旨は、「偏り多くして性を見ない」と言うのは、次第の意味に約して言うのです。次の問いは、先の答えを難じます。先の答えは、二観が偏った定慧に属するので、性を見ないとしました。そして『大般涅槃経』を引用して先の答えを難じます。慧眼は法眼の前にあり、なお見ることができると言うのに、「見えない」と言うのはおかしいというのです。この文は、『大般涅槃経』で仏が師子吼に答えたものです。「慧眼は見るけれども、はっきりしない。仏は仏眼で見るので、はっきりしている。菩薩は行があるので、見るけれどもはっきりしない。もし行がなければ、見ることははっきりしている。十住に住むので、見るけれどもはっきりしない。住せず去らないならば、見ることははっきりしている」と。どうして行や向などの位もまた見えないと言うのでしょうか。答えの趣旨は、「両眼ともに見えない」と言うのは、次第の意味に約して言うのです。二観は偏った仮と偏った空に属するので、慧眼も法眼もともに性を見ません。あなたが引用する経典で「慧眼が見る」と言うのは、慧眼は十住の位ですが、別教の名称を借りて円教を表すので、「十住及び慧眼が見る」と言うのです。円教に基づいて言えば、初住からすでに実は仏眼です。だから、この借りた円教の住を慧眼と名付けているのであって、慧眼の十住が見るということではありません。次に『法華経』を引用して慧眼を証明します。世尊でさえ究竟してなお慧眼と名付けられるのですから、ましてや十住が慧眼と名付けられないでしょうか。仏の慧眼は、畢竟の空を見るものであり、空はすなわち中です。慧眼はすなわち仏眼です。「斯くの如し」とは、先の住中の慧眼ははっきりしないが、世尊の慧眼の究竟には及ばないことを指します。無明の夜に中道の色を見るようなもので、残余の無明があるため、見てもはっきりしません。空中の鵞鳥や雁もまた同様で、残余の無明が眼と障りを作るため、中道の鵞鳥や雁をはっきり見ることができないのです。だから『大般涅槃経』第八巻には、「例えば遠くから空中の鵞鳥や雁を観るようなもので、虚空なのか鵞鳥なのか雁なのか。よく観察し続けて、ようやく彷彿と見える。十住の菩薩が如来の性を少分知見するのも、また同様である」とあります。空は無明に譬え、鵞鳥などは性に譬えます。はっきりしないという言葉は、その十住の慧眼の菩薩を指すのであって、二乗の偏った空の慧眼に関係するものではありません。こうして、別教の地前はすべて見えず、ましてや通教の菩薩や二乗はなおさらです。さらに『法華経』の穿鑿などの譬えを引用して、第三観の円教の住において初めて見ることを証明します。『法華経疏』では経文を結ぶために、観を四教に約し、教を五時に約して解釈します。教と観がともに成り、教に約して初めて、その部が独妙とされることがわかります。そこでは四教に託して観を解釈しています。三蔵教では、衆生を高原とし、観を修習することを穿鑿とし、理を証することを清水とします。通教では、乾慧地を乾土とし、性地を湿土とし、真を見ることを清水とします。別教では、空観を乾土とし、仮観を湿土とし、中を見ることを清水とします。円教では、五品を乾土とし、六根を湿土とし、初住を清水とします。教に約して言えば、漸の四時の教えに通じます。三蔵教を乾土とし、方等・般若を湿土とし、法華を泥とし、中を見ることを水とします。この二つの意味は、ともに初住を水としています。今、観を修することに約して言えば、ただ頓観を修するだけであり、円教の初心はすべて清水と名付けられます。かの疏が厳密に初住を取って初めて清水と名付けるのとは異なります。位の判別は異なっても、初めと後は不二です。だから、経典に基づいて観を起こすのが適切であるとされるのです。二教以下、教に約してまとめます。「二教」とは蔵教と通教です。だからそれらの二教は乾土や湿土のようなもので、全く水はありません。別教は泥のようなもので、教道が混ざっているので清水とは名付けられません。初心が中を知るため、「二教は教えない」とだけ言うのです。「二行は達しない」とは、行はすなわち観です。観に約してまとめると、すなわち空観と仮観です。すなわち二乗と通教の空に入るものは空行に摂せられ、三蔵菩薩と通別の仮に出るものは仮行に摂せられます。だから総じて「二観は達しない」と言うのです。次第観の中の中道は、今の文で用いられているものではありませんが、証道は同じです。だから「二行は達しない」とだけ言うのです。権教でさえこのようであるのに、ましてや他のものはなおさらです。だから「空を遍くして…乃至…あることなし」と言うのです。次に、「これらの三観は」以下、前の「釈名」の三観と異同を辨別します。三止の解釈に準じて、また知ることができます。

これは摩訶衍に依るなど、前に判断した巧みな教えの次第の三観は、空観も仮観もともに衍門に属します。だからこの三観は、昔の教えの中の相待の名義を用いて総じて教えを表し、次第の教相を用いて能顕とし、次第の三諦を用いて所顕とします。この義のため、円頓の相ではありません。円頓ではありませんが、本来は円を顕すためのものであり、別教でもなく、ただ衍に依ると言います。だから下では人の位が大小に通じることを結びます。義によってなど、これは『大品般若経』の摩訶衍門に依って、三観の相を解釈します。まだ会通されていないので、ただ次第を成すのみであり、次第の義に従って次第の相に随い、三観ははっきりと別々です。これは総じて別相を標します。「もし論ずれば」以下、観智と人に約して別相を解釈します。義はすなわち教であり、教は相に随って別々であり、顕す体が異なるため、観などが融即できないのです。前の二観は権であり、中道観は実であり、三観は展転して浅深となります。観は因であり、智は果です。因がすでに差別であるならば、果もまた同様です。だから三智は展転して優劣があり、前後があります。観法は通じていても、行う人は各々異なります。だから三観は大小を摂し、一切の諸位が皆その中に入ります。二教を含むので「諸位」といい、声聞を傍らに挟むので小に通じます。だから、もし次第と言えば、ただ大にのみありますが、もしその人について論じれば、大小を通じて収めます。観智の後にさらに人について論じるのも、この理由によります。だから、空観は二乗だけが小であり、通教の菩薩は義として大に通じます。別教は空に入るとはいえ、常に大に向かっています。通教と別教には、ともに仮に入る菩薩がおり、これも常に大です。通教の利根は後の心に分があります。すなわち、接続される者です。別教の人は初地になって初めて現前します。だから諸位の大小は同じではありません。もし権門について論じれば、ただ蔵教を廃すべきです。しかし、ひとまず次第に従うので、円教も置くのです。

次に、円頓を明かします。絶待の名称を用いて能詮とし、一諦三諦を所顕とします。上下文は相対して明らかです。その中で、初めに止、次に観、次に同時を明かします。初めに止を明かす中で、法説、譬え、合説があります。初めの法説の文では、止を能縁、諦を所繫とします。だから経典で「法界に縁を繫ぐ」と言うのは、法界は能所が一つだからです。次に譬えでは、止と諦の三一不二を双譬します。止と諦において合説します。初めの法説では、止と諦はともに一でありながら三です。譬えでは三一不二を通して譬えます。合説では、諦は一でありながら三であり、止は三でありながら一です。文は同じでないように見えますが、その意図は止と諦の三一不二を示すことにあります。不二でありながら二です。観によって以下、観を明かします。観と境は、互いに観が発するという名称を作りますが、観によって発し、発によって観ます。同時に体は遍く、能所はすべて一でありながら三です。次に譬えでも、三一不二を譬えます。合説では、止を諦に約せば一でありながら三であり、観と境も一でありながら三です。所観は境であり、所発は観です。観と止の合説が文中で逆になっているのは、ただ三一の体が等しいことを明かすためです。しかし、止観がすでに一体であり、縁と照が異ならないならば、諦と境は名前が異なっても、もともと一つの法です。法は止観において差別をなくし、なお能所を分かち、一でありながら三となります。だから、前後に定執する必要はありません。譬えで「摩醯首羅」というのは、色界の頂上の天主で、一面に三つの目があり、その天の顔を厳かに飾り、大千世界を照らします。天の顔を厳かに飾るのは、衆徳が備わることを譬えます。大千世界を照らすのは、遍く見ることを譬えます。「不権不実」以下、妙を示し、粗を斥けます。「不権不実」は、前の三観の権実の浅深を斥けます。「不優不劣」は、前の三智の優劣の前後を斥けます。「不並不別」は、伊の字の譬えを借りて、総じて観智を斥けます。「不大不小」は、前の三人の諸位の大小を斥けます。次に『中論』を引用して、三観三止の相即互融を証明します。次に『金剛般若経』を引用して、止観と境の体が不二であることを譬えます。眼は合説の譬えであり、見ることができます。しかし、止観と諦境は不二でありながら二であり、その意味は似ていますが、違いがないわけではありません。止と観の二法は不二でありながら、寂と照は明らかです。諦と境の二法は止観に対応して二つの名前に分かれますが、実際には二体の差別はありません。だからこの譬えの文は、止観を日と眼に譬えて分け、諦境の一つの名前を一つの色に同様に譬えます。眼と日と色の三つは、前後がありません。「もし見れば」以下、結びで、文の主旨を理解するよう勧めます。「何に況んや」以下、総じて開顕を明かします。前の諸々の名称を開いて、同じ一実相とします。これはすなわち、例を挙げて総標します。「何に況んや、この円の三一相即を」とは、総じて前の一切の次第の中の名称を、同じく開いて実に入れることを意味します。その相を以下、次に開く相を示します。初めに開顕の体において、次第の三止三観を、同じく絶待の一妙止観と成します。教がすでに開かれるならば、体にはもはや粗はありません。次に「体真」以下、体を顕す名称に約して、釈名の中の相待の粗い名称を開き、すなわち妙名と成します。名称がすでに妙ならば、体もまた粗ではありません。また体真において、前の釈名の三止三観を具えます。準例すれば、また随縁方便および息二辺に応じて、ともに三止三観などの妙を明かすべきです。さらに論じないのは、体真がすでに妙であれば、後の二つも同様だからです。世の人は多く、相待の名称を用いて相待の体を顕すと迷っています。どうしてここに至って、開く次第および相待の名称がすべて絶待になることを識ることができましょうか。もしこの意味を得て、以下の文を解消すれば、諸々の義は自ずから顕れます。「斯くの如し」以下、結びます。すでに「諸義はただ一念心」と言うのですから、一つの理はすべての名称に応じ、また一つの理はすべての理に応じることが分かるはずです。だから「動かず…乃至…差別」というのです。経典で以下、『維摩経』を引用して証明します。「多といえども」以下、『般若経』を引用して証明します。「衆名」以下、結成します。すでに前のすべての名称と意味を開くならば、円の外には法はありません。だから「皆円」というのです。このような名称を用いて妙体を顕すので、これを「教相顕体」と名付けるのです。「相待絶待」などは、結んで嘆じます。相待と絶待は、前の釈名が不思議となることを結び、体に対するのは、前の次第の教相が顕すことが不思議となることを結びます。名称を立てる法は、それぞれが詮ずるところを主とします。だから「対体」というのです。今、開顕が終われば、名称に別の趣はなく、体に別の理はありません。すべては一切に遍く、一切を妨げません。だから「無礙」というのです。すべては一切を摂し、減少することがありません。だから「具足無減」というのです。具足であるから頓であり、無減であるから円です。このようにして初めて、止観の体を顕すことができるのです。

○次明眼智者。依教起行亦是以能而顯於所。初且總釋亦名來意。初云體則非知非見等者。所顯之體。實非眼智及以因果。所言非者。非由能顯方始有所。以有所故令能有功。還由於能令所可見。故云雖叵知見由於眼智則可知見。故云眼見智知。此以佛眼一切種智。為能知見。如此妙體依名而說。尚已是難。況名下體而可示人。雖叵下。總明能顯。理雖若是。約事必須眼智止觀以為能顯。止觀為因下。別判也。由於止觀方得智眼。由於智眼方能顯體。是故止觀名為遠因智眼名近。其體冥妙下。釋能顯意。其體既妙何可分別。然寄眼智使體可見。三止者下。正釋也。初釋次第近遠二因。即三止三觀以對三諦。成於三眼三智故也。初明三止者。隨緣止中言陀羅尼者。總持諸法圓頓三止。俱得名為陀羅尼也。今明次第故約出假持法義便。故云分別藥病。又大論明陀羅尼者。屬慧性故宜對出假。若言五百陀羅尼。一一皆是中道正慧則非此中意也。法眼豁開破障通無知者。具能知病識藥及以授藥。能破事中障於神通化道無知。不以二相見諸佛土者。雖引彼文用義稍別。彼以如來發得天眼。對斥小宗修得天眼。即顯大乘住不思議。名不二相而亦能見三土不同。今方便隨緣常在俗諦。不同凡夫之有。不同二乘之無。名不二相。出假分別淨土因果。名見諸佛土。是則下。結成次第意也。問下料簡也。初約慧眼一切智廣辨。次餘二眼二智略例。初問可見。次答中。先約四句依大經文。彼經十五廣釋四句。今但借彼知見之名。非全用意。問。前文因觀發者為智。今此以因聞生者為知。文既不同云何用此而釋於彼。答。名異義同。聞是慧性觀亦慧性。問。亦知亦見對二乘竟。見而非知。何得重對辟支佛耶。答。前據佛世聞教二乘。二人俱是亦知亦見。見而非知。據無佛世獨覺辟支佛。是故重以支佛別對。復次下重約信法以對知見。問。前明眼智止觀為因。今何得以信法為因。答。聞同於觀思同於止。義類相似故得對之。次明不次第者。初總斥。云不如此者。一心不同次第故也。如前下開前遠由成不次第。次得體下。開前近由成不次第。次眼故下。明近由體同。遠由既其止觀相即。近由亦應眼智不二。因果相順故也佛眼下。釋眼智也。王三昧去引證佛眼具五眼。故云一切悉入其中。大品下引證佛智具三智。故皆云學。三智四智至下當釋。問下料簡智眼。初問者。言欲得者。或是一人前後欲得。或是多人各各欲得。但云當學豈名一心。答意者。法在一心說必次第。豈說次第。令法縱橫。金剛下。明五眼者。皆云佛有故在一心。秖約一眼有五用者。應云佛眼而有四用。云何言五。答。此約五眼而論體用。故佛眼為體四眼為用。若作總別者。如涅槃是總三德是別。五眼亦爾。秖是圓常不思議眼。名為佛眼。而有見中乃至見於色等五用。故得五名。是則佛己一體五眼開發。非為本無至佛方有。所以者何下釋。然此五眼天親無著非不解釋。未若智論最為委悉。三十九云。佛肉眼者。見因緣麁色。乃至亦過人所見名肉眼者。見形顯色不異於人。人見不遠所見又倒。如近看小則大。遠看大則小。乃至諸色若遠觀者。則但見於空一顯色。大品云。如來肉眼見於大千。論問曰。如來何故但見大千。答。若佛肉眼應過大千。但以風輪為隔障故不見異界。又有菩薩住大千上。據理亦合見大千外。問。何不修肉眼令見遠耶。答。若無天眼則彊修肉眼。令見於遠。又云。佛法難思。佛肉眼或能遠見故也。若不及佛者。漸漸減之。二千一千乃至一洲。是名肉眼小淨。故據理盡說。佛肉眼見法界麁色。論依教道附近小宗。是故但云見於大千。若但以先世施燈明等。及以輪王終不能見至百由旬。若小菩薩亦不過此。問。日月去地四萬二千由旬。人皆見之見百由旬何足為奇。答。日月有光令人得見。餘色不爾。天眼乃見。人雖云見所見猶倒。日月方圓五十由旬。所見不過如扇許大。菩薩不爾。問。見何等色。答。見可見色名為肉眼。論中不明修肉眼法。若欲比知施燈明等下因也。菩薩更加慈心伏惑。故所見漸廣乃至大千。亦能照細色下明天眼者。如微塵名為細色。諸天天眼下不見上。梵王不過見於大千。佛見過此名佛天眼。大品云。佛告須菩提。佛天眼見於尼吒。亦見十方恒沙世界。死此生彼及善惡等。論無修相。如那律緣亦是其事。言過天者。諸天報得極如梵王。今見十方尚過那律。何況梵王。是故淨名正呵那律旁折梵王。達麁細色下明慧眼者。言如二乘所見者。且約次第一往而說。據理亦應云過二乘。二乘但見大千之內麁細色空。佛見法界假中俱空。大品云。云何名菩薩摩訶薩慧眼淨。佛告舍利弗。慧眼菩薩不作是念。有為無為世出世。漏無漏一切知見。論云。肉眼見不遠。故修天眼。天眼虛誑故求慧眼。論文既云一切知見。是故即是過二乘也。修相者何。有人云。八道中正見是。能觀五陰倒故。有云。能緣涅槃。有云。三脫門相應慧能開涅槃門。有云。能觀實際通達悉知。有言。定心知諸相。有云。空是。有云。十八空是。有云。世出世是。是則名為慧眼修相。復有說言行於中道。問。二乘亦有慧眼。何不云無法不見。答。二乘但能總相而見又是有量。佛見無量無有邊底。佛與二乘既二相不同。驗知修法二因各別。是故文中所有眾釋不出空中。空屬二乘中屬於佛。彌顯修發二義不同。如初三釋及第五下三釋。是共二乘修相。仍是通教依即空慧。若三藏二乘多依根本。與此不同。前第四釋及最後釋。即是圓修。圓修實際後時發得方名慧眼。是故亦應云過二乘。照達假名不謬等。名法眼者。但云如菩薩所見者。如別菩薩行向位中所見者是。亦寄次第故云假名。假名即是十六門法。據理亦應云過菩薩。任運真化究竟藥病。名佛法眼。大品云。云何名菩薩摩訶薩法眼。佛告舍利弗。法眼人者。隨信隨法三空五根。此業此果受某身生某處。某菩薩退不退得記不得記等。皆當知之。論云。菩薩摩訶薩初發心時。雖得肉天慧眼等。以見眾生種種不同。云何能得如是實法。故求法眼引導令入。故名法眼。又法眼有二。一分別二乘。二分別菩薩。分別二乘處處有文。分別菩薩即此文是。廣列一切因果行相。一切種種諸方便門。令眾生入是名法眼。既云一切因果。復云分別菩薩。是故當知亦過菩薩。於諸法中下。名佛眼者。但云見法實相從勝為名。大品云。云何佛眼。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩求佛道時。入金剛三昧得一切種智。成就力無所畏十八不共知一切法(云云)。是名菩薩摩訶薩得菩提時佛眼淨相。論云。有人言。十住菩薩得佛眼與佛無別。如遍吉文殊具佛功德。而不作佛廣度眾生。是故生疑。故說佛眼遍見十方。是菩薩於餘菩薩名大。於佛猶不遍知遍聞等也。問。眼應云見云何言聞。答。眾生智慧從六情入。能知六塵。人謂佛眼有所不聞。然諸經論皆云佛及菩薩俱得五眼。故知並作非張眼也。故今文中雖云佛有。理論眾生一切具足。何者。眼智既以止觀為因。止觀圓融眼智亦爾。論欲遍說。是故委論深淺不同。故經云下。引請觀音以證金剛。佛菩提滿權實智足。以此二智。能生三有菩提佛子。復云父母。而獨稱下。佛眼之意。故論四十五料簡云。佛見一切非是慧眼。云何而言慧眼見耶。答。慧眼成時轉名佛眼。乃至四眼失本名字。如河入海失本河名。何以故。肉天二眼有漏因緣。慧法二眼習氣未盡。故捨本位入佛眼中。此仍寄於廢麁而說。佛智下。釋一心三智。故知下結得名之由。境之與諦下。明止觀不二。初以左右眼目為譬。諦之與境。猶如一物而得左右兩名不同。一人在物左謂物為右。一人在物右謂物為左。由人所在左右名生。而此一物本未曾異。諦境亦爾。對止名諦對觀名境。眼智二法以譬眼目者。秖是一物立二種名。眼見智知亦復如是。秖是一法。雖從止觀二法得名。圓頓止觀本來不二。故所成眼智一體無殊。是故知見但從當體而立二名。猶如眼目。諦境雖從所對立二。則成所對體亦無殊。致使能對諦境無別。今將下。立異顯體。體本不二。暫寄異名顯不二體。何者。諦境眼智體雖不二。然智由觀成。觀本對境。今還將境以顯於智。令觀易明。觀明即智成。智成即體顯。眼由止成。止本對諦。今還將諦以目於眼。今止可解。止解即眼開。眼開即體顯。雖寄因顯法不分張。故云雖作三說實是一法。用此下結也。以能顯所。正用如向一法眼智。顯於圓頓止觀體也。如此下。結歸師資所傳之法。結上諸文歸於正行。正行有在出自本師。言實非讀經安置等者。如空假中觀。先明次第後不次第。引諸大乘證成門戶。乃至止觀為因眼智為果。即一而三即三而一。如是等相豈由經文而安布耶但避嫌疑幸須引證。意外之事故云幸也。

○次に、眼と智者を明かす。教えに従って修行を起こすということは、また「能(のう)」によって「所(しょ)」を顕すということである。初めに総じて解釈し、また「来意」とも名付ける。

初めに「体は則ち知にあらず見にあらず等」というのは、顕されるべき体は、実に眼・智および因果ではない。「非ず」と言うのは、「能顕」によって初めて「所」があるのではないという意味である。「所」があるがゆえに「能」をして功あらしめ、また「能」に還ることによって「所」を見ることを得させる。ゆえに「叵く知見すといえども、眼智に由るが故に則ち知見すべし」といい、「眼見智知」というのである。これは仏眼・一切種智を「能知見」とする。このような妙体を名に従って説くことは、すでに難しい。ましてや名の下にある体を、どうして人に示すことができようか。

「雖叵」以下の部分は、総じて「能顕」を明かす。理はもしこの通りであるとしても、事に約せば必ず眼・智・止・観を「能顕」としなければならない。「止観を因と為す」以下の部分は、別に判別するのである。止観に由って初めて智眼を得、智眼に由って初めて体を顕すことができる。ゆえに止観を「遠因」と名付け、智眼を「近因」と名付ける。

「其の体冥妙なり」以下の部分は、「能顕」の意味を解釈する。その体はすでに妙であるから、どうして分別することができようか。しかしながら、眼・智に寄せて体を見ることを得させるのである。

「三止」以下の部分は、正式に解釈する。初めに次第の近・遠二因を解釈する。すなわち三止・三観をもって三諦に対し、三眼・三智を成就するのである。

初めに三止を明かす。「随縁止」における「陀羅尼」とは、諸法を総持することである。円頓三止は、すべて「陀羅尼」と名付けることができる。今は次第を明かすので、出仮において法を保持するという義が便利である。ゆえに「分別薬病」というのである。また『大論』に「陀羅尼は慧性に属する」と明かすので、出仮に対応させるのがよい。もし「五百陀羅尼」というならば、一つ一つがみな中道の正慧であるから、ここの意図ではない。

「法眼豁開し、障・通・無知を破す」とは、病気を知り、薬を知り、薬を授けることを具え、事における神通・化道の障りと無知とを破すことができることをいう。

「二相を以てせずして諸仏土を見る」とは、その文を引用するが、用いる義はやや異なる。彼処(経典)では、如来が天眼を得たことをもって、小乗の修得した天眼を斥け、大乗が不可思議に住することを顕す。これを「不二相」と名付け、しかも三土の異なることをも見ることができるという。今は「方便随縁」は常に俗諦にあり、凡夫の「有」に同じくせず、二乗の「無」に同じくしない。これを「不二相」と名付ける。出仮において浄土の因果を分別することを「諸仏土を見る」と名付ける。

「是の則ち」以下の部分は、次第の意を結ぶ。

「問」以下の部分は、料簡する。初めに慧眼・一切智について広く述べ、次に残りの二眼・二智を略式に例える。初めの問いは見ることができる。次に答においては、まず四句に約して『大経』の文による。彼の経の第十五巻に四句を広く解釈するが、今はただ彼の「知見」の名を借りるだけで、すべてその意味を用いるわけではない。

問。前の文では「因観して発する者は智」とした。今は「因聞して生ずる者は知」とする。文が異なるのに、どうしてこれを用いて彼を解釈するのか。 答。名は異なるが義は同じである。「聞」は慧性であり、「観」もまた慧性である。

問。「亦知亦見」を二乗に対してもう一度説き、「見にして知にあらず」というのは、どうして辟支仏に重ねて対するのか。 答。前は仏在世において教えを聞いた二乗について述べたので、二人とも「亦知亦見」である。「見にして知にあらず」は、仏がいない世の独覚・辟支仏について述べたのである。ゆえに重ねて支仏を別に対したのである。

「復次」以下の部分は、重ねて信・法に約して知・見を対する。

問。前は眼智の因として止観を明かしたのに、今どうして信・法を因とするのか。 答。「聞」は「観」と同じくし、「思」は「止」と同じくする。義の類が似ているので、これに対することができるのである。

次に不次第を明かす。初めに総じて斥ける。「此の如くならず」というのは、一心は次第のようには異ならないからである。

「前の如く」以下の部分は、前の遠因を開いて不次第を成す。「次に体を得」以下の部分は、前の近因を開いて不次第を成す。「次に眼故」以下の部分は、近因の体が同じであることを明かす。遠因がすでに止観相即であるならば、近因もまた眼智不二であるべきである。因果は相順するからである。

「仏眼」以下の部分は、眼智を解釈する。『王三昧』以下の部分は、仏眼が五眼を具えることを証明する文を引用する。ゆえに「一切悉く其中に入る」というのである。『大品』以下の部分は、仏智が三智を具えることを証明する。ゆえにすべて「学ぶ」というのである。三智・四智については、後で解釈する。

「問」以下の部分は、智と眼を料簡する。初めの問いは、「得んと欲する」とは、あるいは一人が前後で得んと欲することであり、あるいは多くの人が各々得んと欲することである。「当に学ぶべし」とのみ言うのは、どうして一心と名付けられようか。答の意は、法は一心にあるが、説くときは必ず次第を要する。説くことが次第であるからといって、法を縦横にしてはならない。

「金剛」以下の部分は、五眼を明かす。すべて「仏に有り」というので、一心にある。ただ一眼に五つの働きがあるならば、「仏眼に四つの働きあり」というべきである。どうして五つと言うのか。答。これは五眼に約して体と用を論じるのである。ゆえに仏眼を体とし、四眼を用とする。もし総別とするならば、涅槃が総で三徳が別であるようなものである。五眼もまた同じである。 ただ円常の不思議眼を「仏眼」と名付け、中を見る乃至色を見るなどの五つの働きがある。ゆえに五つの名を得るのである。これはすなわち、仏がすでに一体の五眼を開顕したのであって、もともと無かったものが仏になって初めて有るのではない。

「所以は何ん」以下の部分は、解釈する。しかしながら、この五眼について、天親・無著が解釈しなかったわけではない。『智論』が最も委細であるに及ばない。

『三十九』に云く。仏の肉眼は、因縁の麁色を見る。乃至また人の見るところを超える。肉眼と名付けるのは、形顕色を見ることが人と異ならないからである。人は遠くを見ることができず、見るところはまた倒錯している。例えば近くで小なるものを見れば大とし、遠くで大なるものを見れば小とする。乃至諸色を遠くから観れば、ただ空の一顕色のみを見る。『大品』に云く。如来の肉眼は大千を見る。論に問う。如来は何故にただ大千のみを見るのか。答。もし仏の肉眼ならば、大千を超えるべきである。しかし風輪が障りとなるので、他の世界を見ることができない。また菩薩が大千の上に住する者もある。理に基づいても大千の外を見るべきである。問。なぜ肉眼を修めて遠くを見ることをさせないのか。答。もし天眼が無ければ、強いて肉眼を修めて遠くを見させるのである。また云く。仏法は思議し難く、仏の肉眼はあるいは遠くを見ることができるのである。もし仏に及ばない者ならば、次第に減じて二千、一千、乃至一洲となる。これを肉眼と名付ける(小浄)。ゆえに理を尽くして説けば、仏の肉眼は法界の麁色を見る。論は教道に依り、小乗に近いので、ただ「大千を見る」とだけ言うのである。もし単に先世に灯明などを施したことや、転輪聖王などは、終に百由旬を見ることができない。もし小菩薩もまたこれを超えることはない。

問。日月は地を離れること四万二千由旬であるが、人は皆それを見る。百由旬を見るのは何の不思議があろうか。 答。日月は光があるので人をして見ることを得させる。他の色はそうではない。天眼は乃ち見る。人は見ると言えども、見るところはなお倒錯している。日月の方圆は五十由旬であるが、見るところは扇の大きさに過ぎない。菩薩はそうではない。

問。どのような色を見るのか。 答。見るべき色を見ることを肉眼と名付ける。論の中では肉眼を修める方法を明かしていない。もし比知しようとすれば、灯明を施すなどの下の因である。菩薩はさらに慈心を加えて惑を伏せるので、見るところが次第に広がり、ついに大千に至る。

また微細な色を照らすこと、以下は天眼を明かす。微塵を微細な色と名付ける。諸天の天眼は下を見て上を見ない。梵王は大千を見ることに過ぎない。仏はこれより以上を見ることを、仏の天眼と名付ける。『大品』に云く。仏は須菩提に告げた。「仏の天眼は尼吒を見る。また十方の恒沙世界を見る。死してここに生まれ、彼に生まれること、および善悪などを見る」と。論には修相が無い。那律の因縁もまたその事である。「天に過ぐ」と言うのは、諸天の報得は極めて梵王の如くなので、今、十方を見ることは、なお那律を超え、ましてや梵王を超える。ゆえに浄名は正しく那律を呵し、傍らに梵王を折るのである。

麁細の色に達すること、以下は慧眼を明かす。二乗の見るところの如しと言うのは、仮に次第に約して一往説くのである。理に基づけばまた二乗を超えると言うべきである。二乗はただ大千の中の麁細の色と空とを見る。仏は法界の仮・中ともに空であることを見る。『大品』に云く。何を菩薩摩訶薩の慧眼浄と名付けるか。仏は舎利弗に告げた。「慧眼の菩薩はかくの如き念を作さず。有為・無為、世・出世、有漏・無漏、一切を知見することを」と。論に云く。「肉眼は遠く見えないので、天眼を修める。天眼は虚誑であるので、慧眼を求める」と。論文はすでに「一切を知見す」と云うので、ゆえにすなわち二乗を超えるのである。修相とは何か。ある人は言う。八正道の中の正見がこれであり、五陰の顛倒を観ずることができると。あるいは、涅槃に縁ずることができると言う。あるいは、三脱門の相応する慧が涅槃の門を開くことができると言う。あるいは、実際を観て、悉くを通達して知ることができると言う。あるいは、定心が諸相を知ると言う。あるいは、空がこれであると言う。あるいは、十八空がこれであると言う。あるいは、世・出世がこれであると言う。これを慧眼の修相と名付ける。また中道を行ずと説く者もある。

問。二乗にも慧眼があるのに、どうして「法を無くして見ず」と言わないのか。 答。二乗はただ総相を見ることができるだけで、しかも有量である。仏の見る所は無量で辺際が無い。仏と二乗とはすでに二相が異なるので、修法の二因が各別であることを験知する。ゆえに文中にあるすべての解釈は、空と中とを出でない。空は二乗に属し、中は仏に属する。ますます修・発の二義が同じでないことを顕す。例えば初めの三つの解釈および第五以下の三つの解釈は、二乗と共通する修相であり、なお通教の即空の慧に依るものである。もし三蔵の二乗ならば、多くは根本に依り、これとは異なる。前の第四の解釈および最後の解釈は、すなわち円修である。円修の実際は、後の時に発して初めて慧眼と名付けられる。ゆえにまた二乗を超えると言うべきである。

仮名を照らし達し謬らざることなどを、法眼と名付ける。ただ菩薩の見るところの如くと言うのは、別教の菩薩の行・向・位における見るところのようなものである。また次第に寄せるので「仮名」という。仮名はすなわち十六門の法である。理に基づけばまた菩薩を超えると言うべきである。任運に真に化し、究極的に薬病を知ることを、仏の法眼と名付ける。『大品』に云く。何を菩薩摩訶薩の法眼と名付けるか。仏は舎利弗に告げた。「法眼の人とは、随信・随法・三空・五根、この業にはこの果あり、某の身を受け某の処に生ず。某の菩薩は退・不退、記を得・得ざる等、皆当にこれを知るべし」と。論に云く。「菩薩摩訶薩は初発心の時において、すでに肉眼・天眼・慧眼等を得るけれども、衆生の種種同じからざるを見て、どうしてこのような実法を得ることができようか。ゆえに法眼を求めて導き入れる。これを法眼と名付ける」と。また法眼に二つあり。一つは二乗を分別すること。二つは菩薩を分別すること。二乗を分別することは、处处に文有り。菩薩を分別することは、すなわちこの文である。広く一切の因果・行相、一切の種種の諸方便門を列挙し、衆生をして入らしめる。これを法眼と名付ける。すでに一切の因果と言い、また菩薩を分別すると言う。ゆえにまた菩薩を超えることを知るべきである。

諸法の中に於いて、以下は仏眼と名付ける。ただ法の実相を見ることをもって、勝れた方から名を取る。『大品』に云く。何を仏眼と名付けるか。仏は舎利弗に告げた。「菩薩摩訶薩が仏道を求める時、金剛三昧に入り、一切種智を得、力・無所畏・十八不共法を成就し、一切の法を知る(云云)。これを菩薩摩訶薩が菩提を得る時の仏眼浄相と名付ける」と。論に云く。「ある人は言う。十住の菩薩は仏眼を得て、仏と別異無し。普賢・文殊のように、仏の功徳を具えながら、仏と作らず、広く衆生を度する。ゆえに疑いを生ず。ゆえに仏眼は遍く十方を見ると説く。この菩薩は余の菩薩に対しては大と名付けられるが、仏に対してはなお遍く知り遍く聞くことなどではない」と。

問。眼は見るべきであるのに、なぜ聞くと言うのか。 答。衆生の智慧は六情から入り、六塵を知ることができる。人は仏眼には聞かないところがあると考える。しかしながら、諸経論はすべて仏および菩薩はともに五眼を得ると説く。ゆえにすべてを働かせるのであって、目を見開くのではないことを知る。ゆえに今の文中では「仏に有り」と言えども、理に論じれば、衆生の一切が具足するのである。なぜか。眼智はすでに止観を因とする。止観が円融であるならば、眼智もまた同じである。論は遍く説こうとするので、委しく深浅の異なることを論じるのである。

ゆえに経に云く、以下は『請観音経』を引用して金剛を証明する。仏の菩提は満ち、権智・実智は足る。この二智をもって、三有の菩提の仏子を生ずることができる。また父母という。しかも「独り称す」以下は、仏眼の意である。ゆえに論の四十五の料簡に云く。「仏は一切を見る。慧眼にあらず。どうして慧眼は見ると言うのか。答。慧眼が成る時、転じて仏眼と名付けられる。乃至四眼は、本来の名前を失う。例えば河が海に入る時、本来の河の名を失うが如し。なぜか。肉眼・天眼の二つは有漏の因縁であり、慧眼・法眼の二つは習気が未だ尽きていない。ゆえに本位を捨てて仏眼に入る。」これはなお廃麁に寄せて説くのである。

「仏智」以下は、一心三智を解釈する。「故に知る」以下は、名を得る所以を結ぶ。

「境と之諦」以下は、止観不二を明かす。初めに左右の眼目を譬えとする。諦と境とは、なお一つの物が左右の二つの異なる名を得るようなものである。一人が物の左におれば、物を右と言う。一人が物の右におれば、物を左と言う。人のいる所によって左右の名が生ずる。そしてこの一つの物は、もともと未曾て異なったことがない。諦と境もまた同じである。止に対しては諦と名付け、観に対しては境と名付ける。眼と智の二法は、眼目に譬える。ただ一つの物が二種の名を立てられる。眼が見、智が知もまた同じである。ただ一つの法である。止観の二法から名を得ると雖も、円頓止観は本来不二である。ゆえに所成の眼智は一体で異なることがない。ゆえに知見はただ当体から二つの名を立てる。なお眼目の如し。諦と境は、対する所から二つを立てると雖も、所対の体もまた異なることが無い。これによって能対の諦境に別無きに至る。今これをもって、以下は異を立てて体を顕す。体は本来不二である。暫く異なる名に寄せて不二の体を顕す。なぜか。諦境と眼智との体は不二であると雖も、しかも智は観によって成る。観は本来境に対す。今還って境をもって智を顕し、観をして明らかならしめる。観が明らかになれば即ち智が成る。智が成れば即ち体が顕れる。眼は止によって成る。止は本来諦に対す。今還って諦をもって眼に目し、止をして解し易くする。止が解ければ即ち眼が開ける。眼が開ければ即ち体が顕れる。因に寄せて法を顕すと雖も、分かち張ることはない。ゆえに「三説と作すと雖も、実は一法なり」という。

「此を用て」以下は、結ぶ。能顕をもって所を顕すことは、正しくこれまでの一法の眼智を用いて、円頓止観の体を顕すのである。

「此の如く」以下は、師資相承の法に結び帰する。上の諸文を結び正行に帰する。正行はここに在り、本師から出ずる。「実に経を読みて安置する等にあらず」というのは、例えば空・仮・中の観は、先に次第を明かし、後に不次第を明かす。諸の大乗を引きて門戸を証成し、乃至止観を因と為し眼智を果と為し、即一にして三、即三にして一である。このような相は、どうして経文によって安布するものであろうか。ただし嫌疑を避けるために、幸いに証拠を引く必要がある。意想外の事を「幸」というのである。

○三明境界者。秖是教相眼智所顯。前既已明教相眼智。足顯所詮所知所見。無俟更說此之一科。鈍根之人雖明前二。猶尚不了。更此一科重明所顯。故知此則親明所顯。今初明來意。不云教相但云眼智者。教相雖復同是能顯。然教望於行則行親教疎。從親而說。故但云眼智。通而言之並能顯體。夫信行下。牒前兩章以明來意。信行牒前教相宜在教相。名尚多聞。圓妙即是今妙境界。法行牒前眼智。宜在定慧名宗深觀。正境亦是今妙境界。綺文飾句故立兩名。正為前二辨所取境。是故更論。經云下。正明境意者。何事說境。為令自行識於三眼及以三智所知所見。識所知見則令能越依於教相。修止觀因得眼智果。是故應須明境界也。若為下化他意者。為化他故應須說境。若不說境。將何以為說法之本。本即境也。雖有境本必須隨情。故列隨情隨智等三。令化物者依境而說。說於妙境意在於此。先大師意次章安意。初文先列。次釋。初譬聞者執門迷教。此中四譬譬執者迷名。經文本譬外計邪常。諸文引用並同經意。此文借用其意稍異。雖異彼文理亦無失。依義不依語是故轉用。何者。貝聲雖虛貝體是實。故喻有門。米秣柔軟可喻空門。雪有非有。是故可喻亦空亦有。鶴飛在空而不住空。是故可喻非空非有。凡情下合。又三。初明大悲為說。次雖聞下。明凡情各執。三是諸等者結過。凡夫各執能通之門。迷於所趣故不能見常樂我淨真乳之色。此則還依大經。如諸外道執常樂等失能通門。是故還失所通之理。所以常途下。明說者迷教。初明凡師迷教。執教之類其流非一。如梁昭明所序諸師明二諦義。有二十九人各釋不同。在廣弘明集。並不達隨情咸乖佛旨。故知但是赴情名異。二諦不殊故不可各執失佛方便。各執別名而失一理。須曉一理而赴眾名。如婆沙中何曾不明世諦及第一義諦。雖名同大乘義終歸小。況大小乘諦各有赴情。故知二十三家尚昧隨情之文。況復能知情智等耶。雖服甘露等者。說文云。未冠而死曰殤。禮云。十九已下曰長殤。十五已下曰中殤。十一已下為下殤。七歲已下為無服之殤。是故名殤以為早夭。夭者中死也。甘露者即是諸天不死之藥。故喻常住。如不死藥。雖各執二諦甘露之名。喪於佛旨常住慧命。經稱下。明二聖往因。以驗不了隨情之說。妙勝定經云。佛告阿難。自我往昔作多聞士。共文殊師利諍二諦義。死墮三途。文云彌勒恐是文誤。故玄文所引即如彼經。諍於二諦。經無量劫吞熱鐵丸。從地獄出值迦葉佛。為我解釋有無二諦。迦葉佛言。一切諸法皆無定性。汝言有無是義不然。一切萬法皆悉空寂。此二諦者亦有亦無。汝但知文不解其義。汝於是義如聾如瘂。云何解此甚深之義。我聞是已入於禪定。即見萬法皆悉空寂。故知不見空寂之理。各各執於隨情之文。尚墜三途。何能見諦。若得今判隨情之意。諸釋妙融。今世下。明近代凡夫不了隨情。鏗者堅也。如是下結。如文。若識下。明識者達教。識佛赴緣不迷異說。俯者下接也。隨情智下。釋隨情智。初正立。一情一智共為三諦。故名情智。言不得一所論三者。圓修雖即始終並三。既約情智以論三諦。須約諸位相望而說。次如相似下。約位以判。故分真俗以屬於情。位在六根。讓於中道以屬於智。位在初住。則七信已前為真所攝。八信已去為俗所攝。是則初住已上中道。亦有同體真俗。六根清淨亦有相似中道。故下章安作與奪釋。即是六根奪其相似中道。與其相似真俗。隨智下。次明隨智中三諦。初約位判。皆屬聖者所證。故從初住已上仍是分得。當知對情情非不得相似三諦。但奪其中道推與初住耳。非但等者況也。隨智三諦唯在聖心。如淨名中不思議品。此並菩薩不思議俗。豈是下地所能聞見。俗既如是真亦復然。初住菩薩所空色聲。故非凡小所能聞見也。三諦下。歎釋三諦。從勝而說故但語雙非。能非即中所非即二。不二而二以為能所。第十九中。釋十事功德初云不與二乘共。不可思議。聞者驚怪。乃至無有相貌。世間所無。今文義言百非四句。經文正歎初地已上正同初住。是故引證隨智三諦。章安釋此云。聞深無底故驚。聞廣無邊故怪。性不自顯故非內。性不他顯故非外。此之內外通界內外。眾生即是故非難。七方便不測故非易。非色法故非相。非心法故非非相。又非界如故非相。非離界如故非非相。非三世故非是世法。無邊無中故無相貌。絕四離百故世間所無。諸非咸遣故總云百。是句皆亡故略云四。四攝諸四。故且云四。問。章安釋句不似雙非。何得為證。答。正明中道非於二邊。般若深故。解脫廣故。二德即是真俗二諦。自謂內照他謂隨緣。此亦真俗異名而已。眾生即是約理而說。方便不測約事而說。事理亦是真俗異名。百界之色一念之心亦是真俗。下之二句。復作複疎三諦而說。唯佛下引法華者。亦證隨智。前約初住今唯在佛。唯佛謂釋迦也。與佛謂十方三世。雖有初後同見三諦。不可下斥奪。有法譬合。初住之中法性之一三諦之三。尚非六根凡位所測。況復世情圖想能知三諦之乳真善妙色。五眼洞開方見諦境。是則相似猶屬於盲。障中無明未破故也若準法華。應約三教明不知之人。如是下結。如文。今更下。引經中二諦釋成今文三諦之義。初文略示二諦以顯三諦。二之與三教門開合。故得以二用顯於三。二既有二。三豈無三。前約三諦粗論綱紀。今約二諦委作相狀。疑者下釋疑。先立疑云。諸佛但依二諦說法故有三番。如何得例令說三諦。亦有三番。令亦例下釋。若二若三但是開合。前明二諦義已含三。今別說中例於二諦亦作三者。謂常好中道等。大論第五云。問。佛何故生兜率天。答。佛常居中。彼兜率天在於六欲及梵天中。從彼天下生於中國。中日降神中夜出城得菩提時亦證中道。為人說中中夜入滅。大品亦云。一色一香無非中道此中加前復成三番。何者。中天中國中夜中日並是隨他行中說中是隨自他。中夜入滅及得中道即是隨自。又此諸中皆是隨他。自證冥寂名為隨自。自他相對名為自他。又一一下。更約隨情等三明四悉相。若無四悉將何以曉自行化他。初隨情廣餘二文略。初文先教次觀。即信法二行也。初文從歡喜乃至發徹。須細約三諦立四悉義。勿令混濫不能具記。乃至觀心下。約觀也。文略前三故云乃至。約第一義明三諦相也。如是等下。明教觀二種得益之相。言應在一不在二等者。一謂三中隨一。二謂三中隨二。逐語便故不云真等。遞互相望得益不同。應作七句。謂應在俗不在真中。應在真不在中俗。應在中不在真俗。此是應在一不在二。以成三句。應在二不在一亦為三句。應具在三以為一句。一一悉中三諦皆爾。文中總舉單益複益兩三之式。合三一句文略不論。並約初門取益不同。如是七句莫不依圓。宜樂既殊赴機各異故也。佛說生法等者。複釋上文不同之相。生謂二諦無生謂中。此且寄於中道之一二諦之二。餘有兩二兩一及以具三。準向說之。若作二諦。生即是俗無生是真若作四諦。生是三諦無生是滅。一切諸法比說可知。隨得益位名為得度。問。佛說生法。於無生法而得度者。乃是眾生自度何關於佛。答。正由說生悟無生法。乃是鑒機。知因說生而悟無生。功在於佛何名自度。約第一義故云得度。若約三悉亦可應云佛說生法。於無生法而生歡喜生善破惡。故法華下。引證四悉。一一悉中皆云種種者。一一悉檀所被無量。今約修觀且以三諦二諦。名為種種。若論經意八教四味。方名種種。何故爾下釋經。先對四悉。次何故性屬生善等者。重更料簡中間二悉。初文是問。問意者。性之與行俱通善惡。何故對經。性屬為人行屬對治耶。若通論下答也。性者不改為義。宿善不改從昔至今有可生義。今生其善故屬生善。行謂為作現作惡故。今斷其惡故屬對治。言通論者且作通解。性雖在往於今亦成有冥有顯。身口現作為顯。潛伏在心為冥。行雖在現冥顯亦爾。今從四悉義便。是故從別捨通。為人生其冥伏之善。對治治其彰露之惡。若顯善已生冥惡未起。則非今文聖人隨情逗物之相。如佛未出下。約佛化儀。以例性善行惡之相。三乘善根冥伏不現。佛助生之名為生善。凡夫外道惡行彰露。佛對治之名為治惡。種種憶想是第一義者。更釋第一義也。未見理來無非憶想。若遇佛法想皆成慧。三倒之中想倒居中。以想正故心見自正。此約第一義釋三諦也。如此四悉皆隨情也。餘二準例亦應可見。是則三四下。以此合數責彼謬執。勸令順教捨慢息諍。研心修觀觀成見諦。乃可彰言決定而說。如雲除等者。三惑障除。上顯即見中。下明見二諦。師子吼者。大經云。師子吼者。名決定說。說諸眾生悉有佛性。佛性即中道。私謂下。章安私釋。私者。蒼頡云。不公也。既非大師當眾所說。又非親對大師印述。故名為私。若論二諦證雖在聖本教凡夫。雖教凡夫實未證得。語證則奪凡夫無分。故云併奪。論教則與凡夫俱得。故云併與。若於凡邊奪真而與其俗。故云半與半奪。

# 三明境界の意義

三明境界とは、ただ教相と眼智によって顕されるものである。前に既に教相と眼智を明らかにしたので、これによって示される所詮・所知・所見は十分に明らかであり、改めてこの一科を説く必要はないように思われる。しかし、鈍根の者は前の二つを理解してもなお了達できないため、この一科を設けて改めて顕されるものを明らかにするのである。したがって、これは直接的に顕されるものを明らかにするものである。

## 来意の説明

今、最初に来意を明らかにするにあたり、「教相」と言わずに「眼智」と言うのはなぜか。教相もまた同じく能顕ではあるが、教を行に比べれば、行の方が親しく教は疎い。親しい方に従って説くので、ただ「眼智」と言うのである。広く言えば、どちらも体を顠す働きがある。

## 前の二章を踏まえて

「夫れ信行の下」は、前の二章を繰って来意を明らかにする。信行は前の教相を繰る。教相に於いては、名を尚ぶことを多聞と言う。「円妙」とは、今の妙境界のことである。「法行」は前の眼智を繰る。定慧に於いては、宗とし深く観ずることを重視する。「正境」もまた今の妙境界である。文章を飾り言葉を整えるために二つの名を立てたのである。正に前の二章が所取の境を弁別するためのものであるから、更に論じる必要がある。

## 経典による証明

「経に云く」からは、正に境の意味を明らかにする。何の理由で境を説くのか。自らの行の為に、三眼および三智によって知られ、見られる所を識別させるためである。知られ、見られる所を識別すれば、教相に依って止観の因を修し、眼智の果を得ることができる。だからこそ、境界を明らかにすべきなのである。

## 他者教化の意図

もし他の者を教化するためであれば、境を説くべきである。境を説かなければ、何を説法の根本とすることができようか。根本とは境である。境という根本があっても、必ず情に随う必要がある。だから、随情・随智などの三つを列挙して、教化する者に境に依って説かせるのである。妙境を説く意図はここにある。

## 大師と章安の解釈

初めに文を列挙し、次に解釈する。最初の譬えは、聞く者が門に執着して教えに迷うことを示す。この中の四つの譬えは、執着する者が名に迷うことを示す。経文は本来、外道が邪な常住に執着することを譬えている。様々な文書の引用も全て経の意と同じである。この文ではその意味を借りているが、趣旨がやや異なる。しかし、その文と異なっていても道理としては失うところはない。義に依って言葉に依らないからである。何故か。貝の声は虚であるが貝の体は実である。故に「有門」を譬える。米や秣は柔らかであり、「空門」を譬えることができる。雪は有でありながら非有でもある。故に「亦有亦空」を譬えることができる。鶴は空を飛ぶが空に留まらない。故に「非空非有」を譬えることができる。

## 凡夫の執着

「凡情の下」は、合わせて三つに分かれる。初めに大悲による説法を明かす。次に、「雖聞」の下で、凡情の各々の執着を明かす。三つ目に、「是の等」は、過ちを結ぶ。凡夫は各々が通ずる門に執着し、趣く所に迷う。故に常・楽・我・浄の真の乳の色を見ることができない。これは大経に依っている。諸々の外道が常・楽などを執着して能通の門を失うように、それによってまた所通の理を失うのである。

## 説く者の迷い

「所以に常途の下」は、説く者が教えに迷うことを明かす。初めに凡師の教えに迷うことを明かす。教えに執着する者たちは一枚岩ではない。例えば、梁の昭明太子が序した諸師の二諦の義には、二十九人がそれぞれ異なる解釈を述べている。これは『広弘明集』にある。そのどれもが随情を了達せず、仏の旨に背いている。したがって、ただ情に赴くままに名を異にしているに過ぎない。二諦は異なるものではないので、各々が執着して仏の方便を失ってはならない。各々が別の名に執着して一つの理を失ってはならない。一つの理を了達して多くの名に赴くべきである。

「婆沙の中に」でも、世諦と第一義諦を明らかにしていないことはない。名は大乗と同じでも、義は結局小乗に帰する。ましてや大小乗の諦には各々情に赴くところがある。だから、二十三家が随情の文に迷っているのは言うまでもなく、さらに情・智などを理解できるであろうか。

## 甘露の譬え

「雖服甘露等」について、説文に言う。「冠せずして死するを殤と曰う」。礼に言う、「十九以下のものを長殤と曰う。十五以下のものを中殤と曰う。十一以下のものを下殤と曰う。七歳以下のものを無服の殤と曰う」。故に「殤」と名付けて、早く夭折することをいう。夭とは中途で死ぬことである。甘露とは、諸天の不死の薬である。故に常住に喩える。不死の薬の如くである。各々が二諦の甘露の名に執着しながら、仏の旨と常住の慧命を喪っているのである。

## 二聖の過去因

「経に稱して下」は、二聖の過去の因を明かし、随情の説を了達しなかったことを検証する。『妙勝定経』に言う。仏が阿難に告げられた。「私は過去世に多聞の士として、文殊師利と共に二諦の義について諍い、地獄の三途に堕ちた」。文には「弥勒」とあるが、これは誤りであろう。玄文の引用は即ちその経の通りである。

二諦について諍い、無量劫の間、熱鉄の丸を呑み、地獄から出て迦葉仏に値い、有無の二諦を解釈していただいた。迦葉仏が言われた。「一切の諸法は皆、定性がない。あなたが有無と言うのは、その義はそうではない。一切の万法は皆、空寂である。この二諦は亦有亦無である。あなたはただ文を知るだけで、その義を解しない。あなたはこの義について聾や唖の如くである。どうしてこの甚深の義を解することができようか」。私はこの言葉を聞いて禅定に入り、直ちに万法が皆空寂であることを見た。故に、空寂の理を見ずして、各々が随情の文に執着すれば、地獄の三途に墜ちる。どうして諦を見ることができようか。もし今の随情の意味を判断すれば、諸々の解釈は妙に融和する。

## 近代の凡夫

「今世の下」は、近代の凡夫が随情を了達しないことを明かす。「鏗」は堅いことである。「如是の下」は結びである。文の如し。

「若識の下」は、識者が教えに達することを明かす。仏の因縁に赴くことを識り、異説に迷わない。「俯」は下に接することである。

## 随情智の解釈

「随情智の下」は、随情智を解釈する。初めに正しく立てる。一つの情と一つの智が共に三諦となる。故に「情智」と名付ける。「一言に一所を得ざるを論じて三と為す」について、円修は始終共に三つであるが、情智によって三諦を論じる以上、諸の位を相望めて説くべきである。

次に、「相似の如く下」は、位によって判別する。故に真俗を分けて情に属するものとする。位は六根にあり、中道を譲って智に属するものとする。位は初住にある。すると、七信以前は真に摂せられ、八信以降は俗に摂せられる。これにより、初住以上は中道である。また、同体の真俗もある。六根清浄にも相似の中道がある。そこで、章安が「与奪」の解釈をする。即ち、六根からその相似中道を奪い、相似真俗を与えるのである。

## 随智の三諦

「随智の下」は、次に随智の中の三諦を明かす。初めに位によって判別する。全て聖者の証するところに属する。故に初住以上は、なお分証である。当に知るべし、情に對しては、情も相似三諦を得ないわけではない。しかし、その中道を奪って初住に推し与えるのである。

「非但等」は況である。随智の三諦は唯だ聖心に在る。例えば『維摩経』の不思議品の如くである。これらは菩薩の不思議な俗であり、どうして下地の者が聞き見ることができようか。俗が既にこのようなものであれば、真もまた同じである。初住の菩薩が空じる色声は、凡小の者が聞き見ることができないのである。

## 三諦の賛嘆

「三諦の下」は、三諦を賛嘆する。勝れた方から説くので、ただ「双非」を言う。能非は即ち中であり、所非は即ち二である。不二にして二なることを以て能所とする。第十九巻では、十事の功徳を解釈して、初めに「二乗と共にせず、不可思議なり。聞く者驚怪す。乃至、相貌無し。世間の所有する所に非ず」と言う。今の文の義は「百非四句」を言う。経文は正に初地以上を賛嘆し、初住と同じである。故に引証して随智の三諦とする。

章安がこれを解釈して言う。「深く底無きを聞いて驚き、広く辺無きを聞いて怪しむ。性は自ら顕れざる故に非内、性は他に顕れざる故に非外。此の内外は界内外に通ず。衆生は即ち是れ故に非難、七方便は測らず故に非易。非色法故に非相、非心法故に非非相。又、非界如故に非相、非離界如故に非非相。非三世故に非是世法、辺無く中無くして相貌無し。四を絶ち百を離れて世間の所有する所に非ず。諸の非を咸く遣る故に総じて百と云う。是の句皆亡ず故に略して四と云う。四は諸の四を摂す。故に且く四と云う」。

問う。章安の句の解釈は双非に似ていない。何を以て証とするのか。 答う。正に中道が二辺を非とすることを明かす。般若は深く、解脱は広い。二徳は即ち真俗の二諦である。自ら照らすを内と謂い、他に随うを縁と謂う。これも真俗の異名に過ぎない。衆生は即ち是れは理によって説き、方便は測らずは事によって説く。事理も亦是れ真俗の異名である。百界の色、一念の心も亦是れ真俗である。下の二句は、更に複疎の三諦として説く。

## 法華経の引用

「唯仏の下」は、法華経を引いて随智を証する。前は初住について約し、今は唯だ仏に在る。「唯仏」は釈迦を謂う。「与仏」は十方三世を謂う。初後はあるが、同じく三諦を見る。

「不可の下」は、奪うことを斥ける。法あり譬あり合あり。初住の中の法性の一、三諦の三は、尚お六根の凡位の測る所にあらず。況んや世情の図想が能く三諦の乳、真善妙色を知らんや。五眼洞開して方に諦境を見る。これにより、相似はなお盲に属す。障中の無明未だ破せざる故なり。

## 二諦による三諦の解釈

「今更の下」は、経の中の二諦を引いて、今の文の三諦の義を解釈する。初めの文は略して二諦を示し、三諦を顕す。二と三は教門の開合である。故に二を以て三を顕すことができる。二に二あり。三に三無きことなからん。

前は三諦について粗く綱紀を論じた。今は二諦について委しく相状を作す。

## 疑問の解消

「疑者の下」は、疑いを解く。先ず疑いを立てる。「諸仏はただ二諦に依って説法したもう。故に三番あり。如何にして例せしめて三諦を説くことを得んや。また三番あること」。令また例の下に釈す。「若し二ならば若し三ならば、ただ是れ開合なり。前に二諦の義を明かすに、已に三を含む。今別に説くに、二諦に例して亦た三と作す。謂わく常に中道を好む等」。

## 大智度論の引用

『大智度論』第五に問う。「仏は何の故に兜率天に生じたもうや」。答う。「仏は常に中に居したもう。彼の兜率天は六欲及び梵天の中に在り。彼の天より下生して中国に於いて、中日に降神し、中夜に出城し、菩提を得る時も亦た中道を証し、人の為に中を説き、中夜に入滅したもう」。『大品般若経』も亦た云く、「一色一香、中道に非ざるは無し」。此の中に前を加えて復た三番を成す。何となれば、中天・中国・中夜・中日は並び是れ随他行の中、中を説くは是れ随自他、中夜に入滅し及び中道を得るは即ち是れ随自。又、此の諸の中は皆是れ随他。自証の冥寂を名付けて随自と為す。自他相対して名付けて自他と為す。

## 四悉檀の説明

「又一一の下」は、更に随情等に約して四悉檀の相を明かす。四悉檀無くんば、将に何を以て自行化他を曉さん。初めに随情は広く、余の二つは文略す。

初めの文は、先ず教え、次に観。即ち信行・法行の二行なり。初めの文は歓喜乃至発徹に従う。須らく細かに三諦に約して四悉檀の義を立てよ。混濫せしむること勿れ。具に記する能わず。

「乃至観心の下」は、観に約す。文は前の三つを略する故に「乃至」と云う。第一義に約して三諦の相を明かす。

「如是等の下」は、教観二種の得益の相を明かす。「一に在るべきにして二に在らざる等」と言うのは、「一」は三の中の随一、「二」は三の中の随二を謂う。語の便に逐う故に「真等」と云わず。遞いに相望めて得益同じからず。七句を作すべし。謂わく「俗に在るべきにして真中に在らず」、「真に在るべきにして中俗に在らず」、「中に在るべきにして真俗に在らず」。是は「一に在るべきにして二に在らず」と為り、以て三句を成す。「二に在るべきにして一に在らず」も亦た三句と為す。「具に三に在る」を以て一句と為す。一一の悉檀の中、三諦皆爾るなり。文の中に総じて単益・複益の両三の式を挙ぐ。三を合して一句は文略して論ぜず。並びに初門に約して益を取ること同じからず。是の如き七句、円に依らざるは莫し。宜し好み既に殊なるに、機に赴くこと各々異なる故なり。

## 生法と無生法

「仏の説きたもう生法等」は、復た上文の不同の相を釈す。「生」は二諦を謂い、「無生」は中を謂う。此れ且く中道の一、二諦の二に寄す。余に二両二両一及び以て三を具すること有り。向に之に準じて説く。若し二諦と作さば、生は即ち俗、無生は是れ真。若し四諦と作さば、生は三諦、無生は是れ滅。一切諸法、比説して知る可し。得益の位に随い、名付けて得度と為す。

問う。仏は生法を説きたもう。無生法に於いて度を得るとは、乃ち是れ衆生の自度なり。何ぞ仏に關らんや。 答う。正に生を説くに由りて無生法を悟る。乃ち是れ機を鑑みるなり。生を説くに因りて無生を悟ることを知る。功は仏に在り。何ぞ自度と名付く。第一義に約する故に、「得度」と云う。若し三悉に約すれば、亦た応に「仏の生法を説きたもう。無生法に於いて歓喜・生善・破悪を生ず」と云う可し。

## 法華経による四悉檀の証明

「故に法華の下」は、四悉檀を引証す。一一の悉檀の中に皆「種種」と云うは、一一の悉檀の所被は無量なり。今、修観に約して、且く三諦・二諦を以て名付けて「種種」と為す。若し経意を論ずれば、八教・四味にして方に「種種」と名付く。

「何が故に爾るやの下」は、経を釈す。先ず四悉檀に対す。次に「何が故に性は生善に属する等」は、重ねて更に中間の二悉を料簡す。初めの文は問なり。問意は、性と行は俱に善悪に通ず。何が故に経に対し、性は人の為に属し、行は対治に属するとするや。

「若し通論せばの下」は、答なり。性は改めざるを義と為す。宿善は改めず、昔より今に至り、生ずべき義有り。今、其の善を生ず。故に生善に属す。行は謂わく為作。現に悪を作す。故に今、其の悪を断ず。故に対治に属す。「通論」と云うは、且く通解と作す。性は往に在りと雖も、於今も亦た冥有り顕有り。身口の現作を顕と為し、潜伏して心に在るを冥と為す。行は現に在ると雖も、冥顕も亦た爾るなり。今、四悉の義の便に從う。故に是の別を取りて通を捨つ。人の為に其の冥伏の善を生じ、対治に其の彰露の悪を治す。若し顕善已に生じ、冥悪未だ起たずんば、則ち今文の聖人随情ものに逗う相に非ず。

## 仏の教えの例

「仏の未だ出で給わざる如き下」は、仏の化儀に約し、以て性善・行悪の相に例す。三乗の善根は冥伏して現れず。仏は之を助けて生ぜしむ。名付けて生善と為す。凡夫外道の悪行は彰露す。仏は之に対治す。名付けて治悪と為す。

「種種憶想は第一義」は、更に第一義を釈す。未だ理を見ざるより來、憶想に非ざるは無し。若し仏法に遇えば、想は皆慧と成る。三倒の中、想倒は中に居る。想の正しきを以ての故に、心見も自ら正し。此れ第一義に約して三諦を釈す。

## 結び

「是の如き四悉は皆随情なり」、余の二は準例して亦た見る可し。是の則ち「三四の下」、此を以て数を合わせ、彼の謬執を責め、勧めて順教して慢を捨て諍いを息めよ。心を研き観を修し、観成りて諦を見れば、乃ち彰言して決定して説く可し。

「雲の除く等の如き」は、三惑の障除く。上は顕かに「即ち中を見る」を示し、下は「二諦を見る」を明かす。

「師子吼」は、大経に云く「師子吼とは、名付けて決定説と為す。諸の衆生悉く有する佛性を説く。佛性即ち中道」。

## 章安の私釈

「私謂くの下」は、章安の私釈なり。「私」は、蒼頡に云く「公ならざるなり」。既に大師の当衆に説きたもう所に非ず、又、親しく大師に対して印述し給うに非ず。故に名付けて私と為す。

若し二諦を論ずれば、証は聖に在ると雖も、本は凡夫を教う。凡夫を教うと雖も、実に未だ証得せず。語証すれば則ち凡夫を奪いて分無し。故に「併奪」と云う。論教すれば則ち凡夫と俱に得。故に「併与」と云う。若し凡の辺に於いて真を奪いて其の俗を与う。故に「半与半奪」と云う。

止觀輔行傳弘決卷第三之二

止観輔行伝弘決 巻第三之二

止觀輔行傳弘決卷第三之三

止観輔行伝弘決 巻第三之三

唐毘陵沙門湛然述

毘陵の沙門湛然が述べる

二明境智離合者。初釋諦中。先總次別。先總序諸經者。諸經論諦離合不同。今以不同通約四教。三藏下。即別約四教。於中初明二三離合者。初明但二無三。次菩薩下。寄人判諦。初文是俗。從後心下。即是真也。是故始終但有二諦。言令煩惱脂銷等者。大論云。此菩薩雖有上妙五欲不生貪著。以有無常等觀故。譬如有王。有一大臣自覆藏罪。王欲罰罪。語言。若得無脂肥羊當赦汝罪。大臣有智繫一羊養以水草。日日三時以狼怖之。羊雖得養肥而無脂。王問。云何得爾。答以上事。菩薩亦爾。見無常空狼。令結使脂銷而功德身肥。又此菩薩未斷結使者。如有賊未得殺之。堅閉一處自修事業。菩薩修無常觀。亦如閉賊。猶是有漏而自作務。又離於五事。一離惡道。二離貧窮。三離女身。四離形殘。五離喜忘。得五功德。一生貴家。二生人天。三得男身。四諸根滿。五識宿命。三阿僧祇修六度行者。阿僧祇此云無數。劫者時也。如前所釋。俱舍云。八十中大劫大劫三無數。謂六十數中第五十二數。名阿僧祇。謂積此大劫成無數故。云三阿僧祇。六度行者。菩薩修此六度各有滿時。初言檀滿者。如釋迦菩薩本作王名毘尸。得歸命救護陀羅尼。視諸眾生如母愛子。是時天帝知命將終。求佛問疑遍求不得。却還天宮愁憂苦惱。時天巧師名毘首羯磨。問天主言。何以愁惱。答言。我求一切智人而不能得。毘首言。有大菩薩滿足六度不久成佛。天主偈答。菩薩發大心魚子菴羅華。三事因時多。成果時甚少。毘首答言。優尸那種六度滿足不久成佛。帝釋言。當往試之是菩薩不。汝作鴿我作鷹。汝便詐怖人王腋下。毘首言。是大菩薩。云何以是事惱之。釋云我亦無惡心如真金須試。即如所說變入王腋。舉身戰懼動自作聲。眾人皆言。是王大仁慈一切宜救護。如是鴿小鳥歸之如入舍。菩薩相如是作佛必不久。是時鷹在近樹。而語王言。還我鴿來。王言。我前受此鴿非是汝前受。我先發願度一切眾生。鷹言。欲度一切眾生我非一切眾生耶。而何奪我食。王言。汝須何食。我先作誓。若有眾生未歸我者。必救護之。鷹言。我須新肉熱血。王云。無不由殺得之。云何殺一與一。思惟心定而說偈言。是我此肉身。恒受老病死。不久當臭爛。彼須我當與。持刀自割股肉而授與之。鷹言。須逐道理令輕重等。勿見欺也。王言。持秤來稱鴿。如言稱之。鴿身轉重王肉轉輕。乃至身盡。諸臣親戚却諸看人。王今如此無可看也。王言。任看。若有成佛道當忍此大事。王以血塗手攀秤欲上盡對於鴿。鷹言。何用如此以鴿還我。王言。喪身無量今是求易佛道之時。肉盡筋斷欲上而墮。乃自責言。汝須堅固勿得迷悶。眾生墮憂海應須救護之。何為懈怠。尚不及地獄之苦十六分一。我特精進猶患此苦。何況地獄中無有智慧者。時諸天讚言。為小鳥能爾。時天地六動海水揚波。枯木生華天雨香水。諸佛來讚必成佛也。鷹語鴿言。是真菩薩。毘首言。天主。汝有神力可令彼平復。釋言。不須我也。王自作誓感發一切。帝釋語王言。心不惱耶。王言。我心歡喜不惱不沒。釋云。唯當信汝。菩薩言。若一心不惱以求佛道者。使平復如故。語已平復。人天見之皆大悲喜。歎未曾有。必當作佛。我當供養。尸滿相者。如須陀摩王。是王精進常依實語。欲入園遊戲始出城門。有一婆羅門來。從我乞云。王是福德人愍我貧窮。王言。須待我還。適至園中有兩翅鳥王。名曰鹿足。與山神共誓取一千王。已得九百九十九王。唯少須陀摩王。從空飛來捉將王去。諸女號哭哀慟一園。鹿足捉王至所住處。置諸王中。須陀摩王涕零如雨。鹿足言。大剎利。汝何以啼泣猶如小兒。人生有死會合有離須陀答言。我不畏死。自恨生來不曾妄語。而今失信。許婆羅門行施辜負宿心自招欺罪。是故啼耳鹿足言。還去七日。施竟便來就死。若不來者我有力取。王還恣心布施。立太子為王。大會人民。王乃謝云。我智不周小不如法。當見瞋怒。我今身非己有當去。人民親戚留之願王留意垂蔭此國。勿以鹿足鬼王為慮也。當設鐵舍奇兵衛護。鹿足雖神而不畏之。王說偈言。實語第一戒實語升天梯。實語小人大。妄語入地獄。我今守實語寧失身壽命。於是發去至鹿足所。見來歡喜。汝實語人不失信要。人皆惜命脫竟還來。汝是大人。時須陀王廣讚實語呵責妄語。鹿足聞之信心清淨。語須陀言。汝能說此。今相放捨。諸王各還本國。如是語已諸王各去(云云)。忍成相者。如羼提仙人。在於林間修行忍辱。時柯利王將諸婇女。入園遊戲。飲食訖已王少睡息諸女采華於其林間見此仙人。加敬禮拜在一面立。爾時仙人為諸女人讚歎慈忍。其言美妙聽者忘厭。久而忘去。王眠覺已不見諸女拔劍逐蹤。見女在於仙人前立。嫉妬隆盛恚目奮劍而擬仙人。汝作何事。仙人答言。我修慈忍。王言。我今試汝。當以利劍斬截手足及以耳鼻。若不瞋者乃知修忍。仙言任意。王即拔劍截其手足及以耳鼻。而問之言。汝心動不。答言。我修慈忍心不動也。王言。汝一身在此無有勢力。雖口言不動誰當信者。是時仙人即作誓言。若我實是修慈忍者。血當為乳。即變為乳。王大驚走將諸婇女而去。時林中龍神為此仙人。雨雷電霹靂致王毒害。遂不還宮精進滿相者。如好施太子求如意珠。如第一卷末。得珠墜海而抒大海。正使筋骨枯盡。終不懈廢。誓得如意以給眾生。濟其身苦。諸天問之。答云。生生不休。諸天見此精進助其抒海。海水減半。諸龍見海水減恐海乾竭。送珠與之。禪滿相者。如螺髻仙人名尚闍梨。有人畫像作僧形者非。得第四禪出入息斷。坐一樹下兀然不動。鳥見不動謂之為木。即於仙人髻中生卵。仙人定起。覺其頂上有於鳥卵。即自思惟。我若起行。鳥母永不復來鳥卵必壞。即更入禪定至鳥子飛去。爾乃起行。般若滿相者。如劬嬪大臣分閻浮提地以為七分。城邑聚落皆使均等。為息諍故。百劫種相者。過三祇已百劫種相。種即修也。即百劫中修於相業。問。於何處種等。答。欲界人中南洲男身。佛出世。非緣餘人能種故也。用意業第六識。問。初種何相。答。有云。初種足下平初安立故。然後種餘相。有云。紺眼。先以大悲視眾生故。雖有此語義不必然。合時便種理無前後。問。一思多思。答。一思種一相。一相用百福。問。幾許為一福。答。有云。輪王於四天下自在為一福。有云。如帝釋於二天自在為一福。有云。乃至六天。有云。除補處餘一切人所有為一福。有云。大千一切眾生共為一福。有云。大千眾生盲能治得差為一福。有云。大千人服毒治得差為一福。有云。大千人死救得為一福。有云。一切人破戒見。能為說法令捨是事為一福。有云。無可譬。菩薩入第三僧祇。心思大行種相因緣故福無量。唯佛能知。論二十二又云。菩薩修十善各有五心。謂下中上上上上中上。初發五心乃至具足五心。如是百心名為百福成於一相。如是至三十二。名身清淨。大經二十二文同。獲五神通者。未斷惑故無無漏通。五通如助道中說。三十四心者。今取論意與諸經論明斷少別。大論中云。下地諸惑因時未斷。至樹下時乃以九地九品思惑。通名一九。故云三藏菩薩位同凡夫。以九無礙九解脫。合為十八。見道中八忍八智。合十六心。總前合成三十四心。俱舍婆沙意云。下八地惑初修禪時先已斷竟。唯非想地九品見思全在。用九無礙九解脫。以根勝故不復更修下八地定。不同聲聞亦異緣覺。緣覺先曾離八地惑一坐證覺。更於九地次第而修。更起無間解脫二道。下八地中雖不斷惑。觀行次第法爾故也。地地各有一十八心。九地便成一百六十二心。見道十六合一百七十八心。菩薩不爾。故但三十四心。此與俱舍不同。什公翻譯及龍樹意。俱不應誤。不同意者。今且以一意銷通。令二論理齊。俱舍取修禪時已斷惑竟。不復更斷。智論依餘部。雖有漏斷未名為斷。至菩提樹但斷非想。八地俱得名為無漏。但是從部得名不同。故使二論用義不等。又經云下。引大經一念六百生滅。及成論師數解不同。秖明一念尚具多念。以證無間三十四心。未足為妨。次前已下。辨異立中。三祇照俗樹下照真。望前名雙異於二乘及以菩薩。二乘菩薩在弟子位。故云與弟子異而假立三諦。菩薩但照下。釋出假立中道之相。既自無體但從俱照假立中名。中名既假照中眼智亦復假立。故云更加。離則下辨離合。若分屬弟子。或佛自分。已屬前後故但有二。若全在佛餘人所無。是故於佛得三諦名。所以五重三諦之中無三藏者。以其中道無體故也。次三乘人下。明通教離合。雖即同斷以菩薩中有利根故。離真出中故云真異。次引大論等者。智者即是利根見中。名見不空。不空祇是不但空也。三德具足名大涅槃。二乘下。引大品文。如日之智即照中也。鈍者始終但見於空。法華被會即非此中開合義也。既空異下。正明開合。但不但空名為空異。一切智照但空。一切種智照不但空。名為智別。真既含二智亦二別。於真諦中開出中道。故云則有兩諦之殊。而今合者且據通教故云而今作二諦說但名真諦。二乘下。開出二乘利鈍菩薩。觀諦差別。別故得有含中之義。言淨佛國土者。通教出假菩薩亦為眾生作淨土因。處處結緣眾生機熟斷習成佛。名淨佛土。結緣之時名淨土行。故淨名云。菩薩取於淨土皆為饒益諸眾生故。故云布施是菩薩淨土。菩薩成佛時。一切能捨眾生來生其國。結緣之時以布施攝。成佛之時地多珍寶。諸能捨者同生其土。而受五種布施化益。由攝生時有五差故所謂人天及以四教。一切諸行無非菩薩淨土之行。故有四土橫竪攝物。此依跨節。是則淨土義通諸教。今文且依通教菩薩斷餘殘習為淨土果。但是異於二乘而已。若大經二十二明淨土義。但云願攝其義則通。諸教觀別攝生皆然。上根菩薩下。明利根菩薩開真出中昔莊嚴下。破古也。莊嚴云出。開善云不出。此由三乘共學菩薩有但不但。古人不曉利鈍兩根。但諍佛果出與不出。終未見今開合之意。故使二家各朋己計。今文並破。是故皆云作義不成。故知二家各得今文利鈍一邊。故云片意。仍不能知出外別照中道之境用中道智進破無明。故云片意。若不能知鈍根依教。與二乘人同證真諦。是亦但得今文片意。若全得今意。出與不出義皆悉成。古來名此等者。任二家所說各謂幽深。是非難分古來無判。是故古人雙美二說。名此二諦名曰風流。言風流者。動止合儀故許二家出入無失。於今被破出入俱非。舉措失儀風流何在。若依今用含中二諦。進退咸美風流有餘。如僧傳中。有乘法師。先與一法師住開泰寺。此師中途離開泰寺。後時乘於本寺開講序此佛果出二諦義。此師難云。為佛果出二諦。為二諦出佛果。乘反質云。為法師出開泰。為開泰出法師。答曰。如鴛鴦鳥不住圊廁。乘曰。釋提桓因不與鬼住。答曰。鳩翅羅鳥不棲枯樹。乘曰。猶如大海不宿死屍。往復雖佳理竟未顯且如大經三十六文末。佛說觀因緣智四種不同。得菩提異。說是語時十千菩薩得一生實相。五千菩薩得二生法界章安云。三乘同觀第一義諦智解不同。一生二生乃是破無明一品二品。實相是別理。法界是圓理。即是利根接入別圓。破無明已八相作佛。是為佛果出外義也。但觀諸經會未得道。即識所說共別之意。但空下辨異。是為下結。如文。次別教者。初明有無為俗以異前二。合前藏通真俗二諦。同為別教一俗諦耳。俗者是下。釋俗諦義。凡言俗者隔別為義。含於有無義攝凡小。有此異故稱之為俗。勝鬘下。證二乘人為俗所攝。雖謂為空亂故屬俗。引大經者。亦復如是。菩薩之俗二乘謂真。三十二云。我雖說眾生悉有佛性。是佛自意語。如是語者。後身菩薩尚不能解。況復二乘及餘菩薩。我於一時在耆闍崛山。與彌勒菩薩共說世諦。舍利弗等五百聲聞。於是事中都不識知。何況出世第一義諦。經文意者。隨情說於別教之俗彼尚不識。況復隨智第一義諦。章安問。佛於何處為五百說。答。如華嚴中如聾如瘂者是。此即別教真之與俗二乘並迷。若論下。正明開合者雖有開合必須有中異前兩教。不同通教約鈍無開。次明圓教中初引大經者。本實無開為眾生故方便說開法華亦爾。言助顯者。於一實諦開為二三。即名所開為異方便。何者。既已開竟復以所開助顯於實。若約理者。尚無一實況復二三。但讚佛乘生謗沒苦。為是義故須明助顯。應以二義釋異方便。別而言之。三藏為異通真含中故不名異。通而言之。三教皆名異方便也。別教教道非全同故。況復通真含帶而已。是則當知為他故開顯實故合。次明下。約二四論開合也與前但是橫竪不同。論其諦體更無差別。於中又四。先判橫竪。次則有下列。三生滅下。正明開合。四以倫偈合。問。何名橫竪。答。三諦相望深淺不同。故名為竪。苦集滅道二二相望無復淺深。故名為橫。又以二望二亦無深淺。但是能治所治不同。是故四諦名之為橫。問。前三三四容可橫竪。圓融三四如何橫竪。答。實如所問。今言橫竪者。如三諦中且據開一以為二三。即名二三以為方便。方便望實亦得名竪。開權顯實無復二三。何所論竪。既於一實不分而分。分為三諦。何妨此三非橫非竪而名為竪。四諦亦爾。約方便教可說為橫。無作四諦本來相即與誰論橫。亦是不分而分。分為四諦。何妨非橫非竪而名為橫。如六即位非橫非竪。而得名竪。諸波羅蜜非橫非竪。而得名橫。故知橫竪高廣不二。今將下引中觀論者。但是觀諦巧拙四句。攝持諸諦。二明下。約智論開合者。智不自分還須約諦。故今文中皆云照諦。諦體恒三智有增減者。約教相說增減不同。論其實體亦無增減且依大體以三為準。又復三法諸文定故。今初且依諸經列智。以為問端。釋中初對一智至三智。一智者下。初對三諦智有離合者。初從一智乃至四智以觀三諦。以一對一乃至以四對三。文相可見。文雖可見。如初一智觀於一諦。諦之與智亦各含三。故次釋云此智觀三諦者。此智即是向之一智。還引向來一智之文。開成三義。既觀三諦智亦成三。若二智下。即是二智觀於二諦。智諦雖二義已含三。如云權即一切智反以道種智。觀於俗中有無兩諦。若離權智以為二智。離於俗諦以為真俗。則智諦俱三。三智觀三一一主對無開合異。故云可解。四智者。四智亦是權實二智。對因果等是故成四。開合觀諦不出於三。具如向說。言智慧者。若通途說智秖是慧。俱通權實及以因果。如云般若翻為智慧。如大論云。因名般若果名薩婆若。及以修習智慧等者。此即智慧俱在於因。如云止觀為因眼智為果。如來智慧諸佛智慧等。此則智慧俱在於果。若云方便智慧。此則智慧俱在於權。如云智慧甚深。此則智慧俱在於實。今從別義故分因果。於別義中而於慧上加道及種。於其智上更加一切及種名者。道是因義。因果二文各加種者。種謂種別。兼顯於權及以事類。因時用權權智未周。至果智滿故復名種。果法遍故故名一切。若得此意四義可知。問。三慧品中品名三慧。文中所釋何以至四。答。因二果二開各具三。故云三慧。文從合說因果共論。故成四別。文中所釋又有四重並是論文。皆著或言者。善判經文決斷諸釋。豈過龍樹。每於一文存於眾解。而亦不決臧否者。以佛意多含順部類故。今人釋義未閑經旨。故是一非諸。所言因中理體者。二諦之理一念具足。果上滿者滿故有用。故加一切。因中道慧理具中道。因中道種理具二諦。若至果時。一切智見於中道。一切種智見於二諦。此一切名不同二乘。對義意別。因中道慧是實。道種是權。若至果時。一切是實。一切種是權。言總別者。直語道慧一切智故。故名為總。各加種故。故名為別。直語道慧道種慧。故名為單。轉慧名智各加一切。是故名複。是則一權一切權一實一切實。是故單複俱通因果。今亦從別故慧單而智複。如是等下。結智照境。若因若果俱三故也。例前可見故云秖是。若經中下。舉例也。若得前來一智至四但觀三諦。則曉諸經五至無量咸成三諦。故云使入。故知小乘一切諸諦使入三諦。乃至大小俱入於三或二或一。次約十一智者。餘諸經論但列十智。唯大品中加如實智。言十智者。藏通義同但分巧拙。通中以有共乘故也。復有不共故加如實。小乘十智具如俱舍智品中說。謂世智他心苦集滅道法比盡無生。隨智不同照十一境。合而言之。亦不出三諦。世及他心以照俗者。且約有漏。苦集等八以照真者。且約前二。如實一智以照中者。共約兩教。是名下結歸。已明智開而諦不開。故云而三諦不動。次復次下明俱開者。隨其多少。如十一智照十一境等。乃至如對二三。此則可見。俱不開者。唯一佛乘佛智照實。既唯一實亦名開權。若智去結歸顯體。今境界意意在實境。雖有開合實為所顯。次約諦智合辨者。諦智雙論故云合也。四教兼接總為五段。一一段中皆先明境發智。次明智緣諦。緣之與發俱是合明。初三藏中云兩諦共發者。唯三藏佛雙照二諦。假立中名是故云共。通教中云真諦共發二眼二智者。含中故也次接中云開真出中者。若已被接得入證道。乃成三諦。問者。何獨接通而不云藏。何獨別接而不云圓。此問上來開真出中故也。答中初明通教須用別接。以機別故。若初後不聞全屬前二。若從初即聞全屬後兩。復有一人破二惑盡至第八地方聞中道聞已修觀進破無明。得法身本八相作佛雖見中道必假通教空假二觀為前方便。必待別理接之方聞。今言別接者。應具二義。一者別教教隣近故。二者別理理異真故。不以此下。次明不接餘教之意。初明不接三藏中云。不以此佛果者。若初地初住雖有八相不受果名。通中九地二觀為因。至第十地八相為果。若被接者破一品無明亦得八相。仍從舊說故亦名果。是故唯將此果接通。不以此果接三藏等者。有四義故。一者接於可接。三藏因拙不可接故。二者得受接名。方可用接。謂用前教有始無終。已用七八不至九十。即用後教有終無始。但用向地不須住行。中續接之故得名接。三者不須接故亦不名接。如初地初住已成真因。亦破無明八相作佛。任運流入何須更接。四者得受接義謂約教分齊。文中初義即此第一不可接故。此第二義正當通教可接者是。若接入教道在迴向中。若接入證道即在初地。若接入圓亦分教證。彼說可知。三祇百劫來入別教但在十信。若來入圓但在五品。是故但成後教初心。從初至後有始有終。雖從藏來仍同當教。是故三藏不得接名。故雖接通若從乾慧性地來者。亦不名接。義同三藏初後心故。故四念處云。通有三種。一者因果俱通即通教是。二者因通而果非通。即被接者是。三者通別通圓。即是別圓。用於通教而為方便。但成別圓因果人也。是故菩薩據位雖同。乾慧性地觀慧猶劣。是故亦復不受接名。文云不將此果接十地之因者。即第三義。是別接通。仍通七地八地為因。故稱十地八相為果。豈將此果。却接別教十地已破十品之因。此因自趣妙覺之果。豈可却趣一品之果。若接初地。初地復同已破一品。既無優劣何須用接。況復還成以別接別。接別地前自用圓教妙覺之果。或用別教妙覺之果。何須用此一品果耶。況復此教初地非果。況當教妙覺本望此果而生信心。何須至此方云被接。言不接十住者。別教十地雖破十品。猶帶教道尚不須接。況復將破一品八相。却接圓教十住位耶。顛倒之義亦同十地。第四義者。即文中云唯得以別接通。則是別理接於通理。故今文意應須修觀進破無明。不分但中不但中別。故知語地已含於住。豈有初住更接十住。今文重云不接十住故不接圓仍存別教教道故也。玄文以圓接通別者。分於教證位行別故。今不云者約證道故但約觀故。問。接與不接何者為最。答。四念處云。被接之人如土石為基金寶累上。豈如從下純累金剛。此歎始終俱妙故爾。若賢位中諸菩薩等從漸來者。其功尚彊。何者。諸法先熟藏理易明。如歷任居極富從貧來。是故他方菩薩皆歎此土初心菩薩忍苦捍勞。從於香積來此聽法者。權法未熟是故經遊。

二、境智の離合について明かす。まず、諦について解釈するにあたり、最初に総説し、次に個別に説く。総説として、まず諸経について述べる。諸経や論における諦の離合は一様ではない。今、その違いを四教にわたって総括する。「三蔵」以下は、四教に基づいて個別に説く。その中で、まず「二」と「三」の離合について明かす。初めに「ただ二のみで三はない」ことを示し、次に「菩薩」以下で、人に託して諦を判別する。初めの文は「俗」であり、「後心」以降は「真」である。よって、始終ただ二諦のみがある。「煩惱脂銷等」の意味について、『大論』にこうある。この菩薩は、たとえ上妙の五欲があっても貪著しない。無常等の観察があるからである。たとえば、ある王に大臣がいて、自らの罪を隠していた。王が罰しようとして言った。「もし無脂の肥羊を得たら、お前の罪を赦そう」と。大臣は智慧があり、一頭の羊を繋いで水や草を与え、毎日三度、狼で怖がらせた。羊は養われて肥えたが、脂はなかった。王が「どうしてそうなったのか」と尋ねると、上の事情を答えた。菩薩もまた同様である。無常の空という狼を見て、結使の脂を銷し、功徳の身を肥やすのである。また、この菩薩がまだ結使を断じていないのは、たとえば賊を捕まえてもまだ殺さず、堅く一か所に閉じ込めて、自らの事業を修めるようなものだ。菩薩が無常観を修するのも、また賊を閉じ込めるようなものである。まだ有漏でありながら、自ら務めを行うのだ。また、五つの事を離れる。一に悪道を離れ、二に貧窮を離れ、三に女身を離れ、四に形の残欠を離れ、五に忘れやすいことを離れる。五つの功徳を得る。一に貴家に生まれ、二に人天に生まれ、三に男身を得、四に諸根が満ち、五に宿命を知る。

三阿僧祇劫に六度を行ずることについて。「阿僧祇」は、これ無数という。「劫」は時である。前に釈した通りである。『倶舎』にいう。「八十中劫をもって一大劫とし、大劫の三無数とは、六十数の中の第五十二数を阿僧祇という。この大劫を積んで無数となるから、三阿僧祇というのである」。六度を行ずるとは、菩薩がこの六度を修し、それぞれに満ずる時がある。初めに「檀満」について述べる。たとえば、釈迦菩薩が昔、毘尸という王であった時のこと。帰命救護陀羅尼を得て、諸々の衆生を視ること、あたかも母の子を愛するが如くであった。この時、天帝は命の終わろうとしていることを知り、仏に疑問を尋ねようとしたが、遍く求めても得られなかった。天宮に帰り、憂愁苦悩した。時に天の巧師、毘首羯磨という者が、天主に問う。「なぜ憂愁されているのですか」。答えて言う。「私は一切智人を求めたが得られなかった」。毘首が言う。「大菩薩がいて、六度を満足し、久しからずして成仏されます」。天主は偈で答える。「菩薩の大心を発するは、魚子や菴羅華の如し。三事は因の時多く、果の時は甚だ少ない」。毘首が答える。「優尸那種は六度を満足し、久しからずして成仏されます」。帝釈が言う。「この菩薩かどうか、試しに行こう。あなたは鳩に、私は鷹になろう。そしてあなたは王の腋に怯えて逃げ込むふりをしなさい」。毘首が言う。「これは大菩薩です。どうしてこんなことで悩ませるのですか」。帝釈が言う。「私にも悪心はない。真の金は試す必要があるように」。そして言う通りに変じて王の腋に入った。全身震え戦き、自ら声を発した。人々皆言う。「この王は大仁慈であり、一切を救護すべきだ。この鳩のような小鳥が帰依すること、家に入るが如し。菩薩の相はこのようであり、作仏は遠くないだろう」。時に鷹は近くの木にいて、王に言う。「私の鳩を返せ」。王が言う。「私は先にこの鳩を受けた。これはお前の前に受けたのではない。私は先に一切衆生を度しようと誓願を発した」。鷹が言う。「一切衆生を度そうとするなら、私は一切衆生の中の者ではないのか。どうして私の食べ物を奪うのか」。王が言う。「お前は何の食べ物を必要とするのか。私は先に誓った。もし私に帰依していない衆生がいたら、必ず救護しようと」。鷹が言う。「私は新しい肉と熱い血を必要とする」。王が言う。「殺さなければ得られないものだ。どうして一つを殺して一つを与えることができようか」。思惟して心を定め、偈を説いて言う。「この我が肉身は、常に老病死を受ける。久しからずして臭爛すべし。彼が必要とするなら、私は与えよう」。刀を持って自らの腿の肉を切り取り、鷹に与えた。鷹が言う。「道理に従って軽重を等しくせよ。欺いてはならない」。王が言う。「秤を持って来て、鳩を量れ」。言う通りに量ると、鳩の身はますます重くなり、王の肉はますます軽くなった。ついには身が尽きた。諸臣や親戚は、見る人々を退けた。「王は今このようであり、見るに値しない」。王が言う。「見るに任せよ。もし成仏の道があるなら、この大事を耐え忍ぶべきである」。王は血を手に塗り、秤に攀じ登って鳩に相対しようとした。鷹が言う。「どうしてこんなことをするのか。鳩を私に返せ」。王が言う。「身を喪うことは無量であるが、今は仏道を求め易い時である。肉尽き筋断え、登ろうとして堕ちた」。そして自らを責めて言う。「お前は堅固であれ。迷悶してはならない。衆生は憂いの海に堕ちている。救護すべきである。どうして懈怠できようか。これは地獄の苦しみの十六分の一にも及ばない。私は特に精進しているのに、なおこの苦しみを患う。まして地獄の中には智慧ある者がいない」。時に諸天が讚じて言う。「小鳥のために良くここまでできる」。時に天地は六種に動き、海水は波を揚げ、枯木は花を生じ、天は香水を降らせた。諸仏が来て讚じ、「必ず成仏するであろう」と言った。鷹が鳩に言う。「これは真の菩薩である」。毘首が言う。「天主よ、あなたには神通力がある。彼を元のように平らかにさせなさい」。帝釈が言う。「私を必要としない。王が自ら誓いを立てて、一切を感発したのだ」。帝釈は王に言う。「心に悩みはないか」。王が言う。「私の心は歓喜し、悩まず沈まない」。帝釈が言う。「あなたを信じよう」。菩薩が言う。「もし一心に悩まず、仏道を求めるならば、元のように平らかにさせよ」。言葉が終わると、元のように平らかになった。人天これを見て、皆大いに悲喜し、未曾有と歎じた。「必ず仏と作るであろう。私は供養しよう」と。

尸羅波羅蜜多の満相について。たとえば須陀摩王は、この王は精進で常に実語に依っていた。園遊びに行こうとして城門を出ようとした時、一人の婆羅門が来て乞うた。「王は福德ある人です。私の貧窮を哀れんでください」。王は言う。「私が帰ってくるのを待て」。園に着くと、両翅の鳥王、鹿足と名づく者がいて、山神と誓いを立てて千人の王を取ろうとしていた。すでに九百九十九人の王を得ていたが、ただ須陀摩王だけが欠けていた。虚空から飛んで来て王を捕らえ、連れ去った。諸々の女たちは号哭し、園中に慟き悲しんだ。鹿足は王を捕らえて住まう所に連れて行き、諸王の中に置いた。須陀摩王は涕涙が雨の如くに落ちた。鹿足が言う。「大剎利よ。なぜ小児のように泣き悲しむのか。人に生まれて死があること、会えば離れがあることは必定である」。須陀が答えて言う。「私は死を畏れない。生まれてからこれまで、妄語をしたことがなかったことを恨む。今、信用を失った。婆羅門に施しを約束しながら、その志を辜負し、自ら欺きの罪を招いた。だから泣くのだ」。鹿足が言う。「帰って七日間、施しをしてしまえ。そして来て死を受けよ。もし来なければ、私には力で取る力がある」。王は帰って思うままに布施し、太子を王とし、人民を大いに集めた。王は謝って言う。「私の智は周らず、少し法に合わなかった。怒られるかもしれない。私は今、身は己のものではない。去らねばならない」。人民や親戚は留め、願わくは王がこの国に留まり、蔭を垂れてください。どうか鹿足の鬼王を心配しないでください。鉄の舎や奇兵を設けて護衛しましょう。鹿足は神ではあるが、畏れるには当たらない。王は偈を説いて言う。「実語は第一の戒、実語は天に上る梯、実語は小人大となる、妄語は地獄に入る。我、今実語を守る。身と寿命を失うとも」。こうして発って鹿足の所に行った。鹿足は来るのを見て歓喜した。「汝は実語の人で、信用を失わなかった。人は皆命を惜しむ。帰って来たからには、汝は大人である」。時に須陀王は広く実語を讃え、妄語を呵責した。鹿足はこれを聞いて信心清浄となり、須陀に言った。「汝がこのように説くなら、今汝を放そう」。諸王は各々本国に帰った。この言葉が終わると、諸王は去っていった。

忍辱波羅蜜多の満相について。たとえば羼提仙人は、林間で忍辱を修行していた。時に柯利王が、婇女たちを連れて園遊びに来た。飲食が終わると、王は少し眠った。諸女は園の林間で花を採り、この仙人を見て、敬い礼拝し、一方に立った。その時、仙人は諸女のために慈忍を讃歎した。その言葉は美妙で、聞く者は忘れることを厭わず、長く忘れて去らなかった。王が目覚めて諸女のいないのを見て、剣を抜いて足跡を追った。女たちが仙人の前にいるのを見て、嫉妬が盛んになり、怒りの目で剣を奮って仙人に臨んだ。「お前は何をしているのか」。仙人が答えて言う。「私は慈忍を修している」。王が言う。「今、お前を試してやろう。利剣で手足や耳鼻を切り落とそう。もし怒らなければ、忍を修していることが分かる」。仙人が言う。「意のままにせよ」。王は即座に剣を抜き、その手足や耳鼻を截った。そして問う。「お前の心は動くか」。答えて言う。「私は慈忍を修し、心は動かない」。王が言う。「お前は一人、ここに身を置き、勢力がない。言葉で動かないと言っても、誰が信じるのか」。時に仙人は即座に誓いを立てた。「もし私が真実に慈忍を修しているならば、血は乳となるであろう」。即座に乳と変じた。王は大いに驚き、逃げ去り、婇女たちを連れて行った。時に林中の龍神は、この仙人のために、雨や雷電霹靂を降らせて王に毒害を加え、ついに宮に還ることができなかった。

精進波羅蜜多の満相について。たとえば好施太子が如意珠を求めた話は、第一卷の末の如くである。珠を得て海に墜ち、大海を汲み乾かそうとした。正に筋骨が枯れ尽きようとも、ついに懈怠廃弛することはなかった。如意珠を得て衆生に与え、その身の苦しみを済おうと誓った。諸天が問う。答えて言う。「生々世々、休むことなし」。諸天はこの精進を見て、その海を汲むのを助けた。海水は半減した。諸龍は海水の減るのを見て、海が乾くことを恐れ、珠を彼に送った。

禅定波羅蜜多の満相について。たとえば螺髻仙人、名を尚闍梨という。ある人が画像を描いて僧形としたのは誤りである。第四禅を得て、出入息が断えた。一本の樹の下に坐し、兀然として動かなかった。鳥は動かないのを見て、木だと思った。即座に仙人の髻の中に卵を生んだ。仙人は定より起ち、その頂上に鳥の卵があるのを知った。即座に自ら思惟した。「もし私が起ち去ったなら、鳥の母は再び来ず、鳥の卵は必ず壊れるだろう」。即座に更に禅定に入り、鳥の子が飛び去るのを待って、それから起ち去った。

般若波羅蜜多の満相について。たとえば劬嬪大臣が閻浮提の地を分かって七分とし、城邑聚落を皆均等にしたのは、争いを鎮めるためである。

百劫に相を種えることについて。三阿僧祇劫を過ぎてから、百劫の間に相を種える。「種」は修することである。すなわち百劫の間に相の業を修する。問う。どのような場所に種えるのか。答える。欲界、人間界、南閻浮提の男身で、仏が出世する時である。縁の他の者には種えることができないからである。意業の第六識を用いる。問う。最初にどの相を種えるのか。答える。ある説には、最初に足の下の平らな相を種える。最初に安立するからである。その後、残りの相を種えるという。ある説には、紺青色の眼を先に種える。先に大悲をもって衆生を見るからであると。このような説はあるが、義としては必ずしもそうではない。機が合えば種えるのであり、理として前後はない。問う。一つの思惟か、多くの思惟か。答える。一つの思惟で一つの相を種え、一つの相に百の福を用いる。問う。どれほどが一つの福なのか。答える。ある説には、転輪聖王が四天下において自在であることを一つの福とする。ある説には、帝釈が二天において自在であることを一つの福とする。ある説には、乃至六天とする。ある説には、補処の菩薩を除いた、残りの全ての人の所有を一つの福とする。ある説には、大千世界の一切の衆生を合わせて一つの福とする。ある説には、大千世界の盲人を治して癒すことを一つの福とする。ある説には、大千世界の人の毒を服したのを治して癒すことを一つの福とする。ある説には、大千世界の人の死を救うことを一つの福とする。ある説には、一切の人が破戒や邪見であるのを、よく法を説いてこれらを捨てさせることを一つの福とする。ある説には、譬えがない。菩薩は第三阿僧祇劫に入り、心に大行を思い、相を種える因縁の故に、福は無量であり、ただ仏のみが知ることができる。『論』第二十二にもいう。菩薩は十善を修し、各々に五心がある。すなわち下、中、上、上上、上中上である。初めに五心を発し、乃至五心を具足する。このような百の心を、百福と名づけ、一つの相を成就する。このようにして三十二に至る。これを身の清浄と名づける。『大経』第二十二の文も同じである。

五神通を得ることについて。まだ煩悩を断じていないので、無漏通はない。五通は、助道の中で説く通りである。

三十四心について。今は論の意を取って、諸経論で断惑を明かすのとは少し異なる。『大論』の中でいう。下地の諸々の惑は、因の時に未だ断じておらず、菩提樹の下に至って、九地九品の思惑を、一つの九と通称する。故に三蔵の菩薩の位は凡夫と同じであるという。九無礙道と九解脱道を合わせて十八とする。見道の中の八忍八智を合わせて十六心とする。総じて前のものを合わせて三十四心とする。『倶舎』や『婆沙』の意は、下八地の惑は、初めて禅を修する時に先に既に断じ終わっている。ただ非想地の九品の見思のみが全て残っている。九無礙道と九解脱道を用いる。根が勝れている故に、更に下八地の定を修することはない。声聞とは異なり、また縁覚とも異なる。縁覚は先に八地の惑を離れており、一坐に証覚する。更に九地において次第に修する。更に無間道と解脱道の二道を起こす。下八地の中では惑を断じないが、観行の次第は法爾だからである。地ごとに各々一十八心があり、九地では一百六十二心となる。見道の十六を合わせて、一百七十八心となる。菩薩はそうではない。故にただ三十四心のみである。これは『倶舎』と異なる。鳩摩羅什の翻訳や龍樹の意は、共に誤りであるはずがない。異なる意については、今は一つの意で通じて解き、二論の理を等しくしよう。『倶舎』は、禅を修する時に既に惑を断ち終えていることを取って、更に断じないとする。『智論』は他の部派に依って、有漏で断じても未だ断じたとは言わず、菩提樹の下でただ非想のみを断じ、八地は共に無漏と名づけることができるとする。ただ、部派によって名を得ることが異なるため、二論の用いる義が等しくないのである。

また経にいう、と以下は、『大経』の一念に六百の生滅があるという文、及び成実論師の解釈が数種異なるのを引き、ただ一念にすら多くの念があることを明かし、無間の三十四心を証するに足る妨げにはならないとしている。

「次前已下」は、異を弁じ、中を立てる。三祇にわたって俗を照らし、樹下で真を照らす。前に対しては雙と名づけ、二乗や菩薩と異なる。二乗や菩薩は弟子の位にある。故に弟子と異なるといい、仮に三諦を立てる。菩薩はただ照らす、と以下は、仮に立てられた中道の相を釈し出している。既に自ら体がなく、ただ俱照から仮に中の名を立てる。中の名が仮であるならば、照中の眼智もまた仮に立てられる。故に「更加」という。「離則」以下は、離合を弁じる。もし弟子に分属させ、あるいは仏が自ら分ければ、既に前後に属するので、ただ二つがあるのみである。もし全てが仏にあり、他の人には無ければ、この故に仏において三諦の名を得る。ゆえに五重の三諦の中に三蔵がないのは、その中道に体がないからである。

「次三乘人下」は、通教の離合を明かす。同じく断ずるけれども、菩薩の中に利根がある故に、真を離れて中を出す。故に「真異」という。次に「大論等」を引く。智者すなわち利根で中を見る者を、見不空と名づける。不空はすなわち但空にあらず、である。三徳具足して大涅槃と名づける。「二乘下」は、『大品』の文を引く。日のような智は、すなわち中を照らす。鈍なる者は、始終ただ空を見るのみである。法華で会されることは、この中の開合の義ではない。既に空が異なる、と以下は、正に開合を明かす。但空と不但空を、空の異なりと名づける。一切智は但空を照らし、一切種智は不但空を照らす。これを智の別なりと名づける。真が既に二を含むので、智もまた二つの別がある。真諦の中で中道を開き出す。故に「則有兩諦之殊」という。而今合するは、且く通教に拠る。故に「而今作二諦說但名真諦」という。「二乘下」は、二乗や利鈍の菩薩を開き出し、観諦の差別を明かす。別であるが故に、中を含む義がある。「言淨佛國土」は、通教の出仮の菩薩もまた、衆生のために浄土の因を作る。あちこちで縁を結び、衆生の機が熟し、習を断じて成仏する。これを浄國土と名づける。縁を結ぶ時、これを浄土行と名づける。故に『浄名経』にいう。菩薩が浄土を取るのは、皆、諸々の衆生を饒益するがためである。故にいう。布施は是、菩薩の浄土である。菩薩が成仏する時、一切の能捨の衆生が来りてその国に生ず。縁を結ぶ時に布施で摂する。成仏する時に地に多くの珍宝がある。諸々の能捨の者は同じくその土に生ず。そして五種の布施の化益を受ける。衆生を摂する時に五差があるが故に、いわゆる人天、および四教である。一切の諸行は、菩薩の浄土の行にあらざるはなし。故に四土があり、横に竪に物を摂する。これは跨節に依る。これならば浄土の義は諸教に通ず。今の文は、且く通教の菩薩が余の残習を断じて浄土の果とするのに依る。ただ二乗と異なるのみである。もし『大経』第二十二に浄土の義を明かすならば、ただ「願摂」と言うのみで、その義は通ずる。諸教の観は別にして、衆生を摂することは皆同じである。

「上根菩薩下」は、利根の菩薩が真を開いて中を出すことを明かす。「昔莊嚴下」は、古義を破る。荘厳家は「出」とし、開善家は「不出」とする。これは三乗が共に学ぶ菩薩に、但と不但とがあることによる。古の人は利鈍の二根を弁えず、ただ仏果の出ずるか出でざるかを争い、終に今の開合の意を見なかった。故に二家は各々自らの計らいに朋党した。今の文は並びに破る。故に皆「作義不成」という。故に知る、二家は各々今の文の利鈍の一方を得たものの、「片意」に過ぎない。なお、外に出て別に中道の境を照らし、中道の智を用いて進んで無明を破ることを知らない。故に「片意」という。もし鈍根が教えに依り、二乗と共に真諦を証することを知らなければ、これもまた、ただ今の文の「片意」を得るのみである。もし今の意を全く得るならば、出と不出の義は皆、成立する。

「古來名此等者」、二家の説く所に任せて、各々幽深と謂う。是と非は分け難く、古来、判じるがない。故に古人は二説を併せて美とした。この二諦を名づけて「風流」という。「風流」とは、動止が儀に合うことである。故に二家が出入して失なうことなしと許すのである。今、破られては、出入とも非である。挙措、儀を失い、風流は何処にあるのか。もし今の用いる、中を含む二諦に依るならば、進退ともに美しく、風流は余り有る。僧伝にある如く。乘法師という者がいた。先に一法師と開泰寺に住んでいた。この師は中途で開泰寺を離れた。後の時、乗が本寺で講を開き、この仏果が二諦に出る義を序した。この師が難じた。「仏果が二諦に出るのか。二諦が仏果に出るのか」。乗は反って質した。「法師は開泰寺から出たのか。開泰寺が法師を出したのか」。答えた。「鴛鴦鳥の如く、圊廁には止まらない」。乗は言った。「釋提桓因は鬼と住しない」。答えた。「鳩翅羅鳥は枯れ木に棲まない」。乗は言った。「大海の如く、死屍を宿さない」。往復は佳しと雖も、理は未だ顕れず。且く『大経』第三十六の文末の如し。仏が因縁を観る智について、四種の不同を説き、菩提を得ることに異りがある。この語を説く時、十千の菩薩は一生の実相を得、五千の菩薩は二生の法界を得た。章安大師がいう。三乗は同じく第一義諦を観ずるも、智の解は同じでない。一生二生とは、無明の一品、二品を破るのである。実相は別理、法界は円理である。すなわち利根は別円に接入せられ、無明を破り已りて八相作仏する。これが仏果の出外の義である。ただ諸経を観て、未だ道を得ざるを会するのみ。すなわち説く所の共別の意を識る。

「但空下」は異を弁じる。「是為下」は結ぶ。文の如し。

「次別教者」、初めに「有無為俗」を明かし、前の二教と異なる。前の蔵通の真俗二諦を合わせて、同じく別教の一つの俗諦とするのである。「俗者是下」、俗諦の義を釈す。凡そ「俗」というは、隔別を義とし、有無を含み、凡小を摂する義を含む。この異があるが故に、これを「俗」と称する。「勝鬘下」、二乗人が俗に摂せられることを證する。空と謂うも、乱なるが故に俗に属する。「大経」を引くも、亦復如是である。菩薩の俗は、二乗の謂うところの真である。第三十二にいう。我は衆生が悉有仏性であると説くと雖も、これは仏の自意の語である。かくの如き語は、後身の菩薩すら尚解すること能わず。況んや二乗や余の菩薩をや。我かって一時に耆闍崛山において、弥勒菩薩と共に世諦を説いた。舎利弗等五百声聞は、この事の中において、皆認識せず。況んや出世の第一義諦をや。経文の意は、情に随って別教の俗を説けば、彼すら尚認識せず。況んや智に随う第一義諦をや。章安大師が問う。仏は何れの処で五百のために説いたのか。答えて言う。華厳の中の如く、聾や瘂の如き者がいるのがそれである。これすなわち別教の真と俗を、二乗は並びに迷うのである。「若論下」は、正に開合を明かす。開合有りと雖も、必ず中が有りて前の二教と異ならねばならない。通教が鈍根については開かないのと同じではない。

「次明圓教中」、初めに「大経」を引く。本より実は開くこと無きも、衆生の為に便利して開くことを説く。法華も亦た同じである。「言助顯」は、一実諦において、方便して二三に開く。すなわち開く所を名づけて、異方便と為す。何となれば、既に開き已って、復た開く所を用いて実を助顕する。もし理に約すれば、尚、一実無し。況んや二三をや。ただ仏乗を讃めれば、誹謗を生じ苦に没する。この義の為に、助顕を明かすことを須いる。応に二義を用いて、異方便を釈すべし。別に言えば、三蔵を異と為す。通真は中を含むが故に、異と名づけず。通に言えば、三教を皆、異方便と名づける。別教の教道は、全く同じでは無いが故に。況んや通真は含帯するのみをや。これならば当に知るべし。他の為に開くが故に、実を顕すために合すのである。

「次明下」は、二と四について、論じ開合するところである。前とは、ただ横竪の違いである。諦の体について論じれば、更に差別はない。中に又四つあり。先ず横竪を判じ、次に「則有」等の文があり、三に「生滅下」は正に開合を明かし、四に「以倫偈合」がある。

問う。何を横竪と名づけるのか。答える。三諦を相望むれば、浅深同じでない。故に竪と名づける。苦集滅道は、二二相望みて、もはや浅深がない。故に横と名づける。また二をもって二を望んでも、また深浅はない。ただ能治と所治とが同じでないだけである。故に四諦はこれを横と名づける。問う。前三の三四は、なお横竪を容すことができよう。円融の三四は、如何にして横竪とするのか。答える。実に問うが如し。今、横竪と言うは、三諦の中において、且く一を開いて二三とするに拠る。すなわち二三を名づけて方便と為す。方便と実を相望めば、また得て竪と名づける。権を開いて実を顕せば、もはや二三は無い。何を以て竪と論じよう。既に一実において、分かずして分かち、分かって三諦となる。何ぞ妨げよう、この三が非横非竪にして、竪と名づくることを。四諦も亦た同じ。方便教に約せば、横と説く可し。無作の四諦は、本来相即す。誰と横を論じよう。また、分かずして分かち、分かって四諦となる。何ぞ妨げよう、非横非竪にして、横と名づくることを。六即の位が非横非竪にして、竪と名づくるが如く、諸波羅蜜が非横非竪にして、横と名づくるが如し。故に知る、横竪の高広は、不二である。

「今將下」は、「中觀論」を引く。ただ是れ、観諦の巧拙の四句であって、諸諦を摂持する。

「二明下」は、智論に約して開合を明かす。智は自ら分かたず。なお諦に約するを須いる。故に今の文中、皆「照諦」と云う。諦体は常に三であるが、智に増減があるのは、教相に約して、増減の不同を説くからである。その実体について論じれば、また増減無く、且く大体に依って、三を標準とする。また、三法は諸文に定めるところであるが故に。今、初めは且く諸経に列ねる智に依って、問端と為す。釈の中、初めに一智乃至三智を対す。「一智者下」、初めに三諦を対し、智に離合がある。初めに一智より乃至四智を以て、三諦を観ずる。一をもって一に対す、乃至四をもって三に対す。文相、見る可し。文は見る可しと雖も、一智が一諦を観ずるが如く、諦と智も亦、各々三を含む。故に次に釈して、「此智觀三諦」と云う。この智は、即ち向かうところの一智である。また、向かうところの一智の文を引いて、開きて三義とする。既に三諦を観ずれば、智も亦、三となる。もし二智であれば、これ即ち二智が二諦を観ずるものである。智と諦は二ではあるが、義は既に三を含む。例えば、「權即一切智」あるいは「道種智」と反し、俗の中にある無の二諦を観ずる。もし権智を離れて二智と為し、俗諦を離れて真俗と為せば、則ち智と諦は俱に三となる。三智が三を観ずれば、一一に主対し、開合の異なること無し。故に「可解」という。四智は、四智また権実の二智である。因果等に対ずるが故に、四となる。開合して諦を観ずれば、三を出でず。具に、向かう所の説の如し。

「言智慧者」、もし通途に説けば、智は即ち慧である。俱に権実及び因果に通ず。例えば、「般若」は翻じて「智慧」と為すが如し。『大論』に云うが如し。因を名づけて般若、果を名づけて薩婆若と為す。及び、智慧を修習する等のものは、これ即ち智慧俱に因にある。例えば、止観を因と為し、眼智を果と為すが如し。如来智慧、諸佛智慧等は、これ則ち智慧俱に果にある。もし、方便智慧と云えば、これ則ち智慧俱に権にある。もし、智慧甚深と云えば、これ則ち智慧俱に実にある。今、別義に従うが故に、因果を分かつ。別義の中において、慧の上に更に道及び種を加え、その智の上に更に一切及び種の名を加える。道は因の義である。因果の二文に各々種を加えるのは、種は種別を謂う。兼ねて権及び事類を顕す。因の時に権を用いれば、権智は未だ周らず。果に至って智が満つるが故に、復た種と名づける。果法は遍するが故に、故に一切と名づける。若し此の意を得れば、四義、知る可し。問う。三慧品の中、品名を三慧と為す。文の釈する所、何を以て四に至るのか。答える。因に二、果に二、開きて各々三を具す。故に三慧と云う。文は合説に従う。因果を共に論ずれば、故に四の別を成す。文の釈する所に、また四重あり、並びに是れ論文である。皆「或言」を著けるのは、善く経文を判じ、諸釈を決断するは、豈に龍樹に過ぎんや。毎に一文に於いて、衆解を存し、而も亦た臧否を決せざるは、佛意が多含にして、順じて部類に従うが故なり。今人の義を釈するは、未だ経旨に閑せず。故に是れにして一を非とし諸と為す。

所言因中理體は、二諦の理、一念に具足する。果上に満つるとは、満つるが故に用有り。故に一切を加える。因中の道慧は、中道を理具する。因中の道種は、二諦を理具する。もし果に至らば、一切智は中道を見、一切種智は二諦を見る。此の一切の名は、二乗に同じからず。対して義の意は別である。因中の道慧は是れ実、道種は是れ権である。もし果に至らば、一切は是れ実、一切種は是れ権である。言う所の總別は、直に道慧及び一切智を語るが故に、名づけて總と為す。各々種を加えるが故に、名づけて別と為す。直に道慧及び道種慧を語るが故に、名づけて単と為す。慧を転じて智と名づけ、各々一切を加えるが故に、名づけて複と為す。これならば、一権は一切権、一実は一切実である。故に単複俱に因果に通ず。今も亦、別に従うが故に、慧は単にして智は複である。「如是等下」、智が境を照らすことを結ぶ。もし因、もし果、俱に三であるが故に。例前して見る可し。故に「秖是」という。「若經中下」、例を挙げる。もし来りて一智乃至四智を得、ただ三諦を観ずるならば、則ち諸経の五乃至無量、咸く三諦を成すことを暁る。故に「使入」という。故に知る、小乗の一切諸諦は、使入して三諦となる。乃至大小俱に入りて三、或いは二、或いは一となる。

「次約十一智者」、余の諸経論はただ十智を列ねる。ただ『大品』のみ如実智を加える。十智というは、蔵通の義は同じで、ただ巧拙を分かつ。通の中には、共乗があるが故に。また不共があるが故に、如実を加える。小乗の十智は、具に『倶舎』の智品の中の説の如し。謂わく、世智、他心智、苦智、集智、滅智、道智、法智、比智、盡智、無生智である。智の不同に随って、十一の境を照らす。合わせて言えば、また三諦を出でず。世智及び他心智は、俗を照らす。且く有漏に約す。苦智等の八つは、真を照らす。且く前の二教に約す。如実の一智は、中を照らす。共に両教に約す。「是名下」結帰する。已に智は開くが、諦は開かず。故に「而三諦不動」という。

「次復次下」は、俱に開くことを明かす。その多少に随う。十一智が十一境等を照らすが如く。乃至二三を対するが如く、これ則ち見る可し。俱に開かざるは、ただ一仏乗、仏智が実を照らす。既にただ一実のみ、また名づけて権を開くと為す。もし智であれば、結帰して体を顕す。今、境界の意は、意、実境に在り。開合有りと雖も、実に顕す所と為す。

「次約諦智合辨」は、諦と智を双に論ずるが故に、「合」と云う。四教、兼ね、接ぎ、総じて五段と為す。一々の段の中に、皆先ず境が智を発することを明かし、次に智が諦に縁ずることを明かす。縁と発は俱に、合明である。初三蔵の中に「兩諦共發」と云うは、ただ三蔵仏のみ二諦を双照し、仮に中の名を立てる。故に「共」と云う。通教の中に「眞諦共發二眼二智」と云うは、中を含むが故である。次に接の中に「開真出中」と云うは、もし已に接せられて、証道に入ることを得れば、乃ち三諦を成す。問う。何故に独り通を接ぎ、蔵を接がず。何故に独り別を接ぎ、円を接がざるのか。此の問いは、来りて上の開真出中による。答えば、中に初め通教に須らく別を用いて接ぐべきことを明かす。その機が別なるが故である。もし初後を聞かざれば、全く前の二に属す。もし初めより即ち聞けば、全く後の両に属す。また一人有り、二惑を破り尽くし、第八地に至って始めて中道を聞く。聞き已って、観を修し、進んで無明を破る。法身の本を得、八相作仏す。中道を見ると雖も、必ず通教の空仮の二観を借りて、前の方便と為す。必ず別理の接ぐを待ちて、始めて聞く。今、「別接」と云うは、応に二義を具すべし。一には、別教の教は隣近するが故。二には、別理の理は真と異なるが故。「不以下」、次に、余の教を接がざる意を明かす。初めに三蔵を接がざることを明かす中に「不以此佛果」という。もし初地や初住は、八相有りと雖も、果の名を受けず。通中の九地は、二観を因と為す。第十地に至って、八相を果と為す。もし接せらるる者は、一品の無明を破り、亦た八相を得る。なお旧説に従うが故に、亦た果と名づくる。故に唯だ此の果を以て通を接ぐ。此の果を以て三蔵等を接がざるには、四義有り。一には、接ぐ可きものを接ぐ。三蔵は因が拙いが故に接ぐ可からず。二には、接の名を受くることを得て、始めて接を用いる可し。謂わく、前の教を用いて始め有りて終り無し。已に七八を用いて、九十に至らず。即ち後の教を用いて、終り有りて始め無し。但だ向地を用いて、住行を須いず。中続して之を接ぐが故に、名づけて接と得る。三には、接ぐを須いざるが故に、亦た名づけて接と為さず。初地や初住の如きは、已に真因を成し、亦た無明を破り八相作仏す。任運に流れ入り、何ぞ更に接ぐを須いん。四には、接の義を受くることを得とは、謂わく、教の分斉に約す。文中の初義は、即ち此の第一、接ぐ可からざるが故である。此の第二義は、正に通教の接ぐ可き者は是れ、に当たる。もし教道に接入せらるれば、回向の中に在り。もし証道に接入せらるれば、即ち初地に在り。もし円に接入せらるれば、亦た教証を分かつ。彼の説、知る可し。三祇百劫より来りて別教に入るは、但だ十信に在り。もし来りて円に入るは、但だ五品に在る。故に但だ後教の初心を成す。初めより後に至り、始め有りて終り有り。蔵より来るも、なお当教に同じ。故に三蔵は接の名を得ず。故に通を接ぐと雖も、もし乾慧地や性地より来る者は、亦た名づけて接と為さず。義、三蔵と同じく初後心なるが故。故に『四念処』に云う。通に三種有り。一には因果倶に通なるは、即ち通教是れ。二には因は通にして果は通に非ざるは、即ち接せらるる者。三には通別通円、即ち別円をば、通教を用いて方便と為す。但だ別円の因果の人を成す。故に菩薩は位に拠ること同じと雖も、乾慧地や性地は観慧なお劣る。故に亦た、接の名を受けず。文に云う「不將此果接十地之因」は、即ち第三義である。是れ別を通じて接ぐ。なお通の七地八地を因と為すが故に、十地の八相を称して果と為す。豈に此の果を將ちて、却って別教十地の已に十品を破る因を接がんや。此の因は自ら妙覚の果に趣く。豈に却って一品の果に趣くべけんや。もし初地を接がん。初地は復た已に一品を破るに同じ。既に優劣無く、何ぞ接ぐを須いん。況んや、還って別を以て別を接ぐことを成す。別の地前を接ぐは、自ら円教の妙覚の果、または別教の妙覚の果を用う。何ぞ此の一品の果を用うるを須いん。況んや此の教の初地は果に非ず。当教の妙覚は、本より此の果を望みて信心を生ず。何ぞ此に至りて接ぜらるると云うことを須いん。「不接十住」というは、別教の十地は十品を破ると雖も、なお教道を帯ぶ。尚、接ぐを須いず。況んや一つの品破る八相を將ちて、却って円教の十住の位を接がんや。顛倒の義も亦た十地に同じ。第四義は、即ち文中に「唯得以別接通」と云う。則ち是れ別理が通理を接ぐ。故に今の文の意は、須らく観を修して進んで無明を破るべし。但中と不但中の別を分かたず。故に知る、地を語ることは已に住を含む。豈に初住有りて、更に十住を接がん。今の文、重ねて「不接十住」と云うが故に、円を接がず、なお別教の教道を存す。玄文は円を以て通別を接ぐとは、教証の位行の別なるが故に分かつ。今、云わざるは、証道に約するが故。ただ観に約するが故。

問う。接と不接と、何れが最たるか。答う。『四念処』に云う。接せらるる人は、土石を以て基と為し、金宝を累ねて上とするが如し。豈に下より純粋に金剛を累ねるに如かん。これは始終倶妙なることを歎ずる故に然る。もし賢位の中の諸菩薩等で、漸より来る者は、その功、尚お強し。何となれば、諸法は先に熟し、蔵理は明らかになり易ければである。例えば、位に歴て極富に居り、貧より来るが如し。故に、他方の菩薩は皆、この土の初心の菩薩が、忍苦して労を捍むことを歎ず。香積より来りて此の法を聴く者は、権法未だ熟せず、故に経遊す。

○次明得失中。初以思議不思議雙標得失。自他俱爾是故雙標。圓離性計及能化他。方名為得。若言下。出性過之相。此釋性義不殊諸文而語勢稍別。以諸文中皆約自他單說故也。如單約智秖云智自是智名自性智。由境故智名他性智。境智因緣故智名共性智。離境離智故智名無因智。若單約境準智可知。雖復單說義必雙明是故此中境智對說。今初文云不相由藉者。文似自然乃是自性。何者。智不由境是自性智。境不由智是自性境。為相對說故云不相由。故智中云智由心生。自能照境。如炬照物下。譬自性境也。若言下。他性境智。言相由而有者。文似共性乃是他生。智由於境名他性智。境由於智名他性境。為相對說故云相由譬長短相待者。亦是兩向對說為譬。長待於短如他性智。短待於長如他性境。若言境不自境下。明共性境智。文似無因乃是共性。何者。不獨由智故境。亦不獨由境故境。境智因緣故境。約智亦爾故成共生。既不專由故云不獨。亦應譬云不獨由長不獨由短。由長短故得有於長。亦由長短故得有短。如因五寸及以一尺和合方知五寸為短。和合方知一尺為長。是故境智俱名因緣。若言下。無因性也。皆不如上三種者。如云不由智故境。亦不由境故境。亦不由境智因緣故境。智亦如是。亦應譬云不由短故而有於長。不由長故而有於長。不由長短得有於長。短亦如是。如云不由五寸一尺長短。而知五寸之短。不由五寸一尺長短。而知一尺之長也。此計意欲非於前三。而所計最劣。所以者何下。釋計招過。過增苦集而失道滅。初文是集。從業生故下是苦。初集中云有四取等者。依於四句而起取著。故名依倚。有依倚故自是非他。名為愛恚。愛恚生故亦生癡慢。如是次第八十八使。故云一切。由意是非而生戲論。戲論則為諍競之本。諍競生故起於身業。轉至未來苦海無已。苦果深廣故名為海。當知下。結計成過為生死本。是故四計能為生死之本。名生死本。故龍樹下。約破性明得。伐者傾倒也。即是破也。破他生云那得相由者。亦約對破故云相由。準此破自。文亦應云諸法非自。那得不相由境智。若單說者。破自秖應云法不自生。那得自境智亦如是。破他應云法不他生。那得由智故境智亦如是。尚無自他及以共生。豈有無因。能破四性不獨破他外計而已龍樹正用此為觀法。亦是用此通申佛意。成諸教觀。而世人昧之別立觀法。誠為未可。故大經三十六。佛告須跋。汝今能觀於實相。則破一切諸有苦。須跋言。何名實相。佛言。無相之相名為實相。須跋言。何名無相之相。佛言。一切無自相亦復無他相。無自他共相亦無無因相。乃至無有一切諸相。第三十師子吼歎佛言。如來世尊破邪道。開示眾生正真路。行此道者獲安隱。是故稱佛為導師。非自非他之所作亦非共作無因作。前令須跋聞常取果。即別圓意兼於藏通。若師子吼歎如來者。唯在圓別。是故諸教皆離性執。但於所破深淺不同。諸經論中斯例甚眾。故此破性雖在衍門。三藏多觀因緣生滅。既破生滅亦無自他共等三計。況復生滅元破邪無。是故四教亦可通用。今以下。次明今家用龍樹破法。滅前苦集以成二空。性破即性空。無依即相空。空非二邊故云常一。則能見於中智般若。次以是下。不自生等以對四教。準應教教各破四性。隨義便故。欲以此四攝彼四故。故以四性對於四教。兼知四句義旨幽深。故前後文以此四句總對別對。教教各四名別對也。四句對四名總對也。復識四教因緣不同。乃至四教自然亦別。並在一念一時俱破。何者。如此方俗典有計元氣而生。即是計自。有計父母而生即是計他。有計由元氣故假於父母。即是計共。有計自然即是無因。故莊云。天其運乎。地其處乎。日月諍於所乎。孰主張是。孰綱維是。孰居無事。而推行是。莊既不達緣起之法。而亦不知誰張於天誰綱於地誰推日月。不測其業故推依報而屬自然。老計守雌自然猶薄。如此計者。欲比西方優劣天隔。故知此土昏俗計自然等。有言無行。況今文自然圓人所計。乃至自生是三藏所計。故知義異名同。善須斟酌。文中但舉初後中間準知。又第十卷釋君弱臣彊等。但以自他各對界內界外二教。如第七卷釋助道中。而以生等對四教進。但以生名與進義同。望今復別。故知隨義不可一準。今此三藏對於生生以為自者。三藏人云。境常生滅。豈關於智今境生滅。名自生境。無智而已有必生滅。亦不由境今智生滅。自生智也。以生不生為他性者。通教人云。由無生智照境無生。他性境也。由無生境發無生智。他性智也。如云諸法不生故般若不生。般若不生故諸法不生。以不生生為共性者。別教人云。由於本有理體為自。復藉緣修方便為他。真緣和合能生一切。又出假時由所化境及以大悲。內外和合方能利他。又由諸法與俗智合方能利他。以不生不生為無因者。圓教人云。不可思議非境非智若照不照境自天然。名境不生。若觀不觀智常本有。名智不生。境智冥一。假為立名。文中略引身子淨名以證初後。中間應以三乘無說以證通教。無言菩薩以證別教。一一句中皆云苦集不生者。斥前性計。有性計故苦集增長。是故今以法性觀之。求生生之自不可得故。乃至求不生不生之無因亦不可得。若當分者。即是當教證無生理。是故句句皆云不可說。雖不下。為他還作四句而說。一一悉中皆作四說。雖作下。結成二空。言如前者。具如向來始從若言下。乃至心行處滅文是也。故金光明下引證。彼四卷經第三散脂品云。不可思議智光。不可思議智炬。不可思議智行。不可思議智聚。不可思議智境。今文云照。經又云光炬聚者。秖是歎智具德耳智行者。秖是智所導行。智境者。秖是智所照境。總而言之秖是境智行三。一一皆云不思議者。明境智行更互相冥。雖復相冥。境行必由智照智導。故一一句皆云智也。今文為明智境相即。且略於行理亦應具。若破下判權實。此是不思議權實。如是下。約教以判得失。為顯不思議故也。今此初約三藏教也。即教教中皆有四性。從別義也。何以故下。釋初三藏教。故對凡夫云有四性。下之三教皆應有之。文無者略。凡有性計即屬凡夫。凡夫有計成自行失。故後三教皆約自行破性論得。又前二教聖於後同凡。若約化他有四悉者。能有化他故名為得。展轉相望。乃至圓教互為得失。別教執於真緣等四成性過者諸佛菩薩赴緣利物若執赴機不同之說。各朋己見故成性過。作此計者皆從初心。至迴向時方漸無執。至圓教中。言教證俱實者。前之兩教教證俱權。圓教教證俱皆是實。此並易明。但別教中教權證實意稍難曉。人多迷之。使此別教其義壅隔。是故今家借用地論教證二道。以消別門。於中應須先知二意。一者約行。則地前為教登地為證。何者。地前仰信登地現前。豈有親證復存隔歷。二者約說。為地前說始終屬教。何者。如云真如為惑所覆。或將十度以對十地。互不相收。或云。須離二邊修真如觀。或云。等覺入重玄門。或云。五地習學世法。或云。八地入無功用。等覺一位或有或無。斷十二品稱為妙覺。如是等例不可具載。悉是權施。為引凡下為入地方便。入地自證權門自開。故云初地即是初住入證道也。又云。初地不知二地菩薩舉足下足。若約理說。名字觀行尚自知圓。豈有初地不知二地。若云下位不測於上。圓亦展轉迭不相知。何但別人教門方便。今文非專判教優劣。但存次第及不次第。迷之尚寬。若讀玄文。善須曉此教證二道則別門可消。若依教修行彌須善識。是故今文時時略用。若不曉者。初心明理兩說不同若不識之措心無地。如云初心知理即是。或云理具萬德待行。或云解圓行須漸次。或云理有不用諸法。如此說者非別非圓非通非藏。教相不說推與何耶。何故下釋教證。無思念下。正明圓教自他之相。以明今文無失顯體。

次に得失を明らかにする。まず、思議と不思議を併せて得失を標示する。自他共にそうであるから、併せて標示するのである。円満に性の計執を離れ、他を教化できることを得という。「若し言えば」以下は、性の過失の相を示す。この性義の解釈は諸文と異ならないが、語勢が少し異なる。諸文はすべて自他について単独に説くからである。例えば智慧について単独に説くならば、「智慧はそれ自体が智慧であり、自性の智慧と名づける。境によって智慧となるので他性の智慧と名づける。境と智慧の因縁によって智慧となるので共性の智慧と名づける。境と智慧を離れて智慧となるので無因の智慧と名づける」と説く。もし境について単独に説くならば、智慧に準じて知ることができる。単独に説くとはいえ、義は必ず両方を明らかにするので、この中では境と智慧を対にして説くのである。

今、初めの文に「互いに由藉しない」とあるのは、文は自然のようであり、これは自性である。なぜか。智慧が境に由らないのは自性の智慧であり、境が智慧に由らないのは自性の境である。相対して説くので「互いに由らない」というのである。ゆえに智慧の中に「智慧は心より生じ、自ら境を照らす。例えば炬が物を照らすようなものである」と説く。以下、自性の境の譬えである。「若し言えば」以下は、他性の境と智慧である。「相由って有る」という文は、共性のようであり、他生である。智慧が境に由るのを他性の智慧と名づけ、境が智慧に由るのを他性の境と名づける。相対して説くので「相由る」というのであり、譬えに「長短相待つ」というのは、これも両方向に対して説く譬えである。長が短に待つのは他性の智慧の如く、短が長に待つのは他性の境の如くである。

「若し境は自ら境せずと言わば」以下は、共性の境と智慧を明らかにする。文は無因のようであり、これは共性である。なぜか。智慧のみによって境となるのではなく、境のみによって境となるのでもない。境と智慧の因縁によって境となるのであり、智慧についても同様であるから、共生となる。専らに由るのではないので「独りならず」という。また譬えるならば、「長のみによってでも短のみによってでもなく、長短によって長があるように、また長短によって短がある」というべきである。例えば、五寸と一尺とによって和合して初めて五寸が短いと知り、和合して初めて一尺が長いと知る。このゆえに、境と智慧は共に因縁と名づけるのである。

「若し言えば」以下は、無因の性である。皆、上の三種のようではない。「例えば、境は智慧に由らず、境にも由らず、境と智慧の因縁にも由らずして境となる。智慧もまた同様である」と説く。また譬えるならば、「短によって長があるのではなく、長によって長があるのでもなく、長短によって長があるのでもない。短もまた同様である。例えば、五寸と一尺の長短によって五寸の短を知るのではなく、五寸と一尺の長短によって一尺の長を知るのでもない」という。この計執の意図は、前三者を否定しようとするものであるが、その計執は最も劣っている。

「所以は何ん」以下は、計執によって過失を招くことを釈する。過は苦集を増し、道滅を失う。初めの文は集である。「業より生ずる故に」以下は苦である。初めの集の中に「四取等有り」というのは、四句に依って取著を起こすので「依倚」と名づける。依倚があるので自ら是とし他を非とし、愛恚と名づける。愛恚が生ずるので、また癡慢も生ずる。このように次第して八十八使となるので、「一切」という。意によって是・非とするので戯論を生じ、戯論は諍競の本となる。諍競が生ずるので身業を起こし、転じて未来に至って苦海が尽きることがない。苦果は深く広いので「海」と名づける。

「当に知るべし」以下は、計執によって過失を成し、生死の本となることを結ぶ。このゆえに四計は生死の本となり得るので、生死の本と名づける。

「故に龍樹」以下は、性を破して得を明らかにする。「伐つ」とは、倒すことである。すなわち破することである。他生を破して「那ぞ相由ること得ん」というのは、対して破するから「相由る」というのである。これに準じて自を破すれば、文もまた「諸法は自ならず、那ぞ境智慧に由らず」というべきである。もし単独に説くならば、自を破するには「法は自ら生ぜず、那ぞ自境智慧もまた同じからん」と説くべきである。他を破するには「法は他より生ぜず、那ぞ智慧によって境とならん。智慧もまた同じ」と説くべきである。尚、自・他および共生が無いのに、どうして無因があり得ようか。四性を破し得ることは、単に他の外道の計執を破るだけではない。龍樹は正にこれを観法として用いるのであり、またこれを用いて仏意を説き、諸教観を成就するのである。ところが世の人はこれを暗んじて、別に観法を立てる。誠に未だ可からず。

故に大般涅槃経第三十六に、仏が須跋に告げて言う。「汝、今よく実相を観ずれば、則ち一切の諸有の苦を破す」と。須跋が言う。「何をか実相と名づく」と。仏が言う。「無相の相を実相と名づく」と。須跋が言う。「何をか無相の相と名づく」と。仏が言う。「一切は自相無く、また他相無し。自・他・共の相無く、また無因の相無し。乃至一切の諸相有ること無し」と。第三十に、師子吼菩薩が仏を歎じて言う。「如来世尊は邪道を破し、衆生に正真の路を示す。此の道を行ずる者は安穏を得。是の故に仏を称して導師と為す。自に非ず、他に非ずの所作、また共作に非ず、無因作に非ず」と。前に須跋に常果を取らしめたのは、即ち別円の意であり、蔵通を含む。もし師子吼菩薩が如来を歎ずるのは、唯、円・別に在る。このゆえに、諸教は皆性執を離れるが、破するところに深浅の違いがある。諸経論の中に、この例は非常に多い。故にこの性を破することは、雖も衍門に在るとはいえ、三蔵は多く因縁生滅を観ずる。生滅を破すれば、自・他・共等の三計も亦無い。況や生滅は元より邪無を破するもの。このゆえに四教にも通用し得るのである。

今、以下は、今の家が龍樹の破法を用いて、前の苦集を滅し二空を成すことを明らかにする。性を破するのは即ち性空であり、依り無きは即ち相空である。空は二辺に非ずなので「常に一なり」といい、則ち能く中智の般若を見る。

「次に、是を以て」以下は、「自生せず」等を以て四教に対す。準ずれば、各教において四性を破すべきである。義の便に随って、この四をもって彼の四を摂することを欲するからである。故に四性をもって四教に対する。兼ねて四句の義旨が幽深であることを知る。このゆえに前後の文は、この四句を総対・別対する。教々各四を別対と名づけ、四句を四教に対するを総対と名づける。また、四教の因縁が同じではないことを識り、乃至四教の自然もまた別なることを識る。併せて一念において一時にすべて破す。なぜか。この地方の俗典には、元気によって生ずると計るものがある。これは自を計るものである。父母によって生ずると計るものは、他を計るものである。元気によって父母を仮りると計るものは、共を計るものである。自然を計るものは、無因である。故に荘子は言う。「天は其れ運ぶか。地は其れ処るか。日月は争うか、其の所に。誰か是を主張し、誰か是を綱維し、誰か無事にして、而も是を推し行くか」と。荘子は縁起の法に達せず、また誰が天を張り、誰が地を綱り、誰が日月を推すかを知らず。その業を測らないので、依報を推して自然に属する。老子の計る守雌の自然もなお薄い。かくの如き計りは、西方に比すれば優劣は天を隔つ。故に知る、この土の昏俗の計る自然等は、言有りて行無し。況や今文の自然は、円人の計る所である。乃至自生は、三蔵の計る所である。故に知る、義は異なれども名は同じ。善く斟酌すべきである。文はただ初めと後とを挙げ、中間は準じて知るべし。

また第十巻に君弱臣彊等を釈するには、ただ自・他を以て各々界内・界外の二教に対す。第七巻の助道を釈する中に、生等を以て四教に対する。ただ生の名を以て進と義同じ。今に望めばまた別なり。故に知る、義に随って一準にすべからず。今この三蔵を生生に対するのは、自とする所以は、三蔵人は「境は常に生滅す。豈に智に関するや」と言う。今、境の生滅を自生の境と名づく。智なくして有ることなく、有れば必ず生滅す。また境に由らずして、今、智の生滅を自生の智と名づく。

生・不生を以て他性とするのは、通教人は「無生の智によって境の無生を照らす。他性の境なり。無生の境によって無生の智を発す。他性の智なり」と言う。例えば「諸法は生ぜざるが故に般若は生ぜず。般若は生ぜざるが故に諸法は生ぜず」と言うが如し。

不生・生を以て共性とするのは、別教人は「本来の有の理体を自と為し、また縁修の方便を他と藉るに由る。真と縁と和合して、能く一切を生ず」と言う。また、出仮する時は、所化の境および大悲に由って、内外和合して始めて他を利し得る。また、諸法と俗智と合するに由って、始めて他を利し得る。

不生生を以て無因とするのは、円教人は「不可思議にして、境に非ず智に非ず。照らすと照らさざると、境は自ら天然なり。これを境の不生と名づく。観ずると観ぜざると、智は常に本有なり。これを智の不生と名づく。境と智とは冥して一なり。仮に名を立てるなり」と言う。

文に略して、身子と浄名とを引きて初めと後とを証す。中間は、三乗の説無しを以て通教を証すべきである。無言の菩薩を以て別教を証すべきである。一句一句の中に、皆「苦集は生ぜず」と言うのは、前の性計を斥す。性計があるが故に苦集は増長する。このゆえに、今、法性を以て観じて、生生の自すら得べからざることを求む。乃至、不生生の無因もまた得べからざることを求む。もし当分ならば、即ち当教の証無生の理なり。このゆえに句句、皆「不可説」と云う。

「雖も」以下は、他の為に還って四句を作して説く。一一の悉檀の中に、皆四説を作す。

「雖も作すと雖も」以下は、二空を結成す。「如く前に」とは、具に始め「若し言えば」より、乃至「心行処滅」の文に至るまで、如くである。

「故に金光明」以下は、証を引く。彼の四巻経の第三、散脂品に言う。「不可思議の智光、不可思議の智炬、不可思議の智行、不可思議の智聚、不可思議の智境」と。今の文は「照」と言う。経には又「光、炬、聚」と言う。ただ智の徳を具すことを歎ずるのみである。「智行」とは、ただ智の所導く行である。「智境」とは、ただ智の所照らす境である。総じて言えば、ただ境・智・行の三つである。一一に皆「不思議」と言うのは、境と智と行とが更に互いに冥することを明らかす。復た相い冥すといえども、境・行は必ず智の照らし導くに由る。故に一句一句に皆「智」と云うのである。今の文は、智と境と相即することを明らかにする為に、且つ、行を略す。理には亦、具すべきである。

「若し破す」以下は、権実を判ずる。これは不思議の権実である。

「是くの如く」以下は、教を約して得失を判ずる。不思議を顕さんが為である。今、この初めは三蔵教を約する。即ち、教教の中に皆四性有り。別義に従うなり。

「何を以ての故に」以下は、初めの三蔵教を釈す。故に凡夫に対して「四性有り」と云う。下の三教は皆、之れ有るべきである。文に無きは略なり。凡そ性計有れば、即ち凡夫に属す。凡夫に計有れば、自行の失を成す。故に後の三教は皆、自行を約して性を破し、得を論ずる。また、前の二教は聖と雖も、後の凡夫と同じ。

もし、化他を約して四悉有れば、能く化他有るを以て「得」と名づく。展転して相望めば、乃至、円教に至るまで互いに得失と為す。

別教が真・縁等の四を執して性過を成すのは、諸仏菩薩が機に赴きて物を利するに、もし、機に赴くこと同じからざるの説を執すれば、各々己見を朋として性過を成すのである。此の計を作すは、皆、初心より起る。回向の時に至りて、漸く執を無くす。

円教の中に「教証俱に実なり」と言うは、前の二教は教証俱に権なり。円教の教証俱に皆是れ実なり。此れ並びに易く明らかなり。但、別教の中に、教は権、証は実と謂う意、稍や解し難し。人多、之れに迷う。此の別教の其の義、壅塞す。是の故に、今家、借りて地論の教証二道を用いて、別門を消す。

其の中に於て、須らく先ず二意を知るべし。 一には、行を約すれば、則ち地前は教と為し、登地は証と為す。 何となれば。地前は仰信し、登地は現前す。豈に親証有りて、復た隔歴を存せんや。 二には、説を約すれば、地前の為に説くこと、始終、教に属す。 何となれば。例えば、真如は惑に覆はれたりと云い、或は十度を以て十地に対す。互いに相い収めず。或は云く、須らく二辺を離れて真如の観を修すべし。或は云く、等覚は重玄門に入る。或は云く、五地は世法を習学す。或は云く、八地は無功用に入る。等覚の一位は、或は有り、或は無し。十二品を断じて、妙覚と称す。是くの如き等の例は、具に載す可からず。悉く是れ権施にして、凡下を引く為、入地の方便と為す。入地すれば、自ら証し、権門自ら開く。故に云く、初地即ち是れ初住の、証道に入るなり。又云く、初地は二地菩薩の、足を挙げ、足を下すを知らず。若し理を約して説かば、名字観行すら尚、自ら円を知る。豈に初地有りて、二地を知らざらんや。若し下位は上を測らずと云わば、円も亦、展転して迭に相い知らず。何ぞ但だ別人の教門方便のみならん。

今の文は、専ら教の優劣を判ずるに非ず。但、次第及び不次第を存す。之を迷うこと尚、寛し。若し玄文を読まば、善く此の教証二道を暁すれば、則ち別門は消し得べし。若し教に依りて修行せば、弥よ須らく善く識るべし。是の故に今の文、時時に略して用う。若し暁せざれば、初心が理を明らむるに、両説在りて同じからず。若し識らざれば、心を措く地無し。例えば、初心、理を知れば即ち是なりと云い、或は理、万徳を具し、行を待つと云い、或は解は円なれど、行は須らく漸次なるべしと云い、或は理有れば、諸法を用いずと云う。是くの如く説く者は、別に非ず、円に非ず、通に非ず、蔵に非ず。教相は説かず、推して何れの耶に帰せん。

「何の故ぞ」以下は、教証を釈す。

「思念無く」以下は、正しく円教の自他・之の相を明かす。以て今の文、失無く、体を顕すことを明かす。

○次明攝法中初明來意立疑。次今則下釋中。先總釋。不以名略令體不周。何者下釋也。止觀各以一喻喻之。如炙得一穴治一切病。如得如意珠名為珠王。故大經三十一云。猶如醫方悉為治病於一名下說無量義。或於一義說無量名。云何一名說無量義。如大涅槃。亦名無生無出。無作歸依。窟宅解脫燈明無畏。彼岸等。大品下引證中。既云一切皆學及一切入中。當知止觀攝一切法。已如前引。今更下。開章別釋。實體止觀以為能攝。事理等六以為所攝。所從於能故云攝法。雖辨偏圓次不次等。但明實體所攝法遍。豈所攝差降令體分張。且如成論三藏一門。止觀品中先設問云。佛諸經中告諸比丘。一切皆應修行二法。所謂止觀。問。一切須修何但二法。答。止名定觀名慧。一切善法此二攝盡。乃至散心聞思等慧亦在此中。以此二法能辨道法故也何者。止能遮結觀能斷滅。止如手捉觀如用鎌。止如掃帚觀如除去。止如揩垢觀如清水。止如水浸觀如火熟。止制掉心觀起沒心。乃至多義不能具記。此中列章理乃至教。具依彼論六重義門。雖大小不同能詮名等。名通義別即此意也。他謂成論義通大乘。今問何如華嚴大品大集。生起文相可見。從事理下。略示向列六章攝相。略以事等攝於六章。初事即攝五章。理但是理也。解即是智。位通因果。因復攝於理惑智行。教他但他餘並是自。自行化他因果攝盡。此之六章。文六義二。各有次第及不次第。意唯在一。同是圓頓止觀攝故。一以下解釋也。初文別釋。義當次第及不次第。次文相攝。唯不次第義當開顯。初別釋中初言理者。理不出二秖是權實。開為四者約能詮教。今約所詮是故但二。縱隨教相亦不出二。次攝惑中。亦約向理以辨於惑。故約迷於權實二理。以辨惑體通別不同。迷理之本所謂無明無明以為因緣之首。故通別惑並約因緣。初釋迷於權理。十二緣中言獨頭者。婆沙云。不共無明不與使俱。問。亦有不共掉纏等耶。答無也。人謂既有不共無明。亦應合有不共掉等。一切染等盡有無明。唯有無明獨有不共。故法華中。以蜈蚣等用喻獨頭。以𮙩貍等喻於相應。此等但喻二癡不同。不見更有獨頭掉等。受所喜樂者。樂字(五孝切)是十二下。束十二緣以為三道。十二因緣輪轉相生。是故三道亦輪轉相生。大論第二。十二因緣論。婆沙。十地經等並同。俱舍云。三煩惱二業七事亦名果略果及略因。由中可比二。從惑生惑業從業生於事。從事事惑生。有支理唯此。初四句是以略攝廣。故論云。應知緣起雖有十二而二三為性。三謂惑業事。二謂因果。就中又二。初兩句正明相攝。下兩句釋妨。妨曰。何故過未略而現在廣。釋曰。由中可以比知現在名中故也。次從惑生惑謂愛生取從惑生業謂取生有。及無明生行。從業生事謂行生識。及有生生。從事事惑生者謂從事生事。即識生名色。乃至生受。從事生惑。謂受生愛。成論云下。次引論證三道相。問。三障三道但苦與報二名則別。業與煩惱二則同者何耶。答。苦是報家之苦。亦報即是苦。故知名異義同。問。三名既同障之與道二名不同者何。答。能蔽聖道故名為障。展轉互通故名為道。並從過患功能立名。今十二輪為三道者。能通與輪轉義同故。又與成論同也論名業道業必以煩惱為能通。必以當苦為所通。文雖舉業義已具三。故得引證。故論十不善業道品問云。何名業道。答。意即是業於中行故。故名業道。前行後三中。後行前七中三是業非道。七亦業亦道。此是具錄論文。人未見論。秖見續在十二緣後。便作十二因緣釋之。甚不可也。今先銷論文。次會三道。論品雖題名業道品。今文引用意通三道。意即是業者意地思也。於中行者。行身等也。故知身等為意所行。名為業道。業之道故業即道故。名為業道。前行等者辨起先後。將教所列對起先後。文列次第身口居先。意三居後。起之次第。意三在先。身口居後。先起意地故云前行。文列在後。故云後三。後動身口。故云後行。文列在前。故云前七。中字但是助句而已。云在此七及三中耳。亦如五陰文列與起麁細更互。四諦因果亦復如是。然論文意。三是業非道者。非身口故。亦業亦道者。身口二業為意業所行故。復名為道。今文義立意為能通。亦得名道。是故後三通至身口。故云而能通七。前七是業復為意行。是故論云亦業亦道。今文前七復立二義。一是所行。如論文意。故云是業復是道。二是能通。通至後世故復名道。意三即煩惱道。行於身口即煩惱通業。業至後世即業通苦。故知正用成論三業。以釋三道。引論釋成其意在此。牽連等者。增一第四十。佛自看比丘病。因責諸比丘言。汝為何事而出家耶。為畏王等。為欲捨於十二牽連。三世繫續故名牽連。十二論等並大瓔珞文展轉不窮猶如車輪。束縛下釋名。三世下。結成攝法。若迷實理下。次明界外十二因緣。先對小辨異。界外亦有相應獨頭。而與界內其體永異。即障中道相應獨頭。亦是與界外見思諸使合者。名為相應。直爾障理名為獨頭。言相應者。如云自此已前皆名邪見。又等覺已來修離見禪。此即界外同體見也。方便實報二土五塵。為界外思。如此見思必有無明。名為相應。次依論釋相。故今文中引寶性論。顛倒即是無明獨頭。顛倒是相應。即二無明也。三種意生身中。三種俱名意生身者。楞伽大慧問佛。何名意生。佛言。譬如意去。速疾無礙。名為意生。此即從譬。故彼生身譬如意去。彼經兩義而釋通名。初云。如十萬由旬外憶先所見。念念相續疾至於彼。次云。如幻三昧力憶本願故。生諸聖中。初云憶處。次云憶願。二義並是意憶生故。名為意生。今山門家作意生故。名為意生。經即云憶。憶即作意。是故義同。次第四卷釋三別名。初無常品云。意生三種。一入三昧樂意成身。亦云正受。即三四五地心寂不動故也。二覺法自性意成身。即八地中普入佛剎。故以法為自性。三種類俱生無作意成身。謂了佛證法。成之與生並從果說。此約通教及以別接。竪判次位。今家玄文並云在前三教者。以通諸教釋義故也。既云八地是覺法自性。驗知初文雖云五地。亦兼七地。即入空位也。八地即當入假位也。種類俱生云了佛證法。即是入中。屬佛種類未必自證。若接入別七地已前入別十住。八地已去接入十行。知佛證法是入迴向。並非證道故名意生。仍本為名兼不接者。共結此位故並云地。三昧樂意尚攝三藏二乘之人。況通二乘。今家玄文判楞伽經意生之位。以劣而攝於勝。故指二乘等以攝通別。若對別位未攝證道。是故但從地前判位。故知今判與經意同。經文未攝別位為異。言五種者約開合耳。名唯有三義開成五。於三昧正受。開出三藏二乘。於覺法中開出別教十行。若作七種兩教二乘各開為二。別教十住義仍同於通教入空。故下文云。凡有多種。若論九人生方便中。則取圓教六根淨位攝入三種意生身中。亦應可解。以並未斷無明未生實報。玄文不云攝入三者。以觀勝故且置不論。又意生之名宜在教道。三種意因移等者。因移果易從下生上。束此下依論束為三道。此十下辨同異。此惑下結成攝法。並如文。料簡中云及通菩薩等者。等取別教十住。塵沙雖不潤生等者釋疑。疑云。界外潤生正由無明。既不由塵沙何須先斷。釋曰。障化道故。故須先斷。為真化方便。故先斷此惑。斷已方能。進修中觀。破實報中相應獨頭。塵沙為枝無明為本。探說後位故云皆去。故知假觀正攝得塵沙等者。三種生身中。初人既於彼界能斷塵沙。故云正攝。破塵沙已必能進破無明。故名亦攝。若別論者。無明始終。自為中觀所攝。言若別圓二人等者。約相攝說故取圓人。此中正意論於覺法種類二人。別惑之名義兼無明。故云被伏。若單論塵沙界內已斷。何須論伏。故於界外但修中觀破彼無明。故云三道。從斷位說故云初地。既但云地故知意生且論權位。若不爾者。豈圓六根更入別地。二十智者在玄義智妙中列。謂三藏有七。一世智。二外凡。三內凡。四四果。五支佛。六菩薩。七佛果。通教有五。一四果。二支佛。三入空菩薩四出假菩薩。五佛果。別教有四。一十信。二三十心。三十地。四佛果。圓教有四。一五品。二六根。三四十心四佛果。彼文三佛同在後列者。同是有教無人實果久滿。如此列者且據大分。未為委悉。亦為三觀所攝者。三觀攝之有通有別。通者藏通十智空攝。別教假攝。圓教中攝。別者。藏通二乘。通教入空菩薩。別教十住菩薩。乃至藏通兩佛智。亦為空觀所攝。三藏菩薩智。通教出假菩薩智。別教行向菩薩智。並為假觀所攝。別教初地已去智。中觀所攝。此則次第三觀攝。圓教智即為一心三觀所攝。若且從一往據位說者。圓教六根智七信已前。亦為空觀所攝。八信已上亦為假觀所攝。初住已上但為中觀所攝。前三教智若開權顯實。無復次第。若得此意。一期佛教所明諸智並為三觀攝盡。是故止觀攝一切智。次攝一切行者。不出正助。故歷四教皆明二行。毘婆舍那等者。引證正助。大經二十七云。若言毘婆舍那破煩惱者。何故復修奢摩他耶。今明以定助慧者。且舉須助是故引之。其實定慧俱是正修。慈等事觀方名為助。四教相望。皆總以前助於後教。自行既爾。說及化道亦復如是。亦以三觀攝四教行。正助下明智導行。故前兩教束為空行。別教為假。圓教為中。藏通如文。假觀中言俗理者。緣於俗諦恒沙三昧。言俗事者。緣眾生病及神通等利生之事。中觀中云皆摩訶衍者。具如大品廣乘品。於中善簡通別之相方應今文。十二因緣即佛性者。即三佛性。大經二十五云。無明有愛是二中間。即是中道。如是中道能破一切生死。是則應破二死三道成三佛性。具如第九約十二緣明十乘中說。從復次下。廣明諸教正助行相。始自有漏終于圓極。尋文可見。初明事禪。次四念下。入空行法。四意止者。秖是四念處。仁王經中名四意止。四境止心故名為定。三十七品至陰境十乘中說。四諦中三是有為者。苦集是有為有漏。道諦是有為無漏。雖漏無漏而通屬有為。十六行者。論文廣明。今略出行相。苦下四行。謂無常苦空無我。觀陰緣生念念生滅故無常。為無常所逼故苦。一相異相不可得故空。我我所不可得故無我。集下有四。謂集因緣生。有漏和合能招苦果。故名為集。觀於六因能生苦果。故名為因。觀於四緣能生苦果。故名為緣。還受後有苦。故名為生。滅下四行者。謂盡滅妙離。一切苦盡故名為盡。諸煩惱滅故名為滅。一切第一故名為妙。超過生死故名為離。道下四行者。謂道正迹乘。能至涅槃故名為道。非顛倒法故名為正。聖人行處故名為迹。運至三脫故名為乘。新經論名與此稍別。舊云空。新云不淨。舊云盡。新云靜。舊名正。新云如。舊云迹。新云行舊云乘。新云出餘名並同大意可見。婆沙云。苦時亦見無常空無我。何故但說苦。答。亦應說見無常等也。不說者有餘之義。復次若說苦即是說餘。復次苦唯在苦。無常通三諦空無我通一切法。餘三諦下行相。各有料簡亦爾。四弘下。入假行法。十八不共法。至下助道中說。今但對當而已。已對九法餘九法闕。謂無異想。無不定心。無不知已捨。並止攝。欲精進念慧解脫解脫知見無減。並應觀攝。三三昧三解脫至第七卷說。六度如隨自意及助道中說。乃至下。入中行法。九種大禪並在地持。法界次第中略釋。依彼略出名數。一自性禪。於聞思前一心修止觀。或止觀同類法。

○次に、摂法について明らかにします。最初に、来意と疑いの立て方を説明します。「今は則ち」以下の解釈では、まず総体的に説明します。名が簡略だからといって、体が周遍しないわけではありません。「何者」以下の部分で説明しています。止観はそれぞれ一つの譬えで喩えられます。一つの穴を炙って全ての病を治すようなもの、如意宝珠を得て珠王と名付けるようなものです。故に『大般涅槃経』第三十一巻に「医方が全て病を治すために、一つの名の下に無量の義を説き、或いは一つの義に無量の名を説く」とあり、「云何が一名にして無量義を説くや」と説かれています。例えば大涅槃は、無生、無出、無作、帰依、窟宅、解脱、燈明、無畏、彼岸などとも名付けられます。

『大品般若経』以下の引用証明では、「一切皆学び、一切に入る」と既に説いているので、止観が一切の法を摂することを知るべきです。これは既に前に引用した通りです。「今更に」以下の部分で、章を開いて別に解釈します。実体たる止観を能摂とし、事理等の六を所摂とします。所は能に従うので「摂法」と言います。偏円・次不次等を弁じるとはいえ、ただ実体の止観が摂する法が遍満することを明らかにするのです。どうして所摂に差別があるからといって、体が分断されることがありましょうか。

例えば『成実論』の三蔵の一門です。止観の品の中で最初に問いを設けて、「仏の諸経の中で比丘たちに告げた。一切は皆二つの法を修行すべきである。所謂止観である」とあります。問い:一切が修すべきなら、なぜ二法だけなのか。答え:止は定と名付け、観は慧と名付ける。一切の善法はこの二つで尽くされる。散心の聞思等の慧もまたこの中にある。この二つの法は道法を弁ずることができるからである。何となれば、止は結を遮り、観は断滅する。止は手で捉えるようであり、観は鎌を使うようである。止は箒のようであり、観は除去するようである。止は垢を擦るようであり、観は清水のようである。止は水に浸すようであり、観は火で熟すようである。止は掉り動く心を制し、観は起き没する心を観る。多くの義があり、全てを記すことはできない。

この中で章を列挙するのは、理から教に至るまで、その論の六重の義門に依っています。大小は異なるけれども、能詮の名等は同じです。名は通じ義は別なる、これがその意です。他者は『成実論』の義は大乗に通じると言います。今問います、『華厳経』『大品般若経』『大集経』に比べてどうなのか。生起は文相から見て取れます。

「事理より下」の部分で、先に列挙した六章の摂相を略示します。略して事等で六章を摂します。初めに事は五章を摂します。理はただ理だけです。解はすなわち智です。位は因果に通じます。因は更に理・惑・智・行を摂します。教他は他だけで、その他は全て自です。自行・化他は因果を尽くして摂します。この六章は、文は六で義は二です。それぞれに次第及び不次第があります。意はただ一つにあり、同じく円頓止観に摂せられるからです。

「一より下」は解釈です。最初の文は別解で、義は次第及び不次第に当たります。次の「文相摂」は、ただ不次第のみで、義は開顕に当たります。

最初の別解で、初めに「理」と言うのは、理は二つを出ず、ただ権実だけです。四に開くのは能詮の教によるからです。今は所詮によって、故にただ二つです。たとえ教相に従っても二つを出ません。

次に「惑を摂する」中で、また先の理によって惑を明らかにします。故に権実二理に迷うことによって、惑の体の通別不同を明らかにします。迷いの本は、所謂無明であり、無明は因縁の首となります。故に通別の惑は、共に因縁によります。最初に権理に迷うことを釈します。十二縁の中で「独頭」と言うのは、『婆沙論』に「不共無明は使と俱にならず」とあります。問い:不共の掉・纏などもあるのか。答え:ない。人は不共無明があるならば、不共の掉などもあるべきだと言う。しかし一切の染等には全て無明が尽くあるが、無明だけが独り不共がある。故に『法華経』では、蜈蚣などで独頭を喩え、𮙩貍などで相応を喩えている。これらはただ二つの癡の異なることを喩えるだけで、更に独頭の掉などがあるのを見ない。

「受所喜楽」の「楽」の字〈注:五孝切〉は、十二以下の部分で、十二縁を束ねて三道とします。十二因縁は輪転して相生するので、故に三道もまた輪転して相生します。『大智度論』第二巻、十二因縁論、『婆沙論』、『十地経』などは全て同じです。『倶舎論』に「三煩悩・二業・七事、亦た名づけて果と為す。略果及び略因、中に由りて二を比ぶ可し」とあります。「惑より惑を生じ、業より事を生じ、事より事・惑を生ず、有支の理は唯だ此のみ」という四句は、最初の四句は略をもって広を摂しています。故に論に「縁起は十二有りと雖も、二三を性と為す」とあります。三とは惑・業・事であり、二とは因果です。就中また二つあり、最初の二句は正に相摂を明かし、下の二句は妨げを釈します。妨げとは「何故、過去未来は略して現在は広いのか」という問いに対する答えで、「中に由りて現在の名を比知することができるからである」と釈します。

次に「惑より惑を生ず」とは、愛より取を生ずることであり、「惑より業を生ず」とは、取より有を生ずることであり、及び無明より行を生ずることです。「業より事を生ず」とは、行より識を生ずることであり、及び有より生を生ずることです。「事より事・惑を生ず」とは、事より事を生ずることであり、即ち識より名色を生じ、乃至、受を生ずることであり、事より惑を生ずるとは、受より愛を生ずることです。

「成論に云く」以下の部分で、次に論を引いて三道の相を証明します。問い:三障と三道は、ただ苦と報の二名が別なるだけで、業と煩悩の二は同じなのは何故か。答え:苦は報家の苦であり、報即ち苦である。故に名は異なり義は同じであることを知る。問い:三名が同じなのに、障と道の二名が異なるのは何故か。答え:聖道を蔽うことができるので障と名付け、展転して互いに通ずるので道と名付ける。共に過患と功能によって名を立てる。今、十二輪を三道とするのは、能通と輪転の義が同じだからである。また『成実論』と同じである。

論に「業道」と名付けるのは、業は必ず煩悩を能通とし、必ず当来の苦を所通とする。文は業を挙げるが、義は既に三を具えている。故に証明として引くことができる。故に論の十不善業道品に問うて「何を名づけて業道と為すや」とあり、答えは「意は即ち是れ業、其中に行く故に、業道と名づく」とある。「前行」は後三であり、「後行」は前七であり、中三は業にして道に非ず、七は亦た業にして亦た道なり。これは論の文を書き写したものだが、人が論を見ず、ただ十二縁の後に続いているのを見て、十二因縁として解釈するのは、甚だ不可である。今、先に論の文を解きほぐし、次に三道に会する。

論の品は、題は業道品とあるが、今の文の引用の意は三道に通じる。「意は即ち是れ業」とは、意地の思である。「其中に行く」とは、身等に行くことである。故に身等は意の行く所となり、業道と名付けられることを知る。業の道なる故に、業即ち道なる故に、業道と名付ける。「前行」等は、起こる前後を明らかにする。教に列挙される順序と、起こる前後を対照する。文に列挙される次第は身口が先、意三が後である。起こる次第は、意三が先、身口が後である。先に意地が起きるので「前行」と言い、文に列挙されるのが後なので「後三」と言う。後に身口を動かすので「後行」と言い、文に列挙されるのが前なので「前七」と言う。「中」の字はただ助辞である。七及び三の中にあるという意味である。また五陰も、文の列挙と起こる粗細が互いに異なる如く、四諦の因果もまた同じである。

然るに論の意は、「三は業にして道に非ず」とは、身口に非ざる故である。「亦た業にして亦た道」とは、身口の二業は意業の行く所となる故で、また道と名付けられる。今の文の義は、意を能通と立て、また道と名付けることができる。故に後三は身口に通ずるので、「而も七を通ずる能わず」とあり、前七は業であり、また意の行く所となるので、論に「亦た業にして亦た道」とある。今の文の前七には、また二義を立てる。一つは所行であり、論の意の如くである。故に「是れ業にして復た是れ道」という。二つは能通であり、後世に通ずるので、また道と名付ける。意三は即ち煩悩道であり、身口に行くのは即ち煩悩が業に通ずることである。業が後世に至るのは、即ち業が苦に通ずることである。故に正に『成実論』の三業を用いて、三道を解釈することを知る。論を引いて解釈を成立させる意は、ここにある。

「牽連」等は、『増一阿含経』第四十巻に、仏が自ら比丘の病を見て、諸比丘を責めて「汝等、何の為に出家したのか。王等を畏れてか、十二の牽連を捨てんが為か」とある。三世に繫続するので牽連と名付ける。十二論等は、全て『大瓔珞経』の文で、展転して窮まらず、車輪の如しとある。

「束縛」以下の部分は名を解釈し、「三世」以下は摂法を結成する。

「若し実理に迷う」以下の部分は、次に界外の十二因縁を明らかにする。先に小乗と異なることを明らかにする。界外にも相応・独頭があるが、界内とその体は永遠に異なる。即ち中道を障げる相応・独頭である。また界外の見思諸使と合するものを相応と名付け、直接理を障げるものを独頭と名付ける。「相応」と言うのは、「此れより已前を皆名づけて邪見と為す」の如くであり、「又、等覚より已来、離見の禅を修す」などは、即ち界外の同体の見である。方便・実報の二土の五塵は、界外の思である。このような見思には必ず無明があり、相応と名付ける。

次に論に依って相を釈するので、今の文では『宝性論』を引く。顛倒は即ち無明独頭であり、顛倒の相応は、即ち二無明である。

三種意生身の中、三種俱に意生身と名付けるのは、『楞伽経』で大慧が仏に問う「何を意生と名づくるや」に対し、仏が「譬えば意の去くが如く、速疾にして無礙なるを、意生と名づく」と答える。これは譬えによるものである。故に彼の生身は意の去くに譬えられる。同経には二義をもって通名を釈している。初めに「十万由旬の外、先に所見を憶い、念念相続して疾く彼に至るが如し」とあり、次に「幻三昧の力、本願を憶うが故に、諸聖の中に生ず」とある。初めは所憶の処、次は所憶の願である。二義とも意が憶う故に生ずるので、意生身と名付ける。今の山門家(天台宗)は、作意をもって生ずる故に、意生身と名付ける。経は即ち憶うと言うが、憶うは即ち作意である。故に義は同じである。

次に、第四巻で三種の別名を釈している。初めに無常品に「意生に三種有り。一に入三昧楽意成身、亦た正受と名づく。即ち三四五地、心寂にして動ぜざる故なり。二に覚法自性意成身、即ち八地の中、普く仏剎に入る。故に法を以て自性と為す。三に種類俱生無作意成身、謂く仏の証法を了す。成と生とを、倶に果に従って説く」とある。これは通教及び別教に接続する教えにより、縦に位の次第を判じる。今の天台宗の玄義の文は、皆「前三教にあり」と言うのは、諸教に通じて義を釈するからである。既に「八地は是れ覚法自性」と言うなら、初めの文に「五地」と雖も、七地も兼ねることを証する。即ち入空の位である。八地は即ち入仮の位に当たる。種類俱生に「仏の証法を了す」と言うのは、即ち入中であり、仏の種類に属するので、必ずしも自ら証するとは限らない。もし別教に接続するなら、七地以前は別教の十住に入り、八地より已上は十行に接続する。仏の証法を知るは、是れ回向に入ることであり、証道に非ざるが故に、なお意生と名付ける。なお本を以て名とし、接続しない者を兼ねて、共にこの位を結ぶので、皆「地」と言う。三昧楽は、尚も三蔵の二乗を摂する。況や通教の二乗をや。今の天台宗の玄義の文は、『楞伽経』の意生の位を判じて、劣を以て勝を摂する。故に二乗等を指して、通別を摂する。もし別位に対すれば証道を摂さず。故にただ地前から位を判ずる。故に今の判じるところは経の意と同じであることを知る。経の文が別位を摂さないことが異なる。

「五種」と言うのは、開合による。名は三つのみであるが、義を開いて五となる。三昧正受の中に、三蔵の二乗を開き出す。覚法の中に、別教の十行を開き出す。もし七種とするなら、両教の二乗は各々二つに開かれる。別教の十住は、義はなお通教の入空と同じである。故に下の文に「凡そ多種有り」と言う。もし九人が方便に生ずるを論ずるならば、円教の六根浄位を取って、三種意生身の中に摂入する。また解すべきである。未だ無明を断ぜず、未だ実報に生ぜざるが故に、玄義の文に摂入を言わないのは、観が勝るが故で、暫く置いて論じない。また意生の名は、教道にあるのが宜しい。

「三種意、因移る」等は、因を移し果を易え、下より上に生ずることである。

「束此」以下の部分は、論に依って束ねて三道とする。「此十」以下の部分は、同異を明らかにする。「此惑」以下の部分は、摂法を結成する。文の如し。

料簡の中に「及び通菩薩等」と言うのは、等しく別教の十住を取る。塵沙は、潤生せざる等の部分は、疑いを解く。疑いとは「界外の潤生は正に無明による。既に塵沙に由らざるに、何ぞ先ず断ずるを須いん」ということ。解釈:「化道を障げるが故に、故に先ず断ずるを須う。真化の方便のために、先ずこの惑を断ず。断じ已れば方能く、進んで中観を修し、実報中の相応独頭を破す」。塵沙は枝であり、無明は本である。後の位を探り説くので「皆去る」と言う。故に仮観は正に塵沙等を摂することを知る。三種生身の中、初人の彼の界に於いて塵沙を断ずる能うが故に「正摂」と言う。塵沙を破し已れば、必ず能く進んで無明を破すが故に「亦摂」と言う。別に論ずれば、無明は始終、自ら中観に摂せられる。「若し別円の二人等」と言うのは、相摂について説くので、円人を取る。此の中の正意は、覚法・種類の二人について論ずる。別惑の名は、義は無明を兼ねるので「被伏」と言う。もし単に塵沙ならば、界内已に断ず。何ぞ伏を論ずるを須わん。故に界外に於いては、ただ中観を修して彼の無明を破すが故に「三道」と言う。断位から説くので「初地」と言う。但だ「地」と言うが故に、意生は且く権位について論ずることを知る。もし然らずんば、豈に円教の六根が更に別地に入らんや。

二十智者、玄義の智妙の中に列挙する謂く、三蔵に七あり。一世智、二外凡、三内凡、四四果、五支仏、六菩薩、七仏果。通教に五あり。一四果、二支仏、三入空菩薩、四出仮菩薩、五仏果。別教に四あり。一十信、二三十心、三十地、四仏果。円教に四あり。一五品、二六根、三四十心、四仏果。彼の文に三仏は同じく後に列するのは、共に有教無人実果久満の義による。このように列するのは、且く大分によって未だ委悉ならず。また三観に摂せらる者是れ、三観の摂するに通別有り。通ずる者は、蔵通の十智は空に摂せられ、別教は仮に摂せられ、円教は中に摂せられる。別する者は、蔵通の二乗、通教の入空菩薩、別教の十住菩薩、乃至蔵通の両仏の智も、また空観に摂せられる。三蔵菩薩の智、通教の出仮菩薩の智、別教の行向菩薩の智、並びに仮観に摂せられる。別教の初地より已上の智、中観に摂せられる。これは則ち次第の三観の摂する所なり。円教の智は、即ち一心三観に摂せられる。若し且く一往、位に従って説かば、円教の六根の智、七信より已前も、また空観に摂せられ、八信より已上も、また仮観に摂せられ、初住より已上は、但だ中観に摂せられる。前三教の智は、権を開き実を顕せば、復た次第無し。若し此の意を得れば、一期の仏教の明かす所の諸智は、並びに三観に摂せられ尽くす。是の故に止観は一切智を摂す。

次に「一切行を摂す」とは、正助を出でず。故に四教を歴るに皆二行を明かす。毘婆舎那等は、正助の証引なり。『大般涅槃経』第二十七巻に「若し毘婆舎那は煩悩を破すと言うならば、何故に復た奢摩他を修するや」と。今、定を以て慧を助けると明かすのは、且く助けを須つことを挙げて此れを引く。其の実、定慧は倶に是れ正修なり。慈等の事観は、方に名づけて助と為す。四教相望み、皆総じて前を以て後教を助く。自行既に爾り、説化道も亦復是の如し。亦た三観を以て四教の行を摂す。

「正助の下」は、智は行を導くこと故に、前の両教は束ねて空行と為し、別教は仮、円教は中と為す。蔵通は文の如し。仮観の中に「俗理」と言うは、俗諦恒沙の三昧に縁ずることを謂う。「俗事」と言うは、衆生の病及び神通等の利生の事に縁ずるを謂う。中観の中に「皆摩訶衍」と言うは、具に『大品般若経』広乗品の如し。其の中に、通別の相を善く簡別して方に今の文に応ず。十二因縁即ち是れ仏性とは、即ち三仏性なり。『大般涅槃経』第二十五巻に「無明と有愛、是の二の中間、即ち是れ中道。是の如き中道、能く一切の生死を破す。是れ即ち二死三毒を破し、三仏性を成ず」と。具に第九巻の十二縁に約して十乗を明かす中に説くが如し。

「復次よりの下」は、広く諸教の正助の行相を明かす。始め有漏に自り、終わり円極に至るまで。文を尋ぬれば見る可し。

初めに事禅を明かす。次に「四念の下」は、入空の行法。四意止は、即ち四念処なり。『仁王経』の中に四意止と名づく。四境は心に止まる故に定と名づく。三十七品乃至陰境は、十乗の中に説くが如し。四諦の中に「三は是れ有為」とは、苦集は有為有漏、道諦は有為無漏なり。漏無漏と雖も、通じて有為に属す。十六行相は、論文に広く明かす。今は略して行相を出す。苦の下に四行あり。謂く無常・苦・空・無我なり。陰は縁に依り生じ、念念に生滅するが故に無常なり。無常の為に逼まるるが故に苦なり。一相も異相も得可からざるが故に空なり。我・我所、得可からざるが故に無我なり。集の下に四あり。謂く集・因・縁・生なり。有漏相和合して能く苦果を招く。故に集と名づく。六因を観て能く苦果を生ず。故に因と名づく。四縁を観て能く苦果を生ず。故に縁と名づく。還って後に有の苦を受く。故に生と名づく。滅の下に四行あり。謂く尽・滅・妙・離なり。一切苦の尽くるを尽と名づく。諸煩悩の滅するを滅と名づく。一切第一なるを妙と名づく。生死を超過するを離と名づく。道の下に四行あり。謂く道・正・迹・乗なり。涅槃に至る能きを道と名づく。顛倒に非ざるを正と名づく。聖人の行く処を迹と名づく。三脱に運ぶを乗と名づく。新たな経論の名は、此れと稍や異なり。旧くは空、新たには不浄。旧くは尽、新たには静。旧くは正、新たには如。旧くは迹、新たには行。旧くは乗、新たには出。余の名は並びに同なり。大意は見る可し。『婆沙論』に云く「苦の時に亦無常・空・無我を見る。何が故に但だ苦と説くや。答う。亦無常等を見ると説く可し。説かざるは、余の義有ればなり。復次、若し苦を説かば、即ち是れ余を説く。復次、苦は唯だ苦に在り。無常は三諦に通じ、空無我は一切法に通ず。余の三諦の下行相、各々料簡あり。亦爾り」と。

四弘の下は、入仮の行法。十八不共法は、乃至下の助道の中に説くが如し。今は但だ当に對すべきのみ。已に九法に對す。余の九法は闕つ。謂く無異想、無不定心、無不知已捨、並びに止摂。欲・精進・念・慧・解脱・解脱知見、無減、並びに応観摂。三三昧三解脱は、乃至第七巻に説く。六度は、随自意及び助道の中に説くが如し。

乃至の下は、入中の行法。九種大禅は、並びに地持に在り。法界次第の中に略して釈す。彼に依って略して名数を出す。一に自性禅、聞思の前に於いて一心に止観を修し、或いは止観と同類の法なり。

止觀輔行傳弘決卷第三之三

止観輔行伝弘決 巻第三之三

止觀輔行傳弘決卷第三之四

止観輔行伝弘決 巻第三之四

唐毘陵沙門湛然述

毘陵の沙門湛然が述べる

第二一切禪。於中又二。一世間。二出世間。世及出世。各有三種。一現法樂。二出生三昧功德。三利益眾生。第三難禪有三。一捨禪而生欲界難。二具一切功德過二乘上難。三依禪得菩提難第四一切門有四。謂四禪。五善人禪有五。謂四無量及不味著。六一切行禪有十三(云云)。七除惱禪有八。八此世他世禪有九。九離見禪有十。百八三昧楞嚴居首。名出大品大論廣解。十八空第五卷廣釋。十喻。偈曰。幻焰月空響城夢影像化。在後略解。及五百陀羅尼聞持為首。名在大品。大論亦解此攝一切位者。初來意中。先明無位。欲明於有。先辨無者夫次位之來出自聖心。聖心本寂次位何施。逗物根緣階級同異。自非絕位極聖焉能判於諸下。是故先明無位之理。次方約事說於諸位。又無故約真有即寄俗。真俗不二故先辨真。故楞伽第四佛語心品云。第一義中無復次第。今文從義故云寂滅真如。又下文偈中云。十地則為初。初地則為八第九則為七。七亦復為八。第二為第三。第四為第五。第三為第六。無所有何次。唯此是四卷經文。餘所引者。並是七卷經文。經云無位唯此一文。上下諸文盡明次位。然多辨通別少明藏圓。若論智行通具四教。以方等部多斥三藏位義復少。當知楞伽約圓理邊明無次位。約事非無。縱明圓事多是界外相即法門。是故經中圓位又少。故彼經別序中。世尊受請入楞伽城時。以神通力作無量寶山。山皆有佛。一一佛前皆有羅剎及以眾會。十方國土皆於中現。此與淨名合蓋現變何殊。尚未及般若十方請者。皆名釋提桓因。加說者皆名善現身子。驗知彼部方等明矣。次位既爾。所論法相亦應備四亦少三藏意如向說。即如羅剎王本宮思佛。佛說幻化等法。即通教也。發得善根離心意識入如來藏。即別圓也。若準此意例餘可知。別序之文序圓尚少。驗知正說圓義不多。故正宗中大慧問曰。淨一切眾生自心現流為漸為頓。佛言。是漸非頓。下文雖說佛淨眾生自心現流頓現一切。此語漸極稱之為頓。即別妙覺位耳。況復文立五種種性。謂佛菩薩聲聞不定無性。以未開權諸性尚隔。豈同法華敗種得記。況復五法及三自性八識二無我。全是別義。豈得執一言無次位耶。又大乘下明有次位。向明無位亦是大乘。今復明有故云又也。良以下和會有無。如前所說非證無位不能辨位。復防愚夫偏執無位。是故結云次位何嫌。若析下正明諸教次位。初三藏。云七賢七聖者。七賢謂七方便。七聖謂信行法行。信解見得。身證時解脫不時解脫。二十七賢聖者。開初果向為三。謂信行法行無相行。及初果為四。五第二果向。六第二果。七第三果向八第三果。於此果中又開為十一。謂中生。行不行。樂定樂慧。轉世現。信解見得身證。并前七為學人十八。開無學為九。謂退護。住思。死不退。慧解脫俱解脫不壞法。俱舍云。世尊說學人十八謂四向三果。信法行。信解見得。家家一間。五含。謂中生。行不行。上流。無學九。謂退護思住。達不動。不退慧解脫俱解脫。此二十七名為福田。問。何緣身證不預其數。答。無漏三學是聖者因擇滅涅槃是聖者果。滅定有漏不是依因。故不預數。欲委悉知請尋本論。中含四十。長者問佛。福田有幾佛答同俱舍。餘之二門既各有論。亦應有位。今闕不論。三乘共位如下次位中辨。通教之中。既無四門論部之異。故但依經列共十地。次別位者。亦如楞伽初地菩薩為佛所加。百千萬劫集諸善根漸入諸地。至法雲地坐大蓮華。今文正用瓔珞所列諸位。不得意成三十心等者。事不獲已施設教道。權接物機非佛本意。意在初地中道實相猶居地前伏惑之位。名不得意。得意即入破無明位。是故即在第二觀後。或純假觀者。一者辨於失意之人。二者初地既同初住。是故此教但成假觀。圓位中開示悟入。且證因位。等覺或在十地中明。開合四句以判圓位。如前所說。具在玄文。十四般若者。問。仁王釋修行五忍中。文列十四忍無般若之名。今何故云十四般若。答。忍因智果。忍伏智斷。伏必有斷故從斷說。問下料簡者。為不曉者更重立疑。執前楞伽及諸大乘明空蕩相。何須明位而云止觀攝次位耶答中。還以前來所明諸大乘經。皆明次位。雖說下。牒前良以已下諸文。汝避有入無意偏文局。況同外人邪無等耶。中論下。引論斥於執無位人。位即因果。汝言無位即無因果。似同外人撥無世間及以出世三種四果。無何等下重徵執者。汝為無於何等因果。見既下判執無者。既未證入凡見灼然執云無位則破生滅。尚不下況也。拙度尚有三藏因果。汝尚無之。況能有後三教因果。此斥下結。言此斥外道者。意在斥執無位之人。汝云都無同彼外道。若斥下破小。一往與之。汝若欲以大乘斥小。謂小唯有三藏因果無後三番因果位者。汝能破者仍須有後三番因果。汝但破他全無諸位。故知即同外人邪破。如我下正明今家用破之式。但以智破惑名之為破。如汝所破以惑破智。稱之為破。不同外道推與誰乎。問。下引論偈。一一位中及以料簡。皆云破三道者何耶。答。前初明理。理全是惑故次破惑。翻惑為智惑為所破。智破惑時業苦俱破。破必前後淺深位別。是故明位還須寄於所破三道。點此一語者。結要。直言曰言。詮義曰語。亦是所引論序名為一語。今且從直言。謂一言者即是破也。以大破小為治內。以小破邪為治外。此引叡公中論序也。序云。百論破外以閑邪。斯文祛內之留滯。今通用彼序兩論意以成一家破立之式。廣雅云。閑者正也。破外故去有邊之邪。治內故去無邊之小。此存漸法。大小邪正以論相破。準大乘經復應更云以圓破偏。準法華意開偏顯圓。今但下憑教。還依前來二諦釋義。是故不可偏執有無。有無並皆憑教故也。無句是菩薩句。及點空論位等。並是二諦之文。次引中論者。論有四句。且以三句對於三觀觀觀於惑惑落不俱。故使三觀各有諸位。當知論偈是略辦位。云何言無。此中不以初句對位者。已從能破而立次位。因緣但是所觀之境所破之惑。故不對之。餘文對於三藏教者。一往從義且借對初。非論本意。此論前文正明衍門。是故偈意正在三教三觀意也。若用三觀攝四教位者。三藏攝在初觀之中。初空句中但云破三道成菩薩者。舉勝兼劣。故云須陀洹智斷是菩薩無生。復但云六地等者。以通菩薩明位不同。具如第六卷中。今亦且略舉六地一邊。義實通於七地齊二乘也。若云七地齊二乘者。即應云八地為方便。方便者具有二義。若未被接即以出假為方便。若被接者即以修中為方便。故下文云。八地聞中九地修觀破無明。此語極下根者為言。今言七地此據中根。言為如佛者。此亦二義。若別為菩薩立忍位者。則第十佛地邊有菩薩位。故云如佛。若被接者至此既破一品無明。亦能入相如彼八相。故云如佛。六地已前破界內三道。至此則破界外三道。假名句中言破界外三道者。且據前句未被接者說。則前二句但斷界內三道。中道句中同異此說六攝教者。初略引婆沙明攝諸教。凡言教者。是通途之言。但有指撝分判辨說皆名為教。是故此中邪正偏圓俱皆有教。次別明心攝。初攝世間。僧佉衛世等者。一切外道所尊有三。謂迦毘羅等。如第十卷釋。今略列一人。僧佉此云鵂鶹。衛世是所造之論有十萬偈。此云無勝。九十五種者通舉諸道。意且出邪。準九十六道經。彼經兩卷一一釋出所計相貌。於諸道中一道是正。即佛道也。故大論二十五云。九十六道中。實者是佛。今文但云九十五者。論邪道故。九十五中。二名似正。謂修多羅及阿毘曇。餘九十三名體俱邪。尋經識之。甚補正智。問。華嚴云。九十六道悉皆是邪。此云何通。答。華嚴斥小故皆云邪。故百論云。順聲聞道者皆悉是邪。故論二十五又云。九十六道並不能得諸法實相。又四十一云。九十六道不說意生。信是小乘灰斷之說。故五十三五十六七十三並同華嚴。斥云是邪。五行者。此起黃帝感玄女星精說此五行。白虎通曰。火者陽尊。水者陰卑。木者少陽。金者少陰。土者大包。故二陰三陽。尊者配天。水者唯也任養萬物。木者觸也觸動萬物。火者化也謂變化萬物。金者禁也禁其始起。土者吐也含萬物也。是故萬類皆為五行之所攝盡。六甲者。甲頭也。一甲五行。一行二日六甲六十日。一年之中。甲經六匝行三十六。白虎通云。甲有十干時有十二。所言干者數也。甲者萬物之甲如甲未開。乙者屈也。如萠蟠屈未欲出也。丙者明也。謂萬物明也。丁者彊也。戊者盛也。已者起也。庚者更也。辛者始也。壬者任也。癸者度也。言十二時者。子者慈也。丑者紐也。寅者演也。卯者茂也。辰者震也。已者起也。午者長也。未者味也。申者身也。酉者收也。戌者滅也。亥者該也。此干及時亦收一切。故以言之。乃至成閏度數等。非今所論。廣如律曆。陰陽者。太玄經云營大功明萬物者曰陽。幽無形不可測者曰陰。易曰。一陰一陽之謂道。陰陽不測之謂神。歲月時等乃至五行八卦莫不並為陰陽所攝。故陰陽之法布於世間。義不可盡。八卦者。謂震兌离坎乾坤艮巽。一卦六爻。爻謂適時之變。又爻者效也謂陰陽氣也。易曰。掛一以象三十。有八變而成卦。五經者。白虎通曰。孔子見周道陵遲自衛反魯以定五經而行其道。禮記經解曰。溫柔敦厚詩教也。疏通知遠書教也。廣博易良樂教也。潔靜精微易教也。恭儉謙敬禮教也。屬辭比事春秋教也。今謂禮樂尚書詩易春秋。有云。傳也。禮有三。謂周禮儀禮禮記。傳有三。謂公羊穀梁左傳。故云九經。子謂百家諸子。史謂諸國史藉。故以四類攝一切書。謂經史子集。集謂古今賢良所抄。如御覽之流。今為略知世法同異不煩廣出。意在總知悉從心起。云何下。明出世教二論不同。初文有喻有合。具如第一卷中所引華嚴。次空經喻中具含七教。八中無祕密者。具如前開章後料簡。次從觀心因緣下至與如來等。即藏等四教也。次又觀心下頓觀也。次從若觀心因緣至熟酥之經漸觀也。法華不同諸文。但是會漸歸頓。涅槃四人皆知佛性。故四句相即。若準大經五時譬意。則以華嚴譬乳。今且逐便即以華嚴別為一頓。漸中仍更存於四味。故以三藏譬於乳味。加共般若如酪。雖無別部共般若文。取方等般若中或一會一時一章。獨明共意其流亦多。又今論觀理攝法該廣。是故從容於漸教中明共般若。若的判教則不用此文。漸次教中對方等般若。皆云即空等者。能攝體即所攝未即。雖復未即且從能說。故並云即。次明法華涅槃者。意顯止觀並攝開顯捃拾教故。涅槃意者。彼經四教皆知常住。故本意在圓。權用三教以為蘇息。實不保權以為究竟。元意知圓是故相即。麁心若息還依頓觀。問。方等亦作四句相即。與涅槃何殊。答。方等但大小相對一時共聞。四不相離義同相即。不同涅槃即解即修。又此方等亦即中論四句即文。非謂四教即能相即。又此中文是寄五時。順彼經部或即或離。故修行者隨用幾句而得見實。又若將微塵經卷以譬八教。其文雖略大意亦足。謂初小後大。漸也。大小不定。不定也。漸中具四即七也。次不定觀中。云若觀因緣。又觀因緣即是佛性者。此有兩意。一者現在習圓成不定人。謂元知圓理或時且觀因緣生法重觀因緣。成即中觀即見佛性如三止觀中云。或指世界為第一義。或事或理即其相也。二者發圓宿習如於現在但觀生滅。後復數數觀於緣生。即見佛性。是故初觀因緣如乳。因觀因緣得見佛性。故云如乳殺人。空假皆有又觀之文意並準此。至觀中道亦有又觀之言。則闕一意。但是利根超入深位。若作發習者。如五品位但是伏惑。因宿習發即破無明。亦是不定。略攝下以略例廣。復次下明用心攝諸教之意。文具二意。即是能化所化之別。一約所化。謂破眾生心塵出一切法。二者佛既先得。今教眾生即是化他。能所相成。義不可闕。上六下。次明六法更互相攝即不思議。問。如前所說理乃至教。自他因果一切備足。何須更明一一攝五。答。如前所明。一一門中皆具偏圓其義似備。一一法中自不相收似權不攝實況餘五耶。今言攝者。此之六法未互相收。六義前後次第相生。故今文云。次第可解。言直以者。舉一例諸。直以一文尚攝一切。況復六耶。如理不攝惑智行位等。但理而已不具諸法。況權實之理似未相收。猶如六度雖各自圓。仍須一一宛轉相攝。無非法界方名具足。是故前六但似相待。故須更明絕待之相。何者。一理必攝一切諸理謂權即實。即理論惑故理攝惑。性德般若不出於理。又離理無智故理攝智。性德解脫緣因無缺。又離理無行故理攝行。理性十界凡聖位足。又離理無位故理攝位。心塵具含大千經卷。又離理無說故理攝教。次惑攝一切者。亦應云一惑攝一切惑。但是文略。乃至教亦如是。初一惑一切惑者。心具三惑如一貪心諸惑具足。彊弱相翳而不現行。故惑攝諸惑惑體是理故惑攝理。惑既即理。智行位教準惑約理一一說之。次智攝一切者。一空一切空空即假中故。一智攝諸智。智冥如境境智不二故智攝理。煩惱般若體相本一。又以能破對於所破。以能攝所故智攝惑。般若即脫。緣了體同。又凡所有智皆能導行。故智攝行。性德般若照十界位。又若無智者無位可階。又有惑則有智惑亡則智息。故以智攝位。權實二智無教不收。故智攝教。次行攝一切者。六度法界收一切行。脫即法身。緣正體一。又依理起行毫善理均。故行攝理。縛脫體一逆即菩提。又有惑即有行。惑窮即行息。故得行攝惑。解脫即般若。行能淨於智故得行攝智。非行不登位位滿行方終。故得行收位。依教以修行教本譚於行。故得行收教。位攝一切者。心佛及眾生是三無差別。約行初品尚具諸位。若證得者。初住具一切一住一切住。是故得一位遍收一切位。初住即法界乃至六即位。位位皆云即故得位收理。有位良由惑。惑窮則位終故得位收惑。無位不有智位滿故智極。又由智故進位位窮則智亡。故得位收智。入位必由行行遍一切位。故得位收行。進位故設教教譚不出位。故得位收教。次教攝一切者。如聞阿字門則解一切義。以於一佛乘分別說三故。故得教收教。教詮一切法文字即實相。故收一切理。迷教生諸惑教詮一切惑。故得教收惑。依教生於解解滿故教興。故得教收智。依教故生行。行窮一切教。故得教收行。教詮一切位教生一切位。故得教收位。如上相攝仍約教法相生而說。若直約頓一向說者。理中具五乃至教體即五。並法界故。思之可見。不簡偏圓一一皆爾。故此六法不出寂照不思議中一妙止觀。止觀攝六六互相攝。即是理性止觀。乃至教他止觀彼彼不二。此之六法即是前來不次第體。體中所攝不思議法次明偏圓中。初明來意者先牒前章。正指前來體所攝法。指前六番一一番中攝一切法。及一一法更互相攝。故云無法不收。收法既多下。正明來意。收法既多。故一一法應須識知大小乃至不思議意。大小即是略標初二兩門。共不共明用三四二門。半滿既與大小義同。故不別列。故知圓頓實三一向不共。偏漸權三有共不共。藏通是共。別是不共也。權實雖與前四義同。須將權實以簡前四。小半一向是權。大滿有權有實。圓頓二種一向是實。偏漸二種一向是權。以思議不思議更簡五雙。例此可解。故此五章文五義三。半滿同大小。漸頓同偏圓。權實判前四意唯在於開。夫至理下明說章意。意者。秖是無說而說。無說即是自行為他故說。說必不出此之五雙。問。此是判前攝法顯體。云何乃言為他故說。答。判即是說。乃至果成以此五雙為他而說。說不出五。以小下明用章意。言須識所以者。豈以方便名同而令大小理一。況復大中仍須簡擇。乃至權實亦復如是。是故方便種種不同。如三藏教一向是小。全是方便。況三藏教復有初入名為方便。故有體外體內等別。具如疏文釋方便品。不與淨名報恩方便品同。如華嚴經有壽量品。不與法華壽量品同。小者下。次正釋中先釋於小。初即小乘觀法之相。如釋論下。示邪析相以顯於正。初二句立定。次若下二句釋責。次若析下破。言方分者。無塵而已。有必是色。色必在方方必有分有十方分。次破其更析極微。析故則盡。若一塵可盡則諸塵皆可盡。若可盡者如何和合而成於身。故盡不可。若不盡者。若一塵是常諸皆是常。若是常者身應不滅。故非佛法正析相也。析心亦爾。若一剎那心不可盡者。如何復有後剎那生。後剎那生前心必滅。若永滅者如何復有後剎那生。故知剎那念念生滅非斷非常。論文下示正析相。三藏析法非論本宗。故云仍明。亦先觀色次觀於心。觀色心時但觀麁細無常無我。不須云盡及以不盡。言從無明生者。從於過去一念無明而生諸行。復由諸行至中陰時。我之一念無明之心。復與父母一念無明心合生於色身。依報亦由共無明業同感石砂。是故依正莫不皆從無明而生。無明之體從因緣有。故使造色亦從因緣。當知因果皆從無常。如何計之為盡不盡。觀心亦爾。過去剎那感今剎那。況今剎那復對外境因緣故有。是故念念皆悉無常。如是推時何但識於色心無常。進推心念本來非有。乃見法性真如常住。如前所明。不定教相若觀無常。又觀無常即見佛性。即此意也。若觀幻化。又觀幻化及以假等亦復如是。作是觀者乃是究竟三道本壞。何但界內無明壞耶。析名下得名之由。此之析名本在外道。觀極微色及一剎那若盡不盡。今觀無常等亦名析者。對破外道汝析非正。何但下。明此析法所破功能。乃至圓教四門生著。亦能破盡。佛法如甘露見著如多服失理如早夭。於外生計如鐵鎖。於內生計如金鎖。計由內心故名為自所起我人與外不別。皆悉能為生死作因。故大論下明用破意。謂破能計能計是著。不破所計所計是教。乃至未得涅槃而生計著。豈破涅槃。此明敵對破見功能。若復有人忽宜修於餘觀而破見者。如第十卷用四種觀。破見不同。凡有下依門修觀。觀即十法。世人亦云修習觀法言不涉十。乘壞驢車正南而遊。故知下正判在小。次明大者。亦初示觀法。大人下引能乘人及能詮教。驗知是大。衍中下引證共乘。譬如下譬也。今下合。可知。例如下引例。凡有例義有反有順。此中反以小乘例大。如小中有大仍名為小。何妨大中有小仍名為大。所言下對辨法體。有兩重法譬。先析次體。初析中云三藏名假等者。總攬五陰假名眾生。生是假名。陰是實法。既計法實析令入空。今大乘下次明體者。陰與眾生皆不可得是故皆假。此中雖以鏡像譬衍。借使少宗聞鏡像喻。亦謂為實。如婆沙四十二問云。水鏡中像為實不實。譬喻者言。不實。以鏡面不相入故。毘曇者言。像是有法。何者。是色入故為眼識所得。問。既不相入云何是實。答。既若干生色為色入故。非一種生色而為色入。如因日因珠生大。因月因珠生水。雖所生各異。非無其實。緣鏡緣面而生於像非無像用。能生眼識非無其實。響化亦然。故毘曇人計像緣起別有一具四大造色。故是實有。衍人所見一切不實。以像不實喻外不實。故以易譬難。言婆沙譬喻師者。即正量部異師所見。計不實故亦似衍門所見如幻。而非婆沙之宗。故毘曇師不受斯見。引佛在一方木上者。正示體觀。論十二云。佛在耆闍崛山。與諸比丘入王舍城。道中見有一大方木。佛敷尼師壇坐其木上告諸比丘。若比丘入禪心得自在。能令此木作地則成實地。何以故。木有地水火風分故。如一美色。婬人見之為人。不淨觀者見為不淨。無預之人心無所適。故隨人見所取不同。令文從義。而云變金為土等者。亦以金中有土分故。如木為土。又引端㲲等者。論釋三種有中。初云端㲲析至極微。總而觀之。無常無我。是為析空。復有觀空如觀此㲲。㲲本不生今亦不滅。是故亦與金土喻同。金為土時。金本無生金亦不滅。土為金時。土本無生金亦不滅(云云)。乃至十八空如第五卷說。故引㲲有空性如木有土性。以證即空。此十八空義通三教(云云)。復次下釋隨情隨理者。文中具作共及不共兩理意者。重以此文釋於大小。初明小空云佛佛性。故知三藏空拙。一向判屬隨情。大乘去。約隨理以明大空。何者。三藏雖空。此空由於滅事而得。故名隨事。若大乘空。此空由於即事而得。故名隨理。理即事故即義該深。故即空中含於不空。名為佛性。故幻化空通通通別。所以用於尋幻等譬。言尋幻得幻師者。譬觀幻化以見通理。言尋幻師得幻法者。譬觀空理以見不空。夢喻亦爾。尋夢得眠尋眠得心。比幻可見。若爾。尋幻色心得無明下。即是合文。云何以喻而不相應。但云尋幻得無明尋無明得佛性。而不云尋幻得真尋真得佛性耶。答。真諦之理即是無明。但深觀真即見佛性。即是觀於無明見性。又世人秖云尋心見性。不云尋色而得見性。且置外色直爾觀陰。世人何曾見陰佛性。次明體法依門修觀。亦應具含三種四門。今亦從總故但云四。此觀下正判也。既云大小諸門生著並用幻破。故知一向屬大乘也。前小門中即云諸著皆觀無常。此中衍門既具三教。即是三教。同用幻化破計若用三觀破計不同。兼前成四。全與第十破見意同。若得下斥奪也。大乘三教十二門著。尚須幻化即空破之。終不下比斥也。老莊尚自不識小乘能著所著能破所破。況大乘中若著若破。是故不與佛法少同。然世講者迷於名相。濫禪者惑於正理。欲將道德逍遙之名。齊於佛法解脫之說。豈可得乎。王瞀(音目)夜云。逍遙者調暢逸豫之意。夫至理內足無時不適亡懷應物何往不通。以斯而遊天下故曰逍遙。又云。理無幽隱逍然而當。形無巨細遙然俱適故曰逍遙。而不知以何為理以何為形。亡何煩惱遊何天下。故知法既不齊人亦可判。且置法報以應比之。優降天殊是非永隔。捨金輪聖帝之位。何如吝於柱史微官。光明相好丈六金軀何如凡容六尺之質。異相無量不可具云。委如李仲卿著十異九迷以斥佛法。南山作十喻九箴用形邪說。今略其五用甄邪正。一曰。老君逆常託牧女而早出。世尊順化因聖母而誕生。二曰。老聃有生有滅畏患生之生反招白首。釋迦垂迹示生示滅。歸寂滅之滅。乃耀金軀。三曰。重耳誕形居陳州之苦縣。能仁降迹出東夏之神州。四曰。伯陽職處小臣忝充藏吏。不在文王之日。亦非隆周之師。牟尼位居太子身證特尊。當昭王之盛年。為閻浮之教主。五曰。李氏三隱三顯無教可依。假令五百許年猶慚龜鶴之壽。法王一生一滅示現微塵之容。八十年間開演恒沙之眾。凡諸比決其事實多。具如甄正辨正。笑道心鏡。破邪二教。牟子等論。廣明異相。今猶見有不肖之車。尚云同是出家之徒。有何彼此而相是非。螢日懸殊者圓門生著。著心不入小賢之數。尚為三藏有門所破。況復莊老凡鄙見心。而欲儔於佛法圓理。如螢對日如山比毫。大品中云。聲聞如螢火菩薩如日光。今借比老莊饒之過分。山毫相絕者。彼齊物云。秋毫不小泰山不大。今不用彼齊物之儀。借用大小永絕之文。故云相絕。自言道真等者。迦葉見佛現大神變。內心已知佛力難量。仍為矯言自憍慢彼。而云。瞿曇雖神不如我道真。如此等僻寧不破耶。在迦葉緣起中。廣如律文及瑞應等。

第二に一切禅について述べる。これにはさらに二つある。一つは世間の禅、二つは出世間の禅である。世間と出世間には、それぞれ三種ある。一に現法楽、二に出生三昧功徳、三に利益衆生である。

第三に難禅には三種ある。一に禅を捨てて欲界に生じる難、二に一切の功徳を具えて二乗より勝れる難、三に禅に依って菩提を得る難である。

第四に一切門には四種あり、それは四禅である。

第五に善人禅には五種あり、それは四無量と味著しないことである。

第六に一切行禅には十三種ある(云云)。

第七に除悩禅には八種ある。

第八に此世他世禅には九種ある。

第九に離見禅には十種ある。

百八三昧は楞厳がその筆頭である。名称は大品経に出て、大智度論に広く解釈されている。十八空は第五巻で広く釈かれている。十喩についての偈には「幻、焔、月、空、響、城、夢、影、像、化」とあり、後に略解する。また五百陀羅尼は聞持が筆頭であり、その名は大品経にある。大智度論でもこれを解釈している。このようにして一切の位を摂するのである。

最初の「来意」において、まず無位を明らかにする。「有」を明らかにしようとして、まず「無」を辨じる。そもそも位というものは聖心から生じる。聖心は本来寂静であるのに、どうして位というものがありえようか。それは衆生の機根に合わせて、階級や同異を示すに過ぎない。もし絶待の位に達していなければ、どんな聖者といえども、様々な下位を判じることはできない。だからまず無位の理を明らかにし、次に事に従って諸々の位を説くのである。また「無」は真諦に約し、「有」は俗諦に寄せる。真俗は不二であるから、まず真諦を明らかにする。故に楞伽経第四の仏語心品に「第一義の中には、もはや次第がない」と説かれている。今の文はこの義に従って「寂滅真如」と言うのである。また下の偈に「十地はすなわち初地、初地はすなわち第八、第九はすなわち第七、七もまた第八となる。第二は第三となり、第四は第五となり、第三は第六となる。すべては無所有であり、何の次第があろうか」とある。これは四巻の経文である。他に引用されているものは、すべて七巻の経文である。経典に無位を説くのは、この一文だけである。上下の諸文はすべて次位を明らかにしている。しかし多くは通教と別教を明かし、蔵教と円教は少ない。もし智や行について論じるならば、通じて四教を具えている。方等部は多く三蔵の位を呵責するので、その義もまた少ない。知るべきである。楞伽経は円理の辺から無次位を明らかにし、事に従えば無いわけではない。たとえ円の事を明かしても、それは多く界外の相即の法門である。だから経の中でも円位は少ない。それ故に同経別序において、世尊が請いを受けて楞伽城に入られた時、神通力によって無量の宝山を作り出し、山にはそれぞれ仏がおられた。一々の仏の前には羅刹や大衆がいた。十方の国土も皆その中に現れた。これは維摩経の合蓋現変と何の違いがあろうか。般若経において十方から請じた者が皆、釈提桓因と呼ばれ、説法者が皆、善現や舎利弗と呼ばれたことにも及ばない。これによって、この部が方等であることは明らかである。次位がすでにそのようであるならば、論じられる法相もまた四教を備えるべきであるが、三蔵の意が少ないのは先に述べた通りである。すなわち羅刹王が本宮で仏を思い、仏が幻化などの法を説かれたのは、通教である。善根を発して心意識を離れ如来藏に入るのは、別教と円教である。もしこの意に準じれば、他の例もまた知られるべきである。別序の文は円教を説くことすら少ない。これによって、正宗で円義が多くないことがわかる。だから正宗の中で大慧が問うた。「一切衆生の自心の現流を清浄にするのは、漸進か頓か。」仏は答えられた。「これは漸進であって頓ではない。」下の文では、仏が衆生の自心の現流を清浄にすることを頓に現すと説くが、これは漸進の極限を頓と呼んでいるに過ぎず、すなわち別教の妙覚位である。ましてや、その経では五種の種性を立てている。すなわち佛、菩薩、声聞、不定、無性である。権を開いていないため、諸性はなお隔てられている。法華経で敗種が記を得ることと同じであろうか。ましてや、五法、三自性、八識、二無我などは、すべて別教の義である。どうして一つの言葉を取って、無次位と言えるであろうか。

また「大乗の下」は有次位を明らかにする。先に明かした無位もまた大乗である。今、再び有を明かすので「又」と言うのである。「良以て」の下は、有無を和合して会通する。前に述べたように、無位を証得していなければ位を辨じることはできない。また、愚夫が無位に偏執するのを防ぐために、結んで「次位何ぞ嫌わん」と言う。もし「析す」の下は、正しく諸教の次位を明らかにする。最初に三蔵である。「七賢七聖」と言うのは、七賢は七方便、七聖は信行、法行、信解、見得、身証、時解脱、不时解脱である。二十七賢聖とは、初果の向を開いて三つとする。すなわち信行、法行、無相行であり、初果を加えて四つとする。五は第二果の向、六は第二果、七は第三果の向、八は第三果である。この果の中に、さらに十一を開く。すなわち中生、行不行、楽定楽慧、転世現、信解、見得、身証であり、前の七つと合わせて学人十八とする。無学を開いて九つとする。すなわち退護、住思、死不朽、慧解脱、倶解脱、不壊法である。倶舎論に「世尊は学人十八を説く。すなわち四向三果、信法行、信解、見得、家家、一間、五含である。すなわち中生、行不行、上流。無学九は、退護思住、達不動、不退慧解脱、倶解脱である」とある。この二十七を福田と名付ける。問う。どうして身証はその数に入れないのか。答える。無漏の三学は聖者の因であり、択滅涅槃は聖者の果である。滅定は有漏であり、依因ではないので、数に入れない。詳しく知りたいならば、本論を求めよ。中阿含経四十において、長者が仏に問うた。「福田にはいくつありますか。」佛の答えは倶舎論と同じである。残りの二門はそれぞれ論があるので、位もあるはずであるが、今は論じない。三乗の共位は、以下の次位の中で辨じる。通教は、四門や論部の違いがないので、ただ経に依って共十地を列挙する。次の別位も、楞伽経のように、初地の菩薩が仏に加えられ、百千万劫の間、諸々の善根を積み、徐々に諸地に入り、法雲地に至って大蓮華に坐する。今の文は正しく瓔珞経に列挙された諸位を用いている。「意を得ずして三十心等を成す」とは、已むを得ず教道を施し、権を用いて物機に接するのであって、仏の本意ではない。意は初地の中道実相にあって、なお地前の伏惑の位にあることを、「意を得ず」と言う。意を得れば、即ち無明を破する位に入る。だから「第二觀後に在り」と言う。或いは純粋に假観であるのは、一つには意を失った人を辨じるためであり、二つには初地が初住と同じであるため、この教はただ假観を成すに過ぎない。円位の中の「開示悟入」は、因位を証するだけであり、等覚は或いは十地の中で明かされる。開合の四句を用いて円位を判じることは、前に述べた通りであり、玄文に詳しい。

十四般若について問う。仁王経で修行の五忍を釈する中に、文には十四忍を列挙し、般若の名はない。今、どうして十四般若と言うのか。答える。忍は因、智は果である。忍は伏し、智は断ずる。伏すれば必ず断があるので、断から説くのである。

問う。下に料簡があるのは、理解しない者のために、さらに疑いを立てて、前に楞伽経や諸大乗経が空であると説き相を蕩すことを執着して、どうして位を必要とし、止観が次位を摂すると言うのか、というものである。答の中では、また前に来て明かした諸大乗経が全て次位を明かしていることを用いる。『雖説』の下は、前の『良以て』以下の諸文を指す。あなたは有を避けて無に入ることに偏り、文が局している。ましてや、外人の邪無などと同じであろうか。中論の下は、無位を執する人を斥けるために論を引く。位は即ち因果である。あなたが無位と言うならば、即ち因果が無いことになる。これは外人が世間や出世間の三種四果を否定するのと同じである。「無何等」の下は、執する者を重ねて問い詰める。あなたはどのような因果が無いと言うのか。見が既にそのようであれば、執無と判じる。まだ証入していないのに、凡見が明らかに「位は無い」と執すれば、生滅を破することになる。「尚不」の下は、比較して況んやである。拙度はなお三蔵の因果がある。あなたにはそれすらない。ましてや、後の三教の因果があろうか。「此れ斥」の下は、結ぶ。この文は外道を斥けると言うのは、その意は無位を執する人を斥けることにある。あなたが「全て無し」と言うのは、あの外道と同じである。もし小乗を斥けるならば、一往与える。あなたがもし大乗をもって小乗を斥けようとして、小乗には三蔵の因果のみあって、後の三番の因果の位はないと言うならば、あなたは破することができても、なお後の三番の因果がなければならない。あなたはただ他を破して、位が全くないとする。だから知るべきである。即ち外人の邪破と同じである。我が如くの下は、正しく今の家の破の様式を用いることを明かす。ただ智をもって惑を破することを破と名付ける。あなたの破する所のように、惑をもって智を破することを破と称する。外道のように、誰かに推しやるのとは異なる。

問う。下に論の偈を引く。一々の位の中、および料簡において、皆「三道を破す」と言うのは何故か。答える。前に初めに理を明かす。理は全て惑である。故に次に惑を破す。惑を翻して智と為す。惑は破せられる所である。智が惑を破する時、業と苦も共に破せられる。破するには必ず前後、浅深の位の別がある。故に位を明かすには、なお所破の三道に寄せなければならない。この一語を指すのが、要を結ぶのである。直言を「言」と言い、義を詮するを「語」と言う。また、引かれた論の序を名付けて一語と言う。今はただ直言に従って、一言とは即ち破である、と言う。大をもって小を破するを治内と為し、小をもって邪を破するを治外と為す。これは叡公の中論序を引くのである。序に言う。「百論は外を破して邪を閑ず。斯の文は内の留滯を祛る。」今、その序の両論の意を用いて、一家の破立の様式を成す。広雅に云う。「閑とは正すなり。」外を破する故に有辺の邪を去り、内を治する故に無辺の小を去る。これは漸法を存するのである。大小邪正をもって相破を論ずる。大乗経に準ずれば、また更に「以円破偏」と云うべきである。法華の意に準じて、偏を開いて円を顕す。今、ただ下に教に凭る。また前の来の二諦の義に依って釈する。故に有無を偏執すべからず。有無は皆、並びに教に凭るからである。無句は菩薩の句であり、及び点空論位等は、全て二諦の文である。次に中論を引く。論に四句がある。ただ三句を以て三観に対して、観はそれぞれ惑を観ずる。惑は落ちて俱ならず。故に三観にそれぞれ諸位を有せしめる。当に知るべし。論の偈は略して位を弁ずる。何ぞ無しと言わんや。此の中、初句を以て位に対せざるは、已に能破に従って次位を立てる。因縁はただ所観の境、所破の惑である。故に対せざるなり。余の文を三蔵教に対することは、一往義に従って、且つ仮に初めに対す。論の本意ではない。此の論の前の文は正しく衍門を明かす。故に偈の意は正に三教三観の意にある。もし三観を用いて四教の位を摂するならば、三蔵は初観の中に摂せられる。初の空句の中にただ「破三道成菩薩」と云うのは、勝を挙げて劣を兼ねる。故に「須陀洹の智断は是れ菩薩の無生」と云う。またただ「六地等」と云うのは、通菩薩を以て位の明らかなることが異なる。具には第六巻の如し。今もまた且つ略して六地の一方を挙げる。義は実に七地が二乗に斉しいことに通ずる。もし「七地、二乗に斉し」と云うならば、即ち「八地を方便と為す」と云うべきである。方便は二義を具有する。もし接せられざる者を未被接と為せば、即ち出仮を以て方便と為す。もし接せらるる者を被接と為せば、即ち修中を以て方便と為す。故に下の文に「八地、中を聞き、九地、観を修して無明を破す」と云う。此の語は極めて下根の者の為に言う。今、「七地」と云うのは、此れ中根に拠る。「為如佛」と云うのも、また二義あり。もし別に菩薩の為に忍位を立つるならば、則ち第十の仏地の辺に菩薩の位有り。故に「如佛」と云う。もし被接せらるる者ならば、此に至って既に一品の無明を破す。亦た能く相に入りて彼の八相の如し。故に「如佛」と云う。六地已前に界内の三道を破す。此に至って則ち界外の三道を破す。仮名句中に「界外の三道を破す」と云うのは、且つ前の句に拠って未被接の者を説く。則ち前の二句はただ界内の三道を断ず。中道句中に同異あり。此れ六摂教を説く。初めに略して婆沙を引きて諸教を摂するを明かす。凡そ「教」と云うは通途の言である。但だ指撝、分判、弁説有れば、皆な名付けて教と為す。故に此の中に邪正偏円、俱に皆な教有り。次に別して心摂を明かす。初めに世間を摂す。僧佉、衛世等は、一切の外道の尊ぶ所に三有り。謂わく迦毘羅等。第十巻の釈の如し。今、略して一人を列ぬ。僧佉は此を鵂鶹と云う。衛世は是れ造る所の論、十万偈有り。此を無勝と云う。九十五種は通じて諸道を挙ぐ。意は且つ邪を出す。九十六道経に準ずれば、彼の経の両巻、一一に釈して所計の相貌を出す。諸道の中の一道は是れ正なり、即ち仏道なり。故に大論二十五に「九十六道の中、実なる者は是れ仏なり」と云う。今の文はただ「九十五」と云うのは、邪道を論ずる故なり。九十五の中、二は似て正と名づく。謂わく修多羅及び阿毘曇。余の九十三は名体俱に邪なり。経を尋ねて之を識るは、甚だ補正智なり。問う。華厳に「九十六道は悉く是れ邪なり」と云う。此れ如何通ず。答う。華厳は小を斥くが故に皆な邪と云う。故に百論に「声聞道に順ずる者は悉く是れ邪なり」と云う。故に論二十五に又云う「九十六道は並びに能く諸法実相を得ず」。又四十一に「九十六道は意生を説かず。信ずることは小乘の灰断の説なり」。故に五十三、五十六、七十三、並びに華厳に同じ。斥けて邪と云う。五行は、此れ黄帝に起こる。玄女星精を感じて此の五行を説く。白虎通に曰く「火は陽尊なり。水は陰卑なり。木は少陽なり。金は少陰なり。土は大包なり。故に二陰三陽なり。尊者に配して天と為す。水は唯なり。任じて万物を養う。木は触なり。触れて万物を動かす。火は化なり。謂わく万物を変化す。金は禁なり。其の始起を禁ず。土は吐なり。万物を含むなり」。是の故に万類は皆な五行の摂する所を尽くせり。六甲は、甲は頭なり。一甲に五行あり。一行に二日あり。六甲は六十日なり。一年の中、甲は経て六匝し、行くこと三十六。白虎通に云う「甲に十干有り。時に十二有り。言う所の干は数なり。甲は万物の甲なり。甲の未だ開かざるが如し。乙は屈なり。萌の蟠屈して未だ出でんと欲せざるが如し。丙は明なり。謂わく万物の明なり。丁は彊なり。戊は盛なり。己は起なり。庚は更なり。辛は始なり。壬は任なり。癸は度なり。十二時を言うには、子は慈なり。丑は紐なり。寅は演なり。卯は茂なり。辰は震なり。巳は起なり。午は長なり。未は味なり。申は身なり。酉は収なり。戌は滅なり。亥は該なり。此の干及ぶ時、亦た一切を収む。故に以て之を言う。乃至成閏度数等は、今の論ずる所に非ず。広くは律暦の如し。陰陽は、太玄経に「大功を営み万物を明らかにするを陽と曰い、幽にして形無く測る可からざるを陰と曰う」と云う。易に曰く「一陰一陽之を道と謂う。陰陽の測る可からざるを之を神と謂う」。歳月時等乃至五行八卦、莫し並びに陰陽の摂する所と為さざるは。故に陰陽の法は世間に布いて、義は尽く可からず。八卦は、震、兌、离、坎、乾、坤、艮、巽を謂う。一卦に六爻あり。爻は時に適うの変を謂う。又爻は効なり。謂わく陰陽の気なり。易に曰く「一を掛けて以て三を象る。八変有りて卦を成す」。五経は、白虎通に曰く「孔子、周道の陵遲せるを見て、衛より魯に反り、以て五経を定め、其の道を行わんとす」。禮記經解に曰く「温柔敦厚は詩の教なり。疏通知遠は書の教なり。広博易良は楽の教なり。潔静精微は易の教なり。恭倹謙敬は礼の教なり。属辞比事は春秋の教なり」。今謂うに、礼楽、尚書、詩、易、春秋。伝と云う者有り。礼に三あり。周礼、儀礼、礼記を謂う。伝に三あり。公羊、穀梁、左伝を謂う。故に九経と云う。子は百家諸子を謂う。史は諸国の史籍を謂う。故に四類を以て一切の書を摂す。経、史、子、集を謂う。集は古今の賢良の抄する所を謂う。御覧の流の如し。今、略して世法の同異を知るが為に、煩わしく広く出すことを要せず。意は総じて悉く心より起こることを知るに在り。

云何の下、出世教の二論の異なることを明かす。初めの文に喩有り、合有り。具には第一巻に引く所の華厳の如し。次の空経の喩の中に具に七教を含む。八の中に秘密無きは、具に前の開章後の料簡の如し。次に観心因縁より乃至如来等に至るは、即ち蔵等の四教なり。次に又観心の下は頓観なり。次に若し観心因縁より熟酥の経に至るは漸観なり。法華は諸文に異なり。ただ是れ会漸帰頓なり。涅槃の四人は皆な仏性を知る。故に四句相即なり。若し大経の五時喩の意に準ずれば、則ち華厳を以て乳に譬う。今、且つ便に逐いて、即ち華厳を別して一頓と為す。漸の中に仍更に四味を存す。故に三蔵を以て乳味に譬う。共般若を加うること酪の如し。別部の共般若の文無しと雖も、方等般若の中の或る一会、一時、一章を取りて、独り共意を明かす。其の流も亦た多し。又今の観理を論ずるは、法の該羅すること広し。故に従容として漸教の中に於いて共般若を明かす。若し的確に教を判ずるならば、則ち此の文を用いず。漸次教の中に方等般若に対して、皆な「即空」等と云うは、能摂の体は即なり、所摂は未だ即ならず。未だ即なりと雖も且つ能説に従う。故に並びに「即」と云う。次に法華涅槃を明かすは、意は止観を顕わし、並びに開顕捃拾の教を摂するが故なり。涅槃の意は、彼の経の四教、皆な常住を知る。故に本意は円に在り。権を用いて三教と為し、以て蘇息と為す。実は権を保して以て究竟と為さず。元の意は円を知る。故に相即なり。麁心若し息めば、還って頓観に依る。問う。方等も亦た四句の相即を作る。涅槃と何の殊ありや。答う。方等は但だ大小を相対して一時に共に聞く。四の相離れざるは義即に同じ。涅槃の即解即修に同じからず。又此の方等は即ち中論の四句の即文なり。四教を謂いて即ち能く相即すとは限らざるなり。又此の中の文は五時に寄するなり。彼の経部に順うて或いは即し或いは離る。故に修行者は幾句に随いて而も実を見ることを得。又若し微塵経巻を将いて以て八教に譬うれば、其の文は略なりと雖も大意亦た足る。謂わく初め小、後大は、漸なり。大小不定は、不定なり。漸中に具に四を有するは、即ち七なり。次の不定観の中に「若し因縁を観ず。又因縁を観ずる即ち是れ仏性」と云うは、此れに両意有り。一者は現在に習い円を成して不定の人と為す。謂わく元より円理を知る。或いは時に且つ因縁生法を観じ、重ねて因縁を観ず。即ち中観を成し、即ち仏性を見る。三止観の中に「或いは世界を指して第一義と為し、或いは事、或いは理、即ち其の相なり」と云うが如し。二者は円の宿習を発す。現在に於いて但だ生滅を観ずるが如し。後に復た数々縁生を観ずるに因りて、即ち仏性を見る。故に初めに因縁を観ずること乳の如し。因縁を観ずるに因りて仏性を得ることを見る。故に「乳の如く人を殺す」と云う。空假皆な「又観」の文有り。意は並びに此れに準ず。中道を観ずるに至りて亦た「又観」の言有り。則ち一意を闕く。但だ是れ利根にして深位に超入するのみ。若し発習を作すならば、五品位の如くは但だ惑を伏するのみ。宿習の発するに因りて即ち無明を破す。亦た不定なり。略して摂するの下は、略を以て例を広くす。復次に用心して諸教の意を摂するを明かす。文に二意を具す。即ち是れ能化所化の別なり。一には所化に約す。謂わく衆生の心塵を破して一切の法を出す。二者は仏既に先に得、今、衆生を教うるは即ち是れ化他なり。能所相成して義は闕くべからず。上の六の下、次に六法の更互相摂を明かす。即ち是れ不思議なり。問う。前に説く所の理乃至教、自他因果一切備足り。何ぞ須く更に一一に五を摂するを明かす。答う。前に明かす所の如く、一一の門中皆な偏円を具す。其の義似て備われり。一一の法中、自ら相収せず。似て権は実を摂せず。況んや余の五をや。今言う所の摂は、此の六法未だ互いに相収せず。六義は前後次第相生ず。故に今の文に「次第解す可し」と云う。「直ちに以て」と云うは、一を挙げて諸に例す。直ちに一文を以て尚お一切を摂す。況んや六をや。理は惑智行位等を摂せざるが如し。但だ理のみにして諸法を具せず。況んや権実の理は似て未だ相収せず。猶お六度の各おの自ら円なるが如しと雖も、仍お一一に宛転相摂するを須く。法界に非ざるは名付けて具足と曰うなし。故に前の六は但だ似て相待なり。故に須く更に絶待の相を明かすべし。何者か。一理は必ず一切諸理を摂す。謂わく権は即ち実。即ち論じて惑と為せば、故に理は惑を摂す。性徳般若は理を出です。又理を離れて智無し。故に理は智を摂す。性德解脱、縁因缺くる無し。又理を離れて行無し。故に理は行を摂す。理性の十界、凡聖位足れり。又理を離れて位無し。故に理は位を摂す。心塵は大千経巻を具含す。又理を離れて説無し。故に理は教を摂す。次に惑の一切を摂するは、亦た「一惑は一切惑を摂す」と云うべきも、ただ文略なり。乃至教も亦た同じ。初めに「一惑一切惑」とは、心は三惑を具す。一貪心の如し。諸惑具足す。彊弱相翳して現行せず。故に惑は諸惑を摂す。惑体は是れ理。故に惑は理を摂す。惑既に即ち理なり。智、行、位、教は惑に準じ理に約して一一に之を説く。次に智の一切を摂するは、一空一切空、空は即ち假中。故に一智は諸智を摂す。智は境に冥す。境智不二。故に智は理を摂す。煩惱般若、体相本より一なり。又以て能破を対して所破に於いて、能を以て所を摂す。故に智は惑を摂す。般若即ち脱、縁了体同じ。又凡そ所有の智は皆な能く行を導く。故に智は行を摂す。性德般若は十界の位を照す。又智無くんば位に階す可き無し。又有惑なれば則ち智有り。惑亡すれば則ち智息む。故に智を以て位を摂す。権実二智は教に収せられざる無し。故に智は教を摂す。次に行の一切を摂するは、六度法界は一切行を収す。脱即ち法身。縁正体一なり。又理に依りて行を起こす。毫善も理均し。故に行は理を摂す。縛脱体一なり。逆即ち菩提。又有惑なれば即ち行有り。惑窮すれば即ち行息む。故に行を得て惑を摂す。解脱即ち般若。行は能く智を浄くす。故に行を得て智を摂す。行に非ざれば位に登らず。位満して行方に終わる。故に行を得て位を収む。教に依りて行を修行す。教は本を談じて行に於けり。故に行を得て教を収む。位の一切を摂するは、心仏及衆生是れ三無差別。行の初品に約しても尚お諸位を具す。若し証得する者は、初住は一切を具す。一住は一切住なり。是の故に一位を得て一切位を遍収す。初住即ち法界乃至六即の位。位位に皆「即」と云うことを得。故に位は理を収むることを得。位有るは惑に由る。惑窮すれば位終わる。故に位は惑を収むることを得。位に智有らざるは無し。位満すれば故に智は極まる。又智に由りて位に進む。位窮すれば則ち智亡ぶ。故に位は智を収むることを得。位に入るには必ず行に由る。行は一切の位に遍す。故に位は行を収むることを得。位に進むが故に教を設く。教は談ずる所、位を出でず。故に位は教を収むることを得。次に教の一切を摂するは、阿字門を聞くが如くして則ち一切の義を解す。一佛乗に於いて分別して三を説くが故に。故に教を得て教を収む。教は一切法を詮ず。文字即ち実相。故に一切の理を収む。教に迷いて諸惑を生ず。教は一切の惑を詮ず。故に教を得て惑を収む。教に依りて解を生ず。解満すれば故に教は興る。故に教を得て智を収む。教に依りて故に行を生ず。行は一切の教に窮す。故に教を得て行を収む。教は一切の位を詮ず。教は一切の位を生ず。故に教を得て位を収む。上に相摂するが如し。仍お教法の相生に約して説く。若し直ちに頓に約して一向に説くならば、理中に五を具し、乃至教体即ち五なり。並びに法界の故なり。思うべし、見る可し。偏円を簡ばず、一一皆な爾り。故に此の六法は寂照不思議の中の一妙止観を出でず。止観は六を摂し、六は互いに相摂す。即ち是れ理性の止観、乃至教他の止観、彼彼不二なり。此の六法は即ち是れ前の来の不次第の体なり。体の中に摂する所の不思議法なり。次の偏円を明かす中、初めに来意を明かす者は、先ず前章を牒す。正に前の来の体の摂する所の法を指す。前の六番の一一番の中に一切の法を摂し、及び一一法更に互いに相摂することを指す。故に「法を収めて収めざる無し」と云う。法を収むること既に多しの下は、正に来意を明かす。法を収むること既に多し。故に一一法は応に須く大小乃至不思議の意を識知すべし。大小は即ち略して初二の両門を標す。共不共は明用の三四の二門なり。半満は既に大小と義同じ。故に別に列ねず。故に知る、円頓実三は一向に不共なり。偏漸権三は共不共有り。蔵通は是れ共。別は是れ不共なり。権実は雖も前の四と義同じ。須く権実を将いて前の四を簡すべし。小半一向は是れ権。大満は権実有り。円頓の二は一向是れ実。偏漸の二は一向是れ権。思議不思議を以て更に五双を簡す。例し此に准じて解す可し。故に此の五章の文は五義三なり。半満は大小に同じ。漸頓は偏円に同じ。権実は前の四の意を判ず。唯だ開に在るのみ。

夫れ至理の下は章意を説く。意は、只だ是れ無説而説なり。無説即ち是れ自行、他を為して故に説く。説くは必ず此の五双を出でず。

問う。此れは前の摂法顕体を判ず。云何なんで乃ち他を為して故に説くと謂う。答う。判ず即ち是れ説なり。乃至果成して此の五双を以て他を為して説く。説くは五を出でず。小を以ての下は章意を用いることを明かす。「須く所以を識るべし」と云うは、豈に方便の名の同じきを以て大小の理一ならしめんや。況んや大の中に仍お須く選択すべし。乃至権実亦た復た是の如し。是の故に方便は種種同じからず。三蔵教の如きは一向是小。全是方便なり。況んや三蔵教に復た初入有りて方便と名づく。故に体外体内等の別有り。具には疏文の方便品を釈するが如し。浄名、報恩の方便品と同じからず。華厳経に寿量品有りといえども、法華の寿量品と同じからず。

小者下、次に正しく釈する中、先ず小を釈す。初め即ち小乘観法の相なり。釈論下の如く、邪析の相を示して以て正を顕わす。初二句は定を立つ。次の若しの下二句は釈して責む。次の若し析の下は破す。「方分」と言うは、無塵而已、有れば必ず是れ色なり。色は必ず方に在り。方には必ず分有りて十方分有り。次に其の更に析して極微を破す。析すれば故に尽く。若し一塵尽く可くんば、則ち諸塵皆な尽く可し。若し尽く可くんば、如何にして和合して而も身を成す。故に尽くは不可なり。若し尽くさざれば、若し一塵は常、諸は皆是れ常なり。若し是れ常ならば、身は応に滅せざるべし。故に仏法の正析相に非ず。心を析することも亦た爾り。若し一刹那心の尽く可からざる者、如何にして復た後の刹那の生有る。後刹那の生ずるは、前心必ず滅す。若し永く滅する者、如何にして復た後の刹那の生有る。故に知る、刹那の念念生滅、断に非ず常に非ず。論文下は正析相を示す。三蔵析法は論の本宗に非ず。故に「仍明」と云う。亦た先ず色を観じ、次に心を観ず。色心を観ずる時、但だ麁細無常無我を観ず。尽く、及び、尽くさずと云うことを須いず。「無明より生ず」と云うは、過去の一念無明より従って諸行を生ず。復た諸行に由りて中陰の時に至り、我が一念の無明の心、復た父母の一念無明の心と合して色身を生ず。依報も亦た共無明の業に由りて同じく石砂を感ず。是の故に依正、莫し皆な無明より生ぜざるは。無明の体は因縁より有り。故に造色も亦た因縁に従う。当に知るべし、因果皆な無常に従う。如何にして之を計りて尽く不盡と為さんや。心を観ずることも亦た爾り。過去の刹那は今の刹那を感ず。况んや今の刹那、復た外境因縁に対す。故に有り。是の故に念念皆な悉く無常なり。是の如く推する時、何ぞ但だ色心の無常を識るのみならんや。進んで心念を推せば、本来非有なり。乃ち法性真如の常住を見る。前に明かす所の如く、不定教相若し無常を観ず。又無常を観ずれば即ち仏性を見る。即ち此の意なり。若し幻化を観ず。又幻化及び仮等を観ずるも亦た復た是の如し。作是の観を為すは乃ち是れ究竟に三道本壊す。何ぞ但だ界内の無明を壊すのみならんや。析名下は名を得るの由。此の析名は本来外道に在り。極微色及び一刹那の若し尽くせば不盡ならんと観ず。今、無常等を観ずるも亦た析と名づくるは、外道に対破して汝の析は正に非ずと為す。何但の下は、此の析法の所破の功能を明かす。乃至円教四門に生著するも、亦た能く破し尽くす。仏法は甘露の如し。見著するは、多服するに失うが如く、理に違うは早夭の如し。外に於いて計ずれば鎖の如く、内に於いて計ずれば金鎖の如し。計は内心に由る。故に「自所起の我人」と名づく。外と別ならず。皆な能く生死の因と作ることを得。故に大論下は用破の意を明かす。能計を破するを謂う。能計は是れ著なり。所計を破せず。所計は是れ教なり。乃至未だ涅槃を得ずして、而も生著を計ず。豈に涅槃を破せんや。此れ敵対して見を破する功能を明かす。若し復た人有りて、忽ち宜しく余の観を修して而も見を破するは、第十巻の四種の観を用いて、見を破するを同じくせざるが如し。凡そ有る下は門に依りて観を修す。観は即ち十法なり。世の人も亦た修習観法を云う。言に十に渉らず。乗壞驢車して正南にして遊ぶ。故に知る下は正に小に在りと判ず。

次に大を明かすは、亦た初めに観法を示す。大人下は能乗の人及び能詮の教を引く。験じて是れ大と知る。衍中下は共乗を引証す。譬下は譬なり。今下は合なり。知る可し。例如下は例を引く。凡そ例有るに義は反有り、順有り。此の中、反して小を以て大に例す。小中に大有りて仍お小と名づくるが如し。何ぞ妨げんや、大中に小小有りて仍お大と名づくるを。言う下は法体に対辨す。両重の法譬有り。先ず析、次に体。初めの析の中に「三蔵名假等」と云うは、総じて五陰の仮名の衆生を攬る。生は是れ仮名、陰は是れ実法なり。既に法を計り実なりと為して、析して令めて空に入る。今の大乗下は次に体を明かす。陰と衆生は皆な得可からず。故に皆な是れ仮なり。此の中、鏡像を以て衍に譬うと雖も、借使少宗、鏡像の喩を聞きて、亦た謂いて実と為す。婆沙四十二の問の如し。「水鏡の中の像は実か不実か。」譬喻者は言う。「不実なり。鏡面相入らざるが故に。」毘曇者は言う。「像は是れ有法なり。何者か。是れ色入の故、眼識の得る所と為る故に。」問う。「既に相入らず、云何なんで是れ実と謂う。」答う。「既に若干生色は色入の故なり。一類の生色にして色入と為るに非ず。因りて日、因りて珠、大を生じ、因りて月、因りて珠、水を生ずるが如し。生ずる所各おの異なりと雖も、其の実無きに非ず。鏡と面とに縁りて像を生ず。像用無きに非ず。能く眼識を生ず。実無きに非ず。響、化も亦然り。故に毘曇人は像の縁起を計りて別に一具の四大造色有りと為す。故に実有なり。」衍人の見る所は一切不実。像の不実を以て外の不実に喩う。故に易を以て難に譬う。「婆沙譬喻師」と云うは、即ち正量部の異師の見る所なり。不実を計りて、亦た衍門の見る所の如幻に似たり。而も婆沙の宗に非ず。故に毘曇師は此の見を受けず。佛在一方木上を引く者は、正に体観を示す。論十二に云く「佛、耆闍崛山に在り、諸比丘と共に王舍城に入る。道の中に一の方木有るを見る。佛、尼師壇を敷き其の木上に坐して諸比丘に告げたまわく、若し比丘禅に入りて心を得て自在ならば、能く此の木を作して地と為せば則ち実地を成ず。何を以てか。木に地水火風分有るが故に。一の美色の如し。婬人は之を見て人と為す。不淨観者は見て不淨と為す。無預の人は心に所適無し。故に人の見に随うて取る所同じからず。」今の文、義に従う。而も「変じて金と為し土と為す」等と云うは、亦た金中に土分有るが故なり。木の土と為るが如し。又端㲲等を引くは、論の三種の有を釈する中に「初めに端㲲は極微に析するも、総じて之を観ずれば無常無我なり。是を析空と為す。復た有る觀空のは、此の㲲を觀ずるが如し。㲲は本不生、今も亦た不滅。故に亦た金土の喩と同じ。金の土と為る時、金も本生せず、金も亦た滅せず。土の金と為る時、土も本生せず、金も亦た滅せず(云云)。乃至十八空は第五巻の説く所の如し。故に㲲に空性有ることを引きて、木に土性有るが如く、以て即空を証す。此の十八空の義は三教に通ず(云云)。」

復次の下は、随情、随理を釈する。文の中に具えて共、不共の両理の意を作す。重ねて此の文を以て大小を釈す。初めに小空に「仏仏性」と云う。故に知る、三蔵の空は拙くして一向に随情に属すと判ず。大乗去は、随理に約して大空を明かす。何者か。三蔵は空なりと虽も、此の空は事を滅するに由りて得るが故に、随事と名づく。若し大乗の空は、此の空は事に即するに由りて得るが故に、随理と名づく。理は即ち事、即の義は該深し。故に即空中に不空を含む。名づけて仏性と為す。故に幻化の空は通に通じ、通別。所以に幻等を尋ぬるの譬を用う。「幻を尋ねて幻師を得」とは、幻化を観ずるを以て通理を見るに譬う。「幻師を尋ねて幻法を得」とは、空理を観ずるを以て不空を見るに譬う。夢の喩も亦た爾り。夢を尋ねて眠を得、眠を尋ねて心を得。幻に比して見る可し。若し爾りて、幻色心を尋ねて無明を得、無明を尋ねて仏性を得云云、の下は即ち合文なり。云何なんで喩を以て与えども而も応じ相わず。但だ「幻を尋ねて無明を得、無明を尋ねて仏性を得」と云いて、而も「幻を尋ねて真を得、真を尋ねて仏性を得」と云わざるや。答う。真諦の理は即ち是れ無明なり。但だ深く真を観ずれば即ち仏性を見る。即ち是れ無明を観ずるを以て性を見る。又世の人只だ「心を尋ねて性を見る」と云い、「色を尋ねて性を見ることを得」と云わず。且く外色を置きて直ちに陰を観ず。世人、何ぞ曾て陰の仏性を見るや。次に体法に依りて門に依り観を修することを明かす。亦た応に三種の四門を含むべし。今も亦た総に従う。故に但だ「四」と云う。此の観下は正に判ず。既に「大小の諸門に生著し、並びに用いて幻をもって破す」と云う。故に知る、一向に大乘に属す。前の小門中には即ち「諸著は皆な無常を観ず」と云う。此の中の衍門は既に三教を具す。即ち是れ三教なり。同じく幻化を用いて計を破す。三観を用いて計を破すること同じからず。前を兼ねて四を成す。全く第十の破見の意と同じ。若し得るは下は斥奪なり。大乘の三教十二門の著、尚お幻化即空を須いて之を破す。終不の下は比斥なり。老荘は尚お自ら小乘の能著能破、所著所破を識らず。況んや大乘の中の若著若破をや。是の故に仏法と少しも同じからず。然れども世の講ずる者は名相に迷い、濫禅ずる者は正理に惑う。道德逍遥の名を以て、仏法解脱の説に斉えんと欲す。豈に得可けんや。王瞀の夜に云う「逍遥とは調暢逸豫の意なり。夫れ至理内に足りて時に適わざる無く、亡懷物に応じて何れの往くに通ぜざらん。斯を以て天下に遊ぶ。故に逍遥と曰う」。又云う「理に幽隠無く逍遥として当たり、形に巨細無く遥然として倶に適す。故に逍遥と曰う」。而も何を以て理と為し、何を以て形と為すかを知らず。亡ずるに何の煩悩ぞ、遊ぶに何の天下ぞ。故に知る、法既に斉わざれば、人も亦た判じ可し。且く法報を置きて、以て応に之を比すべし。優降は天殊にして是非は永く隔つ。金輪聖帝の位を捨つるは、何如んぞ柱史の微官に吝しまん。光明相好丈六金軀は、何如んぞ凡容六尺の質に比せん。異相無量にして具に云ふ可からず。委しくは李仲卿の著す所の十異九迷の、仏法を斥くるが如し。南山は十喩九箴を作りて用いて邪説を形す。今、略して其の五を用いて邪正を甄す。一に曰く、老君は常に逆い、牧女に託して早く出づ。世尊は化に順い、聖母に因りて誕生す。二に曰く、老聃は生滅有り、生の生を患うことの反りて白首を招く。釈迦は迹を垂れて生を示し滅を示し、寂滅の滅に帰して、乃ち金軀を耀かす。三に曰く、重耳は形を誕み、陳州の苦県に居す。能仁は迹を降ろし、東夏の神州に出づ。四に曰く、伯陽は職処小臣、忝んじて藏吏に充つ。文王の日に在らず。亦た隆周の師に非ず。牟尼は位を太子に居て、身を證すること特尊、昭王の盛年に当りて、閻浮の教主と為る。五に曰く、李氏の三隱三顕、教に依る可き無し。仮令五百許年あれども猶お亀鶴の寿に慚づ。法王の一生一滅は微塵の容を現示す。八十年の間、恒沙の衆を演開く。凡そ諸の是の比決する所は、其の事実に多し。具には甄正、辨正、笑道、心鏡、破邪、二教、牟子等の論の如く、広く異相を明かす。今、猶お不肖の車有るを見る。尚お「同じく出家の徒なり。何の彼此有りて而も相是非せん」と云う。螢日の懸殊は、円門の生著、著心小賢の数に入らず。尚お三蔵有門の破する所と為る。況んや荘老の凡鄙の見心をや。而も仏法円理に等しうせんと欲す。螢の日に対する如く、山の毫に比するが如し。大品中に「声聞は螢火の如く、菩薩は日光の如し」と云う。今、借りて老荘に比す。之を饒(ゆる)すこと過分なり。山毫相絶する者、彼の斉物に「秋毫は小さからず、泰山は大きからず」と云う。今、彼の斉物の儀を用いず、借用して大小永絶の文とす。故に「相絶す」と云う。「自言道真等」とは、迦葉、仏の大神変を現じたまうを見て、内心既に佛力の量り難きことを知る。仍お矯言して自ら憍慢して彼を下す。而も「瞿曇は神なりと雖も、我が道の真に如かず」と云う。此の如きの僻は寧ろ破せざらんや。迦葉の縁起の中に在り。広くは律文及び瑞応等の如し。

○次明半滿者。名在大經。菩提流支用此判教未為盡理。故玄文破之。今此但約法門以論。況復餘四共成此意。是故且與大小門同。非判一期義可通用。一往且以從別判之。故以九及十二以分半滿。通義具如玄文分別。或大小俱九俱十一十二等也。世傳下破判教義。多師所計總云世傳。涅槃是滿義稍可通。餘兼法華乃至華嚴。如何並半。流支所判復非通方。般若去滿不簡二乘義復不可。三藏為半義稍可爾。今明已下正出今意。既扶成大小準彼所明。滿通二理兼帶小人。半唯在小永隔於大。方等則具存半滿。般若法華涅槃華嚴唯滿不半。鹿苑唯半不滿。故知半滿之語有兼有全。故不同他剋定齊限。

○次に半満を明かすとは、名づけて大経にあり。菩提流支、此れを用いて教を判ずるも、未だ理を尽くさず。故に玄文之を破す。今此れは但だ法門に約して論ず。況んや復た余の四、共に此の意を成すをや。是の故に且く大小門と同じくす。一期の義を判ずるに通用すべきに非ず。一往は且く従別に以て之を判ず。故に九及び十二を以て半満を分かつ。通義は具に玄文の分別の如し。或いは大小倶に九、倶に十一、十二等なり。

世伝に、下に破判教義あり。多師の計する所、総じて世伝と云う。涅槃は満の義、稍や通ず可し。余は法華、乃至華厳に兼ね、如何ぞ並びに半ならん。流支の所判は、復た通方に非ず。般若は満に去ると雖も、二乗を簡ばず、義復た不可なり。三蔵は半と為し、義稍や爾る可し。

今明かすに、已下、正しく今の意を出す。既に大小を扶成し、彼の明かす所に準ず。満は二理を通じ、兼ねて小人を帯ぶ。半は唯だ小に在りて、永く大に隔つ。方等は則ち具に半満を存す。般若、法華、涅槃、華厳は唯だ満のみにして半ならず。鹿苑は唯だ半のみにして満ならず。故に知る、半満の語には兼有全有あり。故に他を同じくして克定斉限せず。

○次明偏圓對前二章以辨通局。兼以譬顯於義自明。初文釋名。言通別者。若通途論之。名小為偏於理不失。但偏義則遠與小不同。是故須以此門辨別。譬如下譬也。若此土論月則以十五日為半。今云半者。一取西方黑白各半。二取月形增減至半。月末為晦。晦暗也。月初為朔。朔穌也。朔譬漸初即弓娥是。十五日曰望謂十五日日月相望。即滿月也以譬漸極。故說文云。月者亦名望舒。月望則舒。今云半者即用此土上下兩半。名為弦也。月形如弓滿張弦也。上弦月初八九。下弦二十二三。由前月大小別故。致使後月兩弦賒促。今但以弦譬於半小。時剋定故從朔至望。餘闕一日並譬於偏。偏義長故。故云始自弓娥終十四夜。以月初出如似娥眉復如弓滿。故說文云。月者亦名恒娥亦名常娥。月初月末恒常如娥。故知偏半二義不等。小半下合。故大經下引證者。邪故同偏。當知迦葉未聞圓伊常住已前。皆名為偏。唯以下結示。如文。

次に、偏と円について明らかにする。前の二章に対して通と局を弁別する。さらに譬えを用いて、その義を自然に明らかにする。

最初の文で名を解釈する。「通」と「別」について言うならば、もし通途的に論じれば、小乗を名づけて「偏」とすることは道理において失うところはない。しかし「偏」の義は、遠く小乗とは異なる。それゆえ、この門をもって弁別する必要がある。

譬えの文は以下の如し。もしこの国(インド)で月を論じるならば、十五日をもって половина(半月)とする。今ここで「半」と言うのは、第一に西方(インド)の黑白それぞれ半分を取る。第二に月の形が増減して半分になることを取る。

月末を「晦」という。「晦」は暗い意。月初を「朔」という。「朔」は蘇る意。朔は漸初(修行の初期)に譬え、すなわち弓娥(三日月)である。十五日を「望」といい、十五日は日月が相対する、すなわち満月である。これを以て漸極(修行の極み)に譬える。

ゆえに『説文』に「月はまた望舒と名づく。月望めばすなわち舒(のび)る」とある。今「半」と言うのは、この国の上下両半を用い、これを「弦」と名づける。月の形は弓のように、満ちて弦を張る。

上弦は月初の八日・九日、下弦は二十二日・二十三日。前の月の大小の違いによって、後の月の両弦に長短の差が生じる。今はただ弦を以て半・小に譬える。時が定まっているからである。

朔から望に至るまで、残る一日はすべて偏に譬える。偏の義が長いからである。ゆえに「弓娥より始まり十四夜に終わる」と言う。月初めの出で立ちは娥眉(まゆ毛)の如く、また弓の満ちたるが如し。故に『説文』に「月はまた恒娥と名づけ、常娥とも名づく。月の初めと終わりは恒常に娥の如し」とある。

これによって知るべし、偏と半の二義は等しくない。

「小半」の下は合意(まとめ)。「大経」の下に引用する証拠は、邪であるがゆえに偏に同じ。迦葉が円伊常住を未だ聞かざる以前は、すべてを偏と名づくことを知るべし。

「唯」の下は結びを示す。文の如し。

○四明漸頓者。初釋名也。三觀三智次第而入。藉者由也。因空入假因假入中。故云藉淺。為中道故先修二觀。為利他故先斷己縛。故云由深。足極二名有通有別。通則俱通初後。別則極後足初初心所觀萬法具足。惑盡德滿至後方極。此亦下明同異也。漸扶於偏頓扶於圓。旁出異義更互相成。大小半滿亦復如是。三教下略解。今更下料簡。亦是廣解。於中初約四句料簡。乃至下文約七教簡。義正明開但未若權實章中。其名委悉。初四句中前之二教是漸非頓者。據設教意而得漸名。非稟教者得斯漸稱。別教得為第三句者。解頓行漸。解但知於頓理而已。行必經歷恒沙劫數。故知此教初從方便。故方便之言兼具二義。一藉地前之方便。二聞但中之方便。復次下約觀教行證四法分別。於中且約教證二道以釋四法。故使四法各有權實。前之二教四法俱權。別教則三權證實。圓教則四法俱實。言唯此等者約人則對斥二乘。約理則對斥二諦。教行二種此說可知。言入室等者。慈室解脫。忍衣法身。空座般若。觀於三德故云行實。約六即位例諸可見。次前兩觀下約教行證人四法。以簡前之四法將於三法對證以簡。此中合觀入行。三法對教以簡權實。則三法及教因通果塞故前之二教在因則四法俱有。稟於權教行於權行。以入因位而成因人。在果則但有成佛之教。無實行人來證此果。是故無也。何以故下釋出無意。以灰身故故並無於行證及人。假使用於三十四心但成滅盡。非佛果相。又入滅者語未會前。若至法華轉成因位。二乘尚會況復三祇。別教有無似同前二。但至初地自會入圓。故不同前貶成灰斷。初地尚爾下舉淺況深。言後果者應言妙覺。初地尚無何況妙覺。以別初地亦能八相真因似果。故須況之。以因顯果是故舉因。以我之果成他之因。故云無人。初地入住此為正文。於教道文不須疑也。又教證之名亦可通圓。未入初住名為教道。若破無明方云證道。若判權實與別不同。借於地義以釋圓義。故四念處云。別教唯斷教道說故。圓具二意。教道云斷證道不斷。故知因人不到果者。有二義故。一者因人縱破十二品失妙覺位。但成圓家第二行故。二者初地即入初住。況到妙覺。是故文云何況後果。復次前三下約開會簡。別亦知中。今言不知者。前三不知圓理故也。法華開竟俱名為頓。言雖非即者。非謂所行開仍非即。但判其人昔日所行今開成頓。昔行得為頓家之漸。非於昔日漸即是頓。故云非即。昔行不開尚不名漸。豈是漸頓及以即頓。今若開竟漸即是頓。故云是菩薩道。但為異於初後俱頓。從昔因說故云漸頓。依本習入故云各乘。稱本習故故云適願。開其所習故云決了。法若猶漸何名經王。經王本說未開之前。理元圓妙豈待會耶。會已仍漸何名得入。況從頓開漸以機生未轉。是故致有別接之言。言別理者。是通別之別非圓別之別。然又別理義通圓別。別帶教道今置不論。故涅槃下引例助釋。若二乘開權不得入者。何故大經得二乘果情慕圓常。但法華已前情隔謂異。大經不隔功由法華。故云亦名開漸顯頓。又別接之言義兼二意。一者法華已前彈斥洮汰。此意正當別理接之但實隱在權說未彰灼。二者至法華會名會為接。此是接引之接非交際之接。是故二義前異後同。復次四種下約不定者。初漸頓四句義當八教中二。次兩重四法義當漸中開四。是故更約不定簡之。不明祕密其意準前。不必併待等者。前三教人隨位進入必是菩薩。故云不必併待開漸。所以下譬也。譬昔聞了因隨味能發言。五味者。泛云味變仍能殺人。非謂法華名第五味。法華名定非不定故。此是法華已前約行五味。今此文中但約機緣有不定相。故非全約法華前文。眾生下合譬。言賒促者。理教行證遞論賒促。約時約行兩種五味。隨其近遠遞論賒促。如辟支佛者。次引支佛以例理發。小乘之人至無佛世。未有教行而發悟故。故名理發。理發亦爾下引同也圓修之人亦復如是。若佛未出若聞華嚴。總名不定總得名乳。何者。凡夫全生。道理如乳。華嚴約時復名為乳於華嚴中四法復判五味發者。聞教如乳發。觀行如酪發。相似如二酥。增道如醍醐。相似發證故云相似證發。於證復發故云亦是。問。增道是定何名不定。答。次第增道名之為定。若超證者名為不定。亦可聞教及觀俱名乳發。相似位中兼於三味。則七信已前名之為酪。八信已上名為二酥。若前三教下。約前三教教行證位而發於圓。名為三家入則不定。是則家博地聞教名為教發。內外凡位名為行發。至聖位發名為證發。言賢聖者即賢家之聖。方便是賢。豈更從賢。復有下。重更通途釋不定義。不定名同以義異故。而非殺人。先例真諦。如從五停為修無漏。發得煖解。非本所期。亦得名為不求自發。此解起時猶屬有漏。故云有漏不求自發。三惑全在。故云全不殺於二死。惑為死因因中說果。是故云也若修中道去。正約修中以明不定。亦非殺人。從初發心本修圓常。麁惑前去義當無漏。此之無漏不求自發。不破無明而非殺人。人不見之謂為漸頓。復次四種止觀下。約漸圓等料簡同異。先立四教。各以因位名之為漸。各以極果名之為圓。以此圓漸二名濫故。從圓圓下二句互簡。故知下結也。雖復簡之二義仍在。是故圓果非三教果名為圓圓非漸圓也。圓因不同前三教因。故云圓漸非漸漸也。亦應更云漸圓非圓圓漸漸非圓漸。下文釋義四句即足。法華疏者指玄文中。彼亦具明兩種圓漸。及賢聖等四句料簡。然漸漸下料簡開通。則有可開不可開故。故須簡之。三教佛人不可開故。開前三教因位之人並皆入圓。漸漸開之並成圓漸。何者下釋也。前三權果本是圓果。垂為三迹。豈可更開今成圓佛。例下例餘四章。開通亦爾。大小兼得半滿漸頓復兼偏圓。是故但云大小權實。故云不煩文也然大小半滿先須分別。通途言之。如大大者。或指衍中三教因人。或指衍中二乘之人。大小者或指三教果頭之人。或指圓教因位之人。或唯指圓極果之人。小大者。或指三藏菩薩之人。或唯指於三藏佛果。大小既然。半滿亦爾。是故不同權實等三。今若開通準例說者。亦望餘三分齊而說。言小大者謂三藏佛。小小者謂三藏因人。大大者即指三教佛果。大小者謂三教因人。半滿例說亦應可解。開通進否例前可知。觀心往推等者。諸佛契心如契而說。大師亦是推觀而說。心與法合。故觀心推不違法相。為不信者。復引證成頓漸等義。四教之文當分漸圓。第六撿文未見恐是文誤。文中不云菩薩者。以不斷惑同凡夫故。二十二文具如所引。第九文同。經最後云。善男子。如牛新生血乳未別。今迴在前取義便故。以和血乳在淨乳前。雪山等文在二十七。經云。雪山有草名曰忍辱。牛若食者即得醍醐。第八又云。雪山有草名曰肥膩。牛若食者鈍出醍醐。醍醐無有青黃赤白。水草因緣令其色異。是諸眾生亦以無明業因緣故。生於二相。若無明轉即變為明。次文又云。雪山有草名曰肥膩。牛若食者即得醍醐。眾生薄福不見是草。佛性亦爾。煩惱覆故不見佛性。三文同有醍醐之名。合文少別。前文修八正道次云轉即為名。並是圓意正當今文。後云煩惱覆故即別意也經語意密善須明鑒。次第八文證不定者亦恐文誤應在二十七經。師子吼難云。眾生之身六道差別。云何而言佛性是一。佛言。譬如有人置毒乳中。乃至醍醐皆悉有毒。乳不名酪乃至醍醐。名字雖變毒味不失。若服醍醐亦能殺人。實不置毒於醍醐中。佛性亦爾。雖遍五道受別異身。而是佛性常一不變。問。經譬五道今譬五味。云何得同。答。人必約法。大經約人。遍五道身宿種不斷。於五道中毒發不定。今以五道聞法歷味義不相違。既約聞教必歷五味。即諸經初八部等是。方等亦有地獄眾來。故經一五以譬二五。於理無傷。今約下引例。以此一科例前後文。皆應作此料簡引證。雖可例此不無小異。如向分別開通文意。觀之可知。

○ 四明漸頓について。まず名称を解釈する。三つの観と三つの智慧は順を追って入る。「藉」は「よる」という意味。空を因として仮に入り、仮を因として中に入る。よって「浅きに藉る」という。中道のため、まず二つの観を修める。他を利するため、まず自らの束縛を断つ。よって「深きによる」という。「足」と「極」の二つの名称には通と別がある。通ならば初めと後れに共に通じる。別ならば極は後、足は初め。初心の者が観ずる所の万法は全て備わり、煩悩が尽き功徳が満ちて、後に至って初めて極まる。これより下で同異を明かす。漸は偏を助け、頓は円を助ける。傍らに出づる異義は互いに更に相成す。大小半満もまたこの如し。三教より下は略解である。今、更に下で料簡する。これも広解である。その中で、初めに四句に約して料簡し、乃至下文の七教に約して簡ぶに至る。義は正に開くことを明かすが、ただ権実の章におけるように、その名称が委細に尽くされているわけではない。

初めの四句の中の前の二教は「漸にして頓ならず」とするのは、教えを設ける意に拠って漸の名を得たのであり、教えを授かる者がこの漸の称を得たわけではない。別教が第三句となるのは、解は頓にして行は漸である。解はただ頓理を知るのみ。行は必ず恒沙の劫数を経歴する。故にこの教えは初めから方便に従うことを知る。ゆえに「方便」の言葉は兼ねて二つの義を持つ。一つは地前の方便に藉り、二つは但中の方便を聞くことである。「復次」より下は、観・教・行・証の四法に約して分別する。その中で、ひとまず教道と証道の二道に約して四法を釈する。故に四法にそれぞれ権実有らしめる。前の二教は四法全て権、別教は三権にして証は実、円教は四法全て実である。「唯此等」と言うは、人に約しては二乗を対斥し、理に約しては二諦を対斥する。教・行の二種はこの説により知るべし。「入室等」と言うは、慈の室は解脱、忍の衣は法身、空の座は般若。三徳を観ずるを「行実」と云う。六即に約するは例により全て見るべし。

次に「前兩觀」より下は、教・行・証・人の四法に約して、前の四法を簡ぶ。将に三法を証に對して簡ぶ。此の中に観を行に合わせ入れる。三法を教に對して権実を簡ぶ。則ち三法及び教は因に通じて果に塞がる。故に前の二教は因に在っては四法全て有り。権教を禀け、権行を行じ、因位に入りて因人と成る。果に在ってはただ成仏の教え有るのみ。実の行人、此の果に来り証すること無し。故に無し。「何以故」より下に無き所以を釈す。灰身を以ての故に、行・証及び人を並び無し。仮令三十四心を用うも、ただ滅尽を成すのみ。仏果の相に非ず。又、入滅の者は語未だ会せざる前。若し法華に至り因位に転ずれば、二乗すら尚会す。況んや三祇をや。別教の有無は前の二に似て同じからず。ただ初地に至り自ら会して円に入る。故に前の如く貶して灰断と成すに同じからず。初地すら尚爾。下に浅きを挙げて深きを況す。「後果」と言うは、応に妙覚と言うべし。初地すら尚無し。況んや妙覚をや。別の初地も亦八相を能くし、真因、果に似たればなり。故に須く之を況すべし。因を以て果を顕す、故に因を挙ぐ。我が果を以て他が因と成す、故に人無しと云う。初地、初住に入る、此れ正しき文なり。教道の文に於いて疑うことを須いず。又、教・証の名は通じて円にも通ずべし。未だ初住に入らざるを名づけて教道と為す。若し無明を破すれば方に証道と云う。若し権実を判すれば別と同じからず。地の義に藉りて以て円義を釈す。故に四念処に云く「別教は唯断、教道説く故。円は二意を具す。教道は断ずと云い、証道は断ぜず」。故に知る、因人、果に到らざるは、二義有り。一には、因人、縦ひ十二品を破し妙覚位に失すれども、ただ円家の第二行と成るのみ。二には、初地即ち初住に入る。況んや妙覚に到るをや。是の故に文に云く「何況後果」と。

「復次」より「前三」の下は、開会に約して簡ぶ。別も亦中を知る。今、知らずと云うは、前三、円理を知らざる故なり。法華開き竟りて倶に名づけて頓と為す。「雖非即」と言うは、謂う所の行、開くも仍ほ即に非ずと謂うに非ず。ただ其の人、昔日の所行、今開きて頓と成るを判ず。昔の行、頓家の漸と為るを得。昔日の漸即ち是れ頓と為るに非ず。故に「非即」と云う。昔の行、開かざれば尚漸と名づけず。豈に是れ漸頓及び即頓ならんや。今、若し開き竟れば漸即ち是れ頓。故に「是菩薩道」と云う。但だ初めと後れ倶に頓なるに異なるが為に、昔の因に従い説く、故に「漸頓」と云う。本の習いに依り入る、故に「各乘」と云う。本習いに称う、故に「適願」と云う。其の習う所を開く、故に「決了」と云う。法、若し猶漸ならば、何ぞ経王と名づけん。経王、本と説くは未だ開く前に非ず。理、元より円妙、豈に会うを待たんや。会し已りて仍ほ漸ならば、何ぞ得入と名づけん。況んや頓に従い漸を開くは、機、未だ転ぜざるが故に未だ生ぜるに非ず。是の故に別接の言有り。「別理」と言うは、是れ通別の別にして、円別の別に非ず。然るに又、別理の義は通じて円別なり。別は教道を帯ぶ、今は置いて論ぜず。故に「涅槃」より下、例を引き助けて釈す。若し二乗、権を開きて入ることを得ざれば、何の故に大経に二乗果の情に圓常を慕うことを得るや。但だ法華已前は情、隔たりて謂いて異と為す。大経、隔たらざるは、功、法華に由る。故に「亦名開漸顯頓」と云う。又、別接の言は義兼ねて二意有り。一には、法華已前、弾斥洮汰(はじきしりぞけること)。此の意、正に別理の接に当たる。但だ実は権に隠れて説未だ彰灼せず。二には、法華の会に至り名づけて会を接と為す。是れ接引の接にして、交際の接に非ず。是の故に二義は前は異なり後に同じ。

「復次四種」より下、不定に約す。初め頓漸の四句は義、八教の中の二に当たる。次の二重の四法は義、漸の中の開きて四つに当たる。是の故に更に不定に約して之を簡ぶ。祕密を明かさざるは、其の意、前に準ず。必ずしも併せて開漸を待たず等の者。前三教の人、位に随いて進入するは必ず是れ菩薩。故に「必ずしも併せて開漸を待たず」と云う。所以に下の譬え有り。譬えば昔、因了を聞き、味に随いて発することを能くするが如し。五味とは、汎く味変ずと雖も仍ほ能く人を殺す。法華を第五の味と名づくるに非ず。法華は定と名づけ、不定に非ざる故。此れ是れ法華已前、行の五味に約す。今、此の文の中に、但だ機縁に不定の相有りと約す。故に全く法華前の文に約するに非ず。「眾生」より下は合譬。「賒促」と言うは、理教行證、互いに賒促を論ず。時と行の二種の五味に約し、其の近遠に随い互いに賒促を論ず。「如辟支佛」の者は、次に支佛を引き例として理発を示す。小乗の人、無仏の世に至る。未だ教行有らざるに発悟するが故に。名づけて理発と為す。「理發亦爾」より下、同じきを引く。円修の人も亦復是の如し。若し仏、未だ出でず、若し華厳を聞くは、総じて不定と名づけ、総じて乳と名づくるを得。何者。凡夫は全生、道理は乳の如し。華厳は時に約して復た乳と名づく。華厳の中に於いて四法復た五味発すと判ず。教を聞きて乳の如く発し、観行は酪の如く発し、相似は二酥の如く、道を増すは醍醐の如し。相似発、証す、故に「相似證發」と云う。証に於いて復た発す、故に「亦是」と云う。問う。道を増すは是れ定、何ぞ不定と名づく。答う。次第に道を増すを名づけて定と為す。若し超証の者は名づけて不定と為す。亦可、教を聞く及び観、倶に乳発と名づく。相似位の中、三味を兼ぬ、即ち七信已前を名づけて酪と為し、八信已上を名づけて二酥と為す。「若前三教」より下は、前三教の教行証位に約して円に発することを、三家の入れば則ち不定と名づく。是の時家、博地に教を聞くを名づけて教発と為す。内外凡位を名づけて行発と為す。聖位に至り発するを名づけて証発と為す。「賢聖」と言うは、即ち賢家の聖。方便は是れ賢。豈に更に賢に従わんや。「復有」より下。重ねて通途に不定の義を釈す。不定は名、同じくして義を以て異なり。而も人を殺さず。先ず真諦に例す。如、五停に従い無漏を修せんと為し、煖解を発する。本の期する所に非ず。亦、名づけて不求自発と為すことを得。此の解起つ時、猶有漏に属す。故に「有漏不求自發」と云う。三惑、全く在り。故に「全不殺於二死」と云う。惑は是れ死の因。因の中に果を説く。是の故に云く「若也」。若し中道を修せん去りては。正に中道を修するに約して不定を明かす。亦、人を殺さず。初発心より本と圓常を修す。麁惑、前より去るは、義、無漏に当たる。此の無漏は、自ら求むるに非ずして発す。無明を破らず、而も人を殺さず。人の之を見ざる、謂いて漸頓と為す。

「復次四種止觀」より下は、漸円等に約して同異を料簡す。先ず四教を立て、各、因位を以て之を名づけて漸と為し、各、極果を以て之を名づけて円と為す。此の円漸の二名、濫るを以ての故。円円・円漸の二句より下、互いに簡ぶ。故に「知る」より下は結ぶ。雖復簡ぶと雖も、二義仍存在り。是の故に円果は三教の果に非ず。名づけて円円、漸円に非ずと為すなり。円因は前三教の因と不同なり。故に「圓漸、漸漸に非ず」と云う。亦、応に更に云く、漸円は円円に非ず、漸漸は円漸に非ずと。下文の釈義は四句即ち足れり。法華疏は玄文を指す。彼に亦具に二種の円漸及び賢聖等の四句料簡を明かす。然るに「漸漸」より下は開通を料簡す。即ち開く可きと開く可からざると有るが故。故に須く之を簡ぶべし。三教の仏人は開く可からざる故。前三教の因位の人を開けば、並びに皆円に入る。漸漸開き、之を並び円漸と成す。何者より下は釈す。前三の権果は本と是れ円果。三の迹と垂る。豈に更に開き今、円仏と成らしむることを得んや。下に余の四章に例す。開通も亦爾。大小は兼ねて得。半満は漸頓に、復た偏円に兼ぬ。是の故に但だ「大小權實」と云う。故に「不煩文也」と云う。然るに大小半満は先ず須く分別すべし。通途に之を言えば、大大の如きは、或いは衍中の三教の因人を指し、或いは衍中の二乗の人を指す。大小は、或いは三教の果頭の人を指し、或いは円教の因位の人を指し、或いは唯、円の極果の人を指す。小大は、或いは三蔵の菩薩の人を指し、或いは唯、三蔵の仏果に於いてす。大小、既に然り。半満も亦爾。是の故に権実等の三と不同なり。今、若し開通すれば、準例に説くに、亦、望みて余の三分斉を以て説く。「小大」と言うは、謂う所の三蔵仏。「小小」は、謂う所の三蔵の因人。「大大」は、即ち三教の仏果を指す。「大小」は、謂う所の三教の因人。半満も例説すれば、亦応に解すべし。開通の進否は、例に前きて知るべし。「觀心往推」等は、諸仏の契心、契して説くが如し。大師も亦是れ観を推し而も説く。心と法と合す。故に観心推し法相に違わず。信ぜざる者の為に、復た証を引きて頓漸等の義を成す。四教の文は当に分ちて漸円。第六、文を撿するも未だ見えず。恐らくは是れ文の誤り。文の中に菩薩と云わざるは、惑を断ぜざる、凡夫と同じきを以ての故。二十二の文、具に所引の如し。第九の文同じ。経の最後に云く「善男子。如牛新生血乳未別」。今、前に迴し取りて義の便を便ならしむ。血を乳に和するを、浄乳の前に在り。雪山等の文は二十七に在り。経に云く「雪山有草名曰忍辱。牛若食者即得醍醐」。第八に又云く「雪山有草名曰肥膩。牛若食者鈍出醍醐。醍醐無有青黄赤白。水草因縁令其色異。是諸衆生亦以無明業因縁故。生於二相。若無明轉即変為明」。次の文に又云く「雪山有草名曰肥膩。牛若食者即得醍醐。衆生薄福不見是草。佛性亦爾。煩悩覆故不見佛性」。三文同じく醍醐の名を有つ。文を合わせれば別少し。前の文に八正道を修すれば、次の文に「轉即為名」と云う。並びに是れ円意。正に今の文に当たる。後の文に「煩悩覆故」と云はば、即ち是れ別意なり。経の語、意は密なり。善く明鑑すべし。

次に第八の文、不定を証するも、亦た恐らくは文の誤り。応に二十七経に在るべし。師子吼、難じて云く「衆生之身六道差別。云何而言佛性是一」。仏言く「譬如有人置毒乳中。乃至醍醐皆悉有毒。乳不名酪乃至醍醐。名字雖変毒味不失。若服醍醐亦能殺人。実不置毒於醍醐中。佛性亦爾。雖遍五道受別異身。而是佛性常一不変」。問う。経は五道に譬うも、今は五味に譬う。云何して同じきを得る。答う。人は必ず法に約す。大経は人に約す。五道の身に遍く宿種、断えず。五道の中に於いて毒発する。不定なり。今、五道を以て法を聞き味を歴る。義、互いに相違せず。既に教を聞くに約すれば必ず五味を歴る。即ち諸経の初の八部等是れなり。方等にも亦有り、地獄の衆来ること。故に経、一つの五を以て二つの五に譬う。理に於いて傷あること無し。今、下に約して引例す。此の一科を以て前後の文に例す。皆応に此の料簡引証を作すべし。例す可しと雖も、小異無きに非ず。向の開通の文意は分別の如く、観れば即ち知るべし。

○五權實者。初釋名。此權本是諸佛妙體。體內方便故名權謀。如不思議權而設於謀。故曰權謀。謀謂謀度。此是不謀而謀故曰權謀。非藏通等有謀之權。此名謀權。故引法華以釋權實。即是體內之權故也。暫用等者暫用法華釋名之文。來此以釋權實之名。問者。何意用權復用實耶。答意者。初總明用教之意。眾生機薄以權成熟。若機熟已開權廢權。施開廢等。皆約四悉。為是義故具用權實。次明興廢之相。五味判者。若不約五味無以顯於法華實部。是故下結教意。今更下開也。前約四悉展轉興廢。未是約時約部永廢。故知前文但是判也。故約料簡以明於開。則四教皆實。又四種下。以教望理而論權實。則理實教權。教中雖有權實之名。並是為他不獲而說。故名為彊。等是下徵難也。教中權實既並彊名。何不將實為權名權為實。以有下答。今言彊者。約有說邊名為彊說。彊即是權名說為權。直約說邊不可權實互相混雜。又此下。更判教中。若權若實皆非權實。何以故下釋也。以此權實皆非權非實。不可作權實說。此非權非實下示同。雖雙非權實。不得異於如向所明開權之實。向以下重示不異之理。以開權故見於實理。此之實理秖是向來兩重雙非。一者雙非權實二理。二者雙非說權理實。皆是約理不可說故。故知此理即前實理。若異者下遮於異義。若雙非之理異於實理。實理之外應有別理。既無能照別理之慧。又無所照別理之境。故實理外無別雙非。對權下釋無別理所以。對破權教故說實教。是則有權有實實亦詮理。若廢權實之教則云非權非實廢教亦是顯於一實。對破理教亦是顯於一實。是故雙非之理不異一實之理。即教下開教顯理。廢教廢權尚即顯理。況即文字是實相理。當知權實之教亦不當於權實。此之雙非又不異於前雙非故。故云無二無別。隨說異故不合。理不殊故不散。非權非實下。以一止觀結。觀故下辨異名。此非但下總結也。如向所開權實俱理理無權實故皆不當權之與實。猶屬等者。恐聞雙非復謂過實。是故結云祇是顯實。問。玄文諸義並先開後廢。如向所引何故先廢後開。答。玄文約喻如世蓮華必先開後落。此從法便故先廢後開。既廢權已實則可見。義之如開。又此廢文與彼稍異。彼約法華廢前權部權教。復須開前權部權教。今約諸文展轉相廢。猶似未開故在開前。今具二義故廢在前。又廢同於待開同於絕待前絕後未失常規。又楞伽人云。此經開權與法華義等。若爾。何故前後諸文。皆斥二乘及以外道。故第三云。一切愚夫禪者謂二乘。此斥三藏也。二觀察禪。謂離自他得人無我。亦離外道。豈非通教。三真如禪。謂知念不起。豈非別教。四如來禪。謂入佛地。豈非圓教。故知彼經猶存權乘。以大斥小亦與前明位義意同。卷末又云。一乘道者。唯如來得。非外道二乘梵天之所得也。豈與法華邪見嚴王。五逆調達。畜生龍女。敗種二乘。皆悉得記作佛耶。問為實施權下。更料簡理教接義也。從初至接入何位總有五問。以一問字該下五文。一問為權為實。二問何意不預四數。三問何故但接於通。四問何位被接。五問接入何位。答中具答五問。仍為兩重。初約教。次約諦。初約教中。答初問者。被別接人不必盡證。是故則有權實不同。四教下答第二問。以別接者但用別教之終。已如前說。諸教下答第三問。玄文具明以圓接通以圓接別。彼約教道。於教道中或以權教接權。或以實教接權。今但約教所詮理邊。但以權理被實理接於義略足。是故但云內外交際須立一接。餘如前辨。若齊下答第四問。八地方接此據下根。九地下答第五問。從下根來多至初地。中上入者此即不定。又案位入則在地前。勝進入者則至初地。言九地伏十地破者。仍本立名名九十地。入別圓教。應云初地及以初住。若就下約諦以答。但答四問闕答第二。以第二問但問何意不預四數。非正顯理。故略不答。答四問中仍不次第。初答第一問者。空中合論。空即是權。中即是實。破見思下答第四問。即第八地方被接也。問。何故須至第八方接。答。為欲示於真內中故。故待證空方為點示。令深觀空即見不空。若爾。中上二根其義云何。答。中上二根亦見真已方示中空。但前二根真空尚淺是故說教多附下根。聞已下答第五問。但云別位不語位名者。一以入者不定其位。二者別在初地。以地前位與前教共。故指初地名為別位。猶如圓教始終俱圓。若判圓位則在初住三藏菩薩下答第三問。菩薩伏惑已如前說。兩教二乘法華方會。亦不論接。問。法華玄云。接非會義。今約法華秖應論會。何故論接。答。前後諸文會義非一。今論修觀亦可重述法華前教以例行人。論於教門通塞之相。是故明之未妨於會。況接在菩薩與會不殊。又前後文處處皆明可思議等。但於顯為不思議故。前待後絕。次第應然。何須問言不應論接。問三權下簡理教機實。有二問答。初文可見。次問答中。初問文中含於二意。初問若知何意名權者。問通別兩教仍名權耶。次問若言不知二經相違者。難三藏教初後不知。即與涅槃勝鬘相違。彼之二經皆有明文。云三藏之答中。先答初意。別帶方便。雖初聞實從教成權。通教八地可接者知。故教亦權。若言下答第二意。初先牒難。次大經下通難。於中先通大經。仍先出大經為彼難辭。準應前文先列二經以為難辭。後方結難。為避煩文故於答中。方始引經難辭竟。後方正答以申經旨。故大經三十二云。雖信別相不信一體無差別相。名信不具。信不具故所有禁戒亦不具足。信不具故所有多聞亦不具足。第三云。善男子。應當修習佛法及僧而作常想。此三寶者無有異相。無無常相無變異相。若於此三修異相者。當知此輩清淨三歸無所依處。所有禁戒皆不具足。終不能得聲聞緣覺菩提。若修常想則有歸處。如所立問據此二文合為一問。牒難辭竟。次此義下今家為通。初明不聞則不知。言自力者。若無諸佛菩薩願力。加彼今知。尚不得在方等聞彈般若加說。況於法華親蒙記莂。次舉譬者。天眼未開譬自力不知。若聞而知譬被彈等。羅漢下合不知。故法華下。引證自力不知他力方知。又云下。結前不聞則自力不知兼舉菩薩以況聲聞。次經稱下正申經意。若其不知經云何通。故次申云齊知己理。所以大經作此說者。舉昔斥今。聲聞不聞真諦常住一體不變。小乘歸戒尚不具足。況復未聞大乘常住。豈能具足菩提之道。故準法華自此已前佛眼未開。未蒙授記。仍於所得生滅度想。故於淨名自悲敗種。若佛滅後縱生滅想。亦遇四依而聞常住。南嶽釋云。餘佛者四依也。若決了已復非二乘。故知法華已前不得彰灼云知。所以經云知者。但知真諦。故引須菩提不禮色身者。以於石室見小乘法身無去來故。亦如陳如得無生證。無生證者秖是常住。此並小乘真諦常住耳。又律儀下。次申兩文歸戒之難。若能見空尚得無漏律儀與道俱發。名為具足。何況不具事律儀耶。故華嚴下。引證真諦得名常住。既云常住二乘亦得。復不名佛。當知常住語通。何必局大。若不下結成申難之意。若據聲聞不知之文。則不應能具於禁戒。禁戒已具。常名不應局在於大。又舉例下引例釋成。先引經。欲名下例並結成。故三藏下結答。如前所釋。實不違於涅槃文也。是則涅槃經文意兼兩向。在昔則須知小常。在今則須知妙常。勝鬘下次通勝鬘經意。亦先牒難辭。次申經意。若欲銷通勝鬘經意。須作兩種初業釋之。初文且標久遠初業。故云根本。莫不結緣十六王子。且指迹化故曰遠尋。若取下近指此生。初聞四諦滅理真常。此意同前。若古昔下重釋久遠。即是順前問答。今日聲聞具禁戒者。良由久遠初業聞常。若昔不聞小尚不具況復大耶。若全未曾聞大乘常既無小果。誰論禁戒具不具耶。為實施權覆相論具。逗彼久遠初業聞常。此世顯論得記方具。畏怖生死等者。如舍利弗度布施河。故大論十二云。舍利弗六十劫中行菩薩行。有婆羅門從其乞眼。舍利弗言。當乞有所堪者。此眼無堪。婆羅門言。不須身及財物唯須於眼。若汝實行檀者。當以眼與我。便出一眼與之。婆羅門得已嗅之。語言。此眼臭唾而棄之以脚踐之。舍利弗言。此弊惡人何由可度。實無所用而彊索之。不如自度早免生死。退大已後輪迴生死名不到彼岸。法才王子者。本業瓔珞上卷云。第六住菩薩止觀現前。值佛菩薩及善知識之所護故。入第七住已得不退。人無我畢竟不生。若不爾者。一劫乃至退菩提心。如我初會八萬人退。謂淨目天子法才王子舍利弗等。欲入七住值惡知識退入凡夫。乃至千劫作大邪見及五逆罪無惡不造。及涅槃中退轉菩薩者。二十六經師子吼白佛言。佛性若常何故有退。佛言。譬如二人俱聞他方有七寶山。一人患路遠多難乏少糧食。便退不往。一人以命往至於彼多獲珍寶。退者見已心熱復去。其退轉者喻退菩薩。不退轉者喻不退菩薩。豈以退故令道無常。譬如下舉譬。大地者。初發菩提心也。依初發心而有小乘初業等用。故。小乘初業如樹萌芽。皆由菩提地而得成就。小乘下合譬。言羯磨不成者。所謂久遠必無大者。則令小乘秉法不成。以無本故諸行不成。如樹無根不成華果。時機未熟權立小名。汝等所行是菩薩道。非始得記方名大人。故知無心趣於寶渚。化城之路一步不成。豈能入城生安隱想。不信常住聲聞禁戒皆不具足。斯言有徵。此斥都未發大心者。則成無本。雖復無本據受者心。據佛本懷已施大化。有無之意須審思之。若作此釋等者。此顯兩解初業意也。四念初業不違於小。久遠初業不達於大。

○五権実について。まず名を釈する。この権は本来、諸仏の妙体であり、体内の方便であるから権謀と名づける。不可思議な権に基づいて謀を設けるので、権謀という。謀とは謀度のことである。これは謀らずして謀るので権謀という。蔵・通等の謀ある権ではない。これを謀権と名づける。ゆえに法華を引いて権実を釈する。すなわち体内の権であるからである。暫用等は、暫く法華の名を釈する文を用いて、ここに来たりて権実の名を釈する。問う、何故に権を用い、また実を用いるのか。答える、初めに総じて教を用いる意を明かす。衆生の機は浅く、権をもって成熟させる。もし機が熟したならば、権を開き、権を廃す。施し、開き、廃す等は、皆四悉檀に約する。この義のために権実を具用する。次に興廃の相を明かす。五味で判ずるならば、もし五味に約しなければ、法華の実部を顕すことができない。ゆえに以下、教の意を結ぶ。今更に下って開く。前は四悉檀に約して展転興廃したが、未だ時に約し部に約して永久に廃したわけではない。ゆえに知る、前文はただ判ずるのみである。ゆえに料簡に約して開を明かせば、四教は皆実となる。又、四种の下、教をもって理を望み権実を論ずれば、理は実で教は権である。教の中に権実の名があるといえども、皆、他のために不獲已に説くのであるから、名づけて彊という。等是の下、徵難である。教の中の権実は既に共に彊名である。何ぞ実を以て権と為し、権を以て実と為さざる。以有の下、答える。今、彊というは、説く有る辺に約して彊説と名づく。彊は即ち權の名であり、説を以て權と為す。ただ説く辺に約すれば、権実を互いに混雑することはできない。又此の下、更に教の中を判ずる。もし権ならば、もし実ならば、皆権実に非ず。何以故の下、釈する。この権実は皆、権に非ず実に非ず。権実として説くこと不可なり。此の非権非実の下、同を示す。雙非の権実といえども、前に明かした開権の実に異なること得ず。向の下、不異の理を重ねて示す。開権を以て実理を見る。此の実理は、ただ向來の両重の雙非なり。一には權実の二理を雙非す。二には説權理実を雙非す。皆、理に約して説くべからざるに由る。ゆえに知る、此の理は即ち前の実理なり。若し異なるの下、異義を遮す。もし雙非の理が実理に異なれば、実理の外に別理あるべし。既に別理を照らす慧なく、又別理の境を照らすことなし。ゆえに実理の外に別の雙非無し。對権の下、別理無き所以を釈す。権教に対して実教を説く。是れによって権有り実有り、実も亦理を詮ず。もし権実の教を廃すれば、非権非実と云う。教を廃するも亦是れ一実を顕す。理教に対して亦是れ一実を顕す。ゆえに雙非の理は一実の理に異ならず。即ち教の下、教を開き理を顕す。教を廃し権を廃すも尚お即ち理を顕す。況んや文字は即ち実相の理なるをや。当に知るべし、権実の教も亦た権実に当たらず。此の雙非も又た前の雙非に異ならず。ゆえに無二無別と云う。説に随いて異なるが故に合わず、理は殊ならざるが故に散ぜず。非権非実の下、一止観を以て結ぶ。観るが故の下、異名を辨ず。此の非但の下、総結す。前に開いた権実は俱に理にして、理には権実無し。ゆえに皆な権と実とに当たらず。猶属等は、雙非を聞いて復た実に過ぐることを謂うことを恐る。ゆえに結して祇是れ実を顕すのみと云う。問う、玄文の諸義は並びに先ず開き後に廃す。向に引く所の如し。何の故に先ず廃し後に開く。答う、玄文は喩に約す。世の蓮華の如く、必ず先ず開き後に落つ。此れ法に従えば便なり。故に先ず廃し後に開く。已に権を廃すれば実は則ち見る可し。義の開くに似る。又此の廃文は彼と稍や異なる。彼は法華に約して前の権部の権教を廃す。復た前の権部の権教を開くを須い。今は諸文に約して展転相廃す。猶お未だ開かざるに似て開の前に在り。今は二義を具する故に廃は前に在り。又た廃は待に同じく、開は絶待に同じ。前絶後未だ常規を失わず。又た楞伽人の云く、此の経の開権は法華と義等し。若し爾らば、何の故に前後の諸文は皆な二乗及び外道を斥く。故に第三に云く、一切の愚夫禅は謂く二乗。此れ三藏を斥く。二観察禅は謂く自他を離れて人無我を得。亦た外道を離る。豈に通教に非ずや。三真如禅は謂く念の不起を知る。豈に別教に非ずや。四如来禅は謂く仏地に入る。豈に円教に非ずや。故に知る。彼の経は猶お権乘を存す。大を以て小を斥くも亦た前の明かす位義の意と同じ。巻末に又云く、一乗道は唯だ如来得。非ず外道二乘梵天の所得。豈に法華の邪見嚴王、五逆調達、畜生龍女、敗種二乘、皆な悉く記を得て作仏すると同じくせんや。問う、為実施権の下、更に理教の接義を料簡す。初めより「接入何位」に至るまで総じて五問有り。一問の字を以て下の五文を該く。一に問う、為権為実。二に問う、何の意ぞ預め四数せざる。三に問う、何の故に但だ通を接く。四に問う、何の位に被接す。五に問う、何の位に接入す。答の中に具に五問を答う。仍ち両重と為す。初めは教に約し、次に諦に約す。初めの教に約する中、初問に答う。別に接せらるる人は必ずしも盡證せず。是の故に則ち権実不同有り。四教の下、第二問に答う。別に接くは但だ別教の終りを用う。已に前の如く説く。諸教の下、第三問に答う。玄文は具に明かす。円を以て通を接き、円を以て別を接く。彼は教道に約す。教道の中に、或いは権教を以て権を接き、或いは実教を以て権を接く。今は但だ教の所詮の理の辺に約す。但だ権理を以て実理の接を受くること、義として略ば足る。是の故に但だ「内外交際は須く一接を立つべし」と云う。余は前の辨の如し。若し齐の下、第四問に答う。八地にして方に接く。此れ下根に拠る。九地の下、第五問に答う。下根より来るは多く初地に至る。中上入者は此れ即ち不定なり。又案位入は則ち地前に在り。勝進入は則ち初地に至る。九地伏十地破と云うは、仍ち本に立つるの名を以て九十地と名づく。別円教に入れば、応に初地及び初住と云うべし。若し就の下、諦に約して答う。但だ四問を答えて第二問に欠く。第二問は但だ何の意ぞ預め四数せざるを問う。正に理を顕すに非ず。故に略して答えず。四問を答うる中、仍ち次第せず。初めに第一問を答う。空は中と合論す。空は即ち権にして、中は即ち実なり。破見思の下、第四問を答う。即ち第八地にして方に被接す。問う、何の故に須く第八に至りて方に接くべき。答う、真内の中を示さんが為の故なり。故に証空を待ちて方に点示す。深く空を観じて即ち不空を見ることを令む。若し爾らば、中上の二根は其の義云何。答う、中上の二根も亦た真を見て已に方に中空を示す。但だ前の二根は真空尚お浅し。是の故に説教は多く下根に附す。聞き已の下、第五問に答う。但だ別位と云いて位名を語らざるは、一には入者の位を定めざるに由る。二には別は初地に在り。地前の位は前の教と共なるを以て。故に初地を指して別位と名づく。猶お円教の始終俱に円きが如し。若し円位を判ずれば則ち初住に在り。三藏菩薩の下、第三問に答う。菩薩の伏惑は已に前の如く説く。両教の二乗は法華に方りて会す。亦た接を論ぜず。問う、法華玄に云く、接は会の義に非ず。今法華に約すれば秖だ会を論ずべし。何の故に接を論ず。答う、前後の諸文は会義一に非ず。今修観を論ずるに、亦可く法華前の教を重ねて述べて行人に例示す。教門の通塞の相を論ずるに、是の故に之を明かすも未だ会を妨げず。況んや接は菩薩に在りて会と殊ならず。又た前後の文は処々皆な可思議等を明かす。但だ顕に於いては不可思議と為すが故に。前待後絶。次第応に然るべし。何の須く問わん「接を論ずべからず」とや。問う、三権の下、理教機実を簡ぶ。二つの問答有り。初文は見る可し。次問答の中、初問の文は二つの意を含む。初めに問う、若し知るは何の意を以て権と名づくるかを問いて、通別の両教は仍ち権と名づくや。次に問う、若し言う不知は二経相違すとは。三藏の教の初後不知を難ず。即ち涅槃勝鬘と相違す。彼の二経は皆な明文有り。三藏の答の中、先ず初意を答う。別は方便を帯ぶ。雖も初め実を聞くも、教に従えば権と成る。通教の八地は可接なるが故に知る。故に教も亦権なり。若し言うの下、第二意を答う。初めに先ず牒難す。次に大経の下、難を通ず。中に先ず大経を通ず。仍ち先ず大経を出だして彼の難辞と為す。準ずるに、応に前文に先ず二経を列して以て難辞と為し、後に方に結難すべきに、煩文を避くるが為に答の中に於いて方に経を引きて難辞と為す。難辞竟りて、後方に正しく答えて経旨を申す。故に大経三十二に云く、雖も別相を信ずるも一体無差別の相を信ぜざるを、信不具と名づく。信不具の故に所有の禁戒も亦た不具足なり。信不具の故に所有の多聞も亦た不具足なり。第三に云く、善男子、当に修習すべし佛法及び僧にして常想を作せ。此の三宝は無有異相。無無常相無変異相。若し此の三に於いて異相を修するは、当に知るべし此の輩の清浄三帰は依る所無し。所有の禁戒は皆な不具足なり。終に声聞縁覚の菩提を得ること能わず。若し常想を修すれば則ち帰処有り。問を立つる所の如く、此の二文に拠り合して一問と為す。難辞を牒し竟る。次に此義の下、今家の為に通ず。初めに聞かざれば則ち知らずを明かす。自力と言うは、若し諸佛菩薩の願力無くんば。彼を加えて知らしむ。尚お方等に在りて弾ぜられ、般若に在りて加説せらるるを得ず。況んや法華に於いて親しく記𮍘を蒙るをや。次に譬を挙ぐ。天眼未開は自力不知に譬う。若し聞きて知るは被弾等に譬う。羅漢の下、不知を合す。故に法華の下、引證す。自力不知他力方知。又云くの下、結ぶ。前の不聞は則ち自力不知。兼ねて菩薩を挙げて以て声聞に況ず。次に経に称するの下、正に経意を申す。若し其の知らざれば、経に云うを如何ぞ通ぜん。故に次に申す、己の理を知るに齐し。所以に大経に此の作りを為すは、昔を挙げて今を斥く。声聞は真諦の常住一体不変を聞かず。小乗の帰戒は尚お具足せず。況んや未だ大乗の常住を聞かずんば。豈に能く菩提の道を具足せんや。故に法華に準ずるに、此れより已前は佛眼未開。未だ授記を蒙らず。仍ち所得に於いて生滅度の想を生ず。故に淨名に於いて自ら敗種を悲しむ。若し佛滅後は縦ひ生滅の想を生ずるも、亦た四依に遇いて常住を聞く。南嶽釈して云く、余佛は四依なり。若し決了し已れば復た二乗に非ず。故に知る、法華已前は彰灼に云知を得ず。所以に経に知と云うは、但だ真諦を知るのみ。故に須菩提の色身を礼せざるを引くは、石室に於いて小乗の法身の去来無きを見るを以て故なり。亦た陳如の無生証を得るが如し。無生証は秖だ是れ常住。此れ並びに小乗の真諦常住のみ。又律儀の下、次に両文の帰戒の難を申す。若能く空を見れば、尚お無漏律儀を得て道と俱に発す。名づけて具足と為す。何況や事律儀を具せざらんや。故に華嚴の下、引證す。真諦は常住の名を得。既に常住と云えば二乗も亦た得。復た佛と名づけず。当に知るべし、常住の語は通ず。何ぞ必ずしも大に局限せん。若し下、結成し申難の意。若し声聞の不知の文に拠れば、則ち応に能く禁戒を具す可からず。禁戒已に具す。常の名は応に大に局限す可からず。又た举例の下、例を引きて釈成す。先ず経を引く。欲名の下、例を並べて結成す。故に三藏の下、答を結ぶ。前に釈する如し。実に涅槃の文に違わず。是れ則ち涅槃経の文意は兼ねて両向に通ず。昔に在りては則ち小常を知ることを須い。今に在りては則ち妙常を知ることを須い。勝鬘の下、次に勝鬘経の意を通ず。亦た先ず難辞を牒す。次に経意を申す。若し勝鬘経の意を銷通せんと欲せば、須く兩種の初業を作して之を釈すべし。初文は且く久遠の初業を標す。故に根本と云う。莫不は十六王子に結縁す。且く迹化を指す。故に遠尋と曰う。若し取るの下、近く此生を指す。初めて四諦の滅理真常を聞く。此の意は前と同じ。若し古昔の下、重ねて久遠を釈す。即ち是れ前の問答に順ず。今日の声聞の禁戒を具するは、良に久遠の初業の常を聞くに由る。若し昔に聞かざれば、小すら尚お具せず。況んや大をや。若し全く未曾て大乗の常を聞かざれば、既に小果無し。誰か論ぜん禁戒の具不具を。為実施権は相を覆して具を論ず。彼の久遠の初業の常を聞くを逗す。此の世に顕論すれば記を得て方に具す。畏怖生死等は、舍利弗の布施河を度るが如し。故に大論十二に云く、舍利弗は六十劫の中に菩薩の行を行ず。婆羅門有り、其の所より眼を乞う。舍利弗言く、当に乞有所堪の者を。此の眼は無堪なり。婆羅門言く、身及び財物を須いず、唯だ須く眼のみ。若し汝実に檀を行ずれば、当に眼を以て我に与うべし。便ち一眼を出だして之に与う。婆羅門得て已に之を嗅ぎ、言く、此の眼は臭し。唾して之を棄て、以て脚を以て之を踐む。舍利弗言く、此の弊悪の人は何に由りてか度す可からん。実に用無き所にして強いて之を索む。自ら度り早く生死を免るるに如かず。大を退き已後、生死に輪廻して彼岸に到らずと名づく。法才王子は、本業瓔珞の上巻に云く、第六住の菩薩は止観現前す。値佛菩薩及び善知識の護る所と為るによりて、第七住に入り已て不退を得。人無我畢竟生ぜず。若し爾らずんば、一劫乃至菩提心を退す。我が初会の八萬人の退の如し。謂く淨目天子、法才王子、舍利弗等。七住に入らんと欲して悪知識に値い、退して凡夫に入る。乃至千劫大邪見及び五逆罪を作り、悪を造らざること無し。及び涅槃の中の退転菩薩は、二十六経に師子吼、佛に白して言く、佛性は若し常ならば何の故に退有る。佛言く、譬えば二人、俱に他方に七寶山有るを聞くが如し。一人は路遠く多くの難有りて乏少の糧食を患い、便ち退きて往かず。一人は命を以て往きて彼に至于り多く寶を獲たり。退く者之を見て心熱して復た去く。其の退転する者は退菩薩に喩え、不退転する者は不退菩薩に喩う。豈に退を以て故に道を無常と令めんや。譬えの下、譬を挙ぐ。大地は初発菩提心なり。初発心に依りて小乘の初業等の用有り。故に。小乘の初業は樹の萌芽の如し。皆な菩提地に由りて成就す。小乘の下、譬を合す。羯磨成ぜずと言うは、所謂久遠に必ず大無き者。則ち小乘の秉法を成ぜざらしむ。本無きを以ての故に諸行成ぜず、樹の根無くして花果を成ぜざるが如し。時機未だ熟せずして権に小と名づく。汝等の所行は是れ菩薩道なり。始めて記を得て方に大人と名づくるに非ず。故に知る、心無くして宝渚に趣く。化城の路は一步も成ぜず。豈に能く城に入りて安隱の想を生ぜんや。常住を信ぜざる声聞の禁戒は皆な具足せず。斯の言は徴有り。此れ未曾て大心を発さざる者を斥く。則ち本無しと成る。復本無しといえども、受くる者の心に拠る。佛の本懷に拠れば已に大化を施す。有無の意は須く審に思うべし。若し此の釈を作す等は、此れ両解の初業意を顕す。四念の初業は小に違わず。久遠の初業は大に達せず。

止觀輔行傳弘決卷第三之四

止観輔行伝弘決 巻第三之四


第二
第四

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