止觀輔行傳弘決卷第五之一
止観輔行伝弘決 巻第五の一
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
初釋正觀中先明來意。亦名結前生後。於中初略次廣。初文結前。今依下生後。問。前五略中有行有解有因有果。何故但云六重是解。答。言大意者。冠於行解自他因果。意既難顯還作行解因果等釋。非謂已有行果等也。故大意是總。餘八是別。別是別釋行解因果。如釋禪波羅蜜十章之初。亦是大意。總別等意意亦如是。若復有人依前五略。修行證果能利他等自是一途。即如第三卷初記也。若論文意但屬於解。於屬解中恐解不周。故須委明名體及攝法等。方堪成下十境十乘。如大意中雖云發心十種不同。及四三昧明行差別。但列頭數辨相未足。是故都未涉於十境十觀。方便望五稍似行始。若望正觀全未論行。亦歷二十五法約事生解。方乃堪為正修方便。是故前六皆屬於解。並憑教立故云依修多羅。為簡偏麁故云妙解。又所憑教不簡大小偏圓之別。以同共成一圓解故。又修多羅之名。名該三藏。如達磨欝多羅。云論本亦名修多羅故。又十二中非局一部。始終通名修多羅故。故前所引若論若律若大若小。共成妙解。故今通指云修多羅。言生後者。用前諸解方堪進行。如釋名中先待次絕。絕秖是開通德會異共成絕義。顯體四段並先偏後圓。以為待絕。體為所詮。名既開顯體亦隨名。用所開體遍攝諸法。法相難明仍分六義。遍於事理因果自他。一一並通界內界外。還以六義展轉相收。復以五門判所攝法。方曉體內所攝互融。復了融中實權不濫。更以權實四章互顯。圓解稍利。復以此解導於方便。事理融即乃名妙解。依此妙解以立正行。如此解行取於妙理。尚猶難當。況欲偏指部內一文。何由可階圓真妙位。當知未見融通之意。故須善曉前諸大章鉤鎖冠帶。收攝文旨攬入一心。仍須十法和合成乘。一一調停境境研覈。借使未悟可為妙因。如諸聲聞位登極果。方等彈斥般若被加。來至法華三請四止。猶須廣略五佛開權。法譬因緣慇懃鄭重。仍有未了來至涅槃。豈有末代鈍根潛指一句。能辨佛乘。必隨句妙通。若非六根應是五品。故觀心論云。能答問者許是五品。是則自心妙達何待他文。若讀文尚迷請不自舉。故前六重皆是妙解。故一一文中並以次第顯不次第及開權等。唯隨自意中略語觀心十界三諦者。正意秖令一心權實而修妙觀。故云依解立行。膏明下廣明來意中。先明人法之得。於中先明自行得者。並以正觀妙行對前六章妙解。初譬解行相資。膏堪續明以譬觀行。明能然膏以譬觀解。目能導足以譬止解。足能達目以譬止行。雙舉二喻同喻二法。相之與更賴之與資。綺文互異意必相通。賴藉也。資益也。故知無前六章行無由備。行解下因行障生明障生所以。三障等者。通束十境以為三四。具如下九雙七隻中說。由觀陰故諸境互生。障於止觀令不明靜。文從語便隔字為對。謂重昏翳明明即觀也。巨散動定定即止也。重字平上二音並通。頓昧從平深厚從上。巨大也。大無二聲義亦通兩。數起與厚俱得名大。謂魔障頻來來輒深重。又從對便置魔障名作昏散說。昏散是能障。重巨是障相。翳動是障用。定明是所障。所障雖本有定明習猶微。能障無始習故昏散力盛。不可等者觀魔障體性。若魔障起必妨觀墮惡。今欲設觀令勿隨勿畏。畏則一向妨於正修。隨則仍須甄簡進否。若障起時並牽為惡。則盡向惡道。障不純惡故墮惡道。約多分說。如煩惱病等七境起時。隨之並皆墮於生死。後兩起時墮於方便。但後二境在初心中。及前七境本是流轉。並有牽入惡道之義。故云多分屬於流轉。又須分別病是無記或生善惡。煩惱一向增長於惡。業中蔽度自分善惡。魔亦令人墮善墮惡。禪雖鈍善起謗故惡。依見造行亦有善惡。慢一向惡。是故惡邊則牽之墮惡。善邊則牽之墮善。若約理觀論善惡者。則後二境亦名為惡。何況前七。故淨名中須菩提章。斥三無為為三惡道。是以畏邊則同。同妨正修。隨邊則異惡道義別。當以下正明設觀。不以畏故能至菩提。雖定明昏散體俱本有。二無二體體一名殊。故昏散之名名無實體。還以寂照而為其性。故知昏散其根雖盛。當修寂照以達昏散。照此昏體一觀而三。名即昏而朗。寂此散體三止而一。名即散而寂。此即寂照病等九境。成不思議止觀大綱也。如猪下為依解起行立譬。譬向寂照之止觀也。上二譬止下二譬觀。謂動散倍增彌益止寂。昏暗彌盛倍益觀明。傳聞絕塵解云。猪揩譬止解。眾流譬止行。薪熾譬觀解。風益譬觀行。一往似得仍乖文旨。前以膏明譬解行竟。此但譬行即昏即散而照而寂。但依二譬各對止觀。此解為正。猪揩等譬止行者。大論三十釋忍度中云。若人加惡如猪揩金山。金體益真今譬安忍三障四魔轉增其寂。眾流等者如大經云。眾流入海失本名字。萬流咸會體無增損。九境彌趣止體無虧。止寂於動動增於寂。故以猪流而譬於動。復以金海而譬於寂。所以猪彌多而金體不變。流彌趣而海性無增。薪熾等。譬觀行者多薪益猛。猛不擇薪。魔障益明。明不選境。風益求羅者。大論第七釋佛放光中。問。足下乃至肉髻。一一皆放六萬億光。此猶可數。以此光照三千國土尚不可滿。何況十方。答。身光是諸光之本。從本流出無量光明。如迦羅求羅蟲。其身微細得風轉大。乃至亦能吞噉一切。光亦如是得可度機。轉增無限。今亦如是。觀力未成所照未暢。觸境成照其用轉明。諸法生故般若生。乃至非生非不生。故借求羅以喻能所。觀照於闇。闇增於明。故以薪風而譬於暗。復以蟲火而譬於明。所以薪唯多而火相逾盛。風唯猛而蟲身越大。此金剛下明觀成互益。初文且譬行解功深。金剛等者歎解功深。止觀解成割三惑陣。牢彊等者歎行德遠。止觀行積越二死野。文選甘泉賦云。覽道德之精剛。剛即金石中堅也。陣陳也。謂布列也。太公六韜中有天地人雲鳥等陣也。今金剛觀無陣不破。既三惑俱摧。如五陣咸敗。郭外曰郊。郊外曰野。郭如三百。郊如四百。野如五百。故破二死過於五百。名為越野。若至初住行雖未極。且以中行破彼同居方便二死。理雖無差然解藉行滿。得金剛名能割三惑。行藉解進。得牢彊稱能越二死。且寄隨事得名不一。文雖各說意實互資。慧淨下明互資相。慧止觀解也。行止觀行也。行得於解則行不惑。解得於行則解有剋。故云慧淨於行行進於慧。照潤下續舉四譬以譬相資。解如日照行如雨潤。照潤均等萬物可成。行解無偏眾德可備。解如商主導行若商人達。有導有達寶所可期。行解具足實相非遠。解淨於行行則無瑕義之如瑩。行嚴於解解則可喜義之如飾。彼此互資故云交絡。一體下重以此譬譬前三譬。雖曰互嚴不二而二。恐疑行解如照潤等。猶是異體。故約一實而論行解。互相匠導還顯於實。如體二手秖是一體不二而二。還能淨體二而不二。非但下明化他得。妙行既滿起教益他。故云非但自行而已。即初住位。又精通下即是起教。拓廣也。大也。遮謂遮止即如四魔。障謂障礙即如三障。三四皆實具如後說。啟開也。此約下根真出假位。中上不爾如第六卷。自匠等者。匠者成物也。器之工師也。明自他功成。若行解不周自他咸失。故大師與吉藏書云。若有解無行不能伏物。有行無解外闕化他。人師等者歎也。行解具備堪為人師。是國之寶。後漢靈帝崩後。獻帝時有牟子深信佛宗。譏斥莊老著論三卷三十七篇。第二十一救沙門譚是非中。立問云。老子曰。知者不言言者不知。又云。大辯若訥。又曰。君子恥言過行。設沙門知至道何不坐而行之。空譚是非虛論曲直。豈非德行之賊耶。答。老亦有言。如其不言吾何述焉。知而不言不可也。不知不言愚人也。能言不能行國之師也。能行不能言國之用也。能行能言國之寶也。三品之內唯不能言不能行。為國之賊。今云自匠匠他。故云國寶。牟子又云。懷金不現人。誰知其內有瑋寶。披繡不出戶。孰知其內有文彩。馬伏櫪而不食則駑與良同群。士含音而不譚則愚與智不分。今之俗士智無髦俊。而欲不言辭。不說一夫而自若大辯。若斯之徒坐而得道者。如無目欲視無耳欲聽。豈不難乎。故今自行滿須以教利人。譬能說行堪為國寶。如春秋中齊威王二十四年。魏王問齊王曰王之有寶乎。答。無。魏王曰。寡人國雖爾乃有徑寸之珠十枚。照車前後各十二乘。何以萬乘之國而無寶乎。威王曰。寡人之謂寶與王寶異。有臣如檀子等。各守一隅則使楚趙燕等不敢輒前。若守寇盜則路不拾遺。以此為將則照千里。豈直十二乘車耶。魏王慚而去。此即能說能行之國寶也。而復下正明以佛乘為施。即能化之心。問。圓頓學者元習無緣。豈至初住方云學佛。答。仰慕極位云學佛耳。又策勵中下令如行說。如來亦以所證利人。故勸說證以益於他。即是下譬也。若以權法化人法門雖開不名傾藏。今於一心開利物門。傾祕密藏示真實珠。心既不窮藏亦無量。藏既無量珠則無邊。含一切法故名為藏。理體無缺譬之以珠。是則開示眾生本有覺藏。非餘外來。此珠等者。次重寄譬以歎體用。先總約珠以歎於體。次別約譬以歎於用。初文者此珠可譬妙體之內。行解因果一切具足。放光譬慧。雨寶譬定。慧即智德。定即斷德。即定慧體也。此之二德即是自利利他二德。智即自利。斷即利他。此之自他二而不二。以此三德為他說之。今歎所說云此珠等也。照暗等者歎用也。言照暗者光之力也。破他無明之暗。言豐乏者雨之力也。豐彼法財之乏。言朗夜者轉釋照暗。言濟窮者轉釋豐乏。展轉相生以下釋上定慧相即。破惑具德智斷俱時。馳二輪下譬功成有至也。二輪遠運譬定慧橫周。兩翅高升譬定慧竪極。翥者鼓翅飛也。故雪山大士被帝釋試之。看其堪任荷負菩提重擔以不。如車有二輪則能運載。鳥有二翅堪任飛升。雖見持戒未知其人有深智不。經中本譬乘戒具足。今借以譬定慧同時。玉潤等者譬止觀行成功能外彰。玉潤譬止德碧鮮譬觀德。劉子云。山抱玉而草木潤焉。川著珠而岸不枯焉。淮南子亦云。泉有珠岸不枯。碧者。山海經云。高山多青碧。郭璞云。碧者玉也。說文云。青者美色也。鮮者好色也。亦如松竹冬色青青。並色鮮之貌。有人云。止觀解行如玉潤碧鮮。此未善文旨。此中意云。由前行解止觀成就。功能外彰自他俱益。若還秖作行解釋者。文何煩雜。香城下明法恩難報。既行解成就知荷佛恩深。如投身粉骨未足酬德。香城者。以波崙菩薩修見無竭出髓賣身。亦如雪山童子見於羅剎投身酬偈。其癡鈍等者。次明自他之失。並闕前妙解妙行故也。初明自行失者明無信故。又如法華云。諸子於後飲他毒藥失本心故。飲他見思之毒五濁障重故云深入。以毒深故失菩提心。以無信故如象無鉤。既無信鉤故聽不能解。故大經二十三云。譬如醉象狂逸暴惡多欲殺害。有調象師以大鐵鉤。鉤搨其鼻。即時調順惡心都息。眾生亦爾。以煩惱故多造眾惡。諸大菩薩以佛法鉤搨之。令聞法者因之而住。以是義故聽法因緣近大涅槃。當知宿世有聞法鉤。故令此生聽則可解。乏智慧眼等者。轉釋無解。故大品云。須以智慧眼觀知諸法實。故知凡夫生盲二乘眇目。外聽不解由內無智眼。無智眼故聞亦不別。舉身等者並譬無行。無行故不能斷惑故云不前。痺濕病也。及癩並譬不覺不解故不知。宿謗大乘故行解全闕餘殃尚積名大罪人。為是等說還增謗罪則有損無益。經云。若但讚佛乘眾生沒在苦。故云何勞為說。設下縱釋。設謂假設借使厭世不能求大。故經云。非我傭力得物之處。攀附等者舉類證釋。厭大習小如棄根本而附枝葉。故大品云。棄深般若波羅蜜如捨根本。而習二乘所應行經。如攀枝葉。是為魔事。攀葉則墮。捉幹則固。執無常枝則墮二乘地。捉大乘幹菩提心固。狗狎作務者。大品云。善男子。親近餘經不學般若。如狗不從大家乞食。反從作務者索。是菩薩魔事。菩薩亦爾。捨深般若取二乘所應行經。是為魔事。大論解云。有人先於聲聞法中受戒。後見深般若。仍著先所學而捨般若。又有聲聞弟子。先學般若不解義趣不得滋味。尚以聲聞經求道。復有聲聞先學般若。復欲信受餘聲聞經。毀般若言。是經先後無定義不相應。故捨之去。聲聞法中何法不有。六足毘曇即是般若。五部律藏即是尸羅。阿毘曇中分別禪義即是三昧。本生經中讚忍進等。即是六度足也。今文翫下之言並具論中諸意。敬獼猴等者。有人不識猴及帝釋。曾聞人說天帝飛行。後於林中見群獼猴。謂是帝釋而生敬重便為作禮。宗瓦礫等者。亦是大經春池喻意。又攀附枝葉及宗瓦礫如不識法。狗狎作務及敬獼猴如不識人。又一種禪人下次明化他人法俱失。密引慧聞已前諸失顯得一往斥其不達障難。尚失於小。況復大耶。於中先明人非。不達等者。以不能用化他安心六十四番。是故成失。況復九乘等耶。體心等者明化他法非。雖體達如空非體法實智。雖推踏不受非無作捨覺。雖調和融通非混同法界。雖覺察求覓非反照心源。雖泯然亡離非契理寂滅。雖了本無生非智鑒妙境。如此等用非不一途。故云一轍。轍者車行迹也。故知此等永迷十觀及所觀境。障難萬途等者雙斥自他。如下十境互發。既其不了。自判判他一切俱失。盲跛等者。無解如盲無行如跛。師既若是弟子可知。故俱墮落。此借百論外人被破。乃自救云。若神無觸身不應到。身神相假能有所到。如盲跛相假能有遠至。今一人具二一步不前。次瞽蹶者重釋前譬。無目曰瞽足跛曰蹶。既盲且跛而復夜遊。無解無行失佛教日遊無明夜。不應下總結非器。不應對上無行解人說妙解行。高尚者如前有信有行解者。即高尚此文。卑劣者如向無信無解行者。必輕劣斯教。
まず「正観」を説き始めるうち、初めに来意を明らかにします。これは「結前生後」とも呼ばれます。その中で、初めに略説し、次に広説します。初めの文は前を結ぶもので、次に「今、下に依る」という文が後に生じる部分です。
問い。前の五つの略説には、行もあり、解もあり、因もあり、果もあります。なぜただ「六重は解である」とだけ言うのでしょうか。
答え。「大意」と言うのは、行・解・自・他・因・果を全体として覆うものです。その意は示しにくいので、そのまま行・解・因・果などの解釈をなすのです。すでに行や果などがあると言っているのではありません。ですから大意は総であり、他の八つは別です。別とは、行・解・因・果を別々に解釈するものです。『釈禅波羅蜜』の十章の初めもまた大意です。総別などの意も同様です。
もしまたある人が前の五つの略説に従って、修行し証果を得て他を利益するなどというなら、それはそれで一つの道であり、第三巻の初めの記述の通りです。
もし論の文意だけについて言えば、それはただ解に属します。解に属する中で、解が行き届かないことを恐れるため、詳しく名と体、および摂法などを明らかにする必要があります。そうして初めて、以下の十境・十乗を成じることができます。大意の中ですでに「発心には十種の違いがある」と言い、また四三昧に明の行の差別があると言っても、ただ項目を列ねてその相を弁じることは十分ではありません。それゆえ、いまだ十境・十観には触れていません。方便は五に対してやや行の始まりに似ていますが、正観に対しては全く行を論じていません。また二十五法を経て、事に即して解を生じ、それによって初めて正修の方便となることができます。それゆえ前の六つはすべて解に属します。すべて経典に依拠して立てられるので、「修多羅に依る」と言うのです。偏り粗いものを簡ぶために「妙解」と言います。また依拠する経典は大乗・小乗・偏・円の別を簡びません。同じく一つの円解を共に成じるからです。また「修多羅」という名は三蔵に通じます。『達磨欝多羅』が論本を修多羅とも名づける通りです。また十二部の中でも一部に限定されず、始終を通して修多羅と名づけるからです。ですから前に引用したところの論・律・大・小は、共に妙解を成じます。それゆえ今、通じて「修多羅」と言うのです。
「生後」と言うのは、前の諸々の解を用いて初めて行を進めることができるということです。『釈名』の中でまず待ち次に絶するように、絶とはただ開通を示して徳の会することを異なるものと共にするもので、共に絶の義を成じます。体を顕す四段もまた、すべて先に偏、後に円として、これを待絶とします。体は所詮であり、名がすでに開顕すれば体も名に従います。開かれた体を用いて諸法を遍く摂します。法相は明らかにし難いので、なお六義に分けます。事・理・因・果・自・他に遍ねき、一一にすべて界内・界外に通じます。また六義をもって展転して相収めます。さらに五門をもって所摂の法を判じ、初めて体内に摂められるものの互いに融じることを知ります。また融の中の実と権とが混濫しないことを了知します。さらに権実の四章をもって互いに顕します。円解がやや利となれば、またこの解をもって方便を導きます。事理が融即するのを名づけて妙解とします。この妙解に依って正行を立てます。このような解行をもって妙理を取ることは、なおまだ難しいのです。ましてや部内の一文だけを偏指しようとして、どうして円真の妙位に階ることができましょうか。まさに融通の意を見ていないことを知るべきです。それゆえ前の諸々の大章の鉤鎖冠帯を善く暁り、文旨を収摂して一心に攬め入れる必要があります。なお十法が和合して乗を成じ、一一に調停し、境ごとに研覈する必要があります。たとえ未だ悟らなくても、妙因となることができます。
たとえば諸々の声聞は位が極果に登っても、方等経で弾斥され、般若経で加えられ、法華経に来至して三請四止があり、なお広略・五仏の開権を必要としました。法譬因縁も殷懃鄭重で、なお未了の者があり涅槃に来至しました。どうして末代の鈍根が密かに一句を指して、よく仏乗を弁じることがありましょうか。必ず句に随って妙に通じます。もし六根でなければ、まさに五品でしょう。それゆえ『観心論』に「能く問いに答える者は五品であると許す」と言います。これならば自心が妙に達しているのに、どうして他の文を待ちましょうか。もし文を読んでもなお迷うならば、自ら挙げないでください。
それゆえ前の六重はすべて妙解です。それゆえ一一の文の中で、すべて次第をもって不次第および開権などを顕します。ただ「随自意」の中に、やや観心・十界・三諦を語るのは、正意はただ一心の権実をもって妙観を修せしめるだけです。それゆえ「解に依って行を立てる」と言います。
「膏明」の下は、広く来意を明らかにする中で、まず人法の得を明らかにします。その中でまず自行の得を明らかにするものは、すべて正観の妙行をもって前の六章の妙解に対します。初めに解行が相資することを譬えます。膏が明を続けるに堪えるのは観行に譬え、明がよく膏を燃やすのは観解に譬え、目がよく足を導くのは止解に譬え、足がよく目に達するのは止行に譬えます。二つの喩えを双挙して、同じく二つの法に喩えます。「相」と「更」、「頼」と「資」は、綺麗な文が互いに異なっても、意は必ず相通じます。「頼」は藉なり。「資」は益なり。それゆえ前の六章がなければ行は備わらないことを知ります。
「行解」の下は、因行の障が生じるによって障の生じる所以を明らかにします。「三障など」とは、通じて十境を束ねて三・四とします。詳しくは下の九双七隻の中で説く通りです。観陰によって諸境が互いに生じ、止観を障えて明静ならざらしめます。文は語便に従って字を隔てて対とします。いわゆる「重昏翳明」の明とはすなわち観です。「巨散動定」の定とはすなわち止です。「重」の字は平・上の二音とも通じます。「頓昧」は平から、「深厚」は上からです。「巨」は大なり。大は二声なく、義もまた両方に通じます。「数起」と「厚」はともに大と名づけられます。いわゆる魔障が頻りに来たり、来たればすなわち深重です。また対便に従って魔障の名を置いて昏散の説とします。昏散は能障、重巨は障相、翳動は障用、定明は所障です。所障はもとより定明が本有といっても習はなお微かです。能障は無始の習であるゆえ昏散の力が盛んです。
「不可等」とは、魔障の体性を観じます。もし魔障が起これば必ず観を妨げて悪に堕ちます。今まさに観を設けて、随わず畏れざらしめようとします。畏れれば一向に正修を妨げます。随えばなお甄簡して進否を須います。もし障が起きる時、すべて牽いて悪となせば、すなわち尽く悪道に向かいます。障は純悪ではないゆえ悪道に堕ちます。多分について説けば、煩悩病など七境が起きる時、これに随えばすべて生死に堕ちます。後の二境が起きる時は方便に堕ちます。ただ後の二境は初心の中にあり、前の七境はもとより流転です。ともに悪道に牽き入れる義があります。それゆえ「多分は流転に属す」と言います。また分別する必要があります。病は無記であるか、あるいは善悪を生じます。煩悩は一向に悪を増長します。業の中の蔽度は自分で善悪を分けます。魔もまた人をして善に堕ち悪に堕ちさせます。禅は鈍善といえども謗を起こすゆえ悪です。見に依って行を造るにもまた善悪があります。慢は一向に悪です。それゆえ悪の辺はすなわちこれを牽いて悪に堕ち、善の辺はすなわちこれを牽いて善に堕ちます。もし理観について善悪を論じれば、後の二境もまた悪と名づけます。まして前の七をや。それゆえ『浄名経』の須菩提章では、三無為を斥けて三悪道としています。これによって畏れる辺は同じです。同じく正修を妨げます。随う辺は異なり、悪道の義は別です。
「当以下」は正しく設観を明らかにします。畏れるがゆえに菩提に至るのではありません。定明と昏散は体はともに本有ですが、二つに二つの体はなく、体は一つで名が殊です。それゆえ昏散の名は名に実体がありません。還って寂照をもってその性とします。それゆえ昏散はその根が盛んでも、まさに寂照を修して昏散に達することを知ります。この昏の体を照らせば一観にして三、名づけて「即昏にして朗」とします。この散の体を寂めれば三止にして一、名づけて「即散にして寂」とします。これすなわち寂照して病など九境を、不思議の止観の大綱と成じます。
「如猪」の下は、解に依って行を起こすために譬えを立てます。向の寂照の止観に譬えます。上の二つは止に譬え、下の二つは観に譬えます。いわゆる動散が増倍すれば弥々止寂を益し、昏暗が弥々盛んなれば倍々観明を益します。「伝聞絶塵」の解に云く、猪が揩するのは止解に譬え、衆流は止行に譬え、薪が熾るのは観解に譬え、風が益すのは観行に譬えると。一往は似て得ているようですが、なお文旨に乖きます。前に膏明をもって解行に譬え終わりました。ここではただ行に譬え、すなわち昏即ち散にして照、散即ち寂です。ただ二つの譬えに依って各々止観に対します。この解が正しいです。
「猪揩」などが止行に譬えるとは、『大論』三十に忍度を釈する中に云く、もし人が悪を加えること猪が金山を揩するが如くならば、金体は益々真なりと。今は安忍が三障四魔をして転た其の寂を増すことに譬えます。「衆流」などとは、『大経』に云く、衆流が海に入れば本の名字を失うと。万流が咸く会しても体に増損なく、九境が弥々止に趣いても体に虧なく、止は動に寂し、動は寂を増します。それゆえ猪と流をもって動に譬え、また金と海をもって寂に譬えます。それゆえ猪が弥々多くなっても金体は変わらず、流が弥々趣いても海性は増しません。
「薪熾」などは、観行に譬えます。多くの薪は益々猛なり。猛は薪を択ばず。魔障は益々明らか。明は境を選ばず。「風益求羅」とは、『大論』第七に仏の放光を釈する中に、問い。足下乃至肉髻、一一に皆六万億光を放つ。これなお数うべし。この光をもって三千国土を照らすもなお満つべからず。まして十方をや。答え。身光は諸光の本なり。本より流れ出る無量の光明は、迦羅求羅虫の如し。その身は微細なるも風を得て転た大となり、乃至またよく一切を吞噉す。光もまたかくの如し。可度の機を得て転た無限に増す。今もまたかくの如し。観力未だ成ぜず、所照未だ暢びず。境に触れて照を成じ、其の用転た明らかなり。諸法が生じるゆえ般若が生じ、乃至非生非不生なり。それゆえ求羅を借りて能所に喩えます。観が闇を照らし、闇は明を増します。それゆえ薪と風をもって闇に譬え、また虫と火をもって明に譬えます。それゆえ薪はただ多ければ火相は逾々盛んで、風はただ猛ければ虫身は越々大なり。
「此金剛」の下は、観が成じて互いに益することを明らかにします。初めの文はしばらく行解の功の深いことを譬えます。「金剛など」とは、解の功の深いことを嘆きます。止観の解が成れば三惑の陣を割きます。「牢彊など」とは、行徳の遠いことを嘆きます。止観の行が積めば二死の野を越えます。『文選』甘泉賦に云く、道徳の精剛を覧ると。剛とはすなわち金石の中の堅いものです。陣は陳なり。いわゆる布列です。太公六韜の中に天地人雲鳥などの陣があります。今、金剛の観は破れざる陣はなく、すでに三惑が俱に摧け、五陣が咸く敗れるが如し。郭外を郊といい、郊外を野といいます。郭は三百の如く、郊は四百の如く、野は五百の如し。それゆえ二死を破ることは五百を過ぎ、名づけて野を越えるとします。もし初住に至れば行は未だ極まらずといえども、しばらく中行をもって彼の同居・方便の二死を破ります。理は差別ないといえども解は行の満つるに藉り、金剛の名を得てよく三惑を割きます。行は解の進むに藉り、牢彊の称を得てよく二死を越えます。しばらく事に随って名を得ることは一ならず。文は各々説くといえども意は実に互いに資けます。
「慧浄」の下は互いに資ける相を明らかにします。慧は止観の解なり。行は止観の行なり。行が解を得れば行は惑わず、解が行を得れば解に剋あり。それゆえ「慧は行に浄く、行は慧に進む」と言います。「照潤」の下は続けて四つの譬えを挙げて相資に譬えます。解は日の照るが如く、行は雨の潤すが如し。照潤が均等なれば万物は成ずべし。行解に偏りなければ衆徳は備わるべし。解は商主が導くが如く、行は商人が達するが如し。導あり達ありて宝所は期すべし。行解が具足すれば実相は遠からず。解が行に浄ければ行は瑕なき義、これを瑩の如しとす。行が解を厳すれば解は喜ぶべき義、これを飾の如しとす。彼此互いに資けるゆえ「交絡」と言います。
「一体」の下は、重ねてこの譬えをもって前の三つの譬えに譬えます。互いに厳すると曰うも不二にして二です。行解が照潤などの如く、なお異体であろうかと疑うことを恐れます。それゆえ一実について行解を論じます。互いに匠導し還って実を顕します。体の二手の如く、ただ一体にして不二にして二です。還ってよく体を浄め、二にして不二です。
「非但」の下は化他の得を明らかにします。妙行が既に満ちれば教を起こして他を益します。それゆえ「ただ自行のみならず」と言います。すなわち初住の位です。また「精通」の下はすなわちこれ起教です。拓は広なり。大なり。遮とは遮止なり。すなわち四魔の如し。障とは障礙なり。すなわち三障の如し。三・四は皆実なり。詳しくは後に説く通りです。啓は開なり。これは下根が真を出で仮に入る位についてです。中上はそうではありません。第六巻の如し。
「自匠など」とは、匠は物を成すなり。器の工師なり。自他の功の成ることを明らかにします。もし行解が周からざれば自他ともに失います。それゆえ大師が吉蔵に与えた書に云く、もし解ありて行なければよく物を伏せず、行ありて解なければ外に化他の欠ありと。
「人師など」とは嘆きです。行解が具備すれば人師となるに堪え、これ国の宝です。後漢の霊帝が崩じた後、献帝の時に牟子という者がいて深く仏宗を信じ、荘老を譏斥して論三巻三十七篇を著しました。第二十一の沙門の是非を譚るを救う中に、問いを立てて云く、老子に曰く、知る者は言わず、言う者は知らず。また云く、大弁は訥なるが若し。また曰く、君子は言の行に過ぐるを恥ずと。もし沙門が至道を知るならば、何ぞ坐してこれを行わず、空しく是非を譚り虚しく曲直を論ずるや。豈に徳行の賊にあらざらんや。答え。老にもまた言あり。もしその言わざるが如くならば吾何をか述べん。知りて言わざるは不可なり。知らずして言わざるは愚人なり。よく言いてよく行わざるは国の師なり。よく行いてよく言わざるは国の用なり。よく行いよく言うは国の宝なり。三品の中、ただよく言わずよく行わざるのみを国の賊とす。今「自匠匠他」と云うゆえ「国宝」と言います。牟子また云く、金を懐きて現さざれば人誰かその内に瑋宝あるを知らん。繡を披きて戸を出でざれば孰かその内に文彩あるを知らん。馬が櫪に伏して食わざれば則ち駑と良と同群なり。士が音を含みて譚らざれば則ち愚と智と分かれず。今の俗士は智に髦俊なくして、言辞を言わず、一夫を説かずして自ら大弁に若なんと欲す。かくの如きの徒が坐して道を得ることは、目のなき者が視んと欲し、耳のなき者が聴かんと欲するが如し。豈に難からざらんや。それゆえ今、自行が満ちれば須らく教をもって人を利すべしと。能説・能行の譬えは国の宝となるに堪えます。
『春秋』の中の斉の威王二十四年の如し。魏王が斉王に問いて曰く、王に宝ありやと。答え、なし。魏王曰く、寡人の国は爾なりといえども、乃ち径寸の珠十枚あり。車前後各十二乗を照らす。何をもって万乗の国にして宝なからんや。威王曰く、寡人の宝と謂うは王の宝と異なれり。臣に檀子などの如きあり。各々一隅を守れば則ち楚・趙・燕などをして敢えて輒ち前まざらしむ。もし寇盗を守れば則ち路に遺を拾わず。これをもって将とすれば則ち千里を照らす。豈にただ十二乗の車のみならんや。魏王は慚じて去れり。これすなわち能説・能行の国の宝です。
「而復」の下は正しく仏乗をもって施しと為すことを明らかにします。すなわち能化の心です。問い。円頓の学者はもと無縁に習う。豈に初住に至って初めて仏を学ぶと云うや。答え。極位を仰慕して仏を学ぶと云うのみ。また中下を策励して行説の如くならしめます。如来もまた所証をもって人を利します。それゆえ説証を勧めて他を益します。すなわち下の譬えです。もし権法をもって人を化すれば、法門は開かるといえども蔵を傾くとは名づけません。今、一心において利物の門を開き、秘密の蔵を傾けて真実の珠を示します。心が既に窮まらなければ蔵もまた無量なり。蔵が既に無量なれば珠もまた無辺なり。一切法を含むゆえ名づけて蔵とします。理体に欠けなきを珠に譬えます。これすなわち衆生の本有の覚蔵を開示するのであり、他の外来ではありません。
「此珠等」とは、次に重ねて譬えに寄せて体用を嘆きます。まず総じて珠について体を嘆き、次に別に譬えについて用を嘆きます。初めの文は、この珠は妙体の内に行解因果の一切が具足することを譬えるべし。放光は慧に譬え、雨宝は定に譬えます。慧はすなわち智徳、定はすなわち断徳、すなわち定慧の体です。この二つの徳はすなわち自利利他の二徳です。智はすなわち自利、断はすなわち利他です。この自他の二にして不二です。この三徳をもって他のためにこれを説きます。今、所説を嘆じて「此珠等」と云います。
「照暗等」とは用を嘆きます。「照暗」と言うのは光の力です。他の無明の闇を破ります。「豊乏」と言うのは雨の力です。彼の法財の乏しきを豊かにします。「朗夜」と言うのは照暗を転釈します。「済窮」と言うのは豊乏を転釈します。「展転相生」の下は上の定慧相即を釈します。惑を破り徳を具し、智断俱に時のことを。「馳二輪」の下は功が成じて至るあることを譬えます。二輪が遠く運ぶのは定慧が横に周ねきことに譬え、両翅が高く升るのは定慧が竪に極まることに譬えます。翥とは翅を鼓して飛ぶなり。それゆえ雪山の大士が帝釈に試され、その菩提の重担を荷負するに堪うるや否やを見られました。車に二輪あれば則ちよく運載し、鳥に二翅あればよく飛升するに堪うるが如し。持戒を見るといえども未だその人に深智あるや否やを知らず。経の中にはもと乗戒具足を譬えました。今これを借りて定慧同時に譬えます。
「玉潤等」とは止観の行が成じて功が外に彰されることに譬えます。玉潤は止徳に譬え、碧鮮は観徳に譬えます。劉子に云く、山が玉を抱けば草木潤う焉。川が珠を著ければ岸枯れず焉。淮南子にもまた云く、泉に珠あれば岸枯れずと。碧とは、山海経に云く、高山に青碧多し。郭璞云く、碧とは玉なり。説文に云く、青とは美色なり。鮮とは好色なり。また松竹の冬の色が青青たるが如し。ともに色鮮の貌です。ある人云く、止観の解行は玉潤・碧鮮の如しと。これ未だ文旨を善くせず。この中の意は、前の行解・止観が成就し、功能が外に彰されて自他ともに益するということです。もし還ってただ行解の釈と作せば、文は何ぞ煩雑ならんや。
「香城」の下は法恩の報い難きことを明らかにします。行解が成就すれば仏恩を荷うことの深きを知ります。投身粉骨も未だ徳に酬いるに足りません。香城とは、波崙菩薩が無竭を見んがために修し、髄を出し身を売るが如し。また雪山童子が羅刹を見て投身し偈に酬いるが如し。
「其癡鈍等」とは、次に自他の失を明らかにします。ともに前の妙解・妙行を欠くゆえです。初めに自行の失を明らかにするのは無信のゆえです。また『法華』に云く、諸子は後に他の毒薬を飲み本心を失うがゆえに。他の見思の毒を飲み、五濁の障重いゆえ「深入」と云います。毒深きゆえ菩提心を失い、無信のゆえ象に鉤なきが如し。既に信鉤なければ聴いても解することができません。それゆえ『大経』二十三に云く、譬如し醉象が狂逸暴悪にして多く殺害を欲す。調象師ありて大鉄鉤をもってその鼻を鉤搨すれば、即時に調順して悪心都息す。衆生もまた爾なり。煩悩のゆえ多く衆悪を造る。諸大菩薩は仏法の鉤をもってこれを搨し、聞法の者をしてこれによって住せしむ。この義のゆえに聴法の因縁は大涅槃に近し。まさに宿世に聞法の鉤あるを知るべし。それゆえこの生に聴けば則ち解すべし。
「乏智慧眼等」とは、転じて無解を釈します。それゆえ『大品』に云く、須らく智慧の眼をもって諸法の実を知観すべし。それゆえ凡夫は生盲、二乗は眇目なるを知る。外に聴いても解せざるは内に智眼なきによる。智眼なければ聞いてもまた別かたず。
「挙身等」とは、ともに無行に譬えます。無行のゆえ惑を断ずることができず、ゆえに「不前」と云います。痺は湿病なり。および癩はともに不覚・不解に譬え、ゆえに知らず。宿に大乗を謗したゆえ行解全く欠け、余殃なお積んで大罪人と名づく。この等のために説けば還って謗罪を増し、損ありて益なし。経に云く、もしただ仏乗を讃めれば衆生は苦に没す。それゆえ「何ぞ労して説かん」と云います。
「設下」は縦の釈です。設とは仮設なり。借使、世を厭いて大を求むることができずと。それゆえ経に云く、我が傭力して物を得る処に非ずと。「攀附等」とは、類を挙げて証し釈します。大を厭い小を習うは、根本を棄てて枝葉に附くが如し。それゆえ『大品』に云く、深般若波羅蜜を棄つるは根本を捨つるが如しと。而も二乗の所応に行ずべき経を習うは枝葉に攀ずるが如し。これ魔事と為す。枝葉に攀ずれば則ち堕し、幹を捉えれば則ち固し。無常の枝を執れば則ち二乗地に堕し、大乗の幹を捉えれば菩提心固し。
「狗狎作務」とは、『大品』に云く、善男子、余経に親近して般若を学ばざるは、狗が大家より乞食せず、反って作務者より索むるが如し。これ菩薩の魔事なり。菩薩もまた爾なり。深般若を捨てて二乗の所応に行ずべき経を取るは、これ魔事と為す。『大論』の解に云く、ある人は先に声聞法の中に於いて戒を受け、後に深般若を見、なお先に学ぶ所に著して般若を捨つ。また声聞の弟子あり、先に般若を学びて義趣を解せず滋味を得ず、なお声聞経をもって道を求む。また声聞あり、先に般若を学び、また余の声聞経を信受せんと欲し、般若を毀りて言く、この経は前後定義なく理に相応せずと。ゆえにこれを捨てて去る。声聞法の中に何の法か有らざらん。六足毘曇はすなわちこれ般若、五部律蔵はすなわちこれ尸羅、阿毘曇の中に禅義を分別するはすなわちこれ三昧、本生経の中に忍進等を讃むるはすなわちこれ六度の足なり。今文の「翫下」の言は、ともに論中の諸意を具します。
「敬獼猴等」とは、ある人は猴と帝釈とを識らず、曾って人説を聞きて天帝飛行すと。後に林中に群獼猴を見て、これ帝釈なりと謂いて敬重を生じ、便ち礼を作す。「宗瓦礫等」もまた『大経』春池の喩の意です。また枝葉に攀附し瓦礫を宗とするは法を識らざるが如し。狗狎作務および敬獼猴は人の識らざるが如し。
「又一種禅人」の下は、次に化他の人法俱に失することを明らかにします。密に慧聞已前の諸失を引いて、一往その不達・障難を斥くることを得たことを顕します。なお小を失う、まして大をや。その中でまず人の非を明らかにします。「不達等」とは、化他の安心六十四番を用いることができないゆえ、これによって失を成じます。まして九乗などをや。
「体心等」とは化他の法の非を明らかにします。体達して空の如しといえども体法実智に非ず、推踏して受けずといえども無作捨覚に非ず、調和融通といえども混同法界に非ず、覚察求覓といえども反照心源に非ず、泯然亡離といえども契理寂滅に非ず、本無生を了すといえども智鑒妙境に非ず。かくの如き等の用は一途に非ざるといえども、ゆえに「一轍」と云います。轍とは車行の迹なり。それゆえこの等は永く十観および所観の境に迷うことを知ります。
「障難万途等」とは自他を双斥します。下の十境が互いに発するが如し。既にその了らざるゆえ、自判・判他すべて俱に失します。「盲跛等」とは、無解は盲の如く、無行は跛の如し。師既にかくの如くなれば弟子は知るべし。ゆえに俱に堕落す。これ『百論』の外人が破られて、乃ち自ら救いて云く、もし神に触身なければ身は応に到るべからず。身神相仮してよく所到あり。盲跛相仮してよく遠至あるが如し。今一人に二つを具すれば一步も前まず。「次瞽蹶者」とは重ねて前の譬えを釈します。目なきを瞽といい、足跛を蹶といいます。既に盲かつ跛にして而もまた夜遊するは、無解・無行にして仏教の日を失い、無明の夜を遊ぶなり。
「不応下」とは総じて非器を結します。まさに上の無行・無解の人に対して妙解・妙行を説くべからず。「高尚者」とは前の有信・有行解の者の如し。すなわちこの文を高尚す。「卑劣者」とは向の無信・無解行の者の如し。必ずこの教を軽劣す。
○開章可見。所言止觀開為十者。應言止觀所觀開之為十。但是文略故但云止觀。又此十境即是前文所顯之體。前約所顯能攝故立體名。今對能觀所發故立境名。又前從理說故體唯一。今從事邊故境有十。事即理故。故一一境皆不思議。理即事故。故一一境相別不同。此中文十義十。意令所觀同成一實。及顯能觀唯在一極。亦可義十。如分別中亦可義三。謂翻三障即三德故。次生起中意者。由觀陰入生下九境。能所相扶次第出生。而成十意。然此生起且附文相。一家著述凡立章門無不生起。若依下文十境互發。則無復次第。此則從行。文具二義十中居初。大品云聲聞依念處等者引證次義。故大品及大般若。凡列法門無不皆以五陰為首。五陰秖是念處境耳。又行人下是現前義。下文料簡用此二義。言重擔者。五陰是擔。生死重沓故名為重。凡夫不捨二乘不荷。菩薩之人能捨能荷。以能捨故永棄生死。以能荷故却入生死。是故菩薩捨擔能擔。行人亦爾。為捨為荷是故須觀。後發異相等者。十境之中。陰具二義。必須在初。餘九既因觀陰而生別為次第。如下所列。今家用此十法為境。不同常途別立清淨真如無生無漏。如是觀者。如離此空別更求空。今依經準行以陰為首。下之九境隨發而觀。一一皆用十乘觀法。老子尚知觀身為患。而世間人保護穢身。他求淨理。失之甚矣。夫五陰下明因陰後生於煩惱。言陰與四大合者。恐此文誤。應云陰與四分合也。報法五陰無始時來未曾離染。若不觀陰則順煩惱。故云若不觀察等。如閉舟下為未觀舉譬。譬兼兩意。初為不觀順流作譬。若其下為因觀陰動煩惱境逆流作譬。迴泝如觀陰。始覺馳流如發煩惱。舟者所以水載也。奔者。爾雅云。大路曰奔中庭曰走。奔是走之盛貌也。隨之而不知去疾。迸者散走也。隨去速疾如散走也。泝者逆流也。既觀下合觀陰譬。四大下明觀煩惱次生病患。身病即是前之陰境。心病即是前煩惱境。無始常與病身相隨。未曾違逆故名為等。亦是先述不觀。故云情中不覺。今大分下明因觀前二而動病患。大謂四大且指色陰。以餘四陰轉成煩惱。稱為四分故云大分。分謂四分即前煩惱。前已觀陰復觀煩惱。故云俱觀。由此二觀擊動於色。故云衝擊脈藏。具如第八卷釋。以衝擊故令四時脈與五藏違。亦是五行相剋名違。故四毒蛇偏起成病。無量諸業下因觀三境以生諸業。亦初明不觀故不發。故尋常散善不發業相。今修下正明因觀以發業相。健謂已觀大分。病謂已觀病境。三皆曾觀故云不虧。因觀動業故云動生死輪。業相是能運。生死是所運。載生死之輪名生死輪。故大論云。生死輪載人諸煩惱結雜。曠野自在轉無能禁止者。先世業自作轉為種種形。業力為最大世界中第一。或善萌等者。明業相起損益不同。初句是善習因萌生相也。惡壞下明惡習因壞滅相也。善示下明善報果相也。惡來下明惡報果相也。以惡下明因觀於業而生魔事。文中但作生後之相。闕於不觀不發。因觀乃發之相。若望前文應云無始時來但順有漏。縱善生惡滅。猶隨魔界。今觀於業令惡滅故。順於涅槃。以善生故順於菩提。魔懼出境方作留難。亦可由觀三境。雖生事善亦順菩提。雖滅事惡。亦順涅槃。以惡動故雙牒前文習報二惡。以善生故亦雙牒前文習報二善。若善滅惡生順魔界故。不為留難。若過下明由觀魔故出生諸禪。亦應云若不觀察宿習不現。由用觀故。即是現在行力所致。故動宿習有諸禪現。味淨橫竪。具如下禪境中明。禪有下明禪後發見。逸者縱恣也。若識下明見後生慢。用觀觀見見心暫息。故無智者謂得涅槃。故增上慢人非全無法。但是不了法門大小階位深淺。濫生矜高名增上慢。於增上法未得謂得而慢於他。此但通舉上慢之相。從小乘下別出大小各有其相。初小乘中橫計四禪為四果者。已如前說。大乘亦有魔來與記者。明大乘中因記生慢。故大品不和合品云。魔作比丘到菩薩所。作如是言。若菩薩於般若作證。得須陀洹乃至支佛。論七十七同。論八十又云。魔語菩薩。汝於諸佛受菩提記。父母兄弟姊妹等名某。若受著者成增上慢。身子捨眼等者。身子退大已後更經生死。義如見慢。小習若起先破見慢。故云見慢若靜等也。大品云等者。並且引於習小而已。次大品云有菩薩下。明生謗者。如大品云。不久行者聞深般若起謗墮泥犁中。隨喜品云。若菩薩不久行六度。不多供養佛。不種善根不隨善友。不善自性空等取相迴向。不應為如是菩薩說深般若。乃至種智十八空等。如是菩薩聞必起謗。具如前信謗品等。故三藏菩薩外凡。及第二僧祇尚有謗義。內凡之人及第三祇方乃不謗。別教初心不謗者。教詮中道中道理深。知此深理故且免謗。此等下判三菩薩並屬於權。此十下判境位也。前八在凡可見。後二言在聖人方便者。既是圓教實道方便。方便望實名實為聖。圓是聖法令成極聖。人得聖法故云聖人。故知十境位並在凡。陰入下判境陰顯。則陰入境顯。餘九境隱。又餘之九境發者則顯。未發者隱。又八下判境近遠。煩惱等七轉觀猶難。故名為遠。後之二境借使未觀已成方便。故名為近。又煩惱等去真猶遙。何況中道。故名為遠。後二不爾。是故名近。又若不下欲明互發先述其意。恐後發得不知進否。故須預說令識相貌。又此十發文雖標十。義乃二十名十雙故。縱除第十亦有十八。互發下正明互發。先列章門。前九相對故云九雙。後二不對但云七隻。七隻秖是三四一雙。十中一一皆遍十境。又前之九雙正辨互發。後一但是收攝十境。判屬魔障。次第者下釋十雙也。初次不次各有三義。然初二對即三止觀。此不論於現在修觀。直是所發三相不同。故不同前大意中三。並結現文成三種相。今言不次法者。皆是法界名為不次。發修二種不名為頓。但為相對辨異如文。又發修易見故在前釋。法義稍廣故在後釋。初文法者舉文自為十。例亦應更云陰入為法界者也。所言眼等為寂靜門者。具如第四卷引。何須捨此等者。不同二乘捨此生死求彼涅槃。篋謂笥也。盛寶之篋故云寶篋。此經能盛實相寶故。方丈託疾者。淨名自念寢疾於床。世尊大慈寧不垂愍。佛知其念。夙鑒機緣。命諸聲聞及諸菩薩。咸述昔屈皆辭不堪。時會因茲聞被彈事。復聞文殊受命問疾。雖承佛旨仍歎難酬。大眾由斯欽風慕德。無數千萬隨從往觀。已為諸來國王大臣。因疾廣譚無常速朽。文殊纔至述佛遣命。然後自問疾之生滅。大士廣答調伏慰喻。廣說菩薩不思議事。及觀眾生為畢竟空。佛道斯通不二門啟。室納高座香飯普熏。令招去華之譏。致受禮座之屈。二大士縱辯非二乘所知。歎仰大乘成生酥益。及諸大士咸會醍醐。斯教得興皆由託疾。疾益既畢推功有歸。還詣菴園復宗印定。以能因時觀己他疾皆法界故。至果能以疾益於他。故使淨名疾為化道。一切諸法悉在疾中。如唐請菩提像。使王策親至其室。既致敬已欲題壁記。壁乃目前久行不至。息心欲出近遠如初。歎不思議蹤今猶未滅。雙林現病者。佛在雙林因告背痛。託純陀請住廣開常宗。奇斥奪三修敷揚三點。答三十六問演五行十功德。六師翻邪十仙受道。如是等教現病斯興。業為法界中引法華者。罪福是業。由深達故故名法界。十方即十界。由達十界即法界故。見界理周名為深達。初文真也。空業破諸業故云此業能破業。次若眾生下假業也。即於空業遍達諸業。故以此業立於假業。次業與不業下。觀業中道。業即是假不業是空。假業名縛空業名脫。雙非二邊皆不可得。普門示現等者引物偏好且對三文。若現六界為縛。現二乘界名脫。佛菩薩界為雙照縛脫。自非證得法華三昧不思議身自在之業。安能現此三十三身。非縛非脫而現縛脫。何啻等者。啻者猶多也。方等師外其德猶多。何者。世方等師但秖須判有漏業相。尚不能達業空業假。況復業中。今達業法界。何啻堪為世方等師。設有等者。既觀法界魔亦本如。設使於行猶有魔者。如藥塗屣堪任乘御。魔事如屣。圓觀如塗。觀魔即如。名堪乘御。能觀心性等者。觀三毒性尚名上定。況觀禪心為法界耶。以邪入正者。邪即是正見即法界。於見不動亦復如是。經文猶總。若分別者具如上文懺淨中說。以見為門結前以邪相也。門名能通。以邪入正即能通義。以見為侍結前於見不動。淨名云。菩薩於諸見而不動。於生死而不捨。即侍者義。凡言侍者能隨順人。見隨觀轉任觀所照。見即法界無處不隨。還是煩惱耳者。略判同異。別說則慢有八種。此屬增上。煩惱中利鈍不專增上。今從通說亦屬煩惱。無慢空也。大慢假也。真出假位現種種形調伏眾生。故名大慢。大經三十云。菩薩若見眾生有憍慢者。現為大慢。雙非屬中例應可見。若但見於空等者。但深觀空空體本妙。眾生情隔謂空不空。故今達空即是法界。從空所現即是俗也。對空不空三諦義足。底惡等者。底惡即是陰等八境。下劣二乘。即二乘境尚是法界。況三菩薩。又菩薩下重寄權實以顯三諦。權是俗。實是真。雙非顯中。是一一下結如文。雜不雜中言適發陰入者。但發陰解亦名為發。交橫並沓者。交互而起為交橫。雙雙俱起名之為並。相次而起名之為沓。又復並者必在同類。如禪與見煩惱與禪。不可並起。餘例可知。次不次雜不雜皆論具不具者。次具可知。不次具者。雖見諸境無非法界。所起亦有具不具故。所起雜二義準知。言總別者。總謂總都。都起十境故名總具。雖具起十。於一一中頭數不足名總不具。總中欠一故名為別。別中又欠名別不具。九中一一復頭數不足名別不具。故下成不成中。指此文云具不具中止明頭數。今明體分始終者。於頭數中皆有始終。次明橫竪中。云通名背捨名橫法者。以禪望禪名之為橫。又初禪中具有根本味淨等法。故名為橫。然以味望淨雖有淺深並在初禪。故名為橫。言發七背捨名橫不具者。滅受想中闕此一故。餘法例者從如發四禪下。借禪例釋橫竪等相。自餘九境準禪應知。然餘境中雖有橫竪不及禪中最為委悉。欲略說者。初陰入境既不論發不論橫竪具不具等。次煩惱中利鈍使足名為橫具。利中單複訖至無言。名為竪具。鈍中剎那至重三毒。名為竪具。不具比說。病中四大五藏及鬼魔等。名之為橫。相生相剋名之為竪。具與不具比說可知。業中蔽度相對名之為竪。蔽度彼彼各自相望。名之為橫。魔中三種名之為橫。先惡後善及墮二乘。名之為竪。見中具起外及佛法。名之為竪。四句四門相望為橫。慢中謂得諸禪。名之為橫。謂得初果乃至四果。名之為竪。二乘中四諦相望。名之為橫。因緣相望。名之為竪。又二乘相望。名之為竪。又四諦中二二相望。及因緣中以智望境。亦名為橫。菩薩中當位自行。名之為橫。三教相望。名之為竪。修不修者。下文云作意不作意名異義同。如下煩惱境中說者。下煩惱境無修發句。但有煩惱諸法及法身等。各三十六。今但指彼句法為例。法則不同。若欲分別三十六句。先識修發各四句相。一句各四成三十二。修發二四各初二句意義可知。各下二句應須略辨。初修後不修名第三句。一向緣理名第四句。初修後不成名第三句。發時緣理名第四句。用此參互成三十二。問。下之九境不發無修。何故十境皆云修發。答。此須分別。若觀陰發陰是通修通發。觀陰發九是通修別發。若觀煩惱發下八境。是別修別發。若觀煩惱而生陰解。是別修通發。又若觀通途煩惱而發宿習煩惱。亦名通修別發。若觀宿習貪欲而發宿習瞋恚。亦名別修別發。又若觀陰入陰解未起是修而不發。若發生陰解及下九境未能進觀。名發而不修。亦修亦發不修不發。準此可知。又若觀通途煩惱而發宿習煩惱。亦名修發。餘九亦爾。故下九境名為修發。況復隨人作意欲修有發不發。故亦九境通名修發。修發既成十六句。發修又成一十六句。并根本四句合為三十六句。然須思擇使義不濫。益不益者。問。何故善惡俱論損益。答。以隨宿習諸境輕重。及現觀力純雜不同。是故各有損益差別。於中應須先判善惡次辨損益。如陰入境體是無記不論善惡。因觀無記發於善惡。用觀不同則有損益。若煩惱慢病通皆是惡。禪及後二通皆是善。業魔見境通善不善。如業中六度為善六蔽為惡。魔現惡相及令墮惡。即是惡攝。若現善相及令墮善。并二乘等即是善也。見中外外以惡為本。亦能起善。附佛法起以善為本。亦有於惡。次明損益者。照即是觀靜即是止。雖具善惡然由觀力。若觀善惡如眾流入海風益求羅。則一向為益。隨境而轉妨修止觀。則一向為損。故卷初云。隨之牽人向惡道等。雖損止觀復宜以觀照其昏障。或宜以止寂其散障。故前文云以觀觀昏。以止止散等。此則諸境損復名益。障而非障即此意也。若諸境起不復修觀。但倚此境以為自得。此則益復名損。例之可知。後之二境雖有損義觀道易正。互損互益及俱損益例此可知。難易中亦言善惡者。如損益中說。但須更辨難易相耳。莫謬去取者。即初文云不可隨不可畏也。皆以止觀研之者。即初文云以觀觀昏等也。乃至十法出沒研覈。次明三障中云二乘等是業障者。有出世業且屬業攝。又思力勝故。亦得名業。又二乘亦是無漏業成。菩薩境者。三人不同三藏有漏。通初二地同於三藏。三地已上同於學人。八地已上同無學人。成漏無漏業。別教住行望通教說。十向非漏非無漏業。登地證同不名為境。分別雖爾。若據為障並在初心。義通於後故此分別。若爾。前五是有漏應是有漏業。亦是業障攝。答。通論十境者無不具三障。今且隨名便及隨增勝說。若以餘境望自名為報陰及以煩惱等。是故今別以二乘及菩薩名為業障攝。又此無漏等並據宿因。若先已證則應出界。那更於今方復論發。況復望圓名之為障。故云不至五品六根。次釋四魔中。業禪二乘菩薩行陰攝者。業中善業及以禪等。並起善行故屬於行。況行陰中所攝寬多。故小乘中通大地十。大善地十。大煩惱地六。大不善地二。小煩惱地十。及十四不相應行。大乘中遍行五。別境五。大善地十一。隨煩惱二十。不定四。大小乘中諸心所法。除受想已並行陰攝。故善業等並為大善及通大地不相應行等之所攝也。餘者並在煩惱魔中之所攝也。問。俱舍中云。蘊不攝無為。何以行陰攝於二乘菩薩兩境。答。彼明取陰不攝無為。今明未證實道之前仍屬於陰。現在發習猶是有為。魔名等者。奪慧命故破法身故。問。何以止屬於身。答。若福慧相對。止即屬福福屬於身。若智斷相對。斷屬解脫。解脫現身調伏眾生。若爾。但屬應身何關法身。答。止體寂故即是法身。觀體用故即是般若。況三身體一。應即法故。魔名磨訛等者。古譯經論魔字從石。自梁武來謂魔能惱人字宜從鬼。故使近代釋字訓家釋從鬼者。云釋典所出。故今釋魔通存兩意。若云奪者即從鬼義。若云磨訛是從石義。若準此義訛字從金謂去銳也。能摧止觀利用故也。若從言者謂偽謬耳。詩云。人之訛言苟亦無信。若存言義復順從鬼。現無漏像而宣謬言。由偽無信逸止暗觀。又訛動也則通二義。從石從鬼通皆動壞止觀二法。次問下料簡。問可見。答中次出九雙。即以初二對三止觀。當知秖是望昔宿習非為現修。故現修文無復三義。是則下七但是分別前二對耳。皆有次及不次及以雜故。昔因緣中雜毒等者。問。前句云昔因今緣。此句何以因緣在昔。答。以今修行望昔習種故昔為因。今助發者故今為緣。若過現各論皆具因緣。並以內心為因。知識教等以之為緣。故前後二文各隨一義意亦無殊。若宿生來唯為菩提雖有魔等。名為不雜。若兼名利縱有二乘菩薩佛境。亦名為雜。所因等者謂所依也。宿依何境依者則久。又所依中有彊有弱。故依彊弱有久不久。言麁細住乃至四禪者。以四禪等階級多故。故寄禪判。言云云者。乃至味淨及念佛等。傳論彊弱。又十境中見慢二乘菩薩。多依於禪。魔屬未到。煩惱業慢或禪後發。故得以禪判其彊弱。善易發等者。善惡亦準損益中判。復以根遮四句判其難易。惡欲滅等四句判更不更者。初句表惡欲滅。故云告謝。如惡人共住。今欲永去。故云告謝。次善欲下表善欲生。故云相知。如良客初來。必先造主。故云相知。此善惡相一度來已不復更來。即是惡滅善生之相。次善欲下表善欲滅。如遇吉知凶應求勢助。故云求救。見此相已勤策身口。次惡欲下表惡欲生。如竊為惡求私輕罰恕免官刑。故云求受。見此相已願今身償不惡道受。此善惡相來已復來。即是惡生善滅之相。言四更者明數來不已。盡去聲呼。有人以第一第四平聲呼。第二第三去聲呼。甚失甚失。此中皆須口決等者。用道智法眼方可判他。若闕自力亦須憑教。如無文據仰推先達。凡情輒判誤累後生。故再誡云慎之勤之。謂慎勿謬判。勤加自行保重所受。
○開章に見るべきである。言うところの止観を開いて十とするとは、止観の所観を開いて十とすることを言うべきである。ただ文が略されているために、ただ止観とのみ言うのである。またこの十境はすなわち前文に顕されたる体である。前は所顕の能摂について論じたゆえに体の名を立て、今は能観の所発に対するゆえに境の名を立てる。また前は理より説いたゆえに体は唯一であり、今は事の辺より論じたゆえに境は十ある。事すなわち理であるゆえに、一一の境はみな不思議である。理すなわち事であるゆえに、一一の境相は別々に異なる。この文には十があり義には十があり、意は所観をして同じく一実を成ぜしめ、および能観はただ一極にあることを顕さんとする。また義に十あり、分別の中に義に三ありとも言う。三障を翻してすなわち三徳となるという意味である。次に生起の中の意とは、陰入を観ずることにより下の九境を生ずる。能所が相扶けて次第に出生して十意を成ず。しかしこの生起はしばらく文相に付く。一家の著述はおよそ章門を立てて生起せざるはない。もし下文の十境互発に依れば、すなわち次第はない。これは行に従う。文に二義を具す。十の中に初に居る。大品に声聞は念処に依る等と言うは、次の義を引証する。ゆえに大品および大般若には、およそ法門を列するに五陰を首とせざるはない。五陰はただこれ念処の境である。また行人の下はこれ現前の義である。下文に料簡するにこの二義を用いる。重担と言うは、五陰はこれ担である。生死は重沓するゆえに重と名づく。凡夫は捨てず、二乗は荷わず、菩薩の人はよく捨てよく荷う。よく捨つるゆえに永く生死を棄て、よく荷うるゆえに却って生死に入る。ゆえに菩薩は担を捨ててよく担う。行人もまたかくのごとし。捨てんがため荷わんがために、ゆえに観ずべきである。後発異相などの者は、十境の中に陰は二義を具す。必ず初に在ることを須いる。余の九はすでに陰を観ずるによりて生ずるゆえに、別に次第を為す。下に列するがごとし。今、家のこの十法を境とするを用いるは、常途の別に清浄真如無生無漏を立てるとは異なる。かくのごとく観ずる者は、この空を離れて別にさらに空を求むるがごとし。今は経に依り行に準じて陰を首と為す。下の九境は発するに随いて観ず。一一にみな十乗の観法を用いる。老子すらなお身を観ずるは患いと知る。しかるに世間の人は穢身を保護し、他に浄理を求む。失うこと甚だし。それ五陰の下は、陰によりて後に煩悩を生ずることを明かす。陰と四大と合すると言うは、おそらくこの文は誤りであろう。陰と四分と合すると言うべきである。報法の五陰は無始時来、いまだかつて染を離れず。もし陰を観ずればすなわち煩悩に順ず。ゆえに若し観察せず等と言う。舟を閉ずるの下は、いまだ観ぜざるための譬えを挙ぐ。譬えは両の意を兼ねる。初めは観ぜずして流れに順ずるための譬えと為す。その下は陰を観ずるによりて煩悩の境を動かし、逆流するための譬えと為す。泝を迴らすは陰を観ずるがごとし。始めて流れに馳するを覚るは煩悩を発するがごとし。舟とは水の載るゆえんである。奔とは、爾雅に云く、大路を奔といい中庭を走という。奔はこれ走の盛んなる貌である。これに随いて去りの疾きを知らざるなり。迸とは散走である。去ること速疾なるに随うは散走のごとし。泝とは逆流である。既に観ずるの下は、陰を観ずるの譬えを合わす。四大の下は、煩悩を観ずるによりて次に病患を生ずることを明かす。身病はすなわちこれ前の陰境である。心病はすなわちこれ前の煩悩境である。無始より常に病身と相随い、いまだかつて違逆せず、ゆえに等と名づく。またこれ先に不観を述ぶ。ゆえに情中に覚えずと言う。今、大分の下は、前の二を観ずるによりて病患を動かすことを明かす。大とは四大を謂い、かつ色陰を指す。余の四陰は転じて煩悩と成るによりて、四分と称す。ゆえに大分と言う。分とは四分を謂い、すなわち前の煩悩である。前すでに陰を観じまた煩悩を観ず。ゆえに俱観と言う。この二観によりて色を撃動するゆえに、衝撃脈蔵と言う。具には第八巻の釈のごとし。衝撃によりて四時の脈と五蔵とをして違せしむ。またこれ五行相剋を違と名づく。ゆえに四毒蛇は偏に起って病と成る。無量諸業の下は、三境を観ずるによりて諸業を生ずることを明かす。また初めに不観のゆえに発せざるを明かす。ゆえに尋常の散善は業相を発せず。今修の下は、まさに観ずるによりて業相を発するを明かす。健とはすでに大分を観ずるを謂う。病とはすでに病境を観ずるを謂う。三はみなかつて観ずるゆえに不虧と言う。観ずるによりて業を動かすゆえに生死の輪を動かすと言う。業相はこれ能運、生死はこれ所運である。生死の輪を載するを生死輪と名づく。ゆえに大論に云く、生死の輪は人を載せ、諸煩悩結雑わり、曠野に自在に転じて禁止する者なし。先世の業自ら作して転じて種々の形と為る。業力は最大なり、世界中に第一なりと。あるいは善萌などの者は、業相の起るに損益同じからざることを明かす。初句はこれ善習の因萌生の相である。悪壊の下は悪習の因壊滅の相を明かす。善示の下は善報果の相を明かす。悪来の下は悪報果の相を明かす。以悪の下は、業を観ずるによりて魔事を生ずることを明かす。文中ただ生後の相を作すのみ。不観不発を闕く。観ずるによりてすなわち発するの相である。もし前文に望めば、無始時来ただ有漏に順じ、善生じ悪滅すといえども、なお魔界に随うと言うべし。今、業を観じて悪を滅せしむるゆえに涅槃に順ず。善生ずるゆえに菩提に順ず。魔は境を出づるを惧れて方に留難を作す。また三境を観ずるによりて、事善を生ずといえどもまた菩提に順じ、事悪を滅すといえどもまた涅槃に順ず。悪動ずるゆえに双ねて前文の習報二悪を牒し、善生ずるゆえにまた双ねて前文の習報二善を牒す。もし善滅し悪生ずれば魔界に順ずるゆえに留難と為さず。若過の下は、魔を観ずるによりて諸禅を出生することを明かす。また若し観察せずんば宿習現ぜずと言うべし。観ずるを用うるゆえに、すなわちこれ現在の行力の致すところである。ゆえに宿習を動かして諸禅現ず。味浄横竪、具には下の禅境中に明かすがごとし。禅有の下は、禅の後に見を発することを明かす。逸とは縦恣である。若識の下は、見の後に慢を生ずることを明かす。観ずるを用いて見心を観ずれば暫時息む。ゆえに無智の者は涅槃を得たりと謂う。ゆえに増上慢の人は全く法無きにはあらず。ただ法門の大小階位深渫を了せず、濫りに矜高を生ずるを増上慢と名づく。増上の法において未だ得ざるに得たりと謂いて他に対して慢ず。これはただ通じて上慢の相を挙ぐ。小乗の下は別に大小各々その相あり。初め小乗の中に横に四禅を計りて四果と為す者は、すでに前に説くがごとし。大乗にもまた魔の来たりて記を与うる者あり。大乗の中に記によりて慢を生ずることを明かす。ゆえに大品不和合品に云く、魔比丘と作りて菩薩の所に到り、かくのごとき言を作さん。もし菩薩般若において証作せば、須陀洹を得、乃至支仏を得ん。論の七十七も同じ。論八十にまた云く、魔菩薩に語らく、汝諸仏において菩提記を受け、父母兄弟姉妹等の名は某なりと。もし著を受くれば増上慢と成る。身子の眼を捨つる等の者は、身子、大を退きし後、さらに生死を経る。義は見慢のごとし。小習もし起れば先に見慢を破る。ゆえに見慢若静と言う。大品に云く等の者は、かつ別に小の習いを引き証するのみ。次に大品に有菩薩の下は、謗を生ずる者を明かす。大品に云くがごとし。不久行の者は深般若を聞きて謗を起し泥犁の中に堕つ。随喜品に云く、もし菩薩六度を久しく行ぜず、多く仏を供養せず、善根を種えず善友に随わず、善く自性空等を解せず取相迴向せば、かくのごとき菩薩のために深般若を説くべからず。乃至種智十八空等。かくのごとき菩薩は聞いて必ず謗を起す。具には前の信謗品等のごとし。ゆえに三蔵菩薩の外凡、および第二僧祇になお謗の義あり。内凡の人および第三祇にして方に謗せず。別教初心に謗せざるは、教の中道を詮し中道の理深きゆえに、この深理を知るゆえにしばらく謗を免る。此等の下は三菩薩を判じて並びに権に属す。此十の下は境位を判ず。前の八は凡に在るは見るべし。後の二は聖人に在り方便と言うは、すでにこれ円教実道の方便である。方便を実に望めば実を名づけて聖と為す。円はこれ聖法にして極聖を成ぜしむ。人、聖法を得るゆえに聖人と言う。ゆえに十境の位は並びに凡に在ると知る。陰入の下は境の陰顕を判ず。すなわち陰入の境は顕れ、余の九境は隠る。また余の九境は発すればすなわち顕れ、未発は隠る。また八の下は境の近遠を判ず。煩悩等の七転観はなお難きゆえに遠と名づく。後の二境は仮使未観なりといえどもすでに方便と成るゆえに近と名づく。また煩悩等は真を去ることなお遥かなり。いわんや中道をや。ゆえに遠と名づく。後二はしからず。ゆえに近と名づく。また若しの下は、互発を明かさんと欲して先にその意を述ぶ。恐らくは後に発得して進否を知らざらん。ゆえに須く預め説いて相貌を識らしむ。またこの十発の文は、文には十と標するといえども、義にはすなわち二十あり、十双と名づくるゆえに。たとえ第十を除くもまた十八あり。互発の下はまさに互発を明かす。先に章門を列す。前九は相対するゆえに九双と言い、後二は対せざるゆえにただ七隻と言う。七隻はただこれ三四一双である。十の中に一一みな十境に遍ず。また前の九双はまさに互発を弁ず。後の一はただこれ十境を収摂して判じて魔障に属せしむ。次第の下は十双を釈す。初めの次不次には各々三義あり。しかし初二対はすなわち三止観である。これは現在の修観を論ぜず、ただこれ所発の三相の同じからざるのみ。ゆえに前の大意の中の三と同じからず。並びに現文を結んで三種の相と成す。今、不次法と言うは、みなこれ法界なり、不次と名づく。発修の二種は頓と名づけず。ただ相対して異を弁ずるのみ、文のごとし。また発修は見やすきゆえに前に在りて釈す。法義はやや広きゆえに後に在りて釈す。初めの文法は、文を挙げて自ら十と為す。例もまたさらに陰入は法界と為すと言うべし。言うところの眼等は寂静門と為すは、具には第四巻に引くがごとし。何ぞ須く此等を捨つるやと言うは、二乗がこの生死を捨てて彼の涅槃を求むるとは異なる。篋とはこれ笥である。宝を盛るの篋ゆえに宝篋と云う。この経はよく実相の宝を盛るゆえに。方丈託疾とは、浄名自ら床に寝疾するを念じ、世尊大慈、寧ぞ垂愍したまわざるや。仏その念を知り、夙に機縁を鑒み、諸の声聞および諸の菩薩に命じて、咸く昔の屈を述べ皆辞して堪えず。時会はこれによりて弾せらるる事を聞き、また文殊の受命して疾を問うを聞く。仏の旨を承くるといえども、なお答うること難しと歎ず。大衆はこれによりて風を欽み徳を慕い、無数千万、随従して往きて観ず。すでに諸の来れる国王大臣のため、疾によりて広く無常速朽を譚る。文殊纔かに至りて仏の遣命を述べ、しかる後に自ら疾の生滅を問う。大士広く答えて調伏慰喩し、広く菩薩の不思議の事を説き、および衆生を観ずるに畢竟空と為す。仏道ここに通じ不二門開く。室に高座を納れ香飯普く熏ず。去華の譏りを招き、礼座の屈を受けしむ。二大士縦弁するは二乗の知る所にあらず。大乗を歎仰して生酥の益を成じ、および諸の大士咸く醍醐に会す。この教の興ることを得るは皆託疾による。疾益すでに畢りて功を推して帰するあり。還って菴園に詣りて復宗印定す。能く時に因りて自他の疾を観ずるに皆法界なるがゆえに、果に至りてよく疾を以て他を益す。ゆえに浄名の疾を化道と為す。一切諸法悉く疾の中に在り。唐の菩提像を請ずるがごとし。王策をして親しくその室に至らしむ。すでに致敬し已りて壁に題記せんと欲するに、壁はすなわち目前にして久しく行けども至らず。心を息めて出でんと欲すれば近遠初めのごとし。不思議の蹤を歎じて今なおいまだ滅せず。双林現病とは、仏双林に在りて背痛を告ぐるによる。純陀に託して住を請い広く常宗を開く。奇にして三修を斥け奪い三點を敷揚し、三十六問に答え五行十功徳を演ぶ。六師邪を翻し十仙道を受く。かくのごとき等の教、病を現ずるによりてここに興る。業為法界の中に法華を引くは、罪福はこれ業である。深達によるゆえに法界と名づく。十方はすなわち十界である。十界を達するによりてすなわち法界なるゆえに、界理の周きを見るを深達と名づく。初文は真である。空業は諸業を破るゆえにこの業は能く業を破ると云う。次に若衆生の下は仮業である。すなわち空業において遍く諸業を達するゆえに、この業を以て仮業を立つ。次に業と不業の下は、業の中道を観ず。業はすなわちこれ仮、不業はこれ空である。仮業を縛と名づけ、空業を脱と名づく。双ねて二辺を非すれば皆不可得である。普門示現等の者は、物の偏好を引き、かつ三文に対する。もし六界を現ずれば縛と為し、二乗界を現ずれば脱と名づけ、仏菩薩界は双照の縛脱と為す。自ら法華三昧不思議身自在の業を証得するにあらざれば、安んぞよくこの三十三身を現ずることを得ん。縛に非ず脱に非ずして縛脱を現ず。何啻の等の者は、啻とはなお多しである。方等師の外、その徳なお多し。何となれば、世の方等師はただ須く有漏の業相を判ずべし。なおよく業空業仮を達せず。いわんや復た業中をや。今、業の法界を達するは、何ぞ啻か世の方等師と為るに堪えん。設有の等の者は、すでに法界を観ずれば魔もまた本如である。設使行においてなお魔あらんも、薬を屣に塗るがごとく乗御に堪う。魔事は屣のごとし。円観は塗のごとし。魔を観ずればすなわち如なり。乗御に堪うと名づく。能観心性等の者は、三毒の性を観ずるすらなお上定と名づく。いわんや禅心を観じて法界と為すをや。邪を以て正に入る者は、邪はすなわちこれ正、見はすなわち法界である。見において動ぜざるもまたかくのごとし。経文はなお総じている。もし分別せば具には上の文の懺浄中に説くがごとし。見を以て門と為すは前に結んで邪相を以てす。門とは能通の名である。邪を以て正に入るはすなわち能通の義である。見を以て侍と為すは前に結んで見において動ぜざるをす。浄名に云く、菩薩は諸見において動ぜず、生死において捨てず。すなわち侍者の義である。およそ侍者と言うはよく人に随順す。見は観に随いて転じ、観の照す所に任す。見はすなわち法界にして処として随わざるはなし。還って是れ煩悩のみの者は、略して同異を判ず。別説すればすなわち慢に八種あり。これは増上に属す。煩悩の中の利鈍は専ら増上にはあらず。今、通説に従えばまた煩悩に属す。慢無きは空である。大慢は仮である。真より仮を出づる位に種々の形を現じて衆生を調伏するゆえに大慢と名づく。大経三十に云く、菩薩もし衆生に憍慢あるを見れば大慢を現ずと。双非は中に属す、例も見るべし。もし但だ空を見る等の者は、ただ深く空を観ずれば空体は本より妙である。衆生は情に隔てて空を空ならずと謂う。ゆえに今、空を達するはすなわちこれ法界である。空より所現はすなわちこれ俗である。空と不空に対する三諦の義足る。底悪等の者は、底悪はすなわちこれ陰等の八境である。下劣の二乗、すなわち二乗境はなおこれ法界である。いわんや三菩薩をや。また菩薩の下は重ねて権実に寄せて三諦を顕す。権はこれ俗、実はこれ真、双非は中を顕す。これ一一の下に結するは文のごとし。雑不雑の中に適発陰入と言うは、ただ陰解を発するのみもまた発と名づく。交横並沓とは、交互に起るを交横と為し、双双俱に起るを並と名づけ、相次いで起るを沓と名づく。また並とは必ず同類に在る。禅と見、煩悩と禅のごとし。並びに起こるべからず。余は例して知るべし。次不次雑不雑は皆具不具を論ず。次具は知るべし。不次具とは、諸境を見るといえども法界に非ざるはなく、所起にもまた具不具あるゆえに、所起の雑の二義は準じて知るべし。総別と言うは、総とは総都である。都く十境を起すゆえに総具と名づく。十を具に起すといえども、一一の中に頭数足らざるを総不具と名づく。総の中に一を欠くゆえに別と名づく。別の中また欠くるを別不具と名づく。九の中に一一また頭数足らざるを別不具と名づく。ゆえに下の成不成の中にこの文を指して、具不具の中ただ頭数を明かすと云う。今、体分の始終を明かすとは、頭数の中に皆始終あり。次に横竪を明かす中に、通名を背捨と名づけ横法と言うは、禅を禅に望めてこれを横と名づく。また初禅の中に根本味浄等の法を具するゆえにこれを横と名づく。しかるに味を浄に望むれば浅深ありといえども並びに初禅に在るゆえにこれを横と名づく。発七背捨は横不具と言うは、滅受想の中にこの一を闕くゆえに。余の法は例すとは、如発四禅の下より、禅を借りて例して横竪等の相を釈す。自余の九境は禅に準じて知るべし。しかるに余の境の中には横竪ありといえども禅の中の最も委悉なるには及ばず。略説せんと欲すれば、初め陰入境はすでに発を論ぜず横竪具不具等を論ぜず。次に煩悩の中に利鈍使足るを横具と名づく。利の中に単複訖りて無言に至るを竪具と名づく。鈍の中に刹那より重三毒に至るを竪具と名づく。不具は比説す。病の中に四大五蔵および鬼魔等をこれ横と名づく。相生相剋をこれ竪と名づく。具と不具は比説して知るべし。業の中に蔽度相対するをこれ竪と名づく。蔽度彼彼各自相望むをこれ横と名づく。魔の中に三種をこれ横と名づく。先悪後善および二乗に堕つるをこれ竪と名づく。見の中に具に外および仏法を起すをこれ竪と名づく。四句四門相望むるを横と為す。慢の中に諸禅を得たりと謂うをこれ横と名づく。初果乃至四果を得たりと謂うをこれ竪と名づく。二乗の中に四諦相望むるをこれ横と名づく。因縁相望むるをこれ竪と名づく。また二乗相望むるをこれ竪と名づく。また四諦の中に二二相望み、および因縁の中に智を以て境に望むるもまた横と名づく。菩薩の中に当位の自行をこれ横と名づく。三教相望むるをこれ竪と名づく。修不修とは、下文に云く作意不作意、名異にして義同じ。下の煩悩境中に説くがごとしとは、下の煩悩境に修発の句なし。ただ煩悩諸法および法身等あり。各三十六。今ただ彼の句法を指して例と為す。法則同じからず。もし三十六句を分別せんと欲すれば、先に修発各四句の相を識る。一句各四にして三十二と成す。修発二四各初二句の意義は知るべし。各下二句は応に須く略辨すべし。初修後不修を第三句と名づく。一向に理に縁ずるを第四句と名づく。初修後不成を第三句と名づく。発時理に縁ずるを第四句と名づく。この参互を用いて三十二と成す。問う、下の九境は発なければ修なし。何のゆえに十境みな修発と言うや。答う、これ須く分別すべし。もし陰を観じて陰を発すればこれ通修通発である。陰を観じて九を発すればこれ通修別発である。もし煩悩を観じて下の八境を発すればこれ別修別発である。もし煩悩を観じて陰解を生ずればこれ別修通発である。またもし通途の煩悩を観じて宿習の煩悩を発すればまた通修別発と名づく。もし宿習の貪欲を観じて宿習の瞋恚を発すればまた別修別発と名づく。またもし陰入を観じて陰解いまだ起らざればこれ修にして発せずである。もし発して陰解および下の九境を生じ、いまだよく進んで観ずるあたわざればこれを発して修せずと名づく。また修また発、不修不発はこれに準じて知るべし。またもし通途の煩悩を観じて宿習の煩悩を発すればまた修発と名づく。余の九もまたかくのごとし。ゆえに下の九境を修発と名づく。いわんや復た人によりて作意して修せんと欲すれば発あり発なきあり。ゆえにまた九境は通じて修発と名づく。修発すでに十六句を成じ、発修また十六句を成ず。あわせて根本四句を合して三十六句と為す。しかるに須く思択して義をして濫ぜざらしむべし。益不益とは、問う、何のゆえに善悪ともに損益を論ずるや。答う、宿習に随いて諸境の軽重および現観の力の純雑同じからざるを以てのゆえに、これがために各々損益の差別あり。中においてまさに先に善悪を判じ次に損益を弁ずべし。陰入境の体はこれ無記にして善悪を論ぜず。陰を観ずるによりて無記より善悪を発す。観を用うる同じからざればすなわち損益あり。もし煩悩慢病は通じてみなこれ悪である。禅および後の二は通じてみなこれ善である。業魔見境は通じて善不善である。業の中に六度は善と為し六蔽は悪と為すがごとし。魔は悪相を現じおよび悪に堕せしむればすなわちこれ悪摂である。もし善相を現じおよび善に堕せしめ、ならびに二乗等はすなわちこれ善である。見の中に外の外は悪を以て本と為し、またよく善を起す。仏法に附して起るは善を以て本と為し、また悪あり。次に損益を明かすとは、照はすなわちこれ観、静はすなわちこれ止である。善悪を具すといえどもしかるに観力による。もし善悪を観ずること衆流の海に入り風の求羅を益するがごとければ、すなわち一向に益と為す。境に随いて転ずれば止観を妨ぐ。すなわち一向に損と為す。ゆえに巻初に云く、これに随えば人を牽いて悪道に向かわしむ等。止観を損すといえどもまた宜しく観を以てその昏障を照すべし。あるいは宜しく止を以てその散障を寂すべし。ゆえに前文に云く、観を以て昏を観じ、止を以て散を止む等。これすなわち諸境は損にしてまた益と名づく。障にして障に非ざるはすなわちこの意である。もし諸境起りて復た観を修せず、ただこの境に倚りて以て自得と為さば、これすなわち益にしてまた損と名づく。例して知るべし。後の二境は損の義ありといえども観道は正し易し。互損互益および俱損益はこれに例して知るべし。難易の中にもまた善悪と言うは、損益の中に説くがごとし。ただ須くさらに難易の相を弁ずべし。謬りて去取する莫れとは、すなわち初文に云く、随うべからず畏るべからず。皆止観を以てこれを研むとは、すなわち初文に云く、観を以て昏を観ず等。乃至十法出没研覈す。次に三障を明かす中に二乗等はこれ業障と言うは、出世の業あり、かつ業摂に属す。また思力勝れたるゆえにまた業と名づくることを得。また二乗もまたこれ無漏業の成ずる所である。菩薩境とは、三人同じからず。三蔵は有漏、通の初二地は三蔵と同じ。三地已上は学人と同じ。八地已上は無学人と同じ。漏無漏の業を成ず。別教の住行は通教に望めて説く。十向は非漏非無漏の業である。登地の証同は境と名づけず。分別はかくのごとしといえども、もし障を為すに拠れば並びに初心に在り。義は後に通ずるゆえにここに分別す。もししからば、前の五はこれ有漏にしてまさに有漏業なるべし。またこれ業障の摂なるべし。答う、通論すれば十境に三障を具せざるはなし。今しばらく名に随いて便としおよび増勝に随いて説く。もし余境を以て自名に望むれば報陰および煩悩等と為す。ゆえに今別に二乗および菩薩を以て業障の摂と名づく。またこの無漏等は並びに宿因に拠る。もし先にすでに証せばすなわちまさに出界すべし。なんぞさらに今において方に復た発を論ぜん。いわんや復た円に望めてこれを障と名づく。ゆえに五品六根に至らずと云う。次に四魔を釈する中に、業禅二乗菩薩は行陰の摂というは、業の中の善業および禅等は、並びに善行を起すゆえに行に属す。いわんや行陰の中に所摂広多である。ゆえに小乗の中に通大地十、大善地十、大煩悩地六、大不善地二、小煩悩地十、および十四不相応行。大乗の中に遍行五、別境五、大善地十一、随煩悩二十、不定四。大小乗の中に諸の心所法は、受想を除き已りて並びに行陰の摂である。ゆえに善業等は並びに大善および通大地不相応行等の所摂と為る。余は並びに煩悩魔の中の所摂なり。問う、倶舎に云く、蘊は無為を摂せず。何を以てか行陰は二乗菩薩の両境を摂するや。答う、彼は取陰は無為を摂せずと明かす。今は未だ実道を証せざる以前はなお陰に属するを明かす。現在発習はなおこれ有為である。魔名等の者は、慧命を奪うゆえに法身を破するゆえに。問う、何を以てか止は身に属するや。答う、もし福慧相対すれば止はすなわち福に属し福は身に属す。もし智断相対すれば断は解脱に属し、解脱は身を現じて衆生を調伏す。もししからばただ応身に属すべし、何ぞ法身に関せんや。答う、止の体は寂なるゆえにすなわちこれ法身である。観の体は用なるゆえにすなわちこれ般若である。いわんや三身は体一にして、応はすなわち法なるゆえに。魔名磨訛等の者は、古く訳したる経論に魔の字は石に従う。梁武よりこのかた魔はよく人を悩ます、字は宜しく鬼に従うべしと謂う。ゆえに近代の釈字訓家の鬼に従うを釈する者、釈典の所出と云う。ゆえに今、魔を釈するに通じて両の意を存す。もし奪と云わばすなわち鬼の義に従う。もし磨訛と云わばこれ石の義に従う。もしこの義に準ずれば訛の字は金に従い、鋭を去ることを謂う。よく止観の利用を摧くゆえに。もし言に従わばすなわち偽謬を謂うのみ。詩に云く、人の訛言も苟もまた信無からんや。もし言の義を存せばまた鬼に従うに順ず。無漏の像を現じて謬言を宣ぶ。偽にして信無きによりて止を逸し観を暗くす。また訛は動なり、すなわち二義に通ず。石に従い鬼に従うも、通じて皆止観の二法を動壊す。次に問の下は料簡である。問は見るべし。答の中に次に九双を出す。すなわち初二を以て三止観に対す。まさに知るべし、ただこれ昔の宿習に望めるのみにして現修のためにはあらず。ゆえに現修の文に復た三義なし。これすなわち下の七はただ前に二対を分別するのみである。皆次および不次および雑あるゆえに。昔の因縁の中の雑毒等の者は、問う、前句に昔の因今の縁と云う。この句は何を以てか因縁昔に在ると云うや。答う、今の修行を以て昔の習種に望むるゆえに昔を因と為す。今助発する者はゆえに今を縁と為す。もし過現各々論ずれば皆因縁を具す。並びに内心を以て因と為し、知識教等を以てこれを縁と為す。ゆえに前後の二文各々一義に随うも意また殊なるなし。もし宿生より来ただ菩提のため、魔等ありといえども不雑と名づく。もし名利を兼ぬれば、二乗菩薩仏境ありといえどもまた雑と名づく。所因等の者は所依を謂う。宿に何の境に依るや、依る者はすなわち久し。また所依の中に彊あり弱あり。ゆえに彊弱に依りて久不久あり。麁細住乃至四禅と言うは、四禅等階級多きを以てのゆえに、ゆえに禅に寄せて判ず。云云と言うは、乃至味浄および念仏等、彊弱を伝論す。また十境の中に見慢二乗菩薩は多く禅に依る。魔は未到に属す。煩悩業慢はあるいは禅後に発す。ゆえに禅を以てその彊弱を判ずることを得。善易発等の者は、善悪もまた損益の中に準じて判ず。また根遮の四句を以てその難易を判ず。悪欲滅等の四句は更不更を判ず。初句は悪欲滅を表す。ゆえに告謝と云う。悪人と共住し今まさに永く去らんと欲するがごとし。ゆえに告謝と云う。次に善欲の下は善欲生を表す。ゆえに相知と云う。良客初めて来らば必ず先ず主を造るがごとし。ゆえに相知と云う。この善悪の相は一度来り已りて復た更に来らず。すなわちこれ悪滅善生の相である。次に善欲の下は善欲滅を表す。吉に遇いて凶を知ればまさに勢助を求むべし。ゆえに求救と云う。この相を見已りて勤めて身口を策す。次に悪欲の下は悪欲生を表す。窃かに悪を為し私に軽罰を求めて官刑を恕免せられんとするがごとし。ゆえに求受と云う。この相を見已りて願わくは今身に償いて悪道に受けじ。この善悪の相は来り已りて復た来る。すなわちこれ悪生善滅の相である。四更と言うは数来り已まざるを明かす。尽は去声に呼ぶ。あるいは人、第一第四を平声に呼び、第二第三を去声に呼ぶ。甚だ失せり甚だ失せり。この中は皆須く口決を須いる等の者は、道智法眼を用いて方に他を判ずべし。もし自力闕けなばまた須く教に憑るべし。文拠無くんば仰いで先達に推す。凡情に輒ち判ずれば誤りて後生を累さん。ゆえに再び誡めて慎しめよ勤めよと云う。慎しんで謬りて判ずる勿れ。勤めて自行を加え、所受を保重せよ。
止觀輔行傳弘決卷第五之一
止観輔行伝弘決 巻第五の一
止觀輔行傳弘決卷第五之二
止観輔行伝弘決 巻第五の二
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
次私料簡中都十六番問答。初一問答總問諸境何故但十。如陰入境諸陰不同。煩惱種別亦復無量。諸病諸業乃至兩教二乘方便正行。三教菩薩諸位不同。故云法若塵沙境何定十。答意者實如所問。法性如地種子如境。觀行如雨發如抽芽。略以數法且至於十。次問十境下有九問答。為成通別四句故也。初通問起。次答中先答通句。文自為十。於初陰境義亦通十。但依二義陰必居初。下文雖云別當其首。此中文意且順於通。行人通以陰身為始。諸經通以陰為觀初。陰色在初故云諸經皆從色起。非但陰通於十。乃至菩薩義並通十。此中通者但據名通其義猶別。且如十境通得名陰。而從因果別陰等異。故義本別。陰境既爾。餘九亦然。初通名陰者。以陰為本陰境也。煩惱及業名為陰因。病為陰患。魔為陰主。不欲令人出三界故。禪為善陰。且對十境故禪為善陰。若通論者。欲六人四乃至念處諸教伏位。並善陰攝。今以二乘為別陰等故不依通。見慢兩境名又陰因。因義同前文在後列。故云又耳。二乘菩薩雖未出界。義違生死內外不同。異於前八故云別也。又此境若發。界外陰攝故名為別。十義雖殊通未離陰。攝別從通故通名陰。九境攝別意亦如之。禪是無動等業者。對欲界動故云無動。業為煩惱用者。煩惱無業則無至於來果之用。續無動業文乘便釋之。故云業是煩惱用也。文意正言禪是煩惱用也雖在界繫乃有長時受樂之用。故云用也。魔統欲界等者。雖統欲界意欲令人增三界結。釋梵二主並有統領。皆佛弟子厭患生死。故不得名煩惱主也。言別煩惱者。發出世心雖有煩惱不同前七。故名為別。此從因判也。若從果判。前七有通惑。後二有別惑。義通因果文意從因。又從果中復應須簡三種菩薩。如三藏菩薩未破通惑。亦名為別。是故應從初義為正。王今病重等者。闍王意以身瘡為病。如來耆婆以逆為病。問。闍王但有害父一逆。云何言五。答。一在五攝故總云五。逆即是業故業亦名病。魔能作病者。魔不疾人色身報命。但妬有道化其民屬。今言病者。冀因身病退菩提道。三災為外病者明禪亦名病。災患是病之別名。洪範五行云。凡有害者皆名為災。春秋傳曰。天反時為災。又傳例曰。天火曰災。雖有此說然實不識天之所在災之分齊。故知非彼儒宗所論。俱舍云。要七火一水七水火後風。經七火災次一水災。如是經於七七火災七七水災。又更次第經七火災。方一風災。總成八七五十六火又一七水一箇風災。何故爾耶。火至初禪水至二禪風至三禪。二禪壞時初禪必壞。三禪壞時初二必壞。是故劫劫皆壞初禪。為順初禪一劫壽故。必經八劫方至二禪。為順二禪第三天中八劫壽故。風災必經六十四劫方至三禪。為順三禪第三天壽。是故初禪內覺觀患。外有火災二禪內有喜患外有水災。三禪內有樂患外有風災。四禪無患故亦無災。今云喘息喜樂者。對第四禪無喘息故。下三通有喘息等也。文闕覺觀略云喜樂。二乘菩薩是空病者。此三菩薩既未見中。故與二乘同有空病。言空病亦空者。引淨名證。空是病故故云空病。空病須空故云亦空。即是中空空於偏空。故云亦空。煩惱見慢是業本者。本因也。因於此三各能作業。二乘菩薩無漏業者。亦如前簡。餘者行陰魔攝者。行攝法寬。是故餘者盡攝其中。即是陰魔攝也。煩惱見慢等亦名禪者。禪秖是定。既通心數亦有定名。此定復通煩惱見慢。故此等三俱名禪也。魔是未到定果者。此未到地亦得名定。得此定已捨壽生彼故云定果。二乘菩薩淨禪者。大經既以根本四禪名為中定。故今將此以為淨禪。淨禪通屬上定所攝。是故次釋上定攝於二乘菩薩。中下二定攝餘八境。然禪境中唯以根本屬中定攝。特勝通明應兩句攝。九想已去並上定攝。餘之七境並下定攝。言三定者。大經二十五。善男子。一切眾生具足三定。謂上中下。上定者謂佛性。中定者一切眾生具足初禪。有因緣故則能修習。下定者十大地中心數定攝。然下八境實屬善惡。今以八境望心數定通有定名。故用大地通心數攝。以大地定通善通惡故。經釋上定雖云在佛。中定既云在於初禪。故今通將二乘菩薩名為上定。陰入我見眾生見攝者。若通論者。十六知見不離陰入。今從別說故總攬陰名為眾生。橫計陰者名之為我。所攬所計名為陰入。煩惱具五見者。如九十八使中五見具足。此九十八通名煩惱。故云煩惱攝五見也。病壽者命者見者。命計連續壽計一期。尋常雖計病時最切。恐連持斷恐一期短。從彊而說故對斯二。業禪等作者戒取見者。計我能有所作及修禪定。故名作者禪非出道計為出道。故名戒取。魔為欲主謂驅策由我名使作者。苦樂由我名使受者。令其後世還在欲界名使起者。又生死秖是邊見攝者。生死秖是陰入初後。重釋屬邊故云又也。於生計常於死計斷。故名為邊。慢即我見攝者。由我故慢。故慢屬我。二乘菩薩曲見攝者。非圓直道故名為曲。大經云。若見菩薩從兜率下納妃生子。逾城出家乃至入滅。是名二乘曲見。雖標二乘實兼教道。如為地前菩薩現身名為報身非自受用。權示他身非真實故。義當於曲。此十六知見文在大品大論廣解。今但對八。餘未對者攝在八中。謂生者見。計能生眾生如父母生子。二養育見計我能養他。三眾數見。計我有五陰十二入十八界。四人見。計我是行人。五受者見。計我後身當受果報。六起者見。計我能造後世果報。七知者見。計我五根能知五塵。八見者見。計我根塵能見於色及起邪見。列名次第具如經論及法界次第中。向隨義引不依次第。前八外者若將入前八見中者。生者養育攝入魔境。魔雖不同梵王所計。氣類大同。眾數攝入陰境。受者起者攝入業境。人及知者見者攝入煩惱境。陰入我慢攝者。執我我所名為我慢。俱舍文同陰即我所能計即我。煩惱即慢慢者。俱舍云。於他勝謂己等名為過慢。與煩惱義同。病不如慢者。論云。於多分勝謂己少劣名為卑慢。如病不如他而猶生慢。業禪憍慢者。論云。於等謂等。雖然齊等心高舉故。故名為慢。等皆得禪無不自舉。故自矜曰憍。陵他曰慢。魔見大慢者。論云。於他勝謂己勝名慢過慢。如來實勝於佛亦慢。增上慢者。論云。未得謂得。二乘菩薩位居未極。此境起時未能用觀。正當增上。論七慢中唯闕邪慢。謂於有德人中謂己有德。亦可將入魔見二境。以彼二境不尊他故。通稱二乘中。以四諦四念處攝九境者。因緣四諦但是總別四諦攝法名義稍便。故但語四諦不云因緣。陰入全是四念處境。是則苦諦。四念攝陰入境。又以四念處體別。別對者。病患即為身受念攝。亦屬苦諦。禪即法念受念即屬集諦。淨禪亦為道諦所攝。煩惱見慢禪及業相習因之中心王。即心念處集諦攝。諸心所及業習因中心所。并魔並法念處集諦攝。菩薩法念處道滅諦攝。以法念中攝法寬多。謂有為無為。若論念處境屬蘊義邊。念處即不攝於無為法也。故但在四諦之中苦諦所攝。故云四念四諦攝也。又總對者但以念處境苦諦攝。觀念處智道諦攝。如此對者念處但攝陰入禪定二乘菩薩四境。具斯多意故開合解之。若更約九念處中。前七屬方便即後二境所用。若攝前八應如前釋。思之可見。四弘攝九者。四諦既為四弘之境。依前分別亦應可解問境法名但通等者。此下四問皆以別難通。初問意者。境法及名既並互通。能觀行人為亦通不。法謂十境當體。名謂法上之名。以此十法通未離陰。乃至通名菩薩之法。是名法通。文云通稱陰入乃至通稱菩薩。是為名通。法名既通。是故更問能行行人。為亦通不。答意者即以俱通而為答也。何者。前之九境未發心。前尚名菩薩。故菩薩境而得通餘。是故文中且舉九境。通稱菩薩。是則當知行人亦通。言未發心名菩薩者。此據理性一切眾生皆當作佛。豈非菩薩。問。境名容通。法云何通。答。名召於法其名既通。其法不隔。通稱二乘等者。法華論有四種聲聞。謂住果應化退菩提增上慢。今云佛道即是應化。言增上慢攝下八者。二乘正當住果故也。今論境發非前八境。復非菩薩義同住果。退菩提心亦在下九。若退為二乘。則二乘境攝。若退圓入偏仍屬菩薩境也。若大小都失方在下八。禪中復應分漏無漏。以對十境須審思之。言佛道者。且約發心終非圓極。次一問答。答中合字解義。即以義別名通為答。初問云通是無常不者。問前十境既得通稱二乘菩薩。八非三乘得稱三乘。二非無常是無常不。答意者。八非三乘三乘收盡。二非無常有無常義。故引寶性出三界外猶有無常。菩薩尚爾。況二乘耶。故後二境通是無常。次問答。答中分字解義。初問通是有漏不者。復以前八重難後二。若許無常無常即漏。何故向引寶性論言住無漏界。答意者。通皆是漏。有義不同。降佛已來皆名為漏。有義異者。十境別故。陰至見慢有界內漏。二乘菩薩有界外漏。內外不同故云有異。彼寶性論言無漏者。望內得名。若於界外仍名為漏。無常倒義亦復如是。於彼是倒於此不倒。若以大法形之則內外俱漏。次一問答中初問通是偏真不者。以二乘境難餘九境。後二非有漏通得名有漏。二乘是偏真。餘九應偏真。答中亦分字為答。仍未會圓。故通是偏。真有差別故云真異。二乘菩薩有界外真。餘之八境有界內真。次問答者。問中云通義可領者。如前所釋境法名人。乃至無常有漏偏真亦通十境。為一向通亦有別耶。答者。不同本別何須更問。故云十境即是別義。此等三問為成下三句也。此即第二別句竟也。次復有下即第三句不更別問。於答別中便即釋出故云復有亦通亦別。於中復更分別亦通亦別。與是通是別。雖俱屬第三句而不無同異。初陰入境具二義故名亦通亦別。何者。身本觀初。二義異九故名亦別。復使陰義通入餘九。復令餘九通得名陰。故名亦通。餘之九境闕二義故。但得諸境展轉相異。名為是別。展轉互通。故名是通。是則一法自具二義。故云亦通亦別。一法兩向對他故二。但云是通是別。言二義者。一者別當其首。二者與九互通。所言兩向及對他者。異他故別。通他故通。陰境非無異他之別。此別猶通。獨有別當其首全異餘九。故云亦別。以此亦別對於互通。故云亦通。餘九不然是故但云是通是別。以無初之二義故也。下之九境發可為觀。不發何所觀。故闕初義。諸教所列不以為初。闕第二義。無此二義不名亦別。既非亦別不成亦通。若爾下將煩惱病患以難陰入。此之二境亦具二義何獨陰入。何者。煩惱亦是諸法之本。難同初義。元為治惑難同次義。病境亦爾。病身四大難同初義。元為治病難同次義。答意者。初明煩惱無二義中。遮用大經以伏難。難云。若也煩惱不得以為諸法本者。何故經云煩惱與身雖無先後。要因煩惱而得有身。當知煩惱定為身本何關陰入為觀本耶。故今遮云言因煩惱而有身者。煩惱已屬過去世攝。云何更得以為觀境。雖元為治惑豈可治於已謝之惑。是故煩惱二義全闕。況過去惑亦由身有。是故諸教並初觀陰。以現在惑計陰生故。但令觀陰惑則不生。病不恒起下答病無二義。可見。此下無問便即釋出第四句相。皆不思議者。如不次第無非法界。更復與誰以論通別。一陰一切陰者。具如不思議境說。文但舉陰不語餘九者。陰既遍攝。九從陰生例陰亦應一惑一切惑。一切惑一惑非一非一切。乃至菩薩一願一切願。一切願一願非一非一切。次一問答獨問陰境。餘之九境從發受名。皆有別稱。陰解起時亦是發得。應別立名。答意者。於陰生解雖是發得。無九相故還屬於陰。如煩惱起觀於煩惱而生圓解。此解起時亦無別稱。今亦如是。此解生已生執起愛。若病若業受別名者。自由執等非關陰解。是故陰解不受別名。故云若解發等也。此則下略判位次功能。言氣分者。即入五品之前相也。但得下結判。因於陰解而生別相。雖亦陰攝而不得名亦通亦別。言但得通別等者。但得是通是別也。此解起時義同後九。同是發得故亦通九是通是別。又非陰境故不同陰亦通亦別。問條然別不等者。如前答問十境不同即別義也。此別仍通故更問云。亦有十境條然永別。不互通耶。答文具出條然別相。條謂條科。即十科永異。四念陰別者。若但云陰陰名尚通。若云四念觀陰乃至無我觀界。則不得名陰因別陰等也。言空聚者。淨名云。樂觀內入如空聚。大經云。如空聚落。遠望謂有。近看則無。入亦如是。凡夫謂有智者知無。無我觀界者。大經云。著我多者則為分別十八界法。一一界中求我叵得。五停心煩惱別者。五停所治各各不同。豈更得名煩惱果等。八念病別者。修九想怖令修八念。以怖為病尚不同於四大不調。豈同逆病及禪病等。十善業別者。十中三業所對各別。尚非十惡。豈同無漏及無動等。五繫魔別者。四依所誡及楞嚴力制。不同陰魔行陰等魔。故大經四依品中。四依菩薩驅逐魔云。天魔波旬若更來者。當以五繫繫縛於汝。章安釋云。繫有二種。一者五屍繫。二者繫五處。五屍繫者如不淨觀治於愛魔。五處如理治於見魔。故首楞嚴中。舍利子問佛。說此三昧不為諸魔之所惱不。佛言。欲見諸魔衰惱事不。唯然欲見。放眉間光見一切魔皆被五繫。舍利弗言。是誰所作。佛言。是首楞嚴三昧之力。但有說是三昧之處。魔欲為障自見五繫。佛滅度後說三昧處亦復如是。六妙門禪別者。數等六門前後不同。豈同心數及上定等。道品見別者。道品所治即界內見謂戒取等。不同十六知見及別見等。無常苦空慢別者。大小兩乘各有上慢。若大乘中未得佛果自謂究竟。名增上慢。若小乘中未得四果。謂得四果。名增上慢。今小乘中因觀無常謂為極理。豈同世禪謂四果耶。又不同八慢及下八境。四諦因緣二乘別者。自是三藏二乘。豈同通中二乘及以上慢佛道等耶。六度菩薩別者。三祇伏惑豈得復同未發心等。此之條然二義故別。一者依於能治別立此十。如陰似同分三科異。餘九能治準此可知。二者此十別別不同。故復名別。問五陰下六番問答。為成不思議意。如前所明。必先觀陰陰具色心。為即四陰以為能觀。為四陰外別有能觀。若色心外別有能觀。則所觀境攝法不盡。若秖四陰以為能觀。如何以陰而能觀陰。答中二意。先約不思議相即答。次約思議舉況答。初意云不可思議等者。無始色心本是理性妙境妙智。而隨妄轉不覺不知。今既聞名知陰即是。即四陰心而能成觀。亦可下約舉況答者。引小乘中有於善惡無記。乃至法性無等等陰。初心雖以惡及無記以為所觀。別立善陰以為能觀。觀之不已。惡無記陰轉成善陰。即成向來能觀善陰。當知初觀之時雖二而一。陰轉之時雖一而二。乃至轉為無等等陰亦復如是。何者。所觀雖轉。而復立能觀。故雖一而二。雖別立能觀而所轉為能。故雖二而一。雖展轉互轉。終成陰外別立能觀。善惡等位在外凡。方便陰者位在內凡。無漏陰者極在羅漢。法性陰者在方便土。得法性陰陰中無等。故以無等釋於法性。豈非下結也。小乘下況。小乘尚乃一中論二。況不思議境智相即。故不思議即陰是觀而境智宛然。次問者。既云惡無記陰轉為善陰。乃至轉為無等等陰。如是展轉轉所為能。為獨轉觀果陰亦轉。答意者。向立問中以向小乘況答為問。今答直以初不思議相即意答。單約小乘不云報轉。故依大品法華二文。並是圓觀報陰轉義。報若不轉。何以父母所生諸根。皆悉見聞三千大千。大品色淨其意亦爾。故至六根清淨位時。亦得名為報陰轉也。次問十境與五分者。此問別生非關向答。答中先別次同。言五分者。自以此五。判所得禪。有進退等諸相不同。今明十境。明所觀境十發不同。何得十境同於五分今當下彊會令同則有通別二會。初以五分通判十境者。前四可知。達謂隨發。皆以自境體達於境(云云)。若於下別於境境自作五分者。如判禪中。亦有約禪約品通別兩判。故今亦然。若其約觀為五分者。藏通別圓四解起時。從初至後為進。前三隨一為住。得一須持為護。得已又失為退。得已自了為達。若約品者。三教皆有約品之義。今且從圓者。如圓解發。始自初品終至無生。進分也。齊二品來乃至六根。名住分也。始從初品乃至十信作意矜持。名護分也。纔得初品得已即失。名退也。隨得一品。即能體達所得未深。即達分也。若約境者。煩惱起時以貪望瞋名之為通。約諸惑者。貪中淺深名方為別。約諸品進及住可知。防不欲除名之為護。起已自滅名之為退。自知是惑名之為達。餘並如上判橫竪中。橫則是通。竪則是別。兩番對義準上可知。不能委記。然約禪為正九境旁通。是故不可例禪委悉。前之橫竪意亦如然。然五分下更通伏難。難云。五分判禪與十境別既得相會。亦可得與六即十地而相會耶。故為通云。五分十境俱是法相。義理雖別彊為會通。六即十地二俱是位。故不可以五分判之。如云進至妙覺。不可更使退至六根。餘護住等準此說之。五品容有非文正意。又亦不可以六即判地。次問念性緣性等者。此取隨自意中文意為問。此問正顯不思議境。此中一問含於二意。先問緣念性離。次約此離以問十界。法性離能念名為念性離。法性離所緣名為緣性離。既離於能所性亦非數量。唯觀一法性性淨若虛空。云何性空中而具十法界若具十法界即是有緣念。若也有緣念。何得名為離。答中二意。先略申難意。次釋不思議。初文含二。先總標不思議。無相下正答二義。初云無相而相。先答十界無相而具十界之相。觀智宛然者次答緣念。雖無能所觀智宛然。觀為能觀十界為所。點空論界界無界相。雖曰能所緣念本無。他解下次釋不思議義。他解但云須彌及芥相容入等。此事希奇。世間罕有名不思議。言須彌容芥者。謂容入於芥。芥容須彌者。謂芥受須彌。火出蓮華者。大經云。火中生蓮華。是可謂希有。人能度海者。大經十六云。若有人言我能度海可思議不佛言。亦可思議。亦不可思議。若人能度則不可思議。若修羅度則可思議。如此釋者但是約事。若但約事。何能顯於不思議理。如增一阿含云。有四種不思議事。謂世界眾生龍佛土。華嚴亦云。自在天王有寶女名善音。於一語音出百千音樂。一一樂聲復出百千音聲。此等但是人所不測。名不思議。又有解須彌入芥等。是神力能爾。神力乃是本無今有非常住法。有人云。大小無相故能相入。破曰。若小自是小。大自是大。此自性大小不得相入。若小是大小。大是小大。此是他性大小。何能相入。汝所立者。小無小相大無大相。此是他性大小亦不相入。若云小是大小之小。大是小大之大。名共性大小亦無相入。若云小是非大小之小。大是非小大之大。此是無因大小故無相入。若以理寄事。如華嚴經譬一塵中有大千經卷。一念如微塵。諸法如經卷。芥子須彌取譬亦爾。若失今意理實難通。從今解去即今家正解。秖約一念心性真如。契此理故有難思用。理性雖無能緣所緣。能所宛然。修此理故名曰能行。契此理故名為能到。到故有用約證理釋。故云理則勝事今文語略。應依淨名疏解不思議品。經云。菩薩有解脫名不可思議。若菩薩住是解脫者。以須彌之高廣內芥子中。乃至一品皆如是說。以證解脫事用無窮。故云乃至窮劫說不能盡。疏中但以三軌銷此經文。理無不盡。諸佛菩薩有解脫。即真性軌。亦名真性解脫。若菩薩住是解脫者。即觀照軌。亦名實慧解脫。能以須彌之高廣等即資成軌。亦名方便淨解脫。彼文具以前之三教三軌比決。方顯心性圓極三軌。今置三教直明心性。以真性軌與實慧合。名為能到。能從理起用故云理則勝事。問。真性自與實慧和合。何關外境而云大小相入由於契理。答。然此直性遍於法界。迷謂內外悟唯一心。是故四眼二智萬像森然。佛眼種智真空冥寂。今雖初觀豈令順迷。制心從理無非心性。次問者。為是一一因心具十界因。為復一一界果具十界果。答中初總答云俱相有者。法爾而然。一念因心道理具十。一界之果豈當一界。然言一果具於十果。果既隔越遍顯似難。若知隨起十中一心一必通十。是則一果具十因。一因具十因。故曰因通理則易知。文中先明因通。次明果隔。初因通者但舉初後。中間比知。初慈童女者。如心論云。慈童女長者欲隨伴入海采寶。從母求去。母云。吾唯有汝何棄吾去。母恐其去便抱其足。童女便以手捉母髮。一莖髮落。母乃放去。至海洲上見熱鐵輪從空中下。臨其頂上。便發誓言。願法界苦皆集我身。以誓願力火輪遂落。從茲捨命生第六天。違母損髮成地獄心。發弘誓願即屬佛界。引未得記輕得記者。雖未得記已屬佛心。輕得記者成地獄界。故大品觀空不證品云。我證跋致餘人永無。而輕弄餘人。以是事故遠離菩提遠善知識。若即身悔久久還依般若波羅蜜。若不即悔。當知是罪重於四禁過於五逆。當知是菩薩旃陀羅。更引下略明果隔示難顯相。從事理說。即十界果各具十果。故云凡聖皆具五陰。陰即是果。凡謂六凡聖謂四聖。雖復各具。不可聖陰如凡陰也。言不可者。意說凡陰不同聖陰。又佛具下舉一佛果具於十界。然不可以聖陰同凡。自是佛果能具十界。終不可以佛地獄界。以為凡夫地獄界也。佛果已滿從事而說。已具十界。初地初住分具十界。乃至凡夫但是理具。是則一一界果。各各具十不相混濫。一往從易。且云因通及以界隔。理而言之。一念因心實具十界百界因果。何者。如云起一界心即具十界十如。十如秖是因果法耳。相至因緣以屬於因。果報屬果。當知一念恒具百界依正因果。故佛藏云。佛見一切眾生心中。皆有如來結跏趺坐。尚具佛果。餘果亦然。是故下地雖具因果。但是理性。所以致有果隔之言。次問者。一念具十。為復任運恒具十界。為待遇緣作意現起名具十耶。若準前答因通易知。已明一心具十界竟。然觀前答狀似作念是故更置此問釋疑答中云法性自爾者。凡聖法悉皆自爾。自爾秖是自然異名。問。既云自爾何殊外計。答。前第三卷已略分別。如法華玄云。外道已為初教所破。尚不同於通別二教。況以圓極比外自然。若破性中云非自然者。為破計故理必自然。如第一卷釋四弘中。法性自天而然等。小乘尚然。況復實理。問。一心既具但觀於心何須觀具。答。一家觀門永異諸說。該攝一切十方三世若凡若聖一切因果者。良由觀具。具即是假。假即空中。理性雖具若不觀之。但言觀心則不稱理。小乘奚嘗不觀心耶。但迷一心具諸法耳。問。若不觀具為屬何教。答。別教教道從初心來。但云次第生於十界。斷亦次第故不觀具。或稟通教即空但理。或稟三藏寂滅真空。如此等人何須觀具。何者。藏通但云心生六界。觀有巧拙即離不同。是故此兩不須觀具。尚不識具況識空中。若不爾者。何名發心畢竟不別。成正覺已何能現於十界身土。又復學者縱知內心具三千法。不知我心遍彼三千。彼彼三千互遍亦爾。苟順凡情生內外見。應照理體本無四性。心佛眾生三無差別。能知此者依俙識心。又此十乘得名皆同並有能所相對故也第一觀陰入下依章別解。初解陰入中。先重明境。次明修觀初文先附小宗略釋三科。辨境離合。謂五陰下列名。陰者下釋名。今文但以因果兩義釋名。即以因果攝餘盡故。婆沙中云。陰是何義。答。聚義略義積義總義。如種種雜物以為一聚。色乃至識聚在一處。故名為聚。乃至含於三世內外。故名為總中間諸名準說可知。問。五取蘊與蘊有何差別。答。蘊通漏無漏。取蘊唯有漏。蘊之與陰新舊異譯蘊謂蘊積與陰義同。準俱舍中色攝五根境及以二無作。行攝諸心所唯除受想二。識即是心王。為今初觀境。入者新名為處。婆沙云。入是何義。答。輸門義輸道義藏義倉義田義流義海義是為入義。隨名解釋亦應可見。今文涉入及以輪門。並是道義。然上釋義初明根塵互相涉入。次義者明根為外塵之所得。便由心心所流入根境。令塵得入名為輸道。故彼論文門之與道。並是能通。使心心所得流入也。準俱舍中法入最寬。界者婆沙云。界是何義。分別是界義。如山中有寶種類不同。俱舍頌云。聚生門種族。是蘊處界義例婆沙文可以意知。俱舍中廣以族持性等三義釋界。餘根塵識如常可知。法界攝四亦同法入。乃至廣以二十二門分別界義。委悉列名辨相出體非今文意。唯依諸論以明開合而為觀境。故次明之。婆沙下明境開合。與俱舍同。頌云。愚根樂三故。說蘊處界三。愚謂迷也。根謂三品。樂謂所欲。今明觀境不須兩義。故但從迷。言少分者以法入法界中具含心色。今文略界且從入說故云法入含於色心成兩少分。意但是心。餘十唯色。若約界者法界亦二。十界是色七界是心。陰中四陰既純是心。故不須簡。於法入法界中言二少分者。以法入中有四類法謂無表色心所法不相應行三無為法。是則無表是色。心所是心。不相應行非色非心。無為法者非三聚攝。無為在下二乘境攝。得非得者。在下助道觀中。無想二定復在禪境。餘並在此。若依經部大乘法相等。同時意識緣現五塵及落謝塵法入所收。少分屬色少分屬心。今且觀心。心即識也。又有宗五識及五意識并第六識。俱能引起受等三心。若依成論。五識定無起三心義。雖此同異今初且觀諸識為境。問。識陰是王有宗心王與數同起。如何別於心王修觀。答。此但宗計。意則不然直爾觀心義當觀王。數人下兼示二論不同之相。數人即是薩婆多師。破成論師云。心聚是一。何容前後。論師復破薩婆多師云。雖同心聚四心各別。自有其體而共相應。今並不從二論同別。但且用心為所觀境。若就下且依空門以判前後。若前若後皆不得使數涉於王。故云不得以數隔王。數在前後王在中央。名為數隔。是故心王非前則後。四念下釋疑。疑云。何故念處王在中央。釋云。就言說便非起次第。亦非約行。又分別下正示境相。三科不同但論陰者。以界入中心界心入。則有少分全分不同。五陰雖開無少分故。故先約陰後列界入。又此三科既開合異。欲以識界而為觀初。何往不得。但識名多故。陰在初故。又名略故。是故先用。故依經論明陰不同。皆從心造。見愛是穢。故兩所起名污穢陰。并起善惡並名造陰。初兩唯是果報陰耳。變化即是工巧故也。五善根者。總別念處但合為一。并煗等四名五方便。亦名五善根五停但是對治五障。是故不論。念處等五能為無漏作近方便。次引大小教證。又正法念中雖但列六。華嚴既云種種五陰。即通十界。世間下次略示境相難思。故舉況以寧可凡心知。如世間陰人中一種尚叵窮盡。況復六道陰。六道陰尚爾。況出世四聖。此中預以報陰比決。令識下文不思議陰。凡眼下舉譬。肉眼世智猶如凡眼。三惑所障名之為翳。尚不見於真諦之近。況能見於中道之遠。彌生下合譬。界內偏真名為一隅。界外圓中名為邊表。四角曰隅如渴鹿下重譬不知之人。隨世色聲若偏小等。終不聞見真妙之理。縱令下與而言之但覩小法。故大集下引證也佛世值聖猶尚住小。各執一門異計不同。依毘曇門用七方便名為常見。說異能斷。依成實門但觀空心名為見。說一能斷。當知滅後圓門不易況佛去世者舉佛滅後不知為況。故龍樹下明佛滅後造論破計。一謂毘曇王數同時。異謂成論王數前後。四句三假皆如幻化。然界內下欲示識心而為觀境。先且總攬心為起由。即前所引經論是也。佛告下重引阿含大論。以證心造。若欲下雙舉二譬。世出世陰如條如病。一念識心如根如穴。如華他治病。湯不過一種兩種。炙不過一穴兩穴。若爾。觀心即足。何故第四破遍文末更例觀於餘陰界入。答。欲融諸法示觀境遍。是故下文例餘界入。若示境體觀心即足。以心遍故攝餘法故。又非但心攝一切。亦乃一切攝心。故四念處云。非但唯識亦乃唯聲唯香味等。今當下從廣之狹。正示境體。陰入界三並可為境。寬漫難示故促指的。略二就陰如去丈就尺。略四從識如去尺就寸。以由界入所攝寬多。陰唯有為。有為之中義兼心色。故置色存心。心名復含心及心所。今且觀心王置於心所。故初觀識。餘下例之。問。五識五意識及第六識。並能生於受等三心。何等識心及所生三心。是今觀境。答。五識五意識定是今境。未屬煩惱在無記故。於第六中取能招報者。仍須發得乃屬煩惱境。餘之分別方屬今境。又此五識及五意識雖在今境。仍在下文歷緣對境中明。又若探取不思議意。以對喻者。則一念心十界三科如丈。一界五陰如尺。唯在識心如寸。若達心具一切法已。方能度入一切色心。如一一尺無非是寸。及一一丈無非是尺。是故丈尺全體是寸。觀心下次明能觀觀法。觀法非十對根有殊。雖復根殊但是一不思議觀觀不思議境乃至離愛不離境故。故此十觀文十義十。根三意二分遠近故。近期初住遠在極果。又次位下三雖非觀法。並由觀力相從名觀。故名十觀又備此十令觀可成。故名成觀亦名成乘。思之。可見。既自達下生起次第。今文可見。四念處中以初四法皆共成於上求下化。故彼文云。上求不思議境觀於煩惱即是菩提。於此煩惱上求菩提無別求也。生死涅槃亦復如是。為欲下化應須發心。即發弘誓。我以何法上求下化。應須安心莊嚴上求。以此定慧能度眾生。名為下化。若無上果下化不成。故知果成由於破遍。若破不遍須識通塞。下去生起與今文同。以此而觀前之四法用無前後。通塞等三成就前四。次位等三以判前七。能善用者十如指掌。譬如下舉譬。毘首等者。毘首是天家巧匠。長阿含云。天帝與修羅戰勝。更造一堂名為最勝。東西百由旬南北六十由旬。堂有百間。間有七支露臺。一一臺上有七玉女。一一玉女有七使人。皆是天帝優給衣食莊嚴之具。千世界中此堂無比。故名最勝。今云得勝者。由戰得勝而造此堂。先略銷譬。下文自合。周匝間隙皆容一綖。十法無間如不疎。無混濫過如不密。十法相別如容綖。十法圓乘出諸觀上如峙上天。謂居極理第一義天。巍巍昂昂稱歎辭也。巍高也。昂舉也。尚非別教教道所知。況暗證拙匠能揆則耶。揆度也則準也。非是暗證能思度故。言善畫者如張顧之徒並得筆墨之妙。今家觀法亦復如是圖謂圖寫畫之所生。依教修習得佛法大綱猶如匡郭。匡郭者物之外圍。得佛法意猶如逼真。依教尋真猶如寫像。窮教實體名為骨法。依實生解義如精靈。十法所趣如生氣。從因趣果名飛動豈誦文者所知。如非填彩等也。此十觀下合譬以此一合通合兩譬。最後結中同結二人。然此合語文約意廣。先對二譬次重釋文。初合勝堂者。橫竪等合不疎不密等。從初則下合巍巍等。意圓下合非拙匠等。若合後譬者。橫竪等合匡郭逼真。微妙等合圖寫等。從初則下合生氣等。非誦文者合填彩人。次更委釋此合文者。言橫竪者。此之十法有通有別別者。如不思議境窮實相底名竪。包十法界名橫。發心上求名竪。下化眾生名橫。又上求下化名竪。依境發誓名橫。安心徹理名竪。六十四番名橫。破遍惑窮名竪。諸門相望名橫。通至寶所名竪。校校塞著名橫。道品至後名竪。品品相望為橫。正助至後名竪。法法相望為橫。次位至極名竪。位位遍攝為橫安忍進後為竪。違順相望為橫。無著入住為竪。離似三法為橫。此且單約圓乘為解。若望偏乘名橫名竪。亦如橫竪顯非橫竪。若不思議非橫非竪能作橫竪。而云橫竪。又總論者。在一一位十自相望為橫。一一至極當法漸深為竪。又亦可前之七法名橫。識次位去名為竪。又玄文對信復名別竪攝諸法盡故云收束。十法理幽為微。開麁絕待為妙。不濫偏小名精。安布次比名巧。初則簡圓極境為真。以偏小等為偽。中則發心安心至識次位為正唯有第七正助為助。以助添正名為相。添。後則第九安忍第十無著。令行不息得入初住。若觀若說意在一乘。名為意圓。所說之法不雜偏邪名為法巧。法遍諸教為該。咸收入十為括。以該故周。以括故備。遍於四教一十六門。乃至五時八教一期始終。今皆開顯束入一乘。遍括諸教備入一實。若當分者尚非偏教教主所知。況復世間暗證者耶規圓炬方法有準則。依理安心初有則也。不次第破無通無塞而論通塞。乃至正助中有則也。無著不於相似起愛後有則也至於初住名為薩雲。薩雲雖即本在究竟。初住分得亦可通用也。蓋如來下稱難也。十法既是法華所乘。是故還用法華文歎。若約迹說。即指大通智勝佛時以為積劫。寂滅道場以為妙悟。若約本門。指我本行菩薩道時以為積劫。本成佛時以為妙悟。迹本二門秖是求悟此之十法。身子等者。寂場欲說物機未宜。恐其墮苦更施方便。四十餘年種種調熟。至法華會初略開權動執生疑。殷勤三請。五千起去方無枝葉。點示四一演五佛章。被上根人名為法說。中根未解猶希譬喻。下根器劣復待因緣。佛意聯綿在茲十法。故十法文末皆譬大車。今文所憑意在於此。惑者未見尚指華嚴。唯知華嚴圓頓之名。而昧彼部兼帶之說。全失法華絕待之意。貶挫妙教獨顯之能。驗迹本二文檢五時之說。圓極不謬何須致疑。是故結曰正在茲乎。
次に、ここで中道における十六番の問答を私なりに整理してみます。最初の問答は、諸々の境について、なぜただ十なのかを全体的に問うものです。たとえば陰入の境では、諸々の陰は異なり、煩悩の種類もまた無量です。諸々の病や諸々の業、さらには両教の二乗の方便と正行、三教の菩薩の諸位もそれぞれ異なります。ですから「法が塵沙のごとくであれば、境はどうして一定して十なのか」と言うのです。答えの趣旨は、まことに問いの通りです。法性は地のごとく、種子は境のごとく、観行は雨のごとく、発は芽が抽じるがごとくです。略して数法によって、ひとまず十に至るのです。次に十境の下に九つの問答があり、通と別の四句を成り立たせるためです。初めに通の問いが起こり、次の答えの中でまず通の句を答えています。文は自ら十となっています。初めの陰境の義もまた通じて十です。ただ二つの義によって、陰は必ず初めに置かれます。下文には「別はまさにその首となる」と言っていますが、この文の意はひとまず通に順じています。行人は通じて陰身を始めとし、諸経は通じて陰を観の初めとし、陰色が初めにあるので「諸経は皆色より起こる」と言うのです。ただ陰が十に通じるだけでなく、菩薩の義までも皆十に通じます。ここで通というのは、ただ名が通じるというだけで、その義はなお別です。たとえば十境が通じて陰と名づけられても、因果によって別の陰など異なるのです。ですから義はもともと別です。陰境がすでにそうであれば、残りの九もまた同様です。初めに通じて陰と名づけるのは、陰を本とする陰境です。煩悩と業は陰の因と名づけ、病は陰の患とし、魔は陰の主とします。人をして三界を出させまいとするからです。禅は善陰とします。ひとまず十境に対して、禅を善陰とするのです。もし通じて論じるならば、欲の六人四、さらには念処の諸教の伏位は、みな善陰に摂められます。今は二乗を別陰などとするので、通に依りません。見と慢の両境はまた陰の因と名づけます。因の義は前文と同じで、文は後に列ねられています。ですから「また」と言うのです。二乗と菩薩はまだ界を出ていませんが、義は生死に違し、内外が異なります。前の八と異なるので「別」と言うのです。またこの境がもし発すれば、界外の陰に摂められるので「別」と名づけます。十の義は異なっていても、通じてはなお陰を離れません。別を摂めて通に従うので、通じて陰と名づけます。九境が別を摂める意もまた同様です。禅は無動などの業であるとは、欲界の動に対するので「無動」と言うのです。業は煩悩の用であるとは、煩悩に業がなければ、来果に至る用がないからです。無動業の文を続けて、ついでにこれを釈しています。ですから「業は煩悩の用である」と言うのです。文の意はまさに「禅は煩悩の用である」と言っています。界繋にあっても、長時に楽を受ける用があるからです。ですから「用」と言うのです。魔は欲界を統べるとは、欲界を統べても、人をして三界の結を増さしめようとするからです。釈梵の二主はともに統領がありますが、みな仏弟子で生死を厭患します。ですから煩悩の主とは名づけられません。「別の煩悩」と言うのは、出世の心を発しても、前の七とは異なる煩悩があるからです。ですから「別」と名づけます。これは因から判じたものです。もし果から判じるならば、前の七には通惑があり、後の二には別惑があります。義は因果に通じますが、文の意は因に従います。また果の中でも、さらに三種の菩薩を簡ぶ必要があります。三蔵の菩薩はまだ通惑を破っていないので、また「別」と名づけます。ですから初めの義を正とすべきです。「王は今病重し」などとは、闍王は身瘡を病と思い、如来と耆婆は逆を病とするのです。問い、闍王にはただ父を害する一逆があるだけなのに、どうして五と言うのか。答え、一が五に摂められるので、総じて五と言うのです。逆はすなわち業なので、業もまた病と名づけます。魔が病を作せるとは、魔は人の色身と報命を疾ませません。ただ有道の化その民属を妬むだけです。今「病」と言うのは、身病によって菩提道から退くことを望むからです。三災は外病であるとは、禅もまた病と名づけることを明かすのです。災患は病の別名です。洪範五行に云く、およそ害あるものは皆な災と名づく。春秋伝に曰く、天が時を反すを災と為す。また伝例に曰く、天火を災と曰う。この説があっても、実に天の在る所と災の分斉を知りません。ですから彼の儒宗の論じる所ではないと知るのです。倶舎に云く、要ず七火一水、七水火の後に風。七火災を経て次に一水災。かくのごとく七七火災、七七水災を経て、また更に次第に七火災を経て、方に一風災。総じて八七五十六火と、また一七水と一箇の風災を成じます。なぜそうなのか。火は初禅に至り、水は二禅に至り、風は三禅に至ります。二禅が壊れる時、初禅は必ず壊れます。三禅が壊れる時、初二は必ず壊れます。ですから劫々に皆な初禅を壊します。初禅の一劫の寿に順じるためです。必ず八劫を経て方に二禅に至ります。二禅の第三天の八劫の寿に順じるためです。風災は必ず六十四劫を経て方に三禅に至ります。三禅の第三天の寿に順じるためです。ですから初禅には内に覚観の患があり、外に火災があります。二禅には内に喜の患があり、外に水災があります。三禅には内に楽の患があり、外に風災があります。四禅には患がないので災もまたありません。今「喘息喜楽」と言うのは、第四禅に喘息がないに対するので、下の三には通じて喘息などがあるのです。文には覚観が欠けており、略して「喜楽」と言うのです。二乗と菩薩はこれ空病であるとは、この三の菩薩はまだ中の見がないので、二乗と同じく空病があるのです。「空病もまた空」と言うのは、浄名を引いて証するのです。空は病であるので「空病」と言い、空病は空じる必要があるので「また空」と言うのです。すなわち中空をもって偏空を空じるのです。ですから「また空」と言うのです。煩悩と見慢は業の本であるとは、本は因です。この三を因として、それぞれ能く業を作ります。二乗と菩薩は無漏の業であるとは、また前に簡んだ通りです。余は行陰魔に摂められるとは、行は法を摂めるのが広いので、余はことごとくその中に摂められます。すなわち陰魔に摂められるのです。煩悩と見慢などもまた禅と名づけるとは、禅はただこれ定であり、すでに心数に通じるので定の名もあります。この定はまた煩悩と見慢に通じるので、この三などはともに禅と名づけます。魔は未到定の果であるとは、この未到地もまた定と名づけられます。この定を得てすでに寿を捨てて彼に生まれるので「定果」と言うのです。二乗と菩薩は浄禅であるとは、大経はすでに根本四禅を中定と名づけているので、今これを浄禅とします。浄禅は通じて上定に属します。ですから次に上定が二乗と菩薩を摂めることを釈します。中下の二定は余の八境を摂めます。しかし禅境の中ではただ根本のみが中定に属します。特勝と通明は両句に摂められるべきです。九想以上はみな上定に摂められます。余の七境はみな下定に摂められます。「三定」と言うのは、大経二十五に「善男子、一切衆生は三定を具足す。上中下と謂う。上定とは仏性を謂う。中定とは一切衆生が初禅を具足す。因縁あるがゆえに則ち能く修習す。下定とは十大地の心数定に摂められる」と。しかし下の八境は実に善悪に属します。今八境を心数定から見れば、通じて定の名があります。ですから大地の通心数をもって摂めます。大地の定は善に通じ悪に通じるからです。経が上定を釈して「仏に在り」と言っても、中定はすでに初禅に在ると言うので、今は通じて二乗と菩薩を上定と名づけます。陰入は我見と衆生見に摂められるとは、もし通じて論じるならば、十六知見は陰入を離れません。今は別説に従うので、総じて陰を攬めて衆生と名づけます。横に陰を計るものを我と名づけ、攬める所と計る所を陰入と名づけます。煩悩は五見を具するととは、九十八使の中に五見が具足するがごとくです。この九十八は通じて煩悩と名づけます。ですから「煩悩は五見を摂める」と言うのです。病は寿者と命者と見者です。命は連続を計り、寿は一期を計ります。尋常は病の時が最も切なりと計りますが、連持の断を恐れ、一期の短いのを恐れます。彊きに従って説くので、この二に対してです。業禅などは作者と戒取見です。我能く作す所あり及び禅定を修すと計るので「作者」と名づけます。禅は出道に非ずと計して出道と為すので「戒取」と名づけます。魔は欲主と為し、駆策は我によるを「使作者」と名づけ、苦楽は我によるを「使受者」と名づけ、その後世をして還って欲界に在らしめるを「使起者」と名づけます。また生死はただこれ辺見に摂められるとは、生死はただこれ陰入の初後です。重ねて辺に属することを釈するので「また」と言うのです。生に常を計り、死に断を計るので「辺」と名づけます。慢はすなわち我見に摂められるとは、我によるので慢があり、ですから慢は我に属します。二乗と菩薩は曲見に摂められるとは、円直の道に非ざるので「曲」と名づけます。大経に云く、菩薩が兜率より下り妃を納れ子を生み、城を逾え出家し乃至入滅するを見れば、是を二乗の曲見と名づく。二乗と標しても実に教道を兼ねます。地前の菩薩のために身を現すを報身と名づけ、自受用に非ず。権に他身を示すは真実に非ざるので、義は曲に当たります。この十六知見の文は大品と大論に広く解釈されています。今はただ八に対しており、余の対していないものは八の中に摂められます。「生者見」とは、能く衆生を生むを計る。父母が子を生むがごとし。「二養育見」とは、我能く他を養うと計る。「三衆数見」とは、我に五陰十二入十八界ありと計る。「四人見」とは、我は行人なりと計る。「五受者見」とは、我が後身はまさに果報を受くべしと計る。「六起者見」とは、我能く後世の果報を造ると計る。「七知者見」とは、我が五根は能く五塵を知ると計る。「八見者見」とは、我が根塵は能く色を見及び邪見を起こすと計る。名を列ねる次第は経論及び法界次第の中に具にあります。先には義に随って引き、次第に依っていません。前の八の外のものは、もし前の八見の中に入れるならば、生者と養育は魔境に摂められます。魔は梵王の計る所と異なりますが、気類は大同です。衆数は陰境に摂められ、受者と起者は業境に摂められ、人と知者と見者は煩悩境に摂められます。陰入は我慢に摂められるとは、我と我所に執するを我慢と名づけます。倶舎の文も同く、陰はすなわち我所能、計はすなわち我です。煩悩はすなわち慢です。慢とは、倶舎に云く、他に対して勝を己と謂うを過慢と名づく。大経に云く、我は凡夫なりと謂う。これ我見なり。慢とは、倶舎に云く、他に対して勝を己が勝と謂うを過過慢と名づく。慢過慢とは、己が勝を謂うなり。増上慢とは、倶舎に云く、未だ得ざるに得たりと謂う。二乗と菩薩は位未だ極まらず、この境が起きる時、未だ観を用いる能わず。まさに増上に当たります。論の七慢の中ではただ邪慢だけが欠けています。有徳の人に対して己に徳ありと謂う。また魔見の二境に入れるべきです。彼の二境は他を尊ばないからです。通じて二乗の中と称します。四諦と四念処で九境を摂めるとは、因縁四諦はただこれ総別の四諦で、法を摂める名義がやや便であるので、ただ四諦を語り因縁を云わないのです。陰入は全く四念処の境です。これはすなわち苦諦です。四念は陰入の境を摂めます。また四念処の体の別をもって別に対すれば、病患はすなわち身受念に摂められ、また苦諦に属します。禅はすなわち法念受念、すなわち集諦に属します。浄禅もまた道諦に摂められます。煩悩と見慢の禅及び業の相習の因の中の心王は、すなわち心念処、集諦に摂められます。諸心所及び業習の因の中の心所、並びに魔は法念処、集諦に摂められます。菩薩の法念処は道滅諦に摂められます。法念の中には法を摂めるのが広く多いからです。有為無為と謂います。もし念処の境を論じれば、蘊の義の辺に属します。念処はすなわち無為の法を摂めません。ですからただ四諦の中の苦諦に摂められるのです。ですから「四念四諦に摂む」と言うのです。また総じて対すれば、ただ念処の境は苦諦に摂め、念処を観ずる智は道諦に摂めます。このように対すれば、念処はただ陰入禅定二乗菩薩の四境を摂めます。この多くの意を具するので開合してこれを解します。もしさらに九念処の中に約すれば、前の七は方便に属し、すなわち後の二境の所用です。もし前の八を摂すれば、前の釈のごとくになるべきです。思えば見ることができます。四弘が九を摂めるとは、四諦はすでに四弘の境です。前の分別に依れば、また解すべきです。問い、境法名はただ通ずるなどとは、これ以下の四問は皆な別をもって通を難じます。初めの問いの意は、境と法と名はすでに並びに互通します。能観の行人もまた通ずるかどうか。法とは十境の当体を謂い、名とは法上の名を謂います。この十法で通じて未だ陰を離れず、乃至通じて菩薩の法と名づけます。これを法通とします。文に云く、通じて陰入と称し乃至通じて菩薩と称す。これを名通とします。法と名がすでに通ずるので、ですから更に能行の行人を問うのです。また通ずるかどうか。答えの意は、すなわち俱に通ずるをもって答とします。なぜなら、前の九境は未だ発心せず、前はなお菩薩と名づけるからです。ですから菩薩境は通じて余に及ぶことを得ます。ですから文の中にひとまず九境を挙げ、通じて菩薩と称します。これすなわち当に知るべきです、行人もまた通ずると。未だ発心せざるを菩薩と名づけるとは、これは理性に拠り、一切衆生は皆なまさに作仏すべし。どうして菩薩に非ざるでしょうか。問い、境と名は通ずることを容すが、法はどうして通ずるのか。答え、名は法を召す、その名がすでに通ずれば、その法も隔てない。通じて二乗などと称するとは、法華論に四種の声聞あり。住果と応化と退菩提と増上慢と謂う。今「仏道」と言うのはすなわち応化です。増上慢は下の八を摂めるとは、二乗はまさに住果に当たるからです。今境の発を論ずるのは前の八境に非ず、また菩薩にも非ず、義は住果と同じです。退菩提心もまた下の九に在ります。もし退いて二乗となれば、則ち二乗境に摂められます。もし退いて円より偏に入れば、なお菩薩境に属します。もし大小ともに失えば、方に下の八に在ります。禅の中でもまた漏無漏を分けるべきです。十境に対しては審かに思う必要があります。「仏道」と言うのは、ひとまず発心に約し、終には円極に非ざるのです。次の一問答の答えの中では、合字で義を解します。すなわち義別名通をもって答とします。初めの問いに「通はこれ無常か否か」と云うのは、前の十境はすでに通じて二乗菩薩と称することを得、八は三乗に非ずして三乗と称することを得、二は無常に非ずしてこれ無常か否かと問うのです。答えの意は、八は三乗に非ずして三乗に収め尽くされ、二は無常に非ずして無常の義あり。ですから宝性を引き、三界の外にもなお無常ありと出します。菩薩すらなおそうであるのに、況んや二乗をや。ですから後の二境は通じてこれ無常です。次の問答の答えの中では分字で義を解します。初めの問いに「通はこれ有漏か否か」と云うのは、また前の八をもって重ねて後の二を難じます。もし無常を許せば、無常はすなわち漏です。どうして先に宝性論を引いて「無漏界に住す」と言ったのか。答えの意は、通じて皆なこれ漏です。義に不同あり。仏より降りて以来は皆な漏と名づけます。義に異ありとは、十境が別だからです。陰より見慢に至るまでは界内の漏あり、二乗と菩薩は界外の漏あり。内外が異なるので「有異」と言うのです。彼の宝性論が無漏と言うのは、内に対して名づけたものです。もし界外に対してはなお漏と名づけます。無常と倒の義もまたこのごとくです。彼に対しては倒、此に対しては不倒。もし大法をもってこれを形すれば、則ち内外ともに漏です。次の一問答の初めの問いに「通はこれ偏真か否か」と云うのは、二乗境をもって余の九境を難じます。後の二は有漏に非ずして通じて有漏と名づけることを得、二乗はこれ偏真、余の九も偏真なるべきです。答えの中でもまた分字して答えます。まだ円に会していないので、通じてこれ偏です。真に差別があるので「真異」と言うのです。二乗と菩薩は界外の真あり、余の八境は界内の真あり。次の問答の問いに「通の義は領すべし」と云うのは、前の釈のごとく、境法名と人乃至無常有漏偏真もまた通じて十境に通ずる。一向に通か、また別もあるか。答えは、本別に同じからざれば何ぞ更に問うことを須いん。ですから「十境はすなわちこれ別義なり」と言うのです。これらの三問は下の三句を成り立たせるためです。これすなわち第二の別句が終わったのです。次に「また有り」以下はすなわち第三句で、更に別に問わず、答え別の中で便ちこれを釈し出すので「また有り亦通亦別」と言うのです。その中でまた更に亦通亦別と是通是別を分別します。俱に第三句に属しても同じでないことがあります。初めの陰入の境は二義を具するので「亦通亦別」と名づけます。なぜなら、身本と観初の二義は九と異なるので「亦別」と名づけます。また陰の義を通じて余の九に入れ、また余の九を通じて陰と名づけることを得ます。ですから「亦通」と名づけます。余の九境は二義を欠くので、ただ諸境が展転して相異なることを得、これを「是別」と名づけます。展転して互通するので「是通」と名づけます。これすなわち一法が自ら二義を具するので「亦通亦別」と言うのです。一法が両向して他に対するので二となり、ただ「是通是別」と言うだけです。「二義」と言うのは、一つは別にその首となり、二つは九と互通することです。「両向」及び「対他」と言うのは、他と異なるので別、他に通ずるので通です。陰境は他と異なる別がないのではありません。この別はなお通です。独り別にその首となること全く余の九と異なるので「亦別」と言うのです。この亦別を互通に対して、ですから「亦通」と言うのです。余の九はそうでないので、ただ「是通是別」と言うだけです。初めの二義がないからです。下の九境は発すれば観と為すべく、発しなければ何をか観ん。ですから初義を欠きます。諸教に列ねる所はこれを初めとしません。第二義を欠きます。この二義がなければ「亦別」と名づけません。すでに亦別でなければ亦通も成じません。もしそうならば、下に煩悩と病患をもって陰入を難じます。この二境もまた二義を具するのに、どうして陰入だけか。なぜなら、煩悩もまた諸法の本です。初義に同じことを難じ、もと惑を治するため、次義に同じことを難じます。病境もまた同様です。病身の四大は初義に同じ、もと病を治するため、次義に同じ。答えの意は、初めに煩悩に二義がないことを明かす中で、大経を用いて伏難を遮ります。難に云く、もし煩悩が諸法の本と為り得ないならば、何故に経に「煩悩と身は先後がないといえども、要ず煩悩に因って身を得る」と云うのか。まさに知るべし、煩悩は定めて身の本たり、何ぞ陰入が観の本たるに関せんや。ですから今遮して云く、煩悩に因って身ありと言うのは、煩悩はすでに過去世に属します。どうして更に観境と為し得んや。もと惑を治するためといえども、豈に已に謝した惑を治すべきや。ですから煩悩の二義は全く欠けます。況んや過去の惑もまた身による。ですから諸教は並びに初めに陰を観じます。現在の惑は陰を計して生ずるからです。ただ陰を観ぜしめれば惑は則ち生じません。病は恒に起きず、以下は病に二義がないことを答えます。見るべし。これ以下は問いなくして便ち第四句の相を釈し出します。「皆な不思議」とは、次第でないがごとく、法界に非ざるはなし。更にまた誰と通別を論ぜんや。「一陰一切陰」とは、不思議境の説のごとく具にします。文はただ陰を挙げて余の九を語りませんが、陰がすでに遍く摂めるので、九は陰より生ず。例せば陰はまた一惑一切惑なるべし。一切惑一惑、非一非一切。乃至菩薩の一願一切願、一切願一願、非一非一切。次の一問答は独り陰境を問います。余の九境は発に従って名を受け、皆な別称があります。陰解が起きる時もまた発得です。まさに別に名を立つべきです。答えの意は、陰に解を生ずるは発得といえども、九の相がないので還って陰に属します。煩悩が起きて煩悩を観じ、円解を生ずるがごとし。この解が起きる時もまた別称がありません。今もまたこのごとくです。この解が生じ、すでに生じて執を起こし愛を起し、もし病もし業が別名を受けるならば、自ら執などによるので陰解には関しません。ですから陰解は別名を受けません。ですから「もし解発など」と言うのです。これ則ち以下は略して位次功能を判じます。「気分」とは、すなわち五品に入る前の相です。「但得」以下は結判です。陰解に因って別相を生じます。また陰に摂められますが「亦通亦別」と名づけることは得ません。「但得通別など」と言うのは、ただ是通是別を得るだけです。この解が起きる時、義は後の九と同じです。同じくこれ発得なので通じて九に通じ、これ通是別です。また陰境に非ざるので、陰の亦通亦別とは異なります。問い「条然別不等」とは、前の答えのごとく十境不同すなわち別義です。この別はなお通なので、更に問うて云く、また十境が条然と永く別にして互通しないことがあるか。答えの文に具に条然別の相を出します。条とは条科と謂い、すなわち十科が永く異なるのです。「四念陰別」とは、もしただ陰と云えば陰の名はなお通です。もし四念観陰乃至無我観界と云えば、則ち陰因別陰などと名づけることは得ません。「空聚」と言うのは、浄名に云く、内入を観ずるは空聚のごとし。大経に云く、空聚落のごとし。遠望すれば有りと謂い、近く看れば則ち無し。入もまたかくのごとし。凡夫は有りと謂い、智者は無しと知る。「無我観界」とは、大経に云く、我に著する多き者は則ち十八界の法を分別す。一一界の中に我を求むれども得べからず。「五停心煩悩別」とは、五停の所治は各各不同です。豈に更に煩悩果などと名づけることを得んや。「八念病別」とは、九想を修して怖れ、八念を修せしむ。怖れを病と為すはなお四大不調と同じからず。豈に逆病及び禅病などと同じからんや。「十善業別」とは、十の中の三業の所対は各別です。なお十悪に非ず。豈に無漏及び無動などと同じからんや。「五繋魔別」とは、四依の所誡及び楞嚴の力制は、陰魔行陰などの魔と同じからず。ですから大経四依品の中に、四依の菩薩は魔を駆逐して云く、天魔波旬もし更に来らば、まさに五繋をもって汝を繋縛すべしと。章安釈して云く、繋に二種あり。一つは五屍繋、二つは五処に繋ぐ。五屍繋とは不浄観が愛魔を治するがごとし。五処とは理のごとく見魔を治す。ですから首楞嚴の中に、舎利子が仏に問うて云く、この三昧を説くは諸魔の悩ます所と為らざるか。仏言く、諸魔の衰悩の事を見んと欲するか。唯然、見んと欲す。眉間の光を放ちて一切の魔の皆な五繋に被らるるを見る。舎利弗言く、是は誰の所作なるか。仏言く、これ首楞嚴三昧の力なり。ただこの三昧を説くの処あれば、魔は障を為さんと欲して自ら五繋を見る。仏の滅度の後も三昧を説く処もまたこのごとし。「六妙門禅別」とは、数などの六門は前後不同です。豈に心数及び上定などと同じからんや。「道品見別」とは、道品の所治はすなわち界内の見にして戒取などを謂う。十六知見及び別見などと同じからず。「無常苦空慢別」とは、大小の両乗に各々上慢あり。もし大乗の中に未だ仏果を得ずして自ら究竟と謂うを増上慢と名づく。もし小乗の中に未だ四果を得ずして四果を得たりと謂うを増上慢と名づく。今小乗の中に無常を観じて極理と為すは、豈に世禅が四果と謂うと同じからんや。また八慢及び下の八境と同じからず。「四諦因縁二乗別」とは、自らこれ三蔵の二乗です。豈に通の中の二乗及び以上の慢仏道などと同じからんや。「六度菩薩別」とは、三祇に惑を伏す、豈に還って未発心などと同じことを得んや。この条然の二義のゆえに別です。一つは能治に依って別にこの十を立てる。陰は同じに似ているが三科に分かつが異なるがごとし。余の九の能治もこれに準じて知るべし。二つはこの十が別別に同じからざるゆえに、また別と名づけます。問い、五陰の下の六番の問答は、不思議の意を成り立たせるためです。前の明かしたごとく、必ず先に陰を観じ、陰は色心を具します。すなわち四陰をもって能観と為すか、四陰の外に別に能観があるか。もし色心の外に別に能観があれば、則ち所観の境は法を摂め尽くさない。もしただ四陰をもって能観と為すならば、どうして陰をもって陰を観ずることができんや。答えの中に二意あり。先に不思議相即に約して答え、次に思議に約して況を挙げて答えます。初めの意に「不可思議」などと云うのは、無始の色心は本とこれ理性の妙境妙智であり、妄に随って転じ覚知せず。今すでに名を聞きて陰すなわち是れなりと知り、すなわち四陰の心をもって能く観を成ず。また「亦可」の下は況を挙げて答えるに約します。小乗の中に善悪無記乃至法性無等等の陰を引きます。初心は悪及び無記をもって所観と為し、別に善陰を立てて能観と為す。これを観じて已まざれば、悪無記の陰は転じて善陰と成り、すなわち先の能観の善陰と成る。当に知るべし、初め観ずる時は二といえども一なり。陰が転ずる時は一といえども二なり。乃至無等等の陰に転ずるもまたこのごとし。なぜなら、所観は転ずといえども、また能観を立つるがゆえに、一といえども二なり。別に能観を立つといえども、所が転じて能と為るがゆえに、二といえども一なり。展転して互いに転ずといえども、終に陰の外に別に能観を立つるを成ず。善悪などの位は外凡に在り。方便陰は位は内凡に在り。無漏陰は極めて羅漢に在り。法性陰は方便土に在り。法性陰を得れば陰の中に等なし。ですから無等をもって法性を釈します。豈に非ざらんや、以下は結です。小乗の下は況です。小乗すらなお一中に二を論ず。況んや不思議境智相即をや。ですから不思議は即陰これ観にして境智宛然です。次の問いは、すでに悪無記の陰が転じて善陰と成り、乃至無等等の陰に転ずと云う。かくのごとく展転して所を転じて能と為す。独り観果の陰を転ずるか、また転ずるか。答えの意は、先に問いを立てる中に、先の小乗の況答をもって問と為す。今の答えは直ちに初めの不思議相即の意で答えます。単に小乗に約して報転を云わない。ですから大品法華の二文に依ります。並びにこれ円観の報陰転の義です。報がもし転じなければ、どうして父母所生の諸根が皆な悉く三千大千を見聞せんや。大品に「色浄なればその意もまた爾なり」と。ですから六根清浄の位に至る時、また報陰転と名づけることを得ます。次の問いは十境と五分です。この問いは別に生じ、先の答えには関しません。答えの中では先に別、次に同です。「五分」と言うのは、自らこの五をもって所得の禅を判じ、進退などの諸相の不同があります。今十境を明かすのは、所観の境が十に発する不同を明かすのです。どうして十境が五分と同じでありえましょうか。今まさに以下は彊いて会して同じからしむれば、則ち通別の二会があります。初めに五分をもって通じて十境を判ずれば、前の四は知るべし。達とは随発と謂い、皆な自境の体をもって境に達します。もし以下の別は境境に自ら五分を作すとは、禅を判ずる中にも、また禅に約し品に約して通別の両判があります。ですから今もまた同様です。もしその観に約して五分と為すならば、蔵通別円の四解が起きる時、初めより後に至るを進と為し、前三の随一を住と為し、一を得て須らく持すべきを護と為し、得已また失するを退と為し、得已自ら了するを達と為します。もし品に約すれば、三教に皆な品に約する義があります。今ひとまず円に従えば、円解の発は初品より始め終に無生に至るまで進分です。二品に斉まるより乃至六根に至るまで住分と名づけます。初品より始め乃至十信に作意矜持するを護分と名づけます。纔かに初品を得て得已即ち失するを退と名づけます。一品を得るに随って、即ち能く得る所を体達し未だ深からざるを達分と名づけます。もし境に約すれば、煩悩が起きる時、貪をもって瞋に対するをこれ通と名づけ、諸惑に約すれば、貪の中の浅深を方に別と為します。諸品に約し進及び住は知るべし。防ぎ除かんと欲せざるをこれ護と名づけ、起已自ら滅するをこれ退と名づけ、自ら是れ惑なりと知るをこれ達と名づけます。余は並びに上の横竪の中の判のごとし。横は則ちこれ通、竪は則ちこれ別です。両番の対義は上に準じて知るべし。委しく記すことはできません。しかし禅に約するを正とし九境は旁通です。ですから禅を例として委悉することはできません。前の横竪の意もまたこのごとくです。しかし五分の下は更に通伏難です。難に云く、五分が禅を判ずるのと十境の別とはすでに相会することを得た。また六即十地と相会することを得るか。ですから通じて云く、五分と十境は俱にこれ法相です。義理は別といえども彊いて会通と為す。六即と十地は二つ俱にこれ位です。ですから五分をもってこれを判ずることはできません。進んで妙覚に至ると云うがごとく、更に退いて六根に至らしむべからず。余の護住などもこれに準じて説くべし。五品は容有、文の正意に非ず。また六即をもって地を判ずることもできません。次の問い「念性縁性など」とは、これ随自意の中の文意を取って問いと為します。この問いは正しく不思議境を顕します。この中に一問が二意を含みます。先に縁念性離を問い、次にこの離に約して十界を問います。法性が能念を離れるを念性離と名づけ、法性が所縁を離れるを縁性離と名づけます。すでに能所を離れ、性もまた数量に非ず。ただ一法性を観じ、性は虚空のごとく浄し。どうして性空の中に十法界を具することを得んや。もし十法界を具すれば即ちこれ有縁念あり。もしまた有縁念あらば、どうして離と名づけることを得んや。答えの中に二意あり。先に略して難意を申べ、次に不思議を釈します。初めの文に二を含みます。先に総じて不思議を標し、「無相」の下は正しく二義を答えます。初めに「無相にして而も相あり」と云うのは、先に十界の無相にして而も十界の相を具することを答えます。「観智宛然」とは次に縁念を答えます。能所はないといえども観智は宛然です。観を能観と為し十界を所と為します。空を点じて界を論ずれば界に界相なし。能所縁念は本と無しといえども。他解の次は不思議の義を釈します。他解はただ須弥及び芥が相容入するなどを云い、この事は希奇なり、世間に罕な有なり、名づけて不思議と為す。「須弥容芥」と言うのは、芥に入るを容るると謂い、「芥容須弥」と言うのは、芥が須弥を受くると謂います。「火出蓮華」とは、大経に云く、火の中に蓮華を生ず。これ希有と謂うべし。「人能度海」とは、大経十六に云く、もし人あり我能く海を度すと言わば思議すべきか。仏言く、また思議すべし、また不可思議。もし人能く度すれば則ち不可思議、もし修羅が度すれば則ち思議すべし。かくのごとく釈するはただ事に約します。もしただ事に約すれば、どうして不思議の理を顕すことを得んや。増一阿含に云く、四種の不思議事あり。世界と衆生と竜と仏土とを謂う。華厳にもまた云く、自在天王に宝女あり名づけて善音と曰う。一語音において百千の音楽を出し、一一の楽声また百千の音声を出す。これらはただ人の測らざる所、名づけて不思議と為す。また解あり、須弥が芥に入るなどは、これ神力能く爾なりと。神力はすなわちこれ本無今有にして常住の法に非ず。人あり云く、大小無相なれば能く相入すと。破して曰く、もし小自ら是小ならば、大自ら是大なり。この自性の大小は相入を得ず。もし小是れ大の小、大是れ小の大ならば、この他性の大小は何ぞ能く相入せん。汝の立つる所は、小に小相無く大に大相無し。この他性の大小もまた相入せず。もし小是れ大の小の小、大是れ小の大の大と云わば、共性の大小と名づけ、また相入なし。もし小是れ非大非小の小、大是れ非小非大の大と云わば、これ無因の大小なり、ゆえに相入なし。もし理をもって事に寄すれば、華厳経に一塵の中に大千経巻ありと譬うがごとし。一念は微塵のごとく、諸法は経巻のごとし。芥子須弥の取譬もまた爾なり。もし今の意を失すれば理実に通じ難し。今の解より去ればすなわち今家の正解です。ただ一念心性の真如に約し、この理に契るがゆえに難思の用があります。理性は能縁所縁なしといえども、能所は宛然です。この理を修するがゆえに能行と名づけ、この理に契るがゆえに能到と名づけます。到るがゆえに用あり、証理に約して釈します。ですから「理は則ち事に勝る」と云うのです。今の文は語略です。浄名疏の不思議品の解に依るべきです。経に云く、菩薩に解脱あり名づけて不可思議と曰う。もし菩薩この解脱に住すれば、須弥の高広をもって芥子の中に内れ、乃至一品皆なかくのごとく説く。解脱の事用の無窮を証するがゆえに、乃至窮劫に説くとも尽くすこと能わずと云う。疏の中ではただ三軌をもってこの経文を銷し、理として尽くさざるはなし。諸仏菩薩に解脱あり、すなわち真性軌、また真性解脱と名づく。もし菩薩この解脱に住すれば、すなわち観照軌、また実慧解脱と名づく。能く須弥の高広などをもってするはすなわち資成軌、また方便浄解脱と名づく。彼の文に具に前の三教三軌をもって比決し、方に心性円極の三軌を顕す。今は三教を置き直ちに心性を明かす。真性軌と実慧と合するをもって能到と名づく。能く理より用を起こすがゆえに「理は則ち事に勝る」と云うのです。問い、真性は自ら実慧と和合す。何ぞ外境に関して大小相入が理に契るによる
止觀輔行傳弘決卷第五之二
止観輔行伝弘決 巻第五の二
止觀輔行傳弘決卷第五之三
止観輔行伝弘決 巻第五の三
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
一觀心下正解十法中。初釋境者。問。前引諸文廣明境竟。此中秖應明能觀觀。何故復明不思議境。答。前雖示體但直指心。心為一切法之本。故示體是心。然未委示不思議相。猶恐人迷。如匠造物有能有所能所似殊。是故今文妙觀觀之令成妙境。境方稱理。復以所觀顯於能觀。妙境義成妙觀斯立為是義故復明於境。又為知妙境為九乘本。稱本修九方堪入位。是故名為十乘妙觀。於中先明可思議。次明不思議。初可思議中文十義十意。但在於顯不思議。於中先明思議意者。令不思議易解故也。言易解者。已聞思議十界歷別。示此十界同在一心。則一心中十界可識。故可思議中此是地獄乃至佛界。無說而已。說必次第。十界歷歷麁細不違。人見注云非今所用。便棄思議別求不思議者遠矣。如為實施權權是實權。開權顯實實是權實。相待絕待次與不次悉皆如是。故下諸文釋思議境。或至九界而止。或時至佛法界。佛界實是不可思議。在九界後亦云思議。如此文中思議境後。明佛界云觀此能度所度等。究竟圓極豈過於此。云思議者意如向說。思議法者下明思議之由。由大小乘皆云心生。以教權故不云心具。雖若六若十皆屬思議。若觀下正明思議之相也。佛法界中。能度所度等皆是實相者。無非法界亡泯故也。誰善誰惡。泯前界內三善三惡。誰有誰無。泯前三有及二乘無。誰度不度。泯前三教四弘能所。雖泯諸法次第炳然。若棄思議。當知是人二法俱失。所以大意五略釋名四段。顯體四科攝法六義。偏圓五門次與不次。意亦如是。攬彼生解以導方便。方乃成今十法妙觀。下之九境還移此觀以觀諸境。阿伽陀藥遍治眾病。此之下結判。既非一心且判似別。故云所攝。別則時長行遠。此則借法顯圓。不思議下正明不思議境文異義一。意非一異。以三諦法不出修性自他故也。於中初引華嚴者。重牒初引示境相文。前云心造即是心具。故引造文以證心具。彼經第十八中。如來林菩薩說偈云。心如工畫師造種種五陰。一切世界中。無法而不造。如心佛亦爾。如佛眾生然。心佛及眾生。是三無差別。若人欲求知三世一切佛應當如是觀。心造諸如來。不解今文。如何銷偈心造一切三無差別。言心造者不出二意。一者約理造即是具。二者約事不出三世。三世又三。一者過造於現過現造當。如無始來及以現在。乃至造於盡未來際一切諸業。不出十界百界千如三千世間。二者現造於現。即是現在同業所感。逐境心變名之為造。以心有故一切皆有。以心空故一切皆空。如世一官所見不同。是畏是愛是親是冤。三者聖人變化所造。亦令眾生變心所見。並由理具方有事用。今欲修觀但觀理具。俱破俱立俱是法界。任運攝得權實所現。如向引經。雖復種種不出十界三世間等。法界者下釋法界名。問。法界法性名義何別。答。名異義異而體是一。言法界者。法即諸法。界謂界分。相不同故。一切諸法皆以三諦而為界分。為明三諦故須加十以顯相狀。故釋三字離合不同。備成三諦。言法性者亦是諸法具三諦性。性亦性分不可改故。三諦性冥始終無變。亦可界法性法即是實相。實相之體三諦具足。故今文中釋此三字。初約真諦作所依釋。十數是假。所依是空。能從於所十法皆空。是故此十以空法為界。故云十法界。從又此下次約俗諦作隔異釋。十法差別名之為界。是故十法各有界分故云十法界。從又此下次約中道作法界釋。十法無非真如法界。故名十法界。若讀此中十法界三字。隨義為句。初番十字獨呼。法界字合呼。次番十法字合呼。界字獨呼。後番十法界三字合呼。依此讀文隨語思之。三諦義顯。三諦無形俱不可見。然即假法可寄事辨。即此假法即空即中。空中二體二無二也。心性不動假立中名。亡泯三千假立空稱。雖亡而存假立假號。十法界下次釋境中所攝法相。先明三種世間。次明一一世間皆具十如。三世間者秖是十界五陰實法。假名眾生及所依土。於中先釋五陰世間。初列十種五陰。釋論下次引一論二經。釋佛法界具五陰義。初引大論。意云。涅槃是無上五陰。次引無量義經釋成大論。云何得知涅槃猶名無上五陰。經言無者不可都無。驗知但無九界陰耳。次引大經釋無量義。云何得知涅槃名陰。大經既云色常受想等常。當知涅槃但無無常九界陰耳。如俱舍中蘊與取蘊俱名為蘊。今亦如是。常與無常俱名為陰。攬五陰下次釋眾生世間。如攬五指假名為拳。大論下次引一論證成佛界亦名眾生。大經下證成差別是世間義。三十四云。內色外色各十時異。內色異者。一歌羅邏時異。二阿浮陀時異。三閉手時異。四皰時異。五初生時異。六嬰孩時異。七童子時異。八年少時異。九盛壯時異。十老死時異。外色亦爾。牙莖枝葉華果時異。故用此異以釋世間。十種所居下次釋國土世間。初列四土為十界陰眾生所居。仁王下次引經證佛有所居亦名為土。前之九界名陰名生。有所居土理在不疑。恐不信佛名陰名生猶有居土。故但引證佛界三義。此三十種下總結從心。問。於不思議中但明四聖。何法不攝。何必須明六道法邪。答。為實施權從實開出。今欲示實何得不論。總約一化有五意說。一者為示人天路故。二者為令厭輪迴故。三者為知菩薩自誓悲他境相故。四者為知不可思議境所攝法故。五者為欲令知性惡法門遍故。今文正在第四第五。兼用第二第三。問。依何教門立三世間答。依大論釋百八三昧中。至釋能照一切世間三昧云。得是三昧故能照三種世間。謂眾生世間住處世間五陰世間。至釋一切住處三昧云。得是三昧者。樂住世間不樂住非世間。以世間有無常過故。世間有三種。亦如前列。非世間者。無一切法大可畏處。且指有漏名為世間。二乘所依名非世間。故云可畏。大經十六梵行品釋十號中。至釋世間解中云。有六種世間。一者世間名五陰(五陰世間)又世間者十方阿僧祇世界(國土世間)又世間者一切凡夫(六界眾生)又世間者名蓮花(二乘)又世間者謂諸菩薩(亦攝二乘)又世間者名為五欲(更立因法世間)故知六種雖加因法。亦不出三。以十如中含因法故。今依義開十界各三。又十種下次釋十如。十如秖是法華實相權實正體。亦是車體。亦寶所體。今境是體是故須明。故經云諸法實相所謂諸法如是相等。既云諸法故實相即十。既云實相故十即實相。故使今解不與他同。於一念心不約十界收事不遍。不約三諦攝理不周。不語十如因果不備。無三世間依正不盡。言十如者。南嶽讀文皆以如為句末故也。天台大師依義讀文凡為三轉。初以如為句。如即空也。次以相性等為句。相性不同即假也。次以是為句。如於中道實相之是。即中也。以一一界具三諦故。義雖若是。常讀多依相性為句。准偈文云性相義等。先釋十界五陰十如。於中先且總釋。次別釋。先善總意以冠於別則使別義泠然可見。初釋相中有法譬合。譬中水火以譬別異。攬而可別故名為相。如人面色以先現故名之為相。言休否者。爾雅云。休者喜也。廣雅云。慶也。否者惡也。十界相望善惡可知。昔孫劉等者。引事以證先現之相。漢末三人俱詣相者。相者見孫劉有社稷之相。即便語之。曹公不蒙相者所記。知相者不逮褰衣示之。相者見已舉聲大哭。天下鼎峙四海三分等。荼苦菜也。至後漢末。此之三人果據三方。孫據吳。劉據蜀。曹據魏。前後二漢并王莽十八年。劉玄一年。合四百二十六年。後漢末獻帝時董卓作亂。殺太后焚洛陽。五星失度五嶽崩裂。天狗流行地數振動。白虹貫日赤氣穿宮。穀一斛五十萬。豆一斛二十萬。州縣各權群臣餓死。至建安元年操為司隷校尉。操本沛人。姓曹氏。諱操。字孟德。漢曹參之後。少多機警。有權數。好飛鷹走狗遊蕩無度。世人未奇之。唯南陽何顒等異之。本傳應別有相者不知。顒謂曰。吾見天下之士未見若君者。天下將亂非命世之士不能濟。能安者在君乎。為校尉時知尚書令事。二年袁紹稱天子。八年操尚為冀州牧。十三年操為丞相。十八年後操自稱為魏公。十九年劉備劉章據益州。備字玄德。涿郡人。備父事州郡。少孤。母販履賃織為生。舍東南角籬上有桑樹。高五丈餘。常望氣罿罿如小車蓋。往來者異之。或云。此家出貴人。備小時兒戲其下曰。吾必乘此羽葆車蓋。叔父子驚曰。勿妄言滅吾門矣。年長大不樂讀書。希走狗馬。奏音樂。美衣服。長七尺五寸。手過膝。少語。善下人。喜怒不形於色。此即顯相之貌也。至建安二十年。操殺皇后及皇太子。二十一年自稱魏主。其年劉備自稱漢中王。孫傳不能具記。曹公相隱如八界。孫劉相顯如二界。或已得無生相彰於外。即如彌勒。遠近皆記者。遠記如記鴿雀成佛。法師品中一句一偈我皆與記。及常不輕等。近記者。如彌勒及賢劫中九百九十五佛。法華跡本二門。諸經會末得無生記乃至一生等。亦如楞嚴四種授記。佛告堅意。是惡魔從今已往。漸漸當得首楞嚴三昧乃至成佛。堅意語魔如來已與汝記。魔言。我不淨心。如來何故與記。佛欲斷一切眾生疑故。告堅意言。記有四種。一者未發心記。或有流轉六道。生於人間好樂佛法。過百千萬億劫當發心。過百千萬億阿僧祇劫行菩薩道。乃至供養佛化眾生。皆經若干劫當得菩提。迦葉白佛。我今於一切眾生生世尊想。佛言。仁者善哉。不應妄稱量眾生。唯有如來能量眾生。二適發心與記。是人久劫種諸善根。好樂大法有慈悲心。發心即住不退地故。故發心與記。三密記者有菩薩未得記。而行六度功德滿足。天龍八部皆作是念。此菩薩幾時當得菩提。劫國弟子眾數如何。佛斷此疑即與授記。舉眾皆知。此菩薩獨不知。四無生忍記者。於大眾中顯露與記。經四記中。未發心記最遠。密記次遠。發心記次近。無生記最近。是故今云遠近皆記。今修觀者並隨實觀不隨於權。故照己他十界相足。如是性者。初正解中有法譬合。性既有三。以相例此。相亦應三。故本末文並作三諦。如竹下譬中云燧人等者。燧者出火物也。此土先古燧人能出火故。後名出火物名之為燧。字統云。夜為烽晝為燧。非今正意。鄭玄云。金燧者火鏡也木燧者火鑽等。論語云。鑽燧改火四時不同。大經云。因燧因鑽因手因乾草。四法和合故有火生。今文語略但云燧人。止觀如鑽。觀境如燧。助道如草。運功如手。斷惑性顯猶如火出。自既除惑亦能利他。名燒一切。世間下破他。先總破次別破。此即總也。自古共許涅槃為常住宗。以法華經不明佛性則非常宗。故今破之。又有師下別破判法華十如。不應分之各明權實。又涅槃下引淨名文例破。體力等餘意可見思之。釋力中云煩惱病故等者。且約四聖力用以說。若準通意。凡有心者莫不堪任十界用故。次類解者即別解也。應約十界別別明之。相繁難見故束明也。涅槃者即無餘也。其法麁者名之為相。言解脫者謂法樂也。其法細者名之為性。得無餘者可表二乘。得法樂者性必無改。五分為體者亦是色心。以戒為色餘者為心。分為支分。五法和合名為法身。身即體也。言五法者謂道俱戒。事理諸定。無漏正慧二種解脫。及了解脫智。廣解如論。無繫為力者。擇滅離於三界繫也。修二乘者必有是力。既後有田中不生者。未來生陰名為後有。陰復生陰名後有田。若入無餘無生處故。故名不生。論云。本有中有當有。當有即後有也。以無生故。故名無報。田是生義。此間古者以獵為畋。畋者取狩也。則四時不同。春蒐夏苗秋獮冬狩。今以能生五穀為田。擬昔之畋故爾雅云。田者地也。即取五穀之處也。即是無復來報生處。大經三十四云。黑業黑報。白業白報雜業雜報。非白非黑業非白非黑報。非白非黑名為無漏。迦葉難言。世尊先說無漏無報。今云何言不白不黑報耶。佛言。義有二種。一者亦果亦報。二者唯果無報。黑等三業亦果亦報。黑等因生故得名果 能作因故故亦名報。無漏因生故名為果。不作他因故不名報。果即是習果。報即報果。從習因生故云從因。至報方能為他作因。今此無漏唯果無報。是故無漏不受來報。即不生義也菩薩佛類中。問。總中既以色心為體。此中但以正因為體。何故闕色。答圓釋正因秖是色心。如苦道為正因非全心也。況修德性德並不離色心。因緣有逆順者。重約因緣作逆順釋。以義便故可例餘法。順界內法如四趣等。逆界內法如前二乘。順界外法亦如二乘。但以無明為緣有異耳。至界外時界內行息。則須界外無明潤生故也。逆界外法如菩薩佛。又菩薩類多種不同。如後說。逆界外法既以中道為因。當知皆取破無明位。言餘至準此可知者相性體三但是總說因緣之意。力者但是因緣功能。作者是預說因緣運用。果報秖是因緣習果及報果耳。故知略說即以因緣為本廣說始終故須明十。是故界外皆取破無明位。若依大乘三佛者。佛有報身故名為報。具如玄文約現生後論九論十。及以斷惑盡義等也(云云)。又如大瓔珞第八。慧眼菩薩問文殊言。如來相好為有報耶。為無報耶。文殊言。如來色身有報。法身無報。慧眼復問。去貪欲內心淨獲大果。六度之法非無相報。如何而得成法身耶。文殊言。如來法身有耶無耶。慧眼曰。色身是有法身是無。如我觀察如來身者。非報非無報。據此應以四句分別。謂色有報法無報。事亦報亦無報。理非報非無報。故不應以無報為定。次明眾生世間但假實異。餘如前說。次明國土者應以四土橫竪銷釋。具如淨名疏中。彼明隨見不同。此明所依各異。今論當分所居各別若如玄文用教多少。今所未論。故淨名疏四土相望。十種差別。以銷天器飯色不同。前九正當今文世間義也。一同居自異。二同居與方便不同。三方便自異。四方便與實報不同。五實報自異。六實報與下品寂光不同。七與中品寂光不同。八與上品寂光不同。九諸土總對寂光不同。十諸土非垢寂光非淨。前九正明諸土不同。第十但明諸土體耳。土雖差別不異寂光。寂光雖寂不異諸土。今文不論諸土體者。為成世間差別義故。於同居中別開善惡者。今文為明十界所依各各不同。尚應須明十土相別。且合六道以為善惡。如釋十如亦合四趣及合人天。無漏即是方便土也。佛菩薩土者義通三土佛則唯在上品寂光。
一つの観心のもとで、十法を正しく解釈する中で、まず境を説明します。
問い。前に多くの文を引いて境を広く明らかにしたのに、ここではただ能観の観だけを明らかにすべきではないでしょうか。なぜまた不思議境を明らかにするのでしょうか。
答え。前に体を示したとはいえ、ただ心を直接指し示しただけです。心は一切法の根本ですから、体が心であることを示しました。しかし、不思議な相をまだ詳しく示していないので、人はなお迷う恐れがあります。例えば、職人が物を作る場合、能と所とがあり、能と所は異なるように見えます。それゆえ、今の文では妙観をもって観じ、それを妙境となし、境が初めて理にかなうのです。また、所観によって能観を顕し、妙境の義が成り立てば妙観もここに成立します。このような理由から、再び境を明らかにするのです。また、妙境が九乗の本であることを知り、本にかなって九を修めて初めて位に入ることができるからです。それゆえ、これを十乗の妙観と名づけます。その中で、まず可思議を明らかにし、次に不思議を明らかにします。
初めの可思議の中に、文は十、意は十ありますが、ただ不思議を顕すことにあります。その中で、まず思議の意を明らかにするのは、不思議を理解しやすくするためです。理解しやすいとは、すでに思議の十界が歴然と別であることを聞き、この十界が同じく一心にあることを示せば、一つの心の中に十界を識ることができるということです。それゆえ、可思議の中では、これは地獄であり乃至仏界であるというだけです。説かなければそれまでですが、説くならば必ず次第があります。十界が歴然として麁細が違わないのです。人が注を見て「今の所用ではない」と言い、すぐに思議を捨てて別に不思議を求めるならば、遠いのです。例えば、実のために権を施せば、権はこれ実の権です。権を開いて実を顕せば、実はこれ権の実です。相待と絶待、次と不次も、すべてこのようであります。それゆえ、以下の諸文で思議の境を釈する時、あるいは九界に至って止まり、あるいは時に仏法界に至ります。仏界は実に不可思議です。九界の後にあってもまた思議と言います。この文のように、思議の境の後で、仏界を明らかにして「この能度・所度などを観ずる」と言います。究竟円極がこれに過ぎることがあるでしょうか。思議と言うのは、先に述べたような意味です。
思議の法は、下に思議の由来を明らかにします。大小乗とも心が生ずると言いますが、教が権であるため心が具すると言わないのです。六であれ十であれ、みな思議に属します。「若観」の下は、まさに思議の相を明らかにします。仏法界の中で、能度・所度などがみな実相であるとは、法界でないものがないからです。法界が亡泯するからです。誰が善で誰が悪か、前の界内の三善三悪を泯します。誰が有り誰が無いか、前の三有および二乗の無を泯します。誰が度し誰が度さないか、前の三教の四弘の能所を泯します。諸法を泯しても次第は炳然としています。もし思議を捨てるなら、この人は二法ともに失うことを知るべきです。それゆえ、大意の五略・釈名の四段、顕体の四科・摂法の六義、偏円の五門・次と不次も、意はまたこのようであります。彼の生解を攬り、方便を導き、方に今の十法の妙観が成ります。下の九境もまたこの観を移して諸境を観じます。阿伽陀薬が遍く衆病を治すようなものです。この下は結判です。すでに一心ではないので、しばらく似別と判じます。それゆえ「所摂」と言います。別ならば時は長く行は遠いのです。これは法を借りて円を顕すものです。
不思議の下は、まさに不思議の境を明らかにし、文は異なれど義は一つです。意は一異にあらず、三諦の法は修性・自他を出でないからです。その中で初めに華厳を引くのは、重ねて初めに引いて境相を示す文を牒するのです。前に心造と言うのはすなわち心具です。それゆえ造の文を引いて心具を証します。かの経の第十八の中に、如来林菩薩が偈を説いて言うには、心は工なる画師のごとく、種々の五陰を造り、一切世界の中に、造らざる法はない。心のごとく仏もまた爾なり、仏のごとく衆生も然なり。心と仏とおよび衆生とは、この三つに差別はない。もし人が三世一切の仏を知らんと欲すれば、まさにこのように観ずべきである、心が諸の如来を造ると。今の文を解さなければ、どうして偈の心造一切・三無差別を銷すことができるでしょうか。
心造と言うのは二意を出でません。第一に理に約せば造はすなわち具です。第二に事に約せば三世を出でません。三世にまた三つあります。第一に過去が現在を造り、過現が当を造る。無始よりおよび現在に至るまで、乃至尽未来際に至るまで一切の諸業を造る。十界百界千如三千世間を出でません。第二に現在が現在を造る。すなわち現在の同業の所感です。境に逐って心が変ずるのを造と名づけます。心が有るがゆえに一切が皆ある。心が空なるがゆえに一切が皆空なり。世の一官の見るところが同じでないようなものです。これは畏れ、これは愛しみ、これは親、これは冤です。第三に聖人の変化の所造です。また衆生の変心の所見とします。みな理具によるので方に事用があります。今、観を修めんと欲すればただ理具を観じます。倶に破し倶に立て、倶に法界です。任運に権実の所現を摂得します。先に引いた経のように、種々といえども十界三世間などを出でません。
「法界」の下は、法界の名を釈します。問い。法界と法性は名義に何の違いがあるでしょうか。答え。名は異なり義も異なれど体は一つです。法界と言うのは、法はすなわち諸法、界は界分と言います。相が同じでないからです。一切の諸法はみな三諦をもって界分とします。三諦を明らかにするために、十を加えて相状を顕すのです。それゆえ三字を釈するに離合が異なり、備に三諦を成じます。法性と言うのもまた諸法が三諦の性を具することです。性はまた性分であり、改めるべからざるゆえです。三諦の性は冥として始終変わりません。また界・法性・法はすなわち実相です。実相の体は三諦具足です。それゆえ今の文でこの三字を釈します。初めに真諦に約して所依の釈となします。十数は仮なり。所依は空なり。能が所に従うので十法は皆空なり。それゆえこの十は空法をもって界となします。ゆえに十法界と言います。次に「又此」の下、俗諦に約して隔異の釈となします。十法の差別を名づけて界となします。それゆえ十法は各々界分があるので十法界と言います。次に「又此」の下、中道に約して法界の釈となします。十法は真如法界にあらざるはない。ゆえに十法界と名づけます。もしこの中の十法界の三字を読むなら、義に随って句となします。初番は十字を独りで呼び、法界の字は合わせて呼びます。次番は十法の字は合わせて呼び、界の字は独りで呼びます。後番は十法界の三字を合わせて呼びます。これに依って文を読み、語に随って思えば、三諦の義が顕れます。三諦は形なく、倶に見るべからず。しかし即仮の法は事に寄せて辨ずべし。即ちこの仮法が即空・即中です。空と中の二体は二にして二ではありません。心性は動かず、仮に中の名を立てます。三千を亡泯し、仮に空の称を立てます。亡なれども存するがゆえに仮に仮の号を立てます。
「十法界」の下は、次に境の中に所摂の法相を釈します。まず三種世間を明らかにし、次に一一の世間がみな十如を具することを明らかにします。三世間とは、すなわち十界の五陰実法、仮名の衆生、および所依の土です。その中でまず五陰世間を釈します。初めに十種の五陰を列ねます。「釈論」の下、次に一論二経を引いて、仏法界が五陰の義を具することを釈します。初めに大論を引きます。意に言うには、涅槃は無上の五陰であると。次に無量義経を引いて大論を釈して成じます。どうして涅槃がなお無上の五陰と名づけることを知り得るか。経に「無」と言うのは、すべて無いのではありません。九界の陰だけが無いと検知します。次に大経を引いて無量義経を釈します。どうして涅槃が陰と名づけることを知り得るか。大経にすでに色は常、受想などは常と言う。まさに知るべきです、涅槃はただ無常の九界の陰が無いだけであると。倶舎の中では蘊と取蘊とが倶に蘊と名づけられます。今もまたこのようです。常と無常とが倶に陰と名づけられます。
「攬五陰」の下、次に衆生世間を釈します。五本の指を攬って仮に拳と名づけるようなものです。「大論」の下、次に一論を引いて仏界もまた衆生と名づけることを証成します。「大経」の下、差別がこれ世間の義であることを証成します。三十四に云く、内色外色は各々十時の異があります。内色の異とは、一に歌羅邏の時異、二に阿浮陀の時異、三に閉手の時異、四に皰の時異、五に初生の時異、六に嬰孩の時異、七に童子の時異、八に年少の時異、九に盛壮の時異、十に老死の時異です。外色もまた爾なり。牙茎枝葉華果の時異です。それゆえこの異をもって世間を釈します。
「十種所居」の下、次に国士世間を釈します。初めに四土を列ねて十界の陰・衆生の所居となします。「仁王」の下、次に経を引いて仏に所居があり、また土と名づけることを証します。前の九界は陰と名づけ生と名づけ、所居の土があることは理として疑いありません。仏が陰と名づけ生と名づけられ、なお居土があることを信じない恐れがあるので、ただ仏界の三義を引証します。「此三十種」の下は、総じて心よりの結です。
問い。不思議の中ではただ四聖を明らかにするだけです。どの法が摂されないでしょうか。どうして必ず六道の法を明らかにする必要があるのでしょうか。答え。実のために権を施し、実より開き出すのです。今、実を示さんと欲してどうして論じないことがありましょうか。総じて一化に約せば五意の説があります。一には人天の路を示すため、二には輪廻を厭わせるため、三には菩薩の自誓・悲他の境相を知るため、四には不可思議境の所摂の法を知るため、五には性悪の法門が遍することを知らせるためです。今の文はまさに第四・第五にあり、兼ねて第二・第三を用います。
問い。何の教門に依って三世間を立てるか。答え。大論の百八三昧を釈する中に依ります。能照一切世間三昧を釈するに至って云く、この三昧を得るがゆえに三種の世間を照らすことができる。衆生世間・住処世間・五陰世間を謂う。一切住処三昧を釈するに至って云く、この三昧を得る者は、世間に楽住し非世間に楽住しない。世間には無常の過があるからです。世間に三種あり、また前に列ねたようであります。非世間とは、一切法の大可畏処が無いことです。しばらく有漏を世間と名づけ、二乗の所依を非世間と名づけます。ゆえに可畏と言います。大経十六の梵行品で十号を釈する中、世間解を釈するに至って云く、六種の世間があります。一に世間は五陰と名づく(五陰世間)。また世間とは十方阿僧祇世界(国土世間)。また世間とは一切の凡夫(六界衆生)。また世間とは蓮花と名づく(二乗)。また世間とは諸の菩薩を謂う(亦二乗を摂す)。また世間とは五欲と名づく(更に因法世間を立てる)。それゆえ六種は因法を加うといえども、また三を出でません。十如の中に因法を含むからです。今は義に依って十界各三を開きます。
また「十種」の下、次に十如を釈します。十如とはすなわち法華の実相・権実の正体です。また車体でもあり、宝所の体でもあります。今の境は体であるゆえに明らかにする必要があります。それゆえ経に云く、諸法実相、いわゆる諸法の如是相などと。すでに諸法と言うので実相はすなわち十です。すでに実相と言うので十はすなわち実相です。それゆえ今の解は他と同じではありません。一念心において十界に約さなければ事を収めるのに遍きません。三諦に約さなければ理を摂めるのに周きません。十如を語らなければ因果が備わりません。三世間を語らなければ依正が尽きません。
十如と言うのは、南嶽が文を読むのに皆「如」をもって句末としたからです。天台大師は義に依って文を読み、凡そ三転します。初めに「如」をもって句となします。如はすなわち空です。次に相・性などを句となします。相性が同じでないのはすなわち仮です。次に「是」をもって句となします。中道実相の是に如なる、すなわち中です。一一の界が三諦を具するからです。義はもとよりこのようですが、常の読みは多く相性をもって句となします。偈文に准ずれば性相の義は等しいと。
まず十界五陰の十如を釈します。その中でまずしばらく総釈し、次に別釈します。まず善く総意を釈し、別を冠すれば、別義が泠然として見えやすくなります。初めに相を釈する中に法・譬・合があります。譬の中の水火は別異を譬えます。攬って別つべし、ゆえに相と名づけます。人の面色のように先に現れるがゆえに、これを相と名づけます。休否と言うのは、爾雅に云く、休は喜なり。広雅に云く、慶なり。否は悪なり。十界を相望すれば善悪を知ることができます。昔の孫劉などは、事を引いて先に現れる相を証します。漢末に三人が倶に相者を訪ねました。相者は孫劉が社稷の相があるのを見て、すぐにこれを語りました。曹公は相者の記す所を受けなかったので、相者の及ばないことを知り、衣をかかげてこれを示しました。相者は見終わって声を挙げて大哭しました。天下は鼎峙し四海は三分したなど。荼は苦菜です。後漢末に至って、この三人は果たして三方に拠りました。孫は呉に拠り、劉は蜀に拠り、曹は魏に拠りました。前後の二漢と王莽十八年、劉玄一年を合わせて四百二十六年です。後漢末の献帝の時、董卓が乱を起こし、太后を殺し洛陽を焼きました。五星は度を失い五嶽は崩裂し、天狗は流行り地は数々振動し、白虹は日を貫き赤気は宮を穿ち、穀一斛は五十万、豆一斛は二十万、州県は各々権し群臣は餓死しました。建安元年に至り、操は司隷校尉となりました。操はもと沛人、姓は曹氏、諱は操、字は孟徳、漢の曹参の後です。少くより機警多く、権数あり、飛鷹走狗を好み遊蕩度なく、世の人まだこれを奇としませんでした。ただ南陽の何顒などだけがこれを異としました。本伝には別に相者がいるかは知りません。顒は謂って曰く、吾は天下の士を見るに未だ君のごとき者を見ない。天下はまさに乱れんとし、命世の士にあらざれば済うこと能わず。能く安んずる者は君かと。校尉の時、尚書令の事を知りました。二年に袁紹は天子を称し、八年に操はなお冀州牧でした。十三年に操は丞相となり、十八年の後、操は自ら魏公と称しました。十九年に劉備・劉璋は益州に拠りました。備の字は玄徳、涿郡の人です。備の父は州郡に事えました。少くにして孤となり、母は履を販ぎ織を賃し、生を営みました。舎の東南角の籬の上に桑樹があり、高さ五丈余り、常に気を望めば罿罿として小車蓋のごとく、往来の者はこれを異としました。あるいは云く、この家より貴人出でんと。備は小児の時その下で戯れて曰く、吾は必ずこの羽葆車蓋に乗らんと。叔父は子が驚いて曰く、妄言する勿れ、吾が門を滅ぼさんと。年長大にして読書を楽しまず、狗馬を走らせ、音楽を奏し、衣服を美にし、長さ七尺五寸、手は膝を過ぎ、少く語り、善く人に下り、喜怒は色に形わさず。これすなわち相を顕すの貌です。建安二十年に至り、操は皇后および皇太子を殺し、二十一年に自ら魏主と称しました。その年、劉備は自ら漢中王と称しました。孫伝は具に記すことができません。曹公の相隠は八界のごとく、孫劉の相顕は二界のごとくです。
あるいはすでに無生の相を得て外に彰われるのは、すなわち弥勒のごとくです。遠近皆記というのは、遠記は鴿雀成仏を記すがごとくです。法師品の中に一句一偈にも我は皆記を与う。および常不軽などのごとくです。近記は、弥勒および賢劫中の九百九十五仏のごとくです。法華の迹本二門、諸経の会末に無生記乃至一生を得るなど。また楞厳の四種授記のごとくです。仏は堅意に告げて、この悪魔は今より已往、漸々にまさに首楞厳三昧を得て乃至成仏すべし。堅意は魔に語る、如来すでに汝に記を与えたと。魔は言う、我は浄心でないのに、如来は何ゆえに記を与えるのかと。仏は一切衆生の疑いを断たんと欲するがゆえに、堅意に告げて言う、記に四種あり。一に未発心記。あるいは六道に流転し人間に生まれ、仏法を好楽し、百千万億劫を過ぎてまさに発心し、百千万億阿僧祇劫を過ぎて菩薩道を行じ、乃至仏を供養し衆生を化し、皆若干劫を経てまさに菩提を得ん。迦葉は仏に白す、我は今一切衆生に対して世尊の想いをなさん。仏は言う、仁者は善哉、妄りに衆生を称量すべからず。ただ如来のみ能く衆生を量る。二に適発心記を与う。この人は久劫に諸の善根を種え、大法を好楽し慈悲心あり、発心すれば即ち不退地に住するがゆえに、発心に記を与う。三に密記。菩薩あり未だ記を得ずして六度を行じ功德満足す。天龍八部は皆この念いをなさん、この菩薩は幾時にかまさに菩提を得ん、劫国弟子の衆数は如何にと。仏はこの疑いを断つために即ち授記を与え、衆を挙げて皆知れども、この菩薩だけは独り知りません。四に無生忍記。大衆の中で顕露に記を与う。経の四記の中、未発心記は最も遠く、密記は次に遠く、発心記は次に近く、無生記は最も近い。それゆえ今、遠近皆記と言います。今、観を修める者は並びに実観に随い権に随いません。それゆえ己他の十界の相を照らすに足ります。
「如是性」とは、初めに正解の中に法・譬・合があります。性にすでに三あり、相をこれに例すれば、相にもまた三あるべきです。それゆえ本末の文に並びに三諦を作します。「如竹」の下の譬の中に燧人などと言うのは、燧は火を出す物です。この土の先古の燧人は能く火を出すがゆえに、後に火を出す物を名づけて燧としました。字統に云く、夜は烽と為し昼は燧と為す。今の正意ではありません。鄭玄に云く、金燧は火鏡、木燧は火鑽などです。論語に云く、燧を鑽って火を改む、四時同じからず。大経に云く、燧に因り鑽に因り手に因り乾草に因り、四法和合するがゆえに火が生ず。今の文は語略してただ燧人と云うのみです。止観は鑽のごとく、観境は燧のごとく、助道は草のごとく、運功は手のごとく、惑を断ち性を顕すは火の出ずるがごとくです。自ら既に惑を除きまた能く他を利し、一切を焼くと名づけます。
「世間」の下は他を破します。まず総破し次に別破します。これはすなわち総です。古より共に涅槃を常住宗と許し、法華経は仏性を明かさないので常宗でないとします。それゆえ今これを破します。「又有師」の下は別に法華の十如を判じ、分けて各々権実を明かすべきでないとします。「又涅槃」の下は浄名の文を引いて例して破します。体・力などの余の意は見てこれを思うべきです。
力を釈する中に「煩悩病のゆえに」などと言うのは、しばらく四聖の力用に約して説きます。もし通意に準ずれば、心ある者は十界の用に堪任しないものはありません。次に類解とはすなわち別解です。まさに十界に約して別別にこれを明らかにすべきです。相が繁く見難いので束ねて明らかにします。涅槃とはすなわち無余です。その法の麁なるものを相と名づけます。解脱と言うのは法楽です。その法の細なるものを性と名づけます。無余を得る者は二乗を表すことができます。法楽を得る者は性は必ず改まりません。五分を体とするのはまた色心です。戒をもって色となし余を心となします。分は支分です。五法和合して法身と名づけます。身はすなわち体です。五法と言うのは、道倶の戒、事理の諸定、無漏の正慧、二種の解脱、および解脱を知る智です。広く解すれば論のごとくです。無繋を力とするのは、択滅が三界の繋を離れることです。二乗を修める者には必ずこの力があります。すでに後有の田の中に生ぜないとは、未来の生陰を後有と名づけます。陰が復び陰を生ずるを後有の田と名づけます。無余の無生処に入るがゆえに不生と名づけます。論に云く、本有・中有・当有。当有はすなわち後有です。無生なるがゆえに無報と名づけます。田は生の義です。この間の古は猟をもって畋となします。畋は取狩です。四時同じからず、春は蒐し夏は苗し秋は獮し冬は狩します。今は能く五穀を生ずるをもって田となし、昔の畋に擬するがゆえに爾雅に云く、田は地なり。すなわち五穀を取る処です。すなわち復び来報の生処がないということです。大経三十四に云く、黒業黒報・白業白報・雑業雑報・非白非黒業非白非黒報。非白非黒を無漏と名づく。迦葉は難じて言う、世尊は先に無漏は無報と説かれました。今どうして不白不黒の報と言うのですか。仏は言う、義に二種あり。一はまた果また報、二はただ果のみで報なし。黒などの三業はまた果また報です。黒などの因より生ずるがゆえに果と名づけ、能く因を作るがゆえに報とも名づけます。無漏は因より生ずるがゆえに果と名づけ、他因を作さないがゆえに報と名づけません。果はすなわち習果、報はすなわち報果です。習因より生ずるがゆえに因よりと言い、報に至って方に能く他の因を作ります。今この無漏はただ果のみで報なし、それゆえ無漏は来報を受けず、すなわち不生の義です。
菩薩仏の類の中に。問い。総の中ではすでに色心をもって体となすのに、ここではただ正因をもって体となし、どうして色が闕けているか。答え。円の釈では正因はすなわち色心です。苦道を正因となすがごときは全心ではありません。まして修徳性徳は並びに色心を離れません。
因縁に逆順があるとは、重ねて因縁に約して逆順の釈をなします。義が便であるがゆえに余法に例することができます。界内の法に順ずるは四趣などのごとくです。界内の法に逆なるは前の二乗のごとくです。界外の法に順ずるもまた二乗のごとくですが、ただ無明を縁とするに異があるだけです。界外に至る時、界内の行は息み、すなわち界外の無明が生を潤す必要があるからです。界外の法に逆なるは菩薩仏のごとくです。また菩薩の類は多種同じからず、後に説くがごとくです。界外の法に逆なるはすでに中道を因とするので、まさに皆無明を破る位を取ると知るべきです。「余至準此可知」と言うのは、相・性・体の三はただ総じて因縁の意を説くだけです。力はただ因縁の功能です。作は因縁の運用を預め説くのです。果報はただ因縁の習果および報果のみです。それゆえ略説はすなわち因縁を本とし、広説は始終なるがゆえに十を明らかにする必要があると知ります。それゆえ界外は皆無明を破る位を取ります。もし大乗の三仏に依れば、仏に報身があるゆえに報と名づけます。具には玄文のごとく、現・生・後に約して九を論じ十を論じ、および断惑尽義などをもってします(云云)。また大瓔珞第八に、慧眼菩薩が文殊に問うて言う、如来の相好は報ありや、報なきや。文殊は言う、如来の色身は報あり、法身は報なし。慧眼は復び問う、貪欲を去り内心浄くして大果を獲、六度の法は無相報に非ず。どうして法身を成すことを得るのか。文殊は言う、如来の法身は有か無か。慧眼は曰く、色身は是れ有、法身は是れ無。我が如来の身を観察するに、報に非ず無報に非ず。これに拠ればまさに四句をもって分別すべきです。色は報あり、法は報なし。事はまた報また無報。理は報に非ず無報に非ず。それゆえ無報をもって定とするべきではありません。
次に衆生世間を明らかにしますが、ただ仮実の異だけで、余は前に説いたがごとくです。次に国土を明らかにするには、まさに四土を横竪に銷釈すべきです。具には浄名疏の中のごとくです。彼は随見の不同を明かし、ここでは所依の各異を明かします。今は当分の所居の各別を論じます。もし玄文のように教の多少を用いるならば、今は論じません。それゆえ浄名疏の四土を相望すれば十種の差別があります。天器の飯色の不同を銷するに、前の九はまさに今の文の世間の義に当たります。一に同居の自異、二に同居と方便との不同、三に方便の自異、四に方便と実報との不同、五に実報の自異、六に実報と下品寂光との不同、七に中品寂光との不同、八に上品寂光との不同、九に諸土の総じて寂光に対する不同、十に諸土は垢に非ず寂光は浄に非ず。前の九はまさに諸土の不同を明らかにし、第十はただ諸土の体を明らかにするだけです。土は差別といえども寂光に異ならず、寂光は寂といえども諸土に異なりません。今の文で諸土の体を論じないのは、世間差別の義を成ずるためです。同居の中に別に善悪を開くのは、今の文は十界の所依の各各不同なることを明らかにするためです。なおまさに十土の相別を明らかにすべきです。しばらく六道を合わせて善悪となします。十如を釈するにもまた四趣を合わせ人天を合わせるがごとくです。無漏はすなわち方便土です。仏菩薩土とは義は三土に通じ、仏はただ上品寂光にのみあります。
○夫一心下結成理境。如前所釋本在一心。圓融三諦既已開釋。恐人生迷故重結之令入一念。當知身土一念三千。故成道時稱此本理。一身一念遍於法界。言無心而已者顯心不無。言介爾者謂剎那心。無間相續未曾斷絕。纔一剎那三千具足。準八相喻思之可知。若具三千即具三德。故金光明第一云。依於法身。初發心時顯現不退心金剛心如來心。不退即解脫心也金剛即般若心也。如來即法身心也。故知因心果體具足。又介爾者。介者弱也。詩云。介爾景福謂細念也。但異無心三千具足。故大師於覺意三昧。觀心食法。及誦經法。小止觀等。諸心觀文。但以自他等觀推於三假。並未云一念三千具足。乃至觀心論中亦秖以三十六問。責於四心亦不涉於一念三千。唯四念處中略云觀心十界而已。故至止觀正明觀法。並以三千而為指南。乃是終窮究竟極說。故序中云說己心中所行法門。良有以也。請尋讀者心無異緣。問。此三千為初心觀後心亦觀。答。初後不二。問。凡夫心中具有諸佛菩薩等性。容可俱觀。中心後心界如漸減。乃至成佛唯一佛界。如何後心猶具三千。答。一家圓義言法界者須云十界即空假中。初後不二方異諸教。若見觀音玄文意者。則事理凡聖自他始終修性等意。一切可見。彼文料簡緣了中云。如來不斷性惡闡提不斷性善。點此一意眾滯自銷。以不斷性善故緣因本有。彼文云。了是顯了智慧莊嚴。緣是資助福德莊嚴。由二為因佛具二果。元此因果本是性德。性德緣了本自有之。今三千即空性了因也。三千即假性緣因也。三千即中性正因也。是故他解唯知闡提不斷正因。不知不斷性德緣了。故知善惡不出三千。彼又問云。既有性德善亦有性德惡不。答。具有。問。闡提與佛斷何等善惡。答。闡提斷修善但有性善在。如來斷修惡但有性惡在。問。性德善惡何以不斷。答。性德但是善惡法門。故不可斷。一切世間無能毀者。如魔燒經卷豈能令於性法門盡。縱燒惡譜亦不能令惡法門盡。問闡提不斷性善故。後時還起善。如來不斷性惡故。應當後時還起惡。答。闡提不達性惡故。後時還起於修惡。不了於性善故。後時還為修善染。是故修善還得起。即以修善治修惡。則令修惡不得起。佛雖不斷於性惡。而能了達於性惡。而於惡法得自在。不為修惡之所染。是故修惡不得起。故佛永無於修惡。自在用於惡法門。闡提若能達修惡則與如來無差別。故知於善於惡善達修性。於修照性以性了修。能知此者方可與論性德三因。生死涅槃煩惱菩提。十二因緣即是三德。如是無量理無不通。彼文又問。闡提斷善盡為黎耶所持。一切諸種子為內外所熏更能起善者。此識既無記與真如何別。又此種子住在何處而不早熏。故知權說非為了義。若有說言佛起神通現惡化物。此作意通同彼外道及二乘通。不同明鏡任運現像。若大經三十二云。或有佛性闡提人有。善根人無。古師謂是惡境界性。或有佛性善根人有。闡提人無。古師謂為緣因性也。復有佛性二人俱有。古師謂為正因性也。復有佛性二人俱無。古師謂為了因性也。如此釋者。亦別教意不了義說。若了義者。應云闡提善人俱有性德。而闡提無修善。善根人有。闡提有修惡。善根人無。二人俱無無不退性。未入似位故也。舉例云如八相遷物者。相為能遷物為所遷。俱舍頌云。此謂生生等於八一有能。謂本四相及隨四相。名之為八。大相名本。小相名隨。以此八故令一切法成有為相。言生生者。所謂小生生大生等。等謂等於餘之三相。謂小住住大住小異異大異小滅滅大滅。於八一有能者通無窮難。所謂小相於一有能能相大相。大相於八有能。謂一大相起時必與三大相及四小相俱起。并一本法故云於八。餘三大相各亦如是。故此八相望於本法不前不後。心具三千亦復如是。三千如八相一心如本法。今心下合譬。一念尚無。誰論橫竪。當知一念心中此三千法實非橫竪。非識是不思。非言是不議。故大經三十三云。佛性者不名一法不名十法。不名百法不名千法不名萬法。未得菩提時一切善惡無記皆名佛性。經文既云非一乃至非萬。復云善惡無記即是佛性。善惡無記即三千也。故知三千非三千具足三佛性也。下文結成三諦等義。並依理境。若無理境約誰論諦。問。此不思議還秖次第以釋十界與思議何別。答。其實無別。思議乃作從心生說不思議作一心具說。以生顯具何須更問。
夫れ一心の下は、理境を結成するのである。前に解釈したところでは、もともと一心にあり、円融の三諦はすでに開いて解き明かした。しかし人が迷いを生ずることを恐れるゆえ、重ねてこれを結し、一念に入らしめる。まさに知るべきである、身と土と一念の三千とは、成道の時にこの本理にかなうのである。一身と一念は法界に遍じているのである。「無心のみ」というのは、心が無いのではないことを示す。「介爾」とは、刹那の心をいう。間断なく相続して、いまだ曾て断絶したことがない。わずか一刹那に三千が具足する。八相の喩えに準じて思えば、知ることができるであろう。もし三千を具足すれば、すなわち三徳を具足する。ゆえに『金光明経』第一に云く、「法身に依る。初めて心を発す時、不退心・金剛心・如来心を顕現す」と。不退とはすなわち解脱心である。金剛とはすなわち般若心である。如来とはすなわち法身心である。ゆえに知る、因の心と果の体とは具足しているのである。また「介爾」とは、介とは弱いという意味である。詩に云く、「介爾景福」とは、細かな念をいう。ただ無心とは異なり、三千が具足しているのである。ゆえに大師は覚意三昧・観心食法および誦経法・小止観など、もろもろの心観の文において、ただ自他の観などをもって三仮を推すのみで、いまだ一念三千の具足を云っていない。乃至『観心論』の中でも、ただ三十六問をもって四心を責めるのみで、また一念三千には触れていない。ただ『四念処』の中に、略して観心の十界を云うのみである。ゆえに『止観』に至って正しく観法を明かすのに、ともに三千をもって指南としている。これこそ終窮究竟の極説である。ゆえに序に云く、「己の心の中に行ずる法門を説く」と。まことに理由があるのである。請う、読者の心に異縁なからんことを。
問う。この三千は初心の観であるか、後心もまた観ずるか。答う。初後は不二である。
問う。凡夫の心の中に諸仏・菩薩などの性を具している。まさに俱に観ずることは許されよう。しかし中心・後心には界如がしだいに減じ、乃至成仏すれば唯一の仏界となる。どうして後心に猶お三千を具しているのか。答う。一家の円義で法界を言うには、十界すなわち空・仮・中と云わねばならない。初後不二にして、はじめて諸教と異なるのである。もし『観音玄文』の意を見るならば、事理・凡聖・自他・始終・修性などの意が、一切見ることができる。彼の文に縁了を料簡する中に云く、「如来は性悪を断ぜず、闡提は性善を断ぜず」と。この一意を点ずれば、もろもろの滞りは自ずから消える。性善を断ぜないゆえに、縁因は本より有るのである。彼の文に云く、「了とはこれ顕了の智慧荘厳である。縁とはこれ資助の福德荘厳である」と。二をもって因となすゆえ、仏は二の果を具する。もとこの因果は本よりこれ性徳である。性徳の縁了は本より自ずから有るのである。いま三千すなわち空は性の了因である。三千すなわち仮は性の縁因である。三千すなわち中は性の正因である。これゆえに他解はただ闡提が正因を断ぜないことのみを知り、性徳の縁了を断ぜないことを知らない。ゆえに知る、善悪は三千を出でないのである。彼はまた問うて云く、「既に性徳の善が有るならば、また性徳の悪も有るか」。答う、「具に有る」。問う、「闡提と仏とは何等の善悪を断ずるか」。答う、「闡提は修善を断ずるが、ただ性善が在るのみである。如来は修悪を断ずるが、ただ性悪が在るのみである」。問う、「性徳の善悪は何以ゆえに断ぜないのか」。答う、「性徳はただ善悪の法門である。ゆえに断ずべからず。一切世間によく毀るものは無い。魔が経巻を焼くがごときも、豈によく性の法門を尽くすことができようか。たとえ悪譜を焼くとも、またよく悪法門を尽くすことはできない」。問う、「闡提は性善を断ぜないゆえに、後の時また善を起こす。如来は性悪を断ぜないゆえに、まさに後の時また悪を起こすべきである」。答う、「闡提は性悪に達しないゆえに、後の時また修悪を起こす。性善を了しないゆえに、後の時また修善に染まる。これゆえに修善はまた起こり得る。すなわち修善をもって修悪を治すれば、修悪を起こさせない。仏は性悪を断ぜないけれども、よく性悪に了達する。しかも悪法に自在であって、修悪に染まらない。これゆえに修悪は起こり得ない。ゆえに仏は永く修悪が無い。自在に悪法門を用いる。闡提がもしよく修悪に達すれば、如来と差別が無い。ゆえに知る、善においても悪においても、よく修性に達し、修において性を照らし、性をもって修を了する。よくこれを知る者こそ、はじめてともに性徳の三因を論ずることができる。生死涅槃・煩悩菩提・十二因縁はすなわちこれ三徳である。このように無量の理は通じないものはない。」
彼の文にまた問うて云く、「闡提は善を断じ尽くして黎耶に所持される。一切の諸種子は内外に熏ぜられて、さらに能く善を起こす。この識は既に無記であって、真如と何の別があろうか。またこの種子は何処に住んでいて、早く熏ぜられないのか」。ゆえに知る、権説であって了義ではない。もし、「仏は神通を起こして悪を現じて物を化す」と言う説があれば、この作意の通は外道および二乗の通と同じであって、明鏡が任運に像を現ずるのとは異なる。
もし『大経』三十二に云く、「あるいは仏性ありて闡提に有り、善根の人に無し」とあれば、古師はこれを悪境界の性と謂う。「あるいは仏性ありて善根の人に有り、闡提に無し」とあれば、古師はこれを縁因の性と謂う。「また仏性ありて二人ともに有り」とあれば、古師はこれを正因の性と謂う。「また仏性ありて二人ともに無し」とあれば、古師はこれを了因の性と謂う。このように解釈するのは、また別教の意の不了義説である。もし了義ならば、「闡提と善人とはともに性徳を有する」と云うべきである。しかも闡提には修善が無い。善根の人には有る。闡提には修悪が有る。善根の人には無い。二人ともに無いのは不退の性である。いまだ似位に入らないゆえである。例を挙げて「八相の物を遷すがごとき」と云う。相は能遷、物は所遷である。『俱舎頌』に云く、「これを生生等と謂う。八に於いて一に能あり」と。本の四相および随の四相を謂う。これを八と名づける。大相を本と名づけ、小相を随と名づける。この八ゆえに一切法をして有為の相を成ぜしめる。「生生」というのは、いわゆる小の生は大の生を生ずるなどである。「等」とは余の三相に等しいことをいう。いわゆる小住は大住を住せしめ、小異は大異を異せしめ、小滅は大滅を滅せしめる。「八に於いて一に能あり」とは、無窮の難を通ずるのである。いわゆる小相は一に能あり、よく大相を相する。大相は八に於いて能あり。いわゆる一大相が起る時、必ず三大相および四小相と俱に起る。並びに一本法のゆえに「八に於いて」と云う。余の三大相も各々またかくのごとし。ゆえにこの八相は本法に望めて前にも後にもならない。心が三千を具するもまたかくのごとし。三千は八相のごとく、一心は本法のごとし。いま心の下は合譬を下す。一念すら尚お無い。誰か横竪を論じようか。まさに知るべきである、一念の心の中にこの三千の法は実に横竪ではない。識に非ず、これを不思という。言に非ず、これを不議という。ゆえに『大経』三十三に云く、「仏性とは一法と名づけず、十法と名づけず、百法と名づけず、千法と名づけず、万法と名づけず。いまだ菩提を得ざる時は、一切の善悪無記は皆な仏性と名づく」。経文は既に「一に非ず乃至万に非ず」と云い、また「善悪無記すなわちこれ仏性なり」と云う。善悪無記はすなわち三千である。ゆえに知る、三千は三千に非ずして三仏性を具足するのである。下文は三諦等の義を結成する。ともに理境に依る。もし理境が無ければ、誰に約して諦を論じようか。
問う。この不思議は還ってただ次第に十界を釈するのみで、思議と何の別があろうか。答う。実に別は無い。思議はすなわち「心より生ず」と説き、不思議は「一心に具す」と説く。生をもって具を顕わす、何ぞ更に問うことを須いようか。
○問下次明修德不思議境。即是自行須明行相。故以問答推檢而為行體。如前理性本無性過。約修門說須明離計。故約四性以為徵問。然此問中且約所起對理自具而為研覈其實但推本具理心。恐生計故故須此覈。故下答文但離橫等四句執竟。還歸本理一念三千。又此問答亦名料簡。前云理性。又云修具。即名推檢而為料簡無復別途。又此理具變為修具。一一修具無非理具。所以將理對修料簡。令識修具全是理具乃達理具即空即中。故妙境初文。章安料簡云。法性自爾非作所成。如一塵中有大千經卷。故知章安深領玄旨。答者。然此破性不同三教。前之三教或約遠理。或約事行。或約俗諦。推因緣法生即無生。今此不爾。約理本無四性計相。凡情易執約執破性。寄二論破者。論隨教道順物機緣。恐迷者執權即成性過。故寄破之令成圓極。言無沒無明者。即阿黎耶識無始恒有。故云無沒。沒謂失沒恒不失故。不同俱生及現行等。若從下示各計人以成過相。心成自性緣即他性。若法性下以他破自。法性非心非緣者。還舉其所計准理破之。法性之理既非心緣。地人所計義當於心。法性非心若許心具。法性非緣亦應緣具。何得不許攝論黎耶。此即破地師也。若言下以自破他。還以道理破其所計。法性之外無別黎耶。若許黎耶依持則許法性依持。若不關者義理乖各。是故不關。義必不成。若即是者何得不許法性依持。此破攝師也。又違下次引經論示計有過。經論皆云非內非外等及非自他等。二論師何得各計一邊。經即大品文也。更就下約譬檢過。初文先定。若依下徵責。四句下結成無生。心喻下合。恐寫者誤。喻中既以眠心相對。今合應云心喻法性眠喻黎耶。夢事則喻生一切法。縱使眠人亦有不睡時者。秖應改云睡喻黎耶。若言睡人亦有不夢時者。今文但取夢時為喻。四句推夢雖不可得而夢事不無。若為他說還依四句。不可順計言自他等。此之三千亦復如是。二師何得各計一邊。然雖破計說必順機。何但說爾觀亦隨宜。故觀心論中觀於一句各生三十六法。良由於此。已明橫破竟。次約竪破。初之橫破但約黎耶法性。以為內外。已異藏通。藏通但約心境等生滅。乃至非生非滅相望名竪。此中則以三千四計為生。以四句推三千叵得為滅。故此生滅尚異於別豈況藏通。故知若計黎耶及法性等。乃成別義。今欲明圓是故須破。此之四句亦是為防轉計故說。推亦生亦滅者。單生單滅被破不生。故轉計雙共生諸法。故須破之。各既不生二不生合。云何能生。故云其性相違猶如水火。水火和合二俱損壞何能生法。破第四句者。滅為能生不滅為所。既云雙非即無能所。云何更生三千法耶。亦橫亦竪者。前兩四句單約橫竪既被推破。又恐雙計橫竪能生。故復更推。言亦橫亦竪者於竪四句一一計橫。初句計四即初文是。滅句計四者。云自滅生。他滅生。共滅生。無因滅生。第三第四准此可解。計相既爾。破亦準知。此是以橫織竪而為計相。若總論者謂橫及竪方生諸法。破亦準知。言非橫非竪者。單約雙計既皆被破。便謂俱離生三千法。俱合尚不能生三千。俱離云何能生法耶。問。雙非心性其相如何。答。橫既是生竪是生滅。雙是秖是是生是滅。雙非秖是雙非生滅。心體其實未契雙非。但是計此謂為能生。是故須破。既不可以橫竪等生。生即無生。言語下結成不思議境。前雖結成理性境竟。若不推檢何殊鳥空。此即結成修德境也。大經下引證也。此生生等四不可說。義意含故。故總引證前兩四句皆不生也。生生等文已成竪竟。若證橫者。生生秖是自。生不生秖是他不生生秖是共。不生不生秖是離。第三秖是俱計橫竪。第四秖是雙非橫竪。但證初二即證三四。問。前理性境及前章安料簡文中。皆云一心任運具足。今此何得對緣推耶。答。今此正推一念起心已具三千。故推此具為心為緣。若推此起起不可得。念與三千並不可得。不得而得三諦宛然。
問答によって次に修徳の不思議境を明かす。すなわち自行であるからには行相を明かす必要がある。そこで問答によって推検して行体とする。前の理性にはもともと性過はない。修門について説くならば計りを離れることを明かす必要がある。そこで四性について徴問とする。しかしこの問いの中では、しばらく所起に対理して自具を研覈する。その実はただ本具の理心を推すのみである。計りが生じるのを恐れるゆえにこの覈が必要となる。それゆえ下の答文ではただ横などの四句の執を離れ終わって、還って本理の一念三千に帰る。またこの問答は料簡とも名づける。前に理性と言い、また修具と言う。すなわち推検して料簡とするのであって、別の道があるわけではない。またこの理具が変じて修具となる。一一の修具は理具にあらざるはない。それゆえ理を修に対して料簡する。修具の全きが理具であることを識らせ、乃ち理具が即空即中であることに達する。それゆえ妙境の初文に、章安の料簡に云く、法性は自爾にして作によって成るにあらず。一塵の中に大千経巻あり。それゆえ章安は深く玄旨を領することを知る。答とは、しかしこの破性は三教と同じではない。前の三教はあるいは遠理について、あるいは事行について、あるいは俗諦について、因縁の法生を推して即無生とする。今ここではそうではない。理について本より四性の計相はない。凡情は執しやすいので、執に約して性を破る。二論に寄せて破るとは、論は教道に随い物の機縁に順ずる。迷う者が権を執してすなわち性過を成すことを恐れる。それゆえ寄せてこれを破し、円極を成さしめる。無没無明と言うのは、すなわち阿黎耶識は無始より恒有である。ゆえに無没と言う。没とは失没の意で、恒に失しないゆえに、倶生および現行などとは異なる。もし下に各計の人を示して過相を成すならば、心が自性を成ずれば縁はすなわち他性となる。もし法性の下は、他をもって自を破る。法性は心に非ず縁に非ずとは、還ってその計る所を挙げ、理に准じてこれを破る。法性の理はすでに心縁に非ず。地師の計る所の義は心に当たる。法性が心に非ずしてもし心具を許すならば、法性が縁に非ずしてまた縁具を許すべきである。どうして摂論の黎耶を許さないことがあろうか。これすなわち地師を破る。もし言の下は、自をもって他を破る。還って道理をもってその計る所を破る。法性の外に別の黎耶はない。もし黎耶の依持を許すならば、すなわち法性の依持を許す。もし関わらないならば、義理は乖き各なる。それゆえ関わらない。義は必ず成じない。もし即であるならば、どうして法性の依持を許さないことがあろうか。これすなわち摂師を破る。また違の下は、次に経論を引いて計に過があることを示す。経論は皆、非内非外などおよび非自他などと云う。二論師はどうして各々一邊を計ることができようか。経とはすなわち大品の文である。さらに就の下は、譬に約して過を検す。初文は先に定める。もし依の下は徴責する。四句の下は結成して無生とする。心喩の下は合す。恐らくは写す者の誤りであろう。喩の中すでに眠心を相対する。今合するには心は法性を喩え、眠は黎耶を喩うと云うべきである。夢事はすなわち一切の法を生ずることを喩える。たとえ眠人にもまた不睡の時があるとしても、ただ睡は黎耶を喩うと改むべきである。もし睡人にもまた不夢の時があると言うならば、今の文はただ夢の時を取って喩えとする。四句で夢を推すに得べからざるといえども、夢事は無ではない。もし他人のために説くならば、還って四句に依る。計に順じて自他などを言うことはできない。この三千もまたまたかくのごとし。二師はどうして各々一邊を計ることができようか。しかし計を破すといえども説は必ず機に順ずる。どうして説のみならん、観もまた宜に随ずる。それゆえ観心論の中では一句を観て各々三十六の法を生ずる。まさにこのゆえである。すでに横破を明かし終わった。次に竪破について。初めの横破はただ黎耶法性について、内外とする。すでに蔵通とは異なる。蔵通はただ心境などの生滅に約するのみ。乃至非生非滅が相望して竪と名づける。ここではすなわち三千四計をもって生とし、四句をもって三千を推して得べからざるをもって滅とする。それゆえこの生滅はまだ別とは異なり、まして蔵通であろうか。それゆえもし黎耶および法性などを計るならば、乃ち別義を成すことを知る。今円を明かさんと欲するゆえに破すべきである。この四句もまた転計を防ぐために説く。推して亦生亦滅とするとは、単生単滅は破られて不生となる。それゆえ転じて双に共に諸法を生ずると計る。それゆえこれを破すべきである。各がすでに不生ならば二も不生に合する。どうして能生であろうか。それゆえその性相違なること猶しかく水火のごとしと云う。水火は和合すれば二つともに損壊してどうして法を生じえようか。第四句を破すとは、滅を能生とし不滅を所とする。すでに双非と云うならばすなわち能所がない。どうしてさらに三千の法を生じえようか。亦横亦竪とは、前の両四句は単に横竪に約してすでに推破される。また双に横竪が能生であると計ることを恐れる。それゆえまたさらに推す。亦横亦竪と言うのは、竪の四句に一一に横を計る。初句に四を計るとはすなわち初文これである。滅句に四を計るとは、自滅生・他滅生・共滅生・無因滅生と云う。第三第四もこれに准じて解すべきである。計相がすでにかくのごとし。破もまた准じて知るべきである。これすなわち横をもって竪を織って計相とする。もし総論するならば、横および竪が方に諸法を生ずると謂う。破もまた准じて知るべきである。非横非竪と言うのは、単に双計に約してすでに皆破られる。そこで俱に離れて三千の法を生ずると謂う。俱合すら尚三千を生じえない。俱離がどうして法を生じえようか。問う、双非の心性、その相はどうか。答う、横はすなわちこれ生であり竪はこれ生滅である。双はただこれ是生是滅である。双非はただこれ双非生滅である。心体はその実、未だ双非に契っていない。ただこれを計して能生と謂う。それゆえ破すべきである。すでに横竪などをもって生ずべきでないならば、生はすなわち無生である。言語の下は結成して不思議境とする。前には理性境と結成し終わったといえども、もし推検しなければ鳥空と何が異なろうか。これすなわち修徳境と結成するのである。大経の下は引証である。この生生などの四は不可説である。義意を含むゆえに、総じて引証して前の両四句は皆不生であるとする。生生などの文はすでに竪を成じ終わった。もし横を証するならば、生生はただこれ自であり、生不生はただこれ他不生であり、生不生生はただこれ共であり、不生不生はただこれ離である。第三はただこれ俱に横竪を計ることであり、第四はただこれ双非横竪である。ただ初二を証すればすなわち三四を証する。問う、前の理性境および前の章安の料簡の文には、皆一心任運に具足すと云う。今ここではどうして縁に対して推すことができようか。答う、今ここではまさに一念の起心がすでに三千を具すと推す。それゆえこの具を推して心となすか縁となすかとする。もしこの起を推すに起は得べからず。念と三千とは並びに得べからず。不得にして而得、三諦は宛然たり。
○當知下結前生後。結前自行生後化他。自行若滿必有化他。故引多義結前生後。初約二諦也。第一義諦結前自行推法不生。若世諦者欲為他說。說必四句以生三千。亦是舉況。明有三千可為他說。如佛告下即大品中佛告德女。世尊問德女答。答文並是結前自行。佛言如是有者。生後化他。次引龍樹及更引大經四不可說。以結前。有因緣故。以生後。即有利他因緣故也。雖四句下釋前諸文結前生後。四句冥寂釋前自行以結前。慈悲憐愍釋前化他以生後。若聖若凡。凡欲利他皆須四句橫竪破執。乃可四句慈悲為他。然此為他與後起教。其義不同彼唯實報八相被物。發起權實施開廢等。此唯初心依理生解。無性執已為他四說。亦通後心仍在習果無生忍位。四執實破赴物說四。問。前自行中具破四性。今此化他何故各一。受化之徒還成自行。何故與前自行不同。答。聖人設化逗彼所宜。受者成觀實離四執。若其執自佛豈增執而為說耶。餘之三句準此應知。或作世界下正明逗物。依四悉檀作四句說。即十六番說化他境。化他遍被故列十六。若彼受者隨用一句或二三四。觀心論中遍約四性各三十六問者。為遍責故遍生法故。仍略四悉直舉自等。今但約四悉望彼仍總。今初世界中四者。若言心具心即是自。善知識者即是他也。以水銀他和真金自即是共也。自爾秖是無因異名。此四皆須順歡喜義成世界悉。為人四中言唯信者。信即是自。云但發心。發心是自。若云見佛。佛即是他。自珠待他水清即共也。又他慈善根令我自見亦共也。非內非自非外非他即無因也。先尼者以證四句無著即屬於離。離即無著。若有著者如先尼梵志。於小乘中生信尚難。況復大乘。大論四十七云。若佛法中有微法而可得者。先尼於一切法中終不生信。云何生信。信般若波羅蜜不以有相不以無相。不取相故住信行中。論問。此中何故引先尼耶。答。此經種種因緣說法空乃至無有微相可得。人心疑怪不信此理難見。是故須菩提引小乘中尚有法空。況大乘法。論文引意先尼有著。信小乘法空尚難。況信大乘法空。小乘法空如阿含中是老死誰老死也。餘二悉比知。佛旨盡淨下明佛意體性。即明自行化他相即。不在因緣等即是第一義。即化他心不乖自行。故即世諦是第一義諦。又四下化他中。初法。若為盲等者重約譬說體性相即。為盲四說貝等俱是。如前四四一十六說皆契悉檀故云見乳。即世諦者以法結譬。當知下結意也。不說即默。即是終日說默相即。終日雙非說默終日雙照說默。破即不說。立即四說。又破即雙遮。立即雙照經論者如前所引。天親下重申二論本意。先明失。論主逗機各演一門。論師各執偏弘成諍。致使後學情見不同。矢石者如箭矢射石義非相入。以各計故不入圓理。如彼矢石。次若得下明得。若約二論論主元意及得今文悉檀之意。四俱可說。據理俱不可說。雖不可說如前一十六番。並是隨宜而說。若隨下教門大體。逗物雖用適時之變。佛出世意教門大體。皆是因緣和合乃生諸法。是則若自若他若無因等。皆屬於共。故今復依大體而說。故云無明法法性。無明是暗法。來法於法性。如丹是藥法來法於銅等。因緣和合有成金用。是則無明為緣法性為因。明暗和合能生諸法。自行猶觀染因緣生。化他則以淨因緣生。自他相對則以染淨和合因緣而生。又自行染有內有外。內謂無明。外謂他境。以內具故他境能熏。故觀所熏唯見理具。若觀理具則識真如常熏內具。諸論教道不見此實。雖內外熏以立種義。不了新熏本有之意。是故種子但同冥初。故是教道非真實說。今觀此等染淨雖殊即理無別。秖約此因緣而推多種自他共等。其理不殊。故知凡推四句之法。皆推諸法已和合性。所以推一至理染淨緣起。因邊緣邊各不能生。二不生合故無生理。和合尚無離二焉有。不有而有三諦宛然。一性下釋和合性。一性雖少而不無者。為緣成法生一切故。無明雖多而不有者。推此性故一法亦無。不少不多妙理斯在。何者下重釋上句。指法性為無明則多非多。指無明為法性則一非少。故名下結化他妙境。若解下還依教體。歷前三科三種世間及界如等。專云妙境三諦之相。雖先約識心至此且總結成三諦。知其陰等皆是妙境。初一心下正明歷前心造諸法。一陰下歷前五陰。一入下歷前十二入。一界下歷前十八界。三科即是五陰世間。一眾生下歷前眾生世間。一國土下歷前國土世間。一相下歷前三處十如若法性下以教體意結前所歷成三諦等。初文即是結成三諦。如是下例。若一法一切法下結成三觀。一空一切空下釋向三觀成總相也。非但空空亦空假中。假中亦然。若淨名疏亦明總相三觀之相。與今意別。故彼文云。有三種三觀。一者別相即別教也。二者通相亦名總相。語似今文其意則別彼但是方等部中通相之意。如觀眾生品等三觀雖空三觀猶別。如佛道為假入不二門為中。其意亦然。三一心三觀正當今總。若因緣下結成三智。例上下即以權實例於三觀。亦應如前對三法竟。次明總相。故云一權一切權等。若隨下結成三語。能說名語被物成教。故以漸等三止觀教結之。故云無非漸等。故此三止觀即是三語。隨他是漸。隨自是頓。隨自他是不定。前大意中於一圓頓結示三種止觀之相。今妙境中收三止觀同一圓頓。故以此三會於三觀及三語等。由有教故。故令趣入。故以三趣。對於三教。合不可得及趣非趣為頓。一切法中開對漸及不定。是故屬假。前一一文皆先正結。次例諸法。唯此三趣闕例諸法。此等下會異。此不思議秖是妙境何故乃云亦是三觀。乃至三趣等耶。故更會之。妙境不殊得名處別。名處雖別同歸一理。軌秖是法。以三軌則之使始終不改。故名為法。法即所照故立諦名。三軌所發以立觀名。智望於觀因果乃殊同是所發。所發成果故能教他。教他未嘗不與法俱。教他既滿自他歸宗。名之為趣。種種下誡勸。如如意珠下舉譬以譬於境。前文以三千等別明理性乃至十界別含權實。前文雖以八相為譬。別為破於心法前後。雖有夢譬別為破於四句計性。故今正用珠譬妙境。即總譬於前來理性自他橫竪及結成等。今珠義者。第一義天。天然理體。即勝寶也。性無雜染名之為淨。無非佛法故名為妙。在一剎那故云介粟。大論云。古佛舍利狀如芥粟。能滿自他菩提妙果名大功能。珠中所雨不增人欲生一切願。從悕須邊故名為欲。欲不出五故總舉五。又理為四弘所緣之境。故名悕須。七寶者。謂金銀瑠璃硨磲碼碯珊瑚琥珀。寶不出七故並舉之。即譬無作道品寶炬陀羅尼也。真寶名琳。似寶名琅。有云。琅玕璆琳皆石似玉。今且依前真似二寶皆生於珠。即正助二門不出於理。非自性故非內畜。非他性故非外入。既離自他即無共離。故但兩句不云三四。從不謀去有化他用。非縱故不謀前後。非橫故不擇多少。任運施化名為不謀。稱機設逗名為不擇。雖五味不同而祕密不定。故縱而不縱。雖諸教不同而適時增減。故非多非少。若機若應並非權非實。故云不作麁妙。觸緣斯現。故云稱意豐儉。多名為豐少名為儉。益物不窮故降雨穰穰。穰穰福也。乃至依正珠亦雨之。雨字去聲呼。自天而降曰上聲。降之所被曰去聲。大經云。無上法雨雨汝身田。非本無今有故不添。非本有今無故不盡。若自若他皆不出三諦。下之二喻擬此可知。單銷譬事意則可見。故直對理以明體用。珠是色法世福所感。尚能如是。況復心神不思議境。故大論十一云。此珠隨念能出四事及音樂等。次約三毒為譬中。言定有定無等者。定有謂已具。定無謂永闕。若謂已有如倉中盛物。若謂永無如砂中無油。故並不可。次夢喻為三。初總舉夢事。夢事如三千。豁悟如一念。未眠如法性。法性非無如不覺。法性非有如不夢。不夢故不多。不覺故不一。無明眠故謂之為多。觀一念故謂之為少。無明與一念不出法性。故非多非少。莊周夢喻亦復如是。無明如夢蝶。三千如百年。一念無實猶如非蝶。三千亦無如非積歲。翾小飛。翔迴飛也。郭璞云。布翅翱翔。無明下以譬帖合。合文猶略。無明法法性合夢蝶。一心一切心合百年。達無明即法性合悟知非蝶。一切心一心合非積歲。言云云者。長非長故夢非夢。短非短故悟非悟。故以心性為不思議境。彼論齊物一夢為短而非短。百年為長而非長。今借喻妙境理稍可通。若均山毫等鳧鶴恐未可也。具如論衡范贇與靜泰論於齊物。贇屈於泰者以齊物無理故也。次安樂行人夢喻比莊周夢。意亦可知。若信下勸信也。言三喻者。一如意珠。二三毒。三三夢。非口為不議。非情為不思。信此三喻即信一念不思議境。此不思議下明境功能。依此發誓下明例餘九法。皆滿足等。良由於境說時下收入一心總為觀境。如前所明事理自他並在一念。說必如上行無先後。
まさに知るべきです。以下は前を結び後を生ずる段です。前の自行を結び、後の化他を生じます。自行がもし満ちれば必ず化他があります。ゆえに多くの意味を引いて前を結び後を生ずるのです。初めは二諦についてです。第一義諦は前の自行を結び、法を推して不生であるとします。もし世諦ならば他者のために説こうとし、説くには必ず四句をもって三千を生じます。これもまた況を挙げたもので、三千があって他者のために説くことができると明かします。「如佛告」以下の文は、すなわち大品経の中で仏が徳女に告げたものです。世尊が問い、徳女が答え、答の文はすべて前の自行を結んでいます。「佛言如是有者」は後の化他を生じます。次に龍樹を引き、さらに大経の四不可説を引いて、もって前を結びます。因縁があるがゆえに、もって後を生じます。すなわち利他の因縁があるからです。「雖四句」以下の文は、前の諸文が前を結び後を生ずることを解釈します。四句冥寂は前の自行を解釈して前を結び、慈悲憐愍は前の化他を解釈して後を生じます。聖であれ凡であれ、凡が他を利しようとすれば皆、四句の横竪をもって執を破らねばなりません。それからようやく四句の慈悲をもって他者のためとすることができます。しかしこの他者のためということと、後の起教とは、その意義が異なります。かの起教はただ実報の八相をもって物を被り、権実を発起して施開廃等するだけです。この化他はただ初心が理に依って解を生じ、性執を無くしてすでに他者のために四説するものです。また後の心にも通じ、なお習果の無生忍の位にあります。四執を実に破り、物に赴いて四を説きます。問う。前の自行の中では具に四性を破っています。今この化他ではなぜそれぞれ一つなのでしょうか。受化の徒は還って自行を成じます。なぜ前の自行と同じでないのでしょうか。答えます。聖人が設化するには彼の所宜に逗します。受ける者は観を成じて実に四執を離れます。もしその者が自ら執すれば、仏がどうして執を増して説くことがありましょうか。他の三句もこれに準じて知るべきです。「或作世界」以下は正しく物に逗することを明かします。四悉檀に依って四句を説きます。すなわち十六番で化他の境を説きます。化他は遍く被るがゆえに十六を列ねます。もし彼の受ける者が一句に随い、あるいは二三四に随います。観心論の中で遍く四性についてそれぞれ三十六の問いをなすのは、遍く責めるがゆえであり、遍く法を生ずるがゆえです。それでも四悉を略し、直ちに自等を挙げます。今はただ四悉について彼を望めば、なお総です。今初めに世界中の四とは、もし心具と言い心即と言えば、これは自です。善知識とはすなわち他です。水銀が他で真金が自で、すなわち共です。自爾はただ無因の異名です。この四は皆、歓喜の義に順じて世界悉を成じます。為人四の中に「唯信」と言うのは、信はすなわち自です。「但發心」と言えば、発心は自です。「見佛」と言えば、仏はすなわち他です。自珠が他を待って水清いのはすなわち共です。また他の慈善根が我をして自ら見せしめるのもまた共です。内に非ず自に非ず、外に非ず他に非ず、すなわち無因です。先尼は四句に著することなきを証するので、これは離に属します。離はすなわち無著です。もし著する者があれば先尼梵志のごとくです。小乗の中で信を生ずることさえなお難しいのです。ましてや大乗においてはなおさらです。大論四十七に言います。もし仏法の中に微かな法でさえ得ることのできるものがあれば、先尼は一切の法の中でついに信を生じないであろう。どうして信を生ずるか。般若波羅蜜を信ずるに有相をもってせず無相をもってせず、相を取らないがゆえに信行の中に住します。論に問う。ここでなぜ先尼を引くのか。答え。この経は種々の因縁をもって法空を説き、乃至微かな相も得べからずとします。人の心は疑い怪しみ、この理を信じがたく見ます。それゆえ須菩提は小乗の中にさえなお法空があることを引き、まして大乗の法はなおさらであるとします。論の文が引く意は、先尼には著があり、小乗の法空を信ずることさえなお難しい、まして大乗の法空を信ずることはなおさらであるということです。小乗の法空は阿含の中の「老死、誰の老死か」のごとくです。他の二悉も比べて知るべきです。「佛旨盡淨」以下は仏の意の体性を明かします。すなわち自行化他が相即することを明かします。因縁等に在らずとはすなわち第一義です。すなわち化他の心が自行に乖かないからです。ゆえに世諦はすなわち第一義諦です。また「又四」の下は化他の中で、初めは法です。「若為盲」等とは、重ねて譬によって体性相即を説きます。盲のために四を説き貝等はすべてこれであるとは、前の四四一十六の説のごとく皆悉檀に契うから「見乳」と言います。すなわち世諦とは法をもって譬を結びます。「當知」の下は意を結びます。説かないとはすなわち黙です。すなわち終日説き終日黙する相即です。終日双非の説黙、終日双照の説黙です。破とはすなわち説かず、立とはすなわち四説です。また破とはすなわち双遮、立とはすなわち双照です。経論とは前のごとく引いたものです。「天親」の下は重ねて二論の本意を申べます。初めに失を明かします。論主は機に逗して各々一門を演べ、論師は各々偏弘を執して諍を成じます。後学をして情見を異にせしめます。矢石とは箭矢が石を射るがごとく、義は相入らないということです。各々計るがゆえに円理に入りません。かの矢石のごとくです。次に「若得」の下は得を明かします。もし二論について論主の元意および今文の悉檀の意を得れば、四は皆説くことができます。理に拠れば皆説くことができません。説くことができないといっても前の一十六番のごとく、並びにこれ随宜の説です。もし「隨」の下の教門の大体のごとくならば、物に逗するには適時の変を用いますが、仏出世の意の教門の大体は、皆因縁和合してすなわち諸法を生じます。これすなわち自であれ他であれ無因等であれ、皆共に属します。ゆえに今また大體に依って説きます。ゆえに「無明法法性」と言います。無明は暗法で、法性に来たり法ります。丹が薬で銅等に来たり法るがごとくです。因縁和合して成金の用があります。これすなわち無明を縁とし法性を因とし、明暗和合して能く諸法を生じます。自行はなお染因縁の生を観じ、化他はすなわち浄因縁をもって生じます。自他相対すればすなわち染浄和合の因縁をもって生じます。また自行の染に内があり外があります。内とは無明、外とは他境です。内に具わるがゆえに他境が能く熏じます。ゆえに熏される所を観ればただ理具を見ます。もし理具を観れば真如が常に内具を熏ずると識ります。諸論の教道はこの実を見ません。内外の熏をもって種の義を立てますが、新熏本有の意を了しません。それゆえ種子はただ冥初と同じです。ゆえにこれは教道であり真実の説ではありません。今この等の染浄は殊なりといえどもすなわち理に別なしと観じます。ただこの因縁について推せば多種の自他共等があります。その理は殊なりません。ゆえに凡そ四句の法を推すものは、皆諸法すでに和合の性を推すことを知ります。それゆえ一至理の染浄縁起を推せば、因の辺も縁の辺も各々能く生ぜず、二つは生ぜずして合するがゆえに無生の理があります。和合さえ尚無く、二を離れてどうして有りましょうか。有らずして有り、三諦は宛然です。「一性」の下は和合性を解釈します。一性は少なしといえども無に非ずとは、縁となりて法を成じ一切を生ずるがゆえです。無明は多しといえども有に非ずとは、この性を推すがゆえに一法もまた無いということです。少なくもなく多くもなく、妙理はここにあります。「何者」の下は重ねて上の句を解釈します。法性を指して無明とすれば多は多に非ず、無明を指して法性とすれば一は少なしに非ずです。「故名」の下は化他の妙境を結びます。「若解」の下は還って教体に依ります。前の三科三種世間および界如等を歴ます。もっぱら妙境三諦の相と言います。先に識心について約しましたが、ここに至ってかつて総じて三諦を結成します。その陰等は皆妙境であると知ります。初めの「一心」の下は正しく前の心造の諸法を歴ることを明かします。「一陰」の下は前の五陰を歴ます。「一入」の下は前の十二入を歴ます。「一界」の下は前の十八界を歴ます。三科はすなわち五陰世間です。「一眾生」の下は前の衆生世間を歴ます。「一國土」の下は前の国土世間を歴ます。「一相」の下は前の三処十如を歴ます。「若法性」の下は教体の意をもって前の所歴を結んで三諦等を成じます。初めの文はすなわち三諦を結成します。「如是」の下は例です。「若一法一切法」の下は三観を結成します。「一空一切空」の下は向の三観を解釈して総相を成じます。ただ空のみならず空もまた空じ、仮も中もまたしかりです。もし浄名疏にもまた総相三観の相を明かしますが、今の意とは別です。ゆえに彼の文に言います。三種の三観があります。一は別相で、すなわち別教です。二は通相で、また総相とも名づけます。語は今の文に似ていますが、その意は別です。彼はただ方等部の中の通相の意です。観衆生品等の三観のごとく、空の三観といえどもなお別です。仏道を仮とし不二門に入るを中とするごとく、その意もまたしかりです。三は一心三観で、まさに今の総に当たります。「若因縁」の下は三智を結成します。上下を例とし、すなわち権実をもって三観に例します。また前のごとく三法に対することを終えるべきです。次に総相を明かします。ゆえに「一權一切權」等と言います。「若隨」の下は三語を結成します。能説は語と名づけ、物を被るは教を成じます。ゆえに漸等の三止観教をもって結びます。ゆえに「無非漸等」と言います。ゆえにこの三止観はすなわち三語です。他に随うは漸、自に随うは頓、自他に随うは不定です。前の大意の中で一円頓に於いて三種止観の相を結示しました。今妙境の中で三止観を収めて同一の円頓とします。ゆえにこの三をもって三観および三語等に会します。教があるがゆえに、ゆえに趣入せしめます。ゆえに三趣をもって三教に対します。不可得および趣非趣を合して頓とします。一切法の中に開いて漸および不定に対します。これゆえ仮に属します。前の一一の文は皆、先に正しく結び、次に諸法を例とします。ただこの三趣だけは諸法を例とすることを欠きます。「此等」の下は異を会します。この不思議はただ妙境であるのに、なぜまた三観乃至三趣等と言うのでしょうか。ゆえにさらにこれを会します。妙境に殊なりはなく、名を得る処が別です。名の処は別といえども同じく一理に帰します。軌とはすなわち法です。三軌をもってこれを則り、始終改まらざるがゆえに法と名づけます。法はすなわち所照なるがゆえに諦の名を立てます。三軌の所発なるをもって観の名を立てます。智を観に対して望めば因果はすなわち殊なりといえども同じくこれ所発です。所発は果を成ずるがゆえに能く他を教えます。他を教うることはかつて法と倶ならざるはありません。他を教うることすでに満ちれば自他宗に帰します。これを趣と名づけます。「種種」の下は誡め勧めます。「如如意珠」の下は譬を挙げて境を譬えます。前の文は三千等をもって別に理性を明かし、乃至十界が別に権実を含むとしました。前の文は八相をもって譬としましたが、別に心法の前後を破するためでした。夢の譬がありましたが、別に四句の計性を破するためでした。ゆえに今正しく珠の譬をもって妙境を譬えます。すなわち総じて前の理性の自他横竪および結成等を譬えます。今の珠の義とは、第一義天、天然の理体、すなわち勝宝です。性に雑染なければこれを浄と名づけ、仏法に非ざるなし、ゆえにこれを妙と名づけます。一刹那に在るがゆえに介粟と言います。大論に言います。古仏の舎利は芥粟のごとし。能く自他の菩提妙果を満たすを大功能と名づけます。珠の中に雨ふる所は人の欲を増さず、一切の願いを生じます。悕須の辺よりするがゆえにこれを欲と名づけます。欲は五を出でず、ゆえに総じて五を挙げます。また理は四弘の所縁の境なるがゆえに悕須と名づけます。七宝とは、金銀瑠璃硨磲碼碯珊瑚琥珀をいいます。宝は七を出でず、ゆえに並びにこれを挙げます。すなわち無作道品の宝炬陀羅尼を譬えます。真宝を琳と名づけ、似宝を琅と名づけます。あるいは言います。琅玕璆琳は皆石で玉に似ています。今はしばらく前の真似二宝に依れば、皆珠より生じます。すなわち正助二門が理を出でず、自性に非ざるがゆえに内畜に非ず、他性に非ざるがゆえに外入に非ずです。すでに自他を離れればすなわち共離も無い、ゆえにただ二句のみで三四とは言いません。「不謀」より去るは化他の用があります。縦に非ざるがゆえに前後を謀らず、横に非ざるがゆえに多少を択びません。任運に施化するを不謀と名づけ、機に称して設逗するを不択と名づけます。五味は同じからずといえども祕密不定なるがゆえに縦にして縦に非ず、諸教は同じからずといえども適時に増減するがゆえに多に非ず少に非ずです。機であれ応であれ並びに権に非ず実に非ず、ゆえに麁妙を作さずと言います。縁に触れて斯に現ずるがゆえに意に称して豊儉と言います。多きを豊と名づけ少なきを儉と名づけます。物を益すること窮まらざるがゆえに雨ふること穰穰たり。穰穰は福です。乃至依正にも珠はまたこれを雨ふります。雨の字は去声に呼びます。天より降るを上声と曰い、降の所被を去声と曰います。大経に言います。無上法雨、汝の身田に雨ふる。本無今有に非ざるがゆえに添えず、本有今無に非ざるがゆえに尽きません。自であれ他であれ皆三諦を出でません。下の二つの喩はこれに擬すれば知ることができます。単に譬の事を銷せば意は見るべきです。ゆえに直ちに理に対して体用を明かします。珠は色法で世福の感ずる所です。なお能くかくのごとし、ましてや心神の不思議境においてはなおさらです。ゆえに大論十一に言います。この珠は念に随って能く四事および音楽等を出します。次に三毒を譬とすることの中に、「定有定無」等と言うのは、定有とはすでに具わると謂い、定無とは永く闕くると謂います。もし已に有ると謂えば倉の中に物を盛るがごとく、もし永く無しと謂えば砂の中に油無きがごとくです。ゆえに並びに不可です。次に夢の喩を三とします。初めに総じて夢事を挙げます。夢事は三千のごとく、豁悟は一念のごとく、未眠は法性のごとくです。法性は無に非ざるは不覚のごとく、法性は有に非ざるは不夢のごとくです。不夢なるがゆえに多ならず、不覚なるがゆえに一ならずです。無明の眠りのゆえにこれを多と謂い、一念を観ずるゆえにこれを少と謂います。無明と一念は法性を出でず、ゆえに多に非ず少に非ずです。荘周の夢の喩もまたかくのごとし。無明は夢蝶のごとく、三千は百年のごとく、一念に実無きは猶し非蝶のごとく、三千もまた無きは非積歳のごとし。翾は小飛、翔は回飛です。郭璞に云います。翅を布いて翱翔す。無明の下は譬をもって帖合します。合の文はなお略です。無明法法性は夢蝶に合し、一心一切心は百年に合し、無明即法性に達するは悟知非蝶に合し、一切心一心は非積歳に合します。云云と言うのは、長は長に非ざるがゆえに夢は夢に非ず、短は短に非ざるがゆえに悟は悟に非ず。ゆえに心性をもって不思議境とします。彼の論の斉物は一夢を短としてしかも短に非ず、百年を長としてしかも長に非ずとします。今は借りて妙境を喩えますが理はやや通ずべきです。もし山毫を均しくし鳧鶴を等しくするがごときは恐らくは未だ可ならざるでしょう。具には論衡に范贇と静泰が斉物について論じたごとくです。贇が泰に屈したのは斉物に理が無いがゆえです。次に安楽行品の人の夢の喩を荘周の夢に比べれば、意もまた知ることができます。「若信」の下は信を勧めます。三喩と言うのは、一は如意珠、二は三毒、三は三夢です。口に非ざるを不議とし、情に非ざるを不思とします。この三喩を信ずればすなわち一念不思議境を信ずることになります。「此不思議」の下は境の功能を明かします。「依此發誓」の下は余の九法を例とすることを明かします。皆満足等です。まことに境によるがゆえに、説く時は下に収めて一心に総じて観境とします。前のごとく明かしたごとく事理自他は並びに一念にあり、説けば必ず上のごとく行じ、先後の無いものです。
○次明發心。初起大志造趣所期名之為發。不依教道為真。依三諦理名正。菩提即是所期之果。妙境即是所行之路。心即能行能趣有情。以無始來隨逐塵染。不知無緣體遍法界。唯隨妄我慮知之執。今依聖教從迷反迷故名為發。制此慮知令上求下化復名為發。此中文四義唯有二。所謂慈悲意在極果。若從利他意在遍益。問。應先起誓後觀妙境。何故境後方云發心。答。境前非不發心具如五略中意。今發重為成觀故須緣理益他。於中先悲次慈。若從名便應先慈次悲。今從行便故先悲次慈。必先離苦方與樂故。理無先後文且附事。初釋悲中先明誓境。於中先總牒前妙境。故云一苦一切苦。苦集二苦俱名為苦。義攝十界秖在一念。故云一苦一切苦。不明妙境一念三千。如何可識一攝一切。三千不出一念無明。是故唯有苦因苦果。由知無明秖是法性是故起悲。自悲下歷境思惟為起誓之由。亦先寄次第方解妙境。初文即是昔來所起三途因也。輪環下明三途因招三惡果。而今下今世復起三途之因。三界之集亦不出於癡愛兩心。恒為所誤喻蠶喻蛾。百千下驚歎。設使下明無道滅但有人天。設謂假設。常在流轉假使欲捨但欣戒善不求無漏。名為相心。如市易去。並喻相福反更益罪。若修相福得人天樂換三途苦。復由此樂得三途苦易人天樂。杜延業云。福有五種。一曰壽福。二曰富福。三曰康寧福。四曰攸好德福。五曰考終命福。此之俗儒但知有福而不辨所感。亦不云須戒以為受福之器。以福多故招罪亦多。名為更益。笱者取魚器也。相心如魚如蛾。相福如笱如燈。相心感果如入如赴。情想虛構名為狂計。非出世慧名為邪黠。逾猶越也。甚也。結集既厚名為逾迷。招苦必深名為逾遠。貪愛之心乏真理水義之如渴。又相心修福作五欲因如更飲醎反增生死如渴更甚。次明損道。有相之福如龍須牛皮。戒定慧三如身如體。有相心修如縛如繫。受人天果如入如向。却墮三途如彌堅轉痛。故大論云。夫利養者如龍須繩縛身入水。初損戒皮。次損定肉。後損慧骨。今由相福得人天利失於三學亦復如是。無明如盲。戒善如入。所感果報如在棘林。有相心修猶如不固。所獲相福猶如溺墮。生死難出猶如洄洑。溺是墮水。洄洑者。逆旋流也。把刃下歎無道滅。一豪之善本趣菩提。如操刀執炬得其要柄。若以相心如把刃抱火。覩前相心生死苦集。如履虎尾蛇頭等也。悚謂驚懼悼者傷也。慄謂戰慄。以傷懼故所以起誓。次自悲悲他。文中斥於凡夫生死。亦兼斥於六度二乘。故下結云。今則非偽非毒。三藏菩薩名雜毒也。二乘六道名之為偽。故前簡非九縛一脫皆名為非。非即是偽。假令下明但有一脫。二乘因果亦成誓境。穌者死而更生。字或作穌或作穌。並不從草。從草者菜也。三藏觀境不能即事。名為隘路。故大經第二云。聲聞緣覺猶如隘路不受二人並行。色空相即故名為並。滅色存空故云不並。滅色之空名為隘路。修菩薩行義如公行。背捨生死義如叛出。煩惱生死損害涅槃。是故如冤。三界皆是生死住處。名為冤國。周遍五道名為備歷。三界無安名為辛苦。失菩提願名之為絕。更發小志名為復穌。背大乘父名之為往。五塵求解如至貧里。除煩惱糞求智慧錢名為傭賃。生死為夜涅槃為日。小果息處名為草菴。未發大心名不肯前進。拙度破惑名為鄙事。不信等者憫傷之由。由二乘人背大向小是故憫傷。方等已前未免生謗名為不信。方等雖聞不解不行。名為不識。故迦葉云。猶如盲人。不知別惑是故可悲。不識別理是故可怪。又可悲之甚名之曰怪。思惟下正明悲傷自傷傷他。思惟是弘誓之始。鯁痛是悲願習成。鯁者謂魚骨鯁喉。如是傷痛至甚之相也。
次に発心を明かします。初めに大きな志を起こし、目指すところへ向かって進むことを「発」と名づけます。教えの道に依らないことを真とし、三諦の理に依ることを正とします。菩提とはすなわち目指す果であり、妙境とはすなわち行く道です。心とはすなわち行き、向かうことのできる有情です。無始以来、塵の染めに随い、無縁にして体が法界に遍じていることを知らず、ただ妄我の慮知の執に随っているのです。今、聖教に依って迷いから返るので、これを「発」と名づけます。この慮知を制して、上に求めて下を化することを、また「発」と名づけます。この文の中に四つの義があるとは、ただ二つあるだけです。いわゆる慈悲であり、その意は極果にあります。もし利他に従えば、その意は遍く益することにあります。問います。まず誓いを起こし、後に妙境を観るべきではないでしょうか。なぜ境の後に初めて発心と言うのでしょうか。答えます。境の前にも発心しないのではないことは、五略の中の意の通りです。今は発を重ねて観を成すために、理を縁じて他を益する必要があるのです。その中でまず悲、次に慈です。名前に従えば、まず慈、次に悲であるべきです。今は行に従う便宜から、まず悲、次に慈とします。必ず先に苦を離れて、後に楽を与えるからです。理には先後はありませんが、文はしばらく事に付して説くのです。初めに悲を解釈する中で、まず誓いの境を明かします。その中でまず総じて前の妙境を牒します。ゆえに「一苦一切苦」と言います。苦と集の二つの苦は、ともに苦と名づけます。義は十界を摂し、ただ一念にあります。ゆえに「一苦一切苦」と言います。妙境の一念三千を明かさなければ、どうして一が一切を摂することを識ることができましょうか。三千は一念の無明を出ません。それゆえただ苦因苦果があるだけです。無明がただ法性であると知るによって、悲を起こすのです。「自悲」の下は、境を歴て思惟し、誓いを起こす由とします。またまず次第に寄せて、方に妙境を解します。初めの文は、すなわち昔から起こしてきた三途の因です。「輪環」の下は、三途の因が三悪の果を招くことを明かします。「而今」の下は、今世にまた三途の因を起こすことを明かします。三界の集もまた癡と愛の二心を出ません。常に誤られることを蚕に喩え蛾に喩えます。「百千」の下は驚き嘆きます。「設使」の下は、道滅が無く、ただ人天があるだけであることを明かします。設とは仮設の意です。常に流転の中にあり、仮に捨てようと欲しても、ただ戒善を欣い、無漏を求めません。これを相心と名づけます。「如市易」の下は、ともに相福を喩え、かえって罪を益します。もし相福を修めて人天の楽を得れば、三途の苦を換えます。またこの楽によって三途の苦を得て、人天の楽を換えます。杜延業が言います。福に五種あります。一に寿福、二に富福、三に康寧福、四に攸好徳福、五に考終命福です。この俗儒はただ福があることだけを知って、感ずるところを弁えません。また戒が福を受ける器となることを説きません。福が多いために招く罪もまた多いのです。これを「更益」と名づけます。笱とは魚を取る器です。相心は魚の如く蛾の如く、相福は笱の如く灯の如く、相心が果を感ずるのは入るが如く赴くが如くです。情想の虚構を狂計と名づけます。出世の慧でないことを邪黠と名づけます。逾とは越の意、甚だの意です。結集が既に厚いことを逾迷と名づけます。招く苦が必ず深いことを逾遠と名づけます。貪愛の心は真理の水に乏しく、義は渇の如くです。また相心で福を修め五欲の因を作ることは、かえって醎を飲むが如く、生死を増し、渇がさらに甚だしくなるが如くです。次に損道を明かします。有相の福は龍の須や牛皮の如く、戒定慧の三は身や体の如く、有相の心で修めるのは縛や繋の如く、人天の果を受けるのは入るや向かうが如く、却って三途に堕ちるのは弥堅く転び痛むが如くです。ゆえに大論に云います。それ利養は龍の須の縄の如く、身を縛して水に入る。初めに戒の皮を損し、次に定の肉を損し、後に慧の骨を損す、と。今、相福によって人天の利を得て三学を失うも、またまたこの如くです。無明は盲の如く、戒善は入るが如く、感ずる果報は棘林にあるが如く、有相の心の修は固からざるが如く、獲る相福は溺れ堕ちるが如く、生死の出難いのは洄洑の如くです。溺とは水に堕ちることです。洄洑とは逆旋の流れです。「把刃」の下は、道滅が無いことを嘆きます。一豪の善は本として菩提に向かいます。操刀や執炬がその要柄を得るが如くです。もし相心でするならば、把刃や抱火の如くです。前の相心の生死苦集を覩るのは、虎の尾や蛇の頭を履むが如きものです。悚とは驚懼の意、悼とは傷の意、慄とは戦慄の意です。傷と懼によって誓いを起こすのです。次に自悲悲他です。文の中に凡夫の生死を斥け、また六度と二乗を兼ねて斥けます。ゆえに下に結して云います。今は則ち偽に非ず毒に非ず、と。三蔵の菩薩は雑毒と名づけます。二乗と六道はこれを偽と名づけます。ゆえに前に簡んで非とするのは、九縛と一脱は皆これを非と名づけます。非とはすなわち偽です。「仮令」の下は、ただ一脱だけがあることを明かします。二乗の因果もまた誓いの境となります。穌とは死んでまた生まれることです。字は或いは穌に作り或いは穌に作ります。皆、草に従いません。草に従うのは菜です。三蔵の観境は即事することができず、隘路と名づけます。ゆえに大経の第二に云います。声聞と縁覚は隘路の如く、二人の並行を受け入れない、と。色と空が相即であることを並と名づけます。色を滅して空を存することを不並と云います。色を滅した空を隘路と名づけます。菩薩行を修める義は公行の如く、生死を背捨する義は叛出の如く、煩悩と生死は涅槃を損害する、ゆえに冤の如く、三界は皆生死の住処である、冤国と名づけ、五道に周遍するを備歴と名づけ、三界に安きがないのを辛苦と名づけ、菩提の願を失うのを絶と名づけ、更に小志を発すのを復穌と名づけ、大乗の父に背くのを往と名づけ、五塵に解を求めるのを至貧里の如く、煩悩の糞を除き智慧の銭を求めるのを傭賃と名づけ、生死を夜とし涅槃を日とし、小果の息処を草菴と名づけ、未だ大心を発さないのを肯んじて前進しないと名づけ、拙度で惑を破るのを鄙事と名づけます。「不信等」は憫傷の由です。二乗の人は大に背き小に向かうによって、憫傷するのです。方等より以前は未だ生謗を免れず、不信と名づけます。方等では聞いても解せず行わず、不識と名づけます。ゆえに迦葉が云います。盲人の如く、別惑を知らない、ゆえに悲しむべきです。別理を識らない、ゆえに怪しむべきです。また悲しむべきことの甚だしいのを怪と名づけます。「思惟」の下は、正に悲傷し、自ら傷つき他を傷つけることを明かします。思惟は弘誓の始めであり、鯁痛は悲願が習い成るのです。鯁とは魚骨が喉に鯁ること、このように傷痛が至って甚だしい相です。
止觀輔行傳弘決卷第五之三
止観輔行伝弘決 巻第五の三
止觀輔行傳弘決卷第五之四
止観輔行伝弘決巻第五の四
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
即起下正明起誓中。初約眾生起於初誓。次約煩惱起於次誓。若己若他並緣無始經歷之境。故並約事以辨悲心及論發誓。並須緣理。故下諸誓皆約三諦。三諦復須寄別顯總。下慈誓意比此可知。次眾生下正明誓相。亦寄次第以辨不次。初文即是空觀誓相也。次雖知下假觀誓相也。次雖知下中觀誓相也。一一觀相皆有兩誓。誓願既廣苦集亦長。何者下重釋誓相。兼斥偏小。初斥三藏。次若偏下斥於通教鈍根菩薩。次若偏見下斥別教教道。亦兼通教出假菩薩。未得真應猶同見愛。二觀猶為無明所縛名非解脫。今則下顯正中先法次譬。法中正明中道故雙非毒偽。毒偽者如前已釋。次譬中飛空不住空。譬即空而假。雖不住去。譬即假而空。雖空而度下合譬也。度即是假。即是空假不二故也。是故下更以鬪空帖合前譬。次明慈誓者。亦初明誓境境中亦初總牒前妙境不思議樂。道滅二諦俱名為樂。義攝四教秖在一念。故云一樂一切樂。不說妙境一念三千。如何可識一攝一切。三千不出一念法性。是故唯有樂因樂果。由知法性秖是無明。是故起慈。我及眾生下別明誓境明無道滅。言昔雖等者。但求人天二乘之樂明無滅也。而不知發菩提之心。習諸佛法為究竟樂因。明無道也。前悲誓中明無道滅。義兼於此。故此文略但舉譬云如執瓦礫譬不識滅。妄指螢光譬不識道。妄謂世間及小因果。以之為實。今方始解下正依境發誓。初約道諦起於初誓。次約滅諦起於次誓。雖知下次明誓相。亦寄次第以辨不次。初文即是空觀誓相。次雖知下假觀誓相。次雖知下中觀誓相。畫空種樹並思益文。中觀文中法門是標初誓佛果是標次誓。非修等者釋初誓也。非證等者釋次誓也。中道之體雖非修證亦可修證。是故發誓自為為他。是名下顯正也。此中圓教真正發心。應約三教以簡毒偽。所謂非空及非愛見也。三教菩薩未證中道通名為毒。兩教二乘及九非心。通名為偽。兩教二乘及以通別入空菩薩。俱名為空。三教出假通名愛見。從初發心常觀中道。故永不同毒偽空假。如此下結束也。初明誓願與境智相即。次慈悲下明智慧與慈悲相即。智秖是解。依境生解依解起願。境為所緣誓為能緣。以無緣慈悲緣不思議境。境名無緣誓名無念。運此慈悲遍覆法界。故能任運拔苦自然與樂。不同下重總斥前次第慈悲也。前二文後雖各斥竟。今二文竟復更總斥。是名下亦總結之。義不異前故還指上。此中應具云慈悲。單云悲者隨語便耳。又此四弘更互相資。一念具足無前無後。具如第一及下諸文(云云)。觀心者。約一念心無作四諦。寄於弘誓略明觀心。亦應可解。如前誓相即其相也。
そこでただちに「下正明起誓」のうちの起誓について示します。まず衆生に約して最初の誓いを起こし、次に煩悩に約して次の誓いを起こします。自己についても他者についても、ともに無始以来経験してきた境に縁じます。したがって、ともに事に約して悲心を弁じ、また発誓を論じます。ともに理に縁じなければなりません。それゆえ以下の諸誓は、すべて三諦に約します。三諦はまた、別に寄せて総を顕す必要があります。以下の慈誓の意も、これと比べて知ることができます。
次に「衆生」の下は、正しく誓相を明かします。これもまた次第に寄せて、不次第を弁じます。初めの文は、すなわち空観の誓相です。次に「雖知」の下は、仮観の誓相です。次に「雖知」の下は、中観の誓相です。一つ一つの観相には、すべて二つの誓いがあります。誓願がすでに広ければ、苦集もまた長くなります。
「何者」の下は、重ねて誓相を釈し、兼ねて偏小を斥けます。初めに三蔵を斥け、次に「若偏」の下は、通教の鈍根の菩薩を斥け、次に「若偏見」の下は、別教の教道を斥けます。また兼ねて通教の出仮の菩薩を斥けます。まだ真応を得ていないので、なお見愛と同じです。二観はなお無明に縛られており、非解脱と名づけます。
「今則」の下は、正中を顕すうち、先に法、次に譬えです。法中には、正しく中道を明かすがゆえに、双べて毒偽を非とします。毒偽については、すでに前で釈したとおりです。次に譬えのうち、「飛空不住空」は、即空にして仮なることを譬えます。「雖不住去」は、即仮にして空なることを譬えます。「雖空而度」の下は、譬えを合わせます。度はすなわちこれ仮であり、すなわち空仮不二であるからです。「是故」の下は、さらに斗空をもって前の譬えに帖合します。
次に慈誓を明かします。これも初めに誓境を明かし、境のうちにもまた初めに総じて前の妙境不思議の楽を牒します。道と滅の二諦は、ともに楽と名づけます。義は四教を摂して、ただ一念にあります。ゆえに「一楽一切楽」といいます。妙境の一念三千を説かなければ、どうして一が一切を摂することを識ることができましょうか。三千は一念法性を出でません。それゆえただ楽因と楽果があるだけです。法性がすなわちこれ無明であると知るゆえに、慈を起こします。
「我及衆生」の下は、別に誓境を明かし、道滅のないことを明かします。「昔雖等」というのは、ただ人天と二乗の楽を求めて、滅のないことを明かすのです。しかるに菩提の心を発し、諸仏の法を習って究竟の楽因とすることを知らないのは、道のないことを明かすのです。前の悲誓のうちに道滅のないことを明かした義は、ここに兼ねます。ゆえにこの文は略してただ譬えを挙げて、「如執瓦礫」といい、滅を識らないことを譬え、「妄指螢光」といい、道を識らないことを譬えます。妄りに世間および小乗の因果を、これを実と謂います。
「今方始解」の下は、正しく境に依って誓いを発します。初めに道諦に約して最初の誓いを起こし、次に滅諦に約して次の誓いを起こします。「雖知」の下は、次に誓相を明かします。これもまた次第に寄せて不次第を弁じます。初めの文は、すなわち空観の誓相です。次に「雖知」の下は、仮観の誓相です。次に「雖知」の下は、中観の誓相です。画空と種樹は、ともに思益の文です。中観の文中、法門は初誓を標し、仏果は次誓を標します。「非修等」は初誓を釈し、「非証等」は次誓を釈します。中道の体は、修証にあらざるといえども、また修証することができます。それゆえ誓いを発して、自らのため、他者のためとします。「是名下」は正を顕します。このうち円教の真正の発心は、三教に約して毒偽を簡ぶべきです。いわゆる非空および非愛見です。三教の菩薩は、まだ中道を証しないので、通じて毒と名づけます。両教の二乗および九の非心は、通じて偽と名づけます。両教の二乗および通別の入空の菩薩は、ともに空と名づけます。三教の出仮は、通じて愛見と名づけます。初めの発心から常に中道を観じるので、永く毒偽空仮と同じではありません。
「如此」の下は、結び収めます。初めに誓願と境智とが相即することを明かし、次に「慈悲」の下は、智慧と慈悲とが相即することを明かします。智はすなわちこれ解です。境に依って解を生じ、解に依って願を起こします。境は所縁となり、誓は能縁となります。無縁の慈悲をもって不思議の境に縁じます。境を無縁と名づけ、誓を無念と名づけます。この慈悲を運んで法界に遍く覆うので、よく任運に苦を抜き、自然に楽を与えます。「不同」の下は、重ねて総じて前の次第の慈悲を斥けます。前の二文の後で、すでにそれぞれ斥け終えました。今、二文が終わって、さらにまた総じて斥けます。「是名下」もまた総じてこれを結びます。義は前に異ならないので、還って上を指します。このうちには、具に「慈悲」というべきですが、ただ「悲」というだけなのは、語の便に随っただけです。またこの四弘は、さらに互いに資け合います。一念に具足して、前も後もありません。具には第一および下の諸文のごとくです。
観心とは、一念の心に約して無作の四諦をなし、弘誓に寄せて略して観心を明かします。また解することができるでしょう。前の誓相のごとく、すなわちその相です。
○三明安心中初文釋名也。善以法性自安其心。故云安心。上深達下結前生後。既自達妙境結前正境深也。故云淵奧。次博運去結前弘誓廣也。故云亘蓋博廣也。國語曰。東西曰廣南北曰運。即橫遍也。亘亦遍也。境攝諸法非不橫廣。依理發心非不竪深。且寄事理釋名為便。正境是理理深也。慈悲屬事事廣也。具如前說故云若此。雖有事理但是空願。從須行下即是生後。若不安心無所剋獲。故次正願而明安心。初妙境中一念具足無作四諦故四弘中依無作諦而發弘誓。今以能安安於所安。能所相稱名為妙行。既安心已廣能利物填初誓也。欲利眾生先須斷惑填次誓也。欲利眾生復須習法填第三誓也。分分證實填第四誓也。至究竟位四誓方滿。若爾。從此安心乃至正助通名填願。若有解無行名枉死人。如譬喻經云。如一母二子。一善習浮。二不習浮。不習浮者墮水而死。其母不哭。先習浮者墮水而死。其母大哭。人問其故。答云習浮者死名為枉死。是故哭耳。願如習浮無行如死。大文有二。於中先總明安心。次別明安心。總別俱是依於妙境。以隨人故總別不同。惑重觀微應須隨事。故使行相若信若法。四悉迴轉。人不見之。便於別安而生異計。則失大師逐宜之能。初總安中秖是止觀。於中先重明法體。以為所安。法體者何。即妙境也。先法次譬。初法文中但指無明即是法性。但觀法性不觀無明。故大論六十九云。若以常無常等求之皆錯。若入法性則無有錯。九十一云。法性即是實相。實相秖是法性。如寒來下為體舉譬。寒譬無明水譬法性。無明法法性名寒結水。眠覆於心準水水說。水本是水夢不異心。寄事引迷云覆云結。今當下次示能安止觀安於法性。觀前無明秖是法性。如融水為水覺無明眠。於中先止次觀。初正明用止。如旋下舉譬。但信其火不信於輪。不信去合。以法性念法性。文似於觀但成止義繫之與念俱止法性故也。體達下止成相。觀者下次明用觀。譬如下火空水三共譬於觀。初劫火者劫如前釋。三災者略如通釋十境中說。虛空藏海慧此二並是大集經中菩薩。彼經廣集十方諸佛諸大菩薩於欲色二界大空亭中。故云大集。此菩薩欲來於眾會中先現此相。凡諸菩薩皆從德立名。故入眾現相亦隨其德。所以空藏現空海慧現水。並不見大眾唯見空水。修觀亦爾法外無法。介爾下明觀成相并結二空。亦先法次譬後合。初法說中言介爾者。非緣妄境但生一念。謂我觀成名為介爾。介者助也。助謂微弱之念。此念起時念與念者。隨念即亡名為性空。空無空相名不可得。即是相空。所念謂法性。念者謂介爾。此中且指觀行未論入真。如前下舉譬。能所俱燒可以譬於亡能亡所。能空亦空故也。法界洞朗去合也。不可得亦不可得。止秖是下明止觀體一。即不二而二寂照無殊。故云止秖是智。為令下文別安可識。故今預辨止觀別相。故知此中別而不別。下文別中不別而別。不動下重釋相即。初明止即是觀。不動智下明觀秖是止。不動智照法性下。雙明止觀同照法性。止觀得法性故方始名安。故云觀智得安亦是止安。不動於法性下更却。覆釋也。上句觀安故止安。此中止安故觀安。並由法性故無二無別。故金光明第一云。依於法身大智大定。法身者即法性。智定者即止觀。即是法界繫緣一念。若俱不安下欲明別安。先序別意。俱謂止觀。俱不得安則總非其宜。雖以法性自安其心。彌增暗散。既俱不安當復云何者。問生後別。夫心神下欲明別安。先辨不定之相。為別安之由。冥昧者是觀不安。梭利者是止不安。梭字應作𫐩。疾也。息和反。汩為筆反。去貌。亦疾亦流急也。字從曰于月反。若從日是亡的反。此音即是屈原所沈之水。非今所用。儵者駛也。亦驚也。亦可作倐。楚辭云。往來速疾也。敵強下引事以況不安之相。明須事安。禮云。知天文鳥也說文云。水鳥能知天雨。暗散如敵強觀微如力弱。事在六國時。六國者韓齊楚魏燕趙。并秦以為七雄。趙將伐燕。蘇代為燕說趙王曰。今者臣從外來遇小水。蚌方出暴而鷸啄其肉。蚌合而夾其啄。鷸曰。今日不雨明日不雨必見蚌脯。蚌亦謂鷸曰。今日不出明日不出必見死鷸。兩者不捨漁次得而併擒之。今趙且伐燕燕趙相支以弊其眾。臣恐強秦為漁父也。故願。大王熟計之。趙王乃止。出春秋後語。今文但取相扼義邊。不用強秦得便意也。凡用俗書皆取少分非全其意。如總修止觀而非其宜但增暗散。不可常與暗散相扼。應誓以別安破其暗散。如蘇說趙也。當殉命等者。總示事安之儀。以生從死曰殉。如魏時有人發周王塚。得殉葬女子。今以生從死不捨精進。薦獻也。肌皮也。假使皮骨銷盡盡命奉道。專修止觀誓死不休堅志別安以令入品。故云誓巧。乃至入位謂初住也。安心下正明別安。乃是望總名別。不得以為次第之別。若望下文結會數中。別仍成總。總即是圓下之一心即指此圓也。以於法性分於信法及四悉檀迴轉相資故別。還用總中一止一觀對法對信。自他並然。於中先明教他者。菩薩運懷利他為本。故先他後自。聖師三力者。中道空慧名為慧眼。慧眼鑒機名為法眼。任運逗藥名為化道。此是不可思議之三力也。故於一眼以分二名。如毱多下次引毱多化弟子相。以證聖師。毱多雖在羅漢之位。既在付法聖師之類。故知即是四依人也。教弟子上樹者如第四卷引。以食悟者。有一比丘性嗜飲食。由此嗜欲不得聖果。毱多請令就房以香乳麋與之。語言。待冷可食。比丘口吹尋冷。白尊者曰。麋已冷也。尊者曰。麋雖冷汝欲火熱。應以觀水滅汝心火。復以空器令吐食出。還使食之。比丘曰。涎唾已合。云何可食。尊者語云。一切飲食與此無異。汝不觀察妄生貪著。汝今當觀食不淨想。即為說法得阿羅漢。應以訶責等者像者似也。文選海賦云。倣像其色。毱多現者似女人故。多弟子中有一比丘信心出家。獲得四禪謂為四果。毱多方便令往他處。於路化作群賊復化作五百賈客。賊劫賈客殺害狼藉。比丘生怖即便自念。我非羅漢應是第三果。賈客亡後。有長者女語比丘言。唯願大德與我共去。比丘答言。佛不許我與女人行。女言。我望大德而隨其後。比丘憐憫相望而行。尊者次復變作大河。女人言。大德可共我渡。比丘在下女在上流。女便墮水。白言。大德濟我。爾時比丘手接而出。生細滑想起愛欲心。即便自知非阿那含。於此女人極生愛著。將向屏處欲共交通。方見是師生大慚愧低頭而立尊者語言。汝昔自謂是阿羅漢。云何欲為如此惡事。將至僧中教其懺悔。為說法要得阿羅漢。故知習聖教者薄知次位。縱生逾濫亦易開解。曾聞有人自謂成佛。待天不曉謂為魔障。曉已不見梵王請說。自知非佛。仍便自謂是阿羅漢。他人罵之心生異念。自知非是阿羅漢。仍謂是第三果也。見女起欲知非聖人。此亦良由知教相故。不待不過者。非未熟而化名不待時。非機熟不化名不過時。故金光明第一釋化身云。以自在力隨眾生心行。隨眾生界多種了別。不待時不過時。處相應時相應行相應說法相應。現身而度。今但引兩句。攝經意盡。故知聖師位在初住。初住得法身之本。能起應化也。盲龜下譬聖師難遇。如大海中有一盲龜。爾時海中復有浮木。木唯一孔可立龜身。此龜三千年方得一出。億百千出何由可值浮木之孔。故大經第二云。生世為人難值佛生信難。猶如大海中盲龜遇浮木。亦如針鋒竪閻浮提。以一芥子從忉利天投閻浮提。何由可得貫針鋒上。佛去世後非無四依。眾生薄德何由可值。次明凡師施化。劣於聖師無三力故。譬如下譬有三力而亦無益。故令凡師施化。如世醫法。上醫視色中醫聽聲下醫診脈。猶如聖師觀諸眾生三業之機現三輪化。視色如觀身業。聽身如觀口業。診脈如觀意業。障重無機雖是聖師亦不能化。故云亦不能起死等也。若不解下明無三術或亦有益。但牒不能觀於意業。但觀餘兩。依語作方亦有得益。則大師自斥我為凡師。眾生既無值聖之緣。遇此凡師亦遇然得益。故云挑脫。即大師自謙被物不周也。兼示後代勿廢化道。皆問病者故云依語。如下諸文皆云師應問言。及其人若言等。即是其相。身子下舉小乘中善說法者。轉法輪將智慧第一尚自差機。大經三十四云。雖有身子目連非真知識。生一闡提心因緣故。如我昔於波羅奈時。舍利弗教二弟子。一令骨觀。一令數息。經歷多年皆不得定。以是緣故皆生邪見。言無涅槃無漏之法。若其有者我應得之。我能善持所受戒故。我於爾時見是二人生邪見心。喚舍利弗而訶責之。云何乃為此二弟子顛倒說法。汝二弟子其性各異。一主浣衣。一主金師。金師之子應教數息。浣衣之子應教骨觀。以錯教令生邪見。我即為其如應說法。二人聞已俱得羅漢。是故我為眾生真善知識。莊嚴論云。浣衣漸淨白如骨。能調鞴囊善知息。凡夫具縛者。若通論者六根五品皆屬凡師。未破無明通皆具縛。若別論者。五品位也。六根清淨離二縛故。相似聖師。準第一卷料簡文中。通取六根以為凡師。前指聖師在初住故。六根尚稱為病導師。況三藏菩薩一切未斷。次結示。如文。他有下判行。薩婆多下泛引二論以出同異。非用論意。彼在小宗各依一門。未為通方遍被之道。如毘曇十五云。鈍名信行利名法行。信行者少觀察故。法行者多觀察故。與薩婆多同。彼但判位在於見道。少觀察者正當因門。今引曇無德兩行俱在世第一前。故云方便。然數下從容和通。數據行成故在見道。論據根性故在方便若多論云所因不同。即似今家一向根性。德宗多少不同。即似今家相資根性。是故為會而復兩存。又阿毘曇使楗度中云。堅信人有如許慧。堅法人有如許信。何故一人但名堅信。一人但名堅法。答各隨所因從勝立名非不互有。此亦似於相資意也。毘曇又云。定入名信慧入名法。若據初文定慧並以內思為法。聞定慧者名之為信。是故今文止觀各立信法二行。今師下正明今師二行之相。則以久因為現種子。明現有者必藉久因。久因異於德宗方便。現在亦異多論行成。是故今家但論由宿種故。現堪修觀及以聞法。驗今知昔得二行名。大經二十云。如有呪術若有一聞。後二十年不中毒藥。若有誦持。乃至命終無有眾病。是大乘法亦復如是。若有眾生一經於耳。却後七劫不墮惡道。思惟其義必得菩提淨見佛性。經耳即是信行種也。思惟即是法行種也。法華云。若有聞解思惟修習。又大經云。一聽聞正法。二思惟其義。經論此類並是久遠信法種也。若論下今家判利鈍也。更互得名不同兩論一向判之。已說下結前生後。師應下欲為說法先審根性。定秖是止。慧秖是觀。汝於此二為志聞耶。為志思耶。其人下述彼根性所尚之相。既知下既知根性病相定已。於一人所依語作方。止觀各四故旦為八。一一文中各有三意。一示法相。二指廣。三結成悉檀。初文初意。咄男子下正為說法。說法之相隨有相應。即便引用或儒或小或偏或漸。言近意遠。且為助成圓教圓觀。四悉信法止觀之相。為後來者作於化他說法之式。乃至據下結文。於一一文有次與不次。意且在圓。文中所列四教及似次第三觀語者。意在聞咸歡喜。是善並生惡無不破。見一切理。故遍列耳。故知至下結文。方開次第。次第則歷於三諦。不次唯約一心。一一番中以後望前皆成四意。謂次第三觀有三。一心三觀為一。一其意者。老子曰。天得一以清。地得一以寧。侯王得一以為天下正。老意但以合陰陽之道。以為天地得一。合君臣之道為侯王得一。今廢彼理但借彼名以證今理。苦集得一謂滅諦。因緣得一謂無明滅則行滅等。六蔽得一謂至彼岸。凡引俗典例皆如此。一是三乘之最。故云唯此為快。快故適其樂欲。如天亢旱等者。亢亦旱也。萬之與百並小數之極。隨便互彰。卉是草之總名。舉彼不生欲顯降雨以成於生。生即生善。娑伽龍者華嚴文也。長含又云。阿耨達龍王身心降雨滿閻浮提。今文云四方霔雨者。是也。言七日者。是摩那斯龍王欲降雨時。先七日布雲。令一切眾生究竟諸業。漸降微雨恐損物故。人亦如是下合譬。而不合七日及以四方。但合通途霔雨意耳。合河兼池加道品樹。既非全出正經盈縮隨時。初反合善根不生。若能下正合善根生也。可對三觀四教釋之。發諸禪如雨者。禪定若發。無量善法一切法門並因禪發。燸頂等三藏也。眼智等見道中位也。苦法忍為眼。苦法智為智。苦比忍為明。苦比智為覺。順忍等通教中諸善根也。外凡為信內凡為順。餘文並略。寂滅無生是別圓中善根也。此等並因禪靜而生。即生善義。緣喻等者。種種因緣種種譬喻。因緣秖是廣引今昔共成此義。下去例然。醉象如卷初釋。穴駝出大論三十三。第七又引。亦同無鉤意也。五翳等者經論大同。成論云。譬如天日月其性本明淨。煙雲塵霧等五翳則不現。等者等取阿修羅手。爾雅云。陰而風曰翳。翳謂障光。今則通取五皆能障通名為翳。又風動塵起曰埃。煙雲霧起曰靄。靄謂雲等掩也。曜靈者日名也。謂日被掩。亦可曜謂七曜。七曜圖云。日月五星名為七曜。日是陽精月是陰精。五星者東歲南熒惑西太白北辰及中央鎮。所言靈者大戴禮云。陽之精氣曰神陰之精氣曰靈。爾雅云。八方神為八靈。五翳翳於八方故也。是故俗典凡釋神靈變化精微及道性等。不出陰陽。彼教未知出世道故。又大經譬日月又為煙雲塵霧及修羅手因緣故。令諸眾生不能得見。既為煩惱翳之所障。故須對治。睫近霄遠等者。霄者近天赤氣也。雲得日光雖赤色可見。雲無實體而可見也。中論大經大同小異。大經二十六云。有因緣不可見者如空中鳥迹。近不可見者如眼睫。壞不可見者如根敗。亂不可見者如不專一。細不可見者如微塵。障不可見者如雲外月。多不可見者如稻中麻。相似不可見者如豆中豆。中論加遠不可見者如霄。則無根敗。今文意者。由煩惱故故不可見。遠不可見如不見中。近不可見如不見俗。從夫散心來至皆不可見者。舉彼諸惡顯此修定。以為所治。故膜塵等皆是所破。密室中燈除外風也。破內暗也。金錍等者。大經第八如來性品迦葉問佛。云何佛性難見難入。佛言。如百盲人為治眼故造詣良醫。良醫即以金錍決其眼膜。一指示之。問言見不。答言不見。復以二指三指示之。問言見不。答言。少見。合喻云。無量菩薩雖具足行六波羅蜜。乃至十住猶未能見。如來既說則便少見。此乃別教十住故云未見。疏引他釋。一云。三指譬三乘。二云。譬三慧。三云。譬三教。初譬小乘初教為一。般若至法華為一。涅槃為一。四云。信順無生為三。章安云。既譬佛信不應餘解。即以三諦而為三指。初指如空觀故云不見。三指如十住故云少見。即圓十住也。金錍如教。故下文云。如是菩薩位階十地尚不了了。今從決膜除惑義邊。故云對治。心若等者。世間是生滅法。出世是不生不滅法。由定能了故云也。亦可世間生滅是界內俗。出世不生不滅是界外真。界內略真界外略俗。內外真俗即三諦也。三諦是理。理即第一義意也。如來成道即第一義意。猶尚樂定。入定復是第一義意。況諸凡夫。凡夫理合修第一義。佛示凡故。故諸經中多處有文明佛入定。有禪定者等者。電光者如第九卷釋。見道即是第一義意也。雖成論中本譬欲定今通用之。凡初見諦理皆名電光皆名見道。破無數等者。意以一切種智為第一義。破惡之言因便來耳。其人若言下信行約觀四悉。前雙問故今但出答。我聞等者斥法行也。三惡等者舉世間苦況出世苦。燒然是地獄。駝驢是畜生。如是等苦苦有期限。癡暗無明障三諦苦。終至實報故云大苦。方隅可譬權實理也。四方曰方四維曰隅。隅如權方如實。爾雅曰。西北隅謂之屋漏。東北隅謂之宧。宧音怡。郭云。未詳。麻杲云。養養萬物也。東南隅謂之突烏釣切。西南隅謂之隩。謂屋中隱隩之處。亦可以生滅四諦如隅。無生四諦如方。界外兩教方隅亦然。多聞分別等者。據此四句皆以樂為名。初句云多聞等者。樂即樂欲聞即信行可對世界。攻惡等言相從來耳。若盡一偈文意四悉義足。四句次第以對四悉可見。如教至道非道者。四種道品名之為道。分段變易名為非道。界內以三途為坑坎。界外以分段為坑坎。若作陷字(戶懺切)非今所用。分別苦樂道非道等間隔不同。即世界意。月開等者。青蓮華因月而開。赤蓮華因日而開。有人云。白蓮華因日。並取開生。是為人義。大經第九云。譬如蓮華為日所照無不開敷。日興等者。大經第九云。譬如營作至暗皆息。若未成就要待日明。義同於月。主膠火導並譬於觀。商畫坯盲並譬於行。行即善也。從勝別舉一切種智亦推於觀。種智即是善中之最故也。自餘諸善但是莊嚴觀耳。怨即是惡。識即能治觀也。武將有謀者。如秦將王剪。魏將吳起廉頗。李牧張良樊噲之徒。善破陣故。以譬破惡。並須委釋破三惑惡。次雲熱火暗並譬所破之惡。薪縛例之可以意得。井中七寶等者。大經十九。佛告德王。如暗室中井種種七寶。人亦知之暗故不見。有善方便然大明燈持往照了悉得見之。是人終不念言是水及寶本無今有。涅槃亦爾。不可說言本無今有。瓶盆亦爾。今云日明者。舉明中之盛。眾生如井佛性如寶。眾生如室佛性如瓶。並以無明如暗燈日如智日照如見。今此文中以日替燈。須以智慧去。般若偈文。能見於寶及觀法實。即第一義意也。等觀入者至第一義故名為入。知諸法實及等觀入。般若為最。故須用觀入第一義。默復默者明思不移。損之又損之等者。周易云。以至於無損。肇公改用。今且依肇。以真理極名為無損。煩惱損盡亦名無損。斥信行聞屬有為故。坐馳等者。莊周貴坐亡故云馳無益。今借彼意忘聞觀理。隨文曰馳。思理之外餘皆曰馳。又外篇云。敬孝易愛孝難。愛孝易亡親難。亡親易使親亡我難。使親亡我易兼亡天下難。兼亡天下易使天下亡我難。注云恣之使天下自得。安得不亡我耶。以是而言。秖是莊生無亡他之智。反斥他不亡。而令天下亡己。注家云恣未足釋亡。今之天下可由不恣。恣若是亡何曾不亡。而展轉比云最後難耶。故知汝之所恣非他之亡。他之所亡何關汝恣。是則坐亡有言無行。今借語成理依理曰亡。當為下諸句皆須知。是諸法是止。隨四悉意。話(戶夬切)何法不備下止具十度。一一度中一切法足。善雖無量不出此十故是生善中最。前六可見。因止等者。止為雙非之方便故。故云也。止中具諸願亦遂眾生願。是故云一切。有除惑功故名為力。此是中智故云無二。止具一切即總結也。且約當機故云何用別修。壁定者。室有四壁則八風不入。若得止已離界內外違順惡覺。八風秖是四違四順。書中八風者。爾雅曰。南為凱風東為谷風。北為涼風西為泰風。從上下為頹風。從下上為飈風。與火俱為庉風。庉字(徒昆切)迴轉為旋風。室壁亦免此之八風。故以為喻。亦是四方四維之八風也。朝露見陽者。露如散陽如止也。晞乾也如定。止是大慈等者。慈定治瞋。大明呪如釋籤。大明呪是般若故。能除惡覺貪婬恚怒癡疑朝露之惡。止即是佛等者。念佛治障道。今修於止如法佛故。治障妙道。阿伽陀及妙良藥。并呪枯起死之術等。並舉能治之止。止即體真等者。用彼釋名中次第之名。以成不思議理。止是佛母等者。實母權父共生佛子。父母相即準上可知。即淨名經意。理體寂照是佛師也。止是佛身即法應二身也。亦可三身具足。因名止果名眼。定慧能嚴今止屬定。故名相好。具一切法故名為藏。為諸法依故名住處。何法不具牒前便宜。何法不除牒前對治。乃是見理故惡滅善生。正覺等者。在因名觀在果名覺。正大遍等。借用果上之稱。能生等者。信戒等五即五分法身。既能生於五分即生善中最。化道大行者。即應病授藥也。能照道者亦取破暗之意。能得寶者除貧苦之惡。但當勤觀開示悟入等者。此四皆是無生觀也。具如疏中約觀心釋故第一義也。次明迴轉者。先序二論中言始終者。二論並以始鈍終利。今言須臾故不同彼。次明自行則止觀並說。亦先標二行。教他以說法為本。故先信後法。自行多在於思惟。故先法後信。前教他中十六番各屬一人。故止觀離明。今自行中並在一人。故止觀合明。又前非不合今非不離(云云)。次樂寂下正釋法行。於四悉中各一止一觀。樂欲中初是止。若欲下觀。並依世界以赴樂欲。以在初故未論過生。故但直舉一止一觀。次其心下明為人等三。皆先明因前生過次用止觀。初文是因世界中用觀生過。過謂毫善不生。次即當下用止。若凝停下因止生過。次當校計下用觀。若念念下對治中一止一觀。初文是因為人中用觀生過。過謂長惡。即當下以止治之。次若靜下用止生過。即當下用觀治之。修止下次第一義中一止一觀。初文雖上治中用止用觀理不開發。初文用止不開。即是過也。本為見理理既不發。故名為過。次即應下用觀令開。次修觀下過生。次宜更下用止令開。信行下。次信行中四悉各一止一觀。初樂欲中亦如前意。但直赴樂欲。明一止一觀。聽觀下次為人中一止一觀。先明生過等。初文生過。即應下聽止令益。或聽下生過。即應下聽觀令益。或時下對治中一止一觀。初聽觀生過。即應下聽止治之。或沈下聽止生過。即當下聽觀治之。或聽下第一義中一止一觀。不語生過。直云豁豁朗朗得益之相。前之三悉如世醫治。此第一義如如來治。故不生過。次迴轉。可見復次下相資先標來意。如法行下正示相資之相。若法多信少名信資法。若信多法少名法資信。亦曰正助。初明信資法。既云相資乃是信法二行俱有益也。初止中四悉。言法行者。既信資法。以法為正從法行立名。故云如法行者。初總明信以為能資。冠下四悉。若具廣說應一一悉上皆云隨聞一句乃至皆遣。為避煩文故標初一句。還坐下法行樂欲。次下有三箇又聞。即法行中為人等三。又聞下觀中四悉。信資於法即初二悉有聞觀之言。下二悉略例止可知。破惡即對治。欲悟即第一義問。何不云悟而云欲悟耶。答。此四悉中第一義者。何必證理名第一義。但取非前三悉之相。附理氣分即屬第一義故。前文但云豁豁朗朗等耳。此乃下結信資法。信行下法資信。比前法行可以意知。是為下結法資信。夫心地下結安心意。以總安中唯止唯觀。今以四悉等故云逐願加以飲食丸散陰陽三雙譬之。一一雙中皆遍前意。合成四悉意也。隨其所願樂欲也。飲食生善也。丸散對治也。陰陽云見性即第一義也。一種下明偏修之失。故知二師非但止觀偏用。亦乃並無信法等中一止一觀故也。二師引偈並未見正典。各隨一門得入。以自行所稟未遇通途。便以偏門遍令他學。致令學者彼彼相非。若爾。則人天之善尚無。安剋至真之妙。故引大經一向服乳。經第三中佛告迦葉。譬如長者(佛也)多有諸牛(教也)。色雖種種(隨機)同共一群(理一)。付放牧人(弘教)令逐水草(被機)。唯為醍醐(常住)不求乳酪(人天二乘)。時放牧人𤚲已自食(弘者自益)。長者命終(佛滅)所有諸牛悉為群賊之所抄掠(盜佛教法)。賊得牛已無有婦女(無慈)。𤚲已自食(利養)群賊相謂。長者畜牛唯為醍醐不求乳酪。當設何計而得之耶(欽慕)我等無器(非根)雖復得乳無安置處(設復持戒非常住本)復共相謂唯有皮囊可以盛之。(人天陰果)雖有盛處不知鑽搖。漿猶難得況復酪酥(無定慧方便名不知鑽搖。似道尚無況復真常)爾時群賊為醍醐故加之以水(起見)以水多故一切皆失(起見墮惡失人天果)今此二師偏執大理寂照定慧。義當群賊不知鑽搖等。佛何故說種種耶者。引諸四悉重斥偏迷。若就下更歷三種止觀以結前數。言若就者別立之辭。文雖唯頓若更別約次第三觀。則一一各有百二十八。故著若就之言。次第三合故立一心。依前重舉故云又耳。人見三番之後更云一心。便謂頓等三止觀外。更立一心。謂此一心不關前頓。今安心者依前妙境及前妙願。故前文云須行填願。則願行相稱。故向安心若總若別。並是圓頓填圓頓願。更開對於次第三觀。一一觀中皆具前來一百二十八。對本一心乃成四番一百二十八。合五百一十二。人不見之妄生穿鑿。況復空假中三。不異頓漸不定之三。故前不思議未會異名中所發為三觀。觀成為三智。教他為三語。歸宗為三趣。三趣即是頓等三也。以一部文共成一意。尚恐疎漏。豈有潛於結數之中秖云一心即令妙行成之於此。此則上下諸文便為繁芿。具如卷初及第四第三中撮說文旨。不見此意自失安心。自安既無。教他何在。應從初已來鉤鎖相承橫竪高濬。前後冠帶方成行儀。豈有輒爾立斯異計。如破遍中一一句見。一一品思。塵沙無明皆云信法相資迴轉。即是見品思品無知無明。各六十四番。橫竪不二即是一心。故自他相對亦各須有一百二十八。此云五百一十二番者。且從合說隨諦言之。若作相顯說者。即以次第顯不次第。具如前後諸文料簡。又何但約於不次第義。後立三箇一百二十八。秖約不可思議一中之三。以為三番。三中之一而為一心。三一共論亦有五百一十二也。問。圓人那得三觀別論。有此信法相資等別。答。如後第六云多入空少入假中等。既許偏入亦可偏觀。又破遍初。無生為首無生即空。空門既爾餘門亦然。隨宜乃成七句不同。尚成七番一百二十八。何啻三耶。故知自他皆有七句。若次第觀唯得為三。三悉下判前四悉。雖復五百一十二番。但語信法。或以止觀無不攝盡。為判權實須約四悉。所言世醫等者。借大論中文以成今意。故但屬世諦判為世醫。如世界後復須生善。善若不生復須破惡。惡去不去皆須見理。故云三悉差已更生。至第一義縱未無生。於斯必契。故云差已更不復發。況復結云世出世法互相成顯。故一一行皆歷四悉。雖行三悉必須見理。若入第一義見理未深。還須更以三悉成之。況復三悉本為期於第一義故。故云相顯。況開權顯實次第四悉。尚皆入於不次第四。況此本是不思議悉四中之三。況不思議中三皆第一義。若離下重示前妙境。為所安處。止觀四悉但是能安之方法耳。若心安下釋疑。疑云。為一一行者。必須如前諸句安耶。故今釋曰。若心安於諦一句即足。如前總安但安法性。如其不安則置總用別。別中或唯一悉即足。以觀世界即第一義故。或用二句乃至多句。乃至具用六十四番。乃至用多六十四番。故云巧用方便令心得安。一目下舉譬也為逗多人或一人初後故須廣設。若隨其得入則不須多。故云得鳥羅之一目。言一目者。乃據最後入法之言。一生行之豈唯一目。是故或一人用多。或多人用一。況一人始末非一可辨。故下合云如為眾多。一人亦爾。羅者。爾雅云。鳥罟曰羅。兔罟曰第。亦曰罝。眾生下合。捕者陸獵也。逐也。四破法遍者。初略明來意中。初徵起設問。即約上不思議境正設問也。故云法性清淨不合不散等。即是境中一念三千離四性計。是故略云不合不散。合謂一念散謂三千。但眾生下答中意者。約不思議理之與惑。不當一異破不破等。隨迷妄故事須設破。眾生無始全體顛倒誰論多少。但曾解境發心安心。心既未安故云少耳。全未破故故復云破。前以定慧處於法性。故名為安。今以準教四句推責不安之心。故名為破。破非不安安非不破。得名隨事心境唯一。上善巧下約上安心對辨破否。若已安於諦定慧已發。彼即是破。何須至今更須論破。次若未下正明破意。由未安故。若未破故今更論破故云若未相應等也。言有定之慧等者。然安心破遍並是絕待。咸具定慧。今據初心欲入未入。隨事調熟用與不同。或宜有慧之定如前安心。或宜有定之慧如今破遍故從行立名名不虛說。又前安中先推法性以多從定。是故云安。今此破中先準教門義多從慧。是故云破。二文兼具法體無遍。故前信法莫非法性止觀故也。今此無生亦由同體止觀故也。然破法下欲明無生破法之門。且先通舉諸門不同。從廣之狹以指無生。故先列經論所出諸門。謂教行智理。文字即是教為門也。大品四十二字大論廣釋。南嶽大師分為二解。一通約三乘。二別約圓頓。今廢通從頓。大品云。菩薩摩訶衍所謂語等字等。諸字入阿字門。阿字門具一切法。乃至荼字盡諸法邊。究竟窮底不終不生。過荼無字可說。不可說不可盡。一切法如虛空。或觀行下明行為門。三昧是行。大論云。菩薩修三三昧名諸三昧門。能通至實相。是故能為實相作門。若十六行為三三昧門。但為真諦作門。非今文意。或智慧下以智慧為門(云云)。或理下以理為門(云云)。依教下且生起前所列教等四門次第。教既居初故今依教。復為令知教有功能。能通至於觀智理等。是教光顯。是故生起。三門下明去取。三藏下教中復簡藏等三教。言三藏先破見等者。若佛弟子必先破見或慧行欣厭。或聞善來等成羅漢者。或佛三十四心等。並俱斷也。通教大同。但俱破之言不在佛耳。別但次第從淺至深故云竪遍。且寄教道故云竪遍。依實但斷一十二品。竪尚未遍況復橫耶。言橫不遍者。如初觀見思具攝諸惑。能觀之智攝一切智。位位皆然故云橫遍。別教不爾故須簡之。今不思議下示圓門相。一境一切境指前不思議境。一心一切心指前發心安心。依此論破故名破遍。餘門下正明簡意正用圓門。所謂下正列圓門。今於圓門復論去取。理雖相即初心從易。及隨便宜多用無生。故於圓門去三存一。無生門下正示無生橫竪破遍攝法功能。於中先略次廣。初中先明竪門者。初標能通光顯二意。何者下釋。通釋二意。先釋到因。淨名下引證也。淨名大品皆以教門通行至因。並以無生為首。故彼淨名三十二菩薩中。初法自在云。生滅為二不生不滅為不二。不生不滅即圓無生。大品四十二字亦無生居首。故今亦然。文列雖以有門居首。依前諸意且用無生。止觀下明止觀能顯。雖有此教必須行顯。故前生起云依教通行。若無教者行無所剋。以有教故令行智門通至於理。初住見理外用自在。令無生門一重光顯。故云縱橫無礙觸處皆通。故生起中云雖無所通。遍通一切。譬如下舉譬也。人謂行人位謂入住。若空有其門教何所被。空有其人行何所稟。稟教行行得至於理。故云有人有位。如人入相門方榮顯。次通果者。初出所通之果即涅槃不生。次定慧俱滿故名不生。智斷俱滿故名不生。故定慧二法至果方滿。大品文者。無生理滿故云不來不去。至佛方名無生故也。法華文意例涅槃可知。止觀下明能顯果。由果滿故。自他依正一切俱滿。巍巍等者。巍巍高出貌。堂堂者爾雅云。堂堂容也。白虎通云。堂堂明也。如月高明即是果智。諸明中最如月在星。灌頂經云。巍巍堂堂如星之月。銷除生死之雲。今明果滿能益他也。照十寶山等者。華嚴二十一云。佛子。菩薩十地因於佛智而有差別。如因大地有十寶山。謂雪香軻黎羅仙聖由乾陀。馬耳尼民陀斫迦羅宿慧。并及須彌山。一一皆云王雪集一切藥。香集一切香。軻黎羅集華。仙聖集五通。由乾陀藥叉。馬耳集妙果。尼民陀集龍。斫迦羅自在。宿慧集修羅。須彌集諸天。言自在者。謂諸大力。即以十山所集功能。對於十地。初地已上心證佛智階降不同。唯佛能知。此地亦爾。故云因於佛智而有十地。今文用喻與經稍別。經以十山譬於十地。十山依地地喻智果。今亦以十山喻於十地。月喻佛智。下照十山譬佛果智起於諸地。故合喻云。功高十地。影臨四海喻起應也。果亦下合也。汲引四機者。水如機影如應。四教四門四悉並是垂應設教。金光明經佛禮骨塔者。新譯第十云。爾時世尊為諸大眾說十千天子本緣已。於座上結跏趺坐。告諸比丘。汝等樂見菩薩本身已不。諸比丘言。我等樂見。爾時世尊即以百福莊嚴手按地。即便開裂。有七寶制多忽然踊出。眾寶莊嚴爾時世尊即從座起。作禮右繞還就本座。告阿難言。汝開塔戶。阿難如教開已見七寶函。見有舍利白如珂雪。告諸比丘。汝等禮拜菩薩本身。阿難白佛。如來世尊出過一切。為諸有情之所恭敬。何因緣故禮此身骨。佛告阿難。由此速能證得菩提。為報法恩我今敬禮。因為大眾說薩埵本緣。彼薩埵者即我身是。故知佛地因果由止觀教。雖得佛果敬稟教身。是故佛今而禮身骨。無生下次明橫攝。此即先結前生後。大品下正示橫門。問。前無生竪門。亦見四十二字之初。何故而今乃以字門為橫。答。前於無生一門竪入。故有因果相望淺深。所以名竪。今以二十四字各各相望。已自成橫。又各各攝於四十二字。則一一字中所攝又橫。故知橫竪備攝其中。此亦非橫非竪而論橫竪。此意下欲廣示相釋義功能。故先提起。但云因果橫竪無生意猶難見。是故更須約佛藏等。今此文中釋佛藏義。先事次觀。事釋中先正引經以明外用。次合無生門。言外用者。經上卷云。無名相中假名相說。皆是如來不思議力。譬如有人嚼須彌山飛行虛空。石筏渡海。負四天下及須彌山。蚊脚為梯登至梵宮。劫盡燒時。一唾劫火即滅。一吹世界即成。以藕絲懸須彌山。手接四天下雨。如來所說一切諸法。無相無為無生無滅。令人信解甚為難有。甚為希有。若少有所得與佛法僧諍。入於邪道不聽出家受戒。飲一杯水。當知經明無生外用。以顯妙理因果無生。是則不了一體三寶常住。不聽出家。言不聽者。若不解此戒不具足。此即同前第三卷末勝鬘後解。彼經下內合無生者。吹唾秖是智斷之用。智斷不二故吹唾同時。若有自言得無生者。請驗外用。須識下次明觀心釋佛藏義。觀心即是修智斷因。是故更須約觀心釋。一剎那起名一眾生。即起即滅名為一期。念念之中恒起三毒。即當劫盡三災義也。三毒貪為首。三災火為端。以不思議止觀。觀此三毒(云云)。
○三明安心中、初めに文を釋して名を釋するなり。善く法性を以て自ら其の心を安んず。故に安心と云う。上は深達、下は結前生後。既に自ら妙境に達す、結前の正境深きを明かす。故に淵奧と云う。次に博運去は結前の弘誓廣きを明かす。故に亘蓋、博廣なりと云う。國語に曰く、東西を廣と曰い、南北を運と曰う。即ち橫遍なり。亘も亦た遍なり。境は諸法を攝して橫廣ならざるはなし。理に依りて發心すれば竪深ならざるはなし。且く事理に寄せて名を釋すれば便なり。正境は是れ理、理は深し。慈悲は事に屬し、事は廣し。具に前に說くが如し、故に若此と云う。事理ありと雖も但だ是れ空願なり。須行より下は即ち是れ生後なり。若し安心せずんば克獲する所なし。故に次に正願し而も安心を明かす。初めに妙境の中に一念に無作の四諦を具足す、故に四弘の中に無作の諦に依りて弘誓を發す。今、能安を以て所安に安んず。能所相稱するを名づけて妙行と爲す。既に安心し已りて廣く能く物を利す、初誓を填すなり。衆生を利せんと欲すれば先ず須く惑を斷ず、次誓を填すなり。衆生を利せんと欲すれば復た須く法を習う、第三誓を填すなり。分分に實を證す、第四誓を填すなり。究竟位に至りて四誓方に滿つ。若し爾らば、此れより安心し乃至正助に通じて名づけて願を填すと爲す。若し解ありて行なければ名づけて枉死人と爲す。譬喻經に云うが如し。一母二子の如し。一は善く浮を習い、二は浮を習わず。浮を習わざる者は水に墮ちて死す。其の母哭かず。先に浮を習える者水に墮ちて死す。其の母大いに哭く。人其の故を問う。答えて云う、浮を習える者死するを名づけて枉死と爲す。是の故に哭くのみ。願は浮を習うが如し、行なければ死するが如し。大文に二あり。中に於て先ず總じて安心を明かし、次に別して安心を明かす。總別倶に是れ妙境に依る。人に隨うが故に總別同じからず。惑重く觀微なれば應に須く事に隨うべし。故に使う行相、信の若くは法の若き、四悉迴轉す。人見ざるが故に、便ち別安に於て異計を生ず。則ち大師の宜に逐うの能を失う。初めに總安の中に秖だ是れ止觀なり。中に於て先ず重ねて法體を明かし、以て所安と爲す。法體は何れぞ。即ち妙境なり。先ず法、次に譬。初めに法文の中に但だ無明を指して即ち是れ法性とす。但だ法性を觀じて無明を觀ぜず。故に大論六十九に云う、若し常無常等を以て之を求めば皆錯れり。若し法性に入らば則ち錯れること有ること無し。九十一に云う、法性即是實相、實相秖だ是れ法性なり。寒來より下は體を爲し譬を舉ぐ。寒は無明に譬え、水は法性に譬う。無明、法性を法とするを名づけて寒、水を結ぶと爲す。眠り心を覆うは水水に準ず、水本是れ水、夢心に異ならずと說く。事に寄せて迷を引く、覆と云い結と云う。今當に次に下は能安の止觀を示し、法性に安んず。前に觀ずる無明秖だ是れ法性なり。水を融かして水と爲すが如し、無明の眠を覺す。中に於て先ず止、次に觀。初めに正しく止を用いるを明かす。如旋の下は譬を舉ぐ。但だ其の火を信じて輪を信ぜず。不信の去は合す。法性を以て法性を念ず。文は觀に似たれども但だ止の義を成ず。繫と念とは倶に法性に止まるが故なり。體達の下は止成ずるの相。觀者の下は次に觀を用いるを明かす。譬の下は火空水の三、共に觀に譬う。初めの劫火は劫は前に釋するが如し。三災は略して通釋十境中に說くが如し。虛空藏・海慧、此の二は並びに是れ大集經の中の菩薩なり。彼の經に廣く十方の諸佛諸大菩薩を集めて欲色二界の大空亭中に於てす。故に大集と云う。此の菩薩、衆會に來らんと欲して先ず此の相を現ず。凡そ諸菩薩は皆德より名を立つ。故に眾に入りて相を現ずるも亦た其の德に隨う。是の故に空藏現ずれば空を、海慧現ずれば水を。並びに大眾を見ず、唯だ空水を見る。修觀も亦た爾り、法の外に法なし。介爾の下は觀成ずるの相を明かし并びに二空を結す。亦た先ず法、次に譬、後に合す。初めに法說の中に介爾と言うは、緣妄境に非ず但だ一念を生ず。我、觀成ずと謂うを名づけて介爾と爲す。介は助なり。助とは謂わく微弱の念なり。此の念起る時、念と念者と、念に隨って即ち亡ぶ、名づけて性空と爲す。空にして空相無きを名づけて不可得と爲す。即ち是れ相空なり。所念は謂わく法性。念者は謂わく介爾。此の中に且く觀行を指し未だ眞に入るを論ぜず。前の如きの下は譬を舉ぐ。能所倶に燒くるは以て能を亡じ所を亡ずるに譬うべし。能空も亦た空なるが故なり。法界洞朗の去は合す。不可得も亦た不可得なり。止秖だ是れ下は止觀體一を明かす。即ち不二にして二、寂照殊なること無し。故に止秖だ是れ智と云う。下文の別安の識るべきが爲の故に、今預め辨ず止觀の別相。故に知る此の中に別にして別ならず。下文の別の中に不別にして別なり。不動の下は重ねて相即を釋す。初めに止即ち是れ觀なるを明かす。不動智の下は觀秖だ是れ止なるを明かす。不動智照法性の下は雙べて止觀の同く法性を照すを明かす。止觀法性を得るが故に方に始めて安と名づく。故に觀智得安も亦是れ止安なりと云う。不動於法性の下は更に却って覆釋するなり。上の句は觀安なるが故に止安。此の中は止安なるが故に觀安。並びに法性に由るが故に二無く別無し。故に金光明第一に云う、法身に依りて大智大定あり。法身とは即ち法性なり。智定とは即ち止觀なり。即ち是れ法界繫緣の一念なり。若し倶に安んぜずんば下は別安を明かさんと欲し、先ず別の意を序す。倶とは止觀なり。倶に安を得ざれば則ち總じて其の宜に非ず。法性を以て自ら其の心を安んずと雖も、彌々暗散を增す。既に倶に安んぜずば當に復た云何せん、問う生後別を。夫れ心神の下は別安を明かさんと欲し、先ず不定の相を辨じ、別安の由と爲す。冥昧とは是れ觀の安ぜざるなり。梭利とは是れ止の安ぜざるなり。梭の字は應に𫐩に作すべし。疾なり。息和反。汩は筆反。去る貌。亦た疾、亦た流の急なるなり。字は曰に從う、于月反。若し日に從えば是れ亡の的反。此の音は即ち是れ屈原の沈める所の水なり。今の用うる所に非ず。儵は駛なり。亦た驚なり。亦可く倐に作すべし。楚辭に云う、往來速疾なり。敵強の下は事を引いて以て不安の相を況す。須く事安すべきを明かす。禮に云う、天文を知るは鳥なり、說文に云う、水鳥は能く天雨を知る。暗散は敵強きが如し、觀微は力弱きが如し。事は六國の時に在り。六國とは韓・齊・楚・魏・燕・趙。并びに秦を以て七雄と爲す。趙將、燕を伐たんとす。蘇代、燕の爲に趙王を說きて曰く、今者、臣、外より來るに小水に遇う。蚌方に出でて暴し、而も鷸其の肉を啄む。蚌合して而も其の啄を夾む。鷸曰く、今日雨ふらず明日雨ふらざれば必ず蚌の脯を見ん。蚌も亦た鷸に謂いて曰く、今日出でず明日出でざれば必ず死鷸を見ん。兩者捨てず、漁次得て而も之を併擒す。今、趙且に燕を伐たんとし、燕趙相支えて以て其の眾を弊らさん。臣、強秦の漁父と爲るを恐る。故に願わくは大王熟計せられんことを。趙王乃ち止む。春秋後語に出づ。今の文は但だ相扼するの義邊を取るのみ。強秦の便を得るの意は用いず。凡そ俗書を用うるは皆少分を取る、其の意を全うせず。總じて止觀を修して而も其の宜に非ざれば但だ暗散を增すのみ。常に暗散と相扼すべからず。應に別安を以て誓い其の暗散を破すべし。蘇、趙を說くが如し。當に殉命等とは、總じて事安の儀を示す。生を以て死に從うを殉と曰う。魏の時に人あり周王の塚を發き、殉葬の女子を得たるが如し。今、生を以て死に從い、精進を捨てず。薦は獻なり。肌は皮なり。假使皮骨銷盡し盡命に道を奉じ、專ら止觀を修し誓って死するまで休まず、志を堅くして別安し以て品に入らしむ。故に誓巧と云う。乃至入位とは初住を謂う。安心の下は正しく別安を明かす。乃ち是れ總に望みて別と名づく。以て次第の別と爲すべからず。若し下文に望みて結會數中には、別は仍お總と成る。總は即ち是れ圓、下の一心即ち此の圓を指すなり。法性に於て信法及び四悉檀の迴轉相資を分つが故に別。還って總中の一止一觀を用いて法に對し信に對す。自他並びに然り。中に於て先ず教他を明かす。菩薩は懷を運らすに利他を本と爲す。故に先ず他、後に自。聖師の三力とは、中道の空慧を名づけて慧眼と爲す。慧眼の機を鑒るを名づけて法眼と爲す。任運に藥を逗するを名づけて化道と爲す。此れは是れ不思議の三力なり。故に一眼を以て二の名を分つ。毱多の下次に毱多の弟子を化するの相を引き、以て聖師を證す。毱多は羅漢の位に在りと雖も、既に付法の聖師の類に在るが故に、知る即ち是れ四依の人なり。弟子に樹の上を教うるは第四卷の引くが如し。食を以て悟る者、一比丘あり性、飲食を嗜む。此の嗜欲に由るが故に聖果を得ず。毱多、請じて房に就かしめ香乳麋を以て之に與う。語言く、冷を待ちて食うべし。比丘、口に吹き尋いで冷ゆ。尊者に白して曰く、麋已に冷ゆと。尊者曰く、麋は冷ゆと雖も汝の欲火熱なり。應に觀水を以て汝の心火を滅すべし。復た空器を以て食を吐き出さしむ。還って食わしむ。比丘曰く、涎唾已に合ず。云何が食うべけん。尊者語りて云う、一切の飲食も此れと同じ、汝觀察せず妄に貪著を生ず。汝今當に食不淨想を觀ずべし。即ち爲に法を說き阿羅漢を得。應に訶責を以て等とは、像とは似なり。文選海賦に云う、倣像其の色。毱多の現ずるは女人に似るが故なり。多弟子の中に一比丘あり信心出家し、四禪を獲得し四果と謂う。毱多方便して他處に往かしむ。路に於て化作して群賊と爲し復た化作して五百の賈客と爲す。賊、賈客を劫ち殺害狼藉す。比丘怖を生じ即便ち自念す、我れ羅漢に非ず、應に是れ第三果ならんと。賈客亡びし後、長者女あり比丘に語りて言う、唯だ願わくは大德、我と共に去りたまえと。比丘答えて言う、佛、我を許して女人と行くことを許さず。女言う、我、大德を望みて其の後に隨わんと。比丘憐憫し相望みて行く。尊者次復た變作して大河と爲す。女人言う、大德、共に我と渡るべし。比丘は下に在り、女は上流に在り。女人便ち水に墮つ。白して言う、大德、我を濟きたまえと。爾の時、比丘手を以て接え出だす。細滑の想を生じ愛欲の心を起す。即便ち自ら知る阿那含に非ずと。此の女人に於て極めて愛著を生じ、將いでて屏處に向い共に交通せんと欲す。方に是れ師と見て大いに慚愧を生じ頭を低れて立ちぬ。尊者語言く、汝昔自ら是れ阿羅漢と謂う。云何が此の如き惡事を爲さんと欲するや。將いでて僧中に至り其の懺悔を教う。爲に法要を說き阿羅漢を得。故に知る聖教を習う者は薄く次位を知る。縱い逾濫を生ずるも亦た開解し易し。曾て聞く、人あり自ら成佛と謂えり。天を待ちて曉けず、魔障と謂う。曉けて已り梵王の請說を見ず。自ら知る佛に非ず。仍お便ち自ら是れ阿羅漢と謂う。他人罵れば之に心に異念を生じ、自ら知る是れ阿羅漢に非ざることを。仍お謂う是れ第三果なりと。女を見て欲を起し知る聖人に非ざることを。此れも亦た良に教相を知るに由るが故に、不待・不過とは、未熟にして化するに非ざるを不待時と名づく。機熟して化せざるに非ざるを不過時と名づく。故に金光明第一に化身を釋して云う、自在力以て眾生の心行に隨い、眾生界の多種了別に隨い、不待時不過時、處相應時相應行相應說法相應、現身して而も度す。今但だ兩句を引く。經意を攝して盡くす。故に知る聖師の位は初住に在り。初住は法身の本を得。能く應化を起すなり。盲龜の下は聖師の遇い難きを譬う。大海の中に一の盲龜あり。爾の時、海中に復た浮木あり。木に唯一の孔あり龜身を立つべし。此の龜三千年にして方に一出を得。億百千出、何に由りてか浮木の孔に値うべけん。故に大經第二に云う、世に生れて人と爲ること難し、佛に値い生信すること難し。猶し大海の中の盲龜の浮木に遇うが如し。亦た針鋒を閻浮提に竪つるが如し。一の芥子を以て忉利天より閻浮提に投ず。何に由りてか針鋒の上に貫くことを得べけん。佛の去世の後、四依無きに非ず。眾生薄德にして何に由りてか値うべけん。次に凡師の施化を明かす。聖師に劣る、三力無きが故なり。譬の下は三力ありと雖も而も亦た益なしと譬う。故に凡師の施化を令む。世醫の法の如し。上醫は色を視、中醫は聲を聽き、下醫は脈を診す。猶し聖師の諸眾生の三業の機を觀じ三輪の化を現ずるが如し。色を視るは身業を觀ずるが如し。身を聽くは口業を觀ずるが如し。脈を診るは意業を觀ずるが如し。障重く機無ければ聖師と雖も亦た能く化せず。故に亦能く死を起すこと等と云う。若し解せずんば下は三術無くとも或いは亦た益ありを明かす。但だ能く意業を觀ぜずと牒す。但だ餘の兩を觀ず。語に依りて方を作すも亦た得益あり。則ち大師自ら斥けて我は凡師と爲す。眾生既に聖に値うの緣無し。此の凡師に遇うも亦た遇然として得益あり。故に挑脫と云う。即ち大師自ら謙り物を被ること周からざるなり。兼ねて後代に示して化道を廢せざらしむ。皆な病者に問うが故に語に依ると云う。下の諸文の如きは皆な師應に問いて言うべし。及び其人若し言わん等。即ち是れ其の相なり。身子の下は小乘の中の善く法を說する者を舉ぐ。轉法輪將、智慧第一と雖も尚お自ら機に差う。大經三十四に云う、身子目連ありと雖も眞知識に非ず。一闡提の心を生ずる因緣の故に。我れ昔波羅奈に於ける時、舍利弗、二弟子を教う。一に骨觀を令し、一に數息を令す。多年を經歷して皆な定を得ず。是の緣を以ての故に皆な邪見を生じ、無涅槃無漏の法と言う。若し其れ有らば我れ應に之を得べし。我れ能く善く所受の戒を持するが故に。我れ爾の時、是の二人の邪見の心を生ずるを見て、舍利弗を喚びて訶責して云う、云何が乃ち此の二弟子の爲に顛倒に法を說くや。汝の二弟子、其の性各々異なり。一は浣衣を主り、一は金師を主る。金師の子には應に數息を教うべし。浣衣の子には應に骨觀を教うべし。錯りて教うるを以て邪見を生ぜしむ。我れ即ち其の爲に如應に法を說く。二人聞き已りて倶に羅漢を得。是の故に我れ眾生の眞善知識と爲る。莊嚴論に云う、浣衣は漸く淨く白くして骨の如し。能く鞴囊を調え善く息を知る。凡夫具縛の者とは、若し通論すれば六根五品皆な凡師に屬す。未だ無明を破らざれば通じて皆な具縛なり。若し別論すれば五品位なり。六根清淨にして二縛を離るるが故に相似の聖師なり。第一卷の料簡文中に準ずれば、通じて六根を取り以て凡師と爲す。前に聖師を指して初住に在るが故に、六根尚お稱して病導師と爲す。況んや三藏の菩薩一切未だ斷ぜざるをや。次に結示す。文の如し。他有の下は行を判ず。薩婆多の下は泛く二論を引き以て同異を出す。論意を用いるに非ず。彼れ小宗に在りて各々一門に依る。未だ通方遍被の道と爲さず。毘曇十五に云うが如し、鈍を信行と名づけ利を法行と名づく。信行は觀察少なきが故。法行は觀察多きが故。薩婆多と同じ。彼れ但だ位を判じて見道に在りとす。觀察少なき者は正に因門に當る。今、曇無德を引けば兩行倶に在世第一の前に在り。故に方便と云う。然るに數の下は從容和通す。數は行成に據るが故に見道に在り。論は根性に據るが故に方便に在り。若し多論に云わく所因不同とは、即ち今家の一向根性に似たり。德宗多少不同とは、即ち今家の相資根性に似たり。是の故に會するが爲に而も復た兩存す。又阿毘曇使楗度中に云う、堅信人あり如許の慧あり。堅法人あり如許の信あり。何の故に一人は但だ堅信と名づけ、一人は但だ堅法と名づくるや。答う、各々所因に隨い勝に從りて名を立つ、互いに有ること無しとせず。此れも亦た相資の意に似たり。毘曇又云う、定入を名づけて信と爲し慧入を名づけて法と爲す。若し初文に據れば定慧並びに内思を以て法と爲す。定慧を聞く者之を名づけて信と爲す。是の故に今文に止觀各々信法二行を立つ。今師の下は正しく今師の二行の相を明かす。則ち久因を以て現の種子と爲す。現有を明かすは必ず久因に藉る。久因は德宗の方便に異なり。現在も亦た多論の行成に異なり。是の故に今家は但だ宿種に由るが故に現に觀を修め及び以て法を聞くに堪うるを論ず。今を驗し昔を知り二行の名を得。大經二十に云う、如し呪術あり若し一たび聞かば、後二十年毒藥に中らざるが如し。若し誦持あらば乃至命終に病あること無けん。是大乘法も亦復是の如し。若し眾生あり一たび耳に經れば、却後七劫惡道に墮せず。其の義を思惟すれば必ず菩提を得、淨く佛性を見ん。經耳は即ち是れ信行の種なり。思惟は即ち是れ法行の種なり。法華に云う、若し聞き解し思惟修習せん。又大經に云う、一は正法を聽聞し、二は其の義を思惟す。經論此の類は並びに是れ久遠の信法の種なり。若し論の下は今家の利鈍を判ず。更互に名を得ることは兩論の一向に判ずるに同じからず。已說の下は結前生後。師應に下は法を說かんと欲するに先ず根性を審にす。定は秖だ是れ止。慧は秖だ是れ觀。汝此の二に於て志しくは聞を爲すか、志しくは思を爲すか。其人に下は彼の根性の所尚の相を述す。既知の下は既に根性病相定まり已りて、一人の所に於て語に依りて方を作す。止觀各々四、故に旦く八と爲す。一一の文の中に各々三意あり。一に法相を示し、二に廣を指し、三に結成悉檀。初めの文の初めの意。咄男子の下は正しく爲に法を說く。說法の相は隨有に相應ず。即便ち引用す、或いは儒、或いは小、或いは偏、或いは漸。言近く意遠し。且く圓教圓觀を助成す。四悉信法止觀の相。後來の者の爲に化他說法の式を作す。乃至據の下は結文。一一の文に於て次と不次あり。意は且く圓に在り。文の中に所列の四教及び似次第三觀の語は、意は聞きて咸く歡喜するに在り。是れ善並びに生じ惡破れざる無し。一切の理を見る。故に遍く列ぬるのみ。故に至の下は結文。方に次第を開く。次第は則ち三諦に歷す。不次は唯だ一心に約す。一々の番の中に後を以て前に望むれば皆な四意を成ず。謂わく次第三觀に三あり。一心三觀を一と爲す。一其の意とは、老子に曰く、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧く、侯王は一を得て以て天下の正と爲すと。老の意は但だ陰陽の道を合するを以て、天地の一を得と爲す。君臣の道を合するを侯王の一を得と爲す。今彼の理を廢し但だ彼の名を借りて以て今の理を證す。苦集の一を得とは滅諦を謂う。因緣の一を得とは無明滅すれば則ち行滅ず等を謂う。六蔽の一を得とは彼岸に至るを謂う。凡そ俗典を引くは例皆此の如し。一は是れ三乘の最なり。故に唯此れを快と爲すと云う。快なるが故に其の樂欲に適う。天亢旱の如き等とは、亢も亦た旱なり。萬と百とは並びに小數の極。隨便に互に彰す。卉は是れ草の總名。彼の不生を舉げて欲を顯し降雨を以て生を成ず。生とは即ち生善。娑伽龍とは華嚴の文なり。長含又云う、阿耨達龍王身心降雨して閻浮提に滿つ。今文に四方霔雨と云うは是也。七日と言うは、是れ摩那斯龍王降雨せんと欲する時、先ず七日雲を布き、一切眾生をして諸業を究竟せしめ、漸く微雨を降らし物を損ぜんことを恐るるが故なり。人も亦た是の如しの下は譬に合す。而も七日及び四方に合せず。但だ通途の霔雨の意に合すのみ。河に合し兼ねて池を加え道品樹を加う。既に全く正經に出でず、盈縮時隨う。初めに反ねて善根の不生を合す。若能の下は正しく善根の生ずるに合す。三觀四教に對して之を釋すべし。諸禪を發すは雨の如しとは、禪定若し發すれば、無量の善法一切の法門並びに禪に因りて發す。燸頂等は三藏なり。眼智等は見道の中の位なり。苦法忍を眼と爲し、苦法智を智と爲し、苦比忍を明と爲し、苦比智を覺と爲す。順忍等は通教の中の諸善根なり。外凡を信と爲し內凡を順と爲す。餘文は並びに略す。寂滅無生は是れ別圓の中の善根なり。此等並びに禪靜に因りて生ず。即ち生善の義。緣喻等とは、種種の因緣種種の譬喻。因緣は秖だ是れ廣く今昔を引いて共に此の義を成ず。下の去も例然り。醉象は卷初の釋の如し。穴駝は大論三十三に出づ。第七又引く。亦た無鉤の意と同じ。五翳等とは經論大同なり。成論に云う、譬如し天の日月其の性本と明淨なり。煙雲塵霧等の五翳則ち現ぜず。等とは等しく阿修羅手を取る。爾雅に云う、陰にして風なるを翳と曰う。翳とは障光を謂う。今則ち通じて五を取り皆な能く障ぐ、通じて名づけて翳と爲す。又風動き塵起るを埃と曰う。煙雲霧起るを靄と曰う。靄とは雲等の掩するを謂う。曜靈とは日の名なり。日掩わるるを謂う。亦可く曜は七曜と謂う。七曜圖に云う、日月五星を名づけて七曜と爲す。日は是れ陽精、月は是れ陰精。五星とは東の歲、南の熒惑、西の太白、北の辰及び中央の鎭。靈と言うは大戴禮に云う、陽の精氣を神と曰い陰の精氣を靈と曰う。爾雅に云う、八方の神を八靈と爲す。五翳は八方を翳すが故なり。是の故に俗典の凡そ神靈變化精微及び道性等を釋するは、陰陽を出でず。彼の教未だ出世道を知らざるが故に。又大經に日月を譬う、又煙雲塵霧及び修羅手の因緣の故に、諸眾生をして能く見ることを得ざらしむ。既に煩惱の翳の障とする所と爲るが故に、須く對治すべし。睫近霄遠等とは、霄とは近天の赤氣なり。雲日光を得て赤色可見と雖も、雲に實體無くして而も見るべし。中論大經大同小異なり。大經二十六に云う、因緣ありて不可見とは空中の鳥迹の如し。近くして不可見とは眼睫の如し。壞して不可見とは根敗の如し。亂れて不可見とは不專一の如し。細くして不可見とは微塵の如し。障ありて不可見とは雲外の月の如し。多にして不可見とは稻中の麻の如し。相似にして不可見とは豆中の豆の如し。中論に遠くして不可見とは霄の如しを加う。則ち根敗無し。今文の意は、煩惱に由るが故に故に不可見。遠くして不可見とは中を見ざるが如し。近くして不可見とは俗を見ざるが如し。夫れ散心より來至るまで皆な不可見とは、彼の諸惡を舉げて此の修定を顯す。以て所治と爲す。故に膜塵等は皆是れ所破なり。密室の中の燈は外風を除く、內暗を破るなり。金錍等とは、大經第八如來性品に迦葉佛に問う、云何が佛性は難見難入なるやと。佛言く、百盲の人眼を治せんが爲の故に良醫に造詣するが如し。良醫即ち金錍を以て其の眼膜を決す。一指を以て之を示し、問いて言う、見るや不やと。答えて言う、見ずと。復た二指三指を以て之を示し、問いて言う、見るや不やと。答えて言う、少し見ると。合喻に云う、無量の菩薩は六波羅蜜を行ずることを具足すと雖も、乃至十住も猶お未だ能く見ず。如來既に說きたまえば則ち便ち少し見る。此れは乃ち別教の十住、故に未だ見ずと云う。疏に他釋を引く。一に云う、三指は三乘に譬う。二に云う、三慧に譬う。三に云う、三教に譬う。初めに小乘の初教を一と譬え、般若より法華に至るまでを一と爲し、涅槃を一と爲す。四に云う、信順無生を三と爲す。章安云く、既に佛信に譬う、餘解に應ずべからず。即ち三諦を以て三指と爲す。初めの指は空觀の如きが故に不見と云う。三指は十住の如きが故に少見と云う。即ち圓の十住なり。金錍は教の如し。故に下文に云う、是の如きの菩薩は位階十地尚お了了ならずと。今、決膜除惑の義邊に從うが故に對治と云う。心若し等とは、世間は是れ生滅法。出世は是れ不生不滅法。定に由りて能く了ずるが故に云うなり。亦可く世間生滅は是れ界內の俗、出世不生不滅は是れ界外の眞。界內は眞を略し界外は俗を略す。內外の眞俗は即ち三諦なり。三諦は是れ理。理は即ち第一義意なり。如來成道は即ち第一義意。猶お尚お定を樂しまれき。入定は復た是れ第一義意。況んや諸凡夫をや。凡夫は理、合に第一義を修むべし。佛は凡を示すが故に。故に諸經中に多く處ありて佛の入定を明かす。有禪定者の等とは、電光は第九卷の釋の如し。見道は即ち是れ第一義意なり。成論の中に本と欲定に譬うと雖も今通じて之を用う。凡そ初めて諦理を見るを皆な電光と名づけ皆な見道と名づく。破無數等とは、意は一切種智を以て第一義と爲す。破惡の言は因便來れるのみ。其人若し言の下は信行は觀に約するの四悉なり。前に雙べて問うが故に今但だ答を出だす。我聞等とは法行を斥すなり。三惡等とは世間の苦を舉げて出世の苦を況す。燒然は是れ地獄。駝驢は是れ畜生。是の如き等の苦苦は期あり。癡暗無明は三諦を障ぐるの苦。終に實報に至る、故に大苦と云う。方隅は權實の理に譬うべし。四方を方と曰い四維を隅と曰う。隅は權の如し、方は實の如し。爾雅に曰く、西北隅を之れ屋漏と謂う。東北隅を之れと謂う。の音は怡。郭云く、未だ詳らかならず。麻杲云く、萬物を養養すと。東南隅を之れ突と謂う、烏釣切。西南隅を之れ隩と謂う。屋中隱隩の處を謂う。亦た生滅四諦を以て隅の如く、無生四諦を方の如しとすべし。界外の兩教も方隅も亦た然り。多聞分別等とは、此れに據れば四句皆な樂を以て名と爲す。初めの句に多聞等と云うは、樂は即ち樂欲、聞は即ち信行、世界に對すべし。攻惡等の言は相從りて來れるのみ。若し一偈を盡せば文意四悉の義足る。四句次第に四悉に對して見るべし。如教至道非道者とは、四種の道品を之れを道と名づく。分段變易を之れを非道と名づく。界內は三途を以て坑坎と爲し、界外は分段を以て坑坎と爲す。若し陷字を作さば(戶懺切)今の用うる所に非ず。苦樂道非道等を分別し間隔不同なるは、即ち世界の意。月開等とは、青蓮華は月に因りて開く。赤蓮華は日に因りて開く。人あり云う、白蓮華は日に因ると。並びに開生を取る。是れを人義と爲す。大經第九に云う、譬如し蓮華は日の照す所と爲りて開敷せざるは無し。日興等とは、大經第九に云う、譬如し營作は至暗に皆な息む。若し未だ成ぜざれば要ず日明を待つ。義は月と同じ。主膠火導は並びに觀に譬う。商畫坯盲は並びに行に譬う。行は即ち善なり。勝より別に舉ぐ一切種智も亦た觀に推す。種智は即ち是れ善中の最もなるが故なり。自餘の諸善は但だ是れ莊嚴の觀のみ。怨は即ち是れ惡。識は即ち能治の觀なり。武將に謀あるとは、秦將の王剪の如し。魏將の吳起廉頗。李牧張良樊噲の徒。善く陣を破るが故に、以て破惡に譬う。並びに須く委釋す破三惑の惡。次に雲熱火暗は並びに所破の惡に譬う。薪縛も例として之を意得べし。井中の七寶等とは、大經十九。佛、德王に告ぐ。暗室の中の井に種種の七寶あるが如し。人も亦た之を知るも暗の故に見ず。善方便ありて然も大明燈をてらして持ち往き照了すれば悉く之を見ることを得。是の人終に是の水及び寶は本無にして今有りと念言せじ。涅槃も亦爾り。本無にして今有りと言うべからず。瓶盆も亦爾り。今、日明と云うは、明の中の盛なるを舉ぐ。眾生は井の如し、佛性は寶の如し。眾生は室の如し、佛性は瓶の如し。並びに無明を以て暗の如しとし、燈日を智日の如しとし、照を見の如しとす。今此の文の中に日を以て燈に替う。須く智慧を以て去るべし。般若偈文。能く寶を見及び觀法實。即ち第一義意なり。等觀入とは第一義に至るが故に名づけて入と爲す。諸法の實を知り及び等觀入。般若を最と爲す。故に須く觀を用いて第一義に入るべし。默復默とは思の移らざるを明かす。損之又損之等とは、周易に云う、以て無損に至ると。肇公改めて用う。今且く肇に依る。真理の極なるを以て名づけて無損と爲す。煩惱損し盡くるも亦た無損と名づく。信行の聞を斥けて有爲に屬するが故に。坐馳等とは、莊周は坐亡を貴ぶが故に馳は益無しと云う。今彼の意を借りて聞を忘れ理を觀ず。文に隨うを馳と曰う。理を思うの外、餘は皆な馳と曰う。又外篇に云う、敬孝は易く愛孝は難し。愛孝は易く亡親は難し。亡親は易く親をして我を亡じしむるは難し。親をして我を亡じしむるは易く兼ねて天下を亡ずるは難し。兼ねて天下を亡ずるは易く天下をして我を亡じしむるは難し。注に云う、之を恣にし天下をして自得せしめん。安んぞ我を亡ぜざるを得んや。是を以て言えば、秖だ是れ莊生に他を亡ずるの智無きのみ。反ねて他を斥けて亡ぜずして、天下をして己を亡じしむ。注家云く、恣は未だ亡を釋するに足らず。今の天下は可由く恣にせざるべし。恣、若し是れ亡ならば何ぞ曾て亡ぜざらん。而も展轉比して云う最後に難しと耶。故に知る汝の恣にする所は他の亡に非ず。他の亡ずる所は何ぞ汝の恣に関らん。是の則ち坐亡に言ありて行なし。今語を借りて理を成じ理に依りて亡と曰う。當に下の諸句の爲に皆な知るべし。是の諸法は是れ止。四悉の意に隨う。話(戶夬切)何の法か備わらざる、下は止に十度を具す。一一の度の中に一切の法足る。善は無量と雖も此の十を出でず、故に是れ生善中の最もなる。前の六は見るべし。因止等とは、止は雙非の方便と爲るが故に。故に云うなり。止の中に諸願を具す、亦た眾生の願を遂ぐ。是の故に一切と云う。除惑の功あるが故に名づけて力と爲す。此れは是れ中智、故に無二と云う。止一切を具すとは即ち總結なり。且く當機に約するが故に何ぞ別修を用いんと云う。壁定とは、室に四壁あれば則ち八風入らず。若し止を得已れば界內外の違順の惡覺を離る。八風は秖だ是れ四違四順。書中の八風とは、爾雅に曰く、南を凱風と爲し東を谷風と爲す。北を涼風と爲し西を泰風と爲す。上下よりするを頹風と爲す。下上よりするを飈風と爲す。火と倶なるを庉風と爲す。庉の字(徒昆切)迴轉するを旋風と爲す。室壁も亦た此の八風を免る。故に以て喻と爲す。亦是れ四方四維の八風なり。朝露見陽とは、露は散の如し、陽は止の如し。晞は乾くなり、定の如し。止是大慈等とは、慈定は瞋を治す。大明呪は釋籤の如し。大明呪は是れ般若、故に能く惡覺貪婬恚怒癡疑朝露の惡を除く。止即是佛等とは、念佛は障道を治す。今止を修むるは法佛の如し、故に障を治する妙道なり。阿伽陀及び妙良藥、并びに呪して枯れたるを起し死せるを起こすの術等。並びに能治の止を舉ぐ。止即體真等とは、彼の釋名の中の次第の名を用いて、以て不思議理を成ず。止是佛母等とは、實母權父共に佛子を生ず。父母相即は上に準じて知るべし。即ち淨名經の意。理體寂照は是れ佛師なり。止是佛身とは即ち法應の二身なり。亦可く三身具足すべし。因を名づけて止とし果を名づけて眼とす。定慧能く嚴む、今止は定に屬す。故に名づけて相好と爲す。一切法を具すが故に名づけて藏と爲す。諸法の依と爲るが故に名づけて住處と爲す。何の法か具せざるは前に便宜を牒す。何の法か除かざるは前に対治を牒す。乃ち是れ理を見るが故に惡滅し善生ず。正覺等とは、因に在りては名づけて觀と爲し果に在りては名づけて覺と爲す。正大遍等。果上の稱を借用す。能生等とは、信戒等の五は即ち五分法身なり。既に能く五分を生ずれば即ち生善中の最もなる。化道大行とは、即ち病に應じて藥を授くるなり。能く道を照すとは亦た破暗の意を取る。能く寶を得とは貧苦の惡を除く。但當に勤めて觀ずべし開示悟入等とは、此の四は皆是れ無生觀なり。具に疏の中の觀心に約する釋の如し、故に第一義なり。次に迴轉を明かすとは、先ず二論を序す。中に言う始終とは、二論並びに始は鈍終は利を以てす。今、須臾と言うが故に彼と同じからず。次に自行を明かすには則ち止觀並びに說く。亦た先ず二行を標す。教他は說法を以て本と爲す。故に先ず信、後に法。自行は多く思惟に在り。故に先ず法、後に信。前の教他の中に十六番各々一人に屬す。故に止觀離れて明かす。今の自行の中には並びに一人に在り。故に止觀合して明かす。又前に非ずんば合せず、今に非ずんば離れず(云云)。次に樂寂の下は正しく法行を釋す。四悉の中に各々一止一觀。樂欲の中に初めは是れ止。若欲の下は觀。並びに世界に依りて以て樂欲に赴く。初めに在るが故に未だ過生を論ぜず。故に但だ直ちに一止一觀を舉ぐ。次に其心の下は為人等の三を明かす。皆な先ず前に因りて過を生ずるを明かし次に止觀を用う。初めの文は是れ世界中に因りて觀を用いて過を生ず。過とは謂わく毫善も生ぜざるなり。次に即當の下は止を用う。若し凝停の下は止に因りて過を生ず。次に當校計の下は觀を用う。若し念念の下は對治中に一止一觀。初めの文は是れ人中に因りて觀を用いて過を生ず。過とは謂わく惡を長ずるなり。即當の下は止を以て之を治す。次に若靜の下は止を用いて過を生ず。即當の下は觀を用いて之を治す。修止の下次は第一義中に一止一觀。初めの文は上に治中に止を用い觀を用うと雖も理開發せず。初めの文は止を用いて開せず。即ち是れ過なり。本と理を見んが爲なり、理既に發せず。故に名づけて過と爲す。次に即應の下は觀を用いて開せしむ。次に修觀の下は過生。次に宜更の下は止を用いて開せしむ。信行の下。次に信行の中に四悉各々一止一觀。初めの樂欲の中も亦た前の意の如し。但だ直ちに樂欲に赴き、一止一觀を明かす。聽觀の下次は人中に一止一觀。先ず生過等を明かす。初めの文は過を生ず。即應の下は止を聽きて益せしむ。或聽の下は過を生ず。即應の下は觀を聽きて益せしむ。或時は下は對治中に一止一觀。初めに觀を聽きて過を生ず。即應の下は止を聽きて之を治す。或沈の下は止を聽きて過を生ず。即當の下は觀を聽きて之を治す。或聽の下は第一義中に一止一觀。生過を語らず。直ちに豁豁朗朗得益の相と云う。前の三悉は世醫の治の如し。此の第一義は如來の治の如し。故に過を生ぜず。次に迴轉。見るべし。復次下は相資、先ず來意を標す。如法行の下は正しく相資の相を示す。若し法多く信少なければ名づけて信、法を資す。若し信多く法少なければ名づけて法、信を資す。亦た正助と曰う。初めに信資法を明かす。既に相資と云うは乃ち是れ信法二行倶に有益なり。初めの止の中に四悉。法行と言うは、既に信、法を資す。法を以て正と爲し法行より名を立つ。故に如法行と云う。初めに總じて信を明かし以て能資と爲す。下の四悉を冠す。若し具に廣說せば應に一一の悉の上に皆な隨聞一句乃至皆遣と云うべし。煩文を避くるが故に初めの一句を標す。還坐の下は法行の樂欲。次に三の又聞あり。即ち法行の中の為人等の三。又聞の下は觀の中の四悉。信、法を資すとは即ち初二の悉に聞觀の言あり。下の二悉は略例、止は知るべし。破惡は即ち對治。欲悟は即ち第一義、問う。何ぞ悟と云わずして欲悟と云うや。答う。此の四悉の中の第一義は、何ぞ必ずしも理を證するを第一義と名づけん。但だ前三悉に非ざるの相を取る。理に附するの氣分は即ち第一義に屬すが故に。前文は但だ豁豁朗朗等と云うのみ。此れは乃ち下は信資法を結す。信行の下は法資信。前の法行に比べば意知すべし。是を下は法資信を結す。夫れ心地の下は安心の意を結す。總安の中に唯だ止唯だ觀。今四悉等を以ての故に逐願と云い、加以飲食丸散陰陽の三雙を以て之に譬う。一一の雙の中に皆な前の意に遍ず。合して四悉の意を成ず。隨其所願は樂欲なり。飲食は生善なり。丸散は對治なり。陰陽は見性と云う、即ち第一義なり。一種の下は偏修の失を明かす。故に知る二師は但だ止觀偏用のみならず。亦た乃ち並びに信法等の中の一止一觀無きが故なり。二師の引く偈は並びに未だ正典を見ず。各々一門に隨って入るを得。自行の稟ずる所未だ通途に遇わず。便ち偏門を以て遍く他に學ばしむ。學者をして彼彼相非せしむ。若し爾らば、則ち人天の善尚お無し。安んぞ至眞の妙を剋せん。故に大經の一向服乳を引く。經第三の中に佛、迦葉に告ぐ。譬えば長者の(佛なり)多に諸牛あり(教なり)。色種種なりと雖も(機に隨う)同じく一群なり(理一なり)。放牧の人に付して(弘教)水草を逐わしむ(機を被る)。唯だ醍醐の爲(常住)にして乳酪を求めず(人天二乘)。時に放牧の人𤚲り已りて自ら食う(弘者自益)。長者命終す(佛滅)。所有の諸牛悉く群賊の抄掠する所と爲る(佛教法を盜む)。賊、牛を得已りて婦女無し(慈無し)。𤚲り已りて自ら食う(利養)群賊相謂して、長者牛を畜うるは唯だ醍醐の爲にして乳酪を求めず。當に何の計を設けてか之を得べきやと(欽慕)。我等器無し(根に非ず)乳を得と雖も安置の處無し(設い復た持戒すとも常住の本に非ず)。復た共に相謂して唯だ皮囊ありて以て之を盛るべしと。(人天陰果)盛るる處ありと雖も鑽搖を知らず。漿猶お得難し、況んや酪酥をや(定慧方便無く名づけて鑽搖を知らずと爲す。似道尚お無し況んや眞常をや)爾の時群賊、醍醐の爲の故に之に水を加う(見を起す)水多きを以ての故に一切皆な失う(見を起して惡に墮し人天の果を失う)。今此の二師は大理寂照定慧に偏執す。義は當に群賊、鑽搖を知らざる等の如し。佛、何の故にか種種を說きたまうやとは、諸の四悉を引き重ねて偏迷を斥す。若し就の下は更に三種の止觀に歷して以て前の數を結す。若し就と言うは別立の辭。文は唯頓なりと雖も若し更に別に次第三觀に約すれば、則ち一一に各々百二十八あり。故に若し就の言を著す。次第三合するが故に一心を立つ。前に依りて重ねて舉ぐるが故に又と云うのみ。人、三番の後に更に一心と云うを見て、便ち頓等三止觀の外に更に一心を立つと謂う。此の一心は前の頓に関らずと謂う。今安心は前の妙境及び前の妙願に依る。故に前文に云う、須く行願を填すべしと。則ち願行相稱す。故に向の安心の總若しくは別は、並びに是れ圓頓、圓頓の願を填す。更に開いて次第三觀に對す。一一の觀の中に皆な前來の一百二十八を具す。本の一心に對すれば乃ち四番一百二十八を成ず。合して五百一十二。人見ざるが故に妄に穿鑿を生ず。況んや空假中の三は、頓漸不定の三に異ならず。故に前の不思議未會異名の中に所發を三觀と爲し、觀成を三智と爲し、教他を三語と爲し、歸宗を三趣と爲す。三趣は即ち是れ頓等の三なり。一部の文を以て共に一意を成す。尚お疎漏を恐る。豈に潛んで結數の中に在りて秖だ一心と云いて即ち妙行を此れに成さしめんや。此れ則ち上下の諸文便ち繁芿と爲らん。具に卷初及び第四第三の中の撮說の文旨の如し。此の意を見ざれば自ら安心を失す。自安既に無ければ、教他何れの處にか在らん。應に初めより已來鉤鎖相承し橫竪高濬、前後冠帶して方に行儀を成ずべし。豈に輒爾に斯の異計を立つること有らんや。破遍の中の一一句見、一一品思の如し。塵沙無明皆な信法相資迴轉と云う。即ち是れ見品思品無知無明、各々六十四番。橫竪不二即ち是れ一心。故に自他相對しても亦た各々須く一百二十八有るべし。此に五百一十二番と云うは、且く合說より隨諦に之を言う。若し相顯說を作さば、即ち次第を以て不次第を顯す。具に前後諸文の料簡の如し。又何ぞ但だ不次第の義に約して後に三箇の一百二十八を立つるのみならん。秖だ不可思議の一中の三に約して、以て三番と爲す。三中の一を而も一心と爲す。三一を共に論ずれば亦た五百一十二あり。問う。圓人那ぞ三觀別論を得ん。此の信法相資等の別あるや。答う。後第六に云うが如し、多く空に入り少なく假に入る等。既に偏入を許さば亦可く偏觀すべし。又破遍の初め、無生を首と爲す、無生即ち空。空門既に爾れば餘門も亦然り。宜に隨えば乃ち七句不同を成ず。尚お七番一百二十八を成ず。何ぞ啻だ三のみならんや。故に知る自他皆な七句あり。若し次第觀は唯だ三を得のみ。三悉の下は前の四悉を判ず。五百一十二番と雖も但だ信法を語る。或いは止觀を以てせば攝せざるは無し。權實を判ぜんが爲には須く四悉に約すべし。所言の世醫等とは、大論の中の文を借りて以て今の意を成ず。故に但だ世諦に屬し世醫と判ず。世界の後復た須く生善すべし。善若し生ぜずんば復た須く破惡すべし。惡去るも去らざるも皆な須く理を見るべし。故に三悉差し已りて更に生ずと云う。第一義に至れば縱い未だ無生ならずとも、斯に於て必ず契す。故に差し已りて更に復た發せずと云う。況んや復た結して世出世法互相成顯と云う。故に一々の行に皆な四悉に歷す。三悉を行ずと雖も必須らく理を見るべし。若し第一義に入り理を見ること未だ深からざれば、還って須く更に三悉を以て之を成ずべし。況んや三悉は本と第一義を期するが爲の故に。故に相顯と云う。況んや權を開き實を顯すの次第四悉、尚お皆な不次第四に入る。況んや此れ本と是れ不思議悉の四中の三、況んや不思議の中の三は皆な第一義ならんや。若し離の下は重ねて前の妙境を示し、所安の處と爲す。止觀四悉は但だ是れ能安の方法のみ。若し心安の下は疑を釋す。疑云く、一一の行者の爲には必須らく前の諸句の如く安ずべしと。故に今釋して曰く、若し心安、諦の一句に安ずれば即ち足る。前の總安の如し但だ法性に安ず。若し其れ安ぜずんば則ち總を置き別を用う。別の中に或いは唯だ一悉にて即ち足る。世界を觀ずるを以て即ち第一義なるが故に。或いは二句乃至多句を用い、乃至六十四番を具用し、乃至多の六十四番を用う。故に巧用方便心をして安ぜしむと云う。一目の下は譬を舉ぐ。多人或いは一人の初後を逗するが故に須く廣設す。若し其の得入に隨わば則ち多きを須いず。故に得鳥は羅の一目と云う。一目と言うは、乃ち最後に入法の言に據る。一生これを行ずるに豈に唯一目ならんや。是の故に或いは一人多きを用い、或いは多人一を用う。況んや一人の始末は一に非ざる、辨ずべし。故に下合して如為眾多、一人亦爾と云う。羅とは、爾雅に云う、鳥罟を羅と曰い、兔罟を第と曰う。亦た罝と曰う。眾生の下は合。捕は陸獵なり。逐なり。四破法遍の四。初めに略して來意を明かす中に、初めに徵起し設問す。即ち上の不思議境に約して正しく設問す。故に法性清淨不合不散等と云う。即ち是れ境の中の一念三千、四性の計を離る。是の故に略して不合不散と云う。合とは一念を謂い散とは三千を謂う。但だ眾生の下は答の中の意。不思議の理と惑とに約せば、一異破不破に當らざるなり。迷妄に隨うが故に事に須く破を設く。眾生無始に全體顛倒なり、誰か多少を論ぜん。但だ曾て境を解し發心安心す。心既に未だ安ぜざるが故に少なしと云うのみ。全く未だ破せざるが故に故に復た破と云う。前は定慧を以て法性に處する、故名づけて安と爲す。今は教に準じて四句を以て安ぜざるの心を推責す、故名づけて破と爲す。破は安に非ず安は破に非ず、得名は事に隨う心境唯一なり。上善巧の下は上の安心に約して破否を對辨す。若し已に諦に安んぜば定慧已に發す。彼れ即ち是れ破なり。何ぞ須くか今に至るまで更に破を論ぜん。次に若未の下は正しく破意を明かす。未だ安ぜざるに由るが故に。若し未だ破せざるが故に今更に破を論ず、故に若未相應等と云う。有定之慧等と言うは、然るに安心破遍は並びに是れ絕待なり。咸く定慧を具す。今初心に據りて入未入を欲し、事に隨いて調熟し用と與と不同なり。或いは有慧之定の前の安心の如きに宜し。或いは有定之慧の今の破遍の如きに宜し。故に從行立名、名虛說ならず。又前の安の中に先ず法性を推すは多きを以て定に從う。是の故に安と云う。今此の破の中に先ず教門に準ずるは義多きを以て慧に從う。是の故に破と云う。二文兼具し法體に遍無し。故に前の信法も法性の止觀に非ざる莫し、故なり。今此の無生も亦た同體の止觀に由るが故なり。然るに破法の下は無生破法の門を明かさんと欲し、且く先ず通じて諸門の不同を舉ぐ。廣より狹に之を指して以て無生を指す。故に先ず經論の所出の諸門を列ぬ。謂わく教行智理。文字は即ち是れ教、門と爲す。大品四十二字、大論廣く釋す。南嶽大師分ちて二解と爲す。一は通じて三乘に約し、二は別に圓頓に約す。今通を廢し頓に從う。大品に云う、菩薩摩訶衍は所謂語等字等、諸字は阿字門に入る。阿字門は一切法を具す。乃至荼字は諸法の邊を盡くし、究竟窮底にして終らず不生なり。荼を過ぐれば字說くべからず。不可說不可盡。一切法虛空の如し。或いは觀行の下は行を門と爲すを明かす。三昧は是れ行なり。大論に云う、菩薩三三昧を修す、諸三昧門と名づく。能く實相に通至す。是の故に能く實相の門と爲す。若し十六行は三三昧の門と爲す。但だ眞諦の門と爲るのみ、今文の意に非ず。或いは智慧の下は智慧を以て門と爲す(云云)。或いは理の下は理を以て門と爲す(云云)。教に依るの下は且く前に所列の教等の四門の次第を生起す。教既に初めに居るが故に今教に依る。復た教に功能あることを知らしめんが爲に、能く觀智理等に通至す。是れ教の光顯なり。是の故に生起す。三門の下は去取を明かす。三藏の下は教の中に復た藏等の三教を簡ぶ。三藏先ず見等を破すと言うは、若し佛弟子ならば必ず先ず見を破す、或いは慧行欣厭、或いは善來を聞く等して羅漢と成る者、或いは佛三十四心等。並びに倶に斷ず。通教も大同なり。但だ倶破の言は佛に在らずのみ。別は但だ次第に淺より深に至るが故に竪遍と云う。且く教道に寄するが故に竪遍と云う。實に依れば但だ一十二品を斷ず。竪すら尚お未だ遍ぜず、況んや復た橫をや。橫不遍と言うは、初觀見思の如く具に諸惑を攝し、能觀の智は一切智を攝す。位位皆な然り、故に橫遍と云う。別教は爾らず、故に須く之を簡ぶ。今不思議の下は圓門の相を示す。一境一切境は前の不思議境を指し、一心一切心は前の發心安心を指す。此れに依りて破を論ずるが故に名づけて破遍と爲す。餘門の下は正しく簡の意正しく圓門を用うるを明かす。所謂の下は正しく圓門を列ぬ。今圓門に於て復た去取を論ず。理は相即と雖も初心は易よりし、及び便宜に隨い多く無生を用う。故に圓門に於て三を去り一を存す。無生門の下は正しく無生の橫竪破遍攝法の功能を示す。中に於て先ず略、次に廣。初中に先ず竪門を明かすとは、初めに能通光顯の二意を標す。何者の下は釋。通釋の二意。先ず到因を釋す。淨名の下は引證なり。淨名大品皆な教門を以て行に通じ因に至る。並びに無生を以て首と爲す。故に彼の淨名三十二菩薩の中に、初めの法自在に云う、生滅を二と爲し不生不滅を不二と爲す。不生不滅は即ち圓の無生なり。大品四十二字も亦た無生首に居る。故に今も亦然り。文列は有門を以て首に居くと雖も、前の諸意に依り且く無生を用う。止觀の下は止觀の能顯を明かす。此の教ありと雖も必須らく行に顯るべし。故に前の生起に云う、教に依りて行に通ずと。若し教無ければ行は剋する所無し。教あるを以ての故に、行智の門をして理に通至せしむ。初住理を見て外用自在なり。無生門の一重の光顯を令む。故に縱橫無礙觸處皆通と云う。故に生起の中に云う、通ずる所無しと雖も遍く一切に通ずと。譬の下は譬を舉ぐ。人とは行人を謂い、位とは入住を謂う。若し空しく其の門あるも教何れの所にか被せん。空しく其の人あるも行何れの所にか稟ぜん。教を稟じて行を行じ理に至る。故に有人有位と云う。人、相門に入りて方に榮顯するが如し。次に通果とは、初めに所通の果を出だす、即ち涅槃の不生なり。次に定慧倶に滿つるが故に名づけて不生と爲す。智斷倶に滿つるが故に名づけて不生と爲す。故に定慧の二法は果に至りて方に滿つ。大品の文とは、無生理滿つるが故に不来不去と云う。佛に至りて方に無生と名づくるが故なり。法華の文意は涅槃に例して知るべし。止觀の下は能顯果を明かす。果滿つるに由るが故に、自他依正一切倶に滿つ。巍巍等とは、巍巍は高出の貌。堂堂とは爾雅に云う、堂堂は容なり。白虎通に云う、堂堂は明なり。月の高明の如きは即ち是れ果智。諸明の中の最もなるは月の星に在るが如し。灌頂經に云う、巍巍堂堂星の月の如し。生死の雲を銷除す。今果滿の能く他を益するを明かす。照十寶山等とは、華嚴二十一に云う、佛子、菩薩十地は佛智に因りて差別あり。大地に因りて十寶山あるが如し。謂わく雪香軻黎羅仙聖由乾陀。馬耳尼民陀斫迦羅宿慧。并びに須彌山。一一に皆な王と云う、雪は一切の藥を集む。香は一切の香を集む。軻黎羅は華を集む。仙聖は五通を集む。由乾陀は藥叉。馬耳は妙果を集む。尼民陀は龍を集む。斫迦羅は自在。宿慧は修羅を集む。須彌は諸天を集む。自在と言うは、諸の大力を謂う。即ち十山の集むる所の功能を以て、十地に對す。初地已上心に佛智を證し階降不同なり。唯だ佛のみ能く知る。此の地も亦た爾り。故に佛智に因りて十地ありと云う。今文の用うる喻は經と稍や別なり。經は十山を以て十地に譬う。十山は地に依る、地は智果に譬う。今も亦た十山を以て十地に喻え、月を以て佛智に喻う。下十山を照すは佛果智の諸地を起すに譬う。故に合喻に云う、功高十地。影四海に臨むは應を起すに喻う。果亦た下は合なり。汲引四機とは、水は機の如し影は應の如し。四教四門四悉並びに是れ垂應設教。金光明經佛骨塔を禮すとは、新譯第十に云う、爾の時世尊、諸大眾の爲に十千天子の本緣を說き已りて、座上に於て結跏趺坐し、諸比丘に告ぐ。汝等菩薩の本身を見ることを樂しまんや已や。諸比丘言く、我等樂しまんと。爾の時世尊即ち百福莊嚴の手を以て地を按ず。即便ち開裂し、七寶制多あり忽然として踊出し、眾寶莊嚴なり。爾の時世尊即ち座より起ち、作禮右繞して還り本座に就き、阿難に告げて言く、汝、塔戶を開けよ。阿難、教の如く開き已りて七寶函を見、舍利あり白きこと珂雪の如きを見る。諸比丘に告ぐ。汝等菩薩の本身を禮拜せよ。阿難、佛に白す。如來世尊は一切を出過し、諸有情の恭敬する所と爲る。何の因緣の故に此の身骨を禮するや。佛、阿難に告ぐ。此れに由りて速やかに能く菩提を證得す。法恩を報ずるが爲に我れ今敬禮す。因りて大眾の爲に薩埵の本緣を說く。彼の薩埵とは即ち我が身是れなり。故に知る佛地の因果は止觀の教に由る。佛果を得と雖も稟教の身を敬う。是の故に佛今身骨を禮す。無生の下次は橫攝を明かす。此れ即ち先ず結前生後。大品の下は正しく橫門を示す。問う。前の無生竪門も亦た四十二字の初めを見る。何の故にか而今乃ち字門を以て橫と爲すや。答う。前は無生の一門に於て竪に入る。故に因果相望の淺深あり。所以に竪と名づく。今二十四字を以て各々相望むれば、已に自ら橫を成ず。又各々四十二字を攝すれば、則ち一一の字の中に所攝又た橫なり。故に知る橫竪備に其の中に攝す。此れも亦た橫に非ず竪に非ずして橫竪を論ず。此意の下は廣く相を示し義の功能を釋せんと欲するが故に、先ず提起す。但だ因果橫竪無生と云うのみ、意猶お見難し。是の故に更に須く佛藏等に約す。今此の文の中に佛藏の義を釋す。先ず事、次に觀。事釋の中に先ず正しく經を引きて以て外用を明かす。次に無生門に合す。外用と言うは、經上卷に云う、無名相の中に假名相說あり。皆是れ如來不思議力。譬えば人あり須彌山を嚼み飛行虛空し、石筏海を渡り、四天下及び須彌山を負い、蚊脚梯と爲りて梵宮に登至し、劫盡燒の時一唾に劫火即ち滅し、一吹に世界即成るが如し。藕絲を以て須彌山を懸け、手に四天下の雨を接す。如來所說の一切諸法は無相無爲無生無滅なり。人をして信解せしむること甚だ爲り難し。甚だ希有なり。若し少しく所得あれば佛法僧と諍い、邪道に入り出家受戒を聽さず。一杯の水を飲む。當に知るべし經の無生外用を明かし、以て妙理因果無生を顯す。是の則ち一體三寶常住を了せずんば、出家を聽さず。聽さずと言うは、若し此れを解せずんば戒具足せず。此れ即ち前の第三卷の末の勝鬘後の解に同じ。彼の經の下は內合無生。吹唾は秖だ是れ智斷の用。智斷不二の故に吹唾同時なり。若し自ら言う無生を得たりとあらば、請う外用を驗せよ。須識の下次に觀心を明かして佛藏の義を釋す。觀心は即ち是れ智斷の因を修す。是の故に更に須く觀心に約して釋す。一剎那起るを一眾生と名づく。即ち起即ち滅するを一期と名づく。念念の中に恒に三毒を起す。即ち當に劫盡の三災の義なり。三毒は貪を首と爲す。三災は火を端と爲す。不思議止觀を以て此の三毒を觀ず(云云)。
止觀輔行傳弘決卷第五之四
止観輔行伝弘決巻第五の四
止觀輔行傳弘決卷第五之五
止観輔行伝弘決 巻第五の五
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
大經下以涅槃釋義。然無生義散在諸教。名相委悉不過大經。故引四句六句釋無生義。不出自他智斷能所事理思議不思議。悉無生也。即是因果光揚能顯義也。並在第十九經也。初釋四句言不聞聞一句。有種種義者。經初列不聞聞等四句。次以不生生等四句。釋不聞聞等。復以不至至等四句。釋不生生等。故云不聞聞等有種種義。今處中說又順無生。故用不生生等釋無生義。然古人以不聞聞不生生等四句在前。下一一但是轉釋而已。故多釋不聞聞等四句。餘句但例。有云。聞不聞即俗而真。不聞聞是即真而俗。聞聞但俗。不聞不聞但真。又云。不聞聞從真起應。聞不聞攝應還本。不聞不聞法身凝然。聞聞是應迹不已。不生生等古亦多解。興皇以雪山偈銷。不生生是諸行無常。生不生是是生滅法。生生是生滅滅已。不生不生是寂滅為樂。又將四出偈銷。言四出者此偈四處出之。古人名為涅槃四柱。謂九十五二十五二十六。不生生本無今有。生不生本有今無。生生三世有法不生不生無有是處。又云。如來證涅槃等四句對之。章安云。準下文云我因是事即得解於一句半句。得見佛性入於涅槃。當知並是見佛性句。不聞聞了因性。聞不聞緣因性。不聞不聞正因性。聞聞境界性。例此以釋不生生等。亦應可見。雖古多釋未會經旨。依章安解復是一途章安云。並不如此智斷因果俱無生也。但為銷經別作一途。彼經佛欲說此不聞聞等。放光照於十方世界。時東方有瑠璃光菩薩。初來之時。一切大眾非青見青。乃至非白見白等。諸菩薩等見此光明。皆相問言。此是何光。皆默不答。次問文殊。文殊答言。光明者即是智慧。智慧者即是常住。乃至即是如來即是大慈。佛言。汝今莫入甚深第一義定。應以世俗而為解釋。文殊言。東方去此二十恒沙有世界名滿月。彼有菩薩名瑠璃光。於彼見光而問彼佛。彼佛答言。西方去此二十恒沙有世界名娑婆。佛名釋迦。為諸菩薩說不聞聞等。彼菩薩而白彼佛。欲來此聽不聞聞等。從彼發來先現此相。如古諸釋各自一途。將何以表光召之旨。將何以生十方大疑。將無枉辱彼佛遣命。何足以補遠來之情。偈雖廣攝諸師意略。故知不可聊爾而釋。欲了此文須曉大師用經文意。若釋餘文及下為他。則以生生居初用對四教。以隨生等義便故也。此中銷經釋無生義。是故具依經文次第。初列四句。次案此下略舉攝相。不生生者自行因也。即初住位。不生不生自行果也。位在妙覺。生不生者即化他能。生生者即化他所。若不爾者。何名為遍。故破遍門義同一部。一部秖是自他因果能所故也。不生生者下次釋四句。自為四文。然諸句中凡云經釋。並是大經佛自釋也。凡云今解。即是大師釋佛所解。皆引佛藏吹唾結之。初句闕結義亦應有。初不生生者。牒經初句。安住下經解也。今解下大師釋也。欲明所安故先釋世諦。次明能安故後釋安住。理本不二非共非離。約事且云無明共等。能生所生能安所安亦復如是。以止觀安故世諦方成不思議境。安即觀也。此觀初成名觀行位。以圓觀解託於世諦。觀是聖孕。聖託胎故名託聖胎。又聖種中生名託聖胎。若入初住名出聖胎。聖出胎故名出聖胎。從聖生故名出聖胎。契一分理故言不見。不見即不生智德成也。此釋不生。獲佛知見下次釋生字。論云下引論證者。諸法即是無明世諦。般若生是佛知見開。此說下結示。經釋不生不生下牒第二句也。次不生不生下經解也。名大涅槃總標也。生相下釋兩不生。生相盡故即智斷德滿。修道得故明果由因契。今解下大師釋。二德已圓釋生相盡。即指妙覺為寂滅果。因果下以佛藏結。結謂結同。經釋下列第三句。世諦下經解也。今解下大師釋也。由無明故與法性合出生諸法。故名無明以為根本。但破根本諸法不生。死是不生之異名耳。此釋下重明此句所用義旨。以此斷德釋初智德。若無斷德智不成就。是故須以斷德釋智。若初句中智德成即初句中下生字也。若此句中斷德成。即此句中下不生字。不生名同等者。簡兩句中不生字也。初句上不生字。此句下不生字。兩處不生其名雖同事理則異。初句智德緣理名為不生。此句破事惑盡得不生名。以理望事事則為下。故云下破。以事望理理則是上。故云上緣。次初句下簡兩句中生字也。初句下生字屬智。此句上生字屬惑。兩處生字其名雖同。初句生字屬智智即是脫。此句生字屬惑惑即是縛。故云大異。兩處俱有生與不生。是故須簡名同義異。智斷二德既無前後。若以第三釋於第一。亦可第一以釋第三。以智斷同時故也。體雖不二必先運智以斷於惑。豈惑自斷而方智生。是故且以第三釋初。又假使第三列在於初。亦可第一以釋第三。言不累書且依文次。又從義便是故爾耳。初句下佛藏結。此既釋初。是故結中亦望初句相即而結。文似前後用必同時。故云一時不可前後經重釋下述經重釋第三句也。此初牒經重釋也。今解下大師釋經重釋義也。經文但云一生不生。經前後釋自分兩義。故今大師判出兩文不同之相。先謂前解。既云斷德知是自行之惑滅也。此中重釋既云四住菩薩。即是菩薩斷四住已能自在生。先斷四住即如通教菩薩。尚能自在利益眾生。況入初住真因分開。以通教人斷四住劣。顯於圓人斷五住勝。惑滅下亦以佛藏重結兩解。惑滅顯唾以結初釋化興顯吹以結重釋。經釋下牒第四句經也。一切下經解也。今解下大師釋。菩薩何意下牒向重釋。以為能化。有漏是生。相續不斷故名生生。生生即是所化之境。是故下重牒能化示生之意。意在所化。是為下結成無生功能故也。前之三句並是化他之能。因果智斷。此句即是化他所也。四住下大師重以地持六住中之四住。釋佛重釋四住菩薩也。地持六住即當別義。向佛尚以通劣而顯圓勝。豈無以別顯於圓耶。況復幸有地持別文。是故引之以顯圓妙論六住者從十住去方受住名。若人無有種性等者。指十信菩薩故云雖生善道等。不在六人數中者。即六住所不攝故也。以此六人皆不退故。故名為住。復言究竟者乃是菩薩地窮。非永究竟。種性成就即十住滿。已斷見思故云無退。得在一人者六中初人也。乃至行向並由住中。斷見思已方能進行。故云數數增進。即第二住親為初地方便故也。前種性中已入空觀。非不亦為別地方便。去地遙故。至迴向中親修中觀。故云方便。淨心是初地者。破同體見故云離我地前凡夫並未斷故。即是別教見道位也。行道迹者。別修道位破同體思。決定究竟並破思也。經稱下以論判經。至行道迹名真出假。帶教道說故立見思。次第至此尚能大益。況復圓教五住盡耶。況復一體智斷成耶。經又下次釋六句。經中所以重明六句者。前之四句直明因果能所無生。無生之名雖即是破。未破無生。是故今明皆不可說。又前四句雖云無生。未知為是何等無生。故六句中思議不思議。生與無生一切俱破。是故六句皆不可說。乃顯今文破遍正意。先正釋六句皆不可說以明自行。於中初列經句。案此下略明句意。若破下大師先且銷經本句。一一句下皆云不可說者。即是破義。初文是略判也。言思議不思議惑者。應云思議不思議解惑。文中存略但云惑耳。次第解惑即是思議。不次第解惑是不思議。解是能破。惑是所破。故解惑相從。同名思議不思議也。惑之與解俱須遍破。尚不可作不思議說。況思議耶。故一一句下皆云不可說。問。思議須破不可思議何用破耶。答。理非遍圓故皆須破。若破圓者破圓異偏。不破圓理故云不破聖人心中所得涅槃。為未得者執成戲論。是故破耳。何者下釋。先釋四句思議解惑。於中先破惑。次破解。初惑中兩句。初釋成可思議。次釋成不可說。初句云界外惑者。理體不生而惑是生。故云不生生。界內之惑言枝末者。界外之惑已是於生。從生惑上復生於惑。故云生生。界外即是無明惑也。界內即是見思惑也。有麁細故有內外故。是故判為可思議惑。此惑下示相待相。初明生生是所化境。所言並者。凡是生生皆所化故。因所有能故成相待。所化既不可得下釋不可說。明能化所化皆不可說。猶如幻人為幻人說法。問。能化既是別惑。何故乃云自在。答。已斷通惑。即於通惑名為自在。若於別惑仍是繫縛。枝之與本並是法性。即觀法性而亡於惑。名不可說。次若破下破思議解者。亦初釋兩句成可思議。次總釋成不可說也。界外之解言雙遣者。從前得名。亦是異時相望名雙。應言破惑。今言破分段變易者。因中說果。以惑破故生死必破。破界內惑令生不生。故云生不生。問。界外之惑既是能化。與界內解有何差別。答。界內之解破界內惑。而得解名。生界外已於彼具縛。名界外惑。雖當分名惑而能化於界內之惑。體雖不別得名處殊。此解下示相待相。十六門異故云種種。從淺至深皆屬自行。前後次第及化他位。望四教說。乃成多種因果不同。如第一卷四弘中說。理尚下釋不可說。四種道諦是能趣行。滅理法性是所趣理。理體尚無何得種種能趣所趣。故皆不可說。次破不思議中亦先惑次解。此之解惑但點無明對於圓理。不分內外枝本之殊。是故名為不思議也。初破惑中先且釋成不可思議。故云秖是無明。無明不可得下明不可說。不可得者秖是不可說耳。次破不可思議解者。亦先示於不思議相。故云秖是圓解。於此判出圓因圓果。理不偏圓下明不可說。理非偏故不可偏說。理亦非圓何可圓說耶。將彼下明用句意。佛自下次明大師釋佛所釋。故句句中皆先舉佛自釋。次今解下明大師所釋。意扶佛釋但小廣耳。一一句中皆云依佛此旨者。大師自云。已申佛意。重述佛旨以符己見。生即顛倒下明不可說也。次釋第二句亦先舉經釋。今解下明大師釋又二。先釋生生。八相所遷全是有漏。八相所遷具如前釋。問。八相中云小生生大。此中何以大生生小。答。由有大生引起小生。故令小生能生於大。生生故不生等者明不可說。有漏之生即是空中。空中不可言思所得。故不可說。但云空中者。且以法性空中對幻假說。其實須云幻假即是不思議假。何者。今但以此假即是空中。此假任運成不思議。故不別說。前第一卷四弘文中意亦如之。次釋第三句者亦先牒經釋。次今解下明大師釋亦二。先釋生不生。生即名為生者釋上生字。般若生時由諸法不生。生不自生下釋不生字。即以四句推破諸法。諸法破已尚無無句。何有四句。是故般若非四句生名為不生。又般若生時下重釋也。反以不生生而釋生不生。生即無生者。良由般若生時世諦已死。故得雖生而生自在。即是生不生也。若般若生下釋成不可說也。若般若生牒上初解中第二解。又次解中初解。云般若生時。若自在生牒上第二釋中後解也。言而生三界也。此之兩生皆不可作生而說者。體非次第故也。次釋第四句。亦先牒佛解。今解下大師釋亦二。先釋不生不生。尚非下明不可說。據此下判句也。既云極果知是界外解也。次釋第五句。亦先舉經。今解下大師釋。亦先釋於生。界內外生秖是無明者。覽前兩句思議之惑。秖是一念從緣生惑。此惑秖是障中無明。緣生即空即中下明不可說。界內外生生義雖殊。今觀同是一念緣生。即空即中。何者。以見一念即畢竟空。即法性中。前對生生是可思議。見此思議是空是中。今見一念即具三惑。名不思議惑。道理即是即空即中。大意同前。次釋第六句。亦先牒經今解下大師釋也。亦二。先釋不生者。亦覽前兩思議之解。即是此中不思議解。故云及界內外解並皆是得。得即詣理。理絕心口下明不可說。不可復作圓理而說。理無說故名不可說。佛以下隨結破遍也。偏圓解惑悉皆不生。皆不可說故名為遍。依佛藏下總以佛藏。通結前來四句六句。言前四句亦吹亦唾者。結初四句。初四句中初句即吹而唾。次第三句即唾而吹。次第二句者吹唾成就。第四句者吹唾所化。當知前三句中。句句之中有吹有唾。第四句者。若單約所化則義屬於吹。吹不獨用義須即唾。若以所顯能。全是吹唾之功用也。後兩句者。謂六句中後兩句也。以此兩句兩向用之。在六句末同名為唾。唾秖是破。破者秖是不可說耳。故六句中句句皆云不可說也。若將結前四句文者。二句既是不思議之解惑。解惑相即智斷不二。與吹唾義同。故用結前四句智斷。此乃但用上生不生。不論二句下不可說也。故用生字以結前吹。用不生字以結前唾。若兼後二句下不可說亦結前者。結前吹唾皆悉相即。亦不可作相即而說。又楞伽云下復以楞伽釋成六句。先釋楞伽。次結大經與楞伽同。初釋楞伽義者。彼經第四無常品云。大慧白佛。如佛所言。我於某夜成最正覺某夜入般涅槃。中間不說一字。不已說。不當說。不今說。是佛說。世尊。依何密語。作如是說。佛言。依二密語謂自證法及本住法。然一代施化豈無權智被物之教。但約此二未曾有說。故云不說耳。今云自法但約自證耳。自法者下釋向經中所列二法。亦先列經釋也。初釋自法中。云彼如來者。謂過去諸佛及以現在十方諸佛。與彼佛證一體無殊。不多不少名不增減。離言說等者。重釋自證所離之法。釋曰下今釋經意。離言說等者。彼經第七云離言說者。不可議也。離妄想者。不可思也。離文字者。離假名文字也。凡能詮教無非假名。約自證法有何文字。言二趣者。複疎釋前言說假名。恐情妄計但離能說能思能名。即以所說所思所名。謂為真體。故複疎云二趣俱離。何者。於自證中不見能所名離二趣。本住下次釋本住法也。謂佛自行所行之道。及佛本若實相之理。並非修成非作法故遍一切處。不可改易故名為住。理是所至道是所行。故舉譬云並非行者至者所作。故本有道為人所行。豈行者作。本有理城由本道至。亦由行人而能至理。故並不由至者能作。經初又云。本住法者。如金在鑛及所至城。鑛似兼別城必從圓。經曰下引彼經助釋也。彼經次文即以古城為喻。佛問大慧。彼城及道并城中物。是彼入者之所作耶。答曰。不也。士夫行人但隨本有常住之道。至實相城得於萬德祕藏之物。以受如意涅槃之樂。本期涅槃故云如意。當知下總結前意。非口言者。不可議也。非分別者。不可思也。稱本法故不可變異。此義下會同中。乃以生生為本法者。前釋生生指有漏法。今指有漏體全是理。問。前釋何故云是所化。今何故云是本法耶。答。一切所化無非本法。故曉法師云。水窮波末波徹水源。生隨順緣生不可說者。結前生生不可說。故前文釋云。生即空中故不可說。今亦如是。隨順緣生不可說生即空中故。第二三句準前可知。不生不生即究竟者。智斷究竟也。餘並同前。大經云十因緣下次明可說。凡諸文中不可說後。必明可說者。先自證已必化他故。十二因緣中不云生死者。此屬未來。今明從過至現。以成機根故不取也。故大經中續前不可說文後。即云十因緣法為生作因。所言十因為生作因者。以宿種子在無明行中。來至今世。復依本習起愛取有。復由現在聞法發習。此中因緣且語眾生十因緣邊。亦應義兼感應因緣。謂感佛四說即因緣義。彼地持文立四種性。於中聲聞種性謂永入滅者。非今所用。然瑜伽論解深密經等。並方等部攝。挫云永入策發令起。如淨名中迦葉自敘云。於此大乘已如敗種。敗種豈有更生之理。至法華會中根獲記。是故今文且附方等。但以四性對於四教義味泯合。問下料簡中初文令立第四句也。赴機是立六句是破。前四句中有智有斷。即是義當亦破亦立。答中亦以大經文答。彼文釋五行竟。次明十功德云。十事功德不可思議。非難非易等。當知十德皆證中道。此五行十德自古多釋。瑤亮云。五行是略十德是廣。各以二德對於一行。宗師破云。初六對三相貌可爾。後四對行全不相應。光宅云。行與功德一體異名。並從因以至果。開善云。五行淺十德深。五行者。始從初心終至地前。十德者。始從初地至金剛心。若作別義開善最親。若依圓義光宅似當。具如玄文明圓五行。然亦不是全用彼經。但彼經文兼圓帶別。十地證道雖與圓同。地前教道未曾聞故。故云不可思議聞者驚怪。河西云。若準梵本應云希有奇特。鈍根小智聞則驚怪。譯者略之。但云不可思議等。章安釋云。深無底故驚。廣無邊故怪非分別智能知故非難。泥洹智不洎故非易。非真故非內。非俗故非外。非色故非相。非心故非非相。無去來今故非是世法。無中邊故無有相貌。絕四離百故世間所無。疏中不釋非方圓尖邪。今助釋曰。非別故非方。非通故非圓。非空故非尖。非有故非邪。若作非破非立為言者。非破故非難。非立故非易。非破故非內。非立故非外。非立故非相。非破故非非相。非破故非圓。非立故非方。非立故非尖。非破故非邪。次問者。圓有四門若無生攝盡。何用諸門。答意者。今說無生則云無生攝盡。若說餘門則應一一各云攝盡今從行便且云無生。乃至開為三十二門。何但四耶。既云從於智斷二德以立門名。三十二門未甞別異。隨舉一門攝三十一。月無增減等者。譬不異而異。約惑智邊說有增減。見有增減月體常圓。諸門依於智斷二德。但從能入差別不同。而其理體未嘗生滅。大經云。因須彌山故有虧盈。俱舍復云。近日自影覆。諸小乘經多云白銀瑠璃漸漸互現。故有增減。今取此意譬無增減。意甚便也若無生下以門結遍。問無生門門稱無生等者。門稱無生則應一切悉稱無生。前諸句中何故復云無生生等。無生生是初四句中第一句。生生是第四句。生自在故是第三句。引三生句以難無生。答意者。三句明生。並是無生功能故也。次正明破法遍中初列三章。一一章門皆云從始至終盡其源底者標中探說章中之意。盡源故橫周。盡底故竪窮。竪破灼然有始有終。於一一見一一品思無非法界故也。橫門一一亦各復有從始至終。不二門中不無橫竪。如是皆悉橫竪不二。若欲且從三章各說者。三惑各遍名為橫周。通至實相名為深窮。一一惑智理非橫竪。橫中一一亦復如是。又橫攝一切名為橫周。一一至極名為竪深。不二門中具攝諸橫名為橫周。無不圓極故云竪深。雖有三文但成二義。謂次不次。橫竪但成次第故也。雖有二義共成一心。當知竪中具足有橫及以不二。餘二類之。故云竪則論高。乃至無竪而不廣也。法華大車意亦如是。當知秖是高廣大車。故知橫竪但論相入不得不二未免縱橫。雖橫竪皆遍須識不二。故次釋云非橫非竪。隨文見者奈何迷深。故一家釋義前總次別。後還結撮歸於元意。意雖若是為顯不二。還依章門橫竪解釋。則於一中。橫竪甄分淺深不亂。一無生門下先列竪章。亦先列竟。次如此下述竪章意。此文分明寄三顯一。如何棄此漫指偏文。大論下引論證於寄三顯一意也。是故此中文三義三。意在度入歸於不二一心中破。故知下文句句之中。皆有一文一義一意。不煩文故且立六處。華嚴下重引華嚴意。以顯今文。彼經二根而分兩意者。此亦先次後論不次。故似於彼。彼說次者。意亦為成圓頓不次。與今似同。若論今文約觀但是借別顯總。全非別教意復成異法華唯一則開鈍成利。人無不開法亦無二。正當今意。今欲下顯文元意。諸教既爾。今亦依之。故示讀者。預於文前遙點六處結撮要意。一破見位後二破思位後。三四門料簡中。四出假利益位五結破法遍文後。六修中觀文初。頻此六文殷懃指的。顯露彰灼讀者尚昏。儻沈密隱映如何取解。故逆提綱領至文重示。此仍不論標章指意等直指文內有此六重初釋從見假入空中。先明從解得名。次釋當體受稱。初文中且通釋云見惑等者。明見所從而生及以能障功能。如焰下舉譬。焰夢者見惑也。空覺者真體也。此惑下合。然見則見理下釋從解得名。見惑下列釋。單四見中亦先列四見。於一下先明有見中利鈍十使。初利中。謂有於我者。外人計我。或如麻豆及母指等。或計遍身神身四句及一異等。計我不忘名為我見。計我斷常名為邊見。由計斷常不信因果。復計此我以為自然冥初世性世性即是二十五諦及六諦等。或計從於父母微塵梵天等生。皆名邪見。執邪為道名非因計因。名戒取見。謂因此見通至非想。信此非餘名為見取。是己法者愛下。明因見惑起於鈍使。如是下歷三界四諦結八十八使。如文可見。三界合有五十二鈍三十六利鈍五十二者。謂欲界二十。四諦各五。上界無瞋但一十六。上二界合成三十二。并欲二十合五十二。利三十六者。三界各十二故也。如欲界中苦下具五。道下有三除身邊。集滅各二除身邊戒取。合十二也。上二界亦然。三十六及五十二。合八十八。問。四諦下惑依何理教。減不同耶。答。依阿毘曇上界不行恚。問。何故身邊唯在苦耶。答。此見依身故名身見。依於身見而起邊見。餘三非身故無此見。又見苦斷故故在苦下。問。戒取何故唯在苦道。答。唯彼所起。問。戒取計因苦諦是果。何故在苦。答。計多苦行望為實因。故在苦下。非出道故妄謂出道。是故復於道處能起。集滅異此故無身見。無身見故亦無邊見。集滅非道不生戒取。又復戒取在於苦道二諦下者。本是內道見苦能斷。本外道者見道能斷。故唯在二。問。八十八中初果所斷。既唯見惑。何故中有五十二思。答。此思依見見為根本。但斷於見根壞條枯。若迷事思此中不攝。故文云是己法者愛。即指五見為己法也。問。修所斷中何故無疑。答。見道已斷理合無疑。餘三見下但例於有則三見可解。但以無等而為根本。如計我是無乃至非有非無也。若歷下明歷六十二各生八十八。瀾(力旦反又力丹反)瀾漫游波也。漫亦散漫。縱逸也。言此倒惑如波之逸。五十校計下明生百八也。此經是後漢安世高譯。所立法相稍異諸經。經云。佛在王舍。十方菩薩問佛。何故諸行因緣不同。佛言。校計五根及以意識。為一切法本得十方佛智。問。云何具足行道。謂常守根識修校計者。為黠菩薩。若不修校計者為癡菩薩。問。云何不修校計為癡修校計為黠。佛以五十法答。一一法中皆云校計。故云五十校計。一一法中皆有百八。初盡百八癡次盡百八欲。乃至得百八真證百八盡力。諸菩薩問。云何百八。佛言。有所念不自知心生心滅中。有陰有集。不知為癡。轉入意地亦如是。識亦如是。是為意三。見好色中色惡色。不自知著不自知滅。有陰有集。乃至觸亦如是。彼經但列六根各六。雖無三世之語。而結云百八。故知是約剎那而為三世也。既以心意識三為意地三。故通三世。如云集起名心。籌量名意。別知名識。意三既爾。故使所依五根亦爾。三世三箇三十六故。故有百八經又問云。我設知百八癡滅為癡為黠。佛言。未黠。諸菩薩言。何故爾耶。佛言。猶有百八癡乃至未得百八盡力。以念念中不離六根剎那三世。故一一見皆一百八。乃至五十箇百八煩惱。故彼經云。舉心動念生死無盡。若準大論六根各三受。三受對三塵。三世為百八。此則約果報以論三世。若諸論中。復以十纏加八十八為九十八。加十思惟合一百八。言十纏者。論云。纏八無慚愧。嫉慳并悔眠。及掉舉昏沈。或十加忿覆。故知念念有多百八。理含義別。大論又總以十四難而攝六十二見。謂三世各四句。并根本二句。有此難者不應為答。當知下結也。心昏眼盲。盲故不見。昏故不覺。即是無明心昏。智慧眼盲。故不見不覺真諦之理。世講者下斥謬也。以彼不知俱是見故。謬生去取。講者私解也。此語下明其謬見違經負心。世人但云初三是見。二四非見。則六十二中但有其半。故云欠少。是故違經。言負心者。若實作此見。但有違經之失。若隱知虛說則有負心之過。中論下且證有無俱是性計。計即是見也。無既成見。當知第四句悉亦是見。又此下驗無非證。故知屬見。諸外道下是邪人所得。驗知是見初文通舉外道所計。以辨人非。言本劫本見等者。長阿含十三云。佛告善念梵志。此本末見不出六十二也。本劫本見一十八。末劫末見四十四。合六十二。言十八者。有四四句及根本二。初四句者。一見二十劫成敗。二見四十劫。三見八十劫。四以捷疾智說(一一句皆云神及世間常)第二四句者。一我及世間。半常半無常。二計由戲笑。三計失意生。四以捷疾智說(廣如初句)第三四句者。一神及世間有邊。二無邊。三上下方有邊。四方無邊。四以捷疾智說(廣如初句。此三四句初皆云。或有沙門婆羅門。以種種方便定意。觀見二十劫等)第四四句者。一我不知不見善惡有報無報耶。二我不知不見有他世無他世耶。三我不知不見何者善何者惡耶。四愚癡暗鈍隨他問答(此四句頭皆說異問異答)根本二句者。一定意知眾生未來無因緣而有。二者捷疾智說。次末劫末見四十四句者。初四四句中第一有想四句。一我此終後生有色有想。二生無色有想。三生有色無色有想。四非有色非無色有想(廣如初句)第二四句者。以有邊無邊對有想作四句。第三四句者。以有樂無樂對有想作四句。第四四句者。一有想。二若干想。三少想。四無量想。第二有二四句。初四句者。以有色無色對無想作四句。如初四句。唯以無想替有想。次四句者。以有邊無邊對無想為四句。如初文中次四句說。但改無想以替有想。第三有二四句。初四句者有色無色對非有想非無想為四。次四句者。有邊無邊對非有想非無想為四句。此兩二四并前四四。合三十二句。復有斷見七句。一若沙門婆羅門作是論。我身從父母乳哺衣食長養而生。終歸磨滅。二者欲界諸天生。具足斷滅。三者色界諸天生。具足斷滅。四者空處。五者識處。六者不用處。七者非想非非想處(廣如欲界句說)次常見有五句。計一切眾生現在涅槃。一計現在五欲自恣得涅槃。二初禪。三二禪。四三禪五四禪(並計得涅槃)合十二句。并前三十二句。合四十四句。經釋甚廣。數雖六十二不出單四句見也。捉頭拔髮者。即六十二見中有無等見互相是非。如大經十八。耆婆為闍王作外道譬中云。見二小兒相牽鬪諍捉頭拔髮。章安釋云。二小兒者斷常有無。互相是非如捉頭拔髮。因既不善果苦無邊。故生死浩然。如長爪等者。次舉長爪亦不出四句。大論第一云。有外道梵志名長爪。亦名先尼。亦名婆蹉。亦名薩遮迦。亦名摩楗提。是大論師計一切論可破。一切語可壞。一切執可轉。故無實法可信可敬。如舍利弗本末經中說。舍利弗母即是其姊。姊夢見一人。具如法華疏舍利弗緣中(云云)。學訖還國。覓甥不見。往難世尊云。一切論可破等。佛以一句責云。汝見是忍不。思惟於久不得一法入心。乃云沙門瞿曇著我置二負門中。若我答忍是負門麁。眾人皆知。云何自言不忍而今言忍。現見妄語。若答言我見不忍是負門細。無人知者。即便答言。是見亦不忍。佛言。不忍是見將何破他。眾人無異。何用自高而生慢為。長爪於是不能答佛。自知墮負。世尊不彰我過不言是非。心調柔軟得法眼淨。即屬單四句中非有非無見攝。若準下文并此中意。長爪義當單四見中。後之三見及無言見。若言一切不受即似無見。高著下舉況釋也。即指長爪為外道中高流上輩。所學已著尚未出單。況餘暗鈍隨時問答者耶。今判下今家判前本末見等。並不出單。次明複見。句別具二故名為複。一一並緣法塵而起(云云)。於一一下明複見生惑。具足下明具足句。句法至四。今一中具四故名具足。雖復單複不同。並以四為句法。故並云四。但三四中單複具異。得三四句名耳。單則四人。複則八人。具十六人複中一往列句。雖似單四句上各加有無。然有有同單有無無同單無。但於有上加無無上加有。第三第四各加兩句。句法應云亦有亦無有。亦有亦無無。非有非無有。非有非無無。今文開於兩亦雙非。合有無也。此開合者或寫誤。或別有意。第二本中都不列句。但直標云複具而已。此乃修補時添。應是元聽具聞列釋。今加不云私謂故也。是則四單之上。更加六句以為複句。具足四句一往亦似於單四上。各加四句。然亦有有同單有無無同單無。兩亦之上雖加兩亦。同單兩亦。雙非之上雖加雙非。同單雙非。是則於前單上。成加一十二句。於前複上但更加六。并前單複則成十六。是則於一四句之上。離之乃為二十八人。計但成於十六句耳。故六十二中並無複具。次一句下具所生惑。次明絕言見。一一下諸四句後。各有絕言各生若干。諸惑不已故云一一。又約下次明依於佛法生見。亦有絕言并所生惑。餘並如文。復次下當體名見見秖是假。假者秖是不實為義。得名雖殊見體不別。所以重於當體立假名者。欲於一一立三假義。知見體是假。是故先云見體是假。假謂三假。又前文云。從解得名見理方斷。云何見理必推三假。是故復云當體名假。應以四句破假。假破故見理。亦應合云假所生惑。此釋三假為破惑故不應生惑。若無四句及性相空還生於惑。故此未明出在後文。法塵下釋三假相中。先約心釋。因內因外和合方成。故所生法名因成假。念不實故。故前念滅。滅已復生。生者必滅。計能相續。名相續假。他待於己故立他名。己待於他假立於己。相待不實名相待假。若竪待者意亦如是。言三無為者。一虛空。二擇滅。三非擇滅。舊名數緣非數緣也。俱舍頌云。此中空無礙。謂太虛空無礙為性。非謂所見空一顯色及竅隙等。頌云。擇滅謂離繫隨繫事各別。隨三界繫見見品品皆名為繫。所繫不同名為隨事。離一繫故得一擇滅。擇力所得滅名為擇滅。擇謂斷智。推度令滅故名擇滅。非擇滅者。頌云。畢竟礙當生別得非擇滅。此非擇滅。二類不同。謂根塵闕緣及所證位。諸無知惑不得續起。名礙當生。如緣一色時。於餘諸色及餘四塵得非擇滅。為正緣色礙餘色等。當不生故名礙當生。三皆無心待我為有。故有是假。開善下此明他解。後文當破。次約色者。四大色身體全不實。是三假故。前念滅時假後念續。故名為假。待中亦應具有橫竪。待往滅身名為不身。竪待也。他非我身名為不身。橫待也。夫相待文皆有二義。並須思知。次約依報者。正報既假依報亦然。依必隨正如影隨形。委釋如論師者。如成論師委明三假。今文雖釋義猶似略。已明色心依正三假。足曉破見故無旁及。但此下明隨理三假。言大乘者。即衍門三教。無明幻化其名並通。外四大柱既從四微和合所成。外四大柱復現鏡中。鏡中豈有能成四微。能成尚無豈有所成鏡中幻柱。鏡柱如幻故云幻柱。以幻喻像故復云幻。鏡柱無者本是外柱。由鏡明故像現其中。鏡是外柱現像之緣。若爾。外柱亦爾。柱體則由外四大種而令木現復由工匠假立柱名。當知外柱亦復如是(云云)。言四微者色香味觸。由四大和合造此色柱。於外即是所造之柱。於像即是能成之柱。由有四微所造柱故。而令鏡中所成柱現。故於鏡中推能造微及所成柱。永不可得。因成既無安有續待。故但況云況歷時節者。即以相續況也。以幻化長短者。即以相待況也。故總結云寧復可得。以一況字冠下二句。大論四十六。廣明衍門三假之相雖云隨理理有權實。通教隨權理。別圓隨實理。今云三假附無明起。故知無明亦通深淺。今既破見且從竪義。且通教三假也。別圓三假在第六卷修中觀中三番是也。故有次第三不次第三等(云云)。又通論雖爾。若別論者。如章安云。聲聞觀因成。緣覺觀相續。菩薩觀相待。雖此為首後必具三。舉易況難者。如向鏡柱以例外柱。即其相也。言不實者。但以諸法從因緣故。念念不住故待他假設故。當知鏡柱與外柱等。無非三假不實義同。雖同不實像等易解外柱難解。故大乘經共立十喻。言十喻者。大論第七云。如幻者。譬如幻師幻作種種。雖無有實然是色法而可見聞。諸法亦爾。無明幻化而可見聞。二如焰者。以日光風動塵。故曠野中猶如野馬。無智謂水。諸法亦爾。結使光諸行塵憶想風。生死曠野中轉。無智之人謂之為實。三水月者。月在空影在水。實相之月在實際空。於凡夫人心水之中。我所相現。四虛空者。空但有名而無真實空不可見。遠視光轉令見縹色。諸法本無遠無漏智。故見諸相。五如響者。深山中語及打木聲從聲有聲。無智謂有。一切語言亦復如是。但是口中優陀那風觸於七處。和合有聲。六如城者。日初出時見城樓櫓行人去來。日高則滅。無智謂實。諸法亦爾。妄計吾我。七如夢者。夢中無實謂之為實。覺已知無而還自笑。諸結眠中無而生著。得道覺已乃知無實。八如影者。見不可捉。諸法亦爾。雖情謂實求不可得。九如鏡像者。非鏡非面四句叵得。但有名字。諸法亦爾。非自等四但有名字。十如化者。諸天聖人能有所化所化無實。諸法亦爾。皆無生滅。猶如化人本自無生。何有老死。又釋論下會異也。謂會三有及三聶提與三假同。大論四十六。廣釋三有三聶提義。並在三假品中明之。故得會同。然論文三有與三假名義有同有異。則相待名同。餘二名異。二異名中法同因成。假名但覽法假而立。故不同相續。文中但釋而不見會。今文列釋意者。本在會同故須會之。假名即當相續假也。何者。以於法上假立名故。則謂諸法相續名住。今文初釋相待有中。全用彼文。如五寸之物待一尺為短待三寸為長。彼此亦爾者。在此則以彼為彼。在彼則以此為彼。物東等者。如彼人在物東則以此物為西。故云則以此為西。在西則東者我在物西則以此物為東。一物未嘗異。由人在於物之東西。却謂物之在我東西。當知物上假名東西。次釋假名有中。云雖有不同因緣等者。和合法上立一假名。此之假名是有是無。能詮故有。不實故無。是故不同因緣實有及兔角無。何者。如酪四微非酥四微。方有酪名。故知酪名不同兔角。如瓶等名下。則有實瓶。兔角名下。無實兔角。龜毛亦爾雖有復不同於實法之體體則有實名則假立。是故假有不同實有。言色等四事因緣和合者。此非和合造酪因緣造酪。應以乳因人緣方名為酪。因緣所成必具四事。故名四事為和合法。和合具四假立酪名。又如下重約端㲲立重重實法重重假名。釋假名有。論中廣破端㲲無常無我。如坐禪人觀於端㲲。作地水火風青黃赤白等。或復都空。是故端㲲但有名字。今文略撮論文甚廣。從一極微色香味觸以為實法。假名毛分。毛分者。毛中小分名為毛分。故極微微等皆名毛分。合聚故名為毳。毳即細毛。尚書云。皆生濡毳細毛以自溫也。故知七水為一兔。兔亦細毛之類也。乃至成衣。衣是假名。㲲是實法。如是展轉迭為假實。假名有無例如前說。論又云下次會三聶提。聶提西音翻假施設。欲會令同故先問起。答下先會名。次釋義。法中既云五眾和合。故與因成義同。次受假中受謂領納。由根莖枝葉故樹可領納。領納樹故有樹始終。即名相續是故與前假名有同。用是名字下會相待假。用於樹名及枝葉名。取二名下二種之法。樹名之下枝葉為法。枝葉名下四大為法。二名二法若待非樹有樹名生。一切諸法乃至心所亦復如是。論云。行者先壞名至受。次壞受至法。以壞法故得諸法實相。依論次第。即先破相待以至相續。後破因成。若論三假起之次第。則必先因成乃至相待。展轉生計展轉破之。故破相待以至因成。得實相空次第稍異。文意各別善須思擇。瓔珞下引證三假。初引瓔珞者。彼經具有。故總證也。彼本業下卷云。諸法緣成假法無我。有法相待一切相虛。相續名一空不可得。皆上句明其假相。次句明其總破。以破因成故求我叵得。破相待故一切相虛。破相續故空不可得。次第復不與大論文同。佛旨深遠我別有意。大品下別引三經各證一假。此即衍門三假義也。大品者。有外緣故令內思生。思生即是所生之法。大經文者。第十二釋外道計常中云。如讀誦法。從一阿含至一阿含者。如人欲誦四阿含經。能從一部以至一部者。由相續故。阿含此云無比法也。食法亦爾。相續故飽。外計實故。謂相續常。故今破之。相續是假具如後破。淨名等者。從破邊說云不相待。四句破已。待不可得無一念住。引此衍文者。為欲顯於小衍同有故也。所謂下具列小衍各具三假。前文雖明小門三假。未云四門各具三假及所生惑。今對衍門故重列之。如來下明生惑之由。由生著故。佛教本意示人無諍。諍者人過何關法非。但三藏門拙易生諍耳。然大論文本斥三藏以為諍法。即以衍門為無諍法。故論云。佛法有二。一者諍處。二無諍處。餘經已說諍處。今欲示人無諍法。故說摩訶般若波羅蜜經。乃至有相無相有依無依有對無對有上無上。以分二門亦復如是。今則通以佛法大小。皆本示人無諍之法。故云生語見故。於十六門而起假也。如天甘露本令長生。愚食不消反令壽促。佛教亦爾。本令通至常住涅槃。以生諍故反入三途。言語見者。語謂言教。依門各計隨生一見。既不能達語下之旨。名為語見。
大経の下では涅槃をもって義を釈しています。しかし無生の義は諸教に散在しています。名相が委悉しているのは大経に過ぎるものはありません。それゆえ四句・六句を引いて無生の義を釈しています。自他・智断・能所・事理・思議・不思議を出さず、すべて無生です。すなわち因果を光揚し能顕の義なのです。いずれも第十九経にあります。
初めに四句を釈するとは、不聞聞の一句です。種々の義があるとは、経の初めに不聞聞などの四句を列ね、次に不生生などの四句をもって不聞聞などを釈し、さらに不至至などの四句をもって不生生などを釈しています。それゆえ不聞聞などには種々の義があると言うのです。今は中道に処して説き、また無生に順じています。それゆえ不生生などをもって無生の義を釈するのです。しかし古人は不聞聞・不生生などの四句を前に置き、その下の一一はただ転釈するだけであるとしました。それゆえ多くは不聞聞などの四句を釈し、余の句はただ例示するだけです。
ある説に言います。聞不聞はすなわち俗にして真、不聞聞はすなわち真にして俗、聞聞はただ俗のみ、不聞不聞はただ真のみ、と。またある説に言います。不聞聞は真より応を起こし、聞不聞は応を摂して本に還り、不聞不聞は法身凝然として、聞聞は応迹やまない、と。
不生生などについても古来多くの解釈があります。興皇は雪山偈をもって銷し、不生生は諸行無常、生不生は是れ生滅法、生生は生滅滅已、不生不生は寂滅為楽としました。また四出偈をもって銷しました。四出と言うのは、この偈が四処に出るからです。古人はこれを涅槃の四柱と名づけました。すなわち九十五・二十五・二十六です。不生生は本無にして今有、生不生は本有にして今無、生生は三世に有法、不生不生は無有是処です。また如来証涅槃などの四句をこれに対当すると言います。
章安は言います。下文に準じれば、我れ是の事に因ってすなわち一句半句の解を得、仏性を見て涅槃に入ると説いています。まさに知るべきです、いずれもこれ仏性を見る句であると。不聞聞は了因性、聞不聞は縁因性、不聞不聞は正因性、聞聞は境界性です。これに例して不生生などを釈すれば、また見るべきです。古来多くの釈があるといえども、いまだ経旨に会しません。章安の解によるならば、また一途です。
章安は言います。いずれもこのようにではなく、智断・因果ともに無生なのです。ただ経を銷するために別に一途を作したのです。かの経で仏がこの不聞聞などを説こうとして、放光して十方世界を照らしました。時に東方に瑠璃光菩薩がいて、初めて来たとき、一切大衆が非青を青と見、乃至非白を白と見るなどしました。諸菩薩らはこの光明を見て、みな互いに問いました。これは何の光かと。みな黙して答えませんでした。次に文殊に問いました。文殊は答えました。光明とはすなわち智慧であり、智慧とはすなわち常住であり、乃至すなわち如来であり、すなわち大慈であると。仏は言いました。汝は今、甚深第一義定に入ってはならない。世俗をもって解釈すべきであると。文殊は言いました。東方にこの方から二十恒沙を去って満月という世界があります。そこに瑠璃光という菩薩がいて、かの世界で光を見てかの仏に問いました。かの仏は答えました。西方にこの方から二十恒沙を去って娑婆という世界があります。仏の名は釈迦といい、諸菩薩のために不聞聞などを説いています。かの菩薩はかの仏に申しました。こちらの世界に来て不聞聞などを聞きたいと。かの世界から発って先にこの相を現したのです。
古来の諸釈がそれぞれ一途であるならば、何をもって光召の旨を表すのでしょうか。何をもって十方の大疑を生ずるのでしょうか。かの仏の遣命を枉辱することにならないでしょうか。遠来の情を補うに足るでしょうか。偈は広く諸師の意を摂していますが略されています。それゆえ軽々しく釈すべきではないと知るべきです。
この文を了るには、大師が経文を用いる意を暁る必要があります。もし余の文を釈し、および下で他為するならば、生生を初めに置いて四教に対当します。随生などの義が便であるからです。ここでは経を銷して無生の義を釈しています。それゆえ具に経文の次第に依ります。
初めに四句を列ね、次にこの下に案じて略して摂相を挙げます。不生生は自行の因です。すなわち初住の位です。不生不生は自行の果です。位は妙覚にあります。生不生はすなわち化他を能くすることです。生生はすなわち化他の所です。もしそうでなければ、何を遍と名づけるのでしょうか。それゆえ遍門の義を破しますが、一部と同じです。一部はただ自他・因果・能所であるからです。
不生生者とは、次に四句を釈します。自ら四文となります。しかし諸句の中で凡そ経釈と言うのは、いずれも大経で仏が自ら釈したものです。凡そ今解と言うのは、すなわち大師が仏の解を釈したものです。いずれも仏蔵を引き、吹唾をもって結びます。初句には結を闕きますが、義もまたあるべきです。
初めに不生生者とは、経の初句を牒します。安住以下は経の解です。今解以下は大師の釈です。所安を明かさんと欲するがゆえに先に世諦を釈し、次に能安を明かすがゆえに後に安住を釈します。理は本より不二で、非共・非離です。事に約してかつ無明共などと言います。能生・所生・能安・所安もまた同じです。止観をもって安ずるがゆえに世諦は方に不思議境となります。安はすなわち観です。この観が初めて成るを観行位と名づけます。円観をもって世諦に託して解します。観はこれ聖孕です。聖が胎に託するがゆえに託聖胎と名づけます。また聖種の中に生ずるがゆえに託聖胎と名づけます。もし初住に入るを聖胎を出ると名づけます。聖が胎を出るがゆえに出聖胎と名づけます。聖より生ずるがゆえに出聖胎と名づけます。一分の理に契うがゆえに見ずと言います。見ずとはすなわち不生で、智徳が成るのです。これ不生を釈します。
獲仏知見以下は次に生の字を釈します。論云以下は論を引き証とします。諸法はすなわち無明世諦です。般若生はこれ仏知見が開くことです。此説以下は結示です。経釈の不生不生以下は第二句を牒します。次に不生不生以下は経の解です。名大涅槃は総標です。生相以下は二つの不生を釈します。生相尽きるがゆえにすなわち智断の徳が満ちます。修道得るがゆえに果が因に由って契ることを明かします。今解以下は大師の釈です。二徳すでに円かなるを生相尽と釈します。すなわち妙覚を指して寂滅の果とします。因果以下は仏蔵をもって結びます。結とは結同の意です。
経釈の次に第三句を列ねます。世諦以下は経の解です。今解以下は大師の釈です。無明のゆえに法性と合して諸法を出生します。それゆえ無明を名づけて根本とします。ただ根本を破れば諸法は不生です。死はこれ不生の異名にすぎません。此釈以下は重ねてこの句の所用の義旨を明かします。この断徳をもって初めの智徳を釈します。もし断徳がなければ智は成就しません。それゆえ断徳をもって智を釈する必要があります。もし初句の中で智徳が成れば、すなわち初句の中の下の生の字です。もしこの句の中で断徳が成れば、すなわちこの句の中の下の不生の字です。不生は名同じと等しいとは、両句の中の不生の字を簡ぶのです。初句の上の不生の字と、この句の下の不生の字です。両処の不生はその名は同じといえども事理は異なります。初句の智徳は理に縁ずるを名づけて不生とします。この句は事惑を破し尽くして不生の名を得ます。理をもって事を望めば事はすなわち下となります。それゆえ下を破ると言います。事をもって理を望めば理はすなわち上となります。それゆえ上に縁ずると言います。
次に初句の下とは、両句の中の生の字を簡ぶのです。初句の下の生の字は智に属します。この句の上の生の字は惑に属します。両処の生の字はその名は同じといえども、初句の生の字は智に属し智はすなわち脱です。この句の生の字は惑に属し惑はすなわち縛です。それゆえ大いに異なると言います。両処ともに生と不生とがあります。それゆえ名同義異を簡ぶ必要があります。智断の二徳はすでに前後がありません。もし第三をもって第一を釈すれば、また第一をもって第三を釈してもよいのです。智断が同時であるからです。体は不二といえども必ず先に智を運んで惑を断じます。どうして惑が自ら断じて方に智が生ずることがありましょうか。それゆえかつ第三をもって初めを釈します。また仮に第三が初めに列ねられていても、また第一をもって第三を釈してもよいのです。言は書に累ならず、かつ文の次に依ります。また義の便に従うがゆえにそのままなのです。初句の下の仏蔵の結は、これすでに初めを釈します。それゆえ結の中でもまた初句を望んで相即して結びます。文は前後のようですが用は必ず同時です。それゆえ一時と言い、前後すべからずとします。
経重釈以下は経が第三句を重ねて釈したことを述べます。この初めは経の重釈を牒します。今解以下は大師が経の重釈の義を釈します。経文にはただ一生不生とだけ言います。経の前後の釈は自ら二義に分かれます。それゆえ今大師は二文の不同の相を判じ出します。まず前解と言うのは、すでに断徳と言うので、これ自行の惑が滅したと知ります。この中の重釈はすでに四住菩薩と言うので、すなわち菩薩が四住を断じて已に自在に生ずることができるのです。先に四住を断ずるとは、すなわち通教の菩薩のごとくです。なお自在に衆生を利益することができます。まして初住に入れば真因が分開します。通教の人が四住を断ずるのは劣っていることをもって、円の人 が五住を断ずるのは勝れていることを顕します。惑滅以下もまた仏蔵をもって二解を重ねて結びます。惑滅は唾を顕して初釈の化興を結び、顕吹は重釈を結びます。
経釈の次に第四句の経を牒します。一切以下は経の解です。今解以下は大師の釈です。菩薩の何意以下は向の重釈を牒し、もって能化とします。有漏はこれ生です。相続して断えざるがゆえに生生と名づけます。生生はすなわち所化の境です。是故以下は重ねて能化を牒し、生を示す意を明かします。意は所化にあります。是為以下は結んで無生の功能を成ずるがゆえんです。前の三句はともにこれ化他の能・因果・智断です。この句はすなわち化他の所です。
四住以下は大師が重ねて地持の六住の中の四住をもって、仏の重釈の四住菩薩を釈します。地持の六住はすなわち当に別義です。向に仏はなお通の劣をもって円の勝を顕しました。どうして別をもって円を顕すことがないでしょう。ましてや幸いに地持の別文があります。それゆえこれを引いて円の妙を顕します。論の六住とは十住より去って方に住の名を受けます。もし人に種性なければ等とは、十信の菩薩を指すがゆえに善道に生ずといえども等と言います。六人の数の中に在らずとは、すなわち六住の所摂でないがゆえんです。この六人はみな不退であるがゆえに、名づけて住とします。また究竟と言うのは、すなわちこれ菩薩地が窮まるのであって、永く究竟するのではありません。
種性成就はすなわち十住が満ちることです。すでに見思を断ずるがゆえに退なしと言います。一人の中に得るとは六の中の初めの人です。乃至行向はともに住の中に由ります。見思を断じて已に方に能く進行します。それゆえ数数増進と言います。すなわち第二住が親しく初地の方便となるがゆえんです。前の種性の中ではすでに空観に入っています。また別地の方便とならないわけではありません。地の遥かなるを去るがゆえにです。回向の中に至って親しく中観を修します。それゆえ方便と言います。浄心はこれ初地とは、同体の見を破するがゆえに我を離るると言います。地前の凡夫はともにいまだ断ぜざるがゆえんです。すなわちこれ別教の見道位です。行道迹とは、別の修道位で同体の思を破します。決定究竟はともに思を破します。
経称以下は論をもって経を判じます。行道迹に至りて真に出仮と名づけます。教道を帯びて説くがゆえに見思を立します。次第にここに至りてなお能く大いに益します。まして円教の五住が尽きることをや。まして一体の智断が成ずることをや。
経又次は次に六句を釈します。経中に重ねて六句を明かすゆえんは、前の四句は直ちに因果・能所・無生を明かします。無生の名はすなわちこれ破といえども、いまだ無生を破していません。それゆえ今は皆不可説であることを明かします。また前の四句は無生と言えども、いまだこれが何等の無生であるかを知りません。それゆえ六句の中で思議・不思議、生と無生と一切をともに破します。それゆえ六句は皆不可説です。すなわち今文の破遍の正意を顕します。
まず正しく六句の皆不可説を釈して自行を明かします。その中で初めに経句を列ねます。案此以下は略して句意を明かします。若破以下は大師がまずかつ経の本句を銷します。一一句の下に皆不可説と言うのは、すなわちこれ破の義です。初文はこれ略判です。思議不思議惑と言うは、まさに思議不思議解惑と言うべきです。文中は略を存してただ惑とだけ言います。次第の解惑はすなわち思議です。不次第の解惑は不思議です。解はこれ能破、惑はこれ所破です。それゆえ解惑相従して同じく思議不思議と名づけます。惑と解とはともに遍く破さねばなりません。なお不可作不思議説です。まして思議をや。それゆえ一一句の下に皆不可説と言います。
問います。思議は破すべきですが、不可思議は何の用があって破するのかと。答えます。理は遍円にあらざるがゆえに皆破さねばなりません。もし円を破すれば円の異偏を破します。円理を破しないがゆえに不破聖人心中所得涅槃と言います。いまだ得ざる者の執が戯論を成ずるために、それゆえ破するだけです。
何者以下は釈です。まず四句の思議解惑を釈します。その中で先に惑を破し、次に解を破します。初めの惑の中に二句あります。初めは釈して可思議を成じ、次は釈して不可説を成じます。初句に界外の惑と言うは、理体は不生であるのに惑はこれ生です。それゆえ不生生と言います。界内の惑を枝末と言うのは、界外の惑はすでにこれ生です。生の惑の上から復た惑を生ずるがゆえに生生と言います。界外はすなわち無明の惑です。界内はすなわち見思の惑です。麁細があるがゆえに、内外があるがゆえに、それゆえ判じて可思議の惑とします。
此惑以下は相待の相を示します。初めに生生がこれ所化の境であることを明かします。並と言うは、凡そ生生は皆所化であるがゆえんです。因に所有るがゆえに能が成じ、それゆえ相待が成じます。所化すでに不可得以下は不可説を釈します。能化・所化ともに皆不可説であることを明かします。ちょうど幻人が幻人のために法を説くようなものです。
問います。能化はすでにこれ別惑です。何のゆえにか自在と言うのかと。答えます。すでに通惑を断ずれば、すなわち通惑に対して自在と名づけます。もし別惑に対してはなおこれ繋縛です。枝と本とはともにこれ法性です。すなわち法性を観じて惑を亡ずるを不可説と名づけます。
次に若破以下は思議の解を破します。また初めに二句を釈して可思議を成じ、次に総じて釈して不可説を成じます。界外の解を双遣と言うは、前より名を得ます。またこれ異時の相望を双と名づけます。まさに破惑と言うべきです。今、破分段変易と言うは、因中に果を説きます。惑を破るがゆえに生死も必ず破れます。界内の惑を破して生を不生とします。それゆえ生不生と言います。
問います。界外の惑はすでにこれ能化です。界内の解と何の差別があるのかと。答えます。界内の解は界内の惑を破して解の名を得ます。界外に生じてもう彼において具縛です。界外の惑と名づけます。当分に惑と名づくといえども、能く界内の惑を化します。体は別ならざるといえども名を得る処が殊なのです。
此解以下は相待の相を示します。十六門が異なるがゆえに種種と言います。浅より深に至るまで皆自行に属します。前後の次第および化他の位を四教に望めて説けば、まさに多種の因果不同を成じます。第一巻の四弘の中で説くがごとくです。理尚以下は不可説を釈します。四種の道諦はこれ能趣の行、滅理法性はこれ所趣の理です。理体はなお無です。どうして種々の能趣・所趣を得ましょうか。それゆえ皆不可説です。
次に不思議を破する中でもまた先に惑、次に解です。この解惑はただ無明を点じて円理に対します。内外・枝本の殊を分かちません。それゆえ名づけて不思議とします。初めに惑を破する中でまずかつ釈して不可思議を成じます。それゆえただこれ無明と言います。無明不可得以下は不可説を明かします。不可得とはすなわちこれ不可説にすぎません。
次に不可思議の解を破するとは、また先に不思議の相を示します。それゆえただこれ円解と言います。ここで円因・円果を判じ出します。理不偏円以下は不可説を明かします。理は偏にあらざるがゆえに偏に説くべからず、理はまた円にもあらざるに何ぞ円に説くことができましょうか。
将彼以下は用句の意を明かします。仏自以下は次に大師が仏の釈したところを釈したことを明かします。それゆえ句句の中に皆まず仏自釈を挙げ、次に今解以下で大師の釈したところを明かします。意は仏釈を扶けただ少し広いだけです。一一句の中に皆依仏此旨と言うのは、大師みずからすでに仏意を申べ、重ねて仏旨を述べて自分の見に符じたと言うのです。生即顛倒以下は不可説を明かします。
次に第二句を釈するにもまた先に経釈を挙げます。今解以下は大師の釈を明かし、また二つあります。先に生生を釈します。八相の所遷は全くこれ有漏です。八相の所遷は具に前の釈のごとくです。問います。八相の中で小が大を生ずと言います。ここでは何ゆえ大が小を生ずるのかと。答えます。大生があるによって小生を引起します。それゆえ小生に大を生ずることを得せしめます。生生故不生等は不可説を明かします。有漏の生はすなわちこれ空中です。空中は言思の所得するところではありません。それゆえ不可説です。ただ空中と言うは、かつ法性空中をもって幻仮に対説します。その実はまさに幻仮すなわちこれ不思議仮と言うべきです。何となれば、今ただこの仮をもってすなわちこれ空中とします。この仮は任運に不思議を成ずるがゆえに別に説きません。前の第一巻の四弘文の意もまたこれと同じです。
次に第三句を釈するにもまた先に経釈を牒します。次に今解以下は大師の釈を明かし、また二つあります。先に生不生を釈します。生即名為生とは上の生の字を釈します。般若生ずるとき諸法不生に由ります。生不自生以下は不生の字を釈します。すなわち四句をもって諸法を推破します。諸法破し已わればなお無句すらありません。何に四句がありましょうか。それゆえ般若は四句の生にあらざるを不生と名づけます。また般若生時以下は重釈です。反って不生生をもって生不生を釈します。生即無生とは、まさに般若生ずるとき世諦すでに死するによって、なお生といえども生ずるに自在を得るがゆえんです。すなわちこれ生不生です。若般若生以下は釈して不可説を成じます。若般若生とは上の初解の中の第二解を牒します。また次解の中の初解です。般若生時と言います。若自在生とは上の第二釈の中の後解を牒します。而生三界と言います。この二つの生は皆、生として説くべからざるは、体が次第にあらざるがゆえんです。
次に第四句を釈するにもまた先に仏解を牒します。今解以下は大師の釈を明かし、また二つあります。先に不生不生を釈します。尚非以下は不可説を明かします。据此以下は句を判じます。すでに極果と言うので、これ界外の解と知ります。
次に第五句を釈するにもまた先に経を挙げます。今解以下は大師の釈です。また先に生を釈します。界内外の生はただこれ無明とは、前の二句の思議の惑を覧ずるに、ただこれ一念の縁に従って生ずる惑です。この惑はただこれ障中の無明です。縁生即空即中以下は不可説を明かします。界内外の生は生の義は殊なると言えども、今観ずれば同じくこれ一念の縁生です。すなわち空・すなわち中です。何となれば、一念すなわち畢竟空、すなわち法性中と見るがゆえんです。前は生生に対しこれ可思議とします。この思議はこれ空・これ中と見ます。今は一念すなわち三惑を具すと見て、不思議惑と名づけます。道理はすなわちこれ即空即中です。大意は前に同じです。
次に第六句を釈するにもまた先に経を牒します。今解以下は大師の釈です。また二つあります。先に不生を釈します。また前の二つの思議の解を覧ずるに、すなわちこれこの中の不思議解です。それゆえ及界内外解並皆是得と言います。得とはすなわち理に詣ることです。理絶心口以下は不可説を明かします。復た円理として作すべからず。理に説なくば名づけて不可説とします。
仏以下は随結破遍です。偏円の解惑は悉く皆不生です。皆不可説なるがゆえに名づけて遍とします。依仏蔵以下は総じて仏蔵をもって、前の四句・六句を貫結します。前四句亦吹亦唾と言うは、初めの四句を結びます。初めの四句の中で初句はすなわち吹にして唾、次と第三句はすなわち唾にして吹、次に第二句は吹唾成就、第四句は吹唾の所化です。まさに知るべきです、前の三句の中では句句の中に吹があり唾があります。第四句はもし単に所化に約せば義は吹に属します。吹は独り用いず、義はまさに唾すなわちです。もし所を以て能を顕せば、全くこれ吹唾の功用です。後の両句とは、六句の中の後の両句を言います。この両句をもって両向に用います。六句の末に在るは同じく唾と名づけます。唾とはすなわちこれ破です。破とはすなわちこれ不可説にすぎません。それゆえ六句の中の句句に皆不可説と言います。もし前の四句の文を結せば、二句はすでにこれ不思議の解惑です。解惑相即し智断不二で、吹唾の義と同じです。それゆえ前の四句の智断を結するに用います。これはすなわちただ上の生不生を用い、二句の下の不可説を論じません。それゆえ生の字を用いて前の吹を結し、不生の字を用いて前の唾を結します。もし後に二句の下の不可説を兼ねてまた前を結せば、前の吹唾を結して皆悉く相即し、また相即として説くべからざるのです。
また楞伽云以下は復た楞伽をもって六句を釈成します。先に楞伽を釈し、次に大経と楞伽と同なることを結します。初めに楞伽の義を釈するとは、かの経の第四無常品に云います。大慧が仏に白しました。仏の言うごとく、我れ某の夜に最正覚を成じ、某の夜に般涅槃に入り、中間に一字も説かず、已に説かず、当に説かず、今説かず。これ仏説なり。世尊、何の密語に依ってかこのような説を作すと。仏言く、二の密語に依ります。自証法と本住法とを謂います。しかし一代の施化にどうして権智の物を被るの教が無いでありましょうか。ただこの二に約せばいまだ曾て説ありやと言うのみです。それゆえ説かずと言うのです。今、自法と言うはただ自証に約するのみです。
自法者以下は向の経中に列ねた二つの法を釈します。また先に経釈を列ねます。初めに自法を釈する中で、彼如來と言うは、過去の諸仏および現在の十方の諸仏を謂います。かの仏と一体を証して殊なることなく、多くなく少なくなくして不増減と名づけます。離言説等とは、重ねて自証の所離の法を釈します。釈曰以下は今、経意を釈します。離言説等とは、かの経の第七に云います。言説を離るるとは議すべからず、妄想を離るるとは思すべからず、文字を離るるとは仮名文字を離るるなり。凡そ能詮の教は仮名にあらざるはありません。自証法に約せば何の文字かありましょうか。二趣と言うは、複ねて疎かに前の言説仮名を釈します。情が妄計してただ能説・能思・能名を離れ、すなわち所説・所思・所名をもって真体と為すを恐るるがゆえに、復た疎かに二趣ともに離ると云います。何となれば、自証の中では能所を見ず、名づけて二趣を離ると言います。
本住次は次に本住法を釈します。仏の自行の所行の道、および仏の本若実相の理を謂います。ともに修成にあらず作る法にあらざるがゆえに遍く一切処に在り、改易すべからざるがゆえに名づけて住とします。理はこれ所至、道はこれ所行です。それゆえ譬を挙げて云います。ともにこれ行者・至者の作るところにあらず、ゆえに本有道は人の行くところです。どうして行者が作るのでしょうか。本有理城は本道に由って至ります。また行人に由って能く理に至ります。それゆえともに至者の能作にあらず。経の初めにまた云います。本住法とは、金が鑛にあるがごとく、および所至の城のごとし。鑛は別を兼ぬるに似、城は必ず円に従います。
経曰以下はかの経を引いて釈を助けます。かの経の次の文はすなわち古城を以て喩とします。仏が大慧に問います。かの城および道、ならびに城の中の物は、かの入る者の所作であろうかと。答えていわく、そうではありません。士夫行人はただ本有常住の道に随って、実相城に至り、万徳祕蔵の物を得て、もって如意涅槃の楽を受けます。本に涅槃を期するがゆえに如意と言います。
当知以下は前に総じて意を結します。口言にあらざるは議すべからず、分別にあらざるは思すべからず、本法に称するがゆえに変異すべからず。此義以下は会同の中です。すなわち生生をもって本法と為します。前の生生の釈は有漏法を指します。今は有漏の体が全くこれ理であるを指します。問います。前の釈では何ゆえこれ所化と言い、今は何ゆえこれ本法と言うのかと。答えます。一切の所化は本法にあらざるはありません。それゆえ暁法師が云います。水は波の末に窮まり、波は水源に徹すると。生は縁に随順して生ずるがゆえに不可説とは、前の生生の不可説を結します。それゆえ前文に釈して云います。生すなわち空中なるがゆえに不可説と。今もまた同じです。縁に随順して生ずるは不可説、生すなわち空中なるがゆえです。第二・第三句は前に準じて知るべし。不生不生すなわち究竟とは、智断の究竟です。余はみな前に同じです。
大経云十因縁次は次に可説を明かします。凡そ諸文の中で不可説の後には、必ず可説を明かすとは、先に自証し已わって必ず化他するがゆえんです。十二因縁の中に生死を云わないとは、これは未来に属します。今、過去より現に至りてもって機根を成ずることを明かすがゆえに取らないのです。それゆえ大経の中で前の不可説の文の後に続けて、すなわち十因縁法は生のために因を作すと云います。十因が生のために因を作すと言うは、宿の種子が無明行の中に在って今世に来たり、また本習に依って愛取有を起こし、また現在に由って法を聞き習を発します。この中の因縁はかつ衆生の十因縁の辺を語ります。また義は感応の因縁を兼ぬることもあるべきです。仏の四説を感ずるはすなわち因縁の義です。かの地持の文に四種性を立てます。その中で声聞種性は永く滅に入る者を謂います。今の所用ではありません。しかし瑜伽論・解深密経などは、ともに方等部に摂せられます。挫して永入と言い、策発して起さしめます。浄名の中に迦葉が自叙して云うがごとくです。この大乗において已に敗種のごとしと。敗種になぜ更に生ずるの理がありましょうか。法華会の中に至って根を得て記を得ます。それゆえ今文はかつ方等に付します。ただ四性をもって四教に対すれば、義味は泯合します。
問下料簡の中の初文は第四句を立てしめます。機に赴くはこれ立ち、六句はこれ破です。前の四句の中には智あり断あり、すなわち義は当に亦破亦立です。答の中でもまた大経の文をもって答えます。かの文は五行を釈し竟わって、次に十功徳を明かして云います。十事の功徳は不可思議にして、難にあらず易にあらず等と。まさに知るべきです、十徳は皆中道を証します。この五行・十徳は古来多くの釈があります。瑤亮は云います。五行はこれ略、十徳はこれ広、各々二徳をもって一行に対当すと。宗師は破して云います。初めの六を三の相貌に対当するはまさに爾るべし。後の四を行に対当するは全く相応せずと。光宅は云います。行と功徳とは一体異名にして、ともに因より果に至ると。開善は云います。五行は浅く十徳は深し。五行とは初心より始めて地前に終わる。十徳とは初地より始めて金剛心に至る。もし別義と作せば開善最も親し。もし円義に依れば光宅似て当れり。具に玄文に円の五行を明かすがごとし。しかしまた全くかの経を用いるのではありません。ただかの経文は円を兼ね別を帯びます。十地の証道は円と同じといえども、地前の教道はいまだ聞かざるがゆえに、不可思議なり、聞く者は驚怪すと云います。河西は云います。もし梵本に準ずればまさに希有奇特と言うべし。鈍根小智は聞けばすなわち驚怪す。訳者はこれを略し、ただ不可思議等と云うのみと。章安は釈して云います。深く底なければゆえに驚き、広く辺なければゆえに怪しむ。分別智の能く知るにあらざるがゆえに非難、泥洹智の及ばざるがゆえに非易、真にあらざるがゆえに非内、俗にあらざるがゆえに非外、色にあらざるがゆえに非相、心にあらざるがゆえに非非相、去来今なければゆえに是れ世法にあらず、中辺なければゆえに相貌ありや。四を絶し百を離るるがゆえに世間に無き所なりと。疏の中では非方円尖邪を釈しません。今助けて釈していわく、別にあらざるがゆえに非方、通にあらざるがゆえに非円、空にあらざるがゆえに非尖、有にあらざるがゆえに非邪。もし非破非立と言と作せば、非破なるがゆえに非難、非立なるがゆえに非易、非破なるがゆえに非内、非立なるがゆえに非外、非立なるがゆえに非相、非破なるがゆえに非非相、非破なるがゆえに非円、非立なるがゆえに非方、非立なるがゆえに非尖、非破なるがゆえに非邪。
次に問うとは、円に四門あり、もし無生が摂尽するならば、何の用があって諸門があるのかと。答の意は、今無生を説けばすなわち無生が摂尽すると云います。もし余門を説けばすなわち一一に各々摂尽すと云うべきです。今は行の便に従ってかつ無生と云います。乃至開いて三十二門と為します。どうして四のみでありましょうか。すでに智断の二徳より門の名を立てると云うので、三十二門はかつて別異ではありません。一門を挙げるに随って三十一を摂します。月に増減なし等とは、譬えて異ならずして異なることを示します。惑智の辺に約して増減ありと説きます。増減を見るといえども月体は常に円です。諸門は智断の二徳に依ります。ただ能入の差別不同に従います。しかもその理体はかつて生滅しません。大経に云います。須弥山に因るがゆえに虧盈ありと。倶舎は復た云います。日に近きがゆえに自影に覆われると。諸小乗経には多く白銀瑠璃が漸次互いに現ずると云います。それゆえ増減があります。今この意を取って増減なしに譬えます。意ははなはだ便なり。
若無生以下は門をもって遍を結します。問う、無生門は門の称は無生なり等とは、門の称が無生ならばすなわち一切悉く無生と称すべきです。前の諸句の中に何ゆえ復た無生生等と云うのか。無生生はこれ初めの四句の中の第一句、生生はこれ第四句、生自在なるがゆえにこれ第三句。三つの生句を引いて無生を難じます。答の意は、三句は生を明かします。ともにこれ無生の功能なるがゆえんです。
次に正しく破法遍を明かす中で初めに三章を列ねます。一一の章門に皆、始より終に至るまでその源底を尽くすと云うは、標の中に探って章の中の意を説きます。源を尽くすがゆえに横に周り、底を尽くすがゆえに竪に窮まります。竪破は灼然として始あり終あり。一一の見、一一の品の思に於いて法界にあらざるはないがゆえんです。横門は一一また各々復た始より終に至るがあります。不二門の中にも横竪なくはありません。かくのごとく皆悉く横竪不二です。もしかつ三章各々の説に従わんと欲せば、三惑は各々遍きを名づけて横周とし、通じて実相に至るを名づけて深窮とします。一一の惑智理は横竪にあらず。横の中の一一もまたかくのごとし。また横に一切を摂するを名づけて横周とし、一一の至極を名づけて竪深とします。不二門の中に具さに諸横を摂するを名づけて横周とし、円極にあらざるなし、ゆえに竪深と云います。三文ありといえどもただ二義を成ずるのみ。次と不次とを謂います。横竪はただ次第を成ずるがゆえんです。二義ありといえどもともに一心を成じます。まさに知るべきです、竪の中に具さに横および不二あり。余の二もこれに類します。それゆえ竪はすなわち高を論ずと云います。乃至竪にして広からざるはなし。法華の大車の意もまたかくのごとし。まさに知るべきです、ただこれ高広の大車です。それゆえ横竪はただ相入を論じ、不二を論ぜざるを得ず、いまだ縦横を免れません。横竪は皆遍ずといえども、不二を識らねばなりません。それゆえ次に釈して云います、非横非竪と。文に随って見る者はどうして深きに迷うことがありましょうか。それゆえ一家の釈義は前に総じ次に別し、後また結撮して元意に帰します。意はかくのごとしといえども不二を顕すためです。また章門に依って横竪に釈すれば、すなわち一中に於いて横竪に浅深を甄分して乱れません。
一無生門下は先に竪章を列ねます。また先に列ね竟わります。次に如此以下は竪章の意を述べます。この文は分明に三に寄せて一を顕します。どうしてこれを棄てて漫に偏文を指すことがありましょうか。大論下は論を引いて三に寄せて一を顕す意を証します。それゆえこの中の文は三、義は三、意は度入して不二の一心中の破に帰するにあります。それゆえ下文の句句の中に皆一文一義一意があると知るべきです。文を煩わさざるがゆえにかつ六処を立てます。
華厳下は重ねて華厳の意を引いて、もって今文を顕します。かの経の二根にして両意を分かつとは、これもまた先に次、後に不次を論ずるがゆえに、それに似ています。かの次を説くも、意はまた円頓の不次を成ずるためです。今と似て同じです。もし今文を論ずれば観に約してただ別を借りて総を顕すのみです。全く別教の意にあらず、また法華の唯一とは異なります。すなわち鈍を開いて利と成します。人は開かれざるなく、法もまた二なし。まさに今の意に当たります。今欲下は文の元意を顕します。諸教すでにかくのごとし。今もまたこれに依ります。それゆえ読者に示します。あらかじめ文前に於いて遥かに六処を点じて要意を結撮します。一は破見位の後、二は破思位の後、三は四門料簡の中、四は出仮利益位、五は結破法遍文の後、六は修中観文の初めです。しばしばこの六文に於いて懃に指的します。顕露彰灼であるのに読者はなお昏し。まして沈密隠映ならばどうして解を取ることができましょうか。それゆえ逆に綱領を提げて至文に重ねて示します。これはなお標章・指意などを論ぜず、ただ直ちに文内にこの六重あるを指すのみです。
初めに見仮より空中に入るを釈します。先に解より名を得るを明かし、次に当体の称を受くるを釈します。初文の中でかつ通じて釈して見惑等とは、見の従って生ずる所および能障の功能を明かします。如焔下は譬を挙げます。焔夢は見惑です。空覚は真体です。此惑下は合わします。しかし見はすなわち理を見るとは、解より名を得るを釈します。見惑の次に列釈します。単四見の中でもまた先に四見を列ねます。於一下は先に有見の中の利鈍十使を明かします。初めの利の中で、有於我と言うは、外人が我を計します。あるいは麻豆および母指などのごとく、あるいは遍身の神・身の四句および一異等を計します。我を計して忘れざるを名づけて我見とします。我の断常を計るを名づけて辺見とします。断常を計るにより因果を信ぜず、復たこの我を計って自然・冥初・世性と為します。世性とはすなわち二十五諦および六諦等です。あるいは父母・微塵・梵天などより生ずと計します。皆な邪見と名づけます。邪を執して道と為すを非因計因と名づけます。戒取見と名づけます。この見によりて通じて非想に至ると謂います。これを信じて余を信ぜざるを名づけて見取とします。是己法者愛下は、見惑に因って鈍使を起こすことを明かします。如是下は三界四諦を歴て八十八使を結します。文のごとく見るべし。三界合わせて五十二の鈍、三十六の利あり。鈍の五十二とは、欲界二十、四諦各々五、上界に瞋なし、ただ十六、上の二界合わせて三十二と成し、欲の二十を合わせて五十二とします。利の三十六とは、三界各々十二なるがゆえんです。欲界の中の苦下に具に五あり、道下に三あり、身辺を除き、集滅各々二あり、身辺戒取を除き、合わせて十二とします。上の二界もまた同じ。三十六および五十二、合わせて八十八。
問います。四諦の下の惑は何の理教に依って減不同なのでしょうかと。答えます。阿毘曇に依れば上界には恚を行ぜずと。問います。何ゆえ身辺はただ苦にあるのかと。答えます。この見は身に依るがゆえに身見と名づけます。身見に依って辺見を起こします。余の三は身にあらざるがゆえにこの見はありません。また見苦断なるがゆえに苦の下にあります。問います。戒取は何ゆえただ苦道にあるのかと。答えます。ただ彼の所起なるがゆえんです。問います。戒取は因を計り、苦諦はこれ果です。何ゆえ苦にあるのかと。答えます。多くの苦行を計って実因と望むがゆえに苦の下にあります。出道にあらざるがゆえに妄りに出道と謂います。それゆえ復た道の処に於いて能く起こします。集滅はこれと異なるがゆえに身見なし。身見なければまた辺見なし。集滅は道にあらざるがゆえに戒取を生じません。また復た戒取が苦道の二諦の下にあるとは、本は内道は苦を見て能く断じ、本は外道は道を見て能く断ずるがゆえに、ただ二にあるのみです。問います。八十八の中の初果の所断は、すでにただ見惑のみです。何ゆえ中に五十二の思があるのかと。答えます。この思は見に依り、見を根本と為します。ただ見を断ずれば根壊れ条枯れます。もし事に迷う思はこの中に摂せられません。それゆえ文に云います、是己法者愛と。すなわち五見を指して己法と為します。問います。修所断の中に何ゆえ疑がないのかと。答えます。見道すでに断じ、理は合に疑なしとすべきです。余の三見下はただ有に例すれば三見は解すべきです。ただ無等をもって根本と為すのみです。我を計って是れ無、乃至非有非無と計るがごとし。
若歴下は六十二を歴て各々八十八を生ずるを明かします。瀾(力旦反、また力丹反)瀾漫は游波の意です。漫もまた散漫、縦逸の意です。この倒惑が波の逸するがごとしと言います。五十校計下は百八を生ずるを明かします。この経は後漢の安世高の訳です。所立の法相はやや諸経と異なります。経に云います。仏は王舎に在り、十方の菩薩が仏に問いました。何ゆえ諸行の因縁は不同なのかと。仏言く、五根および意識を校計し、一切法の本と為し、十方の仏智を得よと。問います。云何が具足して道を行ずるのかと。常に根識を守りて校計を修する者は黠菩薩と為し、もし校計を修せざる者は癡菩薩と為すと。問います。云何が校計を修せざるを癡と為し、校計を修するを黠と為すのかと。仏は五十法をもって答えました。一一の法の中に皆、校計と云います。それゆえ五十校計と云います。一一の法の中に皆百八あり。初めに百八の癡を尽くし、次に百八の欲を尽くし、乃至百八の真証・百八の尽力を得ます。諸菩薩が問いました。云何が百八かと。仏言く、念う所ありて自ら心の生じ心の滅するを知らず、陰あり集あり、知らざるを癡と為す。意地に転入するもまたかくのごとし。識もまたかくのごとし。これを意の三と為します。好色・中色・悪色を見て、自ら著するを知らず、自ら滅するを知らず、陰あり集あり、乃至触もまたかくのごとし。かの経はただ六根各々六を列ぬるのみ。三世の語はないといえども、結んで百八と云います。それゆえこれ刹那に約して三世と為すと知ります。すでに心意識の三を意地の三と為すがゆえに、三世に通じます。集起を心と名づけ、籌量を意と名づけ、別知を識と名づくると云うがごとし。意の三すでにかくのごとし。それゆえ所依の五根もまたかくのごとし。三世三箇の三十六なるがゆえに、百八あり。
経また問うて云います。我れ設い百八の癡の滅するを知らば、癡と為すか黠と為すかと。仏言く、いまだ黠ならずと。諸菩薩が言いました。何ゆえかくのごとしかと。仏言く、なお百八の癡あり、乃至いまだ百八の尽力を得ず。念念の中に六根を離れず、刹那の三世なるがゆえに、一一の見に皆百八あり、乃至五十箇の百八煩悩あり。それゆえかの経に云います。心を挙げ念を動ずるに生死は尽きずと。もし大論に準ずれば六根各々三受、三受は三塵に対し、三世をもって百八と為します。これはすなわち果報に約して三世を論ずるものです。もし諸論の中では、復た十纏を以て八十八に加えて九十八と為し、十思惟を加えて一百八と合します。十纏と言うは、論に云います。纏は八あり、無慚愧・嫉・慳ならびに悔・眠、および掉挙・昏沈、あるいは十に忿・覆を加うと。それゆえ念念に多くの百八あると知ります。理は含み義は別です。大論また総じて十四難をもって六十二見を摂します。三世各々四句、ならびに根本の二句を謂います。この難ある者は答うべからず。当知下は結です。心昏く眼盲し。盲なるがゆえに見ず、昏なるがゆえに覚らず。すなわちこれ無明にして心昏く、智慧の眼盲し。ゆえに見ず覚らずして真諦の理を見ざるのです。
世講者下は謬を斥けます。彼はともにこれ見なるを知らざるがゆえに、謬って去取を生じます。講者とは私解です。此語下はその謬見が経に違し心に負することを明かします。世間の人はただ初三はこれ見、二四は見にあらずと云います。すなわち六十二の中にただその半ばあり。それゆえ欠少と云います。それゆえ経に違します。負心と言うは、もし実にこの見を作せばただ経に違するの失のみあり。もし隠れて知りて虚しく説けばすなわち心に負するの過があります。中論下はかつ有無ともにこれ性計なるを証します。計はすなわちこれ見です。無すでに見を成ずるならば、まさに知るべきです、第四句も悉くまたこれ見なるを。また此下は験に非ざることなきを証します。それゆえ見に属すると知ります。諸外道下はこれ邪人の所得です。験じてこれ見なることを知ります。初文は通じて外道の所計を挙げて、もって人非を辨じます。本劫本見等と言うは、長阿含の十三に云います。仏は善念梵志に告げました。この本末見は六十二を出でず。本劫本見一十八、末劫末見四十四、合わせて六十二。十八と言うは、四つの四句および根本の二あり。初めの四句とは、一には二十劫の成敗を見、二には四十劫を見、三には八十劫を見、四には捷疾智をもって説く(一一句に皆、神および世間は常と云う)。第二の四句とは、一には我および世間は半ば常、半ば無常、二には戯笑に由ると計し、三には失意に生ずと計し、四には捷疾智をもって説く(広くは初句のごとし)。第三の四句とは、一には神および世間は有辺、二には無辺、三には上下方に辺あり、四には方に辺なし、四には捷疾智をもって説く(広くは初句のごとし。この第三・第四の四句の初めに皆云う。あるいは沙門婆羅門ありて、種々の方便・定意をもって二十劫等を観見す)。第四の四句とは、一には我れ善悪に報ありや報なきやを知らず見ず、二には我れ他世ありや他世なきやを知らず見ず、三には我れ何者か善、何者か悪を知らず見ず、四には愚癡暗鈍にして他に随って問答す(この四句の頭に皆、異問異答を説く)。根本の二句とは、一には定意をもって衆生の未来に因縁なくして有るを知り、二には捷疾智をもって説く。
次に末劫末見の四十四句とは、初めの四四句の中の第一に有想の四句あり。一には我れこの終後、有色有想に生ず、二には無色有想に生ず、三には有色無色有想に生ず、四には非有色非無色有想に生ず(広くは初句のごとし)。第二の四句とは、有辺無辺をもって有想に対し四句と作します。第三の四句とは、有楽無楽をもって有想に対し四句と作します。第四の四句とは、一には有想、二には若干想、三には少想、四には無量想。第二に二つの四句あり。初めの四句とは、有色無色をもって無想に対し四句と作します。初めの四句のごとし。ただ無想をもって有想に替えるのみ。次の四句とは、有辺無辺をもって無想に対し四句と為します。初文の中の次の四句に説くがごとし。ただ無想を改めて有想に替えるのみ。第三に二つの四句あり。初めの四句とは、有色無色をもって非有想非無想に対し四と為し、次の四句とは、有辺無辺をもって非有想非無想に対し四句と為します。この両つの二四は前の四四と合わせて三十二句と成します。復た断見の七句あり。一にはもし沙門婆羅門この論を作さば、我が身は父母の乳哺・衣食・長養より生じ、終に磨滅に帰す。二には欲界の諸天に生ず。具足して断滅す。三には色界の諸天に生ず。具足して断滅す。四には空処、五には識処、六には不用処、七には非想非非想処(広くは欲界の句に説くがごとし)。次に常見に五句あり。一切衆生は現在涅槃と計します。一には現在五欲自恣なるを涅槃と計し、二には初禅、三には二禅、四には三禅、五には四禅(ともに涅槃を得たりと計す)。合わせて十二句。前の三十二句を合わせて四十四句とします。経釈ははなはだ広し。数は六十二といえども単四句見を出でず。
捉頭抜髮とは、すなわち六十二見の中に有無等の見が互いに是非するがごとし。大経十八のごとし。耆婆が闍王のために外道の譬を作す中に云います。二人の小児が相牽いて闘諍し、頭を捉え髪を抜くを見る。章安は釈して云います。二人の小児とは断常・有無、互いに是非するは頭を捉え髪を抜くがごとし。因すでに不善なれば果の苦は無辺、ゆえに生死は浩然たり。如長爪等とは、次に長爪を挙げ、また四句を出でざるを示します。大論の第一に云います。ある外道梵志ありて長爪と名づく。また先尼とも名づけ、また婆蹉とも名づけ、また薩遮迦とも名づけ、また摩楗提とも名づく。これ大論師にして一切の論は破すべく、一切の語は壊すべく、一切の執は転ずべしと計し、ゆえに実法として信じ敬すべきものなしとします。舎利弗本末経の中に説くがごとし。舎利弗の母はすなわちその姉です。姉は一人の者を見る夢を見ました。具に法華疏の舎利弗の縁の中のごとし(云云)。学び竟わって国に還り、甥を覓めて見ず、世尊に往いて難じて云いました。一切の論は破すべし等と。仏は一句をもって責めて云います。汝、是の忍を見るやと。久しく思惟して一法も心に入るを得ず、すなわち云いました。沙門瞿曇は我を著して二つの負門の中に置くと。もし我れ答えて忍とせば是れ負門麁にして、衆人皆知る。云何が自ら言いて忍びずとし、今忍と言う。現に妄語を見る。もし答えて我れ見て忍びずと言わば、是れ負門細にして人知る者なし。すなわち答えて言いました。是の見もまた忍びずと。仏言く、忍びずはこれ見なり。何をもってか他を破せん。衆人異なることなし。何の用があって自高して慢を生ずるかと。長爪は是において能く仏に答えず。自ら負に堕せりと知り、世尊は我が過を彰せず、是非を言わず、心、調柔軟にして法眼浄を得ました。すなわち単四句の中の非有非無見に摂せられます。もし下文に準じ、ならびにこの中の意に準ずれば、長爪の義はまさに単四見の中の後の三見および無言見に当たります。もし一切不受と言わば、すなわち無見に似ます。
高著下は況を挙げて釈します。すなわち長爪を指して外道の中の高流上輩とします。所学すでに著なれどもなお単を出でず。まして余の暗鈍にして時に随って問答する者はや。今判下は今家が前の本末見等を判じ、ともに単を出でずとします。
次に複見を明かします。句別に二を具するがゆえに名づけて複とします。一一みな法塵に縁って起こります(云云)。於一一下は複見が惑を生ずるを明かします。具足下は具足句を明かします。句法は四に至ります。今、一の中に四を具するがゆえに名づけて具足とします。単複不同といえども、ともに四をもって句法とします。それゆえともに四と云います。ただ三四の中に単複具が異なり、三四句の名を得るのみです。単はすなわち四人、複はすなわち八人、具は十六人。複の中に一往句を列ねます。単四句の上に各々有無を加うるに似るといえども、有有は単の有に同じ、無無は単の無に同じ。ただ有の上に無を加え、無の上に有を加え、第三・第四は各々二句を加えます。句法はまさに亦亦有亦無有・亦有亦無無・非有非無有・非有非無無と言うべきです。今文は両亦・双非を開き、有無を合します。この開合はあるいは写誤、あるいは別の意あり。第二本にはいずれも句を列ねず、ただ直ちに複具と標するのみです。これはすなわち修補の時に添えました。まさに元の聴聞に具さに列釈を聞いたのであるべきです。今加えて私謂と云わざるがゆえんです。すなわち四単の上に更に六句を加えて複句と為します。具足四句も一往は単四の上に各々四句を加うるに似ます。しかし有有は単の有に同じ、無無は単の無に同じ。両亦の上に両亦を加うといえども単の両亦に同じ、双非の上に双非を加うといえども単の双非に同じです。すなわち前の単の上に一十二句を加えて成じ、前の複の上にただ六を加うるのみです。前の単複を合わせれば十六と成します。すなわち一四句の上に、これを離してはなはだ二十八人と為します。計はただ十六句を成ずるのみです。それゆえ六十二の中に複具はありません。
次に一句下は所生の惑を具します。次に絶言見を明かします。一一下、諸四句の後に各々絶言あり、各々若干を生じ、諸惑やまず。ゆえに一一と云います。又約下次は復た仏法に依って見を生ずるを明かします。また絶言および所生の惑があります。余はみな文のごとし。
復次下は当体の名は見なり。見はただこれ仮です。仮とはただこれ不実を義と為すのみ。名を得るは殊なるとも見の体は別ならず。重ねて当体に仮名を立するゆえんは、一一に三仮の義を立さんと欲するがゆえです。見の体はこれ仮なるを知るがゆえに、それゆえ先に見体はこれ仮と云います。仮とは三仮を謂います。また前文に云います。解より名を得、理を見て方に断ずと。云何が理を見て必ず三仮を推すのか。それゆえ復た当体は仮と名づくると云います。まさに四句をもって仮を破すべきです。仮破るるがゆえに理を見ます。また合せて仮の所生の惑と言うべきです。この釈は三仮が惑を破するためなるがゆえに、惑を生ずべきではありません。もし四句および性相空なければ還って惑を生じます。それゆえここではいまだ明かさず、後の文に出します。
法塵下は三仮の相を釈する中で、先に心に約して釈します。内に因り外に因り和合して方に成ずるがゆえに、所生の法を名づけて因成仮とします。念は不実なるがゆえに前念は滅し、滅し已わって復た生じ、生ずる者は必ず滅し、能く相続すると計るを名づけて相続仮とします。他は己に待つがゆえに他と名づけ、己は他に待つがゆえに己を仮立します。相待不実を名づけて相待仮とします。もし竪に待せば意もまたかくのごとし。三無為と言うは、一には虚空、二には択滅、三には非択滅です。古くは数縁・非数縁と名づけます。倶舎の頌に云います。此の中空は無礙なり。虚空は無礙を性と為すを謂います。いわゆる所見の空一顕色および竅隙等を謂うのではありません。頌に云います。択滅は離繋を謂い、繋事に随って各々別なり。三界に繋るに随い、見見品品みな名づけて繋と為します。所繋の不同なるを名づけて随事とします。一の繋を離るるがゆえに一の択滅を得ます。択力の所得の滅を名づけて択滅とします。択とは断智を謂い、推度して滅せしむるがゆえに択滅と名づけます。非択滅とは、頌に云います。畢竟して当生を礙し、別に非択滅を得。この非択滅は二類不同です。根塵の縁を闕く、および所証の位を謂います。諸の無知惑は続起することを得ず。名づけて当生を礙すると言います。一色に縁ずる時、余の諸色および余の四塵に於いて非択滅を得るがごとし。正しく色に縁ずるため余の色等を礙し、当に不生なるがゆえに名づけて当生を礙すると言います。三は皆無心にして我を待って有と為するがゆえに、有はこれ仮です。開善下はこれ他解を明かします。後の文に当に破すべきです。
次に色に約するとは、四大の色身は体全く不実にして、これ三仮なるがゆえに、前念の滅する時、後の念を仮りて続く。ゆえに名づけて仮と為します。待の中にもまたまさに横竪を具すべきです。往きて滅する身を待つを不身と名づくとは、竪待です。他は我が身にあらざるを不身と名づくとは、横待です。それ相待の文は皆二義あり、ともに思い知るべきです。次に依報に約するとは、正報すでに仮なれば依報もまたかくのごとし。依は必ず正に随うこと、影の形に随うがごとし。委釈は論師のごとしとは、成論師が委しく三仮を明かすがごとし。今文は釈するといえども義はなおやや略されたるに似ます。すでに色心依正の三仮を明かし、破見を暁るに足りるがゆえに旁及することなし。ただし此下は理に随う三仮を明かします。大乗と言うは、すなわち衍門の三教です。無明幻化のその名はともに通じます。外の四大の柱はすでに四微の和合の所成に従います。外の四大の柱は復た鏡中に現じます。鏡の中にどうして能成の四微がありましょうか。能成すらなお無し、どうして所成の鏡中の幻柱がありましょうか。鏡の柱は幻のごとし、ゆえに幻柱と云います。幻をもって像に喩えるがゆえに復た幻と云います。鏡の柱の無きものは本は外柱なり。鏡の明に由るがゆえに像はその中に現じます。鏡はこれ外柱の像を現ずるの縁です。もしそうならば外柱もまたかくのごとし。柱の体はすなわち外の四大種に由って木を現じ、復た工匠に由って仮に柱の名を立てます。まさに知るべきです、外柱もまたかくのごとし(云云)。四微と言うは色香味触です。四大の和合に由ってこの色柱を造ります。外に於いてはすなわちこれ所造の柱、像に於いてはすなわちこれ能成の柱です。四微の所造の柱あるに由って、鏡の中の所成の柱を現じます。ゆえに鏡の中に於いて能造の微および所成の柱を推せば、永く不可得です。因成すでに無ければどうして続・待がありましょうか。ゆえにただ況して云います、況んや時節を歴るをやとは、すなわち相続をもって況します。幻化の長短をもってするとは、すなわち相待をもって況します。ゆえに総じて結して云います、寧ぞ復た可得ならんやと。一の況の字をもって下の二句に冠します。
大論の四十六に、広く衍門の三仮の相を明かすといえども、随理と言います。理に権実あり。通教は権理に随い、別円は実理に随います。今、三仮は無明に附いて起こると云うがゆえに、これを知れば無明もまた浅深に通じます。今すでに見を破すればかつ竪義に従い、かつ通教の三仮です。別円の三仮は第六巻の修中観の中の三番がこれです。それゆえ次第三・不次第三等があります(云云)。また通論はかくのごとしといえども、もし別論すれば章安の云うがごとし。声聞は因成を観じ、縁覚は相続を観じ、菩薩は相待を観ず。これは首と為すといえども後には必ず三を具します。易を挙げて難に況うるとは、向の鏡柱をもって外柱に例するがごとし。すなわちその相です。不実と言うは、ただ諸法は因縁に従うがゆえに、念念住せざるがゆえに、他を待ちて仮設するがゆえに、まさに知るべきです、鏡柱と外柱等は、三仮の不実の義同じからざるはなし。同じく不実といえども像等は解し易く外柱は解し難し。ゆえに大乗経に共に十喩を立てます。十喩と言うは、大論の第七に云います。一には幻のごとしとは、譬如幻師が種々に幻作す。実有なしといえどもこれ色法にして見聞すべし。諸法もまたかくのごとし。無明幻化にして見聞すべし。二には焔のごとしとは、日光と風と塵とのために、曠野の中に野馬のごとし。無智は水と謂う。諸法もまたかくのごとし。結使の光、諸行の塵、憶想の風、生死の曠野の中に転ず。無智の人はこれを実と謂う。三には水月のごとしとは、月は空に在り影は水に在り。実相の月は実際の空に在り、凡夫人の心水の中に我我所の相現ず。四には虚空のごとしとは、空はただ名のみありて真実なく、空は見るべからず。遠く視れば光転じて縹色を見せしむ。諸法もまたかくのごとし。本無より無漏智に遠ざかるがゆえに諸相を見る。五には響のごとしとは、深山の中の語および木を打つ声は声より声あり。無智は有と謂う。一切の語言もまたかくのごとし。ただ口中の優陀那の風が七処に触れ、和合して声あり。六には城のごとしとは、日の初出の時、城楼櫓・行人の去来を見る。日高ければすなわち滅す。無智は実と謂う。諸法もまたかくのごとし。妄りに吾我を計す。七には夢のごとしとは、夢の中には実なしといえどもこれを実と謂う。覚めて已に無しと知りて還って自ら笑う。諸結の眠の中に無にして生じて著す。得道して覚めて已に乃ち無実と知る。八には影のごとしとは、見れども捉うべからず。諸法もまたかくのごとし。情に実と謂うといえども求めて不可得なり。九には鏡像のごとしとは、鏡にもあらず面にもあらず、四句叵得なり。ただ名字あるのみ。諸法もまたかくのごとし。自等の四にあらず、ただ名字あるのみ。十には化のごとしとは、諸天・聖人は能く所化あり、所化は実なし。諸法もまたかくのごとし。皆生滅なし。化人のごとく本より自ら無生なり。何の老死かあらんや。
又釈論下は異を会します。三有および三聶提と三仮と同なるを会するを謂います。大論の四十六に広く三有・三聶提の義を釈し、ともに三仮品の中に明かします。それゆえ会同を得ます。しかし論の文の三有と三仮とは名義に同有異あり。すなわち相待は名同、余の二は名異。二の異名の中の法は因成に同じ。仮名はただ法を覧て仮を立てるのみ、ゆえに相続に同じからず。文中にはただ釈するのみにして会は見えません。今文に列釈する意は、本は会同にあり、ゆえにこれを会する必要があります。仮名はすなわち相続仮に当たります。何となれば、法の上に仮に名を立てるがゆえに、すなわち諸法相続して住と名づくと謂います。今文は初めに相待有を釈する中で、全くかの文を用います。五寸の物が一尺を待って短と為し、三寸を待って長と為すがごとし。彼此もまたかくのごとしとは、此に在ればすなわち彼をもって彼と為し、彼に在ればすなわち此をもって彼と為します。物の東等とは、かの人が物の東に在ればすなわちこの物をもって西と為すがごとし。ゆえに則以此為西と云います。西に在ればすなわち東とは、我れ物の西に在ればすなわちこの物をもって東と為します。一物はかつて異ならず。人が物の東西に在るに由って、かえって物の我が東西に在るを謂います。まさに知るべきです、物の上の仮名の東西なるを。次に仮名有を釈する中で、雖有不同因縁等と言うは、和合法の上に一の仮名を立てます。この仮名はこれ有かこれ無か。能詮なるがゆえに有、不実なるがゆえに無。それゆえ因縁の実有および兔角の無とは同じからず。何となれば、酪の四微は酥の四微にあらざるがゆえに方に酪の名あり。それゆえ酪の名は兔角と同じからずと知ります。瓶等の名の下にはすなわち実の瓶あり。兔角の名の下には実の兔角なし。亀毛もまたかくのごとし。有ありといえども復た実法の体と同ならず、体には実あり名は仮立なり。それゆえ仮有は実有と同ならず。色等の四事因縁和合と言うは、これ和合して酪を造る因縁にあらず、酪を造るにはまさに乳を因と人を縁として方に酪と名づくべきです。因縁の所成は必ず四事を具するがゆえに、四事を名づけて和合法と為します。和合して四を具し、仮に酪の名を立てます。又如以下は重ねて端㲲に約して重重の実法・重重の仮名を立て、仮名有を釈します。論の中に広く端㲲の無常無我を破します。坐禅人が端㲲を観じて、地水火風・青黄赤白等と作すがごとし。あるいは復た都空とします。それゆえ端㲲はただ名字あるのみ。今文は略して論文を撮しますが論文ははなはだ広し。一極微の色香味触より、もって実法と為し、仮に毛分と名づけます。毛分とは、毛の中の小分を名づけて毛分と為します。それゆえ極微・微等も皆毛分と名づけます。合聚するがゆえに名づけて毳と為します。毳はすなわち細毛です。尚書に云います。皆濡毳の細毛を生じて以て自ら温むと。それゆえ七水をもって一兔と為すと知ります。兔もまた細毛の類です。乃至衣と成します。衣はこれ仮名、㲲はこれ実法です。かくのごとく展転して迭に仮実と為します。仮名有無は前の説に例します。論また云下次は三聶提を会します。聶提は西音にして仮施設と翻じます。会して同じからしめんと欲するがゆえに先に問を起こします。答下は先に名を会し、次に義を釈します。法の中にすでに五衆和合と云うがゆえに、因成の義と同じです。次に受仮の中に受とは領納を謂います。根茎枝葉に由るがゆえに樹を領納すべし。樹を領納するがゆえに樹の始終あり。すなわち名づけて相続と為し、それゆえ前の仮名有と同じです。用是名字下は相待仮を会します。樹の名および枝葉の名を用い、二名の下の二種の法を取ります。樹の名の下には枝葉を法と為し、枝葉の名の下には四大を法と為します。二名二法、もし非樹を待って樹の名の生ずるあれば、一切の諸法乃至心所もまたかくのごとし。論に云います。行者は先に名を壊して受に至り、次に受を壊して法に至り、法を壊するがゆえに諸法実相を得と。論の次第に依れば、すなわち先に相待を破して以て相続に至り、後に因成を破します。もし論の三仮の起こる次第を論ずれば、すなわち必ず先に因成、乃至相待、展転して計を生じ展転してこれを破します。ゆえに相待を破して以て因成に至り、実相空を得る次第はやや異なります。文意各々別なり、善く思択すべきです。瓔珞下は三仮を引証します。初めに瓔珞を引くとは、かの経に具にあります。ゆえに総じて証します。かの本業の下巻に云います。諸法は縁成にして仮法無我、有法は相待にして一切相虚、相続は一と名づけ空不可得と。皆上の句はその仮相を明かし、次の句はその総破を明かします。因成を破するがゆえに我を求めて叵得、相待を破するがゆえに一切相虚、相続を破するがゆえに空不可得。次第はまた大論の文と同じからず。仏旨は深遠、我れ別に意あり。大品下は別に三経を引き各々一仮を証します。これすなわち衍門三仮の義です。大品とは、外縁あるがゆえに内の思を生ず。思の生はすなわちこれ所生の法です。大経の文とは、第十二に外道の計常を釈する中に云います。読誦の法のごとし。一阿含より一阿含に至るとは、人が四阿含経を誦せんと欲し、能く一部より一部に至るがごとし。相続に由るがゆえんです。阿含は此に翻じて無比法と云います。食法もまたかくのごとし。相続するがゆえに飽きます。外は実と計し、相続は常と謂います。ゆえに今これを破します。相続はこれ仮なり、具に後の破のごとし。浄名等とは、破の辺より説いて不相待と云います。四句破し已われば待は不可得にして一念も住せず。この衍文を引くとは、小衍ともに有ることを同じくせんと欲するがゆえんです。所謂下は具に小衍各々三仮を具するを列ねます。前文には小門の三仮を明かすといえども、いまだ四門各々三仮および所生の惑を具すと云いません。今、衍門に対してゆえに重ねてこれを列ねます。如来下は惑を生ずるの由を明かします。著を生ずるに由るがゆえんです。仏教の本意は人に無諍を示すのみ。諍は人の過、何ぞ法の非に関わらんや。ただ三蔵門は拙くして諍を生じ易きのみです。しかし大論の文は本は三蔵を斥けて諍法と為し、すなわち衍門をもって無諍法と為します。ゆえに論に云います。仏法に二あり。一には諍処、二には無諍処。余経はすでに諍処を説き、今人に無諍法を示さんと欲するがゆえに摩訶般若波羅蜜経を説くと。乃至有相無相・有依無依・有対無対・有上無上をもって二門を分かつもまたかくのごとし。今はすなわち通じて仏法の大小をもって、皆本は人に無諍の法を示すとします。ゆえに生語見のゆえに十六門に於いて仮を起こすと云います。天の甘露は本は長生せしめんとすれども、愚かなる者は食して消せず、かえって寿を促すがごとし。仏教もまたかくのごとし。本は常住涅槃に通ぜしめんとすれども、諍を生ずるがゆえにかえって三途に入ります。言語見とは、語は言教を謂い、門に依って各々計し、時に随って一見を生じます。すでに語の下の旨に達することができなければ、名づけて語見と為します。
止觀輔行傳弘決卷第五之五
止観輔行伝弘決 巻第五の五
止觀輔行傳弘決卷第五之六
止観輔行伝弘決 巻第五の六
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
次明破假觀中文自為兩。謂略廣二破。初略破者。略秖是總。先序略境次明略觀。境四觀二合為六略。言境四者。一者見略。不列有等四句。但云必屬一見。二者假略。不明三假之相。但云虛妄無實。三者所生惑略。不列八十八等。但云浩浩如前。四者所防過略。不出生過之相。但云具如後說。言觀二者。一止觀略。不云推至性相二空。但云雙寂不二。二者結略。不云眼智無生。但云從假入空。此六略意。並通此下四見首也。後廣此六故名為廣。言如前者。具如五十校計所明。言如後者。如此卷末得失中說。前之四略。次第在文可以意得。應當下明止觀略。初文是止。從又觀去是觀。此中亦是止觀總用。亦是別而不別。乃至為成下文六十四番不別而別。故知直用四性以推三假。具含止觀。初文云颺依焰者。颺字弋障弋彰二反並通。風飄曰颺即焰之動轉也。必依於焰方有動故。焰必依空實處無故。焰颺俱是動轉之法。如見及無明俱是動法。如動依焰。焰依於空。空無所依。如見依無明。無明依法性。法性無所依。何者。法性無體全是無明。故云空無所依。眠喻同焰。何者。眠心如法性。昏眠如無明。夢事如諸見。無明為本諸見為末。無明無依諸見無住。故云雙寂。次釋觀中云無明既即是法性。不二秖是不異。亦可不二從性不異從相。法性本來下釋上不二不異。無明既其即是法性。法性不為無明所染。名本清淨。在無明時法性不滅。出無明時法性不起。又在無明時法性不起。無明破時法性不滅。無明與法性其體一故。故無明體亦不生滅。故云無明亦復如是。故知無明無始不起。今即法性亦復無滅。無人計人故並云誰。若謂此下重釋無明同法性故。法性無起下重以法性之體。以釋無明。能觀等者。無明法性並是所觀。即空之觀即是能觀。非但所觀無明法性。體性不二。能觀觀智即無明是。無明如空故觀智亦空。如此下略結。以明通故共立無明法性之名。今依次第。且約破見之無明真諦之法性。故云從假入空。次廣釋中先破有見者。雖對四見離總名別。據未分信法迴轉等別。仍名為總。初立利根信法兩行。如前略破其文已足。為未解者更須後廣。其鈍根下欲明廣觀先述廣意及用廣法。若不用廣則增眾失。故云今依中論廣觀之法。中論正被末代之人。世觀心者何為棄之。龍樹不任為師。知復師於誰乎。故此下文並是龍樹中論觀法。故云今亦如是。今亦下依論立觀。若一念下重述前來所明三假。為所破之假。當觀下正明用觀。初文先以四句破因成假。於中先列四句。若心下次正推破。初破自生中。云前念為根後念為識者。根無別體。還指無間滅意為體。根名能生。由前意滅生後意識。故俱舍云。由即六識身無間滅為意。身者體也。無間滅時為意根體。爾時五識亦依無間滅意。以為親緣。用五色根以為疎緣。而生五識五識無間分別生時。即名意識。今此文意不是五識。是第六識。緣於有見以為法塵。即名為識。即以此識對根研責。故云根為有識故生識。根為無識故生識。大論問曰。前念若滅何能生後。答。有二義。一念念滅。二念念生。有此二故。故滅得生。恐生斷見是故須立。今為破故。是故須責。生滅雖殊根之與識俱是自心。從根從識俱屬自性。於自性中根識互責求不可得。又心之與識俱對於塵。以立心名。是故文中兩名互用。終不得以法相。分別心意識異而拘此文。故此初立皆云生心。下句難中並云生識。故此文意兩名無在。為從根生問滅生也。為從識生問生生也。若根生下先破上句。小宗雖許根能生識。今破滅生是故須責。若從識生則前識不滅。復生一識。為妨最大故不俟責。是故文中但破根生。從根為下先雙定之。根若有下雙責也。初責有識。根若有識則有二妨。謂根識並及能所並。則有生生無窮之過。若無能所生義不成。云何言生。又無間滅方名生識。根若有識生滅相違。故並有過。根若無識下責下句也。即類無識能生識也。根雖下責有識性。此是縱破。亦先立二句。有已是下責也。有還同有亦成並生。無還同無同無情生。又識性下作一異責。若一者先責一句。凡言性者。後方能生。識與性一故無能所。若異者責異句。性若異識則同外境。外境能生識即同他。如何計自。若言下次破他性。如前責已畢定知心不從自生。故許不自生云。雖言心不自生。由有外塵而來發心。塵望於根塵名為他。引經云下引大品文證他性者。塵是外緣來發內根。生思即是所生之法。佛赴一機作他性說。計者不了引經助執。若爾下判屬他生。今推下用觀也。亦先定兩句。塵若是下責也。先責是心則有三妨。一塵非心妨則心不名塵。二塵非意外同自生妨。三並生妨。塵若非心容計塵生。塵若是心還成心處生心。即名並生。子若生苗則有能所。子還生子則二子並生。有何能所。塵若非心下次責非心句也。與前根中無識義同。責意亦爾。故云如前破。塵有識性例前可知。若根下責合生也。單計自他既並推破。故計合生擬免自他。亦先立兩句。若各各下責也。若各各有還同前文兩句中有。故云墮自他性。何名共生。若各各無如二砂無油和合亦無。亦不名共。譬如下舉譬。亦先立兩句。若各有下次責兩句。具如法中若鏡面合一者。各有各無恐計異方不能生像。和合同處方能生像。故結責云實不合一。若鏡至面方名合一。今取像法不近不遠。則能見像。若爾。自是不近不遠而能生像。何關鏡面。離復不可故知無像。根塵離合下但合若鏡面合已下文耳。已上文者。法中已具故也。應一一更將根塵合鏡面合為一已上文也。又根塵下責性及一異。並如前自生中說。若根塵下責計離生。前三被推既不得生。故於三外別計於離。於中先判屬無因緣無因不生。次亦先定兩句。若有下責。先責有離。離即是緣即同他生。何謂為離。若無下責同無心。若言下責性也。亦先定二句。次難二句。有亦同他無同無心。中論下次引中論總證四句。總不應生何故各計。若推下結成性相二空。此中初示二空相。但無性計名為性空。亦不不住下性既破已。但有色心內外之相。既不住於無四句中。故相亦叵得名為相空。言不在內外等者。內秖是因。外秖是緣。中間是共。常自有者。秖是無因。無此計故即無四性。此之二空言雖前後。意不異時。若四句下復以二諦結成二空。若有性執世而非諦。破性執已乃名世諦。故云世諦破性。性執破已但有名字。名之為假。假即是相。為空相故觀於法性。觀理證真。名真諦破相。空非前後二諦同時。為辨性相前後說耳。思之思之。不見此意徒謂即空。故大品中歷一一法。皆云不在內外中間等。此則三乘通觀二空。次勸學品中。云菩薩摩訶薩等皆應修學。此之三假即是空所破假。次集散品一一句中。皆云但有名字是字不住亦不不住。言集散者。散所集故名性相二空是則諸菩薩等皆學此二空。得是二空具十八空。性相俱空等者。總結示於總別空相也。此中言總但指二空名之為總以此二空遍空一切。故名為總。若望初文此總仍別。以於四句句句破故。若一句得入亦具二空。非必四句方名二空。文言四者。為轉計者。極至無因。故云破四名性相空耳此中總者。望下六十四句復名為總。故中論等者。前引此文證四俱性。性並須破破已名空。即是性空。此中引者證無自性乃至無無因性。亦復無名名為二空。故云用觀與中論同。若根檢下具二空故。即具十八。此內外等並是所空。空十八事得十八名。若歷一一空皆識能所。銷之可見。法界次第中亦略銷釋。意甚分明。以此望彼言雖小異意亦大同。問。從有法至無法有法空。既對三句。何故不空非有非無句耶。答。前畢竟空破不生不滅。即是破第四句也。故下文無。問。前之六空已明二空須更說次七空空耶。答。以向性相重歷諸法。故更明七。問。內至畢竟破諸法盡。何須後五。答。大論云。十三破盡。後五重說耳。此十八空大論三十四廣釋相狀。又九十二云。是十八空性亦自空。即是能空亦復皆空。大經十一空及二十空。亦何出此十八空耶。楞伽但列七空。一者相空。分析自他共不生故。二者自性空。空於諸法自性不生故。三者無行空。陰本涅槃故。四者行空。陰入和合離我我所故。五者不可得空。諸法妄計無可說故。六者第一義空。自證聖智離過習故。七者彼彼空。空中最下無復彼此。亦是合十八為七空耳。然彼經意與大論不無小異。故知楞伽七空多在藏通。以自證中云離過習故。從容取之稍通圓別。如大品十八亦通三教。次明相續比因成說。亦應可見。然須細銷以出相狀。此中云墮斷常者。即定有定無也。於相待中先辨相待與二假異。初若不得下明異之由。由計有心待無心故。因成下正明異相。指相續中為別滅者。別在有情心所滅故。異於虛空在生滅故。異於擇滅是有為故。於非擇中又不與彼闕緣義同。於所緣處心生滅故。故但與彼生滅義同。唯對此滅後念心生。名為相續。若相待中言對通者。三無為法通是無生。無生之名義同於滅。對彼三滅知我有心。言雖不併是者。謂三無為雖不併是生滅之滅。而得是無生者。三無為法同是無生故也。生滅之滅義似無生。彼三無為是無生故。無生是滅。故對滅知生。言虛空等者。舉一例二。上既下借於開善因兼之名。以釋相待。初牒開善舊解者。舊是開善寺藏法師所立。因上兼此故云因兼。上但二重今至第三。故曰過之。又因兼下今解異舊。上因成中及相續中。惑雖未破緣無生解以此無生對意根生。即相待中因成相也。因上假心來續相待。即相待中相續相也。因上至此故名為因。此具上二故名為兼。是則釋因大意同舊兼與過之與舊釋殊。開善但以共起名兼。不云具二。上惑不除復起此惑。是故名兼。不云通滅名為過之。釋既下結斥。雖用他名義與彼異。但借舊名顯相待義。即以今義還破於彼。今檢下正釋如是四下結成二空十八空等。上文闕於慧眼言者。略也。又亦應云一切智等。文無者略。非但下例破諸見。而此見惑由見理故破有見。見理之時單中餘三。復具絕言一切俱破。是名下結也。止觀能顯光揚並由見破。故教門光顯。但破於見尚是光揚。況破諸思塵沙無明。況一心破具如前說。但前約圓門。此寄破見。得意何別。妙旨如初。於此有見亦名總修。若不悟下對於信法六十四番。復名為別。還離前來初總止觀。以對四悉二行故也。下去例然。具如前文安心中說。於一一見並作此結。故知前文離開三諦及以一心。猶名為總。用此總別有見即伏。望小同於四善根位。故且結為善有漏陰。以被下見度計轉以不起故便起無見。有見猶在謂心起無。亦成見也。夫破見下欲破無見。先明破由即二行三根。依無起計已成下根。如前總後。亦判利鈍二行不同。下去亦爾。或但文略。明三根中。聞觀於生等者生即有見。謂有為無謂無為實。是故此見應須委破。又當下正破。先標也。總謂直修觀破別謂三假四句。故此等總即同初文。前於單見名之為總。雖對四見名總今文重述。故於一見對別名總。又亦不同有見因成末文總別。若對信法六十四番。此之總別復成於總。總破者下正明破無。先引二經明破之相。初引大品者。以識了別於生即有見無生即無見。有無俱破故互相況皆云不可得。即是舉深況淺。舉淺況深也。思之思之。次引楞伽者。彼經第四云。若起空見名為壞者墮於自共。彼前後文破見非一。次然無生下斥奪也。捨有著無何殊步屈。次別破者。亦先序見由。由前有見三假惑伏。成今無見所執之境。總別二破名用止觀。不見三假似性相空。故云泯然入定。不見內外似因成破。亦無前後似相續破。無相形待似相待破。寂然下正明無見所計之相。而起見著下責見過相。故論偈云。諸佛說空法。為破諸見故。而復著於空。諸佛所不化。釋論下比決簡異。大論十八云。外道愛慢多故。不捨一切法。論問云。外道觀空則捨一切。云何不捨。答。外道雖觀空而取空相。雖知諸法空不知我空。愛著觀空智慧故。若愛著者便成我見。我見即具八十八使。論又問云。外道既有無想等定。滅心所法應無取著觀空智慧。答。無想定力非智慧力。如是下出見過由結成空見。佛弟子下顯正辨異。明知過由。由謂著心。著心若生知過故離。離即修觀。豈更謂此為真無生。云何下示無見中三假具足。良由有見來入此中。無生法塵下出無見中三假之相。當推下次正用觀。先破因成。當知下結成二空十八空等。非但下例破諸見。意如前說。者未下別約六十四番。如前說。勤修下見度計轉。次破亦有亦無見。亦先牒前見為此見體。或進下辨此見相。如長爪下引例也。一切能破是亦無見。計有此見是亦有見。又見心謂無破他成有。言得悟者。示計是見因示得悟。若非見者云何被破。發見下指同。云何下廣示見心是苦集之相。言五不受者。第三行相品云。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。行亦不受。不行亦不受。亦行亦不行亦不受。非行非不行亦不受。不受亦不受。舍利弗問須菩提。何故不受。答。般若波羅蜜空故。自性不受。不受尚不受。汝受是亦有亦無。即受第三句也。汝云何下示見心中苦。即污穢五陰。又我下示見心中集。又此下點示此亦有亦無見心中三假。今破下正破也。如是下亦結成二空等。即是下結成眼智。若不入者下別明六十四番。此見初文亦應有總。文無者略。亦有下見度計轉。次破下略示見由。所以者何下略釋見由。由惑不破故成此見。若不定下正示見體。何以故下見者引論以證己執。法正人邪名同義異。堅著下見成起計。即見相也。亦是責過。略以四德證法責之。世人誰不自云常等。咸計所得起愛恚癡。雖非六師定屬見計。若不云證麁免夷愆。自謂高深真為上慢。我心生故下示見所生苦集之過。言寧起等者。楞伽第四無常品云。寧起我見如須彌山。不惡取見懷增上慢。此乃少分與而言之。乃至應云寧起我見遍於法界。不惡取空如微塵許。不識此見毒草藥王者。毒草譬苦集。藥王譬道滅。世有草木可治病者。於中為最稱為藥王。如耆婆經云。耆婆童子於貨柴人所大柴束中。見有一木光明徹照名為藥王。倚病人身照見身中一切諸病。道滅亦爾。能照眾生煩惱諸病。略過有十者。如向所列十使是也。廣不可盡。謂由十使生一切過。又一一等者。此一切過各具三假。用觀如文。復次下結示向文不出四諦。夫一切下明示四諦所以。如來下引證。謂初轉法輪正在破見。初轉雖未盡具四含。四含並是生滅四諦。義同初轉。故云阿含四諦之力。如中含云。舍利子問拘絺羅言。頗有事因此得見諦耶。拘絺羅言。有。謂知食知食集知食滅知食滅道迹等。具如釋籤中引。生滅尚爾。況後三番三種四諦。何所不破。若非有下例破諸惑。兼結成眼智。故云發正智慧。名從假下結成空觀。若不下六十四番別破。此見下見度計轉。所以下結勸。言不雜者。見見之中俱云三假。所計不同一一假異皆四句破。破體各別。四句之後並結二空。所空義殊。復皆各修六十四番。番番顯異。一往似雜章節自分。能了等者。深勸深誡。若能了者則可與論觀行之道。不識一句如何能識真諦之乳。況橫竪不二一心諸番。次破無言。亦初明見由。由用觀破上之四句。復起下正明見體。謂出下責過。略有下復以眾多絕言通責。若謂下別判。判其不出複具四句。何謂絕言。所言不出複見第二句者。謂無無句。汝此絕言與無無不別。所言不出具足見初句者。即初四句中第四句也。謂有非有非無及第四句中初句也。謂非有非無有。故知下結其見惑難出故也。法華云下引證也。此文通譬見網蒙蔓。經中鳩槃茶下別譬見惑。玉篇云。山神為魑魅。水神為魍魎。西京賦云。山神虎形為魑。宅神猪頭人形為魅。通俗文云。木石變怪為魍魎。以向二例攝鬼神盡。故以此鬼譬一切見。次複具中亦應複具。各各先明略境略觀。次廣以四句一一責之。乃至亦以二空之總。以對四句之別。一一結成二空十八空等。但例前可知故不煩文。下絕言見雖無別相可對為總。應但用別。具如有見。乃至先出見相。次出絕言。今文存略。亦先略出複具之見。於中略出見由見體。見相正破。結成轉計等。又復下出複具下絕言之相。亦略出見由見體。如此下正判屬見。何以故下釋判也。何故判此而屬見耶。待對生故。言不絕故。四句本絕。何須避句別求於絕。空譬可知。又竪下更復竪破絕言之計。前以諸絕相望故橫。又以不絕對破於絕。絕還不絕故名為橫。今以因果前後相望。故名為竪。因不絕故果亦不絕。上來下重判前來單複等見所破橫竪也。如一有見中三假四句。相望成橫展轉度入。至四名竪。於一見中因成內外相望故橫。相續念念相望故竪。相待待於前滅名竪。待三無為名橫。一一見初皆有總破。直以空破未分橫竪。大途秖是橫破者。若曲分委判如向所說。大概而言但成橫破。何者。諸見體橫。還以三假四句破之。是故大判能所俱橫。今當下次明竪破者。以竪法責故云竪破。言竪法者。有淺深故。始自三藏五停。終訖圓教妙覺。此等位發名之為生。汝若言生為何等生。又此竪破不同次第三諦之竪。次第三諦依諦破惑。前後不同故名為竪。此中但以竪法往責。責其成見。見故須破。故云竪破。如前釋假。還約佛法四教明假。假皆須破。今明破假。還約佛法四教辨位責其見心。諸教全無非見何謂。定屬有見終非位生。為是五停下三藏位生。言苦忍等者。無漏十六心此居其首。乃至道比第十六也。為是乾慧下通教位生。為是三賢下別教位生。為是鐵輪下圓教位生。別無信位圓無五品者。秖是略耳。言重慮者。慮謂思慮。見道觀真已發無漏。今復重觀故云重慮。言神通等者。入位菩薩道種智明。遊戲神通淨佛國土。大論九十三問云。神通所作何名遊戲。答。猶如幻師種種變現。菩薩亦爾。故名為戲。復次三三昧中空名為上。諸餘行法皆名為下。下如兒戲。故名為戲。論第七又問云。菩薩但當出生三昧。何須遊戲。答。菩薩心已出生三昧欣樂出入。亦名遊戲。既不同於結使遊樂。欣樂出入即是出假。言誓扶習者。大品云。留餘殘習以誓願力。及扶餘習。而生三界利樂有情。若計下竪破無生。初文正約無生以破。次從有人下。難中論師寄非辨異。初文徵起。為是下正責也。於中初約三障以明不生。見思等三屬煩惱障。為行下約事理破。為破三障須約行理。是故次明行窮理滿。名為不生。世人下約三佛破。於中先破世人誤釋。言不生者即是法佛。雖甚會理若唯法佛。未是通方。然此中不生不生。不得作重語讀之。應須間書。上不生字為上句末。下不生字為下句頭。今解下正釋。文存四解。初約事理隱顯釋。法身本有名之為隱。報應二身破惑方顯。故以三惑併對二身。破無明盡究竟智滿。故名報身。塵沙障法門見思障化道。此惑俱為應身家障。故二惑不生名為應身。二者對治三惑釋。故將三身以對三惑。無明障中理中顯法身現。見思障空理空顯報身現。塵沙障俗理。俗顯能垂化。三約能治所顯釋。業行位智以為能治。真如實相以為所顯。復由業行及位智故。三煩惱盡。煩惱盡故報應成就。報應成故本有理顯。此則法身本有報應修成。四者別對三因釋。修性皆爾。故用對之。此之四解義通圓別。意唯在圓。故初三兩解義扶於別。二四兩解義扶於圓。以別助圓共成責義。又初之三解皆約諸法不生而三佛生。第四一釋。約諸法生而三佛生。三佛下約理結。當知四釋總論諸法不生而三佛生。故總結云生即無生。無生即生。他解不生唯在法佛。尚不見法佛不生即生。況見四重三佛生無生耶。然今文意本責無生。解三佛義因破他解故論相即故知三佛生則俱生。若也無生悉皆無生。是故須立相即義也。若聞阿字下引證也。聞一不生解一切義。如聞不生即知三佛皆生無生。乃至四解三佛無生。云何秖作法身一解。若如今解三佛體遍。不生亦遍。將諸下結責。責汝執心並不入此諸不生中。非見是何。有人下約中論師被破之義。而廣辨非。初述他人破中論師。論師轉釋不生不滅。雖作多意而不明破深淺分齊。故被他人約破惑責。但成入空。言秖不者。不者破也。非也。中論下論師不曉被他破已。便加不字令使會中。若爾。非向煩惱之生。非向遷滅之滅。似顯中道何殊見真。此解下正破。初略斥。今且與其不不生邊。故云此解扶中。責其不周故云傷文失義。何者下釋也。先釋失義次釋傷文。初言失義者。謂失兼通含別之義。論之圓宗有此兼含。如何被破伏無中道。如汝被破正當論文所兼通藏。即此初文是也。若生若滅下為出論文含別之義。若生滅下正顯論文圓宗本意。初言破二十身見等者。此果破見。經論列數多少不同。毘曇云。如須陀洹喻經說。斷無量惑名須陀洹。何故大經但斷三結。或隨病故或隨根故。為鈍根者說八十八。為利根者說斷三結。今此即是大論之文。約處中說言破二十。又或時為鈍但說斷三。婆沙云。如昔一時有毘黎子佛法出家。時佛已制二百五十戒。令族姓子隨作樂行。彼人聞已乃生憂慮。誰能守護如是諸戒。便詣佛所頭面禮佛。白佛言。我不堪護如是諸戒。爾時世尊現親善相而不訶責。以軟美語而慰喻之。善哉善哉。為能善持三戒不耶。謂戒心慧。彼人聞已即大歡喜。我能善持如是三戒。斷惑亦爾。若世尊說斷八十八使及無量苦。名須陀洹。則受化者心生憂慮。何能拔除八十八樹。度八十八大河。竭八十八大海。摧八十八大山。修八十八對治。若佛但說斷三結者。則受化者生大歡喜。言二十者。五陰各四。謂色大我小我在色中。我大色小色在我中。即色是我離色有我。四陰亦爾。故此二十名為身見。八十八使具如前釋。案文下結也。兼二謂通藏。龍樹下推功論主。解釋自我論意本然。如何弘論受他暗破自愜無中。若開脣下釋傷文也。吃者不利也。寄事以斥論師如吃。即論語第九有楚狂接輿。見孔子領徒而行。乃為歌曰。鳳兮鳳兮。何德之衰。爾雅云。雄曰鳳。雌曰凰。意斥孔子秖如鳳兮。出不遇時。周道若斯欲行禮教。亦如鳳兮出非時也。故鄧艾對魏主以此為譏警。魏主令其破蜀。艾為性吃。對魏主時頻稱艾艾。魏主戲曰。艾艾為有幾艾。答曰。鳳兮鳳兮秖是一鳳。今以此意斥彼論師。秖如鄧艾以鳳兮鳳兮酬於吃譏。當知不下加不如重吃聲。雖云不不秖是一不。縱欲顯中失論兼意。此則斥其所說傷文。抽筆下正斥著述傷文。傷者損也。已損圓文徒加點淰。既能著述從錔抽筆。染毫於硯不能開拓演其深致。而於不下加點淰乎。徒增不不之聲。却失兼含之富。秖得雙非但中一意。全失通藏及論圓宗。懸疣下重約喻責。疣者肉之餘也。橫生一肉著體為贅。贅又生疣不字加點如贅生疣。被破無中意欲補助還成却失圓及藏通。今解下兼約彼非以顯今是。為扶含顯存本不生。依汝加不。亦有多種不生不不生也。故今責彼見心。為是何等不生不不生耶。故初標云。且略出其十種。於中分為三意。第一第二明非但破生不生。不生須破。故更加不不生。此乃以正而破於邪。第三至第九皆以兩不破兩惑生。故云不不生。即是以一生字對上兩不。義而言之開為兩生。故上不生是一不不見生。次一不生是一不不思生。及論結句一一但云不不生者。還存略故。故以下句不字次前不下。故云不不。下去諸句準此可知。故云正習乃至別圓。第十約妙覺位。智斷永滿兩生不生。名不不生。此中三釋同在妙覺。初但標十意在於此。又從第三至第九一一文中。皆釋前竟次生後句。前雖不生望後猶生。如釋三藏二乘。不見不思兩不生竟。即生後云習氣猶生。若不爾者。後何所破。初文長爪成第四句及絕言者。一切能破。義似雙非。語皆可轉義似絕言。是則一計前後四出。謂無見亦有亦無。非有非無及以絕言。今總判之似一不生。不生邪見是故須破。名不不生。如非想下復引須跋非想無生。無生須破名不不生。犢子例此。言第五不可說藏者。大論第一云。佛法中亦有犢子道人。說四大和合故有眼。五眾和合故有人。如犢子阿毘曇中說。五眾不離人人不離五眾。五眾不是人人不是五眾。人在第五不可說藏中所攝。故一切有道人皆言。一切種一切時。一切法門中求不可得。如龜毛兔角其體常無。陰界入等無有自性。此是一不生。犢子所計猶違小宗。故此不生猶更須破。故云不生亦不生。次意中三藏菩薩未得不生。是故不論。緣覺侵習習未都盡非不不生。故亦不論。言體不見思者。巧智所觀故云體不。通教菩薩空同二乘假同別教。故今文中亦不說之。別人兩不不通不別。而上地猶生者。別惑未窮故也。別佛約教且云究竟。故大論第九云。小小因緣能惑大果。況聞般若波羅蜜實相。不生不滅。不不生不不滅。言小小因緣者。謂如少施少戒之流。遠願導之尚感大果。況聞圓中不不生等。第三意及結斥如文。竪破第三第四句。如上菩提心中者。第一卷發大心中。非九縛故非有。非一脫故非無。若爾。第三句云何。答。雙非即第四雙照即第三。若歷推理乃至起過聞法開四。是則五十六重雙非雙照。更加四弘六即。是則六十六重雙非雙照。況復通教八地已上。及以別圓地住已上。位位無不雙非雙照故也。我今將諸第三四句。勘汝執心。汝是何等第三第四耶。釋名絕待者。先破橫竪中。各有第三第四句。及絕待與絕體。體是雙非雙照句也。雖即略指復更歷教一一委釋。二文各三。初徵起。次正釋。三結。塵妙不生通用生者。破一一惑即得無量俗諦三昧。利物自在名通用生。內外業報者。秖是約界論內外也。析斷常者。二乘亦得不名雙非。雙非之義具如第三卷中。通教三乘亦離斷常。意如三藏。通教菩薩八地已上。道謂化道。觀謂空觀。帶空出假故曰雙流。入空非有。入假非空故名雙非。別圓地住妙中雙非。初地去是別。文中應剩得字。雙遮之言順第四句。理不異時。次竪破絕者。初列外外等六絕責之。言婆羅門受瘂法者。彼外道中有計瘂法。不共言說以為至道。三藏去復以佛法多絕責之。初正責。四教皆以四門通理。得理方絕。杜者如前解。不可說眾多下況責。為此下明過患。更重下復以十種四句外責。初標也。十種者下列句也。一往者下釋也。直立四句故云一往。四上復四故曰無窮。如前四見一一見上。復以三假四句破之。見各十二成四十八。見復起見乃至複具無言等見。皆以四句三假破之。故曰無窮。從門得悟門有四故。名得悟四句。言攝屬者。如諸四門皆名有等。隨人修習為入何法。若真若中以法攝門。門屬於法。問。攝屬與襵褻何別。答。襵褻則攝法入句。攝屬則攝句入法。權實者。權實各四。為是何等四句外耶。開顯者。一切皆實。汝為出此實四句耶。若實若開句外無法。云何言出。一期佛教畢於法華故云齊此。今依法華亦但齊此。滅後起諍是故失意。作論通經故云得意。若不下結責。愜者伏也。前橫破等者判橫竪文。具如前廣約外外及附佛法。乃至佛法。一往成十。既從外外至佛滅後故名為竪。今世多有下斥偽釋疑。初邪人邪教邪正相濫。初約人釋以正濫邪。言惡魔比丘者。謂曾出家還家破戒。復作道士破滅佛法者是。又何但比丘越濟名為惡魔。如大品十六。天魔波旬亦作比丘。為菩薩說相似道。所謂骨想乃至亦說阿羅漢法。語菩薩言。汝用此道盡苦。何用於生死受種種諸苦。今四大身尚不欲受。況當來身。又大經第九云。有一闡提作羅漢像住空間處誹謗方等。凡夫見之謂真羅漢。此等即是作比丘身破滅佛法。若退戒還家如衛元嵩等。即以在家身破壞佛法。言越濟者。報恩經第六云。賊住越濟斷善根人五逆等人。受戒不得。此即正以破內外道。名為越濟。濟者道也。越謂違越。即當破義。先破外道來投出家中途背此却復邪宗。若更重來成難障戒。今文不論重來成難。且以彼此俱破義故。名為越濟。此人偷竊正教助添邪典。淮南子云。偷者天下之大賊。邀者(古遼反)要也。遮截也。不可圖勝且求平等。押高等者。平斗之木曰概。以道士心為二教概。使邪正等義無是理。曾入佛法偷正助邪。押八萬十二之高就五千二篇之下。用釋彼典邪鄙之教。名摧尊入卑。如安法師著二教論。引班固九流。道教則是九中之一。謂道流也。若使道流立為一教。則餘之八流法爾分源。若其九流合為一儒。是則對釋唯存二教。尚不合獨為教主。況復翻欲混和。自古先賢久判真偽。近代名德仍困是非。不如儒俗猶分清濁。如李思慎十異等文。又牟子曰。堯事尹壽舜事務成。丘學老聃旦師呂望。四師雖聖比之於佛。猶白鹿之比麒麟。比其教也猶烏鵲之與鸞鳳。比其形也猶丘垤(徒結反蟻封也)。之與華恒。他又問曰。蓋諸道叢殘凡九十六。澹泊無為莫尚於佛。神仙之術僕以為尊。殆佛法之不如乎。牟子曰。指南為北自謂不惑。引東為西自謂不迷。如汝所言。似以鴟梟而笑鳳凰。執蝘蜓而嘲龜龍。然世人有背日月而向燈燭。深溝瀆而淺江河。豈不謬乎。汝背佛法而尊神仙者。此之謂也。以道可道下斥其以邪濫正。如新注云。若稱可真常之道。非常人所行之道。舊注云。可說之道非真常之道。名可名例之可知。雖有二解望理惑智行位因果。無可以擬別圓四德常樂之道。故云不可均齊佛法不可說等。何者下引例結責。諸法下重廣解釋不齊之相。如道士李仲卿著十異論。琳法師立十喻論。以喻其異而異於彼。喻猶曉也。曉彼迷故以今文望彼。似彼七異。復加威儀及族位不齊。合為九異。一者理本不齊。亦指向來所濫之法。道可道等將真如常住之法望之。云何得齊。然聃雖有無為無欲之語。語下無旨。雖有常名常道之說。說無所歸。若言常無欲觀其妙。妙理眾多。欲非一揆。為是何等欲妙者乎。故不可以常道之名。均於實相。教相下二明教相不齊。今文但略舉一不齊之言。然五千之文。但去奢去泰自約自儉。守雌守弱患智患身。是故聃化以虛無為本憺怕為先。豈與八萬法藏十二分教。逗大逗小若偏若圓。四悉赴機五乘接物。冥益顯益逆化順化。欲校優劣安可同耶。況以下三以苦集不齊況之。老雖患身去欲未達患原。弊智勞形不窮弊本。苦集增長去道彌遙。豈與夫捨三界繫離六趣果同耶。況三惑二死四智五眼。彼無其名安知其義苦集彰露具如前說。況將下四以道滅不齊況之。故三十七品彼典無名。四德涅槃歸乎釋教。徒施患身之說信無不淨初門身念既無。道品安在。生滅道品尚已天隔。況復衍門彼無毫釐。本既下五示迹不齊。滅理為本應化為迹。俗以三十年為一世。今但以前王後王而為一世。居五天中故云正也。天竺身毒印度並是梵音輕重。三世諸佛皆降迦維是故名正。言金輪者王四天下。故俱舍頌云。金銀銅鐵輪一二三四洲。律中從劫初來次第相承。八萬四千二百五十二帝。有十輪王餘皆粟散。悉王天竺。悉達生彼淨飯王宮。當此周昭王甲寅之歲。若不出家當為輪王。不紹王位夜半逾城志求大道。既成道已現勝劣應說權實法。乃至入滅利益無疆。老在桓王之年託牧母之野合居陳州之苦縣厲鄉曲仁之里。字伯陽諡老聃。吝柱史處小臣。莊任漆園德位可識。言邊地者。望彼五天此居邊地也。即如嚴觀法師與何承天論中邊事。具如釋籤。佛以下六相好不齊。如來聚日融金之色。既彰希有之徵。卍字千輻之奇。誠標聖人之相。況分身百億光照十方。化及泥黎聲振尼吒。李氏之形凡庸醜蔑。手把十文足蹈二五。語其同年終不可得。佛說下七化境不齊。先老次莊。老子竊說。說字音稅。述也。宣意也。非私曰公。灼明也。隱竊私說尹喜一人。是故非為彰灼公道。列傳云。喜謂周大夫善星象。因見異氣而東迎之。果得老子。請著書五千有言。喜亦自著書九篇。名關令子。準化胡經。老過關西喜欲從聃求去。聃云。若欲志心求去。當將父母等七人頭來。乃可得去。喜乃從教七頭皆變為猪頭。然俗典孝儒尚尊木像。老聃設化令喜害親。如來教門大慈為本。如何老氏逆為化原。又漆園下述莊。莊子蒙人也。名周。梁惠王同學。著書十餘萬言而皆寓言。今宋州北故蒙城是其處也。現有漆園鄉於彼著述。改足句治點筆題簡。豈同眾聖結集。軋軋若抽豈同圓音梵響。自規顯達豈同無緣大悲。無聞無得豈同塵界獲記。軋軋車聲。遲貌也。復次下第八威儀不齊。九族位不齊。顒顒仰也。爾雅云。顒顒昂昂君德也。詩云。萬人顒顒。盲人下結斥。復次下單明所濫之法。先辨同異。前既已明多種絕言。絕言之前應有多種四句。中論不生不滅。乃是別圓第四句相。即真中道正絕言也。故正絕言句外無法。如何以外外絕言破他圓別。外外尚為三藏所破。何客此見輒破衍門。次問答料簡中初問意者。既不許以外見而破中論不生不滅。若於中論不生不滅起見如何。答中更開六句。分別判釋。釋中意者。本以中論不生不滅而為難辭。故今還以中論意答。中論兼含既具四意。亦以四意不生不滅。對彼外人絕言之見。復以四種不生滅見。對四教下四正絕言。故有相破相修相即。且如三藏對外簡者。三藏不生不滅破絕言見。三藏絕言破不生不滅見。絕言見更修三藏不生不滅。不生不滅見更修三藏絕言。三藏絕言即三藏不生不滅。翻到亦爾。次以外外對衍說之。是則復成三箇六句。又除外外但於教教。自以絕言破不生不滅等。復成四箇六句。又以藏對通對別對圓。復成三箇六句。復以通對別圓。復成兩個六句。復以別對圓。復成一箇六句。如是都成十四六句。若論答問一個破邪六句即足。準楞伽文中廣明破見。及以此文依教起見。是故須此委悉論之。故楞伽第四。大慧白佛。外道亦說不生不滅。與佛法何別佛言。不同。如幻而生如幻而滅。名不生滅。此即通以大乘不生不滅。破外不生不滅。舉一例諸他皆準此。又如向所說相破相修。破中皆以大破於小。若準起見皆以藏破之。復應以藏對三以藏破三。修中亦以小修於大。助中亦以大修於小。次約一切凡夫無非見也。魚王等者。此二行時眾魚眾貝皆悉隨從。爾雅云。貝居陸者曰𧷼(卑遙切)在水者曰蜬(古含切)大經十一云。如轉輪王主兵大臣。常在前導王隨後行。亦如魚王蟻王螺王商主牛王。在前行時諸眾隨逐。蕪蔓者草滋長曰蕪。藤滋長曰蔓。又曰。木藤草蔓。當知下示見過患勸勤修觀。且約外外故云避具入絕。若約佛法亦應云乃至避別入圓。皆以止觀逐而破之。具足如向一十四番六句。故云無遠不屆。乃至如金剛刀等。此約破見以成伏道。若得下明成斷道。以見望思名之為多。故云從多為言。且約破見竪論名遍。望橫望後及以一心。不名為遍。下去例然。言三結者。問。見惑既有八十八使。如何但說斷三結已即令得果。答。論云。此三種結是三三昧近對治法。身見是空近對治法。戒取是無願近對治法。疑是無相近對治法。復次三結生惑增上。身見生六十二。戒取生一切苦行。疑於過未一切處生猶豫。是故經中但說三結。大經三十三云。須陀洹人所斷煩惱。猶如縱廣四十里水。略言三結此三重故。譬如大王出遊巡時。雖有四兵世人但言王去王來。問下釋疑。先釋能破疑。初問意者。能破止觀既有三種。空觀已云破無量見。後之二觀更何所破。言無量見者。如前所列單複乃至圓門絕言。圓絕尚破況復餘耶。當知後觀無所復破。答中意者。初觀所破謂見及思。束此二破但成破有。見雖無量尚未破思。且言見遍耳。若其通途以見為名。後之二觀破於無見及以雙非。各有所以何慮無破。故釋論下引證者。中道雙非方盡二見。故知諸見下結意也。通以諸惑同作見名。界內諸見雖復縱橫。但為初觀之所破耳。故云尚不為第二觀所破。云何而言第三觀無所破耶。云何下兼責前諸見橫計也。諸見尚在未得初觀。況第二第三。云何諸計自謂真道。故大論中若有若無通皆是見。汝尚未出有見況復無耶。即大論序中歸敬偈文也。又通以諸見而名有者。為斥二乘為無見故次問者。有之與無同斥為見。有既無量無豈不然。答意者。大論頌文。一往斥小且通名見。妄計已斷故不縱橫。大段第二得失中。問意者。所破之見是失非得。能破止觀從單至具。乃至圓門隨逐不捨。為唯是得有失不耶。答中。分為四句。先列四句。次舉譬。前二下判。且從末說。所以下釋。初之兩句外道得失。亦言修止觀者。本是佛弟子。因觀起見過同於外。於中復辨事感伏者且名為得。事惑未伏者。唯起諸惡名之為失。又以外道中有斷常二見。常見之人斷鈍使者。名之為得。斷見之人撥因果故。名之為失。此且寄外論得失也。次佛弟子兩句論得失中。雖復用觀見惑未斷。位在方便名之為失。惑斷入真方名為得。若望外道失却成得。何者。外道雖得仍起見故。是故外道得翻成失。以此四種判前破假觀者得失異耳。即如前文破一一見三根不同。上根是佛弟子中得者是也。中根是佛弟子中失者是也。下根即同外計得失者是也。若成外得失及佛法得失。並應更觀(云云)。三明位者。列位可見。文雖具列四破見位。今文所用既觀三假四句不生。即是次第衍門之初。為欲遍知存文旨故。斷伏下判同異。次料簡中次問意者。若兼示文旨。須存次第以顯不次。即應直明別圓之位。以次第意似別位故。故雙為問。若直論文旨。何不直明圓破見位。何須用前三教位耶。若單存次第秖應明別何用三耶。此是止觀正文讀者尚暗。或銷文者唯云次第。或修觀者別求圓融。但觀答文義理自顯。前第一卷發心文末。已約四悉料簡三教菩薩發心。今於此中復申四意。一從上明下恐修觀時發宿習故。須識諸教斷見次位。二從又欲下為令行者識半滿位。如其不識權實互濫。三從又半下明識前三教。並為圓頓助道法故。若不識者圓乘傾覆。侍者承事也。衛者護也。四從又豈下顯同。見為法界無位不實。若畏分別何異避空。言是菩薩無生忍者。借大品語。語通意圓善須得意。體假下次以止觀結之。見息入空名止。達見二空名觀。通結前來一切諸見悉達即空。此是第一節示妙旨也。
次に仮の観を破ることを明らかにする。中国の文では自ら二つに分かれる。略破と広破の二つである。初めの略破とは、略とはすなわち総である。まず略の境を述べ、次に略の観を明らかにする。境に四つ、観に二つ、合わせて六つの略となる。境の四つとは、第一に見の略、有などの四句を列ねず、ただ必ず一見に属すると言う。第二に仮の略、三仮の相を明らかにせず、ただ虚妄にして実無しと言う。第三に所生の惑の略、八十八など列ねず、ただ浩浩として前に同じと言う。第四に所防の過の略、過を生ずる相を出さず、ただ具に後に説くが如しと言う。観の二つとは、第一に止観の略、推して性相の二空に至ると言わず、ただ双寂不二と言う。第二に結の略、眼智無生と言わず、ただ仮より空に入ると言う。この六つの略の意は、並びにこの下の四見の初めに通ずる。後にこの六つを広めるがゆえに広と名づける。前に同じと言うのは、具に五十校計に明らかなるが如し。後に同じと言うのは、この巻の末の得失の中で説くが如し。前の四つの略は、次第に文にあって意を得べし。まさにこの下に止観の略を明らかにすべし。初めの文はこれ止なり。又観より去るはこれ観なり。この中もまた止観の総用なり。また別にして別ならざるなり。乃至下文の六十四番のために別にして別ならざるを成す。ゆえに直ちに四性を用いて三仮を推すを知る。具に止観を含む。初めの文に颺は焰に依ると云う。颺の字は弋障・弋彰の二反、並びに通ず。風に飄るを颺と曰う。すなわち焰の動転なり。必ず焰に依って方に動有るがゆえに、焰は必ず空に依る。実処無きがゆえに、焰と颺は倶にこれ動転の法なり。見および無明の倶にこれ動法なるが如し。動は焰に依り、焰は空に依り、空は所依無し。見は無明に依り、無明は法性に依り、法性は所依無し。何となれば、法性は体無く全くこれ無明なればなり。ゆえに空は所依無しと云う。眠は焰に同じと喩う。何となれば、眠心は法性の如く、昏眠は無明の如く、夢事は諸見の如し。無明を本とし諸見を末とす。無明は依無く諸見は住無し。ゆえに双寂と云う。次に観を釈する中に、無明は既にすなわちこれ法性なりと云う。不二はただこれ不異なり。また不二は性に従い、不異は相に従うとも言える。法性は本より下は、上の不二不異を釈す。無明は既にそのすなわちこれ法性なり。法性は無明に染せられず、本清浄と名づく。無明にある時、法性は滅せず。無明を出づる時、法性は起らず。また無明にある時、法性は起らず。無明破るる時、法性は滅せず。無明と法性はその体一なるがゆえに、無明の体もまた不生不滅なり。ゆえに無明もまたまたかくの如しと云う。ゆえに無明は無始にして不起、今すなわち法性もまた無滅なるを知る。人無くして人と計するがゆえに、並びに誰と云う。若し謂らく此の下は重ねて無明は法性に同じきがゆえを釈す。法性は起無しの下は、重ねて法性の体を以て無明を釈す。能観などは、無明と法性は並びにこれ所観なり。即空の観はすなわちこれ能観なり。ただに所観の無明法性のみにあらず。体性不二なり。能観の観智もすなわち無明これなり。無明は空の如きがゆえに観智もまた空なり。かくの如き下は略の結なり。通を明らかにするを以てのゆえに、共に無明法性の名を立つ。今次第に依れば、かつ破見の無明と真諦の法性に約す。ゆえに仮より空に入ると云う。次に広釈の中に、まず有見を破す。四見に対すれば総を離れて別と名づくと雖も、未だ信法の回転などの別を分かたざるに拠れば、なお総と名づく。初めに利根の信法の両行を立つ。前の略破の如きは、その文已に足れり。未だ解せざる者のために更に後に広くす。その鈍根の下は、広観を明らかにせんと欲して、まず広の意を述べ、および広の法を用う。もし広を用いざればすなわち衆失を増す。ゆえに今中論の広観の法に依ると云う。中論は正しく末代の人を被る。世の観心の者は何ぞこれを棄てん。龍樹まさに師と為るに任ぜずんば、また誰をか師とせん。ゆえにこの下文は並びにこれ龍樹の中論の観法なり。ゆえに今もまたかくの如しと云う。今もまたの下は、論に依って観を立つ。もし一念の下は、重ねて前の来の明らかにする所の三仮を述ぶ。破すべき仮と為す。当に観ずの下は、正しく観を用いるを明らかにす。初めの文は、まず四句を以て因成の仮を破す。中にまず四句を列ぬ。もし心の下は、次に正しく推し破す。初めに自生を破す中に、前念を根と為し後念を識と為すと云う。根に別体無く、還た無間滅意を指して体と為す。根は能生と名づく。前意の滅に由って後意識を生ず。ゆえに倶舎に云わく、六識身の無間滅に由って意と為すと。身は体なり。無間滅の時、意根の体と為す。爾の時、五識もまた無間滅意に依る。以て親縁と為し、五色根を用いて以て疎縁と為し、而も五識を生ず。五識の無間に分別の生ずる時、即ち意識と名づく。今この文の意は五識にあらず。これ第六識なり。有見を縁じて以て法塵と為し、即ち識と名づく。即ちこの識を以て根に対して研責す。ゆえに根は有識のゆえに識を生ず、根は無識のゆえに識を生ずと云う。大論に問うて曰く、前念もし滅せば何ぞ能く後を生ぜんと。答う、二義あり。一に念念滅、二に念念生。この二あるがゆえに、滅して生ずるを得。断見を生ぜんことを恐るるがゆえに、これがために須く立つ。今破らんがために、これがために須く責む。生滅は殊なりと雖も、根と識とは倶にこれ自心なり。根に従い識に従い、倶に自性に属す。自性の中に根識互に責めて求むるに不可得なり。また心と識とは倶に塵に対する。以て心の名を立つ。ゆえに文の中に両名互に用う。終に法相を以て心意識の異を分別してこの文を拘すべからず。ゆえにこの初めの立つるに皆生心と云う。下の句の難の中に並びに生識と云う。ゆえにこの文の意、両名に在る無し。根より生ずるに従うかと問うは、滅生を問うなり。識より生ずるに従うかと問うは、生生を問うなり。もし根より生ずの下は、まず上の句を破す。小宗は根よく識を生ずと許すと雖も、今滅生を破るがゆえにこれがために須く責む。もし識より生ぜば則ち前識は滅せず。復た一識を生ず。妨最も大なるがゆえに俟たずして責む。ゆえに文の中にただ根生を破るのみ。根を以ての下は、まず双ねてこれを定む。根もし有の下は、双ねて責む。初めに有識を責む。根もし有識ならば則ち二妨あり。根識並びに及び能所並びにという。則ち生生無窮の過あり。もし能所生ずる義無ければ成ぜず。云何が生と言わん。また無間滅にして方に識を生ずと名づく。根もし有識ならば生滅相違す。ゆえに並びに過あり。根もし無識の下は、下の句を責む。即ち無識よく識を生ずるに類す。根もしの下は、有識性を責む。これはこれ縦破なり。またまず二句を立つ。有已れは下は責なり。有は還た有に同じ、また並生を成す。無は還た無に同じ、無情も生ずるに同じ。また識性の下は、一異の責を作す。もし一ならばまず一句を責む。凡そ性と言うは、後方に能く生ず。識と性と一なるがゆえに能所無し。もし異ならば異の句を責む。性もし識と異ならば則ち外境に同じ。外境よく識を生ずれば即ち他に同じ。如何が自と計せん。もし言の下は、次に他性を破す。前の如き責已に畢んぬ。定んで心は自より生ぜずと知る。ゆえに自生せずと許して云わく、心は自より生ぜずと言うと雖も、外塵有るに由って而も心来るを発す。塵を根に対しては塵を他と名づく。経を引くに云わくの下は、大品の文を引きて他性を証す。塵はこれ外縁にして内根を発し、思を生ずるは即ちこれ所生の法なり。仏は一機に赴きて他性の説を作す。計する者は了らずして経を引きて執を助く。若し爾らの下は、他生に判属す。今推すの下は、観を用うるなり。またまず両句を定む。塵もし是の下は責なり。まず是心を責むれば則ち三妨あり。一に塵は心に非ず妨、則ち心は塵と名づけず。二に塵は意に非ず、外は自生に同じ妨。三に並生の妨。塵もし心に非ずんば容く塵生と計す。塵もし心ならば還た心処に心を生ずるを成す。即ち並生と名づく。子もし苗を生ずれば則ち能所有り。子還た子を生ずれば則ち二子並びに生ず。何の能所か有らん。塵もし心に非ずの下は、次に非心の句を責む。前の根中に無識の義と同じ。責の意もまた爾なり。ゆえに前の破の如しと云う。塵に識性有るは前の例に同じ。知るべし。もし根の下は、合生を責む。単に自他の計は既に並びに推し破る。ゆえに合生を計して自他を免れんと擬す。またまず両句を立つ。もし各各の下は責なり。もし各各に有れば還た前文の両句の中の有に同じ。ゆえに自他性に堕すと云う。何ぞ共と名づけん。もし各各に無ければ二砂に油無きが如し。和合もまた無し。また共とも名づけず。譬えの下は譬えを挙ぐ。またまず両句を立つ。もし各に有の下は、次に両句を責む。具に法中に鏡面合すれば一なるが如しに同じ。各に有り各に無し、異方にして像を生ずること能わざるを計らんことを恐る。和合同じ処にして方に像を生ず。ゆえに結んで責めて云わく、実に一に合せず。もし鏡に至り面に至りて方に一に合すと名づく。今像の法を取れば近からず遠からず、則ち能く像を見る。もし爾らば、自ら是れ近からず遠からずして能く像を生ず。何ぞ鏡面に関せん。離るるも復た不可なるがゆえに、像無しと知る。根塵離合の下は、ただ鏡面合わせの已下の文に合すのみ。已上の文は、法中に已に具するがゆえなり。一一に更に根塵を将て鏡面に合するを一の已上の文と為すべし。また根塵の下は、性および一異を責む。並びに前の自生中に説くが如し。もし根塵の下は、離生の計を責む。前三は推せられて既に生を得ず。ゆえに三の外に別に離を計す。中にまず無因縁に判属す。無因は生ぜず。次にまたまず両句を定む。もし有の下は責なり。まず有離を責む。離は即ちこれ縁、即ち他生に同じ。何をか離と謂わん。もし無の下は無心に同じきを責む。もし言の下は性を責む。またまず二句を定む。次に二句を難ず。有はまた他に同じ、無は無心に同じ。中論の下は、次に中論を引きて総じて四句を証す。総じて生ずべからず。何故に各々計するや。もし推すの下は、結んで性相の二空を成す。この中に初めに二空の相を示す。ただ性計無きを名づけて性空と為す。また不住の下は、性既に破し已われば、ただ色心内外の相有り。既に無の四句に住せず。ゆえに相もまた叵得、相空と名づく。内外に在らずなどと言うは、内はただこれ因、外はただこれ縁、中間はこれ共なり。常に自有とは、ただこれ無因なり。この計無きがゆえに即ち四性無し。この二空は言は前後に雖も、意は時に異ならず。もし四句の下は、復た二諦を以て結んで二空を成す。もし性執有れば世にして諦に非ず。性執を破し已われば乃ち世諦と名づく。ゆえに世諦は性を破すと云う。性執破し已わればただ名字有り。これを仮と名づく。仮は即ちこれ相なり。相を空ぜんがために法性を観ず。理を観じて真を証す。真諦は相を破すと名づく。空は前後に非ず、二諦同時なり。性相を弁ずるために前後して説くのみ。これを思えこれを思え。この意を見ずして徒に即空と謂わん。ゆえに大品の中に一一の法に歴して、皆内外中間に在らずなどと云う。これは則ち三乗通じて二空を観ず。次に勧学品の中に、菩薩摩訶薩など皆修学すべしと云う。この三仮は即ちこれ空の破する所の仮なり。次に集散品の一一句の中に、皆ただ名字有り、この字は住せずまた不住なりと云う。集散と言うは、集むる所を散ずるがゆえに性相の二空と名づく。これ則ち諸菩薩など皆この二空を学す。この二空を得て十八空を具す。性相倶に空などは、総じて別の空相を示すを結ぶなり。この中に総と言うは、ただ二空を指してこれを総と名づく。この二空を以て一切を遍く空ずるがゆえに、ゆえに総と名づく。もし初めの文に望むれば、この総はなお別なり。四句の句句に破するを以てのゆえに。もし一句に得入すれば亦た二空を具す。必ずしも四句の方に二空と名づけず。文に四と言うは、転計の者のために、極めて無因に至る。ゆえに四を破して性相空と名づくのみ。この中に総とは、下の六十四句に望めば復た総と名づく。ゆえに中論などの者は、前にこの文を引きて四倶に性を証す。性は並びに須く破すべし。破し已われば空と名づく。即ちこれ性空なり。この中に引くは、無自性乃至無無因性を証す。またまた無名、名づけて二空と為す。ゆえに観を用うるは中論と同じと云う。もし根検の下は、二空を具するがゆえに、即ち十八を具す。この内外などは並びにこれ所空なり。十八の事を空じて十八の名を得。もし一一に歴して空ずれば皆能所を識る。これを銷せば見るべし。法界次第の中にもまた略して銷釈す。意甚だ分明なり。これを持って彼に望むれば、言は小異に雖も意もまた大同なり。問う、有法より無法有法空に至るまで、既に三句に対する。何故に非有非無の句を空ぜざるや。答う、前の畢竟空は不生不滅を破す。即ちこれ第四句を破するなり。ゆえに下文に無し。問う、前の六空已に二空を明らかにす。須く更に次の七空を説くべきや。答う、向の性相を以て重ねて諸法に歴するがゆえに、更に七を明らかにす。問う、内より畢竟に至るまで諸法を破し尽す。何ぞ後の五を須いん。答う、大論に云わく、十三破し尽す。後の五は重ねて説くのみ。この十八空は大論三十四に広く相状を釈す。また九十二に云わく、この十八空の性もまた自ら空なり。即ち能空もまた復た皆空なり。大経の十一空及び二十空も、また何ぞこの十八空を出でんや。楞伽はただ七空を列ぬ。一に相空、自他共に生ぜずと分析するがゆえに。二に自性空、諸法の自性生ぜざるを空ずるがゆえに。三に無行空、陰は本より涅槃なるがゆえに。四に行空、陰入和合して我我所を離るるがゆえに。五に不可得空、諸法の妄計説くべからざるがゆえに。六に第一義空、自証聖智は過習を離るるがゆえに。七に彼彼空、空中最も下にして復た彼此無し。またこれ十八を合して七空と為すのみ。然るに彼の経の意と大論とは小異無きにあらず。ゆえに楞伽の七空は多く蔵通に在るを知る。自証の中に過習を離るると云うを以てのゆえに。従容としてこれを取れば稍や円別に通ず。大品の十八もまた三教に通ず。次に相続を明らかにす。因成に比べて説く。また応に見るべし。然るに須く細かに銷して以て相状を出すべし。この中に断常に堕すと云うは、即ち定有定無なり。相待の中にまず相待と二仮との異を弁ず。初めに若し不得の下は異の由を明らかにす。心を計るに由って無心を待つがゆえに。因成の下は正しく異相を明らかにす。相続の中を指して別滅と為すは、別に有情の心所に滅するがゆえに。虚空に異なりて生滅に在るがゆえに。択滅に異なりて是有為なるがゆえに。非択の中にまた彼の闕縁の義と同じからず。所縁の処に心の生滅するがゆえに。ゆえにただ彼の生滅の義と同じきのみ。ただこの滅に対して後念の心生ずるを、相続と名づく。もし相待の中に通に対すると言うは、三無為法は通じてこれ無生なり。無生の名は義に於て滅と同じ。彼の三滅に対して我に心有りと知る。言は併せてこれに同じからずと雖も、三無為は併せてこれ生滅の滅に同じからずと雖も、而も無生なるを得るとは、三無為法は同じくこれ無生なるがゆえなり。生滅の滅の義は無生に似たり。彼の三無為はこれ無生なるがゆえに。無生はこれ滅なり。ゆえに滅に対して生を知る。虚空などと言うは、一を挙げて二を例とす。上の既にの下は、開善の因兼の名を借りて、以て相待を釈す。初めに開善の旧解を牒す。旧はこれ開善寺の蔵法師の所立なり。上の因に兼ぬるがゆえに因兼と云う。上はただ二重、今第三に至る。ゆえにこれを過ぎたりと曰う。また因兼の下は今の解にして旧に異なる。上の因成の中及び相続の中に、惑未だ破せざると雖も無生の解を縁ず。この無生を以て意根の生に対す。即ち相待の中の因成の相なり。上の仮心に因りて来たりて相待を続く。即ち相待の中の相続の相なり。上に因りて此に至るがゆえに故名づけて因と為す。これ上の二を具するがゆえに故名づけて兼と為す。これ則ち因を釈する大意は旧と同じ。兼と過之は旧釈と殊なり。開善はただ共起を以て兼と名づく。二を具すと云わず。上の惑除かずして復たこの惑を起す。ゆえにこれを兼と名づく。通滅を過之と名づくとは云わず。釈既にの下は結んで斥す。他名を用うと雖も義は彼と異なり。ただ旧名を借りて相待の義を顕わす。即ち今の義を以て還た彼を破す。今検の下は正しく釈す。かくの如き四の下は結んで二空十八空などを成す。上の文に慧眼の言に闕くるは、略なり。またまた一切智などと云うべし。文に無きは略なり。非但の下は例して諸見を破す。而もこの見惑は理を見るに由るがゆえに有見を破す。理を見るの時、単中餘の三を。復た具に絶言一切倶に破す。是名の下は結なり。止観よく光揚を顕わす。並びに見を破するに由る。ゆえに教門光顕す。ただ見を破するのみ尚おこれ光揚なり。況んや諸思塵沙無明をや。況んや一心に破するは具に前に説くが如し。ただ前は円門に約し、此は破見に寄す。意を得るに何の別か有らん。妙旨は初めの如し。この有見に於てもまた総修と名づく。もし不悟の下は信法の六十四番に対して、復た別と名づく。還た前の来の初めの総止観を離れ、以て四悉二行に対するがゆえなり。下に行くも例また然なり。具に前文の安心中に説くが如し。一一の見に於て並びにこの結を作す。ゆえに前文に三諦を離開し及び一心を以てするも、なお総と名づくを知る。この総別を用うれば有見即ち伏す。小に望むれば四善根位に同じ。ゆえに且く結んで善有漏陰と為す。以て下の見度計転に被わるれば、起こらざるがゆえに便ち無見を起す。有見なお在りて心に無を起すと謂う。また見を成すなり。夫れ見を破するの下は、無見を破せんと欲して、まず破の由を明らかにす。即ち二行三根なり。無に依りて計を起すは已に下根と成す。前の総後の如し。また利鈍二行の不同を判ず。下に行くもまた爾なり。或はただ文略なり。三根の中を明らかにす。生を観ずなどと言うは、生は即ち有見なり。有を謂い無を謂い実と為す。これがゆえにこの見は委しく破すべし。また当にの下は正しく破す。まず標す。総とはただに観を修して別を破するを謂う。三仮四句なり。ゆえにこの等の総は即ち初めの文と同じ。前は単見に於てこれを総と名づく。四見に対して総と名づくと雖も、今の文は重ねて述ぶ。ゆえに一見に於て別に対して総と名づく。またまた有見の因成の末文の総別と同じからず。もし信法の六十四番に対しては、この総別は復た総と成る。総破の下は正しく無を破するを明らかにす。まず二経を引きて破の相を明らかにす。初めに大品を引くは、識を以て生を了別するは即ち有見、無生は即ち無見。有無倶に破するがゆえに互に相況して皆不可得と云う。即ち深を挙げて浅を況し、浅を挙げて深を況すなり。これを思えこれを思え。次に楞伽を引くは、彼の経の第四に云わく、もし空見を起すを名づけて壊者と為し自共に堕すと。彼の前後の文、見を破すること一に非ず。次に然に無生の下は斥奪なり。有を捨て無に著くは何ぞ殊なる歩屈なるや。次に別破は、またまず見の由を序す。前の有見三仮の惑伏するに由り、今の無見の所執の境を成す。総別の二破を止観と名づく。三仮の似性相空を見ず。ゆえに泯然として入定すと云う。内外を見ずして似因成破。また前後無くして似相続破。相形待無くして似相待破。寂然の下は正しく無見の所計の相を明らかにす。而も見を起し著するの下は見過の相を責む。ゆえに論の偈に云わく、諸仏は空法を説きたまう。諸見を破するがゆえに。而も復た空に著すれば、諸仏の化せざる所なり。釈論の下は比決して異を簡ぶ。大論十八に云わく、外道は愛慢多きがゆえに、一切法を捨てず。論に問うて云わく、外道は空を観ずれば則ち一切を捨つ。云何が捨てざるや。答う、外道は空を観ずと雖も而も空相を取る。諸法空なるを知ると雖も我空なるを知らず。観空の智慧に愛著するがゆえに。もし愛著せば便ち我見を成す。我見は即ち八十八使を具す。論また問うて云わく、外道は既に無想などの定有り。心所法を滅すれば応に取著の観空智慧無かるべし。答う、無想定の力にして智慧の力に非ず。かくの如きの下は見過の由を出して結んで空見を成す。仏弟子の下は正を顕わし異を弁ず。明らかに過の由を知る。由は著心と謂う。著心もし生ずれば過を知るがゆえに離る。離は即ち観を修す。豈に更にこれを真の無生と謂わんや。云何の下は無見の中に三仮具足を示す。良に有見よりこの中に入るに由る。無生法塵の下は無見の中の三仮の相を出す。当に推すの下は正しく観を用う。まず因成を破す。当に知るの下は結んで二空十八空などを成す。非但の下は例して諸見を破す。意は前に説くが如し。者未の下は別に六十四番に約す。前に説くが如し。勤修の下は見度計転。次に亦有亦無の見を破す。またまず前の見を牒してこの見の体と為す。或は進の下はこの見の相を弁ず。長爪の下の如きは例を引くなり。一切能破はこれ亦無の見。この見有りと計するはこれ亦有の見。また見心に無を謂い他を破して有を成す。得悟と言うは、計を示してこれ見なり、得悟を示すに因る。もし見に非ずんば云何が破せられん。発見の下は同じきを指す。云何の下は広く見心の是れ苦集の相を示す。五不受と言うは、第三行相品に云わく、菩薩摩訶薩般若波羅蜜を行ずる時、行も亦た受せず。不行も亦た受せず。亦行亦不行も亦た受せず。非行非不行も亦た受せず。不受も亦た受せず。舎利弗須菩提に問う、何故に受せざるや。答う、般若波羅蜜は空なるがゆえに、自性受せず。不受すら尚お受せず。汝はこれ亦有亦無を受す。即ち第三句を受するなり。汝云何の下は見心の中の苦を示す。即ち汚穢の五陰なり。また我の下は見心の中の集を示す。また此の下はこの亦有亦無の見心の中の三仮を点示す。今破の下は正しく破す。かくの如きの下もまた結んで二空などを成す。即ち是の下は結んで眼智を成す。もし入らずんばの下は別に六十四番を明らかにす。この見の初めの文にもまた総あるべし。文に無きは略なり。亦有の下は見度計転。次に破の下は略して見の由を示す。所以者何の下は略して見の由を釈す。惑破せざるに由るがゆえにこの見を成す。もし不定の下は正しく見の体を示す。何以故の下は見者が論を引いて以て己が執を証す。法正しく人邪にして名同じく義異なり。堅著の下は見成りて計を起す。即ち見相なり。またこれ過を責むるなり。略四徳を以て法を証しこれを責む。世人誰か自ら常などと云わざらん。咸く所得と計して愛恚癡を起す。六師に非ずと雖も定んで見計に属す。もし証と云わざれば麁く夷愆を免れん。自ら高深と謂うは真にこれ上慢なり。我心生ずるがゆえの下は見の所生の苦集の過を示す。寧ろ起すなどと言うは、楞伽第四無常品に云わく、寧ろ我見を起すこと須弥山の如くなるも、悪取の見を懐きて増上慢を増さざれ。これ乃ち少分にして与えて言う。乃至応に云うべし、寧ろ我見を起すこと法界に遍ずるも、悪取の空を起すこと微塵の許もせざれ。この見は毒草薬王と識らず。毒草は苦集に譬え、薬王は道滅に譬う。世に草木の病を治すべき者あり。中に於て最もたるを薬王と称す。耆婆経に云わくが如し。耆婆童子は貨柴人の大柴束の中に、一木の光明徹照するを見る。名づけて薬王と為す。病人の身に倚りて身中一切の諸病を照見す。道滅もまた爾なり。能く衆生の煩惱諸病を照す。略過十有りとは、向に列ぬる所の十使これなり。広は尽くすべからず。十使に由って一切の過を生ずと謂う。また一一などは、この一切の過各々三仮を具す。観を用うるは文の如し。復次下は結んで向の文の四諦を出でざるを示す。夫れ一切の下は四諦の所以を明示す。如来の下は証を引く。初転法輪は正しく見を破するに在りと謂う。初転は未だ尽く四含を具せずと雖も、四含は並びにこれ生滅の四諦なり。義は初転に同じ。ゆえに阿含四諦の力と云う。中含に云わくが如し。舎利子拘絺羅に問うて言わく、頗る事ありてこれに由って諦を見ることを得るや。拘絺羅言わく、有り。食を知り食の集を知り食の滅を知り食の滅道跡を知るなどと。具に釈籤の中に引くが如し。生滅すら尚お爾なり。況んや後の三番三種の四諦をや。何ぞ破せざる所あらん。もし非有の下は例して諸惑を破す。兼ねて結んで眼智を成す。ゆえに正智慧を発すと云う。名づけて仮より下は結んで空観を成す。もし下の如きは六十四番別破。この見の下は見度計転。所以の下は結んで勧む。不雑と言うは、見見の中に倶に三仮と云う。所計同じからず。一一の仮異にして皆四句に破す。破体各別なり。四句の後は並びに二空を結す。所空の義殊なり。また皆各々六十四番を修す。番番顕異なり。一往は雑に似たり。章節自ずから分る。能了などは、深く勧め深く誡む。もし能く了らん者は則ち与に観行の道を論ずべし。一句を識らずんば如何が能く真諦の乳を識らん。況んや横竪不二一心の諸番をや。次に無言を破す。また初めに見の由を明らかにす。観を用いて上の四句を破するに由る。復た起すの下は正しく見の体を明らかにす。出づなどと謂うの下は過を責む。略して下の如きは復た衆多の絶言を以て通じて責む。若し謂うの下は別に判ず。判ずるにその複具四句を出でず。何をか絶言と謂わん。所言の複見の第二句を出でずとは、無無の句を謂う。汝のこの絶言と無無とは別ならず。所言の具足見の初句を出でずとは、即ち初めの四句の中の第四句なり。有の非有非無及び第四句の中の初句を謂う。非有非無有を謂う。ゆえにこの見惑は出で難きを知る。法華に云わくの下は証を引くなり。この文は通じて見網蒙蔓を譬う。経の中の鳩槃茶の下は別に見惑を譬う。玉篇に云わく、山神を魑魅と為し、水神を魍魎と為す。西京賦に云わく、山神は虎形にして魑と為し、宅神は猪頭人形にして魅と為す。通俗文に云わく、木石変怪するを魍魎と為す。向の二例を以て鬼神を摂し尽す。ゆえにこの鬼を以て一切の見を譬う。次に複具の中にもまた複具あるべし。各各まず略境略観を明らかにし、次に広く四句を以て一一にこれを責む。乃至また二空の総を以て四句の別に対する。一一に結んで二空十八空などを成す。ただ前の例に同じきがゆえに知るべし。故に文を煩わさず。下の絶言見は別相を有せずして対して総と為すと雖も、ただ別を用うべし。具に有見の如し。乃至まず見相を出し、次に絶言を出す。今の文は略を存す。またまず略して複具の見を出す。中に略して見の由見の体見相正破結成転計などを出す。また復たの下は複具下の絶言の相を出す。また略して見の由見の体を出す。かくの如きの下は正しく判じて見に属す。何以故の下は判を釈す。何故にかこれを判じて見に属するや。待対生ずるがゆえに。言は絶えざるがゆえに。四句は本より絶す。何ぞ須く句を避けて別に絶を求むるや。空の譬えは知るべし。また竪の下は更にまた竪に絶言の計を破す。前は諸絶を以て相望するがゆえに横。また不絶を以て絶を破するに由る。絶は還た絶せず。ゆえにこれを横と名づく。今因果前後の相望を以てするがゆえに、これを竪と名づく。因絶えざるがゆえに果もまた絶えず。上来の下は重ねて前の来の単複などの見所破の横竪を判ず。一有見の中の三仮四句の如し。相望して横を成し、展転して度入し四に至るを竪と名づく。一見の中に因成の内外相望するがゆえに横、相続の念念相望するがゆえに竪、相待の前滅を待するを竪と名づけ、三無為を待するを横と名づく。一一の見の初に皆総破あり。ただ空を以て直ちに破し未だ横竪を分たず。大途はただこれ横破のみ。もし曲く分ち委しく判ぜば向に説く所の如し。大概に言えばただ横破を成す。何となれば、諸見の体は横なり。還た三仮四句を以てこれを破す。これがゆえに大判に能所倶に横なり。今当にの下は次に竪破を明らかにす。竪法を以て責むるがゆえに竪破と云う。竪法と言うは、浅深あるがゆえに。三蔵五停より始め、円教妙覚に終わる。この等の位発するをこれを生と名づく。汝もし生と言わば何等の生ぞ。またこの竪破は次第三諦の竪と同じからず。次第三諦は諦に依って惑を破す。前後同じからざるがゆえにこれを竪と名づく。この中はただ竪法を以て往き責む。その見を成すを責む。見なればゆえに須く破す。ゆえに竪破と云う。前の仮を釈するが如し。還た佛法四教に約して仮を明らかにす。仮は皆破すべし。今破仮を明らかにす。還た佛法四教に約して位を弁じその見心を責む。諸教全く非見無し。何をか謂わん。定んで有見に属して終に位生に非ず。是れ五停下三蔵の位生なるか。苦忍などと言うは、無漏十六心これその首に居す。乃至道比第十六なり。是れ乾慧下通教の位生なるか。是れ三賢下別教の位生なるか。是れ鉄輪下円教の位生なるか。別に信位無く円に五品無きは、ただこれ略のみ。重慮と言うは、慮は思慮を謂う。見道は真を観じて已に無漏を発す。今復た重ねて観ずるがゆえに重慮と云う。神通などと言うは、入位の菩薩の道種智明らかにして神通を遊戲し仏国土を浄む。大論九十三に問うて云わく、神通の所作を何故名づけて遊戲と為すや。答う、猶お幻師の種種に変現するが如し。菩薩もまた爾なり。ゆえに戲と名づく。復次三三昧の中に空を名づけて上と為す。諸餘の行法は皆名づけて下と為す。下は児戲の如し。ゆえに戲と名づく。論第七また問うて云わく、菩薩はただ三昧を出生すべし。何ぞ遊戲を須いるや。答う、菩薩の心は已に三昧を出生し欣楽出入す。また遊戲と名づく。既に結使の遊楽と同じからず。欣楽出入は即ちこれ出仮なり。誓扶習と言うは、大品に云わく、餘残の習を留め誓願力を以て及び餘習を扶け、而も三界に生じて有情を利楽す。もし計の下は竪に無生を破す。初めの文は正しく無生に約して以て破す。次に有人の下は、中論師に寄せて非を弁じ異を明らかにす。初めの文は徴起す。為に是れの下は正しく責む。中に初めに三障に約して以て不生を明らかにす。見思などの三は煩惱障に属す。為行の下は事理に約して破す。三障を破せんがためには行理に約すべし。これがゆえに次に明らかにす。行窮まり理満つるを名づけて不生と為す。世人の下は三仏に約して破す。中にまず世人の誤釈を破す。不生と言うは即ちこれ法仏なり。甚だ理に会すと雖ももし唯法仏のみならば、未だこれ通方に非ず。然るにこの中の不生不生は、重語に作してこれを読むべからず。須く間に書すべし。上の不生の字は上の句の末と為し、下の不生の字は下の句の頭と為す。今解の下は正しく釈す。文に四解を存す。初めに事理隠顕に約して釈す。法身は本より有名づけてこれを隠と為す。報応の二身は惑を破して方に顕わる。ゆえに三惑を以て併せて二身に対す。無明を破し尽し究竟智満つるを、故名づけて報身と為す。塵沙は法門を障り見思は化道を障る。この惑は倶に応身の家の障と為す。ゆえに二惑不生を名づけて応身と為す。二者は対治三惑の釈。ゆえに三身を将て以て三惑に対す。無明は中理を障り中顕るれば法身現ず。見思は空理を障り空顕るれば報身現ず。塵沙は俗理を障り俗顕るれば能く化を垂る。三は能治所顕に約して釈す。業行位智を以て能治と為し、真如実相を以て所顕と為す。復た業行及び位智に由るがゆえに、三煩惱尽く。煩惱尽くるがゆえに報応成就す。報応成るがゆえに本有の理顕わる。これ則ち法身は本有、報応は修成なり。四者は別に三因に対し釈す。修性皆な爾なり。ゆえに対するに用う。この四解の義は円別に通ず。意はただ円に在り。ゆえに初三の両解の義は別を扶く。二四の両解の義は円を扶く。別を以て円を助け共に責の義を成す。また初めの三解は皆諸法不生に約して三仏生ず。第四の一釈は、諸法生に約して三仏生ず。三仏の下は理に約して結す。当に知るべし四釈は総じて諸法不生にして三仏生ずと論ず。ゆえに総じて結して云わく、生は即ち無生、無生は即ち生と。他解は不生はただ法仏にのみ在り。尚お法仏の不生即生を見ず。況んや四重三仏の生無生を見んや。然るに今の文の意は本無生を責む。三仏の義を解するは他解を破するに因るがゆえに相即を論ず。ゆえに三仏の生は則ち倶に生、もし無生ならば悉く皆無生なるを知る。これがゆえに須く相即の義を立つるなり。もし阿字を聞くの下は証を引くなり。一の不生を聞きて一切の義を解す。不生を聞きて即ち三仏皆な生無生なるを知るが如し。乃至四解三仏の無生、云何がただ法身の一解を作すのみならん。もし今の解の如くんば三仏の体遍く、不生もまた遍し。諸を将ての下は結んで責む。汝の執心は並びにこの諸不生の中に入らずと責む。見に非ずしてこれ何ぞ。有人の下は中論師の被破の義に約して、広く非を弁ず。初めに他人の中論師を破するを述ぶ。論師は転じて不生不滅を釈す。多くの意を作すと雖も而も破の深浅分斉を明らかにせず。ゆえに他人に破惑に約して責められ、ただ入空を成すのみ。ただ不とは、不は破なり。非なり。中論の下は論師は破られしことを曉らず、便ち不の字を加えて中に会せしむ。もし爾らば、向の煩惱の生に非ず、向の遷滅の滅に非ず。中道を顕わすに似たり。何ぞ真を見るに殊ならん。此解の下は正しく破す。初めに略して斥す。今且く与にその不不生の辺を与う。ゆえにこの解は中を扶くと云う。その周からざるを責めてゆえに文を傷り義を失うと云う。何者の下は釈なり。まず失義を釈し次に傷文を釈す。初めに失義と言うは、兼通含別の義を失うと謂う。論の円宗にこの兼含有り。如何が破られて中道無しと伏せん。汝の破られたるは正しく論の文の所兼の通蔵に当るが如し。即ちこの初めの文これなり。もし生ももし滅の下は論の文の含別の義を出す。もし生滅の下は正しく論の文の円宗の本意を顕わす。初めに二十身見などを破すと言うは、この果は見を破す。経論に数の多少を列ぬること同じからず。毘曇に云わく、須陀洹喻経の説くが如し。無量の惑を断ずるを須陀洹と名づく。何故に大経はただ三結を断ずるのみとするや。或は病に随い或は根に随う。鈍根の者のために八十八を説き、利根の者のために三結を断ずと説く。今これ即ちこれ大論の文なり。処の中に約して二十を破すと言う。また或は時に鈍根のためにただ三を断ずと説く。婆沙に云わく、昔一時に毘黎子あり佛法に出家せり。時に仏已に二百五十戒を制し、族姓子をして随って楽行を作さしむ。彼人聞き已りて乃ち憂慮を生ず。誰か能くかくの如き諸戒を守護せん。便ち仏所に詣り頭面に仏を礼し、仏に白して言わく、我れかくの如き諸戒を護るに堪えず。爾の時世尊親善の相を現わして而も訶責せず。軟美の語を以てこれを慰喻したまわく、善哉善哉、よく三戒を持することを善くすることを能くするや。戒心慧を謂う。彼人聞き已りて即ち大いに歓喜し、我れよくかくの如き三戒を持すること能くす。断惑もまた爾なり。もし世尊八十八使及び無量の苦を断ずるを説き、須陀洹と名づくれば、則ち化を受くる者憂慮を生ぜん。何ぞ能く八十八の樹を抜き、八十八の大河を度り、八十八の大海を竭し、八十八の大山を摧き、八十八の対治を修せん。もし仏ただ三結を断ずと説かば、則ち化を受くる者大いに歓喜を生ぜん。二十と言うは、五陰各々四あり。色大我小我色の中に在り、我大色小色我の中に在り、即ち色は是れ我、色を離れて我あり。四陰もまた爾なり。ゆえにこの二十を名づけて身見と為す。八十八使は具に前に釈するが如し。案文の下は結なり。兼二とは通蔵を謂う。龍樹の下は功を論主に推す。解釈は自ら我より論の意本より然なり。如何が論を弘むるに他に暗に破せられ自ら中無しと愜せん。もし脣を開かばの下は傷文を釈す。吃は利ならざるなり。事に寄せて以て論師を斥するは吃の如し。即ち論語第九に楚狂接輿あり。孔子の徒を領して行くを見て、乃ち歌を為りて曰く、鳳よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。爾雅に云わく、雄を鳳と曰い雌を凰と曰う。意は孔子を斥してただ鳳の如しと。時に出で遇わず。周道かくの如し。礼教を行わんと欲す。また鳳の如く時に非なるに出づ。ゆえに鄧艾魏主に対してこれを以て譏警と為す。魏主その蜀を破らしむ。艾は性吃にして、魏主に対する時頻りに艾艾と称す。魏主戯れて曰く、艾艾は幾艾かあると。答えて曰く、鳳よ鳳よ、ただ一鳳のみと。今この意を以て彼の論師を斥す。ただ鄧艾の鳳よ鳳よを以て吃の譏に酬いるが如し。当に知るべし不を加うるは重ねて吃の声を為すが如しと。不不と云うと雖もただ一不のみ。縱い中を顕わさんと欲すとも論の兼の意を失す。これ則ちその所説の文を傷るを斥す。抽筆の下は正しく著述の文を傷るを斥す。傷は損なり。已に円文を損じ徒に点淰を加う。既に能く著述して錔より筆を抽く。毫を硯に染めて能く深致を開拓演べず。而も不の下に点淰を加うるか。徒に不不の声を増し、却って兼含の富を失す。ただ双非但中の一意を得るのみ。全く通蔵及び論の円宗を失す。懸疣の下は重ねて喩に約して責む。疣は肉の余りなり。横に一肉を生じて体に著くを贅と為す。贅また疣を生ず。不の字の点を加うるは贅の疣を生ずるが如し。破られて中無し。意に補助せんと欲して還た却って円及び蔵通を失う。今解の下は兼ねて彼の非に約して以て今の是を顕わす。含を扶け顕を存して本の不生を存す。汝に依って不を加う。また多種の不生不不生あり。ゆえに今彼の見心を責む。是れ何等の不生不不生なるか。ゆえに初めに標して云わく、且く略してその十種を出すと。中に分けて三意と為す。第一第二は非但に生を破して不生を明らかにす。不生は破すべし。ゆえに更に不不生を加う。これ乃ち正を以て邪を破す。第三より第九に至るまでは皆両の不を以て両の惑の生を破す。ゆえに不不生と云う。即ちこれ一の生の字を以て上の両の不に対する。義にしてこれを言えば開いて両の生と為す。ゆえに上の不生はこれ一不にして生を見ず。次の一不生はこれ一不にして生を思わず。及び論の結句一一にただ不不生と云うは、還た略を存するがゆえに。ゆえに下の句の不の字を次の不の下に次ぬ。ゆえに不不と云う。下に行く諸句もこれに準じて知るべし。ゆえに正習乃至別円と云う。第十は妙覚位に約す。智断永く満ちて両の生不生なり。名づけて不不生と為す。この中三釈同じく妙覚に在り。初めにただ十を標する意はここに在り。また第三より第九に至るまでの一一の文の中に、皆前を釈し竟りて次に後の句を生ず。前は不生と雖も後に望めばなお生ず。三蔵二乗を釈するが如し。不見不思の両不生を釈し竟りて、即ち後に生じて云わく、習気なお生ずと。もし爾らざれば、後何の所破か有らん。初めの文に長爪第四句及び絶言を成すとは、一切能破なり。義は双非に似たり。語は皆転ずべく義は絶言に似たり。これ則ち一計前後四に出づ。無見、亦有亦無、非有非無及び以て絶言を謂う。今総じてこれを判ずるに一不生に似たり。不生は邪見なり。これがゆえに須く破す。名づけて不不生と為す。非想の下の如きは復た須跋の非想無生を引く。無生は破すべし。名づけて不不生と為す。犢子もこれに例す。第五不可説蔵と言うは、大論第一に云わく、佛法の中にもまた犢子道人あり。四大和合するがゆえに眼ありと説き、五衆和合するがゆえに人ありと説く。犢子阿毘曇の中に説くが如し。五衆人を離れず人五衆を離れず。五衆は人に非ず人は五衆に非ず。人は第五不可説蔵の中の所摂なり。ゆえに一切有道人は皆言わく、一切種一切時一切法門の中に求むるに不可得なり。亀毛兎角のその体常に無きが如し。陰界入などに自性有ること無し。これはこれ一不生なり。犢子の所計は猶お小宗に違す。ゆえにこの不生は猶お更に須く破すべし。ゆえに不生もまた不生と云う。次の意の中に三蔵の菩薩は未だ不生を得ず。これがゆえに論ぜず。縁覚は習を侵す。習未だ都く尽きずして不不生に非ず。ゆえにまた論ぜず。体不見思と言うは、巧智の所観なるがゆえに体不と云う。通教の菩薩は空は二乗に同じく仮は別教に同じ。ゆえに今の文の中にもまたこれを説かず。別人の両不は不別に通ぜず。而も上の地になお生ずるは、別惑未だ窮まらざるがゆえなり。別仏は教に約して且く究竟と云う。ゆえに大論第九に云わく、小小の因縁よく大果を惑わす。況んや般若波羅蜜実相の不生不滅不不生不不滅を聞くをや。小小の因縁と言うは、少施少戒の類の如しと謂う。遠願これを導くも尚お大果を感ず。況んや円中不不生などを聞くをや。第三の意及び結斥は文の如し。竪に第三第四句を破す。上の菩提心の中の如しとは、第一巻発大心の中に、九縛に非ざるがゆえに非有、一脱に非ざるがゆえに非無なり。もし爾らば、第三句は云何。答う、双非は即ち第四双照は即ち第三なり。もし推理に歴し乃至過を起し法を聞きて四を開くに至れば、これ則ち五十六重の双非双照なり。更に四弘六即を加うれば、これ則ち六十六重の双非双照なり。況んや復た通教八地已上、及び別円地住已上の、位位に双非双照ならざるなし。我れ今諸の第三四句を将て汝の執心を勘ず。汝は是れ何等の第三第四なるか。釈名絶待とは、まず横竪の中を破す。各々第三第四句あり。及び絶待と絶体とあり。体はこれ双非双照の句なり。即ち略指すと雖も復た教に歴して一一に委しく釈す。二文各々三あり。初めに徴起し、次に正釈し、三に結す。塵妙不生通用生とは、一一の惑を破すれば即ち無量の俗諦三昧を得。利物自在を名づけて通用生と為す。内外業報とは、ただ界に約して内外を論ずるなり。析断常とは、二乗また得るも双非と名づけず。双非の義は具に第三巻の中の如し。通教三乗もまた断常を離る。意は三蔵の如し。通教菩薩八地已上。道は化道と謂い、観は空観と謂う。空を帯びて仮を出づるがゆえに双流と曰う。空に入れば非有、仮に入れば非空。ゆえに双非と名づく。別円地住の妙中は双非なり。初地に去るはこれ別なり。文の中に応に得の字を剰すべし。双遮の言は第四句に順ず。理は時に異ならず。次に竪に絶を破す。初めに外外などの六絶を列ねてこれを責む。婆羅門受瘂法と言うは、彼の外道の中に瘂法を計し、共に言説せずして以て至道と為す。三蔵に去るも復た佛法の多絶を以てこれを責む。初めに正しく責む。四教皆四門を以て理に通ず。理を得て方に絶す。杜は前の解の如し。不可説の衆多の下は況して責む。為此の下は過患を明らかにす。更に重ねての下は復た十種四句の外を以て責む。初めに標す。十種とは下に句を列ぬ。一往の下は釈なり。直立四句なるがゆえに一往と云う。四の上に復た四なるがゆえに無窮と曰う。前の四見の一一の見の上の如し。復た三仮四句を以てこれを破す。見各々十二にして四十八を成す。見復た見を起し乃至複具無言などの見に至る。皆四句三仮を以てこれを破す。ゆえに無窮と曰う。門より悟りを得るは門に四あるがゆえに、名づけて得悟四句と為す。摂属と言うは、諸の四門皆な有などと名づくが如し。人に随って修習し何れの法に入る。もし真ももし中も法を以て門を摂す。門は法に属す。問う、摂属と襵褻と何の別かある。答う、襵褻は則ち法を摂して句に入る。摂属は則ち句を摂して法に入る。権実とは、権実各々四あり。是れ何等の四句の外なるか。開顕とは、一切皆な実なり。汝はこの実の四句を出づるか。もし実ももし開も句の外に法無し。云何が出すと言わん。一期の佛教は法華に畢るがゆえにゆえに斉此と云う。今法華に依るもまたただ斉此のみ。滅後諍いを起す。これがゆえに意を失す。論を作り経を通ずるがゆえにゆえに意を得たりと云う。もし下の如きは結んで責む。愜は伏なり。前の横破などは横竪の文を判ず。具に前の広く外外及び附佛法に約するが如し。乃至佛法、一往十を成す。既に外外より仏滅後に至るがゆえにゆえにこれを竪と名づく。今世多く下の如きは偽釈を斥し疑いを明らかにす。初めに邪人邪教邪正相濫す。初めに人に約して釈して以て正に邪を濫らす。悪魔比丘と言うは、曾て出家し還家して戒を破るを謂う。復た道士を作り佛法を破滅する者はこれなり。また何ぞただ比丘のみならん。越済を悪魔と名づく。大品十六の如し。天魔波旬もまた比丘を作す。菩薩のために相似の道を説く。所謂骨想乃至また阿羅漢法を説く。菩薩に語りて言わく、汝この道を用いて苦を尽せ。何ぞ生死を用いて種種の諸苦を受くるや。今四大の身すら尚お受けたからず。況んや当来の身をや。また大経第九に云わく、一の闡提ありて羅漢の像を作り空間の処に住し方等を誹謗す。凡夫これを見て真の羅漢と謂う。この等は即ちこれ比丘の身を作り佛法を破滅す。もし戒を退き還家すれば衛元嵩などの如し。即ち在家の身を以て佛法を壊破す。越済と言うは、報恩経第六に云わく、賊住越済断善根人五逆等人は、戒を受くることを得ず。これ即ち正しく内外の道を破するを以て、名づけて越済と為す。済は道なり。越は違越と謂う。即ち破の義に当る。まず外道を破し来たりて出家中に投じ中途にして此を背き却って復た邪宗にす。もし更に重ねて来らば難を成し戒を障ぐ。今の文は重ねて来たりて難を成すは論ぜず。且く彼此倶に破する義を以てのゆえに、名づけて越済と為す。この人は正教を偷窃し邪典を助け添う。淮南子に云わく、偷は天下の大賊なり。邀は要なり。遮截なり。図りて勝つべからず且く平等を求む。押高等とは、斗を平らかにする木を概と曰う。道士の心を以て二教の概と為す。邪正等の義をして是の理無からしむ。曾て佛法に入り正を偷み邪を助く。八万十二の高を押して五千二篇の下に就き、彼の典の邪鄙の教を釈するに用う。名づけて尊を摧き卑に入ると為す。安法師の二教論を著わすが如し。班固の九流を引く。道教は則ちこれ九の中の一なり。道流と謂う。もし道流をして一教と立たしめば、則ち餘の八流は法爾に源を分かつ。もしその九流を合して一儒と為さば、これ則ち釈に対するに唯二教のみ存す。尚お合して獨り教主と為すべからず。況んや復た翻って混和せんと欲するや。古より先賢久しく真偽を判ず。近代の名徳なお是非に困ず。儒俗の猶お清濁を分かつが如くなるに如かず。李思慎の十異などの文の如し。また牟子に曰く、堯は尹寿に事え舜は務成に事う。丘は老聃に学び旦は呂望を師とす。四師聖と雖もこれを仏に比すれば、猶お白鹿の麒麟に比するが如し。その教を比すれば猶お烏鵲の鸞鳳に対するが如し。その形を比すれば猶お丘垤の華恒に対するが如し。他又問うて曰く、蓋し諸道叢残凡そ九十六あり。澹泊無為は仏に尚ぐるは莫し。神仙の術は僕これを尊しと為す。殆ど佛法の如かざらんか。牟子曰く、指南を北と為すも自ら惑わずと謂う。東を引きて西と為すも自ら迷わずと謂う。汝の言う所の如きは、鴟梟を以て鳳凰を笑い、蝘蜓を執りて亀龍を嘲るに似たり。然るに世人は日月を背きて灯燭に向かい、溝瀆を深くして江河を浅しとする。豈に謬ならずや。汝佛法を背きて神仙を尊ぶは、これが謂なり。道の可道の下はその邪を以て正を濫らすを斥す。新注に云わくが如し。もし称して真常の道とすべくんば、常人の行う所の道に非ず。旧注に云わく、説くべくんばの道は真常の道に非ず。名の可名も例して知るべし。二解ありと雖も理惑智行位因果に望むれば、別円四徳常楽の道に擬すべき無し。ゆえに均斉すべからずと云う。佛法は説くべからずなど。何者の下は例を引きて結んで責む。諸法の下は重ねて広く不斉の相を解釈す。道士李仲卿の十異論を著わすが如し。琳法師十喩論を立て、以てその異を喩い彼に異なり。喩は猶お曉なり。彼の迷を曉るがゆえに今の文を以て彼に望む。彼の七異に似たり。復た威儀及び族位の不斉を加う。合わせて九異と為す。一者は理本不斉。また向來の所濫の法を指す。道の可道などを将て真如常住の法に望む。云何が斉しきを得ん。然るに聃は無為無欲の語ありと雖も、語の下に旨無し。常名常道の説ありと雖も、説に所帰無し。もし常に無欲にしてその妙を観んと言わば、妙理衆多にして欲は一揆に非ず。これ何等の欲妙なるか。ゆえに常道の名を以て実相に均しくすべからず。教相の下は二に教相の不斉を明らかにす。今の文はただ略して一の不斉の言を挙ぐ。然るに五千の文は、ただ奢を去り泰を去り自ら約し自ら倹し、雌を守り弱を守り智を患い身を患う。これがゆえに聃の化は虚無を以て本と為し憺怕を以て先と為す。豈に八万法蔵十二分教と、大に逗し小に逗し偏の若くは円の若く、四悉機に赴き五乗物を接し、冥益顕益逆化順化と、優劣を校ぶるに安んぞ同じきを得んや。況んやの下は三に苦集の不斉を以てこれを況す。老は身を患い欲を去ると雖も未だ患の原に達せず。智を弊し形を労すも弊の本を窮めず。苦集増長して道を去ること弥よ遙かなり。豈に三界の繋を捨て六趣の果を離るると同じからんや。況んや三惑二死四智五眼をや。彼にその名無し。安んぞその義を知らん。苦集彰露は具に前に説くが如し。況んや将ての下は四に道滅の不斉を以てこれを況す。ゆえに三十七品は彼の典に名無し。四徳涅槃は釈教に帰す。徒に患身の説を施すも信に不浄の初門無し。身念既に無し。道品安んぞ在らん。生滅の道品すら尚お已に天隔たり。況んや復た衍門は彼に毫釐も無し。本既にの下は五に迹の不斉を示す。滅理を本と為し応化を迹と為す。俗は三十年を以て一世と為す。今はただ前王後王を以て一世と為す。五天の中に居るがゆえに正と云う。天竺身毒印度は並びにこれ梵音の軽重なり。三世諸仏皆迦維に降る。これがゆえに正と名づく。金輪と言うは四天下に王たり。ゆえに倶舎頌に云わく、金銀銅鉄輪一二三四洲と。律の中に劫初より来次第に相承す。八万四千二百五十二帝あり。十の輪王あり餘は皆粟散なり。悉く天竺に王たり。悉達彼に生る淨飯王宮。当に此の周昭王甲寅の歳。もし出家せざれば当に輪王と為るべし。王位を紹がず夜半に城を逾え志し大道を求む。既に成道し已りて勝劣の応を現わし権実の法を説く。乃至入滅に至るまで利益疆り無し。老は桓王の年に在り牧母の野に託し合せて陳州の苦県厲郷曲仁の里に居る。字は伯陽諡は老聃。柱史を吝み小臣に処る。荘は漆園に任ず。徳位識るべし。辺地と言うは、彼の五天に望むれば此は辺地に居るなり。即ち厳観法師と何承天の中辺の事を論ずるが如し。具に釈籤の如し。仏の以下の下は六に相好の不斉。如来の聚日融金の色は、既に希有の徴を彰す。卍字千輻の奇は、誠に聖人の相を標す。況んや分身百億光照十方、化は泥黎に及び声は尼吒に振る。李氏の形は凡庸醜蔑。手に十文を把り足に二五を蹈む。その同年を語るは終に得べからず。仏説の下は七に化境の不斉。まず老次に荘。老子は竊かに説く。説の字は音は税。述なり。意を宣ぶるなり。私に非ざるを公と曰う。灼は明なり。隠れ竊かに私かに尹喜一人に説く。これがゆえに彰灼たる公道を為すに非ず。列伝に云わく、喜は周の大夫なりと。善く星象に、異気を見るに因りて東のかたこれを迎う。果たして老子を得たり。書五千言を著わすことを請う。喜もまた自ら書九篇を著わす。名づけて関令子と為す。化胡経に準ずれば、老関西を過ぐるに喜聃に従いて去らんと欲す。聃云わく、もし志心に去らんと欲せば、まさに父母など七人の頭を将ち来たるべし。乃ち去ることを得べし。喜乃ち教に従い七頭皆な猪頭と変ず。然るに俗典は孝儒尚お木像を尊ぶ。老聃化を設けて喜をして親を害せしむ。如来の教門は大慈を本と為す。如何が老氏は逆に化の原と為さん。また漆園の下は荘を述ぶ。荘子は蒙の人なり。名は周。梁恵王と同学。書十余万言を著わすも皆寓言なり。今宋州の北の故蒙城はこれその処なり。現に漆園郷あり彼に著述す。足句を改め点筆を治め簡に題す。豈に衆聖の結集に同じからんや。軋軋として抽ぐるが如きは豈に円音梵響に同じからんや。自ら顕達を規るは豈に無縁大悲に同じからんや。無聞無得は豈に塵界獲記に同じからんや。軋軋は車声。遅貌なり。復次下は第八に威儀の不斉。九に族位の不斉。顒顒は仰なり。爾雅に云わく、顒顒昂昂は君徳なり。詩に云わく、万人顒顒たり。盲人の下は結んで斥す。復次下は単に所濫の法を明らかにす。まず同異を弁ず。前既に已に多種の絶言を明らかにす。絶言の前には応に多種の四句あるべし。中論の不生不滅は、乃ちこれ別円第四句の相。即ち真の中道正しき絶言なり。ゆえに正しき絶言は句の外に法無し。如何が外外の絶言を以て他円別を破せん。外外は尚お三蔵の所破と為る。何ぞこの見を客として輒ち衍門を破らん。次に問答料簡の中に初めの問の意は、既に外見を以て中論の不生不滅を破するを許さず。もし中論の不生不滅に見を起さば如何。答の中に更に六句を開き、分別判釈す。釈の中の意は、本中論の不生不滅を以て難辞と為す。ゆえに今還た中論の意を以て答う。中論の兼含は既に四意を具す。また四意の不生不滅を以て彼の外人の絶言の見に対す。復た四種の不生滅の見を以て四教の下の四正絶言に対す。ゆえに相破相修相即あり。且く三蔵を外に対して簡ぶれば、三蔵の不生不滅は絶言の見を破し、三蔵の絶言は不生不滅の見を破す。絶言の見更に三蔵の不生不滅を修し、不生不滅の見更に三蔵の絶言を修す。三蔵の絶言は即ち三蔵の不生不滅。翻到もまた爾なり。次に外外を以て衍に対して説く。これ則ち復た三箇の六句を成す。また外外を除きただ教教に於て、自ら絶言を以て不生不滅などを破す。復た四箇の六句を成す。また蔵を以て通に対し別に対し円に対する。復た三箇の六句を成す。復た通を以て別円に対する。復た両箇の六句を成す。復た別を以て円に対する。復た一箇の六句を成す。かくの如く都合十四の六句を成す。もし答問を論ずれば一個の破邪の六句にて即ち足れり。楞伽の文の中に広く見を破するを明らかにするに準ず。及びこの文に依りて教に依りて見を起す。これがゆえにこの委悉を須う。ゆえに楞伽第四に、大慧仏に白さく、外道もまた不生不滅を説く。佛法と何の別かあり。仏言わく、同じからず。幻の如くにして生じ幻の如くにして滅す。名づけて不生滅と為す。これ即ち通じて大乗の不生不滅を以て、外の不生不滅を破す。一を挙げて諸を例とす。他は皆これに準ず。また向に説く所の相破相修の如し。破の中には皆大を以て小を破す。もし見を起すに準ずれば皆蔵を以てこれを破す。復た応に蔵を以て三に対し蔵を以て三を破すべし。修の中にもまた小を以て大を修す。助の中にもまた大を以て小を修す。次に一切凡夫は見に非ざるは無し。魚王などは、この二行の時衆魚衆貝皆悉く随従す。爾雅に云わく、貝の陸に居る者を𧷼と曰い水に在る者を蜬と曰う。大経十一に云わく、転輪王の主兵大臣の、常に前に在りて導き王は後に随いて行くが如し。また魚王蟻王螺王商主牛王の、前に在りて行く時諸衆随逐するが如し。蕪蔓とは草滋長するを蕪と曰う。藤滋長するを蔓と曰う。また曰く、木藤草蔓と。当に知るべし下は過患を見て観を勤修することを勧むるを示す。且く外外に約するがゆえに避具入絶と云う。もし佛法に約せばまた乃至避別入円とも云うべし。皆止観を以て逐いてこれを破す。具足に向の一十四番の六句の如し。ゆえに無遠不屆と云う。乃至金剛刀などの如し。これは破見に約して以て伏道を成す。もし得の下は断道を成すを明らかにす。見を以て思に望むるを名づけてこれを多と為す。ゆえに従多為言と云う。且く破見に約して竪に論じて遍と名づく。横に望めば後に望み及び一心を以てするも、遍と名づけず。下に行くも例また然なり。三結と言うは、問う、見惑既に八十八使あり。如何がただ三結を断じ已りて即ち果を得しむと説くのみ。答う、論に云わく、この三種の結はこれ三三昧の近対治法なり。身見はこれ空の近対治法、戒取はこれ無願の近対治法、疑はこれ無相の近対治法。復次三結は惑を生ずること増上なり。身見は六十二を生じ、戒取は一切の苦行を生じ、疑は過未一切の処に於て猶豫を生ず。これがゆえに経の中にただ三結を説くのみ。大経三十三に云わく、須陀洹人の所断の煩惱は、猶お縦広四十里の水の如し。略して三結と言うはこの三重なるがゆえなり。譬えば大王の出遊巡行する時、四兵ありと雖も世人ただ王去り王来ると言うが如し。問の下は疑いを釈す。まず能破の疑いを釈す。初めの問の意は、能破の止観既に三種あり。空観已に無量の見を破すと云う。後の二観は更に何の所破かあらん。無量の見と言うは、前に列ぬる所の単複乃至円門の絶言の如し。円絶すら尚お破す。況んや復た餘をや。当に知るべし後の観は復た破する所無し。答の中の意は、初めの観の所破は見及び思と謂う。この二破を束ねてただ有を破するを成すのみ。見は無量と雖も未だ思を破せず。且く見遍と言うのみ。もしその通途に以て見を名と為さば、後の二観は無見及び以て双非を破す。各々所以あり。何ぞ無破を慮らん。ゆえに釈論の下は証を引く者は、中道双非の方に二見を尽す。ゆえに諸見の下は結意なり。通じて諸惑を以て同じく見の名を作す。界内の諸見は縦横すと雖も、ただ初観の所破のみ。ゆえに尚お第二観の所破と為らずと云う。云何が第三観に所破無しと言わんや。云何の下は兼ねて前の諸見の横計を責む。諸見尚お在りて未だ初観を得ず。況んや第二第三をや。云何が諸計自ら真道と謂わん。ゆえに大論の中に若有若無は通じて皆是れ見なり。汝尚お未だ有見を出でず。況んや復た無をや。即ち大論の序の中の帰敬偈の文なり。また通じて諸見を以て而も有名づくるは、二乗の無見と為るを斥するがゆえなり。次に問う者は、有と無とは同じく斥して見と為す。有既に無量ならば無も豈に然らざらんや。答の意は、大論の頌文は一往小を斥して且く通じて見と名づく。妄計已に断ずるがゆえに縦横せず。大段第二得失の中に、問の意は、所破の見はこれ失にして得に非ず。能破の止観は単より具に至るまで、乃至円門に随逐して捨てず。ただこれ得のみにして失ありや。答の中に分けて四句と為す。まず四句を列ぬ。次に譬えを挙ぐ。前二の下は判ず。且く末より説く。所以の下は釈す。初めの両句は外道の得失。また止観を修すと言うは、本これ仏弟子なり。観に因りて見を起こし過は外に同じ。中に復た事感の伏するを弁ずるは且く名づけて得と為す。事惑未だ伏せざるは、ただ諸悪を起すのみ、これを失と名づく。また外道の中に断常の二見あり。常見の人は鈍使を断ずるを名づけて得と為す。断見の人は因果を撥するがゆえに名づけて失と為す。これ且く外に寄せて得失を論ず。次に仏弟子の両句の得失を論ずる中に、復た観を用うと雖も見惑未だ断ぜず。位方便に在るを名づけて失と為す。惑断じて真に入るを方に名づけて得と為す。もし外道に望めば失却して得を成す。何となれば、外道は得と雖も尚お見を起すがゆえに。これがゆえに外道の得は翻って失を成す。この四種を以て前の破仮観を判ずる得失の異のみ。即ち前文の一一の見を破するに三根の不同の如し。上根はこれ仏弟子の中の得なる者なり。中根はこれ仏弟子の中の失なる者なり。下根は即ち外計の得失に同じき者なり。もし外の得失及び佛法の得失を成さんには、並びに応に更に観ずべし。三に位を明らかにす。位を列ぬるは見るべし。文に四破見の位を具に列ぬと雖も、今の文の所用は既に三仮四句の不生を観ず。即ちこれ次第衍門の初めなり。遍く知らんと欲して文旨を存するがゆえに、断伏の下に同異を判ず。次に料簡の中に次の問の意は、もし兼ねて文旨を示さば、須く次第を存して以て不次を顕わすべし。即ち応に直ちに別円の位を明らかにすべし。次第の意は別位に似るがゆえに、ゆえに双ねて問と為す。もし直ちに文旨を論ぜば、何ぞ直ちに円の破見の位を明らかにせず、何ぞ須く前三教の位を用うるや。もし単に次第を存せばただ別を明らかにすべし。何ぞ三を用うるや。これ止観の正文なり。読者尚お暗し。或は文を銷する者はただ次第と云う。或は観を修する者は別に円融を求む。ただ答文を観ずれば義理自ずから顕る。前の第一巻発心文の末に、已に四悉に約して三教菩薩の発心を料簡す。今この中に復た四意を申ぶ。一は上より下を明らかにするは、観を修する時宿習を発するを恐るるがゆえに、須く諸教の断見の次位を識るべし。二は又欲の下よりは、行者のために半満の位を識らしめんと為す。もしその識らざれば権実互に濫らん。三は又半の下よりは、前三教を識り、並びに円頓の助道の法と為すことを明らかにす。もし識らざれば円乗傾覆す。侍者は承事なり。衛は護なり。四は又豈の下よりは同を顕わす。見は法界と為り位として実ならざる無し。もし分別を畏るれば何ぞ空を避くるに異ならん。是の菩薩は無生忍なりと言うは、大品の語を借る。語は通じ意は円なり。善く須く意を得べし。体仮の下は次に止観を以てこれを結す。見息みて空に入るを止と名づく。見の二空に達するを観と名づく。通じて前の来の一切の諸見悉く即空に達するを結す。これ第一節の妙旨を示すなり。
止觀輔行傳弘決卷第五之六
止観輔行伝弘決 巻第五の六