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止観輔行伝弘決 (止觀輔行傳弘決)


止觀輔行傳弘決卷第六之一

止観輔行伝弘決 巻第六の一

唐毘陵沙門湛然述

毘陵の沙門湛然が述べる

次明破思假。初列思假名。云亦名正三毒者。思惑有四慢入癡攝。故但云三。一非背使二非習氣。故名為正。歷三下頭數也。三界九地下品數也。欲四上二各三。上界無瞋故三界但十。欲界六天地獄洲異。同是散地。故但為一。四禪合處大意亦爾。無色無處由生有四。言九品者。以智斷惑智分分明惑漸漸盡。何啻有九。立教判果且略為九。如判往生據行優劣。何啻九品。亦為接凡大略而說。皆能等者明惑功能。於未斷位一一皆能與力潤生。隨其何果斷盡不生。初果七反者與見辨異。極至於七定不至八。故名七反。不必一切盡至於七。故楞伽第三云。下者至七中者三五上者即生入般涅槃。成論云。於七世中無漏智熟。如服酥法七日病銷。如迦羅邏等七日一變。如親族法限至七代。如七步蛇四大力故行至七步。蛇毒力故不至八步。惑力至七道力非八。婆沙云。應云十四何故云七。答。中有本有數不出七。故但云七。又七處生故人及六天。又修七道故斷七使故。言七使者。一欲愛二恚三有愛四慢五無明六見七疑。又總論生。應云七人七天。十四中有。合二十八生。且依前說不出七故。故但云七。如燈滅方盛者。如前隨自意中引出曜經。雖復有欲等者。道共戒力性離邪行。他境自妻一切不犯。以於自妻亦離非時非處等故。蟲常任運離刃四寸。已斷見惑得人空智。雖有事中獨頭相應。了法從緣不計性實。以於三毒無邪曰正。雖能潤生不招四趣。不同下簡異見惑。見是著心隨境生著。以能造四趣因故。故正三毒在於具縛聖者身中。非但不為四趣作因。起亦離合有取有捨。故不同見瀾漫生著。稱思惟下釋名也。此惑因於重慮思惟。方能斷故。故名思惟。數人下明二部同異。成論難數人者。初以上貪下愛相對並難。次若言下以名異義同為難。不應輕重而分貪愛。言一並者。準彼論師復應更以瞋恚為並。上界既以輕貪名愛。何不上界輕瞋名恚。而言上界不行恚耶。故彼阿毘曇心使品中。亦列七使如前所列。唯改第一名貪。此之七使界行分別有九十八。貪恚二使界種分別各有五使。謂欲界五部各有一故(貪不通上)愛以界種分別有十。謂上二界五部各五(愛不通下)慢及無明界種分別各有十五。謂三界五部各一故也。見使種有五。謂五利也。四諦分別合有十二。謂苦下具五。集滅各一。道下有三。合有十二。三界合三十六。疑四諦各一三界有十二。都成九十八。以明貪愛上下互不相通。故招論師二並難也。但佛有時下和通。但令下明立名之意。為令識境何勞苦諍。舉譬示本論結本意並如文。

次に、思惑を断じることを明かす。初めに、思惑の名を挙げる。「また正三毒とも名づく」とは、思惑には四つの慢が含まれ、それは癡に摂せられる。故にただ三つと説く。一つには非背使、二つには非習気、故に「正」と名づける。「歴三下」は、数の内訳である。三界の九地、その下の品の数である。欲界は四つ、上二界は各々三つ。上界には瞋がない故、三界はただ十となる。欲界の六天と地獄、洲の異なりがあるも、同じく散地である故、ただ一つとする。四禅の合するところ、その大意もまた同じく、無色には処がないが、生によって四つあり。「九品」と言うは、智慧によって惑を断ずる時、智が分かれば惑も次第に尽くる。何ぞただ九のみあらん。教えを立て果を判ずるに、暫く略して九とする。往生を判ずるに、行の優劣に拠るが如き、何ぞただ九品のみならん。また凡夫を接するために大略を説く。「皆能く」等は、惑の働きを明かす。未だ断ぜざる位に於いて、一つ一つ皆、力を与えて潤いを生ずることを能くす。その果に随いて断じ尽くせば生まれず。初果の七返は、見惑と弁ずることを異にす。極めて七に至り、定めて八に至らず。故に「七返」と名づく。必ずしも一切が尽く七に至るにあらず。故に『楞伽経』第三に云く「下者は七に至り、中者は三、五、上者は即ち生じて般涅槃に入る」と。『成実論』に云く「七世の中に於いて、無漏の智熟す。酥を服する法の七日にして病消ゆるが如し。迦羅邏等の七日にして一変するが如し。親族の法の限り七代に至るが如し。七歩の蛇の、四大の力の故に行くこと七歩に至るも、蛇毒の力の故に八歩に至らざるが如し。惑の力は七に至り、道の力は八にあらず」と。『毘婆沙』に云く「応に十四と云うべきに、何故に七と云うか。答えて云く、中有と本有の数、七を出でず。故に但だ七と云う。また七処に生ずる故、人及び六天。また七道を修する故、七使を断ずる故なり。七使とは、一に欲愛、二に恚、三に有愛、四に慢、五に無明、六に見、七に疑なり。また総じて生を論ずれば、応に七人、七天、十四の中有、合わせて二十八生と云うべきも、且く前の説に依れば、七を出でざるに因りて、故に但だ七と云う。灯の滅して方に盛んなるが如きは、前に随自意の中に引きし出曜経の如し。『雖復有欲』等は、道共戒の力によって性として邪行を離る。他境、自妻、一切犯さず。自妻に於いても亦、非時、非処等を離るるが故なり。虫は常に任運に、刃より四寸を離る。已に見惑を断じて人空の智を得れば、事の中に独頭、相応ありと雖も、法の縁に従うことを了して、性の実を計せず。三毒に邪なしと曰いて正とす。能く潤いを生ずと雖も、四趣を招かず。下に異なるは、見惑を簡ぶ。見は是れ著心なり。境に随いて著を生じ、四趣の因を作すことを能くする故なり。故に正三毒は、具縛の聖者の身中に在り。但だ四趣の因と為さざるのみにあらず、起つも亦、離合、取捨有り。故に見惑の爛漫に著を生ずるが如きに同じからず。『称思惟』下は、名を釈す。此の惑は、重ねて慮り思惟するに因りて、方に断ずることを得るが故に、思惟と名づく。『数人』下は、二部の同異を明かす。『成実論』が数人を難ずるは、初めに上貪と下愛とを以って相対して並び難じ、次に『若し言わば』は、名は異なれど義は同じきを以って難と為し、軽重を以って貪愛を分つべからずと為す。『一並』と言うは、彼の論師に準ずれば、復、更に瞋恚を以って並と為すべきなり。上界は既に軽き貪を以って愛と名づく。何ぞ上界の軽き瞋を名づけて恚とせずして、上界には恚を行ぜずと言うや。故に彼の『阿毘曇心』の使品の中に、亦、七使を列挙すること、前に列するが如し。唯、第一の名を改めて貪と為す。此の七使の界行の分別には、九十八あり。貪恚の二使は、界種の分別に各五使あり。謂く欲界の五部に各一あり(貪は上に通ぜず)。愛は界種に分別して十あり。謂く上二界の五部に各五あり(愛は下に通ぜず)。慢及び無明は、界種に分別して各十五あり。謂く三界の五部に各一なるが故なり。見使の種は五あり。謂く五利なり。四諦に分別して、合わせて十二あり。謂く苦の下に五を具え、集滅は各一、道の下に三あり。合わせて十二。三界に合わせて三十六。疑は四諦に各一、三界に十二あり。都て九十八と成る。以って貪愛は上下互いに通ぜざることを明かす。故に招くに、論師の二並びの難あり。『但し仏有時』下は、和通す。『但令』下は、名を立てる意を明かす。境を識らしめんが為に、何ぞ苦しんで諍わん。譬えを挙げて本を論じ、本を結んで意は、並びに文の如し。

○二明體觀者。空兼析體故須標列。破見亦爾衍門初故。今復更明析門用智者。明彼始終俱是析故。辯異故來非正用也。正明觀法中初標。欲惑下且總標一品各有三假。初釋因成。引女六欲以為外緣。對心為因。所起欲想名所生法。六欲境者。大論二十一。釋九想中云。此九種者。能治行人七種染欲。一或有人染著於色。謂青黃赤白。二或有人縱不著色。但染形容細膚纖指修目高眉。三或有人不著形容。著於威儀進止坐起行住。禮拜俯仰屈伸揚眉。頓𥇒親近案摩。言姿態者。美容貌善進止。四或有人不著威儀。但著言語軟美辯捷隨時而說。應意承旨能動人心。五或有人都不著此。但著細滑柔膚軟肌。熱時體涼寒時體溫。六或有人皆不著如上。但著人相若男若女。七若有人雖得上六無所著人猶無所解。捨世所重五種欲樂而隨其死。此中第七所著人欲。既總於六求所著人。今置總存別故但云六。以九治七具如禪門。此六下至貪相外現。即是向六對內意根成所生法。舉初果況及無學況如文。難陀欲習如前所引。法華欲想等者。為欲深防欲過故也。尚不起想況復形交。言欲相者。俱舍云。六受欲交抱。執手笑視婬。地居形交。但忉利天。以風為事。夜摩抱持。兜率執手。化樂視笑。他化但視。尚不生想況復視笑。乃至婆沙又辨四洲人欲輕重。此洲最多不復可數。東洲極至十二度中下或十。西洲多至七八少者四五。北洲極多至五少者三四。亦有修梵行者。故多欲者不及畜生。此洲亦有少欲之人乃至梵行。如是多少麁細想相。若取下正明因成。取前六相內動意根。即是所生。相續中云致行事者。為防行事制內相續。非謂相續已有行事。假虛下總知不實。言道理者。對境生心尚知虛假。豈更計於以禮婚聘還精益壽。一月二時通神養生。西方外道為求非想無想等定。尚除下界一切貪欲。況計此理以為正道。次正修觀推因成中亦先例四句。若從下用觀推。四句下斷惑證真結成二空。無欲性空無句相空。利根下結利鈍根二行不同。利根二行如上破見中說。上根之人破有見竟即得入真。若未相應亦須用於六十四番。從設未下明六十四番。若鈍下標相續示觀法。例因成說。次二空中云四句無欲即性空。亦無於四即相空。前破見中破三假後各結二空。此中一一假後。亦皆結無生及以二空。文異意同。初品下明餘品亦有三假。例初品說。破貪下餘使亦例。九品下結成無生破遍也。問下料簡。初問如文。答中明兩論判品。由用道異故品不同。故阿毘曇造論緣起中云。問。何故名阿毘曇。答。謂分別未分別者故也。是方便道是勝進道。是無礙道是解脫道。下諸楗度文中但云兩道伏兩道斷。若從下判兩道不同。次破色界思中先明所用智不同。言世智者。依於世禪六行欣厭。依無漏理名無漏智。俱解脫人俱得二智。斷惑之時隨用一智。若初習下判事性兩障。如欲入初禪。若猶見有欲界定中床鋪等事。名為事障。欲惑未除性障仍在。此惑若破即發初禪。二禪亦爾。覺觀未除不發中間。初禪惑破方發二禪。三四兩障準說可解。於初禪中初文即是初禪發相。次其中下明初禪惑相。次品品下明初禪中三假之相。若不下明破意。今用下亦明六十四番。次二禪去明因成者。並以下地定體為因。相續相待比初禪說。第三禪中云此樂乃至為難者。聖人及佛弟子修此禪時。於地地中有聖種觀。故捨為易。凡夫以於諸地生愛故捨為難。無想定至禪境中略釋。五那含者。若以地為名但名第四禪。此禪九處。五是聖居名正含天。無想唯凡。三通凡聖。生五含者。然由修熏禪有五階差。大品九定通熏九地。此中唯熏第四禪地。先修得已更以多念無漏相續現起。從此引生多念有漏。從此復生多念無漏。如是後後漸漸減少。乃至最後二念無漏。次復引生二念有漏。無間復生二念無漏。名熏加行成相。次唯一念無漏。次復唯有一念有漏。無間復生一念無漏。名根本成。故俱舍云。成由一念雜。言五差者。謂下中上上勝上極。一品有三後品兼前。故第五品合成十五。如是五品如其次第。三六九等生五淨居。言夾熏者。謂前後無漏中間有漏。使多念等漏俱成一念無漏。故名夾熏。言五天者。謂無煩無熱善現善見色究竟。從此已上皆無煩雜。無煩之始得無煩名。伏煩惱故名為無熱。果易彰故名為善現。見清徹故名為善見。色中無上名色究竟。下之三禪復各三天。若依有宗但十六處。於初禪中高勝之處名為梵王。故不別立。次破無色中言有對等三種色者。從第四禪欲入空處。必作方便滅三種色。大論二十一四十一云。三種色者。一可見有對。二不可見有對。三不可見無對。大品云。為過一切色相滅有對色相。不念種種相。入無邊空處。過一切色滅可見有對色。滅有對色滅不可見有對色。不念種種色相滅不可見無對色。一切色法唯十一種。謂五根塵法入少分。少分者無表色也。阿毘曇云。一可見。謂色是。二有對有十。謂五根塵。若云不可見有對。應但云五根四塵。三不可見無對。謂法入少分。大經二十一云。眼見色壞名為過色。五根塵壞名過有對。於二種餘及無教壞名過異相。此之三色並在色界。欲入無色故滅此三。今此應云及背捨勝處一切處中八色等也。若無表色雖非今文空觀所過。得空觀時必定離於表無表色。又於可見有對等中。復應明於三有對義。非今正意是故不論。滅色方便具如禪門。先想此身如甑。如籠如網乃至漸空。大論十九云。如鳥在瓶瓶破得出。問。無色界中為定有色為定無色。具如釋籤。又曾聞有一比丘得無色定定起摸空。他問。何求。答。覓我身。旁人語言。身在床上。於此得定尚不見身。故生彼界於小乘定判為無色。若大乘中如大經諍論中云。無色界色非諸聲聞緣覺所知。今且依小。是時下正修觀以入空處識處。次無所有處中先破古謬。如禪門中。問。彼無所有處取少許識緣之入定。此事云何。答。不然。應云一切時中但緣無所有處。說有少識者。但以意根對無所有法塵。生少識想。非取少識緣之入定。今文因此便破所有及有用等。先識處下次明非想非非想處。依八聖種此中文略。應云空處如病識處無所有處如文。非想非非想處如刺。今不云者且寄有漏。謂此為極故云勝定。若其通途依聖種觀。用病等四及無常等四。前四對治後四緣諦。故以此八緣於無色有總有別。總者。總以八觀觀彼四陰和合不實。別者。前之四種治四陰事。受如病想如癰。行如瘡識如刺。以無常等治四陰理。無常觀識苦觀於受。空觀於想無我觀行。以有此八心易生厭。疾能捨離修習無漏。問。四禪但以苦麁障三而為方便。空等四處何須用八。答。空處定細不說八過。過患難識。凡夫亦有依六行者。不及聖種離之速疾。阿毘曇下釋非想名。引文存略。立世云。非如四色及以三空故名非想。非無想天及無心定。名非非想。文引婆沙仍不盡語四禪。人師尚不許引色無想天。況總引四禪。既是論文取亦無失。人師釋義亦未全非。今家俱存故無破斥。望前三空展轉離患。以為釋名。故知非想。依同界釋不無其義。不破人師意在於此。大論云一常有漏者。小乘經論非想一地並唯有漏。故婆沙云。漏是何義。答。住是漏義。凡夫至此被留住故。浸漬是漏義。至三有頂常浸漬故。流出是漏義。垂盡三有還出下故。持義醉義在內義放逸義並是漏義。準初意釋。是故有頂專受漏名。論云。何故非想及以欲界無無漏耶。答。非由器故。無漏之法住中道故。又欲地不定非想愚騃。聖法反此故二處無。若準大論成論。非想同無欲界則有。此定下明非想具惑。言細法者。彼地猶有四陰二入三界故也。所言十種者受乃至慧。受謂識之所受。想謂識之所想。行謂法行。觸謂意觸。思謂法思。欲謂欲入定。解謂法勝解。念謂念三昧。定謂心如法住。慧根慧力。此之十法及無色愛無明掉慢。心不相應諸行。苦集因緣和合得生於彼。欲入滅定先滅此等。應知下明用觀意。既知彼地具細煩惱即有三假。用觀破之使入無生。煩惱盡故名事無生。真諦理窮名理無生。故不由地而住有漏。若用下次判二智得名不同。是名下結遍也。此即破思假遍也。

二、明體觀について説明します。空には「析空」と「體空」の二種があるので、標列する必要があります。見惑を破ることもまた同じで、衍門(通教)の初めだからです。今ここでさらに析門(藏教)の智を用いることを明かすのは、彼の始終が俱に析であることを明かすためです。異を弁じるためのもので、正用ではありません。正しく觀法を明かす中で、初めに標します。「欲惑」の下では、且く一品に各々三假があることを総標します。初めに因成を釈します。女の六欲を引いて外緣とし、心に対して因とします。起こる所の欲想を名づけて所生法とします。六欲の境について、大論(大智度論)の二十一巻では、九想の中に釈して云く、「この九種は、行者の七種の染欲を治する能あり。一には或る人、色に染著す。謂く青・黄・赤・白。二には或る人、假令色に著せずとも、但だ形容・細膚・纖指・修目・高眉に染著す。三には或る人、形容に著せず、威儀・進止・坐起・行住・禮拜・俯仰・屈伸・揚眉・頓[目+妾]・親近・案摩に著す。言姿態というは、美容貌・善進止なり。四には或る人、威儀に著せず、但だ言語・軟美・辯捷・隨時に說くことに著す。應意承旨、能く人心を動かす。五には或る人、皆これらに著せず、但だ細滑・柔膚・軟肌に著す。熱時には體涼く、寒時には體溫し。六には或る人、皆上の如きに著せず、但だ人相の若男若女に著す。七には若し有人、上の六を得ると雖も、所著の人無ければ猶ほ解する所無し。世の重む所の五種の欲樂を捨てて而もその死に隨ふ。」この中の第七の所著の人の欲は、既に六を總めて求むる所の人を著す。今は總を置いて別を存するが故に、但だ六と云うのみ。九を以て七を治するは具に禪門の如し。「此の六」の下から「貪相外現」に至るまで、即ち是れ向の六を對えて内の意根に成ずる所の所生法なり。初果を舉げて況及び無學を況するは文の如し。難陀の欲習は前の引く所の如し。法華の欲想等というは、欲の過を深く防がんが為なり。尚ほ想を起さず、況や形交をや。「欲相」と言うは、倶舍に云く、「六は受欲に交抱し、執手・笑視・婬す。地居は形交す。但だ忉利天のみ風を以て事とす。夜摩は抱持し、兜率は執手し、化樂は視笑し、他化は但だ視るのみ。」尚ほ想を生ぜず、況や視笑をや。乃至、婆沙は又た四洲の人の欲の輕重を辨ず。此の洲は最も多く、復た數ふ可からず。東洲は極めて十二度に至り、中・下は或いは十。西洲は多くは七八に至り、少なきは四五。北洲は極めて多くは五に至り、少なきは三四。亦た梵行を修する者有り。故に多欲の者は畜生に及ばず。此の洲にも亦た少欲の人乃至梵行有り。是くの如き多少・麁細・想相。若し「下」を取りて正しく因成を明かす。前の六相を取りて内の意根を動かす、即ち是れ所生なり。相續の中に「致行事」と云うは、行事を防がんが為に内の相續を制す。謂く相續して已に行事有るに非ず。「假虛」の下は總じて不實を知る。言「道理」というは、對境して心を生ずるに尚ほ虛假を知る。豈に更に計せんや、禮婚聘を以て還精して壽を益し、一月二時、通神して身を養ふことを。西方の外道は非想・無想等の定を求めんが為に、尚ほ下界の一切の貪欲を除く。況や此の理を計りて正道と為すことをや。次に正しく修觀して因成を推す中にも、亦た先ず四句に例す。「若し從」の下は觀を用いて推す。「四句」の下は惑を斷じて真を證し、結んで二空と成す。欲無きは性空なり、句無きは相空なり。「利根」の下は利鈍二根の行の不同を結ぶ。利根の二行は上の破見の中の說く所の如し。上根の人は有見を破し竟れば即ち真に入ることを得。若し未だ相應せざれば、亦た須く六十四番を用うべきなり。「設未」の下は六十四番を明かす。「若鈍」の下は相續を標して觀法を示す。因成の說に例す。次の二空の中に「四句無欲即ち性空なり。亦た四に於て無き即ち相空なり」と云う。前の破見の中に三假を破した後、各々二空を結ぶ。此の中に一一の假の後にも、亦た皆無生及び二空を結ぶ。文は異なれども意は同じ。初品の下は餘の品にも亦た三假有ることを明かす。初品の說に例す。「破貪」の下は餘の使にも亦た例す。「九品」の下は結んで無生を成し破遍と為す。「問」の下は料簡す。初めの問は文の如し。答の中に兩論の判品を明かす。用道の由る所が異なるが故に品が同じからず。故に阿毘曇造論の緣起の中に云く、「問う。何の故に阿毘曇と名づくるや。答う。謂く未だ分別せざる所を分別するが故なり。是れ方便道、是れ勝進道、是れ無礙道、是れ解脫道なり。」下の諸の鍵度の文中には但だ兩道と伏兩道斷とを云うのみ。「若し從」の下は兩道の不同を判ず。次に色界の思を破する中に、先ず用智の不同を明かす。言「世智」というは、世禪に依りて六行欣厭を用う。無漏理に依るを名づけて無漏智とす。俱解脫の人は俱に二智を得。惑を斷ずる時、隨いて一智を用う。「若し初習」の下は事性の兩障を判ず。如し欲界より初禪に入らんと欲すれば、若し猶ほ欲界定の中の床鋪等の事有るを見ば、名づけて事障とす。欲惑未だ除かざれば性障仍ほ在り。此の惑若し破すれば即ち初禪を發す。二禪も亦た爾り。覺觀未だ除かざれば中間を發せず。初禪の惑破れて初めて二禪を發す。三四の兩障は說に準じて解す可し。初禪の中に初文即ち是れ初禪發相なり。次に「其中」の下は初禪の惑相を明かす。次に「品品」の下は初禪の中の三假の相を明かす。「若下」の下は破意を明かす。「今用」の下も亦た六十四番を明かす。次に二禪より去は因成を明かすに、並びに下地の定體を以て因とす。相續・相待は初禪の說に比す。第三禪の中に「此の樂乃至難と為す」と云うは、聖人及び佛弟子の此の禪を修する時、地地の中に聖種の觀有り。故に捨つるを易しとす。凡夫は諸地に於て愛を生ずるが故に捨つるを難しとす。無想定は禪境の中に至りて略釋す。五那含とは、若し地を以て名とせば但だ第四禪と名づく。此の禪に九處有り。五是れ聖居にして名づけて正含天とす。無想は唯だ凡のみ。三は凡聖を通ず。五含に生ずとは、然るに修熏禪に由りて五階の差有り。大品の九定は通じて九地を熏ず。此の中は唯だ第四禪の地を熏ず。先ず修し得て已りて、更に多念の無漏を以て相續して現起す。此れより引生して多念の有漏とす。此れより復た多念の無漏を生ず。是くの如く後後漸く減少し、乃至最後の二念の無漏に至る。次に復た二念の有漏を引生す。無間にして復た二念の無漏を生ず。名づけて熏加行成相とす。次に唯だ一念の無漏のみ。次に復た唯だ一念の有漏のみ。無間にして復た一念の無漏を生ず。名づけて根本成とす。故に倶舍に云く、「成は一念雜に由る」と。言「五差」というは、謂く下・中・上・上勝・上極なり。一品に三有り、後の品は前を兼ぬ。故に第五の品は合して十五と成る。是くの如く五品、其の次第の如く、三六九等にして五淨居に生ず。言「夾熏」というは、謂く前後の無漏、中間の有漏。多念等の漏をして俱に一念の無漏と成る。故名づけて夾熏とす。言「五天」というは、謂く無煩・無熱・善現・善見・色究竟なり。此れより已上は皆煩雜無し。無煩の始めに無煩の名を得。煩惱を伏するが故に名づけて無熱とす。果彰れ易きが故に名づけて善現とす。見清徹なるが故に名づけて善見とす。色中に上無きを名づけて色究竟とす。下の三禪は復た各三天有り。若し有宗に依らば但だ十六處のみ。初禪の中に高勝の處を名づけて梵王とす。故に別に立たず。次に無色を破する中に「有對等の三種の色」と言うは、第四禪より空處に入らんと欲する時、必ず方便を作して三種の色を滅す。大論の二十一・四十一に云く、「三種の色とは、一には可見有對、二には不可見有對、三には不可見無對なり。」大品に云く、「一切の色相を過ぎ、有對色相を滅し、種種の相を念ぜずして、無邊空處に入る。一切の色を過ぎて可見有對色を滅し、有對色を滅して不可見有對色を滅し、種種の色相を念ぜずして不可見無對色を滅す。」一切の色法は唯だ十一種のみ。謂く五根・五塵・法入の少分。少分とは無表色なり。阿毘曇に云く、「一は可見、謂く色是れなり。二は有對有十、謂く五根五塵なり。若し不可見有對と云はば、應に但だ五根四塵と云うべきのみ。三は不可見無對、謂く法入の少分なり。」大經の二十一に云く、「眼見の色壞するを名づけて過色とす。五根塵の壞するを名づけて過有對とす。二種の餘及び無教の壞するを名づけて過異相とす。」此の三種の色は並びに色界に在り。無色に入らんと欲するが故に此の三を滅す。今此れに應に云く、及び背捨・勝處・一切處の中の八色等なり。若し無表色は、今の文の空觀の過す所に非ずと雖も、空觀を得る時必定して表無表色を離る。又た可見有對等の中に、復た應に三有對の義を明かすべし。今の正意に非ざれば是の故に論ぜず。滅色の方便は具に禪門の如し。先ず此の身を想うこと甑の如し、籠の如し、網の如し、乃至漸く空とす。大論の十九に云く、「鳥の瓶に在るが如し、瓶破れて得出ず。」問う。無色界の中に為た定めて色有りや、為た定めて色無きや。具に釋籤の如し。又た曾て一の比丘、無色定を得て、定より起りて空を摸すことを聞く。他問う。何を求むるや。答う。我が身を覓む。傍らの人言う。身は床上に在り。此に於て定を得て尚ほ身を見ず。故に彼の界に生ずることを、小乘の定に於て判じて無色とす。若し大乘の中は大經の諍論の中の如く、「無色界の色は諸聲聞・緣覺の知る所に非ず。」今は且く小に依る。「是の時」の下は正しく修觀して空處・識處に入る。次に無所有處の中に先ず古の謬を破す。禪門の中の如く問う。「彼の無所有處は少許の識を取りて之を緣じて入定す。此の事云何。」答う。「然らず。應に云く、一切時の中に但だ無所有處を緣ず。識有りと說くは少許なるも、但だ意根を以て無所有法塵に對して少識の想を生ず。少識を取りて之を緣じて入定するに非ず。」今の文は此に因りて所有及び有用等を破す。先ず識處の下、次に非想非非想處を明かす。八聖種に依りて此の文は略す。應に云く、空處は病の如く、識處・無所有處は文の如く、非想非非想處は刺の如し。今云はざるは且く有漏に寄す。此を以て極と為すが故に勝定と云う。若し其の通途は聖種觀に依りて、病等の四及び無常等の四を用う。前の四は對治し、後の四は諦を緣ず。故に此の八を以て無色に於て總あり別あり。總とは、總じて八觀を以て彼の四陰の和合して不實なるを觀ず。別とは、前の四種は四陰の事を治す。受は病の如く、想は癰の如く、行は瘡の如く、識は刺の如し。無常等を以て四陰の理を治す。無常は識を觀じ、苦は受を觀じ、空は想を觀じ、無我は行を觀ず。此の八有るを以て心厭を生じ易く、疾く能く舍離して無漏を修習す。問う。四禪は但だ苦・麁・障の三を以て方便と為す。空等の四處は何の須く八を用うるや。答う。空處の定は細にして八の過を說かず。過患は識り難し。凡夫も亦た六行に依る者有り。聖種の離ずるの速疾に及ばず。阿毘曇の下は非想の名を釋す。文を引くに略を存す。立世に云く、「四色及び三空の如くに非ざるを以ての故に非想と名づく。無想天及び無心定に非ざるを以て非非想と名づく。」文に婆沙を引くも仍ほ四禪を盡さず語る。人師は尚ほ色無想天を引くを許さず。況や四禪を總引することをや。既に論文なれば取るも亦た失なし。人師の釋義も亦た未だ全く非に非ず。今家は俱に存す。故に破斥せず。前の三空を望むに展轉して患を離る。「以て釋名と為す」。故に知る、非想は同界に依りて釋すれば其の義無きに非ず。人師を破せざるは意此に在り。大論に云く「一常有漏」とは、小乘の經論は非想の一地は並びに唯有漏なり。故に婆沙に云く、「漏は是れ何の義ぞや。答う。住は是れ漏の義なり。凡夫此に至りて留住せらるるが故に。浸漬は是れ漏の義なり。三有の頂に至りて常に浸漬するが故に。流出は是れ漏の義なり。垂らに三有を盡して還た下に出すが故に。持の義・醉の義・在內の義・放逸の義は並びに是れ漏の義なり。」初の意に準じて釋す。是の故に有頂は專ら漏の名を受く。論に云く、「何の故に非想及び欲界には無漏無きや。答う。器に非ざるに由るが故なり。無漏の法は中道に住するが故に。又た欲地は不定にして非想は愚騃なり。聖法は此に反す。故に二處には無し。」若し大論・成論に準ずれば、非想は欲界と同じく無漏無しと雖も、此の定の下は非想が惑を具有することを明かす。言「細法」というは、彼の地には猶ほ四陰・二入・三界有るが故なり。所言の十種とは、受乃至慧なり。受は謂く識の受けらるる所。想は謂く識の想はるる所。行は謂く法行。觸は謂く意觸。思は謂く法思。欲は謂く入定を欲する。解は謂く法勝解。念は謂く三昧を念ずる。定は謂く心如法住。慧根・慧力。此の十法及び無色愛・無明・掉・慢。心不相應の諸行。苦・集・因緣和合して彼に生ずるを得。欲に滅定に入らんとすれば先ず此の等を滅す。「應知」の下は用觀の意を明かす。既に彼の地が具に細煩惱を有することを知れば即ち三假有り。觀を用いて之を破して無生に入らしむ。煩惱盡くるを名づけて事無生とす。真諦の理窮まるを名づけて理無生とす。故に地に由りて有漏に住せず。「若用」の下は二智の得名の不同を判ず。「是の名」の下は遍を結ぶ。此れ即ち思假を破する遍なり。

○三明破假位中初明三藏位。先出異部者。成論之外並屬異部。諸阿毘曇並明見道在十五心。次正釋中先釋聲聞。且依修道至盡等者。若釋家家應須先辨欲惑九品能潤七生。斷品多少對果高下。謂上上能潤二生。上中上下中上各潤一生。中中中下共潤一生。下之三品共潤一生。斷多少者。俱舍云。斷欲三四品。三二生家家。斷至五二向。斷六一來果。釋曰。斷上三品則損四生。餘三生在為六品潤名三生家家。進斷中上又損一生并前損五。餘二生在名二生家家。更斷中中未損一生但名二向。更斷中下兼前中中成損六生。餘下三品但潤一生名為一來。問。何緣無斷一品二品及斷五品名家家耶。答。必無斷二不至第三而命終者。亦無斷五不至斷六而命終者。謂由聖者起大加行。必無不斷大品惑盡。而命終者。言大品者謂三品也。離三成九故三名大。若斷至二必至於三。是斷初大品也。若斷至五必至六者。是第二大品。又無一品能障於果。是故斷五必至於六。此次斷義與今文同。問。若無不斷大品而命終者。何故斷八不至於九而有命終。答。斷九二義故異三品。一者得果。二者越界。第九一品以有障果及能越界。故斷至八有命終者。六唯得果無越界義。是故斷五必至於六。二三品中全無二義。斷二必三於理不疑。今文中言超斷者。即是下文小超之人。本在凡地未得色定。或修欲定欲惑未斷。此人至十六心超斷五品。名為家家。此之五品同四品故。隨其本斷品之多少。而得名為家家種子及以無學向果等名。然大師所用並準舊婆沙。若欲知者更檢彼文。又家家者。有二不同謂人及天。天謂欲天二三家生而證圓寂。人謂人處或三二家或三二洲而證圓寂。若天三生天三人二。若天二生天二人一。人生三二反此可知。故天家家先於人中得見道已。若超若次進斷三四。後於天中三二處生。人中反此。天家家者。於最後生天中餘殘結斷名得圓寂。人中家家準此說之。六種那含位在其中者。大論三十三云。五那含者。謂中。生。行。不行。上流。復有六種。五如上加現。復有七種。六如上加無色。俱舍不立現般但取無色般并五為六。頌曰。此中生有行。無行般涅槃。上流若雜修。能往色究竟。超半超遍沒。餘能往有頂。行無色有四。住此般涅槃。釋曰。不還有五。一中。謂欲界沒於色中陰而般涅槃。二者生般。生色界已而般涅槃。三者有行。生色界已長時修行方般涅槃。但有勤修無速進道。四者無行。生色界已不經久修無功用行而般涅槃。勤修速進二道俱無。五者上流。於色界中要轉經於四禪天處方般涅槃。上流又二。一者雜修。即樂慧是。二無雜修。即樂定是。有雜修者往色究竟。無雜修者往於有頂。頌中餘字是不雜修。又有三種。一全超者。謂在欲界於四禪中已遍雜修。遇緣退失。從梵眾沒生色究竟。中間盡越故名全超。二者半超。梵眾沒已中間漸受十四天處。或超一二乃至十三。後乃方生色究竟天。皆名半超。非全超故通受半名。全不能超名為遍沒。無雜修者生無色界。唯不能生五淨居天。從廣果沒生三無色。後生有頂方般涅槃。故此那含縱生無色猶屬色攝。若欲界沒生無色天即無色攝。復有九種中生上流各三種故。如釋籤引。此六九中未入般前。或得名為羅漢向攝。在色界時或有勤修速進故也。第九無礙等者。從斷九惑各一無礙及一解脫。斷名無礙證名解脫。阿毘曇中加二如前。三界下結成無生。言盡無生者。毘曇云。盡智者。謂我知苦乃至知道。無生智者。言我知苦已不復更知。乃至我修道已不復更修。又云。我漏已盡不復更生。又云。世智無漏智斷。又云。慧解脫人俱解脫人。並從此等得二智名。分別相狀等廣如諸論。次釋通位中初列經正判。言共聲聞等者。通教二乘七地已前與菩薩共名共聲聞。若爾。八地已上過二乘地。何故亦名共菩薩耶。答。以初名後從本立名。不同別圓始終別故。三藏教中雖有二乘菩薩行遠。始終伏惑永異二乘。故不名共。不聞別理復非不共。問。七地思盡何故六地名共聲聞。八名支佛地何故七地名共支佛。答。通位從容具如後簡。所言下略釋也。此意正言三乘共地。何故諸教判斷惑位高下差別。何故三乘惑斷前後。智行不同。雖復不同而涉共位。以由此故而得共名。乾慧下正釋也。初釋聲聞中五停四念。略如玄文及釋籤引。並望三藏立內外凡。若論觀行巧拙雖別。總別等相何妨稍同。未有理水故名為乾。薄有理解故名為性。忍者因也。見謂見諦。欲惑稍輕故名為薄。欲惑全亡故名為離。智斷功畢故名為辦。三別名名通位中。先破立序舊明斷見思位皆不同。今覈下先總破其斷見位殊。秖是不解通教義耳。何者下別責也。通位斷見兩地不同。斷見復應不出入觀。人師下人師不曉推過與經。故今折言不解經意。今言下略示。別見下略釋。然名下判斷。例如下引例。此十六心同是一位。尚判兩道。何妨斷見二地不同。問。當通教中判斷見位。自分二地。何須破他自立借別。立斷見位還同通教。答。秖緣同通故得名通。通雖二地斷時仍促。三乘共故雖促復長。是故須分三地四地。或時借別別見更長。仍有二意。若約理說通至佛地。若約教道云三四地。雖二意各別見義並長。以別長故故借教道用判兩地斷見無爽。若依通義云不出觀。若依別義但云地地皆能破見。以此為異。以別長故故後兩番。通用四地皆斷見位。人多不見謂通義足。何須借別。此是大師通申經論。有此判者屬借別名名通位也。何者。若定屬通不應地前而立伏位。若定屬別不應行向屬四善根。乃至四地共斷見惑亦復如是。故立北式示後學者。使古今異說冷然可見。言借別下正明借位。先借別教始終名通。通教地前無位可論。故借別教內外凡位。但名通教初地二地。通教地後亦無復位。故但以別教法雲佛地。以名通教九地十地從容不定。故有或言。大品既云十地如佛。當知即是別名名通。故楞伽第七偈頌品云。遠行善慧法雲地是佛種性。餘者悉是二乘種性。此亦別名名通位也。若是別位豈遠行已前屬二乘耶近代釋位地前伏惑正是斯例。若借下次單借別十地名通十地。則彼此地前通為伏惑。通雖無位即未斷惑不入地故。四別名名通菩薩位者。此單約菩薩故。修觀斷見不定。如此下。略以菩薩斷見之位。斥前舊師三地四地斷見義也。薄即去菩薩斷思位。舊云下重序舊師六七兩地為斷思位。但六地下今家難也。先難六地。六地離欲。止離欲惑。如何即云與羅漢齊。次縱云。縱帶三果行四果向。餘一品在亦名為向。如何復得與羅漢齊。若七地下次難第七地。若最後品盡名第七者。此則可然。前六地中既但名離欲將向來屬果。初禪初品亦屬已辨。斷初一品實未辦故。故亦不可與羅漢齊。今若下。今為申之則不取通十地之名。但用十度對果名便。以別教義多以十度對於十地。故亦依此以申今意。立此意者。亦恐後人不曉經論對果高低不識別教名通之意。次此皆下謙退推功。次問者。三乘共位借義已成。別立菩薩恐無誠證。次答意者。經論各有兩處明文。意並獨語菩薩智斷。初引大論三處焦炷者。意引乾慧別在菩薩斷惑之位。若共二乘不名初焰。初焰即是斷位故也。論別立菩薩故以初地而為斷位。故大論七十八燈炷品云。十地有二。一菩薩初地為初焰。二聲聞見地為初焰。若獨菩薩地即歡喜地為初焰。論文既以菩薩初地而為初焰。故今取之以為況釋。於共伏道尚得以為菩薩初焰。今但退取共斷位者。為獨菩薩初焰。有何不可。故知此文別判通教菩薩位也。下文自有獨菩薩位。即別菩薩位也。所言三種菩薩者。即共地菩薩中根之人。亦同二乘三四地斷。又大品下次引大品況釋也。第十佛地尚名菩薩。況前諸位無菩薩耶。故云豈得無中及以初耶。言隣極者。以別佛地過十地故。今借別名乃云十地隣極故也。若無下重引大品。從初地來。皆云菩薩修治地業。故大品云。初十。二有八。三五。四有十。五十二。六六。七二十。八五。九十二。十佛(今略為頌)彼文一一具列釋之。當知此亦獨開菩薩。次引大論。於菩薩邊別得忍名乃至遊戲神通等名。故知此名別屬菩薩。大品忍名亦復如是。如此下正申今意。依向所引尚得別開菩薩地位。準此以為借別名通。別對菩薩何咎。次問者。斷欲九品那制兩果。答意者。聖制果名休息疲怠。散地惑重名為多難。恐為難退立兩果名。次問者。凡禪為治散。欲散既多應多立治。答意者。禪從地立定散相違。豈可於欲而多立禪。次問意者。前別為菩薩立忍名者。六七地前所有智斷與二乘同。何故菩薩別立忍稱。答中有三義故菩薩名忍。初引十五十六心例。如十五心。雖已有於七智八忍。未入果位故道比忍猶名為因。菩薩雖斷諸地見思習未盡故。位未滿故。故但名忍。餘二意可見。次約別教破思假者。前借別名但顯通義。今正在別復顯竪義。故次明之。問。開章之初不列別圓。何故至此便釋別圓。答。但論空位正在藏通。為顯通義更借別名。若論始終竪義似別。若論文旨須知圓融。故於此中明別圓位。言十行出假不復關前者。此中竪意從假入空。故別十行不關前空。但列藏通意在於此。故顯體中云。若論三人則有諸位大小。次圓位中。但云八信至第十信斷習盡者。習通界外塵沙無明。例亦應云不復關前。此不云者。從初已來三諦圓修。與次第義永不相關。此論麁惑任運斷處與次第齊。是故不須云不相關。引華嚴者。恐人不了麁惑先除。初證初住却望十信故云界內習盡。次華嚴下證初住位。近代釋義地前咸伏。云何銷通住過牟尼。此是第二番示文圓旨。云何下釋華嚴意。初文略釋。若爾下徵難。既有菩薩過佛。豈無聲聞過菩薩耶。然以下答。佛道屬於別圓地住。尚能過於藏通牟尼。灼然過於藏通菩薩。此約當分作此比決。復次下辨同異。同斷見思得名功用。巧拙不同。此雖辨前破思假位智用各別。亦是遙判諸經論中智斷異同。初文且列四教斷思智用各別。次若言下判向所辨同異文也。初文是當通教三乘自相比望。次若言下即以別圓菩薩比望。通藏二乘同斷見思而智各異。亦可云智斷俱異。即是通教不斷別惑。此中未論斷於別惑。故不論也。又通三乘自相望者。亦可云智同斷異。習有盡與不盡異也。次問下料簡超果等四。初問可解。答中初明有超。雖不下明果雖超而品數不失。如神通人及常人行遲疾不同。豈無里數。次問者。夫論超者。應是利根。身子利根何不超耶。初聞三諦但得初果。答中言七日或十五日者。大論三十八云。身子見舅與佛論議。有云。聞頞鞞說三諦。或云。經七日。或云。經十五日得無學果。阿難為侍者者。大論云。佛求侍者心在阿難。如東日照西壁。至結集時至法會中。迦葉訶云。汝如驢入馬群。阿難聞已。於閑靜處精勤修習。未得無學。放身欲臥將頭就枕。未至枕間得阿羅漢。故知爾前非無智力。以阿羅漢不合為侍。故不取證。如羅什入天竺。國人敬重以沙彌五人為侍。據此降佛已還。並不應以大僧為侍。通教菩薩下一往且明不超之義。故云亦應有超。菩薩無不荷負眾生故不論超。論超自約人行不同思假不得不破故也。超果下四種論超。言本斷者。本在外道修世禪時已斷思惑。名為本斷。隨本時斷品數多少。故使於今入十六心超果不同。本得非想即是已斷下八地思。至十六心應名阿羅漢向。但名那含者。以凡地時用有漏智智力弱故但名那含。得那含時此十六心起無漏得替前有漏。名印持定。本得初禪至二三四。比說可知。欲界九品隨以世智斷之多少者。若本斷九今名三向。若七八品得名二果。斷六品等名二果向。斷五四等但名初果。不同次斷意如向說。或三兩品名家家者。應云三四品。或恐文誤。或婆沙不同。善來者如第四說。正習盡者秖是三藏佛耳。圓人云最超者。問。前云荷負是故不超。云何不同。答。此言超者。以圓望別故得超名。故引瓔珞證超不超。彼本業經敬首菩薩白佛言。諸佛菩薩以大方便平等大慧照諸法界。為頓等覺為漸漸覺。佛言。我昔法會有一億八千無垢大士。即於法會達法性源頓覺無二。一切諸法皆一合相。各於十方說此瓔珞。大眾皆見一億八千頓覺如來。故知彼經唯有頓覺。玄文第五判為初住。龍女亦爾。並名頓覺。言無垢者。且約六即以明無垢。淨名者。雖成佛道。明初住超。行菩薩道。此即不超。實相理下即第四句。

○三明破假位の中、初めに三藏位を明かす。先に異部を出すとは、成論の外は全て異部に屬する。諸阿毘曇は全て見道が十五心にあると明かす。次に正釋の中、先に聲聞を釋く。且く修道に依って盡等に至ると言う。家家を釋くならば、應に先ず欲惑九品が七生を潤すことを辨じ、斷品の多少が果の高下に對することを辨ずべきである。謂わく、上上は二生を潤し、上中・上下・中上は各々一生を潤し、中中・中下は共に一生を潤し、下の三品は共に一生を潤す。斷ずる多少とは、倶舍に云く、「欲の三四品を斷ずるは、三二生の家々なり。斷じて五に至るは二向なり。斷じて六に至るは一來果なり」と。釋いて曰く、上の三品を斷ずれば則ち四生を損ず。餘りの三生は、六品が潤す所と爲りて、三生家家と名づく。進んで中上を斷ずれば又一生を損じ、并せて前に損ずること五。餘りの二生は、二生家家と名づく。更に中中を斷ずれば未だ一生を損ぜず、但だ二向と名づく。更に中下を斷ずれば、中中を兼ねて損ずること六生と成る。餘りの下三品は但だ一生を潤して、一來と名づく。問う、何の緣ぞ一品・二品を斷ずる無く、及び五品を斷ずるを家々と名づけざるや。答う、必ず斷じて二に至らずして第三に至りて命終する無し。亦斷じて五に至らずして斷じて六に至りて命終する無し。謂わゆる聖者は大加行を起すが故に、必ず大品の惑を斷ぜずして盡きて命終する者無し。大品と言うは、謂わゆる三品なり。三を離れて九と成るが故に、三を大名とす。若し斷じて二に至らば必ず三に至る。是れ初の大品を斷ずるなり。若し斷じて五に至らば必ず六に至る。是れ第二の大品なり。又一つの品にして能く果を障ふること無し。是の故に斷じて五に至らば必ず六に至る。此の次斷の義は今の文と同じ。問う、若し大品を斷ぜずして命終する者無くんば、何の故ぞ八を斷じて九に至らずして命終する有るや。答う、九を斷ずるに二義有りて、故に三品と異なる。一には果を得、二には界を越ゆ。第九の一品は果を障ふ及び能く界を越ゆることを有すが故に、斷じて八に至りて命終する者有り。六は唯だ果を得て、界を越ゆる義無し。是の故に斷じて五に至らば必ず六に至る。二三品の中は全く二義無し。斷じて二ならば必ず三なること、理に於て疑はず。今の文の中に超斷と言うは、即ち是れ下文の小超の人なり。本と凡地に在りて未だ色定を得ず。或いは欲定を修して欲惑未だ斷ぜず。此の人は十六心に至りて五品を超斷して、家々と名づく。此の五品は四品と同じきが故に、其の本斷の品の多少に隨ひて、而も家々の種子及び無學向果等の名を得。然れども大師の所用は並びに舊婆沙に準ず。若し知らんと欲せば更に彼の文を檢すべし。又家家とは、二種の不同有り。謂わく人及び天なり。天とは謂わく欲天に二三家生じて圓寂を證す。人とは謂わく人處に或いは三二家、或いは三二洲にして圓寂を證す。若し天に三生ならば、天三人二なり。若し天に二生ならば、天二人一なり。人の三二生は此れに反することを知るべし。故に天家家は先ず人の中に於いて見道を得て已りて、若しは超じ、若しは次第に三四品を進斷し、後ろに天の中に三二處に生ず。人は此れに反す。天家家は、最後の生天の中に於いて殘餘の結を斷じて圓寂を得と名づく。人中の家家も此れに準じて說く。六種の那含位、其の中に在る者は、大論三十三に云く、五那含とは、謂わく中・生・行・不行・上流なり。復た六種有り。五は上に同じく現を加う。復た七種有り。六は上に同じく無色を加う。倶舍は現般を立てず、但だ無色般を取りて五と爲し六と爲す。頌に曰く、此の中に生・有行・無行の般涅槃、上流若し雜修せば、能く色究竟に往く。超半超遍沒、餘は能く有頂に往く。行無色に四有り。此に住して般涅槃す。釋いて曰く、不還に五有り。一には中、謂く欲界に沒して色の中陰に於いて般涅槃す。二者は生般、色界に生じて已りて般涅槃す。三者は有行、色界に生じて已りて長時修行して方に般涅槃す。但だ勤修有りて速進の道無し。四者は無行、色界に生じて已りて久しからずして無功用行を修して般涅槃す。勤修速進の二道俱に無し。五者は上流、色界の中に於いて轉經して四禪天の處に方に般涅槃す。上流に又二有り。一には雜修、即ち樂慧是れなり。二には無雜修、即ち樂定是れなり。雜修有る者は色究竟に往き、無雜修の者は有頂に往く。頌の中の餘字は是れ不雜修なり。又三種有り。一には全超、謂く欲界に在りて四禪の中に於いて已に遍く雜修し、緣に遇ひて退失し、梵眾に沒して色究竟に生ず。中間盡く越ゆるが故に全超と名づく。二者は半超。梵眾に沒して已りて中間に漸く十四天處を受く。或いは一二を超じ乃至十三を超じ、後ろに乃ち方に色究竟天に生ず。皆半超と名づく。全超に非ざるが故に通じて半の名を受く。全く能く超ぜざるを遍沒と名づく。無雜修の者は無色界に生ず。唯だ能く五淨居天に生ぜず。廣果より沒して三無色に生じ、後ろに有頂に生じて方に般涅槃す。故に此の那含は縱ひ無色に生ずとも猶ほ色攝に屬す。若し欲界に沒して無色天に生ずれば、即ち無色攝なり。復た九種有り。中・生・上流の各々三種なるが故に。釋籤の引く所の如し。此の六九の中、未だ般に入らざる前に、或いは羅漢向攝と名づくことを得。色界に在る時、或いは勤修速進の故なり。第九の無礙等とは、九惑を斷ずるより各々一無礙及び一解脫有り。斷を名づけて無礙とし、證を名づけて解脫とす。阿毘曇の中に二を加うること前の如し。三界の下は結んで無生を成ず。盡無生と言うは、毘曇に云く、盡智者とは、謂く我、苦を知り乃至道を知るなり。無生智者とは、言く我、苦を知り已りて復た更に知らず。乃至我、道を修し已りて復た更に修せず。又云く、我が漏已に盡きて復た更に生ぜず。又云く、世智無漏智斷。又云く、慧解脫人及び俱解脫人は、並びに此れ等よりして二智の名を得。分別の相狀等は廣く諸論の如し。次に通位を釋く中、初めに經を列ね正しく判ず。共聲聞と言う等は、通教の二乘は七地已前、菩薩と共なるを名づけて共聲聞とす。若し爾らば、八地已上は二乘地を過ぐ。何の故ぞ亦た共菩薩と名づくるや。答う、初をもって後に名づけ、本に從ひて名を立つ。別圓の始終の別なるが如きに同じからず。三藏教の中に雖も二乘菩薩有りて行遠し。始終惑を伏すること永く二乘と異なる。故に共と名づけず。別理を聞かず、復た不共に非ず。問う、七地は思盡く。何の故ぞ六地を名づけて共聲聞とす。八を名づけて支佛地とす。何の故ぞ七地を名づけて共支佛とす。答う、通位は從容にして具に後の簡の如し。所言の下は略して釋く。此の意は正しく三乘共地と言う。何の故ぞ諸教の判斷惑位の高下差別を說くや。何の故ぞ三乘の惑斷の前後、智行不同なるや。雖も復た不同なりと雖も、而も共位に涉る。此を以ての故に共の名を得。乾慧の下は正しく釋く。初めに聲聞の中の五停四念を釋く。略して玄文及び釋籤の引く所の如し。並びに三藏に望めて內外凡を立つ。論ずるに觀行の巧拙雖も別なりと雖も、總別等の相は何ぞ妨げて稍や同じからざる。未だ理水有らざるを故名づけて乾とす。薄く理解有るを故名づけて性とす。忍者は因なり。見とは見諦を謂ふ。欲惑稍や輕きを故名づけて薄とす。欲惑全く亡ずるを故名づけて離とす。智斷の功畢るを故名づけて辦とす。三別名の通位を名づくるの中、先に破立して舊が斷見思の位皆不同なるを序す。今覈すの下は先ず其の斷見の位殊なるを總破す。秖だ通教の義を解せざるのみ。何者ぞの下は別に責む。通位の斷見は兩地不同なり。斷見は復た應に出づると入るるとの觀を出でざるべからず。人師の下は人師曉らずして過を經に推す。故に今折言して經意を解せずとす。今言の下は略して示す。別見の下は略して釋く。然の下は斷を判ず。例如の下は例を引く。此の十六心は同じく一位なるに、尚ほ兩道を判ず。何ぞ斷見の二地不同なるを妨げんや。問う、通教の中に當りて斷見の位を判ずるに、自ら二地に分つ。何の故ぞ他を破して自ら立てるに借別を須いん。斷見の位を立つること還た通教と同じきことを。答う、秖だ通と同じき緣にて通の名を得。通は雖も二地なりと雖も斷ずる時仍ほ促し。三乘共なるが故に雖も促しと雖も復た長し。是の故に須く三地四地を分つべし。或いは時に別を借りて別見更に長し。仍ほ二意有り。若し理に約せば通じて佛地に至る。若し教道に約せば三四地と云う。雖も二意各別なりと雖も、見の義は並びに長し。別の長きを以ての故に教道を借りて用いて兩地の斷見を判ずること爽らけし。若し通義に依らば觀を出でずと云う。若し別義に依らば但だ地地皆能く見を破ることを云う。此を以て異とす。別の長きを以ての故に後ろの兩番は、通じて四地を用いて皆斷見の位とす。人多は見ずして通義の足れりと謂ひ、何の故ぞ別を借りることを須いんや。此れ是れ大師の通じて經論を申するに、此の判有る者は借別名の通位を名づくるに屬す。何者ぞ。若し定んで通に屬せば、地前の伏位を立つべからず。若し定んで別に屬せば、行向が四善根に屬すべからず。乃至四地の共に斷見惑することも亦た復た是の如し。故に北式を立て後學に示して、古今の異說を冷然として見るべからしむ。借別の下は正しく借位を明かす。先ず別教の始終を借りて通と名づく。通教の地前は位論ずべき無し。故に別教の內外凡位を借りて、但だ通教の初地二地と名づく。通教の地後も亦た復た位無し。故に但だ別教の法雲佛地を以て、通教の九地十地と名づく。從容として定まらず。故に或言有り。大品既に十地の佛の如しと云えば、當に知るべし、即ち是れ別名の通を名づくるなり。故に楞伽第七偈頌品に云く、遠行・善慧・法雲地は是れ佛の種性なり。餘の者は悉く是れ二乘の種性なり。此れ亦た別名の通位を名づくるなり。若し別位ならば、豈に遠行已前の二乘に屬する有らんや。近代の釋位地前の伏惑は正に是れ此の例なり。若し借の次に單に別十地を借りて通十地と名づくれば、則ち彼此の地前、通じて伏惑と爲す。通は雖も位無しと雖も、即ち惑を斷ぜざれば地に入らざるが故なり。四別名の通菩薩位を名づくる者は、此れ單に菩薩に約すが故に、觀を修し見を斷ずること不定なり。如此の下は、略して菩薩の斷見の位を以て、前の舊師の三地四地斷見の義を斥く。薄即ち去るは菩薩の斷思の位なり。舊云の下は重ねて舊師の六七兩地を斷思位と爲すを序す。但だ六地の下は今家の難なり。先ず六地を難ず。六地は離欲にして、止だ欲惑を離る。如何ぞ即ち羅漢と同じと云はん。次に縱の云く、縱ひ三果の行四果の向を帶ぶ。餘りの一品在りて亦た向と名づく。如何ぞ復た羅漢と同じきことを得ん。若し七地の下は次に第七地を難ず。若し最後の品盡くを第七と名づけん。此れ則ち然るべし。前の六地の中は既に但だ離欲と名づけて、將に來を向に屬し果に屬せんとす。初禪の初品も亦た已辨に屬す。初品を斷ずるは實に未だ辦せざるが故に。故に亦た羅漢と同じきことを得ず。今若しの下は、今之を申さば則ち通十地の名を取らず。但だ十度を用いて果に對すること名便なり。別教の義は多以て十度を對於十地とす。故に亦た此れに依りて以て今意を申す。此の意を立つるは、亦た恐らくは後人の經論の對果高低を曉らず、別教の通を名づくる意を識らざることを。次に此皆の下は謙退して功を推す。次に問う者は、三乘共位の借義已に成る。別に菩薩を立つるは恐らく誠證無からん。次に答意の者は、經論各おの兩處の明文有り。意は並びに獨り菩薩の智斷を語る。初に大論の三處の焦炷を引く者は、意は乾慧の別に菩薩の斷惑の位に在るを引く。若し二乘と共ならば初焰と名づけず。初焰は即ち斷位なるが故なり。論は別に菩薩を立て、故に初地を以て斷位とす。故に大論七十八燈炷品に云く、十地に二有り。一には菩薩初地を初焰とす。二には聲聞見地を初焰とす。若し獨り菩薩地ならば、即ち歡喜地を初焰とす。論文既に菩薩初地を以て初焰とす。故に今之を取りて以て況釋とす。共伏道に於いて尚ほ以て菩薩初焰と爲すことを得。今但だ退いて共斷の位を取る者、獨り菩薩初焰と爲すことを。何の不可か有らん。故に知る、此の文は別に通教菩薩の位を判ずるなり。下文に自ら獨菩薩位有り。即ち別菩薩位なり。所言の三種菩薩とは、即ち共地の菩薩の中根の人にして、亦た二乘と同じく三四地に斷ず。又大品の次に大品を引いて況釋す。第十佛地も尚ほ菩薩と名づく。況んや前の諸位に菩薩無きをや。故に云く豈に中及び初に無からんや。隣極と言うは、別佛地の十地を過ぐるを以てなり。今別名を借りて乃ち十地隣極と云ふが故なり。若し無くんば、重ねて大品を引く。初地より來、皆云く菩薩地業を修治す。故に大品に云く、初十、二有八、三五、四有十、五十二、六六、七二十、八五、九十二、十佛と。彼の文は一一に具にして之を釋く。當に知るべし、此れ亦た獨り菩薩を開くなり。次に大論を引く。菩薩の邊に於いて別に忍の名を得、乃至遊戲神通等の名を得。故に知る、此の名は別に菩薩に屬す。大品の忍名も亦た復た是の如し。如此の下は正しく今意を申す。向に引く所に依り尚ほ別に菩薩地位を開くことを得。此れに準じて以て借別名通とす。別に對して菩薩と爲すに何の咎か有らん。次に問う者は、欲の九品を斷ずるに那ぞ兩果を制するや。答意の者は、聖の果名を制するは休息疲怠の故なり。散地は惑重くして多難と名づく。難の爲に退くを恐れて兩果の名を立つ。次に問う者は、凡禪は散を治するが爲なり。欲散既に多ければ、應に多く治を立つべきに。答意の者は、禪は地に從ひて立つ。定散相違す。豈に欲に於いて多く禪を立つべきや。次に問意の者は、前に別に菩薩の爲に忍名を立つる者は、六七地已前の所有智斷は二乘と同じ。何の故ぞ菩薩別に忍稱を立つるや。答の中に三義有るが故に菩薩は忍と名づく。初に十五十六心の例を引く。十五心の如きは、雖も已に七智八忍有りと雖も、未だ果位に入らざるが故に道比忍猶ほ因と名づく。菩薩は雖も諸地の見思を斷ずと雖も、習未だ盡きざるが故に、位未だ滿たざるが故に、但だ忍と名づく。餘の二意は見るべし。次に別教に約して思假を破する者は、前の借別名は但だ通義を顯す。今正に別に在りて復た竪義を顯す。故に次に之を明かす。問う、開章の之初に別圓を列ねず。何の故ぞ此れに至りて便ち別圓を釋くや。答う、但だ空位を論ずるは正に藏通に在り。通義を顯さんが爲に更に別名を借る。若し始終の竪義を論ずれば別の似たり。若し論文の旨ならば須く圓融を知るべし。故に此の中に於いて別圓の位を明かす。十行出假は復た前に關せずと言うは、此の中の竪意は假より入空なり。故に別十行は前の空に關せず。但だ藏通を列るるは意此に在り。故に顯體の中に云く、若し三人を論ずれば則ち諸位の大小有り。次に圓位の中に、但だ八信至第十信斷習盡くと云う者は、習は界外の塵沙無明に通ず。例して亦た應に前に関せずと云うべし。此に云はざるは、初より已來三諦圓修にして、次第の義と永く相い關せざるが故なり。此れ麁惑の任運に斷ずる處を論じて次第と同じからしむ。是の故に須く關せずと云はず。華嚴を引く者は、恐らくは人の麁惑先に除かれて、初に初住を證し却て十信に望めて界內習盡と云うことを了せざらんことを。次に華嚴の下は初住位を證す。近代の釋義は地前咸く伏す。云何ぞ通じて住過牟尼を銷せん。此れ是れ第二番の圓旨を示す文なり。云何の下は華嚴意を釋く。初文は略釋なり。若爾の下は徵難なり。既に菩薩の佛に過ぐる有り。豈に聲聞の菩薩に過ぐる有らんや。然の下の答は、佛道は別圓の地住に屬して、尚ほ能く藏通の牟尼に過ぐ。灼然として藏通の菩薩に過ぐ。此れ當分に約して此の比決を作す。復次下は同異を辨ず。同じく見思を斷じて功用の名を得。巧拙不同なり。此れ雖も前の破思假の位智用各別を辨ずと雖も、亦是れ諸經論の中の智斷異同を遙かに判ず。初文は且く四教の斷思智用各別を列ね、次に若言の下は向に辨ずる所の同異文を判ず。初文は是れ當通教の三乘自相比望す。次に若言の下は即ち別圓菩薩を以て比望す。通藏二乘の同じく見思を斷ずるも智各異なる。亦可く云く智斷俱に異なり。即ち通教は別惑を斷ぜず。此の中は未だ別惑を斷ずるを論ぜず。故に論ぜず。又通三乘自相望する者は、亦可く云く智同じくして斷異なり。習に盡くる有り盡きざる有るの異なるが故なり。次に問の下は超果等の四を料簡す。初の問は解すべし。答の中に初めに超有ることを明かす。雖の下は果の超ゆると雖も品數の失せざることを明かす。神通人及び常人の行遲疾の不同なるが如し。豈に里數無からんや。次に問う者は、夫れ超を論ずるは、應に利根なるべし。身子の利根は何を以て超ぜざるや。初めに三諦を聞きて但だ初果を得。答の中に七日或いは十五日と言うは、大論三十八に云く、身子は舅と佛と論議するを見る。或いは頞鞞の三諦を說くを聞くと云ふ。或いは經七日、或いは經十五日にして無學果を得と云ふ。阿難の侍者と爲る者は、大論に云く、佛は侍者を求めて心を阿難に在り。東日の西壁を照らすが如し。結集の時に至りて法會の中に至り、迦葉訶げて云く、汝は驢の馬群に入るが如し。阿難聞きて已りて、閑靜の處に於いて精勤に修習す。未だ無學を得ず。放身して臥せんと欲し、頭を將ちて枕に就かんとす。枕の間に未だ至らざるに阿羅漢を得。故に知る、爾前は非ず智力無きを。阿羅漢は侍と爲るに合わざるが故に、故に證を取らず。羅什の天竺に入るが如きは、國人は敬重して五人の沙彌を以て侍と爲す。此れに據れば佛を降して已還は、並びに大僧を以て侍と爲すべからず。通教菩薩の下は一往且く不超の義を明かす。故に亦た應に超有りと云ふ。菩薩は衆生を荷負せざる無きが故に超を論ぜず。超を論ずるは自ら人行の不同に約す。思假は不得不破なるが故なり。超果の下は四種の論超なり。本斷と言うは、本と外道に在りて世禪を修する時已に思惑を斷ず。本斷と名づく。本時斷ずる品数の多少に隨ひて、故に今十六心に入りて超果不同ならしむ。本に非想を得るは即ち已に下八地の思を斷ず。十六心に至りて應に阿羅漢向と名づくべし。但だ那含と名づくるは、凡地の時有漏智を用うる力弱きが故に但だ那含と名づく。那含を得る時、此の十六心起りて無漏を得、前に替りて有漏と爲す。印持定と名づく。本に初禪を得て二三四に至るは、比說して知るべし。欲界九品の隨に世智を以て之を斷ず多少は、若し本斷九ならば今三向と名づく。若し七八品ならば二果の名を得。六品を斷ずる等は二果向と名づく。五四等を斷ずるは但だ初果と名づく。次斷の意と不同なること向の說く所の如し。或いは三兩品を家々と名づく。應に三四品と云ふべし。或いは恐らくは文誤ならん。或いは婆沙の不同なるか。善來は第四の說く所の如し。正習盡とは秖だ是れ三藏佛のみ。圓人は云く最超と言う。問う、前は荷負を以て超ぜずと云ふ。云何ぞ不同ならん。答う、此の超と言うは、圓を以て別に望むが故に超の名を得。故に瓔珞を引いて超不超を證す。彼の本業經に敬首菩薩白佛言、諸佛菩薩は大方便平等大慧を以て諸法界を照らし、頓等覺と爲すか爲に漸漸覺と爲すか。佛言、我昔法會に一億八千無垢大士有り。即ち法會に於いて法性源に達して頓覺無二なり。一切諸法は皆一合相なり。各おの十方に於いて此の瓔珞を說く。大衆皆一億八千頓覺如來を見る。故に知る、彼の經は唯だ頓覺有り。玄文第五に初住と判ず。龍女も亦た爾り。並びに頓覺と名づく。無垢と言うは、且く六即に約して無垢を明かす。淨名は、雖も佛道を成ずと雖も、初住の超を明かす。菩薩道を行ず。此れ即ち超ぜず。實相理の下は即ち第四句なり。

○三四門料簡者。初文者明須門意。為通理故故十六門並破見思。今明入空破見思竟。應須更簡能入之門。為是義故須明諸門。諸門雖即俱有智斷有次不次。見思並障故須明門。若即門通中是今文正意。餘三能所為顯圓極。彼此乃成一十六門觀於是思。又若識諸門。觀諸經論冷然可見。以諸經論不出十六故也。初釋三藏四門。初明有門中。初引論起觀。如此下用觀破惑。鹿苑下明得益之人。言俱隣五人者。謂陳如頞鞞跋提十力迦葉拘利太子。佛初成道欲度二仙。以初出家於二仙所習世間定。欲報往恩故欲先度。空聲報曰。二仙已死。次思度五人往到其所。五人立制。佛到制破。五人恭敬為敷具等聞法得道閻浮提中五人得道。最在一切人天之前。並是有門之力故也。又頞鞞說三諦者。如論偈曰。一切眾生智唯除佛世尊。欲比舍利弗。智慧及多聞。於十六分中。猶尚不及一。因見頞鞞威儀庠序而就問之。汝師是誰。誰之弟子。頞鞞答曰。悉達太子捨生老病死出家修道得三菩提。是吾師也。身子又問。師說何法。答。我年尚幼稚。學戒日初淺。豈能演至真廣說第一義。身子言。略說其要。頞鞞曰。諸法從緣生。是法說因緣。是法緣及盡。我師如是說。身子聞已而得初果。初頞鞞晨出佛已告之。今日所見必是利人。應略說法。是故略說四諦中三。諸法從緣生苦諦也。是法說因緣集諦也。是法緣及盡滅諦也。身子聞已還其所止。目連見之先起迎逆而謂之曰。汝得甘露應可共嘗。身子便為如聞而說。目連聞之亦得初果。二人見佛。佛命善來並得羅漢。千二百人者。三迦葉千人。優樓迦葉五百。二弟各二百五十。目連身子二百五十。今文闕五十。大論問曰。此諸比丘何故常隨世尊。答。如病者得差常隨大醫。如眾星繞月顯佛德尊高。大論下明用門者善須方便。言方便者。般若以無著為宗。若無方便於門起著。用有則墮有中。乃至諸門亦復如是。大集下引佛世人依門得益。次明空門。故彼下證門體。云是老死誰老死者。大論引雜含云。十二因緣從無明至老死。若有人言是老死。若言誰老死。皆生邪見。乃至無明亦復如是。若說無誰老死當知虛妄。是名生空。若說無是老死當知虛妄。是名法空。乃至無明亦復如是。彼經佛在調牛聚落。告諸比丘。初中後善乃至梵行清淨。所謂大空經。若有問言。彼誰老死老死屬誰。彼即言。我即老死今老死屬我。老死是我所。若無明離而生明者。彼誰老死老死屬誰。老死則斷。斷其根本則無明滅。無明滅則諸行滅。具二空故名為大空。故知小乘空於我所。名為法空。空於我人名眾生空。若諸菩薩以空涅槃恒沙佛法。名為法空。人謂小乘不明法空者。未曉經意。縱有誠教云聲聞人但得生空。且讓菩薩與奪之言。

○三四の門を簡別するとは、まず初めの文で門の意を明らかにする必要があることを述べる。理に通じるためであるから、十六門すべてが見思を破る。今、空に入り見思を破り終えたならば、さらに能入の門を簡別しなければならない。この義のため、諸門を明らかにする必要がある。諸門は共に智断を備えるが、次第があるものとないものがある。見思は共に障となるので、門を明らかにする必要がある。もし門を通じて中に入るならば、これが今の文の正しい意味である。残りの三つの能所は円極を顕すためのものであり、互いに合わせて一十六門の観を成すのである。また、もし諸門を識れば、諸経論を観ると冷然として見える。諸経論は十六門を出でないからである。

まず三蔵の四門を釈する。最初に有門を明かす中で、まず論を引いて観を起こす。「如此」の下では観を用いて惑を破る。「鹿苑」の下では得益を得た人を明かす。「倶隣の五人」とは、陳如、頞鞞、跋提、十力迦葉、拘利太子をいう。仏が初めて成道し、二仙を度そうと思われた。初めて出家するとき、二仙のもとで世間の定を習ったため、その恩に報いようとして先ず度そうとされた。ところが空声が報じて言うには、「二仙はすでに死んだ」と。次に五人を度そうと思い、そのもとに到った。五人は制を立てていたが、仏が到ってその制を破られた。五人は敬い、敷具を備えるなどして法を聞き、道を得た。閻浮提において五人で道を得たのは、すべての人天の先であり、みな有門の力によるものである。

また、頞鞞が三諦を説いたことについて、論の偈に言う。「一切衆生の智は、唯仏世尊を除く。舍利弗の智慧および多聞に比べれば、十六分の中において、なおかつ十分の一にも及ばない」と。因って頞鞞の威儀が庠序であるのを見て、これに問うた。「あなたの師は誰か。誰の弟子か。」頞鞞が答えて言う、「悉達太子が生老病死を捨て、出家して修道し、三菩提を得た。これがわが師である」と。身子また問う、「師は何の法を説くのか。」答え、「我は年なお幼稚にして、戒を学ぶ日も初めて浅い。どうして能く至真を演べ、広く第一義を説けようか。」身子言う、「その要を略説せよ。」頞鞞曰く、「諸法は縁より生ず。是の法は因縁を説く。是の法は縁および尽く。我が師は是の如く説く。」身子これを聞いて初果を得た。初め頞鞞が朝に出かけるとき、仏はこれに告げた。「今日見る所は必ず利根の人であろう。略して法を説くべきである。」と。故に略して四諦の中の三を説いた。「諸法は縁より生ず」とは苦諦である。「是の法は因縁を説く」とは集諦である。「是の法は縁および尽く」とは滅諦である。身子はこれを聞いてその住処に還った。目連はこれを見て、先に起って迎え、これに謂う、「汝は甘露を得たならば、共に嘗めるべきである。」身子は聞くままに説いた。目連はこれを聞いて初果を得た。二人は仏を見て、仏は「善来」と命じ、ともに羅漢を得た。

千二百人とは、三迦葉の千人、すなわち優楼迦葉の五百、二弟の各二百五十、目連と身子の二百五十である。今の文には五十人欠けている。大論に問う、「これらの比丘は何故常に世尊に随うのか。」答う、「病者の癒えたるが常に大医に随うが如く、衆星の月を繞るが如く、仏の徳の尊高を顕すためである。」大論の下では、門を用いるには善く方便を要することを明かす。「方便」とは、般若は無著を宗とする。もし方便なくして門に著せば、有を用いれば有の中に堕ち、乃至諸門もまた同じである。大集の下では、仏世の人々が門に依って得益することを引く。

次に空門を明かす。「故彼」の下では門の体を証する。「是の老死、誰が老死か」とは、大論が雑含を引いて言う、「十二因縁は無明より老死に至る。もし人ありて是れ老死と言い、もし誰が老死かと言えば、皆邪見を生ず。乃至無明もまた同じ。もし「無誰老死」と説けば、これ虚妄なることを知るべし。是を生空と名づく。もし「無是老死」と説けば、これ虚妄なることを知るべし。是を法空と名づく。乃至無明もまた同じ。」彼の経に、仏が調牛聚落に在って比丘に告げた。「初中後善、乃至梵行清浄、所謂大空経。」もし問うことがある、「彼の誰が老死か、老死は誰に属するか。」彼は即ち言う、「我即ち老死、今老死は我に属す。老死は我が所なり。」もし無明を離れて明を生ずるならば、「彼の誰が老死か、老死は誰に属するか。」老死は則ち断ず。その根本を断ずれば、則ち無明滅す。無明滅すれば、則ち諸行滅す。二空を具する故に大空と名づく。故に知る、小乗は我・所を空ずるを法空と名づけ、我・人を空ずるを衆生空と名づく。もし諸菩薩が空・涅槃・恒河沙の仏法を以てするを法空と名づく。人は小乗は法空を明かさないと言うが、これは経の意を未だ暁らないのである。仮令誠教有りて「声聞人は但だ生空を得る」と言うも、且く菩薩に与奪の言を譲るのである。

須菩提空智偏明等者。雖得羅漢何廢偏長。石室觀空者。佛在忉利一夏安居。佛以神力制諸人天。不知處所。夏受歲已。佛攝神足欲還閻浮。爾時須菩提於石室中住。自思惟言。佛忉利下當至佛所禮佛耶。為不至耶。復自思惟。佛常說法。若人以智慧力觀佛法身。是名見佛中最。佛時已從忉利下閻浮提。四眾皆集人天相見。座中有佛及轉輪王諸天大集。眾會莊嚴先未曾有。須菩提念。今此大眾雖復殊特勢不久停。磨滅之法皆歸無常。因此無常觀之初門。悉知諸法空無有實。作是觀時即得道證。時一切眾皆欲先見如來禮拜供養。有蓮華色比丘尼。常為他人呼為婬女。欲除惡名便化為輪王。七寶千子。眾人見之皆悉避座。化王見佛還復本身。為比丘尼最先禮佛。佛告尼言。非汝先禮我。唯須菩提最初禮我。所以者何。須菩提觀諸法空為見法身。得真供養供養中最。非供養生身名供養也。

須菩提は空の智慧が特に優れている点で明らかである。たとえ阿羅漢を得ていても、何の妨げがあって偏(かたよ)って長(すぐ)れていることがあろうか。石室で空を観じた者とは、次のようなことである。仏が忉利天で一夏の安居をされたとき、仏は神通力で人々や天々を制して、その居場所を誰にも知らせなかった。夏の安居が終わり、仏が神通力を収めて閻浮提に戻ろうとされた。そのとき須菩提は石室の中に住んでいて、自らこう思った。「仏が忉利天から下りてこられたら、私は仏のところへ行って礼拝すべきだろうか、それとも行かなくてもよいのだろうか。」さらに自らこう思った。「仏は常に法を説かれる。もし人が智慧の力で仏の法身を観じるなら、それが仏を見ることの中でも最も優れている。」仏はそのときすでに忉利天から閻浮提に下りておられ、四衆が皆集まり、人々と天々が互いに会った。その座には仏と転輪王、そして諸天が大いに集まり、集会の荘厳さはかってないほどであった。須菩提は思った。「今この大衆はたとえ殊勝であっても、その勢いは長くはとどまらない。磨滅する法は皆、無常に帰する。」この無常の観の初門によって、すべての法が空であり実体がないことをことごとく知った。この観をなしたとき、たちまち道証を得た。そのとき一切の大衆は皆、まず如来を見て礼拝供養したいと思った。蓮華色比丘尼がいて、常に他人から婬女と呼ばれていた。悪名を除こうとして、そこで転輪王に化身し、七宝と千の子を現した。人々はこれを見て皆、座を避けた。化身の王は仏を見て、もとの本身に戻った。比丘尼として最初に仏を礼拝したのである。仏は尼に告げられた。「あなたが先に私を礼拝したのではない。ただ須菩提が最初に私を礼拝したのである。なぜか。須菩提は諸法の空を観じて法身を見たからである。真の供養を得ており、供養の中でも最も優れている。生身を供養することを供養と名づけるのではない。」

止觀輔行傳弘決卷第六之一

止観輔行伝弘決 巻第六の一

止觀輔行傳弘決卷第六之二

止観輔行伝弘決 巻第六之二

唐毘陵沙門湛然述

毘陵の沙門湛然が述べる

大品被加等者。凡言加者加於可加。以須菩提空與般若空相應相似。是故佛加令其說空。般若是智故亦加身子。所以但加此二人也。故云欲以大空並小空等。以般若中盛明此二。是故但加此二人也。法華云。我等雖為諸佛子等說菩薩法。大品中佛告須菩提。汝當為諸菩薩說般若波羅蜜。如諸菩薩所應成就。須菩提說已。時諸菩薩聲聞四眾天龍八部作是念言。為須菩提自力。為是佛力。須菩提知大眾心念語身子言。豈佛弟子有所說法。皆是佛力。佛說法相不相違背。二乘之人無力能說。大論五十三云。爾時須菩提作是念。三世諸佛從般若波羅蜜生。須菩提小人。佛云何讚言欲說般若。當如汝所說。答。須菩提說皆承佛旨。正使諸大菩薩大梵王等不承佛意。尚不能說。況須菩提在於佛前能自恣說。身子有說亦復如是。大論下善用方便。意亦同前有門中說。斥非中盪(狄朗切)第三門比說可見。第四門中言車匿者。引人簡濫。佛臨涅槃阿難心沒憂海。阿泥樓豆言。如來不久當入涅槃。若有所疑今悉可問。何以憂愁以失法利。阿難因是前白佛言。一切經初安何等字。乃至惡口車匿云何擯治。佛言。一切經初皆安如是我聞等字。惡口車匿依梵法治。若心調柔軟當為說那陀迦旃延經。離有離無乃可得道。言離有無者即是雙非。若觀境者。亦應云假無同前。非前實法有無俱是。是故雙非此即境也。作此觀者即名為觀。如此下明門中得益之位。言溝港者。古來翻譯方言未通。便以預流譯為溝港。通水曰溝隈水曰港。四門下明門異理同。初正明門異理同。有法譬證。依理通諍中初正通。跋摩者。宋文帝時來至此土勅住祇洹。臨終遺書自說已證。傳與此土及外國僧眾。偈有四十六行。先歸敬三寶已。次說不淨觀。後說得二果。末後云。那彼阿毘曇說五因緣法。實義修於智名者莫能見。諸論各異端修行理無二等。求那依毘曇得道。故斥成論不得道者。但計異端無行契理。然真諦寂寥等非偈文也(寥亦寂也。空無人也)。祛者去惑也。論主者。訶黎跋摩造成實論。何故下辨諍有無。論文雖分大小辨諍今通用之。順理必無失理故諍。菩薩無諍中。釋迦初值至三祇等者。俱舍云。於三無數劫各供養七萬。又如次供養五六七千佛。釋曰。初僧祇初供養七萬五千佛。二僧祇七萬六千。三僧祇七萬七千。頌曰。三無數劫滿。逆次逢勝觀然燈寶髻佛。初釋迦牟尼。釋曰。第一僧祇初值釋迦牟尼。第一僧祇滿值寶髻佛。第二滿值然燈佛。第三滿值勝觀佛。大論第二僧祇名罽那尸棄。第三名毘婆尸者。彼此音異。六度具如第三卷引。論因則指釋迦等者。彼婆沙中釋菩薩義。明因則指釋迦三祇百劫。明果則指彌勒當成。何故爾耶。釋迦果已成是故指因行。為令慕果而行因故。彌勒因已滿是故指當果。皆使觀因以知果故。故諸聖教並明釋迦之因。如說菩薩昔苦行等。並明彌勒之果。如說彌勒下生經等。龍樹難云等者。大論二十七問。觀諸法實相及修慈悲令三毒薄。薄故能集清淨功德者。如離欲人斷下地結猶有上惑。故名為薄。又如初果見盡思存。尚未名薄。如佛所說斷淫怒癡名斯陀含。故名為薄。如是等義薄即是斷。汝何未斷而名為薄。論云。若得無生忍時斷正煩惱。得佛果時斷餘殘習。是真實說。此仍存通以破於藏。又大論第五。廣斥六度菩薩云。是迦旃延子輩不讀衍經非大菩薩。不知實相。自以利根於佛法中作諸論議。作結使智根等楗度。尚處處失況菩薩論。故此初文云釋論引迦旃延子明菩薩義。當知大論為破故引。故論斥云。如小人尚不能跳小渠。況度大河豈不沒失。云何沒失。如云昔菩薩。為大薩他婆度大海水惡風吹船。語賈人言。汝捉我髮我當度汝。諸人捉已以刀自殺。大海水法不宿死屍。即時疾風吹至岸邊。大慈如是而言不是菩薩。受然燈記身升虛空見十方佛。於空立讚。然燈記言。汝於來世作佛號釋迦牟尼。得記如是如何言未是菩薩。三僧祇未有相好。亦無種相因緣。見然燈佛身升虛空見十方佛。豈非大相。為佛所記當得作佛。亦是大相。捨此大相而取三十二相。三十二相輪王魔羅亦能作之。調達亦有三十相。餘人各有少。多如青目長臂等。汝何以重相。何經說三祇菩薩不種相好因。如難陀因浴毘婆尸佛。以青黛塗支佛塔作支佛像。願得端正金色之身。世世受樂處處受生。恒得端正。是福之餘。生迦毘羅釋種之中。得三十相出家得無學。佛說五百比丘中難陀第一。是相易得。云何九十一劫中種。餘一生中得。是為大失。又初僧祇不知作佛不作等者。若藏若衍何處說是語耶。迦旃延子言。佛口雖三藏中不說。義理應然。毘曇婆沙作是說耳。如首楞嚴說四授記中。有未發心與記。有適發心與記。他人盡知己不知。有他己盡知。云何二僧祇不知作佛。又云。種相好唯在欲界。色界何故不得種耶。如諸梵王常請佛轉法輪。云何言上界不得。又不惜身命名檀。不知三空故不名淨。乃至般若亦須知三事皆空。言分地息諍者。云二乘及菩薩尚不能分。分地為七分是算數法。是世俗般若中少許耳。又云。要在人中種相因者。如婆伽度龍十住菩薩。阿那婆跋達多龍王七住菩薩。羅睺阿修羅王亦是大菩薩。何故云餘道不種相耶。言一思一相者。是心彈指頃六十生滅。一心不住不能分別。云何能種大相。不應不了心中種。多心和合乃能種。猶如重物多人能擔。一人不能擔。若云釋迦弟子機熟者。藏衍等經亦無此說。出自汝心。如是種種破三藏相好。若爾。衍相云何。答。大論二十九云。云何名為衍中相好。十方三世諸佛皆悉無相。何故說相。一相尚無。何故說三十二相。答。佛法二種世諦第一義諦。世諦有相。第一義諦無相。又福道慧道。又生法二身。又相好嚴身無畏不共嚴眾生。又為二種眾生故現二身。著名字者為說相好。知法假名不為說三十二相。問。力無畏亦有相好。云何說法身無相。答。一切諸法悉皆無相。現色身者為見色生喜發道心者。說相無咎。於前多解一一皆開為三教意。以斥三藏方稱經旨。問。何故不多不少。唯說三十二相耶。答。丈六身邊少則莊嚴不周。多則雜亂。問。何名為好。答。相大莊嚴身好小莊嚴身。若說大者則已說小。復次相麁好細。眾生見佛則見佛相好則難見。問。佛斷眾生吾我。何故相好自嚴其身。答。既有妙法莊嚴其心。身無相好或恐度者心生憍慢。謂佛身相不具。不能一心受道。如器不淨盛好美食人所不喜。如臭皮囊盛好寶物。取者不樂。是故相好自嚴其身。又心莊嚴開涅槃道。相好莊嚴開人天路。又心莊嚴三界心息。身莊嚴者三惡心息。然此中明三祇百劫。與俱舍小異。俱舍則道樹已前四波羅蜜滿。至佛果位二波羅蜜滿。故頌云。但由悲普施。被析身無忿。讚歎底迦佛。次無上菩提。六波羅蜜多於如是四位。一二又一二如次修圓滿。初一謂布施。次二謂戒忍。次一謂精進。次二謂禪智。如次對四句。由讚歎底迦其超九劫。故從毘婆尸佛九十一劫禪智二波羅蜜滿。若準大論三阿僧祇六波羅蜜滿。不相違耶。亦無相違。大論三僧祇但是事禪事智滿耳。若至樹王下亦是緣理禪智始滿。俱舍云。因時已斷八地惑者。既未斷有頂但用有漏。故大論沒前有漏之名至樹王下。方云用三十四心斷三界見修之惑。故知爾時方得無漏。今文且以大論所斥立三藏菩薩義。故且存之名為伏道。半字者。引證唯小。第五云。譬如長者唯有一子心常愛念。將詣明師。懼不速成。尋便將還。以愛念故晝夜慇懃。教其半字而不教誨毘伽羅論。力未堪故。合喻云。言半字者謂九部經。毘伽羅論謂方等典。釋云。此論是字本。河西云。世間文字之根本也。典籍音聲之論宣通四辨。訶責世法讚出家法。言辭清雅義理深邃。雖是外論而無邪法。將是善權大士之所為也。故以此論喻方等經。法華稱二十年等者。約人即權同二乘。約理即真俗二諦。約惑則見思俱破。問。二義可爾二十云何。答。二乘各有十智。又斷見一無礙一解脫。斷思九無礙九解脫。貧所樂法等者。如耕夫無帝王之念。織婦絕皇后之窺。二乘亦爾。法華已前雖聞雖說。自鄙絕分而無希取。次通教四門。初是有門。云而有幻化即有門正體。如是下破惑結成。若言假實下空門正體。如此下破惑結成。若明一切法下空有門體。如是下破惑結成。既言下非空非有門體。如此下破惑結成。初有門中云諸法不生而般若生者。大論六十二先引經云。身子白佛言。云何生般若波羅蜜。佛言。色不生般若波羅蜜生。乃至一切種智不生般若波羅蜜生。身子問。云何色不生等。佛言。色不起不生不得不失。乃至種智亦如是。是為般若生。生即是有故證有門。雖具三教今意在通。空門中云乃至涅槃亦如幻化者。大論五十三引經云。諸天子念。誰應聞須菩提說。須菩提知諸天子念。語諸天子云。如幻如化如是聞法。乃至涅槃亦如幻化。論釋云。佛於一切眾生中第一。涅槃於一切法中第一。以二法名字從因緣生故。假令有法勝涅槃者能令如幻。何況涅槃。以無有法勝涅槃故假設言之。斥三藏如文。體而論破者。此通伏難。難云。通人既觀諸法如幻。幻本不生今無所滅。名之為體。體則非破。今何故云體破見思名破法遍。答。此約即體而論破也。不破而破故云體破。次引證中云火焰等者並證四門不可取也。乃至釋第一義中。云一切實等四句。四門入池等。並此意也。故讚般若偈云。般若波羅蜜譬。如大火聚四邊不可取。無取亦不取。一切取悉捨。是名不可取。不可取而取。是即名為取。釋曰。初句明實相般若。即是所通。次句譬所通也。第三句譬能通不可取也。第四句門觀俱亡。第五句能所俱亡。第六句總結。第七八句明無取故名為得八義亦兼三且釋成通。若不下明門體離諍。問答下與三藏辨異。擋字(丁朗切)謂朋擋也。有門擋有而撥空。空門擋空而撥有。亦名如實巧度等者。大論第七作巧拙二醫譬云。如用針藥名為拙度。用呪術者名為巧度。亦如二渡若用草筏名為拙渡。用方舟者名之為巧。雙舟曰方。聲聞化人苦行頭陀。初中後夜勤心禪觀。苦而行道名為拙度。菩薩化人觀諸法實。無縛無解心得清淨。名為巧度。巧如喜根拙如勝意。巧拙相形雖復若是。揣心量行無令濫非。此斥小宗事相頭陀專根本禪無常等觀。苦勵身口不知諸法畢竟清淨。此以衍教用斥拙度。行道之人善自斟酌。三獸渡河者大經譬也。三人如獸真如水底。象雖得底仍分二別。小象得泥通菩薩也。大象得實即見不空。見不空者。復有二種。謂但不但。今文且用得泥菩薩以共二乘。次別四門中初略辨異。大經下辨行相。經云聞大涅槃有無上道等。具如釋籤明聖行中。今云事相次第不殊三藏者。且如戒定及生滅慧。此三聖行全如三藏。若無生等三慧聖行則異三藏。今從初說故云不殊。復約教道初不知圓。餘如釋籤次第五行也。初門中云解脫者即是不空等者。是大經第五百句解脫中文。彼百解脫總而言之不出四門。而多明非有非無。當知百句是能通門。三德涅槃是所通理。以彼百句義兼圓別。故使今在別門引之。如來藏十喻者。二文不同。諸文引用。或云佛藏者隨語便耳。文在方等如來藏經中。彼經一卷佛為金剛藏菩薩說。文雖有十義但似九。以初二文同一義故。初文云。我以佛眼觀一切眾生。諸煩惱中有佛智眼有如來身。結跏趺坐儼然不動。善男子。譬如天眼觀未敷華中有如來。除却華已便得顯現。佛見眾生亦復如是。已下九譬總有九番長行偈頌各四五行。今略從要各取一行令知喻相。初云。譬如萎變華其華未開敷。天眼者觀見如來身無染。二云。譬如巖樹蜜無量蜂圍遶。善方便取者先除彼群蜂。三云。譬一切粳糧皮糩未除蕩。貧者猶賤之謂為可棄物。四云。如金在不淨隱沒莫能見。天眼者乃見即以告眾人。五云。譬如貧人家內有珍寶藏。主既不知見寶復不能言。六云。譬如菴羅果內實不毀壞。種之於大地必成大樹王。七云。譬如持金像行詣於他方。裹以弊穢物棄之於曠野。八云。譬如貧女人色貌甚醜陋。而懷貴相子當為轉輪王。九云。譬如大冶鑄無量真金像。愚者自外觀但見焦黑土。文中各以佛性合喻。若尼楗經云。有城名欝闍廷。王名嚴熾。有大薩遮來入其國。王出遠迎。其見王已坐一樹下。王見致敬。因為王說治國之法。乃至為王說佛身相及種性等。乃至令王觀如來身云。大王當知依煩惱身觀如來身。依陰界入觀如來身。何以故。此身即是如來藏故。一切煩惱諸垢藏中佛性滿足。如石中金。木中火。地中水。乳中酪。麻中油。子中禾。藏中金。模中像。孕中胎。雲中日。是故我言煩惱之中有如來藏。尼楗經中雖亦有於如來藏名。十喻亦與今文大同。然既引弊帛薩遮中無。故知應是引方等經也。涅槃非有等者。涅槃非是能名所名。故云非有。因俗施設名涅槃有。既非色聲云何而言見妙有色聞涅槃名。如水酒酪瓶等者亦百句文。彼文云。又解脫者名曰不空。如水酒酪蘇蜜等瓶。無水等時猶故得名為水等瓶。如是等瓶不可說空及以不空。若說空者則不得有色香味觸。若說不空而實無有水酒酪等。非有非無門中言絕四等者。意指中為所證之理。理無四故。尚無四句焉有百非。此第四門雖四句攝。今約理說故云絕四。乃至有門亦復如是。故引大經非常非斷名為中道。以證於理復是雙非。如此下判得失也。若得意者得入初地名為見實。若不得意但成地前方便位耳。若準前明三藏四門。一一門後各明得失。為離煩文於此總明。次明圓四門中初辨同異。云何下總徵起。觀見思下正釋也。初明有門。即指見思為不思議因緣生法。生法即假。假是有門。以無空中而不假故。故云乃至第一義亦是因緣。大經下引證也。三菩提法尚是因緣故知一切無非有也。次空門中云三諦者。亦是三諦皆空故也。亦是假中皆空故也。言我及涅槃此二皆空者。我即是俗涅槃即真。二諦俱空唯有中空。中空亦空故云空病亦空。此即三諦俱空故也。次亦空亦有門者。一中一切中約雙照說名第三門。無有真實亦空也。分別不盡亦有也。次引多文以為證也。一微塵中亦空也。大千卷亦有也。第一義亦空也。善分別亦有也。大地一亦空也。種種芽亦有也。無名相亦空也。假名相亦有也。乃至佛亦空也。但有字亦有也。既約中道雙照二諦。一切無非亦空亦有。次非空非有門者。亦是一中一切中約雙非說名第四門。空有乃至非空非有餘三門中。皆云一有一切有等。唯第三門言雖稍隱意實周具。云何下明門互融。且寄四門別說其相。三諦之理一一無虧。所以者何下釋也。何以故。一門即是三門故也。初舉因緣。因緣即空。空即是假。假即法界。今論行相四悉隨便根性各別隨依一門。初依教門途轍大體。一切且以無生為首。今明教旨辨十六門俱斷見思。故料簡之出其元意。意在圓門故通列四。又教教雖四隨教曲論。一一教中初入復別。故四念處云。藏多用有通多用空。別教多用亦空亦有。圓教多用非空非有。又但以空有相對說者。藏別兩教多依有門。通圓兩教多依空門。但須分別界內界外。偏用雖爾復順大途。是故今文無生為首。文中復須具足列四。為偏簡故是故通列。如上下結成無生。若爾下開權也。先徵起。次正開。三引證。若爾。秖應引法華文以證顯實。何須復引大品淨名。答。彼部中實不殊法華。所顯實同故得為證。既引法華開諸權已。淨名大品何權不開。故開彼權還入彼實。即是法華權意本實。他人不說此十六門。將何以為能通之路。破假不同混然難曉。將何以簡諸空諸有。乃至諸教非空非有。如上所說且寄一法以之為式。若覩諸教準例可從。又此十六門藏通圓三。隨所列門即可為觀。唯別聞門稍異前後。如今所列。但是且論初心斷見思異。若論遠理直在教道。期心極果緣理生信。即以所信立為四門。眾生理具為惑所纏。初心頓聞而修漸行。至十行後方始造修。向末地初薄證少分。信後習觀初斷見思具如藏通。故云次第不殊三藏。從初至後歷十六門。自行化他或橫或竪。若得下開說即理以結門意。引證如文。上無生下總結用門本意。此言依無生門者。即前大經圓無生門竪破見思。即竪而非橫竪皆攝一切。若秖竪破未涉餘惑。若得元意本在圓融。故於此中具列諸門破見思位。先簡後會。故圓四門皆達見思即是法界並具三諦。恐人迷旨故於此中即示門意。若得意者。終日次第意非次第。故云非方便門。此即第三示文旨歸。若銷文勢不可於一一句見。一一品思頻論文旨。若修觀者。及尋文旨。不可一句迷於妙體。故四念處中問曰。若爾。應直說大何故先小。答。經具二意。若先大者如照高山純被於大。仍兼利鈍二機不同。若先小者如初鹿苑。然今先小其意有十。一為用故。亦如淨名中先為俗眾。二為破故。先弟子之砧。後淨名之椎。三為攝故。如淨名室內先說無常。四為會故。大品會宗皆摩訶衍。五為開故。如法華中決了諸法。六為學者識內外典離邪曲誤。七為知故。知佛方便不應輒破。八示末代坐禪內證。邪正空別。九為學者識於內外孟浪行說。十為學者識大小門成遍習故。今約自行似闕前三。兼於利他全須十意。為此意故應遍立門。應以此意該通上下。

大品が加等と言うのは、およそ「加」と言うのは、加えることができる者に加えるのです。須菩提の空が般若の空と相応し相似しているので、それゆえ仏は加えて、その空を説かせたのです。般若は智であるので、同じく身子にも加えたのです。だからこの二人だけに加えたのです。それゆえ「大空をもって小空に並べんと欲す」などと言うのです。般若の中でこの二つをもっとも盛んに明かすので、それゆえただこの二人だけに加えたのです。法華には「我等は諸仏の子なりと言えども、菩薩の法を説く」などと言います。大品の中で仏は須菩提に告げて「あなたは諸菩薩のために般若波羅蜜を説くべきである。諸菩薩が成就すべき通りに」と仰せられました。須菩提が説き終わったとき、諸菩薩・声聞の四衆・天龍八部はこのように念いました。「須菩提の自力によるのか、それとも仏の力によるのか」と。須菩提は大衆の心の念を知って、身子に語って言いました。「どうして仏弟子が説く法に、すべて仏力でないものがありましょうか。仏の説かれた法相に相違背はありません。二乗の人は説く力がありません」と。大論五十三に云います。「そのとき須菩提はこのように念じた。三世の諸仏は般若波羅蜜から生じる。須菩提は小人であるのに、仏はどうして『般若を説かんと欲す、まさに汝の説くが如くに』と讃めたもうたのか」と。答えます。「須菩提の説くところは皆、仏の旨を承けている。まさに諸大菩薩や大梵王等が仏の意を承けなければ、なお説くことができない。まして須菩提が仏の前にあって自在に説くことができようか。身子の説にもまた同じである」と。大論の下には善く方便を用いています。意もまた前に有門の中で説いたのと同じです。非を斥け中を盪する中で、第三門の比説は見て取れます。

第四門の中で車匿と言うのは、人を引いて濫れを簡ぶものです。仏が涅槃に入ろうとしたとき、阿難の心は憂いの海に没しました。阿泥樓豆が言いました。「如来はまもなく涅槃に入られる。もし疑いがあれば今すべて問うてよい。どうして憂愁するのか。法利を失うからである」と。阿難はこれによって仏に白して言いました。「一切経の初めにどのような字を安んじるべきでしょうか。また悪口の車匿をどのように擯治すべきでしょうか」と。仏は言いました。「一切経の初めには皆、如是我聞等の字を安んじるがよい。悪口の車匿は梵法に依って治めよ。もし心が調柔軟らかになったならば、那陀迦旃延経を説いてやるがよい。有を離れ無を離れて、はじめて道を得ることができる」と。有無を離れると言うのは、すなわち双非です。もし境を観じるならば、また仮無も前と同じと言うべきです。前の実法の有無がともに是であることを非とします。それゆえ双非、これがすなわち境です。この観を作す者はすなわち観と名づけます。

このように下には門中で利益を得る位を明かします。溝港と言うのは、古来の翻訳で方言が通じていなかったため、預流を溝港と訳したのです。水を通すものを溝と言い、水の隈を港と言います。四門の下には門異にして理同じきを明かします。初めに正しく門異にして理同じきを明かします。有・法・譬・証があります。理に依って諍いを通ずる中で、初めに正しく通じます。跋摩とは、宋の文帝の時にこの土に来て、勅して祇洹に住まわせました。臨終に遺書して自ら已に証したと説きました。伝はこの土および外国の僧衆に及びました。偈には四十六行があります。先ず三宝に帰敬し終わって、次に不浄観を説き、後に二果を得ることを説きました。末後に云います。「那彼の阿毘曇には五因縁法を説くが、実義に智を修める名の者はよく見ることができない。諸論は各々異端であるが、修行の理に二つはない」などと。求那は毘曇に依って道を得たので、成論は道を得ない者を斥けます。ただ異端を計して理に契う行がないだけです。しかし真諦寂寥などは偈文ではありません。祛とは惑いを去ることです。論主とは、訶黎跋摩が成実論を作ったことを言います。何故にと下には諍いの有無を弁じます。論文は大小に分かれて諍いを弁じますが、今は通用します。理に順えば必ず失はなく、理を失うがゆえに諍うのです。

菩薩無諍の中で、釈迦が初めに値い三祇等と言うのは、俱舎に云います。「三無数劫において各々七万を供養し、また次第に五六七千の仏を供養した」と。釈して曰く。「初僧祇の初めに七万五千仏を供養し、二僧祇に七万六千、三僧祇に七万七千」と。頌に曰く。「三無数劫満ちて、逆次に勝観・然燈・宝髻仏に逢う。初めは釈迦牟尼」と。釈して曰く。「第一僧祇の初めに釈迦牟尼に値い、第一僧祇の満ちるに宝髻仏に値い、第二の満ちるに然燈仏に値い、第三の満ちるに勝観仏に値う」と。大論では第二僧祇を罽那尸棄と名づけ、第三を毘婆尸と名づけますが、彼此音が異なるだけです。六度は具に第三巻に引く通りです。論因則ち釈迦等を指すとは、かの婆沙の中で菩薩の義を釈するに、因を明かすには則ち釈迦の三祇百劫を指し、果を明かすには則ち弥勒の当成を指すということです。何故そうなのか。釈迦は果已に成っているので、それゆえ因行を指します。果を慕って因を行うようにさせるためです。弥勒は因已に満ちているので、それゆえ当果を指します。皆、因を観て果を知らせるためです。それゆえ諸聖教は並びに釈迦の因を明かします。「菩薩は昔苦行せり」などと説くが如きです。並びに弥勒の果を明かします。「弥勒下生経」などを説くが如きです。

龍樹の難云等とは、大論二十七に問うています。「諸法の実相を観じ及び慈悲を修して三毒を薄くせよ。薄いがゆえに清浄の功徳を集めることができる。離欲の人は下地の結を断じてもなお上惑がある。それゆえ薄と名づける。また初果は見尽きて思存す。尚未だ薄と名づけない。仏の説くが如く、淫怒癡を断じた者を斯陀含と名づける。それゆえ薄と名づける。このような等の義で薄はすなわち断である。汝は何故未だ断じないのに薄と名づけるのか」と。論に云います。「もし無生忍を得た時には正煩悩を断じ、仏果を得た時には余残の習を断じる。これが真実説である」と。これはなお通を存して蔵を破っています。また大論第五には広く六度の菩薩を斥けて云います。「これ迦旃延子の輩は衍経を読まず、大菩薩にあらず。実相を知らず、自ら利根をもって仏法中に諸論議を作し、結使智根等の楗度を作る。なお処々に失あり、まして菩薩論をや」と。それゆえこの初文に「釈論に迦旃延子を引き菩薩の義を明かす」と云います。まさに知るべし、大論は破るために引いたのだと。それゆえ論は斥けて云います。「小人さえなお小渠を跳ぶことができない。まして大河を度るに岂に没失しないことがあろうか」と。云何が没失か。云うに「昔の菩薩は大薩他婆となり、大海水を度るに悪風が船を吹いた。賈人に語って言うに『汝、我が髪を捉えよ。我まさに汝を度さん』と。諸人捉え已って刀をもって自殺した。大海水の法は死屍を宿さない。即時に疾風が吹いて岸辺に至った。大慈この如し。しかるに菩薩にあらずと言うか」と。然燈の記を受け、身虚空に升り十方の仏を見、空に於いて立ちて讃めて云います。「然燈の記に言く、汝来世に於いて仏と作り号を釈迦牟尼とせん」と。記を得ることこの如し。どうして未だ菩薩にあらずと言えようか。三僧祇には未だ相好なく、また種相の因縁もない。然燈仏を見、身虚空に升り十方の仏を見る。岂に大相でなかろうか。仏に記せられてまさに作仏すべきことを得る。また大相である。この大相を捨てて三十二相を取る。三十二相は輪王・魔羅もまた作ることができる。調達もまた三十相あり、余人は各々少あり、多くは青目長臂等の如し。汝は何故重相とするのか。何経に三祇の菩薩は相好の因を種えずと説くか。難陀が毘婆尸仏を浴し、青黛をもって支仏の塔に塗り支仏の像を作り、端正金色の身を得ることを願い、世世楽を受け処々に受生し、恒に端正を得たが如し。これ福の余りで迦毘羅の釈種の中に生まれ、三十相を得て出家して無学を得た。仏は五百比丘の中で難陀第一と説く。この相は得やすい。どうして九十一劫の中で種え、余りの一生の中で得ることができようか。これが大きな失である」と。

また初僧祇に作仏と作らざるを知らず等とは、蔵でも衍でもどこにこの語を説くか。迦旃延子は言います。「仏の口は三蔵の中には説かないが、義理はまさにそうあるべきである。毘曇婆沙にこのように説くだけである」と。首楞厳に説く四授記の中に、未発心に与える記があり、適発心に与える記があり、他人は尽く知れども自は知らず、他自ともに尽く知るものがある。どうして二僧祇に作仏を知らないことがあろうか。また云います。「相好を種えるのはただ欲界にのみある。色界には何故種えることができないのか。諸梵王は常に仏に請うて法輪を転ぜしめる。どうして上界には得られないと言えようか。また身命を惜しまないを檀と名づけるが、三空を知らないゆえに浄と名づけない。乃至般若もまた三事皆空を知るべきである」と。

分地息諍と言うのは、二乗及び菩薩でさえなお分けることができない。分地を七分とするのは算数の法である。これは世俗般若の中の少しばかりである。また云います。「まさに人中で相の因を種えるべきである。婆伽度龍の十住菩薩、阿那婆跋達多龍王の七住菩薩の如し。羅睺阿修羅王もまた大菩薩である。何故余道には相を種えないと言うのか」と。一思一相と言うのは、この心は弾指の頃に六十の生滅がある。一心は住まらず分別できない。どうして大相を種えることができようか。不了の心中に種えるべきではない。多心の和合によって乃ち種えることができる。ちょうど重物は多くの人なら担ぐことができるが、一人では担ぐことができないようなものである。もし釈迦の弟子は機熟したと言うならば、蔵衍等の経にもまたこの説はない。汝の心から出たものである。このように種々に三蔵の相好を破る。

もしそうなら、衍の相はどうか。答えます。「大論二十九に云う。云何が衍の中の相好と名づけるか。十方三世の諸仏は皆悉く無相である。何故相を説くか。一相さえ尚無い。何故三十二相を説くか。答う。仏法に二種ある。世諦と第一義諦である。世諦には相があり、第一義諦には相がない。また福道と慧道、また生法の二身、また相好は身を厳い無畏不共は衆生を厳う。また二種の衆生のために二身を現す。名字に著する者のためには相好を説き、法の仮名を知る者のためには三十二相を説かない」と。問う。「力無畏にもまた相好がある。どうして法身は無相と説くか」と。答えます。「一切諸法は悉く皆無相である。色身を現すのは、色を見て喜びを生じ道心を発す者のためである。相を説いて咎めはない」と。前に多くの解釈があるが、一一皆三教の意に開いて、もって三蔵を斥け、はじめて経旨に称うのです。

問う。「何故多くも少なくもなく、ただ三十二相を説くか」と。答えます。「丈六の身は辺に少なければ荘厳周からず、多ければ雑乱である」と。問う。「何を好と名づけるか」と。答えます。「相は大いに身を荘厳し、好は小さく身を荘厳する。もし大を説けばすなわち已に小を説いたことになる。また相は麁、好は細である。衆生は仏を見ればすなわち仏の相を見るが、好は見がたい」と。問う。「仏は衆生の吾我を断じたもう。何故相好で自らその身を荘厳するか」と。答えます。「既に妙法でその心を荘厳している。身に相好がなければ、あるいは度される者が憍慢の心を生じ、仏の身相は具わらないと言って一心に道を受けることができないであろう。器が不浄で美食を盛れば人が喜ばないようなものである。臭皮囊に好宝を盛れば取る者が楽しまないようなものである。それゆえ相好で自らその身を荘厳する。また心を荘厳すれば涅槃の道を開き、相好を荘厳すれば人天の路を開く。また心を荘厳すれば三界の心が息み、身を荘厳すれば三悪の心が息む」と。

しかしこの中には三祇百劫を明かしていますが、俱舎とは少し異なります。俱舎では道樹の前で四波羅蜜が満ち、仏果の位に至って二波羅蜜が満ちるとします。それゆえ頌に云います。「ただ悲によりて普く施し、身を析たれども忿なく、底迦仏を讃歎し、次に無上菩提。六波羅蜜多はこのような四位において、一二また一二、次第に修めて円満す」と。初めの一は布施、次の二は戒と忍、次の一は精進、次の二は禅と智、次第に四句に対す。底迦を讃歎したによってその九劫を超えた。それゆえ毘婆尸仏から九十一劫に禅智の二波羅蜜が満ちる。もし大論に準ずれば三阿僧祇に六波羅蜜が満ちる。相違しないか。また相違はない。大論の三僧祇はただ事禅・事智が満ちるだけである。もし樹王の下に至れば、またこれ縁理の禅智がはじめて満ちるのである。俱舎に云います。「因の時已に八地の惑を断じた」と。既に未だ有頂を断じないのでただ有漏を用いた。それゆえ大論では前の有漏の名を没して樹王の下に至り、はじめて三十四心をもって三界の見修の惑を断ずると云います。それゆえその時にはじめて無漏を得ることを知ります。今の文はかつ大論の斥けるところによって三蔵菩薩の義を立てるので、かつこれを存して伏道と名づけるのです。

半字とは、唯小を引証します。第五に云います。「譬如長者に唯だ一子あり、心に常に愛念し、将って明師に詣る。速やかに成らざるを懼れて、尋いで便ち将ち還る。愛念のゆえに昼夜に懃めに、その半字を教えて毘伽羅論を教誨せず。力未だ堪えないゆえに」と。合喻に云います。「半字と言うのは九部経を謂い、毘伽羅論は方等の典を謂う」と。釈して云います。「この論は字の本である。河西に云う。世間文字の根本である。典籍音声の論は四辨に宣通し、世法を訶責し出家法を讃め、言辞清雅にして義理深遠である。外論といえども邪法はない。まさにこれ善権大士のなすところであろう」と。それゆえこの論をもって方等経に喩えるのです。法華に二十年等と称するのは、人に約すればすなわち権に二乗に同じ、理に約すればすなわち真俗の二諦、惑に約すればすなわち見思ともに破る。問う。「二義はそうであるが二十年はどうか」と。答えます。「二乗には各々十智がある。また見を断ずるに一無礙一解脱、思を断ずるに九無礙九解脱である」と。貧所楽法などとは、耕夫に帝王の念がなく、織婦に皇后の窺いが絶えるようなものである。二乗もまた同じである。法華已前には聞きも説きもしたが、自ら鄙しんで分を絶ち希取の心がなかったのです。

次に通教の四門。初めは有門です。「而有幻化」とはすなわち有門の正体です。「如是」の下は惑を破り結成します。「若言仮実」の下は空門の正体です。「如此」の下は惑を破り結成します。「若明一切法」の下は空有門の体です。「如是」の下は惑を破り結成します。「既言」の下は非空非有門の体です。「如此」の下は惑を破り結成します。初めの有門の中に「諸法は不生にして般若は生ず」と云うのは、大論六十二に先ず経を引いて云います。「身子が仏に白して言う。云何が般若波羅蜜を生ずるか。仏言く。色は不生にして般若波羅蜜は生ず。乃至一切種智は不生にして般若波羅蜜は生ず。身子問う。云何が色は不生等か。仏言く。色は不起・不生・不得・不失、乃至種智もまた同じ。これが般若の生である」と。生はすなわち有であるゆえ有門を証します。三教を具すといえども今の意は通にあります。空門の中に「乃至涅槃もまた幻化の如し」と云うのは、大論五十三に経を引いて云います。「諸天子が念じた。誰が須菩提の説を聞くべきか。須菩提は諸天子の念を知って、諸天子に語って云う。幻の如く化の如く、このように法を聞く。乃至涅槃もまた幻化の如し」と。論の釈に云います。「仏は一切衆生の中で第一であり、涅槃は一切法の中で第一である。二法の名字は因縁から生ずるゆえ、仮令涅槃に勝る法があれば幻の如くならしめることができる。まして涅槃をや。涅槃に勝る法は無いゆえ仮設してこれを言う」と。三蔵を斥けることは文の通りです。体にして論ずれば破すると云うのは、これは通の伏難を破ります。難じて云います。「通人は既に諸法を幻の如しと観ずる。幻は本不生にして今滅するところがない。これを体と名づける。体はすなわち破ではない。今何故体は見思を破して破法遍と名づけると云うか」と。答えます。「これはすなわち体について破を論ずるのである。破せずして破するゆえ体破と云う」と。次に引証中に「火焔」等と云うのは、並びに四門の取るべからざるを証します。乃至第一義を釈する中に「一切実」等の四句、「四門入池」等、並びにこの意です。それゆえ般若を讃める偈に云います。「般若波羅蜜は譬えば大火聚の如し。四辺取るべからず。無取もまた取らず。一切の取悉く捨つ。これを不可取と名づく。不可取にして取る。これすなわち取と名づく」と。釈して曰く。「初めの句は実相般若を明かす。すなわち通ずるところである。次の句は通ずるところを譬える。第三句は能通の不可取を譬える。第四句は門と観と俱に亡ずる。第五句は能所俱に亡ずる。第六句は総結。第七八句は無取のゆえに得と名づけることを明かす。八義はまた三に兼ね、かつ釈して通を成ず」と。「若不」の下は門体の諍いを離れることを明かします。「問答」の下は三蔵と異なるを弁じます。擋字は朋擋を謂います。有門は有を擋って空を撥し、空門は空を擋って有を撥します。「亦名如実巧度」等とは、大論第七に巧拙の二医の譬を作って云います。「針薬を用いるを拙度と名づけ、呪術を用いるを巧度と名づけるが如し。また二渡の如し。もし草筏を用いるを拙渡と名づけ、方舟を用いるを巧と名づける。双舟を方と曰う。声聞の化人は苦行頭陀し、初中後夜に勤心禅観し、苦にして行道するを拙度と名づける。菩薩の化人は諸法の実を観じ、縛なく解なく心得清浄なるを巧度と名づける。巧は喜根の如く、拙は勝意の如し」と。巧拙相形することこの如しといえども、心を揣り行を量って濫非を令すことなかれ。これは小宗の事相頭陀が根本禅・無常等の観に専らにして、苦しく身口を励まし、諸法の畢竟清浄なるを知らないことを斥けます。これは衍教をもって拙度を斥けるのである。行道の人は善く自ら斟酌すべきである。

三獣渡河とは大経の譬です。三人は獣の如く、真は水の底の如し。象は底を得といえどもなお二別を分かつ。小象は泥を得、通の菩薩に同じ。大象は実を得、すなわち不空を見る。不空を見る者にまた二種ある。但と不但である。今の文はかつ泥を得た菩薩を用いて二乗と共にします。次に別の四門の中に初めに略して異を弁じ、大経の下に辨行相します。経に云います。「大涅槃を聞きて無上道あり」等と。具には釈籤が聖行を明かす中に如し。今「事相次第は三蔵に殊ならず」と云うのは、かつ戒定及び生滅の慧の如し。この三聖行は全く三蔵の如し。もし無生等の三慧の聖行ならば、すなわち三蔵と異なる。今は初めから説くゆえ殊ならずと云う。また教道に約せば初めに円を知らない。余は釈籤の次第五行の如し。初めの門の中に「解脱者とはすなわちこれ不空」等と云うのは、これ大経第五の百句解脱の中の文です。かの百解脱を総じて言えば四門を出でず。しかも多くは非有非無を明かす。まさに知るべし、百句はこれ能通の門、三徳涅槃はこれ所通の理である。かの百句の義は円別を兼ねるゆえ、今別門にこれを引くのです。如来蔵の十喩は二文同じからず。諸文に引用するに、あるいは仏蔵と云うのは語の便に随うだけである。文は方等如来蔵経の中にあります。かの経は一卷、仏が金剛蔵菩薩のために説きます。文に十ありといえども義はただ九のようである。初二の文は同一の義のゆえである。初めの文に云います。「我れ仏眼をもって一切衆生を観るに、諸煩悩の中に仏智の眼あり、如来の身あり、結跏趺坐して儼然として動かず。善男子、譬えば天眼をもって未だ敷かざる華の中に如来あるを観るが如し。華を除き已れば便ち顕現を得る。仏も衆生を見ることまた同じ」と。已下の九譬は総じて九番の長行偈頌があり各々四五行。今は略して要に従い各々一行を取りて喩相を知らしめる。初めに云います。「譬えば萎変の華の如し。その華未だ開敷せざるに、天眼の者は如来の身を観て無染なり」と。二に云います。「譬えば巖樹の蜜の如し。無量の蜂圍遶せり。善方便の取者は先ず彼の群蜂を除く」と。三に云います。「譬えば一切の粳糧の如し。皮糩未だ除蕩せざれば、貧者はなおこれを賤しみて、棄つべき物と謂う」と。四に云います。「金の不浄の中に在って隠没して見る能わざるが如し。天眼の者乃ち見て、即ちもって眾人に告ぐ」と。五に云います。「譬えば貧人の家の内に珍宝の蔵あるが如し。主既に知見せず、宝また言うこと能わず」と。六に云います。「譬えば菴羅果の如し。内実毀壊せず。これを大地に種えれば必ず大樹王と成る」と。七に云います。「譬えば金像を持ちて他方に詣るが如し。弊穢の物をもって裹み、これを曠野に棄つ」と。八に云います。「譬えば貧女人の色貌甚だ醜陋なるが如し。しかも貴相の子を懐み、まさに転輪王と為るべし」と。九に云います。「譬えば大冶に無量の真金像を鋳るが如し。愚者は外より観てただ焦黒の土を見るのみ」と。文の中に各々仏性をもって喩に合わす。もし尼楗経に云う。「欝闍廷という城あり。厳熾という王あり。大薩遮ありてその国に入る。王出でて遠く迎う。その王を見已って一樹の下に坐す。王見て致敬す。よって王のために治国の法を説き、乃至王のために仏身相及び種性等を説き、乃至王に如来の身を観ぜしめて云う。大王まさに知るべし、煩悩身に依って如来身を観じ、陰界入に依って如来身を観ぜよ。何故か。この身はすなわち如来蔵のゆえである。一切煩悩諸垢蔵の中に仏性満足せり。石の中の金、木の中の火、地の中の水、乳の中の酪、麻の中の油、子の中の禾、蔵の中の金、模の中の像、孕の中の胎、雲の中の日の如し。それゆえ我れ言う、煩悩の中に如来蔵あり」と。尼楗経の中にもまた如来蔵の名があり、十喩もまた今の文と大同である。しかし既に弊帛薩遮を引く中にはない。それゆえまさに方等経を引いたのであることを知るべきである。

涅槃非有等とは、涅槃はこれ能名所名に非ず。それゆえ非有と云う。俗に因って施設して涅槃有と名づける。既に色声に非ず。どうして妙なる有色を見、涅槃の名を聞くと言えようか。水酒酪瓶等の如しとはまた百句の文である。かの文に云います。「また解脱者を不空と名づく。水酒酪酥蜜等の瓶の如し。水等無き時もなお故もって水等の瓶と名づけることを得る。このような等の瓶は空及び不空と言うべからず。もし空と言えばすなわち色香味触を得ざる。もし不空と言えば実に水酒酪等無し」と。非有非無門の中に「絶四」等と言うのは、意は中を指して所証の理と為す。理に四無きゆえ、なお四句無し、まして百非有らんや。この第四門は四句に摂せらるといえども、今は理に約して説くゆえ絶四と云う。乃至有門もまた同じ。それゆえ大経を引いて「非常非断、これを中道と名づく」と云い、もって理を証し、またこれ双非であるとします。「如此」の下は得失を判じます。もし意を得れば初地に入ることを得て見実と名づける。もし意を得なければただ地前の方便位と成るのみである。もし前に三蔵の四門を明かすに準ずれば、一一の門の後に各々得失を明かす。煩文を離れるためにここに総じて明かすのです。

次に円の四門の中に初めに同異を弁じます。「云何」の下は総じて徴起し、「観見思」の下は正しく釈します。初めに有門を明かす。すなわち見思を指して不思議の因縁生法と為す。生法はすなわち仮である。仮はこれ有門である。空の中に無くして仮ならざるはないゆえ、ゆえに「乃至第一義もまたこれ因縁」と云う。大経の下は引証です。三菩提の法さえ尚因縁である。ゆえに一切有に非ざるはないことを知る。次に空門の中に「三諦」と云うのは、また三諦皆空のゆえである。また仮中皆空のゆえである。「我及び涅槃この二皆空」と言うのは、我はすなわち俗、涅槃はすなわち真、二諦俱に空、ただ中空あり。中空もまた空なるゆえ「空病もまた空」と云う。これすなわち三諦俱空のゆえである。次に「亦空亦有門」とは、一中一切中、双照に約して説き第三門と名づく。無有真実も亦空なり、分別不尽も亦有なり。次に多く文を引いてもって証と為す。一微塵の中も亦空なり、大千卷も亦有なり、第一義も亦空なり、善分別も亦有なり、大地一も亦空なり、種種芽も亦有なり、無名相も亦空なり、仮名相も亦有なり、乃至仏も亦空なり、但有字も亦有なり。既に中道に約して二諦を双照すれば、一切亦空亦有に非ざるはない。次に「非空非有門」とは、また一中一切中、双非に約して説き第四門と名づく。空有乃至非空非有、余の三門の中に皆「一有一切有」等と云う。ただ第三門は言やや隠れているといえども意は実に周具である。「云何」の下は門の互融を明かす。かつ四門に寄せて別にその相を説く。三諦の理は一一虧くることなし。「所以者何」の下は釈です。何故か。一門すなわち三門のゆえである。初めに因縁を挙ぐ。因縁はすなわち空、空はすなわち假、假はすなわち法界である。今行相を論ずるに四悉は便に随い、根性は各々別にして一門に随って依る。初めに教門の途轍の大体に依り、一切かつ無生を首と為す。今教旨を明かし十六門俱に見思を断ずることを弁ず。それゆえ料簡してその元意を出す。意は円門にあり、ゆえに通じて四を列ぬ。また教教四ありといえども教に随って曲論す。一一の教の中に初入また別なり。それゆえ四念処に云います。「蔵は多く有を用い、通は多く空を用い、別教は多く亦空亦有を用い、円教は多く非空非有を用いる」と。またただ空有を以て相対して説けば、蔵別の両教は多く有門に依り、通円の両教は多く空門に依る。ただまさに界内界外を分別すべし。偏用この如しといえどもまた大途に順ず。それゆえ今の文は無生を首と為す。文の中にまたまさに具足して四を列ぬべし。偏簡のためゆえ通じて列ぬ。「如上下」は結成して無生と為す。「若爾」の下は開権である。先ず徴起し、次に正しく開き、三に引証す。もしそうなら、ただまさに法華の文を引いてもって顕実を証すべきである。何ぞ必ずしもまた大品・浄名を引く必要があろうか。答えます。「かの部の中の実は法華に殊ならず。所顕の実同じゆえもって証と為すことを得る。既に法華を引いて諸権を開き已れば、浄名・大品の何の権か開かれざらん。それゆえかの権を開きて還ってかの実に入る。すなわちこれ法華の権意本実である」と。他人はこの十六門を説かない。何をもってか能通の路と為さん。破仮不同にして混然として暁りがたし。何をもってか諸空諸有を簡ばん。乃至諸教の非空非有も。上の所説の如し。かつ一法に寄せてこれをもって式と為す。もし諸教を覩れば例に準じて従うべし。またこの十六門は蔵通円の三、列する所の門に随ってすなわちもって観と為すことを得る。ただ別の聞門はやや前後に異なる。今列する所の如し。ただしかつ初心が見思を断ずるの異を論ず。もし遠理を論ずれば直ちに教道に在り。心を極果に期し理に縁って信を生ず。すなわち所信をもって立って四門と為す。衆生は理具なれども惑に纏わる。初心に頓聞して漸行を修す。十行の後にはじめて造修し、向の末地の初めに薄く少分を証す。信後の習観は初めに見思を断ず、具には蔵通の如し。それゆえ次第は三蔵に殊ならずと云う。初めより後まで十六門を歴、自行化他または横または竪。もし得れば下は開説すなわち理をもって門意を結ぶ。引証は文の如し。上の無生下は総結して門を用いる本意なり。この言は無生門に依るとは、すなわち前の大経の円の無生門の竪に破する見思なり。すなわち竪にして横に非ず、竪は皆一切を摂す。もしただ竪に破すれば未だ余惑に渉らず。もし元意を得れば本は円融に在り。それゆえこの中に具して諸門の見思を破する位を列ぬ。先ず簡び後に会す。それゆえ円の四門は皆見思に達してすなわちこれ法界、並びに三諦を具す。人が旨に迷わんことを恐れて、それゆえこの中にすなわち門意を示す。もし意を得れば、終日次第にして意は次第に非ず。それゆえ「方便門に非ず」と云う。これすなわち第三に文旨の帰するところを示す。もし文勢を銷さんとすれば、一一の句において見るべからず。一一の品に思いて頻りに文旨を論ず。もし観を修する者、及び文旨を尋ぬる者、一句に迷いて妙体を迷わすべからず。それゆえ四念処の中に問うて曰く。「もしそうなら、まさに直ちに大を説くべきである。何故先ず小を説くか」と。答えます。「経に二意を具す。もし先ず大ならば、高山を照らすが如く純ら大に被わる。なお利鈍の二機不同を兼ぬ。もし先ず小ならば、初めの鹿苑の如し。しかし今先ず小を説く、その意に十あり。一には用のため、また浄名の中に先ず俗衆のためとするが如し。二には破のため、先ず弟子の砧、後に浄名の椎の如し。三には摂のため、浄名の室内に先ず無常を説くが如し。四には会のため、大品は宗を会して皆摩訶衍なり。五には開のため、法華の中に諸法を決了するが如し。六には学者に内外の典を識り邪曲の誤を離れしめんため。七には知のため、仏の方便を知りて輒く破すべからず。八には末代の坐禅内証、邪正空別を示さんため。九には学者に内外の孟浪の行説を識らしめんため。十には学者に大小の門成遍習を識らしめんため。今自行に約すれば前三を闕くに似たり。利他を兼ぬれば全く十意を須いる。この意のためゆえまさに遍く門を立つべし。この意をもって上下に該通すべきである」と。

○次明入假破遍。初文意者大悲利物。是故二乘但住於空。不能從空出假利物。簡小正明出假意如文。善巧下示假觀相。空中種樹者譬出假相。既以大悲為利眾生。應於生死善巧方便。如空中種樹知病識藥。大論二十八引網明菩薩經云。舍利弗白佛。是菩薩所說有能解者。得大功德。何以故。是菩薩乃至得聞其名得大利益。何況聞其所說法耶。世尊。如人種樹不依於地而欲令其華果枝葉成果實者。是難可得。諸法行相亦復如是。不著一切而得菩提。今亦如是。菩薩證空而不住空。能於空中分別藥病。雖知不實而常運懷。筈筈相拄者大論云。菩薩雖行諸法未具佛法故不取證不取證者謂不住空。如佛所說。譬如仰射虛空箭箭相拄不令墮地。菩薩摩訶薩以般若箭射三空門。後以方便箭射般若箭。不令墮於涅槃之地。大悲心厚為利眾生。此即入假之本意也。若住下結意。

次に入仮・破遍を明かします。初めの文の意は、大悲が衆生を利することです。それゆえ二乗はただ空に住んでいて、空から出て仮を現し衆生を利することができません。小乗を簡び除いて、正しく仮から出る意を明かすことは、文の通りです。「善巧」の下は仮観の相を示します。「空中に樹を種う」とは、仮から出る相を譬えたものです。すでに大悲をもって衆生を利する以上、生死において善巧方便であるべきです。ちょうど空中に樹を種えるように、病を知り薬を識るのです。

『大論』二十八に『網明菩薩経』を引いてこう説いています。舎利弗が仏に申し上げました。「この菩薩の説かれたことを理解できる者は、大きな功徳を得ます。なぜなら、この菩薩の名を聞くだけでも大きな利益を得るのですから、ましてその説く法を聞くとなればなおさらです。世尊よ、たとえば人が樹を種えるのに地に依らずして、その花や果実、枝や葉を成果実たらせようとするなら、それは得がたいことです。諸法の行相もまた同じです。すべてに執着せずして菩提を得るのです」と。今もまた同じです。菩薩は空を証しても空に住まず、よく空中において薬と病を分別します。実でないと知りながらも、常に思いを運び続けるのです。

「筈筈相拄」とは、『大論』にこうあります。菩薩は諸法を行じても、まだ仏法を具さないゆえに証を取らず、証を取らないとは空に住まないということです。仏の説かれた通りです。たとえば仰いで虚空を射るのに、矢々が互いに支え合って地に堕ちないようなものです。菩薩摩訶薩は般若の矢をもって三空門を射り、後に方便の矢をもって般若の矢を射て、涅槃の地に堕ちないようにします。大悲の心が厚く、衆生を利するためです。これがすなわち仮に入る根本の意です。「若住」の下は意を結びます。

○次入假緣中初云同體哀傷者。且約出假。見眾生苦同於己苦。名為同體。非謂無緣同實體也。憶本誓者。本擬利生策發令憶。故引二乘以勵先志。利智者。應知住空有棄他過不習法過。善巧者。既出假已不為假污。令假智牢彊。精進者。誓填本願無使一念生畏憚想。次引淨名三慰喻者。此是大師判釋淨名問疾品中為三慰喻。所言三者。亦名三觀亦名三教。言入空者彼經云說身有苦等。此約通教。亦以三藏助成於通。於兩教中但在菩薩。二乘無悲將何慰喻。於彼文中初約果次約因。初約果中謂苦下四行。說身無常不同凡夫計之為常。不說厭離不同二乘自謂滿足於身生厭。說身有苦不說樂於涅槃。說身無我而說教導眾生。說身空寂不說畢竟寂滅。並如初釋。次約因者即約集諦。說悔先罪者。菩薩為他理須悔罪。二乘抵債不同凡夫順罪不悔不同有部計於罪性從現入過。故云不說入於過去。令諸眾生觀此因果。並是三假俱順入空。下入中文云。今我病者非真非有。眾生病亦非真非有。入假文在空中中間。故云中間即是入假慰喻。亦名別教慰喻。彼入假文五意具足。故引別教證次第假。彼文三觀並約利他。是故三觀皆云慰喻。今入空即屬自行。雖不引彼意亦大同。言入假五意者。經云。以己之疾憫於彼疾。證今文中同體大悲等者。自悲悲他。我昔有惑生死輪迴。是故起悲利彼含識。同體義者具如前釋。若以文旨釋同體者。見諸眾生體性同己。與十方佛體性無殊。我既知已眾生不知。非誓而誓觀己利彼下之四意準此應知。問。以己之疾憫於彼疾。自既有疾何能利他。既先入空復不應有。如其無者以己憫彼。義云何通。答有二意。一四住已斷猶有無明故生念云。我無明尚爾。況眾生見思。四輕憫重是故出假。二者無明輕四住重。何得以輕而憫於重。但以昔苦憫彼今苦。故第二意引經云。當識宿世無數劫苦。第二意者。如布衣登極知人苦樂。憶昔四弘以饒益彼。故第二意正當今義。次引經云當念饒益諸眾生者。入空則棄他。人假則念彼。次引經云憶所修福念淨命者。此語明具福慧二嚴。福是福嚴。淨命是慧。言淨命者。無四邪五邪。乃至不見中理。皆名邪命。故以慧嚴判屬淨命。當念於慧憶福利生。次引經云勿生憂惱等者。勸起勇健心也。應如經云。菩薩於生死而有勇。若有憂惱或墮二地。故勸勿憂常起精進。若無精進則生退沒。從空下料簡也。有法譬合。初法中云利根鈍根住空出假等。四句不同。譬與法文前後互列。法中利鈍兩根。入空在前入假在後。譬中入假在前入空在後。又法說中入空入假。並利前鈍後。譬中入空利前鈍後。入假鈍前利後。隨文語便應無別意。又法說中乃以利根對於住空。而料簡五事者。利根即是利智。住空即無四事。故將利根以對四事而為料簡。有闕四事。未必鈍根。具四事者未必利根。次譬中身力譬利智。膽勇譬精進。餘之三事並須有進。故且舉進以攝餘三。亦可膽勇總譬四事。以對身力五譬具足。何能有功者。秖是鈍根聲聞五事都無。何能有利他之功。今住空下合五緣也。還牒向譬來此帖合。初文總云住空出假各兩種者。具如法譬即以利智對四事說。次具五緣者。釋第二句五事具足。若對前五少不次第。有親如天性即同體也。有約謂要約即本誓也。有策謂奇謀即善巧也。有力謂勇健即利智也。有膽謂勇捍即精進也。

次に入假の縁の中に、初めに「同体哀傷」というのは、まず出仮に約して述べています。衆生の苦しみを見て、それが自分の苦しみと同じであるのを「同体」と名づけます。無縁であり実体に同じである、という意味ではありません。「本誓を憶う」というのは、もともと利生を擬して、策発して憶い起こさせるので、二乗を引いて、先の志を励ますのです。「利智」とは、空に住して他を棄てる過ち、法を習わない過ちを知るべきであるということです。「善巧」とは、すでに仮を出た後は、仮に汚されず、仮の智を牢彊にするということです。「精進」とは、本願を誓って満たし、一念たりとも畏憚の想いを生じさせないということです。次に『浄名経』の三慰喩を引くのは、これは大師が『浄名経』問疾品を判釈して、三つの慰喩としたものです。三と言うのは、また三観とも名づけ、また三教とも名づけます。「入空」というのは、あの経に「身には苦ありと説く」などとあるのがそれです。これは通教に約したもので、また三蔵をもって通を助けて成じます。二つの教の中ではただ菩薩のみです。二乗には悲がないのに、何をもって慰喩としましょうか。あの文の中では、初めに果に約し、次に因に約します。初めに果に約す中では、苦の下の四行を謂います。身は無常であると説き、凡夫がこれを常と計るのとは異なります。厭離を説かないのは、二乗が自ら身に満足して厭いを生じるのとは異なります。身には苦ありと説き、涅槃を楽しまないと説きます。身は無我であると説き、しかも衆生を教導すると説きます。身は空寂であると説き、しかも畢竟寂滅とは説きません。いずれも初めの釈の通りです。次に因に約すとは、すなわち集諦に約すことです。「先の罪を悔いよ」と説くのは、菩薩は他のために道理として須く罪を悔いるべきだからです。二乗は債を抵当にするのとは異なり、凡夫が罪に順って悔いないのとは異なり、有部が罪性を現から過に入ると計るのとは異なります。それゆえ「過去に入るとは説かない」と言います。もろもろの衆生にこの因果を観させます。いずれもこれらは三仮であり、ともに空に入るのに順っています。下の入中・入仮の文に「今我が病は真に非ず有に非ず。衆生の病もまた真に非ず有に非ず」とあります。入仮の文は空の中の間にあり、ゆえに「中間すなわちこれ入仮の慰喩」と言います。また別教の慰喩とも名づけます。あの入仮の文には五つの意が具足しています。ゆえに別教を引いて次第の仮を証します。あの文の三観はともに利他に約しています。それゆえ三観ともみな慰喩と言います。今の入空はすなわち自行に属します。あの経を引かなくても、意はまたほぼ同じです。入仮の五つの意と言うのは、経に「己の疾をもって彼の疾を憫れ」とあります。今の文の中の同体大悲などを証するのは、自悲と悲他です。私は昔、惑があって生死に輪廻しました。それゆえ悲を起こして、彼の含識を利します。「同体」の義は、すでに前の釈の通りです。もし文の趣旨をもって同体を釈するならば、もろもろの衆生の体性が自分と同じであるのを見て、十方の仏と体性に異なりがないと見ます。私がすでに知ったのに、衆生は知りません。誓いによらずして誓いを立て、己を観じて彼を利する、下の四つの意もこれに準じて知るべきです。問う。己の疾をもって彼の疾を憫れというのは、自分にすでに疾があれば、どうして他を利することができましょうか。すでに先に空に入ったなら、また有るべきではないはずです。もしそれが無いなら、己をもって彼を憫れという義はどうして通じましょうか。答えて二つの意があります。第一に、四住はすでに断じたけれども、なお無明があるので、念を生じて言います。「私の無明はなおこのようである。まして衆生の見思はなおさらだ」と。四は軽く、重を憫れむ。それゆえ仮を出ます。第二に、無明は軽く四住は重い。どうして軽をもって重を憫れむことができましょうか。ただ昔の苦をもって彼の今の苦を憫れむのです。それゆえ第二の意に経を引いて「宿世の無数の劫の苦を識るべし」と言います。第二の意は、布衣が天子の位に登り、人の苦楽を知るようなものです。昔の四弘を思い、もって彼を饒益します。それゆえ第二の意はまさに今の義に当たります。次に経を引いて「まさに諸の衆生を饒益すべきを念うべし」と言うのは、入空ならば他を棄て、入仮ならば彼を念います。次に経を引いて「所修の福を憶い、浄命を念え」と言うのは、この語は福慧の二厳を具することを明かします。福は福厳であり、浄命は慧です。浄命というのは、四邪も五邪もなく、中理を見ないに至るまで、みな邪命と名づけます。ゆえに慧厳をもって判じて浄命に属します。まさに慧を念じ、福を憶いて利生すべきです。次に経を引いて「憂悩を生ずることなかれ」などと言うのは、勇健の心を起こすよう勧めるものです。まさに経に「菩薩は生死において勇あり」とある通りであるべきです。もし憂悩があれば、あるいは二地に堕ちるでしょう。ゆえに憂うることなかれと勧め、常に精進を起こします。もし精進がなければ、退没が生じます。空より下は料簡です。法・譬・合があります。初めの法の中で「利根・鈍根、空に住し仮を出ず」などと言うのは、四句が同じではないということです。譬と法の文では前後が互いに列なります。法の中では利鈍の二根、入空が前で入仮が後です。譬の中では入仮が前で入空が後です。また法説の中では入空・入仮、ともに利が前で鈍が後です。譬の中では入空は利が前で鈍が後です。入仮は鈍が前で利が後です。文に随って語便に従うので、別の意はないはずです。また法説の中では、利根をもって空に住することに対しているのに、五つの事を料簡するのは、利根はすなわち利智であり、空に住することにはすなわち四つの事がないからです。ゆえに利根を四つの事に対して料簡とします。四つの事を欠くものは、必ずしも鈍根ではありません。四つの事を具するものは、必ずしも利根ではありません。次に譬の中では、身力は利智に譬え、胆勇は精進に譬えます。残りの三つの事も、ともに進がなければなりません。ゆえにしばらく進を挙げて残りの三を摂めます。また胆勇をもって総じて四つの事に譬えることもできます。身力に対して五つの譬が具足するのです。どうして功があることができましょうか。これはただ鈍根の声聞で、五つの事がすべて無いのです。どうして利他を利する功があることができましょうか。今、空に住する下は五縁を合わせます。先の譬をそのまま承けて、ここに来てこれに帖合します。初めの文に総じて「空に住し仮を出ず、それぞれ二種」と言うのは、法や譬の通りに具するので、すなわち利智を四つの事に対して説きます。次に五縁を具するとは、第二句の五事具足を釈します。もし前の五つに対すれば、少し次第が違いましょう。天性のように親なるものがあり、すなわち同体です。要約に約するものがあり、すなわち本誓です。奇謀に策するものがあり、すなわち善巧です。勇健に力あるものがあり、すなわち利智です。勇捍に胆あるものがあり、すなわち精進です。

○次入假觀中列三法者。闕一不可。如大經二十三釋第七功德中云。善男子。佛及菩薩為大醫故。名善知識。何以故。知病知藥應病授藥。譬如良醫善八種術。先觀病相後授以藥。大經教道真位故在七地。今論似位故在地前。釋知病中初列。次釋。釋初根本先起次息。初又三。初明見根本。次從此下明從本起見。三從為此下起成苦集。自上沈下名為墮墜。升沈更互名之為廻。結業為集墮墜為苦。苦集更互如旋火輪。如旋火輪下明息。先譬。知心下合。知起因緣中初標。次釋中先以能辨所。所謂內外相。次正釋。先釋外相。產者養也。育者收也。蓄字應作稸謂積也。散棄也。貧者無福無財也。富者福也。周禮云。豐財也。形貌下內相。偉大肥也忽榮棄位者。如諸經中捨國城妻子及此方先代。若莊子云。古之所謂得志者。非軒冕之謂也。今之所謂得志者。軒冕之謂也。軒冕在身非性命之有。物儻來寄不可却。其去也不可止。故不可以軒冕肆其意。破曰。莊斥今人莊豈非今猶云來寄而不可却。雖似斥彼意在苟求。求之未會反斥求者。與負鼎等曲直天別。與忽榮等是非倍隔。樵漁自樂者。樵如鄭弘。漁如漁父此則安貧以自處也。叩牛干相者。非理造求為干。輔佐王者曰相。如甯戚邀齊桓公。乃於城旁飯牛。至夜叩牛角而歌曰。南山岸白石璨。下有寒泉文章煥。中有鯉魚長尺半。生不逢堯與舜膳。短褐褌衣齊至骭(故旦切。亦下晏切脛也)從朝守牛至夜半長夜漫漫何時旦。黃犢黃犢伍官。何時用汝為國相。桓公夜聞之召為國相。負鼎等者。指事求利曰邀。亦古堯反。伊尹邀相常負鼎而語曰。若使以我為國相者。如鼎調味。鼎者。說文云。三足兩耳調五味之寶器也。爾雅云。絕大者曰鼐(奴戴切)漢書郊祀志云。昔太昊興一鼎象一統。黃帝作三鼎象三才。夏禹作九鼎象九州。故伊尹負之以邀湯也。太公亦以釣而邀文王。專文專武等者。嗜好不同。俗古賢良偏嗜非一。文武可知。如尼乾經云。有黑王子多財疾妬。有勝仙王子為性多殺。有無畏王子大悲太過有婆藪天子行事太遲。有天王子輕𮜒戲笑。波斯匿王為性貪食。有嚴熾王子為性大暴。嚴熾問尼乾子云。有誰無偏過耶。答。唯佛無過。出假菩薩應須漸習。使知眾生偏病不同。設藥治之。如此下結意。如文。久近如文。知重數中本文多有不同。但依算法合之。應知文中。有直爾合數。有帶根本數合。尋之可知。派者別水也如於大水派為小流。今亦如是。此見思重數。文文皆有止觀信法等者。正是出假六十四番。但文存略無相資耳。病相下結苦集。言此彼者。以有望無乃至無言。言深淺等者。從有乃至非有非無。單複乃至絕言故也。言輕重者。於一一見皆有輕重。又諸重中皆由能治治於所治。所治未破。破法未盡。有諸重生。又入空下於成入假方便。初正示。言薄修則明者。由初有方便及見思已破。下諸意例然。二乘下斥小。而菩薩下觀成破遍。知思病中初列。次略例。釋重數中初正釋。次舉廣況略。三准例。並如文。此緣一諦。諦字應從言。四十里水既是四諦下惑。斷思但直緣一真諦。或四諦中隨緣一諦。如十里水故。稱之一諦者字應從水。故大經云。須陀洹所斷如四十里水。其餘在者如一毛渧。思惑雖多不橫起故。二乘直入等者。次明入假方便。並須先預分別。以作後時出假方便。諸教皆爾。但要期剋果。長短不同。而分教異。如此習者豈與習法相者意同。故先總知之。後以觀助發。別修各有方法者。修觀結成。於一一法通以止觀研之。況復俗諦恒沙三昧。修各不同。如此修習助開法眼。豈與扶順宿惑苟遂現情。讀春秋誦左傳。終朝心遊戰陣口演詐謀。云助佛法者遠矣。又如向說者仍順教道。若從實義略此預知。但專三昧至六根淨。則遍見聞三千色聲。欲說一偈不可窮盡。況至初住不思議發。上見思下結勸。五部不填胸者。勸令預作助法眼因。舉知五部以為況喻。言五部者。若遺教三昧經。因羅旬喻比丘乞食不得。佛令分僧五部以驗僧福。與佛滅後五部名同。其事則別。一曇無德部法名四分。二薩婆多部法名十誦。三彌沙塞部法名五分。四婆麁富羅部律本未來。五迦葉遺部法名解脫。僧祇為根本部。分出前五。如是五部習之在心。豈填胸臆。習止觀者亦復如是。廣習諸句作不思議開發之由。於理彌明於智彌顯。

次に、仮観に入る中で三つの法を列挙するのは、一つとして欠けてはならないものです。大経の二十三巻で第七の功徳を解釈する中に次のように説かれています。「善男子よ、仏と菩薩は大医であるがゆえに、善知識と名づける。なぜかといえば、病を知り薬を知り、病に応じて薬を与えるからである。たとえば良医が八種の術に巧みで、まず病相を観て、後に薬を与えるようなものである。」大経は教道の真位を説くゆえに七地にあり、今は似位を論じるゆえに地前にあるのです。「病を知る」を解釈する中で、初めに列挙し、次に解釈します。初めの根本を解釈する中で、まず根本が起こり、次に息むことを説きます。初めにまた三つあります。初めに根本を見ることを明かし、次に「此より」以下で本より見が起こることを明かし、三に「此のために」以下で苦集を起こし成ることを明かします。自ら上から沈んで下るのを堕墜と名づけ、昇ることと沈むことが互いに繰り返すのを廻と名づけます。結業を集とし、堕墜を苦とし、苦と集が互いに繰り返すのは、旋火輪のようなものです。「旋火輪の如し」の下は、息むことを明かします。まず譬えを示し、「知心」の下で合わせます。「起因縁を知る」の中では、初めに標し、次に解釈する中で、まず能をもって所を辨し、いわゆる内外の相です。次に正式に解釈します。まず外相を解釈します。「産」とは養うことです。「育」とは収めることです。「蓄」の字は「稸」と作すべきで、積むという意味です。「散」とは棄てることです。「貧」とは福も財もないことです。「富」とは福があることです。周礼に「豊財なり」とあります。「形貌」の下は内相です。「偉」とは大いに肥えることです。「忽ち栄を棄つ」とは、諸経の中で国城や妻子を捨てるようなものであり、この方の先代においても、たとえば荘子が「古のいわゆる志を得たる者は、軒冕の謂いにあらず。今のいわゆる志を得たる者は、軒冕の謂いなり。軒冕は身にありて性命の有にあらず。物は儻来して寄せて却くべからず。その去るや止むべからず。ゆえに軒冕をもってその意を肆にすべからず」と言うようなものです。破して曰く、荘は今人を斥け、荘は豈に今もなお来寄して却くべからずと言うにあらずや。似て彼を斥すと雖も、意は苟求にあり。求めて未だ会せざれば、反って求むる者を斥く。負鼎などと曲直の天別あり、忽栄などと是非の倍隔あり。「樵漁自楽」とは、樵は鄭弘のごとく、漁は漁父のごとく、これは貧しきに安んじて自ら処るものです。「叩牛干相」とは、理に非ずして造り求めるを干となし、王者を輔佐するを相と名づけます。甯戚が斉の桓公に邀えたごとく、すなわち城の傍らで牛に飯い、夜に至り牛角を叩いて歌って曰く、「南山の岸に白石璨たり、下に寒泉あり文章煥たり、中に鯉魚あり長さ尺半、生きて堯と舜の膳に逢わず。短褐褌衣斉の骭に至る(故旦切。亦た下晏切、脛なり)朝より牛を守りて夜半に至る。長夜漫漫いつか旦ならん。黄犢黄犢伍官、いつか汝を用いて国の相とせん」と。桓公夜にこれを聞きて召して国の相としました。「負鼎など」とは、事を指して利を求めるを邀となし、また古の堯反となります。伊尹は相に邀えて常に鼎を負いて語って曰く、「もし我をもって国の相とせば、鼎の味を調えるがごとし」と。鼎とは、説文に「三足両耳、五味を調えるの宝器なり」とあります。爾雅に「絶大なる者を鼐と曰う」(奴戴切)とあります。漢書郊祀志に「昔太昊一鼎を興し一統を象り、黄帝三鼎を作し三才を象り、夏禹九鼎を作し九州を象る。ゆえに伊尹はこれを負いて湯に邀えた」とあります。太公もまた釣りをもって文王に邀えました。「専文専武など」とは、嗜好の同じからざることをいいます。俗の古賢良の偏嗜は一つにあらず、文武は知るべし。尼乾経に曰く、「黒王子あり、多財にして疾妬す。勝仙王子あり、性として多く殺す。無畏王子あり、大悲過ぎたり。婆藪天子あり、行事遲すぎたり。天王子あり、軽𮜒戯笑す。波斯匿王あり、性として貪食す。厳熾王子あり、性として大いに暴なり」と。厳熾が尼乾子に問うて曰く、「誰か偏過なき者ありや」と。答えて曰く、「唯仏のみ過なかりし」と。出仮の菩薩はまさに漸く習うべきで、衆生の偏病の同じからざるを知らしめ、薬を設けてこれを治めます。「如此」の下は結意で、文の通りです。「久近」は文の通りです。「重数を知る」の中は、本文に多く同じからざるがありますが、ただ算法に依ってこれを合わせます。文中に知るべきは、直爾に数を合わすあり、根本の数を帯して合わすあり、これを尋ねれば知るべし。「派」とは別水で、大水より派して小流となるがごとし。今もまたかくのごとし。この見思の重数は、文文に皆な止観・信法などあり、まさにこれ出仮の六十四番です。ただ文に略を存して相資なければのみ。「病相」の下は苦集を結びます。「此彼」と言うは、有望無乃至無言をもってします。「深淺など」と言うは、有より乃至非有非無、単複乃至絶言のゆえんです。「軽重」と言うは、一一の見に皆な軽重あり。また諸の重の中に皆な能治をもって所治を治し、所治未だ破れず、破法未だ尽きず、諸の重生あり。また「入空」の下は、入仮の方便を成ずるに於いて、初めに正しく示します。「薄修則ち明らかなり」と言うは、初めに方便あり及び見思已に破るればなり。下の諸の意も例として然なり。「二乗」の下は小を斥け、「而るに菩薩」の下は観成じて遍く破ることを明かします。「思病を知る」の中では、初めに列し、次に略して例します。「重数を釈す」の中では、初めに正しく釈し、次に広きを挙げて略を況し、三に准例し、並びに文の通りです。「此れ一諦を縁ず」とは、諦の字は言に従うべきです。四十里の水は既に四諦の下の惑にして、思を断ずるにただ直ちに一真諦を縁ず。あるいは四諦の中に随って一諦を縁ずるは、十里の水のごとし。ゆえにこれを一諦と称す。者の字は水に従うべきです。ゆえに大経に云く、「須陀洹の断ずる所は四十里の水のごとし、その余の在る者は一毛渧のごとし」と。思惑は多しと雖も横に起きざるがゆえなり。「二乗直入など」とは、次に入仮の方便を明かします。並びにまさに先に預め分別して、後時の出仮の方便と作すべきです。諸教皆な爾なり。ただ要は期剋の果にして、長短同じからずして、教を分かつこと異なるのみ。かくのごとく習う者は、豈に法相を習う者と意同じからんや。ゆえに先に総じてこれを知り、後に観をもって助け発します。「別修各おの方法あり」とは、修観の結成なり。一一の法に通じて止観をもってこれを研め、況んや復た俗諦恒沙の三昧は修すること各おの同じからず。かくのごとく修習して法眼を開くを助く。豈に宿惑を扶順し苟くも現情を遂げ、春秋を読み左伝を誦し、終朝心に戦陣を遊び口に詐謀を演じ、仏法を助くと云う者と遠きことあらんや。また向に説くが如き者は、なお教道に順ず。もし実義に従わば、略してこの預知をば、ただ専ら三昧にして六根浄に至れば、則ち遍く三千の色声を見聞し、一偈を説かんと欲するも窮め尽すべからず。況んや初住の不思議の発に至らんをや。上の「見思」の下は結勧なり。「五部胸に填めず」とは、勧めて預め法眼の因を作さしむ。五部を知ることを挙げて以て況喻と為す。「五部」と言うは、遺教三昧経に、羅旬比丘の乞食を得ざるに因りて、仏僧をして五部に分かたしめ僧福を験ぜしめき。仏滅後の五部と名を同じくすと雖も、その事は則ち別なり。一に曇無徳部、法は四分と名づく。二に薩婆多部、法は十誦と名づく。三に弥沙塞部、法は五分と名づく。四に婆麁富羅部、律本未だ来らず。五に迦葉遺部、法は解脱と名づく。僧祇は根本部と為し、前の五を分出せり。かくのごとく五部これを心に習わば、豈に胸臆に填めんや。止観を習う者もまたまたかくのごとし。広く諸句を習い、不思議開発の由と作さば、理に於いて弥々明らかに、智に於いて弥々顕われん。

○次明識法藥者。楞伽亦云。智有三種。第五又云。五度有三。並云世間乃至上上。但彼經分屬三人。大品明逗機設藥。即如下文授藥是也。此中令習之在心。故與二經為異。初明世間法藥中。初引大論。次引大經金光明。並云世法即出世法。然兩經語同而有顯密。大經在法華後。已開權竟。是故顯說。金光明中但云世間皆因此經。此乃密示。又大經雖云是佛所說。仍不云所說即是妙理。顯密雖爾順次第意。且引文證世法是藥。亦為治於眾生世病。以為出世之梯漸也。深識世法即出世法。一一世法無不為令眾生出世。以五戒為出世法者。以佛出世方制此戒。世即出世。故引五行五常及十善法。即是五戒。問。知病中但云見思不說塵沙無明之病。次識藥中何故乃云出世及以出世上上法耶。上上法藥應治塵沙無明之病。何故藥病不相對耶。答。通論藥病應如所問。今明知病識藥及授藥法。並是菩薩從空出假破塵沙惑。應須遍識世法等三。故此菩薩初入空時。先用一門破見思病。後出假時亦先分別眾生見思。令其先破。破已亦令廣習法藥。後入中道。方復自以上上法藥。治無明病。故無明病非入假正意。若眾生有宜用上上藥。亦應為說此上上法。令修假中二種觀法。中道亦屬假觀攝也。言五常似五戒者。如提謂經中長者問佛。何故但五不說四六。佛言。但說五者。是天地之根太乙。之初。神氣之始。以治天地制御陰陽成就萬物。眾生之靈。天持之和陰陽。地持之萬物生。人持之五藏安。天地之神萬物之祖。是故但五。又云。所持五戒者。令成當來五體順世五常五德之法。殺乖仁盜乖義淫乖禮酒乖智妄乖信。憫傷不殺曰仁。清察不盜曰義。防害不淫曰禮。持心禁酒曰智。非法不言曰信。此五不可造次而虧。不可須臾而廢。君子奉之以立身用無暫替。故云五戒。又云。不殺過於二儀。不盜如太素。不邪行如虛空。不妄語如四時。又五行似五戒者。略以白虎通博物誌意。會釋其相。木主東方。東方主肝。肝主眼。眼主春。春主生。生存則木安。故云不殺以防木。金主西方。西方主肺肺主鼻。鼻主秋。秋主收。收藏則金安。故不盜以防金。水主北方。北方主腎。腎主耳。耳主冬。淫盛則水增。故不淫以禁水。土主中央。中央主脾。脾主身。土王四季。故提謂經云。不妄語如四時。身遍四根。妄語亦爾。遍於諸根違心說故。火主南方。南方主心。心主舌。舌主夏。酒亂增火。故不飲酒以防於火。五經似五戒者。已略如前釋。此中開禮樂為二。不語春秋。又與提謂對義少別以五行名與五經不同。故使爾也。禮云酒者因祭祀而用之。非謂常飲。非祭而飲尚違世禮。況佛制耶。古制禮樂以防淫亂。今習鄭衛反增邪濁。故古樂器但吹[(大/云)*包]擊缶叩磬鳴鐘而已。故魏文侯問於子夏曰。吾端冕而聽古樂則惟恐臥。聽鄭衛之音則不知倦。敢問。古樂於彼如何。新樂於此如何。子夏曰。夫古樂者始奏以文復亂以武。修身及家均平天下。此古樂之發也。夫新樂者獶雜子女不知子父。此新樂之發也。夫樂者天地順而四時當。民有德而五穀昌。疾疹不作而無妖祥。故曰樂以防淫。詩防殺者。謂毛詩刺上專防暴殺。謂上以風化下。下以風(去聲)刺上。尚書防盜者。專明帝王義讓之德。故防於盜。易測陰陽等者。如孔子有三備卜經。上知天文。中知人事。下知地理。使詐者不行。如是下結勸。入假下示修觀處。欲知此法等者。如向所對未為善修。若通明觀以三昧力。知此身中具倣天地。知頭圓像天足方像地。身內空種即是虛空。腹溫法春夏。背剛法秋冬。四體法四時。大節十二法十二月。小節三百六十法三百六十日。鼻息出入法山澤溪谷中風。口息出入法虛空中風。眼法日月。開閉法晝夜。髮法星辰。眉法北斗。脈法江河。骨法玉石。肉法地土。毛法叢林。五藏在天法五星。在地法五嶽。在陰陽法五行。在世法五常。在內法五神。修行法五德。治罪法五刑。謂墨劓剕宮大辟。主領為五官。五官如下第八卷引博物誌。謂句芒等。升天曰五雲。化為五龍。心為朱雀。腎為玄武。肝為青龍。肺為白虎。脾為勾陳。又云。五音五明六藝皆從此起。亦復當識內治之法。覺心內為大王居百重之內。出則為五官侍衛。肺為司馬。肝為司徒。脾為司空。四支為民子。左為司命。右為司錄。主司人命。乃至臍為太乙君等。禪門中廣明其相。大悲下明眼智開發。然世下次判淺深中。云漏器等者。禪法如水。心性如器。心行如漏。世禪如綵衣。心行如雨雨。退失如色脫。次識出世法藥者初通列諸法。意通兩教。次又如下約增數。具如玄文約教增數中前二教數。即其相也。今文無約教。但有通途以教判之便同約教。此中人天亦可三藏攝。如增一中亦以增數明人天教。今且不論。今增數法遍大小教。且如增一阿含偈云。以此方便了一法。二從二法三從三。四五六七八九十。十一之法無不了。從一增一至諸法。義豐慧富不可盡。一一契經義亦深。是故名為增一含。三藏教化無差別。乃至一切諸大乘經。亦從一法增至無量。又如大經二十八文。亦從二法乃至十法。是一一下明習法藥意。為欲下破惑結成。次出世上上法藥中有法譬合。初明法中凡約增數者。文遍攝故。一一數中雖至無量。該攝行要莫過二法。如即行人若能總識十重二法始終無闕。方可論道。謂真俗教行信法乘戒福慧權實智斷定慧悲智正助。此之十雙闕一不可。以攝一切諸增數盡。應細思之以為行相。然此法藥文相名目。雖與出世法藥名同。釋義皆須歸於圓別。如四念處六念等文。文相自顯自餘諸文名猶兼含。如八正九想十智等文。不可聊爾違於深致。如九想中即以四見為污穢陰等。如是四見。凡夫之人謂之為淨。得觀而變名為不淨。乃至白骨即是見真。進至燒想實相無相。初後既然中間比說。十智亦爾。必不可依小乘十智而銷此文(云云)。譬如下譬知法藥之相。初總譬增數也。為病用藥故有增減。又世出世莫不皆為治見思病。故言近而意遠。入假下合如文。又如下別譬也。初譬依於佛經以明法藥。皮肉汁果如其次第以對四悉。根莖枝葉如次以對信戒定慧。山海水陸以譬四門。以四門中各有四悉及信等故。四方土地以譬四教。於一一教各四門故。如一一方各有山等。采掘乾濕。通譬四教各有權實真俗定不定等。有定如頓漸。不定如祕密不定。有入假菩薩用佛正教於定不定用與不同。用苗為采。用根為掘。用權為苗用實為根。根苗各有乾濕不同。用真如乾用俗如濕。又知下明用藥所治不同。善知授法適時不差。入假菩薩雖未能作真祕密化。相似位中亦有分似祕密之義。如一卷明或得不得等是也。入假菩薩下合中。但合四悉。四悉在初遍入諸教。舉初攝後咸在悉中。故下信等略而不合。欲治下明法藥體遍。大醫者別出假位。即十行是。又如大下次譬開權。即是菩薩法藥所依依於大地。以隨病故。故有增減。地無分別而用藥不同。法藥下合也。文似於一說多。正當於多會一。何者。若未開權不說多一。觀合大地。止合大河。又如下復以四諦譬者。止觀所開不出四諦。乃至前來世出世及上上等。不出四諦。故一一諦皆云種種。湯飲等者復譬四諦設治不同。一一四諦各有定慧。即是止觀。定慧是道。舉道即知具足四諦。謂慧湯定飲。生滅中二。慧吐定下。無生中二。定炙慧針。無量中二。定丸慧散無作中二。則應須以教意釋出。入假下合。合中先合四諦。苦集不同集諦也。苦家之集名為苦集。苦果不同即苦諦也。道滅如文。種種下合四止觀具四四諦。設治不同故云種種。復次下明出假菩薩造論通經。先譬。次合。譬中先總舉譬。所以者何下釋。初文云神農者。是黃帝時醫。後雖有妙醫並則於神農。華他者。列傳云。字文化。沛國譙人也。專遊學舉孝廉。避而不就。曉養生之術。時人以其年且百歲。貌如二十。精於方藥心解分劑。不假秤量。若鍼藥不及則飲以麻湯。須臾如醉開腹取病。若在膓中則便斷膓湔洗縫膓。膏傅二三日便復。此例甚眾。扁鵲者。後語云。越醫也。因過齊見桓侯云。王有疾在腠理。桓侯曰。寡人無疾。如何欲治無疾為功。五日後復見王云。有疾在血脈。五日後見云。有疾在膓胃。五日後扁鵲退走。桓侯使人逐之問其故。扁鵲云。疾在腠理可湯熨。在血脈可鍼炙。在腸胃可酒藥。過此後在骨髓。司命所及不可治也。神農如佛。華他等如出假菩薩。依經造論名為作方。次釋中鄉土等者。諸土不同設藥亦異。如似中邊機見各別。西方則大小乘局諸部抗行。此土則所習互通以小助大。行事不壅稍順化儀。人有儜健等者。利鈍根也。諸土各有利鈍故也。儜病也。食為病緣故醎淡各異。利根鈍根病因各別。如大經云。或因解義而生憍慢。或因讀誦而生憍慢。貴性顏貌。飲食利養。住處新友。生慢不同。生慢既然。諸惑亦爾。藥有濃淡者。頓漸也。漸中圓濃三淡。亦可展轉迭為濃淡。病有輕重者。一貪一瞋各有厚薄。良由過現緣習不同。此中並釋造論意也。佛初出下合神農。後代下合華他等。釋論下引證造論意也。菩薩下明請佛加意。為成法眼大悲利物故也。

次に法薬を知るとは何かを明らかにします。楞伽経にもまた「智には三種がある」と説かれています。第五にはまた「五度には三種がある」とあり、いずれも世間から上上に至るまでと述べています。ただしあの経では三人に配分して説いています。大品経では機に応じて薬を設けることを明らかにしており、すなわち下文で薬を授けるというのがこれです。ここではこれを心に習わせることを示しているので、二つの経とは異なっています。

初めに世間の法薬を明らかにする中で、初めに大論を引き、次に大経と金光明経を引いています。いずれも世法すなわち出世法であると述べています。しかし両経は言葉は同じでも顕密の違いがあります。大経は法華経の後にあり、すでに権を開いてしまっているので、これは顕説です。金光明経ではただ世間はみなこの経によるというだけで、これは密示です。また大経では仏の説かれたものというけれども、説かれたものがすなわち妙理であるとは述べていません。顕密はそのようではあっても次第の意に順っています。しばらく文証を引いて世法が薬であることを証明するのは、また衆生の世の病を治めるためであり、出世の梯漸としています。世法がすなわち出世法であると深く認識し、一一の世法がみな衆生を出世させないものはないのです。

五戒を出世法とするのは、仏が出世されてから初めてこの戒を制定されたからです。世がすなわち出世です。それゆえ五行・五常および十善法を引き、これがすなわち五戒であるとしています。

問い。知病の中ではただ見思だけを述べて塵沙・無明の病を説きません。次の識薬の中ではなぜ出世および出世の上上法を説くのでしょうか。上上法薬は塵沙・無明の病を治すはずです。なぜ薬と病が相対しないのでしょうか。

答え。通じて論ずれば薬と病は問いのとおりであるべきです。今、知病・識薬および授薬法を明らかにするのは、いずれも菩薩が空より仮を出て塵沙の惑を破ることであり、遍く世法などの三つを識るべきです。それゆえこの菩薩が初めて空に入るとき、まず一門を用いて見思の病を破ります。後に仮を出るときにもまたまず衆生の見思を分別して、これを先に破らせます。破り終わってからもまた広く法薬を習わせます。後に中道に入って、そこでまた自ら上上の法薬をもって無明の病を治します。それゆえ無明の病は仮に入る正意ではありません。もし衆生に上上の薬を用いるのがふさわしければ、またこの上上法を説いて、仮・中二種の観法を修めさせるべきです。中道もまた仮観に属して摂められます。

五常が五戒に似ているというのは、提謂経の中で長者が仏に問うたのに、なぜただ五つだけで四や六を説かないのか。仏が言われました。ただ五つを説くのは、これが天地の根であり太乙の初め、神気の始めであり、天地を治め陰陽を制御し万物を成就するからです。衆生の霊は、天がこれを保てば陰陽が和し、地がこれを保てば万物が生じ、人がこれを保てば五蔵が安らかになります。天地の神は万物の祖です。それゆえただ五つなのです。また言われました。保つところの五戒は、当来に五体を成じ、世の五常・五徳の法に順わせるものです。殺は仁に背き、盗は義に背き、淫は礼に背き、酒は智に背き、妄は信に背きます。憫傷して殺さないのを仁といい、清察して盗まないのを義といい、害を防いで淫しないのを礼といい、心を持して酒を禁ずるのを智といい、非法を言わないのを信といいます。この五つは造次にも虧いてはならず、須臾も廃してはなりません。君子はこれを受けて身を立て、用いて暫しも替えません。それゆえ五戒というのです。また言われました。殺さないことは二儀に過ぎ、盗まないことは太素のごとく、邪行しないことは虚空のごとく、妄語しないことは四時のごとくです。

また五行が五戒に似ているというのは、略して白虎通・博物誌の意をもってその相を会釈します。木は東方を主り、東方は肝を主り、肝は眼を主り、眼は春を主り、春は生を主ります。生が存すれば木が安んずるので、殺さないことは木を防ぐといいます。金は西方を主り、西方は肺を主り、肺は鼻を主り、鼻は秋を主り、秋は収を主ります。収蔵すれば金が安んずるので、盗まないことは金を防ぐといいます。水は北方を主り、北方は腎を主り、腎は耳を主り、耳は冬を主ります。淫が盛んなれば水が増すので、淫しないことは水を禁ずるといいます。土は中央を主り、中央は脾を主り、脾は身を主り、土は四季に王たります。それゆえ提謂経に「妄語しないことは四時のごとく」と説かれます。身は四根に遍く、妄語もまたそのとおりで、諸根に遍く、心に違って説くからです。火は南方を主り、南方は心を主り、心は舌を主り、舌は夏を主ります。酒は乱れて火を増すので、酒を飲まないことは火を防ぐといいます。

五経が五戒に似ているというのは、すでに略して前のように釈しました。ここでは礼楽を開いて二つとなし、春秋を語っていません。また提謂と対する義に少し違いがあるのは、五行の名が五経と異なるため、それでそのようになっているのです。礼には「酒は祭祀によってこれを用いる」といい、常に飲むことをいうのではありません。祭りでなくして飲むのはなお世の礼に違います。まして仏の制であればなおさらです。古の制では礼楽をもって淫乱を防ぎました。今、鄭衛を習うのはかえって邪濁を増すばかりです。それゆえ古の楽器はただ吹き撃ち缶を叩き磬を鳴らし鐘を鳴らすだけでした。それゆえ魏の文侯が子夏に問うて言いました。「吾は端冕して古楽を聴けばただ臥せんことを恐れるのみ。鄭衛の音を聴けば倦きを知らず。敢えて問う。古楽は彼においていかん。新楽はこれにおいていかん。」子夏が言いました。「それ古楽は、始めは文をもって奏し、復は武をもって乱し、身を修め家を及ぼし天下を均平にします。これ古楽の発です。それ新楽は、獶雑な子女にして子父を知りません。これ新楽の発です。それ楽は天地順にして四時当たり、民に徳ありて五穀昌え、疾疹作さずして妖祥がないものです。」それゆえ「楽は淫を防ぐ」といいます。

詩が殺を防ぐというのは、毛詩が上を刺し、もっぱら暴殺を防ぐということです。上は風をもって下を化し、下は風をもって上を刺すといいます。尚書が盗を防ぐというのは、もっぱら帝王の義譲の徳を明らかにするので、盗を防ぎます。易が陰陽などを測るというのは、孔子に三備の卜経があり、上は天文を知り、中は人事を知り、下は地理を知り、詐る者を行わせないということです。

このように下は結んで勧めます。「入仮」の下は観を修める処を示します。「この法を知らんと欲すれば」などというのは、さきに対したところではまだ善く修めたとはいえません。もし通明の観をもって三昧の力とすれば、この身中に天を具し地に倣うことを知ります。頭の円いのが天に像り、足の方が地に像ることを知るのです。身内の空種はすなわち虚空です。腹の温かさは春夏に法り、背の剛さは秋冬に法ります。四体は四時に法り、大節十二は十二月に法り、小節三百六十は三百六十日に法ります。鼻息の出入りは山沢渓谷の風に法り、口息の出入りは虚空中の風に法ります。眼は日月に法り、開閉は昼夜に法ります。髪は星辰に法り、眉は北斗に法ります。脈は江河に法り、骨は玉石に法り、肉は地土に法り、毛は叢林に法ります。五蔵は天にあっては五星に法り、地にあっては五嶽に法り、陰陽にあっては五行に法り、世にあっては五常に法り、内にあっては五神に法り、修行は五徳に法り、罪を治めるは五刑に法ります。墨・劓・剕・宮・大辟をいいます。主領は五官となります。五官は下の第八巻に博物誌を引くところにあります。句芒などをいいます。天に昇るを五雲といい、化して五龍となります。心は朱雀となり、腎は玄武となり、肝は青龍となり、肺は白虎となり、脾は勾陳となります。またいいます。五音・五明・六芸はみなここから起こります。またまた内治の法を識るべきです。心の内に覚れば大王となり、百重の内に居ます。出れば五官が侍衛となります。肺は司馬となり、肝は司徒となり、脾は司空となり、四支は民子となります。左は司命となり、右は司録となり、人の命を司ります。臍に至るまで太乙君などとなります。禅門の中に広くその相が明かされています。

「大悲」の下は眼智の開発を明らかにします。「然し世」の下は浅深を判ずる中で、「漏器など」というのは、禅法は水のごとく、心性は器のごとく、心行は漏のごとく、世禅は綵衣のごとく、心行は雨のごとく、退失は色の脱けるがごとくです。

次に出世の法薬を識るとは、初めに通じて諸法を列ねます。意は両教に通じます。次にまた下のように増数に約します。詳しくは玄文の約教増数の中の前二教の数にあります。すなわちその相です。今の文には約教がなく、ただ通途に教をもって判じるだけですが、そのまま約教と同じです。この中人天もまた三蔵に摂められます。増一の中にもまた増数をもって人天の教を明らかにしています。今はしばらく論じません。今の増数の法は大小の教に遍く及びます。しばらく増一阿含の偈にいいます。「この方便をもって一法を了し、二は二法より、三は三より、四五六七八九十、十一の法も了らざるなし。一より増し一より諸法に至るまで、義豊かに慧富にして尽くすべからず。一一の契経の義もまた深し。これをもって増一含と名づく。三蔵の教化に差別なし。」ないし一切の諸大乗経もまた一法より無量に増します。また大経二十八の文にもまた二法より十法に至るまであります。これら一一の下は法薬を習う意を明らかにします。「欲するため」の下は惑を破り結成します。

次に出世上上の法薬の中に法・譬・合があります。初めに法中に凡そ増数に約するのは、文が遍く摂むからです。一一の数の中に無量に至るといえども、行要を該摂することは二法に過ぎません。すなわち行人がもし総じて十重の二法を識り、始終欠けるところがなければ、そこで初めて道を論ずることができます。真俗・教行・信法・乗戒・福慧・権実・智断・定慧・悲智・正助をいいます。この十双は一つも欠けてはなりません。一切の諸増数を摂め尽くすからです。細かく思って行相とすべきです。しかしこの法薬の文相名目は、出世法薬と名は同じでも、義を釈するにはみな円・別に帰すべきです。四念処・六念などの文は、文相自ら顕らかです。その余の諸文は名がなお兼ね含んでいます。八正・九想・十智などの文は、かりそめに深致に違ってはなりません。九想の中ではすなわち四見をもって汚穢の陰などとします。このような四見を、凡夫の人はこれを浄と考えます。観を得て変ずれば不浄と名づけます。ないし白骨はすなわち真を見ることであり、進んで焼想に至れば実相無相です。初後がこのようである以上、中間も比説されます。十智もまたそのとおりで、必ずしも小乗の十智に依ってこの文を銷してはなりません。

「譬如」の下は法薬の相を知ることに譬えます。初めは総じて増数に譬えます。病のために薬を用いるので増減があります。また世出世もみな見思の病を治めるためでないものはありません。それゆえ言葉は近くとも意は遠いのです。「入仮」の下は合します。文のとおりです。また「如」の下は別に譬えます。初めは仏経に依って法薬を明らかにすることに譬えます。皮・肉・汁・果はその次第のとおりに四悉に対します。根・茎・枝・葉はその次第のとおりに信・戒・定・慧に対します。山・海・水・陸は四門に譬えます。四門の中にそれぞれ四悉および信などがあるからです。四方の土地は四教に譬えます。一一の教にそれぞれ四門があるからです。一々の方にそれぞれ山などがあるがごとくです。采・掘・乾・湿は、通じて四教にそれぞれ権実・真俗・定不定などがあることに譬えます。定は頓漸のごとく、不定は秘密不定のごとくです。仮に入る菩薩が仏の正教を用いて定不定に用と不同があるのは、苗を用いるのを采とし、根を用いるのを掘とし、権を用いるのを苗とし実を用いるのを根とし、根と苗にそれぞれ乾湿の不同があり、真を用いるのを乾のごとく、俗を用いるのを湿のごとくするのです。

また「知」の下は薬を用いて治すところの不同を明らかにし、善く授法の時機に適うことを知って差がないのです。仮に入る菩薩はまだ真の秘密の化を作すことはできませんが、相似位の中にも分似の秘密の義があります。一卷に明かすように、あるいは得、あるいは得ずなどというのがこれです。「入仮菩薩」の下は合する中で、ただ四悉を合します。四悉は初めにあって遍く諸教に入るので、初めを挙げて後を摂め、みな悉の中にあります。それゆえ下の信などは略して合しません。「欲治」の下は法薬の体が遍きことを明らかにします。大医とは別して仮位を出だすことで、すなわち十行がこれです。また「如大」の下は権を開くことに譬えます。すなわち菩薩の法薬の依るところが大地に依るのです。病に随うがゆえに増減があります。地は分別なくして薬を用いることが異なるのです。「法薬」の下は合します。文は一を説いて多とするに似ていますが、まさに多をもって一に会するのです。なぜなら、もし権を開かずば多と一を説かず、観は大地に合し、ただ大河に合するだけだからです。

また「如」の下はまた四諦をもって譬えます。止観の開くところは四諦を出でません。ないし前に来た世出世および上上なども四諦を出でません。それゆえ一一の諦にみな「種種」といいます。湯・飲などはまた四諦の設治の不同に譬えます。一一の四諦にそれぞれ定慧があります。すなわち止観です。定慧は道です。道を挙げればすなわち四諦を具足することを知ります。慧は湯、定は飲、生滅の中の二です。慧は吐、定は下、無生の中の二です。定は炙、慧は針、無量の中の二です。定は丸、慧は散、無作の中の二です。すなわち教意をもって釈出する必要があります。「入仮」の下は合します。合の中ではまず四諦を合します。苦集の不同は集諦です。苦家の集を苦集と名づけます。苦果の不同はすなわち苦諦です。道滅は文のとおりです。「種種」の下は四止観が四四諦を具することを合します。設治が不同なので「種種」といいます。

また次に仮に入る菩薩が論を造り経を通ずることを明らかにします。まず譬え、次に合します。譬えの中ではまず総じて譬えを挙げます。「所以者何」の下は釈します。初めの文に「神農」というのは、黄帝の時の医です。後に妙医があってもみな神農に則ります。「華他」は列伝にいいます。字は文化、沛国譙の人です。もっぱら遊学し孝廉に挙げられましたが、避けて就きませんでした。養生の術に暁く、時人はその年まさに百歳で、貌は二十のごとくといいました。方薬に精しく、心に分剤を解し、秤量を仮りません。もし鍼薬で及ばなければ麻湯を飲ませます。しばらくして酔ったようになり、腹を開いて病を取ります。もし膓中にあればすなわち膓を断ちて湔洗し膓を縫います。膏を傅して二三日でまた復します。この例はなはだ多いのです。「扁鵲」は後語にいいます。越の医です。斉に過ぎるに因って桓侯を見て言いました。「王に疾あり、腠理にあり。」桓侯が言いました。「寡人に疾なし。どうして無疾を治めて功としようとするのか。」五日後にまた王を見て言いました。「疾あり、血脈にあり。」五日後に見て言いました。「疾あり、膓胃にあり。」五日後に扁鵲は退き走りました。桓侯は人を遣わしてこれを逐いその故を問わせました。扁鵲が言いました。「疾が腠理にあれば湯熨すべきです。血脈にあれば鍼炙すべきです。腸胃にあれば酒薬すべきです。これ過ぎれば骨髄にあり、司命の及ぶところにして治すべからず」と。

神農は仏のごとく、華他などは仮に入る菩薩のごとくです。経に依って論を造るのを作方と名づけます。次の釈の中の「郷土など」というのは、諸土が同じでなく設薬もまた異なるのです。ちょうど中辺の機見がそれぞれ別であるに似ています。西方では大小乗が局し諸部が抗行します。この土では所習が互通し、小をもって大を助け、行事が壅がず、やや化儀に順っています。「人に儜健など」というのは、利鈍の根です。諸土にそれぞれ利鈍があるからです。儜は病です。食は病の縁なので醎淡がそれぞれ異なります。利根・鈍根の病因はそれぞれ別です。大経にいいますように、あるいは義を解して憍慢を生じ、あるいは読誦して憍慢を生じ、貴性・顔貌・飲食・利養・住処・新友によって慢を生ずることが不同です。慢を生ずることがこのようである以上、諸惑もまたそのとおりです。「薬に濃淡あり」というのは、頓漸です。漸の中では円は濃く三は淡く、また展転して迭に濃淡となります。「病に軽重あり」というのは、一の貪・一の瞋にそれぞれ厚薄があります。まったく過現の縁習が不同によるものです。ここではみな論を造る意を釈しています。「仏初出」の下は神農に合します。「後代」の下は華他などに合します。「釈論」の下は論を造る意を証することを引きます。「菩薩」の下は仏に加を請う意を明らかにします。法眼・大悲を成じて物を利するためです。

止觀輔行傳弘決卷第六之二

止観輔行伝弘決 巻第六の二

止觀輔行傳弘決卷第六之三

止観輔行伝弘決 巻第六の三

唐毘陵沙門湛然述

唐代毘陵の沙門湛然の述

三授藥中。亦先總舉藥病。眾生下別明授藥。先明授世法藥中。如孔丘等者。姓孔名丘字仲尼。周公姓姬名旦。制禮作樂五德行世。佛教流化實賴於茲。禮樂前驅真道後啟。元古混沌未宜出世者。佛教明劫不須此名。且寄此土化初而說。我遣三聖等者。亦云震旦具如前說。清淨法行經云。月光菩薩彼稱顏回。光淨菩薩彼稱仲尼。迦葉菩薩彼稱老子。天竺指此震旦為彼。准諸目錄皆推此經以為疑偽。文義既正或是失譯。乃至今家所引像法決疑妙勝定等意亦如是。如涅槃後分本在偽目。至大唐刊定始入正經。豈以時人未決便推入偽。大師親證位在初依不應錯用。次授出世中。初總明隨根授藥。乃與上上法藥合說。雖合二文仍離四教。故知應以藏通而為出世法藥。別圓以為上上法藥。故銷前文須用四教一十六門。門門四悉。若不爾者將何授人。次明別中以四教相望。作下中上上上之名。如大經中四人觀因緣智。於一根中皆具四義。秖是四悉。初三藏中初明佛經。雖是下明菩薩論。並有標釋結。餘之三根准此可知。菩薩論中樂聞即世界。生善即為人。破濁即對治。見真即第一義。下之三教准此可知。下去文略但有二段。先明四悉即是佛經。次明四門即是論也。縱無偏申一門之論。或兼或具。比望可知。若入下總明授藥當宜中。初法。云十六道滅者。一十六門。門門四諦。故有一十六道滅。治一十六苦集。門門之中論四悉者。以十六門有佛本經。菩薩出假更於四門。各申佛意以利於他。即是假智之正意也。言隨其類音等者。且以出假赴機善說名為妙音。非謂法身一音異解。乃至一雲亦復如是。若從文意則是妙益。此之妙益。猶在下文利益中明。是故此文且從竪說。如一雲下雲現身也。雨說法也。天雨無私所稟各異。三草二木得益不同。隨其見聞莫不蒙益。故云生長。應知此中若全不兼文之元意。如何次第出假之位。即能授他圓教四門。

三種の授薬の中で、まず総じて薬と病とを挙げます。衆生の下で別に授薬を明かします。まず世法の薬を授ける中で、「孔丘等の者」とは、姓は孔、名は丘、字は仲尼です。周公は姓は姫、名は旦で、礼を定め楽を作り、五つの德行を世に行いました。仏教が流布し化するのは、実にこれに頼っています。礼楽が先驅となり、真道が後に開かれます。元古の混沌として未だ出世に宜しからざる者は、仏教では劫を明かすので、この名は須いません。しばらくこの土の化の初めに寄せて説いたものです。「我れ三聖を遣わす等」とは、また震旦といい、具には前に説いた通りです。清浄法行経に云く、月光菩薩は彼を顔回と称し、光浄菩薩は彼を仲尼と称し、迦葉菩薩は彼を老子と称す、と。天竺はこの震旦を指して彼と為します。諸の目録に准ずれば、皆この経を推して疑偽と為しています。文義既に正しければ、あるいは失訳かもしれません。乃ち今の家が引く所の像法決疑・妙勝定等の意もまたこの通りです。涅槃後分のごときは、本は偽目にありましたが、大唐に至り刊定して初めて正経に入りました。どうして時の人が未だ決せないからといって、便ち偽に推し入れられましょうか。大師は親しく証し、位は初依に在します。錯って用いるべきではありません。次に出世の授薬の中では、初めに総じて根に随って薬を授けることを明かし、乃ち上の上上の法薬と合説します。二文を合わすといえども、なお四教を離れています。故に応に蔵通を以て出世の法薬と為し、別円を以て上上の法薬と為すべきを知ります。故に前文を銷すには、須く四教一十六門を用いるべきです。門門に四悉ありです。もしそうでなければ、何を以て人に授けましょうか。次に別の中を明かすに、四教を相望して、下・中・上・上上の名を作します。大経の中の四人が因縁を観ずる智のごとき、一つの根の中に皆四義を具します。これはただ四悉です。初めに三蔵の中では、初めに仏経を明かし、次に菩薩論を明かします。並びに標・釈・結があります。余の三根もこれに准じて知るべきです。菩薩論の中では、楽聞はすなわち世界、生善はすなわち為人、破濁はすなわち対治、見真はすなわち第一義です。下の三教もこれに准じて知るべきです。以下は文略してただ二段あるのみです。まず四悉を明かすのはすなわち仏経、次に四門を明かすのはすなわち論です。たとえ偏に一門を申す論がなくても、あるいは兼ね、あるいは具します。比望して知るべきです。「若入下」は総じて授薬当宜を明かす中で、初めは法です。云く「十六道滅」とは、一十六門、門門に四諦あり、故に一十六の道滅あり、一十六の苦集を治します。門門の中に四悉を論ずるとは、十六門に仏の本経があり、菩薩が仮を出だし、更に四門において各々仏意を申べて他を利する、すなわち仮智の正意です。「随其類音等」と言うのは、しばらく仮を出だして機に赴き善く説くを妙音と名づけるのであって、法身の一音を異解するのではありません。乃至「一雲」もまたまたこの通りです。もし文意に従えば、すなわち妙益です。この妙益は、なお下の文の利益の中で明かします。是の故にこの文はしばらく竪説に従います。「如一雲」の下は、雲は身を現じ、雨は法を説くのです。天の雨は私なく、稟ける所は各々異なります。三草二木は得益不同です。その見聞に随って益を蒙らないものはありません。故に「生長」と云います。応に知るべきです、この中もし全く文の元意を兼ねなければ、どうして次第に仮を出だすの位において、即ち能く他に円教の四門を授けることができましょうか。

○次明入假位者。釋中先明位意。若專用前三教下根破假之位。則使凡夫望崕自絕。入空之時先見後思位行長遠。如七生思盡若一往來。乃至如上破見破思重數無量。則入空之位尚不可至。何況入假。故云迢遞。是故須識諸教明位。權位下根入假未期。實位上根一生可到。一思一見尚即法界。況出假耶。崖者岸也。爾雅云。水濱也。又云。崖重者曰岸。今當下正釋。初明三藏。於中先二乘。次菩薩。初文先法。如文。譬如等者譬二乘人。故大經二十六。師子吼難云。眾生若有佛性。何故有退有不退耶。佛以喻答。譬如二人俱聞他方有七寶山。山有清泉其味甘美。若有能到永斷貧苦。飲服其水增益壽命。唯路嶮難。其二人者一則莊嚴一則空往。路值一人多齎七寶。二人便問。彼方審有七寶山耶。答言。實有。我已獲得。唯患路嶮多有賊盜砂礫荊棘乏於水草。往者千萬達者甚少。聞是事已一人即悔。一人復言。有人能到我亦能到。如其不達以死為期。於彼多獲如願服水。多齎所有還其所止。供養父母供給親族。時悔還者見彼心熱。彼達已還我何為住。便涉路去。行人下合。涅槃之山有佛性水。二人者。如二菩薩行行不同。生死如嶮。逢人如佛。賊如四魔。沙如煩惱。乏於水草如不修道。還喻退轉。往喻不退。退者二乘人是。退大已後鹿苑取小。至方等中見諸菩薩不思議事。皆應號泣聲振三千。於此大乘已如敗種。至法華中方生憂悔。悔不對前悔不待後。怱怱取證今方得聞若依此義法華已前無出假事。但於般若義似出假。次明菩薩中。云心又一轉者。不待經歷漸教座席。本習所熏即能修習。次明通教中破他解云一途之說者。於諸經中有此一往隨機之說。未可遍該通方之意。古人不達是故偏執。但佛下正釋也。謂二乘人鈍根菩薩。至法華中方開入實。入實已後方運大悲。名為出假。若不來至法華座席。如是之人多取滅度。唯識所計即是其流 而於彼土求佛智慧。則非彼論之所修也。若復有人謂此法華偏被下根。判為漸教。若爾法華玄文釋用中云。迹門正為生身未入者入。旁為生法兩身已入者進。本門正為生法兩身已入者入。旁為生身未入者入。又本門增道損生文後。有八世界微塵數人。初始發心。既未遊漸此即頓人。豈從數千二乘之人及鈍菩薩。而判妙教。況兩門得益數倍餘經。何不推尋經之本文。正直捨方便。但說無上道。無二亦無三。除佛方便說。已今當說最為第一。不聞此經不名善行。開方便門示真實相。等賜諸子各一大車。草木皆依一地一雨。如是等文不可具述。何不凭茲為頓教耶。若七地下引經斥下根人。大品所訶何必思盡方始出假。思盡即與第七地齊。故引大品。若入七地已墮二乘。故為諸佛菩薩所訶。有大鳥下舉譬也。大論七十二問云。行空無相願。何以一人作佛一作羅漢。答。所謂薩婆若心行於空等。是故作佛。自度心修故成羅漢。言大鳥者金翅鳥也。能從一須彌至一須彌。在於諸天如人間孔雀。所以不來人間者。翅有毒風令人失眼。是鳥初出兩翅未成。意欲飛去墮閻浮提。若死若死等苦中道心悔我欲還天奢摩黎樹。以身大故翅翼未成不能自舉。論合云。鳥身者菩薩也。身大者多習六度。無翅者無方便智。須彌山者三界也。虛空者無量佛法也。未應飛而飛者。功德未滿欲從菩薩三解脫門。遊於無量佛法空中而欲退沒。雖欲作佛而不能得。若死者。羅漢果也。死等苦者。支佛也。痛惱者。失菩薩本功德也。今文兩釋並是大師隨義轉用。謂苦等於死名為死名為死等。而猶未死故名為等。故以方便及斷見位。名為死等以初果之人思惟全在。義同未死。是鳥下借譬帖合。如人下重舉譬以顯法華之功。先序所治病重。言不能五欲者。以不能男者。通為不能五欲。用譬二乘根敗心死。閹者揜也。揜閉門也。亦曰黃門。黃者主中。中謂聖人居天下中而通理萬民。主黃家之門故曰黃門。亦曰黃昏閉門故曰黃門。華嚴下欲顯法華。先序餘經。華嚴已來至於大品。如世間藥不能治於被閹之人。諸大乘經融通諸法。菩薩觀門願行該括。而不能令二乘發心。等是融通何不融令二乘作佛。但云在座如聾如瘂乃至自悲敗種渴仰上乘。而不為我說斯真要。唯至法華得記生喜遍尋法華已前諸教。實無二乘作佛之文。及明如來文成之說。故知並由帶方便故。若不爾者。豈部圓妙獨隔二乘。問。若言方等不記二乘。何故楞伽第二變化品中。大慧問佛如來何故授聲聞記。佛言。三意故記。一為入無餘界者。密勸修菩薩行故。二為此界他土菩薩樂求聲聞涅槃者。勸捨此心修大行故。三變化佛授聲聞記非法性佛。大慧。授聲聞記是祕密說。判曰。今聞法華是顯露記。不同方等隱密與記。若據斯理淨名大品皆應有之。何獨楞伽。故方等云。第二第三授我等記。初意自為已入滅者。次第二義但為斥於鈍根菩薩。對彼說記何關二乘。第三判非法性佛者。此是以實而隔於權。未若法華顯久遠本。我土不毀而眾見燒。況法性之佛尚不記菩薩。何獨聲聞。故知三義並異法華。當知大慧發起密說。是故發問授記之事。故知彼經義屬方等。與法華異豈待固論。數數斥奪二乘等故。故法華中三周授記偏語聲聞者。為顯餘經所不說故。是故委授劫國之名。菩薩授記處處有文。故但通途云當作佛。乃至本門某生當得。法華稱妙斯言可凭。又闡提下更將涅槃對法華教。彼亦能治斷善闡提。而但名大不名妙者。一有心易治無心難治。難治能治所以稱妙。二者法華已開功非彼得。大陣既破餘黨不難。雖同醍醐非無斯別。然復涅槃偏被末代。帶方便說故復稍殊。別教可見。圓教六根名下根者。出假名同功逾十向。此是相似圓融三諦。不同次第出假之位。又五品下中根也。又初心下上根也。初心即是五品之初。大品下引大品文證上根者。且約通說。五品之初亦約觀行論坐道場度眾生等。更約六即良由於此。上來下結判如文。次料簡中五重問答。初問意者。以空例假。謂情下答中。先分別三根以例出假。以情為上似中真下。情在五停四念處位。似在燸等四善根位。真在見道已上位也。情入者下重釋上根。言觸人者。於似真前念處位中緣苦諦觀。未發相似。所緣之境全同法塵。與此空想法塵相塵。亦得名為情入空也。非謂爾前凡情名入。然此四念人皆能入。故曰觸人。恐濫外凡已前。故云非謂散情。或云發八觸人方名情入。未審此意(云云)。若爾下更難。但是情入於空何益。此有下答。亦但情益。雖未證空與散情異。即此名益何必似真。為通前難以辨三根。於實入空未為真益。若益下更難。凡云益者。應異退人。既云有益應當不退。不併退者答也。雖未名為不退之位。此位何必一切盡退。設下縱釋。設使有退亦能數修。何以故。是人以用五停治法。深重惑謝。故能數修四念處觀。次問者。通別上根初心之時。即能入假。當知即假復能入空。是則空假二觀相即。以圓空假相即何別。答中列出三人不同。通人雖即正出假時似即入空。此教始終不能入中。故知不同圓教相即。別人雖亦初心出假復即入空。教體終須先空次假。習佛法備後方修中。故名次第。故此兩教與圓永乖。況通別入空但照六界。兩教出假長短不同。尚未能出佛法界假。豈能九界見即中耶是故兩教與圓不同。況復初心空假並用。一往似即二俱未滿。縱帶此空即十界假。既無法性的非圓融。何須難云與圓何別。從圓人去辨圓異別。而言一心亦能作別者。謂勝能兼劣能別能圓。謂多入下次釋圓人次第之相文列五句但成四句。以第五句與初句同。但是文誤應無別意。義推應有六句不同。前四如文。除初同句更加假中與空相對。以為兩句謂多入空少入假中。多入假中少入空。文無者略。若爾下難向六句。雖有多少三觀俱時。何名圓人能觀次第。故云則非次第之別。然下答。如向六句即是勝別。別教次第名為劣別。圓觀自在勝劣俱能。是故以勝而況於劣。二明出假利益者。欲明出假真實利益。必在別圓初地初住。是知三根雖益而微。此是第四示文妙旨。故知明益正示文意。次第假相利益非無。於中且先總序真應。於中先明真應之由。文云真應復云法眼。故此法眼必非地前。以不思議假為法眼耳。次應以下略明應益以格藏通。驗知此益定在法身。三藏下歷教正釋。判前兩教菩薩之人。非真起應。縱約佛者尚非真應況復菩薩。言佛非者。亦且約於當分教道。准彼教門未明法身。是故當教無真應義。若開顯說即是法身。與誰相形云無真應。即是玄文跨節義也。應有下明真應相以斥藏通。如釋迦過去過去久得法身。於六道中與物結緣。今於王城出家成道。是故名為應有始終。別教地前尚非真應況復藏通。別教下正明真應。即登地已上乃至妙覺。深水曰淵。水本曰源。見眾生病知病根本。如人見水知水源底。覩諸法藥識藥內實。如人見藥知藥體性。印謂符印。以銅為之使天下同。今亦如是。使用諸教與機不差。故名為同。是則無明為病淵源。中道為藥府藏。真種智知如印不差。不思議眼所見無失。和光下釋現身也。同四住塵處處結緣。作淨土因為利物之始。眾生機熟八相成道。見身聞法終至實益。仍存教道以約初地。次明圓教。證道不別。是故但云乃至亦復如是。若得下對邪料簡。魔亦能為故須決擇。所以者何下釋簡邪也。言以有漏形作無漏像者。如優波毱多調伏魔竟。欲見如來在日之形。謂魔曰。汝為我現。魔曰。如教。但現相之時莫為作禮。便於林中放大光明。八部導從乘空而出。毱多見已生希有心。不覺作禮以偈讚曰。快哉清淨業。能成是妙果。非自在天生。亦非無因作。面如紫金色。目淨若青蓮。端正超日月。奇妙勝華林。湛然若大海。不動逾須彌。安步猶師子。顧視同牛王。無量百千劫。淨修身口意。以是故獲得如此殊妙身。怨見尚歡喜。況我不欣慶。魔被作禮更復本形。大經四依品云。若魔變為佛形。三十二相八十種好。如是莊嚴來向汝者。汝當檢挍定其虛實。世尊。魔等尚能化作佛形。況不能作阿羅漢像。邪正品云。天魔波旬為壞法故。作四眾像四果佛像。老子等者。彼化胡經乃是道士王浮偽造今且縱之。借使老子化作佛者。亦是以有漏形作無漏像。亦同天魔化身之例。況復彼經自化十胡。何關五印。變釋為羊等者。大經三十五文。具如釋籤第三所引。尚非三藏五通者。未斷惑故無無漏通。所得神通亦依根本期心異故通用亦勝。彼諸外道尚無念處煖頂等法。故云世智。如是現者。但是如意身通少分。如何得比三藏五通。尚劣三藏豈同別圓。化語下責奪也。雷同者。如陰陽發雷同生萬物。亦作靁字字義同前。故知下示真應益。三結破法遍者。准文次第破無明盡方可云遍。亦是取意不次第說。先寄三諦以意斥文。次舉要以結示。初三諦中先約真諦。前明文相。於文相中又先出凡情。未破見位尚未次第入真。況不次第入實。初獨舉見意則兼思。故此次文見思並舉。譬中略引三譬。如盲問乳。具如前引。若繩若杵者。大經如來性品云。譬如有王令一大臣牽一白象示諸盲人眾盲各各以手觸象。王問眾盲象為何類。其觸牙者言象如萊茯根。其觸耳者言象如箕。其觸鼻者言象如杵。其觸脚者言象如臼。其觸脊者言象如床。其觸腹者言象如瓮。其觸尾者言象如繩。次合喻云。或有說言色是佛性或有說言受是佛性。想行識我亦復如是。各執俱非故云何關。離此無象方知各是。是故總云不即不離。不即故凡夫豈是。不離故離凡復無。是故各計皆名為見。以色等六合牙等七。故七喻通不須的對。囈言等者應作此寱。睡中言也。大經第十八云。譬如二人共為親友。一是王子(能化)一是賤人(所化)如是二人互相往反(感應相)是時貧人(邪我名貧)見是王子有一好刀淨妙第一(佛性)心中貪著(愛樂佛法)王子後時執持是刀逃至他國(菩薩捨應也。感應事密故云逃至。轉化餘方故云他國)貧人於後寄宿他舍(受五道身)即於夢中寱言刀刀(無明暗寱妄謂有我。從此已下聲聞施化。即以似一名為旁人)旁人聞已收至王所。時王問言。汝言刀者。為何所似可以示我。是人具以上事白王(初果)王今設使屠割臣身分裂手足欲得刀者。實不可得(析觀)臣與王子素為親友(曾受小化)共在一處(機感相應)雖曾眼見(聞慧)乃至不敢以手棠觸(思慧)況當故取(修慧唯得聞慧無思修故)王復問言。卿所見刀相貌何似。答言。大王刀者如羖羊角(剎利計神黃色)王聞是已欣然而笑。語言。汝今隨意所趣勿生憂怖。我庫藏中都無是刀。況汝曾於王子邊見。王問群臣汝曾見不言已便終。尋立餘王紹繼王位。復問諸臣汝於庫藏曾見刀不。臣答。曾見。問言。何似。答言。如羖羊角。如是展轉至第四王登位(即第四果)復問諸臣皆答言見。王復問言。相貌何似。答言。如優鉢羅華(婆羅門計神白)復有說言其色紅赤如火聚(毘舍計神赤色)有言。猶如黑蛇(首陀計神黑色)王聞大笑。卿等悉皆不見我刀真相。已上注文並是章安疏釋。經自合云。說已捨去如王子逃。凡夫說我如彼暗囈。聲聞緣覺問諸眾生我有何相。或有說言如母指。或言如粟米等住在身中熾然如日。如來出世為斷我相言無是刀。貝粖雪鶴摸象囈言並喻邪常。雖云佛性而皆執我故屬見攝。故今引之。破見思遍但是入空。就文字下說意也。附文但是破見思遍故云如此。若論元意一見一思無非法界。不同次第故曰意則不然。見思即是下正出文意。若從文說見思障真無明障中。若從意說。見思之外無別無明。無明體性既即法性。當知見思亦即法性。若見見思無明法性。是約名等五即論遍。若取見性應唯第五第六。今通論破何須必至分證究竟名遍。次寄從空出假者。亦先明文相次顯文意。故云亦爾。初文相中既是次第。且約法眼論遍不遍。六根已下次明文意。文意本在不次第假。不次第假雖即從初不次第破。復約不次而論次位。即是六根麁惑先除。發得相似不思議假。相似即是中道前相。即是遍位之氣分也。障通下約中道觀以示破遍。中道既是破遍之法。是故直約雙照論遍。不須復於文外論意。即指無明為障不思議化道神通之惑。此惑若破任運雙照。雖復文中不論文相。然此中道居二觀後。復當次第文相故也。故舉要下更總明文旨。謂不次第。具如前文。即觀見思即見法性。不復更論三惑三觀前後次第。如此結要乃名遍耳。前觀法下示結遍意。結遍應在中道文後。如何於此預明破遍。但後文明遍理數而然。秖恐見前空假二觀觀法重沓。迷於文旨。言文旨者。向之重沓不出一心。故於此中且先略示。見思尚乃即是法性。豈有塵沙在見思外。豈有無明在二觀後。三惑既即三觀必融。此是第五示文旨也。

次に、仮に入る位を明らかにする者について。解釈の中では、まず位の意を明らかにします。もしもっぱら前三教の下根が仮を破る位を用いるならば、凡夫は崖を望んで自ら絶望してしまいます。空に入る時、まず見惑を見、後に思惑を断じる位は長遠です。七生で思惑を尽くすとか、一来果であるとか、さらには上述のように見惑思惑を破る重数が無量であるならば、空に入る位にさえ至ることができません。ましてや仮に入ることはなおさらです。だから「迢遥として遠い」と言うのです。したがって、諸教が位を明らかにするのを識らなければなりません。権位の下根は仮に入る時期はまだですが、実位の上根は一生で至ることができます。一思一見すら即ち法界です。ましてや仮を出すことはなおさらです。崖とは岸のことです。『爾雅』に「水のほとりである」と言っています。また「崖の重なるものを岸という」とも言っています。今、まさに以下で正しく解釈します。初めに三蔵を明らかにします。その中でまず二乗、次に菩薩です。初めの文ではまず法です。文の通りです。「譬如」などは、二乗の人を譬えています。したがって『大経』二十六に、師子吼の難問に「衆生にもし仏性があるならば、なぜ退く者と退かない者があるのか」とあります。仏は譬えをもって答えられます。譬えば二人の人が共に他方に七宝の山があると聞きます。山には清泉がありその味は甘美です。もし能く到ることができれば永久に貧苦を断ち、その水を飲めば寿命を増益します。ただ道は険難です。その二人の者は、一つは荘厳し、一つは空しく往きます。道で一人の人に出会い、多く七宝を携えています。二人は便ち問います。「かの方に審かに七宝の山はあるのか」と。答えて言います。「実にあります。私はすでに獲得しました。ただ道の険しさと多くの賊盗、砂礫や荊棘、水草の乏しいことを患います。往く者は千万ですが、達する者は甚だ少ないのです」と。この事を聞いて、一人は即ち悔い、一人はまた言います。「人が能く到ることができるなら、私もまた能く到ることができる。もし達しなければ死を期とする」と。かの所で多く獲て願いの如く水を服し、多く所有を携えてその止まる所に還り、父母を供養し親族を供給します。時に悔いて還った者は、かの心の熱いのを見ます。かの達した者が已に還ったなら、私も何のために住もうか。便ち道を渉って去ります。行人は以下に合わします。涅槃の山には仏性の水があります。二人の者は、二菩薩の行行が同じでないようなものです。生死は険しいことの如く、人に逢うことは仏の如く、賊は四魔の如く、沙は煩悩の如く、水草の乏しいのは修道しないことの如くです。還るは退転を喩え、往くは不退を喩えます。退く者は二乗の人です。大を退いた後、鹿苑で小を取ります。方等の中に至って諸菩薩の不思議な事を見て、皆号泣して声は三千を振るいます。この大乗において已に敗種の如くです。法華に至って初めて憂悔を生じます。悔は前に対してでなく、悔は後を待ちません。慌ただしく証を取りますが、今になって初めて聞くことができます。この義に依れば、法華以前には仮を出す事はありません。ただ般若において義は仮を出すに似ています。次に菩薩の中を明らかにします。「心また一転する」とは、漸教の座席を経歴するのを待たず、本習の熏じた所が即ち能く修習するのです。次に通教の中を明らかにする中で、他の解を破して「一途の説」と言います。諸経の中にこの一往の機に随った説があります。未だ遍く通方の意に該すべきではありません。古人不達で、それゆえ偏執します。ただ仏以下は正しい解釈です。二乗の人や鈍根の菩薩は、法華に至って初めて実に入ることを開きます。実に入った後、初めて大悲を運び、これを仮を出すと名づけます。もし法華の座席に来なければ、このような人は多く滅度を取ります。唯識所計は即ちその流れです。しかしかの土において仏の智慧を求めるのは、かの論の修する所ではありません。もしまた人が「この法華は偏に下根を被る」と言い、漸教と判じるならば、そのように法華玄文が用を解釈する中に言います。迹門は正しく生身の未入の者のために入り、傍ら生法両身の已入の者のために進みます。本門は正しく生法両身の已入の者のために入り、傍ら生身の未入の者のために入ります。また本門の増道損生の文の後に、八世界の微塵数の人があり、初めて発心します。既に漸を遊ばないので、これは即ち頓人です。どうして数千の二乗の人及び鈍菩薩から妙教を判じましょうか。ましてや両門の得益は余経の数倍です。どうして経の本文を推尋しないのでしょうか。「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く。二も無く三も無く、仏の方便説を除く。已に今まさに説く、最も第一と為す。この経を聞かざれば善行と名づけない。方便門を開いて真実相を示す。等しく諸子に各一の大車を与える。草木は皆一地一雨に依る」など、このような文は具に述べることができません。どうしてこれに凭って頓教としないのでしょうか。もし七地以下は経を引いて下根人を斥します。大品所訶は必ずしも思尽きて初めて仮を出す必要はありません。思尽きれば即ち第七地と斉しくなります。ゆえに大品を引きます。もし七地に入れば已に二乗に堕ちます。ゆえに諸仏菩薩の所訶となります。大鳥以下は譬えを挙げます。大論七十二の問に「空無相願を行じるのに、なぜ一人は仏を作り一人は羅漢を作るのか」とあります。答えます。「所謂薩婆若心が空等を行じる、ゆえに仏を作る。自度の心で修める、ゆえに羅漢と成る」と。大鳥と言うのは金翅鳥です。能く一須弥から一須弥へと至ります。諸天においては人間の孔雀の如くです。人間に来ないのは、翅に毒風があり人をして眼を失わせるからです。この鳥は初めて出る時、両翅未だ成らず、意に飛び去ろうとして閻浮提に堕ちます。死ぬか死等の苦で、中道で心に悔い「私は天の奢摩黎樹に還りたい」と思います。身が大きいゆえに翅翼未だ成らず、自ら挙げることができません。論に合わして言います。「鳥身は菩薩です。身大とは多く六度を習うことです。翅無しとは方便智が無いことです。須弥山は三界です。虚空は無量仏法です。未だ飛ぶべきでないのに飛ぶとは、功德未だ満たずして菩薩の三解脱門から無量仏法の空中に遊び、而も退没しようとするのです。仏を作ろうと欲しても而も能く得ることができません。もし死ぬとは、羅漢果です。死等の苦とは、支仏です。痛悩とは、菩薩の本功德を失うことです」と。今の文の両釈は並びに大師が義に随って転用したものです。苦が死に等しいのを名づけて死、名づけて死等と言います。しかも猶未だ死なないゆえに名づけて等と言います。ゆえに方便及び断見の位をもって、名づけて死等とします。初果の人の思惟は全く在るので、義は未だ死なないのに同じです。この鳥以下は譬えを借りて帖合します。如人以下は重ねて譬えを挙げて法華の功を顕します。まず所治の病の重いのを序します。五欲できないと言うのは、不能男をもって通じて五欲できないとします。二乗の根敗心死を譬えます。閹とは揜のことです。揜は門を閉じることです。また黄門とも言います。黄とは中を主ります。中とは聖人が天下の中に居て万民を通理することを謂います。黄家の門を主るゆえに黄門と言います。また黄昏に門を閉じるゆえに黄門と言います。華厳以下は法華を顕さんと欲して、まず余経を序します。華厳已来、大品に至るまで、世間の薬が閹の人を治すことができないようなものです。諸大乗経は諸法を融通し、菩薩の観門願行は該括しますが、而も二乗をして発心させることはできません。等しくこれ融通ならば、どうして融して二乗をして作仏させないのでしょうか。ただ座に在って聾の如く唖の如く、乃至自ら敗種を悲しみ上乗を渴仰しますが、而も私のために斯の真要を説きません。ただ法華に至って記を得て喜びを生じ、遍く法華以前の諸教を尋ねます。実に二乗作仏の文はありません。及び如来の文成の説を明かします。ゆえに知る、並びに方便を帯するゆえです。もしそうでなければ、どうして部円妙にして独り二乗を隔てましょうか。問います。「もし方等が二乗に記しないと言うなら、なぜ楞伽第二変化品の中に、大慧が仏に『如来は何ゆえ声聞に記を授けるのか』と問うと、仏は『三意ゆえに記す。一には無余界に入る者のために、密に菩薩行を修めるのを勧めるゆえ。二には此界他土の菩薩で声聞涅槃を楽求する者のために、此の心を捨てて大行を修めるのを勧めるゆえ。三には変化仏が声聞に記を授けるのは法性仏ではない』と言われる」と。大慧よ、声聞に記を授けるのはこれ秘密説です。判じて言います。今法華を聞くのはこれ顕露の記です。方等の隠密に記を与えるのとは同じではありません。もしこの理に拠れば、浄名大品にも皆あるはずです。どうして独り楞伽だけでしょうか。ゆえに方等に「第二第三に我等に記を授く」と言います。初めの意は自ら已に滅に入った者のためです。次の第二義はただ鈍根菩薩を斥するためです。彼に対して記を説くのは何の二乗に関係がありましょうか。第三に法性仏ではないと判じるのは、これ実をもって権を隔てるのです。未だ法華が久遠の本を顕すには及びません。我が土は毀れずして衆は焼けるを見ます。まして法性の仏は尚菩薩に記しません。どうして独り声聞だけでしょうか。ゆえに知る、三義は並びに法華と異なります。まさに知るべきです、大慧が密説を発起したのは、それゆえに授記の事を発問したのです。ゆえにかの経の義は方等に属すると知ります。法華と異なるのはどうして固論を待ちましょうか。しばしば二乗等を斥奪するゆえです。ゆえに法華の中に三周授記して偏に声聞に語るのは、余経の説かない所を顕すためです。それゆえに委しく劫国之名を授けます。菩薩授記は処々に文があります。ゆえにただ通途に当に作仏すべしと言います。乃至本門に某生当に得べしとあります。法華が妙と称するのはこの言に凭るべきです。また闡提以下は更に涅槃を将って法華教に対します。かしこもまた能く断善闡提を治します。而もただ大と名づけて妙と名づけないのは、一には有心は治し易く無心は治し難いからです。難治を能く治するゆえに妙と称します。二つには法華は已に開いて功は彼の得る所ではないからです。大陣既に破れれば余党は難しくありません。同じく醍醐といえどもこの別がないわけではありません。しかしまた涅槃は偏に末代を被り、方便説を帯するゆえにまたやや殊なります。別教は見るべしです。円教の六根は下根と名づけます。仮を出す名は同じですが功は十向に逾えます。これは相似の円融三諦です。次第に仮を出す位とは異なります。また五品の下は中根です。また初心の下は上根です。初心は即ち五品の初めです。大品以下は大品の文を引いて上根を証します。かつ通説に約します。五品の初もまた観行に約して坐道場度衆生等を論じます。更に六即に約するのは良にこのゆえです。上来以下は結判して文の通りです。次に料簡の中に五重の問答があります。初めの問の意は、空をもって仮を例えます。情以下と謂うのは答の中です。まず三根を分別して仮を出すのに例えます。情を上と為し、似を中と為し、真を下と為します。情は五停四念処の位に在ります。似は燸等の四善根位に在ります。真は見道已上の位に在ります。情入以下は重ねて上の上根を解釈します。人に触ると言うのは、似真の前の念処位の中で苦諦を縁ずる観は、未だ相似を発しません。所縁の境は全く法塵と同じです。此の空想の法塵と相塵とは、また情入空と名づけることができます。前の凡情を入と名づけるのではありません。しかしこの四念の人は皆能く入るゆえに、触人と言います。外凡已前に濫れるのを恐れるゆえに、散情ではないと言います。あるいは八触を発した人を方に情入と名づけると言います。未だこの意を審らかにしません(云云)。もしそうなら以下は更に難じます。ただ情が空に入るのは何の益がありましょうか。此に有以下は答です。またただ情の益です。未だ空を証しませんが散情とは異なります。即ちこれを名づけて益とします。何ぞ必ずしも似真である必要がありましょうか。前の難を通じて三根を辨じるためです。実の入空は未だ真の益とはしません。もし益以下は更に難じます。およそ益と言うなら、退人と異なるべきです。既に有益と言うなら、まさに退かないはずです。併せて退かない者は答です。未だ不退の位と名づけませんが、この位は何ぞ必ずしも一切尽く退くものでしょうか。設以下は縱釋です。設使退があってもまた能く数修します。なぜなら、この人は五停の治法を用いて深重の惑が謝するゆえに、能く数修して四念処の観を修めるのです。次の問は、通別の上根の初心の時、即ち能く仮に入ります。まさに知るべきです、即仮はまた能く空に入ります。これは則ち空仮の二観が相即です。円の空仮の相即をもって何の別がありましょうか。答の中に三人の不同を列します。通人は即ち正しく仮を出す時、似に即ち空に入りますが、この教は始終中に入ることができません。ゆえに円教の相即とは同じでないと知ります。別人はまた初心に仮を出してまた即ち空に入りますが、教体は終に須く先ず空、次に仮、習仏法が備わって後に方に中を修めます。ゆえに次第と名づけます。ゆえにこの両教は円と永く乖きます。まして通別の入空はただ六界を照らすだけです。両教の出仮は長短不同です。まだ能く仏法界の仮を出すことができません。どうして能く九界の見が即ち中であることができましょうか。これゆえ両教は円と同じでありません。ましてや初心に空仮並びに用います。一往は即に似ていますが二つとも未だ満ちません。縱えこの空を帯して十界の仮に即しても、既に法性がなければ円融ではありません。何ぞ須く円と何の別があるかと難ずる必要がありましょうか。円人から去って円が別と異なるのを辨じます。而も一心もまた能く別を作ると言うのは、勝が能く劣を兼ね、能別が能円を兼ねることを謂います。多入以下は次に円人の次第の相を解釈します。文に五句を列しますがただ四句を成じます。第五句は初句と同じゆえです。ただこれ文の誤りで、別の意はないはずです。義推すれば六句の不同があるはずです。前四は文の通りです。初めの同句を除き、更に仮中と空と相対するを加え、以て両句と為します。多は空に入り少は仮中に入る、多は仮中に入り少は空に入ると謂います。文に無いのは略です。もしそうなら以下は向の六句を難じます。多少はあっても三観は倶時に、どうして円人と名づけて次第を観ることができましょうか。ゆえに則ち次第の別ではないと言います。然以下は答です。向の六句の如きは即ちこれ勝の別です。別教の次第は劣の別と名づけます。円観は自在で勝劣倶に能くします。ゆえに勝をもって劣を況んじます。二に出仮の利益を明らかにする者。出仮の真実の利益を明らかにせんと欲すれば、必ず別円の初地初住に在ります。これゆえ三根は益があっても微かであると知ります。これは第四に文の妙旨を示します。ゆえに益を明らかにするのは正しく文意を示します。次第の仮相の利益も無いわけではありません。その中でまず総じて真応を序します。その中でまず真応の由を明らかにします。文に真応と云いまた法眼と云います。ゆえにこの法眼は必ず地前ではありません。不思議の仮をもって法眼とします。次に応以下は略して応益を明らかにして蔵通を格します。験知すべし、この益は定んで法身に在ります。三蔵以下は教を歴て正しく解釈します。前の両教の菩薩の人を判じます。真に応を起すのではありません。縱え仏に約しても尚真応ではない、まして菩薩はなおさらです。仏非と言うのは、またかつて当分の教道に約します。かの教門に准じれば未だ法身を明らかにしません。ゆえに当教に真応の義はありません。もし開顕して説けば即ち法身です。誰と相形して真応が無いと言いましょうか。即ち玄文の跨節の義です。応有以下は真応の相を明らかにして蔵通を斥します。釈迦は過去久遠に法身を得ています。六道の中で物と縁を結びます。今王城で出家成道します。ゆえに応有始終と名づけます。別教の地前は尚真応ではない、まして蔵通はなおさらです。別教以下は正しく真応を明らかにします。即ち登地已上乃至妙覚です。深水を淵と言います。水本を源と言います。衆生の病を見て病の根本を知ります。人が水を見て水源の底を知るが如くです。諸法薬を覩て薬の内実を識ります。人が薬を見て薬の体性を知るが如くです。印とは符印を謂います。銅をもってこれを作り天下をして同じくします。今もまた如是です。諸教を用いて機と差わなければ、ゆえに同と名づけます。これは則ち無明を病の淵源と為し、中道を薬の府蔵と為します。真種智は印の如く差わらず、不思議眼の見る所は失がありません。和光以下は現身を解釈します。四住の塵を同じくして処々に縁を結びます。浄土の因を作るのは利物の始めです。衆生の機が熟すれば八相成道し、身を見法を聞いて終に実益に至ります。なお教道を存して初地に約します。次に円教を明らかにします。証道は別ならず、ゆえにただ乃至もまた復如是と云います。もし得以下は邪に対料簡します。魔もまた能くなすゆえに須く決択します。所以者何以下の釈は邪を簡びます。有漏の形をもって無漏の像を作ると言うのは、優波毱多が魔を調伏し終わって、如来の在世の形を見んと欲します。魔に謂って言います。「汝我がために現ぜよ」と。魔が言います。「教の如くならん。ただ相を現す時、礼を作す莫れ」と。便ち林中で大光明を放ち、八部が導従し空より出ます。毱多は見已って希有の心を生じ、覚らずして礼を作し偈に讃めて曰く。「快哉清浄業、能く是の妙果を成ず。自在天の生に非ず、また無因の作にも非ず。面は紫金色の如く、目は浄く青蓮の若し。端正にして日月に超え、奇妙にして華林に勝る。湛然として大海の若く、動かずして須弥に逾え、安歩すること猶師子の如く、顧視すること牛王に同じ。無量百千劫、浄く身口意を修し、是を以ての故に獲得して如此の殊妙身あり。怨見すら尚歓喜す、まして我欣慶せずや」と。魔は礼を作されて更に本形に復します。大経四依品に云います。「もし魔が仏形と変じ、三十二相八十種好、如是荘厳して汝に向かって来たらば、汝まさに検挍してその虚実を定むべし」と。世尊、魔等は尚能く仏形に化す、まして阿羅漢像を作すことができないでしょうか。邪正品に云います。「天魔波旬は法を壊すがために、四衆の像、四果仏の像を作す」と。老子等は、かの化胡経はこれ道士王浮の偽造で、今かつこれを縱します。借使老子が仏に化しても、またこれ有漏の形をもって無漏の像を作すので、天魔の化身の例に同じです。ましてかの経は自ら十胡に化すと、何の五印に関係がありましょうか。釈を変じて羊と為す等は、大経三十五の文で、具に釈籤第三に引く所の如くです。尚三蔵の五通にも非ざるは、未だ惑を断じないゆえに無漏通がありません。所得の神通もまた根本に依り期心異なるゆえ通用もまた勝れます。かの諸外道は尚念処燸頂等の法がありません。ゆえに世智と云います。如是現ずるは、ただこれ如意身通の少分です。どうして三蔵の五通に比べることができましょうか。尚三蔵に劣る、どうして別円と同じでありましょうか。化語以下は責奪です。雷同とは、陰陽が雷を発して同じく万物を生ずるが如くです。また靁の字を作り字義は前と同じです。ゆえに知る以下の示真応益。三に結んで法遍を破します。文に准じれば次第に無明を破り尽くして方に遍と云うべきです。また意を取れば次第に説かないのです。まず三諦に寄せて意をもって文を斥します。次に要を挙げて結示します。初め三諦の中ではまず真諦に約します。前に文相を明らかにします。文相の中ではまたまず凡情を出します。未だ見の位を破らないならば尚次第に真に入りません。まして不次第に実に入ることはなおさらです。初めに独り見を挙げる意は則ち思を兼ねます。ゆえにこの次の文は見思並びに挙げます。譬えの中では略して三つの譬えを引きます。盲が乳を問うが如きは、具に前に引く所の如くです。縄の若しくは杵の如きは、大経如来性品に云います。「譬えば王ありて一大臣に令じて一白象を牽き諸盲人に示す。衆盲各各手をもって象に触る。王問う、衆盲よ象は何の類なるかと。その牙に触るる者は言う、象は萊茯根の如しと。その耳に触るる者は言う、象は箕の如しと。その鼻に触るる者は言う、象は杵の如しと。その脚に触るる者は言う、象は臼の如しと。その脊に触るる者は言う、象は床の如しと。その腹に触るる者は言う、象は瓮の如しと。その尾に触るる者は言う、象は縄の如しと」と。次に合喻に云います。「あるいは説いて言う、色は是れ仏性なりと。あるいは説いて言う、受は是れ仏性なりと。想行識我もまた復如是なり」と。各執は倶に非なるゆえに何の関わりがあろうかと云います。此を離れて象無き方は知る、各是なるを。ゆえに総じて不即不離と云います。不即のゆえに凡夫豈是れならん。不離のゆえに凡を離れ復無し。ゆえに各計は皆見と名づけます。色等の六をもって牙等の七に合わすゆえに、七喻は通じて的対するに及ばず。囈言等は、まさに寱と作すべし。睡中言です。大経第十八に云います。「譬えば二人ありて共に親友と為る。一つは是れ王子(能化)、一つは是れ賤人(所化)。如是の二人互いに往反す(感応相)。時に貧人(邪我を貧と名づく)、是の王子の一の好刀の浄妙第一なるあり(仏性)、心中に貪著するを見る(愛楽仏法)。王子後時に是の刀を執持して他国に逃至す(菩薩の捨応なり。感応の事密なるゆえ逃至と云い、転化余方のゆえ他国と云う)。貧人後時に他舎に寄宿す(五道の身を受く)。即ち夢中に寱言す、刀刀と(無明暗に寱り妄に我ありと謂う。これより已下は声聞の施化。即ち似の一名を以て旁人と為す)。旁人聞已って収めて王所に至る。時に王問いて言う、汝刀と言う者は何に似たるや、以て我に示すべしと。是の人具に以上の事をもって王に白す(初果)。王今設使臣が身を屠割し手足を分裂して刀を得んと欲すとも、実に得べからず(析観)。臣と王子とは素と親友と為る(曾って小化を受く)。共に一処に在り(機感相応)。曾って眼見すといえども(聞慧)、乃至敢えて手をもって棠触せず(思慧)。まして故に取らんや(修慧はただ聞慧を得て思修無きゆえ)。王復問いて言う、卿が見る所の刀は相貌何に似たるやと。答えて言う、大王、刀は羖羊角の如しと(刹利は神を黄色と計る)。王聞已って欣然として笑い、語って言う、汝今意の趣く所に随え、憂怖を生ずる勿れ。我が庫蔵の中には都て是の刀なし。まして汝かつて王子の辺において見んやと。王群臣に問う、汝曾って見たるや否やと。言已って便ち終わる。尋いで余王を立てて王位を紹継せしむ。復諸臣に問う、汝庫蔵においてかつて刀を見たるや否やと。臣答えて言う、曾って見たりと。問いて言う、何に似たるやと。答えて言う、羖羊角の如しと。如是展転して第四王の登位に至る(即ち第四果)。復諸臣に問うに皆答えて言う、見たりと。王復問いて言う、相貌何に似たるやと。答えて言う、優鉢羅華の如しと(婆羅門は神を白と計る)。復あるいは説いて言う、其の色紅赤にして火聚の如しと(毘舎は神を赤色と計る)。あるいは言う、猶黒蛇の如しと(首陀は神を黒色と計る)。王聞いて大笑す。卿等は悉く皆我が刀の真相を見ずと。已上の注文は並びにこれ章安の疏釈です。経自ら合して云います。説已って捨て去るは王子の逃るるが如し。凡夫の我を説くは彼の暗囈の如し。声聞縁覚は諸衆生に問う、我は何の相ありやと。あるいは説いて言う、母指の如しと。あるいは言う、粟米等の如しと。身中に住み熾然として日の如しと。如来世に出でて我相を断ずるために言う、是の刀は無しと。貝粖雪鶴摸象囈言は並びに邪常を喩えます。仏性と云えども而も皆我を執るゆえ見摂に属します。ゆえに今これを引きます。見思を破る遍はただこれ入空です。文字に就いて以下は説意です。文に附すればただこれ見思を破る遍のゆえに如此と云います。もし元意を論じれば一見一思は法界に非ざるはありません。次第と同じでないゆえ意は則ち然らずと曰います。見思即是以下は正しく文意を出します。もし文から説けば見思は真を障え無明は中を障えます。もし意から説けば見思の外に別の無明はありません。無明の体性は既に法性に即します。まさに知るべきです、見思もまた即ち法性です。もし見思無明法性を見れば、これ名等五即に約して遍を論じます。もし見性を取ればまさにただ第五第六であるべきです。今通じて破を論ずるに何ぞ必ずしも分証究竟に至って遍と名づける必要がありましょうか。次に空より仮を出すに寄せる者は、またまず文相を明らかにし次に文意を顕します。ゆえに亦爾と云います。初めの文相の中は既にこれ次第で、かつ法眼に約して遍不遍を論じます。六根已以下は次に文意を明らかにします。文意は本と不次第の仮に在ります。不次第の仮は即ち初めより不次第に破しますが、また不次に約して次位を論じます。即ちこれ六根の麁惑を先ず除き、相似不思議の仮を発得します。相似は即ちこれ中道の前相です。即ちこれ遍位の気分です。障通以下は中道観に約して以て破遍を示します。中道は既にこれ破遍の法です。ゆえに直ちに双照に約して遍を論じます。須く復た文外に於いて意を論じる必要はありません。即ち無明を指して障不思議化道神通の惑と為します。この惑もし破すれば任運に双照します。文の中に復た文相を論じなくても、しかしこの中道は二観の後に居ります。またまさに次第の文相に当たるゆえです。ゆえに要を挙げ以下は更に総じて文旨を明らかにします。不次第を謂います。具に前文の如し。即ち見思を観ずるは即ち法性を見るのです。復た更に三惑三観の前後の次第を論じません。このように結要して乃ち遍と名づけます。前の観法以下は結遍の意を示します。結遍はまさに中道の文の後にあるべきです。どうしてここで予め破遍を明らかにするのか。ただ後文に遍を明らかにするのは理数が而然とするのです。ただ恐らくは前の空仮二観の観法の重沓を見て、文旨に迷うからです。文旨と言うのは、向の重沓は一心を出でないのです。ゆえにこの中でかつまず略して示します。見思すら尚乃ち即ち法性です。どうして塵沙が見思の外にありましょうか。どうして無明が二観の後にありましょうか。三惑が既に即ちならば三観は必ず融です。これは第五に文旨を示します。

次釋中道四門不同。於中先更牒前空假舉後入中。三文相對以顯圓妙。生不生等者。次第非實並云一往。自他及以雙照自他。並非文旨。言同意殊故皆名似。生不生更牒前從假入空。即不生生等是述文意。自即不自等者。重述前文次第行意。意本在於不次第也。依文次第空是自行。即此自行即是化他。即非自他。不生生更牒前出假。不生不生引後入中。假中二文比入空說。可以意得。故以三文展轉相即。使空成妙空乃至假中成妙假中。此即第六示文旨也。種種下結前說意 意雖若是還且附文次第而說。故釋中道復開四章。四章初文明中觀意者。於次第中初文復先說於文旨。今雖次第即是圓教二惑先除。除非本意意在初心圓修三觀。故歷四教簡其觀相前之兩教但中尚無。何況圓妙。別雖聞中如眼暗者。是故三教非今所論。三藏可見。次通教中初明理同三藏故無別理可觀。雖無等者。此教無中假立中號。亦云不生不滅故也。故知他約緣生色心作三諦名。不能出此。亦得下雖明遠通論被接者。是故當教終無第三。次別教中初約諦離合中。言元知中者。但知而已。初雖未觀然異通教後心方知。故云元知。照此二諦等者。既以有無共為俗諦以佛法中而為真諦。有異於小故曰從容。雖合真俗以之為俗真諦不出中道理體。通教雖作三諦之名。實無中體。此理下約觀譬顯真因分齊。初法。次譬。如眼暗等者初標也。云何下釋也。亦是合喻。雖標心本眼。以眼暗故但穿旁眼。旁實無眼謂旁有眼。別教菩薩亦復如是。雖初知常而行次第。中理之外實無真俗謂有真俗。名為旁眼。是故此教先破二惑。邊外無中期心邊外。當知三諦俱名旁眼。例如下舉例也。方便如二諦見諦如見中。次明圓教有法譬合。初法中云。先破兩惑等者。秖是圓觀麁惑先除。故知一生初住可獲。故南嶽云。望入銅輪領眾太早。但淨六根。次第行者。借使一生兩惑先除。雖不經歷亦成次第。或圓接別或別圓接通或解圓行漸。並兩惑先除俱非今意。今意一向專在於圓。次譬中初約用兵以譬能所。次以治鐵別譬於能。器械譬止。身力譬諦。智謀譬觀。械者兵器通名。兵即五兵也。設弓刀槊戈殳也。殳音殊。長丈二兩刃。戟有柄也。故淮南子云。用兵如決積水於千刃之隄。轉圓石於萬丈之壑。即兵利也。今以身壯譬圓三諦。兵利譬圓三上也。權多譬圓三觀也。智械並依身力故也。一日者一生也。兩鐵譬者。約教說之乃有種種燒治故也。次修中觀緣者。初正釋五緣。五名雖同義與假異。一者假中五事具足方能出假。今此為具五事應須入中。又期心五事方可修中。入空五緣意亦如是。次釋中初云無緣慈悲者。具足三慈方名無緣。此慈下結成雙非三諦相也。大經十四梵行品文。品初云。慈有三種。一緣眾生。二緣於法。三者無緣。眾生緣者。緣一切眾生如父母親想。法緣者。見一切法皆從緣生。無緣者。不住法相及眾生相。大論二十亦云。慈有三種。眾生緣者。謂緣十方無量怨親中人。法緣者。謂緣無漏羅漢支佛諸佛聖人。破吾我相。但觀四緣空五眾法。無緣者。不住有無唯諸佛有。與大經文。文意大同須釋出之。大論第五明悲亦有眾生等三。故知將三慈悲以對三諦義甚顯子。今從勝說但云無緣。若得無緣必具前二。故知明於究竟慈悲。不辨此三實未周具。上兩與菩薩共者。比斥。乃與藏通兩菩薩共也。法緣亦與二乘共也。是故更須第三觀也。慈若有無等者。結成三諦。大經梵行品云。慈若有無非有非無如是之慈。非諸聲聞緣覺境界。非不異於諸偏菩薩。但偏菩薩聞法易轉仍有少分。二乘全闕故獨對之。乃至十二因緣七覺八正。十力無畏諸佛神通。無不皆以慈為根本。是故經中遍歷諸法皆悉結云。慈即如來如來即慈。迦葉下明慈具德。上慈下結成。手出師子等者。明慈有折伏之用。梵行品云。提婆達多教阿闍世。放護財醉象。欲害如來及諸弟子。爾時踏殺無量眾生。象聞血氣狂醉倍常。見我翼從被服赤色。謂呼是血。復來奔趣我弟子中未離欲者四散馳走。城中人民謂我終沒。調達歡喜快哉適願我於爾時即入慈定舒手示之。即於五指出五師子。是象見已而生怖畏。失大小便投身禮我。善男子。我於爾時手指實不出五師子。慈善根力令彼調伏。乃至下文舉石空中。力士驚怖。現作莊嚴降諸外道。令狂女人見如己子。患瘡女人得藥平復。如是皆是無緣慈力。如磁石等者。明無緣慈有攝受用。故大經三十師子吼中。明無緣慈任運能吸猶如磁石任運吸鐵。經舉六譬以譬慈義。猶如猛火不能燒薪。火然薪壞故名為燒。葵藿隨日芭蕉因雷等。其義不別。即是異法相應如磁能攝。夫鐵下釋修中意。今明慈等具破立義。所言破者。石本不吸火本不燒。如來亦爾本不度生。所言立者。無情尚能異法出生。況復法身依本誓力。不能任運吸眾生耶。若無明未破。理雖具足如石隔障不能吸鐵。如水生火等者。明慈有能斷惑之用。大論三十五釋火性不定中云。若火實熱云何有人入火不燒。人身中火不燒人身。雲中起火以龍力故。水不能滅。以火照之其火則滅。今無明亦爾。因於二觀而生無明。二觀之水所不能滅。還用中道智火滅之。為滅無明。是故須明第三觀也。又大論四十九云。若心著善破者則易。若心著空破者則難。是故著空還須有破。如火起草中得水則滅。若起水中無物能滅。是故還須以火滅之。今亦例爾。若著二惑二智能滅。若著二邊二智所不能滅。又律云。本謂水能滅火。不意水中生水。今亦如是。本謂二智滅惑。不意二智生惑。是故須用中智之火滅二智火。次滿本誓誓即四弘。四弘亦依四諦而起。枝葉即譬前之二觀所斷苦集。所未知斷即是無明。故以無明譬於根本。次以燈炬譬前二觀所修道滅次雖修下。斥徧四諦以顯無作。百川者如前二觀所修四諦。娑伽下顯正。一霔者如今無作所修四諦。中道下合譬無作體遍義也。三求佛智中初明智體。智必有眼故兼明眼。眼智即是能顯廣大。能顯既廣所顯必深。深竪遠橫皆以眼智覺了周遍。從因至果究竟具足。上兩下以譬比斥。若修下以譬兼合。即是中觀之功能也。目足者譬圓解行也。形前兩觀眼智盲跛。解行闕故終不契中。到池等者。解行所契形前墮墜等也。飲服等者。親餐理味四德之水。水體不異而有冷等四性不同。佛性理一而有常等四德差別。見池相等者。遍池是水全水是池。池涅槃也。盡果德邊窮佛性底。名見池相。見法橫周名見方圓。見理竪極名見深淺。同體權實名為方圓。四即不同故云深淺。見即佛眼見也。飲即佛智知也。知見體一。池水不二。法性無染名為清淨。四學大方便者。初文通序依體起用。無謀等者大智也。不假先念故曰無謀。住首楞者。大定也。不可思議下總歎智定善巧之用。善巧秖是體內方便。應理稱機適時化用。示空風等者。借事顯用。風界無色示令可見。世間之火尚能燒草。能入劫火而令不燒。得中體故有斯巧便。故此方便名之為大。為大用故學斯方便。如彌勒下寄於二聖以顯善巧。淨名彈訶彌勒受折。二聖皆依同體善巧。何者彌勒蒙佛授一生記。若記一生定生兜率。故彼天子預來修敬。彌勒位居偏教不退。天子宿發圓菩提心。彌勒以偏誡諸天子。不鑑天子圓機方成。故感淨名正熟諸天。旁折彌勒。先約三世折云。過去耶未來耶現在耶。三世無住。如何自謂得一生記。淨名次以如理而訶。如無生滅云何言得菩提記耶。注云云者。經中有並。謂以眾生草木聖賢而為並詰。如通凡聖及情非情。若彌勒如得授記者。一切眾生小乘賢聖無情草木。亦應記耶。若眾生等不得記者。彌勒亦然。何獨眾生及賢聖等有得不得。如不應同。如體既同記何不等。却覆並決理妙辭窮。所化機成能化久鑑。默受彈折狀似招譏。是故譏云。勿起此見。三教菩提見心既破。淨名為說圓實菩提。隨要略明二十五句。遍一切法無非菩提。故云寂滅是菩提等。應約六即以釋發心。而明寂滅及不二等。是諸天子聞菩提已。咸悟無生。是二大士更叩等者。彌勒用權以隱實。大士用實以隱權。故彌勒以說不退轉行。如槌叩淨名之砧。淨名以訶一生補處。如槌叩彌勒之砧。互為槌砧成天子器。故得法忍由聞菩提。令難悟者等者。諸天著樂名難悟者。妙理微密。名難悟法。難悟之人悟偏漸法已自為難。聞圓菩提得無生忍。若非二聖槌砧之巧。焉令天子妙位斯獲。豈獨高位初心例然。以此而觀彈訶不易。泛爾貶挫傷他善萌。等不知機應順安樂行。猶須待問答以大乘。深愛法人尚誡多說說必有軌無違化儀。初寂忍衣。居大慈室。坐妙空座。方可能為善巧利他。如是利他名字位中已有巨益。何待五品乃至無生。又如來等者。次寄佛化小以明善巧。且據鹿苑而為漸初。一往稱為不即說大。言種種者。四時七教盈縮不同。引導皆令離偏小著。無不咸使歸會一乘。乃可名為大巧方便。文中語略但云種種。意該鹿苑至法華前。離著之言通七方便。故云然後開佛知見。是故已下更述化意。種種方便意在真實。真實得顯方有所歸。更以等者重述善巧用權之意。故前三教是異方便。莫不皆為顯於法華。佛智等者。歎佛同體權謀叵測。權中之實難可思議。實權體融無能逮者。故以去重牒前文用方便意。結令鈍根菩薩來至法華皆悉入實。是則彌顯善巧之功。言寰中者。謂法界為域法王所都。法王無偏理性無外受化契理。名悟寰中。若作此環如莊子注。以圓環內空體無際。名為環中。今亦如是。如理無相無始無終。會此環空故云妙契。上二下。次寄文殊化外以明善巧。寶篋經下卷。因舍利弗歎文殊師利神力智慧不可思議。時富樓那語舍利弗。我亦曾見彼之所為。一時佛在毘舍離城。時尼乾子有六萬眷屬。我入三昧見百千尼乾應當受化。往為說法。反見輕笑出麁惡言。於三月中無受化者便捨之去。爾時文殊化為五百異道師徒。往尼乾所頂禮白言。我承名德自遠而至。汝是我師我是弟子。願。見哀納。令我不見沙門瞿曇。不聞彼法。答言。善哉。汝已純熟不久當解我調伏法。尼乾告眾。與此摩納和合共住。互相問訊。彼有所說汝專聽受。次第而坐用尼乾法。文殊師利威儀殊特。於時讚說三寶功德。亦讚尼乾所有功德。令彼親附。後於異時知眾已集。即便語言。我等所行呪術經書。若讚誦時瞿曇所有功德。入我經中來者。是瞿曇實功德。何以故。是瞿曇父母真正轉輪王種。百福嚴身。生時地動梵王扶侍。自行七步口自宣言。一切眾中唯我為尊。乃至廣讚一代化物。漸次開解示其正法。五百外道得法眼淨。八千外道發無上心。時文殊所化五百弟子五體投地言。南謨佛陀南謨佛陀。彼外道中未信解者。亦皆相效供養文殊。文殊領來至佛所已。佛為說法無不得益。如文殊鑑機先同後異。方得名為大巧方便。五明大精進者。初文略出。即以佛乘名為佛事。依乘起行名大功力。法華下引證也力能趣實故云勇健。依理起進故云難事。令佛輪王解權賜實。不動下引金光明果上精進。以況於因。不為二邊所動。永不退入三惡不失實相正理。方名菩提薩埵。薩埵者。薩埵王子也。彼經本緣能投身餓虎不惜身命。況餘財物以此為因成無上道。雖得佛果精進不休。故於眾中起禮身骨。故云雖得菩提猶尚不息。況餘凡下端拱成耶。故不共法中有精進無減。上兩觀下。重約賜珠比決開權以明精進妙功能也。故佛輪王見小乘眾破見思賊有微功者。賜事禪定無漏田宅。若見大士應破大惑獲大智勛。故云功蓋天下。於實法界頂開同體權髻。與實相明珠得法王記莂。法賜之極極在佛記。故云賞窮。施化之意意在開權。故云解髻。如此皆由大精進力。

次に中道の四門が異なることを説明します。その中でまず、前の空と仮を再び取り上げ、後の入中を挙げます。三つの文を相対させて円妙を明らかにします。「生不生」などについては、次第は実ではないとし、いずれも一往の説であると述べます。自と他および双照の自他は、いずれも文の趣旨ではありません。言葉は同じでも意味が異なるため、すべて「似」と名づけます。「生不生」は再び前の仮から空に入ることを取り上げます。すなわち「不生生」などが文の意を述べたものです。「自即不自」などは、前の文の次第の行の意を重ねて述べます。意はもともと次第でないことにあります。文に従えば次第であり、空は自行です。この自行こそがすなわち化他であり、すなわち自他にあらずです。「不生生」は再び前の出仮を取り上げ、「不生不生」は後の入中を引きます。仮と中の二文を空に入る説に比べれば、意を得ることができます。それゆえ三つの文が展転して相即し、空を妙空とし、乃至、仮と中を妙仮妙中とします。これがすなわち第六に文の趣旨を示すものです。「種種」の下は前の説の意を結びます。意はもとよりこのようであっても、しばらくは文の次第に付随して説きます。それゆえ中道を釈するにあたり、再び四章を開きます。四章の初めの文で中観の意を明らかにするとは、次第の中で初めの文が再びまず文の趣旨を説きます。今は次第といっても、すなわちこれが円教の二惑を先に除くものです。除くことは本意ではなく、意は初心に円修の三観にあります。それゆえ四教を経てその観相を簡別します。前の二教にはただ中ですらまだありません。ましてや円妙はなおさらです。別教は中を聞いても眼の暗い者のようなものです。それゆえ三教は今の所論ではありません。三蔵は明らかです。次に通教の中で、初めに理が三蔵と同じであることを明らかにし、それゆえ別の理を観ずることはできません。「無」などといっても、この教には中がなく仮に中の名を立てます。また不生不滅ともいいます。それゆえ他は縁生の色心について三諦の名を作ると知るべきです。これから出ることはできません。「亦得」の下は、遠通を論じて接せられる者を明らかにします。それゆえ当教にはついに第三はありません。次に別教の中で、初めに諦の離合を述べます。「元知中」とはただ知るだけです。初めはまだ観じませんが、しかし通教とは異なり、後心に至って初めて知ります。それゆえ「元知」といいます。「照此二諦」などは、すでに有無を共に俗諦とし、仏法中を真諦とします。小とは異なるため「従容」といいます。真俗を合わせてこれを俗としますが、真諦は中道の理体を出ません。通教は三諦の名を作っても、実に中体がありません。この理の下は、観に約して譬えを立てて真因の分斉を顕します。初めは法、次は譬えです。「如眼暗」などは初めの標です。「云何」の下は釈です。またこれも合喩です。心の本眼を標しても、眼が暗いためただ傍眼を穿ちます。傍に実に眼はありませんが、傍に眼があると思います。別教の菩薩もまたこのようです。初めに常を知っても次第に行じます。中理の外に実に真俗はありませんが、真俗があると思って真俗といいます。これを旁眼と名づけます。それゆえこの教はまず二惑を破します。辺の外に中はなく、心は辺の外を期します。まさに知るべきです、三諦はすべて旁眼と名づけられます。「例如」の下は例を挙げます。方便は二諦のようです。見諦は見中のようです。次に円教を明らかにします。法と譬えと合があります。初めの法の中で「先破両惑」などといいます。これはただ円観で粗い惑いを先に除くだけです。それゆえ一生で初住を得ることができると知ります。それゆえ南嶽は「銅輪に入ることを望めば衆を領するにはあまりに早い」といいます。ただ六根を浄めるだけです。次第の行者は、たとえ一生で二惑を先に除いても、経歴しなくても次第となります。あるいは円が別を接し、あるいは別円が通を接し、あるいは解は円で行は漸というのも、いずれも二惑を先に除くのであり、すべて今の意ではありません。今の意は一向に専ら円にあります。次に譬えの中で、初めに用兵に約して能所を譬えます。次に治鉄で別に能を譬えます。器械は止に譬え、身力は諦に譬え、智謀は観に譬えます。械とは兵器の通名です。兵とは五兵です。弓刀槊戈殳を設けます。殳は音は殊。長さ一丈二、両刃。戟は柄があります。それゆえ淮南子にいいます。「用兵はあたかも千刃の堤に積水を決するがごとく、万丈の谷に円石を転がすがごとし」と。すなわち兵の利です。今は身の壮を円三諦に譬え、兵の利を円の三上に譬え、権の多を円の三観に譬えます。智と械はともに身力によるからです。「一日」は一生です。「両鉄」の譬えは、教に約して説けば種々の焼治があるからです。次に中観を修める縁です。初めに正しく五縁を釈します。五つの名は同じでも義は仮とは異なります。一つには仮中に五事が具足して初めて仮を出せます。今ここで五事を具えるには中に入るべきです。また心に五事を期して初めて中を修められます。空に入る五縁の意もまたこのようです。次に中の釈の初めに「無縁慈悲」といいます。三慈を具足して初めて無縁と名づけます。この慈の下は結んで双非三諦の相とします。大経十四の梵行品の文です。品の初めにいいます。「慈に三種あり。一は衆生に縁じ、二は法に縁じ、三は無縁なり。衆生縁とは、一切衆生を父母親想のごとくに縁ずるなり。法縁とは、一切法は皆縁より生ずと見るなり。無縁とは、法相および衆生相に住せず」と。大論二十にもまたいいます。「慈に三種あり。衆生縁とは、十方の無量の怨親中人に縁ずるなり。法縁とは、無漏の羅漢・支仏・諸仏の聖人に縁じ、吾我の相を破し、ただ四縁空・五衆法を観ずるなり。無縁とは、有無に住せず、ただ諸仏のみにあり」と。大経の文と文意はほぼ同じで、これを釈し出すべきです。大論第五には悲にもまた衆生などの三があることを明らかにします。それゆえ三慈悲をもって三諦に対すれば義ははなはだ明らかです。今は勝れた説に従ってただ無縁というだけです。もし無縁を得れば必ず前の二を具えます。それゆえ究竟の慈悲を明らかにするには、この三を弁別しなければ実に周具しません。「上両与菩薩共」とは比斥です。すなわち蔵通の両菩薩と共にするのです。法縁もまた二乗と共にします。それゆえさらに第三観を必要とします。「慈若有無」などは結んで三諦とします。大経梵行品にいいます。「慈に有無あらば非有非無なり。かくのごときの慈は、もろもろの声聞縁覚の境界にあらず。偏の菩薩にも異ならず。ただ偏の菩薩は法を聞いて転じ易く、なお少分あり。二乗は全く欠けているため、ただこれに対します。乃至十二因縁・七覚・八正・十力・無畏・諸仏の神通、すべて慈を根本としないものはありません。それゆえ経中に諸法を遍歴して皆ことごとく結んでいいます。慈はすなわち如来、如来はすなわち慈なり」と。「迦葉」の下は慈が徳を具えることを明らかにします。「上慈」の下は結成です。「手出師子」などは、慈に折伏の用があることを明らかにします。梵行品にいいます。「提婆達多は阿闍世に教えて、護財の酔象を放たせ、如来および諸弟子を害せんと欲しました。その時、無量の衆生を踏み殺しました。象は血気を聞いて狂酔倍常となり、私の翼従が赤色の服を着ているのを見て、これを血と呼び、また奔り来たりました。私の弟子の中で未だ欲を離れない者は四散馳走しました。城中の人民は私が終に没すると謂いました。調達は歓喜して快哉と願いを適えました。私はその時、即ち慈定に入り、手を舒べてこれを示しました。即ち五指の上に五師子を出しました。この象は見てもう怖畏を生じ、大小便を失い、身を投じて私に礼しました。善男子よ、私はその時、手指に実に五師子を出したのではありません。慈の善根力が彼を調伏させたのです。乃至下文に石を空中に挙げ、力士が驚怖し、荘厳を現じて諸外道を降し、狂女に己の子のごとく見せ、瘡の女を薬を得て平復させたとあります。かくのごとくは皆是れ無縁慈の力です。「如磁石」などは無縁慈に摂受の用があることを明らかにします。それゆえ大経三十の師子吼の中に、無縁慈は任運に能く吸うこと、あたかも磁石が任運に鉄を吸うがごとしと明らかにします。経には六つの譬えを挙げて慈の義を譬えています。あたかも猛火は薪を焼くことができない、火が薪を燃やせば薪が壊れるためこれを焼と名づけるがごとし。葵藿は日に随い、芭蕉は雷に因るなど。その義は別ではありません。すなわちこれが異法相応して磁石が能く摂するがごとし。「夫鉄」の下は中を修める意を釈します。今は慈などが破と立の義を具えることを明らかにします。破というのは、石はもと吸わず、火はもと焼かず、如来もまたそのようで、もと生を度しません。立というのは、無情ですらなお能く異法を出生します。ましてや法身が本誓の力に依って、任運に衆生を吸うことができないでしょうか。もし無明が未だ破れなければ、理は具足していても石が障隔して鉄を吸えないがごとし。「如水生火」などは、慈に能く惑いを断ずる用があることを明らかにします。大論三十五に火性不定を釈する中にいいます。「もし火が実に熱いならば、なぜ人が火に入っても焼けないのか。人身の中の火は人身を焼かない。雲の中に火が起これば龍力のため、水は滅することができない。火をもってこれを照らせばその火は則ち滅する」と。今、無明もまたそのようで、二観に因って無明を生じます。二観の水は滅することができません。還って中道の智火をもってこれを滅します。無明を滅するために、それゆえ第三観を明らかにする必要があります。また大論四十九にいいます。「もし心が善に著すれば破るのは易しい。もし心が空に著すれば破るのは難しい。それゆえ空に著すれば還って破る必要がある。火が草の中に起これば水を得て則ち滅するがごとし。もし水の中に起これば物は能く滅するものはない。それゆえ還って火をもってこれを滅する必要がある」と。今もまたこのようです。もし二惑に著すれば二智は能く滅します。もし二辺に著すれば二智は能く滅することができません。また律にいいます。「本は水が能く火を滅すると謂ったが、水の中に水が生じるとは意わなかった」と。今もまたこのようで、本は二智が惑いを滅すると謂ったが、二智が惑いを生じるとは意わなかったのです。それゆえ中智の火をもって二智の火を滅する必要があります。次に本誓を満たすとは、誓とはすなわち四弘です。四弘もまた四諦に依って起こります。枝葉とは前に二観の断ずる所の苦集を譬えます。未だ知らず断ぜざる所とはすなわち無明です。それゆえ無明を根本に譬えます。次に灯炬をもって前に二観の修する所の道滅を譬えます。「次雖修」の下は、遍四諦を斥けて無作を顕します。百川とは前の二観の修する所の四諦のごとし。「娑伽」の下は正を顕します。「一霔」とは今の無作の修する所の四諦のごとし。「中道」の下は無作の体が遍ずる義に合喩します。三に仏智を求める中で、初めに智体を明らかにします。智には必ず眼があるため兼ねて眼を明らかにします。眼智はすなわち能顕の広大です。能顕が既に広大なれば所顕は必ず深いのです。深竪遠横は皆眼智をもって覚了周遍し、因から果に至るまで究竟具足します。「上両」の下は譬えをもって比斥します。「若修」の下は譬えをもって兼ねて合わします。すなわち中観の功能です。目足とは円解行に譬えます。前の二観の眼智が盲跛であることを形します。解行が欠けているため終に中に契いません。「到池」などは解行の契う所が前に堕墜などすることを形します。「飲服」などは親しく理味の四徳の水を餐します。水の体は異なりませんが冷など四性が異なることがあります。仏性の理は一ですが常など四徳の差別があります。「見池相」などは、池を遍ねくすれば水であり、水を全うすれば池です。池は涅槃です。果徳の辺を尽くし仏性の底を窮めるを、池相を見ると名づけます。法を横に周めるを見るを方円を見ると名づけます。理を竪に極めるを見るを深浅を見ると名づけます。同体の権実を方円と名づけます。四即が異なるため深浅といいます。見とはすなわち仏眼の見です。飲とはすなわち仏智の知です。知見の体は一です。池水は二ではありません。法性は無染なるを清浄と名づけます。四に大方便を学ぶ中で、初めの文は通して体に依って用を起こすことを序します。「無謀」などは大智です。先念を仮らないため無謀といいます。「住首楞」とは大定です。「不可思議」の下は総じて智定の善巧の用を歎じます。善巧とはすなわち体内の方便です。理に応じ機に称し時に適った化用です。「示空風」などは事を借りて用を顕します。風界は色がないのに示して見せます。世間の火ですらなお能く草を焼きます。能く劫火に入ってこれを焼かせません。中体を得たためこのような巧便があります。それゆえこの方便を大と名づけます。大用のためにこの方便を学びます。「如弥勒」の下は二聖に寄せて善巧を顕します。浄名は弥勒を弾訶し、弥勒は折を受けます。二聖は皆同体の善巧に依ります。なぜなら弥勒は仏から一生記を授けられたからです。もし一生記と記せば定んで兜率に生まれます。それゆえかの天子は預ねて来たりて修敬します。弥勒は位は偏教の不退に居します。天子は宿に円菩提心を発します。弥勒は偏をもって諸天子に誡します。天子の円機を鑑みて方に成ります。それゆえ浄名が正しく諸天を熟し、旁に弥勒を折ることに感応します。まず三世に約して折していいます。「過去か未来か現在か。三世に住せず。どうして自ら一生記を得たと謂うのか」と。浄名は次に理のごとくにして訶します。「無生滅のごとくならばどうして菩提記を得たと言えるのか」と。注に云云というのは、経中に並があります。衆生・草木・聖賢をもって並詰とするのです。凡聖および情非情を通じます。もし弥勒が如記を得授けられたならば、一切衆生・小乗賢聖・無情草木もまた記されるべきです。もし衆生などが記を得られないならば、弥勒もまた同じです。どうして独り衆生および賢聖などに得と不得があるでしょうか。如は同じであるべきではありません。如体が既に同じならば記はどうして等しくないでしょうか。却って覆し並べて決すれば理は妙にして辞は窮まります。所化の機は成り能化は久しく鑑みます。黙して弾折を受けるのは状は譏りを招くに似ます。それゆえ譏っていいます。「この見を起こすことなかれ」と。三教の菩提の見は心が既に破れ、浄名は円実の菩提を説きます。要に随って略して二十五句を明らかにします。一切法を遍ねくして菩提でないものはありません。それゆえ寂滅は菩提なりなどといいます。六即に約して発心を釈し、寂滅および不二などを明らかにすべきです。もろもろの天子は菩提を聞いて已に、皆無生を悟りました。この二大士が更に叩くなどとは、弥勒は権を用いて実を隠し、大士は実を用いて権を隠します。それゆえ弥勒は不退転の行を説くをもって、槌をもって浄名の砧を叩くがごとしとします。浄名は一生補処を訶するをもって、槌をもって弥勒の砧を叩くがごとしとします。互いに槌砧となって天子の器を成じます。それゆえ法忍を得るのは菩提を聞くによるのです。「令難悟者」などとは、諸天は楽に著するを難悟者と名づけます。妙理は微密なるを難悟の法と名づけます。難悟の人は偏漸の法を悟って已に自ら難となします。円菩提を聞いて無生忍を得ます。もし二聖の槌砧の巧みがなければ、どうして天子に妙位を斯に獲させられましょうか。どうして独り高位ばかりでしょう、初心も例としてそのようです。これをもって観れば弾訶は易くありません。泛爾に貶挫すれば他の善萌を傷つけます。機を知らずして応に安楽行に順ずべきです。なお問答を待って大乗をもってする必要があります。深く法を愛する人はなお多く説くことを誡めます。説には必ず軌があり化儀に違うことなかれ。初めに寂忍の衣を著、大慈の室に居、妙空の座に坐して、方に能く善巧利他のためにすべきです。かくのごとき利他は名字位の中にすでに巨益があります。どうして五品乃至無生を待ちましょうか。「又如来」などは、次に仏が小を化するに寄せて善巧を明らかにします。しばらく鹿苑に拠って漸の初めとします。一往は即ち大を説かないと称します。種々というのは、四時七教の盈縮が異なります。引導は皆偏小の著を離れさせます。ことごとく皆一乗に帰会させないものはありません。乃ち大巧方便と名づけられます。文中の語は略してただ種々というだけです。意は鹿苑から法華の前に該わります。離著の言は七方便に通じます。それゆえ「然後開仏知見」といいます。「是故」の下は更に化の意を述べます。種々の方便の意は真実にあります。真実が顕れて方に帰する所があります。「更以」などは善巧の権を用いる意を重ねて述べます。それゆえ前三教は異方便です。皆法華を顕すためのものでないものはありません。「仏智」などは、仏の同体の権謀は測りがたいと歎じます。権中の実は思い議しがたいのです。実権の体は融じて逮ぶものはありません。それゆえ「去」をもって前文の方便を用いる意を重ねて取り上げ、鈍根の菩薩を結んで法華に来至させ皆実に入れます。これすなわち善巧の功をいよいよ顕します。「寰中」というのは、法界を域となし法王の都とするを謂います。法王は偏なく理性は外なく受化は理に契ります。寰中を悟ると名づけます。もしこの環を作れば荘子の注のごとく、円環の内空の体は際がないため環中と名づけます。今もまたこのようで、理のごとく無相にして無始無終です。この環空に会するため妙契といいます。「上二」の下は、次に文殊が外を化するに寄せて善巧を明らかにします。宝篋経の下巻に、舍利弗が文殊師利の神力智慧の不可思議を歎ずるため、時に富楼那が舍利弗に語っていいます。「私もかつて彼の為す所を見ました。一時、仏は毘舎離城にいましました。時に尼乾子に六万の眷属がありました。私は三昧に入り、百千の尼乾が应当に受化すべきを見て、往いて法を説きました。反って軽笑され粗悪の言を出されました。三ヶ月の中に受化する者がなくて便ち捨てて去りました。その時、文殊は五百の異道の師徒と化し、尼乾の所に往き頂礼して白していいました。『私は名徳を承けて遠くから至りました。あなたは私の師であり私は弟子です。願わくは哀納して、私に沙門瞿曇を見ず彼の法を聞かせないでください』と。答えて言いました。『善哉。あなたはすでに純熟し、間もなく私の調伏法を解するでしょう』と。尼乾は衆に告げました。『この摩納と和合共住し、互いに問訊しなさい。彼に説く所があれば汝は専ら聴受しなさい』と。次第に坐り尼乾の法を用いました。文殊師利の威儀は殊特で、時に三宝の功徳を讃説し、また尼乾の所有の功徳を讃め、彼を親附させました。後に異時に衆が已に集まったを知り、即便ち語言しました。『我等の所行の呪術経書は、讃誦する時、瞿曇の所有の功徳が我が経中に入り来たるものは、これ瞿曇の実功徳です。なぜなら瞿曇は父母真正の転輪王種で、百福に厳われ、生時には地動し梵王が扶侍し、自ら七歩を行き口に自ら宣言しました。「一切衆中に唯我を尊とす」と。乃至広く一代の化物を讃め、漸次に開解して正法を示しました』と。五百の外道は法眼浄を得、八千の外道は無上心を発しました。時に文殊の所化の五百弟子は五体投地して言いました。『南謨仏陀、南謨仏陀』と。かの外道の中の未だ信解しない者も、また皆相效って文殊を供養しました。文殊は領して仏所に来至し已って、仏は法を説き益を得ないものはありませんでした。文殊が機を鑑みて先に同じ後に異なるがごとく、方に能く大巧方便と名づけられます。五に大精進を明らかにする中で、初めの文は略して出します。すなわち仏乗をもって仏事と名づけます。乗に依って行を起こすを大功力と名づけます。「法華」の下は証を引きます。力は能く実に趣くため勇健といいます。理に依って進を起こすため難事といいます。仏の輪王に権を解し実を賜わらせます。「不動」の下は金光明の果上の精進を引き、もって因に況んじます。二辺に動かされず、永く退いて三悪に入らず実相の正理を失いません。方に菩提薩埵と名づけられます。薩埵とは薩埵王子です。かの経の本縁に能く身を餓虎に投じ身命を惜しまなかったとあります。ましてや余の財物はなおさらです。これをもって因となし無上道を成じます。仏果を得ても精進は休まず、それゆえ衆中で起ちて身骨に礼します。それゆえ「雖得菩提猶尚不息」といいます。ましてや余の凡下が端拱して成じましょうか。それゆえ不共法の中に精進無減があります。「上両観」の下は、重ねて賜珠に約して比決し開権して精進の妙功能を明らかにします。それゆえ仏の輪王は、小乗の衆が見思の賊を破し微功ある者を見て、事禅定の無漏の田宅を賜わります。もし大士を見れば応に大惑を破し大智の勛を獲べきです。それゆえ「功蓋天下」といいます。実法界の頂に同体の権髻を開き、実相の明珠と法王の記莂を与えます。法賜の極は仏記に極まります。それゆえ「賞窮」といいます。施化の意は権を開くことにあります。それゆえ「解髻」といいます。かくのごとくは皆大精進力によるものです。

止觀輔行傳弘決卷第六之三

止観輔行伝弘決 巻第六の三

止觀輔行傳弘決卷第六之四

止観輔行伝弘決 巻第六の四

唐毘陵沙門湛然述

唐代毘陵の沙門湛然の述

第三正修中觀者。初文先舉難知難觀。若云初心直令觀中。破細無明顯於實相。凡尚不識欲界無明。故云懸絕。非前四眼二智所及。豈肉眼見情慮知耶。文中隔字故云眼慮見知。二智四眼既未知見中道之理。是故斥之非眼慮等。例如下例釋。例易況難引難從易故以空假二觀況於中觀。何但中道難觀。二觀應知不易。雖曰不易亦由觀成。故知中觀亦可例之。初舉真況云。觀真之時。亦無色像方所可觀。但觀現在麁陰入心。止觀研窮三假四句。漸生燸解發真無漏見真分明。名真智發。如是所見良由觀陰。次以假況者。恒沙佛法無量三昧。云何可觀。為發眼智但觀真空。於空心中漸思諸法。諸法漸發漸深漸廣漸利漸明。洞曉藥病種智開發。故俗智發但由研真。今觀下正舉中觀。例前二觀今使可觀。但研二智漸見中理。何者。夫見中道須識無明。二智之體既是無明。以觀研之中理可顯。即下三重觀法是也。但觀二智體是無明。無明法性非一非異。觀之不已。自然雙亡自然雙照。如此竪說。中尚非遙。況觀陰入一切皆實。故知二智能破所破。並是中道所觀之境。於中先釋智障。言智障者。有三重釋。初重釋者。二智即是中智家障。故名智障。次又此智障下。明中智被障名為智障。次又能障下。明能所相對得智障名。初重釋者。智障兩字全屬能障。次重釋者。智障兩字全屬所障。後重釋者。障字屬能智字屬所。至此卷末引達磨欝多羅雖有多解不出此三。準文合在此中引釋。彼解稍煩恐妨文旨。故在後明。云何下欲觀中道先審觀意。云何觀此二智無明。以觀審之知非智相。既非智相即是無明。故下用觀雖分三別。秖是為破無明顯中。觀此下正明用觀。先列三番。三番秖是三假異名。一一假中亦用四句推檢研覈。初觀無明即成因成假。言空假之智與心相應者。法性為因二智為緣與心相應。名所生法。法即無明。即重立無明以為觀境。觀此下正用觀也。四句推檢二智叵得。問。既云二智即是無明。應以自他推此無明。何故復云為從無明為從法性。答。中智望之名為無明。今觀無明但推二智。為從法性為從無明。乃至共離複推雙責。具如破見因成中說。作此等者。次明能推止觀之相。初明觀相有法譬合。法說可見。至此亦應結成二空二諦等也。止文亦爾並是文略。次譬如下譬說中。云遙望等者。大論十四云。如夜見杌謂之為人。是不實中能令心生謂之為人。人又疑無六分動相。杌如法性人如無明。人之與杌俱未審定。故云不了。起四句下合。既云起於四句執等。故知即是初心觀中為成次第。故二觀後明於中也。若執四句不會中理。故成無常。若離性執即於無明見於中道生法二空。故名為常。前見思等者。更重述於所破不同。二觀但破見思塵沙。故今所破唯二觀智。即是無明。言金剛者。亦用大經利钁斸地。唯至金剛不能穿徹。即喻無明非前二觀之所能破。能破即是中智龜甲白羊角也。觀破下結名也。二觀如文。此理不可下即不觀觀。故云非智非不智。復次下明三止也。初總明用止。亦用四句推檢無明。乃至二空與觀不別。故略引而已。但體是即寂與前為異。故須辨相。如持下舉譬也。故大經第八云。譬如持戒比丘觀無蟲水見塵似蟲。即作是念。此中動者蟲耶塵耶。久觀不已雖知是塵亦不明了。十住見性亦復如是。今全未見義同不了。故得借用彼十住喻。無明如蟲法性如塵。雖用四句推檢叵得。亦未了了見於法性。前人杌喻意亦如之。若謂下合喻可知。前生死下結名。可知。復次下用六十四番。如是下重示四句方法之相。句即是門門名能通。由一一句皆能通理。隨用一門咸應見實。為不了者及以多人施設多門。雖立多門見必隨一。即以四句為修觀處。非所觀理名之為處。故第五卷中正以四句為修觀法。法謂方法。即是能通入理之法。是故此法亦可名處。因能通處至所通處。故云因門。二處名同能所別也。隨用一句既得見理。無復餘句故名為融。自行既爾化他亦然。他機不同隨句見理。即名得入。以之為融。故須諸句一一研試。會有相應相應即融。若執等者更判用觀得失之相。雖破四句必離能執。執即門壞故名為燒。次觀法性即相續假。何者。由觀無明謂無明滅但有法性。雖作此解未破無明。當知此是情想之解。是故更觀法性之計為從何生。無明為前念。法性為後念。於中先牒前法性解。此解成惑為所觀境。先法。次譬。譬中云塵杌等者。雙指前來觀無明譬。前觀無明即是法性。如觀塵杌蟲人叵得。今觀法性如觀塵杌復非明了。即當下正示觀法。應須觀破不了之相。所以移觀而推法性。具如破見相續假中。準前亦應結成三觀三止等相。文略不說。如是下用六十四番。亦應如前明得失等。文略不說。雖未等者勸於行者勤用止觀。雖六十四不出止觀。故勸常學不得餘途。三觀真緣即相待假。初明自行。先出待相為所觀境。即前觀於無明法性之觀智也。為智為非智者總立也。應知此智未見中理即是無明。無明非智。此之非智待誰得名。故有自他橫竪二待。諸佛在現對我為橫。我悟在當望今為竪。如是下次列句觀法。若緣修下約句破執。但破真緣共離自壞。緣在地前故云無常。非謂分段生死無常。若言緣修生智明者。義當無常生於常也。無此理故故云云何生常。若彼諸佛及我將來是真修者。真即是證證不名修。釋此下寄彼異釋以辨性過。真自下正判。四句下略明觀成無四句計。求橫竪相皆不可得。故智障亦不可得。何以故下釋也。何故無明體不可得。待諸佛智說為無明。佛智本無無明叵得。所觀無明既不可得能觀觀智亦復非有。故云亦無。若執下辨得失也。初判屬智障即是失也。次若不執下即是得也。初云四門即能通門。以成門故名能通得。若得契下明所通理。契此理。故名所通得。雖觀四句理實非四。此中闕六十四番者但是略耳。若有下次明化他。問。觀前二假何故不明化他相耶。答。前觀法未周自行未滿。是故至此方名利他。初文總舉。所謂下別釋。初釋緣修中。先法次喻。初法中云無常生常如前所說。前為破故故云不應無常生常。今明隨機宜聞得益。語同意異不可一準。無常望常無常是他。故大經破十仙中云。如汝法中因是常果是無常。何妨我法因是無常而果是常。今亦如是。因於緣修無常因故。生於真修常住果也。又云下譬他生。伊蘭如無明栴檀如法性故。是故大經闍王聞法得授記已。自述歎云。我見世間從伊蘭子生伊蘭樹。不見伊蘭生栴檀樹。我今得見從伊蘭子生栴檀樹。栴檀樹者。即是我心無根信也。言無根者。我初不知恭敬如來。今蒙生信故曰無根。如來望我如來為他。法王種性自也。從穀生穀故名為種。穀種不變。故名為性。從我身中法性而生義之如種。無始至今其種不變。故名為性。不同從佛而生信心。故名為自。因滅等共生也。由內法性及外觀智無明滅已。即得菩提。故名為共。或言下離生也。非內謂非法性。非外謂非緣修。離此二故名為無因。而得是等者。雖非內外不無所得中道之智。言云云者。一一句末皆應結云得是智慧。以離執故名為得智。無得等者結釋前文以成三觀。離性過故名為無得。離過得智故云之得。證無得故名得無得。即此無得假名為得。得與無得皆不可得。義兼雙遮復能雙照得與無得。諸菩薩下次明菩薩作論利他。即是菩薩作論申門。天親地論法性依持。即屬自生。是論正意故云正主。他共無因例此可知。中論申空。空為正主。餘有等三準此亦爾。豈離四門者攝教顯門。一切諸教四門攝盡。四門雖殊通理不異。若得此意無所乖違。牟楯者。牟字應作矛。或作𨥨。兵器也。長二丈建於兵車。楯字應作盾。亦是兵器。即旁牌也。此楯是欄楯字耳。此牟是牛鳴也。並非文意如楚有賣矛及賣盾者。有來買矛。語買者言。此矛壞千盾。有來買盾者語買者言。此盾壞千矛。買矛者猶在。買盾者復至。買矛者語賣者言。還與汝矛而壞汝盾為得幾盾。賣者無答自相違故。若用下用四門中四論四悉。以修止觀。經論下明門功能。如此下明門中觀行之功能也。允亦合也。明眼下舉得辨失。問下料簡也。初問中無明法性既其相即。法性即無明。故應當俱破。無明即法性故應當俱顯。二法不二故俱破顯。二法若二為理不成。答意者。二法無體但有假名。雖俱假名必無並住。故法性顯無明已傾。無明傾時法性尚無。況復更立無明之名。故無破顯而破而顯。次問意者。如向所答。無明既其即是法性。但唯法性何有無明。而前文云。二法相即。若相即者。何但無明即是法性。復有法性即是無明。今文但舉一邊為問。故云無復無明與誰相即。亦應更云。法性即無明。無復法性與誰相即。所以不論後一邊者。於迷示理明理不二。是故相即。推不二理一對即足。何須重並下一對耶。若示迷性應存後對。答中二喻。初喻意者具用二對。無明如水法性如氷。如為不識一句冠下兩句。為迷氷者指水為氷。為迷水者指氷為水。如迷法性即指無明。如迷無明即指法性。若失此意俱迷二法。故知世人非但不識即無明之法性。亦乃不識即法性之無明。猶如濕性本無二名。假立二名以示迷者。為計二名不了無二。故以二法更互相即。恐迷氷水更引珠喻。珠非水火遇緣故生。理性非二從緣故說。次明位者。初釋中位修相證相。亦為且存次第文故。故云兩觀以為方便。地相體真及以隨緣。能為入地雙遮方便。故至初地任運雙遮。地前空假能為入地雙照方便。故至初地任運雙照。故體真止以止見思。即以空觀。而照真諦。假觀隨緣准此可知。是故初地名中道位。次修此下斥權位也。先立三位。謂通教八地別教初地圓教初住。若別接下兼序通別修證之位。欲斥於權。是故重序。初明通教以別接者。方乃得云七地論修八地論證。問。第三卷明別接通中。何故乃云八地聞中道。九地伏無明。十地破無明。方得名為佛。以何義故。與此不同。答。始從四地終至九地咸受接名。三根不同故位不等。四地為上六七為中八九為下。文從中說故云七地。前為銷經故從下說。故大品云。十地菩薩為如佛。經從下者其位定故。故諸經論多從下說。言如佛者。通第十地名為佛地。被接之人能破無明。無明破已。如彼佛地同得八相。故名為如。如此下斥權位也通別二意雖破無明。權位猶高故須斥破。問。乾慧正是初心所修。云何斥言初不得修。答。舉劣況勝一往斥之。如乾慧中總含三賢。初心但可修五停心尚無念處。況有八地道觀雙流。即今被接破無明耶。又初心下次斥別教初立信心。尚未入信豈論回向。文中但云至回向者文略故也。故彼權位凡夫無分。言修中者亦寄次第。實而言之三觀圓修。以二觀心修於中道。是故至此即名圓修。故四念處云。別向圓修即此意也。次今明下正顯圓位。初立五品。引法華經釋成三觀。空座中衣假室。復以定慧助釋忍衣。座畢竟故所以空圓。衣寂滅故所以中圓。室慈大故所以假圓。又室衣座三皆云如來。是故圓也。始從下相似位也。見鶴下舉譬似也。大經十四云。見有二種。一相貌見二了了見。相貌見者。如遠見煙名為見火。雖不見火實非虛妄。空中見鶴便言見水。若見蓮華便言見根。籬間見角便言見牛。見女懷妊便言見欲。若見身口便言見心。一一句下廣如初句。如是並名相貌見也。了了見者。如眼見色菩薩見道。菩提涅槃亦復如是。及觀掌果義亦同之。如是並名了了見也。若相貌見名相似見。了了見者名究竟見。分證亦得分了之名。故此似位引彼相貌者相似見。實非見性。雖未見性不同凡夫虛妄稱見。故諸譬云。實非虛妄。五品尚得觀行名見。況復相似而非見耶。例如下次引例釋成。今五品下正明中位。次引華嚴以證初住。六根淨位界內惑盡。且名無餘。進破無明方過牟尼。三藏牟尼未斷別惑。教門觀行復劣於圓。故初住心過牟尼也。始自下顯觀功能。不待等者。重斥通教七地方接。何暇歡喜者。斥別初地始證中者。故楞伽第五云。菩薩摩訶薩住如如已升歡喜地。如是次第乃至法雲。故知並是初地已上教道之說。前教下正判權實。教彌實。位彌下。教彌權。位彌高。故通在八地別在初地。圓在初住。法華下引證權實也。方便證權實事證實。我即釋迦。諸謂十方三世等也。借彼發迹之語。以成開權之文。復次下更歷教判也。前但列二雙流入中。今更通說故兼三藏。其教更下其位極高。故雙流位唯在於佛。應明當分跨節二義。雖言去至略語者。明圓實位。其位雖下破惑功多。至初住時一攝一切。雖云一品品實無量。次舉譬如文。次又下引例釋也。如四禪是一入者不同。以是而言。品不啻九。故知初住破品應多。前兩觀後等者。准文次第。至此方可結竪破遍恐迷遠文。故預於前二觀後結。今至此中正當結處。故但略結還却指前。今中道觀下更略結前三番中觀。以成二空。名破法遍。無明是結前初番。法性是結前次番。不依等結前第三。不依四句結成性空。無倚無著結成相空。准前破見在三假後。方結二空。故今亦應然。次引淨名以證二空。佛具二空故稽首禮。具二空故盡淨諸法。以空喻空故曰如空。無復性相故曰無依。若入初住攝一切住。住既破惑是故一破攝一切破。從初至後皆除一分。故名一破一切破也。次約橫門者。初明來意。先法。次譬。從淺至深故名徑直。門門意等故名為齊。俱列意等故名為並。若橫等者次說門意。橫竪雖異無不見實。亦是類通。通一切行皆至於極。

ここでは、第三に「正しく中観を修める」ことについて述べます。まず最初の文では、中観を理解することの難しさ、観察することの難しさを挙げています。もし初心者がただちに中道を観察しようとしても、細かな無明を破って実相を明らかにすることはできません。凡夫ですらまだ欲界の無明すら知らないのですから、ましてや中道ははるかに遠く、前の四眼・二智の及ぶところではないと言われています。肉眼で見たり、情慮で知ったりできるものではないからです。文中で字が隔てられているため「眼慮見知」と言っています。二智と四眼がすでに中道の理を見ることも知ることもできないのですから、それゆえにこれらを斥けて「眼慮などではない」と言うのです。たとえば後の例で解釈する通りです。例を挙げて難を推し量り、難を引いて易に従うという意味で、空仮の二観をもって中観に準えています。どうして中道だけが観察しにくいと言えるでしょうか。二観もまた容易ではないと知るべきです。もっとも容易ではないと言っても、やはり観察によって成就するのです。したがって中観もまたこれに準えて考えることができると知るべきです。

初めに真を挙げて準える部分では、「真を観察する時、色像や方所として観察できるものはない。ただ現在の粗い陰入の心を観察する。止観をもって三仮・四句を研ぎ尽くすと、しだいに暖・頂の理解が生じ、真無漏を発して真を明瞭に見る。これを真智が発したと言う。このように見られるのは、まさに陰を観察することによる」と述べています。次に仮をもって準える部分では、「恒沙の仏法、無量の三昧は、どうして観察できるだろうか。眼智を発するためにただ真空を観察する。空の心においてしだいに諸法を思惟する。諸法はしだいに発し、しだいに深く、しだいに広く、しだいに鋭く、しだいに明らかになり、薬と病をはっきりと了解し、種智が開発される。ゆえに俗智が発するのも、ただ真を研ぐことによる」と述べています。

次に「今観」以下の部分では、正しく中観を挙げ、前の二観に準えて、今これを観察可能にしています。ただ二智を研ぐことによって、しだいに中道の理が見えてくるのです。なぜでしょうか。そもそも中道を見るには無明を識別しなければなりません。二智の体はすなわち無明です。観察をもってこれを研ぐならば、中道の理が顕れるのです。すなわち下の三重の観法がそれです。ただ二智の体が無明であると観察します。無明の法性は一でもなく異でもありません。これを観じ続ければ、自然に双亡し、自然に双照します。このように縦に説けば、中道はまだ遠いものではありません。まして陰入の一切が皆実であると観察するならば、なおさらです。ゆえに二智が能破であり所破であると知るべきです。これらはすべて中道が観察する境です。

その中でまず智障を解釈します。「智障」とは、三重の解釈があります。第一の解釈では、二智はすなわち中智の障りであるから、智障と名づけます。次に「又此智障下」では、中智が障られることを智障と名づけることを明かします。次に「又能障下」では、能と所が相対して智障の名を得ることを明かします。第一の解釈では、「智障」の二字はすべて能障に属します。第二の解釈では、「智障」の二字はすべて所障に属します。後の解釈では、「障」の字は能に属し、「智」の字は所に属します。この巻の末に達磨欝多羅を引いていますが、多くの解釈があってもこの三つを出ません。文に準じれば、ここで引いて解釈すべきです。彼の解釈はやや煩雑で文旨を妨げる恐れがあるため、後に明かします。

「云何」以下では、中道を観察しようとする前に、まず観察の意図を審らかにします。どのようにこの二智の無明を観察するのでしょうか。観察をもってこれを審らかにすれば、智の相ではないと知ります。すでに智の相でなければ、すなわち無明です。ゆえに下の用観では三つの区別を分けていますが、ただ無明を破って中を顕すためのものです。

「観此」以下の部分では、正しく用観を明かします。まず三番を列挙します。三番とはすなわち三仮の異なる名です。一一の仮においてもまた四句を用いて推検研覈します。

初めに無明を観ずることは、すなわち因成仮です。「空仮の智と心が相応する」とは、法性を因とし二智を縁とし、心と相応することを言います。これを所生法と名づけます。法とはすなわち無明です。すなわち重ねて無明を立てて観境とします。「観此」以下は正しく観を用いる部分です。四句をもって推検すれば二智は得られません。

問い。すでに二智はすなわち無明であると言うならば、自他をもってこの無明を推すべきです。なぜまた「無明からか法性からか」と言うのでしょうか。答え。中智から見てこれを無明と名づけます。今、無明を観ずるとはただ二智を推すことです。「法性からか無明からか」、さらには共・離についてもまた重ねて推し、双べて責めます。詳細は「破見因成」の中で説く通りです。

「作此等者」以下では、次に能推の止観の相を明かします。初めに観相を明かし、法説・譬・合があります。法説は見ての通りです。ここでもまた二空・二諦などを結成すべきです。止の文も同様ですが、すべて文略です。

次に「譬如」以下の譬説の中では、「遙望等」と言います。大論十四に「夜に杌を見てこれを人と謂う。これは不実の中で心に人という想いを生じさせる。人はまた六分の動相がないのではないかと疑う。杌は法性の如く、人は無明の如し。人と杌はともにまだ審定されない。ゆえに不了と言う」とあります。「起四句下」は合です。すでに四句の執を起こすなどと言うのですから、これは初心が中を観ずるのが次第を成すためであると知るべきです。ゆえに二観の後に中を明かすのです。もし四句に執すれば中理に会せず、ゆえに無常を成します。もし性執を離れれば、すなわち無明において中道を見、生法の二空を成します。ゆえにこれを常と名づけます。

「前見思等」以下では、さらに重ねて所破の違いを述べます。二観はただ見思と塵沙を破るだけです。ゆえに今破るものはただ二観の智のみです。すなわちこれが無明です。「金剛」と言うのは、また大経の「利鉞で地を斸る。ただ金剛に至れば穿ち徹することができない」を用います。すなわち無明は前の二観で破ることができないことを喩えます。能破とはすなわち中智の亀甲・白羊角です。「観破下」は名を結びます。二観は文の通りです。「此理不可下」はすなわち不観の観です。ゆえに「非智非不智」と言います。

「復次下」は三止を明かします。初めに総じて止を用いることを明かします。また四句を用いて無明を推検します。さらには二空と観に別なし。ゆえに略して引くだけです。ただ体がすなわち寂である点が前と異なります。ゆえに相を辨ずる必要があります。

「如持下」は譬を挙げます。ゆえに大経第八に「譬えば持戒の比丘が無虫の水を観て、塵を虫に似ていると見る。すなわちこのように念ずる。この中で動くものは虫であろうか塵であろうかと。久しく観じて已まなければ、これが塵であると知っても、また明瞭ではない。十住が性を見るもまたこのようである」とあります。今は全く見ていないので、義は不了と同じです。ゆえにかの十住の喩を借り用いることができます。無明は虫の如く、法性は塵の如し。四句を用いて推検しても得られないが、まだはっきりと法性を見ることはできません。前の人の杌の喩の意もまたこのようです。

「若謂下」は合です。喩は知ることができます。「前生死下」は名を結びます。知ることができます。「復次下」は六十四番を用います。「如是下」は重ねて四句の方法の相を示します。句とはすなわち門であり、門は能通と名づけます。一一の句がすべて理に通じることができるからです。一門を用いるに随って、すべて実を見るべきです。不了の者のため、および多くの人のために多くの門を施設します。多くの門を立てても、見ることは必ず一に随います。すなわち四句をもって修観の処とします。所観の理を処と名づけるのではありません。ゆえに第五巻では正しく四句をもって修観の法としています。法とは方法のことです。すなわち能通の理に入る法です。ゆえにこの法もまた処と名づけることができます。能通の処によって所通の処に至るので、ゆえに「因門」と言います。二つの処は名は同じですが能所が異なります。一句を用いるに随ってすでに理を見ることができれば、もはや余の句はありません。ゆえにこれを融と名づけます。自行がこのようであれば化他もまた同様です。他の機が異なれば句に随って理を見ます。すなわち得入と名づけます。これをもって融とします。ゆえに諸句を一一に研試し、会って相応すれば相応すなわち融です。

「若執等者」はさらに用観の得失の相を判じます。四句を破しても必ず能執を離れます。執すればすなわち門が壊れるので、これを焼と名づけます。

次に法性を観ずることは、すなわち相続仮です。なぜでしょうか。無明を観じることによって、無明が滅してただ法性のみがあると考えます。もっともこのように解しても、まだ無明を破っていません。まさにこれが情想の解であると知るべきです。ゆえにさらに法性の計を観じて、何から生じたかを推します。無明を前念とし、法性を後念とします。その中でまず前の法性の解を牒します。この解が惑を成じて所観の境となります。まず法、次に譬です。譬の中で「塵杌等」と言うのは、前に来たった無明を観ずる譬を双べて指します。前に無明を観ずることはすなわち法性であり、塵・杌・虫・人を得られないと観ずるようなものです。今、法性を観ずることは、塵・杌を観ずるもまた明瞭でないようなものです。「即当下」は正しく観法を示します。必ず不了の相を観破すべきです。それゆえ観を移して法性を推します。詳細は「破見相続仮」の中で説く通りです。前に準じてまた三観・三止などの相を結成すべきです。文は略して説きません。

「如是下」は六十四番を用います。また前に準じて得失などを明かすべきです。文は略して説きません。「雖未等者」は行者に止観を勤めて用いるよう勧めます。六十四は止観を出ません。ゆえに常に学ぶよう勧め、他の道をしてはなりません。

三観の真縁はすなわち相待仮です。初めに自行を明かします。まず待相を出して所観の境とします。すなわち前に無明・法性を観ずる観智です。「為智為非智」は総じて立てるものです。この智はまだ中理を見ていないので、すなわちこれが無明であると知るべきです。無明は智ではありません。この非智は誰を待って名を得るのでしょうか。ゆえに自他・横竪の二待があります。諸仏が現在にあって我に対しては横とし、我が悟るのが当来にあり今を望めば竪とします。

「如是下」は次に句観の法を列べます。「若縁修下」は句について執を破ります。ただ真縁・共・離を破れば自ら壊れます。縁は地前にあるので無常と言います。分段生死の無常を言うのではありません。もし縁修が智明を生ずると言うならば、義は無常が常を生ずるに当たります。この理がないので、ゆえに「云何が常を生ずるか」と言います。もし彼の諸仏および我が将来が真修であるならば、真とはすなわち証であり、証は修と名づけません。

「釋此下」は彼の異なる解釈に寄って性過を辨じます。「真自下」は正しく判じます。「四句下」は略して観成に四句の計がないことを明かします。横竪の相を求めても皆得られません。ゆえに智障もまた得られません。「何以故下」は釈です。なぜ無明の体は得られないのでしょうか。諸仏の智を待って無明と説きます。仏智にはもともと無明がなく、無明は得られません。所観の無明がすでに得られないならば、能観の観智もまた有りません。ゆえに「亦無」と言います。

「若執下」は得失を辨じます。初めに智障に属すると判ずるのはすなわち失です。次に「若不執下」はすなわち得です。初めに「四門」とはすなわち能通の門です。門を成ずるがゆえに能通の得と名づけます。「若得契下」は所通の理を明かします。この理に契うがゆえに所通の得と名づけます。四句を観じても理は実に四ではありません。ここで六十四番を欠くのはただ略です。

「若有下次」は化他を明かします。問い。前の二仮を観ずるのに、なぜ化他の相を明かさないのでしょうか。答え。前は観法がまだ周かでなく自行もまだ満たないためです。それゆえここに至って初めて利他と名づけます。初めの文は総じて挙げます。「所謂下」は別に釈します。初めに縁修を釈する中で、まず法、次に喩です。初めの法の中で「無常が常を生ず」とは前に説いた通りです。前は破るためであったので「無常が常を生ずべきではない」と言いました。今は機に随って聞くべき者が得益することを明かします。語は同じでも意は異なり、一準にはできません。無常から常を見れば、無常は他です。ゆえに大経が十仙を破る中に「汝の法では因は常で果は無常である。何妨あらん、我が法では因は無常で果は常である」とあります。今もまた同様です。縁修の無常の因によって、真修の常住の果を生ずるのです。

「又云下」は譬をもって他生を明かします。伊蘭は無明の如く、栴檀は法性の如し。ゆえに大経で闍王が法を聞いて授記を得て已って、自ら述べて歎じて「我は世間が伊蘭の子から伊蘭の樹を生ずるのを見た。伊蘭から栴檀の樹を生ずるのを見なかった。我は今、伊蘭の子から栴檀の樹を生ずるのを見ることができた。栴檀の樹とは、すなわち我が心の無根の信である」と。無根と言うのは、我は初め如来を恭敬することを知らなかった。今、信を生ずることを蒙ったので、ゆえに無根と言います。如来から我を見れば、如来は他です。法王の種性は自です。穀から穀を生ずるがゆえに種と名づけます。穀の種は変わらないので、ゆえに性と名づけます。我が身の中の法性から生ずる義は種の如し。無始より今に至るまでその種は変わらない。ゆえに性と名づけます。仏から信を生ずるのとは異なる。ゆえに自と名づけます。

「因滅等」は共生です。内の法性および外の観智によって無明が滅して已れば、すなわち菩提を得ます。ゆえに共と名づけます。「或言下」は離生です。内でないとは法性でないということです。外でないとは縁修でないということです。この二を離れるので、ゆえに無因と名づけます。しかもこれらを得るとは、内外でなくても中道の智を得ることがないわけではないということです。「云云」と言うのは、一一の句の末に皆「この智慧を得る」と結ぶべきです。執を離れるがゆえに智を得ると名づけます。

「無得等者」は前文を結釈して三観を成します。性過を離れるがゆえに無得と名づけます。過を離れて智を得るがゆえに「之得」と言います。無得を証するがゆえに得無得と名づけます。すなわちこの無得を仮に得と名づけます。得と無得は皆得られません。義は双遮を兼ね、またよく得と無得を双照します。

「諸菩薩下次」は菩薩が論を作って利他することを明かします。すなわち菩薩が論を作って門を申すということです。天親の地論は法性依持で、すなわち自生に属します。これは論の正意であるので正主と言います。他・共・無因もこれに準じて知ることができます。中論は空を申します。空を正主とします。余の有などの三もこれに準じます。

「豈離四門者」は教を摂して門を顕します。一切の諸教は四門に摂尽されます。四門は異なっても理に通ずることは異なりません。もしこの意を得れば乖違するところはありません。「牟楯」とは、牟の字は矛と作すべきです。または𨥨とも作します。兵器です。長さ二丈で兵車に建てます。楯の字は盾と作すべきです。これも兵器です。すなわち旁牌です。この楯は欄楯の字です。この牟は牛鳴です。ともに文意ではありません。楚に矛を売る者と盾を売る者がいました。買いに来る者が矛を買おうとして、売る者に言いました。「この矛は千の盾を壊す」と。盾を買いに来る者が売る者に言いました。「この盾は千の矛を壊す」と。矛を買う者がまだいて、盾を買う者がまた至りました。矛を買う者が売る者に言いました。「汝の矛を返して汝の盾を壊すならば、何の盾を得るか」と。売る者は答えられず、自ら相違するからです。

「若用下」は四門の中で四論・四悉を用いて止観を修します。「經論下」は門の功能を明かします。「如此下」は門の中の観行の功能を明かします。允もまた合です。「明眼下」は得を挙げて失を辨じます。「問下」は料簡です。初めの問いの中で、無明と法性はすでに相即です。法性はすなわち無明なので、ともに破るべきです。無明はすなわち法性なので、ともに顕すべきです。二法は不二なので俱に破顕します。二法がもし二ならば理が成りません。答えの意は、二法は体がなくただ仮名があるだけです。俱に仮名と言っても必ず並び住むことはありません。ゆえに法性が顕れれば無明はすでに傾いています。無明が傾く時、法性すらまだないのです。ましてさらに無明の名を立てるでしょうか。ゆえに破顕はなくして破し而も顕すのです。

次の問いの意は、先の答えのように、無明がすでにすなわち法性であるならば、ただ法性のみでどうして無明があるでしょうか。しかるに前文に「二法は相即」と言っています。もし相即ならば、どうして無明がすなわち法性であるだけでなく、また法性がすなわち無明であることがあるでしょうか。今の文ではただ一方を挙げて問いとしています。ゆえに「もはや無明なくして誰と相即するか」と言います。またさらに「法性はすなわち無明であり、もはや法性なくして誰と相即するか」と言うべきです。後の一方を論じないのは、迷において理を示し、理の不二を明かすからです。それゆえ相即です。不二の理を推せば一対の即で足ります。どうして重ねて次の一対を並べる必要があるでしょうか。もし迷の性を示すならば後の対を存すべきです。答えの中に二つの喩があります。初めの喩の意は二対を具に用います。無明は水の如く、法性は氷の如し。「不識」の一句は下の二句を冠します。氷に迷う者のために水を指して氷とし、水に迷う者のために氷を指して水とします。法性に迷えばすなわち無明を指し、無明に迷えばすなわち法性を指すようなものです。もしこの意を失すれば俱に二法に迷います。ゆえに世の人はただ無明に即する法性を識らないだけでなく、また法性に即する無明をも識らないと知るべきです。ちょうど湿性にもともと二つの名がなく、仮に二つの名を立てて迷う者に示すようなものです。二つの名に執して無二を了らないので、ゆえに二法をもって更に互いに即します。氷水に迷うことを恐れて更に珠の喩を引きます。珠は水火にあらず、縁に遇うがゆえに生じます。理性は二にあらず、縁に従うがゆえに説きます。

次に位を明かします。初めに中位の修相・証相を釈します。またしばらく次第の文を存するためです。ゆえに「両観を方便と為す」と言います。地相の体真および随縁は、入地の双遮の方便となることができます。ゆえに初地に至れば任運に双遮します。地前の空仮は入地の双照の方便となることができます。ゆえに初地に至れば任運に双照します。ゆえに体真止をもって見思を止め、すなわち空観をもって真諦を照らします。仮観の随縁もこれに準じて知ることができます。それゆえ初地を中道位と名づけます。

次に「修此下」は権位を斥けます。まず三位を立てます。通教の八地・別教の初地・円教の初住です。もし別接すれば、兼ねて通別の修証の位を序します。権を斥けようとするので、ゆえに重ねて序します。初めに通教を別接することを明かせば、方に「七地に修を論じ八地に証を論ず」と言うことができます。問い。第三巻で別接通を明かす中で、なぜ「八地に中道を聞き、九地に無明を伏し、十地に無明を破り、方に仏と名づける」と言うのでしょうか。どういう意味でこれと異なるのでしょうか。答え。四地から始めて九地に終わるまで、皆接の名を受けます。三根が異なるので位も等しくありません。四地を上とし、六七を中とし、八九を下とします。文は中から説くので七地と言います。前は経を銷するために下から説きました。ゆえに大品に「十地の菩薩は如仏と為す」とあります。経が下から説くのは位が定まっているからです。ゆえに諸経論は多く下から説きます。「如仏」と言うのは、第十地を通じて仏地と名づけます。接せられる人は能く無明を破ります。無明を破って已れば、かの仏地のように同じく八相を得ます。ゆえに如と名づけます。

「如此下」は権位を斥けます。通別の二意は無明を破っても、権位はなお高いので斥破する必要があります。問い。乾慧はまさに初心が修するところです。なぜ「初には修を得ず」と斥けるのでしょうか。答え。劣を挙げて勝を推し、一往斥けます。乾慧の中には総じて三賢を含みます。初心はただ五停心を修することができるだけで、まだ念処すらありません。まして八地の道観双流があるでしょうか。すなわち今、接せられて無明を破るでしょうか。また「初心下次」は別教が初めに信心を立てることを斥けます。まだ信に入っていないのに、どうして回向を論ずるでしょうか。文中ではただ回向に至ると言うだけです。文略のためです。ゆえにかの権位は凡夫には分がありません。「修中」と言うのはまた次第に寄ります。実を言えば三観は円修です。二観の心をもって中道を修します。それゆえここに至ってすなわち円修と名づけます。ゆえに四念処に「別向円修」とあるのはこの意です。

次に「今明下」は正しく円位を顕します。初めに五品を立てます。法華経を引いて三観を釈成します。空は座に、衣は仮に、室にたとえます。また定慧をもって忍衣を助けて釈します。座は畢竟であるがゆえに空円です。衣は寂滅であるがゆえに中円です。室は慈大であるがゆえに仮円です。また室・衣・座の三は皆如来と言います。ゆえに円です。

「始從下」は相似位です。「見鶴下」は相似の譬を挙げます。大経十四に「見に二種あり。一は相貌見、二は了了見。相貌見とは、遠く煙を見て火を見ると名づけるがごとし。火を見ずといえども実に虚妄にあらず。空中に鶴を見て便ち水を見たりと言う。もし蓮華を見て便ち根を見たりと言う。籬間に角を見て便ち牛を見たりと言う。女の懐妊を見て便ち欲を見たりと言う。もし身口を見て便ち心を見たりと言う。一一句の下は初句のごとく広く説く。是のごときは皆相貌見と名づく。了了見とは、眼の色を見るがごとく、菩薩の道を見るがごとし。菩提涅槃もまたかくのごとし。掌の果を観るもまた同じ。是のごときは皆了了見と名づく」とあります。もし相貌見を相似見と名づけ、了了見を究竟見と名づけます。分証もまた分了の名を得ます。ゆえにこの似位はかの相貌を引きます。相似見は実に性を見るのではありません。まだ性を見ないといえども凡夫の虚妄に称する見とは異なります。ゆえに諸の譬に「実に虚妄にあらず」と言います。五品はなお観行の見を得ます。まして相似にして見でないことがあるでしょうか。

「例如下次」は例を引いて釈成します。「今五品下」は正しく中位を明かします。次に華厳を引いて初住を証します。六根清浄の位は界内の惑が尽き、しばらく無余と名づけます。進んで無明を破れば方に牟尼を過ぎます。三蔵の牟尼はまだ別惑を断たず、教門観行もまた円より劣っています。ゆえに初住の心は牟尼を過ぎます。

「始自下」は観の功能を顕します。「不待等者」は重ねて通教七地が方に接することを斥けます。「何暇歡喜」とは、別の初地が初めて中を証することを斥けます。ゆえに楞伽第五に「菩薩摩訶薩は如如に住して已り、歓喜地に昇る。かくのごとく次第に乃至法雲に至る」とあります。ゆえに皆初地已上の教道の説であると知るべきです。

「前教下」は正しく権実を判じます。教はますます実、位はますます下。教はますます権、位はますます高。ゆえに通は八地にあり、別は初地にあり、円は初住にあります。「法華下」は証を引いて権実を明かします。方便は権を証し、実事は実を証します。我とはすなわち釈迦です。諸とは十方三世などを謂います。彼の発迹の語を借りて、開権の文を成します。

「復次下」は更に教を歴して判じます。前はただ二双の流入中を列べただけです。今は更に通説するので三蔵を兼ねます。その教は更に下、その位は極めて高。ゆえに双流の位はただ仏にのみあります。当分・跨節の二義を明かすべきです。

「雖言去至略語者」は円実の位を明かします。その位は下といえども破惑の功は多い。初住に至れば一が一切を摂します。一品と言っても品は実に無量です。次に譬を挙げるのは文の通りです。次に「又下」は例を引いて釈します。四禅が一つであるのに入る者が異なるがごとし。これをもって言えば、品はただ九だけではありません。ゆえに初住が破する品は多いはずです。

「前兩觀後等者」は文に準じた次第では、ここに至って初めて竪破遍を結ぶことができますが、遠い文に迷うことを恐れます。ゆえに前もって二観の後に結びました。今ここに至って正しく結ぶべき処です。ゆえにただ略して結び、還って前を指します。「今中道觀下」は更に略して前の三番の中観を結び、二空を成します。これを破法遍と名づけます。無明は前の初番を結び、法性は前の次番を結び、「不依等」は前の第三を結びます。「不依四句」は性空を結成し、「無倚無著」は相空を結成します。前に準じれば破見は三仮の後にあり、方に二空を結びます。ゆえに今もまたそうなるべきです。次に浄名を引いて二空を証します。仏は二空を具するがゆえに稽首礼します。二空を具するがゆえに諸法を浄め尽くします。空をもって空を喩えるがゆえに如空と言います。もはや性相がないので無依と言います。もし初住に入れば一切の住を摂します。住はすでに惑を破るので、ゆえに一破が一切破を摂します。初から後まで皆一分を除きます。ゆえに一破一切破と名づけます。

次に横門について述べます。初めに来意を明かします。まず法、次に譬です。浅から深に至るので、ゆえに径直と名づけます。門門の意が等しいので、ゆえに斉と名づけます。俱に意等を列べるので、ゆえに並と名づけます。「若横等者」は次に門意を説きます。横竪は異なっても、実を見ないことはありません。またこれは類通です。一切の行に通じて皆極に至ります。

○橫門者下正釋橫門。先列八不。一論具列故先明之。故論第一歸敬序云。不生亦不滅。不常亦不斷。不一亦不異。不來亦不去。能說是因緣善滅諸戲論。我稽首禮佛諸法中第一。此之八不。明佛所說第一義諦。一論下舉例指廣。中論下引論攝相。以二攝六及垢淨等。論問曰。諸法無量。何故但以此八破耶。答。法雖無量此八破盡。當知諸文所列門相不出此八。赴緣名異是故廣明。故論云。言不生者一切邪計及四性等。生與無生皆不可得。不生無生何得有滅。滅無生故。故生本無。餘之六句准此說之。問。不生不滅既已總破一切諸法。何須更列餘六句耶。答。為成初二故列餘六。又信樂不同隨宜說異。故本業瓔珞下卷。大經大論第六。明破諸法並列八不與中論同。故瓔珞云。八不相即聖智不二。不二故是諸佛菩薩母。諸佛皆說八不故也。故知八不攝門義盡。又今竪門三諦義足。度入橫門門門三諦。故使橫門無橫不竪。以竪望橫無竪不橫。從始至終並有橫故。如一無生一切無生。乃至不出亦復如是。攝此橫竪皆入一心。具如後說。此八既爾諸門例然。是故今文度入諸門。具如中論初二入六。是故今文先以諸法悉入無生。餘七展轉更互相入乃至一切橫門亦然是故且明無生度入。初云若無生門至亦如是者。是將無生門中陰入界境十雙互發。來入諸門。次若無生門觀心下。是將無生門中十法成乘初文。及不思議境。境中十如十界三千。來入諸門。此中存略但云種種五陰。即是略舉五陰世間。一性相等即是略舉三世間中十如文。來入諸門。次若無生門發真正等。是將無生門中發菩提心。來入諸門。若無生門安心下是將安心止觀來入諸門。此前法三列文並略。唯至破遍文相稍廣者。正約破遍明度入故。自餘諸文相承來耳。既相承來。無住無行理亦應具。彼二門中或時無者是闕略耳。次若無生門識有無等下。是將破遍中竪三觀中入空文來。但是空中破見文耳。猶略破思及以諸位四門料簡等。若無生門破見等下。是將入假中知病。知病中重數。重數中知見重數文來。餘知病中諸義及識藥授藥等文並略。若無生門觀智障等下。是將入中初觀無明文來。前文既以四句推破。破已乃云。若於一觀得悟。餘句即融。故知一句得悟。悟即三觀現前。帶前二觀修中故也。餘三句如文。從自滅下是將入中觀法性文來。從自待下是將入中觀真緣文來。初無生門中明因成假。約無明法性以為自他共無因等。今入中道。中道文初攬前空假與中相即。已具三諦。故今四句一一句內皆結三諦。相續相待亦復如是。又一一假中皆初明自生次明三句。在文可見。相續文中言自滅等者。前觀法性中云。為當無明滅法性生等。故此文中以滅為名。無明滅生。無明即是自滅。法性生。即是他生。不滅而生。即是他滅。法性名自。滅不滅生。即是共。滅離滅不滅。即是無因。法性亦爾。何者。不滅生是自。不滅望滅滅即成他。今通無明言之。故皆云滅。相待中云自待等者。前相待中。云待智說無智待於諸佛。名為他待。待我當來名為自待。共與無因例此可知。若無生門三觀結成下。是將結破法遍文來。前於二觀後結竟。至第三觀後。但指前結之。今度入文。既於第三觀後說之。第二觀後故略不出。故知結遍正應合在第三觀末若無生門如上等者。總結若得下次明二經。初通明入相。次所以者何下正明二經。先明無行。次明金剛。初無行中云諦無行者。即是妙境。智是依境起解。菩提是發心。安心如文破見思等者即是破遍生死涅槃中間即是通舉始終。行位教等指下文中通塞道品及以正助。位是次位。通攝安忍及以離愛。並在位中。過離愛已入初住位。必有起教故云教也。次金剛者。初且引經六塵不住。次境智下明十乘也。不住境智乃至見思無明等者。且舉十乘初三文也。以破遍文是元度入故也。不住地等者。更引經中不住之文。入地尚乃云不應住。以未極故。況復住於初心境智。乃至若未破遍故不應住。即是無住而住。是則亦名不應住。故云雖諸法不住以無住法住般若中。是則三諦復通初後。六即皆得名無住住。此無住下更判位也。故仁王下釋判也。通途言之。此之三處皆破無明。是故分得金剛無住。釋迦下明究竟金剛。若爾下釋疑常途所釋但云金剛唯在伏道。故云斷道無金剛耳故以等覺為金剛位。妙覺唯斷無金剛也。仁王既云釋迦所入。故今引之。佛有金剛通至初住極在於佛。無非金剛不住義也。為破他解故引佛有從容釋之。有無無在用在等覺。功歸妙覺。二論所說亦不出於十乘不住。言度曲者。曲謂音曲。以無生義度入餘門。如世絃管。絃管不殊而曲各異。絃管如橫。諸曲如竪。初章根本妙慧旨歸。度曲之功曠大若是。入道為理餘三屬事。千從之解少分為言。次更料簡者。初問可知。答意者。無生對餘名為二義。初正示自行能通之門。故云三十二菩薩。各各說己所入之門。若言下出他解。今解下出今家正解。初示能通之門。此菩薩下明自行。又他緣下次明化他。前明諸菩薩各自說己所入之門。故成自行。此中明三十二菩薩各各說者。非獨述己亦為利他。他緣不同故須各說。是則等者。歎門無量無不益他。云何等者。結酬前難。復次下更於門門以明四悉。得四悉益即是其宜。若無四悉應須度入。歎喜即世界。信善即為人。執破即對治。欲悟即第一義。當更下次明無滅等門有四悉益從喜生下八字即四悉門也。譬結如文。

○横門(おうもん)について、次に横門を正式に説明します。まず八不を列挙します。一つの論にすべてが列挙されているので、まずそれを明らかにします。それゆえ『中論』の第一の帰敬序にこう説かれています。「不生また不滅、不常また不断、不一また不異、不来また不去。よくこの因縁を説き、よくもろもろの戯論を滅す。われ仏に稽首礼したてまつる。諸法の中の第一なり」と。この八不は、仏の説かれた第一義諦を明らかにしています。一つの論の下で例を挙げて広く指し示し、『中論』の下で論を引用して相を摂め、二をもって六を摂め、および垢浄なども摂めます。論に問うて言います。「諸法は無量であるのに、なぜただこの八でもって破るのか」と。答えます。「法は無量といえども、この八でもって破り尽くす。まさに知るべきです。もろもろの文に列ねられた門の相は、この八を出でないことを。縁に赴くに名を異にするので、それゆえ広く明かすのです。それゆえ論に言います。『不生と言うのは、一切の邪計および四性など、生と無生ともに不可得である。不生・無生であれば、どうして滅がありえようか。滅は無生だからである。ゆえに生はもとより無である。残りの六句もこれに準じて説くべきである』と。問う。不生・不滅はすでに一切の諸法を総じて破っているのに、どうしてさらに残りの六句を列ねる必要があるのか。答える。初めの二つを成就するために残りの六を列ねるのである。また信楽が同じでないので、宜しきに随って説を異にするのである。それゆえ『本業瓔珞』下巻、大経・大論の第六に、諸法を破することを明かすに、ともに八不を列ねること『中論』と同じである。それゆえ瓔珞に言う。八不はすなわち聖智の不二である。不二であるがゆえに諸仏菩薩の母である。諸仏は皆八不を説くゆえである。それゆえ八不が門を摂める義は尽きていることを知る。また今の竪門は三諦の義が足りている。横門に度入すれば、門ごとに三諦である。それゆえ横門にして横ならざるはなく、竪である。竪をもって横を望めば、竪にして横ならざるはない。始めから終わりまで並びに横があるゆえである。たとえば一つの無生が一切無生であり、乃至不出もまたまたこのようである。この横竪を摂めて皆一心に入れる。詳しくは後に説く通りである。この八がすでにそうであるように、諸門もこれに准ずる。それゆえ今の文は諸門に度入する。詳しくは『中論』の初二入六の通りである。それゆえ今の文はまず諸法をことごとく無生に入れる。残りの七は展転してさらに互いに入り、乃至一切の横門もまたこのようである。それゆえしばらく無生の度入を明かす。初めに『もし無生門に至れば乃至またこのようである』というのは、これ無生門の中の陰入界の境の十双が互いに発し、諸門に入って来るのである。次に『もし無生門に観心すれば』の下は、これ無生門の中の十法成乗の初めの文、および不思議境、境の中の十如・十界・三千を、諸門に入れて来るのである。ここでは省略してただ種々の五陰と言う。すなわち略して五陰世間を挙げるのである。一性相などは、すなわち略して三世間の中の十如の文を挙げる。諸門に入れて来るのである。次に『もし無生門に真正を発せば』などは、これ無生門の中の菩提心を発すことを、諸門に入れて来るのである。『もし無生門に安心すれば』の下は、これ安心止観を諸門に入れて来るのである。これより前の法三の列文は並びに略である。ただ破遍の文に至って相やや広いのは、正しく破遍について度入を明かすゆえである。自余の諸文は相承して来るだけである。すでに相承して来る以上、無住・無行の理もまたまさに具わるべきである。彼の二門の中に或いは無いというのは、欠略であるだけである。次に『もし無生門に識有無等』の下は、これ破遍の中の竪三観の中の入空の文を来たらせるのである。ただし空中の破見の文だけである。なお破思および諸位・四門料簡などを略している。『もし無生門に破見等』の下は、これ入仮の中の知病、知病の中の重数、重数のうちの知見重数の文を来たらせるのである。余の知病の中の諸義および識薬・授薬などの文は並びに略である。『もし無生門に観智障等』の下は、これ入中のはじめの観無明の文を来たらせるのである。前の文はすでに四句をもって推破している。破し終わってからこう言う。「もし一観において悟りを得れば、余の句はすなわち融ける」と。それゆえ一句で悟りを得ることを知る。悟ればすなわち三観が現前する。前の二観を帯びて中を修するゆえである。余の三句は文の通りである。『自滅』の下からは、これ入中の中の観法性の文を来たらせるのである。『自待』の下からは、これ入中の中の観真縁の文を来たらせるのである。初めの無生門の中に因成仮を明かすに、無明・法性について自・他・共・無因などとする。今これを中道に入れる。中道の文の初めに前の空仮と中とが相即することを攬る。すでに三諦を具えている。それゆえ今の四句は一句一句の内に皆三諦を結ぶ。相続・相待もまたこのようである。また一一の仮の中に皆初めに自生を明かし次に三句を明かす。文に見るべし。相続の文に『自滅等』と言うのは、前の観法性の中で言う。「まさに無明が滅し法性が生ずるか」などと。それゆえこの文の中では滅をもって名とする。無明が滅し生ずる。無明はすなわち自滅である。法性が生ずる。すなわち他生である。不滅にして生ずる。すなわち他滅である。法性を自と名づける。滅・不滅が生ずる。すなわち共である。滅を離れ滅・不滅を離れる。すなわち無因である。法性もまたこのようである。何となれば、不滅が生ずるのは自である。不滅を滅に対して滅めばすなわち他となる。今通じて無明について言う。それゆえ皆滅と言う。相待の中に『自待等』と言うのは、前の相待の中で言う。「智に対して待って無智を説き、諸仏に対して待つを他待と名づける。我が当来に対して待つを自待と名づける」と。共と無因はこれに准じて知るべし。『もし無生門に三観結成』の下は、これ結破法遍の文を来たらせるのである。前に二観の後で結び終わっている。第三観の後に至っては、ただ前の結びを指すだけである。今度入の文は、すでに第三観の後に説いている。第二観の後ではそれゆえ略して出さない。それゆえ結遍はまさに正しく第三観の末に合するべきであることを知る。『もし無生門に如上等』というのは、総じて結ぶ。『もし得れば』の下は、次に二経を明かす。初めに通じて入相を明かし、次に『それゆえに何となれば』の下に正しく二経を明かす。まず無行を明かし、次に金剛を明かす。初めの無行の中に『諦無行』と言うのは、すなわち妙境である。智はこれ境に依って解を起す。菩提はこれ発心である。安心は文の通りである。破見思などというのは、すなわち破遍である。生死・涅槃・中間は、すなわち通じて始終を挙げる。行位教などは下の文の中の通塞・道品および正助を指す。位はこれ次位である。通じて安忍および離愛を摂める。並びに位の中にある。離愛を過ぎれば初住の位に入る。必ず起教があるゆえに教と言う。次に金剛とは、初めにしばらく経を引き六塵不住を示す。次に『境智』の下に十乗を明かす。不住の境智乃至見思無明などというのは、しばらく十乗の初めの三文を挙げるのである。破遍の文がこれ元の度入であるゆえである。不住地などというのは、さらに経の中の不住の文を引く。入地に尚おかつ『住すべきでない』と言う。未だ極まらないゆえである。ましてや初心の境智に住するにおいてをや。乃至もし未だ破遍でなければ住すべきでない。すなわちこれ無住にして住するである。これすなわちまた『住すべきでない』とも名づける。それゆえ『諸法不住といえども無住の法をもって般若の中に住す』と言う。これすなわち三諦はまた初後を通じ、六即は皆無住住と名づけ得る。この無住の下にさらに位を判ず。それゆえ『仁王』の下に判を釈す。通途に言えば、この三処は皆無明を破る。それゆえ分じて金剛無住を得る。『釈迦』の下に究竟金剛を明かす。『もし爾らば』の下に疑いを釈す。常途の釈はただ金剛は唯伏道に在りと言うだけである。それゆえ『断道に金剛無し』と言うだけである。それゆえ等覚をもって金剛の位とする。妙覚は唯断のみで金剛は無い。仁王にすでに釈迦の所入と言う。それゆえ今これを引く。仏に金剛ありて初住に通り極は仏に在る。金剛不住の義でないものはない。他の解を破るために仏にありと引き、従容としてこれを釈す。有無は用に在り、用は等覚に在り。功は妙覚に帰す。二論の所説もまた十乗不住を出でない。度曲と言うのは、曲は音曲のことである。無生の義をもって余門に度入する。世の絃管のごとし。絃管は殊ならずして曲は各々異なる。絃管は横のごとし。諸曲は竪のごとし。初章根本妙慧の旨帰、度曲の功は曠大なることこのようである。入道は理のため、余の三は事に属す。千従の解は少分を言う。次にさらに料簡する。初めの問いは知るべし。答の意は、無生は余に対すれば二義と名づける。初めに正しく自行の能通の門を示す。それゆえ三十二菩薩と言う。各々自らの所入の門を説く。『もし言えば』の下に他の解を出す。『今解』の下に今家の正解を出す。初めに能通の門を示す。『この菩薩』の下に自行を明かす。また『他縁』の次に化他を明かす。前に諸菩薩が各々自らの所入の門を説くことを明かす。それゆえ自行を成す。ここに三十二菩薩が各々説くことを明かすのは、独り己を述べるのみならずまた利他のためである。他縁が同じでないゆえに各々説く必要がある。『是則等』というのは、門の無量にして他を益せざるは無いことを歎ずる。『云何等』というのは、前に難じたことに答えることを結ぶ。『復次』の下にさらに門門において四悉を明かす。四悉の益を得ればすなわちこれその宜しきである。もし四悉が無ければまさに度入すべきである。歎喜はすなわち世界である。信善はすなわち為人である。執破はすなわち対治である。欲悟はすなわち第一義である。『まさに更に』の下に次に無滅などの門に四悉の益があることを明かす。『喜生』の下の八字からすなわち四悉門である。譬結は文の通りである。

○次明一心者。初明來意。始從外外終至佛法。皆有邪執及以諸思。並皆觀破。破立兼申一切經論。故見思破位大小不同。四門料簡所入各異。出假藥病及授藥等遍歷一切。入中復有諸位不同。度入橫門門又無量。是故一一皆云一切。其相既廣。欲修觀者厝心難當。故須結撮示其正意。名為一心。此即正明一心無生門之來意也。從若無生門千萬等者。次明橫竪諸門。度入一心。雖種種下結成一心。但一心下分門解釋。先釋總門。對下貪等一一相別。故名為總。利者舉總已了於別。為未了者下更別云。於中初略示觀法。若不得等者。次明度入意。尋文可見。言懸超者。一心中具無復次第。不同前竪故曰懸超。出假度入中云複疎到入者。自行雖破未委分別。故名為疎。次為利他更廣分別。故名為複。破已復來故名到入。亦名却入。未前進故。如是等相亦入一心。故云妙空乃至雙照等。一切雙非意亦如是。言雙照二諦之假者。以假即中故也。何以故下釋結。如是等者。次約一心開佛知見。既於念念止觀現前。約此心念名為眾生。何者。總撮前來若橫若竪既入一心。凡一念起不離於我。我即眾生。違念念心而寂而照。寂故名止照故名觀。一心既爾。諸心例然。止觀為因眼智為果。一一念中無非止觀眼智故也。何必初住方名開耶。如開三乘但是開彼執近之謂。謂即眾生亦是點示謂情寂照。即是三乘佛知見開。今此但是開許開通之開。未是開發開見之開。故下文云此觀成等。以判開位。故法華云下引證六根淨中。但引意根者。由意淨故諸根清淨。故但引意以攝餘根。三賢十聖等引仁王者。賢聖居因故有果報。佛無報故。故名為淨。今通論之淨穢既殊。有報義別可證究竟。大經亦云下借小明大證妙覺報。小乘亦以有現報故。名為有報。故二十七云。眾生繫縛名色。名色繫縛眾生等。師子吼難言。若有名色是繫縛者。諸阿羅漢未離名色。亦應繫縛。佛言。善男子。解脫二種。一者子斷。二者果斷。言子斷者諸阿羅漢已斷煩惱諸結爛壞。未斷果故名果繫縛。不得說言名色繫縛。雖未斷果必定斷故。煩惱即是果家之子。陰果即是子家之果。大乘雖不同彼小乘入無餘時永斷於果。但有現報無生後報。其義稍同故得相顯也。有報身故同於子果。不招後報名無果子次引金光明亦證報身雖同名報報義復別。不同小乘隔世報故。故重引之。境名法身。智名報身。境智相應能起化用。名為應身。准彼經意應字平呼。智應於境名為應身。彼經即以報身為應。起化用者可去聲呼。即化身是。故彼經三身品云。化身應身法身。隨諸眾生現種種身。名為化身。相應如如如如智願力故。得現具足相好。名為應身。斷一切煩惱具一切法。唯有如如如如智也。如如法身為如如智所應依故。次引寶性釋金光明。

次に「一心」を明かすとは、まずその来意を明かすことです。外道や外道の外道から始まり、仏法に至るまで、みな邪執と思いを抱いています。これらをことごとく観じて破し、破と立の両方を述べて一切の経論を尽くします。それゆえ見惑・思惑を破る位は大小によって異なり、四門の料簡によって入る先もそれぞれ異なります。仮を出て薬と病を論じ、薬を授けることなど、一切を遍く巡ります。中道に入るにもまた種々の位の違いがあり、横の門に度入すれば門はまた無量です。それゆえ一一にすべて「一切」と言うのです。その相はすでに広大であるため、観を修めようとする者は心を置くことが難しいのです。そこで結撮してその正しい意を示す必要があり、これを「一心」と名づけます。これがすなわち、一心無生門の来意を正しく明かすものです。

「若し無生門に千万等」とは、次に横と竪の諸門が一心に度入することを明かします。「種々なれども」の下は、一心に結成することを示します。「但だ一心」の下は、門を分けて解釈します。まず総門を解釈します。下の貪などの一一の相が別であるのに対し、これを「総」と名づけます。利根の者は総を挙げればすでに別を了知し、了知しない者のために下でさらに別に説きます。その中で初めに観法を略示します。「若し得ざれば等」とは、次に度入の意を明かします。文に尋ねれば見ることができます。「懸超」と言うのは、一心の中に具わって再び次第がないからです。前の竪とは異なるので「懸超」と言います。仮を出て度入する中に「複疎到入」と言うのは、自行は破したけれどもまだ委しく分別していないので「疎」と名づけます。次に利他のためにさらに広く分別するので「複」と名づけます。破してすでに復た来るので「到入」と名づけます。また「却入」とも名づけます。まだ前に進まないからです。このような等の相もまた一心に入ります。それゆえ「妙空乃至双照等」と言います。一切の双非の意もまた同じです。「双照二諦之仮」と言うのは、仮すなわち中であるからです。

「何以故」の下は、釈結です。「如是等」とは、次に一心に関して仏の知見を開くことです。すでに念念に止観が現前するので、この心念に関して「衆生」と名づけます。なぜなら、前に来た横や竪を総撮してすでに一心に入れば、一念が起こるごとに我を離れず、我すなわち衆生です。念念の心に違って寂にして照します。寂であるゆえに「止」と名づけ、照であるゆえに「観」と名づけます。一心がすでにそうであれば、諸心も同様です。止観を因とし、眼智を果とします。一一の念の中に止観・眼智でないものはないからです。どうして必ず初住でなければ開と名づけないのでしょうか。たとえば三乗を開くとは、ただかの執近の謂を開くだけです。謂すなわち衆生もまた、謂情の寂照を点示するものです。すなわちこれが三乗の仏知見の開です。今ここではただ開許・開通の開であり、まだ開発・開見の開ではありません。それゆえ下の文に「此観成等」と言い、開位を判定します。

「故法華云」の下は、証を引き、六根清浄の中に引きます。ただ意根を引くのは、意が浄らかであるゆえに諸根が清浄となるからです。それゆえただ意を引いて、もって余の根を摂します。「三賢十聖等」で仁王を引くのは、賢聖は因に居るゆえに果報があり、仏は報がないからです。それゆえ「浄」と名づけます。今通じて論じれば、浄穢はすでに異なり、有報の義も別であり、究竟を証することができます。「大経亦云」の下は、小を借りて大を明かし、妙覚の報を証します。小乗もまた現報があるゆえに「有報」と名づけます。それゆえ二十七に云います。「衆生は名色に繋縛され、名色は衆生に繋縛される等」と。師子吼が難じて言います。「もし名色が繋縛であるならば、諸阿羅漢はまだ名色を離れていないから、また繋縛されるべきである」と。仏は言います。「善男子よ、解脱に二種ある。一は子断、二は果断である。子断とは、諸阿羅漢はすでに煩悩を断じ諸結が爛壊しているが、まだ果を断じていないゆえに果繋縛と名づける。名色に繋縛されると説くことはできない。まだ果を断じていなくても必ず断じるからである。煩悩はすなわち果の子であり、陰果はすなわち子の果である」と。大乗は彼の小乗が無余に入る時に永く果を断じるのとは異なりますが、ただ現報があって生後の報がないだけです。その義はやや同じなので、互いに顕すことができます。有報身があるゆえに子果と同じであり、後の報を招かないので無果子と名づけます。

次に金光明を引くのもまた、報身を証します。同じく報と名づけても報の義はまた別です。小乗が世を隔てた報とは異なるので、重ねてこれを引きます。境を法身と名づけ、智を報身と名づけ、境智が相応して化用を起こせることを応身と名づけます。かの経の意に準じれば、応の字は平声に呼びます。智が境に応じるので応身と名づけます。かの経はすなわち報身をもって応とします。化用を起こす者は去声に呼びます。すなわち化身です。それゆえかの経の三身品に云います。「化身・応身・法身。諸の衆生に随って種々の身を現すを化身と名づく。相応如如・如如智の願力のゆえに、具足した相好を現すことを得るを応身と名づく。一切の煩悩を断じ一切の法を具し、ただ如如・如如智のみなり。如如法身は如如智の応じる所の依となるがゆえに」と。次に宝性を引き金光明を釈します。

○次歷餘一心者。以向橫竪不二一心。歷於諸心。一切諸心無非無明。是故初且總觀無明。總既非宜開總出別。無明心中具諸心故。問。前文但云觀於識陰。何故得有欲等心耶。答。一者諸心不出於識。二者為對便宜之人。故須兼列。問貪等即是煩惱所攝何名觀陰。答。雖是煩惱善惡陰攝。況此但觀欲等心王。若爾。與煩惱境有何別耶。答。此是煩惱非煩惱境。彼由觀發昔此過現習生。與下不同故合在此。其實煩惱非報陰也雖即屬陰攝陰不盡。是故下文復例餘陰。所言歷者謂巡檢也以別望總故名為餘。不出無明故云一心。

次に、残りの一心を巡って観察するとは、これまで述べてきた横と竪の不二の一心をもって、さまざまな心を巡り観ることです。すべての心は無明を離れていません。そこで、まず初めに無明を全体として観ます。全体としての観察がふさわしくない場合には、全体を開いて個別を出します。無明の心の中に諸々の心が備わっているからです。

問い。前の文ではただ識陰を観るとだけ述べています。なぜ欲などの心があり得るのでしょうか。

答え。第一に、諸々の心は識を出ません。第二に、教えを受けるのにふさわしい人に合わせるために、兼ねて列挙する必要があるからです。

問い。貪などはすなわち煩悩に属するものです。なぜ観陰というのでしょうか。

答え。それは煩悩ではありますが、善悪の陰にも属します。ましてここではただ欲などの心王を観るのです。

もしそうなら、煩悩の境と何の違いがあるのでしょうか。

答え。これは煩悩であって煩悩の境ではありません。かの境は観察によって、昔のこの過の現の習いを生じさせます。以下の部分とは異なるので、ここに合わせて置くのです。実のところ煩悩は報陰ではありません。すなわち陰に属しますが、陰を尽くすものではありません。それゆえ以下の文で再び残りの陰を例示します。

いわゆる「歴」とは巡り検査することを意味します。別をもって総に望むので、これを「余」と名づけます。無明を出ないので「一心」というのです。

○次前來下例餘陰入等者。問。應在第七卷末明十乘竟例餘陰入皆修十乘。何故於此即例餘耶。答。以義便故。從初至此單約識心。從此已去乃至離愛。具約五陰方成法相。故通塞中既檢校諦緣。諦緣必須具足五陰。道品念處不可獨明一識陰故。正助秖是助於道品。下三秖是明於觀陰次位等耳。故須於此例餘陰入。將餘陰入共為觀境。問。歷餘一心與四陰何別。答。有同有異具如向簡。又歷餘一心。以心對心而論總別。若例餘陰以陰對陰而論麁細報非報異。法相別故。故須別明。雖復別明應知同異。陰不出心心不離陰。陰從能覆。心從能造。造親覆疎並心為境。次問答料簡。問如文。答中先答入空因緣。於中先總答。何者下別列。夫生死下釋也。初文釋為自脫。自既有下釋為脫他。賢聖以下釋為慧命。諸神通下釋為無漏。又法位下釋為法位。然須思擇例同出假因緣相者。自脫同大悲。脫他同本誓。慧命同利智。無漏同方便。法位同精進。一一細會令義相當。假在空後故云例後。欲以前後一例五緣故亦五耳。夫空觀下次答入假無四門。意。空通大小等者。小藏大衍偏三圓一。此等皆破見思入空。能破之觀依門不同。故列十六門使析體不濫。如體空中諸空復別。見思斷處三乘共有。別教入空雖獨在菩薩。智斷復同。標心永異。今文明竪相似別教。文意復殊。故今文云所為處別。故對別簡使與別異。以立次第本顯不次。故云料簡閑也。恐人迷故寄四教簡。文意本在唯一圓融。智障者下寄此文後以引達磨欝多羅釋智障義。達磨欝多羅此云法尚。佛滅度後八百年出。是阿羅漢於婆沙中取三百偈以為一部。名雜阿毘曇。此論主凡有釋義文多委悉。大師引用全無破斥。亦如玄文釋十二部經。雖不正用具存彼意。今文初從煩惱至云何說智為障。即徵起也。智有二種云。答也。既述彼義且順彼宗。勿將今文以雜彼意。初徵可解。答中言證智者。是佛菩薩智。言識智者是二乘智。二乘之智雖得智名未順實相。義當於識。能破煩惱義當於智。言體違等者釋識智。識順於想性是分別。此智違體故曰體違。此智順想故曰想順。順二乘智違於佛智。與佛菩薩智而作障故。故云智障。又佛於二障等者。佛煩惱障先已除竟。無明復盡名離二障。故引涅槃證二解脫。心謂無漏智謂證智。智不被障名智解脫。次引地持釋涅槃意。地持名慧涅槃名智。名異義同。次若以下轉釋地持慧解脫也。地持中云。於一切所知知無障礙。名為智淨。故釋云。以無明故於知有礙。若破無明知無障礙。即是無明障於證智。名為智障。破無明故得智無障。次引入大乘。以證無明是智障義。然無明名同是故須簡。出世無明方名智障。二障俱是煩惱下。更轉難也。無明與愛俱是煩惱。何故獨以無明煩惱。而為智障。從無明下釋也。愛是煩惱煩惱異智。無明雖亦名為煩惱。煩惱即智。是故無明不同於愛。所以分於二障不同。次引例釋智障。分段是生死生死非無為。若無為生死生死即無為。無明亦如是。即體得名智。是故說無明得名為智障。愛即四住下釋煩惱非即智之惑。故有智慧時則無煩惱。有煩惱時則無智慧。是故文云。解惑不俱。煩惱即障名煩惱障。言無為生死者。攝大乘立七種生死中。有方便生死即無為生死。有因緣生死即法界生死。此二生死在變易土。故彼生死即是無為。故借例今即智之惑。復次愛能令諸有相續去。更重釋出愛與無明。其體不同。愛從果起能續後果。故云能令諸有相續。此明愛之功能。能令心煩下釋愛功能秖是煩惱。雖無明覆蔽下。出無明功能以望煩惱。招生彊者不過於愛。故從彊受名。是故愛但名為煩惱。不名智障。無明不了下。正釋無明功能是智障義。無明與愛俱違解脫。而無明與愛枝本不同。無明為本正違解脫。違即是障。次愛性下明愛是枝。本既已受智障之名。是故愛但名為煩惱。次無明性迷下。重釋無明親能障智。體性復迷。迷即是障。親障智故。是故名為障智義顯。次無明有二種下。重簡無明名同體異。以辨二障體相不同。先問云。雖有迷事迷理之殊。二既同得名為無明。云何無明得名智障。次引地持答。若通論者。所障既其俱名智。故使能障俱名障。今別論者。所障智體既不同。故令能障無明別。是故二乘人無我智。而為所障。即以煩惱而為能障。諸佛菩薩法無我智。而為所障。人無我智而為能障。以二乘之所障。為佛菩薩之能障。於二乘人得名為智。於佛菩薩但名為障。此亦即智是障名為智障。若爾下判向地持。人法無我俱是所迷。人法無我二俱名理。二無我智俱名淨智。煩惱及智俱是理智家障。從又智所知去。即是事智被障為智障。次若爾下徵向所解。迷事迷理俱名智障。何者為定。從照事照理去。會向二解並有道理。以古人釋有二不同。或以諸法被障。名為智障。或以無明障於佛智。名為智障。論主俱許故云雖二二無二也。何者。秖是一智能照事理。事理雖殊智體無別。又心智為障下又出異解。有人云。心智為障者。心是分別。分別為事。事礙如實。此釋即取以迷理者。名為智障。以滅想滅心去。舉小乘法對釋於大。如小乘人入滅盡定滅想滅心。亦名滅智。此是斷滅。今滅智障心不可滅。即捨分別入無分別。故知分別實不可捨。又非條然下重釋智障與中道智。非條然別。智障是無明無明是法性。是故智障不可斷也。次是以下引經為證。福尚一毫無不趣極。當知分別智體無捨。為助道故先破煩惱。煩惱若破。此破惑智。體是證智。是故無失。人作一向下次破執見。見者自謂有斷不斷之別。論其智體體本無殊。如上眾釋意顯無明雖云智障。障體即智。又前來諸解亦不出前釋中觀初明智障義。開為三釋。初云說智為障。即是智為能障。智障兩字俱屬能也。次云從所障故。名為智障者。即是證智被障。名為智障。智障兩字俱屬所障。次云又智所知礙。名為智障者。即障字為能智字為所。次問答者重釋妨也。初問意者。瓔珞經中列位始終。唯云初地三觀現前前雙流文。何故得有三處雙流。答意者。借義相成於理無失。借別八地成通教下。借別初住成圓教高。不可專執瓔珞別位定在初地。明位委悉不過瓔珞。是故借之以成高下。此一問答拾遺故來。文亦非次。

次に、ここから先に来て、残りの陰・入などを例示する箇所について述べます。問います。第七巻の末で十乗を明かし終えて、残りの陰・入も皆十乗を修めることを例示すべきなのに、なぜここで残りの陰を例示するのでしょうか。答えます。義の都合によるからです。初めからここまではもっぱら識心についてのみ述べ、ここから先は愛を離れるところまで、五陰全体について述べて、はじめて法相が成立します。ですから通塞の中で既に諦と縁を検討していますが、諦と縁は必ず五陰を具足していなければなりません。道品や念処を識陰一つだけで明かすことはできないからです。正助とは、ただ道品を助けるものであり、下の三つは、ただ観陰と次位などを明かすだけです。ですからここで残りの陰・入を例示する必要があるのです。残りの陰・入をともに観の対象とするのです。問います。残りの一心を巡ることと四陰とは何が違うのでしょうか。答えます。同じ点もあり異なる点もあります。詳しくは先の選別の通りです。また残りの一心を巡る場合は、心を心に対して論じて総と別を論じます。もし残りの陰を例示するならば、陰を陰に対して論じて麁細・報非報の違いを論じます。法相が異なるからです。ですから別に明かす必要があるのです。別に明かすといっても、同じ点と異なる点を知るべきです。陰は心を出でず、心は陰を離れません。陰は覆うというはたらきから、心は造るというはたらきからいいます。造るものは親しく、覆うものは疎く、ともに心を対象とします。

次に問答で整理します。問いは文の通りです。答えの中では、まず入空の因縁に答えます。その中でまず総答し、「何者」の下で別に列挙し、「夫生死」の下で説明します。初めの文では自らの解脱のためと説明します。「自既有」の下では他を脱するためと説明します。「賢聖已下」では慧命のためと説明します。「諸神通下」では無漏のためと説明します。「又法位下」では法位のためと説明します。ただし、思索して選び定めなければなりません。出仮の因縁の相を例同するとは、自脱は大悲と同じ、脱他は本誓と同じ、慧命は利智と同じ、無漏は方便と同じ、法位は精進と同じです。一つ一つ細かく照合して、義を相当させます。仮は空の後にありますから、例後といいます。前後の一例に五つの縁があるので、また五つとなるだけです。

「夫空観下次」では、入仮に四門がないことに答えます。その意は、空は大小に通じるということです。小蔵・大衍・偏三・円一、これらは皆、見思を破って空に入ります。能破の観は門によって異なります。ですから十六門を列挙して、析空と体空が混じらないようにします。体空の中でも諸々の空はさらに区別されます。見思を断ずる所は三乗に共通です。別教の入空はただ菩薩にのみありますが、智断はまた同じです。標心は永く異なります。今の文は竪を明かして相似の別教に似ています。文の意はまた異なります。ですから今の文では「所為処別」といいます。ですから別に対して簡別して、別とは異ならせます。次第を立てるのはもともと不次を顕すためです。ですから「料簡閑也」といいます。人が迷うことを恐れて、四教に寄せて簡別します。文の意はもともと唯一円融にあります。「智障者下」では、この文の後に寄せて達磨欝多羅を引いて智障の義を解釈します。達磨欝多羅は、ここでは法尚といいます。仏の滅度の後八百年に出た方です。この方は阿羅漢で、婆沙の中から三百偈を取って一部とし、雑阿毘曇と名づけました。この論の主は、およそ義を解釈する文が多く委悉です。大師が引用するにあたって、全く破斥していません。また玄文で十二部経を解釈するのと同じです。正しく用いてはいませんが、その意を全て存しています。今の文は初めに煩悩から「云何説智為障」までが、すなわち徴起です。「智有二種云」は答えです。既に彼の義を述べているので、しばらく彼の宗に従います。今の文をもって彼の意に混ぜてはいけません。初めの徴は理解できます。答えの中で「証智」というのは、仏菩薩の智です。「識智」というのは二乗の智です。二乗の智は智という名を得ていても、まだ実相に順っていません。義としては識に当たります。能く煩悩を破る義は智に当たります。「体違等」というのは識智を説明します。識は想に順じ、性は分別です。この智は体に違うので体違といいます。この智は想に順じますので想順といいます。二乗の智に順じ、仏智に違います。仏菩薩の智に対して障となるからです。ですから智障といいます。また「仏於二障等」とは、仏は煩悩障を先に既に除き終えています。無明もまた尽きて離二障と名づけます。ですから涅槃を引いて二解脱を証します。心は無漏、智は証智です。智が障られないのを智解脱といいます。次に地持を引いて涅槃の意を解釈します。地持は慧と名づけ、涅槃は智と名づけます。名は異なりますが義は同じです。次に「若以下」で転じて地持の慧解脱を解釈します。地持の中にいいます。一切の所知について知に障礙がないのを智浄と名づけます。ですから解釈していいます。無明のゆえに知に礙がある。もし無明を破れば知に障礙がない。すなわち無明が証智を障るのを智障と名づけます。無明を破るゆえに智の障りがないことを得ます。次に大乗を引いて、無明が智障である義を証します。ただし無明は名が同じですから簡別する必要があります。出世の無明だけが智障と名づけられます。「二障俱是煩悩下」では、さらに転じて難じます。無明と愛はともに煩悩です。なぜ独り無明の煩悩のみをもって智障とするのでしょうか。「従無明下」で解釈します。愛は煩悩であり、煩悩は智とは異なります。無明もまた煩悩と名づけられますが、煩悩がすなわち智です。ですから無明は愛とは同じではありません。それゆえ二障を分けて同じでないとします。次に例を引いて智障を解釈します。分段は生死であり、生死は無為ではありません。もし無為が生死ならば、生死はすなわち無為です。無明もまたその通りです。すなわち体がそのまま智と名づけられます。ですから無明が智障と名づけられるといいます。「愛即四住下」では、煩悩がすなわち智である惑ではないことを解釈します。ですから智慧がある時には煩悩がありません。煩悩がある時には智慧がありません。ですから文にいいます。解と惑は倶ならないと。煩悩がすなわち障で、煩悩障と名づけます。「無為生死」というのは、摂大乗が立てる七種の生死の中に、方便生死すなわち無為生死があります。因縁生死すなわち法界生死があります。この二つの生死は変易の土にあります。ですからかの生死はすなわち無為です。ですから借りて今の即智の惑に例えます。

また「復次愛能令諸有相続去」では、さらに重ねて愛と無明を出して、その体が同じでないことを明かします。愛は果から起こり、能く後の果を続けます。ですから諸有を相続させるといいます。これは愛の功能を明かします。能く心を煩わせるとは、愛の功能がすなわち煩悩であることを解釈します。「雖無明覆蔽下」では、無明の功能を出して煩悩に対して明かします。果を招くのに強いものは愛に過ぎません。ですから強い方から名を受けます。それゆえ愛はただ煩悩と名づけるだけで、智障とは名づけません。「無明不了下」では、正しく無明の功能が智障である義を解釈します。無明と愛はともに解脱に違います。しかし無明と愛は枝と本が異なります。無明が本で、正しく解脱に違います。違うことがすなわち障です。次に「愛性下」では愛が枝であることを明かします。本が既に智障の名を受けているので、愛はただ煩悩と名づけるだけです。次に「無明性迷下」では、重ねて無明が親しく智を障ることを解釈します。体性がまた迷っています。迷うことがすなわち障です。親しく智を障るゆえに、障智の義が顕れます。次に「無明有二種下」では、重ねて無明の名が同じで体が異なることを簡別します。二障の体相が同じでないことを弁じます。まず問います。迷事と迷理の違いはあるものの、二つはともに無明と名づけられます。どうして無明が智障と名づけられるのでしょうか。次に地持を引いて答えます。もし通論するならば、障られるものは既にともに智と名づけられますから、能障のものもともに障と名づけられます。今、別に論ずるならば、障られる智体が既に同じでないので、能障の無明も別となります。それゆえ二乗の人の無我智が障られるものとなり、すなわち煩悩が能障となります。諸仏菩薩の法無我智が障られるものとなり、人無我智が能障となります。二乗の障られるものを、仏菩薩の能障とします。二乗の人には智と名づけられ、仏菩薩にはただ障と名づけられます。これはすなわち智がすなわち障で、智障と名づけられます。

「若爾下」では、先の地持を判定します。人法無我はともに迷われるものです。人法無我の二つはともに理と名づけます。二無我智はともに浄智と名づけます。煩悩と智はともに理智の障です。「又智所知去」からは、すなわち事智が障られるのが智障です。次に「若爾下」では、先の解釈を問いただします。迷事と迷理はともに智障と名づけられます。どれが定めなのでしょうか。「照事照理去」からは、先の二つの解釈を会通して、ともに道理があります。古人の解釈に二つの違いがあるからです。あるいは諸法が障られるのを智障と名づける。あるいは無明が仏智を障るのを智障と名づける。論主はともに許していますから、雖二二無二といいます。なぜでしょうか。ただ一つの智が能く事と理を照らします。事と理は異なっても智体に別はありません。また「心智為障下」では、また異解を出します。ある人はいいます。心智が障るとは、心は分別で、分別が事となり、事が如実を礙る。この解釈はすなわち迷理のものを取って智障と名づけます。「以滅想滅心下」では、小乗の法を挙げて大に対比して解釈します。小乗の人が滅尽定に入って想を滅し心を滅するのは、また滅智と名づけます。これは断滅です。今、智障の心を滅することはできません。すなわち分別を捨てて無分別に入ります。ですから分別は実に捨てられないと知ります。また「非条然下」では、重ねて智障と中道智を解釈します。条然と別ではありません。智障は無明で、無明は法性です。ですから智障は断ずることができません。次に「是以下」では経を引いて証とします。福はなお一毫も極に趣かないものはありません。まして分別の智体は捨てられないと知るべきです。助道のためにまず煩悩を破ります。煩悩が破れれば、この惑を破る智、体は証智です。ですから失はありません。「人作一向下」では、次に執見を破ります。見る者は自ら断と不断の別があると思っています。その智体を論ずれば、体はもともと異なりません。以上の多くの解釈の意は、無明は智障といっても、障の体はすなわち智であることを顕しています。また前の諸解も、前の中観を釈する初めに智障の義を明かすのを出ません。三つの解釈に開きます。初めに「説智為障」というのは、すなわち智が能障です。智障の二字はともに能に属します。次に「従所障故、名為智障」というのは、すなわち証智が障られて智障と名づけられます。智障の二字はともに所障に属します。次に「又智所知礙、名為智障」というのは、すなわち障の字が能で智の字が所です。次の問答では、重ねて妨難を解釈します。初めの問いの意は、瓔珞経の中に位を列ねて始終を述べ、ただ初地に三観現前と前の双流の文だけをいう。なぜ三処に双流があることができましょうか。答えの意は、義を借りて相成し、理に於いて失がないからです。別の八地を借りて通教の下を成し、別の初住を借りて円教の高きを成します。もっぱら瓔珞の別位が定めて初地にあると執してはいけません。位を明かすのに委悉なのは瓔珞に過ぎません。ですから借りて高下を成すのです。この一問一答は拾遺のために来たものです。文もまた次ではありません。

止觀輔行傳弘決卷第六之四

止観輔行伝弘決 巻第六の四


第五
第七

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