止觀輔行傳弘決卷第七之一
止観輔行伝弘決 巻第七の一
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
次釋通塞中先列異名。次明來意有法譬合。就初法中先正明來意。亦是結前生後。前破法遍者結前也。應入等者生後也。俱用三名以為生後。故云應入不入。當尋得失必滯是非。得失秖是有著無著。若同外道名著名失。當用此門檢校除失。若無失者但依前門破塞存通。是故今門意在檢校。恐於通中翻起於塞。次不得下誡勸也。若一向作解唯用破遍。恐於通起塞於塞無通。所以立此通塞一門。檢彼破遍令塞得通。使彼破門於通無塞。次何者下正明來意。於能生著同彼外道。宜用通塞四句遍破。故知前破遍中但用能破破於所破。猶未悟者必於能所心生塞著。於能生著觀法雖正著心同邪。是故須破。故云愛著觀空智慧。是故須以四句三假破能著心使無立處。破能著智如所破惑。故云能破如所破也。雖不愛著能破之觀。而猶愛著所破之惑。故云若不愛著觀空智慧。則能破不如所破。是故但用破遍破惑。是故須以二句分別。則使此文與前永異。一者通途通塞則以所破為塞能破為通。二者別相通塞則以於能起著為塞破塞無著為通。故下文云。法相淺深任有通塞。況復於中起苦集等。上句即是通途通塞。下句即以別相況之。然今此中總有四義。一橫通塞。二竪通塞。三橫別通塞。四一心通塞。文四義二。前三為成一心故也。一一皆須四句檢校若於四通而起塞著。皆須破塞以存於通。如是展轉以破為期。故下文云。於一一能一一所。一一心皆悉檢校。為是義故立通塞門。所以復須四句分別。一者塞中得通。二者通中有塞。三者塞自是塞。四者通自是通。初之二句即是今文別相通塞。後之二句若塞已破即屬破遍。若塞未破度入今文成前二句。又第一句兼於兩句。謂通相別相兩意故也。次舉譬中先譬。除膜養珠但成分喻。若破賊護將便成遍喻。何者。除膜養珠不可珠復為膜。即濫第三第四兩句。是故更喻破賊護將。將若為賊此賊亦破。賊若為將此將亦護。如是展轉將皆為賊。節節破之。即是此文之正意也。所言膜者皮間薄膜。此膜覆眼名為眼膜。若爾下合譬。若能如是方能導人至於寶所。於中先正合譬。次通五百由旬義也。亦通塞之正意也。破塞存通至寶所故。是故路經五百由旬。經云導師善知通塞。故用法華將導譬也。是故須破古今諸釋。方了今文一心通塞。於中總有六師不同。破初家云二乘之道非七八地者。問。二乘正當七地八地云何言非。答。此中用釋論意以破彼計。彼釋既云六地見思盡以為三百。七地八地以為四百。是故今文以論破之。論以二乘而對四百。汝以六地對見思盡。正當二乘不為四百。却以七八二地而為四百。故汝所釋與彼大論通教義違。此師用通義而不識通意。是故還引大論破之。大論通意至後更釋。後之二家皆約煩惱為五百者。而前家不數塵沙後家不數於見。是故並失。後辨失中略不更破也。此之名義下通今經也。先正通經。經具三義故知諸師不與經會。諸師下次辨失也。先總次別。初言總者用別如太方。用通如太圓。二乘擅行如太動。界內立城如太靜。又約煩惱而不數見及塵沙。約生死而不數有後無後為太靜。故知諸師各隨一見。或得通而失二。或用別而違圓。或至三百而不立化城。或有擅行於四百五百。或約煩惱而攝或不盡或約生死而取捨不周。欲判圓經恐未可也。如持一孔等者。不可以一師偏解。能釋兼三之文。初家下別判。但判四師不判第五第六師者。略無易見。判初家云四百立城者。若約通義七八二地正屬二乘彼師七八對於四百。故成四百以立化城。攝家割二死於荒外者攝大乘師。立七種生死。一分段謂三界果報。二流來謂迷真之初。三反出謂背妄之始。四方便謂入滅二乘。五因緣謂初地已上。六有後謂第十地。七無後謂金剛心。汝既自立七種生死釋五百義。何故捨二但用方便及以因緣足於三界為五百耶。如汝所釋寶渚之外更有有後及以無後。捨而不用故名為割。荒為八荒八極之內亦云四海之外。亦曰九州之外。亦云荒服之外。故曰荒外。如第一卷所引。爾雅云。九夷等四此次荒之國也。觚竹等四此極遠荒之國也。今以地極名為遠荒。即以所極譬於寶渚。寶渚之外不應有地。攝師猶有二種生死闕而不論。是故破之。次判地家界內立城者。既將住位以對二百。住位復是見思斷位。二百對界秖是色界。故知即是界內立城故不可也。次家即以二乘足為五百。經過三百以立化城二乘至此即應入城。何故將對四百五百。故知擅行四百五百唯至法華開權顯實。方可出城進四五百。若開權已成大菩薩。那得復云猶是二乘。而云二乘足為五百。言徑廷者。二乘本是被覆之權。輒自開權故云徑廷。至法華會佛為發權。不名擅行亦非徑廷。廷者(他定切)越次之義。又開權竟二乘同八。亦非二乘各對一百。是故不用。城者盛也。盛於所住即行人也。人師過如此下釋疑。先徵起。次正釋。恐人見論疑破初家。論以二乘而為四百。何故不許四百立城。於中先序論文。言論有二文者。大論六十八云。譬如欲過一百二百三百四百由旬曠野嶮道。言嶮道者即世間也。一百欲界二百色界。三百無色四百二乘。復次四百欲界三百色界。二百無色一百二乘。菩薩摩訶薩當知不久得菩提記。當知不畏墮於二地。是過四百近菩提城。論文無五百之言者。既云通意過於四百曠野近菩提城。城即五百。今通之下即是今家判於論文但屬通義。是故但以二乘對於四百。菩薩至此與二乘齊。仍約鈍根未見中者。是故不明五百由旬。故指三乘共得解脫。名為涅槃。復以二乘為一百者。如前引論。尋文可知。今明下今家正解。正顯今家依法華明通塞義也。經文既云過於五百。今家準經以為三釋。若約生死及以煩惱。不應云過。若約觀智即得云過。過前生死煩惱二五。即至涅槃一切種。智故云空觀智知三百等。知即是過。初約生死者。五百皆是生死故也。是故不以寂光對於五百。次約煩惱者。見通三界故合為一。下分繫欲故合為一。俱舍云。由二不超欲由三復還下。二謂貪瞋上通名類。故合為一。下分有五。謂身見戒取疑貪瞋。言上分者上分有五。謂掉慢無明色染。以此三釋即是一念能所無著。方名善知。又諸師下結非顯正。斥諸師釋唯依權教判位太高。於權位中又釋不了。故下正以橫竪判權及橫別等。方曉權人所行之法。若橫若竪俱破五百但非一念。故判屬權。遼亦遠也。遠而又逈。故名為遼。二邊之外別立五百故名遼遠。此即通結諸師判位大高。初師以十地為五百。攝師在初地地師在十地。如此判者凡下絕分。化城非冀寶所望崖。凡既望崖為誰說教。若其此教唯為聖人。經不應云為令眾生。又若定在十地等者。二乘被會尚亦未至。何況凡夫。今明圓門實相寶所凡聖通具六即甄分。舊依權門判位太遠。今依實教是故不用。今論下正以由旬釋通塞意。先縱橫。次一心。初有三義謂一橫二竪三者橫別。初橫。如文。次竪文中先正明竪。次橫織竪。竪三如經橫三如緯。織之令成三諦文章。若三諦中有苦集等三諦不成故也。如入空時具諦緣度檢校心法及以能所。令無苦集無明六蔽。假中檢校亦復如是。初入空中析體不同。初明析空中先言三塞者。初是苦集。既不識下是十二緣。次不滅下是六蔽。於六蔽中但舉一慳。餘五並略。次引大經以證六蔽。蔽即是塞。第十一云。如婆羅門幼稚童子為饑所逼。見人糞中有菴羅果即便取之。有智之人即訶責之。汝淨行種。云何取此穢果而食。童子聞已赧然有愧。即答之言。我實不食淨洗棄之。智者訶言汝大愚癡。若擬棄者本不應取。章安解云。婆羅門者即譬初修般若淨道。幼稚以譬解行淺弱。三途苦逼譬之如饑無常之中有人天果。如彼穢糞有菴羅果。深行訶淺故曰智訶。童子去淺行懷愧。非貪天樂。為欲於中修道棄捨。故云洗棄。智者語言去。菩薩勸令一切俱捨。不須受已復觀而捨。故知經意正譬三藏菩薩。觀生受生名洗已棄。故知三祇百劫之內。有漏心中修事六度。度與惑俱義同於蔽。若於下次明二通。即諦緣度。諦緣度相尋文可見。當用下次明檢校言一一者。不問能所及以心法。有塞咸破如前破賊。故知通塞咸須檢校。三諦之中言心等者。心謂體析見思之心。法謂假觀知病等三。及中觀中無明等三。此等皆有能所故也。又心謂能緣之心。法謂所緣之法。若觀若境俱有心法咸須檢校。下去例然。復次下次明體空。文亦先明通塞之相。如羅漢下以聖況凡。聖尚名陰凡何得無。若計下次示苦集。結業即集生死即苦。若不識下次明十二因緣。若愛下次明六蔽。亦但舉一慳餘五並略。用即空慧下檢校入空。從於病法等下次明檢校入假。並可見。問。前入空中云一一心。今入假中云一一法者何耶。答。三觀所觀無非心法。初破見思作心名便。入假習法作法名便。以己他心所習成法。入中之時並是法界。從法又便。文略可見。次檢校中道正觀者還檢竪破中觀三番。此中存略。但云觀於無明法性真緣三假。以示通塞。一一下示檢校相。若作如此下至塞乃得通者。明權位太高。通教六地別教初地如是兩教經於劫數。乃到實相寶所之位。此位乃是竪三諦相。次引大經以證權位經於劫數。大經前後總有四文。大同小異。第十云。經爾所劫當得菩提。第十九云至菩提。第二十云得菩提。第二十一云住菩提。住者秖是住於初住菩提住處。當謂經劫方得菩提。至之與得名異義同。至謂從於方便中來。得謂得於發心處所。言須陀洹等者。從本為名。經七生已任運入般。生彼復經八萬劫竟方發大心。一來六萬不還四萬。無學二萬支佛一萬 比說可知從根利鈍故使出界經劫長短。發心已後修中道觀。斷無明惑得見佛性。乃可名為過於五百。此語三藏入滅二乘。通教多分即生能發。如此論者無益初心。然向五人皆云發心若到若得。是故不與唯識義同。長時乃發教尚是權。況計永滅寧非方便。若執權論破佛實經招過既深。良恐未可。此之竪相雖本為成非竪非橫。與彼權教次位同故。故須斥破下橫亦爾。次明橫別者。先法次喻。初明法中先寄三人以明觀相。一一文中皆先出觀相。次明檢校。此三觀者依大品文。經云。有菩薩摩訶薩。初發心時行六波羅蜜。上菩薩位得阿鞞跋致。有菩薩摩訶薩。初發心時便成阿耨多羅三藐三菩提轉法輪。與無量眾生化益厚已入於涅槃。有菩薩摩訶薩。從初發心時與薩婆若相應。與無量百千萬億。從一佛國至一佛國淨佛世界。今文所引開彼第三為第一第二。以第二為第三。又經列前深後淺。今列從淺至深。依隨義便於理無失。第一文云六波羅蜜即是舉行。第二文云便成菩提。即是舉位。行位雖殊同顯一意。是故今文略於第一。第三文中初云薩婆若。又云淨佛土。雖同一文既具二義。是故開為第一第二。餘文所引並擬三教初發心也。通雖有假意多在空。別雖有中文多在假。圓雖三觀從初觀中。是故今引以對三觀。同初發心故名為橫。分屬三人故名為別。如此下斥權異實。圓中雖云從初心修。彼般若部帶二教權。猶未開顯。是故斥云三法各別。大論下次引論文三喻。亦證橫別。於中先喻次合。故大論四十三云是三菩薩未發心前。聞佛說大發菩提心。譬如道行或乘羊去或乘馬去。或乘通去。是故到彼有遲有疾。初者鈍根次者漸行後者即到。又云。初者罪多福少。次者福多罪少。後者無罪唯淨。今此文中以步替羊者以羊遲故不異於步。故知今文用法華意。故得破彼權部縱橫。論五十六又云。如三人行。一人避走。一人錢求。一人隨王。破意亦爾。橫別義意如向所釋。次明一心者。初斥橫竪。次正明一心功能破權。初斥橫竪中。先重列出通相通塞。是即空假兩觀能破見思塵沙。於當位中雖得為通望於中觀仍具無明。故名為塞。若後中觀勝下二觀。雖得名通隔於空假。故名為塞。橫中通塞尋文可知。法相下況出今文橫竪別相通中之塞。橫竪法相已有通塞。況復於通起著成塞。當知橫竪通別並塞。故云皆塞無復有通。欲出通相一心為通。故先辨於橫竪之塞。若一心下正明一心。即是檢校一心破遍。前破遍中既已結成出其元意。秖應立於一心檢校。於義即足。又為成就前橫竪門。故更節節以論檢校。復引法華善知通塞顯今檢校須破諸師。論其正意秖在一念。故前之三種為顯一心舉破遍等。例之可見。又前三種望於破遍但成於竪。至下度入方始以竪而入於橫。如諦緣度橫織竪成竪橫別之橫三俱初發。雖名為橫。三觀望之終名為竪。今破權功能正顯一心。初破橫竪中破竪者。竪通漸入雖屬一人。前後次第三時各異。以各異故。故非一三。今一心具三破次第之三。故云一心三觀破竪通塞。三觀一心能破橫者彼橫三觀離屬三人並在初心。故三不合一。今以三秖是一破彼分張之三。故云三觀一心破橫通塞。應知一心三觀與三觀一心。言互理同。為破橫竪翻對而說。如此橫竪一一諦中。具諦緣度若通若塞。橫竪若破。諦緣度中通塞隨破故不煩破諦等通塞。故向文云。況復於中起苦集無明蔽等。況出此塞以圓破之。有人云破諦緣度橫名為破橫。深不見文旨。故前文中先明竪竟。次橫織之。一一皆具諦緣度三。況復於通復起苦集無明等塞。故知破竪苦等自破。不須更指苦等為橫。空即三觀等者。次圓三觀。觀觀具三以破橫別。一一所破各別不同。故云空即三觀乃至中即三觀。有人云。破神通者。破第一卷圓頓止觀通者騰空。騰空被破知前非頓。如此說者殊乖文義。論文神通近在目前。何須遠求序中之說。又若破彼頓更何所傳。師資不成付法安在。祖乎龍樹其言徒施。又彼頓譬文在序中。說止觀時未有此序。豈得將己正說預破弟子序耶。又序中所述師資所傳。若破所傳便成自壞。良以下正歎功能。能破橫竪及橫別者。良由一心圓妙故也。眾魔等者。眾魔者即天魔也。群道者即外道也。又群道者偏小通名。故以一心皆能對破。終不等者若步涉乘馬避嶮從夷。若神通騰空從虛避下。是故初修二觀先破二惑。次修中觀更破無明。今三觀一心初後無礙。不同三譬。故云終不等也是故去下陵高斥前騰空。空假如下中道如高。避山從谷斥前步馬。終不兩字冠下兩句。若於下明一心中用通塞意。一心不當橫竪通塞。於此一心復起塞著。而生苦集無明蔽等。此苦集等即是見思。見思既生即空尚失。豈復更有去邊求中。故云非但失於中道神通。亦失空假步馬。此是一心別相之塞。尚須檢校令塞得通。若於下令檢校此一心通塞。是為下正判也。如此釋者。一切眾生理性五百。乃至諸佛究竟五百。不同舊義令凡望崖。次問答料簡。初一問答料簡異名。問文可見。次答文者先通次別。既云一意故名為通。亦有差別故名為別。別中分為三意不同。言約解者。解圓無著是名為通。解偏起著是名為塞。言約行者。解為行本行從解生。由解偏圓令行得失。言約字者。字即教也。有名有實名為知字。有名無旨名為非字。如蟲蝕木偶得伊名。是蟲不知是字非字。況知是字有旨無旨。次引金光明者。總證三名。即散脂品文也。次一問答料簡通塞。問中四者。約此卷初立橫竪義。而為此問。更列前文令此可解。四諦因緣六度名為橫通。苦集無明六蔽名為橫塞。先空次假後中名為竪通。見思塵沙無明名為竪塞。橫竪通塞更互相對。以為四問。問出圓意以顯文旨。然此問意雖以三惑三智為竪。別指無明以為竪塞。最細極故。別指中道以為竪通。最高遠故。若橫織竪及以檢校諦緣度三。雖至中道若不織竪。但在即空。故下答文指於界內苦集等三。別為橫塞。即空真諦別為橫通。問則通途泛問。答則分於兩途。先立兩途。次釋兩意。初然者下先釋一往。然謂然可。如向所問橫竪皆悉更互通塞。此即圓頓不次第意又前既具明次與不次。問中一往似問不次。而實通問次與不次。是故答中分為兩意。以所治惑有即有離。故使能治亦有即離。若次第修通塞俱別。如後二往。若不次第一體無殊。如前一往。言一往者。無明無別體全指於見思。見思障諦緣無明亦能障。諦緣既被障亦作橫中塞。此但據初心三惑全未破。故真諦諦緣亦被無明障。中智治一切者。圓人修中智非獨破無明。亦治真諦障界內之苦集。是故名竪通亦通於橫塞。亦據初觀中得作如此說。文中若準前問文。仍闕餘二句。是故應更云橫通通竪塞。所謂諦緣度非但治見思。亦破於無明。一空一切空故三惑俱破。橫塞障竪通所謂苦集等。非但障真諦亦障於中道。一苦一切苦故障於三諦。所言二往者。見思中苦集及無明六蔽。唯障於真諦不能障中道。真諦諦緣度但能破見思不能破無明。無明自障中故不關真諦。中智破無明亦不關見思。是故今文云竪義對當別。
次に通塞(つうそく)を説明する中で、まず異なる名称を列挙します。次に来意(らいし)を明かすのに、法・譬・合の三つがあります。初めの法について、まず正しく来意を明かします。これはまた前を結び後を生ずるものです。前の破法遍は前を結ぶものです。「応に入」などは後を生ずるものです。三つの名称をともに用いて後を生ずるので、「応に入、入らず」と言います。そこで得失を尋ねれば、必ず是非に滞ることを知るべきです。得失とは、とりもなおさず執着があるか執着がないかです。もし外道と同じであれば、執着を名づけて失とします。まさにこの門を用いて検校し、失を除くべきです。もし失がなければ、ただ前の門に従って塞を破り通を存します。したがってこの門の趣旨は検校にあります。通の中でかえって塞が起こることを恐れるからです。
次に「得ざるべからず」以下は誡め勧めるものです。もし一向に理解してただ破遍だけを用いれば、通において塞を起こし、塞において通がなくなることを恐れます。それゆえこの通塞の一門を立て、かの破遍を検校して塞を通ぜしめ、かの破門を通において塞なからしめるのです。
次に「何者」以下は正しく来意を明かします。執着を生ずる点では外道と同じです。まさに通塞の四句をもって遍く破るべきです。したがって前の破遍の中ではただ能破をもって所破を破るだけで、いまだ悟らない者は必ず能所において心に塞の執着を生ずることが分かります。能において執着を生ずれば、観法は正しくても執着の心は邪と同じです。それゆえ破る必要があります。だから「観空の智慧に愛着す」と言います。それゆえ四句と三仮をもって能執着の心を破り、立つところなからしめるべきです。能執着の智慧を破ることは、所破の惑を破るのと同じです。だから「能破は所破の如し」と言います。能破の観に愛着しなくても、なお所破の惑に愛着するならば、「もし観空の智慧に愛着しなければ、能破は所破に及ばない」と言います。それゆえただ破遍をもって惑を破るだけです。それゆえ二句をもって分別する必要があります。そうすればこの文は前に永遠に異なるものとなります。
第一に、通途の通塞とは、所破を塞とし能破を通とすることです。第二に、別相の通塞とは、能において執着を起こすことを塞とし、塞を破り執着なきを通とすることです。だから下文に「法相の浅深は通塞に任す。ましてやその中に苦集などを起こす」と言います。上の句はすなわち通途の通塞です。下の句はすなわち別相をもってこれを況んずるのです。
しかし今ここには総じて四つの意味があります。一は横の通塞、二は竪の通塞、三は横別の通塞、四は一心の通塞です。文は四つ、義は二つです。前三は一心を成すためのものです。一一にすべて四句をもって検校しなければなりません。もし四通において塞の執着を起こせば、すべて塞を破って通を存すべきです。このように展転して破を期とするのです。だから下文に「一一の能、一一の所、一一の心において皆悉く検校す」と言います。この義のために通塞の門を立てるのです。
それゆえまた四句をもって分別する必要があります。一は塞中に通を得ること、二は通中に塞があること、三は塞は自ずから塞であること、四は通は自ずから通であることです。初めの二句はすなわち今文の別相の通塞です。後の二句は、もし塞がすでに破られていれば破遍に属します。もし塞がいまだ破られていなければ今文に度入して前の二句を成します。また第一句は二つの句を兼ねます。通相と別相の二つの意味があるからです。
次に譬を挙げる中で、まず譬え、膜を除き珠を養うことはただ成喻を分かつだけです。もし賊を破り将を護れば、遍喻を成します。なぜか。膜を除き珠を養うのに、珠が再び膜となることはできません。すなわち第三第四の二句と混濫します。それゆえさらに賊を破り将を護ることに譬えます。将がもし賊となればこの賊もまた破ります。賊がもし将となればこの将もまた護ります。このように展転して将は皆賊となります。節々にこれを破るのです。すなわちこれがこの文の正意です。言うところの膜とは皮の間の薄い膜です。この膜が眼を覆うのを眼膜と名づけます。
「もし能く爾かあれば」以下は合譬です。もしこのようにできれば、はじめて人を導いて宝所に至らせることができます。その中でまず正しく合譬し、次に五百由旬の義を通じます。これも通塞の正意です。塞を破り通を存して宝所に至るからです。それゆえ路は五百由旬を経ます。経に「導師は善く通塞を知る」と言います。それゆえ法華の将導の譬を用います。それゆえ古今の諸釈を破る必要があります。はじめて今文の一心通塞が分かるのです。
その中で総じて六師の違いがあります。初家を破って「二乗の道は七八地に非ず」と言います。問う。二乗はまさに七地八地に当たるのに、どうして非ずと言うのか。答える。ここでは釈論の意をもって彼の計りを破ります。彼の釈にはすでに「六地で見思尽きるを三百とし、七地八地を四百とする」と言っています。それゆえ今文では論をもってこれを破ります。論では二乗をもって四百に対します。あなたは六地で見思尽きるに対します。まさに二乗に当たり四百ではありません。かえって七八の二地をもって四百とします。それゆえあなたの釈はかの大論の通教義に違います。この師は通義を用いて通意を識りません。それゆえ還って大論を引いてこれを破るのです。大論の通意は後でさらに釈します。
後の二家は皆、煩悩について五百としますが、前の家は塵沙を数えず、後の家は見を数えません。それゆえともに失です。後に失を辨ずる中では略してさらに破りません。
「この名義」以下は今経に通じます。まず正しく経に通じます。経に三義が具わっているので、諸師が経と会しないことが分かります。「諸師」以下は次に失を辨じます。まず総、次に別です。初めに総と言うのは、別を用いるのは太方の如く、通を用いるのは太円の如く、二乗の擅行は太動の如く、界内に城を立てるのは太静の如くです。また煩悩について見と塵沙を数えず、生死について有後無後を数えずして太静とします。それゆえ諸師は各々一見に随っていることが分かります。あるいは通を得て二を失い、あるいは別を用いて円に違し、あるいは三百に至って化城を立てず、あるいは四百五百に擅行し、あるいは煩悩について摂するも尽きず、あるいは生死について取捨が周からず。円経を判じようとしても、いまだ可能ではないでしょう。
「一孔を挿むが如し」などは、一師の偏解をもって三を兼ねる文を釈することはできないということです。「初家」以下は別判です。ただ四師を判じて第五第六師を判じないのは、略して見やすいからです。初家を判じて「四百に城を立てる」と言うのは、もし通義によれば七八の二地はまさに二乗に属し、彼の師は七八を四百に対します。それゆえ四百となって化城を立てるのです。
摂家が二死を荒外に割るとは、摂大乗師が七種の生死を立てることです。一は分段、すなわち三界の果報。二は流来、すなわち迷真の初め。三は反出、すなわち背妄の始め。四は方便、すなわち入滅の二乗。五は因縁、すなわち初地以上。六は有後、すなわち第十地。七は無後、すなわち金剛心。あなたはすでに自ら七種の生死を立てて五百の義を釈するのに、どうして二を捨ててただ方便と因縁を用いて三界を足して五百とするのか。あなたの釈の如くならば、宝渚の外にさらに有後と無後があります。捨てて用いないので割と名づけます。荒とは八荒八極の内、また四海の外と言い、また九州の外と言い、また荒服の外と言います。それゆえ荒外と言います。第一巻に引くが如し。爾雅に「九夷など四は、これは荒の次ぐの国なり。觚竹など四は、これは極遠の荒の国なり」と言います。今は地の極を遠荒と名づけます。すなわち極めるところをもって宝渚に譬えます。宝渚の外には地があるべきではありません。摂師はなお二種の生死が欠けて論じません。それゆえこれを破ります。
次に地家を判じて「界内に城を立てる」と言うのは、すでに住位をもって二百に対します。住位はまた見思を断ずる位です。二百は界に対すれば、とりもなおさず色界です。それゆえすなわち界内に城を立てるので不可です。
次家はすなわち二乗を足して五百とします。三百を経て化城を立てるのに、二乗はここに至ってまさに入城すべきです。どうして四百五百に対すべきでしょうか。それゆえ四百五百に擅行するのは、ただ法華の開権顕実に至って、はじめて城を出て四五百に進むことができることが分かります。もし開権がすでに成れば大菩薩です。どうしてさらに二乗と言えましょう。しかるに「二乗を足して五百とす」と言います。「径廷」と言うのは、二乗はもと覆われた権です。自ら輒く開権するので径廷と言います。法華の会に至れば仏が権を発くので、擅行とも名づけず径廷でもありません。廷とは他定切、次を越える義です。また開権が終われば二乗は八と同じです。また二乗が各々一百に対することもありません。それゆえ用いません。城とは盛なり。住むところに盛る、すなわち行人です。
「人師の過かくの如し」以下は疑いを釈します。まず徴起し、次に正しく釈します。人が論を見て初家を破ると疑うことを恐れます。論では二乗をもって四百とします。どうして四百に城を立てることを許さないのか。その中でまず論文を序します。「論に二文あり」と言うのは、大論六十八に「譬如し人が一百二百三百四百由旬の曠野嶮道を過ぎんと欲す。嶮道と言うのはすなわち世間なり。一百は欲界、二百は色界、三百は無色、四百は二乗なり。復次に四百は欲界、三百は色界、二百は無色、一百は二乗なり。菩薩摩訶薩はまさに知るべし、久しからずして菩提の記を得ん。まさに知るべし、二地に堕ちることを畏れず。これは四百を過ぎて菩提城に近づく」と言います。論文に五百の言がないのは、すでに通意は四百の曠野を過ぎて菩提城に近づくと言うので、城すなわち五百です。今これを通ずれば、すなわちこれが今家が論文を判じてただ通義に属するということです。それゆえただ二乗をもって四百に対します。菩薩はここに至って二乗と斉しくなります。なお鈍根で中を見ない者については、それゆえ五百由旬を明かしません。だから三乗が共に解脱を得ることを指して涅槃と名づけます。また二乗をもって一百とするのは、前に引く論の如し。文を尋ねれば知ることができます。
「今明す」以下は今家の正解です。正しく今家が法華に依って通塞の義を明かすことを顕します。経文にすでに五百を過ぎると言うので、今家は経に準じて三釈とします。もし生死と煩悩について言えば、過ぐと言うべきではありません。もし観智について言えば、すなわち過ぐと言うことができます。前の生死煩悩の二つの五を過ぎて、すなわち涅槃の一切種智に至るので、「空観智は三百などを知る」と言います。知るとはすなわち過ぐることです。初めに生死について言えば、五百は皆生死だからです。それゆえ寂光をもって五百に対しません。次に煩悩について言えば、見は三界に通ずるので合わせて一とします。下分は欲に繋がるので合わせて一とします。倶舎に「二によりて欲を超えず、三によりて復た下に還る」と言います。二とは貪瞋を謂い、上通の名類なので合わせて一とします。下分に五あり。身見・戒取・疑・貪・瞋を謂います。上分と言うのは、上分に五あり。掉・慢・無明・色染を謂います。この三釈をもってすなわちこれ一念の能所の無著です。はじめて善く知ると名づけます。
また「諸師」以下は非を結んで正を顕します。諸師の釈を斥けてただ権教に依って判位が太高いとします。権位の中でまた釈が了然しません。それゆえ下に正しく横竪をもって権を判じ横別などを判じます。はじめて権人の行ずる法が分かります。横も竪もともに五百を破りますが、ただ一念ではありません。それゆえ判じて権に属します。遼もまた遠なり。遠くしてまた迥かなる、ゆえに遼と名づけます。二辺の外に別に五百を立てる、ゆえに遼遠と名づけます。これすなわち通じて諸師の判位が太高いことを結びます。初師は十地をもって五百とします。摂師は初地に在り、地師は十地に在ります。このように判すれば凡下は絶分です。化城は冀みに非ず、宝所は崖を望みます。凡がすでに崖を望むなら、誰のために教を説くのか。もしこの教がただ聖人のためなら、経に「衆生のために」と言うべきではありません。またもし定んで十地などにあれば、二乗は会せられてなおいまだ至りません。まして凡夫はなおさらです。今円門の実相の宝所は凡聖ともに通じて具わります。六即をもって甄分します。旧は権門に依って判位が太遠です。今は実教に依るのでそれゆえ用いません。
「今論」以下は正しく由旬をもって通塞の意を釈します。まず縦横、次に一心です。初めに三義あり。一は横、二は竪、三は横別を謂います。初めの横は文の如し。次に竪の文の中でまず正しく竪を明かし、次に横をもって竪を織ります。竪の三は経の如く、横の三は緯の如し。これを織って三諦の文章を成します。もし三諦の中に苦集などがあれば三諦は成じません。空に入る時、諦・縁・度を具して心法および能所を検校し、苦集・無明・六蔽なからしめます。仮と中を検校するもまたまたかくの如しです。
初めに空に入る中で析と体が同じでない。初めに析空を明かす中でまず「三塞」と言うのは、初めは苦集です。「既に識らず」以下は十二縁です。次に「滅せず」以下は六蔽です。六蔽の中でただ一つの慳を挙げ、余の五は並びに略します。次に大経を引いて六蔽を証します。蔽はすなわち塞です。第十一に「婆羅門の幼稚の童子あり、飢に逼られて、人の糞の中に菴羅果あるを見て、すなわちこれを取る。智ある人はすなわちこれを訶責す。汝は浄行の種なり。云何がこの穢果を取って食す。童子聞き已わって赧然として愧あり。すなわち答えて言う。我れ実に食せず、浄く洗いてこれを棄つ。智者は訶めて言う。汝は大いに愚癡なり。もし棄てんと擬するなら、本より取るべきではない」と言います。章安の解に「婆羅門とはすなわち初めに般若の浄道を修するに譬う。幼稚は解行の浅弱を譬う。三途の苦逼はこれを飢の如くに譬う。無常の中に人天の果あり。彼の穢糞に菴羅果あるが如し。深行が浅を訶する、ゆえに智訶と言う。童子は浅行を去り、愧を懐く。天楽を貪らず、その中で道を修し棄捨せんと欲する。ゆえに洗棄と言う。智者の語言は去りぬ。菩薩は一切ともに捨てよと勧む。受け已わって復た観て捨つるは須いず。ゆえに経意は正しく三蔵の菩薩に譬えると知る。生を観じて生を受くるを洗い已わって棄つと名づく。ゆえに三祇百劫の内、有漏の心の中で事の六度を修することを知る。度と惑と俱なるは義は蔽と同じ」と。
「若於」以下は次に二通を明かします。すなわち諦・縁・度です。諦縁度の相は文を尋ねれば見ることができます。「当用」以下は次に検校を明かします。「一一」と言うのは、能所および心法を問わず、塞あれば咸く破ることは前の賊を破るが如し。ゆえに通塞は咸く検校すべきことが分かります。三諦の中で「心等」と言うのは、心とは体析の見思の心を謂い、法とは仮観の知病など三、および中観の中の無明など三を謂います。これら皆能所があるからです。また心とは能縁の心を謂い、法とは所縁の法を謂います。観も境も俱に心法あり、咸く検校すべきです。下に行けば例また然りです。
「復次」以下は次に体空を明かします。文もまたまず通塞の相を明かします。「羅漢」以下の如く、聖をもって凡を況んず。聖すらなお陰と名づく、凡はどうして無いといえましょう。もし計れば以下は次に苦集を示します。結業はすなわち集、生死はすなわち苦です。もし識らなければ以下は次に十二因縁を明かします。もし愛すれば以下は次に六蔽を明かします。またただ一つの慳を挙げ、余の五は並びに略します。「用即空慧」以下は検校して空に入ります。「病法等従」以下は次に検校して仮に入ることを明かします。並びに見ることができます。
問う。前の空に入る中で「一一心」と言い、今仮に入る中で「一一法」と言うのはなぜか。答える。三観の所観は心法に非ざるはありません。初めに見思を破るには心を作すを名とすれば便なり。仮に入れば法を習い法を作すを名とすれば便なり。己他の心の所習をもって法を成す。中に入る時は並びにこれ法界なり。法に従えばまた便なり。文は略して見ることができます。
次に検校中道正観とは、還って竪破の中観の三番を検校します。ここでは略を存し、ただ「無明・法性・真・縁の三仮を観ず」と言って、もって通塞を示します。「一一」以下は検校の相を示します。「若作如此」以下、「塞に至りて乃ち通を得」に至るまでは、権位が太高いことを明かします。通教六地・別教初地はかくの如き両教は劫数を経て、乃ち実相宝所の位に到ります。この位はすなわちこれ竪の三諦の相です。次に大経を引いて権位が劫数を経ることを証します。大経の前後に総じて四文あり、大同小異です。第十に「爾所の劫を経てまさに菩提を得ん」と言い、第十九に「菩提に至る」と言い、第二十に「菩提を得」と言い、第二十一に「菩提に住す」と言います。住とはすなわち初住の菩提の住処に住するにほかなりません。当とは劫を経てまさに菩提を得るを謂います。至と得は名は異なり義は同じです。至とは方便の中より来るを謂い、得とは発心の処所を得るを謂います。「須陀洹等」と言うのは、本より名とします。七生を経已われば任運に般に入ります。彼に生まれて復た八万劫を経竟わってはじめて大心を発します。一來は六万、不還は四万、無学は二万、支仏は一万。比説して知るべし。根の利鈍によりて界を出で劫を経る長短をばせます。発心已後、中道の観を修し、無明の惑を断じて仏性を見る。乃ちはじめて五百を過ぐと名づけることができます。これは三蔵の入滅の二乗を通ず。通教は多くは即生に能く発す。かくの如く論ずれば初心に益なし。しかし向の五人皆「発心」と言い、「若到若得」と言います。それゆえ唯識の義と同じではありません。長時にして乃ち発す、教すらなおこれ権です。ましてや永滅を計る、どうして方便に非ざりましょう。もし権論に執して仏の実経を破れば、招く過は既に深し。いささか未だ可ならざるを恐れます。この竪の相はもと非竪非横を成すためのものですが、彼の権教の次位と同じであるがゆえに、それゆえ斥破する必要があります。下の横もまた爾なり。
次に横別を明かす中で、まず法、次に譬です。初めに法を明かす中でまず三人に寄せて観相を明かします。一一の文の中で皆まず観相を出し、次に検校を明かします。この三観は大品の文に依ります。経に「菩薩摩訶薩あり、初発心の時、六波羅蜜を行じ、上菩薩位に登り阿鞞跋致を得。菩薩摩訶薩あり、初発心の時、便ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ法輪を転じ、無量の衆生と化益を同じうして厚く已わって涅槃に入る。菩薩摩訶薩あり、初発心の時より薩婆若と相応し、無量百千万億とともに一仏国より一仏国に至り仏世界を浄む」と言います。今文の引くところは彼の第三を開いて第一第二とし、第二をもって第三とします。また経は前に深く後に浅きを列ね、今は浅より深に至るまでを列ねます。義に随い便に依れば理に失なし。第一文に「六波羅蜜」と言うのはすなわち行を挙げます。第二文に「便ち菩提を成ず」と言うのはすなわち位を挙げます。行位は殊なりといえども同じく一意を顕します。それゆえ今文は第一を略します。第三文の中で初めに「薩婆若」と言い、また「浄仏土」と言います。同じ一つの文でありながらすでに二義を具えるので、それゆえ開いて第一第二とします。余の文の引くところは並びに三教の初発心に擬します。通は仮あるといえども意は多くは空に在り。別は中あるといえども文は多くは仮に在り。円は三観といえども初めより中を観ず。それゆえ今引きて三観に対します。同じく初発心なので横と名づけます。分かちて三人に属するので別と名づけます。
「如此」以下は権を斥け実に異なるを示します。円の中では「初心より修す」と言いますが、彼の般若部は二教の権を帯び、いまだ開顕しません。それゆえ斥けて「三法各別」と言います。
「大論」以下は次に論文の三喻を引きます。また横別を証します。その中でまず喻、次に合です。それゆえ大論四十三に「この三菩薩は未発心の前に、仏の大いに菩提心を発すを説くを聞く。譬如し道を行くに或は羊に乗りて去り、或は馬に乗りて去り、或は通に乗りて去るが如し。それゆえ彼に到るに遅疾あり」と言います。初めは鈍根、次は漸行、後は即到です。また「初めは罪多く福少なし。次は福多く罪少なし。後は罪なくただ浄きのみ」と言います。今この文の中で羊を歩に替えるのは、羊は遅いがゆえ歩と同じであるからです。それゆえ今文は法華の意を用いることが分かります。それゆえ彼の権部の縦横を破ることができます。論五十六にまた「三人の行くが如し。一人は避走し、一人は銭に求し、一人は王に随う」と言います。破の意もまた爾なり。横別の義意は向に釈するが如し。
次に一心を明かす中で、まず横竪を斥け、次に正しく一心の功能が権を破することを明かします。初めに横竪を斥ける中で、まず重ねて通相通塞を列ねます。すなわち空仮の両観は見思塵沙を破することができます。当位の中では通と得るといえども、中観に望めばなお無明を具える、ゆえに塞と名づけます。もし後のように中観が下の二観に勝れれば、通と名づけることを得るといえども、空仮に隔たる、ゆえに塞と名づけます。横の中の通塞は文を尋ねれば知ることができます。「法相」以下は今文の横竪別相通の中の塞を況出します。横竪の法相にすでに通塞あり、ましてや通において執着を起こして塞を成す。まさに知るべきです、横竪通別は並びに塞です。ゆえに「皆塞にして復た通ありなし」と言います。通相を出して一心を通とせんと欲するので、まず横竪の塞を辨じます。
「若一心」以下は正しく一心を明かします。すなわちこれ一心を検校し破遍します。前の破遍の中ですでに結成してその元意を出しています。ただ一心の検校を立つべし。義においてすなわち足ります。また前の横竪の門を成就するために、さらに節々に論じて検校します。また法華の「善く通塞を知る」を引いて今の検校が諸師を破るべきことを顕します。その正意を論ずればただ一念にほかなりません。それゆえ前の三種は一心を顕すために破遍などを挙げます。例すれば見ることができます。また前三種は破遍に望めばただ竪を成すだけです。下に度入するに至ってはじめて竪をもって横に入ります。諦縁度の横をもって竪を織り、竪横別の横三は俱に初発です。横と名づくといえども、三観に望めば終には竪と名づけます。今権を破する功能は正しく一心を顕します。
初めに横竪を破する中で竪を破するとは、竪通は漸入にして一人に属すといえども、前後の次第、三時の各異あり。各異なるがゆえに一三に非ず。今一心に三を具し、次第の三を破します。ゆえに「一心三観は竪通塞を破す」と言います。三観一心能く横を破するとは、彼の横の三観は離れて三人に属し、並びに初心に在ります。ゆえに三は一に合しません。今三はすなわちこれ一なりとして彼の分張の三を破します。ゆえに「三観一心は横通塞を破す」と言います。まさに知るべきです、一心三観と三観一心は、言は互いにして理は同じです。横竪を破するために翻対して説きます。かくの如く横竪一一の諦の中に、諦縁度を具し、通も塞もある。横竪もし破れば、諦縁度の中の通塞も破に随う、ゆえに諦などの通塞を破するに煩わず。ゆえに向の文に「ましてやその中に苦集無明蔽などを起こす」と言います。この塞を況出して円をもってこれを破します。
ある人云く、諦縁度の横を破するを横を破すると名づく、と。深く文旨を見ません。ゆえに前の文の中でまず竪を明かし竟わって、次に横をもってこれを織ります。一一に皆諦縁度の三を具します。ましてや通において復た苦集無明などの塞を起こす。ゆえに竪の苦などを破すれば自ずから破れ、さらに苦などを指して横と為すに及ばないことを知ります。
「空即三観」等は次に円の三観です。観観に三を具して横別を破します。一一の所破は各別に同じからず。ゆえに「空すなわち三観、乃至中すなわち三観」と言います。ある人云く、神通を破するとは、第一巻の円頓止観の通は騰空なり。騰空が破られれば前は頓に非ずと知る、と。かくの如く説くは、殊に文義に乖きます。論の神通は近く目前にあり、どうして遠く序の中の説を求める必要がありましょう。またもし彼の頓を破すればさらに何を伝うべきか。師資成ぜず、付法安くにあらん。龍樹に祖とすればその言は徒に施すのみ。また彼の頓の譬文は序の中にあり、止観を説く時には未だこの序がありません。どうして己の正説をもって預めに弟子の序を破することができましょう。また序の中に述ぶるは師資の所伝です。もし所伝を破すれば便ち自壊となります。
「良以」以下は正しく功能を歎じます。能く横竪および横別を破するのは、まさに一心の円妙によるからです。「衆魔」等の衆魔とはすなわち天魔です。「群道」とはすなわち外道です。また群道とは偏小の通名です。ゆえに一心をもって皆よく対破します。「終に等しからず」とは、もし歩渉し馬に乗り嶮を避け夷に従い、もし神通にして騰空し虚に従い下を避くるが如し。それゆえ初めに二観を修し先に二惑を破し、次に中観を修しさらに無明を破します。今三観一心は初後無礙なり。三譬と同じではありません。ゆえに「終に等しからず」と言います。「是故に去」以下は高に陵ぎて前の騰空を斥けます。空仮は下の如く、中道は高の如し。山を避け谷に従うは前の歩馬を斥けます。「終に不」の二字は下の二句を冠します。
「若於」以下は一心中に通塞の意を用いることを明かします。一心は横竪の通塞に当たりません。この一心において復た塞の執着を起こし、苦集無明蔽などを生じます。この苦集などはすなわち見思です。見思が既に生じれば即空すらなお失います。どうしてさらに去りて中を求むることがありましょう。ゆえに「ただ中道の神通を失うのみならず、また空仮の歩馬をも失う」と言います。これが一心別相の塞です。なお検校して塞を通ぜしむべきです。「若於」以下はこの一心の通塞を検校することを示します。「是為」以下は正しく判ずることです。かくの如く釈するならば、一切衆生の理の性の五百、乃至諸仏の究竟の五百は、旧義と同じからず、凡をして崖を望ましめません。
次に問答の料簡です。初めの一問一答は異名を料簡します。問の文は見ることができます。次に答の文はまず通、次に別です。すでに一意と言うので通と名づけます。また差別あり、ゆえに別と名づけます。別の中で三意に分かれて同じからず。「解に約せば」と言うのは、円を解して著なければこれを通と名づけます。偏を解して著を起せばこれを塞と名づけます。「行に約せば」と言うのは、解は行の本、行は解より生ず。解の偏円によりて行の得失をばせます。「字に約せば」と言うのは、字とはすなわち教なり。名あり実ありをば字を知ると名づけます。名あり旨なければ字に非ずと名づけます。虫の木を蝕んで偶たまに伊の名を得るが如し。この虫はこれ字と知らず字に非ずと知らず。ましてやこれ字にして旨ありや旨なしやを知らんや。
次に金光明を引くのは、総じて三名を証します。すなわち散脂品の文です。
次の一問一答は通塞を料簡します。問の中の四は、この巻の初めに横竪の義を立て、これをこの問とします。さらに前文を列ねてこの解し易からしめんとします。四諦・因縁・六度を横通と名づけます。苦集・無明・六蔽を横塞と名づけます。まず空、次に仮、後に中を竪通と名づけます。見思・塵沙・無明を竪塞と名づけます。横竪の通塞はさらに互いに相対して、もって四問とします。円意を問い出して文旨を顕します。しかしこの問意は三惑三智をもって竪と雖も、別に無明を指して竪塞と為すは、最細極まるがゆえです。別に中道を指して竪通と為すは、最高遠なるがゆえです。もし横をもって竪を織り、および諦縁度の三を検校するとき、中道に至るといえどももし竪を織らねばただ即空に在るのみです。ゆえに下の答文は界内の苦集など三を指して別に横塞と為し、即空の真諦を別に横通と為します。問はすなわち通途の泛問なり。答はすなわち両途に分かちます。まず両途を立て、次に両意を釈します。
初めに「然るに」以下はまず一往を釈します。然とは然可の義です。向に問うところの如く、横竪皆悉く更互に通塞あり。これすなわち円頓不次第の意なり。また前すでに次と不次を具に明かし、問の中の一往は不次のみを問うに似て、実には通じて次と不次を問います。それゆえ答の中で二意に分かちます。所治の惑に即と離とがあるので、能治にもまた即と離とがあるようにします。もし次第に修すれば通塞は俱に別です。後の二往の如し。もし不次第なら一體にして殊なるなし。前の一往の如し。「一往」と言うのは、無明は別体なく、全く見思を指します。見思は諦縁を障え、無明もまた能く障えます。諦縁は既に障えらるればまた横の中の塞となります。これはただ初心において三惑全く未だ破れざるによる。ゆえに真諦の諦縁もまた無明に障えられます。「中智は一切を治す」とは、円人は中智を修し、独り無明を破するのみならず、また真諦の障・界内の苦集を治します。それゆえ竪通と名づくるもまた横塞に通じます。また初観の中に拠ってこのように説くことを得ます。文の中でもし前の問文に準ずれば、なお余の二句が闕けます。それゆえさらに「横通は竪塞に通ず。いわゆる諦縁度はただ見思を治するのみならず、また無明を破す。一空一切空なるがゆえに三惑俱に破る」と言うべきです。「横塞は竪通を障う。いわゆる苦集などはただ真諦を障るのみならず、また中道を障う。一苦一切苦なるがゆえに三諦を障う」と言うべきです。
言うところの二往とは、見思の中の苦集および無明六蔽はただ真諦を障えて中道を障うることができず、真諦の諦縁度はただ見思を破するのみにして無明を破することができず、無明は自ら中を障るがゆえに真諦に関せず、中智は無明を破しまた見思に関せず。それゆえ今文に「竪義は対当別なり」と言います。
○次明道品調適者。先通列釋四道品相。文四義四意在調停。此四通論俱通大小。別而言之第三唯小餘三在大。言當分者互不相假。既云當依念處得道念處既而當知餘品並為所依皆能得道。故云當分。又云下引證。亦得將念處以例餘品。故云亦然。此從別義故引念處是道場及以衍等。若從通義。教教七科無非當分。言相攝者。大小乘教凡論道品隨其科品。皆互相收。次引論證。文意可知。言約位者。如大師自有四念處文。四教各以念處為位判在外凡。故諸教位並對道品。此文從小且對小位。若從通論。諸教皆得以內凡為燸頂等。言相生者。如文云念處生正勤乃至生八正。由此相生。故下七科次第調停。亦名相生。調停乃是諸品調試。何者相應可入法性。故此七科初心可修。雖有四文亦但二義。前三為成第四故。次所以下次明來意。於中初文略明來意。於上破遍及以通塞。若不悟者由無調停。真法下釋向道品所證之法。初住已上分得無漏。自爾已前皆名有漏。是故初心調停道品。能為初住無漏作因。如釀酒下舉譬也。此方即以麥麴為酵。西方或用草華等酵。真法在迷猶如水米。道品調停猶如酵燸。調停得所變有漏米。成無漏酒。調停失度理味不成。次引大論證須道品。能為無漏作近因故。如大論云。不淨開身念處。身念開四念處。四念開道品。道品開三脫。三脫開涅槃。涅槃是無漏。是故有漏能為無漏而作因緣。論文雖以不淨為首。語且約小正在衍門。隨教不同理觀各別。皆是有漏為無漏因。及道品後次明三脫。次問答料簡中初料簡大小。問答具在大論二十一中。今文答中先用論意。次引淨名大經大集。助論答意。淨名由之成佛。得道之處及摩訶衍。大經見性及譬醍醐。大集是名菩薩寶炬。寶具諸法炬能破暗。攝一切法名陀羅尼。故總結云皆不云小。若大經下既折不許專在於小。次復縱云通於大小。故云無量助菩提法。是大涅槃因。亦是釋疑。恐人疑云。更有無量助菩提法。方得名為大涅槃因。故知道品非大乘因。故即釋云。道品之外無別道品。雖云無量不出道品。是故道品是大乘因故復更引大經四諦而為例釋。四諦之外無別四諦。三十七品既是道諦。故道品外無別道品。故四含中所明四諦云為聲聞。如殃掘中及諸大乘所明四諦。並為菩薩故知通也。故殃掘云。云何名為四。所謂四諦法。此是聲聞宗。斯非摩訶衍。大乘無量諦。言如爪土者。大經三十一迦葉品中。佛取少土置於爪上。告迦葉言。是土多耶。十方世界地土多耶。迦葉答言。爪上土者不比十方。今借此文校量四諦。三藏四諦如爪上土。所未說者如十方土。即餘三教四諦法也。若未說者如十方土。應有五諦。佛言。無第五諦。但言四諦有無量相。非諸聲聞緣覺所知。且指別教四諦以為無量。故殃掘云。大乘無量諦。言十六門者。雖借別教始終十六。意實通於四教十六。又有漏下約五味判。由向申難一十六門俱有道品。故云無量。而不無淺深。故以五味判其優劣。初言有漏者既屬界攝隨其多少並有漏攝。今之所用意在醍醐。二十二等者。大論十九云。欲界二十二除七覺八正。未到三十六除喜覺。初禪三十七。二禪三十六除正行。正行即是正思惟三禪四禪及以中間。並三十五除正行及喜。三無色三十二除喜覺正行正語業命。有頂二十二除覺道。若婆沙中不辨欲界。於無色中但三十二。不辨下三與非想異。大論云正行。婆沙云正覺。餘文並同大論。婆沙。又復分別幾法現前。問曰。諸地之中各有幾法現前。答。未到三十六。三十三法一時現前。初禪三十七。三十四法一時現前。中間三十五。三十二法一時現前。三四三十五。二禪三十六。無色三十二。並除三念以緣異故。三念者謂身等不俱。故無量之文須兼五味。次或言下料簡正助。釋大經疑。前引大經乃云無量阿僧祇助菩提法。是大涅槃因。及五味中有正有助。今文何故復以為正。故引兩文或正或助隨其深淺。皆以前前助於後後。教文意兼故皆云似。故今文意須有正助。此文即正。助道即助。是故引教兩文俱存。前五味中具引諸經。故並有正助。文若言下料簡有漏無漏者。由前五味中。云有漏道品欲界二十二等。初文徵難。準婆沙文。七覺既是修道之位。何得總判道品有漏。故引法華證成無漏。云何下又難。婆沙七覺既是修道之位當知八正在七覺前。即是見道依此問之。何故八正在七覺前。此應下答也。由前二文相違不定。故須開為三句解釋。先列三句。如大論下解釋。先略釋有漏。云何下釋三十七品是有漏相。皆是下釋三十七品皆是無漏。從來下重更印許前引大論之文。而婆沙去釋第三義。何以故下釋婆沙文。若八正在七覺後。八正已前雖是有漏。若至八正入無漏故。故此道品亦漏無漏。若言八正在七覺前是無漏者。如常所說。經論皆爾。故云可解。即屬第二意。又婆沙五十三云。四念處有二種。謂有漏無漏。乃至八正亦復如是。是則始終俱屬第三。又雜含第六云。七覺八正一一皆有漏及無漏。是則婆沙及以雜含。具有三義。俱屬第三。今文但列初義證成。引婆沙證成二意者。亦漏無漏及以無漏。及亦漏無漏是對位者。重以對位釋前八正在七覺前。世第一前是亦有漏。見道已去是亦無漏。是則八正在七覺前。具於二義。謂第二第三。諸道諦下次正釋於無作道品。今文正意也故且置餘三。初明來意亦是去取。此之七科文七義七。意在隨益順機不同。此但通論文義及意。於七科中各論文義。具如下列。於七科中先明念處有總有別。下之六科別別而用。今初釋念處。文四義四同顯一境。境一品四隨何相應。於中初正釋。次結前生後。初正釋者。且引三經而以後後釋於前前。初引大品釋於念處。使成三諦。次引華嚴以釋大品。明四念處具一切法。即念處境也。如大地一具種種芽。次引法華結華嚴意。云何種種謂相性等。正用十如以為觀境。故最後結凡言一切。不出百界千如故也。又下釋中皆先約一界次以九例。一中皆云一切等者。以一界中復十復百三千故也。常途云下次斥舊解。第一經中。一切諸法相性體等。秖是第三經一相一種。及第三一地實事。種相體性秖是一種。故此一種云是佛性。次卉木下即是正解。卉是草之總名。木是樹之通稱。眾草成叢眾木成林。卉木秖是三草二木。三草二木譬七方便。此七方便本是一實。今一念去正釋念處。先更牒前不思議境。為念處境。既一一界各具十界。故不相妨。前總立陰名觀既不悟。故離為四而調停之。法性因緣去示念處觀。委悉具如四卷別行圓念處說。四文皆以一念百界千如三千世間攝成三諦方得名為無作念處。故知前來境等五法。並依於陰。乃至覺道亦復如是。今一一念處皆先趣舉一界為境。次以餘九例之可知說之則四法先後。觀之則不出一念。於一念中有總有別。又為約法相令具足故。及示識心以為境首。故先於破法遍後例於餘陰。以為通塞道品之本。若欲顯於不可思議還須約於一念心辨。則具觀於陰入界等。一切皆然。如是下總結念處。義意兼廣破倒顯理。下釋兼廣文自有四。一一念處皆悉先明空假破倒。次以中道結成祕藏自他俱滿義兼大小。言俱破者。既以中道顯祕密藏。故四念處咸皆破倒。何者。以即空故即破常倒義兼於小。以即假故破無常倒義兼於大。中道為正故曰義兼。以即中故雙照大小雙非大小。即是雙照雙破八倒。三諦相即兼無前後破無次第。即破即立即照即遮。言枯榮等者。大經云。東方雙者喻常無常。南方雙者喻樂無樂。西方雙者喻我無我。北方雙者喻淨不淨。四方各雙故名雙樹。方面皆悉一枯一榮。榮喻於常等。枯喻無常等。如來於中北首而臥入般涅槃。表非枯榮榮即表假枯即表空。即是於其空假中間而入祕藏。後分云。東方一雙在於佛後。西方一雙在於佛前。南方一雙在於佛足。北方一雙在於佛首。入涅槃已東西二雙合為一樹。南北二雙亦合為一。二合皆悉垂覆如來。其樹慘然皆悉變白。常無常等二即不二。常樂我淨遍覆法界。故二二合垂覆如來。即是如來契於祕藏。亦是念處無非寂滅。白者即是眾色之本。常等稱本故名為變。言北首者。增一阿含云。表於佛法久住北天。長含第四云。佛告阿難。安我頭南首面向北。則使佛法久住北天。機見不同不須和會。小乘經文尚表佛法久住不滅。況涅槃終極不表祕密藏耶。然一代教門凡諸所表文義顯著莫過雙樹。以四念處能為大小觀行初門。是故爾也。慇懃遺囑意在於斯。治倒已下釋念處名。一切下結成三諦。三諦秖是祕密之藏。即是釋成釋名義。祗一等者。總結成行相。勸行者觀之。能如是觀即義。同如來於雙樹中而入祕藏。是故念處是得道之場。場是所依。所依即理。治於四處無明之糠。顯於四德實相之米。依此境故從因至果。境為乘體智為白牛。空假破倒名莊嚴具。發心起觀名為乘始。故云若能深觀。究竟至果名為乘終。故云入般涅槃。法界非四而不離四。以無所住住此四法。非始而始非終而終。諸法具足故不餘修。但為未入故進後品。自行化他始終具足。念處既爾餘品亦然。名異義同。用為調試。隨所宜樂得入不同。次若不下結前生後。次明正勤。秖是於前念處精勤除惡生善。故此四文義唯善惡。意在四品次第竪進。文從語便。先除二惡次生二善。據行必以已生善惡居先。未生善惡居次。並先滅惡次明生善。雖云已生未生善惡。文似次第意實圓融。故云前四勤而觀之。但麁惑浮疎細惑沈隱。故分已生未生之相。先以三觀勤觀已生令速不生又更勤令未生不生。是以麁惑任運先除。且得名為已生不生。入六根淨進修三觀。復伏細惑名為除斷。麁惑先去真諦先成。即名真諦為已生善未得無生名未生善。次明如意足者此之四法文四義四。意在隨入隨何相應。此四屬定。六神通中身如意足藉茲而顯。又通因定生。亦可六通因茲並發。當是不勤等者。此四正勤是有定之慧。慧觀不勤。念處不成反招散動。故釋欲中云如風中燈。今修如意如加密室。於此四法一一調試。定慧若等。方可名為有慧之定。三智圓發三惑圓除。是故此四通名斷行。四法皆是斷惑之行。名為斷行。言成就者從果立名。故四正勤四法同觀。二二異時位相別故。今如意足四法各用。初云欲者。希向慕樂莊嚴彼法言彼法者。謂念處境。言莊嚴者。修希向心令法端美。凡所修立一切諸法。若無樂欲事必疎遺。言精進者。唯專觀理使無間雜。無雜故精無間故進。凡所修立一切諸法。若無精進事必不成言一心者。專注彼境一心正住。若無一心觀法斷絕。言思惟者思惟彼理。由思惟故心不馳散當知四法是入定方便。次明五根者。此之五法文五義五意亦隨入修前諸品。縱善萌微發根猶未生。根未生故萌善易壞。今修五法使善根生。故此五法皆名為根。釋此五法一一具二。一釋根當體。二攝後歸前。又此二義前後不定。初釋信中先釋當體。謂信三諦。次從但念處修下攝後歸前。謂此信根必依念處。若無信境根何能生。問。前修念處既不得入。何須更依念處境耶答秖為念處未能得入。更於此境修令根生。是故五根咸依念處正勤如意所依亦然。次釋進中先攝進入信。故云信攝諸法。次信諸法故下釋進當體。次釋念中先釋當體。必依念持無使邪妄偏小得入。從又此法者下攝念入進。念進不遺。故云不忘。次釋定者。先釋當體。一心恬寂故名為定。從而行精進下先攝定入進。從又此法下正攝定入念。有念故不忘有進故不動。次釋慧者。先攝慧入定。從內性下釋慧當體。有定之慧照本有性。是故名為內性自照。結前生後中言遮諸煩惱者。即以中慧破於三惑。次五力者。文義及意。準根可知。問。名同為根何須更立。答。善根雖生惡猶未破。復更修習令根增長。是故此五復受力名。根成惡破。故名為力。故大論二十一云。天魔外道不能沮壞。是故此五復名為力。若自若他皆得力名。信力信諦不為偏小諸疑所動。進力觀諦必無間雜。本求極果未證不休。念力持諦破邊邪想。不令三惑之所破壞。定力若成。能於諸禪互無妨礙。不同單修根本之相。言破散者。能破欲界一切諸散。或復雖用欲界語法而不礙於初禪支林。或住初禪覺觀之法。而不礙於二禪內淨。或住二禪與喜相應。而不礙於三禪樂受。或與四禪捨受相應。而能教化一切眾生。縱妨四禪不妨諸定。妨謂妨礙礙謂遮止。縱有因緣不入四禪。不妨一切禪定自在。總而言之。秖是諸定互不相妨。所言不捨不隨等者。不捨世禪不隨禪生。故經云。雖行禪定解脫三昧。而不隨禪生是菩薩行。總而言之。正用中定是故方能不捨不隨。次釋慧者。能破一切偏圓等慧。能破一切權實等執。而能雙照執慧實相。次釋七覺者。文七相三義二。意亦隨入。通一別二。故曰相三。不出定慧故曰義二。還以寂照除等進等而調停之。復以寂照安之起之。定慧各三。各隨用一。得益便止無假遍修。若全無益方輒後品。念能通持定慧六分。是故念品通於兩處。次釋八正。文八義八意亦不定。品位既極無復生後。初二如文。釋正語者。聽法說法俱得解脫。化功歸已故益自他。釋正業中先列四業。次釋四業。言小乘可解者。若小乘中則不得云非白非黑而有來報。具如第一卷中料簡有無。今云有者。約大乘說則無漏為因無明為緣。生於界外受法性身。酬於此因名之為報。文中更約三觀釋業。不次第者名圓正業。言邪命者。自圓之外皆名為邪。迦葉自述即其意也。問。何故釋業而云邪命。答。緣理義通故得互釋。圓業不正常命成邪。破無不遍故名為盡。依遍而行方名為正。見他得利已下。文雖附事例前亦應以為理釋。且約事者。圓修之人必離四邪方名正命。見他得利事解可知。若理釋者。若偏若小名為他利。具三諦益名為己利。終日圓修不起圓想。而於無想不生染著名知止足。善故名精入故名進。得中名正。心不動等者。不動故正直不失故不忘。上句為因下句為果。不動中道於念不忘。故名正念。正住釋正字決定釋定字。正住於理決定不移。因是下結八正。如是下通結道品。初結示道品在一念心中。初心可修未論深位。大論下。引證道品並在念處。是故道品初心並修。故知等者。明修道品功能故也。如此下結判。
次に道品調適を明かすとは、まず通じて四道品の相を列し釈する。文は四、義は四にして、意は調停にあり。この四は通じて論ずれば、ともに大にも小にも通じ、別してこれを言えば、第三はただ小にのみあり、余の三は大にあり。当分と言うは、互いに相仮らず。すでに「当に念処に依りて道を得べし」と言い、念処がすでにしかるべきを知れば、余の品もみな所依となりて、みな道を得ることを得べし。ゆえに当分と言う。また「下に云く」と引証するも、また念処を将いて以て余の品を例すべきなり。ゆえに「亦然り」と言う。これは別義従りてのゆえに、念処を引いてこれ道場および以て衍等となす。もし通義に従わば、教々の七科は当分にあらざることなし。相摂と言うは、大小乗の教に、およそ道品を論ずるに、その科品に随いて、みな互いに相収む。次に論を引いて証す。文の意は知るべし。約位と言うは、大師自ら四念処の文ありしがごとし。四教は各々念処を以て位となし、外凡に判ず。ゆえに諸教の位は、みな道品に対して、この文は小に従うがゆえに、しばらく小の位に対す。もし通論に従わば、諸教みな内凡を以て燸頂等となすことを得。相生と言うは、文に「念処正勤を生じ、乃至八正を生ず」と云うがごとし。これ相生によるがゆえに、下の七科は次第に調停す。また相生とも名づく。調停はすなわちこれ諸品の調試なり。何れか相応して法性に入るべき。ゆえにこの七科は初心に修むべし。四文ありといえども、またただ二義のみ。前三は第四を成ずるがためのゆえなり。次に「所以に」の下は、次に来意を明かす。その中に初めの文は、略して来意を明かす。上の破遍および通塞に対して、もし悟らざる者は、調停なきによる。真法の下は、向の道品の証する所の法を釈す。初住已上は分に無漏を得、自爾已前はみな有漏と名づく。このゆえに初心は道品を調停して、よく初住の無漏の因となる。酒を醸すの下は、譬えを挙ぐるなり。この方にはすなわち麦麴を以て酵となし、西方にはあるいは草華等の酵を用う。真法は迷に在るは、なお水米のごとし。道品調停は、なお酵燸のごとし。調停よく得所なれば、有漏の米を変じて、無漏の酒を成ず。調停度を失すれば、理味成ぜず。次に大論を引いて、道品を須うべきを証す。よく無漏の近因となるがゆえなり。大論に云わくのごとし。「不浄は身念処を開き、身念は四念処を開き、四念は道品を開き、道品は三脱を開き、三脱は涅槃を開く。涅槃はこれ無漏なり。このゆえに有漏はよく無漏の因縁となることを得」と。論文は不浄を以て首となすといえども、語はしばらく小に約せり、正しくは衍門に在り。教に随いて同じからず、理観各々別なり。みなこれ有漏にして無漏の因となるなり。および道品の後に次いで三脱を明かす。次に問答料簡の中に、初めに大小を料簡す。問答は具に大論二十一の中に在り。今文の答の中に、まず論の意を用い、次に浄名・大経・大集を引きて、論の答の意を助く。浄名はこれによりて成仏し、道を得るの処および摩訶衍なり。大経は性を見るおよび醍醐を譬う。大集はこれ菩薩の宝炬と名づく。宝は諸法を具し、炬はよく闇を破し、一切法を摂むるを陀羅尼と名づく。ゆえに総じて結して「みな小とは云わず」と云う。もし大経の下は、すでに折して専ら小に在るを許さず。次にまた縦して大小に通ずと云う。ゆえに「無量の助菩提法は、これ大涅槃の因なり」と云う。またこれ疑いを釈す。人は疑いて云わん。「さらに無量の助菩提法ありて、方に大涅槃の因と名づくることを得。ゆえに道品は大乗の因に非ず」と知らんことを恐る。ゆえにすなわち釈して云わく。「道品の外に別の道品なし。無量と云うといえども、道品を出でず。このゆえに道品はこれ大乗の因なり」と。ゆえにまた更に大経の四諦を引きて、これを例釈す。「四諦の外に別の四諦なし。三十七品はすでにこれ道諦なり。ゆえに道品の外に別の道品なし」と。ゆえに四含の中に明かす所の四諦は、声聞のためと云う。殃掘の中および諸の大乗に明かす所の四諦のごときは、みな菩薩のためなり。ゆえに通ずることを知る。ゆえに殃掘に云わく。「云何が名づけて四となす。いわゆる四諦の法なり。これはこれ声聞の宗なり。斯は摩訶衍に非ず。大乗には無量の諦あり」と。爪土のごとしと言うは、大経三十一の迦葉品の中に、仏は少土を取りて爪の上に置き、迦葉に告げて言わく、「この土は多しや、十方世界の地土は多しや」と。迦葉答えて言わく、「爪の上の土は、十方に比せず」と。今この文を借りて四諦を校量す。三蔵の四諦は爪の上の土のごとし。未だ説かざる所は十方の土のごとし。すなわち余の三教の四諦の法なり。もし未だ説かざる者は十方の土のごとくならば、まさに五諦あるべし。仏言わく、「第五の諦なし。ただ四諦に無量の相ありて、諸の声聞・縁覚の所知に非ず」と。しばらく別教の四諦を指して以て無量となす。ゆえに殃掘に云わく、「大乗には無量の諦あり」と。十六門と言うは、別教の始終十六を借るといえども、意は実に四教の十六に通ず。また「有漏」の下は、五味に約して判ず。向に申難を一十六門に由るに、ともに行に道品あり。ゆえに無量と云う。しかも浅深なきにあらず。ゆえに五味を以てその優劣を判ず。初めに有漏と言うは、すでに界摂に属し、その多少に随いて、みな有漏の摂なり。今の所用意は醍醐に在り。「二十二等」とは、大論十九に云わく、「欲界は二十二、七覚・八正を除く。未到は三十六、喜覚を除く。初禅は三十七。二禅は三十六、正行を除く。正行とはすなわち正思惟なり。三禅・四禅および中間は、みな三十五、正行および喜を除く。三無色は三十二、喜覚・正行・正語・業・命を除く。有頂は二十二、覚・道を除く」と。もし婆沙の中には欲界を弁ぜず。無色の中においてはただ三十二のみ。下の三と非想との異を弁ぜず。大論には正行と云い、婆沙には正覚と云う。余の文はみな同じ。婆沙また復た分別す、「幾法か現前する」と。問うて曰く、「諸地の中に、各々幾法か現前するや」と。答う、「未到は三十六、三十三法は一時に現前す。初禅は三十七、三十四法は一時に現前す。中間は三十五、三十二法は一時に現前す。三四は三十五。二禅は三十六。無色は三十二。みな三念を除く、縁異なるがゆえなり。三念とは身等にして倶ならざるを謂う。ゆえに無量の文は須らく五味を兼ぬべし」と。次に「或いは言く」の下は、正助を料簡し、大経の疑いを釈す。前に大経を引きてすでに「無量阿僧祇の助菩提法は、これ大涅槃の因なり」と云い、および五味の中に正あり助あり。今文は何のゆえに復た以て正となすや。ゆえに両文を引きて、「あるいは正、あるいは助、その深浅に随いて、みな前前を以て後後に助く。教文の意は兼ぬるがゆえに、みな似と云う。ゆえに今文の意には須らく正助あるべし。この文はすなわち正なり。助道はすなわち助なり。このゆえに教を引きて両文ともに存す。前の五味の中に具に諸経を引く。ゆえに並びに正助あり」と。文に「もし言わく」の下は、有漏無漏を料簡す。前の五味の中に、「有漏の道品は欲界二十二等」と云うに由る。初めの文に徴難す。婆沙の文に準ずれば、七覚はすでにこれ修道の位なり。何ぞよく総じて道品を判じて有漏となすことを得ん。ゆえに法華を引きて無漏を証成す。「云何」の下はまた難ず。婆沙の七覚はすでにこれ修道の位なり。まさに知るべし、八正は七覚の前に在り。すなわちこれ見道なり。これに依りてこれを問う。「何のゆえに八正は七覚の前に在るや」と。「これ応に」の下は答うるなり。前の二文相違して不定なるに由る。ゆえに須らく開して三句となして解釈すべし。まず三句を列す。大論の下のごとく解釈す。まず略して有漏を釈す。「云何」の下は、三十七品はこれ有漏の相なるを釈す。「皆是」の下は、三十七品はみなこれ無漏なるを釈す。「従来」の下は、重ねて更に前に引く所の大論の文を印許す。而るに婆沙に去りては第三の義を釈す。「何以故」の下は婆沙の文を釈す。もし八正は七覚の後に在らば、八正已前は有漏といえども、もし八正に至れば無漏に入るがゆえに、この道品もまた漏もあり無漏もあるなり。もし八正は七覚の前に在りてこれ無漏と言わば、常に説く所のごとし。経論みなしかり。ゆえに解すべしと云う。すなわち第二の意に属す。また婆沙五十三に云わく、「四念処に二種あり。いわゆる有漏・無漏なり。乃至八正もまた復たかくのごとし」と。これすなわち始終ともに第三に属す。また雑含第六に云わく、「七覚・八正は一一にみな有漏および無漏あり」と。これすなわち婆沙および雑含に、具に三義ありて、ともに第三に属す。今文はただ初義を列して証成す。婆沙を引きて二意を証成するとは、亦漏亦無漏および以て無漏、および亦漏亦無漏はこれ対位なり。重ねて対位を以て前に八正は七覚の前に在るを釈す。世第一の前はこれ亦有漏なり。見道已去はこれ亦無漏なり。これすなわち八正は七覚の前に在りて、二義を具す。いわゆる第二・第三なり。諸道諦の下は、次に正しく無作道品を釈す。今文の正意なるがゆえに、しばらく余の三を置く。初めに来意を明かすは、またこれ去取なり。この七科は文は七、義は七にして、意は益に随い機に順ずる不同にあり。これはただ通じて文義および意を論ず。七科の中に各々文義を論ず。具に下に列すがごとし。七科の中に、まず念処を明かすに総あり別あり。下の六科は別々にして用う。今初めに念処を釈す。文は四、義は四にして、同じく一境を顕す。境は一品四あり、何れの相応に随う。その中に初めに正釈し、次に結前生後す。初めに正釈とは、しばらく三経を引きて、後後を以て前前を釈す。初めに大品を引きて念処を釈し、三諦と成さしむ。次に華厳を引きて大品を釈し、四念処に一切法を具するを明かす。すなわち念処の境なり。大地の一にして種種の芽を具するがごとし。次に法華を引きて華厳の意を結ぶ。「云何が種種、いわゆる相性等」とは、正しく十如を用いて以て観境となす。ゆえに最後に結して、「およそ一切と言うは、百界千如を出でず」と。また下の釈の中に、みな先に一界に約し、次に九を以て例す。一の中にみな「一切等」と云うは、一界の中に復た十あり復た百あり三千なるがゆえなり。「常途に云く」の下は、次に旧解を斥す。第一の経の中に、「一切諸法の相性体等」とは、ただこれ第三の経の一相一種、および第三の一地実事なり。種相体性はただこれ一種なり。ゆえにこの一種はこれ仏性と云う。「卉木」の下は、すなわちこれ正解なり。卉はこれ草の総名、木はこれ樹の通称なり。衆草は叢を成し、衆木は林を成す。卉木はただこれ三草二木なり。三草二木は七方便を譬う。この七方便は本はこれ一実なり。今「一念」に去るは正しく念処を釈す。まず更に前に不思議境を牒して、念処の境となす。すでに一一界に各々十界を具するがゆえに、相妨げず。前に総じて陰を立てて観と名づけてすでに悟らざるがゆえに、離して四となしてこれを調停す。「法性因縁」に去るは念処の観を示す。委しくは具に四巻別行の円念処に説くがごとし。四文はみな一念百界千如三千世間を以て、摂して三諦と成して、方に名づけて無作念処となすことを得。ゆえに知る、前來の境等の五法は、並びに陰に依る。乃至覚道もまた復たかくのごとし。今一一の念処に、みな先に趣きて一界を挙げて境となし、次に余の九を以てこれを例す。知るべし。これを説けばすなわち四法の先後あり。これを観ずればすなわち一念を出でず。一念の中に総あり別あり。また法相に約して具足せしめんがため、および識心を境の首として示さんがために、ゆえに先に破法遍の後に、余の陰に例して、以て通塞・道品の本となす。もし不可思議を顕さんと欲せば、還た一念心に約して弁ずべし。すなわち陰入界等を具に観ず。一切みなしかり。かくのごとき下は総じて念処を結す。義意は兼ねて広し。倒を破し理を顕す。下の兼広を釈する文に自ら四あり。一一の念処にみなまず空仮の倒を破するを明かし、次に中道を以て結して祕蔵と成し、自他ともに満ち、義は大小を兼ぬ。「倶に破す」と言うは、すでに中道を以て祕密蔵を顕すがゆえに、四念処はみな倒を破す。何となれば、即空なるがゆえに即ち常倒を破し、義は小を兼ぬ。即仮なるがゆえに無常倒を破し、義は大を兼ぬ。中道を正となすがゆえに義兼と曰う。即中なるがゆえに双ら大小を照らし、双ら大小に非ず。すなわちこれ双ら八倒を照らし双ら八倒を破す。三諦相即にして前後を兼ねず、次第なく破す。即破即立、即照即遮なり。「枯栄等」と言うは、大経に云わく、「東方の双は常無常を喻え、南方の双は楽無楽を喻え、西方の双は我無我を喻え、北方の双は浄不浄を喻う。四方各々双なるがゆえに双樹と名づく。方面みな一枯一栄あり。栄は常等を喻え、枯は無常等を喻う。如来はその中において北首にして臥して般涅槃に入る。非枯非栄を表す。栄はすなわち仮を表し、枯はすなわち空を表す。すなわちこれその空仮の中間において祕蔵に入る」と。後分に云わく、「東方の一双は仏の後に在り、西方の一双は仏の前に在り、南方の一双は仏の足に在り、北方の一双は仏の首に在り。涅槃に入り已りて、東西の二双は合して一樹となり、南北の二双もまた合して一となる。二合みな如来を垂覆す。その樹惨然としてみな変じて白となる。常無常等の二は即ち不二なり。常楽我浄は法界に遍覆す。ゆえに二二合して如来を垂覆す。すなわちこれ如来祕蔵に契う。またこれ念処寂滅ならざることなし。白はすなわちこれ衆色の本なり。常等は本に称うるがゆえに変と名づく。北首と言うは、増一阿含に云わく、「仏法久しく北天に住せんことを表す」と。長含第四に云わく、「仏阿難に告げたまわく、我が頭を安んじて南首し面を北に向けば、すなわち仏法をして久しく北天に住せしめん」と。機の見ること同じからず、和会することを須いず。小乗の経文すらなお仏法の久住不滅を表す。況や涅槃の終極にして祕密蔵を表さざらんや。しかるに一代の教門に、およそ諸の表する所、文義顕著なるは双樹に過ぐるはなし。四念処を以てよく大小の観行の初門となるがゆえに、これしかるなり。慇懃の遺囑の意はここにあり。「治倒」已下は念処の名を釈す。「一切」の下は結して三諦と成す。三諦はただこれ祕密の蔵なり。すなわちこれ釈名の義を釈成す。「祗一」等は、総じて行相を結成す。行者に観ぜんことを勧む。よくかくのごとく観ずれば、すなわち義は如来が双樹の中において祕蔵に入るに同じ。このゆえに念処はこれ道を得るの場なり。場はこれ所依、所依はすなわち理なり。四処の無明の糠を治し、四徳実相の米を顕す。この境に依るがゆえに因従り果に至る。境は乗の体となり、智は白牛となる。空仮の倒を破するを荘厳具と名づく。発心起観を乗の始と名づく。ゆえに「もしよく深く観ずれば」と云う。究竟して果に至るを乗の終と名づく。ゆえに「般涅槃に入る」と云う。法界は四に非ずして四を離れず。無所住を以てこの四法に住す。始に非ずして始まり、終に非ずして終わる。諸法具足するがゆえに余を修せず。ただ未だ入らざるがために、後の品に進む。自行化他、始終具足す。念処すでにしかるがごとし。余の品もまたかくのごとし。名は異なり義は同じ。用いて調試となす。宜しき所に随い楽う所に随いて、入ること同じからず。次に「もし不」の下は結前生後す。次に正勤を明かす。ただこれ前の念処において精勤して悪を除き善を生ず。ゆえにこの四文は義はただ善悪のみ。意は四品の次第竪進にあり。文は語便に従いて、先に二悪を除き次に二善を生ず。行に拠れば必ず已生の善悪を先とし、未生の善悪を次となす。並びに先に悪を滅し次に善を生ずるを明かす。已生未生の善悪と云うといえども、文は次第に似るといえども、意は実に円融なり。ゆえに「前の四勤めてこれを観ず」と云う。ただ麁惑は浮疎にして細惑は沈隠なるがゆえに、已生未生の相を分かつ。先に三観を以て勤めて已生を観じ、速やかに不生ならしめ、また更に勤めて未生を不生ならしむ。これをもて麁惑は任運に先に除かれ、しばらく已生不生と名づくることを得。六根浄に入りて三観を進修し、復た細惑を伏するを除断と名づく。麁惑先に去り真諦先に成ず。すなわち真諦を已生の善と名づけ、未だ無生を得ざるを未生の善と名づく。次に如意足を明かすとは、この四法は文は四、義は四にして、意は随入にあり。何れの相応に随う。この四は定に属す。六神通の中に身如意足はこれに藉りて顕わる。また通は定に因りて生ず。また六通はこれに因りて並びに発すべし。「当に是不勤等」とは、この四正勤はこれ定あるの慧なり。慧観勤めざれば、念処成ぜず、反って散動を招く。ゆえに欲を釈する中に、「風中の灯のごとし」と云う。今如意を修むるは密室を加うるがごとし。この四法に一一に調試す。定慧もし等しければ、方に名づけて慧あるの定となすことを得。三智円かに発し三惑円かに除く。ゆえにこの四を通名して断行となす。四法はみなこれ断惑の行なり。断行と名づく。「成就」と言うは、果より名を立つるなり。ゆえに四正勤は四法同じく観ず。二二は時に異なり位相別なるがゆえに、今如意足は四法各々用う。初めに「欲」と云うは、希向慕楽して彼の法を荘厳す。彼の法と言うは、念処の境を謂う。荘厳と言うは、希向の心を修して法をして端美ならしむ。およそ所修所立の一切諸法、もし楽欲なければ、事は必ず疎遺ならん。「精進」と言うは、ただ専ら理を観じて間雑なからしむ。雑なきがゆえに精、間なきがゆえに進。およそ所修所立の一切諸法、もし精進なければ、事は必ず成ぜず。「一心」と言うは、彼の境に専注し一心正住す。もし一心なければ、観法断絶せん。「思惟」と言うは、彼の理を思惟す。思惟するがゆえに心馳散せず。まさに知るべし、四法はこれ入定の方便なり。次に五根を明かすとは、この五法は文は五、義は五にして、意もまた随入なり。前の諸品を修む。たとい善萌微かに発すといえども、根はなおいまだ生ぜず。根いまだ生ぜざるがゆえに、萌の善は壊れ易し。今五法を修して善根をして生ぜしむ。ゆえにこの五法はみな根と名づく。この五法を釈するに、一一に二を具す。一には根の当体を釈し、二には後を摂して前に帰す。またこの二義は前後不定なり。初めに信を釈する中に、まず当体を釈す。いわゆる三諦を信ず。次に「ただ念処より修す」の下は、後を摂して前に帰す。この信根は必ず念処に依る。もし信境なければ根は何ぞよく生ぜん。問う、「前に念処を修してすでに入ることを得ざるに、何ぞ更に念処の境に依るを須いんや」と。答う、「ただ念処にまさに得入すること能わざるがゆえに、更にこの境において修して根を生ぜしむ。このゆえに五根はみな念処に依る。正勤・如意の所依もまた亦然り」と。次に進を釈する中に、まず進を信に摂す。ゆえに「信は諸法を摂す」と云う。次に「信は諸法のゆえに」の下は、進の当体を釈す。次に念を釈する中に、まず当体を釈す。必ず念持に依りて邪妄偏小をして得入せしめず。また「この法」の下より、念を進に摂す。念進遺れざるがゆえに、「不忘」と云う。次に定を釈するに、まず当体を釈す。一心恬寂なるがゆえに定と名づく。しかしてより精進を行ずるの下より、まず定を進に摂す。「またこの法」の下より、正しく定を念に摂す。念あるがゆえに忘れず、進あるがゆえに動かず。次に慧を釈するに、まず慧を定に摂す。「内性」の下より、慧の当体を釈す。定あるの慧は本有の性を照らす。このゆえに内性自照と名づく。結前生後の中に「諸煩悩を遮す」と言うは、すなわち中慧を以て三惑を破す。次に五力とは、文義および意は根に準じて知るべし。問う、「名は同じく根なり。何ぞ更に立つるを須いんや」と。答う、「善根は生ずといえども悪なおいまだ破れず。復た更に修習して根をして増長せしむ。このゆえにこの五は復た力の名を受く。根成じ悪破るるがゆえに、力を名づく。ゆえに大論二十一に云わく、天魔外道よく沮壊すること能わず。このゆえにこの五は復た力を名づく。自若他もみな力を得るの名なり」と。信力は諦を信じて偏小の諸疑に動かされず。進力は諦を観じて必ず間雑なし。本は極果を求め、未だ証せざれば休まず。念力は諦を持して辺邪の想を破し、三惑の破壊する所となさず。定力もし成ずれば、よく諸禅に互いに妨げなし。単に根本を修むるの相と同じからず。「破散」と言うは、よく欲界の一切の諸散を破す。あるいはまた欲界の語法を用うといえども、初禅の支林を妨げず。あるいは初禅の覚観の法に住すといえども、二禅の内浄を妨げず。あるいは二禅に住して喜と相応すといえども、三禅の楽受を妨げず。あるいは四禅の捨受と相応して、よく一切衆生を教化す。たとい四禅を妨ぐといえども諸定を妨げず。妨は妨礙を謂い、礙は遮止を謂う。たとい因縁ありて四禅に入らずといえども、一切の禅定自在を妨げず。総じてこれを言えば、ただこれ諸定互いに相妨げざるのみ。「不捨不随等」と言うは、世禅を捨てず禅生に随わず。ゆえに経に云わく、「禅定解脱三昧を行ずといえども、しかも禅生に随わず。これ菩薩の行なり」と。総じてこれを言えば、正しく中定を用う。このゆえに方によく不捨不随なり。次に慧を釈するに、よく一切偏円等の慧を破し、よく一切権実等の執を破し、しかもよく執慧実相を双照す。次に七覚を釈するに、文は七、相は三、義は二にして、意もまた随入なり。通一別二。ゆえに相三と曰う。定慧を出でず。ゆえに義二と曰う。還た寂照を以て除等進等してこれを調停し、復た寂照を以てこれを安じこれを起す。定慧各々三、各々一を用に随う。益を得ればすなわち止む。遍く修するを仮らず。もし全く益なければ方に後の品に輒く。念はよく定慧の六分に通持す。このゆえに念品は両処に通ず。次に八正を釈するに、文は八、義は八にして、意もまた不定なり。品位すでに極まる。復た後を生ずることなし。初二は文のごとし。正語を釈するに、聴法説法ともに解脱を得。化功己に帰すがゆえに自他を益す。正業を釈する中に、まず四業を列し、次に四業を釈す。「小乗は解すべし」と言うは、もし小乗の中にはすなわち「非白非黒にして而有る来報」と云うことを得ず。具に第一巻の中に有無を料簡するがごとし。今「有り」と云うは、大乗に約して説けばすなわち無漏を因となし無明を縁となし、界外に生じて法性身を受け、この因に酬うるをこれを報と名づく。文中また三観に約して業を釈す。次第ならざるを円正業と名づく。「邪命」と言うは、円の外はみな邪と名づく。迦葉の自述はすなわちその意なり。問う、「何のゆえに業を釈して邪命と云うや」と。答う、「理に縁る義通ずるがゆえに互いに釈することを得。円業は正ならず、常命は邪を成ず。破に遍ざることなし、ゆえに尽と名づく。遍に依りて行ずるを方に正と名づく」と。「他に利を得るを見」已下は、文は事に附すといえども、前に例してまた理を以て釈すべし。しばらく事に約せば、円修の人は必ず四邪を離れて方に正命と名づく。他に利を得るを見るは事解すでに知るべし。もし理釈せば、偏若しくは小を他利と名づく。三諦の益を具するを己利と名づく。終日円修して円想を起こさず。しかも無想において染著を生ぜず。智止足と名づく。善なるがゆえに精、入るがゆえに進、中を得るがゆえに正。「心動かず等」とは、動かざるがゆえに正直、失わざるがゆえに不忘。上の句は因となり下の句は果となる。中道に動かず念に忘れず。ゆえに正念と名づく。正住は正の字を釈し、決定は定の字を釈す。理に正住して決定不移なり。これに因りて下は八正を結す。かくのごとき下は通じて道品を結す。初めに道品は一念心中に在りて、初心よく修むべきを結示す。未だ深位を論ぜず。大論の下は、道品は並びに念処に在ることを引証す。このゆえに道品は初心に並びに修す。「故に知る等」とは、道品を修むるの功能を明かすがゆえなり。かくのごとき下は結判なり。
止觀輔行傳弘決卷第七之一
止観輔行伝弘決 巻第七の一
止觀輔行傳弘決卷第七之二
止観輔行伝弘決 巻第七の二
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
次舉譬者。婆沙大論並依樹譬道品。故名道樹。二論並與今文大同。但今結果位在初住。與婆沙異。於中又二。初別約無作道品。次通約三觀。初文有譬合結。譬及合文並闕如意。譬中應云莖幹上聳即如意足。法性下合。先正合。次明果上異名。道品善知識下結前合譬。準方便中有三知識。從初引導令至寶所。即同行也。由是道品令行無誤。即教授義。諸品防護妄誤不侵。即外護義。忍辱為衣法喜為食。資於慧命益以定身。並外護義。由三知識。令入初住三身正覺。能與眾生真善知識。通途下通約三諦。前但約圓別別對位。此通約諦諦諦各辯。於中先別對。次總對。總別二對但寄喻文。非約修行。又約竪位以譬圓者。觀行為葉。相似為華。分真為果。若通約四教準說可知。次明三脫門者。明道品功能。大論二十一問。涅槃唯一門何故三耶。答。法一義三。三秖是一。又隨人不同故分三別。見行從於空。愛行從無作。見愛等者從於無相。論局三藏今通三教。別教初心同二教故。諸教並以證道為無漏城。唯圓義通。六即辨異。是故今文釋道品竟。次明三脫。若準文正意。秖應但明無作三脫。亦為比決使識無作。是故具明諸教三脫。於中先明來意列名。次正釋中先總釋。次歷教。初文先辯王臣旁正親疎。次約伏斷。三約名體。以總冠別。諸教各各三義不同。準望聖教不可專一。故並云或。下約教釋。但注云云不復別辯。應隨其教出其相狀。初王臣中先明三昧為王。次明三脫為王。三脫從慧三昧從定。於空等上立二名者。由二種人入無漏異。故有三昧三脫不同。以親入無漏者為王。旁助發者為臣。見與思惟屬慧。即是從慧發定。從定發慧準此可知。斷伏名體尋文可見。次歷教者。初三藏教約十六行以分三門。俱舍婆沙諸文皆爾。但分三昧及以三脫。互為王臣。諸論未辯。故三藏中由觀此行。上忍發真。故以此行而為三門。又此行相但取與其三門類同判屬門耳。通教從初但觀幻化。是故不復依十六行。但約空觀以辯三相。還約定慧以辯王臣。空等三義雖皆觀幻。不妨亦有王臣不同。亦由入道根異故爾。初空門中具引古今釋論本者。既是古今互出不同。今雙引之以證假實。此教三門不同三藏三門體殊。此中得空即無相願。次明別教先通約三觀。次別約出假。初文意者。即以三觀為三三昧。三脫亦然。一一諦中止即三昧。觀即三脫。王臣伏斷等準三藏說。即以初地為無漏城。次別約出假者。約此一諦既義立三。當知亦具王臣等義。於別教中立二釋者。約教始終雖具三諦。不得意者但在於假。是故此教應須兩釋。又一教始終雖具三諦。若入證道不復名別。是故別教但在於假。凡釋別義悉皆準此。既約出假以釋三門。亦通行向為無漏城。故大集云。欲度眾生修於空。護持諸法修無相。不捨諸有修無願。豈非純於出假以立三門。出假尚爾。餘任運具何假義求。次明圓教者。前釋三教直爾釋之。今明圓教云別約者。當知前三通途泛列。此文正意別在於圓故圓三門與前永異。圓王臣等亦復天隔。故圓教中空即無相無作故也。語似道教意復永乖。定慧體一圓伏圓斷。圓名妙體二義融通。於中先引論文總比決之。次正解釋。初比決者。所緣不同能通門異。所緣即是初住無漏。故使能通近遠亦異。智者等者。明空體不同。智者之言亦通別教及以接通。今唯在圓成圓三脫。空即不空皆能通極。故並名中皆能見性。又所見之空空無大小。以智異故大小名生。是故此中以智判空。智既圓融二空則合。合故名中復能見性。又二乘下因辯大小十八空異。若得此空必具十八。是故次此辯十八空。空若不同餘門自別。所以二乘觀十八空。如觀夢事。今圓下大十八空。圓人觀之如觀眠法。法如無明夢事如取相。取相枝末無明為本。是故夢事必依眠法。故觀無明即見實相。但觀取相唯見真理。若與二乘辯空異者。則兩教二乘及通別入空。任運可識。縱使別教詮於不空。非初心觀何須比決。故並不與圓教空同。故但約二乘不論諸教。以此文中義猶含隱。是故下文更重簡之。如前下正示門相。先寄前修中觀中三假以辯三相。故云如前。既用四句觀破無明。即具二空皆不可得。即是空門不見四門之相。即相續假破。尚無法性豈有無明。是故不分四門之異。即無相門。門秖是句即四句也有真有緣故有能所。有能所故故有作者。今非真緣故無作者。即無作門。雖寄三假實無前後。前通教中尚空即無相及無作等。況復圓妙更立次第耶。王臣云云者。亦具三義與前不同。如是等者。明三門相即。又四門下明門門三脫一一互通。如此下重更約教以辯空異。初結成圓門。故云三門意非次第。別雖下仍許別教亦緣實相。以次第故與圓不同。又異等者。尚不同別況復藏通。能知異相方可觀同。是故勸物須善識之。又華嚴下約五味判。初文正約五味以判。明四念處秖是觀陰。若至涅槃成五解脫。解脫秖是祕密之藏。念處既居道品之初。雙樹枯榮復表念處。是故還約枯榮以判。初華嚴中雖具二義文多明別。故云偏多四榮。所以住前十種梵行全明別義。初住雖即略明圓義。二住已去乃至十地多明別義。雖行向中辯於普賢行布二門。而諸位中普賢義少。入法界品唯見彌勒文殊普賢廣明圓融。餘諸知識多明別相。是故今云偏多四榮。三藏可解。方等般若文中處處雖有圓義。多為調於鈍根菩薩及二乘人。故淨名中彈斥聲聞貶挫菩薩。念座致屈去華招譏。聞不思議事猶如根敗。覩大士現變自鄙如盲。方信摩訶衍甚深。伏諸菩薩志大。至般若會乃堪委業。故佛加之以說二空。所以兩時教意多調枯以入榮。使二乘之輩稍成通別。雖未顯說義已成榮。至法華時會諸枯榮入非枯榮。爾乃方堪授作佛記。且順大經越而未說。即云鶴林施化已足。二經同味雖越而兼是故判云為極鈍根來至雙樹。方等般若顯入密入。故云菩薩處處得入。既引涅槃逢指法華。故知法華為醍醐正主。所以經喻秋收冬藏。至涅槃時猶如捃拾。故大經第九云。譬如暗夜若諸營作一切皆息。其未訖者。要待日明。學大乘者。要待無上大涅槃日。是經出世如彼果實多所饒益安樂一切。能令眾生見如來性。如法華中八千聲聞得授記莂如秋收冬藏更無所作。一闡提輩於諸善法無所營作。八千聲聞即是持品八千人也。此據五時相生以說。若論教旨法華唯以開權顯遠為教正主。獨得名妙意在於此。又云下約人結成所表正意。秖是結成念處功畢耳。所言六人及如來者。二十八云。爾時師子吼菩薩白佛言。世尊。何等比丘能莊嚴娑羅雙樹。佛舉六人及以如來。六人在因如來居果。因果俱得莊嚴之名。因果始終四德具足。所表義顯故云莊嚴。因六人者。經云。若有比丘受持讀誦十二部經。正其文句。如是比丘乃能莊嚴娑羅雙樹。師子吼言。如我解佛所說義者。阿難比丘即其人也。得淨天眼指阿那律。少欲知足指大迦葉。無諍空行指須菩提。善修神通指目犍連。得大智慧指舍利弗。於一一人廣如阿難。後舉果人云。若有比丘能說眾生悉有佛性。得金剛三昧具足四德八自在我。如是比丘最能莊嚴娑羅雙樹。師子吼言。如我解佛所說義者。唯有如來乃能莊嚴娑羅雙樹。如其無者則不端嚴。唯願如來常住於此。佛言。一切諸法性無住住。云何請住。前之六人雖曰多聞乃至大智。要必宣說一切眾生悉有佛性。已於法華聞得記已。非不能說但不及果人。故云如來最能莊嚴。因人果人皆具四德。因人始入故云唯佛。聲聞尚爾下舉劣況勝。若入涅槃成五解脫者。結四念所表以成祕藏。祕藏秖是涅槃。涅槃秖是解脫四念處觀。既觀五陰念處既成中間涅槃。即是五陰成五解脫。故經云。色解脫乃至識解脫。不即等者。次結四念及以解脫成三佛性。此三佛性與計六法不即不離不即故非不離故是理具故是本迷故非。言六法者。謂五陰神我。故大經三十。作盲人摸象譬竟。即合譬云。或有說言。色是佛性。乃至說言。我是佛性。當知佛性與彼六法不即不離。三佛性者。準第三卷意。念處中文。正因不即不離於色。了因不即不離於識。緣因不即不離受想行及我。當知六法秖是三因。故此三因與五陰等不即不離。轉於五陰以成四德。三德三因。具如第三卷三德文末。彼具圓別。今但在圓。大同小異各有意旨。前之二解以五陰四念對三德四德。今對五陰復加神我。置於四德唯對三因。是故開合有少同異。
次に譬えを挙げる者は、婆沙と大論はいずれも樹の譬えに依って道品を説いています。それゆえ道樹と名づけるのです。二つの論はいずれも今の文と大体同じですが、ただ今は結果の位を初住に置いている点が婆沙と異なります。その中にまた二つあります。初めに別に無作の道品について述べ、次に通じて三観について述べます。初めの文には譬えと合致と結論があります。譬えと合致の文にはいずれも如意が欠けています。譬えの中には「茎や幹が上に聳える、すなわち如意足である」と言うべきです。法性の下は合致です。まず正しく合致し、次に果の上での異名を明かします。道品善知識の下は前の合致の譬えを結論づけます。方便の中に三つの知識があることに準じます。初めから導いて宝の所に至らせるのが、すなわち同行です。これによって道品が行を誤りなくさせるのが、すなわち教授の義です。諸々の品が妄りに誤りに侵されないよう防護するのが、すなわち外護の義です。忍辱を衣とし法喜を食とし、慧命を資け定身を益するのは、いずれも外護の義です。三つの知識によって、初住の三身正覚に入らせ、衆生に真の善知識を与えることができるのです。通途の下は通じて三諦について述べます。前はただ円と別にそれぞれ位に対応させただけですが、ここでは通じて諦ごとにそれぞれ弁じます。その中でまず別に対応させ、次に総じて対応させます。総と別の二つの対応はただ譬えの文に寄せたもので、修行について述べたものではありません。また竪の位について円を譬えるならば、観行を葉とし、相似を華とし、分真を果とします。もし通じて四教について述べるならば、準じて説けば分かるはずです。次に三脱門を明かす者は、道品の功能を明かします。大論二十一に問うています。「涅槃は唯一の門であるのに、なぜ三つあるのか」と。答えは「法は一であり義は三である。三はただこれ一である。また人に随って異なるため、三つに分ける」と。見行は空から、愛行は無作から、見愛等しい者は無相からです。論は三蔵に局限されていますが、今は通じて三教に及びます。別教の初心は二教と同じだからです。諸教はいずれも証道を無漏の城とします。ただ円の義だけが通じます。六即によって違いを弁別します。これによって今の文は道品の解釈を終えます。次に三脱を明かします。もし文の正意に準じるならば、ただ無作の三脱だけを明かすべきですが、また比較して無作を識らせるため、諸教の三脱を具に明かすのです。その中でまず来意と列名を明かし、次に正釈の中でまず総釈し、次に教を歴ます。初めの文ではまず王と臣の旁正親疎を弁じ、次に伏と断について述べ、三に名と体について述べます。総をもって別を冠すれば、諸教それぞれ三義が異なります。聖教に準じ望めば一つに専らとすることはできません。ゆえにいずれも「或」と言います。下は教について釈します。ただ注に云云とあるだけで別に弁じません。その教に随って相状を出すべきです。初めの王臣の中で、まず三昧を王とし、次に三脱を王とします。三脱は慧に従い、三昧は定に従います。空等の上に二つの名を立てるのは、二種の人が無漏に入るのが異なるためです。ゆえに三昧と三脱が不同です。親しく無漏に入る者を王とし、旁らに助けて発する者を臣とします。見と思惟は慧に属し、すなわちこれ慧より定を発し、定より慧を発することもこれに準じて分かります。断伏と名体は文を尋ねれば見ることができます。次に教を歴まするに、初めに三蔵教は十六行に約して三門を分けます。倶舎と婆沙の諸文はいずれもその通りです。ただ三昧と三脱を分けるのに、互いに王臣となることは、諸論にいまだ弁じられていません。ゆえに三蔵の中ではこの行を観じて、上忍が真を発するため、この行をもって三門とします。またこの行相はただ三門と類同なものを取って判じて門に属するだけです。通教は初めからただ幻化を観じます。それゆえ再び十六行に依りません。ただ空観に約して三相を弁じます。また定慧に約して王臣を弁じます。空等の三義は皆幻を観じますが、王臣の不同があることを妨げません。また入道の根が異なるためです。初めの空門の中で古今の釈論の本を具に引くのは、古今互いに出入りが異なるため、今は双方を引いて仮実を証すのです。この教の三門は三蔵の三門と体が異なります。この中では空を得ればすなわち無相と無願です。次に別教を明かすのに、まず通じて三観に約し、次に別に出仮に約します。初めの文の意は、すなわち三観をもって三三昧とし、三脱もまた同様です。一一の諦の中の止がすなわち三昧であり、観がすなわち三脱です。王臣と伏断等は三蔵の説に準じます。すなわち初地をもって無漏の城とします。次に別に出仮に約するとは、この一諦に約してすでに義として三を立てる以上、また王臣等の義を具えることを知るべきです。別教の中に二つの釈を立てるのは、教の始終に約せば三諦を具えますが、意を得ない者はただ仮にのみあるからです。それゆえこの教は二つの釈を必要とします。また一教の始終は三諦を具えますが、もし証道に入れば再び別とは名づけません。それゆえ別教はただ仮にのみあるのです。およそ別の義を釈するには、いずれもこれに準じます。すでに仮を出ることに約して三門を釈する以上、また行向に通じて無漏の城となします。ゆえに大集に云く「衆生を度せんと欲して空を修し、諸法を護持して無相を修し、諸有を捨てずして無願を修す」と。どうして純粋に出仮において三門を立てることにならないでしょうか。出仮でさえそうであるなら、その他は任運に具わるので、何の仮の義を求める必要があるでしょうか。次に円教を明かすのに、前は三教を釈するのにただそのまま釈しました。今、円教を明かすのに「別に約す」と言うのは、前三が通途の泛列であることを知るべきです。この文の正意は別に円にあるため、円の三門は前と全く異なります。円の王臣等もまた隔たりがあります。ゆえに円教の中では空すなわち無相・無作だからです。言葉は道教に似ていますが、意はまた全く異なります。定慧の体は一にして円伏円断です。円名と妙体の二義は融通します。その中でまず論の文を引いて総じて比較し、次に正しく解釈します。初めの比較では、所縁が同じでなく能通の門が異なります。所縁とはすなわち初住の無漏です。ゆえに能通も近遠がまた異なります。「智者」等は、空の体が同じでないことを明かします。「智者」の言葉はまた別教および接通にも通じます。今はただ円にのみあって円の三脱を成じます。空すなわち不空は皆よく極に通じます。ゆえにいずれも「中」と名づけて皆よく性を見ます。また見る所の空は空に大小がありません。智が異なるゆえに大小の名が生じます。それゆえこの中では智をもって空を判じます。智がすでに円融ならば二空は合します。合するゆえに「中」と名づけ、またよく性を見ます。また二乗の下は、大小の十八空の異なることに因って弁じます。もしこの空を得れば必ず十八を具えます。それゆえこれに次いで十八空を弁じます。空がもし同じでなければ余の門も自ずと別です。だから二乗は十八空を観じるのに夢事を観るが如くです。今の円の下は大十八空で、円人はこれを観るのに眠法を観るが如くです。法は無明の如く、夢事は取相の如くです。取相は枝末、無明は本です。それゆえ夢事は必ず眠法に依ります。ゆえに無明を観ずればすなわち実相を見ます。ただ取相を観ずればただ真理を見るだけです。もし二乗と空の異なることを弁ずるならば、二教の二乗および通別の入空は任運に識ることができます。たとえ別教が不空を詮じても、初心の観でなければ何ぞ比較する必要があるでしょうか。ゆえにいずれも円教の空と同じではありません。ゆえにただ二乗に約して諸教を論じません。この文の中の義はなお含隠されているためです。それゆえ下文でさらに重ねて簡びます。前の如しの下は正しく門相を示します。まず前修の中観の中の三仮に寄せて三相を弁じます。ゆえに「前の如し」と言います。すでに四句の観をもって無明を破ります。すなわち二空を具え皆不可得です。すなわち空門にして四門の相を見ません。すなわち相続仮が破れます。いまだ法性すらないのに、どうして無明がありましょうか。それゆえ四門の異なりを分けません。すなわち無相門です。門はただ句であり、すなわち四句です。真と縁があるゆえに能所があります。能所があるゆえに作者があります。今は真縁でないゆえに作者がありません。すなわち無作門です。三仮に寄せても実に前後はありません。前の通教の中ですら空すなわち無相および無作等です。ましてや円妙がさらに次第を立てるでしょうか。王臣云云は、また三義を具え前と異なります。「如是」等は、三門の相即を明かします。また四門の下は、門門に三脱があり一一が互いに通じることを明かします。このようにの下は、重ねてさらに教に約して空の異なることを弁じます。初めに円門を結成します。ゆえに「三門の意は次第にあらず」と言います。別は以下の下は、それでも別教もまた実相を縁じることを許します。次第のゆえに円と異なります。また異等は、なお別と同じでないのに、ましてや蔵通でありましょうか。異相を知ることができてこそ、同じを観ることができます。それゆえ物に勧めてよく識るべきです。また華厳の下は五味に約して判じます。初めの文は正しく五味に約して判じます。四念処はただ陰を観じることを明かします。もし涅槃に至れば五解脱を成じます。解脱はただこれ秘密の蔵です。念処はすでに道品の初めに居り、双樹の枯栄はまた念処を表します。それゆえまた枯栄に約して判じます。初めの華厳の中では二義を具えていても文は別を明かすことが多いです。ゆえに「偏に四栄が多い」と言います。それゆえ住前十種の梵行は全く別の義を明かします。初住はすなわち略して円の義を明かしますが、二住以上乃至十地は別の義を明かすことが多いです。行向の中で普賢の行布二門を弁じても、諸位の中では普賢の義は少ないです。入法界品ではただ弥勒・文殊・普賢が広く円融を明かすのを見るだけです。余の諸知識は別相を明かすことが多いです。それゆえ今「偏に四栄が多い」と言います。三蔵は分かるはずです。方等と般若の文の中では処々に円の義があっても、多くは鈍根の菩薩および二乗の人を調えるためです。ゆえに浄名の中では声聞を弾斥し菩薩を貶挫し、念座して屈を致し華を去って譏りを招き、不思議の事を聞くのに猶し根の敗れたるが如く、大士の変を現ずるを見て自ら盲の如くに鄙みます。方めて摩訶衍の甚深なるを信じ、諸菩薩の志の大なるに伏します。般若の会に至って乃ち業を委ぬるに堪えます。ゆえに仏はこれに加えて二空を説かせます。それゆえ両時の教意は多く枯を調えて栄に入らせます。二乗の輩をして稍や通別を成さしめます。いまだ顕説せずといえども義はすでに栄を成じます。法華の時に至って諸の枯栄を会して非枯栄に入ります。爾乃ち方めて仏記を受くるに堪えます。かつ大経に順じて越えて未だ説かず、「鶴林施化已に足れり」と云います。二経は同味にして越えながら兼ねます。それゆえ「極鈍根のために双樹に来至る」と判じます。方等と般若は顕入密入し、ゆえに「菩薩は処処に得入す」と云います。すでに涅槃を引いて逢に法華を指します。ゆえに法華が醍醐の正主であることを知ります。それゆえ経に秋収冬蔵に喩えます。涅槃の時に至れば猶し捃拾の如しです。ゆえに大経第九に云く「譬如暗夜に諸の営作一切皆息む。その未だ訖らざる者は要ず日明を待つべし。大乗を学ぶ者は要ず無上大涅槃の日を待つべし。この経の出世は彼の果実の如く多く饒益し一切を安楽にし、能く衆生をして如来の性を見せしむ。法華の中の八千の声聞が授記莂を得るが如きは秋収冬蔵の如く更に所作なし。一闡提の輩は諸の善法に於いて営作する所なし」と。八千の声聞とはすなわち持品の八千の人です。これは五時の相生に拠って説きます。もし教旨を論ずるならば、法華はただ開権顕遠をもって教の正主とします。独り妙と名づけることを得る意はここにあります。また云くの下は人に約して所表の正意を結成します。ただ念処の功畢われることを結成するだけです。言う所の六人および如来とは、二十八に云く「爾の時、師子吼菩薩、仏に白して言く、世尊、何等の比丘か能く娑羅双樹を荘厳せん。仏、六人および如来を挙ぐ。六人は因に在り、如来は果に居す。因果倶に荘厳の名を得。因果の始終に四徳具足す。所表の義顕るるゆえ荘厳と云う」と。因の六人とは、経に云く「もし比丘ありて十二部経を受持読誦し、その文句を正しくせば、是の如き比丘乃ち能く娑羅双樹を荘厳せん。師子吼言く、我、仏の所説の義を解する如くんば、阿難比丘すなわちそれなり。浄天眼を得るは阿那律を指し、少欲知足は大迦葉を指し、無諍空行は須菩提を指し、善く神通を修するは目犍連を指し、大智慧を得るは舎利弗を指す」と。一一の人について広く阿難の如し。後に果の人を挙げて云く「もし比丘ありて能く衆生悉く仏性ありと説かば、金剛三昧を得て四徳八自在我を具足せん。是の如き比丘最も能く娑羅双樹を荘厳せん。師子吼言く、我、仏の所説の義を解する如くんば、唯だ如来のみ乃ち能く娑羅双樹を荘厳せん。其れ無ければすなわち端厳ならず。唯願わくは如来常住したまえ。仏言く、一切の諸法は性として住無し。云何が住を請うや」と。前の六人は多聞乃至大智と言えども、要ず必ず一切衆生悉く仏性ありと宣説せん。すでに法華に於いて記を得ることを聞けり。能く説かざるにはあらざれども果の人に及ばず。ゆえに「如来最も能く荘厳す」と云います。因の人果の人は皆四徳を具えます。因の人は始めて入るゆえ「唯仏のみ」と云います。声聞すら尚爾なりと下は、劣を挙げて勝を況します。もし涅槃に入れば五解脱を成ずるとは、四念の所表を結して以て秘蔵を成ずるのです。秘蔵はただこれ涅槃です。涅槃はただこれ解脱四念処観です。すでに五陰を観じ、念処すでに成じて中間の涅槃となります。すなわち五陰が五解脱を成ずるのです。ゆえに経に云く「色解脱乃至識解脱」と。「不即」等は、次に四念および解脱を結して三仏性を成じます。この三仏性と計の六法とは不即不離です。不即のゆえに非ず、不離のゆえに是、理具のゆえに本、迷のゆえに非です。六法と言うのは、五陰と神我です。ゆえに大経三十に、盲人摸象の譬えをなして竟りて、すなわち合譬して云く「或は色は是れ仏性と言い、乃至我は是れ仏性と言うあり。当に知るべし、仏性は彼の六法と不即不離なり」と。三仏性とは、第三巻の意に準ずれば、念処の中の文に、正因は色に不即不離、了因は識に不即不離、縁因は受想行および我に不即不離です。当に知るべし、六法はただこれ三因です。ゆえにこの三因と五陰等とは不即不離です。五陰を転じて以て四徳を成じます。三徳三因は、第三巻の三徳の文の末に具に述べるが如しです。彼は円別を具えます。今はただ円にのみあります。大同じく小異なる、それぞれ意旨があります。前の二解は五陰四念をもって三徳四徳に対します。今は五陰に対しさらに神我を加えます。四徳に置くにはただ三因に対します。それゆえ開合に少しの同異があります。
次釋對治助開。初明來意中。先剋出所助之體。故云為一切三昧作本。故四三昧必依圓教不思議三三昧為本。此即前六名為正行。正行不顯良由有遮。當分說者。當教三昧即為當教諸行之本。今文唯約無作三昧為諸行本。若入下別明為今文行本。根利下正約根遮以簡助意。四句之中三句不須。唯根鈍有遮用此對治。次句中云但專三脫者。但專修前無作道品以開三脫。夫初果下況釋。斯須二果為根利有遮。及世智斷結。雖非出世根利。亦是無遮之限。言兩條者。二果為一條。世智為一條。如此兩條初條尚有事惑。次條無事為理成障。破事理障義當用治。況根鈍遮重不修對治。第三果人欲結盡故不說須治。世智雖斷下八地思。以計我故猶須治道。故五停中著我多者。尚須對治為說界法。若準此意。唯根利無遮根鈍無遮。及無漏智盡欲結者。不須對治。然初二果但緣理治惑。名為用治。實不同於凡夫治相。當知無遮但專上來境等六法。若有遮根鈍等。治道不成三昧安剋。助道無量下明用治所依。助道無量但用六者為對六蔽。故且立六以示治相。準下文意。雖復初教展轉為治。此科正為治於重蔽。是故且立事六為治。問。前通塞中。塞有橫竪。此中治塞何故但將橫中六度。以辨治相耶。答。橫則事理俱障。六則攝事略周。況復苦集無明名略對治不足。及竪中塵沙等惑非治正意今明事治故不論之。又若有苦集即具無明。具無明故六蔽具足。但治六蔽餘二則去。此之蔽相復重於陰境所歷餘心。是故別生此文用觀。若人下初治慳中。云若人修四三昧至脫門不開。此文冠下五度之首。下五但云修三昧時。餘文並略。激者水衝也。次破戒中。云穬者芒稻也。麁澁貌也。防過曰制限分曰度。淳謂淳朴。亦漬也。沃也。悖者此非字體。謂背逆也。應作𢠜字。亂也。事字託跋正應作嬾。儢者。玉篇云。心不力也。謂懈怠也。春蛙者蝦蟆之流。面牆者無所見也。諸蔽下總結也。前六蔽中各有厚薄(云云)。若用下具辯四隨迴轉治相。前之對治已用四中一對治竟。忽非其宜。應須轉用。或兼或具若第一義。是故總云當依四隨。初總舉。次別示中如治一慳者。略於一蔽示四隨相。問。文中若是已明對治。此中秖應更明三隨。何故約慳具列四耶。答。前雖明對是直爾用治。未辯用治有益以不益。謂惡破善生等也。今示隨相教其迴轉。是故具列四隨之相。又於四中若樂不樂以明轉相者以不樂檀即轉用尸乃至般若。若善心生乃至開等。是轉兼具及第一義。又於對中破即是對不破。即是轉兼具等。故總舉之為轉等式。所言轉者。或轉用尸乃至般若。或次或超超一至四。逆順間雜病去便止。五度為頭但越本位。餘同於檀。此病不轉而治轉也。一度轉用餘之五度即成五句六度合有三十句治若樂病俱轉名亦對亦轉。成三十句。是轉非對亦三十句。又是轉是對是轉非對。一往且立為三十句。若超雜等句相不定。行者自知。豈可具記。又一度轉用至二三四。亦可名轉亦可名兼。若至五度名轉名具。不得具名者以轉用故。若言具者不得云轉。但具用六以治一蔽。亦以轉故復失兼名。故雖兼具但名為轉。故轉至五不名具者。轉則單用具則兼俱。故不同也若病轉藥不轉。不名轉治亦非兼具。或第一義名一向治。亦有超順逆間等也隨其病轉以為五蔽。亦成三十句一向治也。所言兼者。藥兼一兩乃至三四。至五名具是故但四。度別四句成二十四。一度至五但成六句。正名具治。今文無具者。但是文略。第八卷有。此約圓人用事治相。若藏通別初心為四念處等。用事治相準此可知。言第一義者。唯觀無相真如寂理。若約教者。各以當教真理為治。乃至圓人亦用三教理而為對等。又四教初心皆須事治。如向所說。若以四教展轉為治以前助後者。還以前六轉望後教六蔽之相。為對轉等。如通教人用三藏六。別人則用藏通兩六。圓人用三並有轉等。如治一慳看慳何等。財身及命所慳不同。既知慳已用事為治。別人用二例此可知。圓人用三者。如用事治慳。慳雖似破因茲乃計三捨為實。但增生死無正可論轉用即空治其計實。實計若破即應得與法界相應。破實存空則應轉用恒沙佛法。捨身命財十界無知。作此觀時計假為實。但得名為愛見大悲。則應轉用觀身命財悉是法界。圓教觀法得對治名良由於此。此中唯有藥病俱轉終無病轉而藥不轉。亦可得有藥轉而病不轉何以故。計實不轉而亦容用後之三藥。兼具比說思之可知。又此轉治始從生滅終至無作。名為漸轉若從無作轉至生滅。及以互轉名為不定。若第一義名為頓轉。一蔽既爾餘蔽亦然。是則於一病中轉用藏教五及以三教六。成二十三度。六蔽合有一百三十八治。俱轉名對及亦名轉。各有一百三十八治。兼具等相思之可知。若見其意方了此文。於助六度下。次更總明合行式中。明其治相其事非一。於一一事皆有合行。非此可具。故指後文相攝中說。有人下欲明合行先出異解。然後破異明須合行。是故今家下文則有四種六度。初文正出異解者。顯十與六但是開合。古人不見開合之意。濫用楞伽宗教之文。彼楞伽云。二乘菩薩有二種。一者宗趣法相。謂自所證離分別相入無漏界。二者言說。謂說九部離於四句令眾生入。然彼通舉二乘菩薩所證及說。成共三乘理教之相。古師不了謂宗無說為理為大。以屬菩薩。謂教有說為事為小。以屬二乘。宗教有無具如法華維摩玄文所破。次引大經大品。以證六度攝一切法。故知六外無復餘法。如前四諦但云四諦有無量相。不云四外更有餘法。何故云六但在通教。次若得下略示文意。若六若十既是開合。不應以此而判大小宗教等別。如禪下正示開合。合故即是事理合明。開之則是事理別說。又明六則通於大小。明十則唯在於大。又此十中通則通於四教。別則唯在別圓。如三藏菩薩即以伏惑為一切智。以三祇假為道種智。佛果以為一切種智。能起神通有勝願用。故三藏菩薩亦得有十。若據未斷惑邊則般若亦無。非從空出種智不成。未得法身無願智力。且以分地而為般若則但有六。通教菩薩從但空邊開出方便佛果種智及願智力。以為十度。未得法身與三藏同。已斷通惑從空出假。從容進退多少不同。是則兩教或六或七或八或十。今文且約別圓義邊。開六為十。餘諸增減文中未論。又存教道且兼於別。意本在圓。泥滓與願婆羅與力方音異耳。言定守禪度者。若開禪為三則根本定守第五度名禪度也。餘所開者。名力名願。空智守於第六般若。餘所開者名漚和等。漚和出假智也。闍那入中智也。亦是方音不同也。次明攝法者。正示合行故能攝法。若不達於一切諸法。皆入此之對治門中。如何對治攝一切法。初明六度攝道品者。下文廣釋。意雖可見今預通說。至文易明。何者。檀攝二覺謂除捨也。文中闕一下文具列。尸攝三謂正語業命。忍攝四。謂念根念力念覺正念。進攝八。謂四正勤進根進力進覺分正精進。禪攝八。謂四如意定根定力定覺正定。慧攝十。謂四念處慧根慧力擇覺喜覺正見正思合三十五。餘有二信通三十五。一切諸法信為本故。若準婆沙以實體十一攝三十七。故婆沙中先以七覺收餘六科。餘不入者。謂二信為一及正思惟一。以語業命三實體但二。足成十一。俱舍唯十。以合戒支故也。言入七者。謂四念處。及慧根。力。正見。入擇法覺分。四正勤進根力及正方便方便。是進入進覺分。四如意足及定根力正定入定覺分念根力正念入念覺分。是則二十四法攝入七覺。并本七覺合三十一。并信等六合三十七。今於七中攝喜入擇攝除入捨。則合七成五。以念為忍語等為尸。擇喜屬慧除捨是檀定等是禪。二信依前以為通入。所以七覺六度義足。故今開合與論不殊。開合雖爾義與論別。今此六文義通四教各含十故。即此六度文為六段。一一段中皆有六義。初三藏文是事治正意。故文稍廣。初明事檀攝二。文相可見。若三藏下。正明事捨仍舉理以況之。雖未成理檀有事治之益。次引論徵問。捨能下答。又捨下明檀能成五。通別如文。次明圓捨中。圓是今文與事合行正意故也。復順今文正修之體。是故引文廣明其相。初正明圓捨中。言十法界色身等者。但觀三事。心冥法界則十界三事冥然自亡。正報是身依報是財。所言命者。連持為義。即諸界中各有連持。如六道中報命不同。及四聖中有慧命常住命等。即此三事在一念心三諦具足。能除三惑故名為捨。入不二邊者。秖是中道不二之捨。此約最後理觀檀義。若辯合行應具事理。故下文中結偏失云。理觀深微而不存事行。即却舉三藏事治之相。事治文竟又復斥云。而不存理觀。即以度品六句料簡。是故當知修理觀者。重惑若起必須事助。事與理俱名為合行。是故六句正顯度品俱有事理。故有相破相修相即。人不見之秖謂泛爾分別而已。若如是者何益修行。何以故下釋也。先明不二之捨。次引殃掘以證圓捨。於中初列經文。從有邊下解釋經意。言不壞者。即於百界生死之身達常住理。於慳成治復顯法身。法身既爾財命亦然。次引金剛者四句是教。依教修觀觀教即具三種般者。故實相般若資於法身。捨一切身。觀照般若資於慧命。捨一切命。四句文字資常住財。捨一切財。復以修三資於理三。故理顯時一切能捨。又文字能詮三種般若。觀照修得三種般若。實相本有三種般若。故古人云。日捨三恒未免有生。四句般若累滅道成。是故當知。四句功深三恒力劣。故知四句與捨身。豈可校其優劣耶。如此下斥偏也。初文即是互失之相。故云兩皆有過。或唯修圓觀事行全無。或專修事度圓理絕分。是故二失並闕合行。檀度既然餘五咸爾。又二失相望不無優劣。今勸並行是故俱責。言剜身等者。仍是三藏菩薩之事。報恩經云。釋迦菩薩為輪王時剜身千燈以求半偈。偈曰。夫生輒死此滅為樂。得此偈已令諸大眾讀誦書寫石壁要路。令凡見者發菩提心。身燈光明亦說此偈。聞者皆悉發菩提心。其光上至忉利天上。諸天光明悉皆不現。諸天相問此光因緣。即以天眼見此輪王。以大慈悲為眾生故求於半偈剜身千燈。此光是彼身燈光明。天帝因即至菩薩所。問菩薩言。作此供養為求天帝等耶。答言。為眾生故求菩提故。天帝問曰。以何為證。答曰。若使不虛身當平復。言已其身平復如故。具如彼經廣明。亦如月光菩薩經。有王名曰智聞。剜髀肉以救病比丘。大論月光太子出血髓以救癩人。出脇肉以貿猴子。露脊骨以濟跛兔等。捨國城者。如大論中鞞施伽王為隣國所伐。四兵垂至安然不驚。諸臣白曰。何法却之。王曰。有法。如是至三皆云有法。賊既至已王語諸臣。汝等事主有何彼此。汝可事彼吾今去矣。乃從後門逃走而出。後王坐已即便勅云。若有能得前王者。當加重賞。後時他人先知此王為性好施。來詣王乞。不知此王棄於國城。道逢此王而復不識。遇便問曰。我聞鞞施伽王其性好施。我欲詣乞。王乃語言。汝可縛我將送新王。必得重賞。其人聞已生大恭敬。不敢諾之。王云。隨去至城汝可縛進。至已諸臣見王大哭。新王問之諸臣具答。兼從乞者亦說其事。新王下階拜為兄弟。遞知國事。救鴿飴虎捨身兼命。今明下明得相。若人下廣明失相。撫者擊也。臆謂胸臆。循心自責知行不周。保護下不能捨財。辭憚下不能捨身。貪惜下不能捨命。觸事下總結無三。今於道場等者。立行請加。自行教他等者。大論五十六云。菩薩摩訶薩自不殺生。乃至種智。教人不殺讚歎不殺法。亦歡喜不殺者。乃至種智。是菩薩愛佛法。知身口意無常故。不說無益之語。以令善法得增益故。令諸煩惱不能覆心。行者作是行時。結使雖起智慧思惟不令覆心。若恣結使失於今世後世善財。妨於佛道。設使心起不令口起。設若口起不令身起。設使身起不令作大罪如凡夫人。是菩薩雖復卑陋鄙賤。以行勝法得在勝人數中。是人深樂功德故。能行四種勝行。二乘不能具足四種。以不深樂佛法故也。是菩薩自既不殺以慈悲故。教人不殺。慈悲是一切賢聖善法。故須讚歎。菩薩常欲令人得樂故。見他不殺心生歡喜讚歎。乃至種智亦復如是。若不自行何能利他。若不利他何能成就一切眾生。若不成就一切何能淨佛國土。何以故。眾生淨故世界即淨。又八十八云。此四種行是菩薩摩訶薩初心之要。不可不識。何以故。此四不具。不名菩薩摩訶薩故。何者。或能自行不能化他等(云云)。四法交互為句廣辯互相。始從不殺不盜乃至種智。以不具故不成極果。心若真實等者蒙加得益。能感乃至思益等者。彼經佛放一切法光。今文且引六文以證六度。經云。又如來光名曰能捨。佛以此光能破眾生慳貪之心。能令行施。又如來光名無悔熱。佛以此光能破眾生破戒之心。令持禁戒。又如來光名曰安和。佛以此光能破眾生瞋恚之心令行忍辱。又如來光名曰勤修。佛以此光能破眾生懈怠之心令行精進。又如來光名曰一心。佛以此光能破眾生妄念之心令行禪定。又如來光名曰能解。佛以此光能破眾生愚癡之心令行智慧。乃至四儀一切諸法亦復如是。下諸文中不復更引。以蒙光故。至一一須釋出之者。既蒙光已隨其宿緣及現加行。得與四種行相相應。文中語略但云捨若遺芥。而不委明觀行淺深。故令後人一一釋出四種檀相。以對四教。令蒙益者識益知加。若以釋之。應云若與三藏檀捨相應。能捨事中身命財也。與通相應知三事空。與別相應達施諸法。與圓相應見施法界。過現和合與四相應。檀度既然餘五亦爾。能畢竟下明理具事成。若無因緣等者。我此身等無益物緣。權寄臭軀以進己道。忽若於他有微利益。捨此身等猶如草芥。俗中尚能殺身成仁。豈出世高士而迷臭軀。是為等者。總結得益正助行成。以斥不成。正智如火陰境如炷事度如油。火若不明炷則不焦。乃由事行油竭故也以油竭故。無明大暗何由可滅。若如上去次明尸度攝三。初明攝法列教斥失。如文。請加中云瑕玷者。瑕玉病也。玷玉缺也。毀重如玷破輕如瑕。毒龍等者。大論十三云。如釋迦菩薩本身曾為大力菩薩毒龍。若觸嗅視。弱者便死彊者氣噓乃死。此龍曾受一日一夜戒。入靜林中獨坐思惟。坐久疲怠而便臥睡。龍法若睡形狀如蛇。文章七寶。獵者見之便驚走曰。如此希有難得之皮。若上大王不亦宜乎。以杖按頭以刀剝皮。龍自思惟。我力如意傾覆此國猶如反掌。此之小人豈能困我。我今持戒不計此身。當從佛語。於是自忍眠目不視閉氣絕息。憐愍此人。一心受剝不生悔意。既失皮已赤肉在地。時為日炙宛轉土中。欲趣大水。見諸蟲蟻唼食其身。為護戒故復不敢動。自思言。我今此身以施諸蟲蟻。為佛道故今以肉施用充其命。後成佛時當以法施以益其心。如是誓已身乾命絕。即生第二忉利天上。獵師者調達六師等是。諸小蟲輩今初轉法輪八萬諸天得道者是須陀等者是大論中名。仁王名為普明王。經云。為班足王而捉將去。從其乞願。一日行施。飯食沙門頂禮三寶。班足許已還國依七佛法請百法師。一日二時講仁王般若。第一法師為王說偈云。
次に、対治助開について解説します。
初めに来意を明かす中で、まず助けられる対象をはっきりと示しています。そこで「一切の三昧の本となる」と言っているのです。ですから四三昧は必ず円教の不思議な三三昧を本とします。これがすなわち、前の六度を正行と名づけるものです。正行が現れないのは、さえぎるものがあるからです。当分に説くならば、当教の三昧がそのまま当教の諸行の本となります。今の文はただ無作三昧をもって諸行の本とするだけです。「若入下」は、別に今の文の行の本であることを明かします。「根利下」は、まさに根と遮によって助の意を簡別します。四句の中で三句は用いず、ただ根が鈍く遮のあるものにこの対治を用いるのです。
次の句に「但専三脱」と言うのは、ただ前に説いた無作道品を専ら修して三脱を開くという意味です。
「夫初果下」は、たとえをもって説明します。須陀洹・斯陀含の二果は、根が利であっても遮があり、また世智で結を断じます。これは出世の根利ではないけれども、やはり遮のない範囲です。「両条」と言うのは、二果を一条とし、世智を一条とするものです。この二条のうち、初条にはまだ事惑があり、次の条には事はないけれども理を成す障となります。事と理の障を破る義から、当然、対治を用いるべきです。ましてや根が鈍く遮の重いものが対治を修めないなど、ありえないことです。第三果の人は欲結が尽きるので、対治が必要だとは説きません。世智は下八地の思惑を断じても、我と計るために、なお対治の道が必要です。ですから五停心の中でも我に執着する者の多い者は、なお対治を要し、界の法を説くのです。
この意に準じるならば、ただ根利で遮のない者、根鈍で遮のない者、および無漏智で欲結を尽くした者は、対治を必要としません。しかし初果・二果はただ理に縁して惑を治めるので、用治と名づけますが、実は凡夫の治相とは異なります。知るべきです。遮のない者はただ上の境など六法を専らにします。もし遮があり根が鈍いなどの者は、治道が成らず、三昧がどうして成就できましょうか。
「助道無量下」は、用治のよって依る所を明かします。助道は無量ですが、ただ六を用いるのは六蔽に対するためです。ですからしばらく六を立てて治相を示します。下文の意に準じるならば、初教が展転して治となるといっても、この科はまさに重い蔽を治するためのものです。それゆえしばらく事の六を立てて治とするのです。
問い。前の通塞の中で、塞には横と竪があります。ここで塞を治するのに、どうしてただ横の中の六度をもって治相を辨じるのでしょうか。答え。横は事と理の両方の障です。六は事を摂めることがほぼ周らです。ましてや苦・集・無明は名略で対治としては足りません。また竪の中の塵沙などの惑は治の正意ではないので、今は事治を明かすので論じません。またもし苦・集があれば無明を具え、無明を具えるがゆえに六蔽が具足します。ただ六蔽を治すれば残りの二つは去ります。この蔽の相は、さらに陰境に歴る他の心よりも重いのです。それゆえ別にこの文を生じて観を用いるのです。
「若人下」は、初めに慳を治する中で、「若人、四三昧を修して脱門開かず」と言います。この文は下の五度の冒頭に冠するものです。下の五つはただ「三昧を修する時」と言うだけで、他の文はみな略されています。「激」とは水が衝くことです。
次の破戒の中に「穬」と言うのは、芒稲のことです。粗くざらざらしたさまです。過ちを防ぐのを制と言い、分を限るのを度と言います。「淳」とは淳朴のことです。また漬ける、沃ぐという意味でもあります。「悖」はこの字体ではありません。背逆という意味です。「𢠜」の字とすべきです。乱れるという意味です。「事」の字は跋に託すのが正しく、「嬾」とすべきです。「儢」とは、玉篇に「心に力なし」と言い、懈怠という意味です。「春蛙」とは蝦蟆の類です。「面牆」とは何も見えないことです。
「諸蔽下」はまとめです。前の六蔽の中にそれぞれ厚薄があります(云云)。
「若用下」は、四随の回転の治相を詳しく辯じます。前の対治はすでに四の中の一つ「対治」を用いて終わりました。もしその宜しきに合わなければ、転じて用いるべきです。あるいは兼ね、あるいは具し、あるいは第一義です。それゆえ総じて「当に四随に依るべし」と言うのです。初めは総挙、次は別示です。
「如治一慳」の中は、一蔽について略して四随の相を示します。問い。文の中ですでに対治を明かしたなら、ここではただ三随を明かすべきではないでしょうか。どうして慳について四を具列するのでしょうか。答え。前は対を明かしたとはいえ、ただそのまま治を用いるだけで、用治に益があるか益がないか、すなわち悪が破れて善が生じるかなどを辯じていません。今は随の相を示してその回転を教えるので、四随の相を具列するのです。また四の中でも、楽・不楽によって転相を明かすなら、檀を楽しまないなら転じて尸乃至般若を用います。もし善心が生じ乃至開くなら、これは転にして兼具および第一義です。また対の中でも、破すなわち対であり、破さないならすなわち転にして兼具などです。それゆえ総挙して転等の式とします。
「転」と言うのは、あるいは転じて尸乃至般若を用い、あるいは次、あるいは超えて一から四に至り、逆順間雑にして病が去ればすなわち止みます。五度を頭としてただ本位を越えます。余は檀と同じです。これは病が転ぜずして治が転ずるのです。一度を転じて余の五度を用いればすなわち五句となり、六度合わせて三十句の治となります。もし楽と病がともに転ずれば「亦対亦転」と名づけ、三十句となります。「是転非対」もまた三十句です。また「是転是対」「是転非対」も、一往はしばらく三十句と立てます。もし超・雑などの句の相は不定で、行者みずから知るのです。どうして具に記すことができましょうか。また一度を転じて二・三・四に至れば、また転とも名づけ兼とも名づけられます。もし五度に至れば転とも具とも名づけます。具と名づけられないのは転用するがゆえです。もし具と言えば転と言えません。ただ六を具用して一蔽を治するだけです。また転がゆえにまた兼の名を失します。それゆえ兼具であってもただ転とのみ名づけます。それゆえ五に転じ至っても具と名づけないのは、転は単用、具は兼倶だからです。それゆえ同じではないのです。
もし病が転じて薬が転じなければ、転治とも名づけず兼具でもありません。あるいは第一義は一向治と名づけます。また超・順・逆・間などもあります。その病に随って転じて五蔽となし、また三十句の一向治を成じます。
「兼」と言うのは、薬が一・二乃至三・四を兼ねることです。五に至れば具と名づけます。それゆえただ四です。度ごとに四句で二十四句となり、一度が五に至ればただ六句となります。正しく具治と名づけます。今の文に具がないのは、ただ文の略です。第八巻にあります。これは円の人が事を以て治する相を約したものです。もし蔵・通・別の初心が四念処などのために事を用いて治する相は、これに準じて知ることができます。
「第一義」と言うのは、ただ無相の真如寂理を観じます。教に約するなら、それぞれ当教の真理をもって治とします。乃至円の人もまた三教の理を用いて対などとします。また四教の初心はみな事治を須います。先に説いた通りです。もし四教を展転して治とし、前をもって後を助けるなら、また前の六を転じて後の教の六蔽の相を望み、対・転などとします。通教の人が三蔵の六を用いるがごとく、別の人は蔵・通の両六を用い、円の人は三を用い、ともに転などがあります。
「如治一慳」で、慳がいかなるものかを見ます。財・身・命は慳とする所が同じではありません。すでに慳を知りて事を用いて治とします。別の人が二を用いるのもこれに準じて知ることができます。円の人が三を用いるとは、たとえば事をもって慳を治するがごとくです。慳は破れたようでも、これによって三捨を実と計ります。ただ生死を増すのみで、正しく論ずべき転用はありません。すなわち空をもってその実と計るを治します。実の計が破れれば、すなわち法界と相応すべきです。実を破って空を存すれば、すなわち転じて恒沙の佛法を用いるべきです。身命財を捨て、十界の無知です。この観を作す時、仮を実と計ります。ただ愛見の大悲と名づけるのみです。すなわち転じて身命財を観じてことごとく法界とすべきです。円教の観法が対治の名を得るのは、まさにこのゆえです。
この中にはただ薬と病がともに転ずるのみで、ついに病が転じて薬が転じないことはありません。また薬が転じて病が転じないこともあり得ます。なぜなら、実と計るは転じないけれども、また後の三薬を用いることを許すからです。兼具などの相はこれを思いて知るべきです。またこの転治は、生滅から始めて無作に至るまでを漸転と名づけます。もし無作から生滅に転じ、および互いに転ずるなら不定と名づけます。もし第一義なら頓転と名づけます。一蔽がすでにそうであれば余の蔽もまた同じです。これすなわち一病の中で蔵教の五および三教の六を転用し、二十三度を成じます。六蔽合わせて百三十八の治があります。倶転は対及び転とも名づけ、それぞれ百三十八の治があります。兼具などの相はこれを思いて知るべきです。もしその意を見れば、まさにこの文を了知するでしょう。
助の六度の下で、次にさらに総じて合行の式を明かす中で、その治相を明かしますが、その事は一つではありません。一一の事にみな合行があります。ここに具すべきではありません。それゆえ後の文の相摂の中に説くと指します。
「有人下」は、合行を明かそうとして、まず異解を出します。それから異を破して合行を須いることを明かします。それゆえ今家の下文にはすなわち四種の六度があります。
初めの文で正しく異解を出すのは、十と六はただ開合にすぎないことを示します。古の人は開合の意を見ず、楞伽の宗教の文を濫用します。かの楞伽に云います。「二乗と菩薩に二種あり。一つは宗趣法相、いわゆる自ら証する所の分別を離れた相にして無漏界に入る。二つは言説、いわゆる九部を説き四句を離れ衆生をして入らしむ」と。しかしあれは通じて二乗と菩薩の所証および説を挙げ、共に三乗の理教の相を成じます。古師は了せず、宗に説なく理と為し大と為し、もって菩薩に属すと言います。教に説あり事と為し小と為し、もって二乗に属すと言います。宗教の有無は、具に法華・維摩の玄文に破せられる通りです。
次に大経・大品を引き、六度が一切の法を摂めることを証します。それゆえ六の外にさらに余の法はないと知ります。前の四諦でただ「四諦に無量の相あり」と言い、「四の外にさらに余の法あり」とは言わないがごとくです。どうして六がただ通教にあると言えるでしょうか。
次に「若得下」は略して文意を示します。六も十もすでに開合であるなら、これによって大小・宗教などの別を判ずべきではありません。
「如禅下」は正しく開合を示します。合すればすなわち事理合明となり、開けばすなわち事理別説となります。また六を明かせばすなわち大小に通じ、十を明かせばすなわちただ大にのみあります。またこの十の中、通はすなわち四教に通り、別はすなわちただ別・円にのみあります。三蔵の菩薩はすなわち伏惑をもって一切智とし、三祇の仮をもって道種智とし、仏果をもって一切種智とします。よく神通を起こし勝れた願用があります。それゆえ三蔵の菩薩もまた十を得ることができます。もし惑を断じない辺に拠るなら、般若もまたありません。空から種智を出さなければ成じません。まだ法身を得ず、願智力もありません。しばらく分地をもって般若とすれば、ただ六だけです。通教の菩薩は但空の辺から方便・仏果の種智および願智力を開き出し、もって十度とします。まだ法身を得ない点は三蔵と同じです。すでに通惑を断じ、空から仮を出し、从容進退して多少不同です。これすなわち両教はあるいは六、あるいは七、あるいは八、あるいは十です。
今の文はしばらく別・円の義の辺に約して、六を開いて十とします。余の諸の増減は文中に論じていません。また教道を存し、しばらく別を兼ねますが、意は本と円にあります。「泥滓」と「願」、「婆羅」と「力」は、方音の違いにすぎません。
「定守禅度」と言うのは、もし禅を開いて三とすれば、根本定は第五度を守り禅度と名づけます。余の開かれるものは力と名づけ願と名づけます。空智は第六般若を守ります。余の開かれるものは漚和などと名づけます。漚和は仮を出す智です。闍那は中に入る智です。これもまた方音の違いです。
次に摂法を明かすのは、正しく合行を示すのでよく法を摂めるのです。もし一切の諸法がことごとくこの対治の門に入ることを達しなければ、どうして対治が一切の法を摂めることができましょうか。
初めに六度が道品を摂めることを明かすのは、下文に広く釈します。意は見ることができるといえども、今あらかじめ通じて説きます。文に至れば明らかになりやすいのです。なぜなら、檀は二覚を摂り、いわゆる除と捨です。文の中に一つ欠けていますが、下の文に具に列ねます。尸は三を摂り、いわゆる正語・正業・正命です。忍は四を摂り、いわゆる念根・念力・念覚・正念です。進は八を摂り、いわゆる四正勤・進根・進力・進覚分・正精進です。禅は八を摂り、いわゆる四如意・定根・定力・定覚・正定です。慧は十を摂り、いわゆる四念処・慧根・慧力・択覚・喜覚・正見・正思で、合わせて三十五です。余に二信あり、三十五に通じます。一切の諸法は信を本とするゆえです。
もし婆沙に準ずるなら、実体十一をもって三十七を摂ります。それゆえ婆沙の中ではまず七覚をもって余の六科を収めます。余の入らないものは、いわゆる二信を一とし、および正思を一とします。語・業・命の三は実体ただ二のみです。足して十一を成じます。倶舎はただ十のみです。戒支を合わせるがゆえです。
「入七」と言うのは、四念処および慧根・慧力・正見が択法覚分に入り、四正勤・進根・進力および正方便は、方便すなわち進であるから進覚分に入り、四如意足および定根・定力・正定は定覚分に入り、念根・念力・正念は念覚分に入るということです。これすなわち二十四法が七覚に摂入され、もとの七覚を合わせて三十一とし、信などの六を合わせて三十七となります。今は七の中において喜を択に摂め、除を捨に摂めるなら、七を合わせて五と成じます。念をもって忍とし、語などをもって尸とし、択・喜は慧に属し、除・捨は檀とし、定などは禅とします。二信は前に依って通入とします。それゆえ七覚と六度の義は足ります。それゆえ今の開合は論と同じではありません。開合はそのようであっても、義は論とは別です。今のこの六文の義は四教に通り、それぞれ十を含むゆえです。
すなわちこの六度の文を六段とします。一々の段の中にみな六義があります。初めの三蔵の文はこれ事治の正意であるゆえ、文はやや広いのです。
初めに事檀が二を摂めることを明かすのは、文相は見ることができます。
「若三蔵下」は、正しく事捨を明かし、なお理を挙げてこれに喩えます。まだ理檀を成さないといえども、事治の益があります。
次に論を引き、徵問します。「捨能下」は答えです。
「又捨下」は、檀がよく五を成じることを明かします。通・別は文の通りです。
次に円捨を明かす中で、円はこれ今の文と事が合行する正意であるゆえです。また今の文の正修の体に順じます。それゆえ文を引き広くその相を明かします。
初めに正しく円捨を明かす中に「十法界の色身等」と言うのは、ただ三事を観じます。心が法界に冥すれば、十界の三事は冥然と自ら亡じます。正報はこれ身、依報はこれ財です。「命」と言うのは、連持を義とします。すなわち諸界の中にそれぞれ連持があります。六道の中では報命が同じでないがごとく、また四聖の中では慧命・常住命などがあります。すなわちこの三事は一念の心にあり、三諦が具足します。よく三惑を除くゆえ、これを捨と名づけます。「不二の辺に入る」とは、まさに中道不二の捨です。これは最後の理観の檀義を約したものです。
もし合行を辯ずるなら、具に事理を具えるべきです。それゆえ下の文の中で偏失を結して云います。「理観は深微であるが事行を存せず」と。すなわち却って三蔵の事治の相を挙げます。事治の文が終わって、またさらに斥けて云います。「而も理観を存せず」と。すなわち度品の六句で料簡します。それゆえまさに知るべきです。理観を修する者は、重い惑がもし起こるなら必ず事の助を須います。事と理がともにあるのを合行と名づけます。それゆえ六句は正しく度品がともに事理を有することを顕わします。それゆえ相破・相修・相即があります。人はこれを見ず、ただいたずらに分別するだけだと思います。もしそうであるなら、何の修行の益がありましょうか。
「何以故下」は釈です。まず不二の捨を明かし、次に殃掘を引いて円捨を証します。その中で初めに経文を列ねます。「有辺下」から経意を解釈します。「不壊」と言うのは、すなわち百界生死の身において常住の理を達します。慳において治を成し、また法身を顕わします。法身がすでにそうであれば財命もまた同じです。
次に金剛を引くのは、四句はこれ教です。教に依って観を修し、観教すなわち三種の般若を具します。それゆえ実相般若は法身を資し、一切の身を捨てます。観照般若は慧命を資し、一切の命を捨てます。四句の文字は常住の財を資し、一切の財を捨てます。また修の三をもって理の三を資します。それゆえ理が顕われる時、一切をよく捨てます。また文字はよく三種の般若を詮し、観照は三種の般若を修得し、実相は本有の三種の般若です。それゆえ古人が云います。「日々三恒を捨つれども未だ生を免れず。四句の般若は累を滅し道を成ず」と。それゆえまさに知るべきです。四句の功は深く、三恒の力は劣っています。それゆえ四句と身を捨つること、どうしてその優劣を較べることができましょうか。
「如此下」は偏を斥けます。初めの文はすなわち互失の相です。それゆえ「両に皆過あり」と云います。あるいはただ円観を修して事行が全くなく、あるいは専ら事度を修して円理に全く分がないのです。それゆえ二つの失はともに合行を欠きます。檀度がそうであれば余の五もみな同じです。また二つの失は相望すれば優劣がないわけではありません。今は併行を勧めるので、それゆえともに責めます。
「剜身等」と言うのは、なおこれ三蔵菩薩の事です。報恩経に云います。「釈迦菩薩が輪王であった時、身を剜って千灯とし、半偈を求めた。偈に曰く、それ生あれば則ち死あり、此の滅を楽と為す。この偈を得て已り、諸の大衆に令して読誦書写せしめ、石壁要路にして、凡そ見る者をして菩提心を発さしめた。身灯の光明もまたこの偈を説き、聞く者はみなことごとく菩提心を発した。その光は上は忉利天に至り、諸天の光明はことごとく現れず。諸天相問してこの光の因縁を尋ね、すなわち天眼をもってこの輪王を見た。大慈悲をもって衆生のために半偈を求めて身を剜り千灯とした。この光はかの身灯の光明であると。天帝はそこでただちに菩薩の所に至り、菩薩に問うて言った。この供養を作すは天帝などを求めるためか。答えて言った。衆生のため、菩提のためである。天帝問うて曰く。何を以て証と為すか。答えて曰く。もし虚しからずんば、身はまさに平復すべし。言い已ってその身は平復してもとの如くになった」と。具に彼の経に広く明かされる通りです。
また月光菩薩経のごとくです。王あり、名を智聞といい、髀の肉を剜って病比丘を救いました。大論には月光太子が血髄を出して癩人を救い、脇の肉を出して猴子と貿り、脊骨を露わして跛兔を済うなどがあります。
「捨国城」とは、大論の中に鞞施伽王が隣国に伐たれ、四兵が垂れ至るも安然として驚かず。諸臣が白して曰く。何の法をもってこれを却けるか。王曰く。法あり。かくのごとく三に至るまで皆「法あり」と云った。賊がすでに至って後、王は諸臣に語って言った。汝等は主に事えるに何の彼此があろうか。汝は彼に事えよ、我は今去る、と。そこで後門から逃げ出した。後の王が座に就いて後、ただちに勅して云った。もし能く前の王を得る者があれば、重賞を加えるべし、と。後になって他人がまずこの王が性よく施を好むことを知り、王の所に来て乞うた。この王が国城を棄てたことを知らず、道でこの王に遇ったがまた識らなかった。遇い便ち問うて曰く。我、鞞施伽王がその性よく施を好むと聞いた。我は詣でて乞わんと欲す。王はそこで語って言った。汝、我を縛して将い新王に送れば、必ず重賞を得ん、と。その人は聞いて已り大恭敬を生じ、敢えて諾さなかった。王云く。随いて城に至り汝は縛して進めよ、と。至って已り諸臣は王を見て大いに哭した。新王が問うと諸臣は具に答え、兼ねて乞者からもその事を説いた。新王は階を下りて拝して兄弟となり、遞に国事を知った。
「救鴿飴虎」は身を捨て命を兼ねます。
「今明下」は得相を明かします。「若人下」は広く失相を明かします。「撫」とは撃つことです。「臆」とは胸臆のことです。心を循って自ら責め、行の周からざるを知ります。「保護下」はよく財を捨てないことです。「辞憚下」はよく身を捨てないことです。「貪惜下」はよく命を捨てないことです。「触事下」はまとめて三のないことを結びます。
「今於道場等」は、行を立て加を請います。「自行教他等」は、大論五十六に云います。「菩薩摩訶薩は自ら殺生せず、乃至種智に至るまで、人に教えて殺生せずと説き、殺生せざるを讃歎し、また殺生せざる者を歓喜す。乃至種智に至るまで。この菩薩は佛法を愛し、身口意の無常なるを知るゆえ、益なきの語を説かず。善法をして増益を得しめんがため、諸の煩悩をして心を覆うことを得ざらしむ。行者この行を作す時、結使は起こるといえども智慧思惟して心を覆わしめず。もし結使を恣にすれば今世後世の善財を失い、仏道を妨ぐ。たとい心起こるも口起こさしめず、たとい口起こるも身起こさしめず、たとい身起こるも大きな罪を凡夫人のごとく作さしめず。この菩薩は卑陋鄙賤なりといえども、勝法を行ずるゆえ勝人の数の中に在ることを得。この人は深く功徳を楽しむゆえ、よく四種の勝行を行ず。二乗は四種を具足すること能わず。佛法を深く楽しまないゆえである。この菩薩は自らすでに殺さず、慈悲のゆえに人に教えて殺さず。慈悲はこれ一切賢聖の善法なるゆえ、讃歎を須う。菩薩は常に人をして楽を得しめんと欲するゆえ、他が殺さざるを見て心に歓喜し讃歎す。乃至種智もまたかくのごとし。もし自ら行ぜずば何ぞよく他を利せん。もし他を利せずば何ぞよく一切衆生を成就せん。もし一切を成就せずば何ぞよく仏国土を浄めん。なぜなら、衆生浄きゆえに世界すなわち浄きゆえである。また八十八に云く。この四種の行はこれ菩薩摩訶薩の初心の要なり。識らざるべからず。なぜなら、この四が具わらずんば菩薩摩訶薩と名づけざるゆえである。何となれば、あるいはよく自行して化他すること能わざるなど」と(云云)。四法交互に句を為し、広く互相を辯じます。初めに不殺・不盗から乃至種智に至るまで、具わらざるゆえに極果を成じません。
「心若真実等」は加を蒙って益を得ることです。「能感乃至思益等」は、かの経に仏が一切法の光を放ちます。今の文はしばらく六文を引いて六度を証します。経に云く。「また如来の光あり、名を能捨といい、仏はこの光をもって能く衆生の慳貪の心を破し、能く施を行ぜしむ。また如来の光あり、名を無悔熱といい、仏はこの光をもって能く衆生の破戒の心を破し、禁戒を持せしむ。また如来の光あり、名を安和といい、仏はこの光をもって能く衆生の瞋恚の心を破し、忍辱を行ぜしむ。また如来の光あり、名を勤修といい、仏はこの光をもって能く衆生の懈怠の心を破し、精進を行ぜしむ。また如来の光あり、名を一心といい、仏はこの光をもって能く衆生の妄念の心を破し、禅定を行ぜしむ。また如来の光あり、名を能解といい、仏はこの光をもって能く衆生の愚癡の心を破し、智慧を行ぜしむ。乃至四儀の一切諸法もまたかくのごとし」と。下の諸文にはさらに引きません。光を蒙るゆえです。一一に須くこれを釈出する者は、すでに光を蒙って後、その宿縁および現の加行に随い、四種の行相と相応することを得ます。文の中の語は略でただ「芥を遺すがごとく捨つ」と云うだけで、委しく観行の浅深を明かしません。それゆえ後人に一一に四種の檀相を釈出して、四教に対せしめます。益を蒙る者をして益を識り加を知らしめます。もしこれを釈するなら、応に云うべきです。もし三蔵の檀捨と相応すれば、よく事の中の身命財を捨つ。通と相応すれば三事の空を知る。別と相応すれば施の諸法を達す。円と相応すれば施の法界を見る。過現和合して四と相応す。檀度がそうであれば余の五もまた同じです。
「能畢竟下」は理具事成を明かします。「若無因縁等」は、我がこの身など物を益する縁がないなら、しばらく臭躯に権寄して己道を進めます。忽ちもし他に微なる利益があれば、この身などを捨つることなお草芥のごとし。俗の中にさえ能く身を殺して仁を成す。どうして出世の高士が臭躯に迷いましょうか。
「是為等」は、まとめて得益・正助行成を結び、不成を斥けます。正智は火のごとく、陰境は炷のごとく、事度は油のごとし。火もし明らかならずんば則ち炷は焦げず。すなわち事行の油が竭きるゆえです。油が竭きるゆえ、無明の大暗は何によってか滅することができましょう。
「若如上去」は次に尸度が三を摂めることを明かします。初めに摂法を明かし、教を列ね失を斥けます。文の通りです。
請加の中に「瑕玷」と言うのは、瑕は玉の病です。玷は玉の欠けです。毀の重いのは玷のごとく、破の軽いのは瑕のごとし。
「毒龍等」は、大論十三に云います。「釈迦菩薩の本生がかつて大力菩薩・毒龍であり、触れ嗅ぎ視る者は、弱い者は便ち死し、強い者は気を噓して乃ち死んだ。この龍はかつて一日一夜の戒を受け、静林の中に入り独坐思惟し、坐久しく疲怠して便ち臥睡した。龍の法はもし睡れば形状蛇のごとく、文章七宝のごとし。猟者がこれを見て便ち驚き走りて曰く。かくのごとき希有難得の皮、もし大王に上ぐればまた宜しからずや、と。杖をもって頭を按じ刀をもって皮を剝いだ。龍は自ら思惟した。我が力は如意にしてこの国を傾覆することなお掌を反すがごとし。この小人がどうして我を困しめられようか。我は今戒を持しこの身を計らず、まさに仏語に従うべし。そこで自ら忍び、眼を眠り視ず、気を閉じ息を絶ち、この人を憐愍し、一心に剝がれても悔意を生じなかった。すでに皮を失い赤肉が地に在り、時に日の炙る所となり土中に宛転し、大水に趣かんと欲した。諸の虫蟻がその身を唼食するを見て、戒を護るゆえにまた敢えて動かず。自ら思いて言った。我は今この身を諸の虫蟻に施す。仏道のためゆえ今肉施をもってその命に充てん。後に成仏の時にはまさに法施をもってその心を益せん、と。かくのごとく誓って已り身は乾き命は絶え、すなわち第二忉利天に生まれた」と。
猟師とは調達・六師などです。諸の小虫の類は今初転法輪で八万の諸天が得道した者です。
「須陀等」は大論の中の名です。仁王には普明王と名づけます。経に云く。「班足王のために捉えられて将去され、その人に願を乞うて一日の施を行じ、飯食し沙門し三宝を頂礼した。班足が許して已り国に還り、七仏の法に依って百の法師を請じ、一日二時に仁王般若を講じた。第一の法師が王のために偈を説いて云く」と。
劫燒終訖 乾坤洞然 須彌巨海
都為灰颺 天龍福盡 於中彫喪
二儀尚爾 國有何常 神識無主
假乘四蛇 無明保養 以為樂車
神無常主 形無常家 形神尚離
豈有國耶 有本自無 因緣成諸
盛者必衰 實者必虛 眾生蠢蠢
都如幻居 三界皆爾 國土亦如
生老病死 輪轉無際 事與願違
憂悲為害 欲深禍重 瘡疣無外
三界皆爾 國有何賴
劫の火がついに燃え尽きると、天地はすっかり燃え上がり、須弥山も大海もすべて灰となって吹き飛びます。天も龍も福尽きて、その中で朽ち果ててしまいます。(一)天地ですらこのようであるなら、国に何の常なるものがありましょうか。神識には主なく、仮に四蛇に乗り、無明に養われて、それを楽しみの車と思い込んでいます。 神には常なる主なく、形には常なる家はありません。形と神ですら離れ離れになるのですから、どうして国がありましょうか。有るものは本来無から生じ、因縁によって諸々のものが成ります。盛んなるものは必ず衰え、実なるものは必ず虚しくなります。衆生は愚かにも蠢き、すべて幻のような住まいに過ぎません。三界は皆そのようであり、国もまた同じです。 生老病死は際限なく輪転し、事は願いと違ってしまいます。憂いと悲しみが害となり、欲は深く禍は重く、傷は外に及ぶことがありません。(四)三界は皆そのようであるのに、国に何の頼るべきものがありましょうか。
偈意皆悉勸王捨身及國土等。大論中云。爾時法師說此偈已。王還至天羅國班足王所。於大眾中告九百九十九王言。就死時至。人各誦過去七佛仁王經偈。諸王皆誦。班足聞已問諸王言。為誦何等。普明以偈而答班足。班足聞已得空平等三昧。諸王同證。班足因茲而放諸王。心誠下蒙加護益。二世罪者。謂過現罪。亦應一一釋出四尸羅相。三藏可知。凡通教中云非持非犯者。不見持相故曰非持。持相尚無犯相本滅。故大論云。若見持戒人喜見破戒者瞋。如是持戒名罪因緣。亡持犯相方名不見。故尸文後云與理觀正業等相應者。事中正業即是事尸。此尸若與圓理相應。方名具足。別圓二尸例檀可見。此後四度結文不同。忍度文後但云相應。不云一一釋出者但是文略。故進度文後即具列生生等四。禪度文後但云得與四觀相應。數存義略。是故重引大論五門禪相。於門門之後具云四種。般若文末列四倒者。且出三藏三乘故也。後文即具列云四種十慧。雖互存沒須知一準。又施戒中直明度相。不明蔽相。忍中先委明蔽次方明度。進中略示蔽相。禪中具列。隨文逐要故此不同。若釋義者。應須一一具存蔽度及四種相。結得益相如文。下分文大同。次釋忍者。即以四忍為四教者。諸經論中明五忍義多約別教。以別教中。竪具四義。今借義用且除信忍。即以餘四用對四教。但依於義而不依語。又以忍為名但在菩薩。此意唯在大乘故也。三藏不斷故宜名伏。通在衍初。扶順於理。故宜名順。別教後心亦破無明。宜名無生。圓理本寂宜名寂滅。次斥失中但出瞋相。而但有理解無事忍故。事瞋具如第二卷釋。言屑屑者不安之相。亦云瑣瑣小陋貌也。郭璞云。往來貌也。亦碎貌也。即小瞋也。隆者高也。爾雅云。宛中隆。郭璞云。山中央高也。謂瞋起時如高可見。既知下立行請加。一切行中瞋害尤甚。故忍最難。大論云。如天帝問佛。若行忍者。唯有一事最不可耐。小人輕慢謂為怖畏。故不應忍。佛言。若以小人輕慢謂為怖畏。欲不忍者。不忍之罪甚於此也。何以故。不忍之人賢聖善人之所輕慢。忍辱之人而為小人之所輕慢。二輕之中寧取何輕。故知寧為小人之所輕。不為賢聖之所賤。何以故。無智之人輕於不可輕。賢聖之人賤於可賤。為是義故彌須行忍。如富樓那等者。增一云。其成道已欲還本國利益村人。佛言。彼國土中人多弊惡。於汝云何。答言。我當修忍。若毀辱我我當自幸不得拳歐。拳歐時自幸不得木杖。得木杖時自幸不得刀刃。刀刃時自幸早離五陰毒身。佛言。若如是者。乃得利益可還本國如揩金等者。忍力如金如鏡。違境如揩如摩。故彌揩彌摩轉益明淨。羼提等者。具如第三卷所引。割截是彊。王悔是軟。彊軟不變故身平復。二境不變名曰俱安。次明進度中大論下列教。文略。前三易行等者。具如第一第三卷引。此則舉別知通。若無通者則二俱不成。阿難說精進覺等者。準大論三十。佛告阿難。我今背痛小息。以欝多羅敷以僧伽梨枕。令阿難為諸比丘說法。阿難乃說七覺。佛時問言。說精進覺未。阿難云。已至。如是三問三答。佛即驚起告阿難言。汝讚歎精進由是得菩提。若第十七即云。佛聞說已即從座起。又長阿含中有八精進八懈怠。於四種事各有前後生於進怠。謂乞食執作行李病患。如乞食時若不得時。即作是念。乞食不得身體疲極。不能堪任坐禪讀誦。精勤行道。宜令且息。二者若乞食得復作是念。身體沈重不能堪任。是為乞食前後生於懈怠。設少執作便作是念。我今疲極不復堪任。若欲執作便作是念。明當執作必有疲極。設少行來便作是念。我朝行來身體疲極。設欲少行復作是念。我明當行必有疲極。設遇少患便作是念。我今重患因篤疲極。所患差已。復念病差未久身體疲極。一一句下皆云未得欲得未獲欲獲未證欲證。由此八故皆不成就。故名懈怠。八精進者。若乞不得。念我身體少於睡臥堪行精進。若乞得食。念今飽滿氣力充足。堪行精進。我向執作廢我行道今宜精進。若明當執作念當妨行道須預精進。若行來時。念朝行來廢我行道。若明當行念當廢行道。若得重病當念命終。若少病患或恐更增。一一句下皆云宜應精進。未得者得未證者證。此意宜對隨自意意。大施抒海如第三卷。抒者除也。蒼頡篇云。酌取也而今下斥失。如穴鼻等者。大論三十三云。如駝穿鼻一切隨人。有為法中若有智慧上聖所親。若無智慧猶如穴鼻。翻倒一切所有功德於生死中。無鉤醉象者。大經二十三云。譬如無鉤醉象狂逸暴惡多所殺害。有調象師以大鐵鉤用搨其頂。即時調順惡心都息。婆沙廣有調象因緣。喻八解脫。薳者本是草名。亦是人姓。今以過度之言。借用此字以替方言。穭者自生稻耳。恐應作此儢。心不力故空度時日。當發下立誓請加。刻骨等者。誓身精進如刻至骨。誓心精進如銘其石。銘者名也。書之為誡刻石紀功。今亦如是。誓要其心。如刻石紀功使永不昧。為法輸身名為許道。唐者虛也。無復等者。無復難心。結上行法匪懈不以行為難行。無復苦心結上端直其身。不以身為疲苦。感佛下蒙加獲益。以生生等對四精進者。進是發起策勵之相。故以生等釋成四進。三藏三祇進猶潤生。故曰生生。通亡進相名生不生。別已入空為生故進。故不生生。圓理本寂。進亦不生。故不生不生。又於進境亡能亡所。次釋禪中先總約禪度。但是等者列教。初云根本即三藏也。越中二教故云乃至。雖云無作楞嚴不成。中間應云雖云無生理定不成。雖云恒沙佛法。俗諦三昧不成。若無下斥失中。云無定等者。引大經況釋。如世間人。若無十大地中心數定者。世路平地尚亦顛墜。況修出世無定豈成。為是下總標請加。略舉應須修禪。故總云一心。至下方乃別出五門。感佛下蒙加。此總明禪。闕結文者下五門中具明故也。為避煩文故互存沒。次大論下明五門禪中。初明來意。以禪門中門戶多故。故更明此五門禪相。若禪下正釋也。初明數息。至第九卷中更釋。言七依定者。成論七三昧品云。謂依初禪得無漏。乃至依於無所有處得無漏。依此七處得聖果故。故名七依。有人自謂有漏為足。是故佛說七依無漏。問何故依禪得無漏耶。答。得初禪時觀初禪陰。起八聖種心生厭離。乃至無色觀於四陰亦復如是。問。何以不說欲界為依。答。如須尸摩經說更有無漏。所謂欲界。故知亦有少故不說。問。何故不說非非想處為無漏耶。答。彼不了故。定多慧少故不說依。問。七想即七依耶。答。外道無真是故云想。聖人破想是故說依。故今文中且云發得欲定乃至七依。未判有漏及無漏等。準論分別二義並通。請觀音下明助益行成。次明不淨治貪欲中。酖者爾雅云。久樂也。從酉者酖酒耳。非此文意。亦可以酖酒喻婬。故作酖字。亦與湎字義同。湎者酖於酒也。亦可作䤄。故大經云。若常愁苦愁遂增長。乃至貪婬嗜酒亦復如是。不淨觀者。即假想觀。如求證人經說。佛在舍衛。有比丘至塚間路遊他田。田主罵言。此何比丘不修道業。常遊我田。便往問之。比丘答言。我有諍事來求證人。田主問言。證人是誰。比丘即喚。田主隨去見屍狼藉。比丘言。此諸蟲鳥是我證人。田主問故。比丘答言。心之漏患觀已還房。觀身亦爾。我今欲識心之本源。是故觀之。田主聞已垂淚哽咽。彼田主者於迦葉佛法中。千歲修習是不淨觀。比丘及田主俱得初果。九想在第九卷。引大論中言八背捨等。因便兼列非文正意。但言皆由九想而成。故云皆以九想而為初門。此明九想功能故也。若實觀者如撰擇長者緣(云云)。次以慈治瞋者。上釋忍中但通途云如橋地等。故云通治。未治重瞋。今專修慈以治瞋恚。是故云別。因明慈定兼說餘三。恐修慈心非己所宜。故云餘之三心或樂欲等。等取餘三。是依四隨修四無量也。對轉兼具準上可知。釋治愚癡文相最略。應例諸文。毘曇以界方便破我等者。我及斷常并計性三並屬癡故。初破我者經論不同。故雜阿毘曇云。著見行者以界方便。愚夫不了宿業煩惱積聚五陰。於緣計我。當於自身以界方便。觀察種種性種種業種種相。謂地等六界。彼地界者為水所潤。而不相離。彼水界者為地界持。故不流散。火界成熟故不淤壞。風界動故而得增長。空界空故食得出入。有識界故有所造作。由眾緣故故知無我。又觀此身不淨充滿。如吹散𧂐沙。於無色法前後相續。如是觀者則得空解脫門種子。於彼生厭得無願解脫門種子。正向涅槃得無相解脫門種子。是名界方便。若準大經云。著我多者。則為分別十八界法。此與六界總別之異。論四大界是十色界半。論識界是七心界半。但合色為四。合心為一。更加空界。教門隨機離合不定。今準禪經。因緣破我。大集亦以二世破我。為簡異故故俱列釋。言三世破斷常者。三世相續故不斷。三世迭謝故不常。又過去破常。未來破斷。現在因果雙破斷常。二世破我者。現未二世具十二緣。於父生愛於母生瞋。名為無明。父遺體時謂是己有。名之為行。從識支去至老死支。與三世同。言一念者。具如玄文第三卷境妙中說。念佛治睡如文。
偈の意は、いずれも王に対し身や国土などを捨てるよう勧めています。『大論』にはこう説かれています。そのとき法師がこの偈を説き終えると、王は天羅国へ帰り、班足王のもとへ赴きました。大衆の中で九百九十九人の王たちに告げました。「死すべき時が来ました。それぞれ過去七仏の仁王経の偈を誦しなさい」と。王たちは皆誦しました。班足はそれを聞いて王たちに問いました。「何を誦しているのか」と。普明が偈をもって班足に答えました。班足はそれを聞いて空平等三昧を得ました。王たちも同様に証しました。班足はこれによって王たちを解放しました。
心の誠が下って加護の益を蒙るとは、二世の罪、すなわち過去と現在の罪をいいます。また一つ一つ四尸羅の相を釈し出すべきです。三蔵は知られる通りです。およそ通教の中で「非持非犯」というのは、持の相を見ないため「非持」といい、持の相すらなお無く、犯の相はもともと滅しているからです。したがって『大論』にいいます。「もし持戒の人を見て喜び、破戒の人を見て瞋るならば、このような持戒は罪の因縁と名づける。持犯の相を亡じたならば、はじめて見ずと名づける」と。それゆえ尸の文の後に「理観の正業などと相応するもの」といいます。事の中の正業はすなわち事の尸です。この尸がもし円理と相応すれば、はじめて具足と名づけます。別円の二尸も檀の場合から見て取れます。
この後の四度の結文は同じではありません。忍度の文の後にはただ「相応」とのみいい、「一一に釈し出す」とはいいませんが、これはただ文が略されただけです。それゆえ進度の文の後にはすぐに生生などの四つを具に列べています。禅度の文の後にはただ「四観と相応するを得」とのみいい、数は義を存して略しています。それゆえ重ねて『大論』の五門禅の相を引いています。門ごとの後に具に「四種」といっています。般若の文の末に四倒を列べているのは、しばらく三蔵三乗を出したためです。後の文にはすなわち具に「四種十慧」と列べています。互いに存没はあるものの、一つとして準ずべきことを知るべきです。
また施戒の中では直ちに度の相を明かし、蔽の相を明かしていません。忍の中ではまず委しく蔽を明かし、次に度を明かします。進の中では略して蔽の相を示します。禅の中では具に列べています。文に随い要に逐うため、このように異なるのです。もし義を釈するならば、一つ一つ具に蔽度および四種の相を存すべきです。益を得る相を結ぶことは文の通りです。下の分文もほぼ同じです。
次に忍を釈します。すなわち四忍をもって四教とするのは、諸経論の中で五忍の義を明かすのは多く別教に約しています。別教の中では竪に四義を具えているからです。今は義を借りて用い、しばらく信忍を除き、すなわち残りの四つをもって四教に対当します。ただ義に依り語には依りません。また忍を名とするのはただ菩薩にあり、この意はただ大乗にあるためです。三蔵は断たないので、伏と名づけるのが適当です。通は衍の初にあり、理に扶順するので、順と名づけるのが適当です。別教の後心もまた無明を破るので、無生と名づけるのが適当です。円理はもともと寂なので、寂滅と名づけるのが適当です。
次に失を斥する中ではただ瞋の相を出しています。ただ理解だけで事忍がないためです。事の瞋は具に第二巻の釈の通りです。「屑屑」というのは不安の相です。また「瑣瑣」といい、小陋の貌です。郭璞はいいます。「往來の貌なり」と。また碎けた貌です。すなわち小さな瞋です。「隆」は高いことです。『爾雅』にいいます。「宛中隆」と。郭璞はいいます。「山の中央が高いなり」と。瞋が起きるときは高く見えるということです。
既知の下は行を立て加を請います。一切の行の中で瞋害はとりわけ甚だしいので、忍が最も難しいのです。『大論』にいいます。「天帝が仏に問うた。もし忍を行ずる者ならば、ただ一事だけ最も耐え難い。小人が軽慢して怖畏となす。ゆえに忍ぶべきでない。仏はいわれた。もし小人が軽慢して怖畏となすから忍ばないと思い、忍ばないならば、忍ばない罪はこれよりも甚だしい。なぜか。忍ばない人は賢聖善人の軽慢するところである。忍辱の人は小人の軽慢するところである。二つの軽の中、いずれの軽を取るべきか。ゆえに知る、寧ろ小人の軽んずるところとなるとも、賢聖の賤しむところとならない。なぜか。無智の人は軽んずべからざるものを軽んじ、賢聖の人は賤しむべぎものを賤しむ。この義のため、いよいよ忍を行ずべきである」と。
富楼那などの者は、『増一』にいいます。「その成道の後、本国に還り村人を利益しようとした。仏はいわれた。かの国土の人々は多く弊悪である。汝はどうするか。答えた。私は忍を修めます。もし私を毀辱するなら、私は幸いに拳や殴を受けないことを喜びます。殴を受けるときは、幸いに木の杖を受けないことを喜びます。木の杖を受けるときは、幸いに刃を受けないことを喜びます。刃を受けるときは、幸いに早く五陰の毒身を離れることを喜びます。仏はいわれた。もしそのようであるならば、はじめて利益を得る。本国に還るがよい」と。
金をこするなどの者は、忍の力は金や鏡のようであり、違境はこするがごとく摩するがごとくです。それゆえいよいよこすればいよいよ摩し、ますます明浄になります。羼提などの者は、具に第三巻に引く通りです。割截は彊、王の悔は軟です。彊軟が変わらないので身は平復します。二境が変わらないので倶安と名づけます。
次に進度を明かす中、『大論』の下に列教があります。文は略です。「前三は易行」などの者は、具に第一・第三巻に引く通りです。これは別を挙げて通を知るものです。もし通がなければ、二つとも成り立ちません。
阿難が精進覚を説いたなどの者は、『大論』三十に準じます。仏は阿難に告げました。「私今背痛あり少しく息まん。欝多羅を敷き僧伽梨を枕とせよ」と。阿難に諸比丘のため説法させました。阿難はすなわち七覚を説きました。仏はそのとき問いました。「精進覚を説いたか」と。阿難はいいます。「すでに至りました」と。このように三問三答しました。仏はすなわち驚き起ち、阿難に告げました。「汝が精進を讃歎するにより、これによって菩提を得る」と。第十七にいわく「仏は説を聞き終えてすなわち座より起った」と。
また『長阿含』の中に八精進・八懈怠があります。四種の事にそれぞれ前後に進怠を生じます。乞食・執作・行李・病患です。乞食のとき、もし食を得なければ、すなわちこう念じます。「乞食を得ず、身体疲極し、坐禅読誦し精勤行道するに堪えない。しばらく息まん」と。二つには、もし乞食を得れば、またこう念じます。「身体沈重、堪えない」と。これが乞食の前後に懈怠を生ずるものです。少し執作すれば、すなわちこう念じます。「我今疲極し、もはや堪えない」と。もし執作しようとすれば、すなわちこう念じます。「明日執作せば必ず疲極する」と。少し行来すれば、すなわちこう念じます。「我は朝行来し身体疲極した」と。もし少し行こうとすれば、またこう念じます。「我は明日行けば必ず疲極する」と。少し患に遇えば、すなわちこう念じます。「我今重患により篤く疲極した」と。患が差せば、また念じます。「病差して久しからず、身体疲極した」と。一一の句の下に皆いいます。「いまだ得ざるものは得んと欲し、いまだ獲ざるものは獲んと欲し、いまだ証せざるものは証せんと欲す」と。この八つのため皆成就しないので、懈怠と名づけます。
八精進とは、もし乞うて得なければ、「我が身体は少し睡臥しても精進を行ずるに堪える」と念じます。もし乞食を得れば、「今飽満し気力充足し、精進を行ずるに堪える」と念じます。先に執作して行道を廃したなら、今は精進すべきです。もし明日執作するなら、「行道を妨げる、予め精進すべきだ」と念じます。行来するときは、「朝行来して行道を廃した」と念じます。もし明日行くなら、「行道を廃する」と念じます。もし重病を得れば、「命終を念ずべきだ」と念じます。もし少し病患あれば、あるいはさらに増えようと恐れます。一一の句の下に皆いいます。「宜しく精進すべきである。いまだ得ざる者は得、いまだ証せざる者は証せよ」と。この意は宜しく随自意の意に対すべきです。
大施が海を抒むことは第三巻の通りです。抒は除くことです。『蒼頡篇』にいいます。「酌み取るなり」と。而して今の下は失を斥します。穴鼻などの者は、『大論』三十三にいいます。「駱駝の鼻に穴を穿てば一切人に随うがごとし。有為法の中に、もし智慧あれば上聖の親しむところ、もし智慧なければ穴鼻のごとし、一切の所有の功德を翻倒して生死の中にあり」と。
鉤なき醉象の者は、『大経』二十三にいいます。「たとえば鉤なき醉象は狂逸暴悪にして多く殺害するところあり。調象師あり、大鉄鉤をもってその頂を搨けば、即時に調順し悪心ことごとく息む」と。『婆沙』に調象の因縁が広くあり、八解脱に喩えます。「薳」はもともと草の名です。また人の姓です。今は過度の言をもって、この字を借用して方言に替えます。「穭」は自生の稻です。恐らくはこの「儢」と作るべきです。心力ないため空しく時日を度します。
當發の下は誓を立て加を請います。刻骨などの者は、誓身の精進は骨に刻むがごとく、誓心の精進は石に銘するがごとくです。銘は名です。これを書して誡とし、石に刻して功を紀します。今もまたこのようです。誓いその心を要するに、石に刻し功を紀して永く昧ましめないようなものです。法のために身を輸するを許道と名づけます。唐は虚です。無復などの者は、もはや難心がありません。上の行法懈まざるを結び、行をもって難行としません。無復苦心は上の端直其身を結び、身をもって疲苦としません。
感仏の下は加を蒙り益を得ます。生生などをもって四精進に対す者は、進は発起策励の相であるため、生などをもって四進を釈し成します。三蔵三祇の進はなお生を潤すので「生生」といいます。通は進の相を亡じたので「生不生」と名づけます。別はすでに空に入るを生とするので進みます。ゆえに「不生生」です。円理はもともと寂なので、進もまた不生です。ゆえに「不生不生」です。また進の境において能を亡じ所を亡じます。
次に禅を釈する中、まず総じて禅度に約します。「但是」などの者は教を列べます。初めに「根本」というのはすなわち三蔵です。中二教を越えるので「乃至」といいます。たとい無作といっても楞厳は成じません。中間に「たとい無生といっても理定は成じない。たとい恒沙の仏法といっても俗諦三昧は成じない」というべきです。「若無」の下は失を斥する中で、「無定」などというのは、『大経』を引いて況んやを釈します。世間の人、もし十大地の中心数定がなければ、世路の平地ですらなお顛墜します。況んや出世の無定を修めて豈に成じましょうか。為是の下は総じて加を請うを標します。略して応に禅を修むべきを挙げるので、総じて「一心」といいます。至の下にいたってはじめて別に五門を出します。感仏の下は加を蒙ります。これは総じて禅を明かします。結文を闕くのは、下の五門の中に具に明かすためです。煩文を避けるため互いに存没します。
次に『大論』の下は五門禅を明かす中、初めに来意を明かします。禅門の中に門戸が多いため、さらにこの五門禅の相を明かします。「若禅」の下は正釈です。初めに数息を明かします。第九巻に至ってさらに釈します。「七依定」というのは、『成論』七三昧品にいいます。「初禅に依って無漏を得、乃至無所有処に依って無漏を得る。この七処に依って聖果を得る故に、七依と名づける」と。ある人は自ら有漏をもって足れりと思い、それゆえ仏は七依は無漏なりと説きます。問う、何故禅に依って無漏を得るのか。答う、初禅を得るとき初禅の陰を観じ、八聖種の心を起こして厭離を生じ、乃至無色に於いて四陰を観ずるもまたまたこのようです。問う、何故欲界を依と説かないのか。答う、『須尸摩経』に説くがごとく、さらに無漏あり、いわゆる欲界です。ゆえに少分もあるが故に説かないと知ります。問う、何故非非想処を無漏と説かないのか。答う、彼は了せないからです。定多く慧少ない故に依と説きません。問う、七想はすなわち七依か。答う、外道は真無き故に想といい、聖人は想を破る故に依といいます。ゆえに今の文の中ではしばらく「發得欲定乃至七依」といい、いまだ有漏・無漏を判じません。論に準じて分別すれば二義とも通じます。
請観音の下は助益行成を明かします。
次に不淨治貪欲を明かす中、「酖」は『爾雅』にいいます。「久しく楽しむなり」と。酉に従うのは酖酒です。この文の意ではありません。また酖酒をもって婬に喩えることもできます。それゆえ酖の字とします。また湎の字と義は同じです。湎は酒に酖ることです。また䤄と作ることもできます。ゆえに『大経』にいいます。「もし常に愁苦すれば愁は遂に増長し、乃至貪婬嗜酒もまたこのようである」と。
不浄観はすなわち仮想観です。『求証人経』に説くがごとくです。仏は舎衛にありました。ある比丘が塚間に至り、路を他の田に遊びました。田主は罵っていいました。「この何の比丘か、道業を修めず、常に我が田に遊ぶ」と。そこで行って問いました。比丘は答えていいました。「我に諍事あり、証人を求めに来た」と。田主は問いました。「証人は誰か」と。比丘はすなわち呼びました。田主は随って行き、屍が狼藉しているのを見ました。比丘はいいました。「このもろもろの蟲鳥は我が証人である」と。田主が問うたので、比丘は答えていいました。「心の漏患を観じて已に房に還り、身を観ずることもまたこのようである。我今心の本源を識りたいので、それゆえこれを観ずる」と。田主は聞き終えて涙を垂れ哽咽しました。かの田主は迦葉仏法の中で千歳にわたってこの不浄観を修習しました。比丘および田主はともに初果を得ました。
九想は第九巻にあります。『大論』の中に八背捨などを引くのは、ついでに兼ねて列べたのであって、文の正意ではありません。ただ皆な九想によって成るというので、「皆な九想をもって初門となす」といいます。これは九想の功能を明かすためです。もし実観なら『撰擇長者縁』の通りです。
次に慈をもって瞋を治する者は、上の忍を釈する中ではただ通途に「橋地などの如し」といったので、「通治」といいます。いまだ重い瞋を治めていません。今は専ら慈を修して瞋恚を治めます。それゆえ「別」といいます。因みに慈定を明かし兼ねて餘の三つを説きます。慈心を修めるのは己の宜しきに非ざるかと恐れるので、「餘の三心、あるいは楽欲など」といいます。「等」は餘の三つを取ります。これが四随に依って四無量を修めるものです。対転兼具は上に準じて知るべきです。
愚癡を治するを釈する文相は最も略です。諸文を例とすべきです。「毘曇は界方便をもって我を破るなど」の者は、我および断常ならびに性の三を計るのは、ともに癡に属するからです。初めに我を破るのは経論によって同じではありません。ゆえに『雑阿毘曇』にいいます。「著見の行者は界方便をもってし、愚夫は宿業煩惱積聚の五陰を了せず、縁に於いて我を計る。まさに自身に於いて界方便をもって、種種の性・種種の業・種種の相を観察す。いわゆる地などの六界である。彼の地界は水に潤されて相離れず、彼の水界は地界に持たれる故に流散せず、火界は成熟する故に淤壊せず、風界は動く故に得て増長す、空界は空なる故に食は出で入ることを得、識界ある故に造作するところあり。衆縁による故に、ゆえに無我と知る。またこの身は不浄に充満するを観ずるは、吹き散らしたる積沙の如し。無色法に於いて前後相続す。このように観ずる者はすなわち空解脱門の種子を得、彼に厭を生じて無願解脱門の種子を得、正しく涅槃に向かいて無相解脱門の種子を得る。これを界方便と名づける」と。
もし『大経』に準ずれば、「我に著する多い者は、すなわち十八界の法を分別する」と。これは六界と総別の違いです。論に四大界は十色界の半、識界は七心界の半といいます。ただ色を合して四とし、心を合して一とし、さらに空界を加えます。教門は機に随って離合不定です。今は禅経に準じて因縁をもって我を破ります。『大集』もまた二世をもって我を破ります。異なるを簡ぶため、ともに列べて釈します。「三世は断常を破る」というのは、三世相続する故に断ぜず、三世迭謝する故に常ならず。また過去は常を破り、未来は断を破り、現在は因果双べて断常を破ります。「二世は我を破る」というのは、現・未の二世に十二縁を具えます。父に愛を生じ母に瞋を生ずるを無明と名づけます。父の遺体の時、これを己有と謂うを行と名づけます。識支より老死支に至るまでは三世と同じです。「一念」というのは、具に玄文第三巻境妙中に説く通りです。念仏は睡を治すことは文の通りです。
止觀輔行傳弘決卷第七之二
止観輔行伝弘決 巻第七の二
止觀輔行傳弘決卷第七之三
止観輔行伝弘決 巻第七の三
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
般若度中初明攝法。此理下斥失如文。應當下請加。文二。先立行。次請加。立行中先總明念處有破倒之功。如文。次別明四念。初不淨有五。初列五種不淨者。大論二十一廣說之。初言種子者。如論偈曰。是身種不淨非是妙寶物。不從白淨生。父母邪想憶念風吹淫欲之火。肉髓膏流熱變為精。業因緣故識託種子。在赤白精中。故云攬他遺體。吐淚等者。大論云。身內欲蟲人和合時男蟲白精如淚而出。女蟲赤精如吐而出。骨髓膏流令此二蟲吐淚而出。生處不淨者。如論偈曰。是身為臭穢不從華開生。亦不從薝蔔又不出寶山。今云住處者。所居曰住。從出名生。是故二文秖是一意。猥者雜惡也。亦眾也。廝者賤役也。自相不淨者。衣服澡浴種種華香。飴以上饌眾妙美味。經宿之間皆為不淨。假令衣天衣食天食以身性故。亦成不淨。何況衣飴人間衣食。如論偈曰。地水火風質能變除不淨。傾海洗此身不能令香潔。譬如死狗以海水洗。餘一塵在亦如初臭。糞穢亦爾。𦡲者𦘭𦡲也。耳垢也。眵目汁凝現也。淋尿者應作此痲。即病也。其尿臭故。自性不淨者。大小便道目淚涕睡常流不息。如論偈云。種種不淨物充滿於其身。常流出不止如漏囊盛物。膿者。玉篇云。癰疽血也。身肉所有與彼不異。膏者身滑澤也。說文云。有角曰脂無角曰膏。身中不淨以類於彼。禮云。大膏臊。雞膏腥。羊膏羶。若云魚臭應云鯹鰺。肪者肥脂。𦙽者亦脂肪。今云腥臊如犬雞等也。故四念處云。外十二物名相不淨。內十二物名性不淨。中十二物名性相不淨。今文但分相性二種。不共立為相性不淨。應合中間以屬於性。究竟不淨者。如論偈曰。審諦觀此身終必歸死處。難語無反復。背恩如小兒。劇者甚也。如是下結。蜣蜋亦曰蛣蜣。即丸糞蟲者是也。此蟲唯知美糞。而不辯歡喜丸味。次明苦觀者。論云。復次此身一切皆苦。屈伸俯仰無非苦者。如初坐為樂坐久則苦。行住臥等亦復如是。如淫為樂求女色時。得之逾多患生逾重。如疥病得火樂為苦因。行者知身但是無常苦不淨者。不得已而養之。譬如父母生於惡子。子雖極惡從己生故。要必養育令使成就。身實無樂。何以故。不自在故。如風病人不能俯仰行來去就。如病咽者不能語言。以是故知身不自在。故云於下苦中橫生樂想。準諸論文應以三途為苦苦。名為上苦。諸天五衰相現。天樂壞時生於大苦。名為壞苦。人間為行苦。念念常苦故名為下。凡夫橫計以之為樂。故俱舍云。如以一睫毛置掌而不覺。若置眼睛上為損及不安。凡夫如手掌不覺行苦睫。智者如眼睛緣極生厭怖。望三途苦為下苦耳。今文從義直約人間以立三苦。雖是下苦具三苦故。不應於中橫生樂想。故大經十一迦葉難云。若於下苦生樂想者。於下生苦。乃至於下五盛陰苦。亦生於樂想耶。下生者三惡。中生者人。上生者天。又亦應云於下樂中生於苦想耶。佛言。如汝所言是故昔為釋摩男說於三受三苦。一一受中皆悉三苦。故今文中於行苦中立三苦義。次明無常觀中。云如繫鳥等者。如論偈云。鳥來入瓶中羅𣪺揜瓶口。縠穿鳥飛去神明隨業走。釋曰。乘業受報如鳥入瓶。為業所繫如羅縠揜。果謝隨業如縠穿鳥去。去必逐業故名隨走。今此文中以籠喻果以瓶喻因。言得繩者準於有部。立以得得。漸以後得得於前得。故使往業能至未來。故有部中業入過去。得至未來。身死得謝未來報起。如一業成以一大得得於業法。又以小得得於大得。第二剎那以三大得。得前二得及以業法。初念之得俱成法故。又三小得得前三大。并初剎那九法成就。第三剎那二十七法。此之得義出自法相。釋作無作引論云。初念作現在成。第二念過去成。若無作者。初念現在成第二念二世成。所言作者。第一念中但有法俱。第二念中唯有法後。言法俱者。謂初念本法及大小得。言法後者。第二念去前前之念轉成法故。故後後念大小得得。言無作者。初第一念亦但有法俱。亦如作中初念說也。至第二念有法俱得及法後得。言法後者。亦如前作中第二念說。言法俱者與法後得。同時而起一無作法及大小得。是則第二念中有三大得及三小得。得初三法。同時復有三法俱起。故第二念九法俱生。并初念三成十二法。所以第二念中六得得於過去。名過去成。又有二得得現在法。名現在成。故云初念無作現在成。第二念無作二世成。凡云大小得者。皆以大得得於本法。復以小得。得於大得。還以大得得於小得。故大小得更互相得。故知第三念去。如是展轉得遍虛空。凡有所作善惡諸業若下劣心。唯有於作則無無作。若增上心則有於作及以無作。作與無作各起得得。業入過去得至未來。能招後報。作無作得但與形俱。是故得名得非色心。故俱舍論不相應行有十四種。謂得非得同分無想二定命相名身等類。是則一生之中於一業思之所起得。尚已無量。況無量生無量業得以至來際。若經部宗得既是假。但云意與身口和合成業。假立為種至未來生。又復業名通於方便根本後起。今對根本立以業名。若大乘中藏識盛持以至來世。雖有此異凡受報處。必為精血四大所籠。未得擇滅非得已來。常為得繩之所連縛。連縛未斷去已復還。現陰若壞名為去已。復受生有名為復還。至無學果方名籠破。生有業盡名為不返。陰質不續名空籠存。此壞等者復斥凡夫。此五陰壞生有陰成。出陰入陰現生後等(云云)。印壞文成等者。重顯籠瓶文仍少異。籠瓶二喻但喻因果。此蠟印喻更加中陰。故大經二十七云。如蠟印印泥印與泥合印滅文成。文非泥出不餘處來。以印因緣而成是文。經合喻云。現在陰滅中陰陰生。是現在陰終不變為中陰五陰。亦非自生不從餘來。因現陰故生中陰陰。提譬合云。如印印泥印滅文成。名雖無差而時節各異。是故我說中陰五陰非肉眼見天眼所見。釋曰。現陰如印。中陰生處義之如泥。現在陰滅。名為印壞。中陰陰起名為文成。於此復以中陰為印。業逼受胎名為印泥。中陰陰滅名為印壞。未來陰起名為文成。業種未斷文復為印。印復為文。文印相成。不可窮已。中陰生陰俱名為陰。此等滅時俱名印壞。此等成時俱名文成。生滅名同故曰無差。生處不同故云各異。若文不為印名為因滅。印不為文。文亦自壞。名為果亡。故大論云。先世業自作轉為種種形。虛空不受害無業亦如是。毘曇命是非色非心法者。亦屬十四不相應行攝。大集等者引證命也。一期為壽連持曰命。一期連持息風不斷。故出入息名為壽命。比丘不保七日等者。大論二十五。佛為比丘說死想義。有比丘白佛。我能善修死想。佛言。汝云何修。答言。不過七年。有云。不保七月。有云。七日乃至六五四三二一日。佛言。是名放逸。不得名為善修無常。有比丘言。不保從旦至食。有云。食頃。佛言。皆是放逸。有一比丘言。出息不保入息。佛言。是名精進善修無常。殃者咎也。罪也。爾雅云。肉爛也。若遭殃時義如肉爛。無父何怙無母何恃。理性法身猶如嬰孩。若無二智父母所養。是故當知必死不疑。云何安然而生常想。溘者去也。冥者北方幽冥即是陰方幽道故也。或精進滅火者。精進之水破懈怠火。猶如救火不可少息。懈怠火滅故云滅火。雖不少息與道尚乖。身雖精進不悟無常。不得名為身心精進。大論十八云。菩薩摩訶薩行精進者。四儀不廢。寧失身命不廢道業。譬如失火瓶水投之。唯存滅火不惜於瓶。諸行如舍懈怠如火。身如水瓶心如盛水。身心精進如合瓶投。是故精進以心為本以身為助。所以應須正助具足。若以空瓶投火擬滅。而不知水堪能滅火。徒自疲勞火終不滅。但身精進亦復如是。又精進者。亦如野雉見大樹林為火所燒。恐眾鳥無依。以自身力飛入水中。漬其毛羽來滅大火。火大水小往來疲極。不以為苦。是時天帝來問之曰。汝作何事。答言。我為眾生以此林樹陰育處廣清涼快樂。我諸種類諸宗親族及諸眾生。皆依仰此。我之身力豈敢懈怠。問曰。汝此精進當至幾時。答言。以死為期。天帝言。汝言雖爾誰當信汝。即自立誓。若不虛者火當即滅。是時淨居諸天知菩薩誓廣。即為滅火。自古及今唯有此林。獨常滋茂不為火燒。喭云等者。喭傳也。應作諺字。若作喭者弔也。凡諸諺言皆似聖語。故自昔來用為實錄。顏氏家訓往往引之。可憐如精進五媚如道心。媚者好姿也。山海空市等者。法句經第二云。有梵志兄弟四人各得神通。知後七日一時皆死。自共議之。我等四人五通之力翻覆天地捫摸日月。寧不避死。一云。吾入大海。下不至地上不出水。一云。入須彌腹還合其山。一云。輕舉空中。一云。入大市中。各云。如是處避無常殺鬼豈知我處。議訖辭王述其去意。過七日已。各各命終如熟果落。市監曰王有一梵志卒死市中。王云。有四人避對。一人已死餘三豈免。王即問佛。佛告王言。有四事不可離。一者已在中陰不可不生。二者已生不可不老。三者已老不可不病。四者已病不可不死。白駒日也。烏兔月也。又俗典中云。月中有兔日中有烏。如野干等者具如第四卷引。次又復當下無我觀也。忽聞讚罵等者。如人持瓶聞罵持者或讚持者。攬他彼說云讚罵己。一切事業亦復如是。況復罵己全是罵他。以身屬他四大造故(云云)。心性如手執如塗膠。取境名為隨執隨著。酷者虐也。赫者盛貌。隆者如前。如彼夜房等者。大論九十三云。瞋者本無一切皆虛妄事。故生嗔恚如於逆害。乃至奪命起重罪業。因茲重業必墮三惡。慎勿無事受大苦惱。如一山中有一佛圖。中有別房常有鬼來。故諸道人皆捨此房。有客比丘暮投其宿。維那處分令住此房。而謂之言。此房有鬼喜來惱人。能住不耶。此客比丘自恃戒力及多聞力。而不畏之。謂此小鬼有何所能。我能伏之。即便入房。至暮復有一客比丘求覓住處。維那亦令住此鬼房。亦如前說。客僧亦復如前人說。先住比丘閉門端坐伺待鬼來。後來比丘夜已黑闇打門求入。先者謂鬼不為開門。後者復以極力打門。內者復以極力拒之。外者得勝排門得入。內者以極力打外者。外者亦以極力打之。如是相打以至明旦。相見乃是故舊同學。各相愧謝。眾人聚而怪之。眾生亦爾。五陰本來無人無我。空取其相生於鬪諍。若披在地但有骨肉。無復人我。當爾之時誰論彼此。是故菩薩語眾生言。汝慎勿於本空之中起鬪諍罪。二鬼爭屍等者。大論十三云。如人遠行獨宿空亭。夜中有鬼擔一死屍。來著其前。復有一鬼從後而來。瞋罵前鬼云。是我屍何以擔來。前鬼復言。本是我物我自擔來。二鬼各以一手爭之。前鬼語曰可問此人。後鬼即問。是誰死人誰擔將來。是人思惟。此之二鬼皆有大力。實語虛語皆不免死。我今不應妄語答鬼。便答後鬼前鬼擔來。後鬼大瞋拔其手足。出著地上。前鬼愧之。取屍補之補之便著。臂手足等舉身皆易。於是二鬼共食所易活人之身。各各拭口分首而去。其人思惟。父母生身眼見食盡。我今此身盡是他肉。為有身耶為無身耶。如是思惟心懷迷亂不知所措。猶如狂人。天既明矣尋路而去。至前國土見有佛塔。凡見眾僧不論餘事。但問己身為有為無。諸比丘問。汝何人耶。答曰。我亦不知是人非人。即為眾僧廣說上事。眾僧皆云。此人自知己身無我易可化度。即語之言。汝身本來恒自無我。但以四大和合聚集。計為本身。如汝本身與今無異。時諸比丘度為沙門。斷煩惱盡得阿羅漢。是故有時於他人身亦計為我。以無我故。有時於我謂為他人。故文殊問經云。有老人夜臥手捉兩膝。而便問云。那得有此兩小兒耶。身若有我云何不識謂為小兒。故知橫計皆無定實。若修下結成三乘行異。初聲聞。先法中云如為怨逐等者。四倒如怨逼心如逐。身如怨國觀如叛出。不出五陰而於中行。若至見道方有出路。麞聞下譬。三乘之人雖復觀於諦緣度別。通而言之俱觀念處。雖同念處自行化他。有悲無悲宿福不同。故分三別。故於此後分出三乘。初文譬者。聲聞觀法義之如麞。生老病死猶如獵圍。三界五欲猶如水草。不遑視聽如不暇飲噉。希離二縛如志在免脫。次支佛行相中支佛觀法義之如鹿。觀因緣智猶如透圍。斷結侵習如小免難。自智如馳愍他如顧。悲智兼行故名為並。部行說法名為悲鳴。但讚出苦名為呦咽。呦呦鹿鳴也。咽字應作噎。飲食不下也。悲心愍物如食不進。自厭有餘名之為痛。亦悲他人名人為戀。昔同彼苦名為本群。欲去念住恐非永益。名雖踟蹰。言踟蹰者行不前貌。有少悲心似住生死。利物事微名為何益。說已入般。名為茹氣。教法不住名為吞聲。茹者飲也。雖愍而逝如銜悲前進。從自出下合譬。文略。悼者哀也。矜也。次明菩薩者譬文可知。次合譬中。文相皆是事助之益。是故當須事理合行。故下文若全無下。更說合行之意。若不見之如何進行。前聲聞中。先法次喻。次支佛中。先喻次合。此二合文。文相並略不委對合。是故於喻扶文委銷。今菩薩中合喻文足。故直合之不復別釋。大象合菩薩。從無常去至水火者。合雖聞圍合。從又起慈悲去至獨去者。合不忍獨去。從安耐生死合自知力大等。從以智去至俱安者。合令群安隱。事度為功德。五分為法身。伏道為慧命。後後為增長。三祇為大象。從若小象子去抑揚也。小不及大抑也。初心可歎揚也。初僧祇初名小菩薩。雖未免退實異凡小。故可稱歎。次引證中不住不調等者。初心菩薩事度誓願異凡夫故。名不住不調。異二乘故名不住調。雖知已去三句例此。而不取證故並云雖。但以伏道為無我等。不同通別二種菩薩。多修下結行成也。狼者獸也。似犬而狼。此三藏中三乘之智。同觀無常苦空無我。為三乘行異。並可以為助道事智。自行下正請加。蒙如結益並如文。若全下明合行之意。先斥失。次辯得。佛印者。印謂印可。可謂稱可。事理相稱故可聖心。為聖冥印障去理顯。既具眾失又迷理觀。印無是處。次所以下引昔化事。釋成助意。有法譬合。初法中二。初引昔化。謂昔曾繫珠義如正道。退大輪迴義如重蔽。以小起之義如用助。初曾稟大。退大流轉不堪大化。先小導之方堪入大。是故名為以小起之。次從又佛初欲下。引現化儀以證助意。本是大緣義之如正。大機未熟義如重蔽。尋用方便義如用事。以當宜故如梵音讚。十方諸佛尚讚助道。況今重蔽而不助耶。如富家子下次舉譬。若論觀蔽應用無生。事不獲已用事助者。如大經十九云。譬如有人閉在囹圄從廁孔出。譬如有人懼於冤家依旃陀羅。如婆羅門病食不淨藥。菩薩摩訶薩行於事度亦復如是。為是義故應須事助。況復今文正助合行。一切助行無非法界。合譬可見。此六度文並在大論第十五至第二十一。每於一度眾釋不同。然亦不出此之四意。次以六句料簡事理者。先問意者事度屬三藏。道品是無作。本以無作正行道品。通至無作三三昧門。今此乃云不修事度。無作三昧不成就者。事度應勝無作道品。次答意者。度之與品俱有事理。況復度品更互相攝。是故勝劣亦互受名。但作度名於治義便。所以對治從度為名。今文以事而助於理。故上文云。無事理定不成。前文已約佛今昔化。及以大經諸譬之文。足顯以事助理之意。為顯行門何論勝劣。為欲更顯通別治相。是故更為三對六句。於中先列六句。次釋。釋中先別次通。所言別者三對不同。且以事度對理道品。生滅道品對圓六度。以明相破相修相即。言相破者。文云如上道品不能契真。指前第六正修道品。故知即是無作道品。若修六度即能破蔽。即是今文對治助開。即是六度破道品也。若修圓六度不能契真。修事道品即能破惑。是名道品破六度也。六度之下云波羅蜜。故云彼岸。相修者。修事六度為對治竟。更須進修無作道品。治道成就。故云任運。若修生滅道品為對治已。更須進修無作六度。言如上所說者。如上六度攝生滅道品中。即是生滅道品破事蔽竟。而理觀全無毫末。必須進修無作六度。言相即者。生滅六度即圓道品。生滅道品即圓六度。約事須有生滅等別。據諸法體本來相即。故引經云皆摩訶衍。檀度舉六度之初。念處舉道品之首。故知相破相修約判權實。而成助道。相即即是約開權實。而成合行。若且一往為無作故。修事為治如向所說。若以四教遞為助者。應以通教對事六度。別教對事圓教對事。別教對通圓教對通。圓教對別。總合六重度品不同。通論下次通論諸法。皆得相對以辯六句。文中略舉四諦因緣。言有無等者。有謂有益。無謂無益。非有無者。即是相即。人見有無及以雙非作三諦釋。甚失文旨。若不論助則於當教隨所宜樂。以論有益無益等也。是故當教亦有相破相修相即。次明攝調伏諸根者。初正明調伏中四教不同。一一教中皆具六度。一一度中皆調六根。即是一一根中皆具六度。四教乃成二十四番六度。亦是二十四番道品。若望隨自意中更對六作。又成度品各二十四。乃成度品各四十八。於一助治豐富若此。世人不識讀者尚迷。今文既云調伏諸根。即是置作論受。一一教中皆悉。先釋次結。今初檀中不復論財者。且從調根。具足應如隨自意中。但約六作六受以明六度。度既有四以四種度調伏諸根。故調伏諸根亦有四別。即是助道遍於作受。治於六根六蔽之相。而於六根顯究寬六。故此因門已攝諸法。此之四教六度六根。若消釋者。必須順於當教教意。皆以後教展轉融前。方名助道展轉為治。次明戒中言不傷者。傷秖是破。護戒無缺故曰無傷。言習應者如是修習使得相應。故大品習應品中。舍利弗問。菩薩摩訶薩。云何修習般若波羅蜜。與般若波羅蜜相應。論釋云。舍利弗知般若波羅蜜難行難得難可受持。故作是問。大品云。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩習應色空乃至一切種智空。是名與般若波羅蜜相應。論問云。習應是何義。答。習謂隨般若波羅蜜修行不息不休。是名為習。譬如弟子隨順師教不違師意。是名相應。隨順般若不增不減。如函蓋相稱是名相應。圓教中先引經。殃掘云者。準殃掘經。其殺千人唯少一人。欲害其母。佛隨至來復欲害佛。初緣具如第二卷引。佛徐行不疾。殃掘疾走趁佛不及。說偈喚言。住住大沙門等三十六偈。佛以二百七十六行偈答。每三行偈結成一答。合九十二答。其三行內但換第二行初句。餘句並同。初云。
般若の教えにおいて、まず最初に、この教えがすべての法を包み込むことを明らかにします。この道理の下で、誤りを退けることは、文の通りです。次に「まさに〜すべきである」という箇所で、加護を請い願います。文は二つに分かれます。まず行を立て、次に加護を請います。行を立てる中で、まず総じて念処が倒れた見方を破る働きを持つことを明らかにします。文の通りです。次に別に四念処を明らかにします。最初の不浄観には五つあります。
第一に、五種の不浄を列挙します。『大智度論』第二十一巻に詳しく説かれています。初めに「種子」というのは、論の偈に「この身の種は不浄にして、妙なる宝物にあらず。白浄より生ぜず。父母の邪なる想いと憶念の風が淫欲の火を吹き、肉や髄や膏が流れ出し、熱によって精に変わる。業の因縁によって識が種子に託され、赤白の精の中にある」とあります。それゆえ「他のかたちを攬る遺体」というのです。
「吐淚等」というのは、『大智度論』に「身内の淫欲の虫が、男女が和合する時、男の虫は白精を涙のように出し、女の虫は赤精を吐くように出す。骨髄や膏が流れ出て、この二つの虫に涙のように吐き出させる」とあります。
「生処不浄」というのは、論の偈に「この身は臭穢にして、花が開いて生じたものではない。薝蔔から出たのでもなく、また宝山から出たのでもない」とあります。今「住処」というのは、住むところを住といい、そこから出るのを生といいます。したがって二つの文はただ一つの意味です。「猥」とは雑悪のことです。また衆という意味もあります。「廝」とは賤しい役のことです。
「自相不浄」というのは、衣服や澡浴や種々の華香、飴以上の上饌や多くの妙なる美味も、一晩の間に皆、不浄となります。たとえ天の衣を着て天の食を食べても、身の性質のゆえに、また不浄となります。ましてや人間の衣や食を着て食べる場合はなおさらです。論の偈に「地水火風の質は、よく不浄を変除する。海を傾けてこの身を洗っても、香しく清らかにすることはできない」とあります。たとえば死んだ犬を海水で洗っても、一つの塵でも残れば初めと同じ臭いがするのと同じです。糞穢もまた同様です。「𦡲」とは𦘭𦡲、すなわち耳垢のことです。「眵」とは目の汁が凝って現れたものです。「淋尿」とは、ここでは「痲」と作すべきで、すなわち病のことです。その尿が臭いからです。
「自性不浄」というのは、大小便の道、目の涙、鼻水、唾などが常に流れて止まらないことです。論の偈に「種々の不浄の物がその身に充満している。常に流出して止まらない。漏れる袋に物を盛ったようだ」とあります。「膿」とは、『玉篇』に「癰疽の血」とあります。身肉にあるものもそれと同じです。「膏」とは身の滑沢のことです。『説文解字』に「角のあるものを脂といい、角のないものを膏という」とあります。身中の不浄もそれに類します。『礼記』に「大膏は臊、鶏膏は腥、羊膏は羶」とあります。もし魚の臭いをいうならば、鯹鰺というべきです。「肪」とは肥脂のことです。「𦙽」もまた脂肪のことです。今「腥臊」というのは、犬や鶏などのことです。
それゆえ『四念処』に「外の十二物は名相不浄といい、内の十二物は名性不浄といい、中の十二物は名性相不浄という」とあります。今の文ではただ相と性の二種を分けるだけで、相性不浄を立てていません。中間は性に属させるべきです。
「究竟不浄」というのは、論の偈に「審らかにこの身を観察すれば、ついには必ず死処に帰る。語り難く反復がなく、恩を背くこと小児のようだ」とあります。「劇」とは甚だしいという意味です。
「如是」以下は結びです。「蜣蜋」は蛣蜋ともいい、すなわち糞の丸を作る虫のことです。この虫はただ糞の美しいことだけを知って、歓喜丸の味を弁えません。
次に苦観を明らかにします。論に「またこの身は一切が皆苦である。屈伸俯仰のいずれも苦でないものはない。たとえば初め坐るときは楽と感じ、坐るのが久しくなれば苦となる。行住臥などもまた同様である。淫を楽として女色を求める時、それを得ることが多くあればあるほど患いも重くなる。疥癬の病が火を得ると楽になるが、それが苦の因となるようなものだ」とあります。行者は身がただ無常・苦・不浄であることを知って、やむを得ずにこれを養います。たとえば父母が悪い子を生んだようなものです。子は極悪であっても自分から生まれたものであるから、必ず養い育てて成就させなければなりません。身に実の楽しみはありません。なぜなら自在でないからです。風病の人は俯仰や行来去就ができません。喉の病の人は言語ができません。このゆえに身が不自在であると知ります。
それゆえ「下苦の中において横に楽想を生じる」といいます。諸論の文に準じれば、三途を苦苦とし、上苦と名づけます。諸天に五衰の相が現れ、天の楽が壊れる時に大苦を生じ、これを壊苦と名づけます。人間は行苦であり、念念に常に苦であるから、これを下と名づけます。凡夫は横にこれを楽と計ります。それゆえ『倶舎論』に「一本の睫毛を掌に置けば覚らないが、目の上に置けば損となり不安となる。凡夫は掌のごとく行苦の睫毛を覚らない。智者は目のごとく、縁によって極めて厭怖を生じる」とあります。三途の苦に望めば下苦となるだけです。
今の文は義に従って、直接人間について三苦を立てます。これは下苦であるけれども三苦を具えるゆえに、その中において横に楽想を生じるべきではありません。それゆえ『大般涅槃経』第十一巻で迦葉が難じて「もし下苦において楽想を生じるならば、下生の苦において、ないし下の五盛陰苦においても、また楽想を生じるのでしょうか。下生とは三悪道、中生とは人間、上生とは天上です。また『下楽の中において苦想を生じるべきである』ともいうべきでしょうか」といいます。仏は言われます。「あなたの言う通りである。それゆえ昔、釈摩男のために三受と三苦を説いた。一一の受の中に皆ことごとく三苦がある」と。それゆえ今の文では行苦の中において三苦の義を立てます。
次に無常観を明らかにします。「如繫鳥等」というのは、論の偈に「鳥が来て瓶の中に入り、羅縠が瓶の口を覆う。縠が破れて鳥が飛び去れば、神明は業に随って走る」とあります。解釈すれば、業に乗って報を受けるのは鳥が瓶に入るようなものです。業に繋がれるのは羅縠が覆うようなものです。果が謝すれば業に随うのは、縠が破れて鳥が去るようなものです。去るには必ず業を逐うゆえ、随走と名づけます。今この文では、籠を果に喩え、瓶を因に喩えます。
「得縄」というのは、有部に準じれば、得を立てて得となします。次第に後の得をもって前の得を得ます。それゆえ往業が未来に至ることができるのです。それゆえ有部では業が過去に入り、得が未来に至ります。身が死んで得が謝すれば未来の報が起こります。たとえば一業が成るに、一つの大得をもって業法を得、また小得をもって大得を得ます。第二刹那には三つの大得をもって前の二得と業法を得ます。初念の得は倶に成法となるゆえです。また三つの小得をもって前の三大得を得、初刹那の九法を成就します。第三刹那には二十七法となります。
この得の義は法相から出ています。「作・無作」を解釈して論を引けば「初念は作が現在に成じ、第二念は過去に成じる。もし無作であれば、初念は現在に成じ、第二念は二世に成じる」とあります。「作」というのは、第一念の中にはただ法倶があるだけで、第二念の中にはただ法後のみがあります。「法倶」とは、初念の本法および大小の得をいいます。「法後」とは、第二念に去って、前前の念が転じて法と成るゆえんです。それゆえ後後の念に大小の得を得ます。「無作」というのは、初めの第一念にもただ法倶があるのみで、作の中の初念の説と同じです。第二念に至れば法倶得と法後得があります。「法後」とは、また前の作の中の第二念の説と同じです。「法倶」とは、法後得と同時に起こる一つの無作法と大小の得をいいます。すなわち第二念の中には三つの大得と三つの小得があり、初めの三法を得ます。同時にまた三つの法倶が起こります。それゆえ第二念には九法が倶生します。初念の三と合わせて十二法となります。それゆえ第二念の中では六つの得が過去を得て、これを過去成と名づけます。また二つの得が現在の法を得て、これを現在成と名づけます。それゆえ「初念の無作は現在に成じ、第二念の無作は二世に成じる」といいます。
およそ大小の得というのは、皆、大得をもって本法を得、また小得をもって大得を得、さらに大得をもって小得を得ます。それゆえ大小の得は互いに相得します。それゆえ第三念に去って、このように展転して得が虚空に遍満すると知ります。およそ作すところの善悪の諸業において、もし下劣な心であれば、ただ作のみがあって無作はありません。もし増上心であれば、作と無作とがあります。作と無作はそれぞれ得を起こし、業は過去に入り、得は未来に至り、後の報を招くことができます。作・無作の得はただ形と倶にあります。それゆえ得と名づけ、色心ではないのです。それゆえ『倶舎論』に不相応行に十四種あり、「得・非得・同分・無想・二定・命・相・名身などの類」といいます。すなわち一生のうちに一業の思から起こる得だけでも、すでに無量です。まして無量生の無量業の得が来際に至る場合はなおさらです。
もし経部宗であれば、得はすでに仮であるから、ただ意と身口が和合して業を成じ、仮に種と立てて未来生に至るといいます。また業の名は方便・根本・後起に通じます。今は根本に対して業の名を立てます。もし大乗の中では、蔵識が盛んに持って来世に至ります。このような違いはありますが、およそ報を受ける処は、必ず精血と四大に籠られます。未だ択滅を得ず、非得已来は、常に得縄に連縛されます。連縛が未だ断たれなければ、去ってまた還ります。現陰が壊れるのを去已と名づけ、復た生有を受けるのを復還と名づけます。無学果に至って初めて籠破と名づけます。生有の業が尽きるのを不返と名づけ、陰質が続かないのを空籠存と名づけます。
「此壞等」というのは、また凡夫を斥けます。この五陰が壊れ、生有の陰が成ります。陰を出で陰に入り、現生・後生などです。
「印壞文成等」というのは、重ねて籠と瓶の文を顕しますが、やや異なります。籠と瓶の二つの喩えはただ因果を喩えるだけです。この蝋印の喩えはさらに中陰を加えます。それゆえ『大般涅槃経』第二十七巻に「蝋印をもって泥に印すとき、印と泥が合し、印が滅して文が成る。文は泥から出たのではなく、他の処から来たのでもない。印の因縁によってこの文が成る」とあります。経は喩えを合わせて「現在の陰が滅し、中陰の陰が生じる。この現在の陰は終に中陰の五陰に変わることはない。また自生するのでもなく、他から来るのでもない。現陰のゆえに中陰の陰が生じる」といいます。譬えを提げて合わせて「印を泥に印すように、印が滅して文が成る。名に差はないが時節は各々異なる。それゆえ私が説く中陰の五陰は肉眼では見えず、天眼で見るものである」といいます。
解釈すれば、現陰は印のようであり、中陰の生処は義として泥のようです。現在の陰が滅するのを印壞と名づけ、中陰の陰が起こるのを文成と名づけます。ここでまた中陰を印とし、業が受胎を逼るのを印泥と名づけます。中陰の陰が滅するのを印壞と名づけ、未来の陰が起こるのを文成と名づけます。業の種が未だ断たれなければ、文はまた印となり、印はまた文となります。文と印が相成り、窮まり已むことができません。中陰が陰を生じるのも倶に陰と名づけます。これらの滅する時は倶に印壞と名づけ、これらの成る時は倶に文成と名づけます。生滅の名が同じであるゆえ無差といい、生処が同じでないゆえ各異といいます。もし文が印とならなければ因滅と名づけ、印が文とならなければ文もまた自ら壊れ、これを果亡と名づけます。それゆえ『大智度論』に「先世の業は自ら作して転じて種々の形となる。虚空は害を受けない。無業もまたそのようである」とあります。
「毘曇の命は是非色非心法」というのは、また十四不相応行に属します。「大集等」というのは命を証することを引きます。一期を寿といい、連持を命といいます。一期の連持は息風が断たれないゆえ、出入の息を寿命と名づけます。
「比丘不保七日等」というのは、『大智度論』第二十五巻に、仏が比丘のために死想の義を説かれ、ある比丘が仏に「私はよく死想を修めることができます」と白したとあります。仏が「あなたはどのように修めるのか」と言われると、「七年を超えません」と答えました。あるいは「七月を保たない」といい、あるいは「七日、ないし六・五・四・三・二・一日を保たない」といいました。仏は「これは放逸と名づけ、よく無常を修めると名づけることはできない」と言われました。ある比丘が「旦から食まで保たない」といい、あるいは「食頃」といいました。仏は「皆、これ放逸である」と言われました。ある比丘が「出息は入息を保たない」といいました。仏は「これは精進と名づけ、よく無常を修める」と言われました。
「殃」とは咎、罪のことです。『爾雅』に「肉が爛れる」とあります。もし殃に遭う時は、義として肉が爛れるようなものです。「父なくしていずくにか怙まん、母なくしていずくにか恃まん」とは、理性の法身はちょうど嬰孩のようです。もし二智の父母に養われなければ、それゆえ必ず死して疑いがないと知るべきです。どうして安然而として常想を生じるでしょうか。「溘」とは去ることです。「冥」とは北方の幽冥、すなわち陰方の幽道のゆえです。
「或精進滅火」とは、精進の水が懈怠の火を破ることです。ちょうど火を救うのに少しも息むことができないようなものです。懈怠の火が滅するゆえ滅火といいます。少しも息まないけれども道にはまだ乖いています。身は精進しても無常を悟らなければ、身心の精進と名づけることはできません。『大智度論』第十八巻に「菩薩摩訶薩が精進を行うとは、四儀を廃さないことである。むしろ身命を失っても道業を廃しない。たとえば火事があれば瓶の水を投げ入れる。ただ火を滅することを存じて瓶を惜しまない。諸行は家のようであり、懈怠は火のようである。身は水瓶のようであり、心は水を盛るようなものだ。身心の精進は瓶を合わせて投げるようなものだ。それゆえ精進は心を本とし身を助けとする。それゆえ正助を具足すべきである。もし空の瓶を火に投じて滅しようとしても、水がよく火を滅することができるのを知らなければ、徒に疲労するだけで火は終に滅しません。ただ身の精進もまた同様です」とあります。
また精進とは、たとえば野雉が大きな樹林が火に焼かれるのを見て、衆鳥が依る所を失うことを恐れ、自らの身力で水中に飛び入り、その毛羽を漬して大火を滅しようとするようなものです。火は大きく水は少なく、往来して疲極しますが、苦としません。この時、天帝が来て「あなたは何をしているのか」と問いました。「私は衆生のために、この林樹の陰が広く育む処が清涼で楽しめるので、私の諸種類、諸宗親族および諸衆生が皆この林に依仰しています。私の身力がどうして懈怠でありえましょうか」と答えました。「あなたのこの精進はいつまで至るのか」と問うと、「死を期とする」と答えました。天帝が「あなたの言葉はそうであっても、誰があなたを信じるだろうか」というと、そこで自ら誓いを立てました。「もし虚しくないならば、火はただちに滅するであろう」と。この時、浄居の諸天が菩薩の誓いの広大であることを知り、ただちに火を滅しました。古から今に至るまでただこの林だけがあり、独り常に滋茂して火に焼かれません。
「諺云等」というのは、諺は伝えるという意味です。「諺」の字と作すべきです。もし「喭」と作せば弔です。およそ諸の諺言は皆、聖語に似ています。それゆえ昔から実録として用います。『顔氏家訓』は往々これを引いています。「可憐」は精進のようであり、「五媚」は道心のようです。「媚」とは好ましい姿のことです。
「山海空市等」というのは、『法句経』第二に「梵志の兄弟四人があり、それぞれ神通を得て、後の七日にある時に皆死ぬことを知り、自ら共に議して『我ら四人は五通の力で天地を翻覆し日月を捫摸しても、どうして死を避けられないことがあろうか』といった。一人は『私は大海に入ろう。下は地に至らず、上は水に出ない』といい、一人は『須彌の腹に入り、その山を還合しよう』といい、一人は『空中に軽挙しよう』といい、一人は『大市の中に入ろう』といった。各々『このような処に避ければ、無常の殺鬼がどうして私の処を知ることがあろうか』といった。議が訖って王に辞し、その去る意を述べた。七日を過ぎて後、各々命終し、熟した果が落ちるようであった。市監が『王よ、一人の梵志が市中で卒死しました』といった。王は『四人が対を避けたが、一人はすでに死んだ。余りの三人がどうして免れられようか』といい、王はただちに仏に問いました。仏は王に告げて『四つの事は離れることができない。一つにはすでに中陰にあれば生まれないことはできない。二つにはすでに生まれれば老いないことはできない。三つにはすでに老いれば病まないことはできない。四つにはすでに病めば死なないことはできない』と説かれました」とあります。「白駒」は日であり、「烏兔」は月です。また俗典の中に「月の中に兔あり、日の中に烏あり」といいます。
「如野干等」は詳しくは第四巻に引く通りです。次に「又復當下」は無我観です。「忽聞讚罵等」というのは、人が瓶を持ち、罵るのを聞くか、あるいは持つ者を讚めるのを聞くようなものです。他のかたちを攬って、彼が自分を讚め罵ると説きます。一切の事業もまた同様です。ましてや自分を罵るのは全く他人を罵るようなものです。身は他に属し、四大に造られるゆえです。心性は手が膠を塗ったものを執るようなものです。境を取るのを随執随著と名づけます。「酷」とは虐、「赫」とは盛んな様子、「隆」とは前の通りです。
「如彼夜房等」というのは、『大智度論』第九十三巻に「瞋は本無にして一切皆虚妄の事である。それゆえ瞋恚を生じるのは、逆害を受けるようなものである。ないし命を奪い重罪の業を起こす。この重業のゆえに必ず三悪に堕ちる。慎んで無事に大苦悩を受けてはならない」とあります。たとえば一つの山の中に一つの仏塔があり、中に別の房があって常に鬼が来るので、諸の道人は皆この房を捨てました。ある客の比丘が暮れてその宿を投じ、維那が処分してこの房に住まわせました。そして「この房には鬼がいて人を悩ますのが好きだ。住むことができるか」と言いました。この客の比丘は自ら戒力と多聞の力を恃んで、これを畏れず、「この小さな鬼に何ができよう。私が伏せることができる」と思い、ただちに入房しました。暮れに至ってまた一人の客の比丘が住処を求めて、維那はまたこの鬼の房に住まわせ、前と同じように説きました。客僧もまた前の人と同じように説きました。先に住んだ比丘は門を閉じて端坐し、鬼が来るのを伺っていました。後の比丘は夜がすでに暗黒であったので門を打って入ることを求めました。先の者は鬼だと思って門を開けませんでした。後の者はまた極力で門を打ち、内の者はまた極力でこれを拒みました。外の者が勝って門を排して入り、内の者は極力で外の者を打ち、外の者もまた極力でこれを打ちました。このように相打ちして明旦に至り、相見るとそれは旧友の同学でした。各々愧謝し、人々が集まって怪しみました。衆生もまた同様です。五陰は本来人なく我なく、空しくその相を取って闘諍を生じます。もし地に披けばただ骨肉があるだけで、もはや人我はありません。その時、誰が彼此を論じるでしょうか。それゆえ菩薩は衆生に語って「あなたは慎んで本空の中において闘諍の罪を起こしてはならない」といいます。
「二鬼爭屍等」というのは、『大智度論』第十三巻に「たとえば人が遠行して独り空亭に宿った。夜中に鬼が一つの死屍を担ってその前に来て置いた。また一つの鬼が後から来て、前の鬼を瞋罵して『これは私の屍だ。どうして担って来たのか』といった。前の鬼はまた『もともと私の物だ。私が自分で担って来た』といった。二鬼は各々一手でこれを争い、前の鬼が『この人に問うてよい』といった。後の鬼がただちに問うた。『誰の死人か、誰が担って来たのか』と。この人は思惟した。『この二鬼は皆大力がある。実語も虚語も皆死を免れない。私は今妄語して鬼に答えるべきではない』と。そこで後の鬼に『前の鬼が担って来た』と答えました。後の鬼は大いに瞋ってその手足を抜き、地に出す。前の鬼はこれを愧いて、屍を取って補い、補うとすぐに付いた。臂や手足など挙身皆易った。そこで二鬼は共に易られた活人の身を食い、各々口を拭って分首して去りました。その人は思惟した。『父母の生んだ身が眼の前に食い尽された。私のこの身は尽く他肉である。身があるのか身がないのか』と。このように思惟して心に迷乱を懐き、措く所を知らず、狂人のようでした。天がすでに明るくなったので道を尋ねて去り、前の国土に至って仏塔があるのを見ました。およそ衆僧を見て他の事は論じず、ただ自分の身の有無を問いました。諸比丘が『あなたは何人か』と問うと、『私はまた人か非人かも知らない』と答えました。そこで衆僧のために広く上の事を説きました。衆僧は皆『この人は自ら己の身が無我であると知った。化度しやすい』といい、ただちに語って『あなたの身は本来恒に自ら無我である。ただ四大が和合聚集して、これを本の身と計る。あなたの本の身も今と異ならない』といいました。この時、諸比丘はこれを度して沙門とし、煩惱を断じ尽くして阿羅漢を得ました。それゆえ時には他人の身においても我と計り、無我のゆえに、時には我において他人と謂います。それゆえ『文殊問経』に『ある老人が夜臥して手で両膝を捉え、そこで問うて「どうしてこの二人の小児がいるのか」といった。身にもし我があれば、どうして識別せず小児と謂うことがあろうか』とあります。それゆえ横計は皆定実がないと知ります。
「若修下」は三乗の行の違いを結成します。初めの声聞です。先に法の中で「如為怨逐等」というのは、四倒は怨が心を逼るように逐うようであり、身は怨の国のようであり、観は叛出するようであり、五陰を出でずしてその中を行じます。もし見道に至って初めて出路があります。「麞聞下」は譬えです。三乗の人は諦・縁・度と観ることが別であっても、通じて言えば倶に念処を観ます。念処は同じであっても自行と化他、悲のあると悲のないと宿福の不同のゆえに、三つの別を分けます。それゆえこの後に三乗を分け出します。
初めの文の譬えは、声聞が法義を観るのは麞のようであり、生老病死は猟囲のようであり、三界五欲は水草のようであり、視聴する暇がないのは飲噉する暇がないようであり、二縛を離れることを望むのは免脱を志すようなものです。
次に支佛の行相の中で、支佛が法義を観るのは鹿のようであり、因縁を観る智は囲を透るようであり、結を断じ習を侵すのは小難を免れるようであり、自智は馳せるようであり、他を愍むのは顧みるようであり、悲智兼行のゆえに並と名づけます。部行説法は悲鳴と名づけ、ただ出苦を讚めるのは呦咽と名づけます。「呦呦」は鹿鳴です。「咽」の字は「噎」と作すべきで、飲食が下らないことです。悲心が物を愍むのは食が進まないようなものです。自ら有餘を厭うのを痛と名づけ、また他人を悲しむのを人を戀うと名づけます。昔同じく彼の苦しみを受けたのを本群と名づけ、去りたくも念住し、永益ではないことを恐れ、これを踟蹰と名づけます。「踟蹰」とは行が前まない様子です。少し悲心があれば生死に住むのに似て、利物の事が微かなのを何益と名づけます。説き已わって般に入るのを茹気と名づけ、教法が住まないのを吞声と名づけます。「茹」とは飲むことです。愍みながらも逝くのは悲を銜んで前進するようなものです。
「從自出下」は譬えを合わせます。文は略されています。「悼」とは哀しむこと、矜れむことです。
次に菩薩を明らかにします。譬えの文は知られる通りです。次に譬えを合わせる中で、文相は皆、事助の益です。それゆえ必ず事理を合わせ行じなければなりません。それゆえ下文の「若全無下」において、さらに合行の意を説きます。もしこれを見なければ、どのように進むべきでしょうか。前の声聞の中では、先に法、次に喩え、次の支佛の中では、先に喩え、次に合わせます。この二つの合文は、文相は並びに略されていて委しく対合していません。それゆえ喩えにおいて文を扶けて委しく銷します。今の菩薩の中では合喩の文が足りているので、直接合わせて別に釋しません。大象は菩薩に合わさります。「從無常去至水火」は「雖聞圍合」に合わさります。「從又起慈悲去至獨去」は「不忍獨去」に合わさります。「從安耐生死」は「自知力大等」に合わさります。「從以智去至俱安」は「令群安隱」に合わさります。事度は功德となり、五分は法身となり、伏道は慧命となり、後後は増長となり、三祇は大象となります。
「從若小象子去」は抑揚です。小は大に及ばずという抑えであり、初心は歎くべきという揚げです。初僧祇の初めを小菩薩と名づけます。未だ退を免れないけれども、実に凡小と異なるゆえに稱歎できます。
次に証を引く中で「不住不調等」というのは、初心の菩薩は事度誓願が凡夫と異なるゆえに、不住不調と名づけます。二乗と異なるゆえに不住調と名づけます。「雖知已去」の三句もこれに例します。而も証を取らないゆえに並びに雖といいます。ただ伏道をもって無我などとなすのは、通別の二種の菩薩とは異なります。「多修下」は行の成ることを結びます。「狼」とは獣で、犬に似て狼です。この三蔵の中の三乗の智は、同じく無常・苦・空・無我を観ます。三乗の行には違いがありますが、並びに助道の事智とすることができます。
「自行下」は正しく加護を請います。「蒙如結益」は並びに文の通りです。「若全下」は合行の意を明らかにします。先に失を斥け、次に得を辯じます。「佛印」とは、印とは印可のこと、可とは稱可のことです。事理が相稱するゆえ聖心に可となり、聖が冥に印すれば障が去り理が顕れます。すでに諸失を具えまた理観に迷うならば、印は是処ありません。
次に「所以下」は昔の化事を引き、助の意を釋成します。法・譬・合があります。初めの法の中に二つあります。初めに昔の化を引き、「昔曾繫珠」とは義として正道のようであり、大を退き輪迴するのは義として重蔽のようであり、小をもって起こすのは義として助を用いるようなものです。初めに曾て大を稟け、大を退き流轉して大化に堪えず、まず小で導いて初めて大に入るに堪えます。それゆえ「小をもって起こす」と名づけます。
次に「又佛初欲下」から、現化の儀を引いて助の意を証します。本は大緣であり、義として正のようであり、大機が未熟なのは義として重蔽のようであり、尋ねて方便を用いるのは義として事を用いるようであり、當に宜しきにかなうゆえ梵音の讚のようであり、十方の諸仏すら助道を讚められます。まして今、重蔽にして助けずにいられましょうか。
「如富家子下」は次に譬えを挙げます。もし観蔽を論じるならば無生を用いるべきですが、事やむを得ず事助を用いるのは、『大般涅槃経』第十九巻に「たとえば人が囹圄に閉ざされ、廁孔から出るようなものだ。たとえば人が冤家を懼れて旃陀羅に依るようなものだ。たとえば婆羅門が病んで不浄の薬を食うようなものだ。菩薩摩訶薩が事度を行じるのもまた同様である」とあります。この義のゆえに事助を要します。まして今の文は正助合行であり、一切の助行は法界に非ざるはありません。合譬は見ることができます。
この六度の文は並びに『大智度論』第十五巻から第二十一巻にあり、毎に一度について衆釋が異なります。しかしまたこの四意を出ません。次に六句をもって事理を料簡します。先に問の意は、事度は三蔵に屬し、道品は無作であり、本は無作をもって正しく道品を行じ、無作の三三昧門に通じます。今ここで「事度を修めなければ無作三昧は成就しない」というのは、事度は無作道品に勝るべきでしょうか。
次に答の意は、度と品は倶に事と理があり、まして度と品は更に互いに相攝します。それゆえ勝劣もまた互いに名を受けます。ただ度の名を作すのが治の義に便があるゆえ、対治は度から名を受けます。今の文は事をもって理を助けるゆえ、上の文に「事なければ理も定まらない」といいます。前の文はすでに仏の今昔の化および大経の諸譬の文によって、事をもって理を助ける意を顕しています。行門を顕さんがためにどうして勝劣を論じましょうか。更に通別の治相を顕さんとして、それゆえ更に三対六句を作します。その中で先に六句を列ね、次に釋します。釋の中では先に別、次に通です。
別というのは、三対が同じでないことです。しばらく事度をもって理の道品に対し、生滅道品をもって円の六度に対し、相破・相修・相即を明らかにします。相破とは、文に「上の道品のごとくでは真に契うことができない」といい、前の第六の正修道品を指します。それゆえすなわちこれが無作道品であると知ります。もし六度を修すればすなわちよく蔽を破り、これが今の文の対治助開であり、すなわち六度が道品を破るのです。もし円の六度を修してもよく真に契ることができなければ、事の道品を修すればすなわちよく惑を破り、これを道品が六度を破ると名づけます。六度の下に波羅蜜といい、それゆえ彼岸といいます。
相修とは、事の六度を修めて対治が竟わったならば、更に無作道品を進修すべきであり、治道が成就するゆえ任運といいます。もし生滅道品を修めて対治が已わったならば、更に無作の六度を進修すべきであり、「如上所說」とは、上の六度が生滅道品を攝する中のことです。すなわち生滅道品が事の蔽を破り竟わったけれども、理観は全く毫末もないので、必ず無作の六度を進修しなければなりません。
相即とは、生滅の六度はすなわち円の道品であり、生滅の道品はすなわち円の六度です。事については生滅などの別があるけれども、諸法の体に據れば本来自ら相即しています。それゆえ経を引いて「皆、摩訶衍である」といいます。檀度は六度の初めを挙げ、念処は道品の首を挙げます。それゆえ相破・相修は権実を判ずるについて、助道を成し、相即はすなわち開権実について合行を成すと知ります。
もししばらく一往、無作のために事を修めて治とするならば、さきに説いた通りです。もし四教を遞に助とするならば、通教をもって事の六度に対し、別教をもって事に対し、円教をもって事に対し、別教をもって通に対し、円教をもって通に対し、円教をもって別に対すべきです。総じて六重の度品の不同を合わせます。
「通論下」は次に通じて諸法を論じ、皆相對して六句を辯じることができます。文の中では略して四諦・因縁を挙げます。「有無等」とは、有とは有益、無とは無益のことです。非有無とは、すなわち相即です。人は有無および双非を見て三諦と釋することを甚だ文旨を失います。もし助を論じなければ、当教において宜しきに隨い楽しむ所をもって有益無益等を論じます。それゆえ当教にもまた相破・相修・相即があります。
次に調伏諸根を攝することを明らかにします。初めに正しく調伏を明らかにする中に四教の不同があります。一一の教の中に皆六度を具え、一一の度の中に皆六根を調えます。すなわち一々の根の中に皆六度を具えます。四教はすなわち二十四番の六度となります。また二十四番の道品でもあります。もし隨自意の中に望めば、更に六作に対し、また度と品が各二十四となり、すなわち度と品が各四十八となります。一つの助治において豊富なことこの通りです。世の人は識らず、読者すらなお迷います。今の文にすでに「調伏諸根」といえば、すなわち作を置いて受を論じます。一一の教の中に皆ことごとく先に釋し次に結びます。
今初めの檀の中では財を論じないのは、しばらく根を調えるに從うためです。具足すれば隨自意の中のように、ただ六作六受について六度を明らかにすべきです。度にすでに四があり、四種の度をもって諸根を調伏するゆえ、調伏諸根にもまた四別があります。すなわち助道が作と受とに遍じ、六根六蔽の相を治め、六根において究寛六を顕します。それゆえこの因門はすでに諸法を攝します。この四教の六度六根をもし消釋するならば、必ず当教の教意に順じなければなりません。皆、後の教をもって展轉して前に融じ、初めて助道が展轉して治となる名を得ます。
次に戒の中を明らかにします。「不傷」とは、傷とはすなわち破ることです。戒を護って欠けなければ無傷といいます。「習應」とは、このように修習して相應を得ることをいいます。それゆえ『大品般若経』習應品の中で舍利弗が問うて「菩薩摩訶薩はどのように般若波羅蜜を修習し、般若波羅蜜と相應するのでしょうか」とあります。論の釋に「舍利弗は般若波羅蜜が行じ難く得難く受持し難いことを知って、この問いを作した」といいます。『大品』に「仏が舍利弗に告げて『菩薩摩訶薩は色空ないし一切種智空を習應し、これを般若波羅蜜と相應すると名づける』」とあります。論の問に「習應とは何の義か」とあり、答に「習とは般若波羅蜜に隨って修行し息まず休まないことをいう。これを習と名づける。たとえば弟子が師の教えに隨順して師の意に違わないのを相應と名づけるようなものだ。般若に隨順して増さず減らず、函と蓋が相稱するようであるのを相應と名づける」とあります。
円教の中では先に経を引きます。「殃掘云」とは、殃掘経に準じれば、その千人を殺し、ただ一人を少なくし、その母を害そうとし、仏が隨って来たのでまた仏を害そうとしました。初めの縁は詳しくは第二巻に引く通りです。仏は徐行して疾くなく、殃掘は疾走して仏を趁うも及ばず、偈を説いて喚して「住住大沙門等」三十六偈といいました。仏は二百七十六行の偈をもって答え、三行の偈ごとに結んで一答とし、合わせて九十二の答となりました。その三行の中ではただ第二行の初句を換えるだけで、餘の句は並びに同じです。初めにいいます。
住住殃掘摩 汝當住淨戒
我是等正覺 輸汝慧劍稅
等住無生際 而汝不覺知
汝殃掘摩羅 我是等正覺
今當輸汝稅 無上善法水
汝今當速飲 除汝生死渴
止まれ、鴦掘摩羅よ。あなたは清らかな戒を守りなさい。 私は正等覚者である。あなたに慧の剣の税を納めさせよう。 平等に無生の境地に住しているのに、あなたはそれを覚知していない。 鴦掘摩羅よ、私は正等覚者である。 今、あなたに税を納めさせよう。無上の善法の水を。 あなたは今すぐに飲みなさい。あなたの生死の渇きを除くために。
餘第二行初句者。
残りの第二行の最初の句について述べます。
我住無作際 我住無為際
我住無老際 乃至無病際
私は無作の境地に住しています。私は無為の境地に住しています。 私は無老の境地に住しています。さらには無病の境地に至るまで住しています。
無染際等。殃掘慚愧猶如盲人為毒螫脚。佛說偈已復告殃掘云。云何名為學。殃掘答言。一切眾生命皆依飲食存。此是聲聞宗斯非摩訶衍。所謂摩訶衍離食常堅固。云何名為一。謂一切眾生皆以如來藏畢竟恒安住。如是增數至增六中云。云何名為六。所謂六入處。此是聲聞宗斯非摩訶衍。若言摩訶衍。所謂彼眼根於諸如來常。明見來入門具足無減修。所謂彼耳根明聞來入門(已下並略第二第四句也)所謂彼鼻根明嗅來入門。所謂彼舌根明嘗來入門。所謂彼身根明觸來入門。所謂彼意根明說來入門。乃至增數以至十力。答竟佛命善來成阿羅漢。經中不云了了。今文義說一念眼根具權實理。故云了了及分明也。又今意根與經不同。亦是隨義。是故爾耳。經從外用故云明說。今從內證故名為知。經從外用名為說者。如法華中釋意根云。月四月至歲分別無窮盡。即是意根以說辯用。如是助者方助圓極。即名合行。彼九界下釋經。自謂等者。九界自謂當界為極。不知理體究竟真實。是故名為自謂非真。又具下釋六度舉例結成眼智。次例六塵總結。此則下合行。當知下結遍。並如文。大品云下。次引大品證也。云亡三者。此圓亡三語似通教。須簡同異使教相別。通教但以能所財物為三。別教約三亡於十界藥病授藥等三。圓教約三亡於空假中三。又若以能所財物之三。而為所亡。三教能亡觀行別者。義亦可然。通教即空而為能亡。別雖緣中用空不別。圓教即用不思議空。即此正是亡於三諦。常亡常照論亡論照。乃至無著亦須料簡。如是名為事理合行。應是具足者下正釋合行之相。先略立。次自他下釋也。具足事理自行化他。方名具足。然理通三教且從勝說。以圓對事方名具足。事則破其慳法等者。略語捨財。準例亦應釋捨身命。應云摩拭保重毫力不施名慳身法。資具長養不能傾生。名慳命法。封閉藏隱不欲人知。名慳財法。今不惜身命而行事施。身如聚沫命若電光財如糞土。名破慳法。雖能事施猶滯遠理。不能遍捨十界依正。慳義猶存名為慳心。心觀漸明不見十界身命財相。常與法界理檀相應。故云理則破其慳心。心慳若破則是遍捨一念十界百界依正。故入位時遍能逗會十界機緣。是故名為而能捨法。財施助法。法施融財。正助合行斯之謂也。結中二破謂破法破心。二捨謂捨財施法。事理二圓二捨周備。理施為體事施為用。此約自行以論體用。故云體用事理具足。度二死海至三德岸。名波羅蜜。作此觀時名為觀行。六根若淨名相似位。具如法華六根清淨。若入銅輪具如華嚴十種六根。次明攝佛威儀者。前之二科略攝因行。此去十科略攝果德。佛以無緣慈悲攝物。不動法性現諸威儀。必依不共力無畏等。故十力等名佛威儀。初文總標來意。今逐已下別明攝相。既以六度而為助道。即應六度攝佛威儀。六度名陜攝義不周。故隨名便以道品攝。前既六度以攝道品。當知道品不異六度。又道品秖是四諦之一。若有道諦方有四諦。若無道者苦集非諦。何況滅耶。道名復陜故具用四。文中雖分四種十力。十力之外無別十力。亦如四諦無量相等。故引殃掘力有無量。非諸聲聞緣覺所知。如處非處聲聞經中。即以六道而為非處涅槃為處。今摩訶衍約四四諦十界四土。辯處非處。故大乘力如十方土。大經既對二乘四諦以明無量。今亦且對二乘經力以明十力。於中初正攝四種十力。故一一力中皆須四義。初釋處非處中。言乃至無作者。中越二教。若欲例知。即以無生例於生滅。無量例於無作。巧拙雖殊所緣理等。下九力中一一皆須諸教對辯。方曉四種廣陜淺深。應知後之三力即三明也。大論二十七廣明十力。須者往尋。問。十力既不出四諦。何不但明四諦。何須明力。答。諦通所觀之境力明如來勝能。四諦在因十力唯果。四諦通小力唯在大。故須別說。是一法門等者。釋疑也。初釋四種疑。力必利生。生機不同能被必別。故須四種藥病相對以辯四法。不令等者。顯露法輪利益不等。同一座席所稟各殊。小不聞大令不謗大。大得密聞是故不抑。能仁者。亦曰能儒。直林。度沃焦等。具如華嚴名號品明。菩薩智臣等者。明五時中諸大菩薩知佛口密扣機而問。如王但云先陀婆來。智臣善知鹽水器馬。於一言音密被四類。機應主伴不差毫釐。鄭者亦重也。故漢書云。皇天所以鄭重。即頻降命也。菩薩亦爾。為眾生故頻煩扣聖。問十力去釋因果疑。初問意者。助道但在初心十力唯居果位。何得初心而攝果力。答意者。引三處文。以證初心可修十力。況助門遍具攝始終。十力既然諸法例爾。故但難力餘不復論。是故下文但直爾釋乃至不共及相好等。初引大論者。引論二釋並是初心已修十力。引初文者。既許菩薩修般若時十力不應住。初心若住望佛有過。非初心無故云初心。但未究竟。為是義故。故不應住。當知初心已有力分。又菩薩下釋是分得。若爾下次引華嚴。先更難論。論中但云初心許修豈名為得。此斥初解云多生著。故知即是修而未得。言後語入位者。次難後解云未究竟。應在初住方名入位。何關初心。準此二義不名初心具足十力。若依下正引經答。住前已得十力之分。是故當知非初心無。後云乃至如是觀者便成正覺。即是初住分證十力。言先當分別十種法者。自古講者。云十梵行。既在住前義當十信。文言三業及佛法僧戒者。此中語略。應云身身業口口業意意業及佛等四。舊經十七云。法慧菩薩承佛神力說十住竟。次正念天子問。具如今文所引者。是法慧答云。此菩薩一向專求無上菩提。先當分別十種之法。身乃至戒應如是觀。觀此十法皆同法界。且從皆非梵行而說。以此菩薩棄俗出家修梵行故。為無上道。復觀事行不可得也。何者。具清淨戒名為梵行。從緣方具。緣謂三業三寶戒法。對於心因方能成就。今初推因緣皆無自性同法性理。故云如空。故彼經云。若身是梵行。當知梵行則不清淨。則為非法。則為混濁。則為臭穢塵垢諂曲八萬戶蟲。一一皆如初句說之。若身業是梵行。當知四儀即是梵行。餘如今文。一一皆云應是梵行。若口是梵行。當知舌動即是梵行。唇齒和合即是梵行。若口業是梵行。當知語言為梵行。所說作無作稱譏毀譽。即為梵行。若意為梵行。當知覺觀憶念不忘思惟夢幻等為梵行。若意業為梵行。當知想是梵行。寒熱饑渴是梵行。苦樂憂喜是梵行。若佛是梵行。為色受想行識。為三十二相八十種好神通變化等。是梵行耶。若法是梵行。為正法邪法寂滅涅槃生非生實不實等法為梵行耶。若僧是梵行者。為四果向。為初果乃至阿羅漢果僧為梵行耶。為三明六通八解脫時不時解脫為梵行耶。若戒為梵行者。具在今文。又約三世五陰種種推求。梵行叵得。觀此十已。次修十力。既初心許修即是有分。次引地持。言菩薩知如來藏者。義通別圓今意在圓。故前後文引九大禪。或通證二或唯證圓。故今藏義應從圓釋。若爾。何故復云在初地耶。答。義兼別故寄教道說。別教次第初心尚具。何況圓耶。故引地持助成華嚴。聞思前位既是十信。信中已修出生十力。故準華嚴不須疑也。二乘除入者。除者捨也。入者解也。捨煩惱故而得解悟。悟即是入所入是處。即八勝處也。故大論仁王並云八除入也。故知初地自性禪中攝得一切大小諸定。豈非等者。十信心修初地有分。三據明矣者。結前三文。道品下結攝如文。十住下釋名。諸佛菩薩如實智用通達一切了了分明。無能壞者無能勝者。又無過失。是故究竟乃名無過。故云得勝。方便化物故曰堪能。又至果時化用最勝名勝堪能。今明攝法義雖通初。且約極果以釋力名。故毘曇婆沙問云。何故如來身中之智以立力名而非餘耶。答。無障礙義是力義。了見三界是力義。名雖在小義意通大。廣陜為異比說可知。言扶助者有此力能扶於法身。用無窮盡。地持中意有自行故。外用無窮。然佛力下重釋疑也。言此二釋者。此十化生足為一釋。殃掘無量力為一釋。此力云十。復云無量。當知一一皆無量也。雖云無量不出於四。故云彌顯。此之十力及下九科。大論法相卒不可盡。今略存名目以顯攝法。次攝四無畏者。諸十力智內充明了。故對外緣而無所畏。故次十力而攝無畏。如釋力名中第二釋也。全從化用得無畏名。於中初正釋。次道品下結成。次引大論釋名。通名無畏者。謂於大眾廣說自他及智斷等。決定無失。無恐畏相名為無畏。以於內心諸德具故。故於大眾廣說無畏。言大眾者。謂若人若天。若沙門婆羅門。若魔梵等及以餘眾。十住下次引十住釋疑。初文難起。於四事中下正釋。佛應於一切下重難。舉大要下重釋。初文以略而難於四。次文以廣而難於四。故知四是處中之說。此四次第者。大論云。初如藥師示一切藥。第二如示一切病滅。第三如示藥法禁忌。第四如示所應食物。應隨四教分別相狀。今文存略例力可知。大論第七問曰。菩薩無畏與佛何別。答。有二意。一者一切處。二非一切處。非一切處是菩薩法。故知初心亦修無畏。大論二十八廣解無畏。次攝十八不共法者。初文正明攝者。既十力內充外用無畏。顯所有德超過物表。異於一切凡聖所得。故次無畏攝不共法。文闕釋名。應云通言不共者。極果之法不與下地等共。若別解者。應云圓果不與偏小因等共也。大論二十四問曰。迦旃延子復以十力四無所畏大悲三念。為十八不共者何耶。答。以是故名迦旃延子所說。若釋迦子所說。應如今文所說者是。又十力等二乘有分。十八不共二乘無分。又云。十八不共二乘有分但有過失。當知無失方名不共。文云凡十二法者。恐此文誤。準文會數但闕十一。初文七法已屬三度。謂身口無失此二屬戒。無不定心無不知已捨。此二屬定。欲進念無減此三屬進。餘十一者。謂慧無減。解脫無減。解脫知見無減。三業隨智慧行。此六已列在文。餘五謂智慧知三世意無失無異想。此之五法文雖不列已。合在於慧無減解脫無減中明。以十一法同屬慧故。是故合說。其相云何。論云。於諸眾生等心普度。名無異想。如來意業不須更觀。常無漏失名意無失。佛智窮了達去來今。名知三世。論釋慧無減。但云十力無畏圓極故也。今文釋慧無減中。云常照至而為說法屬無異想。不失先念一句屬意無失。此之二義十力無畏圓極故也。餘三合在解脫無減中。何者。論釋解脫無減中。但云具足有為無為二種解脫。有為者謂無漏智慧相應。言無為者謂煩惱都盡。今文中云憶三世事不忘屬智慧知三世。以解脫具故能知三世。以義同故故得合說。六度之中但出三學及進度者。以此三學略攝六度足。加精進者。以此三學非進不成故加精進。闕施忍者。如前引論料簡易行故也。又可但是文略。若義取者應以念為忍也。無不知已捨為檀也。即六度義足。結成攝法中。云意如上說者。略結不共。與前諸義展轉相攝結成助道。準道品末比說可知。次攝四無礙者。諸佛於此四法智慧自在。捷疾無礙了了通達。故名無礙。法界次第中判為菩薩法者。法身菩薩皆具此四。此亦是通途大概判之。即如十力義通因故。此之四法初二是識藥。第三是知病。第四是授藥。故釋第一即約四教。第二同入一實咸是法藥。釋第三法即約十界病相。釋第四法還約四教以明授藥。故知授四法藥。被十界生用樂說辯。令他知名說前第一。令他知義說前第二。故用第四說於前二授與第三。次重釋云。辭約四種苦諦不云十法界者。據機緣說。應委悉約十法界中四機不同。故初略釋。次對四諦。次總結樂說。故樂說中令他聞說一切字一切義等。用前二也。赴一切音辭即是赴於第三十界音辭。又為對諦是故重釋。與前少異。次攝六通者至下禪境釋六通中說。瓔珞釋名云。神名天心通名慧性者。天然之慧徹照無礙。故名神通。眼耳如意指調伏諸根中者。隨何等通指入何教調伏諸根。餘之三通指十力者。他心即是欲力。餘二名同。亦應隨依何等漏盡。而知何等他心宿命。亦應皆有結成攝法。文無者略。次攝三明。言如六通中者。六中天眼宿命漏盡此三屬明。故婆沙中問。何故餘三不立明名。答。身通但是工巧而已。天耳但是聞聲而已。他心緣他別想而已。是故不立此三為明。餘三立者。宿命知過去苦生大厭離。天眼知未來苦生大厭離。漏盡能作正觀斷諸煩惱。復次前世智證明知過去相續。未來因果智證明知如散微塵。又前世智證明知自身衰。未來智證明知他身衰。復次前世智證明治常見。未來智證明治斷見。無漏智證明治二邊。又前世生空門。未來生無願門。無漏生無相門。問。在無學人何故立明。在於學人何故不立明名耶。答。從勝立故。又無學無無明不雜無明。故立明名。大論第三問曰。通明何別。答。直知過去名通。知過去因緣行業名明。直見死此生彼名通。知因緣際會名明。直云漏盡名通。知漏盡不復生名明。此明即是大羅漢所得故也。若爾。與佛何別。答。滿不滿別。是故通通於六。明唯局三。小乘中諸阿羅漢皆能得之。今此文中云佛菩薩之所得者。異於偏小故也。所依別故觀智異故。又小乘唯修大乘發得。應簡四教廣陜不同。次攝四攝中同事者。又亦應云同其苦集。為令斷故。先同後異。陀羅尼者。別則唯在於大不通於通。通則尚通三藏菩薩。況復通教後心。如毘尸王得歸命救護陀羅尼。即三藏義也。大論第六云。陀羅尼者能遮能持。一切善法持令不散。如完器承水。故名為持。一切欲惡遮令不作。故名為遮。又或心相應。或不相應。或全有漏。或是無漏。若云無色不可見。行陰法入。九智除盡智。意識所識等。並阿毘曇中陀羅尼義。若但云或相應或不相應等。則通於大小。若云菩薩摩訶薩得陀羅尼。一切時一切處常相隨逐。則唯在大。若別論者。如文所指。唯在無作正勤。若通論者。但云遮惡持善。則可以通四教釋之。苦集為惡道滅為善。溉者灌水也。次攝三十二相者。應具明四教相好不同。初三藏中。引婆沙云阿毘曇相品者。十住婆沙引小乘中相體業果。以為初心菩薩立觀法故。具如第二卷記。從還用至終不出施戒慧者。取六中三以攝相因。施戒生人天以慧導諸行。略舉此三攝相亦足。次通教中云不同上者。即空心修。豈三祇後方百劫耶。故知通教相體業果並與藏異。故引般若相即非相。及引十住空為相體。既異三藏不同相海。故知屬通。故大論十三。初以一施生三十七品。次以一施而為相因。復云。一一度各為相因。此並屬於通教意也。復次前兩道品下欲明別圓。更重比決有本無本如銅如鏡。以分前後。次從無量壽觀下。正明別圓法身現相。薩遮華嚴等者。薩遮尼乾經中。此尼乾子為嚴熾王說。無過人者唯有瞿曇。因此廣說如來相好種性化物。華嚴廣列八十四名。於一一名。皆云相好雲等。初云。如來有大相好名莊嚴雲等。有十蓮華藏海微塵數佛大人相好。又小相光明功德品明十種菩薩從兜率下放大光明。名幢王普照。照十世界微塵數佛剎。令彼十種眾生六根清淨。如是相好豈與丈六三十二空慧等同耶。故知前二但是教門權說之耳。
無染際などについては、殃掘(おうくつ)は、盲人が毒蟲に足を刺されたかのように、慚愧の心を抱いていました。仏が偈を説き終えて、さらに殃掘に告げました。「何を学と名づけるのか」。殃掘が答えて言いました。「すべての衆生の命は、みな飲食によって存続しています。これは声聞の宗旨であり、摩訶衍(大乗)ではありません。いわゆる摩訶衍とは、食を離れて常に堅固であることを言います。何を一と名づけるのか。すべての衆生はみな如来蔵によって、畢竟して常に安住していることを言います」。このように増数して第六に至るまでの中で言います。「何を六と名づけるのか。いわゆる六入処です。これは声聞の宗旨であり、摩訶衍ではありません。もし摩訶衍と言うならば、いわゆるかの眼根は、もろもろの如来に対して常に、明らかに見て入門に来たり、具足して減ずることなく修めることを言います。いわゆるかの耳根は、明らかに聞いて入門に来たり、(以下はすべて第二句と第四句を省略しています)いわゆるかの鼻根は、明らかに嗅いで入門に来たり、いわゆるかの舌根は、明らかに味わって入門に来たり、いわゆるかの身根は、明らかに触れて入門に来たり、いわゆるかの意根は、明らかに説いて入門に来たります」。乃至は増数して十力に至るまでです。答え終わって、仏は「善来」と命じ、阿羅漢となることを成し遂げました。経の中では「了了」とは説いていません。今の文の義では、一念の眼根が権と実の理を具えていると説くので、「了了」および「分明」と言うのです。また今の意根は経とは異なっています。これもまた義に従ったものです。それゆえそのようになるのです。経が外用から説くので「明説」と言い、今は内証から説くので「知」と名づけます。経が外用から説いて「説」と名づけるのは、法華の中で意根を解釈して「月四月から歳に至るまで分別して窮まり尽くすことがない」と言うのと同じです。すなわちこれは意根が説の弁用をもってするということです。このように助けるものが、はじめて円極を助けます。すなわちこれを「合行」と名づけます。かの九界の下は経を解釈します。「自謂」などとは、九界がそれぞれ自界をもって極と為し、理体の究竟真実を知らないことを言います。それゆえこれを「自謂にして真に非ず」と名づけます。また「具」の下は六度を解釈し、例を挙げて眼智を結成します。次に六塵を例示して総結します。「此則」の下は合行です。「当知」の下は遍を結します。みな文の通りです。「大品云」の下は、次に大品を引いて証明します。「亡三」と言うのは、この円の亡三は言葉が通教に似ています。同異を簡別して教相を別たなければなりません。通教はただ能・所・財物をもって三と為します。別教は三について十界の薬病・授薬などの三を亡じます。円教は三について空・仮・中の三を亡じます。またもし能・所・財物の三をもって所亡と為し、三教の能亡の観行が別であるとするならば、義もまたそのように言うことができます。通教は即空をもって能亡と為します。別は縁中を用いますが空を別たず、円教は即ち不思議の空を用います。すなわちこれこそまさに三諦を亡じるものです。常に亡じ常に照らし、亡を論じ照を論じます。乃至は無著もまた料簡しなければなりません。このように名づけて事理合行と為します。「応是具足者」の下は、正しく合行の相を解釈します。まず略して立て、次に「自他」の下で解釈します。事理・自行・化他を具足して、はじめて具足と名づけます。しかし理は三教に通じますが、しばらく勝れた説に従います。円をもって事に対すれば、はじめて具足と名づけます。「事則破其慳法等」とは、略して財を捨てることを語ります。例に準じれば、また身命を捨てることも解釈すべきです。「摩拭保重し毫力も施さない、これを慳身法と名づける。資具長養して生を傾けることができない、これを慳命法と名づける。封閉蔵隠して人に知られんことを欲しない、これを慳財法と名づける」と言うべきです。今は身命を惜しまずに事施を行うことを、身は聚沫のごとく、命は電光のごとく、財は糞土のごとしとし、これを破慳法と名づけます。たとい事施を行うことができても、なお遠理に滞り、十界の依正を遍く捨てることができず、慳の義がなお存するので、これを慳心と名づけます。心観が漸く明らかになれば、十界の身命財の相を見ず、常に法界の理檀と相応します。それゆえ「理則破其慳心」と言うのです。心の慳がもし破れれば、すなわちこれ一念十界百界の依正を遍く捨てることになります。それゆえ入位の時には、遍く十界の機緣に逗会することができます。それゆえこれを「而能捨法」と名づけます。財施は法を助け、法施は財を融じます。正助合行とはこのことを言うのです。結の中の二破とは、法を破し心を破することを言います。二捨とは、財を捨て法を施すことを言います。事理の二円、二捨が周備します。理施を体と為し、事施を用と為します。これは自行について体用を論じます。それゆえ「体用事理具足」と言うのです。二死の海を度して三徳の岸に至る、これを波羅蜜と名づけます。この観を作す時、これを観行と名づけます。六根がもし浄らかならば相似位と名づけます。具には法華の六根清浄のごとし。もし銅輪に入れば具には華厳の十種の六根のごとし。次に摂仏威儀を明かします。前の二科は略して因行を摂します。これより十科は略して果徳を摂します。仏は無縁の慈悲をもって物を摂し、法性を動かさずしてもろもろの威儀を現します。必ず不共・力・無畏などに依ります。それゆえ十力などは仏威儀と名づけます。初めの文は総標して来意を述べます。「今逐」の下は別に摂相を明かします。すでに六度をもって助道と為します。すなわち六度をもって仏威儀を摂すべきです。六度の名は狭く摂の義が周くありません。それゆえ名に随って便ち道品をもって摂します。前すでに六度をもって道品を摂しました。まさに道品は六度と異ならないと知るべきです。また道品はただ四諦の一つです。もし道諦があってはじめて四諦があります。もし道がなければ苦集は諦ではありません。まして滅においてをやです。道の名もまた狭いので具さに四を用います。文中には四種の十力を分かちますが、十力の外に別の十力はありません。また四諦に無量相などがあるがごとし。それゆえ殃掘を引いて「力に無量あり、もろもろの声聞縁覚の知るところに非ず」と言います。処非処のごとき、声聞の経の中では、すなわち六道をもって非処と為し涅槃を処と為します。今摩訶衍は四四諦十界四土について処非処を弁じます。それゆえ大乗の力は十方の土のごとし。大経はすでに二乗の四諦に対して無量を明かします。今もまたしばらく二乗の経力に対して十力を明かします。その中で初めに正しく四種の十力を摂します。それゆえ一一の力の中にみな四の義が必要です。初めに処非処を解釈する中で、「乃至無作者」と言うのは、中に二教を超えます。もし例を知らんと欲すれば、すなわち無生をもって生滅に例し、無量をもって無作に例します。巧拙は殊なれども所縁の理は等しいです。下の九力の中にも一一にみな諸教を対弁するが必要です。はじめて四種の広狭浅深を暁ることができます。後の三力はすなわち三明であると知るべきです。大論二十七に十力を広く明かします。必要な者は往いて尋ねるべきです。問う。十力はすでに四諦を出でない、何ぞただ四諦のみを明かさず、何ぞ力の名を明かす必要があろうか。答う。諦は所観の境を通じ、力は如来の勝能を明かします。四諦は因に在り、十力はただ果にあり。四諦は小に通じ、力はただ大にあり。それゆえ別に説く必要があります。「是一法門等」とは、疑いを解釈します。初めに四種の疑いを解釈します。力は必ず利生します。生機が同じでなければ能被も必ず別です。それゆえ四種の薬病を相対して四法を弁じるが必要です。「不令等」とは、顕露の法輪の利益が等しくないことを示します。同じ一座席でも所稟がそれぞれ殊なります。小は大を聞かずして大を謗らせません。大は密かに聞くことを得るのでそれゆえ抑えません。「能仁」とは、また能儒とも言います。直林・度沃焦など、具には華厳の名号品に明かなごとし。「菩薩智臣等」とは、五時の中の諸大菩薩が仏の口密を知り、機を扣して問うことを明かします。王がただ「先陀婆来れ」と言うがごとく、智臣は善く塩水器馬を知ります。一言音において密かに四類を被ます。機応主伴は毫釐も差いません。「鄭」とはまた重なりという意味です。それゆえ漢書に云く「皇天の鄭重する所以、すなわち頻りに命を降すなり」。菩薩もまた爾なり。衆生のために頻りに聖を煩わして扣します。「問十力」の下は因果の疑いを解釈します。初めの問の意は、助道はただ初心に在り、十力はただ果位に居す。何ぞ初心にして果力を見ることができようか。答の意は、三処の文を引いて初心に十力を修すべきことを証します。まして助門は遍く始終を摂します。十力が既然ならば諸法も例爾です。それゆえただ力を難じて余は復た論じません。それゆえ下文にはただ直爾に乃至不共および相好などを解釈します。初めに大論を引くのは、論の二釈を引き、並びにこれ初心すでに十力を修すとします。初めの文を引くのは、菩薩が般若を修する時、十力は住すべからざるを許すがゆえです。初心もし住すれば仏に望みて過ちあり。初心に無きに非ざるがゆえに初心と言います。ただ未だ究竟せざるのみ。この義のためゆえに住すべからず。まさに初心すでに力の分ありと知るべきです。また菩薩の下は是れ分得と解釈します。もし爾らば次に華厳を引きます。先に更に論を難じます。論の中にはただ初心に修を許すと云うのみ、豈に名づけて得と為すべきか。これは初解を斥して云く、多く生著あり。ゆえにすなわちこれ修して未だ得ざるを知ります。「後語入位」と言うのは、次に後解を難じて云く、未だ究竟せず、まさに初住において方に入位と名づくべし。何ぞ初心に関わんや。この二義に準じれば、初心に十力を具足すと名づけません。「若依」の下は正しく経を引いて答えと為します。住前にすでに十力の分を得ます。それゆえまさに初心に無きに非ざると知るべきです。後に云く「乃至如是観者便成正覚」とは、すなわち初住に十力を分証するのです。「先当分別十種法」と言うのは、古来の講者は十梵行と言います。すでに住前に在るので義は十信に当たります。文に「三業及び仏法僧戒」と言うのは、この中は語が略されています。「身身業口口業意意業及び仏等の四」と言うべきです。旧経十七に云く「法慧菩薩は仏の神力を受けて十住を説き竟り、次に正念天子が問う」。具には今文に引くところのごとし。これは法慧が答えて云く「この菩薩は一向に無上菩提を専求し、先にまさに十種の法を分別すべし。身乃至戒、まさにこのように観ずべし。この十法を観ずるにみな法界に同じ。しばらく皆非梵行に従って説く。この菩薩は俗を棄て家を出て梵行を修するがゆえに、無上道のためなり。また事行の不可得を観ずるなり」と。何となれば、清浄戒を具するを梵行と名づく。縁より方に具す。縁とは三業・三宝・戒法を言う。心因に対して方に成就す。今初めに因縁を推すに皆自性なく法性理に同じ。ゆえに「如空」と言う。ゆえにかの経に云く「もし身が梵行ならば、まさに梵行はすなわち清浄ならず、すなわち非法なり、すなわち混濁なり、すなわち臭穢塵垢諂曲八万戸虫なりと知るべし。一一にみな初句のごとく説く。もし身業が梵行ならば、まさに四儀すなわち梵行なりと知るべし。余は今文のごとし。一一にみなまさに梵行なるべしと云う。もし口が梵行ならば、まさに舌動すなわち梵行なりと知るべし。唇歯和合すなわち梵行なり。もし口業が梵行ならば、まさに語言を梵行と為すと知るべし。所説の作無作・称譏毀誉、すなわち梵行と為す。もし意が梵行ならば、まさに覚観憶念不忘思惟夢幻などを梵行と為すと知るべし。もし意業が梵行ならば、まさに想は梵行なりと知るべし。寒熱饑渇は梵行なり。苦楽憂喜は梵行なり。もし仏が梵行ならば、色受想行識のためか、三十二相八十種好神通変化などのためか、これ梵行なるや。もし法が梵行ならば、正法邪法寂滅涅槃生非生実不実などの法のためか梵行なるや。もし僧が梵行ならば、四果向のためか、初果乃至阿羅漢果僧のためか梵行なるや。三明六通八解脱時不時解脱のためか梵行なるや。もし戒が梵行ならば、具には今文のごとし。また三世五陰について種々に推求するに、梵行は叵得なり。この十を観じ已って、次に十力を修す。すでに初心に修を許す、すなわちこれ有分あり。次に地持を引く。「菩薩知如來蔵」と言うのは、義は別円に通ず。今の意は円にあり。それゆえ前後の文に九大禅を引く。あるいは通じて二を証し、あるいはただ円を証す。それゆえ今の蔵の義は円の解釈に従うべきです。もし爾らば、何ぞ復た初地に在りと言うや。答う。義は別を兼ぬるがゆえに教道に寄せて説く。別教の次第は初心すでに具す、何況んや円をや。それゆえ地持を引いて華厳を助成す。聞思の前位はすでにこれ十信なり。信の中にすでに出生の十力を修す。それゆえ華厳に準じれば須く疑うべからざるなり。二乗除入とは、除とは捨なり。入とは解なり。煩悩を捨つるがゆえに解悟を得。悟はすなわちこれ入、所入はこれ処、すなわち八勝処なり。それゆえ大論・仁王ともに八除入と云うなり。それゆえ初地の自性禅の中に一切の大小の諸定を摂得すると知る。豈に非ずや等とは、十信の心に初地の分ありを修す。三拠明らかなりとは、前の三文を結す。道品の下は摂を結する文のごとし。十住の下は名を釈す。諸仏菩薩の如実智用は一切に通達し了了分明、能く壊する者なく能く勝つ者なし。また過失なし。それゆえ究竟して乃ち無過と名づく。ゆえに得勝と云う。方便もて物を化するがゆえに堪能と曰う。また果に至る時、化用最も勝れたるを勝堪能と名づく。今摂法を明かす義は初に通ずといえども、しばらく極果について力の名を釈す。それゆえ毘曇婆沙に問うて云く「何の故に如来の身中の智をもって力の名を立て、余には非ざるや」。答う「無障礙の義はこれ力の義なり。了見三界はこれ力の義なり。名は小に在りといえども義意は大に通ず。広狭を異と為す、比説して可知なり」。「扶助」と言うのは、この力ありて能く法身を扶け、用は窮まり尽きることなし。地持の中の意は自行あるがゆえに外用窮まりなし。然るに仏力の下は重ねて疑いを釈す。「此二釈」と言うのは、この十化生は一釈と足る。殃掘の無量力は一釈と為す。この力は十と云い、復た無量と云う。まさに一一みな無量なりと知るべきです。無量と云えども四を出でず。ゆえに弥々顕ると云う。この十力および下の九科は、大論の法相は卒に尽くすべからず。今略して名目を存して摂法を顕す。次に四無畏を摂す。諸の十力智は内に充満明了なるがゆえに、外縁に対して畏るるところなし。ゆえに次に十力の次に無畏を摂す。力の名を釈する中の第二釈のごとし。全く化用に従って無畏の名を得。その中で初めに正しく釈し、次に道品の下に結成し、次に大論を引いて名を釈す。通名の無畏とは、大衆において広く自他および智断などを説き、決定して失なく、恐畏の相なきを無畏と名づく。内心に諸徳具わるがゆえに、大衆において広説して無畏なり。「大衆」と言うのは、人・天・沙門・婆羅門・魔梵などおよび余衆を言う。十住の下は次に十住を引いて疑いを釈す。初めの文に難起こる。四事の中においての下は正しく釈す。仏は一切に対して応ずの下は重ねて難ず。大要を挙げの下は重ねて釈す。初めの文は略をもって四を難じ、次の文は広をもって四を難ず。ゆえに四はこれ処中の説と知る。この四の次第は、大論に云く「初めは薬師が一切の薬を示すがごとし、第二は一切の病滅を示すがごとし、第三は薬法の禁忌を示すがごとし、第四は所応に食すべき物を示すがごとし」。まさに四教に随って分別して相状をなすべし。今文は略を存す、力の例を知るべし。大論第七に問うて曰く「菩薩の無畏と仏と何の別かあらん」。答う「二の意あり。一は一切処、二は非一切処。非一切処はこれ菩薩の法なり」。ゆえに初心もまた無畏を修すと知る。大論二十八に無畏を広く解す。次に十八不共法を摂す。初めの文に正しく摂を明かす。すでに十力は内に充ち外用無畏なり。すべての徳の物表に超過し、一切の凡聖の所得と異なるを顕す。ゆえに次に無畏の次に不共法を摂す。文に名を釈するを闕く。まさに云うべきは、通じて不共と言うのは、極果の法は下地などと共にせざるなり。もし別に解せば、まさに円果は偏小の因などと共にせざるなりと云うべきです。大論二十四に問うて曰く「迦旃延子は復た十力四無所畏大悲三念をもって十八不共と為す、何の故か」。答う「是れをもってのゆえに迦旃延子の所説と名づく。もし釈迦子の所説ならば、まさに今文の所説のごとくなるべきなり。また十力などは二乗に分あり、十八不共は二乗に分なし。また云く、十八不共は二乗に分ありといえどもただ過失あり。まさに無失をもって方に不共と名づくべきなりと知る」。文に「凡十二法」と云うは、恐らくはこの文は誤りならん。文に準じて数を会すればただ十一を闕く。初めの文の七法はすでに三度に属す。身口無失はこの二は戒に属す。無不定心・無不知已捨はこの二は定に属す。欲・進・念無減はこの三は進に属す。余の十一は慧無減・解脫無減・解脫知見無減・三業随智慧行なり。この六はすでに文に列ねたり。余の五は智慧知三世・意無失・無異想なり。この五法は文には列ねずといえども、すでに慧無減解脫無減の中に合在して明かす。十一法をもって同じく慧に属するがゆえに、これがため合わせて説く。その相云何。論に云く「諸衆生に対して等心普度するを無異想と名づく。如来の意業は更に観を須いず、常に漏失なきを意無失と名づく。仏智は窮めて去来今に了達するを三世を知ると名づく」。論に慧無減を釈してただ十力無畏円極のゆえというのみ。今文に慧無減を釈する中に「常照至而為説法」と云うのは無異想に属し、「不失先念」の一句は意無失に属す。この二義は十力無畏円極のゆえなり。余の三は解脫無減の中に合在す。何となれば、論に解脫無減を釈する中にただ有為無為の二種の解脫を具足すと云うのみ。有為とは無漏智慧相応を言い、無為とは煩悩都尽を言う。今文の中に「憶三世事不忘」と云うのは智慧知三世に属す。解脫具わるがゆえに能く三世を知る。義同じがゆえに合説を得。六度の中にただ三学および進度を出すのは、この三学をもって六度を略摂して足る。精進を加うるのは、この三学は進に非ざれば成ぜざるがゆえに精進を加う。施忍を闕くのは、前に論を引いて料簡したごとく易行のゆえなり。またただこれ文の略なるのみ。もし義を取れば、まさに念をもって忍と為し、無不知已捨をもって檀と為すべきです。すなわち六度の義足る。摂法を結成する中に「意如上説」と云うは、略して不共を結し、前の諸義と展転相摂して助道を結成す。道品の末に準じて比説して可知なり。次に四無礙を摂す。諸仏はこの四法において智慧自在にして捷疾無礙、了了通達なるがゆえに無礙と名づく。法界次第の中に菩薩法と判ずるのは、法身菩薩はみなこの四を具す。これもまた通途の大概の判なり。すなわち十力の義が因に通ずるがごとし。この四法は初めの二はこれ識薬、第三はこれ知病、第四はこれ授薬なり。ゆえに第一を釈するにすなわち四教についてす。第二は同じく一実に入る、みなこれ法薬なり。第三を釈するにすなわち十界の病相についてす。第四を釈するには還って四教について授薬を明かす。ゆえに四法の薬を授け、十界の生を被るに楽説の弁を用うと知る。他に名を知らしむれば前の第一を説き、他に義を知らしむれば前の第二を説く。ゆえに第四を用いて前の二を説き、第三を授与す。次に重ねて釈して云く「辞約四種苦諦、十法界と云わず」とは、機縁に拠って説く。まさに委悉に十法界の中の四機不同についてすべきです。ゆえに初めに略釈し、次に四諦に対し、次に楽説を総結す。ゆえに楽説の中に「令他聞説一切字一切義等」と云うは、前の二を用う。一切の音辞に赴くとは、すなわちこれ第三の十界の音辞に赴くなり。また諦に対して重ねて釈す。前と少し異なり。次に六通を摂す。「至下禅境釈六通中説」の下は、瓔珞に名を釈して云く「神は天心と名づけ、通は慧性と名づく」。天然の慧は徹照無礙なるがゆえに神通と名づく。眼耳如意は調伏諸根の中を指す。何等の通に随っても、何の教に入って諸根を調伏するかを指す。余の三通は十力を指す。他心はすなわちこれ欲力なり。余の二は名同じ。またまさに何等の漏尽に随ってか何などの他心宿命を知るべきです。またみなまさに摂法を結成すべきです。文に無きは略なり。次に三明を摂す。「如六通中」と言うのは、六の中の天眼・宿命・漏尽のこの三は明に属す。ゆえに婆沙の中に問う「何の故に余の三は明の名を立てざるや」。答う「身通はただ工巧のみ。天耳はただ聞声のみ。他心は他別想を縁ずるのみ。それゆえこの三を立して明と為さず。余の三を立つるは、宿命は過去の苦を知りて大厭離を生じ、天眼は未来の苦を知りて大厭離を生じ、漏尽は能く正観を作して諸煩悩を断ず。復次に前世智の証明知は過去相続を知り、未来因果智の証明知は散微塵のごとく知る。また前世智の証明知は自身の衰を知り、未来智の証明知は他身の衰を知る。復次に前世智の証明知は常見を治し、未来智の証明知は断見を治し、無漏智の証明知は二辺を治す。また前世は空門を生じ、未来は無願門を生じ、無漏は無相門を生ず」。問う「無学の人に在りて何の故に明を立つ。学の人に在りて何の故に明の名を立せざるや」。答う「勝より立つるがゆえなり。また無学は無無明にして無明に雑わらず。ゆえに明の名を立つ」。大論第三に問うて曰く「通と明と何の別かあらん」。答う「ただ過去を知るをば通と名づく。過去の因縁行業を知るをば明と名づく。ただ死此生彼を見るをば通と名づく。因縁際会を知るをば明と名づく。ただ漏尽と云うをば通と名づく。漏尽して復た生ぜざるを知るをば明と名づく。この明はすなわちこれ大羅漢の所得なるがゆえなり」。もし爾らば、仏と何の別かあらん。答う「満と不満の別なり。それゆえ通は六に通じ、明はただ三に局まる。小乗の中の諸阿羅漢はみな能くこれを得。今この文の中に「仏菩薩の所得」と云うのは、偏小と異なるがゆえなり。所依別なるがゆえに、観智異なるがゆえなり。また小乗はただ修し、大乗は発得す。まさに四教の広狭不同を簡別すべきです。次に四摂を摂す。中に同事とは、またまさに「同其苦集、為令断故、先同後異」と云うべきです。陀羅尼とは、別にはただ大に在りて通に通ぜず。通にはなお三蔵の菩薩に通ず、何況んや通教の後心をや。毘尸王が帰命救護陀羅尼を得るがごときは、すなわち三蔵の義なり。大論第六に云く「陀羅尼とは能遮能持なり。一切の善法を持して散ぜざらしむ。完器の水を受くるがごとし。ゆえに持と名づく。一切の欲悪を遮して作さざらしむ。ゆえに遮と名づく。またあるいは心相応、あるいは不相応、あるいは全く有漏、あるいはこれ無漏、もしは無色不可見、行陰法入、九智除尽智、意識所識などと云う。並びに阿毘曇の中の陀羅尼の義なり。もしただあるいは相応あるいは不相応などと云わば、すなわち大小に通ず。もし菩薩摩訶薩は陀羅尼を得て一切時一切処に常に相随逐すと云わば、すなわちただ大に在り。もし別論すれば、文の指すがごとく、ただ無作正勤に在り。もし通論すれば、ただ遮悪持善と云わば、すなわちもって四教に通じてこれを釈すべし。苦集は悪と為し、道滅は善と為す。溉とは水を灌ぐなり」。次に三十二相を摂す。まさに具さに四教の相好不同を明かすべきです。初めに三蔵の中に、婆沙を引いて云く「阿毘曇相品」とは、十住婆沙に小乗の中の相体業果を引く。初心の菩薩のために観法を立つるがゆえなり。具には第二巻の記のごとし。「還用至終、不出施戒慧」より、六の中の三を取りて相因を摂す。施戒は人天を生じ、慧をもって諸行を導く。略してこの三を挙げて相を摂するもまた足る。次に通教の中に「不同上」と云うのは、すなわち空心に修す。豈に三祇の後に方に百劫ならんや。ゆえに通教の相体業果は並びに蔵と異なると知る。ゆえに般若を引いて「相即非相」とし、および十住を引いて「空為相体」とす。すでに三蔵と異なり相海と同ぜざるがゆえに、通に属すと知る。ゆえに大論十三に、初めに一施をもって三十七品を生じ、次に一施をもって相因と為し、復た云く「一一度各々相因と為す」。これ並びに通教の意に属す。復次に前の両道品の下に別円を明かさんと欲し、更に重ねて比決す。「有本無本、如銅如鏡」、もって前後を分かつ。次に無量寿観の下より、正しく別円の法身の現相を明かす。「薩遮華厳等」とは、薩遮尼乾経の中に、この尼乾子は厳熾王のために説く。「過人者なし、唯だ瞿曇のみあり」。これによりて広く如来の相好種性化物を説く。華厳に広く八十四名を列ね、一一の名において皆「相好雲等」と云う。初めに云く「如来に大相好あり、名づけて荘厳雲等と為す。十蓮華蔵海微塵数の仏大人相好あり」。また小相光明功徳品に十種の菩薩が兜率より下りて大光明を放つを明かす。名づけて幢王普照と為す。十世界微塵数の仏刹を照らし、彼の十種の衆生の六根を清浄ならしむ。かくのごとき相好は、豈に丈六三十二の空慧などと同じからんや。ゆえに前の二はただこれ教門の権説なるのみと知る。
止觀輔行傳弘決卷第七之三
止観輔行伝弘決 巻第七の三
止觀輔行傳弘決卷第七之四
止観輔行伝弘決 巻第七の四
唐毘陵沙門湛然述
唐代毘陵の沙門湛然の述
次明知次位者。先明來意。既用前七以為所修。二世善發入位不定。或未入位未得謂得。恐極下根生重罪故。故須明位令行者識之。四教各有真似二位。在賢名似入聖名真。真位究竟名為解脫。證已了位能為他說。名為知見。知見秖是智眼異名。次舉喻云朱紫等者。朱正色如真位。紫間色如似位。如赤黑合以成於紫。真妄尚雜故名為似。終不下正釋次位。於中具釋四教不同。初文通列四門明一一教位意。意在斷惑以證真故。故三藏中四門名異。謂空有等四門。位別即七賢七聖二十七賢聖等。故云有殊。一一門中皆斷見思緣真諦理。故云斷及諦理孱然不異。孱者現也。二乘多論一生等者。辯門門中二乘不同。言一生者。雖有百劫三生種解脫分等。從念處去乃至一生。或二或三或七生等。論其元意即生取證。元意雖爾非皆一生。是故云多。雖有四門明位小異得果大同。如判第十六心見修不同。故云小異。自餘三果多分楷定。故云不過迭動。菩薩三祇百劫故曰時長。六度百福名為行遠。不同二乘一生斷結。故云亦別。奢促不同名徑路殊。咸趣真諦名歸途一。菩薩之人望於圓教。雖權實異。心願易迴不同於小。五功德者。具如第三卷引。次此教下斥濫也。此科正謂簡濫故來。是故須斥。次明通位中云簡名別義通。如玄文第五卷初十義料簡名通義圓。名別義圓等。次明別位中。先明別位意。次略指經論。攝論華嚴。多明次第四十二位。言一往者諸教不同。且指此教以為大略。然華嚴中有別有圓非專一教。如經列位位位皆有行布普賢二門故也。又諸經論別位多途。故云一往。但別下示別位相。初示經。次示論。通論者如中攝等。通釋大乘。別論者如智論地論等。別釋一經。那得等者破執也。論申當門為引偏好。晚人不達抑有揚無。失有方便。毀無讚有失無通途。三四二門亦復如是。雖欲引進翻為哽塞。今明等者次述論意。意在通理。阡陌等者。南北為阡東西為陌。經如阡。緯如陌。四門如緯諸位如經。門門位殊皆至極果。故云一也。此方等者準此望彼。文舉通別意兼藏圓。此中正明別教次位。故且舉別以望通教。辯於所通真中不同。是故未云藏圓兩教。若以四門通理攝教。借使西方諸論盡度。門理勘之則易可識。諍論自息矛盾不生。經言等者。證向門異理同故也。開權顯實。三教諸門尚歸一實。豈況當教諸門不融。世不達者。謂智者大師多好破斥。而不見融會令歸一乘。況十意融通除疑釋滯。銷通經論教法不壅。結及指廣如文。次以十意融通經論者。人見十意之初有諦理之言。便將十乘以對十意。深不便也。若以境對理稍似相當。如何發心用對八教。況下八義對意永殊。如四悉銷經翻譯胡漢。將對安忍甚為不類。又第四文雖云破遍。乃與通塞共為一文。況今文中通塞之名。與十乘中通塞意別。況復自云融通佛法。佛法則指一期佛教。故十法成觀且在行門。故知定不得用十乘釋此。又圓教諸位經論易同少生諍計。別教既是界外析法。所明次位附近教道。文多互異故有多途。是故因以十意融通。今之次位即是十中之一意也。然此十意一一皆遍一切經論。所以前之六意借用釋經五重玄義。後之四意用附文意。於前六中初五正對五重玄義。第六即是今家開拓用義方法。令後學者識一法多含無量歸一。就前五中第一云道理乃至開合等者。一期佛教並以所詮而為教體。教既半滿偏圓不同。體亦隨教權實不一。諸諦離合隨智隨情。歸會法華唯一實相。具如境妙中說。此用顯體意也。第二意者。先舉譬。次即是下合譬。便將合義以釋譬意。綱謂綱紀如綱之外圍。格謂格正如物之大體。以教判釋得教遠度。故云綱格。教隨機異如綱目也。外正曰匡內實曰骨。四門外正一理內實。橫周為盤竪。窮曰峙。門門諸行各有橫竪。又用漸頓祕密不定如匡。用藏通別圓如骨。橫用諸門如盤。竪歸一理如峙。以此八教收攝無外。名為包括。八中祕密為密。餘七顯露名露。然餘七中皆有密露。又祕密不定名密。顯露不定名露。涇清渭濁。頓教如清漸教如濁。頓中別濁圓清。漸中藏濁餘清。又法華唯清。鹿苑唯濁。方等般若有清有濁。又此八教用各有意。藏等四教是教門法式。頓等四教是敷置引入。如來權巧善達物機頒宣藏等以為頓等。或開或合。宜盈宜縮。名雖有八用必不俱。具如法華玄文第一卷釋。及第一卷釋籤中明。此用判教意也。第三意者。一代教法首題名字。名該一部。部內義兼大小時節因果互形。如是等相莫不相違。或一義多名。或多義一名。或離或合或但或兼。言義相乖一多違諍。不可以世情和會。不可以文字博解。自古迄今。無能達者。得四悉意無處不通。諸法相望互為彼此。於赴機教情何所疑。此用釋名意也。第四意者。祛執遣迷。有執咸破。單複具足無言等見。漸頓諸教破立不同。計能計所執性不等。用法華意。遍破遍立。情無滯礙能所適然。此用明用意也。第五意者。凡有所說結成法門。以對真似漸頓諸位。位是所階行是能修。能所相帶則方便與證因果不混。一切權位皆歸實果。此用明宗意也。第六意者開拓法門使佛意不壅。雖廣開拓乃符本文。仍使不失部中正意。綸者繩索也。緒者絲頭也。縱橫開合不失次第。亹亹者文彩順也。亦猶風之偃草也。謂聲韻義理無煩雜過。第七已下附文意中。開章等者。如諸義疏凡開章段。無不生起如鉤鎖也。如今止觀十章十乘。無不前後次第生起。八帖釋等者。雖文前撮要義門玄解。橫竪並沓總別離合。或廣張旁布。或一轍竪深。復須附文次第帖釋。不廣不略有事有理。總用前七法據理銷釋。無涉華辭意存文旨。九翻譯等者。前朝諍輕未多紛競。怛是西語。咸曰胡音。後因黃冠虛構偽制。近代方始胡梵甄分。葱嶺已西並屬梵種。鐵門之左皆曰胡鄉。言梵種者。光音初下展轉出生。是故五天並云梵種。近代著述特諱胡音。第十意者。附文成觀文不虛設。觀與文合名為印心。如釋法華。一一句經皆為四解。一者因緣。二者約教。三者本迹。四者觀心。若釋他經唯闕本迹。三意咸通。事理存焉。行解具足。又如玄文一一科義。亦為四解。一者分別。二者麁妙。三者開顯。四者觀心。玄釋附文無不成觀。非數他寶等者。華嚴偈云。譬如貧窮人晝夜數他寶。自無半錢分。多聞亦如是。譬如盲瞽人本習故能畫。悅彼不自見。多聞亦如是。譬如聾聵人善奏諸音樂。悅彼不自聞。多聞亦如是。此斥偏聞之人。唯翻譯下謙退斥奪。方音不同非關義理不可卒備。故云未暇。文字法師者。內無觀解唯構法相。事相禪師者。不閑境智鼻隔止心。乃至根本有漏定等。一師唯有觀心一意等者。此且與而為論。奪則觀解俱闕。世間禪人偏尚理觀。既不諳教以觀銷經。數八邪八風為丈六佛。合五陰三毒名為八邪。用六入為六通。以四大為四諦。如此解經偽中之偽。何淺可論。縱以心王解王五陰釋舍。念一體為持鉢。離二見為洗足。將解般若持鉢之名。終不可也。用釋法華王舍之稱。殊無所擬。既無分別淺偽何疑。是故今家觀心銷經隨經部別。義勢不等。以理為本。詮行各殊。次位者下正示十乘次位一意。即彼十中次位之一。為明別教次位難會。故演十意指一通之。若是十乘何不但云此之十法是十乘耶。至此但指十中之一。次釋圓教次位者。先明五悔為入位之方。他人圓修都無此意。將何以為造行之始。但云一念即是如來。空譚舉心無非法界。委撿心行全無毫微。若修四種三昧至重作方便者。明方便來意。四種三昧通用二十五法。為通方便。若行法華別加五悔。不通餘行。故云唯也。若方等中以求夢王為別方便。常行常坐及隨自意。直爾行之。逆順十心一切通具。先知下明五悔意為入觀之方。是故重牒前文觀法。但心理下明用向觀法不能發真。是故應須更加五悔。此之五悔為圓位初因。若復悠悠道法安剋。懺名下次正明五悔。雖有勸請等四不同。莫非悔罪。故名五悔。具如下文明悔意中各有所治。今僧常儀前四出十住婆沙。願文在大涅槃。若占察經亦但列四。南山云。占察不須更加發願。以其四悔皆是願故。若爾。經論皆四。今何故五。答。如彌勒問經云。晝夜六時勤行五悔。不假苦行能得菩提。故必須願。此五次第者。若皆名悔莫非治罪應無次第。若準婆沙占察次第並同。若如是等長悔之文。亦五悔義足。初如是下即懺悔也。次今諸佛下即迴向也。次眾罪去一偈。即重舉懺悔略例餘三。次一偈重舉世尊以為歸禮。故無次第。且依次第為生起者。若舊罪不除徒施勸請。既勸請已覩相聞教依教修行。若嫉妬不除自善微劣。尚不喜他何能迴向。四法具足以願導之。如此五法尚能入位。況滅罪耶。比來行人都無介意。徒勞讚者急誦未與耳識相應。一生若斯枉招信施。業不他受試為思之。初懺悔者。初文釋名。陳露者。陳列也首也。悔者伏也。金光明疏釋懺悔品。彼廣釋名云。懺名白法。悔名黑法。白法須尚黑法須捨。又懺名改往悔曰修來。又懺名披陳悔名斷續。五體者如前所釋。又今文但是說其懺意。懺辭具在法華三昧。亦可隨己智力任意廣陳。次勸請者。大為二意。一者請住於世。二者請轉法輪。大論至云云者。大論十五具釋。問。諸佛之法。法應說法。何須勸請。又若諸佛現見在前請佛可爾。今乃不見云何可請。答。佛雖必說而不待請。請者得福何得不請。猶如大王雖多美膳若有請者必得恩福。錄其心故是故有益。如修慈心令眾生樂。眾生雖無得樂之者。念者得福。請佛亦爾。復次佛法待請為說。又眾生雖不面見諸佛。諸佛何嘗不見其心聞其所請。假令諸佛不聞不見請亦得福。何況聞見而無益耶。又破外道作如是言。道法常定何須多言。防其謗故。故須待請。又外道言。諸佛不應貪壽住世。為防此謗。是故須請。又若不請謂佛愛著。令知無著故須待請。又諸外道皆無請說。故今須請。次謂轉下至住世者。盡是論文。有此諸意故須二請。若佛初成先轉四諦。今為求圓是故通請。夫命至得住等者。明勸請所指。所言請者為請何等。謂請佛大悲非請色陰。若大悲不息身則久住。故舉命業以譬請住。報命如佛我心如業。又報命如色身業如大悲心。我心請佛不息。願佛大悲住世。變化亦爾。作意神通隨心所期。期心未息變化不止。我心如心佛身如化。我心不息願佛莫滅。又佛身如化大悲如心。願莫息大悲則色身不滅。我今請佛如大炬火為破無明。我心不息願佛勿滅。次隨喜者。佛轉法輪眾生得三世益。我助彼喜者。喜前勸請也。過去下種。現在重聞得成熟益未曾下種。現在成種未來方益。故三世益皆因法輪。故我隨喜眾生得益。大論六十一云。隨喜者有二種。一者世間。二者出世。若人無有出世善根。我今隨喜眾生世福。是故隨喜通於有漏無漏。俱名為福。又福德者是菩薩摩訶薩根本。能滿菩提。聖人讚歎。智者行處無智遠處。是福因緣能得輪王諸天乃至一切種智。知如是等得正知見。是故見福而生歡喜。復次我應與眾生善。其自修福是故我喜。復次眾生有善與我相似。是我同伴。是故我喜。復次菩薩摩訶薩於十方三世佛及菩薩二乘一切修福者。而生歡喜故名隨喜。若無福德畜生無異。但同飲食淫欲鬪諍。修福之人眾生尊敬。猶如熱時清涼滿月。是故隨喜。大論三十二云。如賣買香等。問。云何隨喜心過二乘上。答。以隨喜善迴與眾生故。觀眾生至正緣了等者。如法華中常不輕品。不輕菩薩見諸眾生具足三因。皆當作佛。故不敢輕。此但敬其正因故也。正因之中三因具足。況無始時曾聞一句即了因種。彈指合掌即緣因種。故此菩薩凡見眾生皆悉與記。乃至身行不輕之行等(云云)。毒鼓者。大經第九云。譬如有人以新毒藥用塗大鼓。於大眾中擊令出聲。雖無心欲聞。若有聞者遠近皆死。唯除一人不橫死者。謂一闡提。纔聞即能破無明惑。名為近死。聞未即益作後世因。名為遠死。諸教諸味及經時節。以論遠近。四念處云。若有聞者遠近不死。謂但破於見思塵沙。法華隨喜法等者。隨喜品中從法座起。至於餘處為他人說。他人聞已復隨喜轉教。如是展轉至第五十。校量聞法而生隨喜。故云隨喜法。大品隨喜人者。經云。若聲聞人能發心者我亦隨喜。聲聞是人隨喜其人。名隨喜人。人必有法法必藉人。故云互舉。迴向者。以隨喜福與眾生共及向菩提。菩提如文。施眾生者。然修因福不可得共。若得果時則以此福施於眾生。是故菩薩得世四事利益眾生。又自以福淨其身口。人見歡喜所說信受今得十善乃至種智。乃至舍利能令一切眾生得道。是故果報與眾生共。今因中說果故云與共。若言福因與他共者。從初發心所修善根盡與眾生。後時將何以為成道之因。以善法體不可與人。故今直以無畏無惱。以施眾生。用無所得故至菩提。故淨名云。迴向心是菩薩淨土。迴向為大利等。故法華梵天施宮殿時。皆發願云。願以此功德等(云云)。如迴聲入角等者。大論三十二云。迴向者。如少物上王。如迴聲入角。問。菩薩功德勝於二乘。有何奇特。答。今此不以功德比之。但以隨喜迴向心比。如巧匠指示倍得價直。執斧之人倍用功力。直不足言。聲聞自行如執斧者。菩薩教他而行迴向猶如大匠。大論問曰。何故名二乘為自調自淨自度。而不迴向。答。戒為自調禪為自淨慧為自度。二乘唯自修此三故。不取等者。釋上斷三界等四。謂不取苦不念集。不見滅不得道。於此四中而不分別世及出世因果等相。名不分別。如是名為正迴向也。實相無取乃至無有分別故也。能迴向至妄想等不生者。大論云。菩薩心空檀波羅蜜乃至種智。一切皆空。一相無相如佛所說。如是迴向如箭射他無不中者。以見無相不見不得一切諸法故爾。能謂迴向之心。所謂眾生佛果。如是能所及一切法。一心推求皆不可得。亡能亡所。如是一切所迴向之法。無不歸實故不可得。無已今當等者。三世推求此之能所生滅不住。又發心為已。迴向為今。所迴向處為當。又所迴向中極果為當眾生為現。又眾生者亦有當現。即諸眾生名之為現。共福當得名之為當。如是三世畢竟叵得。如三世諸佛所知等者。唯一實相是佛所知所見所許。於中能知即種智。能見即佛眼也。能許即是本時弘誓及一切行。是名真實等者。如佛所知方名真實。非向權果。權果虛妄即對破藏通所期之果。言最上者非上中下之上。即指圓教名為最上。最上故具足。此破別教也。則不謗佛等者。計佛果為有乃至非有非無。皆名謗佛。何以故。佛果非有乃至非有非無。非苦故無過咎。非集故無繫著。有道故無毒。有滅故無失。此依無作四諦為迴向也。言無苦集唯有道滅。且約事說。理即苦集本是道滅。何但等者。前三謂懺悔勸請隨喜。後一謂發願。前後皆例今迴向意。依無作諦而不見諦。名真五悔。能發真位。故引婆沙證成圓意。故知五悔並依無作。方令懺悔見罪性本空。勸請知法身常住。隨喜了福等真如。發願達能所平等。次明發願者。初釋名云如許人物等者。卷者約也。亦契也。說文云。券別之書以刀判其旁。故謂之契。故字從刀。御者侍也。主也。一切諸法以願侍之。以願為主。亦名下至盛物者。四弘誓中眾生煩惱為惡。法門佛道為善。遮惡為遮持。持善為總持。諸行如坯誓願如火。坯者瓦未燒也。堪任利他名為盛物。四弘為總願等者。一切諸願四弘攝盡。故名為總。法藏等者。觀經悲華並云。彌陀因名法藏。於自在王如來所。聞說二百一十億佛剎發願又觀經云。法藏比丘為欲攝取諸佛土故。發四十八願發是願已地為六動。為佛所記。大阿彌陀經云。為菩薩時發二十四願云。不得是願終不作佛。願數不同部異見別。不須和會。悲華經中則無別願。但云為取佛土故發四弘誓願。故知一切菩薩凡見諸佛。無不發於總願別願故大論第八問曰。菩薩修行自得淨報何須發願。答。福若無願。如牛無御則無所至。如佛所說。不知法人聞天中樂心便念著。問。若無願者不得報耶。答。雖得不如有願。有願則少福而得大果。華嚴者。新經第十四。歷事別願。又如梵網發十大願十三誓等。大經聖行願文大同。又第十四梵行品云。若施食時令諸眾生得大智食法喜食般若食。若施漿時令諸眾生趣涅槃河。飲八味水得甘露味。準如此例及華嚴等隨境發願。隨其智力。何必如文。若有文者幸依佛說。如此等文並別願也。今五悔中義兼總別。故知五悔非小行所宜。如彌勒問經。佛告阿難。彌勒往昔不修苦行。但修善巧方便安樂之道。積習無上正等菩提。阿難言。云何名為善巧方便。佛言。彌勒昔行菩薩道時。但晝夜六時勤修五悔而得菩提。彼經悔文有二十三行。亦無別列五悔辭句。但數數請佛數數說悔。餘三亦然。如云有罪悉懺悔。是福皆隨喜。我今請諸佛。願成無上智。若準此例未必各說。但修行者智力微弱。緣心難當。故須一準。如婆沙四悔雖僧常儀。亦須善其意以為運念。具如南山正行儀中注解。從令於道場等者。總結悔意。皆為破罪故也。昔作大惡三業俱重。故今懺悔三業並運。發大勇猛方破大惡。勸請破謗法罪者。亦應先云懺悔破於三業遮性等罪。文闕義足。次文者。昔聞諸法而生誹謗。今請佛說令一切聞。是故能翻謗法之罪。隨喜破嫉妬罪者。昔對境生嫉。今隨喜一切。故得翻破昔嫉妬心。迴向破為諸有罪者。昔所作福但順生死。為諸有因不能自免。豈能令他離於有因。今具二迴向自免免他。是故迴向。順涅槃門故云順空無相等也。亦應更云發願者破邪願罪。即導前四令至所在。若能下正釋圓位。於中初明五悔功能能入品位。由此五法助開初品。乃至入住遠由此五。一一品文皆先正釋。次引證釋。初品引文。據疏分文乃是現在四信之文。言四信者。一者一念隨喜。二者解其言趣。三者廣為他說。四者深信觀成。與佛滅後五品之初。兩處隨喜文義大同。故今互引以證初品。第三品引文中。云不須復起塔寺等者。此第三品觀行猶弱。且以說法增其觀心。觀心成就方行第四。第四未能事理相即。故云旁行。至第五品事理不二。即云若人起立僧坊。供養讚歎聲聞眾僧。乃至具六。豈執第三永令捨事。豈執第五一概令行。故修行者應善教意。入第五品營事未遲。初心行人必以此五善自調御。委識進否應止應行。又此五品品品之中令修五悔。況常人乎。以品品中各有障故。故四念處中以此五品擬五停心。防初心故。其相云何。初三藏教以數息停散。今以隨理除於疑散。三藏以不淨停貪。今以讀誦除於雜染。三藏以慈心除瞋。今以說法治祕法恚。三藏以因緣除癡。今以六度治無明暗。三藏以念佛除障。今以理觀除於事相。若爾。通別云何。答。別教中但以戒定二行而停其心。通教中五。應觀息等不生不滅而為停心。若爾下辯同異。復次下約陰界入以明次位。前雖約教以明圓位今復約凡聖明五陰位。言五種人者。果地二乘及後三教斷惑菩薩生界外者。此位之後既對四德以為佛位。故知降佛皆是三種菩薩所攝。是故次品而明其位。於中次明十信位者。五品已能圓伏五住。豈至此位別斷見思。但是圓修麁惑先斷。猶如冶鐵麁垢先除(云云)。人不見之。便謂法華六根為圓。仁王長別三界為漸。既云法華部是漸頓。云何釋位即是頓頓。況所引仁王本證法華。如何離開分屬兩種。又除圓位已一切諸位無有十信破見思者。委釋圓信具如四念處文。今文但略釋初信而已。今依菩薩戒疏以十法成乘豎對十信。復以十法橫入十信。言豎對者。今文初信以對於境。次修慈悲以對念心。善修寂照以對進心。善修破法即入慧心。善修通塞即入定心。善修道品入不退心。善修正助入迴向心。善修諸位入護法心。善修不動即入戒心。善修安忍即入願心。今止觀文少不次第及名不同。今云陀羅尼即彼不退也。餘不次第者但將向列戒疏之文。對之可見。言橫入者一一信心各具十法。故瓔珞云。一信有十十信有百。又四念處云。五品各有十法成觀。五品尚爾。何況十信。所以十信各具十法。故至初住轉名十大。次入下真位。四念處中及菩薩戒疏。並略明初住已上圓教聖位。亦略錄之。何者。初發心住三種開發即正緣了。謂境智行三法相應。是故名為分證三德。故華嚴云。初住所有功德三世諸佛歎不能盡。初發心時便成正覺。了達諸法真實之性。所有聞法不由他悟。淨名云。知一切法是為坐道場。大品云。初發心坐道場。阿字門等。並是圓教十住位相。若別教位十地方與圓十住齊。故瓔珞云。初地一分無相法身。智行成就。百萬阿僧祇功德雙照二諦等。具如第三卷引。乃至等覺功德難思。但約化道以辯功用。如初地百界二地千界乃至萬億等界。現身亦爾。十住之後實相更復十倍增明。更十番智斷破十品無明。念念流入平等法界海。諸波羅蜜任運生長。名為十行。十行之後無功用道。真明復更十倍開發。願行事理自然和融。迴入平等法界海。更破十品無明。名十迴向。向後復破十品無明。無功用道猶如大地能生一切功德。荷負一切佛法。荷負法界眾生。入三世佛智地。地後觀達無始無明源底。邊際智滿究竟清淨。斷最後微細窮源無明。登中道山頂與無明父母別。是明有所斷者名有上士名等覺位。此位後心究竟解脫無上佛智。無所斷者名無上士。十法至此方受大名。謂理大願大。莊嚴大智斷大。遍知大道大。用大權實大。利益大無住大。次第以對十法成乘。釋名對義亦應可解。
次に「知次位」を明かすとは、まず来意を明かす。すでに前の七つを用いて修すべきものとした。二世の善が発して位に入ることは定まらない。あるいは未だ位に入らずして、得ていないのに得たと謂うことがある。極めて下根の者が重罪を生ずることを恐れるゆえに、位を明かして行者に識らしめねばならない。四教にはそれぞれ真・似の二つの位がある。賢にあるを似と名づけ、聖に入るを真と名づける。真位が究竟するを解脱と名づける。証し已わって位を了り、よく他のために説くを、知見と名づける。知見とはこれ智眼の異名にすぎない。次に喩を挙げて「朱紫等」というのは、朱は正色で真位のようなもの、紫は間色で似位のようなものである。赤と黒が合して紫となるように、真と妄がなお混じっているゆえに似と名づける。終に下は正しく次位を釈す。その中で四教の不同を具に釈す。初めの文は通じて四門を列し、一一の教の位の意を明かす。意は惑を断じて真を証するにあり。ゆえに三蔵の中では四門の名が異なる。いわゆる空・有などの四門である。位の別とはすなわち七賢・七聖・二十七賢聖などである。ゆえに「有殊」という。一一の門の中ですべて見・思を断じ、真諦の理に縁ずる。ゆえに「断及諦理孱然不異」という。孱とは現なり。二乗は多く一生等を論ずるとは、門々の中の二乗の不同を弁ずる。一生というのは、百劫・三生・種解脱分などがあるが、念処より去って乃至一生、あるいは二、あるいは三、あるいは七生などである。その元意を論ずれば即生に取証する。元意は雖も爾なりといえども、皆が一生なのではない。このゆえに「多」という。四門ありて位を明かすに小異ありといえども、得果は大同である。第十六心の見・修の不同を判ずるがごとし。ゆえに「小異」という。自余の三果は多く楷定されている。ゆえに「不過迭動」という。菩薩は三祇百劫なれば時は長いという。六度百福を行は遠しと名づける。二乗が一生で結を断ずるのとは異なる。ゆえに「亦別」という。奢促不同を径路殊と名づけ、咸く真諦に趣くを帰途一と名づける。菩薩の人は円教に望めば、権実異なれども、心願は迴り易く、小とは異なる。五功徳は第三巻に引くがごとし。次に「此教」の下は濫を斥す。この科は正に濫を簡ぶゆえに来たるを謂う。このゆえに斥すべきである。次に通位を明かす中に「簡名別義通」という。玄文第五巻の初めの十義料簡に名通義円・名別義円などがあるがごとし。次に別位を明かす中に、まず別位の意を明かし、次に略して経論を指す。摂論・華厳は多く次第四十二位を明かす。「一往」というのは諸教が不同なるを、しばらくこの教を指して大略とする。しかし華厳の中には別あり円ありて、専ら一教ではない。経の列する位位に皆、行布・普賢の二門があるがゆえである。また諸経論の別位は多途である。ゆえに「一往」という。ただ「別」の下は別位の相を示す。初めに経を示し、次に論を示す。通論とは中・摂などのごとく、通じて大乗を釈す。別論とは智論・地論などのごとく、別に一経を釈す。「那得等」は執を破す。論は当門を申べて偏好を引く。晩人は達せずして有を抑え無を揚げる。有を失えば方便を失し、無を毀り有を讃めれば無の通途を失す。三四の二門もまたまたかくのごとし。引き進めんと欲すれども、翻って哽塞となる。今明かす等は次に論意を述べる。意は理を通ずるにあり。阡陌等とは、南北を阡とし東西を陌とす。経は阡のごとく、緯は陌のごとし。四門は緯のごとく、諸位は経のごとし。門門の位は殊なれども皆極果に至る。ゆえに「一」という。此方はこれに準じて彼に望む。文は通別を挙げて意は蔵円を兼ぬ。この中は正しく別教の次位を明かす。ゆえにしばらく別を挙げて通教に望む。所通の真中の不同を弁ずる。このゆえにいまだ蔵円の両教を云わず。もし四門をもって理を通じ教を摂せば、仮使西方の諸論が尽く度るとも、門理をもって勘ずればすなわち識り易し。諍論は自ずから息み、矛盾は生じない。経に言う等は、向の門異理同を証するゆえである。権を開き実を顕わす。三教の諸門すらなお一実に帰す。ましてや当教の諸門が融じないことがあろうか。世に達せざる者は、智者の大師が多く破斥を好むと謂いて、融会して一乗に帰せしめるを見ない。まして十意は融通して疑いを除き滞りを釈し、経論を銷通して教法が壅がらない。結びおよび広く指すことは文のごとし。次に十意をもって経論を融通するとは、人は十意の初めに諦理の言のあるを見て、便ち十乗を将って十意に対す。甚だ便ならざるなり。もし境をもって理に対せばやや相当に似る。どうして発心をもって八教に対せんや。まして下の八義は意に対せば永く殊なる。四悉が経を銷し胡漢を翻訳するがごとく、これを安忍に対せんは甚だ類せざるなり。また第四の文は雖も破遍というも、乃ち通塞と共に一文となす。まして今の文中の通塞の名は、十乗の中の通塞の意とは別である。ましてまた自ら融通仏法という。仏法とはすなわち一期の仏教を指す。ゆえに十法成観はしばらく行門にあり。ゆえに定んで十乗をもってこれを釈すべからざるを知る。また円教の諸位は経論に同じ易くして、少しく諍計を生ず。別教は既に界外の析法である。明かすところの次位は教道に附近し、文は多く互いに異なるゆえに多途がある。このゆえに因みに十意をもって融通する。今の次位はすなわち十の中の一の意である。しかしこの十意は一一皆すべて一切の経論に遍ず。ゆえに前の六意は借用して経の五重玄義を釈し、後の四意は用いて文意に附す。前の六の中、初めの五は正しく五重玄義に対し、第六はすなわち今家の開拓用義の方法である。後の学者に一法の多含無量帰一なるを識らしむ。前の五の中、第一に「道理乃至開合等」というのは、一期の仏教は並びに所詮をもって教体となす。教は既に半満偏円不同なれば、体も教に随って権実一ならず。諸諦の離合は智に随い情に随う。法華に帰会して唯一実相となる。具に境妙中に説くがごとし。これは体を顕わす意を用うるなり。第二の意は、まず譬を挙げ、次に「即是」の下は譬を合す。便ち合の義を将って譬の意を釈す。綱とは綱紀のごとく、綱の外囲のごとし。格とは格正のごとく、物の大体のごとし。教判釈をもって教の遠度を得る。ゆえに綱格という。教は機に随って異なるは綱目のごとし。外正を匡といい内実を骨という。四門は外正、一理は内実なり。横に周るを盤といい、竪に窮むるを峙という。門門の諸行に各おの横竪あり。また漸頓秘密不定を用うるは匡のごとく、蔵通別円を用うるは骨のごとし。横に諸門を用うるは盤のごとく、竪に一理に帰するは峙のごとし。この八教をもって収摂して外なし、これを包括と名づける。八の中、秘密は密とし、余の七は顕露にして露と名づける。しかし余の七の中にも皆密露あり。また秘密不定を密と名づけ、顕露不定を露と名づける。涇清渭濁。頓教は清のごとく、漸教は濁のごとし。頓の中、別は濁、円は清。漸の中、蔵は濁、余は清。また法華は唯清、鹿苑は唯濁。方等般若は清あり濁あり。またこの八教は用に各おの意あり。蔵等の四教はこれ教門の法式、頓等の四教はこれ敷置引入なり。如来は権巧にして善く物機に達し、蔵等を頒宣して頓等となす。あるいは開しあるいは合わせ、宜しくは盈し宜しくは縮む。名は雖も八ありといえども用は必ずしも倶ならず。具に法華玄文第一巻の釈、および第一巻釈籤中に明かすがごとし。これは判教の意を用うるなり。第三の意は、一代教法の首題名字、名は一部を該ぬ。部内の義は大小時節因果互いに形す。かくのごとき等の相は相違せざるはなし。あるいは一義に多名あり、あるいは多義に一名あり、あるいは離れあるいは合し、あるいは但あるいは兼。言と義と相乖き一多違諍なるも、世情をもって和会すべからず。文字をもって博く解すべからず。古より今に至るまで能く達する者なし。四悉の意を得れば通ぜざる処なし。諸法は相望んで互いに彼となり此となる。機に赴く教情において何の疑いかあらん。これは釈名の意を用うるなり。第四の意は、執を祛き迷を遣る。執のあるは咸く破す。単複具足無言等の見、漸頓諸教の破立不同、能計所計執性等しからず。法華の意を用いて遍く破し遍く立てば、情に滞礙なく能所は適然たる。これは明用の意を用うるなり。第五の意は、凡そ所説あるは結んで法門を成ず。もって真似漸頓の諸位に対す。位はこれ所階、行はこれ能修。能所相帯なればすなわち方便と証と因果混じない。一切の権位は皆実果に帰す。これは明宗の意を用うるなり。第六の意は法門を開拓して仏意をして壅がらしめない。広く開拓すといえども乃ち本文に符す。なお部中の正意を失わしめない。綸とは繩索なり。緒とは糸頭なり。縦横開合して次第を失わない。亹亹とは文彩の順なるなり。また風の草を偃すがごとし。声韻義理に煩雑の過なきを謂う。第七已下は文意に附す中に、開章等とは諸義疏の凡そ章段を開くに、生起せざるはなく鉤鎖のごとし。今の止観十章十乗のごとく、前後の次第に生起せざるはなし。八帖釈等とは、文前に雖も要義を撮み義門を玄解すれども、横竪並沓総別離合、あるいは広く張り旁に布し、あるいは一轍に竪深なり。また須らく文に附して次第に帖釈すべし。広からず略ならず事あり理あり。総じて前の七法を用いて理に拠って銷釈し、華辞に渉らず意は文旨に存す。九翻訳等とは、前朝は諍軽くいまだ多く紛競せず。怛はこれ西語、咸く胡音と曰う。後に黄冠虚しく偽制を構うるに因り、近代方に始めて胡梵を甄分す。葱嶺已西は並びに梵種に属し、鉄門之左は皆胡郷と曰う。梵種というは、光音初めて下り展転出生す。このゆえに五天は並びに梵種という。近代の著述は特に胡音を諱む。第十の意は、文に附して観を成ずれば文は虚設ならず。観と文と合するを印心と名づける。法華を釈するがごとく、一句一句の経は皆四解となす。一には因縁、二には約教、三には本迹、四には観心。もし他経を釈せば唯本迹を闕き、三意は咸く通ず。事理存し、行解具足す。また玄文の一一の科義もまた四解となす。一には分別、二には麁妙、三には開顕、四には観心。玄釈は文に附して観を成さざるはなし。他の宝を数うるに非ず等とは、華厳の偈に云う。譬えば貧窮の人、昼夜に他の宝を数うれども、自ら半銭の分もなし。多聞もまたかくのごとし。譬えば盲瞽の人、本の習わしのゆえに能く画くも、彼を悦ばして自ら見ず。多聞もまたかくのごとし。譬えば聾聵の人、善く諸の音楽を奏すれども、彼を悦ばして自ら聞かず。多聞もまたかくのごとし。これは偏聞の人を斥す。ただ「翻訳」の下は謙退して斥奪す。方音の不同は義理に関わらず、卒かに備うべからず。ゆえに未暇という。文字法師とは、内に観解なく唯法相を構う。事相禅師とは、境智に閑ならず鼻隔止心、乃至根本有漏定等なり。一師唯観心一意等とは、これはしばらく与えて論を為す。奪すればすなわち観解倶に闕く。世間の禅人は偏に理観を尚ぶ。既に教に諳からずして観をもって経を銷し、八邪八風を数えて丈六仏となし、五陰三毒を合して八邪と名づけ、六入を用いて六通となし、四大をもって四諦となす。かくのごとく経を解するは偽の中の偽なり。何の浅きをか論ずべし。縱い心王をもって王を解し五陰をもって舎を釈し、念を一体として持鉢となし、二見を離れて洗足となし、般若の持鉢の名を解せんとするも、終に不可なり。法華の王舎の称を釈するに用うれば、特に擬する所なし。既に分別なくば浅偽なんの疑いかあらん。このゆえに今家の観心は経を銷するに経部の別に随い、義勢等しからず。理を本となし、詮行各おの殊なり。次位者とは下、正しく十乗次位の一の意を示す。すなわち彼の十の中の次位の一つである。別教の次位は会し難きを明かすために、ゆえに十意を演べて一をもってこれを通ず。もしこれ十乗ならば何ぞただちにこの十法は十乗なりと云わざるや。ここに至りただ十の中の一を指すのみ。次に円教の次位を釈する中に、まず五悔は位に入る方となすを明かす。他人の円修には都べてこの意なし。何を以てか造行の始めとなさん。ただ一念すなわちこれ如来と云い、空しく心を挙ぐれば法界に非ざるなしと譚る。委しく心行を撿すれば全く毫微もなし。もし四種三昧を修して重ねて方便を作さんとすれば、方便の来意を明かす。四種三昧は通じて二十五法を用う。通方便となす。もし法華を行ぜば別に五悔を加う。余行には通ぜず。ゆえに唯という。もし方等の中に求夢王をもって別方便となせば、常行常坐および随自意は直ちに爾に行ず。逆順の十心は一切通具す。まず「先知」の下は五悔の意は観に入るの方を明かす。このゆえに重ねて前文の観法を牒す。ただ「心理」の下は向の観法を用うれどもよく真を発すること能わざるを明かし、このゆえに応に更に五悔を加うべし。この五悔は円位の初因となる。もしまた悠悠とせば道法いずくんぞ剋せん。懺名の次は正しく五悔を明かす。勧請等の四の不同ありといえども、悔罪に非ざるはなし。ゆえに五悔と名づける。具に下の文に悔意を明かす中に各おの所治あるがごとし。今の僧の常儀は前四は十住婆沙に出で、願文は大涅槃にあり。もし占察経もまたただ四を列すのみ。南山に云く。占察には須らく更に発願を加うべからず。その四悔は皆これ願なるがゆえに。もし爾ならば経論は皆四なり。今なにゆえに五とするや。答う。弥勒問経に云くのごとし。昼夜六時に勤めて五悔を行ぜば、苦行を假らずしてよく菩提を得。ゆえに必ず願を須いるなり。この五の次第は、もし皆悔と名づけなば、罪を治むるに非ざるはあるべからず、次第あるべからず。もし婆沙・占察の次第に準ずれば並びに同じ。もし如是等長悔の文のごとくならば、また五悔の義足れり。初め「如是」の下はすなわち懺悔なり。次に「今諸仏」の下はすなわち迴向なり。次に「衆罪」より一偈は、すなわち重ねて懺悔を挙げて略して余の三を例す。次に一偈は重ねて世尊を挙げて歸礼となす。ゆえに次第なし。しばらく次第に依って生起を為せば、もし旧罪除かざれば徒らに勧請を施す。既に勧請し已れば相を覩り教を聞き教に依って修行す。もし嫉妬除かざれば自善微劣なり。尚お他を喜ばず、何んよく迴向せん。四法具足して願をもってこれを導く。かくのごとく五法は尚およく位に入る、まして罪を滅せんや。比来の行人は都べて介意なし。徒らに讃ずる者は急に誦すれども未だ耳識と相応せず。一生かくのごとくんば徒らに信施を招く。業は他受けず、試みにこれを思え。初めの懺悔は、初めの文は釈名す。陳露とは陳列なり首なり。悔とは伏なり。金光明疏に懺悔品を釈す。彼に広く名を釈して云く。懺は白法と名づけ、悔は黒法と名づく。白法は須らく尚び、黒法は須らく捨つべし。また懺は改往と名づけ、悔は修来と曰う。また懺は披陳と名づけ、悔は断続と名づく。五体は前に釈するがごとし。また今の文はただその懺の意を説くのみ。懺辞は具に法華三昧にあり。また己の智力に随って任意に広く陳すべし。次に勧請とは、大いに二意となる。一には世に住せんことを請い、二には法輪を転ぜんことを請う。大論の云云に至るまでは、大論十五に具に釈す。問う。諸仏の法は、法として応に説法すべし。何ぞ勧請を須いるや。またもし諸仏現見の前に在さば請仏は爾るべし。今は乃ち見ず、云何が請うべけんや。答う。仏は必ず説くといえども請を待たず。請う者は福を得る、何ぞ請わざらんや。猶し大王の多くの美膳ありといえども、もし請う者あらば必ず恩福を得るがごとし。その心を録するがゆえに、このゆえに益あり。修慈心のごとく衆生をして楽ならしむ。衆生は雖も楽を得る者なしといえども、念ずる者は福を得る。請仏もまた爾なり。また次に仏法は請を待ちて説く。また衆生は面と諸仏を見ずといえども、諸仏は何ぞ嘗てその心を見その請を聞かざらんや。仮令諸仏聞かず見ずといえども請うもまた福を得。まして聞き見て益なからんや。また外道のこのごとくの言を作すを破す。道法は常に定まれり、何ぞ多言を須いん。その謗を防ぐがゆえに、ゆえに請を待つ。また外道言く。諸仏は応に寿を貪りて世に住すべからずと。この謗を防ぐために、このゆえに請を須いる。またもし請わずば仏は愛著すと謂わん。無著なるを知らしめんがゆえに請を待つ。また諸外道は皆請説なし。ゆえに今は請を須いる。次に「謂転」の下「住世」に至るまでは、尽くこれ論文なり。かくのごとき諸意あるがゆえに二請を須いる。もし仏初めて成道して先に四諦を転ず。今は円を求むるがためにこのゆえに通請す。それ命は住に至る等とは、勧請の所指を明かす。所言の請とは何をか請う。謂わく仏の大悲を請う、色陰を請うに非ず。もし大悲息まざれば身はすなわち久しく住す。ゆえに命業を挙げて以て請住を譬う。報命は仏のごとく我心は業のごとし。また報命は色身のごとく業は大悲心のごとし。我心仏を請うて息まざれば、願わくは仏大悲世に住したまえ。変化もまた爾なり。作意神通は心の期する所に随う。期心未だ息まざれば変化止まざる。我心は心のごとく仏身は化のごとし。我心息まざれば願わくは仏滅したまうなかれ。また仏身は化のごとく大悲は心のごとし。願わくは息まざれ、大悲息まざればすなわち色身滅せず。我今仏を請うは大炬火の無明を破るがごとし。我心息まざれば願わくは仏滅したまうなかれ。次に随喜とは、仏法輪を転じ衆生三世の益を得。我彼の喜を助くるは、前の勧請を喜ぶなり。過去は種を下し、現在は重ねて聞いて成熟の益を得、未だ曾て種を下さず、現在に種を成じ未来に方に益あり。ゆえに三世の益は皆法輪に因る。ゆえに我衆生の得益を随喜す。大論六十一に云く。随喜に二種あり。一には世間、二には出世。もし人出世の善根なければ、我今衆生の世福を随喜す。このゆえに随喜は有漏無漏に通ず。倶に福と名づける。また福徳とはこれ菩薩摩訶薩の根本なり。よく菩提を満ず。聖人讃歎し智者行処無智遠処なり。この福の因縁はよく輪王諸天乃至一切種智を得。かくのごとく等の正知見を得ることを知る。このゆえに福を見て歓喜を生ず。また次に我れ応に衆生と善を共にすべし。その自ら福を修するはこのゆえに我喜ぶ。また次に衆生に善ありて我と相似なるは、これ我が同伴なり。このゆえに我喜ぶ。また次に菩薩摩訶薩は十方三世の仏および菩薩二乗一切の福を修する者において歓喜を生ず。ゆえに随喜と名づける。もし福徳なくんば畜生と異なることなし。ただ飲食淫欲鬪諍を同じうす。福を修する人は衆生に尊敬せらる。猶し熱時の清涼満月のごとし。このゆえに随喜す。大論三十二に云く。香を売買する等のごとし。問う。云何が随喜心は二乗の上に過ぎるや。答う。随喜の善をもって迴して衆生に与うるがゆえに。衆生を観ずること正縁了に至る等とは、法華の中の常不軽品のごとし。不軽菩薩は諸の衆生の三因を具足し皆当に作仏すべしと見る。ゆえに敢えて軽んぜず。これはただその正因を敬うがゆえである。正因の中に三因具足す。まして無始の時曾て一句を聞けばすなわち了因の種、弾指合掌すればすなわち縁因の種なり。ゆえにこの菩薩は凡そ衆生を見れば皆悉く記を与う。乃至身に行ずる不軽の行等(云云)。毒鼓とは、大経第九に云く。譬えば人ありて新毒薬を以て大鼓に塗り、大衆の中に於て撃って声を出さしむ。心に聞かんと欲するなくとも、もし聞く者あらば遠近皆死す。ただ一人横死せざる者を除く。いわゆる一闡提なり。纔かに聞くや即ちよく無明の惑を破るを近死と名づける。聞けども即ちには益せずして後世の因を作すを遠死と名づける。諸教諸味および経の時節をもって遠近を論ず。四念処に云く。もし聞く者あらば遠近死せず。いわゆるただ見思塵沙を破するのみ。法華随喜法等とは、随喜品の中に法座より起ち、余処に至りて他人の為に説く。他人聞き已りてまた随喜して転教す。かくのごとく展転して第五十に至る。聞法して随喜を生ずるを校量す。ゆえに随喜法という。大品随喜人とは、経に云く。もし声聞の人よく心を発す者あらば我もまた随喜すと。声聞はこれ人、随喜はその人なり。随喜の人と名づける。人には必ず法あり法は必ず人に藉る。ゆえに互挙という。迴向とは、随喜の福をもって衆生と共にし及び菩提に向く。菩提は文のごとし。衆生に施すとは、しかし修因の福は共にすべからず。もし果を得る時にはすなわちこの福をもって衆生に施す。このゆえに菩薩は世の四事を得て衆生を利益す。また自ら福をもってその身口を浄くすれば、人見て歓喜し所説を信受し今十善乃至種智を得。乃至舎利もよく一切衆生をして道を得せしむ。このゆえに果報は衆生と共にす。今は因の中に果を説くがゆえに与共という。もし福因を他と共にすというならば、初発心より所修の善根は尽く衆生に与う。後の時には何を将ってか成道の因となさん。善法の体は人に与うべからざるがゆえに、今は直ちに無畏無悩をもって衆生に施す。無所得を用うるがゆえに菩提に至る。ゆえに浄名に云く。迴向心はこれ菩薩の浄土なり。迴向は大利を為す等。ゆえに法華に梵天の宮殿を施す時、皆願を発して云く。願わくはこの功徳をもって等(云云)。迴声入角のごとし等とは、大論三十二に云く。迴向とは、少物を王に上るがごとく、迴声の角に入るがごとし。問う。菩薩の功徳は二乗に勝れたり。何の奇特かある。答う。今はこれ功徳をもってこれを比せず。ただ随喜迴向の心をもって比す。巧匠の指示するに倍の価直を得るがごとく、斧を執る人は倍の功力を用うれども、直は言うに足らず。声聞の自行は斧を執る者のごとく、菩薩は他を教えて行じ迴向するは猶し大匠のごとし。大論に問うて曰く。何故名づけて二乗を自調自浄自度と為し、而も迴向せざるや。答う。戒は自調と為し禅は自浄と為し慧は自度と為す。二乗は唯自らこの三を修するがゆえに。「不取等」とは、上の三界を断ず等の四を釈す。いわゆる苦を取らず集を念わず、滅を見ず道を得ず。この四の中に於て世及び出世の因果等の相を分別せざるを、不分別と名づける。かくのごとくを正迴向と名づける。実相無取乃至無有分別のゆえである。能迴向より妄想等不生に至るとは、大論に云く。菩薩の心は空に檀波羅蜜乃至種智、一切皆空、一相無相にして仏の所説のごとし。かくのごとく迴向すれば箭を射て他に中らざるなし。無相を見、一切諸法を見ず得ざるがゆえに爾り。能とは迴向の心を謂い、所とは衆生仏果を謂う。かくのごとき能所及び一切法を一心に推求するに皆不可得なり。能を亡じ所を亡ず。かくのごとき一切所迴向の法は実に帰せざるはなし、ゆえに不可得なり。「無已今当等」とは、三世にこの能所を推求するに生滅住せず。また発心を已と為し、迴向を今と為し、所迴向の処を当と為す。また所迴向の中、極果を当と為し衆生を現と為す。また衆生にもまた当現あり。すなわち諸衆生をこれ現と名づけ、共福の当に得べきをこれ当と名づく。かくのごとき三世は畢竟して叵得なり。「如三世諸仏所知等」とは、唯一実相はこれ仏の所知所見所許なり。中に於て能知はすなわち種智、能見はすなわち仏眼なり。能許はすなわちこれ本時の弘誓および一切行なり。これを真実と名づける等とは、仏の所知のごとくんば方に真実と名づく。向の権果に非ず。権果は虚妄なり、すなわち蔵通の所期の果を対破す。最上というは上中下の上の上に非ず。すなわち円教を指して最上と名づける。最上なるがゆえに具足す。これは別教を破す。すなわち仏を謗らず等とは、仏果を有と計り乃至非有非無と計る、皆仏を謗ると名づける。何をもってか。仏果は有に非ず乃至非有非無に非ず。苦に非ざるがゆえに過咎なし。集に非ざるがゆえに繋著なし。道あるがゆえに毒なし。滅あるがゆえに失なし。これは無作四諦に依って迴向となす。苦集なし唯道滅ありというは、しばらく事に約して説く。理はすなわち苦集は本これ道滅なり。「何但等」とは、前三とは懺悔・勧請・随喜を謂い、後一とは発願を謂う。前後皆今の迴向の意を例す。無作の諦に依りて諦を見ざるを、真の五悔と名づける。よく真位を発す。ゆえに婆沙を引きて円意を証成す。ゆえに五悔は並びに無作に依ることを知る。方に懺悔して罪性の本空なるを見、勧請して法身の常住なるを知り、随喜して福等真如なるを了り、発願して能所平等なるに達す。次に発願を明かす中に、初め釈名に「如許人物等」という。巻とは約なり。また契なり。説文に云く。券は別の書、刀をもってその旁を判す。ゆえにこれを契と謂う。ゆえに字は刀に従う。御とは侍なり主なり。一切諸法は願をもってこれを侍り、願をもって主となす。また名の下「盛物」に至るまでは、四弘誓の中、衆生・煩悩は悪と為し、法門・仏道は善と為す。悪を遮するを遮持と為し、善を持するを総持と為す。諸行は坯のごとく誓願は火のごとし。坯とは瓦のいまだ焼かざるなり。よく利他に堪任するを盛物と名づける。四弘は総願と為す等とは、一切の諸願は四弘に摂尽せらる。ゆえに総と名づける。法蔵等とは、観経・悲華並びに云く。弥陀の因の名は法蔵。自在王如来の所に於て、二百一十億の仏刹を説くを聞きて願を発す。また観経に云く。法蔵比丘は諸仏土を摂取せんと欲するがゆえに四十八願を発す。この願を発し已りて地は六動す。仏の記す所となる。大阿弥陀経に云く。菩薩の時と為り二十四願を発して云く。この願を得ずんば終に作仏せずと。願の数は部異にして見別なり。和会を須いず。悲華経の中には則ち別願なし。ただ仏土を取るがゆえに四弘誓願を発すと云うのみ。ゆえに一切菩薩は凡そ諸仏を見るに、総願別願を発せざるはなしと知る。ゆえに大論第八に問うて曰く。菩薩は修行して自ら浄報を得るに何ぞ願を発するを須いるや。答う。福もし願なければ、牛に御なきがごとく則ち至る所なし。仏の所説のごとし。法を知らざる人、天中の楽を聞きて心に便ち念著す。問う。もし願なくんば報を得ざるや。答う。得るといえども願あるには如かず。願あれば則ち少福にして大果を得。華厳とは、新経第十四に歴事の別願あり。また梵網に十大願十三誓等を発すがごとし。大経聖行の願文は大同なり。また第十四梵行品に云く。もし食を施す時は諸の衆生をして大智食・法喜食・般若食を得せしめ、もし漿を施す時は諸の衆生をして涅槃河に趣かしめ、八味水を飲み甘露味を得せしむ。かくのごとき例及び華厳等に準じて境に随って願を発す。その智力に随う。何ぞ必ずしも文のごとくならんや。もし文あらば幸いに仏説に依れ。かくのごとき等の文は並びに別願なり。今の五悔の中、義は総別を兼ぬ。ゆえに五悔は小行の所宜に非ざることを知る。弥勒問経のごとし。仏阿難に告ぐ。弥勒は往昔苦行を修せず、ただ善巧方便安楽の道を修し、無上正等菩提を積習せり。阿難言く。云何が善巧方便と名づくるや。仏言く。弥勒は昔菩薩道を行ずる時、ただ昼夜六時に五悔を勤修して菩提を得たり。彼の経の悔文に二十三行あり。また別に五悔の辞句を列せず。ただ数数に仏を請い数数に悔を説く。余の三もまた爾なり。有罪は悉く懺悔し、是の福は皆随喜し、我今諸仏を請い、無上智を成ぜんと願うがごとし。もしこの例に準ずれば必ずしも各おの説かず。ただ修行者は智力微弱にして縁心当り難し。ゆえに一準を須いる。婆沙の四悔は僧の常儀といえども、また善くその意をして以て運念と為すべし。具に南山正行儀中の注解のごとし。「令於道場等」よりは、総じて悔意を結ぶ。皆罪を破るがゆえである。昔大悪を作し三業倶に重し。ゆえに今懺悔し三業並びに運ぶ。大勇猛を発して方に大悪を破る。勧請は謗法の罪を破るとは、またまさに先に懺悔して三業遮性等の罪を破るべしと云うべし。文は闕くとも義は足れり。次の文は、昔諸法を聞きて誹謗を生ず。今仏に請いて説かしめ一切に聞かしむ。このゆえによく謗法の罪を翻破す。随喜は嫉妬の罪を破るとは、昔境に対して嫉を生ず。今一切を随喜す。ゆえによく昔の嫉妬の心を翻破することを得。迴向は諸有の罪を破るとは、昔所作の福はただ生死に順い、諸有の因と為りて自ら免れず。何んよく他をして有因を離れしめんや。今二迴向を具して自ら免れ他を免る。このゆえに迴向は涅槃門に順うがゆえに順空無相等という。またまさに更に云うべし。発願は邪願の罪を破る。すなわち前の四を導きて所在に至らしむ。「若能」の下は正しく円位を釈す。中に初め五悔の功能よく品位に入るを明かす。この五法によりて初品を助開し、乃至住に入るも遠くこの五による。一一の品の文は皆まず正釈し、次に引証釈す。初品の引文は、疏に拠れば文を分かつてはすなわちこれ現在四信の文なり。四信というは、一には一念随喜、二にはその言趣を解し、三には広く他の為に説き、四には深く信じて観成ず。仏滅後の五品の初めと、両処の随喜の文義は大同なり。ゆえに今互いに引きて以て初品を証す。第三品の引文の中に、不須復起塔寺等という。この第三品は観行なお弱し。しばらく説法をもってその観心を増す。観心成就して方に第四を行ず。第四は未だ事理相即すること能わず。ゆえに旁行という。第五品に至りては事理不二なり。すなわち云く。もし人起立して僧坊を立て、声聞衆僧を供養讃歎し、乃至六を具すと。豈に第三に執りて永く事を捨てしめんや。豈に第五に執りて一概に行ぜしめんや。ゆえに修行者は応に善く教意を了るべし。第五品に入りて営事するは未だ遅からず。初心の行人は必ずこの五をもって善く自ら調御すべし。委しく進否を識り、応に止むべし応に行ずべし。またこの五品は品品の中に五悔を修せしむ。まして常人においてをや。品品の中に各おの障あるがゆえに。ゆえに四念処の中にこの五品をもって五停心に擬す。初心を防ぐがゆえに。その相いかん。初め三蔵教は数息をもって散を停む。今は理に随って疑散を除く。三蔵は不浄をもって貪を停む。今は読誦をもって雑染を除く。三蔵は慈心をもって瞋を除く。今は説法をもって祕法の恚を治す。三蔵は因縁をもって癡を除く。今は六度をもって無明の暗を治す。三蔵は念仏をもって障を除く。今は理観をもって事相を除く。もし爾ならば通別はいかん。答う。別教の中にはただ戒定の二行をもってその心を停む。通教の中には五あり。応に息等の不生不滅を観ずるをもって停心と為すべし。「若爾」の下は同異を弁ず。「復次」の下は陰界入に約して以て次位を明かす。前には教に約して円位を明かすといえども、今また凡聖に約して五陰の位を明かす。五種の人というは、果地の二乗及び後三教の断惑の菩薩の生界外の者なり。この位の後は既に四徳を対して以て仏位と為す。ゆえに降仏は皆これ三種の菩薩の所摂なることを知る。このゆえに次品にしてその位を明かす。中に次に十信位を明かすとは、五品は已に能く円伏五住す。豈にこの位に至りて別に見思を断ぜんや。ただこれ円修の麁惑先に断ず。猶し鉄を冶るに麁垢先に除するがごとし(云云)。人これを見ず。便ち法華の六根を円と為し、仁王の長く三界を別つを漸と謂う。既に法華の部はこれ漸頓と云う。云何が位を釈するに即ちこれ頓頓ならんや。まして所引の仁王は本と法華を証す。如何が離開して分ちて両種に属せん。また円位を除き已れば一切の諸位に十信の見思を破する者なし。委しく円信を釈することは具に四念処の文のごとし。今の文はただ略して初信を釈するのみ。今菩薩戒疏に依り十法をもって成乗し竪に十信に対す。復た十法をもって横に十信に入る。竪対というは、今の文の初信は境を対し、次に慈悲を修して念心に対し、善く寂照を修して進心に対し、善く破法を修するはすなわち慧心に入り、善く通塞を修するはすなわち定心に入り、善く道品を修して不退心に入り、善く正助を修して迴向心に入り、善く諸位を修して護法心に入り、善く不動を修するはすなわち戒心に入り、善く安忍を修するはすなわち願心に入る。今の止観の文は少しく次第せず及び名も同じからず。今陀羅尼というはすなわち彼の不退なり。余の次第せざるはただ向に列ぬる戒疏の文を将ってこれに対すれば見るべし。横入というは、一一の信心に各おの十法を具す。ゆえに瓔珞に云く。一信に十あり十信に百あり。また四念処に云く。五品に各おの十法成観あり。五品すら尚お爾なり、まして十信においてをや。ゆえに十信に各おの十法を具す。ゆえに初住に至りて転じて十大と名づく。次に「入」の下は真位なり。四念処の中及び菩薩戒疏に並びに略して初住已上の円教の聖位を明かす。また略してこれを録す。何となれば、初発心住は三種の開発すなわち正・縁・了なり。いわゆる境智行の三法相応するを謂う。このゆえに分証三徳と名づく。ゆえに華厳に云く。初住の所有の功徳は三世諸仏も歎じて尽くすこと能わず。初発心の時便ち正覚を成ず。諸法の真実の性に了達す。所有の聞法は他より悟るに由らず。浄名に云く。一切法を知るはこれ道場に坐するなり。大品に云く。初発心に道場に坐し、阿字門等。並びにこれ円教十住の位相なり。もし別教の位ならば十地方に円の十住と斉し。ゆえに瓔珞に云く。初地は一分の無相法身、智行成就し、百万阿僧祇の功徳、双び二諦を照らす等。具に第三巻に引くがごとし。乃至等覚の功徳は難思なり。ただ化道に約して以て功用を弁ず。初地は百界、二地は千界乃至万億等の界に現身するもまた爾なり。十住の後、実相は更に復た十倍に増明す。更に十番の智断をもって十品の無明を破し、念念に平等法界海に流入し、諸波羅蜜は任運に生長す。これを十行と名づける。十行の後、無功用道、真明は更に復た十倍に開発し、願行事理自然に和融し、迴って平等法界海に入り、更に十品の無明を破するを、十迴向と名づける。向後復た十品の無明を破し、無功用道は猶し大地のよく一切の功徳を生じ一切の仏法を荷負し法界の衆生を荷負するがごとく、三世仏智地に入る。地後は無始の無明の源底を観達し、辺際智満じて究竟清浄なり。最後の微細窮源の無明を断じ、中道山の頂に登り無明の父母と別る。これ断ずる所あるを明かす者を有上士と名づけ等覚位と名づける。この位の後心は究竟解脱の無上仏智なり。断ずる所なき者を無上士と名づける。十法ここに至りて方に大名を受く。いわゆる理大願大、荘厳大智断大、遍知大道大、用大権実大、利益大無住大なり。次第に十法成乗に対し、釈名対義もまた解すべきである。
○第九安忍中初亦先法。次譬。後合。初法中云。爽者明也。次喻中云鋒等者。又以飛霜喻於鋒刃。聰善於聽心敏於事。睿者說文云。深明也。智也。喻過也。越也。疏者記也。洞者疾流也。即徹過也。亦深邃也。懷者安也。詩云。懷我好音。術者道藝也。鄴洛禪師者。鄴在相州即齊魏所都。大興佛法。禪祖之一王化其地。護時人意不出其名。洛即洛陽。群者友也。輩也。武津歎曰者。南嶽大師。陳州項城武津人也。武津是所居地名。傳中不云領眾太早。但云有智斷師諮疑禪要。思因為說十地法門。驚異心目。智斷曰。恐師位階十地。師曰。吾是十信鐵輪位耳。應是習傳者異聞。著願文者其文現行。然文引四擇者。有人將此以對三術。非但數不相當亦乃文意永別。三術是天台密意。四擇是南嶽願文。引彼對此多恐未便。今言大師所引意者。用誡後學善須決擇。勤勤不已四度言之。故天台大師指南嶽為高勝之人。垂於深誡以為後軌。後代學者可以為鏡。鏡可以照不整之形。次引大論菩薩深山等者。大論十九釋禪度中。問云。菩薩摩訶薩應教化眾生為事。云何深山自靜。棄捨眾生違於慈悲利他之行。答曰。身雖遠離心不遠離。猶如病人服藥將身身康已後方可復業。康者安和也。菩薩亦爾服般若藥煩惱病損法身康復。為化未晚。若至六根等者。此語初依最後極位。通前五品並屬初依。故大經云。具煩惱性能知如來祕密之藏。無明全在名具煩惱。大象捍格等者。即以久行名為大象。不同前文對治文中。但以三祇名為大象。不憚生死名為捍格。捍者衛也。格應從土(戶白切)。禮云。發然後禁則捍垎而不勝。注云。捍垎者堅不可入也。從木從手並非今意。前既以五品為小象。今且以六根為大象。既離界繫自在堪能。煩惱不染如刀箭無施。種智化物如日光照世。物無始苦猶如長水。機熟獲益名為自治。象喻現身應世利物。若被名譽等者。為此三事之所動壞。前二如妨蠧令觀法散滅名為內侵。眷屬若集令諸行破壞。名枝葉外盡。猶如大樹外集眾鳥內抱蟲蝎樹必死壞。蠧者害物之蟲也。亦云。食桂蟲也。言三術者。如上文自列。一莫受莫著。二縮德露玼。三一舉萬里。內三術者。謂空假中。外障是軟賊謂名譽等。內障是強賊謂煩惱等。是故內外用術不同。淪者沒也。毘嵐者猛風也。此風在大鐵圍山外。若無鐵圍吹須彌山猶如腐草。故引為況。文舉片禪少惡為違順之端。故知違順未堪不應領眾。如彌沙塞律佛因調達領眾。乃引事云。往古有仙在山中誦剎利書。有一野狐而便誦之。自思惟言。我解此書足為獸王。因出遊行。逢一困狐而欲殺之。困狐曰。何以見殺。答云。我是獸王。汝不伏我故當殺汝。彼困狐云。汝勿殺我我當隨汝。如是展轉伏眾師子。師子伏已便作是念。我今不復以獸為婦。乃將諸獸繞迦夷國百千萬匝。王令使問。使迴答意。諸臣皆許。唯一臣言。自古及今。未曾見人王以女嫁獸。臣要當殺令此狐走。王問如何。此臣答曰。遣使剋求從期一願。必令師子先戰後吼。彼謂吾等畏師子吼。必令師子先吼後戰。師子若吼諸獸必散。王如其計。至日出軍事果如計。狐等纔聞師子吼聲。心破七分墮象而死。群獸皆走。佛說偈言。
○第九、安忍の中に、初めにもまた先に法、次に譬え、後に合す。初めの法の中に「爽」とは明らかなるなり。次の譬えの中に「鋒」などというは、また飛霜をもって鋒刃に譬えるなり。「聰」は聴くに善く、「心」は事に敏し。「睿」とは『説文』にいわく、深く明らかなるなり、智なり、と。喩は過なり、越なり。「疏」とは記なり。「洞」とは疾流なり。すなわち徹過なり。また深邃なり。「懐」とは安なり。『詩』にいわく、我が好音を懐う、と。「術」とは道芸なり。
鄴洛の禅師とは、鄴は相州にあり、すなわち斉・魏の都とするところなり。大いに仏法を興す。禅祖の一人にして、王その地を化す。時の人の意を護りてその名を出さず。洛はすなわち洛陽なり。「群」とは友なり、輩なり。
武津の歎じていわくとは、南嶽大師なり。陳州項城の武津の人なり。武津は所居の地名なり。伝の中に衆を領すること太だ早きを云わず。ただ智断の師ありて禅要を諮疑することを云う。思、因みに十地の法門を説く。心目驚異す。智断いわく、恐らくは師の位は十地に階る、と。師いわく、我はこれ十信の鉄輪の位のみ、と。まさに習伝する者の異聞なるべし。
願文を著すとは、その文現行せり。しかるに文に四択を引くとは、ある人これを将って三術に対す。数相い当たらざるのみならず、また文意永く別なり。三術はこれ天台の密意なり。四択はこれ南嶽の願文なり。彼を引きてこれに対す、多分未便ならん。今いわく、大師の引くところの意は、後学を誡めて善く決択すべし。勤勤として已まず、四度これを言う。ゆえに天台大師は南嶽を指南して高勝の人のために、深誡を垂れて後軌となす。後代の学者はもって鏡とすべし。鏡はもって整わざるの形を照らすべし。
次に『大論』の菩薩深山などというを引くとは、『大論』十九に禅度を釈する中に、問うていわく、菩薩摩訶薩はまさに衆生を教化するをもって事とすべし。云何が深山にして自ら静まり、衆生を棄捨して慈悲利他の行に違するや、と。答えていわく、身は遠離すといえども心は遠離せず。なお病人の薬を服して身を将いるがごとし。身康已後まさに復業すべし。「康」とは安和なり。菩薩もまた爾なり。般若の薬を服し煩悩の病損すれば法身康復す。化するは未だ晩しからず。
「若し六根に至る」などというは、この語は初め最後の極位に依る。前に通じて五品は並びに初依に属す。ゆえに『大経』にいわく、煩悩を具する性、よく如来の秘密の蔵を知る。無明全在するを名づけて煩悩を具すと。
「大象捍格」などというは、すなわち久行をもって名づけて大象となす。前文の対治の中に、ただ三祇をもって大象と名づくるとは同じからず。生死を憚らざるを名づけて捍格となす。「捍」とは衛なり。「格」はまさに土に従うべし(戸白切)。『礼』にいわく、発して然る後に禁ずればすなわち捍垎にして勝えず、と。注にいわく、捍垎とは堅くして入るべからざるなり、と。木に従い手に従うは並びに今の意に非ず。前すでに五品をもって小象となす。今しばらく六根をもって大象となす。すでに界繋を離れ自在にして堪能なり。煩悩染せず、刀箭の施すところなきがごとし。種智もって物を化するは日光の世を照らすがごとし。物は始めなき苦あり、長水のごとし。機熟して益を得るを名づけて自治となす。象は現身して世に応じ物を利するに喩う。
「若し名誉に被る」などというは、この三事の動壊するところとなる。前の二は妨蠧のごとく観法をして散滅せしむ、名づけて内侵となす。眷属もし集まれば諸行をして破壊せしむ、名づけて枝葉外尽となす。なお大樹の外に衆鳥集まり内に虫蝎を抱けば樹必ず死壊するがごとし。「蠧」とは物を害するの虫なり。またいわく、桂を食う虫なり、と。
三術というは、上の文に自ら列するがごとし。一には莫く受け莫く著す。二には徳を縮め玼を露す。三には一挙に万里。内の三術とは、いわゆる空・仮・中なり。外障はこれ軟賊にして名誉などをいう。内障はこれ強賊にして煩悩などをいう。これがゆえに内外に術を用いること同じからず。「淪」とは没なり。「毘嵐」とは猛風なり。この風は大鉄囲山の外にあり。もし鉄囲なければ須弥山を吹くことなお腐草のごとし。ゆえに引きて況となす。文に片禅の少悪を挙げて違順の端となす。ゆえに違順いまだ堪えず、まさに衆を領すべからざるを知る。
『弥沙塞律』に、仏、調達の衆を領するに因みて、すなわち事を引きていわく、往古に仙ありて山中に在りて刹利の書を誦す。一の野狐ありて便ちこれを誦す。自ら思惟していわく、我この書を解すれば足りて獣王とならん、と。因みに出で遊行す。一の困狐に逢いてこれを殺さんと欲す。困狐いわく、何をもってか見殺にせん、と。答えていわく、我はこれ獣王なり。汝我に伏せざるがゆえにまさに汝を殺すべし、と。かの困狐いわく、汝我を殺すこと勿れ、我まさに汝に随わん、と。かくのごとく展転して衆の師子を伏す。師子伏已りて便ちこの念を作す。我今もはや獣をもって婦となさず、と。すなわち諸獣を将いて迦夷国を繞ること百千万匝す。王、使を令して問わしむ。使廻りて意を答う。諸臣皆な許す。ただ一の臣のみ言う、古より今に至るまで、未だ曾て人王の女をもって獣に嫁するを見ず。臣まさにまさに殺してこの狐をして走らしむべし、と。王、如何にと問う。この臣答えていわく、使を遣わして剋く求めて期に従いて一願をばせよ。必ず師子をして先ず戦いて後に吼えしめよ。彼は我ら等の師子吼を畏ると謂う。必ず師子をして先ず吼えて後に戦わしめよ。師子もし吼えなば諸獣必ず散ずべし、と。王、その計に如かしむ。日出に至りて軍事果たして計のごとし。狐等纔かに師子吼の声を聞くや、心破れて七分し象より墮ちて死す。群獣皆な走る。仏、偈を説いわく。
野狐憍慢盛 求欲愛眷屬
行到迦夷城 自稱是獸王
人憍亦如是 現領於徒眾
在於摩竭國 法主以自號
野狐は憍慢が盛んで、欲を求めて眷属を愛し、 迦夷城に行き着いて、自ら獣の王と称していました。 人もまた憍慢であるなら同じことで、徒衆を率いることを現し、 摩竭国にあって、法主と自ら号しています。
早領眾者亦復如是。名成損己益他蓋微。莊子云。名者功之器不可多取。坯器菴華者並在大論。喻以初心。堆者聚土也。若作堆字義亦通於堆阜也。菴羅華者多華少實。若得此意不須九境者。若能於此陰境安忍。必得入於六根清淨。尚離二乘菩薩二境。況復煩惱等七。故約此人不須更明下九。不忍違順故九境生。違即是惡。順即是善。具如前文互發中判善惡等相。故知上根唯觀陰境。故於陰安忍不順下九。
まず「早領衆者」もまた同じです。名を得ることは自分を損ない他を益するもので、その覆いはわずかです。莊子が言うには、名とは功の器であり、多く取ってはなりません。「坯器菴華」はともに『大論』にあり、初心に喩えています。「堆」とは土を積み上げたものです。もし「堆」の字とすれば、その意味は「堆阜」にも通じます。「菴羅華」とは花が多く実が少ないものです。もしこの意を得たならば、九境を必要としません。もしこの陰境において安忍することができれば、必ず六根清浄に入ることができます。なお二乗と菩薩の二境を離れています。ましてや煩惱などの七についてはなおさらです。したがって、この人について言えば、下の九をさらに明かす必要はありません。違順に忍びないため、九境が生じます。違とはすなわち悪であり、順とはすなわち善です。前文の互發の中で善悪などの相を判じたのと同じです。したがって、上根はただ陰境のみを観ずると知るべきです。だから陰において安忍し、下の九に順じないのです。
○十無法愛中。行上九事過內外障等者。內外如向分別。安忍此已。已入六根。不得發真良由住著。著相似法名為頂墮。應通歷四教明頂墮義。初文且寄三教頂墮。從既不入位去。正明今文頂墮之義。初明三藏頂墮。具如毘曇中說。文中先簡非頂墮位。謂燸一向退不名頂墮。忍位過頂復不名墮。於三位間住頂名墮。何者。五根忍位不復出觀。上忍發真是故不墮。於頂位法中多生愛心。則應入頂而不得入。由退頂故造於重逆。故名為墮。通教頂墮例此可知。別教頂位在十行中。故無墮義。於行向中縱起著心。但未地之名為頂墮。終無造過。大論云下出圓似位有愛。今人下今論圓教至十信時。若生愛心不入初住。而六根淨位定不墮小。則以住頂名之為墮非謂退墮。以六根中無退義故。況復更有造重逆耶。故此頂墮異前通藏。故大論三十。明頂墮義二種不同。一者頂退名之為墮。二者住頂名之為墮。小乘教中雖具二義住頂多退。故今圓位見思已落但有住頂一墮義耳。故大論四十三問曰。頂不應墮。云何言墮。答。垂近應得而便失者。名之為墮。若得頂者智慧安隱則不畏墮。此約初義以退為墮。若第二義但以住頂不進不退。名之為墮。是則十信初心猶名為燸。今止觀下總結示之。初從妙境終至離愛。行解具足正助不虧。已送行者至於初住。入無功用自堪進道。入住已去今文不論。故云齊此。故諸經論初住已去。多明輔佛化他之相。不復委悉論於自行。是故今云入住功德今所不論。今意且赴末代修行。後當重說者。至菩薩境中應更廣辯。夏終不說下無所論。始從第五卷初來至此中。正當法說。明於陰境十法成乘竟。是十下次引法華大車。以譬十法。初略標。次列經文。次合。次結。且順經次第不復依於十法次第。今以十法隨對整足。大車高廣不思議境也。幰蓋慈悲。寶繩交絡即發心也。安置丹枕。枕有內外。若車內枕休息眾行。即安心也。若車外枕或動或靜。動靜秖是通塞義也。破塞存通即塞而通。其疾如風即破無明。是破遍義也。大品云。法愛難斷。故處處說破無明三昧。始自白牛終至平正。道品義也。又多僕從即正助也。頌中云儐從。禮云。導也。又云。侍邊也。遊於四方。即次位也。安忍離著在次位之初。是故更加復次結位。始從初心終訖究竟。安忍秖是忍於五品違順二境令入六根。離愛秖是離六根中相似法愛。綩綖者。埤蒼云。綩者衣繡裳也。綖者席也。應作莚字。此綖字是天子覆冠曰綖。亦可通用。又次位者秖是行之所階。恐行者生濫。故於次位中別出五品六根清淨。勸勵行者令離障離愛。故知前七正明車體及以具度。後三秖是乘之所涉。若無所涉運義不成。是故十法通名乘也。次結位者。夫有心者悉具三軌。此之三軌通於六即。理性車體。具度資成。白牛觀照。在一念心即是理性。聞名起觀名為等賜。諸子乘乘入位不同。故有觀行相似等別。乃至四方直至道場。道場猶受果乘之號。是故因果乘義不無。今人下斥邪也。設謂假設。借字(子謝切)設使借之與乘名者。但是邪乘。乘者本以運載為義。邪法無運故名為借。既是邪法不出諸見。諸見即具六十二也。從正法下顯正也。不同惡空故云正法。正法御邪故云大城。不可壞故名為金剛。具足諸法名為寶藏。具足者釋寶藏也。無缺者釋金剛也。如此妙乘豈同惡空。與而言之但有車體。既無具度故名為禿。奪而言之體用俱非。故名為禿。故引大經乘壞驢車。非但闕於白牛般若。為驢所乘。任運非正故非高廣。又復言壞全無莊嚴。況復起見入三惡道。
十、法愛を離れる中で、九つの事を行じ、内外の障りを越えることなどについて述べます。内外の区別は先に示したとおりです。この安忍をすでに終え、すでに六根に入っても、真を発することができないのは、ただ住着によるものです。相似の法に執着することを、これを「頂堕」と名づけます。四教を通じて頂堕の意味を明らかにすべきです。初めの文では、しばらく三教の頂堕に寄せて説明します。「既に入位せず」という文から、まさに今の文における頂堕の意味を明らかにします。初めに三蔵の頂堕を明らかにします。詳しくは毘曇の中で説かれているとおりです。文の中では、まず頂堕の位ではないものを除きます。すなわち、燸は一向に退くので頂堕とは名づけません。忍位は頂を過ぎているので、また堕とは名づけません。三つの位の間にあって頂に住するものを、堕と名づけます。なぜでしょうか。五根の忍位ではもはや観を出ることはなく、上忍は真を発するので、したがって堕しません。頂の位の法の中で多く愛の心を生じるならば、まさに入頂すべきなのに、入ることができません。頂を退くことによって重い逆罪を造るので、これを堕と名づけます。通教の頂堕もこれに準じて知ることができます。別教の頂位は十行の中にあります。したがって堕の意味はありません。行と向の中でたとえ執着の心を起こしても、ただいまだ地に至らないことを頂堕と名づけるだけで、ついに過ちを造ることはありません。
『大論』に「下」とあるのは、円の似位に愛があることを示します。今の人は「下」とあるのは、今、円教を論じ、十信の時に至って、もし愛の心を生じて初住に入らなければ、六根清浄の位にあっては必ず小に堕することはありません。そこで頂に住するをもって、これを堕と名づけるのであって、退堕することをいうのではありません。六根の中には退く意味がないからです。ましてやさらに重い逆罪を造ることがありましょうか。したがってこの頂堕は、先の通教・三蔵とは異なります。それゆえ『大論』三十には、頂堕の意味を明らかにし、二種の違いがあると説いています。一つは、頂から退くことを堕と名づけるもの。二つは、頂に住することを堕と名づけるものです。小乗の教えの中では二つの意味を具えていますが、頂に住することよりは退くことが多いのです。それゆえ今の円の位では見思はすでに落ちているので、ただ頂に住するという一つの堕の意味があるだけです。それゆえ『大論』四十三に問うて言います。「頂は堕すべきではない。どうして堕と言うのか」と。答えていいます。「まさに得ようとして間近になりながら、そのまま失うことを、これを堕と名づける。もし頂を得た者であれば、智慧は安穏であり、堕することを恐れない」と。これは初めの意味に約して、退を堕とするものです。もし第二の意味であれば、ただ頂に住して進まず退かず、これを堕と名づけるだけです。この場合には十信の初心はなお燸と名づけます。
今、止観の下で、まとめてこれを示されます。初めは妙境から終わりは離愛に至るまで、行と解は具足し、正と助は欠けることがありません。すでに行者を初住まで送り届け、無功用に入れば自ら道を進むに堪えます。住に入ってから以後は、今の文では論じません。それゆえ「斉此」と言います。したがって諸経諸論では、初住以後については、多くは仏を助けて他を化する相を明らかにし、もはや委しく自行を論じません。それゆえ今「入住の功德は今は論じない」と言います。今の意はただ末代の修行に赴いており、後で重ねて説くべきであるとは、菩薩境の中でさらに広く弁ずべきことをいいます。「夏終に説かず」の下は論ずるところがないということです。初めに第五巻の初めからここに至るまでは、まさに法説に当たります。陰境について十法が乗を成すことを明らかにし終えました。
「是の十」の下は、次に法華の大車を引いて、十法を譬えます。初めに略して標し、次に経文を列ね、次に合わせ、次に結びます。しばらく経の次第に順って、十法の次第には依りません。今は十法をもって随って対し整え足します。大車の高く広いことは不思議境です。幰蓋は慈悲です。宝縄を交絡することはすなわち発心です。丹枕を安置するとは、枕には内外があります。もし車内の枕であれば、諸の行を休息するもので、すなわち安心です。もし車外の枕であれば、あるいは動きあるいは静かであり、動静はただ通塞の意味です。塞を破り通を存することは、すなわち塞にして通です。「其の疾きこと風の如し」とは、すなわち無明を破ることで、これは破遍の意味です。大品に言います。「法愛は断ち難い。それゆえ处处に無明を破る三昧を説く」と。白牛より始めて平正に終わるまでは、道品の意味です。また多くの僕従とは、すなわち正と助です。頌の中に「儐従」と言います。礼に言います。「導である」と。また言います。「侍辺である」と。四方に遊ぶとは、すなわち次位です。安忍して著を離れることは、次位の初めにあります。それゆえさらに「復次」を加えて位を結びます。初心より始めて究竟に終わるまで、安忍はただ五品の違順の二境を忍んで、六根に入らせるだけです。離愛はただ六根の中の相似の法愛を離れるだけです。綩綖とは、埤蒼に言います。「綩とは衣の繡裳である。綖とは席である。まさに莚の字と作すべきである。この綖の字は天子が冠を覆うを綖と言う。また通用してもよい」と。
また次位とは、ただ行の階たるだけです。行者の生濫を恐れるので、次位の中で別に五品と六根清浄とを出し、行者を勧励して障を離れ愛を離れさせます。それゆえ前の七は、正しく車体および具度を明らかにし、後の三は、ただ乗の涉るところであることが分かります。もし涉るところがなければ、運の意味は成じません。それゆえ十法を通じて乗と名づけます。次に位を結ぶとは、およそ心ある者はみな三軌を具えます。この三軌は六即に通じます。理性は車体、具度は資成、白牛は観照です。一念心にあって、すなわち理性であり、名を聞いて観を起すことを等賜と名づけます。諸子は乗に乗って入位は同じではないので、観行・相似などの違いがあります。乃至四方から直ちに道場に至るまで、道場はなお果乗の号を受けます。それゆえ因果の乗の意味は無いわけではありません。「今人」の下は邪を斥けます。設とは仮設です。借字の子謝切。設使これを借りて乗と名づけても、ただ邪乗であるだけです。乗とはもともと運載を意味とします。邪法には運がないので、これを借と名づけます。すでに邪法であれば諸見を出ません。諸見はすなわち六十二を具えます。「正法」の下は正を顕します。悪空とは異なるので正法と言います。正法が邪を御するので大城と言います。壊すべからざるがゆえに金剛と名づけます。諸法を具足するがゆえに宝蔵と名づけます。具足とは宝蔵を釈し、無欠とは金剛を釈します。このような妙乗がどうして悪空と同じでありましょうか。与えて言えば、ただ車体があるだけで、具度がないので禿と名づけます。奪って言えば、体と用がともに非であるので禿と名づけます。それゆえ大経の「乗壊驢車」を引きます。ただ白牛の般若に欠けるだけでなく、驢に乗られるのです。任運に正でないので高広ではありません。また壊と言うのは、まったく荘厳がないということです。ましてや見を起こして三悪道に入ることにおいてはなおさらです。
○端坐觀陰界入境。所云端坐者。豈隔餘儀。四三昧中常坐居首。是故先明。常行等三亦可通用。歷緣對境自攝餘三。是故且判以為端坐。問。五陰盡在端坐觀耶。答。陰通三性不隔餘義。前文且明端坐用觀。餘義在後歷緣對境。次明歷緣對境者。先序來意。次下正釋。正釋文中先明歷緣。次明對境。就歷緣中初於行緣具明十法。次是約下結意也。次行緣既爾下例餘五緣。次三三昧下釋疑。次昔國王下引證。故大論二十云。昔有國王園中遊戲。朝見華林茂盛可愛。食已臥息。夫人采女皆共取華毀折林樹。覺已見之。悟一切法皆悉無常。如是思惟悟辟支佛。宿福既厚。藉少因緣易得聖果。次對境中亦先約眼色具足十法。次例餘根等。初境中次結數引例引證結非。若觀下不思議境。初引經總立三智五眼。次別釋三觀。假觀中云外道打髑髏作聲者。增一阿含云。佛在耆闍崛山與五百比丘俱。從於靜室下靈鷲山。與鹿頭梵志俱行。至大畏林。取死人髑髏授與鹿頭。而作是言。今此梵志明於星宿兼善醫藥。善解諸聲知死因緣。問云。此是何人髑髏。答曰。男子。問。云何命終。答。眾病皆集百節酸疼。故命終也。何方治。答。呵梨勒和蜜治必不終。又問。生何處。答。生三惡道。又打一髑髑問之。答。女人。何病死。答。懷妊死。何方治。答。服好酥醍醐。生何處。答。畜生中。又取一髑髏打。問曰。何故死。答。食過差死。何方治答。三日絕食。生何處。答。生鬼中。以想水故。又取一髑髏打之。問曰。何人。答。女人。何死。答。產死。生何處。答。人中。又打一髑髏。問曰。何死。答。被人害死。生何處。答。生天。佛言。為人害死必生三惡。更打之。答云。此人持十善。又夫餓死者生人天中。無有是處。凡一一答佛。佛皆語云。如汝所言。香山南有優陀延比丘。入無餘界。佛申手取髑髏來。問。生何處。答。無本。非男非女不見生處。不見周旋往來八方。都無音聲。未審是誰。佛言。止止。又重問佛。佛具答。鹿頭歎曰。此未曾有。我觀蟻子尚知來處。鳥獸音聲尚別雌雄。觀此羅漢不見生處。如來正法甚奇甚特。九十五道我皆能知。如來之法不識趣向。唯願世尊聽在道次。佛言善來。得無學果。聽聲既爾。餘塵亦然。外道之法聽死骨聲能達遠事者。良由聲中本具諸法。故使外道得其少分。冥依其本日用不知。況今妙觀直觀本理。理具諸法不足置疑中觀如文。雖無下釋成五眼。次引二經證。次結成一心次明互用。問答並如文。引證中淨名云不來相等。舉六作中初行緣也。不見相等舉六受中初見色也。當知根塵無非法界。故云不來而來等。如四念處中引唯識云。言唯識者唯是一識。復分二種。一者分別。二無分別。分別識者名為識識。無分別者名似塵識。一切世間皆為似塵識之所成。三無性等色心之法本來不二。彼既分於二識。例亦分於二色。問。色之與識如何同異。答。若色心相對則有色有心。論其體性則離色無心離心無色。若色心相即二則俱二。一則俱一。故圓說者亦應得云唯色唯聲唯香唯味唯觸。何但獨得云唯識耶。若合論者。無不皆悉具足法界。復次若從末說。一切眾生二種不同。上界多著識下界多著色。若約識為唯識攬外向內。令觀內識皆是一識。識既空已十界皆空。識若假者十界皆假。識若中者十界皆中。專於內心觀一切法。觀外十界即見內心。是故當知若識若色皆是唯色。若識若色皆是唯識。雖說色心但有二名。論其法體秖是法性。如是即是心地法門。不動寂場現身八會。諸佛解脫於心中求。心為佛種心即菩提。當用此意通一切心通一切教。理行位等準此說之。識次位中若漸見等者。普賢觀云。行者若能隨普賢教正心正意。漸以心眼見東方佛黃金色身端嚴微妙。見一佛已復見一佛。如是遍見東方諸佛。心想利故遍見十方一切諸佛。頓見者。不輕品云。彼比丘臨欲終時於虛空中。具聞威音王佛先所說法華經。二十千萬億偈。悉能受持即得六根清淨。經文不云漸見一佛乃至諸佛。故名頓見。次譬大車結成佛事。若眼入等者即自行也。次引淨名或有佛土光明等者。自行化他皆名佛事。若云或有佛土等者。即化他也。如楞伽第三云。不瞬世界。妙香世界。令諸菩薩瞪視不瞬得無生忍。即眼為法界也。更有誠教準此思之。次例中先例餘受。次例餘根。次明大車。如文。若能下勸修。初總中先法。次引譬斥中。云黑蚖秖是長蛇。綺文互說耳。不修止觀如長蛇。善解止觀如懷珠。解而不用為無益。大論第十釋因不同故果不等中云。有一黑蚖懷摩尼而臥。有羅漢乞食不得。論明破戒而猶有福。故使墮蚖尚懷寶珠。今借斥之。以譬有解而不能行。如蚖懷珠於蛇何益。次別引三譬者。皆先譬次合。初譬中云。賜者與也。亦惠也。祿者。爾雅云。福也。孝經注云。食廩曰祿。楊承云。上古無祿。人食野禾因朝闕食。獵者賜鹿以當於食。故變為祿字。匹夫所得薄祿也。械是兵器總名。戟者短戈。鉤子槊也。郭璞注方言云。戟中有小刺謂雄戟也。若為麴糵等者。尚書殷高宗聘傅說於傅巖之野云。若濟巨川用汝作舟檝。若歲大旱用汝作霖雨。若作酒醴爾惟麴糵。若作和羹爾惟鹽梅。帷帳者。說文云。旁曰帷上曰幕。帳者。說文云。四合象宮室張之曰帳。淮南子云。將軍幬帳也。折衝者。折者截也。衝者。說文云。通道也。廣雅云。突也。弋擊也。用而屢北者。說文云。北者乖也。又軍走曰北。又北主陰方。陰主殺也。即被殺者為軍敗也。解髻等者。尚書云。德懋懋官功懋懋賞。懋者勉也。今圓破煩惱得實相賞。賞中之極如解髻與珠。如諸聲聞來至法華。功之極也。故譬輪王解以權髻顯實相珠。野巫者。男師曰覡。女師曰巫。謂陰神也。說文云。巫者祝也。祝者祭主申讚辭者也。三事不辦者。不能破魔軍。不能除煩惱。不能顯法性。對前三喻如文可知。區區者踦區屈曲終日故也。軍者眾也。萬二千人曰軍。今之魔軍何必定數。但言眾耳。
端坐して陰界入を観るとは、まず「端坐」について述べれば、他の儀式を遠ざけるという意味ではありません。四三昧のうち常坐が最初に置かれているので、まずこれを明かします。常行など他の三つも通用しますが、縁に触れ境に向かう行は自ずと他の三つを摂めますので、ここではひとまず端坐と定めます。
問い。五陰はすべて端坐において観るのでしょうか。答え。陰は三性に通じ、他の意義を隔てはしません。前の文ではまず端坐における観を明かしましたが、他の意義は後に縁に触れ境に向かう行として述べられます。次に縁に触れ境に向かう行を明かすとは、まず来意を述べ、次に本文の解釈に入ります。本文の解釈では、先に縁に触れる行を明かし、次に境に向かう行を明かします。縁に触れる行については、初めに「行」の縁について十法を詳しく述べ、次に「約下」で結ぶ意を述べます。次に「行縁既に爾くの如し」以下で残りの五縁を例示します。次に「三三昧」以下で疑いを解きます。次に「昔の国王」以下で証拠を引用します。
『大論』巻二十にこうあります。昔、ある国王が園で遊びました。朝、花の林が茂り愛らしいのを見ましたが、食事のあと臥して休みました。夫人や采女たちが皆花を採り、林や樹を折り損ねました。王は目覚めてそれを見て、一切の法はすべて無常であると悟りました。このように思惟して辟支仏を悟りました。宿の福が厚かったので、わずかな因縁によって聖果を得やすかったのです。
次に境に向かう行についても、まず眼と色について十法を具足し、次に残りの根などを例示します。初めの境については、次に数を結び、例を引き証を引き、結んで非を破します。「若し観ずれば」以下は不思議境です。初めに経を引き総じて三智五眼を立て、次に別に三観を解釈します。仮観の中で「外道が髑髏を打って声を出す」とは、『増一阿含』にこうあります。仏は耆闍崛山にあり五百比丘と共におられました。静室から霊鷲山を下り、鹿頭梵志と共に歩き、大畏林に至りました。死人の髑髏を取って鹿頭に授け、こう言いました。「この梵志は星宿に明るく、また医薬に善く、よくもろもろの声を解し死の因縁を知る。」そこで問います。「これは何人の髑髏か。」答えて「男子。」問います。「どうして命終したのか。」答えて「諸の病が皆集まり百節が酸疼したので命終した。」「何方で治すか。」答えて「訶梨勒を蜜と和せば治し、必ず死なない。」また問います。「どこに生まれたか。」答えて「三悪道に生まれた。」
また一つの髑髏を打って問います。答えて「女。」「何の病で死んだか。」答えて「妊娠で死んだ。」「何方で治すか。」答えて「良き酥や醍醐を服す。」「どこに生まれたか。」答えて「畜生の中。」
また一つの髑髏を取って打ち、問います。「何故死んだか。」答えて「食べ過ぎて死んだ。」「何方で治すか。」答えて「三日断食する。」「どこに生まれたか。」答えて「鬼神の中に生まれた。水を想うからである。」
また一つの髑髏を取って打ち、問います。「何人か。」答えて「女。」「何の死か。」答えて「産死。」「どこに生まれたか。」答えて「人中。」
また一つの髑髏を打ち、問います。「何の死か。」答えて「人に害されて死んだ。」「どこに生まれたか。」答えて「天に生まれた。」仏言く「人に害されて死んだ者は必ず三悪に生まれる。」さらに打ちます。答えて「この人は十善を持った。」
またそもそも餓死した者が人天の中に生まれることは、このような道理はありません。一々の答えごとに、仏は皆こう語りました。「あなたの言う通りである。」香山の南に優陀延比丘がいて無余界に入りました。仏は手を伸ばして髑髏を取って来て問います。「どこに生まれたか。」答えて「無本。男でもなく女でもなく、生まれた処を見ず、八方往来の周旋を見ず、全て音声もない。いまだ誰か分からぬ。」仏言く「止みよ止みよ。」また重ねて仏に問い、仏は具に答えました。鹿頭は歎じて言いました。「これは未曾有である。私が蟻子を観てもなお来処を知り、鳥獣の音声もなお雌雄を別つ。この羅漢を観るに生処を見ない。如来の正法は甚だ奇しく甚だ特である。九十五道を私は皆よく知る。如来の法は趣向を知らない。唯願わくは世尊、私を道次に在さしめたまえ。」仏言く「善来。」無学果を得ました。
声を聞くについてすでにこのようである以上、残りの塵もまた同様です。外道の法が死骨の声を聞いて遠い事を達することができるのは、まさに声の中に本来もろもろの法が具わっているからです。それゆえ外道がその少分を得ても、冥々にその本に依りながら日用にして知らないのです。ましてや今の妙観は直接に本理を観ます。理にもろもろの法が具わることは疑う余地がありません。
中観は文の通りです。「雖無」以下は五眼を解釈して成します。次に二経を引いて証し、次に一心を結成し、次に互用を明かします。問答は皆文の通りです。証を引く中で『浄名経』に「不来相」などと言うのは、六作の中の初めの行縁を挙げたものです。「不見相」などは六受の中の初めの見色を挙げたものです。まさに知るべきです、根と塵は法界でないものはないと。ゆえに「不来而来」などと言います。
『四念処』に『唯識』を引いてこうあります。「唯識と言うのは、ただ一識のみである。また二種に分ける。一つは分別、二つは無分別。分別識は識識と名づける。無分別は似塵識と名づける。一切世間はすべて似塵識によって成じられる。」三無性など、色心の法は本来不二です。彼がすでに二識に分けるなら、例としてまた二色にも分けるべきです。
問い。色と識はどのように同じで異なるのか。答え。もし色心が相対すれば色もあり心もあります。その体性を論じれば、色を離れて心なく、心を離れて色ありません。もし色心が相即すれば、二ならば共に二、一ならば共に一です。ゆえに円説する者はまた「唯色・唯声・唯香・唯味・唯触」と言うべきです。どうしてただ独り「唯識」と言えるでしょうか。もし合論すれば、すべて法界を具足しないものはありません。
また末から説けば、一切の衆生は二種異なります。上界は多く識に著し、下界は多く色に著します。もし識を約して唯識とすれば、外を攬して内に向かい、内識を観じて皆一識とします。識がすでに空となれば十界も皆空です。識がもし仮ならば十界も皆仮です。識がもし中ならば十界も皆中です。専ら内心において一切の法を観じ、外の十界を観ればすなわち内心を見ます。ゆえにまさに知るべきです、識も色も皆これ唯色であると。識も色も皆これ唯識であると。色心を説くといえどもただ二つの名があるのみで、その法体を論じればただこれ法性です。このようであるのがすなわち心地法門です。寂場を動かさずに八会に身を現し、諸仏の解脱は心中に求めるのです。心が仏種であり、心がすなわち菩提です。まさにこの意を用いて一切の心に通じ一切の教に通じるべきです。理・行・位などもこれに準じて説きます。
識の次位の中で「若し漸く見る」などとは、『普賢観』にこうあります。「行者がもし普賢の教えに随い正心正意にして、漸く心眼をもって東方の仏の黄金色の身の端厳微妙なるを見る。一仏を見ればまた一仏を見る。このように東方の諸仏を遍く見る。心想が利なる故に十方の一切諸仏を遍く見る。」頓見とは、『不軽品』にこうあります。「かの比丘が臨終の時、虚空の中において、威音王仏の先に説いた法華経二十千万億偈を具に聞き、悉く受持することができて即ち六根清浄を得た。」経文には漸く一仏を見、乃至諸仏を見るとは説かれていません。ゆえに頓見と名づけます。
次に大車を譬えて仏事を結成します。「若し眼入」などとはすなわち自行です。次に『浄名経』を引いて「或いは仏土あり光明」などとは、自行化他を皆仏事と名づけます。「或いは仏土あり」などと言うのはすなわち化他です。『楞伽経』第三にこうあります。「不瞬世界、妙香世界において、諸菩薩に瞪視して瞬かずして無生忍を得させる。」すなわち眼が法界であるということです。さらに誠教がありますので、これに準じて思うべきです。
次の例の中で、まず残りの受を例し、次に残りの根を例し、次に大車を明かします。文の通りです。「若能」以下は修を勧めます。初めの総の中ではまず法を述べ、次に譬を引いて斥けます。「黒蚖」とはただ長蛇のことです。綺文が互いに説いただけです。止観を修めなければ長蛇の如く、善く止観を解すれば珠を懐くが如くです。解して用いなければ益がないのです。
『大論』第十に因が同じでない故に果が等しくないと解釈する中にこうあります。「一羽の黒蚖が摩尼を懐いて臥していた。一人の羅漢が乞食しても得られなかった。」論は破戒でもなお福があることを明かします。ゆえに蚖に堕ちてもなお宝珠を懐いています。今これを借りて斥けます。解があっても行うことができないを譬えるに、蚖が珠を懐くが如く蛇に何の益があるでしょう。
次に別に三つの譬を引くものは、皆まず譬え次に合わせます。初めの譬の中で「賜」とは与えることです。また恵みでもあります。「禄」とは、『爾雅』に「福なり」と言います。『孝経』の注に「食廩を禄と言う」と言います。楊承にこうあります。「上古には禄がなかった。人が野の禾を食し、朝闕の食のために、猟する者が鹿を賜って食に当てた。ゆえに変じて禄の字となった。」匹夫の得る薄禄です。「械」は兵器の総名です。「戟」は短戈、「鉤子槊」です。郭璞の『方言』の注にこうあります。「戟の中に小刺があるのを雄戟と言う。」
「若し麴糵とならん」などとは、『尚書』に殷の高宗が傅説を傅巖の野に聘した時にこう言います。「もし巨川を済らんには汝を舟檝と作さん。もし歳大旱ならば汝を霖雨と作さん。もし酒醴を作らんには汝は惟れ麴糵なり。もし和羹を作らんには汝は惟れ塩梅なり。」「帷帳」とは、『説文』に「旁を帷、上を幕と言う」とあります。「帳」とは、『説文』に「四合して宮室に象り、これを張るを帳と言う」とあります。『淮南子』に「将軍の幬帳なり」と言います。「折衝」とは、「折」は截つことです。「衝」とは、『説文』に「通道なり」とあります。『広雅』に「突なり」とあります。「弋撃」です。「用いて屢しば北」とは、『説文』に「北は乖なり」とあります。また軍が走るを北と言います。また北は陰方を主り、陰は殺を主ります。すなわち殺される者が軍敗です。
「解髻」などとは、『尚書』にこうあります。「徳懋しければ官を懋し、功懋しければ賞を懋す。」「懋」とは勉めることです。今、円教で煩悩を破り実相の賞を得るのは、賞の中の極みであり、髻を解き珠を与えるが如くです。諸の声聞が法華に来至するのは、功の極みです。ゆえに輪王が権の髻を解き実相の珠を顕すことに譬えます。「野巫」とは、男の師を覡と言い、女の師を巫と言います。陰神を謂います。『説文』に「巫は祝なり」とあります。「祝」とは祭主が賛辞を申べる者です。
「三事辦ぜず」とは、魔軍を破ることができず、煩悩を除くことができず、法性を顕すことができないということです。前の三つの譬に対するのは文の通りで知ることができます。「区区」とは踦区屈曲して終日する故です。「軍」とは衆のことです。万二千人を軍と言います。今の魔軍はどうして必ず定数がありましょうか。ただ衆と言うだけです。
止觀輔行傳弘決卷第七之四
止観輔行伝弘決 巻第七の四