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title: "請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼三昧儀 · 4 繫念數息"
description: "北宋天台宗高僧遵式大师集录的《請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼三昧儀》，是一部重要的观音忏法仪轨。该仪轨以《请观音经》为核心，结合密咒与天台观想法，详细规定了礼拜、供养、持咒、忏悔等修行次第，旨在通过观世音菩萨的慈悲愿力消除业障、祛除病厄与灾祸。此仪轨体现了宋代天台宗显密圆融的特色，是汉传佛教观音信仰的重要实践指南，至今仍在佛教修持中具有深远影响。"
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### 第四繫念數息

> 第四の念、息を数えること

百錄云。當向西方結跏趺坐。繫念數息令心不散。勿數風喘氣。為眾生故經十念頃。疏云十息為一念。凡百息為十念。禪波羅蜜云。初至繩床令坐安穩。若半加以左脚置右髀上。牽來近身。令脚指與左右髀齊。若全加即上下右脚置左髀。次左掌置右掌上。頓置左髀近身當心而安。正身端直令鼻與臍相對。平面正住閉口。脣齒纔相拄著舉舌向齶。閉眼纔令斷外光而已。息者。有聲曰風。結滯曰喘。不結曰結。不聲不結不麁不澁不滑。出入綿綿若存若亡。資神安隱曰息。守風散喘滯氣勢息定。百錄云。成十念已次念十方佛。七佛世尊色身。實相妙身猶如虛空。又當慈念一切眾生。作此念時如一上禪。久運念已安詳徐覺疏云。繫念是勸意業默念之請。下根即得心定亂止。中根即得細住。上根即得未到地定。此是喜發諸禪無漏。見十方佛念佛三昧一切諸禪。即此十念約十種行人。數息域意不同若數息調適。身心安靜四大調和。即消伏果報上毒害。若數息時開發善心。惡業俱息具世善。即人天數息。若觀息是風氣風即色。能觀心王是識。領受此息。緣想此息其餘是行。息具五陰即四念處。名聲聞息。若觀息過去無明因緣。成今果報之息三世因緣。是緣覺息。若觀息不保不著名檀。不起不善名尸。安耐此數名忍。念念相續名進。知數不亂名定。照了風喘邪正是智。成事六度息。若觀息成無相慧。名通教息。若觀息不空不俗中道佛性。前後觀之名別教息。若圓觀此息一心三諦。無次第前後。名圓教息。念佛者。經文令念七佛等也。輔行引婆沙云。諸法本來無生無滅。菩薩信樂色法二身如虛空故。於一切處得無障礙。言障礙者。謂須彌山等。是人未得天眼。念他方佛。得禪定法隨意見佛。亦應細約十種行相。疏云。十方佛即十法界。皆有佛性。七佛七覺分也。念生生者應緣四諦境起慈悲為便。文繁不引可以意思。應知繫念勿得輕心。但為歛念而已須知行人根性不同。於三七日若七七日深有所發。故疏中廣約三根及十種行人。明其相貌令旨趣在遠。行者深思。數息既爾諸門例然。一一約十種行人。明消伏意。

> 「百録」にはこうある。西方に向かって結跏趺坐し、心を一つの対象に集中して息を数えることで、心を散乱させないようにする。また、風の息や喘（あえ）ぐ息を数えてはいけない。衆生のためという思いで、十念の間、これを行う。疏には「十息で一念とする。合わせて百息で十念となる」とある。「禅波羅蜜」には、まず座具（坐蒲団）に座り、安定した姿勢をとるとある。半跏趺坐なら、左足を右腿の上に置き、足の指が右腿と並ぶように引き寄せる。結跏趺坐なら、右足を左腿の上に置き、次に左の手のひらを右の手のひらの上に重ね、左腿の近く、心臓の辺りに安置する。背筋を伸ばし、鼻と臍が上下に一直線になるようにする。顔は正面に向け、口は閉じる。唇と歯は軽く触れ合わせ、舌先は上顎に付ける。目は閉じるが、外の光が完全に遮られるほど強く閉じてはいけない。 息について言えば、音がするものを「風」、滞りがあるものを「喘」、滞りがないものを「気」という。音がなく、滞りがなく、粗くなく、滑らかすぎず、出入りが細く長く続き、あるようでないように感じられ、精神を支え安らかにするものを「息」と呼ぶ。風の息を保てば心は散り、喘ぐ息は気を滞らせ、勢いのある息はやがて定まる。 「百録」には、十念を終えたなら、次に十方の仏を念じなさいとある。すなわち、七仏世尊の色身と実相の妙身は虚空の如くであること、また、一切の衆生に対して慈しみの心を起こすことである。このように念じる時は、一つの上の禅定に入ったかのようになる。長くこの想念を持続した後、ゆっくりと穏やかに意識を戻す<note>疏によれば、「繫念」とは心の働き（意業）に勧めて、心の中で念じさせることである。下の根機の者は、これによって心が定まり乱れが止む。中の根機の者は、細かい安住の状態を得る。上の根機の者は、未到地定に至る。これは、諸々の禅定や無漏の智慧が喜びとなって現れる境地であり、十方の仏を見る念仏三昧、一切の諸禅をも含む。この十念は、十種の修行者の類型に応じて説かれている。数息という方法の対象領域は、その目的によって異なる。もし数息が適切に行われれば、身心は安らかに整い、四大も調和する。これによって、過去の行い（果報）による毒害を消し去ることができる。もし数息の際に善心が開かれ、悪い行いがすべて静まったなら、それは世間の善を備えたものであり、人間・天人の数息となる。もし息を「風」「気」という物質（色）として観じ、それを認識する心王は「識」であり、この息を受容し、想い描き、その他は「行」であると観じ、息に五蘊が具わっていると見るなら、これは四念処の観察であり、声聞の数息となる。もし息を、過去の無明を因縁として現在の果報としての息が生じたと、三世の因果として観じるなら、これは縁覚の数息となる。もし息を観じて、それに執着せず、よく保ち、これを我が物としないことを「布施」、不善を起こさないことを「戒」、この数を耐え忍ぶことを「忍辱」、想念を途切れさせず続けることを「精進」、数を正しく知って乱れないことを「禅定」、風や喘ぎなどの邪正を明らかに照らすことを「智慧」と見るなら、これは六波羅蜜を成就する数息となる。もし息を観じて無相の智慧を成就するなら、これは通教の数息となる。もし息を観じて、空にも偏らず、俗にも偏らず、中道の仏性と見て、前後の区別をもって観じるなら、これは別教の数息となる。もし円教の立場でこの息を観じ、一心に三諦を具し、前後の区別なく観じるなら、これは円教の数息となる。念仏については、経典では七仏などを念じるようにとある。「輔行」が『婆沙論』を引いて言うには、諸法は本来、生もなく滅もない。菩薩は色身と法身が虚空の如くであることを信じ喜ぶので、あらゆる場所において障りがない。障りとは、須弥山などのことである。しかし、この人はまだ天眼を得ていないので、他方の仏を念じ、禅定の法を得ると、意のままに仏を見ることができる。これもまた、細かく十種の修行者の行相に当てはめて考えるべきである。疏に言う、「十方の仏」とは十法界であり、すべてに仏性がある。「七仏」は七覚支のことである。生きとし生けるものを念じるとは、四諦の境に縁って慈悲の心を起こすことを便宜とする。文が長くなるので詳細は引かないが、心で思うべきである。心を集中すること（繫念）は、決して軽々しく行ってはならない。ただ、心を集めるためだけのことであると知るべきである。しかし、修行者には根性の違いがあり、二十一日、あるいは四十九日の修行によって、深い悟りが発現することもあることを知らねばならない。それゆえ、疏では広く三根および十種の修行者にわたって、その行相を明らかにし、その趣旨が遠大にあることを示しているのである。修行者は深く考えるべきである。数息がこのように十種の修行者のそれぞれに説かれるならば、他の修行の方法（諸門）についても、同じように十種の修行者の立場から、それぞれの毒害を消し伏せる意味を明らかにすることができるのである</note>